エドワード・ズウィックは大学時代より歴史学に大いに関心を抱き、時間
の大きなうねりに翻弄されながら興亡を重ねてきた人類の運命に、善悪の
二元論を超えた共感を覚えるようになった。そしてそれぞれの時代の過渡
期にあって、異なる価値が対立する中で各々の立場に殉じていった人々の
姿に美しささえ感じ、とりわけ「時代に捨てられた者達」への同情は大き
なものとなっっていった。17才時に黒澤明監督作品「七人の侍」に感銘を
受け、自分もいつかこんな映画を撮ってみたいと密かに期していたズウィ
ックは、同時に日本文化にも興味を持ち、日本の歴史に関する書籍を相当
数読んだという。『アイバン・モリスの「高貴なる敗北〜日本史の悲劇の
英雄たち(中央公論社・絶版)」には深い感動を覚えました。西郷隆盛の
物語です。最初は新政府の樹立に尽力したもののやがては反旗を翻した日
本で最も有名な人物の一人です。彼の美しくも悲劇的な生涯が、僕たちの
架空の物語の出発点となりました。』
「ラストサムライ」は、90年代初めからレイダー・ピクチャーズが企画し
ていた「混沌とした状況にある日本にやってきたアメリカ人」を描くとい
うプロジェクトに端を発した。『アメリカ西部の制圧と伝統的な日本の西
洋化との間にある類似点に強く心を打たれました』という彼らは、この日
本版「ダンス・ウィズ・ウルブズ」ともいうべき企画を、「グローリー」
「レジェンド・オブ・フォール」といった作品で西部の英雄像を新しい視
点から捉えていると評判高いズウィックに撮らせることにした。
ズウィックは当然この企画に飛びついた。そして自らの持つ武士道への憧
憬のありったけをこの作品にぶつけようとした。作品の仕上がりを最高の
ものにするべく白羽の矢が立てられたのが、重厚な群像劇を書かせたら当
代随一との呼声も高い脚本家ジョン・ローガン。折りしも米国ではNHK大河
ドラマ「翔ぶが如く(司馬遼太郎原作)」が「日本の南北戦争」との触込
みで放映され人気を博しており(放送局には「サイゴーを殺すな!」とい
う電話が殺到した)、昔からアメリカには熱心な西郷ファンが結構いるそ
うだが、偶然にもローガンもその一人だった。
ズウィックとローガンは、アメリカ人を主人公とする製作会社の意向を汲
みつつ、なんとか西郷の精神性や哲学を伝えることのできる物語を作れな
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名無シネマ@上映中:03/11/21 21:04 ID:1Oz3QPzU
いかと画策した。しかし、当時日本陸軍の軍事指南役として米国人が招聘
された事実はなく、アメリカ人が西南戦争のストーリーに絡もうはずもな
い上に、当時の時代背景は世界史上に於いても稀と言えるほどに難解なも
ので、いちいち史実に即していたら作品として成立しないのは自明であった。
そこで二人が考えたのは、フィクションを創作しそこに自分たちの描きた
いものの全てを凝縮することだった。まず南北戦争の英雄オールグレン大
尉を主人公とし、彼の人間性の喪失と再生のストーリーを物語の中心に据
えることで、メジャー系資本作品として成立させるためのプロットとした。
そして物語の図式を単純化するために、敢えて登場人物の数を絞り込んだ。
西郷隆盛=勝元、桐野以下私学校党=氏尾ら、大久保・岩倉その他政府役
人や御用商人を象徴する人物=大村、などといった具合である。「事実は
小説より奇なり」というが、全くそのとおりで、この当時を生きた人々の
生き様はこの映画で描いているものとは比べようもない程に複雑で奥深く、
激しいものだった。予備知識を何も持たない(特に米国の)一般大衆を対
象とするだけにこういった操作は不可欠であったとはいえ、当の製作者本
人たちこそがいちばん涙を呑む思いをしたことであろう。それだけに、彼
らが最もこだわったのは観客の心に直截的に訴えかけることだった。その
ためには「事実性 actuality」を大胆に切り捨て、「現実感 reality」を
いかに取り入れるか、すなわち「異化」の作業が必要だった。旧時代への
固執の象徴として勝元軍が戦国時代風の甲胄を纏っていること、勝元への
刺客(中原尚雄警部がモデルだろう)が忍者装束であったりすることなど
は、米国の一般観衆に対してよりスムーズに表現するための舞台装置であり、
この部分では日本の観客に対する裏切りを犯しても、敢えて苦渋の決断を
下したと言える(この件に関してアメリカの一般人から苦情があがること
はまずないだろう)。製作者たちが我々一般の日本人よりもよくこの当時
を理解しており、日本人にとっても違和感のない物を作ろうという誠意を
感じるのは自分だけだろうか?渡辺謙や真田広之の意見を積極的に取り入れ、
ズウィックたちはその都度手直しを加えていたという。脚本チームのハー
スコビッツはこう語っている。『我々は、物語と登場人物は架空であるも
のの、この映画をリアルなものにするよう努力しました。そして、当時の
日本の歴史と侍の信条と価値観を忠実に呼び覚ますためには労を惜しまず、
敬意を払い何より正確であるよう努めました。日本の大学関係者や脚本家
の方々と緊密に連絡をとり、大勢の専門家や関係者を製作チームの一員と
してリストアップしました。われわれはその辺りをきちんとしておきたか
ったのです。』
西郷という人物は、その座右の銘「敬天愛人」の示すとおり豪放・柔和・
赤誠の人だったと言われ、その人柄の高潔さから当時日本へ招かれた外国
の高官たちからも敬意を持って接されていたようである。明治維新の第一
の功労者であり、唯一人の陸軍大将であり、近衛都督と参議まで兼ねてい
た人物が、給料も貰わず、家もなく(弟の居候をしていた)、着る服すら
ろくに持ってなかったそうで、論争に敗れると(この経緯は論争と言える
ものではないが)身一つで薩摩に帰ってしまった。彼を慕って官を辞した
数千人の失業者たちを組織して「私学校」を造り、そこで彼なりの理想国
家のモデルを提示した。薩摩は徳川200余年の鎖国時代に国内にあって更
に鎖国を行っていた藩であり、鎌倉武士の伝統を明治の世にまで受継いで
いた。その心得は至って単純で、弱い者には優しく、強い者に屈せず、事
に当たっては命を惜しまない、それのみだった。西郷は日本が他国に誇れ
るものはこの武士道の精神しかないと考え、四民平等の世においてすべて
の国民は侍たるべしとしていた。私学校では経済の基本を農本主義とし、
勉学・剣術以外の時間は主に農地の開墾に充てられた。西郷の評を書き出
したらきりがないのでこの辺でやめておくが、彼が世界史上特異な存在で
あることの第一の理由は、革命を成功させた勲第一等の軍人政治家であり
ながら、その行動が常に原理主義的(もしくは理想主義)であり、時代に
切り捨てられていった者達への拭い去れない同情から、最後には共に身を
滅ぼす道を選んだことであろう。この映画でズウィックやローガン(彼ら
は我々が驚くほどに西郷をよく知っている)が描きたかったものもきっと
そういうところだろうし、海外で西郷に人気があるのもおそらく彼を象徴
する無私・無欲・慈悲というものに人類普遍の価値を認めてのことなのだ
ろう。不幸なことに、彼は死後明治国家の手で神同然に崇められ、大陸侵
略や国粋主義の象徴的存在に祭り上げられることとなった。このため、敗
戦後は「征韓論」という言葉の誤解と共に歴史の彼方へ葬られ、我々日本
人が西郷を語ることはなくなってしまった。
今この時代に海外の人々の手によってこのような映画が作られたことは非
常に喜ばしいことであり、好意をもって受け入れたい。彼らが純粋に我々
の祖先の行為に感動し、敬意を払ってくれていることを素直に感謝している。
彼ら自身が受けた感動を全身全霊で表現し、全世界に発信しようとしている
姿は尊敬に値する。その為に敢えて選択したデフォルメを「時代考証が…」
などと無粋なことはいわず、舞台効果の一環としてピュアな気持ちで観よう。
絶対に感動できる。