タバコはオナニーである

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タバコとオナニーは同じである。

故に「歩きタバコ」は「歩きオナニー」と同じである。最も後者は捕まるだろうが。

人はこんな事を言う俺を「下品」と言うだろう。「荒し」と呼ぶだろう。「変態」だと定義するだろう。

しかし、「歩きタバコ」自体がそれほど「下品」であり共同社会における「荒し」であり「変態」的な行為であることの裏返しなのである。

考えてもらいたい。どちらも隠れてコソコソやっている分には誰にも迷惑をかけていない。自らの快楽を得ることができる。元々、己のみの快楽を求める行為を人は卑しむのである。であるから性欲は卑しいものとされてきた。一方で「食欲」、これに関しては確かに「くいしんぼう」を「卑しい人だ」などと表現するものの完全に隠すことが出来ないため「交流」の場として活用しようと、考えたのである。食事のマナーやグルメ思考は、本来卑しい「欲望」を文化としてカムフラージュすることに成功した。

こうして「食欲」は「陽」、「性欲」は「陰」として社会に定着したのである。すると、どうだろう「尿」や「便」なども「性器」及び「その付近」に関わるものであるため「性行為」程ではないが「準隔離」の扱いをせざるを得なくなったのである。「立小便」が禁止されたのは明治に入ってからである。

では次に、「タバコ」についてはどのように考えられるか。喫煙に陰部は使わない。使うのは食事と同じ「口」である。

であるから喫煙者はこう言うだろう「喫煙とオナニーを一緒にしないでくれ、立ちションと一緒にしないでくれ。タバコはそんなに下品ではないのだ」と。 彼らの拠り所はただ一つなのである。「タバコは口から吸う」。ただ一つなのである。

だが、もうそれも通用しなくなるであろう。「立ちション」は、ある意味仕方のない行為である。尿道を縛ってでも排尿を阻止すれば生きてはゆかれないだろう。鳥類のように卵から生まれれば別だが。 排尿計画の失敗は本人にある、と言われてしまえばそうに違いはないが、場合によってはどうにもならないことも確かであろう。

それに対して「タバコ」と「オナニー」はどうであろう。なにか街中で刺激的なものを見てしまった場合、ムラムラする人もいるだろう。しかしそこで突然「オナニー」をしだすだろうか。どうしても我慢が出来ない人間は「風俗店」などに入ってしまうかもしれないが「歩きオナニー」をいまだかつて目撃したことはない。なぜなら「性欲」は陰であるとコンセンサスが定着しているからであるし、人前でオナニーをする恥ずかしさと自らの快楽を比較した際、恥ずかしさが快楽を上回るからであろう。

タバコも本来同様であるはずだ。街中で突然吸いたくなったとき、「風俗店」に対応する「喫煙所」を探してそこで「喫煙欲」を処理すべきである。しかしそうならないのは何故か。恥ずかしさと快楽の拮抗作用がつりあわず、快楽を優先させているからであろう。
生命の維持に必要である「排尿、排便」が「陰部」に関わると言うだけで「準隔離」の状態になっているのに対し、「生命の維持にもともと必要でない喫煙」が「野放し」の扱いになっているのは、至極不自然なことである。

例を出せば「立ちションは捕まるが歩きタバコが捕まらない」のはどう考えてもおかしなことである。

これを考えたとき、我々はやはり、「陰部」か「口」かという部位による分類に疑問を抱く。

「摂食、排便、排尿、射精、喫煙」どれも人間の「快楽」に関わりのある行為であろう。日常、何処でも行われている行為であろう。そして、人前で、構わず行えば「迷惑」がかかることが多々在るのだろう。

であるから我々は慎まねばならぬ。これらの行為を「人前では」慎まねばならぬ。「口」であろうと「肛門」であろうと関係無い。もし分類するならばむしろ「生命維持に必要か」という分類の方が筋が通るのではないだろうか。

だとすれば「摂食、排便、排尿、射精(妊娠を目的としたもの)」「射精(オナニーなど)喫煙」と言った分類のは決して「誤り」ではないだろう。だから言うのである。「タバコはオナニーである。故に歩きタバコは歩きオナニーである」と。こうした意見を「下品、変態」などと一概に評するべき問題ではないであろう。

何度も言う。喫煙は下品な行為なのである。奇麗事では解決しない。喫煙者本人が「下品」であることを考えようとせず、逃げてばかりでは、所詮、独り善がりなのである。そして、それこそがやはり「自慰」なのである。