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名古屋事情13:
あれほど賑やかで、名古屋駅から大門に至る太閤通や駅裏銀座通は、雑踏で人が歩くのも
困難だったほどなのに、いつのまにか秋風が忍び寄ってきた。景気高揚とともに、キャバレ
ーやトルコ風呂に特化していた既製の業界の殻を破って、多様な風俗産業が台頭してきた。
キャバクラ・イメクラ・ピンサロ・ヘルスなど、ヤクザによる支配を嫌って、風俗が既存
の赤線地帯を飛び出した。名駅周辺や栄界隈で、新手の風俗が雨後のタケノコのように生え
始め、やがて古い大門に閑古鳥が鳴くようになった。
客は若い娘がいいに決まっている。大門に足を向ける客は激減した。
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1973年頃、日本中で古い保守的な権威・権力に対する抵抗反対運動が勃発していた頃、
名古屋市でも革新的な雰囲気が強く、共産党・社会党を与党とする学者出身の本山政雄氏が
市長に当選し、以降12年間続いた。
本山市政の特徴は、社会的弱者、障害者・老人・子供たちの視点に立った街づくりで、車
椅子通行のため、市内全歩道の段差が解消され、大幅な緑化事業が推進され、「白い街」と
呼ばれた名古屋も、世間なみに豊富な街路樹に包まれた。
その後の産業寄りの西尾市政も、本山市政の遺産をフルに利用して、デザイン博や多数の
箱物市政に走ったが、市民生活にとっての真の環境整備は見られなくなり、西尾後、松原市
政に至っては、ホームレス強制排除、ゴミ仕訳市民負担など、完全な産業優先、官僚主義市
政に逆戻りしている。
本山市長の市民サイド寄り市政は高く評価できよう。だが、その後、の共産党らしい独善
的党派主義や社会党の堕落によって、革新市政が自壊に等しく消滅し、その後も二度と回復
しないのは残念というしかない。
だが、本山市政崩壊の本当の原因は、市民全体が金儲け主義に浮かれ、人間の連帯、愛情、
人情を見失った人間疎外にこそ見いだすことができる。
名古屋に再び革新的市政が登場し、市民のための名古屋市が実現するときは、巨大地震に
よってバラバラに押しつぶされ、市民が真の地獄に陥り、そのなかで連帯こそ人生のもっと
もすばらしい財産であることに気づいたときではあるまいか。