【江】滋賀県総合スレッド19【琵琶湖】

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607京阪神大都市圏(西びわこ圏)
京都市、大阪市、神戸市、および、これら3市の衛星都市を合わせた都市圏を指す。西日本の中心部。
総務省では、大阪市・京都市・神戸市の3市を中心市とした1.5%都市圏(絶対都市圏)を京阪神大都市圏としている

人口は約1864万人。日本では、関東大都市圏に次ぐ規模を誇っており、三大都市圏あるいは七大都市圏の一つとされる一方、
世界6〜7位の大都市圏である。GDPは為替などを考慮すればロサンゼルスを抜き世界第3位。

この地域の業務・物販面などの第三次産業では、大阪市の都心が抜きん出ている
大阪市・京都市・神戸市の3市は、各々昼間人口比が1を超えているため、各々が中心市となって都市圏を形成しているとも考えられる。



江戸時代には、上述の内陸水系物流ルート上の京・大坂(上方)に、海路では西廻り航路(北前船)や東廻り航路が繋がり、
陸路では五街道などが整備されて、『近江商人が日本各地に分散して上方を日本の物資の集散地および金融の中心地へと変えた』



大坂には各藩の蔵屋敷が集まり、世界初の商品先物取引所たる堂島米会所が置かれ、遠隔地取引での為替手形も用いられるようになり、
大坂は「天下の台所」として日本経済の中心地となった。
608日本企業の淵源:2011/07/19(火) 01:43:41.10 ID:5HnlTieu0
 日本企業の淵源は,江戸時代以来の関西(上方)の商家にある。
 上方に本店を置き,江戸に出店を構えた近江商人を含む多くの上方商人がいたのであり,
その歴史的展開の上に現代日本の企業経営が存在するのである。
http://kansai.second-academy.com/lecture/DKK11996.html


 浄土真宗本願寺派の津村別院(北御堂、大阪市)が発行する教化誌「御堂さん」の年末対談に招かれた際、
同誌の菅純和編集長が「大阪の船場は近江商人が作り上げた町です」と次のような話をされていた。
「彼らが大阪に出て来て、さてどこで商いを、と考えて選んだのが北御堂と南御堂(真宗大谷派の難波別院)の
二つの本願寺の鐘の音が聞こえる所だったんですよ」
 その理由について、菅編集長はこう続けた。
「お寺の鐘が聞こえるような、仏さまのおひざ元で商いをさせていただくからには、決して信用を裏切ることはないという思いがあったんですね。

そうして築き上げた信用が、やがて世界に飛躍する基礎になったんだと言われています」
 聞いていて、司馬遼太郎氏のエッセーにある、こんな言葉を思い出した。「正直こそ仏のモトである」
http://blog.meibanya.com/?day=20071228
609江州音頭:2011/07/19(火) 01:48:35.53 ID:5HnlTieu0
滋賀県京都府
滋賀県大阪府

夏、関西一円+東海に広がる江州音頭の熱い渦 関西人の魂!
これを知ってるかどうかで関西人かどうかが決まる☆

http://news.google.co.jp/nwshp?hl=ja&tab=wn&q=%E6%B1%9F%E5%B7%9E%E9%9F%B3%E9%A0%AD

http://umeda-hanahana.laff.jp/blog/2008/08/393-0085.html

http://www4.airnet.ne.jp/sakura/gosyu_smp.html

http://go-shu.biwako-visitors.jp/uta/
74 名前:名無しさん@お腹いっぱい。投稿日:2008/08/10(日) 01:38:53 ID:GTMt9BBN
滋賀作涙目wwwww
75 名前:↑投稿日:2008/08/10(日) 02:09:17 ID:p4P16Ns0
泣くな京阪のババ作よ
今ならまだうんこ流して再出発できるぞ


一九三一(昭和六)年一〇月発売の雑誌「上方」千日前今昔号より

音頭取の真打は鶴賀鶴年といひ、田舎廻りの新内語りなり。外に若年、梅年(以上三人とも女)
桜川歌松(男)以下数名あってかわるがわる登場してゐる。(中略)鶴年、若年とは江州膳所の者で、
毎年農家の作間を見て、近隣諸国の在所在所を二三日興行して廻る内、東成郡殿村(天王寺の先)にて
昨年、五月中、江州八日市音頭の仮色を使ひ、村の娘子を集めて踊らせたるが人気を適ひ、
頻に評判してゐたのを井筒席の取締石田栄助が小耳に挟み、早速一座を組織して昨年六月二三日より
井筒にかけた処、不思議に大入を占め、遂に同年九月三〇日まで打通したれば、追々他席にも類似のものが出来、
今年も亦五月一七日より開場するに及びたり。されど客種も多くは大阪近在の田吾作芋兵衛の息子株にて、
日暮れ前より遠路を厭はず歩みを運び、夜更けて田舎道を帰るも平気といふ連中である。


「客種も多くは大阪近在の田吾作芋兵衛の息子株」wwwwwwwwwww
610大阪文化の低俗化:2011/07/19(火) 01:50:02.63 ID:5HnlTieu0
戦後滋賀色が薄まってきたら一気に地盤沈下とは・・・・・・・・・・・
結局滋賀が見てなかったら「たこ焼きトオル」じゃねーかwww

昔の芸人の関西弁は凛としていい感じなんだけど、昨今のバラエティーや「大阪のおばはん」の言葉は汚く下品。
しゃべくり元祖江州音頭は奥深い趣があるのに河内音頭は薄っぺらく、
谷崎の関西弁には芸術性を感じるけど、川上未映子のには、、
未だに大阪のノリでしか生きられない「おばん」のスケールの小ささが見えるというか…
京ことばに近いような固定閉塞性?

メジャーになり過ぎて失ったものは大きい。二度と戻らない奥ゆかしさ(涙)
関西、特に大阪系のノリや言葉に拒否反応を起こす人もちらほら。

京ことばの場合は、失いすぎる前にプライドで固めて保存されたというか、そんな感じ。
これ以上ダメにならない代わりに、広がりというか可能性は感じられない。
一見奥ゆかしく見えるのも、まやかしのよう(しなびた京都のはんなり虚勢ポーズ)

奥ゆかしさ(現状):東北弁>>>京ことば>大阪弁=ギャル語等


■参考資料

「近江はことばのいい土地で、とくに彦根の町方ことばは、京ことばに近い。むかし、
彦根で、老婦人が立ち話しをしているのを耳にして、音楽のように感じたことがある。」
「私の知っている女性で、彦根のうまれの人が京の祇園のお茶屋に嫁入りしてきたが、
嫁入り早々のころから、当時すでに崩れかけていた京ことばのなかにあって、たれよりも
美しい伝統的なことばをごく自然につかっていた。」
「大坂の船場ことばは京ことばを真似ぞこなって出来たものだと私は思っているが、
実際には近江の丁寧言葉が元祖であったかもしれない。船場の中核的な商家の多くは
近江系だったし、江戸・明治期は近江から丁稚を採用した。大正時代ぐらいになると、
近江八幡の八幡商業などの出身者を採用し、昭和一ケタぐらいになれば、
彦根高商を採ったりした。そういうひとたちが、大坂の丁寧語をつくり、維持したといえる。」

(『近江散歩 奈良散歩 街道をゆく24』朝日文庫)
611要するにこうゆうこと:2011/07/19(火) 01:53:40.30 ID:5HnlTieu0



◎関西文化は開き直りにあり

 知性のかけらもない真性のアホが、アホで何が悪いと逆ギレして開き直っている様子(大阪)←戦後、滋賀色薄れて低俗化

 性格のねじれた年増の嫌われ者が、嫁になんてとてもいけそうにない状況で開き直っている様子(京都)←今もって滋賀にぺっちょり寄生してるキノコ(「京」の字が、京都タワーがその真実を激しく象徴★)