郷土の英雄。帝国陸軍師団の歴史

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932名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/02/24(金) 13:58:19 ID:dUKOOoD40
良いんでないの
933205:2006/03/01(水) 02:50:07 ID:EYQEZzGK0
>>929
風格等どうでも良いが、軍都廣島は全国兵士が宇品港から出征した。
>311で引用した、石田義顕少将(陸軍王国の山口県徳山出身)の
執筆寄稿文から『憧れの歩十一』に「昭和二年の四月、北鮮羅南の
旅団副官から転じ、ようやく憧れの広島11聯隊付に補せられ、我が憧れの
希望を十分に満足し得て余りありというべく第一の故郷に優る第二の故郷と
なる、それほどの奇縁まことに感謝に堪えない。」
「郷土に誇る美点、精神はその伝統の中に躍動し続け、それが平時諸般の
成績上に現れ、戦時において遺憾なく発揮され、あの赫々たる武勲となり、
いまも歴史を飾るものとして残るのだ。旧広島聯隊管区の壮丁は、
誠実機敏にして勇敢、成績は常に優良の部を貫き通し」
「最も印象的な存在は十一聯隊の西営庭に聳える老楠の大木である。
いつまでも長寿を保ち我らの歴史を視つめて居ておくれと祈らないで
おれなかった気持ち・・・」
今もその老楠は、原爆に耐え存在し我らの歴史を視つめております。
934名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/03/02(木) 22:19:57 ID:eU4tsjOi0
>>929
まだそんなもん貼ってんのかよ?何年前のだよ。

ド左翼の辻村明著「地方都市の風格」の嘘なんてさんざん暴露されたろ?

このジジイと出版で関係がある出版社のある県や、
このジジイの出身地、ジジイの関係してる県はすべて
このランクの上位に入ってる。
まったくくだらん本だ。
釣られないように。
935むべ:2006/03/05(日) 00:19:19 ID:UR4dY6Yl0
そんなに目くじらたてなさんな。
学術書じゃあるまいし本なんてのは作者の思い入れが入っているのは当然。
それを差っ引いて読むのが大人の読書だ。

936小石川@アミノ酸:2006/03/05(日) 01:00:22 ID:pM/KnyFO0
タイでは95式軽戦車がレストアされて観光客でも乗れるらしい。
日本の某社にエンジンの補習をタイ陸軍から依頼されるも、日本のアレな
人達が騒ぎ出すのを恐れて断ったとか。
時間が有れば乗りに行きたい。土日はさんでスケジュール組めばなんとかなるかな。
つでに久々にM16やAK47撃ちに行くか・・・・
937むべ:2006/03/05(日) 01:16:36 ID:UR4dY6Yl0
日本の蒸気機関車でさえ部品をつくる技術者がいなくて
部品供給用の機関車をストックしていると聞いた。
それと同様、いくら製造元でも60年前のエンジンの部品を作るのは
難しいような気がする。
938205:2006/03/09(木) 23:58:49 ID:dbgThigh0
広島第5師団第11聯隊の戦記から、青島を訪れた慰問団のこと。
『一番腹が立ったのは広島県会議員団の慰問だった。同郷の議員の慰問と
いうので重傷者は担架で、歩けない者は背負われて講堂に集まったので
ある。三十分待ち、一時間待った。痛みを訴える兵もいたが講堂から
去らなかった。(中略)ドカドカと五名の議員団が姿を見せ、驚いたこと
には五名は酒気を帯び、一名は立っているのがヤットと言う姿である。
それでも軍医が一名前に出して挨拶をして広島県の兵ばかりであることを
述べた。一議員が議員団を代表してか、
「皆さんご苦労さまです。一日も早く快くなられることを望みます。では
之で」で終り。又ドカドカ出て行った。二時間以上待たされて、有難い
お言葉を戴いたのは十秒であった。
先生、議員さんと言われている内に人間は偉くなるものである。
一銭五厘で、赤紙一枚で大切な命を皇軍の為に捧げる奴は大阿呆者に
見えたのであろうか。皇軍慰問の名で税金を使い態の良い海外見物をやる
議員の目に重傷者や手足を失った兵がどのように映ったか・・・」』
939205:2006/03/11(土) 23:45:29 ID:sA27w4dd0
続き。『終戦後、このとき酒に酔ってフラフラしていた議員が立候補の
挨拶と票纒めの依頼の依頼に来た。彼(宮○一等兵)は、その議員を
応接間に通し、政策とか公約らしきものを引出そうとしたが、この先生、
議員と言われることが嬉しくて生きているらしく頭の中には県民の代表と
して県政にという何物をも持合わせていないようだった。彼は意地悪く
青島での出来事を話して協力する気のないことを告げた。票にならない
処におる必要なしと青島以上の早さで帰った。議員とはこんな男でないと
勤まらないものであることを彼は知った。』
逆に『宮○一等兵を一番喜ばしたのはコロンビアの二葉あき子である。
彼女は講堂でショーが終わると舞台衣装をぬぎ化粧を落とすと外科第一号
室に入った。宮○一等兵がいる部屋である。そこには広島市二葉ノ里出身の
兵が負傷して入院しており彼女の家と隣だったとかで、その兵を見舞った
のである。「今日本で流行している歌はなんです」とある兵が聞く「支那の
夜という歌なんですよ」と答えて現在、内地で流行していること、松竹では
映画化し、主演は林長次郎と支那娘の李香蘭になるらしいことなどを話した
後、ピアノを弾き「支那の夜」を唄って聞かせた。そのあと五線に
おたまじゃくしを並べその下に歌詩を書いてくれたものである。』
940205:2006/03/17(金) 22:30:55 ID:nzNT2zlv0
慰問団の話は様々で、広島第39師団でも松竹歌劇団の訪問の時には、
『舞台の上を突如銃弾が流れた。独唱していた、風見章子が、胸に手を
あてるようにして思わず身をすくめた。
「大丈夫じゃ、あたりゃせん!やりんさい!」広島弁の野次が飛んだ。
遠来の日本娘たちを威嚇しようとするのか。銃声に混じって追撃砲弾が
落下しだした。慰問講演どころではなくなった。何中隊かの兵隊が、
非常呼集を掛けられて、急ぎ駆け去っていった。
東宝慰問団の時は、慰問公演が終わった後、彼女達の希望で第一線陣地を
案内した。案内役の兵に外の兵が焼き餅を焼いた。彼女達の下着が盗まれる
ということで、専属の不寝番を立たせることになったが、志願者が多く、
本部ではその人選に苦慮した。一年振りに見る日本娘が恋しく、慰問公演が
終わった後も、暗くなるまで兵隊達が彼女達を囲んで、山の陣地に戻りた
がらなかった。』
941205:2006/03/17(金) 22:54:23 ID:nzNT2zlv0
>925に書いた横山聯隊長のエピソードに、
『第一大隊本部の全員が天婦羅の食中毒を起こした。原因に炊事兵が
食用油と間違えて使った油が桐油だった為で、この為吉満大隊長以下が
猛烈な下痢に悩まされた。これを聞いた横山大佐がカンカンに怒り、
「自後第一大隊は天ぷらを禁ず」という珍妙な聯隊長命令を出した。
故意にやった訳ではない、多忙な戦陣間の間違いであったが、横山大佐は
少年のように怒り、無知でわがままな命令を出した。
横山大佐の慎重な面は良いにしても、児戯に似た神経質すぎるところが
あって決して一等大佐とは思えなかった。』との評価もあります。
しかし、部下に対しても思いやりのある聯隊長であったことには違いない。
942名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/03/22(水) 16:04:59 ID:FF6TK1BN0
富山だと瀬島龍三参謀かな
943205:2006/03/28(火) 23:26:57 ID:Kbs0QA9R0
宜昌作戦後、体力の限界をはるかに越えた行軍・戦闘から、
広島第231聯隊は、下痢、大腸炎、マラリア脚気患者が次から次と
出てきた。漢口の軍司令部でも、「聯隊は精強でよい部隊であるが、今の
ところ病人が多い、」との評だった。第二代聯隊長大佐着任当時、患者者が
多く、各中隊戦力は、二、三割減という実態であった。中隊員が200名に
満たない警備師団では、中隊員数が多い重量戦闘師団よりも戦力減は
苦しい。梶浦聯隊長最初の仕事は健兵対策で、食品の煮沸殺菌、用便後の
手指の消毒、糞便に群がる蠅や蚊の駆逐、「不動の姿勢をとっている時と
いえども、蚊が止まったらたたいてよし」と不動の姿勢は軍人基本の姿勢
であったにもかかわらず徹底していた。
「マラリアや 潰れるほどに 布団着せ」とマラリアは、「おい、
寒いけえ布団を掛けて呉れい」悪寒戦慄の激しさに布団を四、五枚掛け
ても、ふるいは止まらず、戦友が布団の上に乗ってふるいを止めさせる。
悪寒が去ると四十度の高熱を発し、三日熱・四日熱と毎日続く。
風土病には、揚子江の魚を刺身で食うと、首に大きなコブが出来、だんだん
下がって腕の関節まで来ると何時の間にか消えるという病気である。
胸から腹に来ると命はない。とのこと。
944名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/03/30(木) 13:47:17 ID:SBKtC+lb0
お前まだ生きてたんだ
945名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/04/02(日) 11:05:18 ID:kk8xhXjc0
★国内一の衰退都市広島のここ1年★
■郵政公社が広島郵便貯金ホールを来年廃止決定、厚生年金会館も廃止の方向へ【good】
■社会人口減が止まらず、全国4位の減少数と発表がある
■止まらない支社・支店の撤退、Jエア・デオデオ等の本社機能流出で地域中枢性低下が顕著に
■都市型産業の減少日本一と発表され、名実共に国内一の衰退都市となる※参考日経【great!】
■サッポロ飲料、丸紅、ローソン、ヤマハなどなど相次ぎ広島支店閉鎖、札幌仙台福岡は当然存続
■ヴァージン、丸善、ダイエー2店鋪、ファッションビルが廃業撤退、映画館が次々と閉館でアンケート結果でも中心部衰退が浮き彫りに【cool】
■2002〜2005年度に国内で廃校した大学・短大15校の内4校が広島都市圏の大学短大【great!】
■第二地銀が山口銀行に吸収される、広島経済に大打撃、山口銀行はムーディーズ格付が下がりリストラは必至【great!】
■駅前Aブロック、紙屋町シャレオがことごとく赤字で退出店鋪相次ぐ
■超高層ビル計画他頓挫が続く、京都を除く政令市唯一4年間着工・計画決定全くなし【cool】
■百貨店売り上げが前年比平均10%ダウン、中心部の集客力低下が顕著に【good】
■広島に本社を置く企業や拠点が続々と撤退、デオデオ本社機能も一部移転5年後完全移転が発覚【great!】
■大喜びし、期待に胸を膨らませていた宇品地区の妄想マンション計画、ふたを開けてみれば15階建てマンションでした 【good】
■都心部の空室率が依然として悪化、賃料値下げするも改善の見込みは全くなく衰退都市の定番路線をひた進む【good】
■大都市圏、地方主要都市が回復する中、今年も都心部の地価下落が止まらず、更なる衰退が浮き彫りに【cool】
■学生の就職内定率が今年も大幅に全国平均を下回る、有効求人倍率の底上げは郊外スーパーのパート需要【good】
■財政悪化のために広島市長が「財政非常事態宣言」を出す、この影響で続々と中止縮小する計画が出る【cool】
946●新宿クーミン ◆Tokyo/FXYA :2006/04/02(日) 22:38:38 ID:pCSdjVKI0
このスレ、この板では一番の長寿スレになりましたな…。
実は>>1は僕ですw
947支那事変(日中戦争)の原因:2006/04/03(月) 17:57:23 ID:PkFpChTj0

17 :名無しさんの主張 :2006/02/13(月) 23:15:57

シナ人は丸腰の日本の民間人を残虐な方法で何百人も殺してるけどな。

子供の足をつかんで振り回し壁に打ち付けて殺したり、
日本人の女の人を片っ端から強姦して陰部に棒突っ込んで殺したり、
日本人の住民を一箇所に集めて銃殺したり。

尼港 南京 済南 通州
http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/doyoyon/doyoyo11.html

これがシナ事変(日中戦争)の一因になったのは言うまでも無い。
948むべ:2006/04/04(火) 23:43:43 ID:007Cstzp0
>>946
そろそろ新スレ頼む。
949205:2006/04/04(火) 23:52:09 ID:2+S53hwg0
>>947
中国兵の残虐性を強調しても、日本軍も中国軍云々は言えん。
また、敵兵の鼻を削ぐ行為も戦国時代伊達氏の例もあるし。
支那事変の中国人避難民が山に上がる等は、日本の戦国時代も、農民が
拉致され労働力として売買されることを恐れ、山上がりの習俗があった
ことを考察することは資料参考となるが別スレの問題となる。
じゃが、外国の方が、このスレを視て日本人は自分のことを棚にあげ、
隠蔽する民族じゃと思われるのは、日本人の誇りとしてつらい。
このスレに限らず、顔に色が付くわい。わし自身は卑怯な行為を恥じる
日本人でありたい。近隣諸国の人達が卑劣な行為をしようとも。
ほいで嫌韓中人が反日の中国や韓国を貶め爽快感を持つ行為が、文化的に
近い我が国の歴史を貶める行為に繋がることが、まだ解らんのかのう。
我が国には、人身売買や犬を食う習慣、更に食人習慣もあった。
そのような不都合な事実も認めても、日本人として誇りを持つんは、
わし自身の感情で他者に押し売りはせんが、そこらは、あんたら自身で
考えや。
950むべ:2006/04/05(水) 00:14:19 ID:6oJz3UtD0
戦争は文明社会の中で文明が及ばない世界だからな。
文明が及ばないとは、人間が本性に帰るということ。
倫理、道徳のたががはずれて容易に残虐行為をしてしまう。
日本の某兵団はアメリカ人捕虜の肝を精がつくと食っていたという。
平時のまともな人間ならとてもできない行為だ。
それは敵も味方も同じ。
どっちがより残虐行為をしたかと比べるのはナンセンス。
より大切なのはまともな文明人戻ったときに
どれだけ己の行為を恥じることができることだと思う。
その点では戦後、元日本兵が自信の反省のため
満州などに謝罪旅行に出かけたことを否定はできない。
自虐的だとかあるいはもっと反省せよとか、
第三者がとやかく言うことは問題外だけどな。

951名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/04/05(水) 02:22:42 ID:kd4IY1op0

戦友
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/senyuu.html

♪ここはお国を何百里〜
 離れて遠き 満州の〜
 赤い夕日に照らされて〜
 友は野末の石の下〜


952●新宿クーミン ◆Tokyo/FXYA :2006/04/08(土) 19:44:44 ID:CF+W+nnR0

953●新宿クーミン ◆Tokyo/FXYA :2006/04/08(土) 19:45:00 ID:CF+W+nnR0
>>948
了解しました。
954名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/04/08(土) 20:03:15 ID:P+5C6yrW0
自衛隊に近衛師団の復活を求む。
955●新宿クーミン ◆Tokyo/FXYA :2006/04/09(日) 19:44:29 ID:e6LAOW5F0 BE:119175833-
次スレ
郷土の英雄。帝国陸軍師団の歴史 其の弐
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/chiri/1144579367/
956205:2006/04/10(月) 01:36:31 ID:5cLWazul0
     感状
  歩兵二百三十一聯隊第十一中隊第一小隊
右は小隊長歩兵少尉松本治雄指揮の下に 宜昌作戦に従ひ 各地に転戦し
偉功を奏す 特に五月十六日 師団の大洪山脈内第三十三集団軍主力に
対する掃討戦に方(あた)りては 長山南方山腹を急進し 集団軍総部に
遭遇するや 機を失せず之を包囲攻撃して 総司令官張自忠以下其の首脳を
殲滅し 且多数の重要書類を鹵獲して 爾後の作戦指導に寄与したる所
甚大なり 又五月十九日 白河の敵前渡河に際し 小隊長は将校斥候として
徒渉場偵察の任務を受くるや 周到なる準備を整え 兵二名を率い夜暗を
利用して敢然水中に身を投じ 河中を詳密に偵察し 敵弾雨飛の下 毅然と
して任務を遂行し 遂に好箇の徒渉場を発見報告せり
次で小隊は 渡河部隊の先陣として諸隊を誘導し 猛火を冒して勇躍断崖を
攀登して敵陣に突入し 奮戦力闘以て部隊主力の渡河及爾後の戦闘進展を 
有利ならしめたり 之を要するに 小隊長の旺盛なる責任感 犠牲的精神及
適切なる指揮は 部下小隊の奮闘と相俟て 作戦竝に戦闘に貢献したる所
偉大にして 其の武功抜群なり 仍て茲に感状を授与す
   昭和十五年十月二十日
     第十一軍司令官
       陸軍中将 園部 和一郎 
957205:2006/04/10(月) 02:22:02 ID:5cLWazul0
上記の広島県人である松本治雄少尉(後に中尉)は、突撃隊長と
あだ名され、何れの戦場でも愛刀を振りかざして真一文字に敵陣に
突入し、不敵にもカラカラと哄笑されておられたそうで。
新スレよりも、こちらに書いておきました。
958205:2006/04/11(火) 01:41:41 ID:ak2yqFNL0
   感状
     歩兵二百三十一聯隊第二中隊 同配属部隊
 右は中隊長代理陸軍少尉岡田守人指揮の下に 宜昌対岸陣地の右翼約三、
四粁に亘る広正面を守備し 長時戦闘準備に渾身の努力を傾倒しありしが、
昭和十九年六月九、十の両日 敵は飛行機四十機の銃爆撃並に各種火砲
約一万発の砲撃に依り 徹底的に我が陣地を攻撃し 其の優勢なる兵力を
以て 砲弾に膚接しつつ 前後六回の突撃を反復せり この間陣地の
守兵は 熾烈なる砲撃のため 聾者となり幻影に襲われつつも 死傷を
意とせず 比隣相扶け 寡兵廃墟と化せる陣地に拠りて 奮戦是努め 
悉く其の敵を陣前に破摧して これに大打撃を与え 次いで同月二十一日
黎明 部隊主力は陣前に出撃して所在の敵を撃滅すると共に 進んで其の
攻撃拠点を破壊し 以って長時間に亘り計画準備せる宜昌方面の反攻を 
完全に挫折せしめたり 以上の行動は 将兵全員鉄石の団結と 旺盛なる
攻撃精神とにより 毅然として敵の猛攻を粉砕し 延いて第十一軍の
湘桂作戦を容易ならしめたるものにして 其の武功抜群なり
 仍て茲に感状を授与す
   昭和十九年九月三十日 

  第三十四軍司令官 陸軍中将 正四位 勲一等 功四級 佐野忠義
959205:2006/04/11(火) 02:15:41 ID:ak2yqFNL0
   感状
     歩兵二百三十一聯隊第八中隊田中小隊   同  協力部隊
 右は小隊長陸軍少尉田中節三指揮の下に 宜昌北方西陵山地区の北角
陣地を守備し 長時日に亘り戦闘準備に渾身の努力を傾倒しありしが 
昭和十九年七月二十五日十一時より同二十七日払暁に至る間 優勢なる
飛行機の銃爆撃並に各種火砲七千発の砲撃により 陣地設備及び陣地前
障碍物の大部破壊せられ 死傷者続出するに至りしも 将兵互に相励まし 
手段を尽くして陣地を補修し この間敵の反復せる突撃を撃退すること
三十数回 しかも剛胆周密なる計画に依り 敵を陣前至近距離に誘致
したる後 これに集中火を浴せ 更に弾雨を冒して寡兵逆襲を敢行し 
接敵格闘敵を陣前に撃滅し 以って敵四箇営に殲滅的打撃を与えたり 
 以上の行動は 将兵全員鉄石の団結と 卓越せし武技とに依り 堅く
必勝を信じて滅死敢行し 宜昌地区に於ける敵反攻封殺の素因を
作為せるものにして 其の武功抜群なり
 仍て茲に感状を授与す
   昭和十九年九月三十日

  第三十四軍司令官 陸軍中将 正四位 勲一等 功四級 佐野忠義
960205:2006/04/12(水) 23:09:12 ID:41BWmTXj0
>959の第八中隊の「滅死敢行」は間違えで、「堅く必勝を信じて
滅死敢闘し」に訂正。
羽黒陣地(12名守備)の陣地長なき後、代理のM兵長は、腸が露出する
のを、片手に靴下を重ねて押し込み敢闘を続け、
「わしは死なんど。みんな頑張れ」言いながら散華された。
田中小隊の損害は、戦死5名・重傷3名であったが、実はほとんど全員が
負傷していた。戦闘不能の3名以外は軍医の意見を振り切り帰陣し、
廃墟となった、あすは死地となる陣地に還り戦闘を続行した。
田中小隊の41名が敵一個師と戦闘し、敵四箇営に殲滅的打撃を与えた。
(一箇営、約1千名で四箇営4千名)2百倍以上と思われる敵と戦闘し、
百倍の相手を殲滅した。前線指揮官の田中少尉・第二中隊長代理岡田少尉
共に広島県人。将兵共に広島人であり、進取・必勝の信念を持つ伝統の
広島部隊の真価を心ゆくまで発揮した快心の絵巻であった。
961205:2006/04/18(火) 01:38:04 ID:5DJ/C76v0
第二中隊の戦闘の守備兵力は、最も多いピラミッドが15名、他は5名
程度の陣地が大半で、第二中隊本部7名のほか予備兵力はなく、重火器は、
聯隊砲、重機関銃各1及び軽機関銃各陣地一銃(ピラミッドは二銃)で、
あとは擲弾筒と小銃だけだった。間断のない爆撃と反復攻撃に、陣地を
無惨にも畑のような耕地地伏にしながらも(岡田中隊長代理は、「来るなら
来い!われにも、訓練周到の精兵がある。精魂をこめて掘った鉄桶の陣地が
ある。中国兵の一兵たりとも陣地を汚させはせん。絶対に負けん!」)、
遂に擲の突破を許さなかった。
片目の者、足の指のちぎれた者、右手がだらりと下がっている者等、
全て奮戦敢闘し、特に敵の攻撃重点となったピラミッド等は全員負傷した。
第二中隊員約100名のうち、戦死者9名・戦傷17名。戦力は
25%減少しても屈せず、敵の宜昌奪回の夢は破れ去った。
ピラミッド付近の陣地は、約1万発の砲爆撃で、名物の蚊も約10間は
出なかった。
962205:2006/04/22(土) 22:44:52 ID:eRJfhxJT0
敵の砲攻撃の主要目標は、華福山の阿曽沼小隊(長・阿曽沼少尉、広島県
熊野町)14名・ピラミッドは、竹本小隊(長・竹本少尉、広島県大崎町)
15名・旗鉾の平藤兵長、(広島県大竹市)以下5名の各陣地で、
竹本小隊長(初年兵の教官兼務の行軍演習時、敵のピラミッドへの砲撃
から急ぎ帰隊された)の回想の要約から、
『敵さんの野砲や追撃砲が、一斉に火蓋を切った。その弾着は、極めて
良好だった。砲撃の合間に正面に出ようとするが、その隙間がない。
追撃砲の直撃弾であろう、軍曹と古参兵の二人がやられていた。
衛生兵が死体に繃帯をし、せめて死後の酷い姿を少しでも飾ってやろう、
とする戦友の心遣いが、痛いほどよく解った。遺体を床の上に列べ、
毛布をかけて手を合わせ、何とも言えない感情が胸中をはしった。
「くそっ」軍刀を固く握りしめ、トーチカに急いだ。トーチカは蜂の巣の
ようになって、一発射てば、二〇発ぐらいのお返しが来た。
全く敵側の砲制下におかれてしまった。制空権も既に敵手にあり、
銃爆撃の密度も加わった。過去の戦闘とは、その様相が一変しており、
比較にならない鉄量の激烈さで、支那軍からこれほどの砲火を受けた
前例もない。日本軍の中支戦線では、初めての経験ではなかろうか。
だが、小銃・機関銃・手榴弾などでは、砲攻撃に対抗できない。
むしろ敵の突撃を待つだけである。」
963205:2006/04/26(水) 02:00:21 ID:gbeU41+p0
しかし、中国軍の攻撃は拙劣であった。続いて竹本小隊長の回想手記の
要約から「間髪を入れず突入してこそ、歩・砲・空の連繋は成功する。
敵兵は、一息ついて丘稜を馳け降りて来た。我々は、この一瞬こそ、
待ち構えていたのである。各銃が一斉に火を吹いた。
バタバタと敵兵達は斃れる。しかし彼らも勇敢で、倒れた戦友を乗り越え
突進したが、敵の一兵も遂に我が陣地内に踏み入ることは出来なかった。」
同じ様なことは、第八中隊の守る羽黒陣地でも、日本軍の陣地が一発も
撃ってこないのと、破壊された陣地の状況から、日本兵は一人残らず
全滅したものと錯覚し、一瞬気を緩めた瞬間、横穴を蹴って出た守兵が
急襲射撃し勝機が逆転した。侮りと逆に少人数でも強い広島部隊への
怖れが、自軍の都合の良い楽観的解釈に繋がったのであろう。
一瞬の判断ミスは我が広島部隊側にもあり、第二中隊の感状にある
二十一日に出撃した某曹長は、15名の部下と共に、一斉に手榴弾を投擲
する為、抜刀した刀を無造作に地面に置いた。いざ突撃というとき、足下
においた刀を探した「刀が無い!」草むらの中に転がっているに違い
ないが、暗いのと、気が動転し慌てれば慌てる程わからない。
この十数秒が突撃の機を失し、逆に中国軍が手榴弾を投擲し、後退する
ことになった。主陣地を攻撃した岡田隊の奇襲が成功した為、曹長の失敗は
不問にされたが、「勝敗は一刻を争う。戦闘間では、譬え指揮官以下に
戦死者が続出しても、戦闘を続行しなければならない。況や刀の紛失で。」
しかし、様々な国の勝利を得た、何れの戦でも、100%完璧な戦闘とは、
無いであろう。敵、味方共に失敗があるのが常であるが。
964205:2006/05/02(火) 22:02:50 ID:s84ib9OH0
ピラミッド陣地は、敵の砲撃の最重点目標にさらされた。もともと狭い
陣地故に動けず、無我夢中で陣前に肉薄する敵兵群を射ちまくった。
銃身は灼熱し、陣地内の相互の連絡も途絶えた。掩蓋ごとに長い孤立の
奮闘が続いた。生きているのは自分だけではないかという不安感に襲われ、
耳は聞こえず、幻覚にさいなさまれる。精神的、肉体的人間の限界を
遥かに越える凄惨な状況下では、極度の焦躁と孤立感に陥り、長く辛い
自分との闘いであり、錯乱・発狂寸前で、ここで、この苦闘に耐え抜くか、
否かが、陣地を支え得るか、どうかになる。しかし血みどろの死闘を
やるのは、所詮人間である。自己克服の精神力がないと、まず内面的に
崩れ去ってしまう。
それに傑出した指揮官が要求される。竹本小隊長が、この激しい戦闘の中、
死傷者の続出にあいながら、自若として慌てず騒がず、冷静に剛胆に、
よくこの悲惨な状態を切り抜けた。
965205:2006/05/07(日) 00:35:42 ID:vx6WEi6i0
岡田中隊長が、数名を連れて敵中を突破しピラミッド陣地に到着した際
戦況を説明した竹本小隊長の落ち着いた言動に岡田中隊長は驚嘆し、
また頼もしく思った。
『はるかなる戦場』から、「竹本小隊長は、この最悪な場面ですら、
必勝の信念だけは、持ち続けた。とはいえ人間は弱いものである。
竹本小隊長の伝令が、岡田中隊長の姿を見つけると突然大声で泣いた。
そこには何の粉飾もない、人間の生の姿があった。
味方の苦しいときは敵も苦しい。これが戦場の常道であろう。
わが陣前にあるトーチカ陣地の横を、敵兵十数名が夢遊病者のように
フラフラになって後退する姿が見うけられた。」
966205:2006/05/10(水) 01:45:59 ID:QY7qZWe80
続いて岡田中隊長は、当番兵と共に、隣陣地旗鉾に向かった。
敵の機関銃がさかんに頭上をかすめていた。守兵五名で必死に防戦に
つとめた為、全員負傷の惨状だったが、重傷にもひるまず四名が敵方を
睨んでいた。あと一名が見あたらない。彼は足を打ち抜かれ、奥行き
四メートルの横穴の奥にいざり込んでいた。
岡田中隊長は「出て来い、手当てをしなけりゃ駄目じゃないか」
「出たらまた射たれる」と返事が聞こえた。息も絶え絶えの声である。
彼は補充兵で郷里に妻子を残している。どうしても生きて帰りたいので
あろう。穴の入口まで続いた血の量から推して、すでに仮死の線上を彷徨
している。死期の迫った兵が弾丸を避け生きようと、もがいている。
中隊長が強いて引っ張り出そうとすれば、彼は手に噛み付くに違いない。
岡田中隊長は、意識の存続する限り死からの逃避に全力をしぼりつくす、
はかない抵抗を目撃して、人間の弱さについて、新しい教訓を学んだ。
中隊長は、中隊一丸となって敵の攻撃を喰い止め、任務を達成したと
いう歓びの反面、戦死者九名。かけがえのない尊い生命を散らした
勇士たち。故郷の肉親が知る由もない惨烈の最期は、中隊長の心の重圧と
なって、大隊長への戦況報告は重かった。
967仙台人:2006/05/11(木) 19:39:31 ID:KuR+9y2X0
仙台の師団が強かったとは知らんかった。
けど、どの師団が強い弱い関係なしに日本の為に戦った人達のことは尊敬している。
968205:2006/05/12(金) 00:15:19 ID:2cylOQ5v0
>>967
宜昌は、前任が仙台第13師団(宮城・福島・新潟)じゃったので、
陣地に愛着からか、郷土の東北や越後の山の名前が多かった。
感状を授与された第八中隊の守備した陣地も、羽黒山12名・弥彦山8名
及び重機一銃の6名配属・米山7名・金北8名で計41名であったが、
弥彦、米山、金北は、越後新潟県の山の名前であろう。羽黒山は
弘前師団区の山形県になるので、なぜ羽黒と名称したんかは定かでない。
仙台師団の強弱は別として、我が国の将兵と共に、勇敢に健闘した敵軍
将兵に対しても敬意を表したい。と、わしは、思うとります。
969名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/05/12(金) 10:45:21 ID:uLfG2xuX0
ガダルカナルまで長く日本最強師団といわれていたとか聞くしな。
でも相手が悪すぎただけで、決して他の師団が弱かったとか思えん。
全師団が日本最強師団と変わらない戦闘能力持ってたとしても勝っていた
とは思えない
970名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/05/12(金) 10:56:57 ID:uLfG2xuX0
それに広島師団がそんなに強かったとは初めて聞いた。
いろんな地域の郷土資料調べたら同じように実は強かったとわかる師団が
たくさんあるんじゃないかな。
971205:2006/05/13(土) 00:26:18 ID:MzM84XiS0
>>969970
仙台師団が日本最強師団?とはねえ。他師団と比較して強かった実例は
あるんか?ガ島で、仙台第2師団が、己の鈍重さを棚にあげ、バンドン
攻略で先を越された恨み?からむくれた相手である静岡第230聯隊の
突入を牽制した所を、逆に突進を依頼しておったらどうなったか?静岡聯隊
の方が仙台2Dより精強であったろうが、推測の域を出ん。
「バンドン突入の二倍の突進を頼むぜ、と激励するのが筋だ。それが
戦勝の道だ。然るに頭から突入を牽制し遠慮させる。このような師団
(仙台第2師団)に、ガダルカナルの堅陣が抜けるか。」
伊藤正徳氏の『帝国陸軍の最後』から要約。
ガ島で米軍将校は「日本軍はいつも同じ時間帯に、同じ方向から、
同じ要領で攻撃してきた。機関銃を同じ方向に定めて射てば、
日本軍の攻撃を粉砕することが出来た。」これがどの師団について
述べたものか知らんが、拙劣な攻撃をした師団は何処の師団であろうか。
広島師団ならマレー戦の実例から予測を覆す攻撃をした実例もあり、
このようなワンパターンのマニアル通りの拙劣な攻撃は出来んよ。
仙台人の今村均将軍は、広島師団を「明治以来このように多くの戦場に
やられた師団は他になく、いつも赫々たる武勲を立てている。こんな
比類なき歴戦を私のときにけがすような事があっては申し訳ない」と
云われたが、広島師団より武勲がある師団はあるんか?
972名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/05/13(土) 01:37:43 ID:Dstszmoh0
確か日露戦争での大活躍でそう呼ばれるようになったとか。
あと九州の師団も最強とかいわれていたから結局どこが一番とか
分からんがな。てか稚拙な攻撃とか兵隊がというより参謀の責任だろ
広島師団ならこんな攻撃はしないとか言い切る理由がマレー戦の実例
から予測を覆す攻撃をした実例もあり、、、て説得力無いよww

>広島師団より武勲がある師団はあるんか?
そんなの知らねえよ。お前詳しいんなら武勲多い順に1〜5位
まで示してみろ
973名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/05/13(土) 01:55:06 ID:ofZfK0As0
はいはい
開戦奇襲時の英軍と本格的反攻の米軍相手を
比べられてもしょうがない気もするけど。
広島師団より武勲がある師団はないない。いいよそれで。


974205:2006/05/14(日) 01:43:39 ID:ZY8Hr/830
>>972
仙台第2師団が、日露戦争の大活躍?追撃で逃げる敵を追うことが?
参謀の責任もあるが、中隊、小隊、分隊単位で工夫することも必要で
あろう。類例、実例から考察することが、説得力が無いのであれば、
あんたの「いわれた」という意見は戦闘実例も挙げず、妄想に溺れて
おると云うことか。武勲の多い順じゃ?前線では駄目でも、
無血入城部門なら仙台師団が上位であると云いたいんか。
>>973
兵団の違いにより戦闘方法にも違いがあると云うとるんじゃ。
それ以上は推測になるので答えようがない。
975名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/05/14(日) 13:03:08 ID:Ta6zBM/A0
44 :名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/05/13(土) 14:00:45 ID:uJVG4VN90
まぁ広島5Dも北部仏印進駐の際に不法越境かまして妥結しかけた交渉を
白紙に戻す不手際やらかしてるから、そんな大きな事は言えないというか。
976名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/05/14(日) 21:59:54 ID:qAbxndqw0
無駄に長々書いてるが要約すると
白島師団がマレー戦で敵の予測のつかない攻撃をした。
だから広島師団は稚拙な攻撃はしないんだ。 




これで納得しろと?
977名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/05/14(日) 22:02:49 ID:qAbxndqw0
ミスった

白島でなく広島。
978205:2006/05/16(火) 23:03:26 ID:Ov+f+kA60
>>976
完全に失態のない戦闘はないであろうが、ミスを広げんことも
重要であろう。

広島部隊の宜昌防御の話に戻す。梶浦聯隊長の戦後談によると、
「攻撃戦闘なら、一人の勇者がおれば、他の兵がこれに続くことが
出来るが、陣地では兵一人々々の、悲惨な状況下にも孤独にめげず、
判断の正常性を失わない、高度な能力が要求されるが、
これはどの師団の兵にも、出来るというようなものでない。
当時の宜昌地区の状況は、濡れた障子紙、いっぱいに、ふくらませた
ゴム風船のようなもので、一触即発、若しも百に近い陣地の中で、
一つでも敵に抜かれたら、連鎖反応で忽ち前線総崩れとなっていただろう。
(中略)味方が苦しいときは、敵もまた苦しい。聯隊の将兵が、中国兵
よりも、常に一歩、一段だけ苦難に耐え抜く精神力があったことが、
最後の勝利に直結する最大の要因であった。」と。
979205:2006/05/20(土) 23:41:50 ID:rotnc1ir0
防御戦では、専守防衛に徹するだけでは、善戦しても、勝利することは
出来ない。逆襲と攻勢転移は防御戦に不可欠であり、広島5Dの
南寧戦でも、「陣地戦とは奇襲と強襲の使い分け!」が本質であった。

第二中隊は陣地を守り抜いたが、敵軍は、退却する気配もなく、中隊陣地の
眼の前に敵兵がうごめいいては、いつ攻撃の拠点とするか判らない。
岡田中隊長は、これを奪取する決意をした。主目標は正面の
敵ベトントーチカ陣地で、未明の奇襲攻撃である。敵は約一営であったが、
中隊長は人員が少ないほど奇襲効果があり、且つ損害が少ないとして、
五名を率いることとした。(編成に人事係りが提出した名簿は、札付きの
悪兵達、酒ぐせが悪く、喧嘩する。転属でもあれば、候補として確実に
中隊を追われる者達で、あった。どういう基準で人選したものか分らな
かったが、こういう兵こそ勇敢だろうと思い、岡田中隊長は承諾した。)
服装は、中隊長が刀を背中に負い、兵は着剣した銃を左肩から、左脇腹に
下げたものを胴に縛りつけ、手榴弾を五発あてを腰に着け出発した。
980205:2006/05/21(日) 00:34:42 ID:mftJRjOo0
>979に続き、中国の匪賊のような出立ちである。また、左側に十五名、
右に七名が配され、二十七名の決死出撃隊である。
中隊長以下五名は、隊長を先頭に匍匐の縦隊となって前進した。敵に発見
されることも怖いが、敵の施設地雷にも神経を使う。(前進間に後の者の
剣先が、前の者の股に刺さって負傷する事例もあった。)あと数米。
ひょいと岡田隊長が顔をあげたとき、敵兵を発見したが、一瞬の差で
敵歩哨も気付いた。「今だッ」転瞬に決断した岡田隊長は、抜刀し、
四勇士も突っ込んだ。隊長は「手榴弾を投げろ」と叫び、五人は次々と
あたり構わず投げた。敵兵が投げてきた手榴弾を、とっさに誰かが拾って
投げ返した。暗夜の手榴弾は、目標に命中するよりも、敵に恐怖心を
与える、心理的効果の方が大きい。あち、こちで連続爆発することに
よって、多数の日本兵が襲撃しているという、錯覚と恐怖心を中国兵に
及ぼす効果があった。混乱した敵兵は相撃(同志討ち)をした。
やがて大隊長の引き揚げ命令で、後方からの掩護射撃下に無事帰還した。
981205
七月の三〇一陣地の奮戦、八月の土塁の決闘と激闘したが、惜しくも、
まぼろしの感状となった、第七中隊の戦闘も見逃せない。
救援に行って負傷した森本少尉(福山市)の回想手記の要約。
「数日来の敵の攻勢は、いよいよ本格化して激しく、目標は土塁陣地で
あることが明白となった。守備は後口軍曹の指揮する一個分隊十二名。
午後にはP40の二〜三機が、ロケット砲を射ち込み、機銃掃射で攻撃
してきた。敵の砲兵は、発煙弾をわが陣地に射ち、敵機の攻撃目標とした。
わが方も同じく発煙弾を敵陣へ射ち返した。困惑したのは上空の敵機で、
誤認して支那軍を攻撃した。
翌日、我々数名が増援となり、砲撃の合間をとらえて土塁陣地に走り
こんだ。昨日の敵機のロケット砲撃で、三名が散華しており、階段の陰に
いた初年兵一名が助かっていた。また敵側の山砲の命中精度は非常に
よかった。しかし陣地を守備する全員、きわめて意気軒昂で、あれほど
一方的に叩かれ打ちのめされたようでも、不死身の根強さを持ち続けた。」