名古屋周辺の建設的話題をまったり語るスレ86

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56名古屋事情10
 戦後、大門と栄町を結ぶ4キロメートルほどの街路には、夕方になると無数の屋台が現れた。
一畳ほどの小さな手押し屋台、カーバイドの灯り、沸々と煮えたぎる大鍋に煮込まれていたのは
「ドテ」と呼ばれたホルモンだ。名古屋らしい赤味噌を甘く味付けした味だった。甘くしたのは
保存性を良くし、煮汁をムダにしないためだった。
 串カツも、このドテ汁につけて食べた。これが後に、味噌カツになった。煮汁で煮込んだウド
ンは味噌煮込みウドンになった。小さなイスが数脚、安い料金で辛い仕事を終えた男達が毎夜群
がって飲み、食べた。(*「味噌煮込みウドン」は、江戸時代から三河・伊勢の塩を牛に乗せて
信州に運ぶ馬喰たちが、信州・甲州の「ほうとう」を携行食とし、味噌汁に入れて食べた習慣が
発展し、「きしめん」や煮込みウドンなどに変わったと考えられるが、名古屋地方における味噌
煮込みの普及は、こうした屋台からであった)
 屋台の営業主は、ほとんど戦争未亡人だった。屋台を作って彼女たちに貸していたのは稲葉地
一家や住吉連合会系のヤクザやテキヤだった。
 毎日なにがしかの金を払って屋台を借りる。もちろん、それだけでは食えないから、本当の仕
事は営業後にあった。屋台を片づけてから、客の男と寝ることで、食べていた女性が多かった。
 ちょっと年齢が上がりすぎたり、子供が多かったりした場合、トルコ風呂に勤めるのは難しく、
こうして客を確保していたのだ。