3.綺麗ごとで終わったシンデレラストーリー
恋愛における一目惚れ、これは言うなれば"痘痕も笑窪(あばたもえくぼ)"の段階であろう。
つまり、まだ相手の悪いところはなにも見えない、悪いところまでもが良いものにさえ見えて
しまうような段階である。そのような段階の最中において何らかのかたちで二人が引き離され
ると、いつまで経ってもそれは「美しい思い出」のまま認識されたままである。その思い出を
綺麗ごととして恒久的に保持してゆけるのである。そのような恋愛があって悪いというわけで
はないし、実際にこのような恋愛のひとつぐらいはあった方がいいのかもしれない。しかし
問題なのは、このような恋愛ばかりを追い求める傾向が、恋愛の軽薄化に繋がるのではないか、
ということである。良くある表現で言えば、「素敵な思い出のまま終わりにしよう」「お互い嫌い
にならないうちに別れよう」というような極めて表面的な、中途半端な恋愛観への助長が見られ
るような気がするのである。恋愛の過程には、遅かれ早かれ円満、倦怠、円熟、安定など様々
な段階が順不同で付きまとうものである。いくらそれらが定性的であろうとも、データとして
それらの段階抜きにして恋愛は構成なし得ない。そしてそのいくつもの通過点を乗り越えていく
ことが「愛を育む」ことの真に意味するものである。その点、林屋ペー・パー子の方がそのような
真の恋愛を綴っている分、それを二人で乗り越えてきた者の説得力がある。恋愛について一人
前に「語る」のは避けたいので、二人の貴重な画像をここに掲載(作者不明)して本項はこれで終
わりとするが、"Nothing on earth could come between them."、つまり、数々の過程を共に
乗り越えてきた二人の仲は、誰にも引き裂くことができないのである。自分の生き方に不満だ
らけの金持ち令嬢と、それなりに自由に楽しく生きている貧乏青年。もしその関係が続いて
いたならば、二人には今後さまざまな苦難と逆境が待ち構えていたはずである。そしてその
恋愛談は、ジャックが死んだからこそ"綺麗な恋愛"で終わった(後に詳述)。つくづく思うの
だが、この映画はどうも封建的で軽薄である。
4.キャルの死にみる封建的で一辺倒な表現手法
封建的といえば、「悪役・脇役は殺せ」というのもこの映画に見られる発想である。「金に目が
ない未熟者」。ローズの元婚約者であるキャルは、映画の中で大雑把に言ってそのように描かれ
ていると言っていいだろう。ローズ同様、キャルも生存者の一人であったが、生存劇もむなしく
彼はシナリオの都合上、"殺され"た。ラストのシーンにおけるナレーションでの報告によれば、
借金を抱えたことを苦にしてのピストル自殺。一時はローズを間接的に自殺に追いやってヒロ
インとヒーローとの出会いを(図らずも)演出したり、ピストルを片手にジャックとチェイス劇
を演じたり、殺そうとしたりと、『タイタニック』における役割は極めて重大であったことは
間違いない。だがしかし映画では、そのキャルもジャックの死、そしてローズの救出後には
完全に出番を失った。逆にいえば、ストーリー上、登場する必要がなくなったのである。しかし
ここまで見てきた観客側からすれば彼の消息は気になる。ではどうするか。脇役に幸せになって
もらっては困る。どうせ悪役に近いんだから殺してしまえ―端的に言えばそのような発想に落ち
着いたのではあるまいか。
人間には善の部分もあれば悪の部分もある。今更こんなことは猿でも知っていることである。
不垢不浄という言葉が示すように、悪なるものの中からしか生まれ得ない善(=悟り)もある。
タイタニック号がまさに沈没しようというとき、皆が我先にと救命ボートへと急いで混乱をきた
している最中、キャルは救命隊員に自分の乗る分を確保してもらうべく、高額な金銭による買収
を試みた。しかしそれを断られた彼は、それでも生きることをあきらめず、今度は迷子の子ども
を抱きかかえてその子の父親を装い、救命ボートの一席を勝ち取る。金で物事の解決を図ろうと
いう姿勢があったとはいえ、その失敗後も決して生に淡白になることなく、知恵の限りを尽くし
て生きようとする姿勢を失わないその姿は感動的でさえあった。つまり、のちにその彼が借金を
苦にした自殺を遂げる‐実は、これは筋違いで不自然な展開であることに気付かされるのだ。
5.背後に見え隠れするフェミニズムまがいのエゴイズム
言わせてもらえばジャックの最期はとても情けないものだった。暗黒の海に放り出されて
から二人で木片にしがみつき、寒さに凍えるローズに木片の上を譲ってあげたまでは良かっ
たが、そのまま朝を迎えると、ジャックはほとんど凍りつき、息絶え絶えであった。なぜ二人
が両方とも助かるべく、交代などを考えなかったのかという疑問も残るがとにかく、かくして
ローズは、木片にしがみつくジャックを海の底へと沈めてしまう。"沈めてしまう"という表現
には異論・反論もあろうが、ジャックが沈んでしまわないような、もっと言えば死んでしまわ
ないような努力を怠ったことが明らかな以上、ローズには‐非犯罪的な‐過失(致死)が生じて
いることは認めるべきである。しかしここでジャックは本当に海の底へと沈む必要があったの
だろうか。顔に霜が降り、髪の毛などは完全に凍り付き、恐らく死んでいるであろう状態に
あったにせよ、なにも海の底に沈めてしまう必要はなかったのではないか。凍ったまま板に
しがみつくジャックの手を振り解くようにしたローズの行動はいったい何だったのだろうか。
ほとんど凍った半死にの人間が息を吹き返す例がこの時代にすでにあったかどうかは知らない
が、ここでもまた、無理に一人の人間を殺してしまうような劣悪シナリオが浮かび上がるので
ある。沈めてしまえばローズにとっては綺麗な思い出かもしれないが、そんなことをする権利
は彼女にはないはずである。
この背後にあるのは"行き過ぎたフェミニズム"だ、と主張する声も多く聞かれたが、果たし
てそうだろうか。たしかに、年老いたローズが眠る傍らに若き日のローズが馬に乗っている
写真が映るシーン、それは紛れも無くジャックという男性の存在が、またその死が、彼女を
ポジティブな思考へと導き、それまでの苦手を克服できるだけの糧となったことを示すもので
あろう。しかしそれはまた同時に、ローズはジャックという男性の力なくしてはネガティブな
思考からは脱却し得なかったことをも意味する。これでは真の「自立した、強い女性」像とは
とても言い難い。つまり、もし彼らの主張通り、この映画の背後にあったものがフェミニズム
だったとすると結果的に、言いかえればその意図とは逆に、かの主張は破綻しているのである。
実際に製作側がフェミニズム思想をどれだけこの映画に内在させんとしたかは知らないが、
その意図があったにせよ無かったにせよこの『タイタニック』は、真の意味での男女同権を
目指す正しいフェミニズムのあり方とは相容れないのではないだろうか。