ロード・オブ・ザ・リング/指輪物語 第127章

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17名無シネマ@上映中
日本にもたしかに優れた文学(人文 humanities ヒューマニティーズ)はある。『源氏物語』や『枕草子』や『徒然草』がある。
しかし、だからといって優れた民族だということにはならない。アイヌの『ユーカラ』やインドの『ラーマーヤナ』や
ギリシアの『オデッセイ』のように、どんな部族社会にも、文学(人文)は、民族叙事詩や民間伝承の形で、必ずある。
それらはすべて、優劣つけ難い。

だから、日本にも初等学問あるいは下級学問としての人文(ヒューマニティーズ)はある、
しかし、日本には未だ木物の学問(サイエンス)はない。日本にも高等教育機関としての大学制度はあるが、
こんなものは偽物(ニセモノ)の嘘八百の張りボテの擬似制度である。日本の文科系知識人のほとんどは、国際水準から見ればアホである。
断じて日本には近代学問などない。

再度書くが、確かに文学はある。文学とは、強いて訳せば下等学問であり、初級学問である。
西欧近代が生んだ学問(サイエンス)は、未だ日本にもたらされていない。すべて輸入したと思い込んでいるのは、おめでたい猿の知識人たちである。

読者は、自分の民族をこれほどけなして何の意味があるのかと疑問に思われるだろう。だが、学問(サイエンス)とは実は、“冷酷な法則性の発見”ということである。
古文書の解釈やただの文学鑑賞、あるいは自分勝手な思いつきの類を、活字文章にして書き連ねて学問だと思い込んでいる
「猿の知識人たち」の所業が、私には馬鹿らしくて仕方がない。しかし、私もその猿の仲間の一匹だから、この現実はいかんともしがたい。
18名無シネマ@上映中:04/03/15 19:46 ID:v77D8I8m
時々、外国体験の長い優秀な日本人が、「日本人は向こうでは猿扱いされているのだ」と憤怒に駆られて突発的にわめくことがある。
私の知人の外交官に一人そういう人がいる。幼い頃から外国生活が長かったので、バイリンガルであり、日本語は家庭で両親から習った。
この人の憤怒を、被害妄想(パーセキューション・マニアック)であり、異常な自虐意識であり、環境のために性格が歪んでしまった人間であると
片づけることは簡単である。しかし私は、より大きな真実の方しか信じない。と同時に、もう被害妄想に捕らわれて嘆き悲しむということもやめた。
私は冷酷に事実しか見ない。事実だけを信じ、かつ疑わしいことを疑い続ける。この人生態度においては、一切妥協しない。

こういう態度だと、今の日本では物書きの同業者たちから嫌われ、一種の業界追放の状態に追いやられる。しかし、そんなことは気にしない。
この「村の寄り合い」の談合社会では、真実を□にすると村八分に遭う。実際、村八分に遭っていじめられた人々のことを、
貴重な資料として私は集めてもいる。今更その人々を可哀想だと言ってみても、始まらない。

この映画『猿の惑星』は、日本社会のおめでたさ、愚かしさを、見事なまでにあぶり出して見せる。
だから、映画『猿の惑星』は素晴らしいのだ(続編以下は見なくてもよい。第一作だけが素晴らしいのである)。