1 :
ごめんなさい_| ̄|○ :
04/04/19 21:21 ID:JdgavRf/ 3月13日よりイメージ・フォーラム、新宿トーアほか順次公開中。 [監督 脚本]石井隆 [原作]団鬼六 [プロデューサー]清水一夫 [撮影]佐藤和人ほか [音楽]安川午朗 [配給]東映ビデオ [上映時間] 115分・R-18 遠山静子 :杉本 彩 田代一平:石橋蓮司 野島京子 :森 未向 森田幹造:遠藤憲一 ピエロの男:伊藤洋三郎 江口 亮:山口祥行 川田一夫 :中山 俊 吉 沢:小林滋央 村 田 :松田直樹 土 屋:八下田智生 山 崎 :寺島 進 千 代:川原 京 磔の女&生贄の女:卯月妙子 代議士秘書:サドゥ 工 藤:ミスターブッタマン 柏 木:角掛留増 鬼村源一 :有末 剛 富元代議士:飯島大介 遠藤隆義 :野村宏伸 見どころ:団鬼六のSM小説を新たに映画化。 貞淑な人妻が性の調教を受ける姿をハードに描く。「天使のはらわた」シリーズ、「GONIN」等の エロス&バイオレンスの鬼才・石井隆監督とヒロイン・杉本彩のコンビが、 かつて表現し得なかったエロチックな映像に挑戦。 ヒロインに扮した杉本彩の、フルヌードにとどまらない熱演が話題だ。 ストーリー:夫と冷めた関係に陥っていたタンゴダンサーの静子は、 性的な夢に悩まされていた。そんなある日、何者かに拉致された彼女は、 セレブ専用のSM殺人ショーの会場へ連れ込まれ、あらゆる陵辱を受けて性の奴隷と化していく。 秘密ショーの中での屈従…レイプショー・全裸開脚の小水ショー・黒のラバーテックスの 拘束衣によるSMレズショー・吹雪舞う中の空中開脚緊縛花魁ショー・刺青荒縄縛りと、 誘拐された静子は、ありとあらゆる屈辱を強いられる。
2 :
ごめんなさい_| ̄|○ :04/04/19 21:22 ID:JdgavRf/
前スレでトチ狂った痛過ぎる馬鹿です。。改めて前スレ読み返すと、原作やSMのジャンルと逸脱した 描写にSMファンが憤懣やるかたない気持ち、よくよく分かりました。 特に653の初心者向けに丁寧に教えてくれた「羞恥心の描写がない」ことへの不満、尤もです。 生粋の石井監督のリスペクト野郎ですので、9割近い「駄作」の合唱に気が違ってしまいました。 一部ノーマルな映画ファンから嘲笑され、耐えられなかったのですが、今はすっかり考えが変わりました。 原作で繰り広げられた浣腸描写のカットを含め、SMと映像の境界にいる少数のマニアの皆さんの 意見交換なくして「花と蛇」は語れないことが身に沁みて分かりましたので、どうかお許しの上、 改めて存分に批判トークを繰り広げ下さい。って言っても、今更遅いか。 お願いします、どうかお許しください。_| ̄|○
3 :
ごめんなさい_| ̄|○ :04/04/19 21:23 ID:JdgavRf/
4 :
653様の貴重な御話1 :04/04/19 21:30 ID:Tc/v4HoZ
この映画に、静子夫人が羞恥に顔を歪めて屈辱に打ち震えるようなシーンや、 恥ずかしさや口惜しさを吐露するような台詞がきちんとあるのかどうかということです。 つまり私のような者から評価させて頂くと、こういう「映画」の価値は、 AVのSM陵辱モノ等と違い、辱められている役者の羞恥・屈辱感が良く出ているかどうかにあると思うのです。 プレイの過激さだけならSMビデオとかの方がよっぽど過激なわけで、 でもAV女優には要求できない本物の役者の恥辱の演技、これがどれだけ出ているか、 それが「映画」にした価値だと思うんです。 かつての日活ロマンポルノのSMモノなどは、そこらへんが良くできた佳作もありました。 近年はほとんどその血脈は途絶えてしまったので、 この「花と蛇」にはAVではできない、そこらへんを期待していたのですが・・・。
5 :
653様の貴重な御話2 :04/04/19 21:33 ID:jPk0BrJe
「辱められている役者の羞恥・屈辱感が良く出ているかどうか」
というのは、別にそんな大層なことではなく、ちょっとした台詞や、表情などでいいのです。
AVなどでは棒読みになったり、すぐ喘いでしまうようなところを、
「役者」である力量で、ある程度でも演じてほしいという・・・。
そういう意味で、確かに稀ですが、「夢のまた夢」というほど無理なものではなく、
>>339 でも指摘されております、「新任教師野本美穂 恥肉の裏授業」では、
それが良くできております。題名で下世話なAVだろうと毛嫌いせず、
鬼六小説の雰囲気に興味のある人は、是非見てみることをおすすめ致します。
この作品も副題に「団鬼六」とついていたような・・・
(ただ冠しただけのようですが)
6 :
653様の貴重な御話3 :04/04/19 21:41 ID:jPk0BrJe
ちなみに「花と蛇」、今日観ました。 鬼六ファンというほど鬼六氏のみを信奉しているわけではなく、鬼六をも含む 耽美陵辱官能小説ファンと致しましては、「かなりダメ」の烙印を押さざるを 得ません。鬼六ファン100人いたら、99人が、「これはオレが観たいのと違う」と 言うと思います。理由はID:Z65VZ+G/でも語っていますが、ヒロインを辱める者達が、 ほとんどヒロインと関係ないところにもあります。あれでは本当にただのSMショウです。 原作には千代という、遠山家のお手伝いが出て来るのですが、この人が運転手の川田やヤクザのチンピラや スケバンと共に、静子を辱める立場になり、今までは格下だった知り合いに辱められる静子のせつなさが あるのに、この作品では辱めを観覧するのは仮面をつけたセレブ達という、全く持って「見られて口惜しい」と 静子が思う度合いが低すぎます。 これもかなり「的外れ」な要素です。設定的にしかたがないなら、せめて京子を辱めるのは、 京子にボコボコされたチンピラにして、「嬢ちゃんさっきはよくもやってくれたなぁ。それなのになんだ 今のこの恥ずかしい格好は?」ぐらい言って欲しかったところです。 このスレをみたところ監督のファンもこの作品にはダメ出ししているようなので、 あの作品は杉本彩ファンぐらいにしか受けないのではないでしょうか? 彼女のファンなら、大サービスな作品だったのではと思います。 ごめんなさい_| ̄|○ ホントに丁寧に解説してもらっておきながら…。 ホントにごめんなさい。SMマニアの人のお言葉には照れもあり、自嘲もあり、駆け引きもあり、 玉石混合の趣きがあること、前スレを読み返してようやく分かりました。 まして、日本映画界の際物扱いの「花と蛇」について語っていただける、かなり突っ込んだ意見を 書き込んで下さる方は、そう多くありません。それを理解せず、なんてふざけた言葉を書き連ねたものか。 自制心欠如の大馬鹿でした。ごめんなさい。ごめんなさい_| ̄|○
きもいからsageとくね。
8 :
ごめんなさい_| ̄|○ :04/04/19 21:46 ID:jPk0BrJe
もはや言葉もなく、沈静化した感があった前スレではありましたが、 尚、一般の映画ファンへ向けて、何か言い足りぬ点あれば、お書き込みください。 653さんも960さんも、罠じゃなく、嘘じゃなく、ホント失礼しました。 お詫びします。 あ〜自己嫌悪。。。
キモイからsageますね
前スレは団鬼六信者がSMについて延々と語りあう 痛くてキモいスレになって、住人が去って行く中ヒッソリと終わった。 「次スレいらないよな」という確認もしたのに、なぜ……。
11 :
名無シネマ@上映中 :04/04/19 22:01 ID:8ZFF4n1w
SMマニアってバカしかいねえーっていうオチで前スレは終わったよね。
12 :
今後の上映予定 :04/04/20 13:04 ID:wbU8gvna
ホームページからのコピペです。間違って貼ってたらゴメン_| ̄|○ 4/24〜 福井メトロ劇場 大阪りんかいホール岸和田 福岡AMCキャナルシティ 沖縄桜坂シネコン琉映 4/30〜 福岡駅前ロマン(ビデオ上映) 5/1〜 石川金沢駅前シネマ 5/8〜 札幌ディノスシネマ 福島平東映 5/15〜 宮城仙台セントラル劇場 大阪新世界東映 5/19〜 静岡浜松シネマハウス新映 5月中旬〜 万世館 5/22〜 東梅田日活劇場 苫小牧シネマ・トーラス 函館シネマアイリス 岡山シネマ・クレール石関 5/26〜 大阪飛田東映 5/29〜 秋田有楽座 神戸CINEMAしんげき 6月上旬 浅草名画座 田辺キネマ 小阪国際劇場 6/5〜 新潟シネウインド 6/19〜 長野東宝グランド劇場 初日の石井監督の言葉「(撮影、完成までは)上映する劇場は ひとつも決まっていませんでした。例えれば、9人しかいない野球部が 甲子園に出て、強豪相手に勝ち抜いて行くみたいなもんで、 宣伝部や彩さんの努力で、上映館数30を越すところまできました」 エライ!
14 :
名無シネマ@上映中 :04/04/20 21:36 ID:XH+R2O36
なんで高貴な女性(この抽象概念自体が今は怪しいわけだが)が 辱められるのを見るとコーフンするのか? 意味の蕩尽が快楽である(それ自体当たっているとは思うが)、と いう解釈からバタイユの引用につなげたり、クワキゥトル族の ポトラッチにまで話を広げたところで、結論は出ない。 勃つ香具師と勃たない香具師は平行線をたどるだけのことだ。 1よ。なぜ次スレなど立てた。
16 :
映画評その1 :04/04/21 08:35 ID:QHsmwHuM
映画芸術 406 平成16年2月発売 編集プロダクション映芸 石井隆の「花と蛇」 成田尚哉氏 (抜粋) 石井隆が団鬼六の「花と蛇」を撮ると聞いて一瞬不思議な違和感を覚えた。 (…)石井隆は当時、(…)SM雑誌にイラストを寄稿していた。 また「SMセレクト」「SMファン」「SMコレクター」「SMキング」と百花繚乱の アブノーマル雑誌の巻頭を飾るのは必ず団鬼六だった。 短い時間とはいえ両者とも同じ出版業界の空気を吸い異常性愛をテーマに エロを志向した者同士なのである。 (…)世界的に有名なタンゴダンサーと言う設定に多少の違和感を覚えてしまう (…)しかし杉本彩を最大限に生かす当然の設定と考えれば納得もいく。 そして彼女の顔のアップのショットに監督の執念が見えた。まさに名美がそこにいるのだった。 (…)原作を忠実に映像化することが映画監督の仕事ではないのかもしれない。 これは石井隆の『アイズ ワイド シャット』なのだった。 麻縄、和服、羞恥責めの鬼六SMではなく、ボンテージワールドなのである。 そう考えるとしみじみ納得もいく。 「死場処」を出版し劇画でも映画でも男と女の生と死の地獄を見つけてきた石井隆だ、 死者と生者がさまよう狭間に立ち続ける石井隆が見つめているのは ボンデージの向こうの果てにある死の世界であろう。 団鬼六が描く通俗的でドキドキするような猥褻性、とりわけ美しい女性の羞恥の姿を愉しむという 変態的快楽は見いだしようがないのかもしれない。(…)しかし考えてみればこれほど見事に 「見世物」を描いた映画も近年珍しいのではないだろうか。(…)ここにかって 堀江延満としてSM雑誌にイラストを書いていた石井隆を想起することができるし団鬼六、 その原作への敬意を読みとることができるだろう。(…)
17 :
映画評その2 :04/04/21 08:37 ID:QHsmwHuM
キネマ旬報 4月下旬号 キネマ旬報社 劇場公開映画批評「花と蛇」 桂千穂氏 (抜粋) (…)現在、SM映画の認知度は遥かに高くなった。が、野卑な神経でヒロインを陵辱するのが SMエーガと誤解している作者が大半。彼らには美への憧憬なんかないから、 SM作家のもうひとつの条件・耽美の感覚ももちろんある訳はない。 (…)石井隆は、かつて数々のスター女優を耽美の映像を駆使し、ひたむきに撮りまくって光り輝かせた。 そして、ここでも杉本彩一代の力演を絢爛とスクリーンに刻みこんだ。だが、野村との愛の葛藤物語は、 強烈すぎた杉本の輝きの前にはぼやけてしまったような気がするのだ。
18 :
映画評その3 :04/04/21 08:40 ID:QHsmwHuM
キネマ旬報 4月下旬号 キネマ旬報社 日本映画時評187 うつっているものがすべての世界 山根貞男氏 (抜粋) (…)石井隆の『花と蛇』にもむろん期待した。同じ団鬼六の原作を映画化した小沼勝の傑作(74)が あるだけに、なおさらである。だが、腑に落ちない。杉本彩のヒロインが責められるさまは 凄絶というにふさわしい迫力で、責め場の前後のドラマ展開も巧みに構成されている。 にもかかわらず、わたしは石井隆の映画を見て初めて居心地の悪さを感じた。 理由ははっきりしている。(…)映画を見る者としては劇中劇を見るような居心地の悪さを 強いられるのである。(…)なぜ石井隆が間接話法を選んだのか、わたしにはどう考えても想像がつかない。 (…)杉本彩の美貌とみごとな肉体をまさに映画の餌食にすることで、SMという性的行為の即物性と観念性が 浮かび上がるとき、そこに映画の本質的な魅力が結実するはずなのに、その前に仕掛けが立ちはだかる。 SMを題材にすること自体、間接話法であろうに、なぜ直接話法を回避したのか。 疑問ばかり涌き出てくるので、もう一度この映画を見に行こうと思う。(…)
19 :
「ポトラッチ」 :04/04/21 09:22 ID:hjTz5WE2
祭礼においてやり取りされる贈り物の儀式を「ポトラッチ」と呼ぶ。
例えば、カナダに住むクワキゥトル族と呼ばれるインディアンは、のべつまくなしに祭礼を行なっていた。
そこでは様々な富を持ちより、他人に与えたり交換したりする。そして、より一層相手を圧倒させるために
価値ある富を挑むように贈与をし、ついには自分の持つ貴重な財を破壊するにいたった。
クワキゥトル族においては、紋章入り銅板の破壊がこれにあたる。
同じくポトラッチを行うことで知られているシベリアのチュクチ族は、他の部族を圧倒する目的で、
極めて貴重なソリ用の犬を相手の目の前で殺害してみせたりした。
このような過激な贈与、そこから生じる交換、ときには破壊行為をもともなうポトラッチの儀式は、
「贈り物」の持つ、相手を "圧倒させる力" によって突き動かされているといってよい
http://www.mnet.ne.jp/~emonyama/taro/potlatch.html
20 :
「蕩尽」 :04/04/21 09:27 ID:hjTz5WE2
贈与のためには過剰な財(富)を蓄える必要がある。人間は生きていくために必要なだけの労働を
するのではなく、過剰を生み出すために日常的に労働を繰り返しているとも言えるだろう。
これを「生産的労働」という。そして、ある祝祭の日に過剰な財を贈与や破壊によって一気に使い果たすのである
(これを「蕩尽」、または、「非生産的労働」という)。なぜならば、そのことが人間としての生き甲斐であり
喜びでもあるからだ(結婚式やパーティに見られる蕩尽や、必要以上のものを買いあさる消費行動などもこれにあたる)。
このような非生産的労働は、快感に直結するものである。このことに早い時期に注視していた一人が、
ジョルジュ・バタイユであった。
さらに言うと、戦争、殺戮、生け贄、犯罪…、というのもまた「過剰」─「蕩尽」理論を担っているところの
「混沌」といえるものだ。この「反倫理的」行為が途絶えたことは、今日においても人類史上一度もないのである。
(ここでは示唆するだけにとどめておきたいが、「禁忌(タブー)」や、「法」といった概念も、社会的日常の中で
やたらと蕩尽的行為がなされないようにするための防御機能としてあるものだ。これはいつかは侵犯されることがある
ことを意味する。日常的な時間においてそれをすれば犯罪だが、永遠なる時間のもとでは神聖なる行為として許諾され
るのである)
贈与が結果的には破壊をも生むことを指摘したが、バタイユが示したように、過剰な富の生産によってそれが可能だ
ということである。繰り返すと、そのために人々は、日常的に秩序の中で労働にいそしむのである(生産的労働)。
そしてある特定の時期に祝祭的儀式として一気に蕩尽する(非生産的労働)。
このとき、人はめくるめく陶酔感の中で精神を高揚させるのだ。言い換えると、ここに至高の交感(コミュニカシオン)を見たということである。
岡本が愛した「祭り」の本質はここに見ることができる。(博多の山笠祭りや、岸和田のだんじり祭り、東北のねぶた祭り、諏訪の御柱祭り…など
挙げていけばキリがないが、日本中の、いや、世界中の祭に見られるものだ)
http://www.mnet.ne.jp/~emonyama/taro/potlatch.html
21 :
名無シネマ@上映中 :04/04/21 09:34 ID:gIpUSf9F
SMマニアぢゃないけどこの映画って楽しめますか?
22 :
名無シネマ@上映中 :04/04/21 09:58 ID:qh+NuUHz
>>15 不勉強の厨房野郎なので、すみません。上の引用ページを読んで、視界が開けたような
快感を覚えました。一気にSMの「祝祭性」、「儀式的なプレイ」の意味がわかったような気がします。
もっと「SMの真髄」を教えてください。
人それぞれ意見があるでしょうが、SMマニアはバカしかいない、なんて自分は考えておりません。
ただ「落書き」と「脱線」が多過ぎるので誤解されちゃうんですよ。先の356さんの不満と山根貞夫氏の意見は
同じ点を突いているわけじゃないですか。モノの捉え方は違っていないですよ。
私は痛いリスペクト野郎ですから、この度の「花と蛇」についても、ちょっと真面目に考えちゃうわけで、
前スレで充分語り尽くされているとは思えないのですよ。
大学時代に執筆活動に入り、40年以上「性愛」をテーマに作品を送り出した石井隆という作家が、
「花と蛇」を撮ったのですから、それなりに「語り口」はあると思うのですよ。
それに上記の通りで「見ていない人が圧倒的に多い」サクラ前線ロードショーなので、
まだ語りたい人出てくるんじゃないかな…。
23 :
名無シネマ@上映中 :04/04/21 10:01 ID:qh+NuUHz
連続だらけでごめんなさい。(もっとも開店休業なんでしょうけど…) 石井隆の描く「性」は、「ある祝祭の日に過剰な財(というのは当たらないか…ほとんど 貧乏な生活者の話だからw)を贈与や破壊によって一気に使い果たすのである『蕩尽』に近い 描かれ方をして、神代辰巳監督のような「ズルズルした」ものではないですよね。 SMとはリズムは合っていると思うのだけれど、前スレの通り酷評だらけ。 でも「失敗」だったと決め付けてしまうのは早いのじゃないですか。 改めて仕切り直して、映画ファン、SMマニア、石井ファン相互の意見交換が出来れば嬉しいと思って、 スレを立ち上げた次第です。 色々教えてください。。
24 :
名無シネマ@上映中 :04/04/21 10:03 ID:qh+NuUHz
>>21 前スレの意見をまとめると、SMマニアじゃない方が楽しめるらしいよ。
「お祭り」を観に行くつもりで足を運んだらいかが。。
25 :
名無シネマ@上映中 :04/04/21 13:01 ID:0G1CuXWb
仙台セントラル劇場 記念レイトショー《石井隆監督 特集》いよいよ週末!
未見の人どうぞ!!ロマンチック3部作☆☆☆☆
スクリーンで『黄昏のビギン』に酔えます!ムラサキに薫る朝の空に瞠目!寺田農に笑え!
4/24『死んでもいい』(1992/117分)
出演/大竹しのぶ 永瀬正敏 竹中直人 室田日出男の百円ライター(涙)
5/1『ヌードの夜』 (1993/110分)
出演/余貴美子 竹中直人 田口トモロヲ 根津甚八 椎名桔平キレ過ぎ「最高!」
5/8『夜がまた来る』(1994/108分)
出演/夏川結衣 根津甚八 椎名桔平 永島敏行 なんて芸達者w寺田農!
http://www9.plala.or.jp/centraltheater/
26 :
開店休業…(タメイキ) :04/04/21 13:40 ID:JEK9E9oz
>>15 「平行線をたどる」のは2チャンねるの宿命ですよね。
特に今回は「SM」を題材にした「花と蛇」を、使えるメディアを全て動員して「一般」へ
発信したため、受け手側で戸惑っちゃって前スレみたいな混乱が起きちゃった…。
お互いが「理解できない痛いやつら」と思っているから、全く話が噛み合わない。
でも、上みたいな知識と情報のやり取りは可能じゃないかと。
(例えばさ、十字架磔刑なんて宗教臭い小道具はSMの世界では存在するの?ああいうのは
鬼六の作品にはあたり前に登場するの?教えてくださいよ)
それに、石井隆監督作品ですから…
「どのみち勃たない」点では見事クロスしているじゃないですか。w
>>26 俺は起ったぜ。ラスト直前の拳銃片手に背広を着けた半裸の彩はばっちし
だと思う。あと磔刑に宗教的な意味合いは無いと思う。
なーんか難しい哲学論争になっちゃってるけど、ただの官能小説好きから一言。
どうして、エンケンをもっと脂ぎった人物にしないのかなあ。出てる連中って、
みんな意外とストイックだよなあ。
椅子に座って、彩にしゃぶってもらって「ふう、こりゃたまらん。法悦ってや
つだな」って額の汗を拭うエンケンの姿が見たかったな。
誰も論争はしていない。>15の振ったネタに親切なボランティアが引用で 解説を加えただけだ。 ちなみに鬼六小説で柱くくりつけは頻出するが、十字架は記憶に無い。 宗教的意味合い(「死」「犠牲」につながる)なんか無論なかろう。 ところで、小道具と言えば、木馬でも三角木馬のような痛い系は鬼六小説 には無い。 しかし、穴の開いた丸太木馬に母娘向かい合ってまたがらせ、顔を 逸らさせず、お互いの気張る顔を見させながら、穴から大便を自力排泄 させる、っていう設定は『肉の顔役』にあったな。 (場面描写以外は無く、責め手の語りだけだったが) つまり、鬼六は、「美しい肉体」や「尊い生命」といった価値ではなく、 「羞恥心」という価値を蕩尽することでドラマを成り立たせるわけだ。 「羞恥心」を、蕩尽が祝祭となりうるような価値=記号と認めるかどうか。 マンディアルグの『城の中のイギリス人』の、赤子の顔を割くのを母親に 見せつけながら、母親を犯す場面は、「生命」と「羞恥心」を同時に蕩尽して いるものと言えるだろう。 母親は「わが子の命」という意味の蕩尽で性的興奮を加速させられるわけ だが、読者は、赤子の死(生命の蕩尽)で勃つのではなく、我を忘れ、 よだれをたらしてヨガル(羞恥心の蕩尽)母親の描写に勃つのではないか。
29 :
28 :04/04/22 00:50 ID:wcH5uHZ0
誰も気にはせんだろうが、
>>28 の10行目
×:(場面描写以外は無く、責め手の語りだけだったが)
○:(場面描写は無く、責め手の語りだけだったが)
30 :
名無シネマ@上映中 :04/04/22 08:58 ID:WC55mdjC
>>27 「ラスト直前の拳銃片手に背広を着けた半裸の彩はばっちし」ですか。
それは「そそられます」ね。まんま「黒の天使」ですね。そういったラストにしたのかぁ。
鬼六ファンには酷評だった殺人シーンも含め、いつもの「換骨奪胎」石井流全開ですね。
ホント、サービス精神旺盛な人だ。(それで今回は空中分解?)
(今、過去の劇画、脚本時代も含め石井隆のSM描写について掘り戻しているところです。)
31 :
名無しシネマ@上映中 :04/04/22 09:05 ID:JSrEGRDk
やはり、黒木瞳に主演お願いしよう。
32 :
「城の中のイギリス人」 :04/04/22 10:16 ID:qlfFfcYk
城の中のイギリス人アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ作 澁澤龍彦訳
ピエール・モリオンの匿名で秘密出版されていた『城の中のイギリス人』がようやく仮面をぬぎ、
真の作者マンディアルグが登場した。実験的性の追求者モンキュが、閉ざされた城の中でくり広げる
エロとグロの情景は、読者を性の歓喜の夢幻境へ誘う。
まさに、現代の文学的ポルノグラフィーの傑作。
http://www.hakusuisha.co.jp/FMPro?-db=shosekidata.fmj&-format=detail.html&ISBN=4-560-07066-0&-Find STORY 「私」は、ふとしたことで知りあったイギリス人のモンキュの城に招かれ、
そこでくり広げられる異様な性の饗宴を体験する。モンキュは並大抵のことでは興奮しなく
なっていて、あらゆる実験を試みる。最初は面白がっていた「私」も、だんだん彼が恐ろしくなって
逃げ出してしまう。後日、城が爆発して跡形もなく消えてしまったという知らせが届いて…
「私」は、何もかもふっ飛ばしてしまった最後の「射精」に、あらゆる手段をもってしても
満足を得られなくなったモンキュの姿を思うのであった・・・
(…)たくさんの蛸が蠢く水槽の中に少女を投げ込み、体中に軟体動物を貼りつけた処女の肉を
味わうといった設定。ちぎれたレースや絹、血と蛸のスミ、砂と塩水の入り混じった世界。
少女の顔面に貼りついた蛸は醜悪な仮面を連想させる。
たとえば、巨大な氷細工の男根を、料理番の女の輝く肛門に挿入、内臓へと続く粘膜を弄る試み。
他にも、ブルドッグとの人獣交媾、ユダヤ人にドイツ軍人の睾丸を噛みちぎらせたり、
ビクトリア女王を会話の中で辱めるといったシニカルなエピソードもある。
http://homepage2.nifty.com/weird~/sirononaka.htm
33 :
「城の中のイギリス人」解説 :04/04/22 10:24 ID:qlfFfcYk
アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ
1909年パリに生まれる。
大学では考古学を専攻。ドイツ・ロマン派、エリザベス朝の詩や演劇、バロック文学、
ロートレアモンやシュルレアリスムに熱中し、1934年より詩を書きはじめた。
詩、小説、評論、戯曲とその活動の領域をひろげる。三島由紀夫の「サド侯爵夫人」を
仏訳し、その日本上演に際して1979年に来日。1991年死去。
『できるだけ残酷で破廉恥で、それが最後まで一貫しているような物語、悪の原理に対する
和解の接吻ででもあるかのような物語、すばらしいミルトンに淵源する魔王(サタン)の美しさが
魅力的に描かれているような物語、そういうエロティックな物語を私は書きたいと思ったのである』
――A.ピエール・ド・マンディアルグ
ウィリアム・フリードキン「エクソシスト」で、リーガンが局所に突き立てた十字架は、もっと大きく
なければならなかったし、ロマン・ポランスキー「ローズマリーの赤ちゃん」の交媾シーンは、
もっともっとエロティックに撮られなければならなかったと思う。
もっとも、ポランスキーもローズマリーを撮らなければ、シャロン・テートを失うこともなかっただろう。
「ヘルター・スケルター」とローズマリーをトレードにしていたチャールズ・マンソン一家は、テート事件以前にも、
絶頂の瞬間にセックス・パートナーを撃ち殺すという快楽の奥義を実践していたという。彼らの実録映画において、
そのときの様子を話すメンバーの女性などは、カメラの前で、あたかも死まで高められたオルガスムスを味わって
いるかのように見えた。快楽のあとには、死が、手ぐすねひいて待っているのであろうか。
「カリギュラ」で知られるティント・ブラス監督の「サロン・キティ」は、「城の中のイギリス人」が下敷きで
あるかのように、性の実験を繰り返すナチスの若き将校が主人公である。ヘルムート・バーガー演じる主人公を
待っているのも「死」ほかならない。
http://homepage2.nifty.com/weird~/sirononaka.htm
34 :
名無シネマ@上映中 :04/04/22 12:20 ID:9GPspSOg
>>28 う〜ん。壮絶。ストーリーの要約を読んだだけで、たじろいでしまいました。アングロサクソンの
底無しの欲望には「生理的な隔たり」を感じちゃいます。中国の纏足、日本の麻縄の縛りの方がずっとエレガントかと。
日本に生まれて良かったw。。
え〜と、話を戻すと、西洋のSMの果てには「破壊」「痛み」「死」を求めるのに対し、
団鬼六に代表される官能小説は「蕩尽」のベクトルに「羞恥」を選択したものであると。
映画「花と蛇」はそれら官能小説の代表作であるから、それを冠した作品であれば、
当然「羞恥」についての描写が濃厚に出ていなければならんと。しかるに描写が無い上に、
「苦痛」や「殺人」が目白押しではないかと。前スレの言葉を借りれば(887)「殺人シーンはいらねぇ。
暴力シーンもいらねぇ。SMやってて一番怖い、リングアウトした場面だから。」
(656)「SMショウでバンバン人殺してます。もうアホかと。」(682)「SM映画でありながら、
実はSMを小馬鹿にしてるんじゃなかろうか。」と酷評したくなっちゃうと。
そういうお気持ちなんでしょうか。(落書き、脱線ないとなんてスッキリ。素人納得。)
35 :
名無シネマ@上映中 :04/04/22 12:23 ID:9GPspSOg
>>28 SM詳しい方なので、では、実相寺昭雄監督の「悪徳の栄え」はナマコ食べたり、
割と頑張って「蕩尽」してましたが、観ていてこっちが「羞恥」しちゃいそうな「違和感」がありました。
SMマニアの目から見るとどうですか。また(馬鹿にしているわけではないのですが)これまでのSM映画
(主に「にっかつ」)を観ると、レールの上を走り続ける感を覚え、カタルシスを感じない、
観てるこちらが「赤面」してしまうような「閉塞感」がありました。
「不貞の季節」では登場人物が生き生きと活写され、海の家?での「帯紐での手首縛りのシーン」
などはジーンと感涙ものでしたが、この活写は「喜劇」「道化」という「漫画チックな開き直り」の
結果であると思います。「羞恥」のベクトルはSの側にも照射され、そうなってくると
緊迫感など作りえないコメディに陥ってしまうと想像しますが、SMマニアから見て、
この自虐的な構造の「不貞の季節」という映画はOKだったのでしょうか。
この度の「花と蛇」は「閉塞感」を突破するための確信犯の野心作という観方は
「判官びいき」でしかないと思われますか?
36 :
名無シネマ@上映中 :04/04/22 13:17 ID:oL5Nk3QU
>>27 >>28 十字架の件、ありがとうございます。
堀江珠喜氏「団鬼六論」でも改めて確認しましたが、団鬼六作品は
本質的に「無宗教」だそうですね。「磔刑に宗教的な意味合いは無い」
ということで了解。。
37 :
28 :04/04/23 00:06 ID:Rp6ffQxB
>>35 実相寺昭雄監督の「悪徳の栄え」は随分前にビデオレンタルしたような
気がしますが、全く内容覚えていません。(清水コウジが出てたような
気がするだけ。)
別にSM詳しくはないですよ。「自分はなぜ鬼六小説で勃つのか」と考え
こんだ一時期がごく若い頃にあっただけで。
結局結論は出てませんがね。
なぜ自分は、羞恥心の蕩尽でスイッチが入るようにプログラミングされて
いるのか。
サドやマンディアルグ読んでると、自分とは別のスイッチを持つ人達が
いると思われ、自分の生理を問うことに普遍的な意味はない気がして
きて、思索中止。それっきり。
ですから、28のカキコの最後の3行
>母親は「わが子の命」という意味の蕩尽で性的興奮を加速させられるわけ
>だが、読者は、赤子の死(生命の蕩尽)で勃つのではなく、我を忘れ、
>よだれをたらしてヨガル(羞恥心の蕩尽)母親の描写に勃つのではないか。
の「読者」は、「日本の多くのSMファン」と書き換えたほうが正確かもしれま
せんね。生命の蕩尽で勃つ日本人もいるだろうし。
38 :
28 :04/04/23 00:45 ID:Rp6ffQxB
一応石井隆に話題を戻して、退場しましょう。 私は、石井隆は、鬼六ファンとは明らかにベクトルが違う指向の 人物だが、赤子の死で勃つ人でもないと思います。 私にとっての石井隆は、『おんなの街』に収録されていた中編 (手元にないのでタイトル確認できない)のラスト、ビルの屋上から 投身した名美が、村木のいる階の前を横切るとき、窓ガラス越しに 村木に投げた視線、これに尽きます。 男が「一つになれた」「モノにした」と思い上がった次の瞬間に、 手の届かないところに去っていく女の、拒絶とも受容とも判別しかねる、 しかし、なぜか、この上なく美しく感じられる、そんな視線です。
39 :
:04/04/23 00:57 ID:i3CVV/uB
私も今までの石井隆監督の作品は好んで見ていたのだが、 この作品に関してはかなりの失望を覚えている。 それは監督のSMに対する感覚に違和感を覚えている、と言い換えていい 映画の前半にあった淫夢がよかっただけに、 メインとなる調教シーンにはガッカリさせられた。 なんか絵空事なんだよね。 これまでの作品も絵空事の女性しか描かれていなかったのかも、って思ってしまいます。
40 :
:04/04/23 01:01 ID:i3CVV/uB
追加 もしかしたら『死んでもいい』の名美だけかも<絵空事でない女性。 そう考えたら、『夜はまた来る』『GONIN2』『黒の天使』もそこに描かれている女性は実在感がないね。 『ヌードの夜』は・・・あれは夢のような・・・感じが・・・する。からまあいいか。
41 :
28 :04/04/23 01:36 ID:Rp6ffQxB
一応誤解無いように補足。『おんなの街』は映画撮り始める前に描いた劇画。 劇画から入った私が、石井隆監督作品より石井隆らしい、と思って いるのは、相米慎二監督の『ラブホテル』。 手の届かないものにラブレターを書き続けるような、切なさを紡ぐのが、 石井隆の創作活動のような気がしている。 「予め失われている恋人よ。現れたことの無い人よ。私は知らないのだ、 どのような調べがお前にふさわしいのかを。」(リルケ。文献参照していない ので間違ってたらスマソ。) 「モノになどできない、だからこその、切なさ、愛しさ」を描く作者 (=見るもの を居心地よくはさせない) と、「羞恥心の強い貴婦人をモノに落とす」作劇を 繰り返す通俗 (=良い意味でね。読むものは安心してその世界に浸れる。) を組合せれば、どちらのファンにもピンと来ないものになることが予想される。 自分はまだ見てないけどね。 だから、やっぱり、そろそろ本当に退場しますです。
42 :
名無シネマ@上映中 :04/04/23 08:34 ID:GCr2Uj//
>>37 涙ポロリのご返答、ありがとうございました。
特に41の両作家への「愛情こもった」分析は、「花と蛇」という映画の本質を突きつつあると
自分も思います。団鬼六と石井隆、両人の戦歴を見直してみると、共に70年代初頭にブレイクし、
我が国の「青春時代」の寵児となり、「エロス」の醸成を担っていたことがわかります。
このような例えが適切かどうかわかりませんが、王と長島のコンビに似た味わいがあります。
豪放で明快な天才長島が団鬼六であれば、求道的で真摯な王が石井隆の役回りでしょうか。
映画「花と蛇」は両雄の合作として見つめることで、オモシロさが倍増すると思います。
43 :
データベース :04/04/23 08:36 ID:GCr2Uj//
44 :
団鬼六原作映画の評価 :04/04/23 08:40 ID:GCr2Uj//
リストは
http://movie.goo.ne.jp/cast/86154/より 評は「官能のプログラム・ピクチャア ロマンポルノ1971−1982全映画」フィルムアート社より。
●緋ぢりめん博徒(1972)(原案)
●花と蛇(1974)監督■小沼勝「(…)SM作家・団鬼六の同名小説の映画化であるこの作品は、にっかつロマン・ポルノ初の
本格的SM映画というふれ込みだったが、小沼勝はその倒錯志向と独自な官能描写で、SMという一種の様式的セックスに
挑戦し、見事、期待を裏切らない。が、この作品が果して本格的SM映画かというと…。なるほどSMシーンは
ふんだんにある。毛虫、緊縛、浣腸、宙吊り、また汚物や性液、スカトロジー。(…)まず、谷ナオミの
精神すら肉体化してしまったような、妖艶、豊満な肉体が素晴らしい。(…)その肉体が発散する官能の濃密な緊張感は、
犯しがたい気品を通りこし、犯されることによって生じる気品とでもいった迫力すらある。(…)液体を注入された彼女が、
からだをふるわせ、ガマンにガマン、あげく大量の汚物を放出するシーンの生理的快感の表情は、
どんなに汚され、責められても、そのすべてを自分の肉体の表層で消化してしまう谷ナオミという
稀有の女優のありようそのままを思わせ、官能、感動的である。(…)前半のテンポある緊迫感が後半、妙に腰くだけ、
なんとも奇っ怪な変格SM映画になってしまっている。(…)一番の要因は、谷ナオミを責める側の、陳腐な描かれ方にある。
夫にしろ、青年にしろ、その母親にしろ、いずれも純粋、本格的な倒錯志向者ではなく、夫は妻に対する欲求不満の
単なるイヤガラセ、青年はマザコンと不能の自己嫌悪、母親は息子可愛さと、つまりサディズムの原因が、いかにもメロドラマ的なのだ。
(…)しかし反面、その陳腐さ故に、谷ナオミの意志としての肉体がドラマを越えて輝き、この辺りの小沼演出は正確である。(…)」
◎北川れい子氏
45 :
団鬼六原作映画の評価2 :04/04/23 08:44 ID:GCr2Uj//
●新妻地獄(1975)(原案)●お柳情炎 縛り肌(1975)●夕顔夫人(1976) ●奴隷妻(1976)(原案)監督■加藤彰「脚本の桃井章のSMものは珍しいが、 加藤彰の演出では谷の裸身のお腹の上にビフテキの肉を乗せ、それをナイフとフォークで 高橋明が食べるシーンが圧巻だった。肉の脂と女の肌のそれ、そしてナイフによって 切り裂かれた肌からにじみ出る血が混ざりあって、ゾッとするようなブラック感覚が あふれた場面で、高橋明の吸血鬼ぶりに凄味があったと思う。」◎高橋聡氏 ●檻の中の妖精(1977)●幻想夫人絵図(1977) ●団鬼六 〈黒い鬼火〉より 貴婦人縛り壷(1977)監督■小沼勝「薄暗くよどんだ風景、土蔵、 笠井とその妹との近親相姦的イメージ、その倒錯セックスと、映画は猟奇的雰囲気の中で展開されるが、 谷ナオミの自意識が、肉体の責めの過程で徐々に破滅され、と共に、ますます肉体が輝くくだりは、 SM的なストーリーといえばそれまでだが、まさに官能そのものだ。時々登場する小猿の醜悪さも効果的である。」 ◎北川れい子氏 ●黒薔薇夫人(1978)監督■西村昭五郎「話は単純だが、谷ナオミの肉体をひたすら 即物的に責めるSM場面が圧巻である。ロープ、鞭、首枷、ヴァイブレーター、 赤いローソクといったSM小道具もさることながら、ナオミが口から大漏斗で水を 飲まされる場面は、真正面のカメラがみるみるうちに膨張する腹をとらえ、 異様な迫力。またブランデーを下から注入され、全身がピンクに染まるのも。」 ◎北川れい子氏
46 :
団鬼六原作映画の評価3 :04/04/23 08:48 ID:GCr2Uj//
●団鬼六 薔薇の肉体(1978)(原案)●縄地獄(1978)●団鬼六 縄化粧(1978) ●団鬼六 花嫁人形(1979) ●団鬼六 縄と肌(1979)監督■西村昭五郎「“SMの女王”谷ナオミの引退記念映画で、 藤純子の引退記念映作『関東緋桜一家』にひけをとらぬ西村昭五郎の名調子が冴えた任侠ポルノ編。 東映出身の松本功のシナリオだけに全編東映タッチで、谷ナオミはむろん藤純子、 そして健さん役は山本昌平。ヒロインが引退口上を述べるところは西村演出の愛惜の思い入れあり。」 ◎高橋聡氏 ●団鬼六 少女縛り絵図(1980)監督■小沼勝「少女とのSM性愛を通して日常回帰する男の話で、 廃屋で開始されたSMプレイは、だんだんと屋外、つまり日常へと拡大されていくのだが、 初めて少女をSM責めにする場面の嬲る側と嬲られる側の緊張感が、プレイをくり返す過程で 共犯関係へと移行し、全裸、緊縛姿にコート一枚の少女が公園に連れ出される場面の 異様な日常性など見事だ。」◎北川れい子氏 ●団鬼六 縄炎夫人(1980)●団鬼六 薔薇地獄(1980)●団鬼六 白衣縄地獄(1980) ●団鬼六 女秘書縄調教(1981)● 団鬼六 女美容師縄地獄(1981) ●団鬼六 女教師縄地獄(1981)●団鬼六 OL縄地獄(1981)
47 :
団鬼六原作映画の評価4 :04/04/23 08:51 ID:GCr2Uj//
●団鬼六 少女木馬責め(1982)監督■加藤文彦「加藤文彦の監督デビュー作。 『天使のはらわた』シリーズの劇画家石井隆の脚本を、より劇画タッチのカットでつなぎ、 少女の過激な情念とSM幻想を、残酷にエロティックに描き出す。セーラー服の少女のスカートが 風でパッと広がって、キッとふりむくと教師と目が合うカットの歯切れの良さ。 ラストのみんな夢よねと呟くヒロインが切なくも哀れ。」◎北川れい子氏 ●団鬼六 蒼い女(1982)●団鬼六 蛇の穴(1983)● 団鬼六 美女縄地獄(1983) ●団鬼六 修道女縄地獄(1984)●団鬼六 SM大全集(1984)(スクリプター) ●団鬼六 縄責め(1984)●団鬼六 美教師地獄責め(1985)●花と蛇 地獄篇(1985) ●団鬼六 緊縛卍責め(1985)(脚本も)●団鬼六 蛇と鞭(1986)●花と蛇 飼育篇(1986) ●花と蛇 −白衣縄奴隷−(1986)●団鬼六 人妻なぶり(1987)●花と蛇 究極縄調教(1987) ●夢どれい(1987)(脚本も)●団鬼六 生贄姉妹(1987)●団鬼六 妖艶能面地獄(1988) ●不貞の季節(2000)●およう(2000)●花と蛇(2003)
48 :
団鬼六と石井隆の交差 :04/04/23 08:54 ID:GCr2Uj//
『団鬼六 少女木馬責め』製作国:日本 製作年:1982 配給:にっかつ 監督:加藤文彦 原作:団鬼六 脚本:石井隆 《解説》被虐的性欲を持つ女子高生と、彼女のために学校を辞めた教師の姿を描く。 脚本は「天使のはらわた 赤い淫画」の石井隆、監督はこの作品がデビューとなる加藤文彦、 撮影は「実録色事師 ザ・ジゴロ」の杉本一海がそれぞれ担当。 《ストーリー》女子高生の名美は、平凡な顔とは裏腹に、夜になると、 自分自身で自分の体を縛って楽しむマゾ的趣味を持っていた。名美は毎夜、不良少女たちに 襲われる夢を見て、その度に、快楽に股間がグッショリ濡れて眼覚めるのだった。数日後、 それが現実となった。不良少女の知子と亜里に襲われた名美は、その時、教師の村木に救けられた。 しかし、名美は村木にパンティーのシミを見られてしまう。数日後、怒った知子と亜里は村木を 無人の教室に誘い込むとズボンを脱がせ、強引に一物を口に含んだ。そして、たかまる欲情はおさえきれず、 村木の上に腰を沈める。そこへ、女教師の山内が入ってきた。強姦されたという知子と亜里に、 村木はこの前のいきさつから名美に弁護を頼むが、彼女は何も話そうとしない。 村木は学校を辞めさせられた。
49 :
団鬼六と石井隆の交差2 :04/04/23 08:56 ID:GCr2Uj//
二年後。女子大生になっていた名美は万引をして逃げる村木と出会った。
久しぶりの再会に酒を酌交す二人。村木は名美のパンティのシミを思い描いて
自慰を繰り返していたという。泥酔した村木を名美はホテルに連れて行って眠らせた。
目覚めた村木は、部屋の中に、木馬をはじめ、あらゆる責め道具があることに気づく。
そこはSMホテルだった。それから二日間、二人はSMプレイに没頭していた。
三日目、村木は持病の発作に襲われ、錠剤を口に入れたまま倒れてしまった。
しかし、水がなく喉に流し込むことが出来ない。両手両足を縛られた名美は、もがきながら
部屋中を捜し回るが水に代るものはない。そこで、名美は自分の小水を飲ませようと
村木の顔の上にまたがるが、その時、彼は息絶えていた。名美の小水の音が
異様に部屋の中に響いている。至福の境地に酔い痴れているような村木の顔に、
名美の黄金水はとめどなくほとばしった。
http://www.walkerplus.com/movie/kinejun/index.cgi?ctl=each&id=17250
ばかが一人で粋がってる
51 :
ごめんなさい_| ̄|○ :04/04/23 12:26 ID:Pm67zk7g
その通りで〜〜ご・ざ・い・ま・す。。
52 :
名無シネマ@上映中 :04/04/23 14:03 ID:JQEUyHzm
前スレで団鬼六っぽくない、と不評の「少女木馬責め」。
おーい、鬼六〜、どこよ〜…石井隆カラー一色といった感じ。。
原作はどんなだったのかなぁ。団鬼六ファンの人見てたら購入できるか教えてちょ。
(みんなSM板に帰っていったのかぁ、誰も見てないかw)
この度の「花と蛇」、名美・村木と改名してないだけ「抑制」効かせてますよ、まだ。
>>41 『ラブホテル』は圧倒的に人気ありますね。山口百恵だけじゃなく港で流れる
もんたの唄もしみじみと良かった…。『おんなの街』(劇画)は最近復刊されましたが、
そこにスミ入れ前の鉛筆書きのボツ原稿が付いていますが、あの描き込まれた雨の線には
圧倒された…。ベッドで縛られ、次々と寄せ来る快感であえぐ速水典子にはノックアウトだった。
それにしても、石井隆を語るとき、さらりとリルケの詩をくちずさむ、なんてお人だ。。
こんな人が2チャンにおられるとは…
(リルケについて参照ページ
http://www.a-street.net/papas/column/maria/maria_06.html )
53 :
名無シネマ@上映中 :04/04/23 14:09 ID:CurprJj3
54 :
名無シネマ@上映中 :04/04/23 16:11 ID:egP4hZ+Y
>>50 誰に向けて言ってるの?
ま、自分がバカでないことを表現に織り交ぜる技量も無い
カキコ者はスルーしときゃよく、どーでもいいんだけど。
56 :
名無シネマ@上映中 :04/04/24 08:33 ID:bHmy6kEx
57 :
名無シネマ@上映中 :04/04/24 13:01 ID:KJt+dMMg
>>38 題名は「雨のエトランゼ」でしたね。こちらも手元に資料ない状態で
書くことが多いので不明不足な言葉多いかと思います。あしからず。。
「沙耶のいる透視図」「魔性の香り」「赤い閃光」のラストに連なる「別れ」を
描いていて、石井隆の「映画」を語る上でも必読ですね。
52で「鉛筆描き」と書いちゃいましたが、「雨」はスミ入ってました。失礼。。
先に「雨」を仕上げてから「人」を描くのかぁ。漫画描いたことないからわかりませんが、
そんな「手順」にこだわるのは「考え過ぎ」かな。
58 :
まだ済まないの… :04/04/24 14:54 ID:JxHSjWJx
週間アサヒ芸能 2.12 「花と蛇」主演女優 杉本彩 袋とじ 週間ポスト 2.13 公開秒読み杉本彩『花と蛇』禁断シーン衝撃公開 袋とじ (文/さかもと未明) 週間現代 2.14 初公開!『花と蛇』杉本彩 禁断の性シーン FLASH 2.17 陵辱ショット袋とじ これはもはや事件だ!杉本彩 袋とじ 週間アサヒ芸能 3.4 「花と蛇」陵辱ヘア 杉本彩 袋とじ 週間ポスト 3.5 杉本彩「悶絶ファックシーン」 (文/石井隆) 週間現代 3.6 杉本彩『花と蛇』悶絶ファックシーン FLASH 3.9 杉本彩 息の根止める、これが問題の決定的場面! 袋とじ (文/室井佑月) 週間ポスト 3.19 杉本彩 花と蛇 CD−ROM 衝撃の映像封入 週間現代 3.20 杉本彩『花と蛇』緊縛エクスタシー FRYDAY 4.2 杉本彩“ハダカを超えた”フェロモンに陶然! FLASH 4.13 杉本彩 オーガズム[絶頂]定的場面! 袋とじ(文/室井佑月) 週間現代 (キャプション不明。さすがに食傷気味となり、購入しませんでした。w) 週間ポスト 4.30 杉本彩『花と蛇』封印された衝撃映像 袋とじ (これ以外にもあったかもしれません。。)
59 :
これっきりにしてね〜〜っ。 :04/04/24 14:57 ID:JxHSjWJx
http://www.j-magazine.or.jp/FIPP/FIPPJ/F/busuuA.htm#A2 によれば、
各週刊誌の発行部数は以下の通り。 …( )は『花と蛇』グラビア掲載回数。
週刊現代 講談社 81.0万部 (4)
週刊ポスト 小学館 85.1万部 (4)
FRIDAY 講談社 49.0万部 (1)
FLASH 光文社 45.0万部 (3)
週刊アサヒ芸能 徳間書店 39.0万部 (2)
この数字で計算すれば、上記のグラビア『杉本彩の裸身』が撒かれたトータル数は
926万4000部!! となります。映画『花と蛇』の盛況を
メディアとの連携による面があることを捉え、見つめ直すのも楽しいことかと。。
ちなみに「袋とじ」のみカウントすると、383万部になります。
383万冊を男どもが「破る音」を想像すると、凄いものがあります。w
60 :
名無シネマ@上映中 :04/04/24 18:51 ID:6lbyR71n
ミスキャストだったのか。「花と蛇」という選択がまずかったのか。 「羞恥」する杉本彩なんて想像出来ないから、「羞恥」させない演出に傾いたのか。 こんな新聞コラムみつけた。「(…)恥ずかしい姿を人目にさらすという点では十七世紀に 目が点になるような前例がある。国王や貴族が朝起きて穴開き椅子にすわり、そこで排便の 儀式をおこないながら接見希望者にまみえるのである。絶対王制のこの時代、排便しながらの 接見は、国王や貴族が接見相手より圧倒的に高位である(もっといえば相手を人と思わなくて いいほど偉い)ことを示威する行為であったようだ。相手を対等な人と思っていなければ 恥ずかしくない。恥ずかしさ(おのずと生じる軽蔑の念)をこらえなければならないのは、 見せられるほうだ。(…)」中野香織 モードの方程式 日本経済新聞 4月23日 まぁ、これは有名な話だがな…。
61 :
38 :04/04/24 20:48 ID:wwu8Sc4i
>>57 >題名は「雨のエトランゼ」でしたね。
ありがとう。
その作品、タイトルは忘れてもずっと気持ちに居座っていたような
気が、今はする。
もうタイトル忘れないだろう。
「退場する」と何度も言いながら、ゾンビみたいに度々登場スマソ。
とりあえず、礼だけ言っときたくて。
62 :
名無シネマ@上映中 :04/04/25 10:31 ID:WDjs07WC
>>61 どういたしまして。チャット並の高速で語る段階は前スレで終わったと
思っているし、ノンビリ行きましょう。『花と蛇』一見「単純」ですが、
存外「根」は深く、掘り出すのはたいへんな作品だと思っています。
ザクザクやると途中で切れちゃう繊細さもあると思いますので、まずはノンビリと。。
時々寄って書きこんで下さい。お願いします。
63 :
石井監督インタビューより抜粋 :04/04/26 08:51 ID:Hhf03OYN
●まんだらけZENBU .10(2000年12月採録のもの) 「(…)僕のエロっていうのは、やっぱり、必ず最終的には死ぬとか殺すとか 行っちゃうんで、エロスが全く真逆じゃないですか。エロスっていうのを簡単に 言うと、生きることの謳歌っていうのがあるわけですね、生きている証みたいな。 僕の場合は、その果てに、心中のような死があったりするから、 楽しめないじゃないですか。(…)」 ●MANGA EROTICS 太田出版 2002年夏号(山本直樹氏との対談) 「(…)山本さんの女性は、男を100%許すでしょ?僕の女性は(男を) 20%くらいしか許せないんですよ(笑)。僕の育ってきた頃の映画ってね、 みんな女性が自立していく時代の映画だったから、増村保造にしても加藤泰さんにしても、 (描くのは)みんな強い女ですよね。それは気持ちよかったんだけれども、 じゃあ自分はどうなのってなると、必死になって「微力ながら戦わせていただきます」 って感じで。どうせ最後は負けるんだけれど。(…)」
64 :
石井監督インタビューより抜粋2 :04/04/26 08:54 ID:Hhf03OYN
●映画秘宝 洋泉社 4月号 「(…)かつてロマンポルノで5本映画化されているとは知っていましたけれど、 女性という存在の描き方が真逆のように思っていました(…)」 「(…)映画としてはそのまま映像化するのはまず無理です。 (…)たとえばキーワードとして出てくる土蔵とか秘密ショーとか、当時は隠微な イメージを醸し出す装置だったんだけど、今の人たちはそれ自体を知らない。 原作をそのままにやりたかったけれど、杉本彩という存在がはまらないと 思ったんですね。(…)」 ●キネマ旬報 三月下旬号 「男女が共に堕ちていくというテーマでなら、かつてぼくも所謂SM的な関係を 描いたことはあります。(…)人間の強さや弱さ、覚悟が見える、そんな女と 男の絶対的な距離感が基本でしたね。それに対し、団先生の原作は女性を聖なる 存在に高めてそれを陵辱するという仕掛けが基本ですから(…)」 「(…)『花と蛇』が書かれた昭和30年代当時は、まだ近寄りがたいほどの美女 という概念が生きていて、それが団先生の世界。でも今、絶世の美女は何人も いてもテレビに出てるから親近感が先に立つ。ですから、近寄りがたさを演出 するために、杉本彩という美貌と肉体の持ち主を、原作を壊さない範囲で時代を 意識した装置、つまりコロシアム、ショー形式、セレブといった映画的な仕掛けに 立たせ、フェイクながらも神秘性を出せるかが勝負どころだった。(…)」
65 :
石井監督インタビューより抜粋3 :04/04/26 08:57 ID:Hhf03OYN
●CUT ロッキング・オン 4月号 ─なぜ杉本さんは石井さんを指名したんだと思います? 「彼女の好きな映画の話を聞いていると、ヨーロッパなんですね。ヨーロッパな テイストと、男と女のどろどろした関係性が日本映画には希薄だと。その中で、 唯一男と女をやっている監督として好きだということでした。(…)」 ─(…)(団鬼六さん)とは真逆だと思うんですよね。だから、石井さんは この映画をなぜ撮ったんだろう?ということが実はぼくが一番聞きたかったこと なんですけど、(…)要するに石井さんは杉本彩のために撮ったんですね(笑)。 「(笑)」 ─杉本彩の愛に応えようってことだったんですね。 「その何かに賭けているすさまじさがね、感じられたんですよ。(…)」 ●漫画ジャンクション バウハウス 6月号(発売中) 「(…)彼女も芸能界でいろいろあって、『なんで自分は理解されないんだろう?』 『どうして自分は認められないんだろう?』みたいな悩みをいっぱい抱えている んじゃないか、と。僕の想像ですよ。彼女はそれに対する無念さを持っているのかなって。 単純にそれに意気を感じて『僕なら応援できるかも』と思ったし、彼女もトコトン やるだろうと思った」 「(…)杉本彩は《ヌードという衣装を着て演じる女優》なんじゃないか。 それは他の女優さんが持っていない彼女特有の魅力なんじゃないかな。(…)」
66 :
石井監督インタビューより抜粋4 :04/04/26 08:59 ID:Hhf03OYN
●YAHOO!BBマガジン ソフトバンクパブリッシング 6月号(発売中) 「(…)彼女自身、何か人生をかけてたようなところがありましたから。 (…)こちらも手が抜けなかった。なまじっかなSMシーンでお茶を 濁すのではダメだって決意のようなものがあって(…)」 ●DVD NAVIGATOR ギャガ・クロスメディア・マーケティング 5月号 「杉本彩を徹底的に立たせる、僕の今回のすべての試みは、結局そこだけに 向けたものだったんです。難しいお芝居や展開はいらない、とにかく彼女を生かした、 完全なスター主義映画。(…)」
67 :
ネット上の評価(抜粋) :04/04/26 13:06 ID:H1KX7lQ/
(注・ネタバレあり)
(…)今はこれだけAVが氾濫していて無料動画でも本気レイプものとか食糞とか
見れる時代なので、SMシーン自体はそんなに目新しいものではない。だからこそ
Mに開花していく過程をいかに魅せるかが見所だと思っていたのだが、これがシーン的に
ブツ切りの連続で落ち着かない。何か最近では本編では観られない動画を公式サイトから
ダウンロードできるというあこぎな商売を始めたのでその影響か。ますますもって
この映画が何のために作られたかわかってため息が出る。(…)結局物語は破綻したまま
「ああそうですか、それではさようなら」といった程度のシメで終わる。
そもそもセレブ御用達の秘密SMクラブであるならば、彼らが100万というお金を出しても
見たくなる程のもの(つまり俺たちがスクリーン越しに観ている映像。特に夫とハメて
先生的に彩的にキター!のところは重要な映像のはずなのに観ていてそうは感じなかった)
がなければ成立しないはずだ。有名人と本番が出来るから来てるのか?
黒幕のやりたかったことも良く分かんない。さんざん突っ込まれたまんこを見て
「きれいだ・・・」まずヤるのはアンタなのでは。
まあ艶やかさが開花するまで待ったということならそれでもいいけど、
その歳でヤッたらああなることは承知のはずで、ああこの人はそういう
シメかたをしたかったのかと思ったら「よくも先生をー!」えええー。
原作の設定を変え、ダンススターという設定も肝心のダンスシーン
(結構出てくるけど別に伏線でもなんでもない)がどうでもいい出来でガクリ。
まあそんな映画だった。
http://kintama.2log.net/archives/blog20040402.html
68 :
ネット上の評価(抜粋)2 :04/04/26 13:12 ID:H1KX7lQ/
(注・ネタばれあり)
この映画はなんと言っても杉本彩の存在感である。
この映画で杉本彩は何かを吹っ切ろうとしているに違いない。それは女優としてなのか
1人の女性としてなのかはわからないが、観ている私にもそれはビンビンと伝わってきた。
杉本彩の芝居を超越した芝居(矛盾してるが)を観るだけでも価値はある映画である。
しかしストーリーはというと、ちょっと陳腐である。
石井隆は今まで、暴力とセックスに満ち溢れている闇の中でも光を放っている
ヒロインを描き続けてきた。あくまで暴力もセックスも人間を描くための手段でしか
なかったのだ。しかし今回の『花と蛇』はSM描写に重きを置きすぎてしまった感が
ある。私はこの映画を観ながらも、目の前のスクリーンで繰り広げられている
SM行為の表面的な部分を追うことしかできず、ヒロインに感情移入することも、
ヒロインの人間性を追及することもできなかった。このヒロインがSM行為を経験
したことで何が変わったのか、といったような人間の内面をもっと深く描きこめば
もっと味わい深い映画になったかもしれない。
そしてこの『花と蛇』は石井隆の映画の中では一番凶暴な映画である。
ヒロイン・静子は肉体的な暴力はもちろんのこと、言葉による暴力や視線に
よる暴力など、さまざまな暴力によって痛めつけられる。そして何よりも、
この映画には優しさがまったく感じられない。今までの石井隆映画は、
ヒロインを地獄に堕としながらもそれを見つめる視線に何かしら優しさが
感じられた。しかしこの『花と蛇』は徹底的に突き放した目線で作られている。
そこがこの映画が最も凶暴であると思える点である。
SMは痛みや恐怖という感情を徐々に増幅させるという点で、セックスよりも
石井隆作品ならではの空撮シーンと雨のシーンが健在だったことは嬉しかった。
だからこそヒロインがSM行為によって性的に開放される姿をもっと描きこんで
欲しかったと残念に思う。
http://plaza.rakuten.co.jp/chome/diary/2004-03-25/
69 :
ネット上の評価(抜粋)3 :04/04/26 13:19 ID:H1KX7lQ/
(注・ネタばれあり)
小沼版の『花と蛇』では、最初は不条理な恥辱から始まっても、それが特殊であれ
男女の愛の形や、女の<Mとしての自立>が育まれていたじゃん。でもこの石井版
『花と蛇』は結局、サディズムの一方通行でしかなくて、最後までMとなることを
受容しない女性に、不条理な虐めが行われるだけで、同意の無い虐待は見てて
スッゲー気分悪い。それも男女の一対ではなく、大勢のヤクザが銃で脅す暴力的な
監禁状態で、「巨悪にいとも簡単に人間の尊厳を蹂躙されて、人知れず殺される弱者」の
無力さしかわたしには感じられない。それって純然たるSMじゃないでしょう。
杉本彩版は根本的に演出意図がヘンじゃないか?彼女はMの官能には最後まで
明瞭に目覚めない設定になっていて、かといって意志の力や尊厳を賭けて巨悪に
抵抗し、Mにならないとかじゃない。非常に漠然とした非協力性とでもいうか。
責めのシーンになってから、彼女の感情を表す演出はまったく一切されないので、
「しなきゃ知人女性を辱める」と脅され観衆の前でのおしっこを強要される場面でも、
猿轡があんまり立派すぎて表情がぜーんぜん見えないから、慎ましさで我慢してる
ようにも思われず、何を彼女が躊躇してるのか観てるこっちが不条理な気分だよ。
『悪魔の調教師』や『堕靡泥の星 美少女狩り』みたいな、徹底的に理不尽な
被害だけを描く、殺伐とした人権蹂躙の映画だとしても、そういう確信犯で
あるなら違った観る価値があるけれど、本作はそういった世界を描きつつ、
圧倒的権力への恐怖や、『天使のはらわた 赤い教室』の名美の心的外傷を忘れて、
単純なエロに持っていっている(エロ>女性の人権)という構図が不快。
それに石井隆という人はこれまた女の復讐を描かずにいられない人でもあるから、
妙なことになってるし。石橋蓮司に対してもすごい曖昧な報復で、
Sを凌駕するMの怪物性を、明瞭に獲得する前に報復のオチが来ちゃうから、
貞淑な怯えと性的な非協力の中に、唐突ななんの内面的展開もない性的協力性が表れて、
釈然としない。
http://d.hatena.ne.jp/anutpanna/20040408
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ | 先生!杉本彩の『花と蛇』は不評です! \__ _______________ ∨┌─────── / /| | ギコネコ __ | ̄ ̄| ̄ ̄| ̄ ̄| | | 終了事務所. / \ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ | | ∧∧ | < 笑わせやがって!終了だ!ゴルァ! (゚Д゚,,)| \________________ ∧∧ .※ ⊂ ⊂|. |〓_ |,[][][]|,[][][]| ..| | (,, ) / U ̄ ̄ ̄ ̄ 〓/| |,[][][]|,[][][]|,[][][]|/ / つ | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| |  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 〜( ) | | /ノ~ゝヾ (’ヮ’ン ∩∩ ( ) (´Д`)  ̄ ̄ 〜 ゴラァ ∪∪ U U ̄ ̄UU 【完】
71 :
「『花と蛇』の世界」 :04/04/27 13:23 ID:I4o6Jy0d
九鬼(二郎)氏は(…)指摘する。(…)そこに描かれているのはサディズムと
いうよりサディスティックな男性の妄想に過ぎず、言い換えれば「花と蛇」の
モチーフは、サディズム・マゾヒズムといったものでなく、デフォルメされた
エロチシズムであるとしている。
(…)結局「花と蛇」とは何なのか?(…)この作品は読者にとっての一種の夢の
世界ではないかと思う。(…)小説的構成などは、どうにも我慢できないほどおかしい
と思わない程度に辻褄が合っていれば良い。夢を見ながらこれはどうも理屈に合わない
と思うことはあるが、夢を楽しむためには、目がさめない程度に辻褄が合っていれば
良いのである。(…)「花と蛇」はそういった夢の世界であり、いつまでも決して
完結しない物語であってくれれば良いのだ。
「花と蛇」の世界
http://tanbi.kir.jp/hanasekai/Hana_index.htm (必見の作品論)
72 :
名無シネマ@上映中 :04/04/27 13:25 ID:rC/g8SjP
浣腸シーンを削ったのが敗因でしょうな。
73 :
[鬼村源一役 有末剛氏 :04/04/27 13:26 ID:I4o6Jy0d
若い人は映画監督としての石井隆しか知らないかもしれない。
しかし、私にとっては依然として、ニコンを首にさげてエロスの断片を切り取っている
石井隆なのである。そして、厳しい緊縛の要求。思い出せば、自分の力以上のものを
引き出されていた。石井隆は厳しい眼を、一瞬、いたずらっこのように輝かせていた。
自分の映像が手に入るまで妥協しない石井隆との幸せな夏を思うとき、
三度目の夏は忘れられない夏になった。
調教師・鬼村源一役 有末剛氏
http://kinbakutei.com/diary/html/index.htm
74 :
杉本彩インタビュー :04/04/29 14:01 ID:B+SP1pAk
−撮影中で記憶に残ってるエピソードはありますか?
石橋蓮司さんとの絡みのシーンですね。蓮司さんだったからこそ私も、神々しいまでの
“穏やかで母性的な愛”で包み込む様な表情になれたと思うんです。自分の中では想像も
してなかった姿になれたのは、蓮司さんの周りを引き込んでいく役者としてのエネルギーの
凄さですね。
http://av.jav.co.jp/hanatohebi/
75 :
「インターネットコロシアム」 :04/04/29 14:04 ID:B+SP1pAk
「インターネットコロシアム」という名称は、石井監督が多大なる影響を受けた
クロネンバーグ監督の「ビデオドローム」と似たインパクトを喚起する。
映画では「ビデオドローム」という不可逆的な渦巻きのような空間を
「ビデオ闘技場」と訳し、そのビデオ映像に映し出される光景は、誘拐され、
鞭や道具で乱暴され、切り刻まれる女性である。VIDEODROME
-drome [名詞連結形]「広い特別な施設」の意 ギリシャ語「走ること,
走路」の意 例)motordrome名】(円形の)自動車[オートバイ]競走[試走]場
http://www1.ttv.ne.jp/~yano/suffixabcde.htm
76 :
ネット上の評価(抜粋)4 :04/04/29 14:07 ID:B+SP1pAk
この映画は四分の三くらいがSM場面なのだが、ありとあらゆる手を用いて杉本彩を 苛め抜いても、結局のところ彼女は何に対しても屈した様子がないのである。そして その関係性にこそ、石井映画のニュアンスが非常に本質的な形で現出しているのだ。 石井隆の脚本を相米慎二が監督した名作『ラブホテル』には、死を決意した寺田農が、 ホテトル嬢の速水典子を緊縛し、玩具を使って犯す場面がある。どうせ死ぬのだからと、 長年の妄想を実践しようと試みたわけだ。速水は嫌がりながらもいつしか歓喜に 身体をくねらせ激しく喘いでしまう。繰り返し絶頂を迎えてのけぞる速水を見た寺田は、 生の側へと戻る決心をする――。これは一体どういうことなのだろうか。自由を奪って 嬲るという手ひどい屈辱を与えたはずなのに、速水は寺田の卑小な満足を嘲笑うかの ごとく本能的な愉悦に狂喜する。(…)これは女性へ対する性的な(…)敗北である。 石井隆はその現実を踏まえた地平でヒロインを作り上げ、全力で痛めつけにかかるのだ。 (つづく)
77 :
ネット上の評価(抜粋)4-2 :04/04/29 14:09 ID:B+SP1pAk
石井映画のヒロインは、汚されれば汚されるほどその輝きを増していくと言われるが、 それは石井映画における女性への陵辱行為が、女性へ捧げられた無限の讃美と 強烈な嫉妬に他ならないからだ。例えば、成瀬の『めし』の「いかにも」な結末を見て 「成瀬は女性を抑圧しようとしている!」と憤慨する人がいるだろうか。いたとしたら、 その人は相当おめでたい。シナリオ、あるいは表面的なあらすじが意味をなさない映画 というものは、確かに存在する。石井映画の真髄はシナリオにあらず、もっぱら映像に よって女性への愛と嫉妬を語るのである。とどのつまり、石井監督は冷血なサディスト ではなく、あえて喩えるならば、自分がいたぶっている女性に嫉妬と羨望を抱く、 隠れマゾヒストなのである。(…)相手が「自由意志を持った生きた人間」である ことを拒否し、自己の「思い」の中に閉じ込めることによってしか、男と女は一つに なれないのではないか。(…)人と人とは、どちらかが現実に存在しつづける限り、 心身の完全なる合致を見ることはない。死んだ者だけが美しい。その認識の上に立って 作られた作品がいわゆるロマンポルノと呼ばれる映画の一群であり、石井隆の 作品なのである。(つづく)
78 :
ネット上の評価(抜粋)4-3 :04/04/29 14:11 ID:B+SP1pAk
確かに杉本彩は偉い。よく頑張った。でも頑張ったのは杉本彩だけではなく、
「陵辱の一夜」というショーの細部を、一切手を抜かずに演出し、杉本の肉体と
苦悶の表情を粘り強くキャメラに収めていった、石井隆とそのスタッフだという
ことを忘れちゃいかんのですよ。そしてその苦闘のさなかに、石井隆の「勝てない…
…杉本彩には絶対勝てない」という無念のつぶやきを聞き取ることこそ、
この映画の醍醐味である。
ttp://mykit.jp/pc/zenbastreet/
79 :
ネット上の評価(抜粋)5 :04/04/29 14:14 ID:B+SP1pAk
(…)どうやら作り手の意識は団鬼六の『花と蛇』ではなく、キューブリックの遺作 『アイズ・ワイド・シャット』にあったようだ。(…)SMショーのシーンから 情感的な官能性を剥ぎ取ることに対して、作り手は実は確信的だったのではないかと、 僕は密かに感じている。その理由には二つのことがあって、一つはショーの進行役 たる珍妙なセーラー服姿のピエロ男の鬱陶しいキャラ造形が興趣を削ぐ方向に働か されていたこと、もう一つは団鬼六の世界のキーワードとも言うべき“女の羞恥心”を 執拗に責めつつ官能を煽り立てる構図が凡そ無視されていたことだ。原作の エッセンスに忠実ならば、ピエロ男の静子への言葉責めが羞恥心を突く形で前面に 出てきてこその『花と蛇』の世界となるはずだ。だが、作り手側には、この “羞恥心”に対する時代的共有への不安があったのではないかという気がする。 アナクロニズムの一言で一蹴されてしまいかねない。しかし、元々原作はそういう アナクロニズムに居直ることで成立するファンタジーとしての女性像の提示に 官能的妙味が宿っている作品なのだ。(…)“羞恥を焦点にした情感的な官能性”が 削がれた後に残っていたのは、まるで体育会系クラブのしごきとそれに耐える 女子部員の如きスポコンもののような肉体勝負の様相だった。(つづく)
80 :
ネット上の評価(抜粋)5-2 :04/04/29 14:16 ID:B+SP1pAk
その観点から言えば、杉本彩の根性は見上げたもので、『花と蛇』的な心理責めでは なく絵になる吊り物が主体のキツいシーンの連続技を次から次へと懸命にこなしている 感じだった。(…)もし、作り手が意図的に官能性を排除して晒し物にしたのなら、 そっちのほうが酷なSMだとさえ思ったのは、フェチ的にも本当にマニアックだと 思われるオーラル・マスクのギャグ(口枷)を噛ませて縛り上げ、あかい口腔を 覗かせつつ湧き出る涎を無惨に垂れ流させたりしていたからかもしれない。 ここには性器へのダブルイメージを滲ませるような鬼六的言葉嬲りがいかにも 似つかわしいのに、ピエロ男はそれをしない。静子に向ける彼の言葉が脅しや 説得に偏っていると、それが原作にもそっくりの形であるだけに削がれたほうの 言葉嬲りが際立ってくる。そもそも鬼六的SMというのは、肉体的には苦痛以上に 快感を引き出すことで心理的にいたぶることを主眼とした嫌らしさが身上だと いう気がする。多大なる心理的苦痛と幾ばくかの肉体的苦痛を圧倒する肉体的 快楽によって翻弄し、被虐の炎を炙り立てる筋立てなのだから、肉体的苦痛を 与えて苦しむ様に性的興奮を覚えるサディズムや肉体的苦痛そのものを性的快感と するマゾヒズムとは本質的に異なる。(つづく)
81 :
ネット上の評価(抜粋)5-3 :04/04/29 14:19 ID:B+SP1pAk
だから、スパンキングや鞭打ちといった責めはほとんど出てこない。そういう意味で は似非SMで、団鬼六自身もそう語っているらしい。しかし、だからこその愛好者も 得て、一般的認知を広げてきているのだろうし、日本ではむしろ鬼六的な調教馴致の ほうがSMとして了解されている風情すらあるように感じる。(…)その前提と なっているのが、どんなに辱められ貶められても失せることのない気高さを保つ どころか、その全てを受容してなお崇高な妖しさを獲得してしまう女性像の描出を 果たす彼の筆力だという気がする。それを支えているのは、ヒロインの“どこまで 行っても枯渇することのない羞恥心と慎ましさ”であって、それが損なわれれば 全て崩壊してしまう世界なのである。言わば、在り得べからざる大幻想に支えられ たファンタジーであり、願望的な女性崇拝に他ならない。だからこそ、今や少なか らぬ女性ファンを獲得してもいるのだろう。そして、彼の小説では、そのような ヒロインの絶対的な崇高さへの到達と同時に、どこまで行っても彼女を堕落させ られない敗北的状況を以て無間地獄とするような形で、その筆が置かれることが 多いように思う。(つづく)
82 :
ネット上の評価(抜粋)5-4 :04/04/29 14:21 ID:B+SP1pAk
(…)僕は“女の羞恥”を削いだ石井版『花と蛇』は、鬼六の『花と蛇』とは 訣別しているような作品だという気がしてならない。さらには、登場人物の名前や 役回りはそれぞれ見事に踏襲しながら、黒幕の田代一平(石橋蓮司)を卑しい 成り上がり者の街金融の社長ではなく、遠山家以上の権力を持つ大物にしている ところにも鬼六的世界との訣別が示されていたように思う。鬼六世界では、下賤の 者が嫉妬と羨望による逆恨みによって憂さ晴らしを夢見ないではいられない 不条理が人間社会の前提として不可避であることを背景にしているというのが、 お約束事の構図だからだ。手を汚さずとも裕福であれる境遇を得て、使用人を持つ ことが当然のようにして許され、天賦の美を外見のみならず徳性においてさえも 備えて生まれる人間がいる一方で、そのようなものからは一切無縁の境遇に生まれ る下賤の者がいて、その敗北感と屈辱感が根底にあっての嫉妬と羨望による逆恨み なのだ。加虐側の人物描写においては、常に性的嗜好性以上にそのことが強調され、 いささかお安い形でヒロインの不運と悲劇的構図が煽り立てられる。そのうえで、 下賤に生まれた者の敗北感は、どんなに嗜虐の限りを尽くしても決して癒されずに 敗北し続けるという無常感が自ずと漂ってくる。それこそが鬼六世界で加虐の側に 立つ者の大前提なのだ。(つづく)
83 :
ネット上の評価(抜粋)5-5 :04/04/29 14:23 ID:B+SP1pAk
石井版『花と蛇』に描かれた絶大なる権力を持つ老人の妄執では済まない、
それこそ浅ましい恨みや僻みが不可欠で、その浅ましさの次元に何とか引きずり
下ろそうとすることこそが加虐のエネルギーの源泉のようにして描かれるのが
常だったように思う。そんなふうに官能性・羞恥心・恨み僻みこそが鬼六世界の
三大ポイントだと見ている僕にとっては、そのことごとくを外してきた石井版
『花と蛇』に、却って作り手が自分と同じようなところを鬼六世界の重要ポイントと
みなしていることが窺えるような気がした。そして、鬼六的似非SMの被虐の
官能世界をそれはそれとして充分認めつつ、似非SMを以てSM世界だと勘違い
している向きに対して、鬼六作品原作の名の下に冷水を浴びせかけようとの意図までも
があったとすれば、それはそれで端倪すべからざるものがあるように感じた。
だが、だからこそ、鬼六的ヒロイン像を投影され、スクリーンのなかで見事に
体現し得た谷ナオミが憧れ慕われたようには、杉本彩は慕われないような気がする。
見映えはしたし、これだけ頑張っていたのに、ちょっと可哀想にも思う。
http://www4.inforyoma.or.jp/~mai7665/2004j/05.htm
84 :
SMがわからない :04/04/29 14:38 ID:EtI7jE4C
(…)私は長年、SM小説というものを書いてきた。ところが私はいまだにSMと いうものがはっきりわからないのだ。しかるに一時、私は淫靡残虐なるサディズム 小説家と見られてきた。私が長年、好んで書いてきたのは単に倒錯したエロスで あって、いわば嗜虐小説というもの(…)残酷趣味はないのである。小説の中で 生傷がつくほど、女性を鞭でぶちのめした事もないし、女性を逆さ吊りにして 拷問するという残酷場面など登場させた事はほとんどない。女性に対する攻撃は 私の場合は肉体的な陵辱を主眼にしない。心理的な拷問が主題になっている(…) 私の異常性はなかなか監督には理解できないのである。 団鬼六「怪老の鱗 奇人・変人交遊録」光文社(2000年6月発行)より
85 :
“緊縛”“拷問”もの :04/04/29 15:25 ID:uRLv50ln
約40年間に渡るピンク映画の長い歴史の中で一つの代名詞として欠かせないのが
“緊縛”“拷問”もの。今の世の中と違い、まだまだセックスそのものもオープン
ではなく、ピンク映画もアンダーグラウンドなカルチャーとして存在していた
1970〜80年代。アングラ文化とSMという行為が非常にマッチして、緊縛・拷問ものは
観客の圧倒的な支持を集めた。荒縄や鎖が食い込み、白い肢体が苦痛と快楽にうねりを
あげる。サディスティックに女体を弄ぶことのカタルシス。そんな欲望を満たして
くれるだけではない。 縛られた女たちの姿は、日本的様式美に彩られた、まさに
アート感覚にあふれた美しさ。
http://xcity.jp/SHIN-TOHO/SERISE/kinbaku/menu.html
86 :
“緊縛”“拷問”もの :04/04/29 15:27 ID:uRLv50ln
87 :
“拷問” :04/04/29 15:29 ID:uRLv50ln
『日本拷問刑罰史』(1964) 配給 : 新東宝 名和弓雄の原作を、
吉田義昭が脚色し、小森白が監督した残酷もの。撮影は月田勇。
あらすじ 古代から、犯罪防止のたて前で重い刑罰が存在した。それは日本歴史の
歩みであり、同時に日本歴史残酷物語でもある。(…)特にキリシタンに対する
集中的刑罰の数々は、その極刑の最大のものである。木馬責め、温泉岳に投げこまれる
信者、焼印、水磔、射殺と、あらゆる残酷さを集めている。江戸時代になると、
火に対するいましめは特に強かった。火事の犯人と目されると、与力によって
笞打ち責めが国賊の名のもとに行なわれる。そして更に石抱き責めで苦しめられ、
犯人と決まるや、みせしめのため、江戸市中を引きまわし、最後に火をつけて焼かれる。
また不義密通者強盗殺人などには、笞打ちや、石抱責めより更に重い三段斬りや、
海老責め、釣るし責め、駿河町奉行彦坂九兵衛が創案した駿河問い首斬りと続いていた。
又、牢獄の中でもリンチは平然と行われ、死亡者も多かった。(…)
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD21509/story.html
88 :
女性のご意見(抜粋)1 :04/04/29 15:31 ID:uRLv50ln
しかし、こういうジャンルって本当にはじめてみたんですが、とにかくびっくり。
杉本彩が服を着ていたのは前半のみ。このあたりから、わざとらしくパンチラとか
胸強調とか、おしりアップとかセクシーなショットが連発して、最初はちょっと
笑いをかみしめるなどの余裕もあったのだけど、あとはほとんど全裸であられも
ないポーズのオンパレード!一応名の通ったタレントさんがここまで大胆に
演じきったことにとにかくびっくり。あっぱれ杉本彩・・・
けっこうダンスもがんばってたんだけど、他の印象が強すぎてあまり記憶に
残ってないです。しかし乳首に針灸は痛すぎて直視できなかったよ〜! (>_<)
http://www.enpitu.ne.jp/usr2/bin/day?id=24045&pg=20040324
89 :
女性のご意見(抜粋)2 :04/04/29 15:34 ID:uRLv50ln
なんとなく興味があったんでちょっとした好奇心からだったんですが、もともと
原作を読んでなく、SMにも造詣は深くない為、淡々と見てしまいました(笑)
周りは大概男の人ばかりでしたが、カップルも何組かいました。こういう映画を
カップルで見てどうすんだろーか。いや、女一人で見る私もどうかと思うが(爆)
私だったらちょっとヤダな。。。だって、家に帰ってから、SMごっこしようとか
縛ってもいいかとか言い出したら困るぢゃん(爆)(…)杉本彩は綺麗でしたよ〜。
うんうん、ヌードも綺麗だし、スタイルもいい。縛ってもキレイ♪個人的に
SMとか好きではないので、そういう行為自体は、普通にさらっと見てしまいましたが、
いろんな衣装を着ていてキレイだなーと思いました。それにあんまし卑猥なカンジは
しなくて、どっちかっちゅーと芸術的だったような(私が鈍いのか?)ちなみに
最後のおじいさんとの絡みのシーンはちょっと苦手ですー(^^;
ラスト、原作ではどういう風に終わってるのかな。杉本彩のタンゴシーンが
セクシーでキレイだなと思いました。花魁道中も脱ぐ前はきれいだったー。
脱いでもキレイだったが、縛ったりするのは苦手ー。ヘアヌードでもあまり
卑猥なカンジがしないのは何故でしょうか。ちょっと不思議な映画でした。
こういう世界もあるのね〜そんな感じでした。
http://sakura.sarasou.com/cgi-bin/diary02/bdiary.cgi?room=51319
90 :
劇団第三エロチカ 川村毅氏(その1) :04/04/29 15:37 ID:uRLv50ln
これはまぎれもなく、セックス・ムービーの傑作である。ポルノ映画、エロ映画と
いう言い方がしっくりこない感じがするので、この言い方を使う。しかしこの映画
には日活ロマンポルノへのオマージュが随所に感じられる。ある種荒唐無稽な
チープな展開。湿気に満ちた性描写。妄想と現実の交錯。堂々たるセックス・ムービー、
世界に誇れる出来だ。それと従来のポルノ、ことにAVにおいてはやたらと長まわしの
セックスシーンが退屈でしかたがないのだが、『花と蛇』では撮影で二台のカメラを
同時にまわし、スピーディに編集、スイッチングされているので臨場感が保たれ、
まったく飽きない。本当のSMマニアにとってみれば、まだまだだという向きも
あろうと想像するが、私みたいなトーシロにとっては描かれた緊縛シーンは美しい
ものだった。これまで石井隆の映画にはあまり満足せず、というのは劇画時代の
本人には及んでいないと思っていたところ、今回石井氏は見事に映画監督として
腕をあげたものだ、と感じ入る。とにかく徹底した、しかも確信犯的な
反フェミニズムの映画であり、あたまにきた女性達はぜひ反攻ののろしを
あげてほしいものだ。杉本彩はりっぱだった。捨て身になったとき、女は女優になる。
女優になるということはなにかを確実に失うということだ。そのことがわからなければ
女優志望は永遠と志望に留まるしかないだろう。
http://www1.odn.ne.jp/info/t_factory/wondering/last.htm
91 :
劇団第三エロチカ 川村毅氏(その2) :04/04/29 15:40 ID:uRLv50ln
ところで先週の私の『花と蛇』評について、周囲の女性群に非難ごうごうである。
いやあ、あの映画はあまりまじめに見てはいけないのよ。(…)『花と蛇』って
タイトルが出るというこの出だし自体大笑いなんだからさあ。このことで
山田山子に呼び出される。「杉本彩がいいなんて、あんたの女のセンス疑うわね」
「いやいや、いいなんていってない。よくやったといったわけでして」
「単なる露出狂だろがっ」「まあ、それもそれでたいしたもんじゃないんだろかと
思うわけです。人類皆露出狂になれるわけではないのですから」
「あんた、露出狂好きか?」「出し渋りよりはいいけど。でも、石井隆のヒロイン
ちゅうのはあまり実物の女優さんでは難しいんですよ。劇画の名美みたいな
実物はなかなかいない。確かに杉本彩は雰囲気不足ですが、雰囲気のある
女優さんを選ぶと今度は体がいまいちだったり、中途半端な脱ぎ方しか
しなかったりするわけですよ。だからトータル的には杉本でよかったと思うわけですよ」
「でも、あんた、知ってっか、杉本彩、今おめえ何様状態の勘違いで、いっちゃってるぞ」
「まあ、ありがちなことですね。では、さようなら」と私は脱兎のごとく逃げる。
中野の夜である。
http://www1.odn.ne.jp/info/t_factory/wondering/diary.htm
92 :
映画研究者 岡田秀則氏 :04/04/29 15:41 ID:uRLv50ln
93 :
《殴られる女性》 :04/04/29 15:43 ID:uRLv50ln
配偶者や恋人から暴力被害を受けている女性のことを「バタードウーマン
(被虐待女性)」と呼びます。夫からの暴力を黙々と受けている女性というと、
弱々しく、能力の低い女性を想像されるかもしれません。ところが事実は大きく
異なります。私がみた限りでも教師、美容師、医師、弁護士、会社役員など、
無力で能力が低いとはとても思えない女性が、夫や恋人からの暴力を受けている
のです。暴力を積極的に受けたい人はいません。それではどうして殴られ続ける
(逃げない)という状態に陥ってしまうのでしょうか。(…)男性がパートナー
に奮う暴力について、妙に寛容な社会的土壌が残念ながら今でもあります。そして
結婚生活を維持する上で、女性に我慢や努力をやたらと求める風潮も根強く残ります。
これはオトコ社会における男の甘えを満足させるための実体のない”物語”です。
しかしそのオトコ社会の枠組みが成人男性の暴力を含む「甘え」まで許容する
ことには大きな問題があります。
http://www.sanin-chuo.co.jp/tokushu/tomarigi/26.html
94 :
ネット上の評価(抜粋)6 :04/04/29 16:01 ID:ctfF2V1b
(…)高いテンションで始まる新『花と蛇』にぼくは期待を寄せた。ぼく自身は谷ナオミの
大ファンなので、この映画にどんな見所があるか複雑な気分だったけれど、どうやら
まったく違う映画となることだけは冒頭の数カットだけでも予見できた。しかし、それは同時に
団鬼六の不在も表していたように思えた。冒頭を観ただけで感じられるのは、石井隆という刻印
だった。(…)より正しく言えば、日活ロマンポルノ的なもの、谷ナオミ的なもの、
団鬼六的なもの…などから遠い映画だということだ。前半は人間ドラマで見せている。
(…)デジタル撮影であろう全体的に暗い色調がシリアス・ドラマと調和して、
ロマンポルノの、特に『花と蛇』のフィルムの色鮮やかさと対極をなしている。後半は
エロ一直線である。(…)意図としては「本気のSM」を描くことが中心となっていて、
団鬼六文学のようにSMをめぐる人間(男)たちを描こうとはしていない。(…)石井隆は
ロマンポルノで言えば、『天使のはらわた』などに絡んでいることもあって、やはり
本気の「性」に迫ろうとする作家なのだろう。(…)仮面生活の重層性みたいな物語展開は、
(…)ドラマとしても中途半端な感じだった。いや、やっていることは本気のドラマなの
だけれど、ぼくたちが享受する文脈と出演者たちと石井隆や企画者の意図がそれぞれ
バラバラになってしまっているようで、それゆえに、薄っぺらな印象をぼくが抱いて
しまうのかもしれない。少なくともSMシーンのある場面などはとても官能的で、杉本彩の
挑戦に感動してしまうこともあるのだから。
http://d.hatena.ne.jp/tido/200403
95 :
ネット上の評価(抜粋)6 :04/04/29 16:03 ID:J6RqX7VB
(…)高いテンションで始まる新『花と蛇』にぼくは期待を寄せた。ぼく自身は谷ナオミの
大ファンなので、この映画にどんな見所があるか複雑な気分だったけれど、どうやら
まったく違う映画となることだけは冒頭の数カットだけでも予見できた。しかし、それは同時に
団鬼六の不在も表していたように思えた。冒頭を観ただけで感じられるのは、石井隆という刻印
だった。(…)より正しく言えば、日活ロマンポルノ的なもの、谷ナオミ的なもの、
団鬼六的なもの…などから遠い映画だということだ。前半は人間ドラマで見せている。
(…)デジタル撮影であろう全体的に暗い色調がシリアス・ドラマと調和して、
ロマンポルノの、特に『花と蛇』のフィルムの色鮮やかさと対極をなしている。後半は
エロ一直線である。(…)意図としては「本気のSM」を描くことが中心となっていて、
団鬼六文学のようにSMをめぐる人間(男)たちを描こうとはしていない。(…)石井隆は
ロマンポルノで言えば、『天使のはらわた』などに絡んでいることもあって、やはり
本気の「性」に迫ろうとする作家なのだろう。(…)仮面生活の重層性みたいな物語展開は、
(…)ドラマとしても中途半端な感じだった。いや、やっていることは本気のドラマなの
だけれど、ぼくたちが享受する文脈と出演者たちと石井隆や企画者の意図がそれぞれ
バラバラになってしまっているようで、それゆえに、薄っぺらな印象をぼくが抱いて
しまうのかもしれない。少なくともSMシーンのある場面などはとても官能的で、杉本彩の
挑戦に感動してしまうこともあるのだから。
http://d.hatena.ne.jp/tido/200403
96 :
ごめんなさい_| ̄|○ :04/04/29 16:15 ID:J6RqX7VB
二重カキコでした。。ごめんなさい。皆さん弁が立って、羨ましい限りです。 皆見事に「花と蛇」に肉迫されておられるかと。。「花と蛇」が団原作から 石井監督が乖離「させた」ものであるのは、どうやら疑いの余地がないように 思われます。例えば増村保造の「刺青」「盲獣」のような「ざわざわした血」を ひく作品なのではないか。劇画時代から「羞恥」ではなく「生死」を蕩尽する 石井監督「らしい」作風が随所に溢れたものが「花と蛇」ではなかったかと。。
97 :
名無シネマ@上映中 :04/04/30 09:54 ID:+2l+rsvq
発売中の「週刊アサヒ芸能」に「第二弾製作決定」の文字。 かねてより話は聞こえておりましたが、「決定」と言い切ったのは初めて。。
98 :
ネット上の評価(抜粋)7 :04/04/30 21:51 ID:WZ/4XULm
これはSM志向のポルノ映画の物語そのまま。画面作りは結構凝っていて、出演俳優たちの
演技も真剣そのもの。裸で磔にされたり、花魁の格好で縛られたりする杉本彩の体当たりの
奮闘ぶりも、なかなか見ものだった。鞭で叩かれピストルで脅かされて、否応なくカラダを
許すのと、同意の上のSM行為との違いは判然としないが、要するに爛熟した女性の
肉体で悪の花を咲かせたようという趣向なのだと思う。杉本彩の演技(肉体?)と石井隆の
演出は映画を見る観客の欲望によく応えていたので、充分評価できるところだ。
こういう映画が話題になってもいいじゃないか。
http://jokigen.jugem.cc/?month=200403
99 :
名無シネマ@上映中 :04/04/30 21:57 ID:1kaDcCtE
>>97 第2作は全編浣腸責めのオンパレードですかね。
グリセリン浣腸されていながら、ドバッとは出さず、
うんちを一個一個落とすのは演技的にも高度でしょう。
CGとか使うなよな。
100 :
ネット上の評価(抜粋)8 :04/04/30 22:01 ID:2WRQklpA
(…)杉本彩というまさかこの場に及んで出現するとは思わなかった“ポルノスター”の
誕生を心から祝福したいです。そして、松田仁のプロデュサーとしてのセンスと
眼力の確かさ、監督石井隆の職人的才能に頭を下げたいです。谷の悩ましげな肉体とは
対照的に杉本はまるでアスリートのようにシャープで研ぎ澄まされた肉体でしたね。
明らかに絵コンテに基づいて撮られているカット割りは70年代の劇画を思わせもします。
CGの世界でカンフーしたりピストルの弾をよけたりするサングラスのお兄ちゃんが
ヒーローで満足ならそれでもよいでしょう。マフラー巻いた韓国の二枚目、結構なことです。
しかし、ボクにとってのヒーローは真っ白い肌にコーティングされた
肉体というしなやかであまりにも美しい鎧をまとった杉本彩、彼女こそそう呼ぶに
ふさわしい存在だとおもいますねえ。
http://casty.jp/hikaritown/main/353
101 :
DVD ジャケット :04/04/30 22:04 ID:2WRQklpA
102 :
横川シネマ オール石井隆ナイト :04/04/30 22:07 ID:2WRQklpA
(…)ふらっと現れた監督の最初の印象はなぜか「さいとうたかを?」(ゴルゴ13
とかの作者)監督がもともと劇画を描いていたという情報があったせいでしょうか。
でもなんか似てる。(笑)そしてトークショー、「GONIN」の権利関係のゴタゴタ話
とか、夏川結衣さんとか立派になっちゃった人たちの話とか興味深い話が続々と。
それが終わるといよいよ「GONIN」の上映です。なんか石井監督と同じ劇場で
一緒に見てました。(笑)(…)時間も午前3時をすぎ、眠気もピーク、空腹で、
おまけに片目は充血してたという、バッドコンディション、でも映画はおもしろく
眠ってる場合じゃなかったです。そして監督は帰っていかれたわけですが、
ちょっとシャイな感じのナイスミドルでございました。ちなみに3本の
夜間降雨確率は100パーセントでございました。(レイプもですが・・)
@ね、眠たい・・。
http://www2.diary.ne.jp/user/156794/
103 :
名無シネマ@上映中 :04/04/30 22:10 ID:zKH2OBbc
紅姉妹
104 :
名無シネマ@上映中 :04/04/30 22:19 ID:2WRQklpA
>>99 読んでる方がいるのですか。驚いた。。
そういったシーンを入れ込んでも絶対に「羞恥」しない
「耐える」ヒロインになる可能性がありますが、「羞恥しない」静子は許せますか?
団鬼六の領域ではない、本格的な「生死」に関わる方向へ進んでしまう感じが
します。誘拐して殺害しまくる「無残絵」の迷宮、「魔楽」へ入り込むかも。。
105 :
名無シネマ@上映中 :04/04/30 22:43 ID:LTo6tNoS
その映画って抜けます?花と蛇
106 :
名無シネマ@上映中 :04/05/01 09:03 ID:MvoSZ6dp
>>105 「抜ける」という声は少ないですね。グラビアでは来るのに映像では
こないのは何故?という文章がどこかの日記にありましたが、官能小説などの
パターンと「決別」した描写とリズムに戸惑う観客が多いようです。石井監督の
劇画時代の作品は下着のディテール、ベッドや室内インテリアの「現実感」、
眼前で性交渉が行なわれているような映画的なコマ割で読者に衝撃を与え、
その当時の週刊誌の特集では「何回でも抜ける」という熱狂的な祭り上げかたを
されていましたよね。。しかし、現在は「抜ける」作家ではなく「真面目すぎる」
作家という捉えられ方が多いようですね。夏川結衣のレイプ(「夜がまた来る」
「GONIN2])喜多嶋舞の緊縛(「GONIN2」)などに舐めるような
執拗過ぎる写し方があり、公開の度に話題を振りまきますが、観客の多くは
「陵辱されているのは男側ではないか」という鏡地獄のような乱反射に晒され、
考え込んじゃう顛末になっていますよね。。前スレ711さんが「杉本彩が石橋蓮司に
ペロペロされるシーンで興奮してしまいますた。俺には十分ズリネタになります。」
と書かれたように、そのシーンはその点でえらく好評。。
107 :
性と暴力 :04/05/03 16:46 ID:WC6+EUKP
たとえば、どんな好きな女と寝ていても自分の自我は捨てられないですよ、最後の 最後まで。残りの自我が羞恥心を呼び起こし、性的興奮を生むわけです。もっと捨てたいと いう気持と、それでも捨て切れずにいる自我との緊張の関係がエロティシズムを生むんだと 思います。もし自我を全く捨ててしまえばそれまでですよ。あとはもう何もない。 ミス・ユニバースになるような絶世の美人がいたって、もう駄目だと思います。 (…)非日常性イコール性と言ってもいいんです。日常性を壊すものは性と結びついている。 たとえば性と暴力は結びつく。暴力も日常性を壊すものの一つですからね。 なぜ、サディストがいてマゾヒストがいるのかということですね。 (…)人間の場合は性と祭りが結びつき、性と酒が結びつく。 (岸田秀氏「さらに幻想を語る」青土社)
108 :
本家本元のサド侯爵は :04/05/03 16:50 ID:WC6+EUKP
サディストというのは、殺さないですよね。フロイトがいっているように、サディズム というのはエロスとタナトスが融合してできていて、エロスの要素もあるわけ ですから、サディストはいじめて、(…)相手が侮蔑されて、痛いめにあって、 苦しんでいて、しかも逃げだせないでいる姿を見るのが好きなんであって、殺して しまったらそれまでですから。(…)快楽殺人とサディズムは違うんじゃないか と考えています。(…)サディストが殺す場合は、ここまで虐待して逃がすと あぶないということで殺すのではないんですかねえ。本家本元のサド侯爵は殺人を やっていないでしょう。(岸田秀氏「倒錯」伊丹十三氏、福島章氏との対論 ネスコ)
109 :
プラトニズム批判 :04/05/03 16:53 ID:WC6+EUKP
西洋のキリスト教的プラトニズム─精神的なものだけが善で、肉体的なものは 悪だという考え方─に対する批判ですが、(…)反発の代表がサドみたいな人ですね。 (…)エロチシズムというものにすごい超越性を見ている。(…)エロチシズムの 極地は、一方的に男が女を侮蔑する、陵辱する、暴力によって犯すところに洗われる。 最終的には、殺してしまうところまでいく。そういうところでもっとも エロチシズムは高まる、そういう思想なわけです。(…)日本では、猟奇的なもの だとか、肉体的なものに対する偏執的志向は出てくるけれども、あそこまで極端な 思想というのはたぶん出てこない。(…)永井荷風だとか、谷崎潤一郎だとかは、 そんなどんづまりまで突き詰めない。その中には、(…)日本的な好色文化 ─エロスというのは人間が生きていく上でどうしても必要な糧であるという感覚が あると思います。(竹田青嗣氏「現代日本人の恋愛と欲望をめぐって」岸田秀氏との 対論 KKベストセラーズ)
110 :
週間プレイボーイ :04/05/03 16:54 ID:WC6+EUKP
発売中の週間プレイボーイにグラビア掲載。 「nudist 杉本彩の美しきハダカがここにすべて集結!」 『花と蛇』の写真は袋とじの最終ページのみ。
111 :
廣木隆一 幻の「花と蛇」 :04/05/03 17:08 ID:IGzrOrwQ
─次回作は『花と蛇』ですか?荒井晴彦さんの脚本で、ある意味では斬新な企画ですね。 廣木■『はき忘れた片方の靴』という調教される男の子の小説があってさ、主人公が 囲われて両性具有になっていくの。その時の喪失感をタイトルが示してるんだけど、 これは今っぽいなあという気がしててね。そういう方法で『花と蛇』も語れるかなあ、と。 ─両性具有も廣木さんの裏テーマというか。でも大胆ですね。 廣木■『花と蛇』って心を変えようとする作品でしょ。だけど、体を変えていくのは もっと凄いのかもしれない。 ─日本人のHって性差を明確にしたところから始まったでしょう。だけど、 若い人って性差は関係なくなってきていると思う。廣木さんの『花と蛇』論は すごいニューウェイヴになる可能性があるよね。 廣木■あるいは古典でやるか。まだ、全然決まってないんですけどね。 (銀星倶楽部★19 桃色映画天国 1994年 発行ペヨトル工房)
112 :
__ :04/05/03 21:34 ID:/bh0GYbW
書き込み長いよ! 20文字改行で、5行以内にしろよ
113 :
名無シネマ@上映中 :04/05/03 21:35 ID:u3hI2G2Q
ぐちゃぐちゃ長文うるさい 簡潔に書け
114 :
名無シネマ@上映中 :04/05/04 02:27 ID:kFmzxghp
この前の日曜に銀座に逝ってきまつた 久々に一人での映画なのと (女とはいけないよ・・・) 18禁てーことで結構ドキドキしながら観ました 下手なAVよりエロイやね 彩さんもイイんだけど個人的にはボディガードの娘に 激(*´Д`*)
115 :
名無シネマ@上映中 :04/05/04 16:03 ID:HB6O22yI
116 :
名無シネマ@上映中 :04/05/04 16:12 ID:HB6O22yI
オフィシャル・ホームページ更新 過激さクライマックス!有料ホームページ5月1日(土)より新ムービー配信中 クレーンカメラによる過激で大胆な見公開映像が登場。 レンタルビデオはソフトバージョン、ハードバージョンの2タイプパッケージで登場。
117 :
名無シネマ@上映中 :04/05/04 16:36 ID:cUSZyti2
最後の愛人◎団鬼六著。新潮社。装幀宇野亜喜良。不覚にも泣いてしまった。 関本郁夫、望月六郎両監督もチラリと登場。フィクションではない純文学として、 SM描写との距離感、バランスもよく、かえって惹かれるものあり。団文学は エッセイやこういった実体験を描いたものの方が面白い気がする。。 映画と関係なくてスマソ。。でも、オススメ…。
118 :
名無しシネマ@上映中 :04/05/05 00:22 ID:BBa7TeWH
ここのレスはほとんど同一人物がしている、うざい。 杉本彩は女性ファンが多くサイン会も女性が詰め掛けている。 狭い世界で杉本を語らないでくれ、パート2もあるのだから。
119 :
名無シネマ@上映中 :04/05/05 10:54 ID:mzrhZmYy
ぐちゃぐちゃうるさいね こんな映画に バカじゃなかろうか
これとパッションだと、どっちが痛々しいですか?
121 :
ごめんなさい_| ̄|○ :04/05/05 12:39 ID:/qenc/Ld
>>118 すみません。何か気に障ったようで。。ごめんなさい。
杉本彩は余貴美子や天海祐希のように「肩の力を抜いて」ふわふわすると、
すごく素敵なコメディエンヌになりそうな気がします。嫌いじゃないです。
これを突破口に色々な役柄に挑んでもらいたいっす。
>>77 >>78 >>90 なんかの批評では杉本を日本では稀有なパフォーマー
として賞賛、絶賛しているわけで、パート2があれば尚更のこと杉本ファン「こそ」
この場で「語ってあげたら」いいのに、と逆に思っちゃうのだけれど。
「こんな映画」と済ませず「バカ」になって皆で考えることが、1000万部の雑誌に
裸体を晒して踏ん張っている「女優」杉本の為にもなるんじゃないか?
なんて、仰る通りの「うざい」バカでした…。
122 :
名無シネマ@上映中 :04/05/05 12:47 ID:/qenc/Ld
>>118 せっせと素材を収集、提供する人間が一人いて、ときどき立ち寄って
チャチャ入れる人間がいて、チャチャから新たな見解読み取って、
素材収集人が新たなネタ持ってくる。。。
別にスレのありようとして悪いとは思わんが。
>狭い世界で杉本を語らないでくれ
というなら、自分がより広い世界の杉本ネタを持ってくりゃいいだけ
のこと。自分は素材提供せずに人のカキコにケチつけるだけ、は
みっともねーぞ。
>>121 も、やたら謝るなよ。
>>111 残念だね〜映画化権取れなかったんだね。大人の世界って……
でも広木監督には団鬼六の『美少年』を取ってほしい気がする。
(過去に広木監督の出世作を作った)ゲイポルノ作ってる
ENKで一つお願いしたい。
125 :
イサオ :04/05/05 20:02 ID:UwBttsmA
刺青の面積が足りませんな。 もっと、首からした全部じゃないとダメ。
126 :
「サディスティック」 :04/05/06 13:26 ID:BqGPEE2R
127 :
名無シネマ@上映中 :04/05/06 13:30 ID:BqGPEE2R
(マスクを被せ)被虐者の「表情=羞恥」すら読み取れない状況での「拷問」。
米兵の表情、態度に「悦楽=蕩尽」を見い出せばこその「サディスティック」という
表現であるならば、西洋人のとらえる「SM」とは何か、わかるような気がする。
この観点からいけば団鬼六や日本官能小説が異端。杉本彩の「我慢大会」は
「正統」な描写か。にしても「サディスティック」という「報道」でピンと来る
「大衆」というのもつくづく恐ろしい。米兵の性的愉楽を「自ら」のものとして
「実感できてる」証拠だもんなあ…。みんな「異常」だよ、ある意味。。
>>123 ゴメン、あ、アリガトさん…。 _| ̄|○
128 :
「美少年」 :04/05/06 20:07 ID:+ooHlSUt
129 :
ネット上の評価(抜粋)9 :04/05/06 20:13 ID:+ooHlSUt
主役の杉本彩に華がありません。こういう役ならば、女性が見てもうっとりして
しまうような美しさを、少なくとも責められるシーンでは見せなければならないと
思いました。この女性を責めるとはこういうことなのか、と観客に納得させられる
ような。総じてキャスティングが「薄い」ですね。また責めのシーンを入れ替わり
見せていますが、SMと言っても結局、主人公の女性が段々と様変わりしてゆく
心理を描けなければ感じることも出来ないと思うのです。それがなかった。
http://6328.teacup.com/gamera/bbs
本当にオシッコしてるの?
>>120 遅レスだが、肉体的に痛いのがパッション。
精神的に痛いのが花と蛇。
132 :
名無シネマ@上映中 :04/05/07 10:06 ID:jFsTXp7F
133 :
ネット上の評価(抜粋)10 :04/05/07 10:08 ID:jFsTXp7F
このところの日本がやけに鬱陶しいのは、公序良俗の締め付けだけが厳しく、
言論や行動の自由な許容度がどんどん小さくなっているからではないか。
(…)そんな時代に抗するように、杉本彩のヌードが週刊誌のグラビアを飾って
話題を呼んだ『花と蛇』が、予想以上にヒットしているようだ。映論規制の限界
ギリギリまでSMシーンに挑んだ杉本彩の熱演を賞賛する声は一様に高く、
パブリシティーが十分に行き渡れば、成人映画もまだまだ稼げるということだろう。
このところ企画力に乏しいピンク映画界も、フンドシを締め直して取り組んで
欲しいものだ。
http://w2222.nsk.ne.jp/~amovie/kouki.html
134 :
ネット上の評価(抜粋)11 :04/05/07 10:10 ID:jFsTXp7F
135 :
名無シネマ@上映中 :04/05/07 10:59 ID:5eecvD7s
>>131 「痛かった」のは杉本彩や未向?それとも131?
136 :
明日8日より上映 :04/05/07 13:01 ID:gGmZKiEl
137 :
『パッション』 :04/05/07 13:13 ID:LWlFGc32
“キリストの、最後の12時間を忠実に描いた”映画(…)むち打たれるシーンとか、
酷いのだ。鎖の先に鑿の先っぽみたいな刃がついてる、ってのが何本も束ねられた
鞭で、背中をばっちんばっちん打つぞ。肉は裂け血は飛び散る。ってゆーか
背中の肉がえぐり取られたりします!『花と蛇』のソフトなSM表現に満足
できなかった人は、是非これを観ると宜しい。(…)刑罰とか拷問をリワルに
描けば全部こんなふーになるだろうに。ただまぁ、単にそれをやっても
「残虐シーンが売りのきわもの映画」としか捉えられまい。「キリストの話」
ってーのは、強力な免罪符になるもんだと思います
http://www.ipc-tokai.or.jp/~woquave/nikki0403down.html
138 :
「サディスティック」ミカバンド :04/05/08 09:08 ID:h3fvoEhb
元フォーク・クルセイダースのメンバーであった加藤和彦が奥様のミカ夫人、 高中正義、
小原礼らとともに1972年に結成した日本最古のハードロック・バンド・ サディスティック
・ミカ・バンド。「名前の由来」は、もちろんプラスティック・オノ・バンドのパロディ。
結成当時はあのメリー・ジェーンでも有名なつのだひろ氏もいたらしい。加藤和彦・
高中正義に加え、高橋幸宏が在籍していたスーパー・グループとしても知られる。
72年にサイクリング・ブギでデビュー。とにかくなんといっても代表作といえば74年に
リリースされた名盤黒船。江戸風情な日本テイストをハードロック/ファンク/
フュージョン/プログレなど当時先端をいく文脈のなかで見事に結晶化。それはまさに
“和洋折衷”という表現がぴったりな、まったく独自のサウンドであった。もちろん
3曲目タイムマシンにお願いは語り継がれるべき名曲。
http://www.hmv.co.jp/news/newsDetail.asp?newsnum=308150076
139 :
グラビア :04/05/08 09:11 ID:h3fvoEhb
●週刊現代[5月22日号] 映画「花と蛇」もうひとつの物語−石井隆監督が演出・撮影したアート ●週刊ポスト[5月21日号] インターネットで公開された杉本彩「花と蛇」−封印された局部映像
140 :
名無シネマ@上映中 :04/05/08 09:16 ID:b2mvwja8
杉本彩つかった時点で、駄作だと運命づけられてた。 間違いない
141 :
『パッション』2 :04/05/08 13:13 ID:f2xw02PQ
142 :
キリスト教 :04/05/08 13:17 ID:f2xw02PQ
米国の政治家も、サドよりもマゾが多いだろうといわれている。その証拠に
彼らが通う売春宿にはかならずムチ、手錠、鎖、ピン、十字架の架刑台などが
用意されている。それじゃ、なぜサドよりもマゾが多いか?キリスト教と大いに
関係がある。キリストは十字架に張り付けになる前にムチで打たれるなど、いろんな
凌辱(passion)を受けた。政治家たちも、キリストとおなじように肉体的な
責め苦をうけることで、自分を sufferer「殉教者」に仕立て上げようってわけだ。
殉教者であることは、選挙で女性票を獲得するのにけっこう役立つんだとか。
なかでも、政治家たちのお好みってのはムチ打ち。スッポンポンになって、女王様に
ムチで尻から血がでるまで叩かれ、部屋の中を四つん這いになって歩き回るのが、
えもいわれぬ快感なんだって。
http://ok.halhal.net/~senichi/seniti/night/67night.html 厳格かつ身勝手なキリスト教がはやった時代。女性や猫が魔女、悪魔として迫害された。
(…)中世の傑作品に、拷問道具がある。女性への拷問は、性的なものが多かったようだ。
すなわち、性器への責め苦。(…)清らかでなければいけないはずの聖職者がそんな拷問
考えたりやったり(…)罪を裁く、悪を裁くという美しい名目の元に、淫らな拷問する
なんて。
http://ch.kitaguni.tv/u/503/%B6%B2%A4%A4%CF%C3/0000002257.html
143 :
名無シネマ@上映中 :04/05/08 13:19 ID:f2xw02PQ
「サド侯爵の生涯」から得た知識によれば (あるいは、そこに語られている
渋澤龍彦の考えによれば) サディストとは相手の嫌がることをして性的快感を
得る人間のこと。相手が縛られるのを 嫌がるなら縛ればいいし、敬虔なキリスト
教徒相手ならキリストの像を踏ませてもいい。 相手が嫌がるのが重要なのか
相手が嫌がっていると自分が思えるのが重要なのか ちょっとわからないけど、
鞭打つといった行為や相手の隷従そのものには意味がないらしい。(…)
一般に日本でSMとして語られる「ご主人様と奴隷」というロールプレイは
サディストとどういう関係があるんだろう?もちろん、相手の嫌がることを
させるためには多少なりとも相手を隷従させる必要があるけど、それは必要
条件に過ぎない。だから、「SM」はサディストとは なんの関係もないロール
プレイに過ぎないのかもしれない。
http://www.creator.club.ne.jp/~jagarl/diary200104b.html
144 :
ネット上の評価(抜粋)12 :04/05/08 13:22 ID:f2xw02PQ
<SM映画も東映が作るとこうなるのか>
当初杉本彩の放尿シーンという前評判ばかり気にしていたが、利尿剤を含んだ
溶液を、口枷で強制開口したままイルリガードルを使って飲ませるというプレイには
感心した。イルリガードルと言えば、今まで浣腸しか使っていなかった私には、
実に新鮮に感じた。また、バイブではなく実際に男がかぶっている仮面の鼻が
ディルドオというのも、ストリップの天狗の面を使ったショー以上に妖しげだ。
映画の中で目立つのは十字架への腕の水平縛りシーンだ。これをトータルすると
結構長い時間だ。撮影時にはこれに数倍する時間がかかるだろうと思うと、SM
未経験の杉本彩はよく耐えたと思う。特においらん姿の下、全身にほどこされた
鮮やかな刺青姿のまま十字架にはりつけされ、それに霧雨のようなものが
降りそそぐシーンは実に幻想的だ。これらのシーン以外にも、ロウソク責め、
レズSMプレイ、逆さ吊り水責め、濡れ手拭での鞭打ちと、当初あまり
SMシーンは期待できないのではないかと思っていたがまずまずである。
杉本彩ファンにとっては、彼女の動くヘヤ・ヌード姿を見れるだけでも
満足なのではないのだろうか。また、異様な集会風景は、トム・クルーズと
ニコール・キッドマンが主演した映画「アイズ・ワイズ・ショット」を思い
出してしまう。この場面で欠かせないのが、司会というかピエロというか、
彼の巧妙な衣装としゃべりはまさに演技賞ものだ。全体のストーリー展開も
安易に結論に達っしようとはせず、最後まで決して単調ではない。あまり
書きすぎるとこれから鑑賞される方の楽しみを奪ってしまうので、この辺で
と思うのだが、今回私が出かけたのは銀座シネパトスだったが多くのカップルが
楽しそうに鑑賞していたことを付け加えておこう。M女の貴方はぜひ御主人様と
同伴されることをお勧めする。
http://amds.jp/disp_bn_pc.php?published_id=46481
145 :
名無シネマ@上映中 :04/05/08 14:38 ID:w1QzVaIC
杉本のアソコや校門は写ってるの
結末はどうなるんですか?
ここ、
>>1 がよそのデータを集めて貼っているだけの閉鎖的スレなんだし
削除対象なんじゃねーの?????
だいたい前スレがこんな奴に占拠されて、普通の映画板住人はみんな引いちゃって
「新スレいらないね」と確認をとったのに、その数日後に勝手に1が立てて、
長文ベタベタ貼っているだけじゃん。やりたいならsageてやれ。ここはお前の日記帳じゃないよ。
148 :
名無シネマ@上映中 :04/05/09 12:36 ID:tjHwTVGk
>>145 週刊ポストのことであれば、そんなもん写ってるわけないじゃん。
それより、週刊現代「『花と蛇』もうひとつの物語」が映画みたいでいいぞ。
現代の未向とポストの佐藤江梨子を撮影した建物が同じというのが面白い。
業界御用達なんだろうが、そんな不思議な生かされ方をしているビルが
ひっそりと隠れている街が面白い。(「花と蛇」と全く関係なくってスマソ)
149 :
名無シネマ@上映中 :04/05/09 12:42 ID:uLIxqKeD
異形と仮面 フェリーニの映画は、次第にスターを必要としなくなった。スターの 代わりにフェリーニが捜し求めるのは、身の丈2mの女や肉の塊のような女であり、 小人であり、様々な奇怪な人間である。(…)また、「カサノバ」と「サテリコン」 では、ミノタウロスの仮面や男性性器をかたどった奇抜な仮面が目を惹いた。 (フェリーニの宇宙 芳賀書店) (…)彼らは、初老の作家の郊外住宅をみつけて侵入すると、サルグツワをかませて 縛りあげた作家の目の前で妻を強姦する。(…)ペニスのように突き出た巨大な鼻の マスクをかぶったアレックスは、杖を傘に見立て、大声でジーン・ケリーさながら 「雨に唄えば」を歌い、踊りながら、リズムカルに靴で作家を蹴り、杖で夫人を殴るのだ。 (ザ・スタンリー・キューブリック キネマ旬報社 「時計じかけのオレンジ」夢想家の心と 計算機の手 扇田昭彦)
150 :
ごめんなさい_| ̄|○ :04/05/09 13:38 ID:J9CNDyrH
>>147 そんなに気に障っているとは思いませんでした。申し訳ない。
「こんな映画」ではありましょうが、「不貞の季節」が話題に出れば「不貞の季節」を見、
「パッション」が話題になれば「パッション」を見、映画「花と蛇」について関連づけて
語っていたつもりだったのだが。前スレで途中いらん長文を書き連ね、皆から呆れられた
のも、最後暴れてしまったのも事実。ですが、「普通の映画板住人はみんな引いちゃって」
節操のない似非SMマニアに不甲斐なく「占拠されて」しまっているので年甲斐もなく
イラついちゃったんだ。「新スレいらないねと確認をとったのに、その数日後に勝手に
1が立て」たのは、前スレの最後ぶち壊しにした「後ろめたさ」からさ。それと「映画」の
「花と蛇」を、「普通の映画好き」が語り合えるスレが欲しかったからだったんだが。
147は「普通の映画板住人」なの?「浣腸」「黒木瞳」の言葉足らずのSMマニアなのかい?
それとも「普通の映画板住人」というのが、「浣腸」「黒木瞳」程度で終わっちゃう人たちなの?
確かに素材ダラダラで済まなかったよ。ちょっと控えるよ。(でもさ、素材、引用の内容は
映画「花と蛇」と古今東西の映像作品、監督、そして「監督」石井隆にかかわるものに
絞っているつもりだけれどなぁ…。)逆に「映画」好きと思いたい147にこそ語ってもらいたいよ、
マジで…。
151 :
名無シネマ@上映中 :04/05/09 16:28 ID:O8mac3fw
「もきゅう!もきゅーん!」 身をよじらせて逃れようとするたまちゃんを、 男は荒縄で台に縛り付ける。 男は醜悪な笑みを浮かべながら、 たまちゃんの肌を撫で回した。 「もきゅっ!もきゅっ!」 つぶらな瞳が、哀訴するように男の方へ向けられる。 たまちゃんの体は小刻みに震えていた。 男は満足げな表情を浮かべると、 ゆっくりとズボンを下ろし始める… 「もきゅーーーーーーー!!!」 「抵抗しても無駄だ」 耳元で囁く男の声とともに息がふっとたまちゃんの耳にかかる。 「もっ・・・きゅう・・・っ」 ぞくぞくっとした感覚と共にたまちゃんの体がよじれた。 「一人前に感じてやがる」 男がにやりとほくそえむ。 「・・・もきゅう!!」 たまちゃんは必死に、顔と胴体の境目でしかない首をぷるぷると振る。 「もきゅ、もきゅ・・・!」 「否定してるつもりか?だがな、体は正直だぜ・・・」 そういって男は顔を下げた。 男の舌が、たまちゃんの前足の先を舐めあげる。 「も・・・きゅうっ・・・ん・・・!」 堪らず、たまちゃんは声をあげた。 「へえ、いい声じゃねえか」 男がたまちゃんに囁く。 たまちゃんの丸々とした体が、羞恥に赤く染まった。 男の下半身は、既に赤黒くそそり立っている。 「さあ、もっといい声聞かせてもらうぜ・・・」
>>151 言っておくけどタマちゃんは男だ。ゲイポルノ(薔薇族映画)か?
>>141 完全に横スレなんですが、パッションのストーリーとか批評読んでると
日本のゲイポルノの本格的スタートになった『巨根伝説 美しき謎』を思い出
してしまった。これは三島由紀夫事件をネタにしたやつなんですが、パッション
もキリスト殉教を完全に内輪ネタにしちゃったみたいですね。
で、『巨根――』を鑑みて、日本でもゲイ版「パッション」を……というのは
無理だな。あまりにも沢山の連中を敵に回しちゃう。
>>147 だから、占拠されるのがイヤなら、自分の見解でもなんでも書きゃいいだろう。
罵りに現れる以外はROMってる香具師が偉ぶんなや。
時々読みづらいことはあるが、自分でググってネタ探すほど熱心では
なく、かといって、興味なくは無い漏れとしては、このスレは役立ってるよ。
(…)「いろんな書き手が出てきましたねえ。まず小説家では、のちにSM小説衷の
第一人者となった団鬼六さんに、『家畜人ヤプー』の沼正三さん。(…)編集部には
三島由紀夫、川端康成といった作家も訪ねて来たし、江戸川乱歩は訪ねて来たことは
ないものの、雑誌の感想を書いた手紙を何度も送ってきた。とくに三島由紀夫は熱心で、
団鬼六氏を「中央公論新人賞に推薦したい」と言ってきたり、切腹研究家の中康氏と
も交流を深めていく。そのことがのちの彼の死に方にも影響を与えたと言われている。
http://d.hatena.ne.jp/seasidetown/20040402
156 :
名無シネマ@上映中 :04/05/11 10:39 ID:96lW7Fw/
麻生久美子主演で全編浣腸責めのオンパレードなら、 30回映画館に通った挙句にDVD5枚買ってやる。
週刊現代「『花と蛇』もうひとつの物語」のラストシーンは「屋上」。。 バタイユ(今ごろ読んでるw)の著作によればエロティシズムの発生は 「洞窟の竪穴=地下室」。。「死んでもいい」「夜がまた来る」「GONIN2」の 地上または地下室からの無茶苦茶な「縦移動(上昇)」には石井監督のこだわり、 哲学を感じる。。単に「めまい」とかのヒッチコックシンドロームかな? (「コレクター」とか「羊たちの沈黙」、地下室とこの手の映画の関わりも思い返すと 深いものがあるよね。。)
>>155 何気に重要な話だな。団鬼六を推薦したのが三島由紀夫というのは。
160 :
名無シネマ@上映中 :04/05/11 20:48 ID:qIzjT9MF
でレンタルはいつからなのだね?
161 :
名無シネマ@上映中 :04/05/11 21:36 ID:vZl/6hOj
>>154 >漏れとしては
ま〜だ“漏れ”なんて一人称使っている人 いるんだあ……
>>163 その程度の煽りが精一杯かい?
いい加減消えろや、知障。
団鬼六の『花と蛇』、沼正三の『家畜人ヤプー』が掲載され、三島由紀夫、川端康成、
江戸川乱歩、澁澤龍彦、寺山修司など数々の文化人も注目した、幻の変態雑誌「奇譚クラブ」。
敗戦直後に産声を上げ、現代のマニア雑誌のルーツと言えるその雑誌を、業界人である
北原童夢・早乙女宏美両氏が、豊富な写真や図版によって解説している本です。
(…)マニア世界の開拓者たちの気迫に満ちあふれた誌面を、じっくりと味わって
みたい方には、ぜひおすすめの一冊です。
http://les.kir.jp/bokuhomo/books.html
「奇譚クラブ」という十字路での作家たちの邂逅。三島、団、そして北の町に住む 熱心な読者であった高校生石井監督。数年後、処女画集「死に場処」を手に団鬼六を 単身尋ね、その意気に感じた団鬼六は定価の数十倍にあたる代金をその場で支払う…。 映画「花と蛇」という作品はこういった「作り手のドラマ」も共に味わうと面白くない?
168 :
麻生久美子とSM :04/05/12 14:06 ID:qWzLPYnz
ヤプーを(当初は)三島が賞賛したのは有名だけど、 鬼六を絶賛したというのは初耳なんだよね。 何か文章残ってないかな。
次は牡丹と薔薇の人がいいな。
>>169 同じく興味あります。。ネット上には見当たりませんね。
誰か教えてください。
そう言えば、これくらいの時、私も天国とか地獄とかの噂(?)を聞いて、夜怖くなったり
したことがあったなー。と思い出した。でも、天国とか地獄の話は幼稚園で、もうしていたな。
年中のとき、「天国は空の上で、地獄は地下深くにある」と、みんなで信じていたところに、
物知りのヤスダくんが、「天国は空の上で、地獄はそのもっと上にある」という新説をぶち
上げて、「やっぱりヤスダくんは、何でも知っている」と、ソンケーした覚えがあるもの。
http://okoma.milkcafe.to/memo2001/n0110a.htm
176 :
名無シネマ@上映中 :04/05/14 13:12 ID:qv5RmgkO
すみません、ちょっとageときますね。 仙台セントラル劇場、明日15日から。 土曜日曜20:40、平日21:00の1日1回の上映です。。
>>124 団鬼六「美少年」読みました。哀しい話ですね。
日本舞踊宗家御曹司が「道成寺」清姫(きよひめ)の舞台衣装で追いすがる
シーンが美しく、七十歳間近の作家が死を目前にした山田と風呂に入る際の
諦観と四十年前の「若さ」のコントラストが鮮やかで映画的。
盆暮れのTVスペシャルで映像化するのがよろしいかと思われ。。
>>169 文学板の三島スレで質問あげてみました。
「ぼくもピンときませんねぇ。三島は、作家=文体と考えるひとですから、
団鬼六のような文体を「熱心に推薦」することはないのではないか。」
との返答が現時点であり。何か出てこないかな。。
>>178 ポルノの文体というのは、執筆の過程で研ぎ澄ますものではなく、使い
込んだ文具に類する作家の手くせだと思う。読者に緊張与えるような
ものであってはいけないから。
小説である以上、執筆者の当初の意図を超えて特定の登場人物が
暴走するようなライブ感が面白みを増すことはあるが。
『花と蛇』などは、最初と最後で文体に変化が見られるが、これは文体の
研ぎ澄ましというより、若書きで、書いてるうちに上達した、という感じだろう。
研ぎ澄ましの緊張感よりは、ストーリーが自律するライブ感の方が強い。
三島本人の「文体」ということなら、やはり『金閣寺』が、研ぎ澄まされた
最高峰と思うが、『憂国』での2/26事件参加将校と妻の交合場面などは、
確立された文体で記述されたポルノだ。
三島が、目的に沿った文体を評価することがないとは言えない。
>『花と蛇』などは、最初と最後で文体に変化が見られるが、これは文体の >研ぎ澄ましというより、若書きで、書いてるうちに上達した、という感じだろう。 官能小説というのは、他分野の小説に比べて「上り坂」タイプの作家が多いね。 (鬼六と並んで二大巨匠といわれる)千草忠夫とかも初期の作品の評価は 実は意外と低かったりする。
>>179 三島を充分に読み込んだ者ではありませんので、恐々の発言ですが…、
「美しい星」の作者という極めて通俗的な面も持つ三島には、ポルノと
いう垣根など無かったでしょう。三島が団を推薦することに違和感は
全く覚えないのですが、「いったいどのような」感想を述べているのか、
そこが興味が湧きます。。
「使い込んだ文具に類する作家の手くせ」「暴走するようなライブ感」というのは、
団作品を読むと膝を打ちたくなる表現です。「性」に関する文学、映像作品については
疎んじられる傾向がありますが、いかに「技量」が必要か、理解されてない気がします。。
振り返って見ると石井監督の作品は「読者に持続した緊張与える」ことに徹してきたような
気がします。映画『花と蛇』について言えば、ガチガチの石井リスペクト野郎の目からは、
随分と役者を立てた「ライブ感」を重んじた描写と感じられるのですが…。団ファンには
納得出来ないのでしょうが…。。
日本人って鼻梁が扁平で団子状、以前から「マスク」について気恥ずかしさを覚えて きたのよ、仮面の忍者赤影からずっと…w。『花と蛇』ではマスクについては百点だよな。 そうなのよ、鼻先まで隠してこそ笑わずに済むのよ。鼻筋通った杉本彩と野村宏伸にだけ 密着型の鼻出しを装着させる気配りにはスタッフの高い美意識が感じられた…。 明智小五郎ものとか見ていると、マスク出た時点で「バカ」な連中に見えてシボンダが、 『花と蛇』に出た群像には隙が無かったぞ。。これなら海外に出しても恥ずかしくない。
『箱根の老人』 といえば『日本沈没』を想い出しちゃう。。箱根には今でもフィクサーはいるのかな…。
185 :
名無シネマ@上映中 :04/05/18 16:07 ID:D7H8/UbU
すみません、ちょっとageときますね。 週刊現代 5/29号 ド肝を抜く100%初出しエロス『花と蛇』禁じられたウラ写真
結局sage進行もできない人間の集まりってことか。
階段の夢についてですが、フロイトがすでに夢判断で、性交の象徴であると述べています。
登ることと飛び降りることが、性的興奮の高まりと解消に対応していると考えてください。
(…)登って行くと部屋がある、というのは、産道から子宮に至る女性(母親)身体の象徴
でもあります(…)
http://village.infoweb.ne.jp/~fwkx9970/dream/dream74.htm 『階段』 過去・現在・未来を結ぶものを表す。背景に表れる夢は運命に逆らえないという
気持ち。あるがままを受け入れようとする気持ちを投影。(…)上っても上っても上りきれ
ない階段の夢は性的欲望に自らブレーキをかけていることを示す。
『屋根・屋上』 開放的な気分や自信を表す。今までの生活が変わる予感。精神的な弱さを
持っている人が強くなれる予感。
『地下室』 卑しい欲望を表す。あるいは堕落・恐怖。心の奥底に押し込められた自分の
性格の暗い一面を表す。あるいは人に知られたくない感情や欲望。幼い頃の苦い思い出。
解決しなければならない問題を抱えているときに見る事もあります。
http://hw.sakura.ne.jp/~yumi/dream/
なぜ杉本彩は階段の途中で目を覚ますのかな…。 なぜ野村宏伸の事務所は屋上ではなくビルの中腹にあるのかな…。
夫の仕事上のトラブルのために凌辱の限りを尽くされる女性の話。
主人公を演じる杉本彩の鍛え上げられた、それでいて決して筋肉質ではない肉体が
惜しげもなく曝され、それにぼかしが一切ないのは別な意味で驚きがある。
ストーリーは原作であるSM小説の王道をベースにしているだけに、令夫人であるとか、
女ボディガードであるとか、通常使われないような滑稽な表現が含まれているが、それ
も含めてSM小説という世界であり、人の欲望の吐露であるとすれば、敬意と誠意を持って
描かれていると言える。また会員制クラブでの凌辱は基本的にSMの部類に入るものだが、
均整の取れた杉本彩の肉体とカメラワーク、そして音楽がその映像をハイレベルなものに
昇華させている。決して熱さや痛さを観ているものに感じさせるのではなく、それは
あたかもSMという文化を後世に伝える記録フィルムのように感じられる。ポルノグラフィと
AV(アダルトビデオ)に差があるのだとすれば、これは紛れもなくポルノグラフィと呼ばれる
べきものであり、それだけの説得力を映像は持っている。
http://www.ptp.co.jp/mypage.php3?ptp_user_id=4153
十九世紀末のヨーロッパにフェリシアン・ロプスというベルギーの画家がいた。
そのフローベール原作の『聖アントニウスの誘惑』への挿画は、磔刑に処せられた
キリストの瀕死の身体を悪魔が取り外し、代わって豊満な乳房もみずみずしい若い
女性の艶やかな全裸が、十字架にはりつけされているというものだった。(…)
淫らな薄笑いさえ浮かべた若い女性の頭上には<EROS エロス>の銘が示され、
一頭の豚が十字架の足元に立って彼女の姿を見上げていた。光景を幻視する聖アント
ニウスは、両手で頭を押さえ激しい戦慄に襲われていた。女性が裸姿で十字架にかけ
られている西洋の美術は珍しいものである。十字架はキリストが受難を経て人類の救済を
象徴する場所であるから、女性がましてや全裸の女が磔にされる姿というのは冒涜的で
あるに違いない。事実、この挿画から受ける印象は<エロス>の銘の通り、淫蕩そのもの
である。だが、性のエネルギーは宗教的心情よりも深いところにあることを、この絵は
よく示していることは確かである。
http://tbrain.hp.infoseek.co.jp/ring/001/001.htm (緊縛についてブレイクの言葉まで引用し徹底解説)
SMシーンとか色々言われているけど、(…)一番グッと来たのは、一番最初のベッドから
起きて下着姿のまま体操しているシーンかな。SMシーンは、なんか袋とじとかで見慣れた
せいか、イマイチ新鮮味がなかったです。ところで「花と蛇」は要するに監禁SM系の
性的ファンタジーを体現した映画なんだけど、(…)例えば美女をもっとも美しいコン
ディションでお客の前に出そうと思ったら、いい食事と適度な運動はもちろん、ヘアメイク
に定期的なエステも必要ですな。流行の服やジュエリーも買い与えて、精神的に満足させ
ないと、コンディションは維持できないと思う。地下室に手足縛って放り込んで込んで入れば、
どんな美女でも24時間で商品価値ががた減りになる。(…)「花と蛇」で足りないのは、
そういう意味では「生簀」の発想ですな。
http://ns.media-juggler.co.jp/~tak/dronpa/akindo/
この作品は杉本の代表作として残るだろう。(…)私としては杉本よりも、その「マレビト」
っぷりが突き抜けてる石橋蓮司、凄みの入った遠藤憲一という大好きな俳優のほうに目が
行ってしまった。(…)文句も言ったが、映画としては本当に良くできている。ポルノと
しては機能しないが。祝祭空間と現実空間は紙一重だということ、我々だって誰が仮面を
かぶっているかわからずに社会を生きているではないか、すべてはファンタジー・悪夢なのだ。
それを純愛のディスクールの中に描き出すとは、さすが石井隆!! キューブリックの『アイズ・
ワイド・シャット』との比較論など面白そう。あと、現行の映倫コードに明らかに引っかかる
カットがラスト近くにあったが、あれは見落とし? それともお目こぼし? とにかく、
日本映画からボカシなどという無粋なものがなくなる日を夢見て。
http://aurora.bird.to/karan/elena/html/
『花と蛇』といえば、誘拐された会社社長の美人妻が、犯人たちから陵辱の限りを
尽くされるという話ですが、今回は21世紀のリメイク作品らしく、現代の調教器具や
倒錯系ファッションが登場。作品の紹介キャプションで、イリルガートルとか医療系の
用語が登場、なんだかディープな世界を漂わせています。
オフィシャルサイトのスティル写真では、杉本さんが穴の開いた猿ぐつわみたいな
皮バンドで口の周囲を覆われています。これはどうやら強制離尿剤を飲まされ(…ている)
感じです。この手のマスクは調べてみると、Mouth Gagと呼ばれているようです。(…)
なお、冒頭のシーンで杉本さんがはめているMouth Gagは、Bite Gag(Bit Gag)など
とも呼ばれるもので、和風に呼称するなら犬轡(いぬぐつわ)です。
http://blog.digitiminimi.com/kobakoba/
屋上に似たリーフデッキの池でクレーンカメラが杉本を美しく捉える。。 水面には「花」が浮き漂っている。ここは天上ではないか。 石橋蓮司は天使の飾りがついた呼び鈴を執拗に鳴らす。 「天使」を求め見る老人の目。 コロシアムの最高の見せ場は「水責め」であり、杉本が「花」となって 天地が逆の体勢で落し込まれる。。 「水面」を境に「現世」と「彼岸」が描かれてはいないか。。
原作のあらすじ
http://tbrain.hp.infoseek.co.jp/ring/001/001.htmを読むと 、
調教のディテールがほとんど霧散し、そこを鬼六ファンが責めるのだけれど、大きな
流れはちゃんと押えているように思う。
「財界の大立者」の「絶世の美女静子夫人は、」「拉致されてしまう。夫人は一糸も
許されない全裸姿にされ、囚われの身であり奴隷である身分を自覚させられるために縄で
縛り上げられる。このときから、夫人の全裸緊縛姿の生活が始まる。」「運転手の見ている
前で強制的な排尿をやらされる」「そこへ救出の女探偵があらわれ、ふたりは屋敷からの脱出を
はかるが失敗に終わる。全裸にされた夫人と女探偵は、」「緊縛され、塩水をやかん一杯飲まさ
れると立ったまま放尿させられる。」「夫人と女探偵は緊縛姿のまま、女同士の愛撫を強要される。」
映画『花と蛇』は原作者へ敬意をもって石井監督が挑んだ作品であり、石井監督なりに視覚化した
部分として「原作の最後」が描かれていないか。そこから「逆転した過去」を映像化していることが
「パターン化した映画の破壊」へと進んではいないか。
「今は精神病院に入院している元の夫が危篤という知らせが入り、静子夫人は屋敷から必死の逃亡をはかる。
しかし、運転手に発見され、永遠の地獄へ連れ戻されていくのだった」
http://tbrain.hp.infoseek.co.jp/ring/001/001.htm
永遠の地獄というのは、 逃げられない世界というのは、 果てしない回廊というのは、 いったいどんな状態をいうのか。 それが映画『花と蛇』の「地平線」であるのじゃないか。 これはポランスキー『反撥』、ブニュエル『昼顔』、フェリーニ『魂のジュリエッタ』 なんかと同系列の全力投球の「映画」だと思わないか。
石井監督のインタビューで「時間軸を思い切って無視した」というくだりがあって、 それはSMプレイの描き方かと割り切っていたのよ。オルガスムスを描くことなく、 フィードアウトでつないでいき、長期間の監禁を2時間に収めるためのテクニックとしてさ。 石井輝男監督の拷問ものでも同じような手法で「延々と続く責め」を見せているしね。 でも、実はそんな「小さな」仕掛けじゃないんだね。この『花と蛇』は、ある意味 「ものすごいことをしている映画」なんじゃないかな。
この作品への印象を語ったものに多く見られたのが「曖昧さ」だったよね…。 (743)最初から最後まで、全然リアリティないんですが...(876)こんな単調なもの (891)何だか訳は知らないけど、(95)それぞれバラバラになってしまっているようで、 (39)なんか絵空事なんだよね。(17)ぼやけてしまった(18)居心地の悪さを感じた。 (69)根本的に演出意図がヘンじゃないか?不条理な気分だよ。 つまりは(90)妄想と現実の交錯(193)すべてはファンタジー・悪夢なのだ。 こういった反応は「間違っていなかった」んだよね。
(71)夢を楽しむためには、目がさめない程度に辻褄が合っていれば良いのである。 (…)「花と蛇」はそういった夢の世界であり、いつまでも決して完結しない物語で あってくれれば良いのだ。 …それでは、その生贄になった側の「最後」はどうなるのかな? (68)ヒロインに感情移入することも、ヒロインの人間性を追及することもできなかった。 (68)徹底的に突き放した目線で作られている。 「人間性」が失われた杉本彩に感情移入は「元々」できないのは当然の帰結。。
(28)鬼六小説で柱くくりつけは頻出するが、十字架は記憶に無い。宗教的意味合い (「死」「犠牲」につながる)なんか無論なかろう。(27)磔刑に宗教的な意味合いは 無いと思う。 …どう見たって宗教画の磔刑のシーンが導入されたのはなぜ?この『花と蛇』は男側の 妄想の上に立つ「現実」ではなく、静子の「記憶、精神」の上に構築された物語だから じゃないか。静子の救いを求める気持ちが十字架へと結晶化した。「地獄」という暗闇に 立つ十字架、そこで「天」を見上げあえいでいる翼をもがれた「天使」こそ杉本彩じゃないのか。 未向の磔にされた十字架は「右」。キリストと共に磔にされ、恨みの断末魔を上げて 「地獄に落ちた」者として知られている。ここまで石井監督が計算しているとすれば、 (83)の表現のように「冷水を浴び」たような怖さがあるよ。。
ラストカットの杉本彩の視線に何を見るのか。(38)男が「一つになれた」「モノにした」 と思い上がった次の瞬間に、手の届かないところに去っていく女の、拒絶とも受容とも 判別しかねる、しかし、なぜか、この上なく美しく感じられる、そんな視線です。 …「生」を越境するだけが「手の届かないところ」じゃない。 杉本彩に石井監督が渡らせたものは何か、そこまで追い詰めた「地獄」の十数日間「花と蛇」を 映画化するということは「何を描くことで」完成すると考えたのか。。 石井隆という人はホント、傑出した「映画人」だと自分は思うのだが…。。
劇画家石井隆の作品には「群像劇」は多いが、一方で映画化しにくい「一人称の作品」 が連綿と描き続けられている。。常人の理解しづらい、しかし哀切極まる精神の物語だ。 石井監督はその扉を開けた、それは「パンドラの箱を開けた」ということ…。。 そういうことだろう?
>>198 >オルガスムスを描くことなく、
え?オルガスムス、無いの? 延々と続くそれが、「鬼六」じゃないの?
商業的な要請から鬼六『花と蛇』の看板を借りた石井隆映画ってことか。
まぁ、確信犯なら、石井隆は許すが、大量のメディア露出の仕方は、
見る人間の嗜好によっては、サギですな。
多分確信犯なんだろう。なんたって「団鬼六」の名を冠した映画に名美と
村木を登場させた脚本家だからな。
>>204 ここから先は台本の入手でもしないとコメントしづらいです。。
『花と蛇』を解釈し、一枚の大作に仕上げた「画家」石井隆のイメージがあります。
それがブリューゲルのようなタッチにならず、ボッティチェルリのように、というか
石井隆のタッチになったとしても、それはそれで鬼六ファンも楽しめるのではないでしょうか。
『花と蛇』という看板は「借り物ではない」と思っています。。
(190)敬意と誠意を持って描かれていると言える。
(134)映画というのは、結局、監督が表現しようとした世界がどれだけ、その映像により
実際に表現されているか、そしてその表現された世界を、私(観客)が監督と供に楽しむ
ことが出来るかどうか、で作品の評価が決まる。
そろそろ映画館での上映は大詰めです。。DVDの「監督と杉本彩二人の言葉」を含め、
じっくり耳を傾け、見つめ直すのも愉しいかと。。
206 :
名無シネマ@上映中 :04/05/21 18:41 ID:HgkNtxqd
週刊文春に続編の製作が決定したとか書いてあったけれど杉本は助演にまわって 他の女優を主演にした方が興行的にいいんじゃないかな。
207 :
名無シネマ@上映中 :04/05/21 18:52 ID:rzgaM1wx
ここまでのまとめ この映画を非難する奴は浣腸シーンがないことを不満に思ってる
208 :
62歳 :04/05/21 20:53 ID:UD3SPrjw
209 :
95歳 :04/05/21 21:01 ID:XWg6R8kX
探偵事務所の所長の寺島進のリポートによれば、田代老人は95歳。その年齢から性的
能力を軽んじた野村宏伸が杉本彩の「一時的な」借用に応じてしまう、というのが映画の話。
『花と蛇』は[老人]石橋蓮司の杉本彩=静子への執拗な「眼差し」で成立っている…。
ちなみに2003年に95歳ということは明治41年1908年生れということになるね。
その頃生まれた人を調べると、映画、美術関係者では次のような方々が…。鬼籍に入られた
方も多く、95歳という年齢の「重さ」をかんじるなぁ。。田代老人の凄絶な執念、意志を
感じちゃう…。。
[1908年に生まれた人々]伴淳三郎、長谷川一夫、バルテュス、マキノ雅弘、デビッド=リーン、
ヘルベルト=フォン=カラヤン、ジェームズ=スチュワート、東山魁夷 、中村伸郎
[1909年に生まれた人々]ホセ=フェラー、佐分利信、淀川長治、太宰治、マルセル=カルネ 、
エリア=カザン、上原謙、埴谷雄高、松本清張
[1910年に生まれた人々]デビッド=ニーブン、黒澤明、田中友幸、双葉十三郎、
[1911年に生まれた人々]ジョン=スタージェス、森一生、岡本太郎、本多猪四郎
ニーノ=ロータ
http://www.d4.dion.ne.jp/~warapon/data00/year/birth_1908.htm でも、なんで95歳もの老人なんだ?
どうして62歳の石橋蓮司では駄目なんだ?
(82)黒幕の田代一平(石橋蓮司)を卑しい成り上がり者の街金融の社長ではなく、
遠山家以上の権力を持つ大物にしているところにも鬼六的世界との訣別が示されていた
ように思う。 …ホントに「訣別」するつもりだったのかな?
210 :
50才 :04/05/21 21:03 ID:XWg6R8kX
田代一平(50才)実業家。森田組のスポンサー。
「花と蛇」の連載開始 「花と蛇」は当初奇ク昭和37年8・9月合併号、同11月号
および12月号に3回にわたって掲載された。その後翌38年7月号から正式に連載が
開始され、昭和39年9月号で前編が終了した。そして1号置いた同11月号から続編の
連載が開始され、実に昭和46年11月号まで前編15回、続編78回の実に合計93回、
足掛け11年にわたる長期連載となった。
第一日(昭和三十七年九月二十日)静子夫人、六本木の山崎探偵事務所へ向かう。
同日十七時二十分 静子夫人は日本橋三越前で四人のズベ公に誘拐される。
http://tanbi.kir.jp/hanasekai/Hana_chara.html (既出「花と蛇」の世界 必読)
昭和37年に50歳であった田代一平が現在まで生きていたら、2003年には91歳になる。 昭和37年に静子を拉致した者の一人、田代一平にとって、20日以上に渡るその「静子との日々」 は至福の時ではなかったか。彼らがどのようにして散っていったのか、どのように生きていったのか、 「千代は完全に狂われてしまったようだ」が、他の者たちはどうだったのかな。。 未完の長編『花と蛇』を映画化するにあたり、「昭和37年の監禁事件の当事者たちが現在生きていたら」 ということに想像を巡らすことは作劇上「当然」の経緯ではなかったか。。
(204)延々と続くそれが、「鬼六」じゃないの? もしも昭和37年の小説世界の「延長」として「田代一平という老人」が造形されて いるとすれば、(杉本彩の実年齢こそ小説の静子とは差が開いてしまっているが、そこはネw) 異様に設定上「浮いた」彼の年齢も「物語の核心」となって輝いてこないか。 石井作品の中にも老人は登場するが、95歳という異常なものは目にしたことがない。。 しかし、40年以上に渡って「愛した女を慕い続ける男」であれば、 それは石井監督の描くファム・ファタールの世界じゃないか、 実にすんなりと納得出来はしないか。 延々と続くそれが、「花と蛇」であれば、未完の作品であれば尚更、このような 『映画』に結実させるのが石井監督の胸に秘めた使命であり、 先輩鬼六への自分なりの恩返しではなかったか。。
石井監督のインタビューもSM描写への質問に偏り、東映ビデオの戦術もあってか、 何の後ろ盾のないカタリンでしかない。全ておまえの『妄想』だよ、と言われてしまえば それまでだが、そのように見て取れば石橋蓮司の眼差し、無謀な歩み、死に物狂いの性交、 遠藤憲一を息も絶え絶えで止めようとする腕の動き、それらは皆、涙に濡れて見えてはこないか。 ゴジラを呑み込むビオランテのようにのたうち回り、「精神」の境界と「生命」の境界を 越えようとする男と女の極限の愛が、「血みどろの愛」が見えてはこないか。 杉本彩の『見えない愛』とはこのことではなかったか。。。 やはり『花と蛇』という看板は「借り物どころではない」のではないか。。 あまりの底無しの仕掛けに、自分は少々怖くなってきました。。
[ 夢オチじゃない。 ] 「いろんな映画的仕掛けは巡らしましたが、夢オチじゃない。夢ではなく、 過去が現実になっていて、一か所だけ現実が顔を出す。今回の映画は、 言葉で物語るドラマを極力廃した点、そして時間軸を無視した点でも 敢えて映画の文法から逸脱してみた。(…)たとえ文法から外れていても、 それを気付かせないで見終えるくらいのアメージングな世界。 映画少年だった僕の体験から言えば、映画の嘘として、それは有効だと思うし。」 石井隆監督インタビュー キネマ旬報3月下旬号 インタビュアー北川れい子氏
589 名前: 名無シネマ@上映中 04/03/10 21:40 ID:wtvgVTJL 杉本彩は素敵だ。拍手喝采。こら、皆も拍手せんか! キレイ綺麗な「タワーリング・インフェルノ」のフェイ・ダナウェイじゃなく、 同じ洋物で例えるなら…(うわっ、歳がばれる) 鼻の穴広げて歯を食いしばる「エアポート75」のカレン・ブラックだから。 嘔吐寸前の土俵際で踊ってみせた「ポぜッション」のイザベル・アジャーニだから。 「美醜」への執着を捨てて、裸一貫で演じ切った姿には「男義」さえ感じる。 杉本彩以外で、「花蛇」のパフォーマンスに応じられた女優が日本にいるかなぁ。 この露出に耐えられた俳優っているかなぁ。 AVの「ホフク前進」とはフィールドが違うわけでしょ、映画って。 1年前の彼女との段差を想え。こんな「バンジージャンプ」見たことない。 奥歯を抜きまくって演技に猛進した松田優作を想い出すよ。 藤竜也と殿山泰司の「愛のコリーダ」を思い出すよ。 590 名前: 名無シネマ@上映中 04/03/10 21:53 ID:jeaLWrkY >589 自己陶酔の知障は氏ね
610 名前: 自己陶酔の知障は氏ね 04/03/12 11:50 ID:H/60B45h この映画はさ、「杉本彩」の「満々のやる気」を試してさ、 その「やる気」が天井抜けちゃってるとこを見せたいのよ。 「女ってスゴイや、男はかなわないや…」っていうこれまで同様の石井隆作品の底流である「女への畏敬」を 「杉本彩」の肉体と精神を借りて実証するものだな。 「写生を許さない、求めない極北のSM」とクロスして、我々男にショックを与えこそすれ、 単純な性欲処理の道具には甘んじない「覚悟」「目線の高さ」を感じるよ。 611 名前: 自己陶酔の知障は氏ね 04/03/12 11:52 ID:H/60B45h 「死んでもいい」大竹しのぶ、「夜がまた来る」夏川結衣、 「GONIN2」喜多嶋舞、「赤い閃光」川上麻衣子、 「フリーズ・ミー」井上晴美、「黒の天使2」天海祐希…。 石井隆という作家とその作品に身も心も託し、「満々のやる気」を見せつけ、 飛翔していく「女」たち。その凄みにひれ伏す「男」たち、(観客たち)…。 真正SMに似た「凄み」が石井作品にはある。
612 名前: 自己陶酔の知障は氏ね 04/03/12 11:53 ID:H/60B45h 石井隆の昔の劇画に中に「SM」雑誌のグラビアに肌をさらす「女」の子が 出てくる。荒縄に縛られ、宙空に浮く「女」の子に 「どうして君みたいな娘が…」と「男」は問いかける。 「女」の子は「羽ばたきたい」と答える。 「杉本彩」の「羽ばたき」が聞こえないか。 613 名前: 自己陶酔の知障は氏ね 04/03/12 11:54 ID:H/60B45h 杉本彩の年齢からすれば、肉体的な折り返し点に来ていることは自ら百も承知だろう。 「生き馬の目を抜く」冷酷非情な芸能界で、そこを「突き抜け」なにくそッ、と 「さらなる飛翔を目指す」その踏ん張りには「人間」として尊敬の念すら感じちゃうな。 俺には杉本彩並みの「度胸」はないよ。「勇気」はないよ。 614 名前: 自己陶酔の知障は氏ね 04/03/12 11:56 ID:H/60B45h 「おっぱい」チラリじゃない。「濡れ場」なんてもんじゃない。 フェリーニ「女の都」に匹敵する映像スペクタクル! 杉本彩の「満々のやる気」よ、 「堂々たる」肉体よ「羽ばたき」の強さよ。 落ちんなよ。 負けんなよ。
663 名前: 名無シネマ@上映中 04/03/14 12:34 ID:zkl2PPVN >661 常連の石井組が出ていないというのは、 「団鬼六の世界」を確立したいと願った石井監督の「配慮」だと思われ。 「東京GP」の特集記事がBURSTに載ってましたが、そこでの裏話 では「(…)最初は、プロの役者を絶対に呼ばないって話しだったのに、 (…)「誰々が警察に連れていかれました」とかいって、(…)「ハイ、ハイ」って 鶴見クンとか伊藤クンに電話して、(…)無理言って出演してもらったけど(…)」 との石井監督のインタビューがあります。声がかかれば、出てやろうじゃん、 っていう「石井監督への絆の強さ」がにじみ出る話ですよね。 石井色を排除しても団鬼六のファンを念頭に入れた「リアル」なドラマを創ろうとしたと 想像しますが、どうでしょ。 また、伊藤洋三郎をスピンオフで残すことで東京GPで確立した「異次元性」を保とうと した、ということと、なんといっても捨て身の「杉本彩」をコントラスト強め、 クッキリと浮き上がらせる「思い」が感じられるのですが。 だってさ、竹中直人や、余貴美子、根津甚八、椎名桔平とか 片岡礼子や鶴見辰吾、 彼らがカメオしちゃったら、杉本彩を食いかねないじゃん。 664 名前: 名無シネマ@上映中 04/03/14 14:56 ID:0lcpq1oC >663 お前、以前までは“自己陶酔の知障は氏ね”とかいう いかれたハンドルで、ダラダラと石井論を投稿していたアホだろ? 文体が同じだわ。 語りたいのは判るが、延々と長文でウザいよ。 無料日記用サイトでも借りて、ここにリンク貼る位で勘弁してくれや。 665 名前: 名無シネマ@上映中 04/03/14 16:06 ID:5CwtoDJY >664 まったく同意だ。 マジでうざいぞ。
674 名前: 自己陶酔の知障は氏ね 04/03/14 20:06 ID:eLJvx/OI >664 >665 「自己陶酔の知障は氏ね」ってのはお仲間から頂戴した言葉でな、 好きで名乗ったんじゃねえよ。 「なんか映画に全く関係ないスレになってるな。 そろそろ軌道修正したほうがいいんじゃないかな」とか 「ションベンだの、変態連中の集まるスレはここですか・・。」 なんて書かれてやがって、団と石井両先生に面目ないだろ。ホント申し訳ないよ、俺は。 映画版にふさわしい「映画」の話題に修正し、団文学のファン層を 厚く、広くしちゃろう、ぐらい思わないのかよ。 小沼勝の「名前」がせいぜいじゃんか。「古都曼荼羅」や「責める!」には 及ばないとか、目からウロコのSM論で「初心者」を折伏してみろよ。 この映画は団先生を盛り上げ、新たな読者層を開拓するためのプロジェクトだろ。 足引っ張ってばかりでどうすんのよ。 >669 ってことで、色々レクチャー受けようと思ったけど、もうこのスレ来ないし、開かんので、 さよならな。親切にありがとな。
>もうこのスレ来ないし、開かんので、さよならな。 …と言ったはずなのに、まだスレには粘着していたのであった。 965 名前: 名無シネマ@上映中 04/04/15 21:03 ID:IhG2ULtO >964 「花と蛇」はな、俺らの金を吸い尽くそうと企画された「偽」SM映画だ。 批評されて引き回すのは俺らの役目だ。最期の死に水をとってやるよ。 マンセー野郎は誰も賞賛せんしな。相手になってやるから、どこがどう良いのか、 書き込んでみさらせ。え、屁理屈だらけのお偉い映画版の住民さんよ。 原作の持つ底無しのイリュージョンの片鱗すらあらへん。 もう直ぐ終了ぜ。石井信者のハゲ、ダンマリ決めてウツムイテ歩けや。 出ていけ、なんて軽く言うなよ。映画「花と蛇」がSM映画と宣伝し続けた以上、 俺らを無視してのスレはインチキだからな。もっとも映画が映画だからな。 マンセー野郎もインチキがお似合いだ。 こんなのSMとは言わん。誰も誉めん、誰も批評書かんから、まともな映画とは言えん。 「何ものでもない、得体の知れんもの」を作りやがった、ということだ。 SM映画とは言えんから「SM版」で論ずるのは間違い。だからここで書き込んでいる。 おまえの意見を言えや。 -------------------------------------------------------------------- あいかわらずキレやすく、映画板を映画版というクセは変わらずバレバレ。
997 名前: 名無シネマ@上映中 04/04/17 18:44 ID:mQceivgy 石井ファンの諸君、よく切れないで書き込んだな。皆、エライ! 石井監督の次回作着手も間もなくであろうから、その時には、 SMのカタレンを抜きにして語りたいものじゃのう。 「花と蛇2」では元の木阿弥であろうがのう。 映画板のノーマルなみなさん、愚劣なSMマニアが映画板を荒らして、 誠に申し訳ありませんでした。 途中、彼らに擬態して「遊んで」しまいました際に呼び捨てなどしましたが、 石井監督、杉本彩さんには心底頭をたれ、その意気に対し感涙を惜しみません。 失礼しました。今後ともインパクトのある作品を作っていってください。 尚これ以降の書き込みは致しません。多分、バカが文章コピペするでしょうが。 小便、浣腸のSMの諸君、「花と蛇」その2を立ち上げて、大いに生き恥をさらしたまえ。 時々、遊びに行ってあげよう。鬼六がガッカリするような書き込みするなよ。 SMは本来、日本の庭園技術の延長にある「美しく、世界に誇れるべき」伝統芸だと思うぜ。 もっとしっかり語れや。「性」に対する求道は毅然として、歩めや。 狂鬼天翔 鬼 コイツノイナイ世界ハ サミシイ ------------------------------------------------------------------- >尚これ以降の書き込みは致しません と再度断言したものの、このスレを立てていますね。自作自演もしていますね。
ちなみに同じIDのまま、煽りもやっていますね。 996 名前: 名無シネマ@上映中 04/04/17 18:41 ID:mQceivgy ま だ 生 き て い る の か。 こ の ク ソ 袋。 お ん な な ん て み ん な ク ソ 袋 だ あ、 行 く な あ、 名 美 っ! ああ、めでたく終わりだな。楽しかった。 おまえらには感服した。スレタイに名前ないから「監督の話題も駄目」ときたか。 目からウロコのSM論で「初心者」を折伏してみろよって言ってやったのに、 最後の最後まで浣腸の話だもんな。俺は本当に「SMの魂」に触れてみたかったんだぜ。 そうやって話を向けてやったろ。「アイズ」と「花と蛇」の比較論ぐらいしろよ。 俺はカタリンだが、おまえらカタレンじゃん。 俺はこのスレ、最初から嫌いだったのよ。安河内氏、安川氏の話も出ない、 石井ファンの話題修正の声や心情無視して、下劣な落書き続けやがって。噴飯もんだぜ。 >996 名前: 名無シネマ@上映中 04/04/17 18:41 ID:mQceivgy >997 名前: 名無シネマ@上映中 04/04/17 18:44 ID:mQceivgy 最低な奴ですね。嘘つきで短気で、自分本位なバカですね。
確かに「最低な奴」なんだと思うよ、自分でも…。 前スレの「短気で、自分本位なバカ」な発言は本当に恥ずかしい。。ごめんなさい。 重ねてお詫びします。短気は性分で、ホント損だね。反省してます。 「粘着気質」も否定出来ないし、救いようのない馬鹿野郎だね、まったく…。 215−218については気持ちは変わらないし、嘘はないよ。 イザベル・アジャーニと同じ土俵にのったのじゃないか、との感慨もさらに 深くなるばかり。。219以下は穴があったら入りたい気持ちだけどね…。 このスレ「引用に次ぐ引用」で、皆あきれていると思うけど、「つまらない」 「面白くない」といったレベルでなく、「突き詰めた批評」を抽出してみると、 見比べて見て面白くないかい?目線の違いでこんなに陰影が変わるのか、と 不思議に思えたがなぁ。ちょっと茶々入れてくれる人がいて、そこから深読みを 進めて思いのほか視界がひらけたり、目障りだったと思うけど、「自分本位」では とても役に立ちました。 鬼六読者も見てるかもしれない、そう思えばこそ団の著作も読み進めてきたし、 さらには上にひも解いてきたSMの解説ページものめり込んで見てきた。それが映画 『花と蛇』という鉱山を掘り進めるためには、もの凄く有効だったと思う。。 このスレを立てなければ自分こそ単なる石井マンセーで終わっていた。。 「死んでもいい」や「ヌードの夜」には及ばないとか、「黒の天使」の方がいい、 なんていう単純な感想にとどまってしまったろうな。。 日本中に「怒り」を撒き散らした迷惑スレだったと思うけど、上で「妄想」した 以上の「作家石井隆」のめぐらした「仕掛け」がまだまだ隠れていると想われるので、 いっしょに探してくれませんか。。
ちなみに発売中の週刊現代 5/29号『花と蛇』禁じられたウラ写真 は撮影中の スナップが主体で、刺青メイク中の写真なんかも入っています。。ホームページ には「更新予告」が無くなっておりますので、もしかしたらこの手の写真は ネットでは見れないかも…。。 映画好きで裏方っぽい写真が好きな人はチェックのほどを…。。
前スレが荒れだしてから見なくなっていた自分にとっては
>>215-222 の引用はどうでもいい。
それに、読みにくくて、目を通す気にもなれない。
それに、こんな匿名チャネルで、「1」という個人のことなど、
どーでもいい。
執念深く叩く香具師も、いちいち反応する方も、スレ読みにくく
するだけだから、迷惑なんだな、大体ROMで、気が向いたとき
ちょっとカキコする程度の一般人にとっては。
>>179 図書館に出向き見てまいりました。(新潮社全集と研究書十数冊があり、団鬼六は随想
の類いまで一冊もない有り様。)もっとも1頁ごと目線を走らす時間もなく、見逃しが
ないとは限りません。。
全集昭和30年代批評、手紙、研究書の中には三島=団のラインは見当たりません。バタ
イユ、サド、澁澤への連結のみ。ただ一冊、板坂剛氏「真説 謎の原郷 三島由起夫」
夏目書房 1998年8月20日初版の中に「三島は『花と蛇』について語っていない」という
書かれ方が。
「まさに日本の文化のことごとくは「花と蛇」に集約されるのである。
(…)絶賛していた(…)『家畜人ヤプー』と同時期に同じ雑誌に掲載されていた『花と
蛇』にも眼を通していたとして、いやらしいまでに学術的な『家畜人ヤプー』に注目しな
がら、下品に徹した『花と蛇』を無視したところも三島らしいと言えば三島らしいが、
(…)何も感じなかったのだろうか。あるいは感じていて眼をそむけていたのか。(…)」
FRIDAY6月4日号「杉本彩エロスで恋人同士に大流行中!SMの快楽」 『花と蛇』に関しては基本4点セットの写真(刺青磔、全裸ワルツ、花魁宙吊り、 バレリーナピエロと宙吊り)のみで、文中でも特に触れられず。。
表現者たちは日々精進しているようです。わたしのような凡人には想像する事すら困難で
す。女優の杉本綾は映画「花と蛇」の中で本物のSMプレイを実践している。超過激な体当
たりの演技をしている。すべて吹き替え無しの本物志向で。彼女の言葉をかりれば「裸は
わたしの戦闘服」だそうだ。表現者としてどんな些細なことにも妥協を許さない姿勢は
さすが女優である。その昔、自分の健康な歯をすべて抜いて総入れ歯にした女優がいました。
その人の名は田中絹代といいました。たかが一本の映画の為にそこまでするのかと驚かされ
ました。きっと、表現するということはそこまでの覚悟がないと本物にはならないものなのですね。
http://www.geocities.jp/jtcjp962/diary/diary04.htm
もうのっけからサービス満点な感じである。(…)誘拐されてからがこの映画の本番である。
(…)ここがもう一歩なのだ。彼女の転落にいたる企みはしっかり描かれているが、調教が
わたしにはもの足りない。本職の「縛り」は美しいし、静子を演じる杉本彩はエロい声を出す
のだけれど、いつ終わるとも知れない退屈な感じがほしかった。(…)SMショーの司会(伊藤
洋三郎)は看護婦だったりバレリーナだったり、いちいち女装して出てくるのであった。この
司会の人がもうたまらなくいい。静子を言葉責めにして観客を楽しませる。こういういかがわ
しい人になりたい。
すっかりでき上がった静子を、歩くこともままならぬ田代が抱くことでこの長い誘拐事件は
終わる。静子はすっかりでき上がったおかげで建物から出ることができたのだが、それ以後も
夢と覚醒の別がつかないままだ。ビルの屋上で旦那と踊りはじめたところで、これだから
俗っぽい映画は困る、なんて意地の悪い感想を漏らしたものだった。ところがところが。
もう、彼女は夢の世界で踊り続けるしかないのだと知った。
あと、マネージャー兼ボディガードの京子(未向(みさき))がまたいい。これがまたかわいいの。
この京子たんが実は静子のことが好きだったっていうのはどういうことかー。
(…)ホンマ、ええモンを観た。
http://www11.big.or.jp/~azumasan/urapage/diary/2004/03.shtml
>このスレ「引用に次ぐ引用」で、皆あきれている >このスレ「引用に次ぐ引用」で、皆あきれている >このスレ「引用に次ぐ引用」で、皆あきれている たのむから自分でレンタル日記用サイトでも立ち上げて、そこで連載や転載をやってくれ。 お前が粘着しているスレには書く気がしない。非常に萎える。通して1から見てみれ。 8割以上がひとりによる転載記事の羅列だ。
気にいらなきゃ無視してりゃいいじゃん。 ひとりによる転載記事の羅列がいやなら、自分の見解書きゃ いいじゃん。 俺はたまに覗いて、たまにカキコして、それなりに楽しんでるよ。 読みづらい引用は適当に読み飛ばしてね。 自治会気取りでスレ進行への文句だけカキコする香具師が 一番うぜぇ。 そういう、馬鹿を自覚しない馬鹿(てめぇでは利口だぐらいに思って やがる)が生理的にイヤだね。
232 :
231 :04/05/24 23:41 ID:h7MrjL9O
233 :
231 :04/05/25 01:02 ID:VglnmBuL
あ、
>>204 も俺だ。文章メチャクチャだな。
俺、歳いくつだっけ。。。
まぁ、95歳じゃないことは確かだ。
俺は230ではないが、正直ここの1が別ソースから拾ってきたものをベタベタ貼って
ほとんど私物化したスレには、何も書く気がしないというのは同感だ。
さらに
>>321 みたいに反対意見をすべてひっくるめて
>自治会気取りでスレ進行への文句だけカキコ
と切り捨てるバカもかなりウザい。「退場します」といって退場せず、自分がバカであることに気付きもしないで
反対派の意見をバカ呼ばわりとは片腹痛いよ。「もう来ない」と言った後も
数ヶ月このスレに粘着している1と同じ。周囲が引いているのに気が付かないか??
もともと旧スレが荒れてしまったのは、ここの1が
>え、屁理屈だらけのお偉い映画版の住民さんよ。
とか口汚く悪態を付いたり(つまり自分はもともと「映画板の住民」ではないわけだろ?)
迷惑がっている人がいるのに長文連投をやめなかったせいじゃないか。
荒らしやその擁護派がとやかく偉そうな講釈たれるなよバーカ。
そんなに怒んないでくれよ。謝ります、ごめんなさい。反省してるよ、許してよ。 遠藤憲一ってさ、最近まで誤解してたんだけど根は真面目な役者さんみたいだね。 (『花と蛇』の参考にしようかと)小沼 勝監督の「女はバス停で服を着替えた」を 観たんだよね。。(ホントは題名に吊られてさ観ちゃったんだけどさw) 実際は町おこし映画でさ、なんかスゴク地味な話なわけね。 そこで黙々と真っ白になりながら蕎麦打ちする姿がさ、「落ち着いた」感じでね、 「キレやすい」馬鹿な自分には勉強になっちゃいました。。 劇団フジ、無名塾を経て今に至るか…。1961年生まれ、183cm? 小柄に見えるね。。
>>235 いつも「自分で無料サイトでも借りてそこでやれば」という意見を
故意にスルーしている理由は? もう数ヶ月間充分語っただろうから
そろそろ消えて欲しいんだけど・・・。
231さんみたいな人が「ヒント」くれるからだよ。。 貴方も『花と蛇』について、もっと教えてよ。まだ突き詰めてない気がするのよ。 お願いします。。
>>204 今ごろ…また怒られるのかな?(長いしw)
「オルガスムスを描かない」でフィードアウトでつなぐ手法は石井輝男監督の『徳川女
刑罰史(1968)』の後半で多用されていました。官能小説のテーゼを無視したカット割に
不満と疑問が噴出し、それでは「鬼六『花と蛇』の看板を借りた」と言いたくもなりま
すよね。。でも、自分としては「吹雪舞う中の空中開脚緊縛花魁」「緋牡丹刺青荒縄縛り」
ですぐに連想しちゃったのは『東映』であり『新東宝』だったんですよね。。『東映』の
後ろに『ビデオ』は付きますが、『東映』の看板を背負った作品を作る以上、石井監督は
「にっかつカラー」ではなく「東映カラー」について想いを巡らしたりしたんじゃないか。。
(144)はその辺りを感じて<SM映画も東映が作るとこうなるのか>と唸っちゃっている
ようで、相当の邦画通なんじゃないかな。。
(4)で653さんが「日活ロマンポルノのSMモノなどは、(…)近年はほとんどその血脈は
途絶えてしまった」と書かれてますが、「拷問、緊縛もの」という「血脈」は「完全に」断た
れてます。(「暴論」かもしれませんが、サド、マゾッホからの血筋は邦画において絶えた状
態です。)そのような「空白」の若い世代は『花と蛇』を観て「訳わからん」状態になってし
まうか、「すげー斬新」ととるか分裂しちゃった気がするのです。。前スレでリポートあった
ように劇場に詰めかけた50代、60代の世代は『花と蛇』をどのように受け止めたか、聞いてみ
たいな。。「現代」「ポスト」「アサヒ芸能」を「宣伝」の媒体に選んだ「理由」も合わせて
考えてみれば、いくら議論を重ねても正体は?めない「ある世代のための映画」なのかもしれ
ませんね。。
5行以内にまとめることはできないのか…。
240 :
231 :04/05/25 23:07 ID:VglnmBuL
>>234 だーかーらー、反対「意見」なら文句言わないよ、「意見」ならね。
「論」が含まれてなきゃ「意見」にはならないの。
241 :
231 :04/05/25 23:29 ID:VglnmBuL
>>234 >「退場します」といって退場せず、
これは、その通り。
>>232 で俺自身が書いてる「変節」の一つだな。
重ねてのご指摘ありがとう。
>自分がバカであることに気付きもしないで
>反対派の意見をバカ呼ばわりとは片腹痛いよ。
そこで、俺のバカな部分(あるはずだ。本人が気付いてないところが、
絶対に)を、きちんと指摘してくれれば、それは「意見」だよ。
傾聴する。
つーか、もう来ないだの退場するだのと公言した自分の発言を易々撤回する輩などには マジレスや議論の余地はないと思うんだよね。ポリシーのない人間が論ではなく意見を述べろとは 何を言っているのか。>1も>231も2ちゃんで議論ごっこがしたくて よその掲示板に行かないだけやろ?
「(92)近年稀に見る企画と宣伝のうまくいった日本映画。」「(133)パブリシティーが
十分に行き渡れば、成人映画もまだまだ稼げる。」…PRの乱れ撃ちについては(58)(59)
にも書き込みましたが、(204)「大量のメディア露出の仕方は、見る人間の嗜好によっては、
サギ」同然のスレスレ(というか上手というか…)ではありましたね。。。角川映画、荒戸
「ツィゴイネルワイゼン」以来の久々のヒットかと…。
業界の詳しい人いたら教えて欲しーい。写真集、映画関連グラビアは「広告」なの?「記事」
なの?その場合、どのくらいお金を出すものなの?社団法人 日本雑誌広告協会が発行してい
る「2000年 雑誌広告掲載料金表」によれば、記事中1P(モノクロでも)少年ジャンプ
1,400,000円 少年マガジン900,000円とのこと。
http://deroguro.main.jp/new/omake/omake5/05.html [袋とじ8P]みたいなのが主流の『花と蛇』のPR、いったいどのくらいお金をかけたのかな。
「持ちつもたれつ」で無料なんてことはあるのかな?
>>242 違うよ。映画『花と蛇』について「深く」知りたい、考えたいだけだよ。。
242さんも何か書き込んでよ。。お願いします。。貴方も『花と蛇』について何か
言い足りない、訳のわからないものを感じているからsage進行のここに立ち寄って
いるわけでしょう?どこまで掘れるかわかりませんが、いっしょにやろうよぉ。
>>235 そんなエンケンファンのお前なら、ぜひとも「ババアゾーン」も見てくれ。
マジ笑える。
>>238 おいらは23歳だし、そんな深く考えていないけどね。
今回の『花と蛇』もそう悪いものとも思えないしね。
ただ、静子夫人に杉本彩というのは会わなかった気がする。
以前、このスレに終盤、全裸に死んだエンケンかレンジの背広をまとい、拳銃を片手に
夜の非常階段を緊張しながら歩く杉本彩がかっこよくて興奮したって書いたんだ
けど、これこそ杉本彩の本来のヒロイン像だと思うの。
>>238 さんの引用した
本来のSMとは反りが合わない。どっちかつうと、(おいらは見てないんだけど)
片岡監督とか渡辺護監督とかがやってた「闘争アクションとしてのSM」の方が
会うと思うんだよね。ヒロインが緊縛され堕ち(wながらも戦うというような。
官能小説だと由紀かほるとか……この人のは「闘争」っていうのは無いんだけど、
ヒロイン像というのは杉本彩に良く似合ってるのが多い上に、石井監督のカラー
とも若干、似てるような気がする。
247 :
231 :04/05/26 23:37 ID:CDr2k8Uj
>>242 君が、内容でなく、会話進行の手続きにしか感性を持たない、
ただの子供であることは良く分かった。
もう、無益なこと(君の相手)はやめるよ。
242はマジレスや議論しないのではなく、できないのだ。
>>245 ファンというほど熱烈ではないけれど「真摯なもの」を感じる。。「ババアゾーン」見るよ。。
>>246 「闘争アクションとしてのSM」って好い言い回し。。「花と蛇」出演の打診後杉本彩から
石井隆の逆指名があって、そこで「間」が空いたのは「闘争アクションとしてのSM」が石井監督
の「持ち味」だと製作サイドで気がつけばこそでしょうね。以前、劇画の話を持ち出して叱られち
ゃった経緯があるので、なかなか書き込めませんでしたが、『花と蛇』のビジョンは劇画『黒の天
使』の中盤に重なる部分が多い。。松竹でのシリーズは頓挫したが、石井監督の中で熟成を重ねた
ビジョンが『花と蛇』で「有機的に結合された」ことは石井ファンならピンと来るはず。。
「これこそ杉本彩の本来のヒロイン像」は偶然の産物ではないと思われ。。
映画作家の執念、踏ん張りって凄まじいね。
アサヒ芸能 6.3号 松坂慶子今度は「熟女ハードSM」! 『花と蛇2』脚本段階で話せない。もうちょっと待ってくれ。(松田仁プロデューサー)
253 :
名無シネマ@上映中 :04/05/28 23:36 ID:u1uocqUi
途中でもろに乳首勃ってたね でも石橋の爺さんにしゃぶられてるときは、普段の縮こまり気味の乳首の ままだったから、やっぱりさすがに嫌だったのかな?
254 :
名無シネマ@上映中 :04/06/03 23:47 ID:i0e5lrul
この映画おかずとして使えますか?鬼六も杉本も好きなんですが
255 :
名無シネマ@上映中 :04/06/03 23:50 ID:+BHTsZTP
>>254 鬼六ファンには微妙な出来かもしれないが、
杉本彩が好きならオススメ。たっぷり楽しめる。
256 :
名無シネマ@上映中 :04/06/04 16:43 ID:djY5QJwx
新品の注射針と注射器売ってるサイト見つけました。わたしも注文してみましたがすぐに送ってきましたよ!<BR><a href="
http://www.777tb.com/ "><font size=6> 通販番長</font> </a> <BR>
>>254 杉本が苦手でも、未向タンだけでもかなりハァハァできる。
T162p、B93(60-Fcup)、W59、H90p。S23p。
血液型A型。5才から劇団に入り、TV、舞台、ミュージカルと地道な活動を続け、
人気Vシネマ「くの一シリーズ」で主演デビュー。パーフェクトな肉体と実力を
兼ね備えた新女優!!趣味:サックス、ビリヤード、釣り 特技:モダンバレエ、
ジャズ、ダンス、日舞、タップ、声楽、パントマイム、殺陣、シャンソン
写真を撮影したのが彼氏とあって、実生活が浮き彫りとなっております。
少しずつ撮る側も撮られる側も大胆になっていくのが解ります。
全てポラロイド写真ってのもイイ感じです。
そしてぼかしが入っているような写真もあります。あ〜淫靡な香りがする。
未向写真集 LOVE POLA MISAKI 愛の記録 Photographs by ♂(恋人) ぶんか社
http://www.atc.ne.jp/seikindo/pic/lovepola.htm (おまけ)
私は、杉本彩の活躍と成功を素直に喜べます。
ずっと、彼女の活躍が気になっていました。
それは数年前の話です。
http://yabou.blog.ocn.ne.jp/yabou/2004/05/_.html 二人とも苦労人よのう。。
>>246 「「闘争アクションとしてのSM」=劇画『黒の天使』。。
この作品はやっぱり面白い。女殺し屋の群像劇の中にほとばしる冷たい暴力は、
濃厚な時代の匂いを越えて突き刺さるパワーがある。そこにはラブ&ピースなんて
主張は入る透き間も無い。
http://www.textlife.net/TEXT/kurono.htm 「どうまさったんですか その声 入っていいですか」
「失礼します!! ああ!先生!?」(倶楽部・黒天使)
「今こんなビデオが米国の金持ちの間で出回っているのよ」
「メイド・イン・ジャパン ショーグンポルノと言ってね………
一本5万ドル ただのポルノじゃないわけ…… それが……」
「人間がただの肉になって行くのを散々見てるあんたも顔を背けたわね
あらゆる快楽に飽きた金持ち達が 今一番欲しがっているポルノがこれ」
「女なかせのあんた(緊縛師)なら 傷一つ残さずに吐かせるんだろ?」
「もう6階位上がっているのに 出口がないよ この階段!」
「だから言ったろ?その黒幕はね 箱根の山奥の広大な地で 核戦争にも
生き伸びれるだけの地下壕と私設の軍隊に護られて余興に殺人ポルノを楽しん
でるんだとサ」「目的が果たせたとしてもよ その箱根の山奥からどうやって
脱出するのよ…」「見なよ光りだ!いよいよ出口らしいよ」
「ここが箱根の山奥?」「東京のド真ン中じゃないか!」
(ブラック・ストリッパー)
やがて、操られることに飽きた魔世は、最後のエクスタシーを求めるかのように
「黒天使」の背後にある巨大組織に牙を剥く。迫り来る暗殺者たちと闘いながら、
傷だらけの天使は修羅場の彼方に走り去る。
http://www.comicpark.net/okuda040326.asp 御殿場、箱根方面にある廃墟へとたどり着くクライマックス。そこは元「映画スタジオ」。。
「このSM文学の金字塔に、生意気だけど俗に言われる“石井ワールド”をどう有機的に
コラボレートさせるか、半端じゃなく慎重になったのは事実です。」
『映画秘宝』4月号石井監督インタビュー
「魔夜」の容貌とキャラクター、相棒の「絵夢」の無垢で体育系のイメージは、杉本彩と
未向そのままなんだ。。入手出来たら読んでみて。(上の「ブラックストリッパー」は
「まんだらけ出版」のほうには載ってません。古い方を探してね。)
261 :
名無シネマ@上映中 :04/06/05 22:12 ID:qQAx1M8T
「花と蛇2」は、緊縛写真集を出したことのあるマゾ女優の、とよた真帆主演との噂があるが本当?
262 :
名無シネマ@上映中 :04/06/06 08:42 ID:36nch4Gg
藤原紀香を推薦します。
263 :
名無シネマ@上映中 :04/06/07 13:31 ID:uC1AtkW4
2をやるなら1以上の過激さが無ければ不評決定になるけど あれ以上のエロ描写に耐えられてなおかつ、見る方も許せる女優って どのくらいいるかな? この場合AV系はすべてボツだし・・・ ↓ 提案どうぞ
264 :
名無シネマ@上映中 :04/06/07 16:40 ID:h1pamG6j
2は麻生久美子主演で、最初から最後まで徹底的に浣腸責めのオンパレードがいいな。
265 :
名無シネマ@上映中 :04/06/07 17:30 ID:oE/20BWu
266 :
名無シネマ@上映中 :04/06/07 19:18 ID:TUXUvJtq
麻生久美子いいね〜〜
267 :
名無シネマ@上映中 :04/06/07 21:27 ID:vqK9wzoW
光裏さんを推薦します。
268 :
名無シネマ@上映中 :04/06/07 22:11 ID:Fx6W0/dc
藤原紀香は堕ち頃だし、やや現実離れしてるとこが、静子役には 向いてるかもな。 麻生久美子は、『肉体の賭け』の姉役とかの方がが向いてそうじゃ ないかい?
270 :
名無シネマ@上映中 :04/06/08 18:37 ID:JUeacc1I
>>264 麻生久美子たんはウンチしないので、浣腸プレイは無理です。
んじゃ市川美和子でFA
272 :
名無シネマ@上映中 :04/06/09 14:49 ID:2I9F2/BZ
川上麻衣子じゃ年イキすぎ? 若い頃はあんなエロい顔した女はいないって思ってたけどな
274 :
名無シネマ@上映中 :04/06/09 22:33 ID:f6p7psJY
やはりなんと言っても そがさんと、まさこさま。
276 :
名無シネマ@上映中 :04/06/10 13:44 ID:0Ch13WAz
でも話題性で売りたかったら藤原紀香しかないだろうな ところで2ってなると原作との関係はどうなるの?
277 :
名無シネマ@上映中 :04/06/10 14:16 ID:dBAMZqTQ
>>277 浣腸でドロドロの出すのではなく、鼻の穴全開にして、
太いのを自力排泄する紀香の汗まみれの顔なら、
どうよ。
え?紀香って鼻の穴からウンコ出すの?
はなくそか
281 :
名無シネマ@上映中 :04/06/13 21:55 ID:sNoZMthn
レンタル借りれなかった
282 :
名無シネマ@上映中 :04/06/14 01:26 ID:NcnXo6v7
花と蛇ゲーム化だそうで・・・。
DVD見た。石井隆映画だった。鬼六を忘れて見りゃいい。 SMシーンは石井隆+杉本彩のコメンタリー付きで見た。 「どこまで戻ると夢が覚めるの?」 「さぁ、どこかな」 「仮面舞踏会の前の晩?」 「いや、(ふっ・笑)」 「出会った、、、あの日?」 「奥様、踊っていただけますか?」 「慶んで。あの夜の続きから。」
この会話から「夢」の領域をどこまでサカノボッテ広げるのか、
静子が出ていない部分を除いて、もしも全てのシーンが
そうであるなら、そしてその「夢」の意味と、それが生まれた
「描かれていない部分」を想像すれば、この映画に盛り込まれた
石井監督の「意思と作意」に唖然とします。。スッキリもします
。。よね。
傑作と言えるかは受け手の資質によって断層があり微妙ながら、
「とんでもない意欲作、実験作」ではあります。。よね。
コメンタリーでは「告白」してないんですか?
>>283
285 :
_ :04/06/16 23:08 ID:xPNUHq26
DVDのコメンタリーは大部分が杉本「痛かったですよー」 石井「すごいよ、頑張ったよ」の応酬。 ただ、石井が「(杉本が)4年前に死んだ女房に似てると思う 瞬間があった」と漏らすところ(石橋レンジとのからみのシーン の前あたり)があって、そこは少し考えさせられた。 (どこまで本気かは、わからんがね。) 近くにいても埋められない距離、立ち返るのは出会ったあの日、 という叙情は石井隆が一貫して追ってきたモチーフだと思う。 SMポルノというシンプルな枠組みを使った、これ以上なくシンプルな 石井映画だと、自分は思った。 あと、ラストダンス前に悪夢で飛び起きるような杉本のカットのところ での「ここはナゾナゾ」ってのは印象に残った。
「立ち返るのは出会ったあの日、」そして「あの場所」「あの行ない」。。
>>283 の会話はちぐはぐの「夢遊病者」みたいで、ちょっと聞き流して
しまいましたが、仰るとおり「石井節」ですね。確かに。。
(「結局立ち返れない」というテーゼも踏んでるしね。。)
「これ以上なくシンプルな石井映画」という言葉で頭の中が
再びシャッフル。。謎解きを楽しむ「パズル」を珍しく凝らした
印象を持ったのですが。そこは瑣末なことなのかもしれないですね。。
「ここはナゾナゾ」ですか。。w ハッキリ言えばいいのにw
287 :
名無シネマ@上映中 :04/06/18 13:43 ID:pi7uMoit
ようするにこの映画って夢オチなの?
[夢オチじゃない]と監督は明言してますから、単純な「夢オチ」ではありません。 214に引用してあります。。 どう思う? 自分の解釈は195から203です。。
ところで協力者クレジットにあった建築会社らしいホームページがありました。
作風が遠山夫妻の自宅とちょっと違う感じですので、間違っているかもしれま
せんが、参考まで。
http://www.ishiiarc.com/ あと、DVDのコメンタリ−で確認出来たら誰か教えてください。「冬の嵐」って
ワルツはチェコの作曲家フチークの曲でいいのかな?
『天使のはらわた 名美』 (…)名美は看護婦の美也を取材した。彼女は強姦されたときの恐怖で気がふれ、 精神病院に入院(…)当時の恐怖が甦り名美に襲いかかった。(…)名美はその ショックで、自分が強姦されるという被害妄想に陥り、狂乱状態となって(…) 村木の姿が、犯そうとする男に見え、名美は凶器で、力いっぱい村木を突き刺した……。 『沙耶のいる透視図』 (…)沙耶の方から橋口に電話をしてきた。又も強引に抱こうとするが、沙耶は 不感症だからダメだと告げる。(…)沙耶は橋口に、以前分裂症で入院していた 病院で神崎の母親と会い、神崎と知り合ったことを告げる。(…) 『ちぎれた愛の殺人』 (…)村木の浮気騒ぎでショックを受け狂気に走ってしまった名美に対して、 村木は女たちを殺し続けることで償っていたのだ。(…)名美は巨大な換気扇 に首をからまれ、村木もまた自ら死を選ぶように陽子に刺されていった。 (キネ旬データベースより)
『花と蛇』 「ここで起きることはファンタジ〜、全て“夢”なのです」 しかし、こうもピエロ男は静子に言い放つわけで… 「(このままだと)京子は狂ってしまうよ。」 確かにシンプルですね。。
京子をバイブで責めてるシーンが一番興奮した。 ズボンを脱がしたときにパンツにシミができてれば満点だったのに
団・石井双方の作品が好きなので、期待に股間を膨らませDVD観たが、石井作品で初めて早送りをした。 世界的なタンゴダンサーの設定でダンスを踊るシーンがないと、杉本が出演しなかったのかな・・・? 杉本なら任侠鉄火女のお駒さん?役で「花となんとか」って、作品を映画化した方が、石井監督も作り易かったのでは? SMシーンの完全版とか後から出るのかな?
295 :
名無シネマ@上映中 :04/06/21 17:10 ID:3cdxgBux
DVD発売に合わせてネット上に面白い批評文が浮上。。みんなゴメン。
原作は団鬼六の代表作。その後、本人とフォロワーたちによって数限りないバリエー
ションが書かれることになるその原型の物語であるが、(…)本作が「団鬼六の映画
化」としては決定的に欠落させているのは「最後までヒロインが性的快感に屈しない」
というその一点である。(…)もちろん石井隆は、夫とのメロドラマ的再会のために
そうしているのだが、そこに決定的な計算ミスがある。(…)「妻を第三者に差し出
す夫の心情」をすべて台詞で言わせてしまうのもヒドい。あれじゃ演出家失格だ。あと
石井組はいつもそうだが録音技師が下手クソ。台詞が明瞭でない場面がいくつもある。
…と、いろいろ文句はあるのだがこれだけの虚構を、ともにもかくにも観客に信じさせ
たのだから立派なものだろう。映画が終わって地下の映画館の暗闇から歌舞伎町のネオ
ン街に出ても、まだ夢から醒めていないような……夢の続きを観ているような感覚がし
ばらく続いたのは、映画に力がある証拠。(…)きっと今ごろ、Vシネ女優あたりを主
演に持ってきて予算を縮小した続篇をパート5ぐらいまで企画してるんだろうけど、
どーせなら予算を倍増して高岡早紀を口説き落とすぐらいの気骨を見せてほしいものである。
(…)
http://www.ne.jp/asahi/hp/mastervision/archive2004b.html 漫画にしたり映画にしちゃ絶対いかんものもあるね。曰く『家畜人ヤプー』、曰く『花と蛇』。
杉本彩が体当たり演技なのはいいけど、石井隆のフィルターを通したら、あの手の世界全体が
惨めっぽく思えてしまったのは私だけか...。今日日淫靡な世界を描くのは極端に難しい。
http://www1.ezbbs.net/18/aurora/
杉本彩が、「花と蛇」をやるというのを聞いて、彼女は、この種の映画には向いていな
いというのが、最初に思ったことだった。若いころ、谷ナオミ主演の日活映画を見てSM
に興味を持ち、団鬼六の「花と蛇」を読んだ。正直、最後まで読みきれなかった。繰り
返し繰り返しの凛辱シーンの連続に耐え切れなくなってしまったのだ。想像するに、SM
は、主従を強要する過程に快感があり、主従関係の「完成」は、快感の喪失につながる。
私が、その小説を最後まで読みきれなかったのは、このことと関係があるように思う。
(…)谷ナオミの豊満な肉体の縛りと比較して、杉本は向かないとの判断は、このメイ
キングを見て変わった。上述の「強要する過程」が容易でないほど、快感が増すわけで、
SM的でない彼女のほうが、より適役となる可能性があるかもしれないと思ったからだ。
それは、彼女の女優生命を掛けた気迫からも感じられた。
http://www.discas.net/nifty/d/s?ap=c_goods_detail&goods_id=081844209 あの鬼才石井隆は何処へいっちまったんだろう。早速、団鬼六原作の「花と蛇」(東映
ビデオ)を見た。女もやくざも男も描けてない。これじゃ〜まるで漫画だよ。せめて女
ぐらいちゃんと描いて貰いたい。原作にこだわる必要は全くないけどやくざ描くんでも
現代のやくざをちゃんと描いて貰いたかったな。画面はどっかでみたハリウッド的シチュ
エーション入れちゃっているけど内容はまったく漫画だよ。(…)とうのたった杉本綾の
裸と放尿シーンなんて誰も見たくもないわな。石橋蓮司演じるよぼよぼじじいの浅ましい
フィクサーぶり。石井隆の脚本もなっちゃないよ。衰えたもんだ、つくづく歳を取るとい
うことは罪深いもんだ。まあ、期待したおれっちが悪いんだけどね。
http://roji.seesaa.net/article/215657.html
誰かのコメントで「陵辱される杉本彩の顔は聖母マリアのよう」というのがあったが、
その通り。あきらめから生まれる底なしの慈愛を感じさせ、杉本彩は絵のように美し
い。SMシーンはエロティックだが悪趣味ではなく、映画史に残したいほどの映像。
しかし他の部分に余計なものが多い。過激さに真っ向勝負した杉本彩の美と心に監督が
翻弄され、SMシーンににパワーを使い果たしてしまった感じ。ヤクザはお約束のよう
に下品。緊縛師は無言の方がいい。観客は人形で良かった。殺しは不要。アクションも
いらない。セレブの奥さまならネグリジェはシルクを着るべき。非現実場面はすごくい
いのに、現実場面では中流階級の主婦みたいに描かれてしまう。そんなところに映画と
しての貧乏くささを感じる。高級で上品で洗練されているからこそエロティック。現実
か妄想かという映画なのだから、全編を徹底的にそぎ落とし、抽象化し無機質に描き出
していたら、花魁、刺青、麻縄といった日本独自の文化を背景に、格調高い映画として
世界に通用したと思う。惜しい。最後のタイトルロールの裸で踊るシーンは媚びがあって
イヤだ。僕が感動したと書いたのは、杉本彩の心意気と美しさに、です。
http://www.tsutaya.co.jp/item/com/cp_use00000001.zhtml?pdid=10034301&catcd=1
>>297 の上段の批評には『「花と蛇」と題されていても結局、本作は名美と村木の
メロドラマとして構築されている。』という言い切りがあって、バッサリとそこ
までシンプルに指摘されちゃうとガツンと一発ですw。
ぐちゃぐちゃ長文うるさい 簡潔に書け
>高岡早紀 あー、見たい。 監督も石井監督は、とりあえずいいから別で。
303 :
名無シネマ@上映中 :04/06/22 05:33 ID:3Jdri49J
304 :
名無シネマ@上映中 :04/06/22 07:09 ID:BMD8rTUO
団鬼六の短編の最高傑作に『ふ貞の季節』というものがある。粗筋はこうだ。
――――SM作家の黒崎は、取材と称して自室にモデルの女・京子を連れ込
んでは、川田に緊縛させセックスを楽しんでいた。ある日、その様子を目撃
した妻の静子が、黒崎との夜の交渉を絶つと言い出した。だが、実は彼女
は川田と肉の関係を持っていた。そのことを川田から聞き出した黒崎は、嫉
妬に震えながらもふたりのセックスに創作意よくを掻き立てられてしまう。しか
し、そんな夫に静子は冷たくも穏やかに言い放つ。「だめよ。あなたは川田の
ように上手に縛ることは出来ないでしょ? あなたは文章だけの、観念だけの
男よ」やがて、黒崎と静子に別れの時がくる。それから20年後、黒崎は刊行
を差し控えていた私小説を世に送り出す。
――――この黒崎とは、団鬼六自身のこと。川田という男が、ありすえ剛がモデル
だったそうだ。
◆ありすえ剛という当代随一の緊縛師・責め師を鬼源役と緊縛指導に抜擢
した石井隆は、さすがにSMが分かっている。
その、ありすえ剛という謎の人物は、ここで紹介されている。
http://www.bonnou108.jp/SM/Sm401.htm ちなみに、この擦れで73をカキコしたのはホンモノのありすえではないはず。
ありすえほどのインテリゲンチャは、こんなコピペをしないはず。とにかくクラフト・エ
ビングの論文を原書で熟読したという伝説がある人だから……。カキコするとした
ら、ありすえ剛の知人の芥川小説家・村上龍にでも書かせるんじゃないか(藁)
はー、有末剛が「不貞の季節」の緊縛師かあ。。なるほど〜〜。
307 :
名無シネマ@上映中 :04/06/23 03:37 ID:0ztqnwwJ
>304 ありすえごうって、新潮社とか双ば社とか東映とか大手でしか緊縛指導家を やらない人だよね。謎の人物だった。調教師・鬼源役も堅気の人じゃないよ うな存在感があった。なんにせよ、謎の人物だよね。誰か情報、教えて。。。。
308 :
名無シネマ@上映中 :04/06/23 11:15 ID:S+EIHlcj
sm作品を見慣れた男には物足りないけど女の子の好みそうな映画。 sm友達3人ともとても興味もってるから全員にあげるとしてあと2つ 買わないといけない。dvdもヒットすると思う。 次は演技は上手いけど売れない20才くらいの女優でいきましょう。
309 :
名無シネマ@上映中 :04/06/23 11:40 ID:nKMNzJdL
元セクシー系アイドルで今落ち目・生活苦・自己顕示欲旺盛・35歳くらいという線で探すと 杉本彩だったんだろうね。しかしどうしようもない大根だし体張ってないからつまんなかった。 キューティ鈴木か林葉直子か高岡早紀なら見に行ったと思う。
310 :
名無シネマ@上映中 :04/06/23 20:50 ID:p5mfi5x0
杉本彩は余裕でOKなんだけど、 高岡早紀だったらもう何も望まんよ 演技はどっちも似たようなもんだ
高岡早紀、離婚!
みんな高岡早紀がいい!!ってよく書いてるの見るけど 正直、どこがいいのかさっぱりわからん・・・
ちちがいい。
315 :
名無シネマ@上映中 :04/06/24 13:58 ID:9N5yQD6M
エロけりゃ大根でもいいのか、やはりそれなりの演技力が欲しいのか、それ次第だな。
316 :
名無シネマ@上映中 :04/06/24 22:42 ID:fBuLBWG7
ウンチの無いSMは所詮子供の遊びでしかない。 SMの真髄は浣腸にあり!
317 :
名無シネマ@上映中 :04/06/25 00:27 ID:F/n5zRbz
麻吹淳子の「縄炎夫人」の浣腸シーンがいい。 まず人里離れた山奥の村のロケーションがいい。 都会育ちで教養のある女が野蛮で前近代的な男とその一族に調教されるシチュエーションに 澄んだ森の空気や渓流のせせらぎの描写が独特の雰囲気をかもし出している。 実はこの作品の浣腸シーンはほんの一瞬、しかも引いたアングルからのワンカットのみ。 あれれ、と思う間に終わってしまうが見どころはそこからだ。 川のなかの岩場に縛り付けられたところに、志摩いづみ扮する男の妹が訪ねてくる。 志摩は兄の復讐に加担し、麻吹の夫を骨抜きにして妻を裏切らせた張本人なのだ。 目の前の女が夫を寝取った憎い女だと知って、麻吹は激しい嫉妬と怒りにおそわれるが 小粋な和服に日傘をさして陽光のなかで涼しげに笑う志摩に対して、全裸で拘束され こみ上げて来る便意に耐える惨めな姿を晒している狼狽と敗北感は隠しようも無い。 この対峙する両者のコントラストが強烈に印象的だった。 ほんの数分のシーンだが麻吹の表情の変化がいい。 志摩はいつもながらの演技力と存在感だ。
1963年に書かれたもう一つの傑作は、フェリーニ監督の『8 1/2』のための音楽です。
空想と現実を巧みに混在させたフェリーニ芸術の極致とも言うべきこの映画には、感嘆
に値する瞬間が満載されています。その多くは画面と一緒でないと効果が発揮されない
ものも多く、ロータがいかにフェリーニの映画言語を知り尽くしていたかが分かります
(…)その中ではやはり、ラスト・シーンの陽気かつメランコリックな不思議な行進曲
を挙げるべきでしょう。映画全体の総括とも言うべきこのシーンは、この音楽があるか
らこそ意味を持ってくるのです。フェリーニとロータの共同作業は、ここに一つの頂点
を迎えた観があります。(…)この最後のシークェンスは、撮影時にはチェコの作曲家
フチークの「剣奴の行進曲」が使われていました。ロータの音楽はサーカス・バンドの
行進曲のようですが、「桟橋を渡って」と名付けられており、フェリーニは「意気揚々
としているが、憂愁を帯びている」と評しています。
http://www.tcat.ne.jp/~eden/FC/rota.htm (ニーノ・ロータのファンページ。充実)
321 :
名無シネマ@上映中 :04/06/25 20:53 ID:H4aUnKrM
今日DVD買ってきてしまいました。 もちろん未向目当てで。杉本?誰それ
>>321 だれって主演じゃあ無いの? 見てないけど???
ガッカリ…
えっ、そうなの?
いや、正直俺も未向が観たかったクチ。 未向、期待どおりイイ。
326 :
名無シネマ@上映中 :04/06/28 16:10 ID:o7YmxQ+w
レンタルで十〜分 でも今の時点でレンタルできたのは運が良かったんかな? ビデオも含めて全部貸し出し中かと思ってよく見たらDVDが一個だけ 残ってた 速攻借りました
これってガチで挿入してるの?
328 :
名無シネマ@上映中 :04/06/28 22:57 ID:+we7laTx
>>325 俺も京子ちゃん責められてるとこだけほしい。
あの喘ぎっぷりを毎晩思い出してます。
330 :
名無シネマ@上映中 :04/06/30 05:36 ID:v+GePq7u
映画「花と蛇」を観てみた。(…)なんじゃこりゃ!? まるで「ブレードランナー」
か「地獄の黙示録」だぞ、おい。こういう作品をエロいとかエロくないとか真面目に
論評するのもどうかと思う。ま、でも10年前のボンデージブーム以降、いわゆるSM物は
盛り下がってるわけだし、こういう映像美とシュールさでハードな責めをコーティング
するという方向性は今までとは違った新しいファン層を獲得していくには正しいかと思う。
(…)バットマンがカラフルでポップなヒーローから闇の騎士へと変貌したように、「雑
学」を「トリビア」、「金持ち」を「セレブ」と呼びかえるようなロジックが必要なのだ。
http://homepage2.nifty.com/keokeo/bancho.html
ほとんどR指定と思いますが、SMの何たるかがかいま見れて、私はすごーく面白か
ったです。様々なSMシーンで、1番凄みがあって、美しかったのは花魁姿をさせら
れて縛り上げられた姿と、花の刺青をされて縛られている姿ですね。杉本彩の抜群の
プロポーションは、どのシーンを見ても美しいのですが、赤い長襦袢の花魁姿はぞく
っとするほど妖しかったです。この写真のごとく赤の襦袢の持つ色気でしょうかね。
(…)人間の営みって、必ずいつも何か、真理が潜んでいるのだと思うのですが、S
Mもきっとそうなのでしょうね。
http://blog.melma.com/00109335/ 緊急レポート番外篇/DVD「花と蛇」特典映像
石橋蓮司が登場、老人の妄執を見事に演じますが、その後に疲れた……と本音が出ま
す。続くインタビューもなかなか興味深い発言が出ますが、それは観てのお楽しみと
致します。
http://www12.ocn.ne.jp/~nacky/tokuten.html (え〜、なになに、教えてよ。。)
>>330 M女・杉■彩〜って記事があった。楽天で買ったんだけどさ……。
それで、どうなの?有末剛のコメント教えれ。。
336 :
名無シネマ@上映中 :04/07/03 00:02 ID:xXWay2A2
来週広島で再上映。
338 :
名無シネマ@上映中 :04/07/03 20:39 ID:JQYTN2UK
「花と蛇」を上映するシネマ・クレール石関町は満席で、観客の三割ほどが女性だっ
た。女性観客を動員できる官能映画が封切られたのは久々の事件だ。(…)ヒロイン
を陥れる怪老人、石橋蓮司がタキシードを着用する時、足元をきちんとしたエナメル
靴で固めているのは感動もの。女探偵未向(みさき)が鍛えられた肉体でしっかりと
したアクションを演ずるがゆえに、直後の緊縛シーンの悲壮美が際立つ。周辺映像に
手を抜かない制作姿勢が、クライマックス画面の緊張感につながっている。洋画大作
などメジャー作品は同じフィルムを数百本以上プリントして、日本だけでも五百もの
映画館で一度に公開するのだが、本作のフィルムはわずか五本しか複製されていない。
全国の単館系映画館が持ち回りで、貴重なフィルムを順繰りに上映している。東京よ
り少し遅れたとはいえ、岡山でもシネマ・クレールにおいてめでたく公開される運び
となったのはご同慶の至りである。
http://london.or.tv/eisyasitu.htm
女性の感想。。
基本的には本当に好きな相手としか天昇しないのが当然の事で、金持ち変態ジジィの
究極の欲望を成就させちゃっていいのか??で、静子にとってあの陵辱が悪夢でした
で終わっていいのか?石井監督これでいいのか?と、一人の女性として帰りの電車に
揺られながら考えていたのでしたo(*^^*)o
http://www5b.biglobe.ne.jp/~ih38/0207eiga/0401-06.html 主演、伊藤洋三郎様でしょ?え、違う?あれ?違う?それにしても、相変わらずステ
キ。洋三郎様ったら。昔、飲み会でお会いした事があるの。丁度、『洋三郎にハマリ
★注意報』が発令されてた時に、思いもよらず、いきなり『生ヨーザブロー様』だっ
たから、(…)胸がきゅんきゅんしたワケ。で、ヨーザブロー様ったら、(…)可愛
がってくれて、二次会にも誘ってくれたワケ。で、当然、別にそれ以上はなんもなかっ
たんだけど、(…)ヨーザブロー様に、未だに密かに夢中なワケ。『花と蛇』観て、
ヨーザブロー熱が、再び燃え上がっちゃった…、
http://yaplog.jp/kinacox/
続・女性の感想。。
蛇が杉本さんの口の中に入っていく、これって…強制フェラチオ…ディープスロートを
イメージさせるものとしてあるのでしょうが、ある程度入ったところで侵入が停止しま
すよね、私はこの時点で…あぁこの映画ってきっと…私の欲望を満たしてくれそうにな
い...と思いました…(この後、女性の欲望、生理に添って丁寧にこと細かく論じてあっ
て、ちょっと面白いですよ。表現も巧みです。少し拾ってみますね…)
それをされる時.....された時の 主人公の気持ちの変化がさっぱりわからない.....
開口具のベルト.....2本のタイプですよね..... ベルトを通され締め付けられる時の
表情..... 表情って秒速で変化しますよね... 多分.....1本目と2本目では微妙に
違うと思います..... 意味を察した瞬間には瞳孔や瞼・睫・眉毛・皮膚が変化すると思
うのですが... とうとうやってしまった... という気持ちってあると思うんですよね...
縄を回される時や.....解かれる時や.....解かれた後だって...その前後では気持ちが
変化しますよね.....産毛の震えや皮膚の硬直を見せて欲しかったかなぁ.....と.....
拳銃を持っているんだから...獲物を撃ち殺す事で永遠に自分のものにするのかなぁ...
とか思いましたけど.....
http://review.messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&tid=m318933&sid=2077605574&m id=4
343 :
名無シネマ@上映中 :04/07/04 01:30 ID:H+BVNrvo
数十年来の鬼六ファンとしてはこのスレを読めば読むほどこの映画が鬼六の世界を 語ってないことに絶望的になる。 まぁ映画が原作に忠実である必要は無いんだが、それではこの映画に独自の魅力が あるかと言うとはっきり言って無い。 鬼六の名が冠して無ければ観ようとも思わなかった。
SMというものを、結局この映画を撮った人たちは、単に「虐待」としか捉えられなか
ったのではないか?と。これじゃ、団鬼六先生が、気の毒です…。
http://takei.exblog.jp/i6 福岡オークラ劇場(中州5丁目 092-291-3854) 「花と蛇」と2本立上映
7/30〜8/5 併映作品[淫欲怪談 美肉ハメしびれ](小川欽也監督)
8/6〜8/12 併映作品[マゾ麗奴 囚われて](渡辺 護脚本 主演+超新星19歳の業の
歌うたい少女ウタムラミカ音楽 他)
期間中 公開記念イベント!!ウタムラミカLIVE他 ゲスト迎えてのイベント検
討中!![花と蛇]というよりも、(名美と村木)石井隆は(劇画含む)好きなので、これ
にしかもウタムラミカ ライブと来た日にゃ福岡の皆さん是非、来てください。
http://60.musicbbs.com/user/frcrjf.html こういう事例を聞いて思い出すのが、邦画の名作「ドレミファ娘の血は騒ぐ」。今は
亡き伊丹十三演じる「教授」と、洞口依子演ずる「女子学生」の、「恥ずかしゼミナ
ール」。「恥の文化」日本を考えるにあたっては、団鬼六のSM文学の金字塔『花と
蛇』(幻冬舎文庫から復刻されてます)と並び、絶対に外せないテキストだと思いま
す(ほんとか!?)。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~fdj/souko/sin2.html
石井隆(…)のこれまでの劇作においては、「性」を介して後戻りできない地点にまで
人間関係が変容していき、そしてそこには常に「暴力」というものの存在がそれを突き
動かすものとしてあったはずなのだが、この作品においてはともに図式にとどまってい
て、見るものの情動に働きかけることはない。ドラマらしきものは前半に素描されるだ
けで、杉本彩が監禁されて以後は、彼女に対するSMプレイが描写されるだけだ。しかも
小沼勝であれば、女の肌にさらに食い込む縄、谷ナオミの眉間に刻まれる深い縦皺、吊
り木の軋む音、などといったようなもので表現したであろう彼女の苦痛と官能を石井隆
は全く表現しえていない。おそらく実際の縄師かと思われる(…)サングラスをかけた
男が延々と彼女を責めていく様子をキャメラは捉えるのだが、ここなどは演出によって
SMプレイを見せるというよりは、単にSMプレイをドキュメンタリー的に撮影しているよ
うな感さえあり奇妙な印象を与える。ならばある種の肉体のドキュメンタリーとしての
画面の強度があるかというとそれもない。(…)バーベット・シュローダーのフランス
時代の傑作『女主人』も同様の主題をドキュメンタリー的に撮っているのだが、あれな
ど見ていて本当に痛そうだった(撮影を担当したネストール・アルメンドロスの名著
『キャメラを持った男』によると、SMシーンだけ本物の女王様とM男が吹き替えているそ
うだ)。(…)経済的観点からすると成功作だと言えるが、美学的観点からすると見る
べき点がない。
http://d.hatena.ne.jp/hj3s-kzu/20040401
簡潔に感想を述べれば、主役の杉本彩の美貌(?)に、いささか引きずられ過ぎでは
なかろうか?まず、出演者の演技が下手と言おうか、役に入りきっていないことを、
一番に感じてしまった。原作を読めば分かるが、この作品の登場人物達は、官能の世
界で途轍もない力を持って息をしている。西洋思想を挙げる訳ではないが、究極の性
愛は死に直面しているものであり、生のギリギリのところで生きているからとも考え
られよう。ところが、映画の中での登場人物達は、力を持つ役に振り回されてしまっ
ているが為に、言動がギコチナイものになっているのだ。(…)もう一つ。この手の、
一般的に非日常のものと見られる向きのある世界を映像で描こうとする時、それを「夢」
という概念で紡いでいこうとするのは、仕方ないことなのだろうか?この『花と蛇』に
したって、プロローグで杉本の見る夢の世界(「夢」「SM」「蛇」と、まるでフロイト
の世界だ…)が伏線となり、勿論、間々には夢が挟まり、エピローグに来て、それまで
に身に起こってきた事件を、夢を見ていた事の様に片付けていく。正直、「また、こう
いう演出法なのか…」と思えて仕方がなかった。こういう世界は「夢」で片付けるしか
ないのだろうか?
http://www1.odn.ne.jp/~aaj49640/rakugo/rakugo11/rakugo11-04/rakugo11-0404.html
永田弘太郎「裸を脱がせるサディスト――団鬼六『花と蛇』」(TH叢書No.6収録)に
よれば、◆「団鬼六の作品の多くの作品では、加害者と被害者が和に向かっている。
これは歌舞伎の特徴である」◆「日本のサディズム的傾向は、歌舞伎における責め場
から発するといわれる。(...) 結果的には責められている女は最後に相手に惚れてし
まうという筋立てである。いじめた女にまで好かれることで和を図り、自我を成立さ
せるという、日本人ならではの願望である」…なのだそうですが、そうなんですかね?
http://mitleid.cool.ne.jp/pygmalion.htm
善人の登場人物が責められる場面をさします。『壇浦兜軍記』の「阿古屋琴責」はそ
の一例です。特に江戸時代後期に作られた世話物に多く組み込まれました。『明烏』
という作品では、遊女浦里が雪の中で折檻される「雪責め」という場面があります。
その他にも1865年(慶応元年)、守田座で初演された通称『紅皿欠皿』の「針責め」、
「蛇責め」などを挙げることができます。
http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/edc1/scene_5/dictionary/index_se.html (「雪責め」!「針責め」!「蛇責め」! あれれ!?)
歌舞伎の作品の題材は、そのほとんどが庶民的。継子イジメ、近親相姦、強請・たか
りは日常茶飯事。姫は手籠めに合うは縄で括られ拷問に合うはで……何処が高尚なの
でしょう。江戸二百六十年の大平の世に育まれ完成したのが歌舞伎です。そして江戸
の頃、歌舞伎は庶民の娯楽であり、けしてお上が推薦する芸能ではありませんでした。
「滑稽・残酷・猥雑」これが歌舞伎の本来の持ち味で、当時の歌舞伎は「悪所」とま
で呼ばれていました。吉原と同じ括りですね(…)三世澤村田之助の魅力はこの悪婆
ものと責め場で発揮されたと云います。美しいものが傷付き苛まれながらもまた立ち
上がり強く生きてゆく。当時の人達は田之助の退廃的魅力そのままのこうした演目が
大好きだったようです。
http://dragonweb.ld.infoseek.co.jp/tanosuke1.htm
それと、もうひとつ気になったのは、本作が静子夫人の日常→非日常→そして日常に
戻ってきたら何も変わっていないのに自分のどこかが変質していた、ということを表
そうとしたのは間違いないと思う。にもかかわらず、日常/非日常の逆転性がとても
弱い。これは、物語導入部に出てきた人物がほとんど緊縛ショー部分にはからんでこ
ない、もしくはからんできても人物の描き込みが足りないのであまり意味をなしてい
ないから。(…)せめて、「ピエロ男」が前半部分ではまったく普通の人間として出
てくるとか、静子がものすごく嫌っている人物だったとか、とにかくそういうとっか
かりをつくっておかないと、あまりにも後半が浮き世離れ過ぎて本当にただの悪夢に
なってしまう。
http://picnic.to/~funuke/comic04/turezure042.html
通常だれも経験したことのないような悲惨なできごとのあとに、精神的に打撃をうけ
(心的外傷)、変化を起こすのは、ある程度は正常な反応なのです。(…)第二相:
二相性の反応の時期。外傷時のつらく苦しい記憶や感情がわずかなきっかけで繰り返
し思い出され、否応なく意識に侵入してきます。そのたびに外傷体験が再現され、圧
倒される感じを引きおこします。たとえば、小さな余震で、震災時の恐怖をまざまざ
と体験する、などです。その一方、つらい体験が意識に入ってこないよう、無意識の
うちに心を閉ざし、無感動、無感覚になります。この外傷体験の意識への侵入・再現
と無感動・無感覚が交互におこる時期です。これは人によりますが、3か月から5か
月続くと言われています。(…)PTSDとは、以上のような心的外傷への正常な反応が、
あまりにも強くあらわれたり、長引く場合を言います。(…)心的外傷に対する正常
な反応が、PTSDに移行した場合には、以下のような症状がみられます。このような場
合には精神・心理の専門家に相談しましよう。フラッシュバック。日常のわずかな刺
激が引き金となって、外傷体験がよみがえる。心的外傷となった体験が、思い出した
くないのに、繰り返し思い出される。繰り返し夢にみてうなされる、など。
http://www.seitosi.org/library_ptsd2.htm
フラッシュバックは苦痛なことも、戦慄的恐怖を起こすこともあり、精神科解体を起
こすことさえあります。(…)ベトナム戦争から帰還した人がヘリコプターの音を聞
いただけで、その場から逃げ出そうとしたり、エレベーターの中で強姦された経験を
持つ女性が、エレベーターの前で立ちすくんだりというかたちで現れます。とても嫌
な、思い出したくない記憶が何も関係の無い場面で、例えば静かに読書をしている時
などに、フッと意識の中に侵入してくる「侵入性回想」ということが起こります。そ
れが夢に出てくると悪夢になります。)そうした回想が、事件当時に感じた恐怖や冷や
汗などの生理反応と一緒になって、そのままよみがえって来て体験されることを「フ
ラッシュバック」と言います。フラッシュバック性の記憶、イメージ、感覚は実際に
起こったとおりの正確さがなくてもかまわない。しかし、フラッシュバックを構成す
る要素は実際の事態に対応していることが驚くほど多いと報告されている。
http://dissociative-disorder.kdn.jp/survivor/disorder/dissociation/flashback.html
354 :
名無シネマ@上映中 :04/07/07 08:28 ID:VLgmVkNR
縄をゆわえていく人、タモリかと思った。 ていうかタモリだったらよかったのに。
歌舞伎もSM趣味という部分があって・・・、伊藤晴雨なんかが好んだ・・・(発情した・・・?)
演目は今はまず掛からない・・・。『浦里の雪責め』とか『紅皿、欠皿』とか・・・。『奥州安
達原』にも『一つ家』という場面があって、鬼婆が妊婦の腹を裂いて胎児を取り出す、と
いうシーンがある・・・。これは明治あたりまでは人気もあったようで、芳年という浮世絵師
が描いた絵なんか、コレが題材だと思う・・・。その浮世絵が実際にデッサンされたか否か、
という議論から、自分の女房が妊娠しているのをいいことに、「妊婦の逆さ吊り」を実際に
やってみたのが伊藤晴雨・・・。もう最近の芸術家なんて穏やかなモノですがね・・・。けっこう
奇人変人あつかいされていても無茶はしていないのよ・・・。無茶をすれば芸術家になれる訳
ではないけれど、世間の常識の範疇に迎合して、お客さんの意識と同一では何も出来ないで
しょうね・・・。
http://www4.ocn.ne.jp/~shinpura/diary/2002/02-07/02-07-23.html
この人を扱って雑誌「芸術新潮」が昨年4月号で特集をしました。題して「特集、幻の
責め絵師、伊藤晴雨−責め苛(さいな)まれる女性を、終生描き続けた伝説の”責め絵
師”の全画業!!」 これは仲々いい企画で一見の価値があります。さて、最近、この
伊藤晴雨を主人公にした実に面白い小説が出ました。朝日ソノラマ刊「外道の群れ」が
それです。作者は、嗜虐的(…)官能小説の傑作「花と蛇」や「夕顔婦人」などを書い
た団鬼六ですから面白くないはずがありません。サド、マゾに関係無く、「人間」に興
味を持つ方は是非々々お読みあれ!! そして、団が前に書いた「伊藤晴雨物語」も河出
文庫に収まっていますから序(ついで)にどうぞ!!
http://www.shirakami.or.jp/~nisi93/n2002/book/094.html
画家の伊藤晴雨(1882〜1961)は十才(数え)の時、母親に連れられて本所二ツ目の
相生町五丁目にあった寿座という芝居小屋で、初めて芝居を見たという。(…)晴雨
が初めて見た寿座の芝居は晴雨に強烈な印象を与えた。殊に『吉田御殿招振袖』の責
め場は鮮烈だった。「其吉田御殿奥庭の責場で鬼丸(市川鬼丸)の竹尾といふ侍女が
責められる場面は凄婉其物であった。当時は前述の如く電燈の照明が無いので真ツ白
に塗った美しい化粧、それはたしかに徳川時代の鉛を中心にした旧式の白粉で人形の
様に白一色に塗りツブした化粧、それに漆のように一糸乱れずに結び上げた高島田の
髷が、意地の悪い御殿女中の二人に左右から責められる度に島田の根が段々にゆるん
で後れ毛が頬にかかり髷がバラバラになる。其時間が大変だ。今の様に二ツ三ツ打つ
と直グ引っくり返って了ふのでは無くって真に自然に髷が壊れる。クヅクヅに壊れる
のを打って打って打ちのめす。気絶をすると気附を与えて、又気がつくと打つ。竹尾
は口惜しさの余り悪女中の袖を歯で噛むと之れを振り切って又打つ。其時間が凡三十
分余もあったろうか。其時私は子供心にも高島田の美しさと女の責場の美しさがゾク
ゾク頭脳に浸み込んで了って今日に及び、後日責場の研究と迄発展して了ったのであ
りました」「此吉田御殿の責場を見たのが後に私の責場研究に没頭して終に一生の事
業として、一部の人々には誤解を招き乍らも終始一貫生涯の研究に日もいまだ足らず
として倦まざる努力を続けつつある原因と基礎を作ったのは実に此一日の観劇にあっ
たとすれば、人生の運命と云ふ可きか又宿命といふべきか、何れにしても不可思議な
操りの糸につながれて居るのでは無かろうかと考えて居る」
http://www.kyosendo.co.jp/rensai/rensai11-20/rensai16.html
360 :
名無シネマ@上映中 :04/07/08 12:02 ID:d/FsGE33
>335 緊縛指導家@有末剛に関しては、>304氏がカキコしていた。 有末剛氏のコメントは以下のモノ。「映画を見る女性の視点が、緊縛そのものに向かうのは当然 だが、それ以上に私の縄を捌く指や、杉本彩の耳元で囁く私の言葉などの、もっぱら緊縛 を取り巻く周辺部の雰囲気に、より興味があるようだった」と一部の有末氏の文章を抜粋 した【美少女監禁調教A】には、杉本彩の被縛写真とともに掲載されていた。 自分はAmazonで【美少女監禁調教A】を買った。>330氏と意見が違うが、楽天よりAmazon のほうが良いと思う。
「縄を捌く指や、耳元で囁く私の言葉」が思いのほか優しくて、嬲るというより
愛おしさがにじみ出ている感じでしたね。こんな優しくいいのかな。。。
>354さんの有末氏とタモリの件、皆が言っていることなのだけど、なぜスタッフ
が動かなかったのか不思議。似た容姿を責めるわけにはいかないけどw、やっぱ
りイメージがダブって弛緩しちゃう。緊迫感が霧散するのは予想出来たろうに。。
サングラスを変えてみるとか、なんでしなかったんだろ?わざとか?
海外サイトではキャストの筆頭がG・Arisueが多い。アルファベット順とはいえ、
in real life, he's a rope bondage expert という紹介文もあるので、準主
役と捉える海外の人は多いだろうなぁ。
http://www.mhvf.net/forum/asian/posts/108223108246527.html
和歌山市のnpd5さ〜ん、「ねじ式」は石井輝男、石井隆監督の作品じゃないってば。。 見てたら直してちょ。
どうしてこの『花と蛇』が、こんなにも話題になり、女性まで見てみたいと思わせる
ようになったのでしょう。谷ナオミの『花と蛇』では当然のようにSMというのが受
け入れられたのに、杉本彩というブランドが団鬼六というブランドと相容れないもの
があったからでしょう。つまり、杉本彩が縛られるなどといのは考えられない、だか
ら興味が生じるわけです。制作者側の意図は、その興味本位の上に成り立ち、杉本彩
を縛りさえすればいい、それを映像にすればことたりたわけです。淫靡さなんてどう
でもよかったのです。もちろんこの類が初体験ならそれなりにぞくっとくるみたいで
すけど。興味本位で、女性をも巻き込もうという営業戦略は見え見えで、もちろん女
性にもこの類の映画を解放しようなんて全くないです。レディースシートもその線上
に設けられました。
http://maggot-p.com/cgi-bin/freeass.cgi
☆☆博多NO WAVE 013 ☆☆
2004.7.29(木) 会場:福岡オークラ劇場1 (092-291-3854 / 中州5−4−1)
※地下鉄2番出口、カレーココ壱番右折徒歩1分 料金:1000円
開始:21:00〜(ライブ)出演:アコースティック・ガロリンズ ロロ
映画:22:00〜[花と蛇]R-18(石井 隆監督/杉本 彩/石橋蓮司/遠藤憲一/115min/04
東映ビデオ) 上映詳細決まりました。よろしくお願いします。
http://6127.teacup.com/garorinz/bbs 名古屋ゴールド劇場・シルバー劇場では、毎月最終土曜日にオールナイト3本立上映を
開催!!見逃したあの話題作、もう一度観たいあの感動作をリクエストして下さい。
2004年7月31日(土) 花と蛇(Rー18)23:00〜0:55 2:25〜4:20
http://www.eigaya.com/schedule/allnight.html
368 :
名無シネマ@上映中 :04/07/09 00:03 ID:++wUCdeq
なんでこのスレってコピペばっかりなの?
映画はDVDの売上を含め、クリーンヒットとなって、石井監督は指名打者としての 責務を充分に果たしたと思うのですが、原作者と真逆な女性観が底流にあって、そこが 「わかってない」「つまらない」と非難轟々になっちゃってます。。一言で断罪すれば、 そこで二の句は継げず、あとは脱線するか、会話は途絶えるか、その二つに一つなんだ よね。。コピペについて叱られてばかりですが、これでも相当「選択」し、文章を切り 詰めて引用しています。(笑いを取ろうとしている箇所もありますが)『花と蛇』の外 観だけでなく、深層にダイブして、石井隆が描こうとしたものは何か、それを追ってい るつもり。。迷惑かけてゴメンよ。 例えば343さんの「鬼六の世界を語ってない」「鬼六の名が冠して」という言葉が気に なって仕方がない。鬼六原作の映画を、特に『花と蛇』を撮れという指名は、石井監督 の作家人生では箱根越えの駅伝以上のプレッシャーがあったし、歓びがあったはず。。 団鬼六を喜ばす、そのために全精力を傾注した結果となってはいないのかなぁ。「紅皿 欠皿」との描写比較、伊藤晴雨との構図比較、芳年とのディテール比較といったもの、 過去の映画のエッセンスは含まれていないか、まだまだ調べないと『花と蛇』について 迂闊に語るのは後で恥じかいちゃうのではないかしらん。。だいたい石井監督が「自ら の作品」として「SM」を真っ向から扱うのは初めてなんだし。。息気込みは尋常でな かったと思うよ。。。一緒に掘り進めてくれませんか。。
長文のコピペばかりで、1000逝く前に容量オーバーしそうな勢いだな。
official有料配信、ノーカット放尿シーンが7/22配信予定か。。。 引っ張ったなぁ。 結局、杉本彩のオシッコが売りだったのかね。
372 :
名無シネマ@上映中 :04/07/10 18:32 ID:3QR6IJtB
>>369 単においしい話に乗っただけという可能性は無いのか?
373 :
名無シネマ@上映中 :04/07/10 22:14 ID:9nkjPMwx
このスレッドのコピペだけでテストとして出す映画論が書けちゃいそうだ。。。 って、SM映画じゃ無理だけど。。。。。orz
本日7月11日、石井監督の誕生日。 おめでとうございます。 >372 乗っかるといった感じなら、あんなに苦労はするまい。。 DVDのコメンタリー聴いての通り、とんでもない伏線の迷宮。。 よくぞここまで重ねたもの、思い入れたもの。。
375 :
名無シネマ@上映中 :04/07/11 23:22 ID:0rseEHbf
>>374 伏線におぼれて本質を見失っちゃ…
一体彼にとって鬼六とは何だったんだ?
鬼六の何を描こうとして、また逆に何が相容れないものと考えてたんだ?
膨大なコピペ見てもなにがなんだかよく分からんので
現時点で可能な限りそれを要約してもらえるとありがたいが…
とりあえずサラッと見てみたんだが、原作も未読でバカな俺には、 半端に大金渡されて全てが半端な出来になったアタッカーズのビデオって感じでした。 明日時間があったら一応コメンタリーも聞いてみる。
377 :
名無シネマ@上映中 :04/07/12 10:06 ID:ehwifkRO
浣腸無しのSMなんて、SMじゃないじゃん...
>>375 そうですね、伏線が張り巡らせてあっても、それはそれですよね。
「鬼六」の本質がよくわからないので、あれですが、「原作」の本質(羞恥の蕩尽)
からは逸脱していることは素人にも理解できる。でもそれは石井監督が「本質を理
解していない」ということでは当然ないよね。。
それこそ、石井監督にとっての「鬼六」とは何かを探る旅だったのでじゃなかろうか。
DVDで驚いちゃったのは、馬上引き回しや十字架磔刑については団鬼六のアドバイス、
リクエストが関わっていた、という点だった。その時点で「花と蛇」は原作から大きく
分岐して、独自の世界へ入ったということで理解しちゃって構わないのじゃないか。少
なくとも原作者と監督は敵対していないし、共に「見世物」を目指し、日本のSMシー
ンを総括し、しかしヒットをあくまで狙い続けた、さらには石井監督は独自の世界観を
裏地に隠して丹念に縫いつけた、その目的はフラストレーションにメルトダウンしか
けていた杉本彩というタレントの再ブレイクなのだった、というのがこの映画の外観だ
よね。。
団鬼六と石井隆どちらのファンも「見世物」を満喫すればいいんだろうな。自分みた
いな馬鹿はそれこそこの映画の本質を見誤っているのだろね。。(長文ゴメン)
鬼六の方がよくわからない。。 西鶴「好色一代男」の世之介みたいに受け取ってよいのかなぁ。石井監督には「最後 の愛人」みたいな本は書けないような気がする。 DVD、石橋蓮司の舞台挨拶とか、素敵な言葉多し。聴いてない人、是非レンタルして。
381 :
名無シネマ@上映中 :04/07/17 22:25 ID:NZjFgHiO
>>370 同じ板にある「アイ・アム・サム」のスレなんか、現在908レスで210KB。
「プライベートライアン」は959レスで230KB。
それなのにこのスレは381レスで、もう233KB(しかも直リンクがベタベタ貼ってある)。
つまり400いかないうちに、900レスオーバーの容量に達している。
もちょっとで潰れるね。1のジサクジエンでよくここまで来たもんだ。
383 :
名無シネマ@上映中 :04/07/17 23:48 ID:HjSr18IT
表現者たちは日々精進しているようです。わたしのような凡人には想像する事すら困難で
す。女優の杉本綾は映画「花と蛇」の中で本物のSMプレイを実践している。超過激な体当
たりの演技をしている。すべて吹き替え無しの本物志向で。彼女の言葉をかりれば「裸は
わたしの戦闘服」だそうだ。表現者としてどんな些細なことにも妥協を許さない姿勢は
さすが女優である。その昔、自分の健康な歯をすべて抜いて総入れ歯にした女優がいました。
その人の名は田中絹代といいました。たかが一本の映画の為にそこまでするのかと驚かされ
ました。きっと、表現するということはそこまでの覚悟がないと本物にはならないものなのですね。
http://www.geocities.jp/jtcjp962/diary/diary04.htm もうのっけからサービス満点な感じである。(…)誘拐されてからがこの映画の本番である。
(…)ここがもう一歩なのだ。彼女の転落にいたる企みはしっかり描かれているが、調教が
わたしにはもの足りない。本職の「縛り」は美しいし、静子を演じる杉本彩はエロい声を出す
のだけれど、いつ終わるとも知れない退屈な感じがほしかった。(…)SMショーの司会(伊藤
洋三郎)は看護婦だったりバレリーナだったり、いちいち女装して出てくるのであった。この
司会の人がもうたまらなくいい。静子を言葉責めにして観客を楽しませる。こういういかがわ
しい人になりたい。
すっかりでき上がった静子を、歩くこともままならぬ田代が抱くことでこの長い誘拐事件は
終わる。静子はすっかりでき上がったおかげで建物から出ることができたのだが、それ以後も
夢と覚醒の別がつかないままだ。ビルの屋上で旦那と踊りはじめたところで、これだから
俗っぽい映画は困る、なんて意地の悪い感想を漏らしたものだった。ところがところが。
もう、彼女は夢の世界で踊り続けるしかないのだと知った。
あと、マネージャー兼ボディガードの京子(未向(みさき))がまたいい。これがまたかわいいの。
この京子たんが実は静子のことが好きだったっていうのはどういうことかー。
(…)ホンマ、ええモンを観た。
http://www11.big.or.jp/~azumasan/urapage/diary/2004/03.shtml
たとえば、どんな好きな女と寝ていても自分の自我は捨てられないですよ、最後の
最後まで。残りの自我が羞恥心を呼び起こし、性的興奮を生むわけです。もっと捨てたいと
いう気持と、それでも捨て切れずにいる自我との緊張の関係がエロティシズムを生むんだと
思います。もし自我を全く捨ててしまえばそれまでですよ。あとはもう何もない。
ミス・ユニバースになるような絶世の美人がいたって、もう駄目だと思います。
(…)非日常性イコール性と言ってもいいんです。日常性を壊すものは性と結びついている。
たとえば性と暴力は結びつく。暴力も日常性を壊すものの一つですからね。
なぜ、サディストがいてマゾヒストがいるのかということですね。
(…)人間の場合は性と祭りが結びつき、性と酒が結びつく。
(岸田秀氏「さらに幻想を語る」青土社)
SMシーンとか色々言われているけど、(…)一番グッと来たのは、一番最初のベッドから
起きて下着姿のまま体操しているシーンかな。SMシーンは、なんか袋とじとかで見慣れた
せいか、イマイチ新鮮味がなかったです。ところで「花と蛇」は要するに監禁SM系の
性的ファンタジーを体現した映画なんだけど、(…)例えば美女をもっとも美しいコン
ディションでお客の前に出そうと思ったら、いい食事と適度な運動はもちろん、ヘアメイク
に定期的なエステも必要ですな。流行の服やジュエリーも買い与えて、精神的に満足させ
ないと、コンディションは維持できないと思う。地下室に手足縛って放り込んで込んで入れば、
どんな美女でも24時間で商品価値ががた減りになる。(…)「花と蛇」で足りないのは、
そういう意味では「生簀」の発想ですな。
http://ns.media-juggler.co.jp/~tak/dronpa/akindo/
画家の伊藤晴雨(1882〜1961)は十才(数え)の時、母親に連れられて本所二ツ目の
相生町五丁目にあった寿座という芝居小屋で、初めて芝居を見たという。(…)晴雨
が初めて見た寿座の芝居は晴雨に強烈な印象を与えた。殊に『吉田御殿招振袖』の責
め場は鮮烈だった。「其吉田御殿奥庭の責場で鬼丸(市川鬼丸)の竹尾といふ侍女が
責められる場面は凄婉其物であった。当時は前述の如く電燈の照明が無いので真ツ白
に塗った美しい化粧、それはたしかに徳川時代の鉛を中心にした旧式の白粉で人形の
様に白一色に塗りツブした化粧、それに漆のように一糸乱れずに結び上げた高島田の
髷が、意地の悪い御殿女中の二人に左右から責められる度に島田の根が段々にゆるん
で後れ毛が頬にかかり髷がバラバラになる。其時間が大変だ。今の様に二ツ三ツ打つ
と直グ引っくり返って了ふのでは無くって真に自然に髷が壊れる。クヅクヅに壊れる
のを打って打って打ちのめす。気絶をすると気附を与えて、又気がつくと打つ。竹尾
は口惜しさの余り悪女中の袖を歯で噛むと之れを振り切って又打つ。其時間が凡三十
分余もあったろうか。其時私は子供心にも高島田の美しさと女の責場の美しさがゾク
ゾク頭脳に浸み込んで了って今日に及び、後日責場の研究と迄発展して了ったのであ
りました」「此吉田御殿の責場を見たのが後に私の責場研究に没頭して終に一生の事
業として、一部の人々には誤解を招き乍らも終始一貫生涯の研究に日もいまだ足らず
として倦まざる努力を続けつつある原因と基礎を作ったのは実に此一日の観劇にあっ
たとすれば、人生の運命と云ふ可きか又宿命といふべきか、何れにしても不可思議な
操りの糸につながれて居るのでは無かろうかと考えて居る」
http://www.kyosendo.co.jp/rensai/rensai11-20/rensai16.html
映画はDVDの売上を含め、クリーンヒットとなって、石井監督は指名打者としての 責務を充分に果たしたと思うのですが、原作者と真逆な女性観が底流にあって、そこが 「わかってない」「つまらない」と非難轟々になっちゃってます。。一言で断罪すれば、 そこで二の句は継げず、あとは脱線するか、会話は途絶えるか、その二つに一つなんだ よね。。コピペについて叱られてばかりですが、これでも相当「選択」し、文章を切り 詰めて引用しています。(笑いを取ろうとしている箇所もありますが)『花と蛇』の外 観だけでなく、深層にダイブして、石井隆が描こうとしたものは何か、それを追ってい るつもり。。迷惑かけてゴメンよ。 例えば343さんの「鬼六の世界を語ってない」「鬼六の名が冠して」という言葉が気に なって仕方がない。鬼六原作の映画を、特に『花と蛇』を撮れという指名は、石井監督 の作家人生では箱根越えの駅伝以上のプレッシャーがあったし、歓びがあったはず。。 団鬼六を喜ばす、そのために全精力を傾注した結果となってはいないのかなぁ。「紅皿 欠皿」との描写比較、伊藤晴雨との構図比較、芳年とのディテール比較といったもの、 過去の映画のエッセンスは含まれていないか、まだまだ調べないと『花と蛇』について 迂闊に語るのは後で恥じかいちゃうのではないかしらん。。だいたい石井監督が「自ら の作品」として「SM」を真っ向から扱うのは初めてなんだし。。息気込みは尋常でな かったと思うよ。。。一緒に掘り進めてくれませんか。。
善人の登場人物が責められる場面をさします。『壇浦兜軍記』の「阿古屋琴責」はそ
の一例です。特に江戸時代後期に作られた世話物に多く組み込まれました。『明烏』
という作品では、遊女浦里が雪の中で折檻される「雪責め」という場面があります。
その他にも1865年(慶応元年)、守田座で初演された通称『紅皿欠皿』の「針責め」、
「蛇責め」などを挙げることができます。
http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/edc1/scene_5/dictionary/index_se.html (「雪責め」!「針責め」!「蛇責め」! あれれ!?)
歌舞伎の作品の題材は、そのほとんどが庶民的。継子イジメ、近親相姦、強請・たか
りは日常茶飯事。姫は手籠めに合うは縄で括られ拷問に合うはで……何処が高尚なの
でしょう。江戸二百六十年の大平の世に育まれ完成したのが歌舞伎です。そして江戸
の頃、歌舞伎は庶民の娯楽であり、けしてお上が推薦する芸能ではありませんでした。
「滑稽・残酷・猥雑」これが歌舞伎の本来の持ち味で、当時の歌舞伎は「悪所」とま
で呼ばれていました。吉原と同じ括りですね(…)三世澤村田之助の魅力はこの悪婆
ものと責め場で発揮されたと云います。美しいものが傷付き苛まれながらもまた立ち
上がり強く生きてゆく。当時の人達は田之助の退廃的魅力そのままのこうした演目が
大好きだったようです。
http://dragonweb.ld.infoseek.co.jp/tanosuke1.htm
三島独特の表現の中でサド侯爵という人間が生き生きと描写され(ワインを花にやる
エピソードなど、何と鮮やかな筆遣いではないですか)、最後に女達の会話を通して
「天国の裏階段を登っていった」サドという解釈まで発展するスケールの大きさに
感心します。「SADEMANIA〜サド公爵を愛する全ての人に〜」(ディスカッションが深い)
http://www.jah.ne.jp/~piza/COMPOSITIONS.html 名作「仮面の告白」の中で真実の告白をしているのを読むと、彼も父親の書斎で
この全集のルネサンスの巻を開き、イタリアの画家ギト・レーニの描いた美青年の
肉体に矢が刺さって血が流れている「聖セバスチャンの殉教」という絵を見て、
めくるめく思いをして精通した(…)と書いています。彼が12歳の時かな?
htt原作のあらすじ
http://tbrain.hp.infoseek.co.jp/ring/001/001.htmを読むと 、
調教のディテールがほとんど霧散し、そこを鬼六ファンが責めるのだけれど、大きな
流れはちゃんと押えているように思う。
「財界の大立者」の「絶世の美女静子夫人は、」「拉致されてしまう。夫人は一糸も
許されない全裸姿にされ、囚われの身であり奴隷である身分を自覚させられるために縄で
縛り上げられる。このときから、夫人の全裸緊縛姿の生活が始まる。」「運転手の見ている
前で強制的な排尿をやらされる」「そこへ救出の女探偵があらわれ、ふたりは屋敷からの脱出を
はかるが失敗に終わる。全裸にされた夫人と女探偵は、」「緊縛され、塩水をやかん一杯飲まさ
れると立ったまま放尿させられる。」「夫人と女探偵は緊縛姿のまま、女同士の愛撫を強要される。」
映画『花と蛇』は原作者へ敬意をもって石井監督が挑んだ作品であり、石井監督なりに視覚化した
部分として「原作の最後」が描かれていないか。そこから「逆転した過去」を映像化していることが
「パターン化した映画の破壊」へと進んではいないか。
「今は精神病院に入院している元の夫が危篤という知らせが入り、静子夫人は屋敷から必死の逃亡をはかる。
しかし、運転手に発見され、永遠の地獄へ連れ戻されていくのだった」
http://tbrain.hp.infoseek.co.jp/ring/001/001.htm p://www.kk-video.co.jp/comments/fujiihyoron/fujii084.html
28)鬼六小説で柱くくりつけは頻出するが、十字架は記憶に無い。宗教的意味合い
(「死」「犠牲」につながる)なんか無論なかろう。(27)磔刑に宗教的な意味合いは
無いと思う。
…どう見たって宗教画の磔刑のシーンが導入されたのはなぜ?この『花と蛇』は男側の
妄想の上に立つ「現実」ではなく、静子の「記憶、精神」の上に構築された物語だから
じゃないか。静子の救いを求める気持ちが十字架へと結晶化した。「地獄」という暗闇に
立つ十字架、そこで「天」を見上げあえいでいる翼をもがれた「天使」こそ杉本彩じゃないのか。
未向の磔にされた十字架は「右」。キリストと共に磔にされ、恨みの断末魔を上げて
「地獄に落ちた」者として知られている。ここまで石井監督が計算しているとすれば、
(83)の表現のように「冷水を浴び」たような怖さがあるよ。。
誰かのコメントで「陵辱される杉本彩の顔は聖母マリアのよう」というのがあったが、
その通り。あきらめから生まれる底なしの慈愛を感じさせ、杉本彩は絵のように美し
い。SMシーンはエロティックだが悪趣味ではなく、映画史に残したいほどの映像。
しかし他の部分に余計なものが多い。過激さに真っ向勝負した杉本彩の美と心に監督が
翻弄され、SMシーンににパワーを使い果たしてしまった感じ。ヤクザはお約束のよう
に下品。緊縛師は無言の方がいい。観客は人形で良かった。殺しは不要。アクションも
いらない。セレブの奥さまならネグリジェはシルクを着るべき。非現実場面はすごくい
いのに、現実場面では中流階級の主婦みたいに描かれてしまう。そんなところに映画と
しての貧乏くささを感じる。高級で上品で洗練されているからこそエロティック。現実
か妄想かという映画なのだから、全編を徹底的にそぎ落とし、抽象化し無機質に描き出
していたら、花魁、刺青、麻縄といった日本独自の文化を背景に、格調高い映画として
世界に通用したと思う。惜しい。最後のタイトルロールの裸で踊るシーンは媚びがあって
イヤだ。僕が感動したと書いたのは、杉本彩の心意気と美しさに、です。
http://www.tsutaya.co.jp/item/com/cp_use00000001.zhtml?pdid=10034301&catcd=1
映画芸術 406 平成16年2月発売 編集プロダクション映芸 石井隆の「花と蛇」 成田尚哉氏 (抜粋) 石井隆が団鬼六の「花と蛇」を撮ると聞いて一瞬不思議な違和感を覚えた。 (…)石井隆は当時、(…)SM雑誌にイラストを寄稿していた。 また「SMセレクト」「SMファン」「SMコレクター」「SMキング」と百花繚乱の アブノーマル雑誌の巻頭を飾るのは必ず団鬼六だった。 短い時間とはいえ両者とも同じ出版業界の空気を吸い異常性愛をテーマに エロを志向した者同士なのである。 (…)世界的に有名なタンゴダンサーと言う設定に多少の違和感を覚えてしまう (…)しかし杉本彩を最大限に生かす当然の設定と考えれば納得もいく。 そして彼女の顔のアップのショットに監督の執念が見えた。まさに名美がそこにいるのだった。 (…)原作を忠実に映像化することが映画監督の仕事ではないのかもしれない。 これは石井隆の『アイズ ワイド シャット』なのだった。 麻縄、和服、羞恥責めの鬼六SMではなく、ボンテージワールドなのである。 そう考えるとしみじみ納得もいく。 「死場処」を出版し劇画でも映画でも男と女の生と死の地獄を見つけてきた石井隆だ、 死者と生者がさまよう狭間に立ち続ける石井隆が見つめているのは ボンデージの向こうの果てにある死の世界であろう。 団鬼六が描く通俗的でドキドキするような猥褻性、とりわけ美しい女性の羞恥の姿を愉しむという 変態的快楽は見いだしようがないのかもしれない。(…)しかし考えてみればこれほど見事に 「見世物」を描いた映画も近年珍しいのではないだろうか。(…)ここにかって 堀江延満としてSM雑誌にイラストを書いていた石井隆を想起することができるし団鬼六、 その原作への敬意を読みとることができるだろう。(…)
この映画は四分の三くらいがSM場面なのだが、ありとあらゆる手を用いて杉本彩を
苛め抜いても、結局のところ彼女は何に対しても屈した様子がないのである。そして
その関係性にこそ、石井映画のニュアンスが非常に本質的な形で現出しているのだ。
石井隆の脚本を相米慎二が監督した名作『ラブホテル』には、死を決意した寺田農が、
ホテトル嬢の速水典子を緊縛し、玩具を使って犯す場面がある。どうせ死ぬのだからと、
長年の妄想を実践しようと試みたわけだ。速水は嫌がりながらもいつしか歓喜に
身体をくねらせ激しく喘いでしまう。繰り返し絶頂を迎えてのけぞる速水を見た寺田は、
生の側へと戻る決心をする――。これは一体どういうことなのだろうか。自由を奪って
嬲るという手ひどい屈辱を与えたはずなのに、速水は寺田の卑小な満足を嘲笑うかの
ごとく本能的な愉悦に狂喜する。(…)これは女性へ対する性的な(…)敗北である。
石井隆はその現実を踏まえた地平でヒロインを作り上げ、全力で痛めつけにかかるのだ。
(…)杉本彩というまさかこの場に及んで出現するとは思わなかった“ポルノスター”の
誕生を心から祝福したいです。そして、松田仁のプロデュサーとしてのセンスと
眼力の確かさ、監督石井隆の職人的才能に頭を下げたいです。谷の悩ましげな肉体とは
対照的に杉本はまるでアスリートのようにシャープで研ぎ澄まされた肉体でしたね。
明らかに絵コンテに基づいて撮られているカット割りは70年代の劇画を思わせもします。
CGの世界でカンフーしたりピストルの弾をよけたりするサングラスのお兄ちゃんが
ヒーローで満足ならそれでもよいでしょう。マフラー巻いた韓国の二枚目、結構なことです。
しかし、ボクにとってのヒーローは真っ白い肌にコーティングされた
肉体というしなやかであまりにも美しい鎧をまとった杉本彩、彼女こそそう呼ぶに
ふさわしい存在だとおもいますねえ。
http://casty.jp/hikaritown/main/353
サディストというのは、殺さないですよね。フロイトがいっているように、サディズム というのはエロスとタナトスが融合してできていて、エロスの要素もあるわけ ですから、サディストはいじめて、(…)相手が侮蔑されて、痛いめにあって、 苦しんでいて、しかも逃げだせないでいる姿を見るのが好きなんであって、殺して しまったらそれまでですから。(…)快楽殺人とサディズムは違うんじゃないか と考えています。(…)サディストが殺す場合は、ここまで虐待して逃がすと あぶないということで殺すのではないんですかねえ。本家本元のサド侯爵は殺人を やっていないでしょう。(岸田秀氏「倒錯」伊丹十三氏、福島章氏との対論 ネスコ) 西洋のキリスト教的プラトニズム─精神的なものだけが善で、肉体的なものは 悪だという考え方─に対する批判ですが、(…)反発の代表がサドみたいな人ですね。 (…)エロチシズムというものにすごい超越性を見ている。(…)エロチシズムの 極地は、一方的に男が女を侮蔑する、陵辱する、暴力によって犯すところに洗われる。 最終的には、殺してしまうところまでいく。そういうところでもっとも エロチシズムは高まる、そういう思想なわけです。(…)日本では、猟奇的なもの だとか、肉体的なものに対する偏執的志向は出てくるけれども、あそこまで極端な 思想というのはたぶん出てこない。(…)永井荷風だとか、谷崎潤一郎だとかは、 そんなどんづまりまで突き詰めない。その中には、(…)日本的な好色文化 ─エロスというのは人間が生きていく上でどうしても必要な糧であるという感覚が あると思います。(竹田青嗣氏「現代日本人の恋愛と欲望をめぐって」岸田秀氏との 対論 KKベストセラーズ)
●団鬼六 薔薇の肉体(1978)(原案)●縄地獄(1978)●団鬼六 縄化粧(1978) ●団鬼六 花嫁人形(1979) ●団鬼六 縄と肌(1979)監督■西村昭五郎「“SMの女王”谷ナオミの引退記念映画で、 藤純子の引退記念映作『関東緋桜一家』にひけをとらぬ西村昭五郎の名調子が冴えた任侠ポルノ編。 東映出身の松本功のシナリオだけに全編東映タッチで、谷ナオミはむろん藤純子、 そして健さん役は山本昌平。ヒロインが引退口上を述べるところは西村演出の愛惜の思い入れあり。」 ◎高橋聡氏 ●団鬼六 少女縛り絵図(1980)監督■小沼勝「少女とのSM性愛を通して日常回帰する男の話で、 廃屋で開始されたSMプレイは、だんだんと屋外、つまり日常へと拡大されていくのだが、 初めて少女をSM責めにする場面の嬲る側と嬲られる側の緊張感が、プレイをくり返す過程で 共犯関係へと移行し、全裸、緊縛姿にコート一枚の少女が公園に連れ出される場面の 異様な日常性など見事だ。」◎北川れい子氏 ●団鬼六 縄炎夫人(1980)●団鬼六 薔薇地獄(1980)●団鬼六 白衣縄地獄(1980) ●団鬼六 女秘書縄調教(1981)● 団鬼六 女美容師縄地獄(1981) ●団鬼六 女教師縄地獄(1981)●団鬼六 OL縄地獄(1981)
映画芸術 406 平成16年2月発売 編集プロダクション映芸 石井隆の「花と蛇」 成田尚哉氏 (抜粋) 石井隆が団鬼六の「花と蛇」を撮ると聞いて一瞬不思議な違和感を覚えた。 (…)石井隆は当時、(…)SM雑誌にイラストを寄稿していた。 また「SMセレクト」「SMファン」「SMコレクター」「SMキング」と百花繚乱の アブノーマル雑誌の巻頭を飾るのは必ず団鬼六だった。 短い時間とはいえ両者とも同じ出版業界の空気を吸い異常性愛をテーマに エロを志向した者同士なのである。 (…)世界的に有名なタンゴダンサーと言う設定に多少の違和感を覚えてしまう (…)しかし杉本彩を最大限に生かす当然の設定と考えれば納得もいく。 そして彼女の顔のアップのショットに監督の執念が見えた。まさに名美がそこにいるのだった。 (…)原作を忠実に映像化することが映画監督の仕事ではないのかもしれない。 これは石井隆の『アイズ ワイド シャット』なのだった。 麻縄、和服、羞恥責めの鬼六SMではなく、ボンテージワールドなのである。 そう考えるとしみじみ納得もいく。 「死場処」を出版し劇画でも映画でも男と女の生と死の地獄を見つけてきた石井隆だ、 死者と生者がさまよう狭間に立ち続ける石井隆が見つめているのは ボンデージの向こうの果てにある死の世界であろう。 団鬼六が描く通俗的でドキドキするような猥褻性、とりわけ美しい女性の羞恥の姿を愉しむという 変態的快楽は見いだしようがないのかもしれない。(…)しかし考えてみればこれほど見事に 「見世物」を描いた映画も近年珍しいのではないだろうか。(…)ここにかって 堀江延満としてSM雑誌にイラストを書いていた石井隆を想起することができるし団鬼六、 その原作への敬意を読みとることができるだろう。(…)
贈与のためには過剰な財(富)を蓄える必要がある。人間は生きていくために必要なだけの労働を
するのではなく、過剰を生み出すために日常的に労働を繰り返しているとも言えるだろう。
これを「生産的労働」という。そして、ある祝祭の日に過剰な財を贈与や破壊によって一気に使い果たすのである
(これを「蕩尽」、または、「非生産的労働」という)。なぜならば、そのことが人間としての生き甲斐であり
喜びでもあるからだ(結婚式やパーティに見られる蕩尽や、必要以上のものを買いあさる消費行動などもこれにあたる)。
このような非生産的労働は、快感に直結するものである。このことに早い時期に注視していた一人が、
ジョルジュ・バタイユであった。
さらに言うと、戦争、殺戮、生け贄、犯罪…、というのもまた「過剰」─「蕩尽」理論を担っているところの
「混沌」といえるものだ。この「反倫理的」行為が途絶えたことは、今日においても人類史上一度もないのである。
(ここでは示唆するだけにとどめておきたいが、「禁忌(タブー)」や、「法」といった概念も、社会的日常の中で
やたらと蕩尽的行為がなされないようにするための防御機能としてあるものだ。これはいつかは侵犯されることがある
ことを意味する。日常的な時間においてそれをすれば犯罪だが、永遠なる時間のもとでは神聖なる行為として許諾され
るのである)
贈与が結果的には破壊をも生むことを指摘したが、バタイユが示したように、過剰な富の生産によってそれが可能だ
ということである。繰り返すと、そのために人々は、日常的に秩序の中で労働にいそしむのである(生産的労働)。
そしてある特定の時期に祝祭的儀式として一気に蕩尽する(非生産的労働)。
このとき、人はめくるめく陶酔感の中で精神を高揚させるのだ。言い換えると、ここに至高の交感(コミュニカシオン)を見たということである。
岡本が愛した「祭り」の本質はここに見ることができる。(博多の山笠祭りや、岸和田のだんじり祭り、東北のねぶた祭り、諏訪の御柱祭り…など
挙げていけばキリがないが、日本中の、いや、世界中の祭に見られるものだ)
http://www.mnet.ne.jp/~emonyama/taro/potlatch.html
<SM映画も東映が作るとこうなるのか>
当初杉本彩の放尿シーンという前評判ばかり気にしていたが、利尿剤を含んだ
溶液を、口枷で強制開口したままイルリガードルを使って飲ませるというプレイには
感心した。イルリガードルと言えば、今まで浣腸しか使っていなかった私には、
実に新鮮に感じた。また、バイブではなく実際に男がかぶっている仮面の鼻が
ディルドオというのも、ストリップの天狗の面を使ったショー以上に妖しげだ。
映画の中で目立つのは十字架への腕の水平縛りシーンだ。これをトータルすると
結構長い時間だ。撮影時にはこれに数倍する時間がかかるだろうと思うと、SM
未経験の杉本彩はよく耐えたと思う。特においらん姿の下、全身にほどこされた
鮮やかな刺青姿のまま十字架にはりつけされ、それに霧雨のようなものが
降りそそぐシーンは実に幻想的だ。これらのシーン以外にも、ロウソク責め、
レズSMプレイ、逆さ吊り水責め、濡れ手拭での鞭打ちと、当初あまり
SMシーンは期待できないのではないかと思っていたがまずまずである。
杉本彩ファンにとっては、彼女の動くヘヤ・ヌード姿を見れるだけでも
満足なのではないのだろうか。また、異様な集会風景は、トム・クルーズと
ニコール・キッドマンが主演した映画「アイズ・ワイズ・ショット」を思い
出してしまう。この場面で欠かせないのが、司会というかピエロというか、
彼の巧妙な衣装としゃべりはまさに演技賞ものだ。全体のストーリー展開も
安易に結論に達っしようとはせず、最後まで決して単調ではない。あまり
書きすぎるとこれから鑑賞される方の楽しみを奪ってしまうので、この辺で
と思うのだが、今回私が出かけたのは銀座シネパトスだったが多くのカップルが
楽しそうに鑑賞していたことを付け加えておこう。M女の貴方はぜひ御主人様と
同伴されることをお勧めする。
http://amds.jp/disp_bn_pc.php?published_id=46481
探偵事務所の所長の寺島進のリポートによれば、田代老人は95歳。その年齢から性的
能力を軽んじた野村宏伸が杉本彩の「一時的な」借用に応じてしまう、というのが映画の話。
『花と蛇』は[老人]石橋蓮司の杉本彩=静子への執拗な「眼差し」で成立っている…。
ちなみに2003年に95歳ということは明治41年1908年生れということになるね。
その頃生まれた人を調べると、映画、美術関係者では次のような方々が…。鬼籍に入られた
方も多く、95歳という年齢の「重さ」をかんじるなぁ。。田代老人の凄絶な執念、意志を
感じちゃう…。。
[1908年に生まれた人々]伴淳三郎、長谷川一夫、バルテュス、マキノ雅弘、デビッド=リーン、
ヘルベルト=フォン=カラヤン、ジェームズ=スチュワート、東山魁夷 、中村伸郎
[1909年に生まれた人々]ホセ=フェラー、佐分利信、淀川長治、太宰治、マルセル=カルネ 、
エリア=カザン、上原謙、埴谷雄高、松本清張
[1910年に生まれた人々]デビッド=ニーブン、黒澤明、田中友幸、双葉十三郎、
[1911年に生まれた人々]ジョン=スタージェス、森一生、岡本太郎、本多猪四郎
ニーノ=ロータ
http://www.d4.dion.ne.jp/~warapon/data00/year/birth_1908.htm でも、なんで95歳もの老人なんだ?
どうして62歳の石橋蓮司では駄目なんだ?
(82)黒幕の田代一平(石橋蓮司)を卑しい成り上がり者の街金融の社長ではなく、
遠山家以上の権力を持つ大物にしているところにも鬼六的世界との訣別が示されていた
ように思う。 …ホントに「訣別」するつもりだったのかな?
ところで協力者クレジットにあった建築会社らしいホームページがありました。
作風が遠山夫妻の自宅とちょっと違う感じですので、間違っているかもしれま
せんが、参考まで。
http://www.ishiiarc.com/ あと、DVDのコメンタリ−で確認出来たら誰か教えてください。「冬の嵐」って
ワルツはチェコの作曲家フチークの曲でいいのかな?
>>204 今ごろ…また怒られるのかな?(長いしw)
「オルガスムスを描かない」でフィードアウトでつなぐ手法は石井輝男監督の『徳川女
刑罰史(1968)』の後半で多用されていました。官能小説のテーゼを無視したカット割に
不満と疑問が噴出し、それでは「鬼六『花と蛇』の看板を借りた」と言いたくもなりま
すよね。。でも、自分としては「吹雪舞う中の空中開脚緊縛花魁」「緋牡丹刺青荒縄縛り」
ですぐに連想しちゃったのは『東映』であり『新東宝』だったんですよね。。『東映』の
後ろに『ビデオ』は付きますが、『東映』の看板を背負った作品を作る以上、石井監督は
「にっかつカラー」ではなく「東映カラー」について想いを巡らしたりしたんじゃないか。。
(144)はその辺りを感じて<SM映画も東映が作るとこうなるのか>と唸っちゃっている
ようで、相当の邦画通なんじゃないかな。。
(4)で653さんが「日活ロマンポルノのSMモノなどは、(…)近年はほとんどその血脈は
途絶えてしまった」と書かれてますが、「拷問、緊縛もの」という「血脈」は「完全に」断た
れてます。(「暴論」かもしれませんが、サド、マゾッホからの血筋は邦画において絶えた状
態です。)そのような「空白」の若い世代は『花と蛇』を観て「訳わからん」状態になってし
まうか、「すげー斬新」ととるか分裂しちゃった気がするのです。。前スレでリポートあった
ように劇場に詰めかけた50代、60代の世代は『花と蛇』をどのように受け止めたか、聞いてみ
たいな。。「現代」「ポスト」「アサヒ芸能」を「宣伝」の媒体に選んだ「理由」も合わせて
考えてみれば、いくら議論を重ねても正体は?めない「ある世代のための映画」なのかもしれ
ませんね。。
(4)で653さんが「日活ロマンポルノのSMモノなどは、(…)近年はほとんどその血脈は 途絶えてしまった」と書かれてますが、「拷問、緊縛もの」という「血脈」は「完全に」断た れてます。(「暴論」かもしれませんが、サド、マゾッホからの血筋は邦画において絶えた状 態です。)そのような「空白」の若い世代は『花と蛇』を観て「訳わからん」状態になってし まうか、「すげー斬新」ととるか分裂しちゃった気がするのです。。前スレでリポートあった ように劇場に詰めかけた50代、60代の世代は『花と蛇』をどのように受け止めたか、聞いてみ たいな。。「現代」「ポスト」「アサヒ芸能」を「宣伝」の媒体に選んだ「理由」も合わせて 考えてみれば、いくら議論を重ねても正体は?めない「ある世代のための映画」なのかもしれ ませんね。。
SMシーンとか色々言われているけど、(…)一番グッと来たのは、一番最初のベッドから
起きて下着姿のまま体操しているシーンかな。SMシーンは、なんか袋とじとかで見慣れた
せいか、イマイチ新鮮味がなかったです。ところで「花と蛇」は要するに監禁SM系の
性的ファンタジーを体現した映画なんだけど、(…)例えば美女をもっとも美しいコン
ディションでお客の前に出そうと思ったら、いい食事と適度な運動はもちろん、ヘアメイク
に定期的なエステも必要ですな。流行の服やジュエリーも買い与えて、精神的に満足させ
ないと、コンディションは維持できないと思う。地下室に手足縛って放り込んで込んで入れば、
どんな美女でも24時間で商品価値ががた減りになる。(…)「花と蛇」で足りないのは、
そういう意味では「生簀」の発想ですな。
http://ns.media-juggler.co.jp/~tak/dronpa/akindo/ 屋上に似たリーフデッキの池でクレーンカメラが杉本を美しく捉える。。
水面には「花」が浮き漂っている。ここは天上ではないか。
石橋蓮司は天使の飾りがついた呼び鈴を執拗に鳴らす。
「天使」を求め見る老人の目。
コロシアムの最高の見せ場は「水責め」であり、杉本が「花」となって
天地が逆の体勢で落し込まれる。。
「水面」を境に「現世」と「彼岸」が描かれてはいないか。。
城の中のイギリス人アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ作 澁澤龍彦訳
ピエール・モリオンの匿名で秘密出版されていた『城の中のイギリス人』がようやく仮面をぬぎ、
真の作者マンディアルグが登場した。実験的性の追求者モンキュが、閉ざされた城の中でくり広げる
エロとグロの情景は、読者を性の歓喜の夢幻境へ誘う。
まさに、現代の文学的ポルノグラフィーの傑作。
http://www.hakusuisha.co.jp/FMPro?-db=shosekidata.fmj&-format=detail.html&ISBN=4-560-07066-0&-Find STORY 「私」は、ふとしたことで知りあったイギリス人のモンキュの城に招かれ、
そこでくり広げられる異様な性の饗宴を体験する。モンキュは並大抵のことでは興奮しなく
なっていて、あらゆる実験を試みる。最初は面白がっていた「私」も、だんだん彼が恐ろしくなって
逃げ出してしまう。後日、城が爆発して跡形もなく消えてしまったという知らせが届いて…
「私」は、何もかもふっ飛ばしてしまった最後の「射精」に、あらゆる手段をもってしても
満足を得られなくなったモンキュの姿を思うのであった・・・
(…)たくさんの蛸が蠢く水槽の中に少女を投げ込み、体中に軟体動物を貼りつけた処女の肉を
味わうといった設定。ちぎれたレースや絹、血と蛸のスミ、砂と塩水の入り混じった世界。
少女の顔面に貼りついた蛸は醜悪な仮面を連想させる。
たとえば、巨大な氷細工の男根を、料理番の女の輝く肛門に挿入、内臓へと続く粘膜を弄る試み。
他にも、ブルドッグとの人獣交媾、ユダヤ人にドイツ軍人の睾丸を噛みちぎらせたり、
ビクトリア女王を会話の中で辱めるといったシニカルなエピソードもある。
http://homepage2.nifty.com/weird~/sirononaka.htm
─次回作は『花と蛇』ですか?荒井晴彦さんの脚本で、ある意味では斬新な企画ですね。
廣木■『はき忘れた片方の靴』という調教される男の子の小説があってさ、主人公が
囲われて両性具有になっていくの。その時の喪失感をタイトルが示してるんだけど、
これは今っぽいなあという気がしててね。そういう方法で『花と蛇』も語れるかなあ、と。
─両性具有も廣木さんの裏テーマというか。でも大胆ですね。
廣木■『花と蛇』って心を変えようとする作品でしょ。だけど、体を変えていくのは
もっと凄いのかもしれない。
─日本人のHって性差を明確にしたところから始まったでしょう。だけど、
若い人って性差は関係なくなってきていると思う。廣木さんの『花と蛇』論は
すごいニューウェイヴになる可能性があるよね。
廣木■あるいは古典でやるか。まだ、全然決まってないんですけどね。
(銀星倶楽部★19 桃色映画天国 1994年 発行ペヨトル工房)
主役の杉本彩に華がありません。こういう役ならば、女性が見てもうっとりして
しまうような美しさを、少なくとも責められるシーンでは見せなければならないと
思いました。この女性を責めるとはこういうことなのか、と観客に納得させられる
ような。総じてキャスティングが「薄い」ですね。また責めのシーンを入れ替わり
見せていますが、SMと言っても結局、主人公の女性が段々と様変わりしてゆく
心理を描けなければ感じることも出来ないと思うのです。それがなかった。
http://6328.teacup.com/gamera/bbs
田代一平(50才)実業家。森田組のスポンサー。
「花と蛇」の連載開始 「花と蛇」は当初奇ク昭和37年8・9月合併号、同11月号
および12月号に3回にわたって掲載された。その後翌38年7月号から正式に連載が
開始され、昭和39年9月号で前編が終了した。そして1号置いた同11月号から続編の
連載が開始され、実に昭和46年11月号まで前編15回、続編78回の実に合計93回、
足掛け11年にわたる長期連載となった。
第一日(昭和三十七年九月二十日)静子夫人、六本木の山崎探偵事務所へ向かう。
同日十七時二十分 静子夫人は日本橋三越前で四人のズベ公に誘拐される。
http://tanbi.kir.jp/hanasekai/Hana_chara.html (既出「花と蛇」の世界 必読)
昭和37年に50歳であった田代一平が現在まで生きていたら、2003年には91歳になる。
昭和37年に静子を拉致した者の一人、田代一平にとって、20日以上に渡るその「静子との日々」
は至福の時ではなかったか。彼らがどのようにして散っていったのか、どのように生きていったのか、
「千代は完全に狂われてしまったようだ」が、他の者たちはどうだったのかな。。
未完の長編『花と蛇』を映画化するにあたり、「昭和37年の監禁事件の当事者たちが現在生きていたら」
ということに想像を巡らすことは作劇上「当然」の経緯ではなかったか。。
“キリストの、最後の12時間を忠実に描いた”映画(…)むち打たれるシーンとか、
酷いのだ。鎖の先に鑿の先っぽみたいな刃がついてる、ってのが何本も束ねられた
鞭で、背中をばっちんばっちん打つぞ。肉は裂け血は飛び散る。ってゆーか
背中の肉がえぐり取られたりします!『花と蛇』のソフトなSM表現に満足
できなかった人は、是非これを観ると宜しい。(…)刑罰とか拷問をリワルに
描けば全部こんなふーになるだろうに。ただまぁ、単にそれをやっても
「残虐シーンが売りのきわもの映画」としか捉えられまい。「キリストの話」
ってーのは、強力な免罪符になるもんだと思います
http://www.ipc-tokai.or.jp/~woquave/nikki0403down.html ようするに監督のメル・ギブソンは、無理やり観客にこの残酷さを見せるように仕掛けた
のである。なぜそこまで残酷なシーンを見せたがるのか?メル・ギブソンは「サド」
なのか?
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/160321.htm SM映画でした。寄ってたかるユダヤ人たちが大衆心理として、ローマ人たちが肉体
行為として、両面からキリストに対しサディズムの極致を尽くすのです。(…)ところが、
キリストを信じる人にはこれこそが「パッション=受難」なんですね。彼の受ける
すべての傷に意味がある。血の滴り一つ一つが「われらが身代わりの羊」というわけです。
宗教ってのはどんなことがあっても負けないよう解釈出来るようになってるんだわ。
ずるいっしょ。ポルノまがいのサディズムと、陶酔を誘う至高の犠牲−−このとんでもない
理解のギャップを、この映画はしかし、いささかも埋めようとはしていませんの。
http://www.bureau415.com/kitamaru/archives/000037.html
(28)鬼六小説で柱くくりつけは頻出するが、十字架は記憶に無い。宗教的意味合い (「死」「犠牲」につながる)なんか無論なかろう。(27)磔刑に宗教的な意味合いは 無いと思う。 …どう見たって宗教画の磔刑のシーンが導入されたのはなぜ?この『花と蛇』は男側の 妄想の上に立つ「現実」ではなく、静子の「記憶、精神」の上に構築された物語だから じゃないか。静子の救いを求める気持ちが十字架へと結晶化した。「地獄」という暗闇に 立つ十字架、そこで「天」を見上げあえいでいる翼をもがれた「天使」こそ杉本彩じゃないのか。 未向の磔にされた十字架は「右」。キリストと共に磔にされ、恨みの断末魔を上げて 「地獄に落ちた」者として知られている。ここまで石井監督が計算しているとすれば、 (83)の表現のように「冷水を浴び」たような怖さがあるよ。。 ラストカットの杉本彩の視線に何を見るのか。(38)男が「一つになれた」「モノにした」 と思い上がった次の瞬間に、手の届かないところに去っていく女の、拒絶とも受容とも 判別しかねる、しかし、なぜか、この上なく美しく感じられる、そんな視線です。 …「生」を越境するだけが「手の届かないところ」じゃない。 杉本彩に石井監督が渡らせたものは何か、そこまで追い詰めた「地獄」の十数日間「花と蛇」を 映画化するということは「何を描くことで」完成すると考えたのか。。 石井隆という人はホント、傑出した「映画人」だと自分は思うのだが…。。 劇画家石井隆の作品には「群像劇」は多いが、一方で映画化しにくい「一人称の作品」 が連綿と描き続けられている。。常人の理解しづらい、しかし哀切極まる精神の物語だ。 石井監督はその扉を開けた、それは「パンドラの箱を開けた」ということ…。。
石井監督のインタビューもSM描写への質問に偏り、東映ビデオの戦術もあってか、 何の後ろ盾のないカタリンでしかない。全ておまえの『妄想』だよ、と言われてしまえば それまでだが、そのように見て取れば石橋蓮司の眼差し、無謀な歩み、死に物狂いの性交、 遠藤憲一を息も絶え絶えで止めようとする腕の動き、それらは皆、涙に濡れて見えてはこないか。 ゴジラを呑み込むビオランテのようにのたうち回り、「精神」の境界と「生命」の境界を 越えようとする男と女の極限の愛が、「血みどろの愛」が見えてはこないか。 杉本彩の『見えない愛』とはこのことではなかったか。。。 やはり『花と蛇』という看板は「借り物どころではない」のではないか。。 あまりの底無しの仕掛けに、自分は少々怖くなってきました。。 [ 夢オチじゃない。 ] 「いろんな映画的仕掛けは巡らしましたが、夢オチじゃない。夢ではなく、 過去が現実になっていて、一か所だけ現実が顔を出す。今回の映画は、 言葉で物語るドラマを極力廃した点、そして時間軸を無視した点でも 敢えて映画の文法から逸脱してみた。(…)たとえ文法から外れていても、 それを気付かせないで見終えるくらいのアメージングな世界。 映画少年だった僕の体験から言えば、映画の嘘として、それは有効だと思うし。」 石井隆監督インタビュー キネマ旬報3月下旬号 インタビュアー北川れい子氏
「抜ける」という声は少ないですね。グラビアでは来るのに映像では こないのは何故?という文章がどこかの日記にありましたが、官能小説などの パターンと「決別」した描写とリズムに戸惑う観客が多いようです。石井監督の 劇画時代の作品は下着のディテール、ベッドや室内インテリアの「現実感」、 眼前で性交渉が行なわれているような映画的なコマ割で読者に衝撃を与え、 その当時の週刊誌の特集では「何回でも抜ける」という熱狂的な祭り上げかたを されていましたよね。。しかし、現在は「抜ける」作家ではなく「真面目すぎる」 作家という捉えられ方が多いようですね。夏川結衣のレイプ(「夜がまた来る」 「GONIN2])喜多嶋舞の緊縛(「GONIN2」)などに舐めるような 執拗過ぎる写し方があり、公開の度に話題を振りまきますが、観客の多くは 「陵辱されているのは男側ではないか」という鏡地獄のような乱反射に晒され、 考え込んじゃう顛末になっていますよね。。前スレ711さんが「杉本彩が石橋蓮司に ペロペロされるシーンで興奮してしまいますた。俺には十分ズリネタになります。」 と書かれたように、そのシーンはその点でえらく好評。。 たとえば、どんな好きな女と寝ていても自分の自我は捨てられないですよ、最後の 最後まで。残りの自我が羞恥心を呼び起こし、性的興奮を生むわけです。もっと捨てたいと いう気持と、それでも捨て切れずにいる自我との緊張の関係がエロティシズムを生むんだと 思います。もし自我を全く捨ててしまえばそれまでですよ。あとはもう何もない。 ミス・ユニバースになるような絶世の美人がいたって、もう駄目だと思います。 (…)非日常性イコール性と言ってもいいんです。日常性を壊すものは性と結びついている。 たとえば性と暴力は結びつく。暴力も日常性を壊すものの一つですからね。 なぜ、サディストがいてマゾヒストがいるのかということですね。 (…)人間の場合は性と祭りが結びつき、性と酒が結びつく。 (岸田秀氏「さらに幻想を語る」青土社)
城の中のイギリス人アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ作 澁澤龍彦訳
ピエール・モリオンの匿名で秘密出版されていた『城の中のイギリス人』がようやく仮面をぬぎ、
真の作者マンディアルグが登場した。実験的性の追求者モンキュが、閉ざされた城の中でくり広げる
エロとグロの情景は、読者を性の歓喜の夢幻境へ誘う。
まさに、現代の文学的ポルノグラフィーの傑作。
http://www.hakusuisha.co.jp/FMPro?-db=shosekidata.fmj&-format=detail.html&ISBN=4-560-07066-0&-Find STORY 「私」は、ふとしたことで知りあったイギリス人のモンキュの城に招かれ、
そこでくり広げられる異様な性の饗宴を体験する。モンキュは並大抵のことでは興奮しなく
なっていて、あらゆる実験を試みる。最初は面白がっていた「私」も、だんだん彼が恐ろしくなって
逃げ出してしまう。後日、城が爆発して跡形もなく消えてしまったという知らせが届いて…
「私」は、何もかもふっ飛ばしてしまった最後の「射精」に、あらゆる手段をもってしても
満足を得られなくなったモンキュの姿を思うのであった・・・
(…)たくさんの蛸が蠢く水槽の中に少女を投げ込み、体中に軟体動物を貼りつけた処女の肉を
味わうといった設定。ちぎれたレースや絹、血と蛸のスミ、砂と塩水の入り混じった世界。
少女の顔面に貼りついた蛸は醜悪な仮面を連想させる。
たとえば、巨大な氷細工の男根を、料理番の女の輝く肛門に挿入、内臓へと続く粘膜を弄る試み。
他にも、ブルドッグとの人獣交媾、ユダヤ人にドイツ軍人の睾丸を噛みちぎらせたり、
ビクトリア女王を会話の中で辱めるといったシニカルなエピソードもある。
http://homepage2.nifty.com/weird~/sirononaka.htm アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ
1909年パリに生まれる。
大学では考古学を専攻。ドイツ・ロマン派、エリザベス朝の詩や演劇、バロック文学、
ロートレアモンやシュルレアリスムに熱中し、1934年より詩を書きはじめた。
詩、小説、評論、戯曲とその活動の領域をひろげる。三島由紀夫の「サド侯爵夫人」を
仏訳し、その日本上演に際して1979年に来日。1991年死去。
『できるだけ残酷で破廉恥で、それが最後まで一貫しているような物語、悪の原理に対する
和解の接吻ででもあるかのような物語、すばらしいミルトンに淵源する魔王(サタン)の美しさが
魅力的に描かれているような物語、そういうエロティックな物語を私は書きたいと思ったのである』
――A.ピエール・ド・マンディアルグ
ウィリアム・フリードキン「エクソシスト」で、リーガンが局所に突き立てた十字架は、もっと大きく
なければならなかったし、ロマン・ポランスキー「ローズマリーの赤ちゃん」の交媾シーンは、
もっともっとエロティックに撮られなければならなかったと思う。
もっとも、ポランスキーもローズマリーを撮らなければ、シャロン・テートを失うこともなかっただろう。
「ヘルター・スケルター」とローズマリーをトレードにしていたチャールズ・マンソン一家は、テート事件以前にも、
絶頂の瞬間にセックス・パートナーを撃ち殺すという快楽の奥義を実践していたという。彼らの実録映画において、
そのときの様子を話すメンバーの女性などは、カメラの前で、あたかも死まで高められたオルガスムスを味わって
いるかのように見えた。快楽のあとには、死が、手ぐすねひいて待っているのであろうか。
「カリギュラ」で知られるティント・ブラス監督の「サロン・キティ」は、「城の中のイギリス人」が下敷きで
あるかのように、性の実験を繰り返すナチスの若き将校が主人公である。ヘルムート・バーガー演じる主人公を
待っているのも「死」ほかならない。
http://homepage2.nifty.com/weird~/sirononaka.htm
サディストというのは、殺さないですよね。フロイトがいっているように、サディズム というのはエロスとタナトスが融合してできていて、エロスの要素もあるわけ ですから、サディストはいじめて、(…)相手が侮蔑されて、痛いめにあって、 苦しんでいて、しかも逃げだせないでいる姿を見るのが好きなんであって、殺して しまったらそれまでですから。(…)快楽殺人とサディズムは違うんじゃないか と考えています。(…)サディストが殺す場合は、ここまで虐待して逃がすと あぶないということで殺すのではないんですかねえ。本家本元のサド侯爵は殺人を やっていないでしょう。(岸田秀氏「倒錯」伊丹十三氏、福島章氏との対論 ネスコ) 西洋のキリスト教的プラトニズム─精神的なものだけが善で、肉体的なものは 悪だという考え方─に対する批判ですが、(…)反発の代表がサドみたいな人ですね。 (…)エロチシズムというものにすごい超越性を見ている。(…)エロチシズムの 極地は、一方的に男が女を侮蔑する、陵辱する、暴力によって犯すところに洗われる。 最終的には、殺してしまうところまでいく。そういうところでもっとも エロチシズムは高まる、そういう思想なわけです。(…)日本では、猟奇的なもの だとか、肉体的なものに対する偏執的志向は出てくるけれども、あそこまで極端な 思想というのはたぶん出てこない。(…)永井荷風だとか、谷崎潤一郎だとかは、 そんなどんづまりまで突き詰めない。その中には、(…)日本的な好色文化 ─エロスというのは人間が生きていく上でどうしても必要な糧であるという感覚が あると思います。(竹田青嗣氏「現代日本人の恋愛と欲望をめぐって」岸田秀氏との 対論 KKベストセラーズ)
確かに「最低な奴」なんだと思うよ、自分でも…。 前スレの「短気で、自分本位なバカ」な発言は本当に恥ずかしい。。ごめんなさい。 重ねてお詫びします。短気は性分で、ホント損だね。反省してます。 「粘着気質」も否定出来ないし、救いようのない馬鹿野郎だね、まったく…。 215−218については気持ちは変わらないし、嘘はないよ。 イザベル・アジャーニと同じ土俵にのったのじゃないか、との感慨もさらに 深くなるばかり。。219以下は穴があったら入りたい気持ちだけどね…。 このスレ「引用に次ぐ引用」で、皆あきれていると思うけど、「つまらない」 「面白くない」といったレベルでなく、「突き詰めた批評」を抽出してみると、 見比べて見て面白くないかい?目線の違いでこんなに陰影が変わるのか、と 不思議に思えたがなぁ。ちょっと茶々入れてくれる人がいて、そこから深読みを 進めて思いのほか視界がひらけたり、目障りだったと思うけど、「自分本位」では とても役に立ちました。 鬼六読者も見てるかもしれない、そう思えばこそ団の著作も読み進めてきたし、 さらには上にひも解いてきたSMの解説ページものめり込んで見てきた。それが映画 『花と蛇』という鉱山を掘り進めるためには、もの凄く有効だったと思う。。 このスレを立てなければ自分こそ単なる石井マンセーで終わっていた。。 「死んでもいい」や「ヌードの夜」には及ばないとか、「黒の天使」の方がいい、 なんていう単純な感想にとどまってしまったろうな。。 日本中に「怒り」を撒き散らした迷惑スレだったと思うけど、上で「妄想」した 以上の「作家石井隆」のめぐらした「仕掛け」がまだまだ隠れていると想われるので、 いっしょに探してくれませんか。。
業界の詳しい人いたら教えて欲しーい。写真集、映画関連グラビアは「広告」なの?「記事」
なの?その場合、どのくらいお金を出すものなの?社団法人 日本雑誌広告協会が発行してい
る「2000年 雑誌広告掲載料金表」によれば、記事中1P(モノクロでも)少年ジャンプ
1,400,000円 少年マガジン900,000円とのこと。
http://deroguro.main.jp/new/omake/omake5/05.html [袋とじ8P]みたいなのが主流の『花と蛇』のPR、いったいどのくらいお金をかけたのかな。
「持ちつもたれつ」で無料なんてことはあるのかな?
誰かのコメントで「陵辱される杉本彩の顔は聖母マリアのよう」というのがあったが、
その通り。あきらめから生まれる底なしの慈愛を感じさせ、杉本彩は絵のように美し
い。SMシーンはエロティックだが悪趣味ではなく、映画史に残したいほどの映像。
しかし他の部分に余計なものが多い。過激さに真っ向勝負した杉本彩の美と心に監督が
翻弄され、SMシーンににパワーを使い果たしてしまった感じ。ヤクザはお約束のよう
に下品。緊縛師は無言の方がいい。観客は人形で良かった。殺しは不要。アクションも
いらない。セレブの奥さまならネグリジェはシルクを着るべき。非現実場面はすごくい
いのに、現実場面では中流階級の主婦みたいに描かれてしまう。そんなところに映画と
しての貧乏くささを感じる。高級で上品で洗練されているからこそエロティック。現実
か妄想かという映画なのだから、全編を徹底的にそぎ落とし、抽象化し無機質に描き出
していたら、花魁、刺青、麻縄といった日本独自の文化を背景に、格調高い映画として
世界に通用したと思う。惜しい。最後のタイトルロールの裸で踊るシーンは媚びがあって
イヤだ。僕が感動したと書いたのは、杉本彩の心意気と美しさに、です。
http://www.tsutaya.co.jp/item/com/cp_use00000001.zhtml?pdid=10034301&catcd=1
団鬼六の短編の最高傑作に『ふ貞の季節』というものがある。粗筋はこうだ。
――――SM作家の黒崎は、取材と称して自室にモデルの女・京子を連れ込
んでは、川田に緊縛させセックスを楽しんでいた。ある日、その様子を目撃
した妻の静子が、黒崎との夜の交渉を絶つと言い出した。だが、実は彼女
は川田と肉の関係を持っていた。そのことを川田から聞き出した黒崎は、嫉
妬に震えながらもふたりのセックスに創作意よくを掻き立てられてしまう。しか
し、そんな夫に静子は冷たくも穏やかに言い放つ。「だめよ。あなたは川田の
ように上手に縛ることは出来ないでしょ? あなたは文章だけの、観念だけの
男よ」やがて、黒崎と静子に別れの時がくる。それから20年後、黒崎は刊行
を差し控えていた私小説を世に送り出す。
――――この黒崎とは、団鬼六自身のこと。川田という男が、ありすえ剛がモデル
だったそうだ。
◆ありすえ剛という当代随一の緊縛師・責め師を鬼源役と緊縛指導に抜擢
した石井隆は、さすがにSMが分かっている。
その、ありすえ剛という謎の人物は、ここで紹介されている。
http://www.bonnou108.jp/SM/Sm401.htm ちなみに、この擦れで73をカキコしたのはホンモノのありすえではないはず。
ありすえほどのインテリゲンチャは、こんなコピペをしないはず。とにかくクラフト・エ
ビングの論文を原書で熟読したという伝説がある人だから……。カキコするとした
ら、ありすえ剛の知人の芥川小説家・村上龍にでも書かせるんじゃないか(藁)
『天使のはらわた 名美』 (…)名美は看護婦の美也を取材した。彼女は強姦されたときの恐怖で気がふれ、 精神病院に入院(…)当時の恐怖が甦り名美に襲いかかった。(…)名美はその ショックで、自分が強姦されるという被害妄想に陥り、狂乱状態となって(…) 村木の姿が、犯そうとする男に見え、名美は凶器で、力いっぱい村木を突き刺した……。 『沙耶のいる透視図』 (…)沙耶の方から橋口に電話をしてきた。又も強引に抱こうとするが、沙耶は 不感症だからダメだと告げる。(…)沙耶は橋口に、以前分裂症で入院していた 病院で神崎の母親と会い、神崎と知り合ったことを告げる。(…) 『ちぎれた愛の殺人』 (…)村木の浮気騒ぎでショックを受け狂気に走ってしまった名美に対して、 村木は女たちを殺し続けることで償っていたのだ。(…)名美は巨大な換気扇 に首をからまれ、村木もまた自ら死を選ぶように陽子に刺されていった。 (キネ旬データベースより) 『花と蛇』 「ここで起きることはファンタジ〜、全て“夢”なのです」 しかし、こうもピエロ男は静子に言い放つわけで… 「(このままだと)京子は狂ってしまうよ。」 確かにシンプルですね。。
原作は団鬼六の代表作。その後、本人とフォロワーたちによって数限りないバリエー
ションが書かれることになるその原型の物語であるが、(…)本作が「団鬼六の映画
化」としては決定的に欠落させているのは「最後までヒロインが性的快感に屈しない」
というその一点である。(…)もちろん石井隆は、夫とのメロドラマ的再会のために
そうしているのだが、そこに決定的な計算ミスがある。(…)「妻を第三者に差し出
す夫の心情」をすべて台詞で言わせてしまうのもヒドい。あれじゃ演出家失格だ。あと
石井組はいつもそうだが録音技師が下手クソ。台詞が明瞭でない場面がいくつもある。
…と、いろいろ文句はあるのだがこれだけの虚構を、ともにもかくにも観客に信じさせ
たのだから立派なものだろう。映画が終わって地下の映画館の暗闇から歌舞伎町のネオ
ン街に出ても、まだ夢から醒めていないような……夢の続きを観ているような感覚がし
ばらく続いたのは、映画に力がある証拠。(…)きっと今ごろ、Vシネ女優あたりを主
演に持ってきて予算を縮小した続篇をパート5ぐらいまで企画してるんだろうけど、
どーせなら予算を倍増して高岡早紀を口説き落とすぐらいの気骨を見せてほしいものである。
(…)
http://www.ne.jp/asahi/hp/mastervision/archive2004b.html 漫画にしたり映画にしちゃ絶対いかんものもあるね。曰く『家畜人ヤプー』、曰く『花と蛇』。
杉本彩が体当たり演技なのはいいけど、石井隆のフィルターを通したら、あの手の世界全体が
惨めっぽく思えてしまったのは私だけか...。今日日淫靡な世界を描くのは極端に難しい。
http://www1.ezbbs.net/18/aurora/
杉本彩が、「花と蛇」をやるというのを聞いて、彼女は、この種の映画には向いていな
いというのが、最初に思ったことだった。若いころ、谷ナオミ主演の日活映画を見てSM
に興味を持ち、団鬼六の「花と蛇」を読んだ。正直、最後まで読みきれなかった。繰り
返し繰り返しの凛辱シーンの連続に耐え切れなくなってしまったのだ。想像するに、SM
は、主従を強要する過程に快感があり、主従関係の「完成」は、快感の喪失につながる。
私が、その小説を最後まで読みきれなかったのは、このことと関係があるように思う。
(…)谷ナオミの豊満な肉体の縛りと比較して、杉本は向かないとの判断は、このメイ
キングを見て変わった。上述の「強要する過程」が容易でないほど、快感が増すわけで、
SM的でない彼女のほうが、より適役となる可能性があるかもしれないと思ったからだ。
それは、彼女の女優生命を掛けた気迫からも感じられた。
http://www.discas.net/nifty/d/s?ap=c_goods_detail&goods_id=081844209 あの鬼才石井隆は何処へいっちまったんだろう。早速、団鬼六原作の「花と蛇」(東映
ビデオ)を見た。女もやくざも男も描けてない。これじゃ〜まるで漫画だよ。せめて女
ぐらいちゃんと描いて貰いたい。原作にこだわる必要は全くないけどやくざ描くんでも
現代のやくざをちゃんと描いて貰いたかったな。画面はどっかでみたハリウッド的シチュ
エーション入れちゃっているけど内容はまったく漫画だよ。(…)とうのたった杉本綾の
裸と放尿シーンなんて誰も見たくもないわな。石橋蓮司演じるよぼよぼじじいの浅ましい
フィクサーぶり。石井隆の脚本もなっちゃないよ。衰えたもんだ、つくづく歳を取るとい
うことは罪深いもんだ。まあ、期待したおれっちが悪いんだけどね。
http://roji.seesaa.net/article/215657.html
誰かのコメントで「陵辱される杉本彩の顔は聖母マリアのよう」というのがあったが、
その通り。あきらめから生まれる底なしの慈愛を感じさせ、杉本彩は絵のように美し
い。SMシーンはエロティックだが悪趣味ではなく、映画史に残したいほどの映像。
しかし他の部分に余計なものが多い。過激さに真っ向勝負した杉本彩の美と心に監督が
翻弄され、SMシーンににパワーを使い果たしてしまった感じ。ヤクザはお約束のよう
に下品。緊縛師は無言の方がいい。観客は人形で良かった。殺しは不要。アクションも
いらない。セレブの奥さまならネグリジェはシルクを着るべき。非現実場面はすごくい
いのに、現実場面では中流階級の主婦みたいに描かれてしまう。そんなところに映画と
しての貧乏くささを感じる。高級で上品で洗練されているからこそエロティック。現実
か妄想かという映画なのだから、全編を徹底的にそぎ落とし、抽象化し無機質に描き出
していたら、花魁、刺青、麻縄といった日本独自の文化を背景に、格調高い映画として
世界に通用したと思う。惜しい。最後のタイトルロールの裸で踊るシーンは媚びがあって
イヤだ。僕が感動したと書いたのは、杉本彩の心意気と美しさに、です。
http://www.tsutaya.co.jp/item/com/cp_use00000001.zhtml?pdid=10034301&catcd=1
映画芸術 406 平成16年2月発売 編集プロダクション映芸 石井隆の「花と蛇」 成田尚哉氏 (抜粋) 石井隆が団鬼六の「花と蛇」を撮ると聞いて一瞬不思議な違和感を覚えた。 (…)石井隆は当時、(…)SM雑誌にイラストを寄稿していた。 また「SMセレクト」「SMファン」「SMコレクター」「SMキング」と百花繚乱の アブノーマル雑誌の巻頭を飾るのは必ず団鬼六だった。 短い時間とはいえ両者とも同じ出版業界の空気を吸い異常性愛をテーマに エロを志向した者同士なのである。 (…)世界的に有名なタンゴダンサーと言う設定に多少の違和感を覚えてしまう (…)しかし杉本彩を最大限に生かす当然の設定と考えれば納得もいく。 そして彼女の顔のアップのショットに監督の執念が見えた。まさに名美がそこにいるのだった。 (…)原作を忠実に映像化することが映画監督の仕事ではないのかもしれない。 これは石井隆の『アイズ ワイド シャット』なのだった。 麻縄、和服、羞恥責めの鬼六SMではなく、ボンテージワールドなのである。 そう考えるとしみじみ納得もいく。 「死場処」を出版し劇画でも映画でも男と女の生と死の地獄を見つけてきた石井隆だ、 死者と生者がさまよう狭間に立ち続ける石井隆が見つめているのは ボンデージの向こうの果てにある死の世界であろう。 団鬼六が描く通俗的でドキドキするような猥褻性、とりわけ美しい女性の羞恥の姿を愉しむという 変態的快楽は見いだしようがないのかもしれない。(…)しかし考えてみればこれほど見事に 「見世物」を描いた映画も近年珍しいのではないだろうか。(…)ここにかって 堀江延満としてSM雑誌にイラストを書いていた石井隆を想起することができるし団鬼六、 その原作への敬意を読みとることができるだろう。(…)
キネマ旬報 4月下旬号 キネマ旬報社 劇場公開映画批評「花と蛇」 桂千穂氏 (抜粋) (…)現在、SM映画の認知度は遥かに高くなった。が、野卑な神経でヒロインを陵辱するのが SMエーガと誤解している作者が大半。彼らには美への憧憬なんかないから、 SM作家のもうひとつの条件・耽美の感覚ももちろんある訳はない。 (…)石井隆は、かつて数々のスター女優を耽美の映像を駆使し、ひたむきに撮りまくって光り輝かせた。 そして、ここでも杉本彩一代の力演を絢爛とスクリーンに刻みこんだ。だが、野村との愛の葛藤物語は、 強烈すぎた杉本の輝きの前にはぼやけてしまったような気がするのだ。 キネマ旬報 4月下旬号 キネマ旬報社 日本映画時評187 うつっているものがすべての世界 山根貞男氏 (抜粋) (…)石井隆の『花と蛇』にもむろん期待した。同じ団鬼六の原作を映画化した小沼勝の傑作(74)が あるだけに、なおさらである。だが、腑に落ちない。杉本彩のヒロインが責められるさまは 凄絶というにふさわしい迫力で、責め場の前後のドラマ展開も巧みに構成されている。 にもかかわらず、わたしは石井隆の映画を見て初めて居心地の悪さを感じた。 理由ははっきりしている。(…)映画を見る者としては劇中劇を見るような居心地の悪さを 強いられるのである。(…)なぜ石井隆が間接話法を選んだのか、わたしにはどう考えても想像がつかない。 (…)杉本彩の美貌とみごとな肉体をまさに映画の餌食にすることで、SMという性的行為の即物性と観念性が 浮かび上がるとき、そこに映画の本質的な魅力が結実するはずなのに、その前に仕掛けが立ちはだかる。 SMを題材にすること自体、間接話法であろうに、なぜ直接話法を回避したのか。 疑問ばかり涌き出てくるので、もう一度この映画を見に行こうと思う。(…)
リストは
http://movie.goo.ne.jp/cast/86154/より 評は「官能のプログラム・ピクチャア ロマンポルノ1971−1982全映画」フィルムアート社より。
●緋ぢりめん博徒(1972)(原案)
●花と蛇(1974)監督■小沼勝「(…)SM作家・団鬼六の同名小説の映画化であるこの作品は、にっかつロマン・ポルノ初の
本格的SM映画というふれ込みだったが、小沼勝はその倒錯志向と独自な官能描写で、SMという一種の様式的セックスに
挑戦し、見事、期待を裏切らない。が、この作品が果して本格的SM映画かというと…。なるほどSMシーンは
ふんだんにある。毛虫、緊縛、浣腸、宙吊り、また汚物や性液、スカトロジー。(…)まず、谷ナオミの
精神すら肉体化してしまったような、妖艶、豊満な肉体が素晴らしい。(…)その肉体が発散する官能の濃密な緊張感は、
犯しがたい気品を通りこし、犯されることによって生じる気品とでもいった迫力すらある。(…)液体を注入された彼女が、
からだをふるわせ、ガマンにガマン、あげく大量の汚物を放出するシーンの生理的快感の表情は、
どんなに汚され、責められても、そのすべてを自分の肉体の表層で消化してしまう谷ナオミという
稀有の女優のありようそのままを思わせ、官能、感動的である。(…)前半のテンポある緊迫感が後半、妙に腰くだけ、
なんとも奇っ怪な変格SM映画になってしまっている。(…)一番の要因は、谷ナオミを責める側の、陳腐な描かれ方にある。
夫にしろ、青年にしろ、その母親にしろ、いずれも純粋、本格的な倒錯志向者ではなく、夫は妻に対する欲求不満の
単なるイヤガラセ、青年はマザコンと不能の自己嫌悪、母親は息子可愛さと、つまりサディズムの原因が、いかにもメロドラマ的なのだ。
(…)しかし反面、その陳腐さ故に、谷ナオミの意志としての肉体がドラマを越えて輝き、この辺りの小沼演出は正確である。(…)」
◎北川れい子氏
●新妻地獄(1975)(原案)●お柳情炎 縛り肌(1975)●夕顔夫人(1976) ●奴隷妻(1976)(原案)監督■加藤彰「脚本の桃井章のSMものは珍しいが、 加藤彰の演出では谷の裸身のお腹の上にビフテキの肉を乗せ、それをナイフとフォークで 高橋明が食べるシーンが圧巻だった。肉の脂と女の肌のそれ、そしてナイフによって 切り裂かれた肌からにじみ出る血が混ざりあって、ゾッとするようなブラック感覚が あふれた場面で、高橋明の吸血鬼ぶりに凄味があったと思う。」◎高橋聡氏 ●檻の中の妖精(1977)●幻想夫人絵図(1977) ●団鬼六 〈黒い鬼火〉より 貴婦人縛り壷(1977)監督■小沼勝「薄暗くよどんだ風景、土蔵、 笠井とその妹との近親相姦的イメージ、その倒錯セックスと、映画は猟奇的雰囲気の中で展開されるが、 谷ナオミの自意識が、肉体の責めの過程で徐々に破滅され、と共に、ますます肉体が輝くくだりは、 SM的なストーリーといえばそれまでだが、まさに官能そのものだ。時々登場する小猿の醜悪さも効果的である。」 ◎北川れい子氏 ●黒薔薇夫人(1978)監督■西村昭五郎「話は単純だが、谷ナオミの肉体をひたすら 即物的に責めるSM場面が圧巻である。ロープ、鞭、首枷、ヴァイブレーター、 赤いローソクといったSM小道具もさることながら、ナオミが口から大漏斗で水を 飲まされる場面は、真正面のカメラがみるみるうちに膨張する腹をとらえ、 異様な迫力。またブランデーを下から注入され、全身がピンクに染まるのも。」 ◎北川れい子氏
●団鬼六 薔薇の肉体(1978)(原案)●縄地獄(1978)●団鬼六 縄化粧(1978) ●団鬼六 花嫁人形(1979) ●団鬼六 縄と肌(1979)監督■西村昭五郎「“SMの女王”谷ナオミの引退記念映画で、 藤純子の引退記念映作『関東緋桜一家』にひけをとらぬ西村昭五郎の名調子が冴えた任侠ポルノ編。 東映出身の松本功のシナリオだけに全編東映タッチで、谷ナオミはむろん藤純子、 そして健さん役は山本昌平。ヒロインが引退口上を述べるところは西村演出の愛惜の思い入れあり。」 ◎高橋聡氏 ●団鬼六 少女縛り絵図(1980)監督■小沼勝「少女とのSM性愛を通して日常回帰する男の話で、 廃屋で開始されたSMプレイは、だんだんと屋外、つまり日常へと拡大されていくのだが、 初めて少女をSM責めにする場面の嬲る側と嬲られる側の緊張感が、プレイをくり返す過程で 共犯関係へと移行し、全裸、緊縛姿にコート一枚の少女が公園に連れ出される場面の 異様な日常性など見事だ。」◎北川れい子氏 ●団鬼六 縄炎夫人(1980)●団鬼六 薔薇地獄(1980)●団鬼六 白衣縄地獄(1980) ●団鬼六 女秘書縄調教(1981)● 団鬼六 女美容師縄地獄(1981) ●団鬼六 女教師縄地獄(1981)●団鬼六 OL縄地獄(1981)
●団鬼六 少女木馬責め(1982)監督■加藤文彦「加藤文彦の監督デビュー作。 『天使のはらわた』シリーズの劇画家石井隆の脚本を、より劇画タッチのカットでつなぎ、 少女の過激な情念とSM幻想を、残酷にエロティックに描き出す。セーラー服の少女のスカートが 風でパッと広がって、キッとふりむくと教師と目が合うカットの歯切れの良さ。 ラストのみんな夢よねと呟くヒロインが切なくも哀れ。」◎北川れい子氏 ●団鬼六 蒼い女(1982)●団鬼六 蛇の穴(1983)● 団鬼六 美女縄地獄(1983) ●団鬼六 修道女縄地獄(1984)●団鬼六 SM大全集(1984)(スクリプター) ●団鬼六 縄責め(1984)●団鬼六 美教師地獄責め(1985)●花と蛇 地獄篇(1985) ●団鬼六 緊縛卍責め(1985)(脚本も)●団鬼六 蛇と鞭(1986)●花と蛇 飼育篇(1986) ●花と蛇 −白衣縄奴隷−(1986)●団鬼六 人妻なぶり(1987)●花と蛇 究極縄調教(1987) ●夢どれい(1987)(脚本も)●団鬼六 生贄姉妹(1987)●団鬼六 妖艶能面地獄(1988) ●不貞の季節(2000)●およう(2000)●花と蛇(2003)
『団鬼六 少女木馬責め』製作国:日本 製作年:1982 配給:にっかつ 監督:加藤文彦 原作:団鬼六 脚本:石井隆 《解説》被虐的性欲を持つ女子高生と、彼女のために学校を辞めた教師の姿を描く。 脚本は「天使のはらわた 赤い淫画」の石井隆、監督はこの作品がデビューとなる加藤文彦、 撮影は「実録色事師 ザ・ジゴロ」の杉本一海がそれぞれ担当。 《ストーリー》女子高生の名美は、平凡な顔とは裏腹に、夜になると、 自分自身で自分の体を縛って楽しむマゾ的趣味を持っていた。名美は毎夜、不良少女たちに 襲われる夢を見て、その度に、快楽に股間がグッショリ濡れて眼覚めるのだった。数日後、 それが現実となった。不良少女の知子と亜里に襲われた名美は、その時、教師の村木に救けられた。 しかし、名美は村木にパンティーのシミを見られてしまう。数日後、怒った知子と亜里は村木を 無人の教室に誘い込むとズボンを脱がせ、強引に一物を口に含んだ。そして、たかまる欲情はおさえきれず、 村木の上に腰を沈める。そこへ、女教師の山内が入ってきた。強姦されたという知子と亜里に、 村木はこの前のいきさつから名美に弁護を頼むが、彼女は何も話そうとしない。 村木は学校を辞めさせられた。
二年後。女子大生になっていた名美は万引をして逃げる村木と出会った。
久しぶりの再会に酒を酌交す二人。村木は名美のパンティのシミを思い描いて
自慰を繰り返していたという。泥酔した村木を名美はホテルに連れて行って眠らせた。
目覚めた村木は、部屋の中に、木馬をはじめ、あらゆる責め道具があることに気づく。
そこはSMホテルだった。それから二日間、二人はSMプレイに没頭していた。
三日目、村木は持病の発作に襲われ、錠剤を口に入れたまま倒れてしまった。
しかし、水がなく喉に流し込むことが出来ない。両手両足を縛られた名美は、もがきながら
部屋中を捜し回るが水に代るものはない。そこで、名美は自分の小水を飲ませようと
村木の顔の上にまたがるが、その時、彼は息絶えていた。名美の小水の音が
異様に部屋の中に響いている。至福の境地に酔い痴れているような村木の顔に、
名美の黄金水はとめどなくほとばしった。
http://www.walkerplus.com/movie/kinejun/index.cgi?ctl=each&id=17250
●映画秘宝 洋泉社 4月号 「(…)かつてロマンポルノで5本映画化されているとは知っていましたけれど、 女性という存在の描き方が真逆のように思っていました(…)」 「(…)映画としてはそのまま映像化するのはまず無理です。 (…)たとえばキーワードとして出てくる土蔵とか秘密ショーとか、当時は隠微な イメージを醸し出す装置だったんだけど、今の人たちはそれ自体を知らない。 原作をそのままにやりたかったけれど、杉本彩という存在がはまらないと 思ったんですね。(…)」 ●キネマ旬報 三月下旬号 「男女が共に堕ちていくというテーマでなら、かつてぼくも所謂SM的な関係を 描いたことはあります。(…)人間の強さや弱さ、覚悟が見える、そんな女と 男の絶対的な距離感が基本でしたね。それに対し、団先生の原作は女性を聖なる 存在に高めてそれを陵辱するという仕掛けが基本ですから(…)」 「(…)『花と蛇』が書かれた昭和30年代当時は、まだ近寄りがたいほどの美女 という概念が生きていて、それが団先生の世界。でも今、絶世の美女は何人も いてもテレビに出てるから親近感が先に立つ。ですから、近寄りがたさを演出 するために、杉本彩という美貌と肉体の持ち主を、原作を壊さない範囲で時代を 意識した装置、つまりコロシアム、ショー形式、セレブといった映画的な仕掛けに 立たせ、フェイクながらも神秘性を出せるかが勝負どころだった。(…)」
この映画に、静子夫人が羞恥に顔を歪めて屈辱に打ち震えるようなシーンや、 恥ずかしさや口惜しさを吐露するような台詞がきちんとあるのかどうかということです。 つまり私のような者から評価させて頂くと、こういう「映画」の価値は、 AVのSM陵辱モノ等と違い、辱められている役者の羞恥・屈辱感が良く出ているかどうかにあると思うのです。 プレイの過激さだけならSMビデオとかの方がよっぽど過激なわけで、 でもAV女優には要求できない本物の役者の恥辱の演技、これがどれだけ出ているか、 それが「映画」にした価値だと思うんです。 かつての日活ロマンポルノのSMモノなどは、そこらへんが良くできた佳作もありました。 近年はほとんどその血脈は途絶えてしまったので、 この「花と蛇」にはAVではできない、そこらへんを期待していたのですが・・・。
ちなみに「花と蛇」、今日観ました。 鬼六ファンというほど鬼六氏のみを信奉しているわけではなく、鬼六をも含む 耽美陵辱官能小説ファンと致しましては、「かなりダメ」の烙印を押さざるを 得ません。鬼六ファン100人いたら、99人が、「これはオレが観たいのと違う」と 言うと思います。理由はID:Z65VZ+G/でも語っていますが、ヒロインを辱める者達が、 ほとんどヒロインと関係ないところにもあります。あれでは本当にただのSMショウです。 原作には千代という、遠山家のお手伝いが出て来るのですが、この人が運転手の川田やヤクザのチンピラや スケバンと共に、静子を辱める立場になり、今までは格下だった知り合いに辱められる静子のせつなさが あるのに、この作品では辱めを観覧するのは仮面をつけたセレブ達という、全く持って「見られて口惜しい」と 静子が思う度合いが低すぎます。 これもかなり「的外れ」な要素です。設定的にしかたがないなら、せめて京子を辱めるのは、 京子にボコボコされたチンピラにして、「嬢ちゃんさっきはよくもやってくれたなぁ。それなのになんだ 今のこの恥ずかしい格好は?」ぐらい言って欲しかったところです。 このスレをみたところ監督のファンもこの作品にはダメ出ししているようなので、 あの作品は杉本彩ファンぐらいにしか受けないのではないでしょうか? 彼女のファンなら、大サービスな作品だったのではと思います。
週間アサヒ芸能 2.12 「花と蛇」主演女優 杉本彩 袋とじ 週間ポスト 2.13 公開秒読み杉本彩『花と蛇』禁断シーン衝撃公開 袋とじ (文/さかもと未明) 週間現代 2.14 初公開!『花と蛇』杉本彩 禁断の性シーン FLASH 2.17 陵辱ショット袋とじ これはもはや事件だ!杉本彩 袋とじ 週間アサヒ芸能 3.4 「花と蛇」陵辱ヘア 杉本彩 袋とじ 週間ポスト 3.5 杉本彩「悶絶ファックシーン」 (文/石井隆) 週間現代 3.6 杉本彩『花と蛇』悶絶ファックシーン FLASH 3.9 杉本彩 息の根止める、これが問題の決定的場面! 袋とじ (文/室井佑月) 週間ポスト 3.19 杉本彩 花と蛇 CD−ROM 衝撃の映像封入 週間現代 3.20 杉本彩『花と蛇』緊縛エクスタシー FRYDAY 4.2 杉本彩“ハダカを超えた”フェロモンに陶然! FLASH 4.13 杉本彩 オーガズム[絶頂]定的場面! 袋とじ(文/室井佑月) 週間現代 (キャプション不明。さすがに食傷気味となり、購入しませんでした。w) 週間ポスト 4.30 杉本彩『花と蛇』封印された衝撃映像 袋とじ (これ以外にもあったかもしれません。。)
http://www.j-magazine.or.jp/FIPP/FIPPJ/F/busuuA.htm#A2 によれば、
各週刊誌の発行部数は以下の通り。 …( )は『花と蛇』グラビア掲載回数。
週刊現代 講談社 81.0万部 (4)
週刊ポスト 小学館 85.1万部 (4)
FRIDAY 講談社 49.0万部 (1)
FLASH 光文社 45.0万部 (3)
週刊アサヒ芸能 徳間書店 39.0万部 (2)
この数字で計算すれば、上記のグラビア『杉本彩の裸身』が撒かれたトータル数は
926万4000部!! となります。映画『花と蛇』の盛況を
メディアとの連携による面があることを捉え、見つめ直すのも楽しいことかと。。
ちなみに「袋とじ」のみカウントすると、383万部になります。
383万冊を男どもが「破る音」を想像すると、凄いものがあります。w
ミスキャストだったのか。「花と蛇」という選択がまずかったのか。
「羞恥」する杉本彩なんて想像出来ないから、「羞恥」させない演出に傾いたのか。
こんな新聞コラムみつけた。「(…)恥ずかしい姿を人目にさらすという点では十七世紀に
目が点になるような前例がある。国王や貴族が朝起きて穴開き椅子にすわり、そこで排便の
儀式をおこないながら接見希望者にまみえるのである。絶対王制のこの時代、排便しながらの
接見は、国王や貴族が接見相手より圧倒的に高位である(もっといえば相手を人と思わなくて
いいほど偉い)ことを示威する行為であったようだ。相手を対等な人と思っていなければ
恥ずかしくない。恥ずかしさ(おのずと生じる軽蔑の念)をこらえなければならないのは、
見せられるほうだ。(…)」中野香織 モードの方程式 日本経済新聞 4月23日
まぁ、これは有名な話だがな…。
若い人は映画監督としての石井隆しか知らないかもしれない。
しかし、私にとっては依然として、ニコンを首にさげてエロスの断片を切り取っている
石井隆なのである。そして、厳しい緊縛の要求。思い出せば、自分の力以上のものを
引き出されていた。石井隆は厳しい眼を、一瞬、いたずらっこのように輝かせていた。
自分の映像が手に入るまで妥協しない石井隆との幸せな夏を思うとき、
三度目の夏は忘れられない夏になった。
調教師・鬼村源一役 有末剛氏
http://kinbakutei.com/diary/html/index.htm −撮影中で記憶に残ってるエピソードはありますか?
石橋蓮司さんとの絡みのシーンですね。蓮司さんだったからこそ私も、神々しいまでの
“穏やかで母性的な愛”で包み込む様な表情になれたと思うんです。自分の中では想像も
してなかった姿になれたのは、蓮司さんの周りを引き込んでいく役者としてのエネルギーの
凄さですね。
http://av.jav.co.jp/hanatohebi/
(注・ネタバレあり)
(…)今はこれだけAVが氾濫していて無料動画でも本気レイプものとか食糞とか
見れる時代なので、SMシーン自体はそんなに目新しいものではない。だからこそ
Mに開花していく過程をいかに魅せるかが見所だと思っていたのだが、これがシーン的に
ブツ切りの連続で落ち着かない。何か最近では本編では観られない動画を公式サイトから
ダウンロードできるというあこぎな商売を始めたのでその影響か。ますますもって
この映画が何のために作られたかわかってため息が出る。(…)結局物語は破綻したまま
「ああそうですか、それではさようなら」といった程度のシメで終わる。
そもそもセレブ御用達の秘密SMクラブであるならば、彼らが100万というお金を出しても
見たくなる程のもの(つまり俺たちがスクリーン越しに観ている映像。特に夫とハメて
先生的に彩的にキター!のところは重要な映像のはずなのに観ていてそうは感じなかった)
がなければ成立しないはずだ。有名人と本番が出来るから来てるのか?
黒幕のやりたかったことも良く分かんない。さんざん突っ込まれたまんこを見て
「きれいだ・・・」まずヤるのはアンタなのでは。
まあ艶やかさが開花するまで待ったということならそれでもいいけど、
その歳でヤッたらああなることは承知のはずで、ああこの人はそういう
シメかたをしたかったのかと思ったら「よくも先生をー!」えええー。
原作の設定を変え、ダンススターという設定も肝心のダンスシーン
(結構出てくるけど別に伏線でもなんでもない)がどうでもいい出来でガクリ。
まあそんな映画だった。
http://kintama.2log.net/archives/blog20040402.html
(注・ネタばれあり)
この映画はなんと言っても杉本彩の存在感である。
この映画で杉本彩は何かを吹っ切ろうとしているに違いない。それは女優としてなのか
1人の女性としてなのかはわからないが、観ている私にもそれはビンビンと伝わってきた。
杉本彩の芝居を超越した芝居(矛盾してるが)を観るだけでも価値はある映画である。
しかしストーリーはというと、ちょっと陳腐である。
石井隆は今まで、暴力とセックスに満ち溢れている闇の中でも光を放っている
ヒロインを描き続けてきた。あくまで暴力もセックスも人間を描くための手段でしか
なかったのだ。しかし今回の『花と蛇』はSM描写に重きを置きすぎてしまった感が
ある。私はこの映画を観ながらも、目の前のスクリーンで繰り広げられている
SM行為の表面的な部分を追うことしかできず、ヒロインに感情移入することも、
ヒロインの人間性を追及することもできなかった。このヒロインがSM行為を経験
したことで何が変わったのか、といったような人間の内面をもっと深く描きこめば
もっと味わい深い映画になったかもしれない。
そしてこの『花と蛇』は石井隆の映画の中では一番凶暴な映画である。
ヒロイン・静子は肉体的な暴力はもちろんのこと、言葉による暴力や視線に
よる暴力など、さまざまな暴力によって痛めつけられる。そして何よりも、
この映画には優しさがまったく感じられない。今までの石井隆映画は、
ヒロインを地獄に堕としながらもそれを見つめる視線に何かしら優しさが
感じられた。しかしこの『花と蛇』は徹底的に突き放した目線で作られている。
そこがこの映画が最も凶暴であると思える点である。
SMは痛みや恐怖という感情を徐々に増幅させるという点で、セックスよりも
石井隆作品ならではの空撮シーンと雨のシーンが健在だったことは嬉しかった。
だからこそヒロインがSM行為によって性的に開放される姿をもっと描きこんで
欲しかったと残念に思う。
http://plaza.rakuten.co.jp/chome/diary/2004-03-25/
この映画は四分の三くらいがSM場面なのだが、ありとあらゆる手を用いて杉本彩を 苛め抜いても、結局のところ彼女は何に対しても屈した様子がないのである。そして その関係性にこそ、石井映画のニュアンスが非常に本質的な形で現出しているのだ。 石井隆の脚本を相米慎二が監督した名作『ラブホテル』には、死を決意した寺田農が、 ホテトル嬢の速水典子を緊縛し、玩具を使って犯す場面がある。どうせ死ぬのだからと、 長年の妄想を実践しようと試みたわけだ。速水は嫌がりながらもいつしか歓喜に 身体をくねらせ激しく喘いでしまう。繰り返し絶頂を迎えてのけぞる速水を見た寺田は、 生の側へと戻る決心をする――。これは一体どういうことなのだろうか。自由を奪って 嬲るという手ひどい屈辱を与えたはずなのに、速水は寺田の卑小な満足を嘲笑うかの ごとく本能的な愉悦に狂喜する。(…)これは女性へ対する性的な(…)敗北である。 石井隆はその現実を踏まえた地平でヒロインを作り上げ、全力で痛めつけにかかるのだ。 (つづく)
石井映画のヒロインは、汚されれば汚されるほどその輝きを増していくと言われるが、
それは石井映画における女性への陵辱行為が、女性へ捧げられた無限の讃美と
強烈な嫉妬に他ならないからだ。例えば、成瀬の『めし』の「いかにも」な結末を見て
「成瀬は女性を抑圧しようとしている!」と憤慨する人がいるだろうか。いたとしたら、
その人は相当おめでたい。シナリオ、あるいは表面的なあらすじが意味をなさない映画
というものは、確かに存在する。石井映画の真髄はシナリオにあらず、もっぱら映像に
よって女性への愛と嫉妬を語るのである。とどのつまり、石井監督は冷血なサディスト
ではなく、あえて喩えるならば、自分がいたぶっている女性に嫉妬と羨望を抱く、
隠れマゾヒストなのである。(…)相手が「自由意志を持った生きた人間」である
ことを拒否し、自己の「思い」の中に閉じ込めることによってしか、男と女は一つに
なれないのではないか。(…)人と人とは、どちらかが現実に存在しつづける限り、
心身の完全なる合致を見ることはない。死んだ者だけが美しい。その認識の上に立って
作られた作品がいわゆるロマンポルノと呼ばれる映画の一群であり、石井隆の
作品なのである。
確かに杉本彩は偉い。よく頑張った。でも頑張ったのは杉本彩だけではなく、
「陵辱の一夜」というショーの細部を、一切手を抜かずに演出し、杉本の肉体と
苦悶の表情を粘り強くキャメラに収めていった、石井隆とそのスタッフだという
ことを忘れちゃいかんのですよ。そしてその苦闘のさなかに、石井隆の「勝てない…
…杉本彩には絶対勝てない」という無念のつぶやきを聞き取ることこそ、
この映画の醍醐味である。
ttp://mykit.jp/pc/zenbastreet/
(…)どうやら作り手の意識は団鬼六の『花と蛇』ではなく、キューブリックの遺作 『アイズ・ワイド・シャット』にあったようだ。(…)SMショーのシーンから 情感的な官能性を剥ぎ取ることに対して、作り手は実は確信的だったのではないかと、 僕は密かに感じている。その理由には二つのことがあって、一つはショーの進行役 たる珍妙なセーラー服姿のピエロ男の鬱陶しいキャラ造形が興趣を削ぐ方向に働か されていたこと、もう一つは団鬼六の世界のキーワードとも言うべき“女の羞恥心”を 執拗に責めつつ官能を煽り立てる構図が凡そ無視されていたことだ。原作の エッセンスに忠実ならば、ピエロ男の静子への言葉責めが羞恥心を突く形で前面に 出てきてこその『花と蛇』の世界となるはずだ。だが、作り手側には、この “羞恥心”に対する時代的共有への不安があったのではないかという気がする。 アナクロニズムの一言で一蹴されてしまいかねない。しかし、元々原作はそういう アナクロニズムに居直ることで成立するファンタジーとしての女性像の提示に 官能的妙味が宿っている作品なのだ。(…)“羞恥を焦点にした情感的な官能性”が 削がれた後に残っていたのは、まるで体育会系クラブのしごきとそれに耐える 女子部員の如きスポコンもののような肉体勝負の様相だった。(つづく)
その観点から言えば、杉本彩の根性は見上げたもので、『花と蛇』的な心理責めでは なく絵になる吊り物が主体のキツいシーンの連続技を次から次へと懸命にこなしている 感じだった。(…)もし、作り手が意図的に官能性を排除して晒し物にしたのなら、 そっちのほうが酷なSMだとさえ思ったのは、フェチ的にも本当にマニアックだと 思われるオーラル・マスクのギャグ(口枷)を噛ませて縛り上げ、あかい口腔を 覗かせつつ湧き出る涎を無惨に垂れ流させたりしていたからかもしれない。 ここには性器へのダブルイメージを滲ませるような鬼六的言葉嬲りがいかにも 似つかわしいのに、ピエロ男はそれをしない。静子に向ける彼の言葉が脅しや 説得に偏っていると、それが原作にもそっくりの形であるだけに削がれたほうの 言葉嬲りが際立ってくる。そもそも鬼六的SMというのは、肉体的には苦痛以上に 快感を引き出すことで心理的にいたぶることを主眼とした嫌らしさが身上だと いう気がする。多大なる心理的苦痛と幾ばくかの肉体的苦痛を圧倒する肉体的 快楽によって翻弄し、被虐の炎を炙り立てる筋立てなのだから、肉体的苦痛を 与えて苦しむ様に性的興奮を覚えるサディズムや肉体的苦痛そのものを性的快感と するマゾヒズムとは本質的に異なる。(つづく)
だから、スパンキングや鞭打ちといった責めはほとんど出てこない。そういう意味で は似非SMで、団鬼六自身もそう語っているらしい。しかし、だからこその愛好者も 得て、一般的認知を広げてきているのだろうし、日本ではむしろ鬼六的な調教馴致の ほうがSMとして了解されている風情すらあるように感じる。(…)その前提と なっているのが、どんなに辱められ貶められても失せることのない気高さを保つ どころか、その全てを受容してなお崇高な妖しさを獲得してしまう女性像の描出を 果たす彼の筆力だという気がする。それを支えているのは、ヒロインの“どこまで 行っても枯渇することのない羞恥心と慎ましさ”であって、それが損なわれれば 全て崩壊してしまう世界なのである。言わば、在り得べからざる大幻想に支えられ たファンタジーであり、願望的な女性崇拝に他ならない。だからこそ、今や少なか らぬ女性ファンを獲得してもいるのだろう。そして、彼の小説では、そのような ヒロインの絶対的な崇高さへの到達と同時に、どこまで行っても彼女を堕落させ られない敗北的状況を以て無間地獄とするような形で、その筆が置かれることが 多いように思う。(つづく)
(…)僕は“女の羞恥”を削いだ石井版『花と蛇』は、鬼六の『花と蛇』とは 訣別しているような作品だという気がしてならない。さらには、登場人物の名前や 役回りはそれぞれ見事に踏襲しながら、黒幕の田代一平(石橋蓮司)を卑しい 成り上がり者の街金融の社長ではなく、遠山家以上の権力を持つ大物にしている ところにも鬼六的世界との訣別が示されていたように思う。鬼六世界では、下賤の 者が嫉妬と羨望による逆恨みによって憂さ晴らしを夢見ないではいられない 不条理が人間社会の前提として不可避であることを背景にしているというのが、 お約束事の構図だからだ。手を汚さずとも裕福であれる境遇を得て、使用人を持つ ことが当然のようにして許され、天賦の美を外見のみならず徳性においてさえも 備えて生まれる人間がいる一方で、そのようなものからは一切無縁の境遇に生まれ る下賤の者がいて、その敗北感と屈辱感が根底にあっての嫉妬と羨望による逆恨み なのだ。加虐側の人物描写においては、常に性的嗜好性以上にそのことが強調され、 いささかお安い形でヒロインの不運と悲劇的構図が煽り立てられる。そのうえで、 下賤に生まれた者の敗北感は、どんなに嗜虐の限りを尽くしても決して癒されずに 敗北し続けるという無常感が自ずと漂ってくる。それこそが鬼六世界で加虐の側に 立つ者の大前提なのだ。(つづく)
(…)私は長年、SM小説というものを書いてきた。ところが私はいまだにSMと
いうものがはっきりわからないのだ。しかるに一時、私は淫靡残虐なるサディズム
小説家と見られてきた。私が長年、好んで書いてきたのは単に倒錯したエロスで
あって、いわば嗜虐小説というもの(…)残酷趣味はないのである。小説の中で
生傷がつくほど、女性を鞭でぶちのめした事もないし、女性を逆さ吊りにして
拷問するという残酷場面など登場させた事はほとんどない。女性に対する攻撃は
私の場合は肉体的な陵辱を主眼にしない。心理的な拷問が主題になっている(…)
私の異常性はなかなか監督には理解できないのである。
団鬼六「怪老の鱗 奇人・変人交遊録」光文社(2000年6月発行)より
約40年間に渡るピンク映画の長い歴史の中で一つの代名詞として欠かせないのが
“緊縛”“拷問”もの。今の世の中と違い、まだまだセックスそのものもオープン
ではなく、ピンク映画もアンダーグラウンドなカルチャーとして存在していた
1970〜80年代。アングラ文化とSMという行為が非常にマッチして、緊縛・拷問ものは
観客の圧倒的な支持を集めた。荒縄や鎖が食い込み、白い肢体が苦痛と快楽にうねりを
あげる。サディスティックに女体を弄ぶことのカタルシス。そんな欲望を満たして
くれるだけではない。 縛られた女たちの姿は、日本的様式美に彩られた、まさに
アート感覚にあふれた美しさ。
http://xcity.jp/SHIN-TOHO/SERISE/kinbaku/menu.html
これはまぎれもなく、セックス・ムービーの傑作である。ポルノ映画、エロ映画と
いう言い方がしっくりこない感じがするので、この言い方を使う。しかしこの映画
には日活ロマンポルノへのオマージュが随所に感じられる。ある種荒唐無稽な
チープな展開。湿気に満ちた性描写。妄想と現実の交錯。堂々たるセックス・ムービー、
世界に誇れる出来だ。それと従来のポルノ、ことにAVにおいてはやたらと長まわしの
セックスシーンが退屈でしかたがないのだが、『花と蛇』では撮影で二台のカメラを
同時にまわし、スピーディに編集、スイッチングされているので臨場感が保たれ、
まったく飽きない。本当のSMマニアにとってみれば、まだまだだという向きも
あろうと想像するが、私みたいなトーシロにとっては描かれた緊縛シーンは美しい
ものだった。これまで石井隆の映画にはあまり満足せず、というのは劇画時代の
本人には及んでいないと思っていたところ、今回石井氏は見事に映画監督として
腕をあげたものだ、と感じ入る。とにかく徹底した、しかも確信犯的な
反フェミニズムの映画であり、あたまにきた女性達はぜひ反攻ののろしを
あげてほしいものだ。杉本彩はりっぱだった。捨て身になったとき、女は女優になる。
女優になるということはなにかを確実に失うということだ。そのことがわからなければ
女優志望は永遠と志望に留まるしかないだろう。
http://www1.odn.ne.jp/info/t_factory/wondering/last.htm
ところで先週の私の『花と蛇』評について、周囲の女性群に非難ごうごうである。
いやあ、あの映画はあまりまじめに見てはいけないのよ。(…)『花と蛇』って
タイトルが出るというこの出だし自体大笑いなんだからさあ。このことで
山田山子に呼び出される。「杉本彩がいいなんて、あんたの女のセンス疑うわね」
「いやいや、いいなんていってない。よくやったといったわけでして」
「単なる露出狂だろがっ」「まあ、それもそれでたいしたもんじゃないんだろかと
思うわけです。人類皆露出狂になれるわけではないのですから」
「あんた、露出狂好きか?」「出し渋りよりはいいけど。でも、石井隆のヒロイン
ちゅうのはあまり実物の女優さんでは難しいんですよ。劇画の名美みたいな
実物はなかなかいない。確かに杉本彩は雰囲気不足ですが、雰囲気のある
女優さんを選ぶと今度は体がいまいちだったり、中途半端な脱ぎ方しか
しなかったりするわけですよ。だからトータル的には杉本でよかったと思うわけですよ」
「でも、あんた、知ってっか、杉本彩、今おめえ何様状態の勘違いで、いっちゃってるぞ」
「まあ、ありがちなことですね。では、さようなら」と私は脱兎のごとく逃げる。
中野の夜である。
http://www1.odn.ne.jp/info/t_factory/wondering/diary.htm
レイトショウで銀座シネパトスの『花と蛇』。客はカップル結構多し。
近年稀に見る企画と宣伝のうまくいった日本映画ではないかと。
この映画は観た人間同士でしっかり討論したいですね。
何をやっても石井隆は石井隆の映画を撮るねえ。
http://users.ejnet.ne.jp/~manuke/carodiario/diario0403.html 配偶者や恋人から暴力被害を受けている女性のことを「バタードウーマン
(被虐待女性)」と呼びます。夫からの暴力を黙々と受けている女性というと、
弱々しく、能力の低い女性を想像されるかもしれません。ところが事実は大きく
異なります。私がみた限りでも教師、美容師、医師、弁護士、会社役員など、
無力で能力が低いとはとても思えない女性が、夫や恋人からの暴力を受けている
のです。暴力を積極的に受けたい人はいません。それではどうして殴られ続ける
(逃げない)という状態に陥ってしまうのでしょうか。(…)男性がパートナー
に奮う暴力について、妙に寛容な社会的土壌が残念ながら今でもあります。そして
結婚生活を維持する上で、女性に我慢や努力をやたらと求める風潮も根強く残ります。
これはオトコ社会における男の甘えを満足させるための実体のない”物語”です。
しかしそのオトコ社会の枠組みが成人男性の暴力を含む「甘え」まで許容する
ことには大きな問題があります。
http://www.sanin-chuo.co.jp/tokushu/tomarigi/26.html
(…)高いテンションで始まる新『花と蛇』にぼくは期待を寄せた。ぼく自身は谷ナオミの
大ファンなので、この映画にどんな見所があるか複雑な気分だったけれど、どうやら
まったく違う映画となることだけは冒頭の数カットだけでも予見できた。しかし、それは同時に
団鬼六の不在も表していたように思えた。冒頭を観ただけで感じられるのは、石井隆という刻印
だった。(…)より正しく言えば、日活ロマンポルノ的なもの、谷ナオミ的なもの、
団鬼六的なもの…などから遠い映画だということだ。前半は人間ドラマで見せている。
(…)デジタル撮影であろう全体的に暗い色調がシリアス・ドラマと調和して、
ロマンポルノの、特に『花と蛇』のフィルムの色鮮やかさと対極をなしている。後半は
エロ一直線である。(…)意図としては「本気のSM」を描くことが中心となっていて、
団鬼六文学のようにSMをめぐる人間(男)たちを描こうとはしていない。(…)石井隆は
ロマンポルノで言えば、『天使のはらわた』などに絡んでいることもあって、やはり
本気の「性」に迫ろうとする作家なのだろう。(…)仮面生活の重層性みたいな物語展開は、
(…)ドラマとしても中途半端な感じだった。いや、やっていることは本気のドラマなの
だけれど、ぼくたちが享受する文脈と出演者たちと石井隆や企画者の意図がそれぞれ
バラバラになってしまっているようで、それゆえに、薄っぺらな印象をぼくが抱いて
しまうのかもしれない。少なくともSMシーンのある場面などはとても官能的で、杉本彩の
挑戦に感動してしまうこともあるのだから。
http://d.hatena.ne.jp/tido/200403
(…)杉本彩というまさかこの場に及んで出現するとは思わなかった“ポルノスター”の
誕生を心から祝福したいです。そして、松田仁のプロデュサーとしてのセンスと
眼力の確かさ、監督石井隆の職人的才能に頭を下げたいです。谷の悩ましげな肉体とは
対照的に杉本はまるでアスリートのようにシャープで研ぎ澄まされた肉体でしたね。
明らかに絵コンテに基づいて撮られているカット割りは70年代の劇画を思わせもします。
CGの世界でカンフーしたりピストルの弾をよけたりするサングラスのお兄ちゃんが
ヒーローで満足ならそれでもよいでしょう。マフラー巻いた韓国の二枚目、結構なことです。
しかし、ボクにとってのヒーローは真っ白い肌にコーティングされた
肉体というしなやかであまりにも美しい鎧をまとった杉本彩、彼女こそそう呼ぶに
ふさわしい存在だとおもいますねえ。
http://casty.jp/hikaritown/main/353
新潮文庫より1999年11月発行。美人でインテリの妻を弟子に寝取られ、逆上するものの
嫉妬はミじ、やがて狂態を収めたテープを聞きつつ自慰にふける男の「不貞の季節」。
あらゆる女性よりも女性的な、日本舞踊宗家御曹司との切ない交合「美少年」。
快楽教に堕ちた男女の狂宴の一夜「鹿の園」――責める男と呑み尽くす女が精液と
愛液にまみれる三篇、そしてロマンポルノの女王・谷ナオミの哀しいほどに潔い半生
「妖花」。
http://unlimitedtitle.sunnyday.jp/Remark/Literature/Dan.html 主役の杉本彩に華がありません。こういう役ならば、女性が見てもうっとりして
しまうような美しさを、少なくとも責められるシーンでは見せなければならないと
思いました。この女性を責めるとはこういうことなのか、と観客に納得させられる
ような。総じてキャスティングが「薄い」ですね。また責めのシーンを入れ替わり
見せていますが、SMと言っても結局、主人公の女性が段々と様変わりしてゆく
心理を描けなければ感じることも出来ないと思うのです。それがなかった。
http://6328.teacup.com/gamera/bbs
このところの日本がやけに鬱陶しいのは、公序良俗の締め付けだけが厳しく、
言論や行動の自由な許容度がどんどん小さくなっているからではないか。
(…)そんな時代に抗するように、杉本彩のヌードが週刊誌のグラビアを飾って
話題を呼んだ『花と蛇』が、予想以上にヒットしているようだ。映論規制の限界
ギリギリまでSMシーンに挑んだ杉本彩の熱演を賞賛する声は一様に高く、
パブリシティーが十分に行き渡れば、成人映画もまだまだ稼げるということだろう。
このところ企画力に乏しいピンク映画界も、フンドシを締め直して取り組んで
欲しいものだ。
http://w2222.nsk.ne.jp/~amovie/kouki.html 映画というのは、結局、監督が表現しようとした世界がどれだけ、その映像により
実際に表現されているか、そしてその表現された世界を、私(観客)が監督と
供に楽しむことが出来るかどうか、で作品の評価が決まる。「花と蛇」は面白かった。
http://d.hatena.ne.jp/nico-nico/
元フォーク・クルセイダースのメンバーであった加藤和彦が奥様のミカ夫人、 高中正義、
小原礼らとともに1972年に結成した日本最古のハードロック・バンド・ サディスティック
・ミカ・バンド。「名前の由来」は、もちろんプラスティック・オノ・バンドのパロディ。
結成当時はあのメリー・ジェーンでも有名なつのだひろ氏もいたらしい。加藤和彦・
高中正義に加え、高橋幸宏が在籍していたスーパー・グループとしても知られる。
72年にサイクリング・ブギでデビュー。とにかくなんといっても代表作といえば74年に
リリースされた名盤黒船。江戸風情な日本テイストをハードロック/ファンク/
フュージョン/プログレなど当時先端をいく文脈のなかで見事に結晶化。それはまさに
“和洋折衷”という表現がぴったりな、まったく独自のサウンドであった。もちろん
3曲目タイムマシンにお願いは語り継がれるべき名曲。
http://www.hmv.co.jp/news/newsDetail.asp?newsnum=308150076
かの三島由紀夫をして「戦後の日本人が書いた観念小説としては絶頂」とまで言わさしめた
怪作、よもや知らぬ人はいない、と言っては言い過ぎかもしれぬが、マゾヒストが歓喜を
以て流した血潮を凝固させて世界を塗り固めたような紛々たるその小説世界には、
マゾッホもかなうまい。
http://www.so-net.ne.jp/tokyotrash/_chijin/chijin01/chijin00.html 三島さんが「かつては評価し買っていたが、今は心境が変化し評価できなくなった」と
言っていた(…)『ヤプー(正編)』では、皇室や日本の伝統への冒涜的な記述が多く
なるのとほぼ同時に、言葉のこじつけ遊びも甚だしくなり、文学的な面白さは損なわれて
いきます(…)いかにも三島さんが激賞したかのように喧伝するのは、三島さんの文学的
感性に対する冒涜
http://homepage2.nifty.com/equus/umasen_numa.htm 「奇譚クラブ」という十字路での作家たちの邂逅。三島、団、そして北の町に住む
熱心な読者であった高校生石井監督。数年後、処女画集「死に場処」を手に団鬼六を
単身尋ね、その意気に感じた団鬼六は定価の数十倍にあたる代金をその場で支払う…。
映画「花と蛇」という作品はこういった「作り手のドラマ」も共に味わうと面白くない?
<SM映画も東映が作るとこうなるのか>
当初杉本彩の放尿シーンという前評判ばかり気にしていたが、利尿剤を含んだ
溶液を、口枷で強制開口したままイルリガードルを使って飲ませるというプレイには
感心した。イルリガードルと言えば、今まで浣腸しか使っていなかった私には、
実に新鮮に感じた。また、バイブではなく実際に男がかぶっている仮面の鼻が
ディルドオというのも、ストリップの天狗の面を使ったショー以上に妖しげだ。
映画の中で目立つのは十字架への腕の水平縛りシーンだ。これをトータルすると
結構長い時間だ。撮影時にはこれに数倍する時間がかかるだろうと思うと、SM
未経験の杉本彩はよく耐えたと思う。特においらん姿の下、全身にほどこされた
鮮やかな刺青姿のまま十字架にはりつけされ、それに霧雨のようなものが
降りそそぐシーンは実に幻想的だ。これらのシーン以外にも、ロウソク責め、
レズSMプレイ、逆さ吊り水責め、濡れ手拭での鞭打ちと、当初あまり
SMシーンは期待できないのではないかと思っていたがまずまずである。
杉本彩ファンにとっては、彼女の動くヘヤ・ヌード姿を見れるだけでも
満足なのではないのだろうか。また、異様な集会風景は、トム・クルーズと
ニコール・キッドマンが主演した映画「アイズ・ワイズ・ショット」を思い
出してしまう。この場面で欠かせないのが、司会というかピエロというか、
彼の巧妙な衣装としゃべりはまさに演技賞ものだ。全体のストーリー展開も
安易に結論に達っしようとはせず、最後まで決して単調ではない。あまり
書きすぎるとこれから鑑賞される方の楽しみを奪ってしまうので、この辺で
と思うのだが、今回私が出かけたのは銀座シネパトスだったが多くのカップルが
楽しそうに鑑賞していたことを付け加えておこう。M女の貴方はぜひ御主人様と
同伴されることをお勧めする。
http://amds.jp/disp_bn_pc.php?published_id=46481
(28)鬼六小説で柱くくりつけは頻出するが、十字架は記憶に無い。宗教的意味合い (「死」「犠牲」につながる)なんか無論なかろう。(27)磔刑に宗教的な意味合いは 無いと思う。 …どう見たって宗教画の磔刑のシーンが導入されたのはなぜ?この『花と蛇』は男側の 妄想の上に立つ「現実」ではなく、静子の「記憶、精神」の上に構築された物語だから じゃないか。静子の救いを求める気持ちが十字架へと結晶化した。「地獄」という暗闇に 立つ十字架、そこで「天」を見上げあえいでいる翼をもがれた「天使」こそ杉本彩じゃないのか。 未向の磔にされた十字架は「右」。キリストと共に磔にされ、恨みの断末魔を上げて 「地獄に落ちた」者として知られている。ここまで石井監督が計算しているとすれば、 (83)の表現のように「冷水を浴び」たような怖さがあるよ。。 ラストカットの杉本彩の視線に何を見るのか。(38)男が「一つになれた」「モノにした」 と思い上がった次の瞬間に、手の届かないところに去っていく女の、拒絶とも受容とも 判別しかねる、しかし、なぜか、この上なく美しく感じられる、そんな視線です。 …「生」を越境するだけが「手の届かないところ」じゃない。 杉本彩に石井監督が渡らせたものは何か、そこまで追い詰めた「地獄」の十数日間「花と蛇」を 映画化するということは「何を描くことで」完成すると考えたのか。。 石井隆という人はホント、傑出した「映画人」だと自分は思うのだが…。。
もうのっけからサービス満点な感じである。(…)誘拐されてからがこの映画の本番である。
(…)ここがもう一歩なのだ。彼女の転落にいたる企みはしっかり描かれているが、調教が
わたしにはもの足りない。本職の「縛り」は美しいし、静子を演じる杉本彩はエロい声を出す
のだけれど、いつ終わるとも知れない退屈な感じがほしかった。(…)SMショーの司会(伊藤
洋三郎)は看護婦だったりバレリーナだったり、いちいち女装して出てくるのであった。この
司会の人がもうたまらなくいい。静子を言葉責めにして観客を楽しませる。こういういかがわ
しい人になりたい。
すっかりでき上がった静子を、歩くこともままならぬ田代が抱くことでこの長い誘拐事件は
終わる。静子はすっかりでき上がったおかげで建物から出ることができたのだが、それ以後も
夢と覚醒の別がつかないままだ。ビルの屋上で旦那と踊りはじめたところで、これだから
俗っぽい映画は困る、なんて意地の悪い感想を漏らしたものだった。ところがところが。
もう、彼女は夢の世界で踊り続けるしかないのだと知った。
あと、マネージャー兼ボディガードの京子(未向(みさき))がまたいい。これがまたかわいいの。
この京子たんが実は静子のことが好きだったっていうのはどういうことかー。
(…)ホンマ、ええモンを観た。
http://www11.big.or.jp/~azumasan/urapage/diary/2004/03.shtml
>>204 今ごろ…また怒られるのかな?(長いしw)
「オルガスムスを描かない」でフィードアウトでつなぐ手法は石井輝男監督の『徳川女
刑罰史(1968)』の後半で多用されていました。官能小説のテーゼを無視したカット割に
不満と疑問が噴出し、それでは「鬼六『花と蛇』の看板を借りた」と言いたくもなりま
すよね。。でも、自分としては「吹雪舞う中の空中開脚緊縛花魁」「緋牡丹刺青荒縄縛り」
ですぐに連想しちゃったのは『東映』であり『新東宝』だったんですよね。。『東映』の
後ろに『ビデオ』は付きますが、『東映』の看板を背負った作品を作る以上、石井監督は
「にっかつカラー」ではなく「東映カラー」について想いを巡らしたりしたんじゃないか。。
(144)はその辺りを感じて<SM映画も東映が作るとこうなるのか>と唸っちゃっている
ようで、相当の邦画通なんじゃないかな。。
(4)で653さんが「日活ロマンポルノのSMモノなどは、(…)近年はほとんどその血脈は
途絶えてしまった」と書かれてますが、「拷問、緊縛もの」という「血脈」は「完全に」断た
れてます。(「暴論」かもしれませんが、サド、マゾッホからの血筋は邦画において絶えた状
態です。)そのような「空白」の若い世代は『花と蛇』を観て「訳わからん」状態になってし
まうか、「すげー斬新」ととるか分裂しちゃった気がするのです。。前スレでリポートあった
ように劇場に詰めかけた50代、60代の世代は『花と蛇』をどのように受け止めたか、聞いてみ
たいな。。「現代」「ポスト」「アサヒ芸能」を「宣伝」の媒体に選んだ「理由」も合わせて
考えてみれば、いくら議論を重ねても正体は?めない「ある世代のための映画」なのかもしれ
ませんね。。
T162p、B93(60-Fcup)、W59、H90p。S23p。
血液型A型。5才から劇団に入り、TV、舞台、ミュージカルと地道な活動を続け、
人気Vシネマ「くの一シリーズ」で主演デビュー。パーフェクトな肉体と実力を
兼ね備えた新女優!!趣味:サックス、ビリヤード、釣り 特技:モダンバレエ、
ジャズ、ダンス、日舞、タップ、声楽、パントマイム、殺陣、シャンソン
写真を撮影したのが彼氏とあって、実生活が浮き彫りとなっております。
少しずつ撮る側も撮られる側も大胆になっていくのが解ります。
全てポラロイド写真ってのもイイ感じです。
そしてぼかしが入っているような写真もあります。あ〜淫靡な香りがする。
未向写真集 LOVE POLA MISAKI 愛の記録 Photographs by ♂(恋人) ぶんか社
http://www.atc.ne.jp/seikindo/pic/lovepola.htm (おまけ)
私は、杉本彩の活躍と成功を素直に喜べます。
ずっと、彼女の活躍が気になっていました。
それは数年前の話です。
http://yabou.blog.ocn.ne.jp/yabou/2004/05/_.html 二人とも苦労人よのう。。
>>246 「「闘争アクションとしてのSM」=劇画『黒の天使』。。
この作品はやっぱり面白い。女殺し屋の群像劇の中にほとばしる冷たい暴力は、
濃厚な時代の匂いを越えて突き刺さるパワーがある。そこにはラブ&ピースなんて
主張は入る透き間も無い。
http://www.textlife.net/TEXT/kurono.htm 「どうまさったんですか その声 入っていいですか」
「失礼します!! ああ!先生!?」(倶楽部・黒天使)
「今こんなビデオが米国の金持ちの間で出回っているのよ」
「メイド・イン・ジャパン ショーグンポルノと言ってね………
一本5万ドル ただのポルノじゃないわけ…… それが……」
「人間がただの肉になって行くのを散々見てるあんたも顔を背けたわね
あらゆる快楽に飽きた金持ち達が 今一番欲しがっているポルノがこれ」
「女なかせのあんた(緊縛師)なら 傷一つ残さずに吐かせるんだろ?」
「もう6階位上がっているのに 出口がないよ この階段!」
「だから言ったろ?その黒幕はね 箱根の山奥の広大な地で 核戦争にも
生き伸びれるだけの地下壕と私設の軍隊に護られて余興に殺人ポルノを楽しん
でるんだとサ」「目的が果たせたとしてもよ その箱根の山奥からどうやって
脱出するのよ…」「見なよ光りだ!いよいよ出口らしいよ」
「ここが箱根の山奥?」「東京のド真ン中じゃないか!」
(ブラック・ストリッパー)
やがて、操られることに飽きた魔世は、最後のエクスタシーを求めるかのように
「黒天使」の背後にある巨大組織に牙を剥く。迫り来る暗殺者たちと闘いながら、
傷だらけの天使は修羅場の彼方に走り去る。
http://www.comicpark.net/okuda040326.asp 御殿場、箱根方面にある廃墟へとたどり着くクライマックス。そこは元「映画スタジオ」。。
「このSM文学の金字塔に、生意気だけど俗に言われる“石井ワールド”をどう有機的に
コラボレートさせるか、半端じゃなく慎重になったのは事実です。」
『映画秘宝』4月号石井監督インタビュー
「魔夜」の容貌とキャラクター、相棒の「絵夢」の無垢で体育系のイメージは、杉本彩と
未向そのままなんだ。。入手出来たら読んでみて。(上の「ブラックストリッパー」は
「まんだらけ出版」のほうには載ってません。古い方を探してね。)
『天使のはらわた 名美』 (…)名美は看護婦の美也を取材した。彼女は強姦されたときの恐怖で気がふれ、 精神病院に入院(…)当時の恐怖が甦り名美に襲いかかった。(…)名美はその ショックで、自分が強姦されるという被害妄想に陥り、狂乱状態となって(…) 村木の姿が、犯そうとする男に見え、名美は凶器で、力いっぱい村木を突き刺した……。 『沙耶のいる透視図』 (…)沙耶の方から橋口に電話をしてきた。又も強引に抱こうとするが、沙耶は 不感症だからダメだと告げる。(…)沙耶は橋口に、以前分裂症で入院していた 病院で神崎の母親と会い、神崎と知り合ったことを告げる。(…) 『ちぎれた愛の殺人』 (…)村木の浮気騒ぎでショックを受け狂気に走ってしまった名美に対して、 村木は女たちを殺し続けることで償っていたのだ。(…)名美は巨大な換気扇 に首をからまれ、村木もまた自ら死を選ぶように陽子に刺されていった。 (キネ旬データベースより)
原作は団鬼六の代表作。その後、本人とフォロワーたちによって数限りないバリエー
ションが書かれることになるその原型の物語であるが、(…)本作が「団鬼六の映画
化」としては決定的に欠落させているのは「最後までヒロインが性的快感に屈しない」
というその一点である。(…)もちろん石井隆は、夫とのメロドラマ的再会のために
そうしているのだが、そこに決定的な計算ミスがある。(…)「妻を第三者に差し出
す夫の心情」をすべて台詞で言わせてしまうのもヒドい。あれじゃ演出家失格だ。あと
石井組はいつもそうだが録音技師が下手クソ。台詞が明瞭でない場面がいくつもある。
…と、いろいろ文句はあるのだがこれだけの虚構を、ともにもかくにも観客に信じさせ
たのだから立派なものだろう。映画が終わって地下の映画館の暗闇から歌舞伎町のネオ
ン街に出ても、まだ夢から醒めていないような……夢の続きを観ているような感覚がし
ばらく続いたのは、映画に力がある証拠。(…)きっと今ごろ、Vシネ女優あたりを主
演に持ってきて予算を縮小した続篇をパート5ぐらいまで企画してるんだろうけど、
どーせなら予算を倍増して高岡早紀を口説き落とすぐらいの気骨を見せてほしいものである。
(…)
http://www.ne.jp/asahi/hp/mastervision/archive2004b.html
杉本彩が、「花と蛇」をやるというのを聞いて、彼女は、この種の映画には向いていな
いというのが、最初に思ったことだった。若いころ、谷ナオミ主演の日活映画を見てSM
に興味を持ち、団鬼六の「花と蛇」を読んだ。正直、最後まで読みきれなかった。繰り
返し繰り返しの凛辱シーンの連続に耐え切れなくなってしまったのだ。想像するに、SM
は、主従を強要する過程に快感があり、主従関係の「完成」は、快感の喪失につながる。
私が、その小説を最後まで読みきれなかったのは、このことと関係があるように思う。
(…)谷ナオミの豊満な肉体の縛りと比較して、杉本は向かないとの判断は、このメイ
キングを見て変わった。上述の「強要する過程」が容易でないほど、快感が増すわけで、
SM的でない彼女のほうが、より適役となる可能性があるかもしれないと思ったからだ。
それは、彼女の女優生命を掛けた気迫からも感じられた。
http://www.discas.net/nifty/d/s?ap=c_goods_detail&goods_id=081844209 あの鬼才石井隆は何処へいっちまったんだろう。早速、団鬼六原作の「花と蛇」(東映
ビデオ)を見た。女もやくざも男も描けてない。これじゃ〜まるで漫画だよ。せめて女
ぐらいちゃんと描いて貰いたい。原作にこだわる必要は全くないけどやくざ描くんでも
現代のやくざをちゃんと描いて貰いたかったな。画面はどっかでみたハリウッド的シチュ
エーション入れちゃっているけど内容はまったく漫画だよ。(…)とうのたった杉本綾の
裸と放尿シーンなんて誰も見たくもないわな。石橋蓮司演じるよぼよぼじじいの浅ましい
フィクサーぶり。石井隆の脚本もなっちゃないよ。衰えたもんだ、つくづく歳を取るとい
うことは罪深いもんだ。まあ、期待したおれっちが悪いんだけどね。
http://roji.seesaa.net/article/215657.html
誰かのコメントで「陵辱される杉本彩の顔は聖母マリアのよう」というのがあったが、
その通り。あきらめから生まれる底なしの慈愛を感じさせ、杉本彩は絵のように美し
い。SMシーンはエロティックだが悪趣味ではなく、映画史に残したいほどの映像。
しかし他の部分に余計なものが多い。過激さに真っ向勝負した杉本彩の美と心に監督が
翻弄され、SMシーンににパワーを使い果たしてしまった感じ。ヤクザはお約束のよう
に下品。緊縛師は無言の方がいい。観客は人形で良かった。殺しは不要。アクションも
いらない。セレブの奥さまならネグリジェはシルクを着るべき。非現実場面はすごくい
いのに、現実場面では中流階級の主婦みたいに描かれてしまう。そんなところに映画と
しての貧乏くささを感じる。高級で上品で洗練されているからこそエロティック。現実
か妄想かという映画なのだから、全編を徹底的にそぎ落とし、抽象化し無機質に描き出
していたら、花魁、刺青、麻縄といった日本独自の文化を背景に、格調高い映画として
世界に通用したと思う。惜しい。最後のタイトルロールの裸で踊るシーンは媚びがあって
イヤだ。僕が感動したと書いたのは、杉本彩の心意気と美しさに、です。
http://www.tsutaya.co.jp/item/com/cp_use00000001.zhtml?pdid=10034301&catcd=1
映画「花と蛇」を観てみた。(…)なんじゃこりゃ!? まるで「ブレードランナー」
か「地獄の黙示録」だぞ、おい。こういう作品をエロいとかエロくないとか真面目に
論評するのもどうかと思う。ま、でも10年前のボンデージブーム以降、いわゆるSM物は
盛り下がってるわけだし、こういう映像美とシュールさでハードな責めをコーティング
するという方向性は今までとは違った新しいファン層を獲得していくには正しいかと思う。
(…)バットマンがカラフルでポップなヒーローから闇の騎士へと変貌したように、「雑
学」を「トリビア」、「金持ち」を「セレブ」と呼びかえるようなロジックが必要なのだ。
http://homepage2.nifty.com/keokeo/bancho.html ほとんどR指定と思いますが、SMの何たるかがかいま見れて、私はすごーく面白か
ったです。様々なSMシーンで、1番凄みがあって、美しかったのは花魁姿をさせら
れて縛り上げられた姿と、花の刺青をされて縛られている姿ですね。杉本彩の抜群の
プロポーションは、どのシーンを見ても美しいのですが、赤い長襦袢の花魁姿はぞく
っとするほど妖しかったです。この写真のごとく赤の襦袢の持つ色気でしょうかね。
(…)人間の営みって、必ずいつも何か、真理が潜んでいるのだと思うのですが、S
Mもきっとそうなのでしょうね。
http://blog.melma.com/00109335/ 緊急レポート番外篇/DVD「花と蛇」特典映像
石橋蓮司が登場、老人の妄執を見事に演じますが、その後に疲れた……と本音が出ま
す。続くインタビューもなかなか興味深い発言が出ますが、それは観てのお楽しみと
致します。
http://www12.ocn.ne.jp/~nacky/tokuten.html (え〜、なになに、教えてよ。。)
杉本彩は素敵だ。拍手喝采。こら、皆も拍手せんか! キレイ綺麗な「タワーリング・インフェルノ」のフェイ・ダナウェイじゃなく、 同じ洋物で例えるなら…(うわっ、歳がばれる) 鼻の穴広げて歯を食いしばる「エアポート75」のカレン・ブラックだから。 嘔吐寸前の土俵際で踊ってみせた「ポぜッション」のイザベル・アジャーニだから。 「美醜」への執着を捨てて、裸一貫で演じ切った姿には「男義」さえ感じる。 杉本彩以外で、「花蛇」のパフォーマンスに応じられた女優が日本にいるかなぁ。 この露出に耐えられた俳優っているかなぁ。 AVの「ホフク前進」とはフィールドが違うわけでしょ、映画って。 1年前の彼女との段差を想え。こんな「バンジージャンプ」見たことない。 奥歯を抜きまくって演技に猛進した松田優作を想い出すよ。 藤竜也と殿山泰司の「愛のコリーダ」を思い出すよ。
女性の感想。。
基本的には本当に好きな相手としか天昇しないのが当然の事で、金持ち変態ジジィの
究極の欲望を成就させちゃっていいのか??で、静子にとってあの陵辱が悪夢でした
で終わっていいのか?石井監督これでいいのか?と、一人の女性として帰りの電車に
揺られながら考えていたのでしたo(*^^*)o
http://www5b.biglobe.ne.jp/~ih38/0207eiga/0401-06.html 主演、伊藤洋三郎様でしょ?え、違う?あれ?違う?それにしても、相変わらずステ
キ。洋三郎様ったら。昔、飲み会でお会いした事があるの。丁度、『洋三郎にハマリ
★注意報』が発令されてた時に、思いもよらず、いきなり『生ヨーザブロー様』だっ
たから、(…)胸がきゅんきゅんしたワケ。で、ヨーザブロー様ったら、(…)可愛
がってくれて、二次会にも誘ってくれたワケ。で、当然、別にそれ以上はなんもなかっ
たんだけど、(…)ヨーザブロー様に、未だに密かに夢中なワケ。『花と蛇』観て、
ヨーザブロー熱が、再び燃え上がっちゃった…、
http://yaplog.jp/kinacox
画家の伊藤晴雨(1882〜1961)は十才(数え)の時、母親に連れられて本所二ツ目の
相生町五丁目にあった寿座という芝居小屋で、初めて芝居を見たという。(…)晴雨
が初めて見た寿座の芝居は晴雨に強烈な印象を与えた。殊に『吉田御殿招振袖』の責
め場は鮮烈だった。「其吉田御殿奥庭の責場で鬼丸(市川鬼丸)の竹尾といふ侍女が
責められる場面は凄婉其物であった。当時は前述の如く電燈の照明が無いので真ツ白
に塗った美しい化粧、それはたしかに徳川時代の鉛を中心にした旧式の白粉で人形の
様に白一色に塗りツブした化粧、それに漆のように一糸乱れずに結び上げた高島田の
髷が、意地の悪い御殿女中の二人に左右から責められる度に島田の根が段々にゆるん
で後れ毛が頬にかかり髷がバラバラになる。其時間が大変だ。今の様に二ツ三ツ打つ
と直グ引っくり返って了ふのでは無くって真に自然に髷が壊れる。クヅクヅに壊れる
のを打って打って打ちのめす。気絶をすると気附を与えて、又気がつくと打つ。竹尾
は口惜しさの余り悪女中の袖を歯で噛むと之れを振り切って又打つ。其時間が凡三十
分余もあったろうか。其時私は子供心にも高島田の美しさと女の責場の美しさがゾク
ゾク頭脳に浸み込んで了って今日に及び、後日責場の研究と迄発展して了ったのであ
りました」「此吉田御殿の責場を見たのが後に私の責場研究に没頭して終に一生の事
業として、一部の人々には誤解を招き乍らも終始一貫生涯の研究に日もいまだ足らず
として倦まざる努力を続けつつある原因と基礎を作ったのは実に此一日の観劇にあっ
たとすれば、人生の運命と云ふ可きか又宿命といふべきか、何れにしても不可思議な
操りの糸につながれて居るのでは無かろうかと考えて居る」
http://www.kyosendo.co.jp/rensai/rensai11-20/rensai16.html
続・女性の感想。。
蛇が杉本さんの口の中に入っていく、これって…強制フェラチオ…ディープスロートを
イメージさせるものとしてあるのでしょうが、ある程度入ったところで侵入が停止しま
すよね、私はこの時点で…あぁこの映画ってきっと…私の欲望を満たしてくれそうにな
い...と思いました…(この後、女性の欲望、生理に添って丁寧にこと細かく論じてあっ
て、ちょっと面白いですよ。表現も巧みです。少し拾ってみますね…)
それをされる時.....された時の 主人公の気持ちの変化がさっぱりわからない.....
開口具のベルト.....2本のタイプですよね..... ベルトを通され締め付けられる時の
表情..... 表情って秒速で変化しますよね... 多分.....1本目と2本目では微妙に
違うと思います..... 意味を察した瞬間には瞳孔や瞼・睫・眉毛・皮膚が変化すると思
うのですが... とうとうやってしまった... という気持ちってあると思うんですよね...
縄を回される時や.....解かれる時や.....解かれた後だって...その前後では気持ちが
変化しますよね.....産毛の震えや皮膚の硬直を見せて欲しかったかなぁ.....と.....
拳銃を持っているんだから...獲物を撃ち殺す事で永遠に自分のものにするのかなぁ...
とか思いましたけど.....
http://review.messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&tid=m318933&sid=2077605574&m
映画芸術 406 平成16年2月発売 編集プロダクション映芸 石井隆の「花と蛇」 成田尚哉氏 (抜粋) 石井隆が団鬼六の「花と蛇」を撮ると聞いて一瞬不思議な違和感を覚えた。 (…)石井隆は当時、(…)SM雑誌にイラストを寄稿していた。 また「SMセレクト」「SMファン」「SMコレクター」「SMキング」と百花繚乱の アブノーマル雑誌の巻頭を飾るのは必ず団鬼六だった。 短い時間とはいえ両者とも同じ出版業界の空気を吸い異常性愛をテーマに エロを志向した者同士なのである。 (…)世界的に有名なタンゴダンサーと言う設定に多少の違和感を覚えてしまう (…)しかし杉本彩を最大限に生かす当然の設定と考えれば納得もいく。 そして彼女の顔のアップのショットに監督の執念が見えた。まさに名美がそこにいるのだった。 (…)原作を忠実に映像化することが映画監督の仕事ではないのかもしれない。 これは石井隆の『アイズ ワイド シャット』なのだった。 麻縄、和服、羞恥責めの鬼六SMではなく、ボンテージワールドなのである。 そう考えるとしみじみ納得もいく。 「死場処」を出版し劇画でも映画でも男と女の生と死の地獄を見つけてきた石井隆だ、 死者と生者がさまよう狭間に立ち続ける石井隆が見つめているのは ボンデージの向こうの果てにある死の世界であろう。 団鬼六が描く通俗的でドキドキするような猥褻性、とりわけ美しい女性の羞恥の姿を愉しむという 変態的快楽は見いだしようがないのかもしれない。(…)しかし考えてみればこれほど見事に 「見世物」を描いた映画も近年珍しいのではないだろうか。(…)ここにかって 堀江延満としてSM雑誌にイラストを書いていた石井隆を想起することができるし団鬼六、 その原作への敬意を読みとることができるだろう。(…)
たとえば、どんな好きな女と寝ていても自分の自我は捨てられないですよ、最後の
最後まで。残りの自我が羞恥心を呼び起こし、性的興奮を生むわけです。もっと捨てたいと
いう気持と、それでも捨て切れずにいる自我との緊張の関係がエロティシズムを生むんだと
思います。もし自我を全く捨ててしまえばそれまでですよ。あとはもう何もない。
ミス・ユニバースになるような絶世の美人がいたって、もう駄目だと思います。
(…)非日常性イコール性と言ってもいいんです。日常性を壊すものは性と結びついている。
たとえば性と暴力は結びつく。暴力も日常性を壊すものの一つですからね。
なぜ、サディストがいてマゾヒストがいるのかということですね。
(…)人間の場合は性と祭りが結びつき、性と酒が結びつく。
(岸田秀氏「さらに幻想を語る」青土社)
SMシーンとか色々言われているけど、(…)一番グッと来たのは、一番最初のベッドから
起きて下着姿のまま体操しているシーンかな。SMシーンは、なんか袋とじとかで見慣れた
せいか、イマイチ新鮮味がなかったです。ところで「花と蛇」は要するに監禁SM系の
性的ファンタジーを体現した映画なんだけど、(…)例えば美女をもっとも美しいコン
ディションでお客の前に出そうと思ったら、いい食事と適度な運動はもちろん、ヘアメイク
に定期的なエステも必要ですな。流行の服やジュエリーも買い与えて、精神的に満足させ
ないと、コンディションは維持できないと思う。地下室に手足縛って放り込んで込んで入れば、
どんな美女でも24時間で商品価値ががた減りになる。(…)「花と蛇」で足りないのは、
そういう意味では「生簀」の発想ですな。
http://ns.media-juggler.co.jp/~tak/dronpa/akindo/
フラッシュバックは苦痛なことも、戦慄的恐怖を起こすこともあり、精神科解体を起
こすことさえあります。(…)ベトナム戦争から帰還した人がヘリコプターの音を聞
いただけで、その場から逃げ出そうとしたり、エレベーターの中で強姦された経験を
持つ女性が、エレベーターの前で立ちすくんだりというかたちで現れます。とても嫌
な、思い出したくない記憶が何も関係の無い場面で、例えば静かに読書をしている時
などに、フッと意識の中に侵入してくる「侵入性回想」ということが起こります。そ
れが夢に出てくると悪夢になります。)そうした回想が、事件当時に感じた恐怖や冷や
汗などの生理反応と一緒になって、そのままよみがえって来て体験されることを「フ
ラッシュバック」と言います。フラッシュバック性の記憶、イメージ、感覚は実際に
起こったとおりの正確さがなくてもかまわない。しかし、フラッシュバックを構成す
る要素は実際の事態に対応していることが驚くほど多いと報告されている。
http://dissociative-disorder.kdn.jp/survivor/disorder/dissociation/flashback.html
映画はDVDの売上を含め、クリーンヒットとなって、石井監督は指名打者としての 責務を充分に果たしたと思うのですが、原作者と真逆な女性観が底流にあって、そこが 「わかってない」「つまらない」と非難轟々になっちゃってます。。一言で断罪すれば、 そこで二の句は継げず、あとは脱線するか、会話は途絶えるか、その二つに一つなんだ よね。。コピペについて叱られてばかりですが、これでも相当「選択」し、文章を切り 詰めて引用しています。(笑いを取ろうとしている箇所もありますが)『花と蛇』の外 観だけでなく、深層にダイブして、石井隆が描こうとしたものは何か、それを追ってい るつもり。。迷惑かけてゴメンよ。 例えば343さんの「鬼六の世界を語ってない」「鬼六の名が冠して」という言葉が気に なって仕方がない。鬼六原作の映画を、特に『花と蛇』を撮れという指名は、石井監督 の作家人生では箱根越えの駅伝以上のプレッシャーがあったし、歓びがあったはず。。 団鬼六を喜ばす、そのために全精力を傾注した結果となってはいないのかなぁ。「紅皿 欠皿」との描写比較、伊藤晴雨との構図比較、芳年とのディテール比較といったもの、 過去の映画のエッセンスは含まれていないか、まだまだ調べないと『花と蛇』について 迂闊に語るのは後で恥じかいちゃうのではないかしらん。。だいたい石井監督が「自ら の作品」として「SM」を真っ向から扱うのは初めてなんだし。。息気込みは尋常でな かったと思うよ。。。一緒に掘り進めてくれませんか。。
三島独特の表現の中でサド侯爵という人間が生き生きと描写され(ワインを花にやる
エピソードなど、何と鮮やかな筆遣いではないですか)、最後に女達の会話を通して
「天国の裏階段を登っていった」サドという解釈まで発展するスケールの大きさに
感心します。「SADEMANIA〜サド公爵を愛する全ての人に〜」(ディスカッションが深い)
http://www.jah.ne.jp/~piza/COMPOSITIONS.html 名作「仮面の告白」の中で真実の告白をしているのを読むと、彼も父親の書斎で
この全集のルネサンスの巻を開き、イタリアの画家ギト・レーニの描いた美青年の
肉体に矢が刺さって血が流れている「聖セバスチャンの殉教」という絵を見て、
めくるめく思いをして精通した(…)と書いています。彼が12歳の時かな?
htt原作のあらすじ
http://tbrain.hp.infoseek.co.jp/ring/001/001.htmを読むと 、
調教のディテールがほとんど霧散し、そこを鬼六ファンが責めるのだけれど、大きな
流れはちゃんと押えているように思う。
「財界の大立者」の「絶世の美女静子夫人は、」「拉致されてしまう。夫人は一糸も
許されない全裸姿にされ、囚われの身であり奴隷である身分を自覚させられるために縄で
縛り上げられる。このときから、夫人の全裸緊縛姿の生活が始まる。」「運転手の見ている
前で強制的な排尿をやらされる」「そこへ救出の女探偵があらわれ、ふたりは屋敷からの脱出を
はかるが失敗に終わる。全裸にされた夫人と女探偵は、」「緊縛され、塩水をやかん一杯飲まさ
れると立ったまま放尿させられる。」「夫人と女探偵は緊縛姿のまま、女同士の愛撫を強要される。」
映画『花と蛇』は原作者へ敬意をもって石井監督が挑んだ作品であり、石井監督なりに視覚化した
部分として「原作の最後」が描かれていないか。そこから「逆転した過去」を映像化していることが
「パターン化した映画の破壊」へと進んではいないか。
「今は精神病院に入院している元の夫が危篤という知らせが入り、静子夫人は屋敷から必死の逃亡をはかる。
しかし、運転手に発見され、永遠の地獄へ連れ戻されていくのだった」
http://tbrain.hp.infoseek.co.jp/ring/001/001.htm p://www.kk-video.co.jp/comments/fujiihyoron/fujii084.html
そうですね、伏線が張り巡らせてあっても、それはそれですよね。 「鬼六」の本質がよくわからないので、あれですが、「原作」の本質(羞恥の蕩尽) からは逸脱していることは素人にも理解できる。でもそれは石井監督が「本質を理 解していない」ということでは当然ないよね。。 それこそ、石井監督にとっての「鬼六」とは何かを探る旅だったのでじゃなかろうか。 DVDで驚いちゃったのは、馬上引き回しや十字架磔刑については団鬼六のアドバイス、 リクエストが関わっていた、という点だった。その時点で「花と蛇」は原作から大きく 分岐して、独自の世界へ入ったということで理解しちゃって構わないのじゃないか。少 なくとも原作者と監督は敵対していないし、共に「見世物」を目指し、日本のSMシー ンを総括し、しかしヒットをあくまで狙い続けた、さらには石井監督は独自の世界観を 裏地に隠して丹念に縫いつけた、その目的はフラストレーションにメルトダウンしか けていた杉本彩というタレントの再ブレイクなのだった、というのがこの映画の外観だ よね。。 団鬼六と石井隆どちらのファンも「見世物」を満喫すればいいんだろうな。自分みた いな馬鹿はそれこそこの映画の本質を見誤っているのだろね。。(長文ゴメン
映画芸術 406 平成16年2月発売 編集プロダクション映芸 石井隆の「花と蛇」 成田尚哉氏 (抜粋) 石井隆が団鬼六の「花と蛇」を撮ると聞いて一瞬不思議な違和感を覚えた。 (…)石井隆は当時、(…)SM雑誌にイラストを寄稿していた。 また「SMセレクト」「SMファン」「SMコレクター」「SMキング」と百花繚乱の アブノーマル雑誌の巻頭を飾るのは必ず団鬼六だった。 短い時間とはいえ両者とも同じ出版業界の空気を吸い異常性愛をテーマに エロを志向した者同士なのである。 (…)世界的に有名なタンゴダンサーと言う設定に多少の違和感を覚えてしまう (…)しかし杉本彩を最大限に生かす当然の設定と考えれば納得もいく。 そして彼女の顔のアップのショットに監督の執念が見えた。まさに名美がそこにいるのだった。 (…)原作を忠実に映像化することが映画監督の仕事ではないのかもしれない。 これは石井隆の『アイズ ワイド シャット』なのだった。 麻縄、和服、羞恥責めの鬼六SMではなく、ボンテージワールドなのである。 そう考えるとしみじみ納得もいく。 「死場処」を出版し劇画でも映画でも男と女の生と死の地獄を見つけてきた石井隆だ、 死者と生者がさまよう狭間に立ち続ける石井隆が見つめているのは ボンデージの向こうの果てにある死の世界であろう。 団鬼六が描く通俗的でドキドキするような猥褻性、とりわけ美しい女性の羞恥の姿を愉しむという 変態的快楽は見いだしようがないのかもしれない。(…)しかし考えてみればこれほど見事に 「見世物」を描いた映画も近年珍しいのではないだろうか。(…)ここにかって 堀江延満としてSM雑誌にイラストを書いていた石井隆を想起することができるし団鬼六、 その原作への敬意を読みとることができるだろう。(…)
映画芸術 406 平成16年2月発売 編集プロダクション映芸 石井隆の「花と蛇」 成田尚哉氏 (抜粋) 石井隆が団鬼六の「花と蛇」を撮ると聞いて一瞬不思議な違和感を覚えた。 (…)石井隆は当時、(…)SM雑誌にイラストを寄稿していた。 また「SMセレクト」「SMファン」「SMコレクター」「SMキング」と百花繚乱の アブノーマル雑誌の巻頭を飾るのは必ず団鬼六だった。 短い時間とはいえ両者とも同じ出版業界の空気を吸い異常性愛をテーマに エロを志向した者同士なのである。 (…)世界的に有名なタンゴダンサーと言う設定に多少の違和感を覚えてしまう (…)しかし杉本彩を最大限に生かす当然の設定と考えれば納得もいく。 そして彼女の顔のアップのショットに監督の執念が見えた。まさに名美がそこにいるのだった。 (…)原作を忠実に映像化することが映画監督の仕事ではないのかもしれない。 これは石井隆の『アイズ ワイド シャット』なのだった。 麻縄、和服、羞恥責めの鬼六SMではなく、ボンテージワールドなのである。 そう考えるとしみじみ納得もいく。 「死場処」を出版し劇画でも映画でも男と女の生と死の地獄を見つけてきた石井隆だ、 死者と生者がさまよう狭間に立ち続ける石井隆が見つめているのは ボンデージの向こうの果てにある死の世界であろう。 団鬼六が描く通俗的でドキドキするような猥褻性、とりわけ美しい女性の羞恥の姿を愉しむという 変態的快楽は見いだしようがないのかもしれない。(…)しかし考えてみればこれほど見事に 「見世物」を描いた映画も近年珍しいのではないだろうか。(…)ここにかって 堀江延満としてSM雑誌にイラストを書いていた石井隆を想起することができるし団鬼六、 その原作への敬意を読みとることができるだろう。(…)
キネマ旬報 4月下旬号 キネマ旬報社 劇場公開映画批評「花と蛇」 桂千穂氏 (抜粋) (…)現在、SM映画の認知度は遥かに高くなった。が、野卑な神経でヒロインを陵辱するのが SMエーガと誤解している作者が大半。彼らには美への憧憬なんかないから、 SM作家のもうひとつの条件・耽美の感覚ももちろんある訳はない。 (…)石井隆は、かつて数々のスター女優を耽美の映像を駆使し、ひたむきに撮りまくって光り輝かせた。 そして、ここでも杉本彩一代の力演を絢爛とスクリーンに刻みこんだ。だが、野村との愛の葛藤物語は、 強烈すぎた杉本の輝きの前にはぼやけてしまったような気がするのだ。 キネマ旬報 4月下旬号 キネマ旬報社 日本映画時評187 うつっているものがすべての世界 山根貞男氏 (抜粋) (…)石井隆の『花と蛇』にもむろん期待した。同じ団鬼六の原作を映画化した小沼勝の傑作(74)が あるだけに、なおさらである。だが、腑に落ちない。杉本彩のヒロインが責められるさまは 凄絶というにふさわしい迫力で、責め場の前後のドラマ展開も巧みに構成されている。 にもかかわらず、わたしは石井隆の映画を見て初めて居心地の悪さを感じた。 理由ははっきりしている。(…)映画を見る者としては劇中劇を見るような居心地の悪さを 強いられるのである。(…)なぜ石井隆が間接話法を選んだのか、わたしにはどう考えても想像がつかない。 (…)杉本彩の美貌とみごとな肉体をまさに映画の餌食にすることで、SMという性的行為の即物性と観念性が 浮かび上がるとき、そこに映画の本質的な魅力が結実するはずなのに、その前に仕掛けが立ちはだかる。 SMを題材にすること自体、間接話法であろうに、なぜ直接話法を回避したのか。 疑問ばかり涌き出てくるので、もう一度この映画を見に行こうと思う。(…)
祭礼においてやり取りされる贈り物の儀式を「ポトラッチ」と呼ぶ。
例えば、カナダに住むクワキゥトル族と呼ばれるインディアンは、のべつまくなしに祭礼を行なっていた。
そこでは様々な富を持ちより、他人に与えたり交換したりする。そして、より一層相手を圧倒させるために
価値ある富を挑むように贈与をし、ついには自分の持つ貴重な財を破壊するにいたった。
クワキゥトル族においては、紋章入り銅板の破壊がこれにあたる。
同じくポトラッチを行うことで知られているシベリアのチュクチ族は、他の部族を圧倒する目的で、
極めて貴重なソリ用の犬を相手の目の前で殺害してみせたりした。
このような過激な贈与、そこから生じる交換、ときには破壊行為をもともなうポトラッチの儀式は、
「贈り物」の持つ、相手を "圧倒させる力" によって突き動かされているといってよい
http://www.mnet.ne.jp/~emonyama/taro/potlatch.html
贈与のためには過剰な財(富)を蓄える必要がある。人間は生きていくために必要なだけの労働を
するのではなく、過剰を生み出すために日常的に労働を繰り返しているとも言えるだろう。
これを「生産的労働」という。そして、ある祝祭の日に過剰な財を贈与や破壊によって一気に使い果たすのである
(これを「蕩尽」、または、「非生産的労働」という)。なぜならば、そのことが人間としての生き甲斐であり
喜びでもあるからだ(結婚式やパーティに見られる蕩尽や、必要以上のものを買いあさる消費行動などもこれにあたる)。
このような非生産的労働は、快感に直結するものである。このことに早い時期に注視していた一人が、
ジョルジュ・バタイユであった。
さらに言うと、戦争、殺戮、生け贄、犯罪…、というのもまた「過剰」─「蕩尽」理論を担っているところの
「混沌」といえるものだ。この「反倫理的」行為が途絶えたことは、今日においても人類史上一度もないのである。
(ここでは示唆するだけにとどめておきたいが、「禁忌(タブー)」や、「法」といった概念も、社会的日常の中で
やたらと蕩尽的行為がなされないようにするための防御機能としてあるものだ。これはいつかは侵犯されることがある
ことを意味する。日常的な時間においてそれをすれば犯罪だが、永遠なる時間のもとでは神聖なる行為として許諾され
るのである)
贈与が結果的には破壊をも生むことを指摘したが、バタイユが示したように、過剰な富の生産によってそれが可能だ
ということである。繰り返すと、そのために人々は、日常的に秩序の中で労働にいそしむのである(生産的労働)。
そしてある特定の時期に祝祭的儀式として一気に蕩尽する(非生産的労働)。
このとき、人はめくるめく陶酔感の中で精神を高揚させるのだ。言い換えると、ここに至高の交感(コミュニカシオン)を見たということである。
岡本が愛した「祭り」の本質はここに見ることができる。(博多の山笠祭りや、岸和田のだんじり祭り、東北のねぶた祭り、諏訪の御柱祭り…など
挙げていけばキリがないが、日本中の、いや、世界中の祭に見られるものだ)
http://www.mnet.ne.jp/~emonyama/taro/potlatch.html
城の中のイギリス人アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ作 澁澤龍彦訳
ピエール・モリオンの匿名で秘密出版されていた『城の中のイギリス人』がようやく仮面をぬぎ、
真の作者マンディアルグが登場した。実験的性の追求者モンキュが、閉ざされた城の中でくり広げる
エロとグロの情景は、読者を性の歓喜の夢幻境へ誘う。
まさに、現代の文学的ポルノグラフィーの傑作。
http://www.hakusuisha.co.jp/FMPro?-db=shosekidata.fmj&-format=detail.html&ISBN=4-560-07066-0&-Find STORY 「私」は、ふとしたことで知りあったイギリス人のモンキュの城に招かれ、
そこでくり広げられる異様な性の饗宴を体験する。モンキュは並大抵のことでは興奮しなく
なっていて、あらゆる実験を試みる。最初は面白がっていた「私」も、だんだん彼が恐ろしくなって
逃げ出してしまう。後日、城が爆発して跡形もなく消えてしまったという知らせが届いて…
「私」は、何もかもふっ飛ばしてしまった最後の「射精」に、あらゆる手段をもってしても
満足を得られなくなったモンキュの姿を思うのであった・・・
(…)たくさんの蛸が蠢く水槽の中に少女を投げ込み、体中に軟体動物を貼りつけた処女の肉を
味わうといった設定。ちぎれたレースや絹、血と蛸のスミ、砂と塩水の入り混じった世界。
少女の顔面に貼りついた蛸は醜悪な仮面を連想させる。
たとえば、巨大な氷細工の男根を、料理番の女の輝く肛門に挿入、内臓へと続く粘膜を弄る試み。
他にも、ブルドッグとの人獣交媾、ユダヤ人にドイツ軍人の睾丸を噛みちぎらせたり、
ビクトリア女王を会話の中で辱めるといったシニカルなエピソードもある。
http://homepage2.nifty.com/weird~/sirononaka.htm
アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ
1909年パリに生まれる。
大学では考古学を専攻。ドイツ・ロマン派、エリザベス朝の詩や演劇、バロック文学、
ロートレアモンやシュルレアリスムに熱中し、1934年より詩を書きはじめた。
詩、小説、評論、戯曲とその活動の領域をひろげる。三島由紀夫の「サド侯爵夫人」を
仏訳し、その日本上演に際して1979年に来日。1991年死去。
『できるだけ残酷で破廉恥で、それが最後まで一貫しているような物語、悪の原理に対する
和解の接吻ででもあるかのような物語、すばらしいミルトンに淵源する魔王(サタン)の美しさが
魅力的に描かれているような物語、そういうエロティックな物語を私は書きたいと思ったのである』
――A.ピエール・ド・マンディアルグ
ウィリアム・フリードキン「エクソシスト」で、リーガンが局所に突き立てた十字架は、もっと大きく
なければならなかったし、ロマン・ポランスキー「ローズマリーの赤ちゃん」の交媾シーンは、
もっともっとエロティックに撮られなければならなかったと思う。
もっとも、ポランスキーもローズマリーを撮らなければ、シャロン・テートを失うこともなかっただろう。
「ヘルター・スケルター」とローズマリーをトレードにしていたチャールズ・マンソン一家は、テート事件以前にも、
絶頂の瞬間にセックス・パートナーを撃ち殺すという快楽の奥義を実践していたという。彼らの実録映画において、
そのときの様子を話すメンバーの女性などは、カメラの前で、あたかも死まで高められたオルガスムスを味わって
いるかのように見えた。快楽のあとには、死が、手ぐすねひいて待っているのであろうか。
「カリギュラ」で知られるティント・ブラス監督の「サロン・キティ」は、「城の中のイギリス人」が下敷きで
あるかのように、性の実験を繰り返すナチスの若き将校が主人公である。ヘルムート・バーガー演じる主人公を
待っているのも「死」ほかならない。
http://homepage2.nifty.com/weird~/sirononaka.htm
う〜ん。壮絶。ストーリーの要約を読んだだけで、たじろいでしまいました。アングロサクソンの 底無しの欲望には「生理的な隔たり」を感じちゃいます。中国の纏足、日本の麻縄の縛りの方がずっとエレガントかと。 日本に生まれて良かったw。。 え〜と、話を戻すと、西洋のSMの果てには「破壊」「痛み」「死」を求めるのに対し、 団鬼六に代表される官能小説は「蕩尽」のベクトルに「羞恥」を選択したものであると。 映画「花と蛇」はそれら官能小説の代表作であるから、それを冠した作品であれば、 当然「羞恥」についての描写が濃厚に出ていなければならんと。しかるに描写が無い上に、 「苦痛」や「殺人」が目白押しではないかと。前スレの言葉を借りれば(887)「殺人シーンはいらねぇ。 暴力シーンもいらねぇ。SMやってて一番怖い、リングアウトした場面だから。」 (656)「SMショウでバンバン人殺してます。もうアホかと。」(682)「SM映画でありながら、 実はSMを小馬鹿にしてるんじゃなかろうか。」と酷評したくなっちゃうと。 そういうお気持ちなんでしょうか。(落書き、脱線ないとなんてスッキリ。素人納得。)
SM詳しい方なので、では、実相寺昭雄監督の「悪徳の栄え」はナマコ食べたり、 割と頑張って「蕩尽」してましたが、観ていてこっちが「羞恥」しちゃいそうな「違和感」がありました。 SMマニアの目から見るとどうですか。また(馬鹿にしているわけではないのですが)これまでのSM映画 (主に「にっかつ」)を観ると、レールの上を走り続ける感を覚え、カタルシスを感じない、 観てるこちらが「赤面」してしまうような「閉塞感」がありました。 「不貞の季節」では登場人物が生き生きと活写され、海の家?での「帯紐での手首縛りのシーン」 などはジーンと感涙ものでしたが、この活写は「喜劇」「道化」という「漫画チックな開き直り」の 結果であると思います。「羞恥」のベクトルはSの側にも照射され、そうなってくると 緊迫感など作りえないコメディに陥ってしまうと想像しますが、SMマニアから見て、 この自虐的な構造の「不貞の季節」という映画はOKだったのでしょうか。 この度の「花と蛇」は「閉塞感」を突破するための確信犯の野心作という観方は 「判官びいき」でしかないと思われますか?
リストは
http://movie.goo.ne.jp/cast/86154/より 評は「官能のプログラム・ピクチャア ロマンポルノ1971−1982全映画」フィルムアート社より。
●緋ぢりめん博徒(1972)(原案)
●花と蛇(1974)監督■小沼勝「(…)SM作家・団鬼六の同名小説の映画化であるこの作品は、にっかつロマン・ポルノ初の
本格的SM映画というふれ込みだったが、小沼勝はその倒錯志向と独自な官能描写で、SMという一種の様式的セックスに
挑戦し、見事、期待を裏切らない。が、この作品が果して本格的SM映画かというと…。なるほどSMシーンは
ふんだんにある。毛虫、緊縛、浣腸、宙吊り、また汚物や性液、スカトロジー。(…)まず、谷ナオミの
精神すら肉体化してしまったような、妖艶、豊満な肉体が素晴らしい。(…)その肉体が発散する官能の濃密な緊張感は、
犯しがたい気品を通りこし、犯されることによって生じる気品とでもいった迫力すらある。(…)液体を注入された彼女が、
からだをふるわせ、ガマンにガマン、あげく大量の汚物を放出するシーンの生理的快感の表情は、
どんなに汚され、責められても、そのすべてを自分の肉体の表層で消化してしまう谷ナオミという
稀有の女優のありようそのままを思わせ、官能、感動的である。(…)前半のテンポある緊迫感が後半、妙に腰くだけ、
なんとも奇っ怪な変格SM映画になってしまっている。(…)一番の要因は、谷ナオミを責める側の、陳腐な描かれ方にある。
夫にしろ、青年にしろ、その母親にしろ、いずれも純粋、本格的な倒錯志向者ではなく、夫は妻に対する欲求不満の
単なるイヤガラセ、青年はマザコンと不能の自己嫌悪、母親は息子可愛さと、つまりサディズムの原因が、いかにもメロドラマ的なのだ。
(…)しかし反面、その陳腐さ故に、谷ナオミの意志としての肉体がドラマを越えて輝き、この辺りの小沼演出は正確である。(…)」
◎北川れい子氏
●新妻地獄(1975)(原案)●お柳情炎 縛り肌(1975)●夕顔夫人(1976) ●奴隷妻(1976)(原案)監督■加藤彰「脚本の桃井章のSMものは珍しいが、 加藤彰の演出では谷の裸身のお腹の上にビフテキの肉を乗せ、それをナイフとフォークで 高橋明が食べるシーンが圧巻だった。肉の脂と女の肌のそれ、そしてナイフによって 切り裂かれた肌からにじみ出る血が混ざりあって、ゾッとするようなブラック感覚が あふれた場面で、高橋明の吸血鬼ぶりに凄味があったと思う。」◎高橋聡氏 ●檻の中の妖精(1977)●幻想夫人絵図(1977) ●団鬼六 〈黒い鬼火〉より 貴婦人縛り壷(1977)監督■小沼勝「薄暗くよどんだ風景、土蔵、 笠井とその妹との近親相姦的イメージ、その倒錯セックスと、映画は猟奇的雰囲気の中で展開されるが、 谷ナオミの自意識が、肉体の責めの過程で徐々に破滅され、と共に、ますます肉体が輝くくだりは、 SM的なストーリーといえばそれまでだが、まさに官能そのものだ。時々登場する小猿の醜悪さも効果的である。」 ◎北川れい子氏 ●黒薔薇夫人(1978)監督■西村昭五郎「話は単純だが、谷ナオミの肉体をひたすら 即物的に責めるSM場面が圧巻である。ロープ、鞭、首枷、ヴァイブレーター、 赤いローソクといったSM小道具もさることながら、ナオミが口から大漏斗で水を 飲まされる場面は、真正面のカメラがみるみるうちに膨張する腹をとらえ、 異様な迫力。またブランデーを下から注入され、全身がピンクに染まるのも。」 ◎北川れい子氏
●団鬼六 薔薇の肉体(1978)(原案)●縄地獄(1978)●団鬼六 縄化粧(1978) ●団鬼六 花嫁人形(1979) ●団鬼六 縄と肌(1979)監督■西村昭五郎「“SMの女王”谷ナオミの引退記念映画で、 藤純子の引退記念映作『関東緋桜一家』にひけをとらぬ西村昭五郎の名調子が冴えた任侠ポルノ編。 東映出身の松本功のシナリオだけに全編東映タッチで、谷ナオミはむろん藤純子、 そして健さん役は山本昌平。ヒロインが引退口上を述べるところは西村演出の愛惜の思い入れあり。」 ◎高橋聡氏 ●団鬼六 少女縛り絵図(1980)監督■小沼勝「少女とのSM性愛を通して日常回帰する男の話で、 廃屋で開始されたSMプレイは、だんだんと屋外、つまり日常へと拡大されていくのだが、 初めて少女をSM責めにする場面の嬲る側と嬲られる側の緊張感が、プレイをくり返す過程で 共犯関係へと移行し、全裸、緊縛姿にコート一枚の少女が公園に連れ出される場面の 異様な日常性など見事だ。」◎北川れい子氏 ●団鬼六 縄炎夫人(1980)●団鬼六 薔薇地獄(1980)●団鬼六 白衣縄地獄(1980) ●団鬼六 女秘書縄調教(1981)● 団鬼六 女美容師縄地獄(1981) ●団鬼六 女教師縄地獄(1981)●団鬼六 OL縄地獄(1981)
●団鬼六 少女木馬責め(1982)監督■加藤文彦「加藤文彦の監督デビュー作。 『天使のはらわた』シリーズの劇画家石井隆の脚本を、より劇画タッチのカットでつなぎ、 少女の過激な情念とSM幻想を、残酷にエロティックに描き出す。セーラー服の少女のスカートが 風でパッと広がって、キッとふりむくと教師と目が合うカットの歯切れの良さ。 ラストのみんな夢よねと呟くヒロインが切なくも哀れ。」◎北川れい子氏 ●団鬼六 蒼い女(1982)●団鬼六 蛇の穴(1983)● 団鬼六 美女縄地獄(1983) ●団鬼六 修道女縄地獄(1984)●団鬼六 SM大全集(1984)(スクリプター) ●団鬼六 縄責め(1984)●団鬼六 美教師地獄責め(1985)●花と蛇 地獄篇(1985) ●団鬼六 緊縛卍責め(1985)(脚本も)●団鬼六 蛇と鞭(1986)●花と蛇 飼育篇(1986) ●花と蛇 −白衣縄奴隷−(1986)●団鬼六 人妻なぶり(1987)●花と蛇 究極縄調教(1987) ●夢どれい(1987)(脚本も)●団鬼六 生贄姉妹(1987)●団鬼六 妖艶能面地獄(1988) ●不貞の季節(2000)●およう(2000)●花と蛇(2003)
『団鬼六 少女木馬責め』製作国:日本 製作年:1982 配給:にっかつ 監督:加藤文彦 原作:団鬼六 脚本:石井隆 《解説》被虐的性欲を持つ女子高生と、彼女のために学校を辞めた教師の姿を描く。 脚本は「天使のはらわた 赤い淫画」の石井隆、監督はこの作品がデビューとなる加藤文彦、 撮影は「実録色事師 ザ・ジゴロ」の杉本一海がそれぞれ担当。 《ストーリー》女子高生の名美は、平凡な顔とは裏腹に、夜になると、 自分自身で自分の体を縛って楽しむマゾ的趣味を持っていた。名美は毎夜、不良少女たちに 襲われる夢を見て、その度に、快楽に股間がグッショリ濡れて眼覚めるのだった。数日後、 それが現実となった。不良少女の知子と亜里に襲われた名美は、その時、教師の村木に救けられた。 しかし、名美は村木にパンティーのシミを見られてしまう。数日後、怒った知子と亜里は村木を 無人の教室に誘い込むとズボンを脱がせ、強引に一物を口に含んだ。そして、たかまる欲情はおさえきれず、 村木の上に腰を沈める。そこへ、女教師の山内が入ってきた。強姦されたという知子と亜里に、 村木はこの前のいきさつから名美に弁護を頼むが、彼女は何も話そうとしない。 村木は学校を辞めさせられた。
二年後。女子大生になっていた名美は万引をして逃げる村木と出会った。
久しぶりの再会に酒を酌交す二人。村木は名美のパンティのシミを思い描いて
自慰を繰り返していたという。泥酔した村木を名美はホテルに連れて行って眠らせた。
目覚めた村木は、部屋の中に、木馬をはじめ、あらゆる責め道具があることに気づく。
そこはSMホテルだった。それから二日間、二人はSMプレイに没頭していた。
三日目、村木は持病の発作に襲われ、錠剤を口に入れたまま倒れてしまった。
しかし、水がなく喉に流し込むことが出来ない。両手両足を縛られた名美は、もがきながら
部屋中を捜し回るが水に代るものはない。そこで、名美は自分の小水を飲ませようと
村木の顔の上にまたがるが、その時、彼は息絶えていた。名美の小水の音が
異様に部屋の中に響いている。至福の境地に酔い痴れているような村木の顔に、
名美の黄金水はとめどなくほとばしった。
http://www.walkerplus.com/movie/kinejun/index.cgi?ctl=each&id=17250
前スレで団鬼六っぽくない、と不評の「少女木馬責め」。
おーい、鬼六〜、どこよ〜…石井隆カラー一色といった感じ。。
原作はどんなだったのかなぁ。団鬼六ファンの人見てたら購入できるか教えてちょ。
(みんなSM板に帰っていったのかぁ、誰も見てないかw)
この度の「花と蛇」、名美・村木と改名してないだけ「抑制」効かせてますよ、まだ。
>>41 『ラブホテル』は圧倒的に人気ありますね。山口百恵だけじゃなく港で流れる
もんたの唄もしみじみと良かった…。『おんなの街』(劇画)は最近復刊されましたが、
そこにスミ入れ前の鉛筆書きのボツ原稿が付いていますが、あの描き込まれた雨の線には
圧倒された…。ベッドで縛られ、次々と寄せ来る快感であえぐ速水典子にはノックアウトだった。
それにしても、石井隆を語るとき、さらりとリルケの詩をくちずさむ、なんてお人だ。。
こんな人が2チャンにおられるとは…
(リルケについて参照ページ
http://www.a-street.net/papas/column/maria/maria_06.html )
週間アサヒ芸能 2.12 「花と蛇」主演女優 杉本彩 袋とじ 週間ポスト 2.13 公開秒読み杉本彩『花と蛇』禁断シーン衝撃公開 袋とじ (文/さかもと未明) 週間現代 2.14 初公開!『花と蛇』杉本彩 禁断の性シーン FLASH 2.17 陵辱ショット袋とじ これはもはや事件だ!杉本彩 袋とじ 週間アサヒ芸能 3.4 「花と蛇」陵辱ヘア 杉本彩 袋とじ 週間ポスト 3.5 杉本彩「悶絶ファックシーン」 (文/石井隆) 週間現代 3.6 杉本彩『花と蛇』悶絶ファックシーン FLASH 3.9 杉本彩 息の根止める、これが問題の決定的場面! 袋とじ (文/室井佑月) 週間ポスト 3.19 杉本彩 花と蛇 CD−ROM 衝撃の映像封入 週間現代 3.20 杉本彩『花と蛇』緊縛エクスタシー FRYDAY 4.2 杉本彩“ハダカを超えた”フェロモンに陶然! FLASH 4.13 杉本彩 オーガズム[絶頂]定的場面! 袋とじ(文/室井佑月) 週間現代 (キャプション不明。さすがに食傷気味となり、購入しませんでした。w) 週間ポスト 4.30 杉本彩『花と蛇』封印された衝撃映像 袋とじ (これ以外にもあったかもしれません。。)
http://www.j-magazine.or.jp/FIPP/FIPPJ/F/busuuA.htm#A2 によれば、
各週刊誌の発行部数は以下の通り。 …( )は『花と蛇』グラビア掲載回数。
週刊現代 講談社 81.0万部 (4)
週刊ポスト 小学館 85.1万部 (4)
FRIDAY 講談社 49.0万部 (1)
FLASH 光文社 45.0万部 (3)
週刊アサヒ芸能 徳間書店 39.0万部 (2)
この数字で計算すれば、上記のグラビア『杉本彩の裸身』が撒かれたトータル数は
926万4000部!! となります。映画『花と蛇』の盛況を
メディアとの連携による面があることを捉え、見つめ直すのも楽しいことかと。。
ちなみに「袋とじ」のみカウントすると、383万部になります。
383万冊を男どもが「破る音」を想像すると、凄いものがあります。w
●まんだらけZENBU .10(2000年12月採録のもの) 「(…)僕のエロっていうのは、やっぱり、必ず最終的には死ぬとか殺すとか 行っちゃうんで、エロスが全く真逆じゃないですか。エロスっていうのを簡単に 言うと、生きることの謳歌っていうのがあるわけですね、生きている証みたいな。 僕の場合は、その果てに、心中のような死があったりするから、 楽しめないじゃないですか。(…)」 ●MANGA EROTICS 太田出版 2002年夏号(山本直樹氏との対談) 「(…)山本さんの女性は、男を100%許すでしょ?僕の女性は(男を) 20%くらいしか許せないんですよ(笑)。僕の育ってきた頃の映画ってね、 みんな女性が自立していく時代の映画だったから、増村保造にしても加藤泰さんにしても、 (描くのは)みんな強い女ですよね。それは気持ちよかったんだけれども、 じゃあ自分はどうなのってなると、必死になって「微力ながら戦わせていただきます」 って感じで。どうせ最後は負けるんだけれど。(…)」
●映画秘宝 洋泉社 4月号 「(…)かつてロマンポルノで5本映画化されているとは知っていましたけれど、 女性という存在の描き方が真逆のように思っていました(…)」 「(…)映画としてはそのまま映像化するのはまず無理です。 (…)たとえばキーワードとして出てくる土蔵とか秘密ショーとか、当時は隠微な イメージを醸し出す装置だったんだけど、今の人たちはそれ自体を知らない。 原作をそのままにやりたかったけれど、杉本彩という存在がはまらないと 思ったんですね。(…)」 ●キネマ旬報 三月下旬号 「男女が共に堕ちていくというテーマでなら、かつてぼくも所謂SM的な関係を 描いたことはあります。(…)人間の強さや弱さ、覚悟が見える、そんな女と 男の絶対的な距離感が基本でしたね。それに対し、団先生の原作は女性を聖なる 存在に高めてそれを陵辱するという仕掛けが基本ですから(…)」 「(…)『花と蛇』が書かれた昭和30年代当時は、まだ近寄りがたいほどの美女 という概念が生きていて、それが団先生の世界。でも今、絶世の美女は何人も いてもテレビに出てるから親近感が先に立つ。ですから、近寄りがたさを演出 するために、杉本彩という美貌と肉体の持ち主を、原作を壊さない範囲で時代を 意識した装置、つまりコロシアム、ショー形式、セレブといった映画的な仕掛けに 立たせ、フェイクながらも神秘性を出せるかが勝負どころだった。(…)」
●CUT ロッキング・オン 4月号 ─なぜ杉本さんは石井さんを指名したんだと思います? 「彼女の好きな映画の話を聞いていると、ヨーロッパなんですね。ヨーロッパな テイストと、男と女のどろどろした関係性が日本映画には希薄だと。その中で、 唯一男と女をやっている監督として好きだということでした。(…)」 ─(…)(団鬼六さん)とは真逆だと思うんですよね。だから、石井さんは この映画をなぜ撮ったんだろう?ということが実はぼくが一番聞きたかったこと なんですけど、(…)要するに石井さんは杉本彩のために撮ったんですね(笑)。 「(笑)」 ─杉本彩の愛に応えようってことだったんですね。 「その何かに賭けているすさまじさがね、感じられたんですよ。(…)」 ●漫画ジャンクション バウハウス 6月号(発売中) 「(…)彼女も芸能界でいろいろあって、『なんで自分は理解されないんだろう?』 『どうして自分は認められないんだろう?』みたいな悩みをいっぱい抱えている んじゃないか、と。僕の想像ですよ。彼女はそれに対する無念さを持っているのかなって。 単純にそれに意気を感じて『僕なら応援できるかも』と思ったし、彼女もトコトン やるだろうと思った」 「(…)杉本彩は《ヌードという衣装を着て演じる女優》なんじゃないか。 それは他の女優さんが持っていない彼女特有の魅力なんじゃないかな。(…)」 ●YAHOO!BBマガジン ソフトバンクパブリッシング 6月号(発売中) 「(…)彼女自身、何か人生をかけてたようなところがありましたから。 (…)こちらも手が抜けなかった。なまじっかなSMシーンでお茶を 濁すのではダメだって決意のようなものがあって(…)」 ●DVD NAVIGATOR ギャガ・クロスメディア・マーケティング 5月号 「杉本彩を徹底的に立たせる、僕の今回のすべての試みは、結局そこだけに 向けたものだったんです。難しいお芝居や展開はいらない、とにかく彼女を生かした、 完全なスター主義映画。(…)」
(注・ネタバレあり)
(…)今はこれだけAVが氾濫していて無料動画でも本気レイプものとか食糞とか
見れる時代なので、SMシーン自体はそんなに目新しいものではない。だからこそ
Mに開花していく過程をいかに魅せるかが見所だと思っていたのだが、これがシーン的に
ブツ切りの連続で落ち着かない。何か最近では本編では観られない動画を公式サイトから
ダウンロードできるというあこぎな商売を始めたのでその影響か。ますますもって
この映画が何のために作られたかわかってため息が出る。(…)結局物語は破綻したまま
「ああそうですか、それではさようなら」といった程度のシメで終わる。
そもそもセレブ御用達の秘密SMクラブであるならば、彼らが100万というお金を出しても
見たくなる程のもの(つまり俺たちがスクリーン越しに観ている映像。特に夫とハメて
先生的に彩的にキター!のところは重要な映像のはずなのに観ていてそうは感じなかった)
がなければ成立しないはずだ。有名人と本番が出来るから来てるのか?
黒幕のやりたかったことも良く分かんない。さんざん突っ込まれたまんこを見て
「きれいだ・・・」まずヤるのはアンタなのでは。
まあ艶やかさが開花するまで待ったということならそれでもいいけど、
その歳でヤッたらああなることは承知のはずで、ああこの人はそういう
シメかたをしたかったのかと思ったら「よくも先生をー!」えええー。
原作の設定を変え、ダンススターという設定も肝心のダンスシーン
(結構出てくるけど別に伏線でもなんでもない)がどうでもいい出来でガクリ。
まあそんな映画だった。
http://kintama.2log.net/archives/blog20040402.html
(注・ネタばれあり)
この映画はなんと言っても杉本彩の存在感である。
この映画で杉本彩は何かを吹っ切ろうとしているに違いない。それは女優としてなのか
1人の女性としてなのかはわからないが、観ている私にもそれはビンビンと伝わってきた。
杉本彩の芝居を超越した芝居(矛盾してるが)を観るだけでも価値はある映画である。
しかしストーリーはというと、ちょっと陳腐である。
石井隆は今まで、暴力とセックスに満ち溢れている闇の中でも光を放っている
ヒロインを描き続けてきた。あくまで暴力もセックスも人間を描くための手段でしか
なかったのだ。しかし今回の『花と蛇』はSM描写に重きを置きすぎてしまった感が
ある。私はこの映画を観ながらも、目の前のスクリーンで繰り広げられている
SM行為の表面的な部分を追うことしかできず、ヒロインに感情移入することも、
ヒロインの人間性を追及することもできなかった。このヒロインがSM行為を経験
したことで何が変わったのか、といったような人間の内面をもっと深く描きこめば
もっと味わい深い映画になったかもしれない。
そしてこの『花と蛇』は石井隆の映画の中では一番凶暴な映画である。
ヒロイン・静子は肉体的な暴力はもちろんのこと、言葉による暴力や視線に
よる暴力など、さまざまな暴力によって痛めつけられる。そして何よりも、
この映画には優しさがまったく感じられない。今までの石井隆映画は、
ヒロインを地獄に堕としながらもそれを見つめる視線に何かしら優しさが
感じられた。しかしこの『花と蛇』は徹底的に突き放した目線で作られている。
そこがこの映画が最も凶暴であると思える点である。
SMは痛みや恐怖という感情を徐々に増幅させるという点で、セックスよりも
石井隆作品ならではの空撮シーンと雨のシーンが健在だったことは嬉しかった。
だからこそヒロインがSM行為によって性的に開放される姿をもっと描きこんで
欲しかったと残念に思う。
http://plaza.rakuten.co.jp/chome/diary/2004-03-25/
(注・ネタばれあり)
小沼版の『花と蛇』では、最初は不条理な恥辱から始まっても、それが特殊であれ
男女の愛の形や、女の<Mとしての自立>が育まれていたじゃん。でもこの石井版
『花と蛇』は結局、サディズムの一方通行でしかなくて、最後までMとなることを
受容しない女性に、不条理な虐めが行われるだけで、同意の無い虐待は見てて
スッゲー気分悪い。それも男女の一対ではなく、大勢のヤクザが銃で脅す暴力的な
監禁状態で、「巨悪にいとも簡単に人間の尊厳を蹂躙されて、人知れず殺される弱者」の
無力さしかわたしには感じられない。それって純然たるSMじゃないでしょう。
杉本彩版は根本的に演出意図がヘンじゃないか?彼女はMの官能には最後まで
明瞭に目覚めない設定になっていて、かといって意志の力や尊厳を賭けて巨悪に
抵抗し、Mにならないとかじゃない。非常に漠然とした非協力性とでもいうか。
責めのシーンになってから、彼女の感情を表す演出はまったく一切されないので、
「しなきゃ知人女性を辱める」と脅され観衆の前でのおしっこを強要される場面でも、
猿轡があんまり立派すぎて表情がぜーんぜん見えないから、慎ましさで我慢してる
ようにも思われず、何を彼女が躊躇してるのか観てるこっちが不条理な気分だよ。
『悪魔の調教師』や『堕靡泥の星 美少女狩り』みたいな、徹底的に理不尽な
被害だけを描く、殺伐とした人権蹂躙の映画だとしても、そういう確信犯で
あるなら違った観る価値があるけれど、本作はそういった世界を描きつつ、
圧倒的権力への恐怖や、『天使のはらわた 赤い教室』の名美の心的外傷を忘れて、
単純なエロに持っていっている(エロ>女性の人権)という構図が不快。
それに石井隆という人はこれまた女の復讐を描かずにいられない人でもあるから、
妙なことになってるし。石橋蓮司に対してもすごい曖昧な報復で、
Sを凌駕するMの怪物性を、明瞭に獲得する前に報復のオチが来ちゃうから、
貞淑な怯えと性的な非協力の中に、唐突ななんの内面的展開もない性的協力性が表れて、
釈然としない。
http://d.hatena.ne.jp/anutpanna/20040408
若い人は映画監督としての石井隆しか知らないかもしれない。
しかし、私にとっては依然として、ニコンを首にさげてエロスの断片を切り取っている
石井隆なのである。そして、厳しい緊縛の要求。思い出せば、自分の力以上のものを
引き出されていた。石井隆は厳しい眼を、一瞬、いたずらっこのように輝かせていた。
自分の映像が手に入るまで妥協しない石井隆との幸せな夏を思うとき、
三度目の夏は忘れられない夏になった。
調教師・鬼村源一役 有末剛氏
http://kinbakutei.com/diary/html/index.htm −撮影中で記憶に残ってるエピソードはありますか?
石橋蓮司さんとの絡みのシーンですね。蓮司さんだったからこそ私も、神々しいまでの
“穏やかで母性的な愛”で包み込む様な表情になれたと思うんです。自分の中では想像も
してなかった姿になれたのは、蓮司さんの周りを引き込んでいく役者としてのエネルギーの
凄さですね。
http://av.jav.co.jp/hanatohebi/
この映画は四分の三くらいがSM場面なのだが、ありとあらゆる手を用いて杉本彩を 苛め抜いても、結局のところ彼女は何に対しても屈した様子がないのである。そして その関係性にこそ、石井映画のニュアンスが非常に本質的な形で現出しているのだ。 石井隆の脚本を相米慎二が監督した名作『ラブホテル』には、死を決意した寺田農が、 ホテトル嬢の速水典子を緊縛し、玩具を使って犯す場面がある。どうせ死ぬのだからと、 長年の妄想を実践しようと試みたわけだ。速水は嫌がりながらもいつしか歓喜に 身体をくねらせ激しく喘いでしまう。繰り返し絶頂を迎えてのけぞる速水を見た寺田は、 生の側へと戻る決心をする――。これは一体どういうことなのだろうか。自由を奪って 嬲るという手ひどい屈辱を与えたはずなのに、速水は寺田の卑小な満足を嘲笑うかの ごとく本能的な愉悦に狂喜する。(…)これは女性へ対する性的な(…)敗北である。 石井隆はその現実を踏まえた地平でヒロインを作り上げ、全力で痛めつけにかかるのだ。 (つづく)
石井映画のヒロインは、汚されれば汚されるほどその輝きを増していくと言われるが、 それは石井映画における女性への陵辱行為が、女性へ捧げられた無限の讃美と 強烈な嫉妬に他ならないからだ。例えば、成瀬の『めし』の「いかにも」な結末を見て 「成瀬は女性を抑圧しようとしている!」と憤慨する人がいるだろうか。いたとしたら、 その人は相当おめでたい。シナリオ、あるいは表面的なあらすじが意味をなさない映画 というものは、確かに存在する。石井映画の真髄はシナリオにあらず、もっぱら映像に よって女性への愛と嫉妬を語るのである。とどのつまり、石井監督は冷血なサディスト ではなく、あえて喩えるならば、自分がいたぶっている女性に嫉妬と羨望を抱く、 隠れマゾヒストなのである。(…)相手が「自由意志を持った生きた人間」である ことを拒否し、自己の「思い」の中に閉じ込めることによってしか、男と女は一つに なれないのではないか。(…)人と人とは、どちらかが現実に存在しつづける限り、 心身の完全なる合致を見ることはない。死んだ者だけが美しい。その認識の上に立って 作られた作品がいわゆるロマンポルノと呼ばれる映画の一群であり、石井隆の 作品なのである。(つづく)
確かに杉本彩は偉い。よく頑張った。でも頑張ったのは杉本彩だけではなく、
「陵辱の一夜」というショーの細部を、一切手を抜かずに演出し、杉本の肉体と
苦悶の表情を粘り強くキャメラに収めていった、石井隆とそのスタッフだという
ことを忘れちゃいかんのですよ。そしてその苦闘のさなかに、石井隆の「勝てない…
…杉本彩には絶対勝てない」という無念のつぶやきを聞き取ることこそ、
この映画の醍醐味である。
ttp://mykit.jp/pc/zenbastreet/ (…)どうやら作り手の意識は団鬼六の『花と蛇』ではなく、キューブリックの遺作
『アイズ・ワイド・シャット』にあったようだ。(…)SMショーのシーンから
情感的な官能性を剥ぎ取ることに対して、作り手は実は確信的だったのではないかと、
僕は密かに感じている。その理由には二つのことがあって、一つはショーの進行役
たる珍妙なセーラー服姿のピエロ男の鬱陶しいキャラ造形が興趣を削ぐ方向に働か
されていたこと、もう一つは団鬼六の世界のキーワードとも言うべき“女の羞恥心”を
執拗に責めつつ官能を煽り立てる構図が凡そ無視されていたことだ。原作の
エッセンスに忠実ならば、ピエロ男の静子への言葉責めが羞恥心を突く形で前面に
出てきてこその『花と蛇』の世界となるはずだ。だが、作り手側には、この
“羞恥心”に対する時代的共有への不安があったのではないかという気がする。
アナクロニズムの一言で一蹴されてしまいかねない。しかし、元々原作はそういう
アナクロニズムに居直ることで成立するファンタジーとしての女性像の提示に
官能的妙味が宿っている作品なのだ。(…)“羞恥を焦点にした情感的な官能性”が
削がれた後に残っていたのは、まるで体育会系クラブのしごきとそれに耐える
女子部員の如きスポコンもののような肉体勝負の様相だった。(つづく)
その観点から言えば、杉本彩の根性は見上げたもので、『花と蛇』的な心理責めでは なく絵になる吊り物が主体のキツいシーンの連続技を次から次へと懸命にこなしている 感じだった。(…)もし、作り手が意図的に官能性を排除して晒し物にしたのなら、 そっちのほうが酷なSMだとさえ思ったのは、フェチ的にも本当にマニアックだと 思われるオーラル・マスクのギャグ(口枷)を噛ませて縛り上げ、あかい口腔を 覗かせつつ湧き出る涎を無惨に垂れ流させたりしていたからかもしれない。 ここには性器へのダブルイメージを滲ませるような鬼六的言葉嬲りがいかにも 似つかわしいのに、ピエロ男はそれをしない。静子に向ける彼の言葉が脅しや 説得に偏っていると、それが原作にもそっくりの形であるだけに削がれたほうの 言葉嬲りが際立ってくる。そもそも鬼六的SMというのは、肉体的には苦痛以上に 快感を引き出すことで心理的にいたぶることを主眼とした嫌らしさが身上だと いう気がする。多大なる心理的苦痛と幾ばくかの肉体的苦痛を圧倒する肉体的 快楽によって翻弄し、被虐の炎を炙り立てる筋立てなのだから、肉体的苦痛を 与えて苦しむ様に性的興奮を覚えるサディズムや肉体的苦痛そのものを性的快感と するマゾヒズムとは本質的に異なる。(つづく)
だから、スパンキングや鞭打ちといった責めはほとんど出てこない。そういう意味で は似非SMで、団鬼六自身もそう語っているらしい。しかし、だからこその愛好者も 得て、一般的認知を広げてきているのだろうし、日本ではむしろ鬼六的な調教馴致の ほうがSMとして了解されている風情すらあるように感じる。(…)その前提と なっているのが、どんなに辱められ貶められても失せることのない気高さを保つ どころか、その全てを受容してなお崇高な妖しさを獲得してしまう女性像の描出を 果たす彼の筆力だという気がする。それを支えているのは、ヒロインの“どこまで 行っても枯渇することのない羞恥心と慎ましさ”であって、それが損なわれれば 全て崩壊してしまう世界なのである。言わば、在り得べからざる大幻想に支えられ たファンタジーであり、願望的な女性崇拝に他ならない。だからこそ、今や少なか らぬ女性ファンを獲得してもいるのだろう。そして、彼の小説では、そのような ヒロインの絶対的な崇高さへの到達と同時に、どこまで行っても彼女を堕落させ られない敗北的状況を以て無間地獄とするような形で、その筆が置かれることが 多いように思う。(つづく)
(…)僕は“女の羞恥”を削いだ石井版『花と蛇』は、鬼六の『花と蛇』とは 訣別しているような作品だという気がしてならない。さらには、登場人物の名前や 役回りはそれぞれ見事に踏襲しながら、黒幕の田代一平(石橋蓮司)を卑しい 成り上がり者の街金融の社長ではなく、遠山家以上の権力を持つ大物にしている ところにも鬼六的世界との訣別が示されていたように思う。鬼六世界では、下賤の 者が嫉妬と羨望による逆恨みによって憂さ晴らしを夢見ないではいられない 不条理が人間社会の前提として不可避であることを背景にしているというのが、 お約束事の構図だからだ。手を汚さずとも裕福であれる境遇を得て、使用人を持つ ことが当然のようにして許され、天賦の美を外見のみならず徳性においてさえも 備えて生まれる人間がいる一方で、そのようなものからは一切無縁の境遇に生まれ る下賤の者がいて、その敗北感と屈辱感が根底にあっての嫉妬と羨望による逆恨み なのだ。加虐側の人物描写においては、常に性的嗜好性以上にそのことが強調され、 いささかお安い形でヒロインの不運と悲劇的構図が煽り立てられる。そのうえで、 下賤に生まれた者の敗北感は、どんなに嗜虐の限りを尽くしても決して癒されずに 敗北し続けるという無常感が自ずと漂ってくる。それこそが鬼六世界で加虐の側に 立つ者の大前提なのだ。(つづく)
石井版『花と蛇』に描かれた絶大なる権力を持つ老人の妄執では済まない、
それこそ浅ましい恨みや僻みが不可欠で、その浅ましさの次元に何とか引きずり
下ろそうとすることこそが加虐のエネルギーの源泉のようにして描かれるのが
常だったように思う。そんなふうに官能性・羞恥心・恨み僻みこそが鬼六世界の
三大ポイントだと見ている僕にとっては、そのことごとくを外してきた石井版
『花と蛇』に、却って作り手が自分と同じようなところを鬼六世界の重要ポイントと
みなしていることが窺えるような気がした。そして、鬼六的似非SMの被虐の
官能世界をそれはそれとして充分認めつつ、似非SMを以てSM世界だと勘違い
している向きに対して、鬼六作品原作の名の下に冷水を浴びせかけようとの意図までも
があったとすれば、それはそれで端倪すべからざるものがあるように感じた。
だが、だからこそ、鬼六的ヒロイン像を投影され、スクリーンのなかで見事に
体現し得た谷ナオミが憧れ慕われたようには、杉本彩は慕われないような気がする。
見映えはしたし、これだけ頑張っていたのに、ちょっと可哀想にも思う。
http://www4.inforyoma.or.jp/~mai7665/2004j/05.htm
(…)私は長年、SM小説というものを書いてきた。ところが私はいまだにSMと
いうものがはっきりわからないのだ。しかるに一時、私は淫靡残虐なるサディズム
小説家と見られてきた。私が長年、好んで書いてきたのは単に倒錯したエロスで
あって、いわば嗜虐小説というもの(…)残酷趣味はないのである。小説の中で
生傷がつくほど、女性を鞭でぶちのめした事もないし、女性を逆さ吊りにして
拷問するという残酷場面など登場させた事はほとんどない。女性に対する攻撃は
私の場合は肉体的な陵辱を主眼にしない。心理的な拷問が主題になっている(…)
私の異常性はなかなか監督には理解できないのである。
団鬼六「怪老の鱗 奇人・変人交遊録」光文社(2000年6月発行)より
約40年間に渡るピンク映画の長い歴史の中で一つの代名詞として欠かせないのが
“緊縛”“拷問”もの。今の世の中と違い、まだまだセックスそのものもオープン
ではなく、ピンク映画もアンダーグラウンドなカルチャーとして存在していた
1970〜80年代。アングラ文化とSMという行為が非常にマッチして、緊縛・拷問ものは
観客の圧倒的な支持を集めた。荒縄や鎖が食い込み、白い肢体が苦痛と快楽にうねりを
あげる。サディスティックに女体を弄ぶことのカタルシス。そんな欲望を満たして
くれるだけではない。 縛られた女たちの姿は、日本的様式美に彩られた、まさに
アート感覚にあふれた美しさ。
http://xcity.jp/SHIN-TOHO/SERISE/kinbaku/menu.html
『日本拷問刑罰史』(1964) 配給 : 新東宝 名和弓雄の原作を、
吉田義昭が脚色し、小森白が監督した残酷もの。撮影は月田勇。
あらすじ 古代から、犯罪防止のたて前で重い刑罰が存在した。それは日本歴史の
歩みであり、同時に日本歴史残酷物語でもある。(…)特にキリシタンに対する
集中的刑罰の数々は、その極刑の最大のものである。木馬責め、温泉岳に投げこまれる
信者、焼印、水磔、射殺と、あらゆる残酷さを集めている。江戸時代になると、
火に対するいましめは特に強かった。火事の犯人と目されると、与力によって
笞打ち責めが国賊の名のもとに行なわれる。そして更に石抱き責めで苦しめられ、
犯人と決まるや、みせしめのため、江戸市中を引きまわし、最後に火をつけて焼かれる。
また不義密通者強盗殺人などには、笞打ちや、石抱責めより更に重い三段斬りや、
海老責め、釣るし責め、駿河町奉行彦坂九兵衛が創案した駿河問い首斬りと続いていた。
又、牢獄の中でもリンチは平然と行われ、死亡者も多かった。(…)
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD21509/story.html
しかし、こういうジャンルって本当にはじめてみたんですが、とにかくびっくり。
杉本彩が服を着ていたのは前半のみ。このあたりから、わざとらしくパンチラとか
胸強調とか、おしりアップとかセクシーなショットが連発して、最初はちょっと
笑いをかみしめるなどの余裕もあったのだけど、あとはほとんど全裸であられも
ないポーズのオンパレード!一応名の通ったタレントさんがここまで大胆に
演じきったことにとにかくびっくり。あっぱれ杉本彩・・・
けっこうダンスもがんばってたんだけど、他の印象が強すぎてあまり記憶に
残ってないです。しかし乳首に針灸は痛すぎて直視できなかったよ〜! (>_<)
http://www.enpitu.ne.jp/usr2/bin/day?id=24045&pg=20040324
なんとなく興味があったんでちょっとした好奇心からだったんですが、もともと
原作を読んでなく、SMにも造詣は深くない為、淡々と見てしまいました(笑)
周りは大概男の人ばかりでしたが、カップルも何組かいました。こういう映画を
カップルで見てどうすんだろーか。いや、女一人で見る私もどうかと思うが(爆)
私だったらちょっとヤダな。。。だって、家に帰ってから、SMごっこしようとか
縛ってもいいかとか言い出したら困るぢゃん(爆)(…)杉本彩は綺麗でしたよ〜。
うんうん、ヌードも綺麗だし、スタイルもいい。縛ってもキレイ♪個人的に
SMとか好きではないので、そういう行為自体は、普通にさらっと見てしまいましたが、
いろんな衣装を着ていてキレイだなーと思いました。それにあんまし卑猥なカンジは
しなくて、どっちかっちゅーと芸術的だったような(私が鈍いのか?)ちなみに
最後のおじいさんとの絡みのシーンはちょっと苦手ですー(^^;
ラスト、原作ではどういう風に終わってるのかな。杉本彩のタンゴシーンが
セクシーでキレイだなと思いました。花魁道中も脱ぐ前はきれいだったー。
脱いでもキレイだったが、縛ったりするのは苦手ー。ヘアヌードでもあまり
卑猥なカンジがしないのは何故でしょうか。ちょっと不思議な映画でした。
こういう世界もあるのね〜そんな感じでした。
http://sakura.sarasou.com/cgi-bin/diary02/bdiary.cgi?room=51319
これはまぎれもなく、セックス・ムービーの傑作である。ポルノ映画、エロ映画と
いう言い方がしっくりこない感じがするので、この言い方を使う。しかしこの映画
には日活ロマンポルノへのオマージュが随所に感じられる。ある種荒唐無稽な
チープな展開。湿気に満ちた性描写。妄想と現実の交錯。堂々たるセックス・ムービー、
世界に誇れる出来だ。それと従来のポルノ、ことにAVにおいてはやたらと長まわしの
セックスシーンが退屈でしかたがないのだが、『花と蛇』では撮影で二台のカメラを
同時にまわし、スピーディに編集、スイッチングされているので臨場感が保たれ、
まったく飽きない。本当のSMマニアにとってみれば、まだまだだという向きも
あろうと想像するが、私みたいなトーシロにとっては描かれた緊縛シーンは美しい
ものだった。これまで石井隆の映画にはあまり満足せず、というのは劇画時代の
本人には及んでいないと思っていたところ、今回石井氏は見事に映画監督として
腕をあげたものだ、と感じ入る。とにかく徹底した、しかも確信犯的な
反フェミニズムの映画であり、あたまにきた女性達はぜひ反攻ののろしを
あげてほしいものだ。杉本彩はりっぱだった。捨て身になったとき、女は女優になる。
女優になるということはなにかを確実に失うということだ。そのことがわからなければ
女優志望は永遠と志望に留まるしかないだろう。
http://www1.odn.ne.jp/info/t_factory/wondering/last.htm
ところで先週の私の『花と蛇』評について、周囲の女性群に非難ごうごうである。
いやあ、あの映画はあまりまじめに見てはいけないのよ。(…)『花と蛇』って
タイトルが出るというこの出だし自体大笑いなんだからさあ。このことで
山田山子に呼び出される。「杉本彩がいいなんて、あんたの女のセンス疑うわね」
「いやいや、いいなんていってない。よくやったといったわけでして」
「単なる露出狂だろがっ」「まあ、それもそれでたいしたもんじゃないんだろかと
思うわけです。人類皆露出狂になれるわけではないのですから」
「あんた、露出狂好きか?」「出し渋りよりはいいけど。でも、石井隆のヒロイン
ちゅうのはあまり実物の女優さんでは難しいんですよ。劇画の名美みたいな
実物はなかなかいない。確かに杉本彩は雰囲気不足ですが、雰囲気のある
女優さんを選ぶと今度は体がいまいちだったり、中途半端な脱ぎ方しか
しなかったりするわけですよ。だからトータル的には杉本でよかったと思うわけですよ」
「でも、あんた、知ってっか、杉本彩、今おめえ何様状態の勘違いで、いっちゃってるぞ」
「まあ、ありがちなことですね。では、さようなら」と私は脱兎のごとく逃げる。
中野の夜である。
http://www1.odn.ne.jp/info/t_factory/wondering/diary.htm
配偶者や恋人から暴力被害を受けている女性のことを「バタードウーマン
(被虐待女性)」と呼びます。夫からの暴力を黙々と受けている女性というと、
弱々しく、能力の低い女性を想像されるかもしれません。ところが事実は大きく
異なります。私がみた限りでも教師、美容師、医師、弁護士、会社役員など、
無力で能力が低いとはとても思えない女性が、夫や恋人からの暴力を受けている
のです。暴力を積極的に受けたい人はいません。それではどうして殴られ続ける
(逃げない)という状態に陥ってしまうのでしょうか。(…)男性がパートナー
に奮う暴力について、妙に寛容な社会的土壌が残念ながら今でもあります。そして
結婚生活を維持する上で、女性に我慢や努力をやたらと求める風潮も根強く残ります。
これはオトコ社会における男の甘えを満足させるための実体のない”物語”です。
しかしそのオトコ社会の枠組みが成人男性の暴力を含む「甘え」まで許容する
ことには大きな問題があります。
http://www.sanin-chuo.co.jp/tokushu/tomarigi/26.html
(…)高いテンションで始まる新『花と蛇』にぼくは期待を寄せた。ぼく自身は谷ナオミの
大ファンなので、この映画にどんな見所があるか複雑な気分だったけれど、どうやら
まったく違う映画となることだけは冒頭の数カットだけでも予見できた。しかし、それは同時に
団鬼六の不在も表していたように思えた。冒頭を観ただけで感じられるのは、石井隆という刻印
だった。(…)より正しく言えば、日活ロマンポルノ的なもの、谷ナオミ的なもの、
団鬼六的なもの…などから遠い映画だということだ。前半は人間ドラマで見せている。
(…)デジタル撮影であろう全体的に暗い色調がシリアス・ドラマと調和して、
ロマンポルノの、特に『花と蛇』のフィルムの色鮮やかさと対極をなしている。後半は
エロ一直線である。(…)意図としては「本気のSM」を描くことが中心となっていて、
団鬼六文学のようにSMをめぐる人間(男)たちを描こうとはしていない。(…)石井隆は
ロマンポルノで言えば、『天使のはらわた』などに絡んでいることもあって、やはり
本気の「性」に迫ろうとする作家なのだろう。(…)仮面生活の重層性みたいな物語展開は、
(…)ドラマとしても中途半端な感じだった。いや、やっていることは本気のドラマなの
だけれど、ぼくたちが享受する文脈と出演者たちと石井隆や企画者の意図がそれぞれ
バラバラになってしまっているようで、それゆえに、薄っぺらな印象をぼくが抱いて
しまうのかもしれない。少なくともSMシーンのある場面などはとても官能的で、杉本彩の
挑戦に感動してしまうこともあるのだから。
http://d.hatena.ne.jp/tido/200403
(…)高いテンションで始まる新『花と蛇』にぼくは期待を寄せた。ぼく自身は谷ナオミの
大ファンなので、この映画にどんな見所があるか複雑な気分だったけれど、どうやら
まったく違う映画となることだけは冒頭の数カットだけでも予見できた。しかし、それは同時に
団鬼六の不在も表していたように思えた。冒頭を観ただけで感じられるのは、石井隆という刻印
だった。(…)より正しく言えば、日活ロマンポルノ的なもの、谷ナオミ的なもの、
団鬼六的なもの…などから遠い映画だということだ。前半は人間ドラマで見せている。
(…)デジタル撮影であろう全体的に暗い色調がシリアス・ドラマと調和して、
ロマンポルノの、特に『花と蛇』のフィルムの色鮮やかさと対極をなしている。後半は
エロ一直線である。(…)意図としては「本気のSM」を描くことが中心となっていて、
団鬼六文学のようにSMをめぐる人間(男)たちを描こうとはしていない。(…)石井隆は
ロマンポルノで言えば、『天使のはらわた』などに絡んでいることもあって、やはり
本気の「性」に迫ろうとする作家なのだろう。(…)仮面生活の重層性みたいな物語展開は、
(…)ドラマとしても中途半端な感じだった。いや、やっていることは本気のドラマなの
だけれど、ぼくたちが享受する文脈と出演者たちと石井隆や企画者の意図がそれぞれ
バラバラになってしまっているようで、それゆえに、薄っぺらな印象をぼくが抱いて
しまうのかもしれない。少なくともSMシーンのある場面などはとても官能的で、杉本彩の
挑戦に感動してしまうこともあるのだから。
http://d.hatena.ne.jp/tido/200403
二重カキコでした。。ごめんなさい。皆さん弁が立って、羨ましい限りです。 皆見事に「花と蛇」に肉迫されておられるかと。。「花と蛇」が団原作から 石井監督が乖離「させた」ものであるのは、どうやら疑いの余地がないように 思われます。例えば増村保造の「刺青」「盲獣」のような「ざわざわした血」を ひく作品なのではないか。劇画時代から「羞恥」ではなく「生死」を蕩尽する 石井監督「らしい」作風が随所に溢れたものが「花と蛇」ではなかったかと。。 発売中の「週刊アサヒ芸能」に「第二弾製作決定」の文字。 かねてより話は聞こえておりましたが、「決定」と言い切ったのは初めて。。
これはSM志向のポルノ映画の物語そのまま。画面作りは結構凝っていて、出演俳優たちの
演技も真剣そのもの。裸で磔にされたり、花魁の格好で縛られたりする杉本彩の体当たりの
奮闘ぶりも、なかなか見ものだった。鞭で叩かれピストルで脅かされて、否応なくカラダを
許すのと、同意の上のSM行為との違いは判然としないが、要するに爛熟した女性の
肉体で悪の花を咲かせたようという趣向なのだと思う。杉本彩の演技(肉体?)と石井隆の
演出は映画を見る観客の欲望によく応えていたので、充分評価できるところだ。
こういう映画が話題になってもいいじゃないか。
http://jokigen.jugem.cc/?month=200403
(…)杉本彩というまさかこの場に及んで出現するとは思わなかった“ポルノスター”の
誕生を心から祝福したいです。そして、松田仁のプロデュサーとしてのセンスと
眼力の確かさ、監督石井隆の職人的才能に頭を下げたいです。谷の悩ましげな肉体とは
対照的に杉本はまるでアスリートのようにシャープで研ぎ澄まされた肉体でしたね。
明らかに絵コンテに基づいて撮られているカット割りは70年代の劇画を思わせもします。
CGの世界でカンフーしたりピストルの弾をよけたりするサングラスのお兄ちゃんが
ヒーローで満足ならそれでもよいでしょう。マフラー巻いた韓国の二枚目、結構なことです。
しかし、ボクにとってのヒーローは真っ白い肌にコーティングされた
肉体というしなやかであまりにも美しい鎧をまとった杉本彩、彼女こそそう呼ぶに
ふさわしい存在だとおもいますねえ。
http://casty.jp/hikaritown/main/353
(…)ふらっと現れた監督の最初の印象はなぜか「さいとうたかを?」(ゴルゴ13
とかの作者)監督がもともと劇画を描いていたという情報があったせいでしょうか。
でもなんか似てる。(笑)そしてトークショー、「GONIN」の権利関係のゴタゴタ話
とか、夏川結衣さんとか立派になっちゃった人たちの話とか興味深い話が続々と。
それが終わるといよいよ「GONIN」の上映です。なんか石井監督と同じ劇場で
一緒に見てました。(笑)(…)時間も午前3時をすぎ、眠気もピーク、空腹で、
おまけに片目は充血してたという、バッドコンディション、でも映画はおもしろく
眠ってる場合じゃなかったです。そして監督は帰っていかれたわけですが、
ちょっとシャイな感じのナイスミドルでございました。ちなみに3本の
夜間降雨確率は100パーセントでございました。(レイプもですが・・)
@ね、眠たい・・。
http://www2.diary.ne.jp/user/156794/
「抜ける」という声は少ないですね。グラビアでは来るのに映像では こないのは何故?という文章がどこかの日記にありましたが、官能小説などの パターンと「決別」した描写とリズムに戸惑う観客が多いようです。石井監督の 劇画時代の作品は下着のディテール、ベッドや室内インテリアの「現実感」、 眼前で性交渉が行なわれているような映画的なコマ割で読者に衝撃を与え、 その当時の週刊誌の特集では「何回でも抜ける」という熱狂的な祭り上げかたを されていましたよね。。しかし、現在は「抜ける」作家ではなく「真面目すぎる」 作家という捉えられ方が多いようですね。夏川結衣のレイプ(「夜がまた来る」 「GONIN2])喜多嶋舞の緊縛(「GONIN2」)などに舐めるような 執拗過ぎる写し方があり、公開の度に話題を振りまきますが、観客の多くは 「陵辱されているのは男側ではないか」という鏡地獄のような乱反射に晒され、 考え込んじゃう顛末になっていますよね。。前スレ711さんが「杉本彩が石橋蓮司に ペロペロされるシーンで興奮してしまいますた。俺には十分ズリネタになります。」 と書かれたように、そのシーンはその点でえらく好評。。
たとえば、どんな好きな女と寝ていても自分の自我は捨てられないですよ、最後の 最後まで。残りの自我が羞恥心を呼び起こし、性的興奮を生むわけです。もっと捨てたいと いう気持と、それでも捨て切れずにいる自我との緊張の関係がエロティシズムを生むんだと 思います。もし自我を全く捨ててしまえばそれまでですよ。あとはもう何もない。 ミス・ユニバースになるような絶世の美人がいたって、もう駄目だと思います。 (…)非日常性イコール性と言ってもいいんです。日常性を壊すものは性と結びついている。 たとえば性と暴力は結びつく。暴力も日常性を壊すものの一つですからね。 なぜ、サディストがいてマゾヒストがいるのかということですね。 (…)人間の場合は性と祭りが結びつき、性と酒が結びつく。 (岸田秀氏「さらに幻想を語る」青土社) サディストというのは、殺さないですよね。フロイトがいっているように、サディズム というのはエロスとタナトスが融合してできていて、エロスの要素もあるわけ ですから、サディストはいじめて、(…)相手が侮蔑されて、痛いめにあって、 苦しんでいて、しかも逃げだせないでいる姿を見るのが好きなんであって、殺して しまったらそれまでですから。(…)快楽殺人とサディズムは違うんじゃないか と考えています。(…)サディストが殺す場合は、ここまで虐待して逃がすと あぶないということで殺すのではないんですかねえ。本家本元のサド侯爵は殺人を やっていないでしょう。(岸田秀氏「倒錯」伊丹十三氏、福島章氏との対論 ネスコ)
西洋のキリスト教的プラトニズム─精神的なものだけが善で、肉体的なものは 悪だという考え方─に対する批判ですが、(…)反発の代表がサドみたいな人ですね。 (…)エロチシズムというものにすごい超越性を見ている。(…)エロチシズムの 極地は、一方的に男が女を侮蔑する、陵辱する、暴力によって犯すところに洗われる。 最終的には、殺してしまうところまでいく。そういうところでもっとも エロチシズムは高まる、そういう思想なわけです。(…)日本では、猟奇的なもの だとか、肉体的なものに対する偏執的志向は出てくるけれども、あそこまで極端な 思想というのはたぶん出てこない。(…)永井荷風だとか、谷崎潤一郎だとかは、 そんなどんづまりまで突き詰めない。その中には、(…)日本的な好色文化 ─エロスというのは人間が生きていく上でどうしても必要な糧であるという感覚が あると思います。(竹田青嗣氏「現代日本人の恋愛と欲望をめぐって」岸田秀氏との 対論 KKベストセラーズ) 発売中の週間プレイボーイにグラビア掲載。 「nudist 杉本彩の美しきハダカがここにすべて集結!」 『花と蛇』の写真は袋とじの最終ページのみ。
─次回作は『花と蛇』ですか?荒井晴彦さんの脚本で、ある意味では斬新な企画ですね。 廣木■『はき忘れた片方の靴』という調教される男の子の小説があってさ、主人公が 囲われて両性具有になっていくの。その時の喪失感をタイトルが示してるんだけど、 これは今っぽいなあという気がしててね。そういう方法で『花と蛇』も語れるかなあ、と。 ─両性具有も廣木さんの裏テーマというか。でも大胆ですね。 廣木■『花と蛇』って心を変えようとする作品でしょ。だけど、体を変えていくのは もっと凄いのかもしれない。 ─日本人のHって性差を明確にしたところから始まったでしょう。だけど、 若い人って性差は関係なくなってきていると思う。廣木さんの『花と蛇』論は すごいニューウェイヴになる可能性があるよね。 廣木■あるいは古典でやるか。まだ、全然決まってないんですけどね。 (銀星倶楽部★19 桃色映画天国 1994年 発行ペヨトル工房)
最後の愛人◎団鬼六著。新潮社。装幀宇野亜喜良。不覚にも泣いてしまった。
関本郁夫、望月六郎両監督もチラリと登場。フィクションではない純文学として、
SM描写との距離感、バランスもよく、かえって惹かれるものあり。団文学は
エッセイやこういった実体験を描いたものの方が面白い気がする。。
映画と関係なくてスマソ。。でも、オススメ…。
杉本彩は余貴美子や天海祐希のように「肩の力を抜いて」ふわふわすると、
すごく素敵なコメディエンヌになりそうな気がします。嫌いじゃないです。
これを突破口に色々な役柄に挑んでもらいたいっす。
>>77 >>78 >>90 なんかの批評では杉本を日本では稀有なパフォーマー
として賞賛、絶賛しているわけで、パート2があれば尚更のこと杉本ファン「こそ」
この場で「語ってあげたら」いいのに、と逆に思っちゃうのだけれど。
「こんな映画」と済ませず「バカ」になって皆で考えることが、1000万部の雑誌に
裸体を晒して踏ん張っている「女優」杉本の為にもなるんじゃないか?
なんて、仰る通りの「うざい」バカでした…。
「数々のサディスティックで露骨かつ野放図な犯罪的虐待」が陸軍憲兵中隊によって
行われた。具体的には●化学薬品や冷水を浴びせたり、椅子で殴打する●ほうきの柄で
性的暴行を行う●軍犬をけしかけて脅す――など
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040503-00000079-mai-int (マスクを被せ)被虐者の「表情=羞恥」すら読み取れない状況での「拷問」。
米兵の表情、態度に「悦楽=蕩尽」を見い出せばこその「サディスティック」という
表現であるならば、西洋人のとらえる「SM」とは何か、わかるような気がする。
この観点からいけば団鬼六や日本官能小説が異端。杉本彩の「我慢大会」は
「正統」な描写か。にしても「サディスティック」という「報道」でピンと来る
「大衆」というのもつくづく恐ろしい。米兵の性的愉楽を「自ら」のものとして
「実感できてる」証拠だもんなあ…。みんな「異常」だよ、ある意味。。
新潮文庫より1999年11月発行。美人でインテリの妻を弟子に寝取られ、逆上するものの
嫉妬はミじ、やがて狂態を収めたテープを聞きつつ自慰にふける男の「不貞の季節」。
あらゆる女性よりも女性的な、日本舞踊宗家御曹司との切ない交合「美少年」。
快楽教に堕ちた男女の狂宴の一夜「鹿の園」――責める男と呑み尽くす女が精液と
愛液にまみれる三篇、そしてロマンポルノの女王・谷ナオミの哀しいほどに潔い半生
「妖花」。
http://unlimitedtitle.sunnyday.jp/Remark/Literature/Dan.html 主役の杉本彩に華がありません。こういう役ならば、女性が見てもうっとりして
しまうような美しさを、少なくとも責められるシーンでは見せなければならないと
思いました。この女性を責めるとはこういうことなのか、と観客に納得させられる
ような。総じてキャスティングが「薄い」ですね。また責めのシーンを入れ替わり
見せていますが、SMと言っても結局、主人公の女性が段々と様変わりしてゆく
心理を描けなければ感じることも出来ないと思うのです。それがなかった。
http://6328.teacup.com/gamera/bbs
このところの日本がやけに鬱陶しいのは、公序良俗の締め付けだけが厳しく、
言論や行動の自由な許容度がどんどん小さくなっているからではないか。
(…)そんな時代に抗するように、杉本彩のヌードが週刊誌のグラビアを飾って
話題を呼んだ『花と蛇』が、予想以上にヒットしているようだ。映論規制の限界
ギリギリまでSMシーンに挑んだ杉本彩の熱演を賞賛する声は一様に高く、
パブリシティーが十分に行き渡れば、成人映画もまだまだ稼げるということだろう。
このところ企画力に乏しいピンク映画界も、フンドシを締め直して取り組んで
欲しいものだ。
http://w2222.nsk.ne.jp/~amovie/kouki.html 映画というのは、結局、監督が表現しようとした世界がどれだけ、その映像により
実際に表現されているか、そしてその表現された世界を、私(観客)が監督と
供に楽しむことが出来るかどうか、で作品の評価が決まる。「花と蛇」は面白かった。
http://d.hatena.ne.jp/nico-nico/
“キリストの、最後の12時間を忠実に描いた”映画(…)むち打たれるシーンとか、
酷いのだ。鎖の先に鑿の先っぽみたいな刃がついてる、ってのが何本も束ねられた
鞭で、背中をばっちんばっちん打つぞ。肉は裂け血は飛び散る。ってゆーか
背中の肉がえぐり取られたりします!『花と蛇』のソフトなSM表現に満足
できなかった人は、是非これを観ると宜しい。(…)刑罰とか拷問をリワルに
描けば全部こんなふーになるだろうに。ただまぁ、単にそれをやっても
「残虐シーンが売りのきわもの映画」としか捉えられまい。「キリストの話」
ってーのは、強力な免罪符になるもんだと思います
http://www.ipc-tokai.or.jp/~woquave/nikki0403down.html
元フォーク・クルセイダースのメンバーであった加藤和彦が奥様のミカ夫人、 高中正義、
小原礼らとともに1972年に結成した日本最古のハードロック・バンド・ サディスティック
・ミカ・バンド。「名前の由来」は、もちろんプラスティック・オノ・バンドのパロディ。
結成当時はあのメリー・ジェーンでも有名なつのだひろ氏もいたらしい。加藤和彦・
高中正義に加え、高橋幸宏が在籍していたスーパー・グループとしても知られる。
72年にサイクリング・ブギでデビュー。とにかくなんといっても代表作といえば74年に
リリースされた名盤黒船。江戸風情な日本テイストをハードロック/ファンク/
フュージョン/プログレなど当時先端をいく文脈のなかで見事に結晶化。それはまさに
“和洋折衷”という表現がぴったりな、まったく独自のサウンドであった。もちろん
3曲目タイムマシンにお願いは語り継がれるべき名曲。
http://www.hmv.co.jp/news/newsDetail.asp?newsnum=308150076 ●週刊現代[5月22日号]
映画「花と蛇」もうひとつの物語−石井隆監督が演出・撮影したアート
●週刊ポスト[5月21日号]
インターネットで公開された杉本彩「花と蛇」−封印された局部映像
米国の政治家も、サドよりもマゾが多いだろうといわれている。その証拠に
彼らが通う売春宿にはかならずムチ、手錠、鎖、ピン、十字架の架刑台などが
用意されている。それじゃ、なぜサドよりもマゾが多いか?キリスト教と大いに
関係がある。キリストは十字架に張り付けになる前にムチで打たれるなど、いろんな
凌辱(passion)を受けた。政治家たちも、キリストとおなじように肉体的な
責め苦をうけることで、自分を sufferer「殉教者」に仕立て上げようってわけだ。
殉教者であることは、選挙で女性票を獲得するのにけっこう役立つんだとか。
なかでも、政治家たちのお好みってのはムチ打ち。スッポンポンになって、女王様に
ムチで尻から血がでるまで叩かれ、部屋の中を四つん這いになって歩き回るのが、
えもいわれぬ快感なんだって。
http://ok.halhal.net/~senichi/seniti/night/67night.html 厳格かつ身勝手なキリスト教がはやった時代。女性や猫が魔女、悪魔として迫害された。
(…)中世の傑作品に、拷問道具がある。女性への拷問は、性的なものが多かったようだ。
すなわち、性器への責め苦。(…)清らかでなければいけないはずの聖職者がそんな拷問
考えたりやったり(…)罪を裁く、悪を裁くという美しい名目の元に、淫らな拷問する
なんて。
http://ch.kitaguni.tv/u/503/%B6%B2%A4%A4%CF%C3/0000002257.html
「サド侯爵の生涯」から得た知識によれば (あるいは、そこに語られている
渋澤龍彦の考えによれば) サディストとは相手の嫌がることをして性的快感を
得る人間のこと。相手が縛られるのを 嫌がるなら縛ればいいし、敬虔なキリスト
教徒相手ならキリストの像を踏ませてもいい。 相手が嫌がるのが重要なのか
相手が嫌がっていると自分が思えるのが重要なのか ちょっとわからないけど、
鞭打つといった行為や相手の隷従そのものには意味がないらしい。(…)
一般に日本でSMとして語られる「ご主人様と奴隷」というロールプレイは
サディストとどういう関係があるんだろう?もちろん、相手の嫌がることを
させるためには多少なりとも相手を隷従させる必要があるけど、それは必要
条件に過ぎない。だから、「SM」はサディストとは なんの関係もないロール
プレイに過ぎないのかもしれない。
http://www.creator.club.ne.jp/~jagarl/diary200104b.html
<SM映画も東映が作るとこうなるのか>
当初杉本彩の放尿シーンという前評判ばかり気にしていたが、利尿剤を含んだ
溶液を、口枷で強制開口したままイルリガードルを使って飲ませるというプレイには
感心した。イルリガードルと言えば、今まで浣腸しか使っていなかった私には、
実に新鮮に感じた。また、バイブではなく実際に男がかぶっている仮面の鼻が
ディルドオというのも、ストリップの天狗の面を使ったショー以上に妖しげだ。
映画の中で目立つのは十字架への腕の水平縛りシーンだ。これをトータルすると
結構長い時間だ。撮影時にはこれに数倍する時間がかかるだろうと思うと、SM
未経験の杉本彩はよく耐えたと思う。特においらん姿の下、全身にほどこされた
鮮やかな刺青姿のまま十字架にはりつけされ、それに霧雨のようなものが
降りそそぐシーンは実に幻想的だ。これらのシーン以外にも、ロウソク責め、
レズSMプレイ、逆さ吊り水責め、濡れ手拭での鞭打ちと、当初あまり
SMシーンは期待できないのではないかと思っていたがまずまずである。
杉本彩ファンにとっては、彼女の動くヘヤ・ヌード姿を見れるだけでも
満足なのではないのだろうか。また、異様な集会風景は、トム・クルーズと
ニコール・キッドマンが主演した映画「アイズ・ワイズ・ショット」を思い
出してしまう。この場面で欠かせないのが、司会というかピエロというか、
彼の巧妙な衣装としゃべりはまさに演技賞ものだ。全体のストーリー展開も
安易に結論に達っしようとはせず、最後まで決して単調ではない。あまり
書きすぎるとこれから鑑賞される方の楽しみを奪ってしまうので、この辺で
と思うのだが、今回私が出かけたのは銀座シネパトスだったが多くのカップルが
楽しそうに鑑賞していたことを付け加えておこう。M女の貴方はぜひ御主人様と
同伴されることをお勧めする。
http://amds.jp/disp_bn_pc.php?published_id=46481
こんな映画」ではありましょうが、「不貞の季節」が話題に出れば「不貞の季節」を見、 「パッション」が話題になれば「パッション」を見、映画「花と蛇」について関連づけて 語っていたつもりだったのだが。前スレで途中いらん長文を書き連ね、皆から呆れられた のも、最後暴れてしまったのも事実。ですが、「普通の映画板住人はみんな引いちゃって」 節操のない似非SMマニアに不甲斐なく「占拠されて」しまっているので年甲斐もなく イラついちゃったんだ。「新スレいらないねと確認をとったのに、その数日後に勝手に 1が立て」たのは、前スレの最後ぶち壊しにした「後ろめたさ」からさ。それと「映画」の 「花と蛇」を、「普通の映画好き」が語り合えるスレが欲しかったからだったんだが。 147は「普通の映画板住人」なの?「浣腸」「黒木瞳」の言葉足らずのSMマニアなのかい? それとも「普通の映画板住人」というのが、「浣腸」「黒木瞳」程度で終わっちゃう人たちなの? 確かに素材ダラダラで済まなかったよ。ちょっと控えるよ。(でもさ、素材、引用の内容は 映画「花と蛇」と古今東西の映像作品、監督、そして「監督」石井隆にかかわるものに 絞っているつもりだけれどなぁ…。)逆に「映画」好きと思いたい147にこそ語ってもらいたいよ、 マジで…。
三島独特の表現の中でサド侯爵という人間が生き生きと描写され(ワインを花にやる
エピソードなど、何と鮮やかな筆遣いではないですか)、最後に女達の会話を通して
「天国の裏階段を登っていった」サドという解釈まで発展するスケールの大きさに
感心します。「SADEMANIA〜サド公爵を愛する全ての人に〜」(ディスカッションが深い)
http://www.jah.ne.jp/~piza/COMPOSITIONS.html 名作「仮面の告白」の中で真実の告白をしているのを読むと、彼も父親の書斎で
この全集のルネサンスの巻を開き、イタリアの画家ギト・レーニの描いた美青年の
肉体に矢が刺さって血が流れている「聖セバスチャンの殉教」という絵を見て、
めくるめく思いをして精通した(…)と書いています。彼が12歳の時かな?
http://www.kk-video.co.jp/comments/fujiihyoron/fujii084.html 週刊現代「『花と蛇』もうひとつの物語」のラストシーンは「屋上」。。
バタイユ(今ごろ読んでるw)の著作によればエロティシズムの発生は
「洞窟の竪穴=地下室」。。「死んでもいい」「夜がまた来る」「GONIN2」の
地上または地下室からの無茶苦茶な「縦移動(上昇)」には石井監督のこだわり、
哲学を感じる。。単に「めまい」とかのヒッチコックシンドロームかな?
(「コレクター」とか「羊たちの沈黙」、地下室とこの手の映画の関わりも思い返すと
深いものがあるよね。。)
団鬼六「美少年」読みました。哀しい話ですね。
日本舞踊宗家御曹司が「道成寺」清姫(きよひめ)の舞台衣装で追いすがる
シーンが美しく、七十歳間近の作家が死を目前にした山田と風呂に入る際の
諦観と四十年前の「若さ」のコントラストが鮮やかで映画的。
盆暮れのTVスペシャルで映像化するのがよろしいかと思われ。。
>>169 文学板の三島スレで質問あげてみました。
「ぼくもピンときませんねぇ。三島は、作家=文体と考えるひとですから、
団鬼六のような文体を「熱心に推薦」することはないのではないか。」
との返答が現時点であり。何か出てこないかな。。
美しい星」の作者という極めて通俗的な面も持つ三島には、ポルノと いう垣根など無かったでしょう。三島が団を推薦することに違和感は 全く覚えないのですが、「いったいどのような」感想を述べているのか、 そこが興味が湧きます。。 「使い込んだ文具に類する作家の手くせ」「暴走するようなライブ感」というのは、 団作品を読むと膝を打ちたくなる表現です。「性」に関する文学、映像作品については 疎んじられる傾向がありますが、いかに「技量」が必要か、理解されてない気がします。。 振り返って見ると石井監督の作品は「読者に持続した緊張与える」ことに徹してきたような 気がします。映画『花と蛇』について言えば、ガチガチの石井リスペクト野郎の目からは、 随分と役者を立てた「ライブ感」を重んじた描写と感じられるのですが…。団ファンには 納得出来ないのでしょうが…。。
階段の夢についてですが、フロイトがすでに夢判断で、性交の象徴であると述べています。
登ることと飛び降りることが、性的興奮の高まりと解消に対応していると考えてください。
(…)登って行くと部屋がある、というのは、産道から子宮に至る女性(母親)身体の象徴
でもあります(…)
http://village.infoweb.ne.jp/~fwkx9970/dream/dream74.htm 『階段』 過去・現在・未来を結ぶものを表す。背景に表れる夢は運命に逆らえないという
気持ち。あるがままを受け入れようとする気持ちを投影。(…)上っても上っても上りきれ
ない階段の夢は性的欲望に自らブレーキをかけていることを示す。
『屋根・屋上』 開放的な気分や自信を表す。今までの生活が変わる予感。精神的な弱さを
持っている人が強くなれる予感。
『地下室』 卑しい欲望を表す。あるいは堕落・恐怖。心の奥底に押し込められた自分の
性格の暗い一面を表す。あるいは人に知られたくない感情や欲望。幼い頃の苦い思い出。
解決しなければならない問題を抱えているときに見る事もあります。
http://hw.sakura.ne.jp/~yumi/dream/
夫の仕事上のトラブルのために凌辱の限りを尽くされる女性の話。
主人公を演じる杉本彩の鍛え上げられた、それでいて決して筋肉質ではない肉体が
惜しげもなく曝され、それにぼかしが一切ないのは別な意味で驚きがある。
ストーリーは原作であるSM小説の王道をベースにしているだけに、令夫人であるとか、
女ボディガードであるとか、通常使われないような滑稽な表現が含まれているが、それ
も含めてSM小説という世界であり、人の欲望の吐露であるとすれば、敬意と誠意を持って
描かれていると言える。また会員制クラブでの凌辱は基本的にSMの部類に入るものだが、
均整の取れた杉本彩の肉体とカメラワーク、そして音楽がその映像をハイレベルなものに
昇華させている。決して熱さや痛さを観ているものに感じさせるのではなく、それは
あたかもSMという文化を後世に伝える記録フィルムのように感じられる。ポルノグラフィと
AV(アダルトビデオ)に差があるのだとすれば、これは紛れもなくポルノグラフィと呼ばれる
べきものであり、それだけの説得力を映像は持っている。
http://www.ptp.co.jp/mypage.php3?ptp_user_id=4153
十九世紀末のヨーロッパにフェリシアン・ロプスというベルギーの画家がいた。
そのフローベール原作の『聖アントニウスの誘惑』への挿画は、磔刑に処せられた
キリストの瀕死の身体を悪魔が取り外し、代わって豊満な乳房もみずみずしい若い
女性の艶やかな全裸が、十字架にはりつけされているというものだった。(…)
淫らな薄笑いさえ浮かべた若い女性の頭上には<EROS エロス>の銘が示され、
一頭の豚が十字架の足元に立って彼女の姿を見上げていた。光景を幻視する聖アント
ニウスは、両手で頭を押さえ激しい戦慄に襲われていた。女性が裸姿で十字架にかけ
られている西洋の美術は珍しいものである。十字架はキリストが受難を経て人類の救済を
象徴する場所であるから、女性がましてや全裸の女が磔にされる姿というのは冒涜的で
あるに違いない。事実、この挿画から受ける印象は<エロス>の銘の通り、淫蕩そのもの
である。だが、性のエネルギーは宗教的心情よりも深いところにあることを、この絵は
よく示していることは確かである。
http://tbrain.hp.infoseek.co.jp/ring/001/001.htm (緊縛についてブレイクの言葉まで引用し徹底解説)
>>381 さん、情報ありがとうございます。
『花と蛇』ヒットしてよかった、よかった。。
自作自演とのお言葉と引用の反復、ご苦労さまでした。自作自演じゃないけどね。
随分と色んな人に助けられながら、石井隆という作家の仕掛けに僅かながら接近
できたような気がしています。
こういう方法を用いないと複雑で多層な思惑が隠された『花と蛇』を自分なりに
解釈出来なかったんだよね。ホント身勝手な馬鹿で誤ります。ごめんな。
どんどん引用をコピーして行数を増やしてもらっていいですよ。というのも、こう
いったSMに関しての凄まじい知識が石井隆の『花と蛇』の「見えない実質」だと
思っているから…。DVDを鑑賞して「夢落ち」に疑問をもって、そして団鬼六は
じめ官能小説へ興味を持った人が、この掲示板を見てくれた時、あっ、そういう
裏があったの…もしかしたら、まだパズルは解けてないかも、という感じで見直し
てくれるだけで、私はもう満足。。
リルケさん、381さん、前スレの653さん、その他の助けてくれた人。
どうもありがとうございました。引用コピー攻撃で、間もなくこの掲示板は沈没
だね。なんか寂しい気がしますが、仕方ないね。そういう世界だもんね。
そんなおセンチなことを書いても、1はこのスレに粘着するのだった…なんてw。。
ホント、サンキューね。。いつ消えちゃうかわからないので、お礼を言っておき
ます。どうもありがとう。。面白かった。。
SMシーンとか色々言われているけど、(…)一番グッと来たのは、一番最初のベッドから
起きて下着姿のまま体操しているシーンかな。SMシーンは、なんか袋とじとかで見慣れた
せいか、イマイチ新鮮味がなかったです。ところで「花と蛇」は要するに監禁SM系の
性的ファンタジーを体現した映画なんだけど、(…)例えば美女をもっとも美しいコン
ディションでお客の前に出そうと思ったら、いい食事と適度な運動はもちろん、ヘアメイク
に定期的なエステも必要ですな。流行の服やジュエリーも買い与えて、精神的に満足させ
ないと、コンディションは維持できないと思う。地下室に手足縛って放り込んで込んで入れば、
どんな美女でも24時間で商品価値ががた減りになる。(…)「花と蛇」で足りないのは、
そういう意味では「生簀」の発想ですな。
http://ns.media-juggler.co.jp/~tak/dronpa/akindo/
この作品は杉本の代表作として残るだろう。(…)私としては杉本よりも、その「マレビト」
っぷりが突き抜けてる石橋蓮司、凄みの入った遠藤憲一という大好きな俳優のほうに目が
行ってしまった。(…)文句も言ったが、映画としては本当に良くできている。ポルノと
しては機能しないが。祝祭空間と現実空間は紙一重だということ、我々だって誰が仮面を
かぶっているかわからずに社会を生きているではないか、すべてはファンタジー・悪夢なのだ。
それを純愛のディスクールの中に描き出すとは、さすが石井隆!! キューブリックの『アイズ・
ワイド・シャット』との比較論など面白そう。あと、現行の映倫コードに明らかに引っかかる
カットがラスト近くにあったが、あれは見落とし? それともお目こぼし? とにかく、
日本映画からボカシなどという無粋なものがなくなる日を夢見て。
http://aurora.bird.to/karan/elena/html/
『花と蛇』といえば、誘拐された会社社長の美人妻が、犯人たちから陵辱の限りを
尽くされるという話ですが、今回は21世紀のリメイク作品らしく、現代の調教器具や
倒錯系ファッションが登場。作品の紹介キャプションで、イリルガートルとか医療系の
用語が登場、なんだかディープな世界を漂わせています。
オフィシャルサイトのスティル写真では、杉本さんが穴の開いた猿ぐつわみたいな
皮バンドで口の周囲を覆われています。これはどうやら強制離尿剤を飲まされ(…ている)
感じです。この手のマスクは調べてみると、Mouth Gagと呼ばれているようです。(…)
なお、冒頭のシーンで杉本さんがはめているMouth Gagは、Bite Gag(Bit Gag)など
とも呼ばれるもので、和風に呼称するなら犬轡(いぬぐつわ)です。
http://blog.digitiminimi.com/kobakoba/
原作のあらすじ
http://tbrain.hp.infoseek.co.jp/ring/001/001.htmを読むと 、
調教のディテールがほとんど霧散し、そこを鬼六ファンが責めるのだけれど、大きな
流れはちゃんと押えているように思う。
「財界の大立者」の「絶世の美女静子夫人は、」「拉致されてしまう。夫人は一糸も
許されない全裸姿にされ、囚われの身であり奴隷である身分を自覚させられるために縄で
縛り上げられる。このときから、夫人の全裸緊縛姿の生活が始まる。」「運転手の見ている
前で強制的な排尿をやらされる」「そこへ救出の女探偵があらわれ、ふたりは屋敷からの脱出を
はかるが失敗に終わる。全裸にされた夫人と女探偵は、」「緊縛され、塩水をやかん一杯飲まさ
れると立ったまま放尿させられる。」「夫人と女探偵は緊縛姿のまま、女同士の愛撫を強要される。」
映画『花と蛇』は原作者へ敬意をもって石井監督が挑んだ作品であり、石井監督なりに視覚化した
部分として「原作の最後」が描かれていないか。そこから「逆転した過去」を映像化していることが
「パターン化した映画の破壊」へと進んではいないか。
「今は精神病院に入院している元の夫が危篤という知らせが入り、静子夫人は屋敷から必死の逃亡をはかる。
しかし、運転手に発見され、永遠の地獄へ連れ戻されていくのだった」
http://tbrain.hp.infoseek.co.jp/ring/001/001.htm
この作品への印象を語ったものに多く見られたのが「曖昧さ」だったよね…。 (743)最初から最後まで、全然リアリティないんですが...(876)こんな単調なもの (891)何だか訳は知らないけど、(95)それぞれバラバラになってしまっているようで、 (39)なんか絵空事なんだよね。(17)ぼやけてしまった(18)居心地の悪さを感じた。 (69)根本的に演出意図がヘンじゃないか?不条理な気分だよ。 つまりは(90)妄想と現実の交錯(193)すべてはファンタジー・悪夢なのだ。 こういった反応は「間違っていなかった」んだよね。 (71)夢を楽しむためには、目がさめない程度に辻褄が合っていれば良いのである。 (…)「花と蛇」はそういった夢の世界であり、いつまでも決して完結しない物語で あってくれれば良いのだ。 …それでは、その生贄になった側の「最後」はどうなるのかな? (68)ヒロインに感情移入することも、ヒロインの人間性を追及することもできなかった。 (68)徹底的に突き放した目線で作られている。 「人間性」が失われた杉本彩に感情移入は「元々」できないのは当然の帰結。。
(28)鬼六小説で柱くくりつけは頻出するが、十字架は記憶に無い。宗教的意味合い (「死」「犠牲」につながる)なんか無論なかろう。(27)磔刑に宗教的な意味合いは 無いと思う。 …どう見たって宗教画の磔刑のシーンが導入されたのはなぜ?この『花と蛇』は男側の 妄想の上に立つ「現実」ではなく、静子の「記憶、精神」の上に構築された物語だから じゃないか。静子の救いを求める気持ちが十字架へと結晶化した。「地獄」という暗闇に 立つ十字架、そこで「天」を見上げあえいでいる翼をもがれた「天使」こそ杉本彩じゃないのか。 未向の磔にされた十字架は「右」。キリストと共に磔にされ、恨みの断末魔を上げて 「地獄に落ちた」者として知られている。ここまで石井監督が計算しているとすれば、 (83)の表現のように「冷水を浴び」たような怖さがあるよ。。 ラストカットの杉本彩の視線に何を見るのか。(38)男が「一つになれた」「モノにした」 と思い上がった次の瞬間に、手の届かないところに去っていく女の、拒絶とも受容とも 判別しかねる、しかし、なぜか、この上なく美しく感じられる、そんな視線です。 …「生」を越境するだけが「手の届かないところ」じゃない。 杉本彩に石井監督が渡らせたものは何か、そこまで追い詰めた「地獄」の十数日間「花と蛇」を 映画化するということは「何を描くことで」完成すると考えたのか。。 石井隆という人はホント、傑出した「映画人」だと自分は思うのだが…。。
探偵事務所の所長の寺島進のリポートによれば、田代老人は95歳。その年齢から性的
能力を軽んじた野村宏伸が杉本彩の「一時的な」借用に応じてしまう、というのが映画の話。
『花と蛇』は[老人]石橋蓮司の杉本彩=静子への執拗な「眼差し」で成立っている…。
ちなみに2003年に95歳ということは明治41年1908年生れということになるね。
その頃生まれた人を調べると、映画、美術関係者では次のような方々が…。鬼籍に入られた
方も多く、95歳という年齢の「重さ」をかんじるなぁ。。田代老人の凄絶な執念、意志を
感じちゃう…。。
[1908年に生まれた人々]伴淳三郎、長谷川一夫、バルテュス、マキノ雅弘、デビッド=リーン、
ヘルベルト=フォン=カラヤン、ジェームズ=スチュワート、東山魁夷 、中村伸郎
[1909年に生まれた人々]ホセ=フェラー、佐分利信、淀川長治、太宰治、マルセル=カルネ 、
エリア=カザン、上原謙、埴谷雄高、松本清張
[1910年に生まれた人々]デビッド=ニーブン、黒澤明、田中友幸、双葉十三郎、
[1911年に生まれた人々]ジョン=スタージェス、森一生、岡本太郎、本多猪四郎
ニーノ=ロータ
http://www.d4.dion.ne.jp/~warapon/data00/year/birth_1908.htm でも、なんで95歳もの老人なんだ?
どうして62歳の石橋蓮司では駄目なんだ?
(82)黒幕の田代一平(石橋蓮司)を卑しい成り上がり者の街金融の社長ではなく、
遠山家以上の権力を持つ大物にしているところにも鬼六的世界との訣別が示されていた
ように思う。 …ホントに「訣別」するつもりだったのかな?
田代一平(50才)実業家。森田組のスポンサー。
「花と蛇」の連載開始 「花と蛇」は当初奇ク昭和37年8・9月合併号、同11月号
および12月号に3回にわたって掲載された。その後翌38年7月号から正式に連載が
開始され、昭和39年9月号で前編が終了した。そして1号置いた同11月号から続編の
連載が開始され、実に昭和46年11月号まで前編15回、続編78回の実に合計93回、
足掛け11年にわたる長期連載となった。
第一日(昭和三十七年九月二十日)静子夫人、六本木の山崎探偵事務所へ向かう。
同日十七時二十分 静子夫人は日本橋三越前で四人のズベ公に誘拐される。
http://tanbi.kir.jp/hanasekai/Hana_chara.html (既出「花と蛇」の世界 必読)
昭和37年に50歳であった田代一平が現在まで生きていたら、2003年には91歳になる。
昭和37年に静子を拉致した者の一人、田代一平にとって、20日以上に渡るその「静子との日々」
は至福の時ではなかったか。彼らがどのようにして散っていったのか、どのように生きていったのか、
「千代は完全に狂われてしまったようだ」が、他の者たちはどうだったのかな。。
未完の長編『花と蛇』を映画化するにあたり、「昭和37年の監禁事件の当事者たちが現在生きていたら」
ということに想像を巡らすことは作劇上「当然」の経緯ではなかったか。。
(204)延々と続くそれが、「鬼六」じゃないの? もしも昭和37年の小説世界の「延長」として「田代一平という老人」が造形されて いるとすれば、(杉本彩の実年齢こそ小説の静子とは差が開いてしまっているが、そこはネw) 異様に設定上「浮いた」彼の年齢も「物語の核心」となって輝いてこないか。 石井作品の中にも老人は登場するが、95歳という異常なものは目にしたことがない。。 しかし、40年以上に渡って「愛した女を慕い続ける男」であれば、 それは石井監督の描くファム・ファタールの世界じゃないか、 実にすんなりと納得出来はしないか。 延々と続くそれが、「花と蛇」であれば、未完の作品であれば尚更、このような 『映画』に結実させるのが石井監督の胸に秘めた使命であり、 先輩鬼六への自分なりの恩返しではなかったか。。 石井監督のインタビューもSM描写への質問に偏り、東映ビデオの戦術もあってか、 何の後ろ盾のないカタリンでしかない。全ておまえの『妄想』だよ、と言われてしまえば それまでだが、そのように見て取れば石橋蓮司の眼差し、無謀な歩み、死に物狂いの性交、 遠藤憲一を息も絶え絶えで止めようとする腕の動き、それらは皆、涙に濡れて見えてはこないか。 ゴジラを呑み込むビオランテのようにのたうち回り、「精神」の境界と「生命」の境界を 越えようとする男と女の極限の愛が、「血みどろの愛」が見えてはこないか。 杉本彩の『見えない愛』とはこのことではなかったか。。。 やはり『花と蛇』という看板は「借り物どころではない」のではないか。。 あまりの底無しの仕掛けに、自分は少々怖くなってきました。。
[ 夢オチじゃない。 ] 「いろんな映画的仕掛けは巡らしましたが、夢オチじゃない。夢ではなく、 過去が現実になっていて、一か所だけ現実が顔を出す。今回の映画は、 言葉で物語るドラマを極力廃した点、そして時間軸を無視した点でも 敢えて映画の文法から逸脱してみた。(…)たとえ文法から外れていても、 それを気付かせないで見終えるくらいのアメージングな世界。 映画少年だった僕の体験から言えば、映画の嘘として、それは有効だと思うし。」 石井隆監督インタビュー キネマ旬報3月下旬号 インタビュアー北川れい子氏
常連の石井組が出ていないというのは、 「団鬼六の世界」を確立したいと願った石井監督の「配慮」だと思われ。 「東京GP」の特集記事がBURSTに載ってましたが、そこでの裏話 では「(…)最初は、プロの役者を絶対に呼ばないって話しだったのに、 (…)「誰々が警察に連れていかれました」とかいって、(…)「ハイ、ハイ」って 鶴見クンとか伊藤クンに電話して、(…)無理言って出演してもらったけど(…)」 との石井監督のインタビューがあります。声がかかれば、出てやろうじゃん、 っていう「石井監督への絆の強さ」がにじみ出る話ですよね。 石井色を排除しても団鬼六のファンを念頭に入れた「リアル」なドラマを創ろうとしたと 想像しますが、どうでしょ。 また、伊藤洋三郎をスピンオフで残すことで東京GPで確立した「異次元性」を保とうと した、ということと、なんといっても捨て身の「杉本彩」をコントラスト強め、 クッキリと浮き上がらせる「思い」が感じられるのですが。 だってさ、竹中直人や、余貴美子、根津甚八、椎名桔平とか 片岡礼子や鶴見辰吾、 彼らがカメオしちゃったら、杉本彩を食いかねないじゃん。
「自己陶酔の知障は氏ね」ってのはお仲間から頂戴した言葉でな、 好きで名乗ったんじゃねえよ。 「なんか映画に全く関係ないスレになってるな。 そろそろ軌道修正したほうがいいんじゃないかな」とか 「ションベンだの、変態連中の集まるスレはここですか・・。」 なんて書かれてやがって、団と石井両先生に面目ないだろ。ホント申し訳ないよ、俺は。 映画版にふさわしい「映画」の話題に修正し、団文学のファン層を 厚く、広くしちゃろう、ぐらい思わないのかよ。 小沼勝の「名前」がせいぜいじゃんか。「古都曼荼羅」や「責める!」には 及ばないとか、目からウロコのSM論で「初心者」を折伏してみろよ。 この映画は団先生を盛り上げ、新たな読者層を開拓するためのプロジェクトだろ。 足引っ張ってばかりでどうすんのよ。 ってことで、色々レクチャー受けようと思ったけど、もうこのスレ来ないし、開かんので、 さよならな。親切にありがとな。
「花と蛇」はな、俺らの金を吸い尽くそうと企画された「偽」SM映画だ。 批評されて引き回すのは俺らの役目だ。最期の死に水をとってやるよ。 マンセー野郎は誰も賞賛せんしな。相手になってやるから、どこがどう良いのか、 書き込んでみさらせ。え、屁理屈だらけのお偉い映画版の住民さんよ。 原作の持つ底無しのイリュージョンの片鱗すらあらへん。 もう直ぐ終了ぜ。石井信者のハゲ、ダンマリ決めてウツムイテ歩けや。 出ていけ、なんて軽く言うなよ。映画「花と蛇」がSM映画と宣伝し続けた以上、 俺らを無視してのスレはインチキだからな。もっとも映画が映画だからな。 マンセー野郎もインチキがお似合いだ。 こんなのSMとは言わん。誰も誉めん、誰も批評書かんから、まともな映画とは言えん。 「何ものでもない、得体の知れんもの」を作りやがった、ということだ。 SM映画とは言えんから「SM版」で論ずるのは間違い。だからここで書き込んでいる。 おまえの意見を言えや。 石井ファンの諸君、よく切れないで書き込んだな。皆、エライ! 石井監督の次回作着手も間もなくであろうから、その時には、 SMのカタレンを抜きにして語りたいものじゃのう。 「花と蛇2」では元の木阿弥であろうがのう。 映画板のノーマルなみなさん、愚劣なSMマニアが映画板を荒らして、 誠に申し訳ありませんでした。 途中、彼らに擬態して「遊んで」しまいました際に呼び捨てなどしましたが、 石井監督、杉本彩さんには心底頭をたれ、その意気に対し感涙を惜しみません。 失礼しました。今後ともインパクトのある作品を作っていってください。 尚これ以降の書き込みは致しません。多分、バカが文章コピペするでしょうが。
ああ、めでたく終わりだな。楽しかった。 おまえらには感服した。スレタイに名前ないから「監督の話題も駄目」ときたか。 目からウロコのSM論で「初心者」を折伏してみろよって言ってやったのに、 最後の最後まで浣腸の話だもんな。俺は本当に「SMの魂」に触れてみたかったんだぜ。 そうやって話を向けてやったろ。「アイズ」と「花と蛇」の比較論ぐらいしろよ。 俺はカタリンだが、おまえらカタレンじゃん。 俺はこのスレ、最初から嫌いだったのよ。安河内氏、安川氏の話も出ない、 石井ファンの話題修正の声や心情無視して、下劣な落書き続けやがって。噴飯もんだぜ。
確かに「最低な奴」なんだと思うよ、自分でも…。 前スレの「短気で、自分本位なバカ」な発言は本当に恥ずかしい。。ごめんなさい。 重ねてお詫びします。短気は性分で、ホント損だね。反省してます。 「粘着気質」も否定出来ないし、救いようのない馬鹿野郎だね、まったく…。 215−218については気持ちは変わらないし、嘘はないよ。 イザベル・アジャーニと同じ土俵にのったのじゃないか、との感慨もさらに 深くなるばかり。。219以下は穴があったら入りたい気持ちだけどね…。 このスレ「引用に次ぐ引用」で、皆あきれていると思うけど、「つまらない」 「面白くない」といったレベルでなく、「突き詰めた批評」を抽出してみると、 見比べて見て面白くないかい?目線の違いでこんなに陰影が変わるのか、と 不思議に思えたがなぁ。ちょっと茶々入れてくれる人がいて、そこから深読みを 進めて思いのほか視界がひらけたり、目障りだったと思うけど、「自分本位」では とても役に立ちました。 鬼六読者も見てるかもしれない、そう思えばこそ団の著作も読み進めてきたし、 さらには上にひも解いてきたSMの解説ページものめり込んで見てきた。それが映画 『花と蛇』という鉱山を掘り進めるためには、もの凄く有効だったと思う。。 このスレを立てなければ自分こそ単なる石井マンセーで終わっていた。。 「死んでもいい」や「ヌードの夜」には及ばないとか、「黒の天使」の方がいい、 なんていう単純な感想にとどまってしまったろうな。。 日本中に「怒り」を撒き散らした迷惑スレだったと思うけど、上で「妄想」した 以上の「作家石井隆」のめぐらした「仕掛け」がまだまだ隠れていると想われるので、 いっしょに探してくれませんか。。
図書館に出向き見てまいりました。(新潮社全集と研究書十数冊があり、団鬼六は随想 の類いまで一冊もない有り様。)もっとも1頁ごと目線を走らす時間もなく、見逃しが ないとは限りません。。 全集昭和30年代批評、手紙、研究書の中には三島=団のラインは見当たりません。バタ イユ、サド、澁澤への連結のみ。ただ一冊、板坂剛氏「真説 謎の原郷 三島由起夫」 夏目書房 1998年8月20日初版の中に「三島は『花と蛇』について語っていない」という 書かれ方が。 「まさに日本の文化のことごとくは「花と蛇」に集約されるのである。 (…)絶賛していた(…)『家畜人ヤプー』と同時期に同じ雑誌に掲載されていた『花と 蛇』にも眼を通していたとして、いやらしいまでに学術的な『家畜人ヤプー』に注目しな がら、下品に徹した『花と蛇』を無視したところも三島らしいと言えば三島らしいが、 (…)何も感じなかったのだろうか。あるいは感じていて眼をそむけていたのか。(…)」
FRIDAY6月4日号「杉本彩エロスで恋人同士に大流行中!SMの快楽」
『花と蛇』に関しては基本4点セットの写真(刺青磔、全裸ワルツ、花魁宙吊り、
バレリーナピエロと宙吊り)のみで、文中でも特に触れられず。。
表現者たちは日々精進しているようです。わたしのような凡人には想像する事すら困難で
す。女優の杉本綾は映画「花と蛇」の中で本物のSMプレイを実践している。超過激な体当
たりの演技をしている。すべて吹き替え無しの本物志向で。彼女の言葉をかりれば「裸は
わたしの戦闘服」だそうだ。表現者としてどんな些細なことにも妥協を許さない姿勢は
さすが女優である。その昔、自分の健康な歯をすべて抜いて総入れ歯にした女優がいました。
その人の名は田中絹代といいました。たかが一本の映画の為にそこまでするのかと驚かされ
ました。きっと、表現するということはそこまでの覚悟がないと本物にはならないものなのですね。
http://www.geocities.jp/jtcjp962/diary/diary04.htm
もうのっけからサービス満点な感じである。(…)誘拐されてからがこの映画の本番である。
(…)ここがもう一歩なのだ。彼女の転落にいたる企みはしっかり描かれているが、調教が
わたしにはもの足りない。本職の「縛り」は美しいし、静子を演じる杉本彩はエロい声を出す
のだけれど、いつ終わるとも知れない退屈な感じがほしかった。(…)SMショーの司会(伊藤
洋三郎)は看護婦だったりバレリーナだったり、いちいち女装して出てくるのであった。この
司会の人がもうたまらなくいい。静子を言葉責めにして観客を楽しませる。こういういかがわ
しい人になりたい。
すっかりでき上がった静子を、歩くこともままならぬ田代が抱くことでこの長い誘拐事件は
終わる。静子はすっかりでき上がったおかげで建物から出ることができたのだが、それ以後も
夢と覚醒の別がつかないままだ。ビルの屋上で旦那と踊りはじめたところで、これだから
俗っぽい映画は困る、なんて意地の悪い感想を漏らしたものだった。ところがところが。
もう、彼女は夢の世界で踊り続けるしかないのだと知った。
あと、マネージャー兼ボディガードの京子(未向(みさき))がまたいい。これがまたかわいいの。
この京子たんが実は静子のことが好きだったっていうのはどういうことかー。
(…)ホンマ、ええモンを観た。
http://www11.big.or.jp/~azumasan/urapage/diary/2004/03.shtml
遠藤憲一ってさ、最近まで誤解してたんだけど根は真面目な役者さんみたいだね。 (『花と蛇』の参考にしようかと)小沼 勝監督の「女はバス停で服を着替えた」を 観たんだよね。。(ホントは題名に吊られてさ観ちゃったんだけどさw) 実際は町おこし映画でさ、なんかスゴク地味な話なわけね。 そこで黙々と真っ白になりながら蕎麦打ちする姿がさ、「落ち着いた」感じでね、 「キレやすい」馬鹿な自分には勉強になっちゃいました。。 劇団フジ、無名塾を経て今に至るか…。1961年生まれ、183cm? 小柄に見えるね。。
今ごろ…また怒られるのかな?(長いしw) 「オルガスムスを描かない」でフィードアウトでつなぐ手法は石井輝男監督の『徳川女 刑罰史(1968)』の後半で多用されていました。官能小説のテーゼを無視したカット割に 不満と疑問が噴出し、それでは「鬼六『花と蛇』の看板を借りた」と言いたくもなりま すよね。。でも、自分としては「吹雪舞う中の空中開脚緊縛花魁」「緋牡丹刺青荒縄縛り」 ですぐに連想しちゃったのは『東映』であり『新東宝』だったんですよね。。『東映』の 後ろに『ビデオ』は付きますが、『東映』の看板を背負った作品を作る以上、石井監督は 「にっかつカラー」ではなく「東映カラー」について想いを巡らしたりしたんじゃないか。。 (144)はその辺りを感じて<SM映画も東映が作るとこうなるのか>と唸っちゃっている ようで、相当の邦画通なんじゃないかな。。 (4)で653さんが「日活ロマンポルノのSMモノなどは、(…)近年はほとんどその血脈は 途絶えてしまった」と書かれてますが、「拷問、緊縛もの」という「血脈」は「完全に」断た れてます。(「暴論」かもしれませんが、サド、マゾッホからの血筋は邦画において絶えた状 態です。)そのような「空白」の若い世代は『花と蛇』を観て「訳わからん」状態になってし まうか、「すげー斬新」ととるか分裂しちゃった気がするのです。。前スレでリポートあった ように劇場に詰めかけた50代、60代の世代は『花と蛇』をどのように受け止めたか、聞いてみ たいな。。「現代」「ポスト」「アサヒ芸能」を「宣伝」の媒体に選んだ「理由」も合わせて 考えてみれば、いくら議論を重ねても正体は?めない「ある世代のための映画」なのかもしれ ませんね。。
「(92)近年稀に見る企画と宣伝のうまくいった日本映画。」「(133)パブリシティーが
十分に行き渡れば、成人映画もまだまだ稼げる。」…PRの乱れ撃ちについては(58)(59)
にも書き込みましたが、(204)「大量のメディア露出の仕方は、見る人間の嗜好によっては、
サギ」同然のスレスレ(というか上手というか…)ではありましたね。。。角川映画、荒戸
「ツィゴイネルワイゼン」以来の久々のヒットかと…。
業界の詳しい人いたら教えて欲しーい。写真集、映画関連グラビアは「広告」なの?「記事」
なの?その場合、どのくらいお金を出すものなの?社団法人 日本雑誌広告協会が発行してい
る「2000年 雑誌広告掲載料金表」によれば、記事中1P(モノクロでも)少年ジャンプ
1,400,000円 少年マガジン900,000円とのこと。
http://deroguro.main.jp/new/omake/omake5/05.html [袋とじ8P]みたいなのが主流の『花と蛇』のPR、いったいどのくらいお金をかけたのかな。
「持ちつもたれつ」で無料なんてことはあるのかな?
違うよ。映画『花と蛇』について「深く」知りたい、考えたいだけだよ。。
242さんも何か書き込んでよ。。お願いします。。貴方も『花と蛇』について何か
言い足りない、訳のわからないものを感じているからsage進行のここに立ち寄って
いるわけでしょう?どこまで掘れるかわかりませんが、いっしょにやろうよぉ。
「闘争アクションとしてのSM」って好い言い回し。。「花と蛇」出演の打診後杉本彩から 石井隆の逆指名があって、そこで「間」が空いたのは「闘争アクションとしてのSM」が石井監督 の「持ち味」だと製作サイドで気がつけばこそでしょうね。以前、劇画の話を持ち出して叱られち ゃった経緯があるので、なかなか書き込めませんでしたが、『花と蛇』のビジョンは劇画『黒の天 使』の中盤に重なる部分が多い。。松竹でのシリーズは頓挫したが、石井監督の中で熟成を重ねた ビジョンが『花と蛇』で「有機的に結合された」ことは石井ファンならピンと来るはず。。 「これこそ杉本彩の本来のヒロイン像」は偶然の産物ではないと思われ。。 映画作家の執念、踏ん張りって凄まじいね。 アサヒ芸能 6.3号 松坂慶子今度は「熟女ハードSM」! 『花と蛇2』脚本段階で話せない。もうちょっと待ってくれ。(松田仁プロデューサー)
URL貼るとき、頭の「h」を省いてサーバー負荷を下げるという約束事を 知らんのか?
T162p、B93(60-Fcup)、W59、H90p。S23p。
血液型A型。5才から劇団に入り、TV、舞台、ミュージカルと地道な活動を続け、
人気Vシネマ「くの一シリーズ」で主演デビュー。パーフェクトな肉体と実力を
兼ね備えた新女優!!趣味:サックス、ビリヤード、釣り 特技:モダンバレエ、
ジャズ、ダンス、日舞、タップ、声楽、パントマイム、殺陣、シャンソン
写真を撮影したのが彼氏とあって、実生活が浮き彫りとなっております。
少しずつ撮る側も撮られる側も大胆になっていくのが解ります。
全てポラロイド写真ってのもイイ感じです。
そしてぼかしが入っているような写真もあります。あ〜淫靡な香りがする。
未向写真集 LOVE POLA MISAKI 愛の記録 Photographs by ♂(恋人) ぶんか社
http://www.atc.ne.jp/seikindo/pic/lovepola.htm (おまけ)
私は、杉本彩の活躍と成功を素直に喜べます。
ずっと、彼女の活躍が気になっていました。
それは数年前の話です。
http://yabou.blog.ocn.ne.jp/yabou/2004/05/_.html 二人とも苦労人よのう。。
「「闘争アクションとしてのSM」=劇画『黒の天使』。。
この作品はやっぱり面白い。女殺し屋の群像劇の中にほとばしる冷たい暴力は、
濃厚な時代の匂いを越えて突き刺さるパワーがある。そこにはラブ&ピースなんて
主張は入る透き間も無い。
http://www.textlife.net/TEXT/kurono.htm 「どうまさったんですか その声 入っていいですか」
「失礼します!! ああ!先生!?」(倶楽部・黒天使)
「今こんなビデオが米国の金持ちの間で出回っているのよ」
「メイド・イン・ジャパン ショーグンポルノと言ってね………
一本5万ドル ただのポルノじゃないわけ…… それが……」
「人間がただの肉になって行くのを散々見てるあんたも顔を背けたわね
あらゆる快楽に飽きた金持ち達が 今一番欲しがっているポルノがこれ」
「女なかせのあんた(緊縛師)なら 傷一つ残さずに吐かせるんだろ?」
「もう6階位上がっているのに 出口がないよ この階段!」
「だから言ったろ?その黒幕はね 箱根の山奥の広大な地で 核戦争にも
生き伸びれるだけの地下壕と私設の軍隊に護られて余興に殺人ポルノを楽しん
でるんだとサ」「目的が果たせたとしてもよ その箱根の山奥からどうやって
脱出するのよ…」「見なよ光りだ!いよいよ出口らしいよ」
「ここが箱根の山奥?」「東京のド真ン中じゃないか!」
(ブラック・ストリッパー)
やがて、操られることに飽きた魔世は、最後のエクスタシーを求めるかのように
「黒天使」の背後にある巨大組織に牙を剥く。迫り来る暗殺者たちと闘いながら、
傷だらけの天使は修羅場の彼方に走り去る。
http://www.comicpark.net/okuda040326.asp 御殿場、箱根方面にある廃墟へとたどり着くクライマックス。そこは元「映画スタジオ」。。
「このSM文学の金字塔に、生意気だけど俗に言われる“石井ワールド”をどう有機的に
コラボレートさせるか、半端じゃなく慎重になったのは事実です。」
『映画秘宝』4月号石井監督インタビュー
「魔夜」の容貌とキャラクター、相棒の「絵夢」の無垢で体育系のイメージは、杉本彩と
未向そのままなんだ。。入手出来たら読んでみて。(上の「ブラックストリッパー」は
「まんだらけ出版」のほうには載ってません。古い方を探してね。)
この会話から「夢」の領域をどこまでサカノボッテ広げるのか、
静子が出ていない部分を除いて、もしも全てのシーンが
そうであるなら、そしてその「夢」の意味と、それが生まれた
「描かれていない部分」を想像すれば、この映画に盛り込まれた
石井監督の「意思と作意」に唖然とします。。スッキリもします
。。よね。
傑作と言えるかは受け手の資質によって断層があり微妙ながら、
「とんでもない意欲作、実験作」ではあります。。よね。
コメンタリーでは「告白」してないんですか?
『天使のはらわた 名美』 (…)名美は看護婦の美也を取材した。彼女は強姦されたときの恐怖で気がふれ、 精神病院に入院(…)当時の恐怖が甦り名美に襲いかかった。(…)名美はその ショックで、自分が強姦されるという被害妄想に陥り、狂乱状態となって(…) 村木の姿が、犯そうとする男に見え、名美は凶器で、力いっぱい村木を突き刺した……。 『沙耶のいる透視図』 (…)沙耶の方から橋口に電話をしてきた。又も強引に抱こうとするが、沙耶は 不感症だからダメだと告げる。(…)沙耶は橋口に、以前分裂症で入院していた 病院で神崎の母親と会い、神崎と知り合ったことを告げる。(…) 『ちぎれた愛の殺人』 (…)村木の浮気騒ぎでショックを受け狂気に走ってしまった名美に対して、 村木は女たちを殺し続けることで償っていたのだ。(…)名美は巨大な換気扇 に首をからまれ、村木もまた自ら死を選ぶように陽子に刺されていった。 (キネ旬データベースより)
原作は団鬼六の代表作。その後、本人とフォロワーたちによって数限りないバリエー
ションが書かれることになるその原型の物語であるが、(…)本作が「団鬼六の映画
化」としては決定的に欠落させているのは「最後までヒロインが性的快感に屈しない」
というその一点である。(…)もちろん石井隆は、夫とのメロドラマ的再会のために
そうしているのだが、そこに決定的な計算ミスがある。(…)「妻を第三者に差し出
す夫の心情」をすべて台詞で言わせてしまうのもヒドい。あれじゃ演出家失格だ。あと
石井組はいつもそうだが録音技師が下手クソ。台詞が明瞭でない場面がいくつもある。
…と、いろいろ文句はあるのだがこれだけの虚構を、ともにもかくにも観客に信じさせ
たのだから立派なものだろう。映画が終わって地下の映画館の暗闇から歌舞伎町のネオ
ン街に出ても、まだ夢から醒めていないような……夢の続きを観ているような感覚がし
ばらく続いたのは、映画に力がある証拠。(…)きっと今ごろ、Vシネ女優あたりを主
演に持ってきて予算を縮小した続篇をパート5ぐらいまで企画してるんだろうけど、
どーせなら予算を倍増して高岡早紀を口説き落とすぐらいの気骨を見せてほしいものである。
(…)
http://www.ne.jp/asahi/hp/mastervision/archive2004b.html 漫画にしたり映画にしちゃ絶対いかんものもあるね。曰く『家畜人ヤプー』、曰く『花と蛇』。
杉本彩が体当たり演技なのはいいけど、石井隆のフィルターを通したら、あの手の世界全体が
惨めっぽく思えてしまったのは私だけか...。今日日淫靡な世界を描くのは極端に難しい。
http://www1.ezbbs.net/18/aurora/
杉本彩が、「花と蛇」をやるというのを聞いて、彼女は、この種の映画には向いていな
いというのが、最初に思ったことだった。若いころ、谷ナオミ主演の日活映画を見てSM
に興味を持ち、団鬼六の「花と蛇」を読んだ。正直、最後まで読みきれなかった。繰り
返し繰り返しの凛辱シーンの連続に耐え切れなくなってしまったのだ。想像するに、SM
は、主従を強要する過程に快感があり、主従関係の「完成」は、快感の喪失につながる。
私が、その小説を最後まで読みきれなかったのは、このことと関係があるように思う。
(…)谷ナオミの豊満な肉体の縛りと比較して、杉本は向かないとの判断は、このメイ
キングを見て変わった。上述の「強要する過程」が容易でないほど、快感が増すわけで、
SM的でない彼女のほうが、より適役となる可能性があるかもしれないと思ったからだ。
それは、彼女の女優生命を掛けた気迫からも感じられた。
http://www.discas.net/nifty/d/s?ap=c_goods_detail&goods_id=081844209 あの鬼才石井隆は何処へいっちまったんだろう。早速、団鬼六原作の「花と蛇」(東映
ビデオ)を見た。女もやくざも男も描けてない。これじゃ〜まるで漫画だよ。せめて女
ぐらいちゃんと描いて貰いたい。原作にこだわる必要は全くないけどやくざ描くんでも
現代のやくざをちゃんと描いて貰いたかったな。画面はどっかでみたハリウッド的シチュ
エーション入れちゃっているけど内容はまったく漫画だよ。(…)とうのたった杉本綾の
裸と放尿シーンなんて誰も見たくもないわな。石橋蓮司演じるよぼよぼじじいの浅ましい
フィクサーぶり。石井隆の脚本もなっちゃないよ。衰えたもんだ、つくづく歳を取るとい
うことは罪深いもんだ。まあ、期待したおれっちが悪いんだけどね。
http://roji.seesaa.net/article/215657.html
誰かのコメントで「陵辱される杉本彩の顔は聖母マリアのよう」というのがあったが、
その通り。あきらめから生まれる底なしの慈愛を感じさせ、杉本彩は絵のように美し
い。SMシーンはエロティックだが悪趣味ではなく、映画史に残したいほどの映像。
しかし他の部分に余計なものが多い。過激さに真っ向勝負した杉本彩の美と心に監督が
翻弄され、SMシーンににパワーを使い果たしてしまった感じ。ヤクザはお約束のよう
に下品。緊縛師は無言の方がいい。観客は人形で良かった。殺しは不要。アクションも
いらない。セレブの奥さまならネグリジェはシルクを着るべき。非現実場面はすごくい
いのに、現実場面では中流階級の主婦みたいに描かれてしまう。そんなところに映画と
しての貧乏くささを感じる。高級で上品で洗練されているからこそエロティック。現実
か妄想かという映画なのだから、全編を徹底的にそぎ落とし、抽象化し無機質に描き出
していたら、花魁、刺青、麻縄といった日本独自の文化を背景に、格調高い映画として
世界に通用したと思う。惜しい。最後のタイトルロールの裸で踊るシーンは媚びがあって
イヤだ。僕が感動したと書いたのは、杉本彩の心意気と美しさに、です。
http://www.tsutaya.co.jp/item/com/cp_use00000001.zhtml?pdid=10034301&catcd=1 >>297 の上段の批評には『「花と蛇」と題されていても結局、本作は名美と村木の
メロドラマとして構築されている。』という言い切りがあって、バッサリとそこ
までシンプルに指摘されちゃうとガツンと一発ですw。
1963年に書かれたもう一つの傑作は、フェリーニ監督の『8 1/2』のための音楽です。
空想と現実を巧みに混在させたフェリーニ芸術の極致とも言うべきこの映画には、感嘆
に値する瞬間が満載されています。その多くは画面と一緒でないと効果が発揮されない
ものも多く、ロータがいかにフェリーニの映画言語を知り尽くしていたかが分かります
(…)その中ではやはり、ラスト・シーンの陽気かつメランコリックな不思議な行進曲
を挙げるべきでしょう。映画全体の総括とも言うべきこのシーンは、この音楽があるか
らこそ意味を持ってくるのです。フェリーニとロータの共同作業は、ここに一つの頂点
を迎えた観があります。(…)この最後のシークェンスは、撮影時にはチェコの作曲家
フチークの「剣奴の行進曲」が使われていました。ロータの音楽はサーカス・バンドの
行進曲のようですが、「桟橋を渡って」と名付けられており、フェリーニは「意気揚々
としているが、憂愁を帯びている」と評しています。
http://www.tcat.ne.jp/~eden/FC/rota.htm (ニーノ・ロータのファンページ。充実)
フチークおじさんの顔
http://www.aa.e-mansion.com/~knedlik/Skladatel/Ceska/fghij/Fucik.html
映画「花と蛇」を観てみた。(…)なんじゃこりゃ!? まるで「ブレードランナー」
か「地獄の黙示録」だぞ、おい。こういう作品をエロいとかエロくないとか真面目に
論評するのもどうかと思う。ま、でも10年前のボンデージブーム以降、いわゆるSM物は
盛り下がってるわけだし、こういう映像美とシュールさでハードな責めをコーティング
するという方向性は今までとは違った新しいファン層を獲得していくには正しいかと思う。
(…)バットマンがカラフルでポップなヒーローから闇の騎士へと変貌したように、「雑
学」を「トリビア」、「金持ち」を「セレブ」と呼びかえるようなロジックが必要なのだ。
http://homepage2.nifty.com/keokeo/bancho.html ほとんどR指定と思いますが、SMの何たるかがかいま見れて、私はすごーく面白か
ったです。様々なSMシーンで、1番凄みがあって、美しかったのは花魁姿をさせら
れて縛り上げられた姿と、花の刺青をされて縛られている姿ですね。杉本彩の抜群の
プロポーションは、どのシーンを見ても美しいのですが、赤い長襦袢の花魁姿はぞく
っとするほど妖しかったです。この写真のごとく赤の襦袢の持つ色気でしょうかね。
(…)人間の営みって、必ずいつも何か、真理が潜んでいるのだと思うのですが、S
Mもきっとそうなのでしょうね。
http://blog.melma.com/00109335/ 緊急レポート番外篇/DVD「花と蛇」特典映像
石橋蓮司が登場、老人の妄執を見事に演じますが、その後に疲れた……と本音が出ま
す。続くインタビューもなかなか興味深い発言が出ますが、それは観てのお楽しみと
致します。
http://www12.ocn.ne.jp/~nacky/tokuten.html (え〜、なになに、教えてよ。。)