名古屋周辺の建設的話題をまったり語るスレ86

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57名古屋事情11
 数キロに及ぶ大門から栄町への屋台街道は、1964年、東京オリンピックを前にして、
名古屋市当局によって強制的に壊滅させられた。
 「国際都市、名古屋」の見栄えが悪い、ヤクザの巣窟とか理由をつけられて、無理矢理
撤去させられた。いわゆる公娼地帯だったが、それを語る世間の口が、封建感覚の残る市
当局幹部のお気に召さなかったに違いない。それで、大勢の女性達が仕事を失った。
 当局は、一切、彼女らの面倒を見なかった。みんな仲間内で助け合って苛酷な運命を凌
がねばならなかった。
 少しでも蓄えのある者は、自分で安い小さな店を借りて、小さな店を再開する者が多か
った。こうした屋台が、名古屋のホルモン、ドテ文化を創り出し、今も続く一杯飲み屋、
赤提灯などの礎となったのである。
  当時の娯楽と言えば、夜の赤線、未亡人の屋台、そして映画、パチンコ、キャバレー、
すべてヤクザが絡んでいた。今の数倍のヤクザが街を徘徊していた。
 当時の中村区では、もっとも大きな産業が大門の赤線地帯、次に国鉄、三菱重工など民
間産業だったと思う。学校には、それらの子弟と農家の子弟が集まっていた。最大勢力が、
赤線地帯の子供達だった。ヤクザと飲食店の子弟である。
 子供達の世界は苛酷だった。ただでさえ歪んだヤクザ者の社会、その家庭のやり場のな
い鬱憤を抱えて子供達は学校にやってきた。学校は修羅場となる。イジメの嵐、暴力吹き
すさぶクラス。
 中学生にもなれば、男子生徒は殴り倒され、女生徒は強姦される。教師が家庭指導に行
けば、名うてのヤクザが若い者を引き連れて待ちかまえている。誰もが臭いものにフタ、
見てみぬふりをするしかなかった。
 国鉄子弟は、おとなしい者が多く、もっぱらやられ放題、だが成績の良い者が多かった。
農家の子弟は、急速に都市化が進む地域で、畑を売って巨額の資金を手にし、今でも豪邸
に住む者が多い。