郷土の英雄。帝国陸軍師団の歴史

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1牛沼久太郎
語れ。
2佐藤惣之助 ◆fzb6TDvnUA :03/12/17 00:47 ID:pU2cYM6f
2
3名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/17 00:48 ID:ynEWgkpJ
4牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/17 00:49 ID:XzLkqhyV
かつての帝国陸軍の師団は郷土の名を背負った英雄だった。
どこの師団が一番強かったか。どこの師団が最弱か。みんな郷土を代表して語れ。
5名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/17 00:49 ID:pM+LJC6y
富山だと瀬島龍三参謀かな。
現在NTT顧問
6牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/17 01:05 ID:XzLkqhyV
参考までに明治に創設された師団
第1 編成地東京 隷下連隊 第1(麻布)第49(甲府)第57(佐倉)
第2 編成地仙台 隷下連隊 第4(仙台)第16(新発田)第29(若松)
第3 編成地名古屋 隷下連隊 第6(名古屋)第34(静岡)第68(岐阜)
第4 編成地大阪 隷下連隊 第8(大阪)第37(大阪)第61(和歌山)
第5 編成地広島 隷下連隊 第11(広島)第21(浜田)第42(山口)
第6 編成地熊本 隷下連隊 第13(熊本)第23(都城)第45(鹿児島)
第7 編成地旭川 隷下連隊 第26(旭川)第27(旭川)第28(旭川)
第8 編成地弘前 隷下連隊 第5(青森)第17(秋田)第31(弘前)
第9 編成地金沢 隷下連隊 第7(金沢)第19(敦賀)第35(富山)
7名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/17 01:05 ID:pzDjv1uW
武田騎馬軍団っかな〜?
8牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/17 01:19 ID:XzLkqhyV
続き
第10 編成地姫路 隷下連隊 第10(岡山)第39(姫路)第63(松江)
第11 編成地善通寺 隷下連隊 第12(丸亀)第43(徳島)第44(高知)
第12 編成地久留米 隷下連隊 第24(福岡)第46(大村)第48(久留米)
第13 編成地仙台 隷下連隊 第65(若松)第104(仙台)第116(新発田)
第14 編成地宇都宮 隷下連隊 第2(水戸)第15(高崎)第59(宇都宮)
第15 編成地名古屋 隷下連隊 第51(京都)第60(京都)第67(敦賀)
第16 編成地京都 隷下連隊 第9(京都)第20(福知山)第33(津)
第17 編成地姫路 隷下連隊 第53(鳥取)第54(岡山)混成第2、6
第18 編成地久留米 隷下連隊 第55(大村)第56(久留米)第114(福岡)

明治以後は戦線の拡大によって太平洋戦争末期には最大約300個師団まであった。
それらは追々。 
9佐藤惣之助 ◆fzb6TDvnUA :03/12/17 01:24 ID:pU2cYM6f
手元に東洋経済新報社発行の昭和史なんて本があるが
微妙に出てこない
10牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/17 01:26 ID:XzLkqhyV
この中で最強と言われたのは東北健児で編成された第4師団かな。
彼らは貧しい補給の中で東北人らしい粘り強さがあったとされている。
でも、ガダルカナルでは負けたけどね。
最弱と言われているのは京都第9連隊が所属していた第16師団と言われている。
(おれが言ったんじゃない)
第9連隊は通称「お公家さん部隊」。「またも負けたか第9連隊」とも言われた。
レイテで全滅。師団長も戦死。師団長が戦死した師団は太平洋の激戦でも稀。
11佐藤惣之助 ◆fzb6TDvnUA :03/12/17 01:30 ID:pU2cYM6f
ガダルカナルか
川口支隊と第二師団を送ってもまけたな
12牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/17 01:32 ID:XzLkqhyV
>>10の訂正。
東北健児で編成されたのは第2師団だ。
タッチミスだよん。
 
ガダルカナルの第3次攻撃で2師が負けたとき、
兵団長の那須弓夫少将が戦死したんだけど、凄い名前だ。
平家物語の扇の的の関係者なんでしょうか?
13佐藤惣之助 ◆fzb6TDvnUA :03/12/17 01:43 ID:pU2cYM6f
山本五十六
死に方が可哀想
14牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/17 01:46 ID:XzLkqhyV
>>11
ガダルカナルで最初に負けたのは旭川の7師隷下の28連隊を基幹とした一木支隊。
米軍を甘く見すぎて一晩で全滅。
これが陸軍が米軍に負けた最初の戦闘だった。
以降、日本軍は一度も米軍に勝っていない。
15名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/17 01:47 ID:wedbYSsz
やっぱ海軍でしょ
16牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/17 01:50 ID:XzLkqhyV
>>13
山本は自殺だったと言う説もあるね。
司令官として予定された時間に予定された空域を飛ぶのはあまりに無謀。
日本軍がいかに官僚的だったがわかる。
17佐藤惣之助 ◆fzb6TDvnUA :03/12/17 01:50 ID:pU2cYM6f
>>14
補給艦もやられっぱなしだし
空軍の力を思い知ることに.....
18佐藤惣之助 ◆fzb6TDvnUA :03/12/17 01:55 ID:pU2cYM6f
まぁ田中新一が頑張ってても焼け石に水で南は駄目でしょう
19牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/17 02:03 ID:XzLkqhyV
>>17
海軍は真珠湾から間違っていた。
戦艦よりも石油タンク、クレーン、工場を狙うべきだったのに。
潜水艦も大物戦艦狙い。
陸海とも補給の大切さをわかっていなかった。
田中新一は東条を風呂場で殴ったとか殴らなかったとか。
東条を殴ったところでない袖は振れないのにな。
20佐藤惣之助 ◆fzb6TDvnUA :03/12/17 02:06 ID:pU2cYM6f
>>19
日独伊三国同盟により英米不可分論へ転換したのが良くなかった...
と、言うか遡ればきりが無いですね
21名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/17 02:10 ID:j7PmDLoC
>>20
スレ違いで恐縮だが、君は新宿の年末オフ会には行くのかね?
22佐藤惣之助 ◆fzb6TDvnUA :03/12/17 02:12 ID:pU2cYM6f
>>21
いかねぇよ
23牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/17 02:14 ID:XzLkqhyV
佐藤はいい奴だな。今度酒保でアンパンとサイダーをおごろう。
24名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/17 04:24 ID:IoOj7NdH
第7師団が最強。

第7師団>>>>>>>>その他
25ハイスペ郡山 ◆WOiG.Pz7Ls :03/12/17 06:53 ID:xXKtoU92
東北が生み出した将軍、石原莞爾を忘れちゃいかんね。
彼は満州に理想の国(地域)を作ろうとした。
要するに軍事とお国自慢の融合だよ。

ここの住民は彼を見習うべきww


26名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/17 07:24 ID:TMOlYCpS
日清戦争の為に駅まで行軍した7連隊は途中
日射病などで3人死亡、約半数が倒れたらしいな。
27名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/17 08:01 ID:IoOj7NdH
古今問わず、第7師団が最強ですが何か?
28牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/17 23:41 ID:f+hyWIus
>>27
第7師団は屯田兵を母体としてできた師団だ。
明治大正のころは北海道の人口が少なくて北海道だけでは兵員がまかなえず、
東北関東からも徴募した。
日露戦争では203高地の攻略戦に参加したが、その後は目立った戦績はない。
余談だが一木支隊がガダルカナルで全滅した直後、
旭川の駐屯地に行進して兵営に入る兵隊の一団が目撃された。
衛兵は敬礼で迎えたが、いつの間にか消えてしまったと言う。
兵隊たちは一木支隊が霊魂となって帰還したと噂されて
今でも旭川の自衛隊駐屯地で目撃されることがあるらしい。
29千葉ピアリ ◆3s0qdGekaw :03/12/17 23:57 ID:3ImR3zCq
良く知らないけど、高崎連隊バンザーイ。
30牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/18 00:02 ID:PM8a2L4p
大戦中の第7師団は他に比べると運がいい師団だともいえるな。
手痛い敗北を喫したのは一木支隊だけで、
師団の基幹は北海道防衛のために国内に留まった。そのため損害軽微。
一番悲惨な師団はニューギニアに投入された第20師団かな。
師団総員約25500人のうち終戦で帰還したのはわずか785人だった。
31名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/18 00:06 ID:N162bENi
どこの県民が一番不運なところにいかされたのですか?
逆にラッキーだったのは?
32いなべ市民 ◆C/C6MfHVeE :03/12/18 00:08 ID:GA95NXbl
板違い。クソスレ立てる>>1は汲み取り便所で溺死しろ!

http://academy2.2ch.net/history/
33牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/18 00:13 ID:PM8a2L4p
偶然に30が31の答えになっていた。
悲惨な第20師団の編成地は朝鮮。
でも、兵隊は朝鮮人じゃなくて内地人、主に東北人で編成された。
34牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/18 00:46 ID:PM8a2L4p
>>29
高崎連隊は精強で有名だ。
つーか、北関東の高崎宇都宮水戸は全部強くて激戦に投入された。
インパール作戦でも中核を担っていたぞ。
35佐藤惣之助 ◆fzb6TDvnUA :03/12/18 01:27 ID:cgMoqEy8
常設師団の軍戦備自体はあまり差がないようですね
36佐藤惣之助 ◆fzb6TDvnUA :03/12/18 01:35 ID:cgMoqEy8
第25軍の第5師団なんかは陸軍師団の精鋭らしいが
37牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/18 01:42 ID:PM8a2L4p
>>35
満州事変前くらいまではね。
兵員の質もすべて甲種合格者ばかりだったから兵自体が強かった。
常設師団一個で大戦中に動員された師団の三個分の兵力差が
あったと言われたようだ。
38佐藤惣之助 ◆fzb6TDvnUA :03/12/18 01:51 ID:cgMoqEy8
近衛師団なんてどうですか?
なかなかのようですが
39佐藤惣之助 ◆fzb6TDvnUA :03/12/18 01:57 ID:cgMoqEy8
ビルマ作戦やマレー作戦はもういい
疲れた
40牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/18 02:00 ID:PM8a2L4p
25軍は山下中将率いるマレー・シンガポール攻略戦の印象があるからだろ。
まだ、戦争の初期だったから英軍は植民地兵で装備も貧弱だった。
チャリンコの移動で機動性が増したなんてのは
トラック飛行機主体の当時では恥ずかしい。
その後の英軍は機動性を生かしアドミンボックスなどの新戦法で
旧態依然の日本軍を打ち負かした。
38式かついで銃剣突撃白兵戦の日本軍じゃ兵が強くても勝てる訳がない。
広島の第5師団の最後の師団長は終戦後兵の復員のめどがたつと自決した。
責任も取らずに逃げ回った師団長が多い中でこの態度は立派だと思うよ。
41牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/18 02:06 ID:PM8a2L4p
>>38
近衛師団は別格だろ。
兵隊は全国から選ばれた精鋭ぞろい。
やはり25軍に属してマレー戦にも参加した。
近衛に入れば家族の誉れ。その割には激戦地に配属されてないな。
近衛が玉砕しちゃ全軍の士気にかかわるって配慮があったのかな。
42名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/18 02:08 ID:iOEFi2Dp
最弱は8連隊であると昔から決まっている。
43牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/18 02:11 ID:PM8a2L4p
>>42
8じゃなくて9だろ。
8は鉄火場から来た奴も多そうだしな。
44佐藤惣之助 ◆fzb6TDvnUA :03/12/18 02:12 ID:cgMoqEy8
近衛師団は自動車化と機械化進んでたみたいですね
タイ進攻時だと600弱のトラックがあったみたいです
45牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/19 01:01 ID:DKc0UEiQ
>>44
師団一個あたりの馬の数は8000頭だったらしい。
重機関銃一丁運ぶのに馬は予備を含めて5頭。
弾薬は540発入り箱を4箱が馬一頭分の運搬量。
でも、老馬も多く定量どおり運べる馬は少なかった。
北の師団が強く、都会より田舎の師団が強いと言われたのは
屈強な馬を調達しやすかったということと関係あるのかな。


46名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/19 02:31 ID:tXEYj/S6
16師団は最弱と言われ、
南京事件では支那の捏造で極悪になってる。
可哀想だな。
47牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/20 00:01 ID:keen239o
>>46
レイテのリモン峠で第1師団が苦戦しているとき、
35軍司令部はリモン峠に増援を決定。
その増援部隊が16師団と聞いたとき1師団の兵はがっかりしたという。
「お公家さんに何ができるか」ってね。
48名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/21 17:42 ID:m1wfjE4a
ハケ?゛
49牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/21 17:53 ID:7R4sETdc
>>48
軍人さんは炎天下で鉄兜かぶって演習だからハゲが多かったのかな?
詳しいことはわからん。
50名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/21 18:54 ID:FO468GUA
>6
>8
細かい話で失礼だけど、

第12は小倉で編成後、久留米に移転。
第13は高田で編成後、軍縮で廃止。のち再編成。
第15は豊橋で編成後、軍縮で廃止。のち再編成。
第17は岡山で編成後、軍縮で廃止。のち再編成。
第18は久留米で編成後、軍縮で廃止。久留米には小倉師団が移転。

軍縮は言わずとしれた宇垣軍縮。また、日本にスキーを伝えたレルヒ少佐が訪れたのは高田師団。
51上京東北人UNorthEast-Wave ◆M.pJIKVXok :03/12/21 23:59 ID:+xpxoPOa
>>50
レルヒ少佐は北海道にも来て教えてる。最初は北海道??
北海道で記念像見たけど昔はストックが1本だったみたいだね。
52薩摩隼人 :03/12/22 00:01 ID:SSDonPl8
東郷平八郎はどげんでつか
53名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/22 01:08 ID:xsa7Z8GK
>52
スレタイでは陸軍だから、海軍はスレ違い
陸軍は本籍地主義ってのがあるから、お国自慢できるが
海軍はそんなもの無いから板違い。
無論郷土の偉人として自慢する分には何の問題も無いとは思う。
54名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/22 01:11 ID:7/W+Klls
牛沼大尉はお休みでありますか?
55上京東北人ファイヤ- ◆VfeH1ZotOk :03/12/22 16:25 ID:BhNpMkJC
日本陸軍弾道方程式上げ
56牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/22 17:42 ID:mUvBzwO3
>>52
日露戦争で東郷に匹敵する陸軍の英雄は乃木とされているけどあれは間違い。
乃木は作戦指導におてはむしろ無能で長州閥の軍人として薩摩の東郷に対比される
人物として祭り上げられたにすぎない。
陸軍もやはり薩摩の軍人の活躍が目立った。
第1軍司令官で奉天攻略を成功させた黒木為髑蜿ォは鹿児島の加治屋町出身で
東郷とは幼馴染だ。二人は子供の頃から戦争ごっこで遊んだ仲だったという。
加治屋町には他に大山巌中将がいて鹿児島の小さな町から東郷、黒木、大山と
同じ時期に3人の将軍を出した。思えばすごい町だな。

57牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/22 17:48 ID:mUvBzwO3
>>50
大正軍縮で廃止された4個師団のことはスペース関係で書かなかった。
軍縮以前は20個師団体制で上ににあげた18個師団のほかに朝鮮で編成された
2個師団があったけどこれも省略した。
師団の編成は大体昭和初年の頃のものと思ってくれ。

58牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/22 17:51 ID:mUvBzwO3
>>55
弾道方程式はナポレオンのが有名だけど帝国陸軍にも独自の方程式があったのか?
方程式は世界共通だと思うが。

59上京東北人ファイヤ- ◆VfeH1ZotOk :03/12/22 18:24 ID:BhNpMkJC
>>58
ナポレオンのは有名だよね。日本陸軍のは今度調べてみるよ。
航空戦になってから弾道方程式の様相が変わってそうだし。
60上京東北人ファイヤ- ◆VfeH1ZotOk :03/12/22 18:32 ID:BhNpMkJC
有名な米軍の2次大戦中の弾道方程式等計算用のコンピュ-タ
http://www.library.upenn.edu/exhibits/rbm/mauchly/jwmintro.html

日本軍は手計算だったかもなあ。

こちらは戦車の弾道方程式
http://www.bekkoame.ne.jp/~bandaru/deta0221.htm

物理の世界だね。
61名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/22 20:38 ID:vYsk77cw
茨城人ですが、水戸の連隊は活躍してたのでしょうか?
ご存知の方おしえれ
62牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/23 01:04 ID:DcikOoRw
水戸連隊だとまず14師団隷下の第2連隊。
東京の第1連隊に続く若い番号の連隊だ。
この連隊は米軍が4日で占領予定だったペリリュ−島で70日間持ちこたえた後に玉砕した。
33師団隷下の隷下の213連隊はインパール作戦に参加し、
インパールまで20キロと迫った部隊だったが補給が続かず戦闘死より餓死者を
多く出して撤退した部隊。
その他に目立ったところではニューギニアで壊滅した41師団隷下の237連隊。
同じくニューギニアに投入される予定だったが海上輸送中に空爆を受けて、
上陸前に兵員装備を半減させた51師団隷下の102連隊がある。
こうしてみると悲劇的な部隊ばかりだけど太平洋戦が悲劇だったので
悲惨だったのは水戸の連隊ばかりじゃないよ。
63名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/23 17:54 ID:nkXfNTdO
>>62
61です。ありがとうございます。
そこいらをへこへこ歩いている爺様が、ニューギニアとかインパールとかきつーい所で戦っていたと思いますと感慨深いものかあります。
初歩的な疑問で申し訳ないのですが、62さんのレスに、2、213、237、102と各連隊が出ていますが茨城県人だけで頭数をそろえたのですか?
64牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/24 22:33 ID:1Bgd5Ovf
>>63
本籍地のある県の連隊に行くのが普通だ。
茨城は人口が多いから水戸連隊は100%茨城人だろ。
但し、士官は士官学校を出ると全国に赴任するので出身地は関係ない。
そういえば、夏目漱石は徴兵逃れのためにまだ徴兵制が敷かれてなかった
北海道に本籍を移し、籍を送ったから送籍→漱石になったという説が出ていたが、
珍説の臭いがするなあ。

65名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/25 02:06 ID:eZDR07xv
http://www02.so-net.ne.jp/~muraji/

http://www.maromaro.com/

http://www7.ocn.ne.jp/~zerosiki/

戦術・戦略関係の書評ならここらへんだね
66名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/25 02:08 ID:Jvp8wbNS
結局はルーズベルト、チャーチル、スターリン、トゥルーマン
に踊らされていただけの日本軍。
語るほどのレヴェルではないのでは・・・
67佐藤惣之助 ◆fzb6TDvnUA :03/12/25 02:09 ID:RSjLN7al
師団とは違うが東条英機(東京都)なんてどうですかねぇ
天才だとは思いますが.....
68牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/25 02:15 ID:3TfKyZ7Z
軍記物でお勧めは
五味川純平「ノモンハン」「ガダルカナル」
大岡昇平「レイテ戦機」
半藤一利「遠い島ガダルカナル」
高木俊朗「インパール」三部作 「陸軍特別航空隊」
戸部良一他「失敗の本質」
日露戦争だど
司馬遼太郎「坂の上の雲」も面白い
69佐藤惣之助 ◆fzb6TDvnUA :03/12/25 02:16 ID:RSjLN7al
>>66
私はドイツに踊らされたと思ってますが....
まぁ運命だったとしか
70牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/25 02:18 ID:3TfKyZ7Z
>>66
戦略論ではそうとも言えるけど、
このスレでは個々の戦闘で奮戦した郷土の師団の自慢をしたい。
71牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/25 02:23 ID:3TfKyZ7Z
>>67
町内のゴミ箱を視察したりして庶民には人気があったようだな。
ただ、日本のトップにいながら日本の現実がわかってなかったのは致命的だろ。
サイパンでは本気で資材を送り防衛も完璧だから
絶対に勝つと言っておきながらあっさり負けた。
大局的な戦略眼に欠けるところがあると思う。
72佐藤惣之助 ◆fzb6TDvnUA :03/12/25 02:24 ID:RSjLN7al
>>62
ひぃぃぃぃ!!なところですね

73佐藤惣之助 ◆fzb6TDvnUA :03/12/25 02:44 ID:RSjLN7al
>>71
日本の現実
これが、一番難しいですねぇ
74名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/25 07:00 ID:55vazMJ4
豊橋で誕生して静岡へ移転し、戦後は御殿場へ自衛隊として移転した第34連隊
みたいな連隊は他にもあるのでありますか?
75牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/26 00:01 ID:3FOAasV6
>>74
記憶違いじゃなければ豊橋の34連隊は地元の警察と対立して
一時武力衝突までいきそうになった部隊じゃなかったかな。
そういう経緯で移転したのかもしれない。
また、自衛隊の連隊とは敗戦時に陸軍は解体してチャラになったので
連隊番号が同じでも直接の関係はない。
76コリャッチ ◆J6/iR0ga2s :03/12/26 00:05 ID:iDOf8ip5
>>75
旧軍出身者は多かったけどな。
77牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/26 00:23 ID:3FOAasV6
>>76
韓国軍も旧軍出身者は多かったな。
朝鮮戦争当時は参謀長、師団長クラスから下士官まで旧軍出身者で
号令も日本語だったそうな。
だから今でも韓国軍の内務班は旧陸軍的な教育がなされているらしい。
旧軍の伝統を色濃く残しているのは自衛隊よりむしろ韓国軍だったりして。
78コリャッチ ◆J6/iR0ga2s :03/12/26 00:24 ID:iDOf8ip5
日本残酷物語(宮本常一等共著)に書いてあったが、岩手県では兵役甲種合格者が多かったらしい。
当時甲種合格は名誉とされていた。
当時の岩手県の山奥の小学生は、弁当を数個持って行くものがいた。
通学に何時間かけて歩くから、途中で腹が減るのだ。

脅威的な体力を持っていたのは言うまでもない。
東北に多かったこういった環境が強い兵隊を生む土壌だったのでしょう。

79コリャッチ ◆J6/iR0ga2s :03/12/26 00:25 ID:iDOf8ip5
>>77
韓国もそうだよね。

そういや有名な韓国軍のある将軍は未だに生きてるよ。名前忘れたが。
雑誌に載ってたが日本語ペラペラだったらしい。
80牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/26 00:36 ID:3FOAasV6
>>79
白善Y氏のことだろ。
朝鮮戦争当時の韓国軍第1師団長から第1軍団長になった人。
3年位前に「若き将軍の朝鮮戦争」という本を日本でも出版した。
1920年生まれだから朝鮮戦争当時は35歳か。
これより上の世代だと朝鮮人は日本軍の士官学校に入るのは難しかったから
この若さで中将にまでなれたんだろうな。
81石川二等兵:03/12/26 00:37 ID:J7kNNGlp
牛沼大尉殿教えて頂きたいことがあります!
私の叔父はガダルカナルの生き残りでありますが、第二連隊の生存率はどのくらい
の割合であったのでしょうか?母の話だと終戦後は戦争の話は絶対のタブーであった
とのことで、余程辛い経験のようだったと聞きました、戦前は優しい兄だったが
帰還後は人が変わった様に無口になったとも聞いてます、激戦地だったと聞いた
事はあるのですが、人格が変わる程の戦地とは・・・私には想像もつきません。
82コリャッチ ◆J6/iR0ga2s :03/12/26 00:38 ID:iDOf8ip5
戦争物で言えば

戦艦大和ノ最期  吉田満著

はオススメ。戦争物好きな人には必読だと思う。
カタカナ多いけど昔風で味があってよろしい。
大和が沈んで、他の船で助かろうとする仲間の手を刀で切った話とか出てくる。
まあこれは仕方無かったのだろうね。
83依報 ◆3T2r2Yh6iY :03/12/26 00:39 ID:l6VgBDoK
牛沼詳しいな。
軍国少年?
84コリャッチ ◆J6/iR0ga2s :03/12/26 00:40 ID:iDOf8ip5
>>80
そうそう。その人
85牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/26 01:01 ID:3FOAasV6
>>81
おれはクーミン軍団の参謀長だ。
通常、軍参謀は中将だ。大尉とは失礼だぞ。
ガダルカナルは第2連隊じゃなくて第2師団だろ。
東北健児の第2師団はガダルカナルの第3次攻撃に参加して大損害を受けた。
師団は3個連隊編成だが2人の連隊長が戦死。
師団のナンバー3である兵団長までもが戦死した。
その後、ジャングルに入ってゲリラ化したが
そのときに餓死で死んだ兵も多かった。
最終的には大本営の撤退作戦が成功して脱出できたが、
損耗率は80パーセントを超える全滅状態。
ガダルカナルから帰った兵士は敗戦を隠すために口外禁止の上
再度激戦地に行かされた。
叔父さんも相当辛い目に遭っていると思うよ。
>>82
それ未読だ。新東宝で作られた映画は見たことあるけどね。
>>83
歴史少年だ。すべての日本歴史に精通することを目指している。



86依報 ◆3T2r2Yh6iY :03/12/26 01:05 ID:l6VgBDoK
>歴史少年だ。すべての日本歴史に精通することを目指している。

そうか。母方の祖父はシンガポールで戦死
父方の爺ちゃんは、呉から上海に渡って帰還兵

太平洋戦争って、何だったんですか?
87佐藤惣之助 ◆fzb6TDvnUA :03/12/26 01:09 ID:2yadhc/H
>>85
>ガダルカナルから帰った兵士は敗戦を隠すために口外禁止の上
再度激戦地に行かされた。

たしかに転進という発表だったような


うちの爺さんは広島から原爆投下の2日前に門司へ行かされたらしい
幸運すぎる
88名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/26 01:09 ID:Z6nxCvbD
>>79
あの世代の朝鮮人ならだれでも日本語ぺらぺらだ罠
89牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/26 01:10 ID:3FOAasV6
>太平洋戦争って、何だったんですか?

こういう質問が一番難しい。おれにもわからん。

うちの伯父さんは戦争で片目失って恩給もらっている。
無職なのに三階建の家建てた。
90依報 ◆3T2r2Yh6iY :03/12/26 01:12 ID:l6VgBDoK
>こういう質問が一番難しい。おれにもわからん。

な。史学ってのは、漏れは全然知らない世界なんだけど
事実を客観的に明らかにしようと思っても
結局イデオロギーの表明になっちゃうと思わない?
91佐藤惣之助 ◆fzb6TDvnUA :03/12/26 01:13 ID:2yadhc/H
>>89
恩給凄過ぎ

大東亜戦争と太平洋戦争は別で考えたほうがいいのでしょうか?
92名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/26 01:13 ID:BYvrVZ1D
日本残酷物語って巻が進めば左翼チックになるけど面白いよね。
特に最初の2巻は。

牛沼さんは読んだ事ある?
93牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/26 01:24 ID:3FOAasV6
>>90
文学の研究でも生きている作家については
よほどのカリスマ性がなければ研究対象とはなりにくい。
歴史でもその出来事にに直面した人が生きているうちは研究対象とは
なりえないし本当の客観的な「歴史」とはならないような気がする。
何百年前の出来事なら例えば、信長はミクロで見れば単なる虐殺者だが
マクロで見れば革命児ともいえる。
歴史にイデオロギー色がなくなるのには少なくても100年は待つ必要がある。
>>92
ごめん未読だよ。世の中には読むべき本が多すぎる。
94名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/26 01:28 ID:qA2PGrVG
日本残酷物語って結構有名だよね。

でも牛沼氏は本の名前くらい知ってたでしょ?

95依報 ◆3T2r2Yh6iY :03/12/26 01:30 ID:l6VgBDoK
>>93
100年経っても、秀吉の朝鮮出兵とか
国王を名乗った足利のナントカとかは
やっぱり評価がわかれる罠
96佐藤惣之助 ◆fzb6TDvnUA :03/12/26 01:30 ID:2yadhc/H
染まりそうな本は避けてます
読むべきですかねぇ
97牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/26 01:32 ID:3FOAasV6
>>91
必然の結果だろうな。
明治政府が富国強兵をはじめたとき。
もっと言えば19世紀半ばに維新が起きたとき。
16世紀に江戸幕府が鎖国をはじめて外国情報を遮断したとき。
ヨーロッパで大航海時代に覇権争いが生じたとき。
これらの線がすべてつながって太平洋戦争に至った。

そんな大きな括りじゃなく小さな括りだと政治的には同一の物。
戦争の仕方、兵器については別物だろうな。

98コリャッチ ◆J6/iR0ga2s :03/12/26 01:36 ID:iDOf8ip5
>>92
民俗学の本だからね。
99依報 ◆3T2r2Yh6iY :03/12/26 01:38 ID:l6VgBDoK
しかし、必然ではない歴史なんてあるんだろうか?
100千種区民 ◆z.BeTZShyM :03/12/26 01:40 ID:qKeykO4e
>>99
ゴア元副大統領がブッシュ大統領に負けたのも歴史の必然だったのですかね…
101依報 ◆3T2r2Yh6iY :03/12/26 01:41 ID:l6VgBDoK
ああ、それは偶然か
102牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/26 01:45 ID:3FOAasV6
>>94
民俗学だとどうしても柳田、折口に頼ってしまうからな。
せめて「忘れられた日本人」くらいは読まないとな。
>>95
日本の歴史学はランケの歴史学を範としているから
本来は客観的な立場にないといかんのだがな。
義満の「日本国王源」の署名についても将軍の権力を示す客観的な事実として
受け止めるべきだし、朝鮮出兵も事の良し悪しは別にして当時の日本の国力と
国内事情を知る手がかりとして見るべきだろう。
103牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/26 01:47 ID:3FOAasV6
言い忘れたが歴史にイデオロギーを持ち出すと第二の皇国史観になる。
104千種区民 ◆z.BeTZShyM :03/12/26 01:48 ID:qKeykO4e
>>102
思想を持っている人間が客観的に歴史を編纂する事ができるのでしょうか?
歴史を考えるのは難しいですね…
105千種区民 ◆z.BeTZShyM :03/12/26 01:50 ID:qKeykO4e
>>103
ああ…正しく眼から鱗が落ちました。
106:03/12/26 01:50 ID:y+RLOGRy
侵略戦争を美化するこんなスレ中止だ!とガソリンで火をつけるのだ
107コリャッチ ◆J6/iR0ga2s :03/12/26 01:52 ID:iDOf8ip5
そういや米本土の油田とオーストラリア本土の港ポートダーウイン
を攻めた連中は大した冒険家だなw
108依報 ◆3T2r2Yh6iY :03/12/26 01:57 ID:l6VgBDoK
しかし、「先制攻撃も自衛」と宣言したブッシュさんは
歴史の新たなページを開いたと思いませんか?
109コリャッチ ◆J6/iR0ga2s :03/12/26 01:58 ID:iDOf8ip5
孫子の兵法はアメリカ軍も大好きだからねえ。
110コリャッチ ◆J6/iR0ga2s :03/12/26 02:00 ID:iDOf8ip5
ていうか孫子の兵法って戦略・戦術学では必読か
111牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/26 23:45 ID:EwvpS5B0
>>110
孫子は個々の戦闘の戦術論。戦略論はクラウゼヴィッツだ。
陸軍は孫子もクラウゼヴィッツも忘れて戦っていた。
勝てるわけねえよ。
112名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/26 23:53 ID:U9B81bx1
>>230
>宮城交通と名鉄のボディカラーが似ているが何か関係があるのかな?

なんて言ってる時点でオマエはただの素人なんだよ!!
このボケ プ
113牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/26 23:57 ID:EwvpS5B0
誤爆は軍法会議だな。
114名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/27 00:01 ID:peVbNDIb
>>113
すいません。

懲役ものだね。恩賜の軍刀返します。
115佐藤惣之助 ◆fzb6TDvnUA :03/12/27 01:30 ID:WaWXcS9H
必然・・・。

日本はバスに乗り遅れたほうがよかったんですかねぇ

米英可分論と不可分論では結果が違ったような気が・・・・

ドイツの南進も阻止しなければならないのもありますが・・・・
116佐藤惣之助 ◆fzb6TDvnUA :03/12/27 01:31 ID:WaWXcS9H
まぁ負けてたでしょうが
117牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/27 01:43 ID:OjoiP0nO
何かの本で読んだけど、
日露戦争を戦った政治家や軍人は自分の手で維新を達成し、
明治の国作りをしたから日本の国力をよくわかっていた。
だから日露戦争で連戦連勝しても限界点を知っていたので講和をした。
ところがその後の世代は自分の手で国作りをしていない。
無敵関東軍と持てはやされて中国で連戦連勝しても
いつかは限界が来るということがわかってなかった。
自分の身の丈に合ったところでやめておけば歴史は変わったかもね。
118名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/27 01:49 ID:lQJm0c0O
最強と呼ばれた師団
第6師団(熊本)定番。赤鬼部隊。強襲師団。永く日本最強と呼ばれた。
第2師団(仙台)夜襲の勇兵団。世界戦史に名高い。満州事変ガダルカナルで活躍。
     第6師団と共に最強と呼ばれた。
第18師団(久留米)太平洋戦争期ではこれが最強か。音に聞こえし菊兵団。
第56師団(久留米)チャーチル蒋介石から世界最強と絶賛。一兵残らず玉砕する
     凄まじさ。
第14師団(宇都宮)オレンジビーチ。海がアメリカ兵の血でオレンジに染まったという・・。
119佐藤惣之助 ◆fzb6TDvnUA :03/12/27 01:50 ID:WaWXcS9H
日本が中国進出すらしなかったら
毛沢東は......

こればっかりは過ぎたことなんで.....
120佐藤惣之助 ◆fzb6TDvnUA :03/12/27 01:56 ID:WaWXcS9H
各師団の装備に余り差がなかった(自動車化の有無は別)ようですが
士気に差があったんだすかねぇ
121佐藤惣之助 ◆fzb6TDvnUA :03/12/27 01:58 ID:WaWXcS9H
戦地によって激戦具合も違うし
後に美談?になったならないもありますが
122牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/27 02:03 ID:OjoiP0nO
>>118
おおむね賛成だけど、第18師団(菊)はどうかな?
ビルマじゃ英印軍を包囲しながらアドミンボックスにやられて
包囲側が全滅の危機に瀕した。
師団長はあの牟田口のあとは大本営から左遷された田中新一。
高級参謀はあの辻政信だ。
牟田口は補給無視のジンギスカン戦法。
田中、辻コンビは優位な敵にたいしては猪突猛進するけど、
新戦法を用いられるととたんに手も足も出なくなる。
陸軍としては優秀な人材として派遣したんだろうけどね。
123牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/27 02:08 ID:OjoiP0nO
>>120
満州事変以後に出来た師団は乙種丙種合格者もいただろうし、
士官も徴兵で幹候あがり。
兵隊の質が違うんだろうね。
124名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/27 02:12 ID:lQJm0c0O
>>122
どうだろ。菊は最強との評価は当時からあったみたいだし勇や安なんかも
ビルマ戦線では菊ほどの戦い振りをすることは出来なかった。
ミートキーナでの玉砕戦のような戦いは余程の強兵でないと為しえない。
125名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/27 02:14 ID:trgvCFa3
>>78
トーホグは強そうだなww

126名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/27 02:17 ID:VfffqAKo
1部の戦い振りだけでは判断できないでしょ
127牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/27 02:20 ID:OjoiP0nO
>>124
師団の強さは指揮官にも左右されるって言いたかったんだよ。
硫黄島の第109師団のように三桁の師団でも
指揮官が優秀なら奮戦できるってことだ。
128名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/27 02:23 ID:V98ptbXi
師団の戦歴を見ないと判断は出来ないよね。

東北にある自衛隊の6・9師団は今だに隊員のレベルが高いらしい。
同じく出身者も。

東北人って真面目なんだろうね。

129牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/27 02:26 ID:OjoiP0nO
>>128
九州出身の自衛官は先祖代々軍人という家が多いそうだな。
武人の誇りって奴か。
130名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/27 02:26 ID:V98ptbXi
日本軍は将校クラスと軍曹クラスの能力に階級並みの大差は無い。
指揮官が駄目なのは世界的に有名。逆に軍曹クラス以下が優秀だった。
131名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/27 02:28 ID:V98ptbXi
>>129
自衛官多いってね。九州。
警察は鹿児島も。

多分職が無いのと昔からの伝統が合わさってるのでしょう。
132名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/27 02:29 ID:1ANlaPBp
熊本師団有名だけどなんで?
133名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/27 02:45 ID:6rlL3bNE
防大の合格者を高校別に見るとベスト3くらいまで
九州の学校になるんじゃないかな?
134牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/27 02:45 ID:OjoiP0nO
>>130
日本の将校は官僚だからな。作戦も前例踏襲主義で新しい戦法は取らない。
新しい戦法で失敗すると責任を取らされると思っている。
それで攻撃はいつも迂回して銃剣突撃一本槍。
アメリカ軍にワンパターンがばれて待ち伏せされても戦法は変えない。
それと日本軍がついに自動小銃を正式採用しなかったのは
自動小銃だと弾を撃ちすぎて予算が追いつかないという官僚的な考えが
あったという説もある。
>>132
熊本鎮台から続く伝統ある師団だからだ。
西南、日清、日露、満州事変と日本の戦争のすべてに主力として参加して負け知らず。
太平洋じゃ負け続けたけどね。
135名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/27 02:55 ID:6rlL3bNE
>131
維新で失業した士族達が元勲を頼って世話して貰ったのが
軍や警察だったというのが大きな理由でもある。
136名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/27 03:18 ID:1ANlaPBp
北部九州の兵は凶暴で南九州の兵は命知らずで東北兵は従順で粘り強かったらしいね
137名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/27 03:36 ID:G0ZCWVhN
斥候には関西の部隊、攻撃は九州のの部隊、防衛は東北の部隊が向いていたとか。
138名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/27 04:12 ID:lQJm0c0O
>斥候には関西の部隊、攻撃は九州のの部隊、防衛は東北の部隊が向いていたとか
斥候に東北の部隊、攻撃に関西の部隊なら大変な事態に!
139名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/27 04:13 ID:lQJm0c0O
斥候に東北の部隊、攻撃に関西の部隊、補給に九州の部隊、これ最強
140名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/27 09:13 ID:2D7lS6MY
優秀な東北人上げ
141コリャッチ ◆J6/iR0ga2s :03/12/27 09:35 ID:DF8zblRu
軍事物の漫画といえば
どおくまん作の「暴力大将」がかなりお勧めだ。これも面白いからぜひ読んでみてくれ。
昔少年チャンピオンで連載されていた。今の若者は知らないと思うが。

この漫画は兵隊やくざ+成らず者部隊がモデルとなっている。
少年誌にはもったい無い位に深い背景がある。
主人公は関西の少年矯正院出身、太平洋戦争ではコレヒドール攻略線に参加、戦後の最終章では舞台が渋谷に移り
東急VS闇市の戦いが始まるのだ。

ちなみに兵隊やくざとは、本当に日本軍に徴兵された実在した新宿の愚連隊がモデル。
ついでに成らず者部隊も実在したらしい。荒くれ者の懲役等出身者だけをあつめて部隊を
編成したが、統制がとれずボロ負けしたらしいが。
142名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/27 22:14 ID:lQJm0c0O
age
143名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/28 02:15 ID:hn2N5GOD
古今東西を問わず貧乏人に金がかかった装備を与えた時が
一番強い兵ができあがる気がするな
144名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/28 02:17 ID:+kfxIl7t
インパールは久留米の師団だっけ?
145名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/28 02:38 ID:0mEEu53y
>>144
違う。インパールは仙台甲府宇都宮の師団。
久留米の精鋭菊と龍をインパールに投入しておけば勝てたとの評価もある。
146牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/29 14:30 ID:uhOMvBRc
>>145
あと一押しで勝てたとは牟田口が戦後になってほうぼうに言いふらしたことだろ。
国会図書館に保存されていた牟田口のインタビューテープが公開されたけど、
言い訳だらけだったらしい。
宇都宮の弓がインパールまであと10キロのところに迫ったけど、
これは英軍の戦略的撤退に乗せられただけのこと。
補給のない兵団が敵のホームグランドに誘いこまれてぼこぼこにされたってのが実情だ。
大体、飛行機を駆使した立体的な補給をする敵に対して
山羊に物資を運ばせて食料がなくなったら
その山羊を食うという前時代的な補給の発想をする司令部が上にいたんじゃ、
兵がどんなに精鋭でも勝ってこない。
147名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/29 14:38 ID:j60WQgUo
>>146
インドで蜂起が起きなかったのは痛いですよね。

148名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/29 14:51 ID:pzKmFGp6
>>141
懐かしいww 暴力大将

コリャマーは軍物に詳しいな
149コリャッチ ◆J6/iR0ga2s :03/12/29 14:58 ID:QQ6cJfGV
東北2位は郡山でOK

150コリャッチ ◆J6/iR0ga2s :03/12/29 14:59 ID:QQ6cJfGV
やべ、誤爆は軍法会議だ
151コリャッチ ◆J6/iR0ga2s :03/12/29 15:01 ID:QQ6cJfGV
>>148
また読み直してくれ。大人になって読んでも面白い
152コリャッチ ◆J6/iR0ga2s :03/12/29 15:08 ID:Tzw/KXFM
8月15日を過ぎてもソ連と千島で戦っていた北海道の部隊は
まさに郷土の誇りだな。
153名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/29 20:00 ID:lXaOrOZ+
実際にはとうほぐ兵は鈍重で物の役には立たなかったらしい
馬脚をあらわしたのがガダルカナル
154名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/29 21:45 ID:rP81tCjZ
有能な部隊ほど激戦や大事な戦いを任されるからな。

宇都宮と東北何かそうだろ。
155熊本人:03/12/29 22:15 ID:aoVlDkdI
俺の父方の爺さんは、第6師団の砲兵出身。出身は人吉の山のほうだったけど。
満州事変のときは、砲身を背中に担いで満州の山野を歩き回ったというが・・・。
確かに明治38年生まれにしてはデカイ人だったけど、今でも信じられん。
母方の親戚に、五家荘という平家の落人で有名な相当な山奥の出身だったけど、
その1人が近衛師団にいたらしい。左座家といって、菅原道真の子孫を名乗って
いるようだが、これも俄かに信じられない話です。
156熊本人:03/12/29 22:23 ID:aoVlDkdI
>>152 確かにそうだが、しかし終戦後のソ連(スターリン時代)
の醜悪さ、つまり火事場泥棒的に軍事占領したという既成事実の
積み重ねを作りたいゆえに引き起こされた悲劇のように思う。
先日再放送した「映像の世紀20世紀」のヤルタ会談を見ると、
スターリンとともに、ルーズベルトの馬鹿野郎と激しく憤った。
157名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/29 22:28 ID:UC3UD/uP
熊本連隊は鹿児島連隊以上に強敢だったそうだね
158コリャッチ ◆J6/iR0ga2s :03/12/29 22:29 ID:9RsK0w8J
>>156
共産主義を採用した国々は結局国民を何千万も人殺してるからね。
当然ナチスより多い。
日本も当然共産化のターゲットだった。東日本は危なかったなww
159コリャッチ ◆J6/iR0ga2s :03/12/29 22:34 ID:9RsK0w8J
横須賀には幕末の旧幕府軍が作った海軍用の工作機械が
つい最近まで自衛隊で現役で活躍してた。

横須賀人はもっと自慢しろ。これは脅威的だ。
他にも自衛隊には未だに旧軍から使ってる施設が多い。
創生期にはM1小銃とともに日本軍の99式小銃も使っていた。
160牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/30 00:41 ID:JCX3nnEZ
>>153
ガダルカナルで負けたのは作戦が稚拙だったせいだ。
海軍も夜襲に成功したけど狙ったのは巡洋艦などの戦闘艦ばかり。
輸送艦を沈めておけばアメリカ軍は補給がなくなって日本軍に十分勝機はあった。
ちなみにガダルカナルの主任参謀は辻政信。石川県出身だ。
お粗末な作戦で沢山の同胞を殺しておきながら戦後は石川県選出の国会議員。
煽るつもりはないけど石川県民の民度を疑ってしまう。
161名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/30 00:44 ID:1DcZ7aDK
なんか必死だなw
162コリャッチ ◆J6/iR0ga2s :03/12/30 00:47 ID:94nG8r4r
戦後、東南アジアで行方不明になったんだっけ?

辻は
163名無しの歩き方@お腹いっぱい。:03/12/30 00:53 ID:1DcZ7aDK
夜襲は仙台師団のお家芸とガ島でも夜襲を繰り返し全滅したアホですわ
164牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/30 00:56 ID:JCX3nnEZ
>>162
昭和38年に国会議員の身分のままラオスに潜入。
共産勢力に対抗する組織作りが目的だったらしい。
噂によると潜入すぐにゲリラに捕まって殺されたようだ。
165コリャッチ ◆J6/iR0ga2s :03/12/30 00:59 ID:xfR1MFsl
ここにも煽りかよww


>>164
結局は謎のままだったみたいだね。
166牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/30 01:05 ID:JCX3nnEZ
>>163
第2師団が参加したガダルカナルの第3次攻撃は
それまで2回の夜襲失敗に懲りて正々堂々正攻法でいくはずだった。
ところが17軍司令部が上陸してみると米軍の強さは見ると聞くでは大違い。
なめてかかっていた司令部は途端に正攻法の自信をなくした。
それで急遽迂回戦法に変わったが、
その迂回路は第2次攻撃で失敗したコースとほぼ同じ。
これじゃ兵がいくら強くても勝ってこない。
167牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :03/12/30 01:10 ID:JCX3nnEZ
気の毒なのは第3次攻撃失敗のあとに派遣された名古屋の第38師団だろ。
再度の攻撃のためにガ島に派遣されたが、途中で輸送船を沈められて
身一つで上陸。
戦力にならないまま飢えでぼろぼろ。
わざわざ飢えるために上陸したようなもんだ。
168名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/01/13 19:18 ID:zsI/a4hd
みんな詳しいな
169名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/01/14 15:40 ID:REDYopDA
>>159
>幕末の旧幕府軍が作った海軍用の工作機械

について教えてください
170名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/01/27 00:57 ID:9CwYEFCk
このスレ一番最後に落ちてました。
171コリャッチ ◆J6/iR0ga2s :04/01/27 01:05 ID:Ghn8L5cr
>>169
旧幕府軍の海軍か横須賀海軍工廠で調べてみてくれ。
前その話NHKでもやってた。

小栗だったか佐川だったかちょっと忘れた
172 ◆cc9e6gAlMI :04/01/27 22:14 ID:UxpGzc2Q
さげ
173名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/02/08 17:09 ID:rA0N4/xo
さるべーじ
174名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/02/08 19:01 ID:ClcK7btU
うちの近所に鉄道第一連隊があったけどこれは第一師団の隷下なの?
175名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/02/08 22:10 ID:xRVQVUJN
第二師団と第六師団どっちが強いんですかね。
ちなみにおらは東北人なので第二師団びいきです。
176名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/02/08 22:26 ID:FsbhMpFt
>175
守りは東北の師団、攻めは九州の師団と言われるが。
177175:04/02/08 22:54 ID:xRVQVUJN
畑俊六大将の回想
「東北の師団と九州の師団を戦わせて見る。とどちらも強い。しかし、
演習が終わったあと、九州の師団はさっさと帰ってしまったが、
東北の師団は皆で後かたづけをしている」

やっぱり県民性なんでしょうか。律儀というか。
178175:04/02/08 22:55 ID:xRVQVUJN
一行目「とどちらも」は
「どちらも」に訂正。

スマソ
179名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/02/08 23:00 ID:ct1vtiiz
姫路はどうでしたか???
180175:04/02/08 23:18 ID:xRVQVUJN
オラは姫路のことは分がんねぇ。
だすけ「姫路第三十九聯隊史」でも読んでくなんしょ。
181名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/02/10 17:14 ID:K0TxqT0q
広島第五師団の通称号は「鯉」ですが、
広島城が「鯉城」と呼ばれ、野球は「広島カープ」
と、なんだか鯉に関係あるのが多いですね。

182名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/02/10 17:54 ID:jVD73FFm
広島の第五師団と言えば、泣く子も黙る第五師団って中国や南方では悪名高いなw
西日本の陸軍組織を統括する第二総軍司令部も広島に置かれてたし
原爆の標的になったのは仕方ないかもね。
183175:04/02/12 17:42 ID:60CPn7em
最近自衛隊のおかげで「第二師団」だけでは通じなくなってきた。
184aaaaaa:04/02/22 00:55 ID:IJIPsh3x
第五師団長だった今村均氏は、広島師団について
明治以来このように多く戦場にやられた師団は他になく、
いつも赫々たる武勲を立てている。
こんな比類のない戦歴をけがすような事があっては、申訳ないことになる。
南寧攻防戦は「40年に及ぶ長い軍人生活の中で最も苦痛の激戦だった。」
(激突すること40日草根をかじり、弾薬欠乏で石を投げ、竹槍を用い、
敵の死体から武器を求め、血で血を洗う限界を超えた死闘を展開した。)
戦後広島を訪れた同氏は広島の青年たちは、純朴さと文化度の平衡がとれ
つまり「気がきいていてズルくさい」といえよう。
南寧のように一個師団でニ十四個師団を相手にしたのは
支那事変で始めてのことで、
今更ながら「広島人のねばり強さと闘志に感じ入った」と語られた。
185牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/02/22 01:40 ID:BDvN5E8e
おお、このスレがあることを忘れてた。
>>174
鉄道連隊は特殊技能集団だから独立連隊だろ。
新京成の路線が曲がりくねっているのは鉄道連隊の演習線を使ったからなんだよね。

最近知ったがノモンハンは日本の惨敗ではなくてむしろ
ソ連軍の方が戦死者が多かったそうだ。
ノモンハンの主力師団は熊本の23師団。
さすがに九州師団で兵は強いけど指揮官はバカ。
小松原は許しがたい。
186牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/02/22 01:50 ID:BDvN5E8e
>>184
>南寧のように一個師団でニ十四個師団を相手にしたのは
>支那事変で始めてのことで、
>今更ながら「広島人のねばり強さと闘志に感じ入った」と語られた。

中国軍の武器は人海戦術だから日本の一個師団で中国の十個師団を相手に
することはよくあったらしいね。
あのアメリカ軍ですら朝鮮で北朝鮮を追い詰めた時、
目の前にいきなり日本軍の二十個師団に相当する30万の中国軍が現れて
あっという間に戦線は崩壊して釜山まで押し戻されたくらいだからな。
俗に言う、敵の弾よりも兵が多ければ必ず勝てるってことだ。
187名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/02/22 02:24 ID:KDl8m5lV
日本軍の強さっつーのは10倍の中国軍と同じくらいだったんだよ。
問題はこれを米軍を相手にするときもこの比率で作戦を立ててしまったこと。
188名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/02/22 03:08 ID:UH7gEvoj
もし逆に攻撃されるのが真珠湾→単冠湾だったなら、この歴史はどう変わり今に至るのだろうか。ただの素朴な疑問であるが
189名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/02/22 17:46 ID:zaQisoXF

今夜の実況は こちらで

NHKアーカイブス ◆ 二・二六事件 煙突男
http://live8.2ch.net/test/read.cgi/livenhk/1077438324/
190名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/02/22 19:59 ID:qwlySE2a
牛沼の地元土浦は海軍の大将が出ているぞ。

海大学長、第二南遣艦隊司令長官、第二遣支艦隊司令長官、第一艦隊司令長官
第四艦隊司令長官、第五艦隊司令長官、南西方面艦隊司令長官歴任の高須四郎。
191名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/02/22 22:44 ID:AievAg1T

今夜の実況は こちらで

NHKアーカイブス ◆ 二・二六事件 煙突男
http://live8.2ch.net/test/read.cgi/livenhk/1077438324/
192niigataラヴ:04/02/22 23:52 ID:WCnGptMf
牛沼とかいう糞固定の
主観さえなけりゃァ良スレ認定してやったのによ(ゲェラ
193牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/02/23 23:23 ID:KzxpW17M
>>190
近所の寺に忠魂碑があり海軍少将○○○○と揮毫者の名が彫ってあった。
聞いた事のない名前で今は名前自体忘れてしまったが
恐らく地元と関係の深い海軍少将なのだろう。
海軍に関しては10年程前に「歴史と旅」の別冊として出た
「帝国海軍将軍総覧」という本を持っていたがどこかに埋もれてしまった。
持ってる奴いるかな?
海軍は真珠湾からマリアナまで語り尽くされている感があるしなあ。
>>192
お前も郷土の英雄山本五十六元帥について語ってもいいぞ。

194コリャッチ ◆J6/iR0ga2s :04/02/23 23:32 ID:b0AWwOtz
霞ヶ浦から山本五十六の大きな銅像の半分が出てきて引き上げられたそうだ。
新潟のTVも取材にきたらしい。

一昨年だったかな?いつかは忘れたが最近の話だ。
195みなと鉄道:04/02/23 23:54 ID:xeK52ikl
またも負けたか八連隊、これでは勲章九連隊!!!!!!!!!!!!11
私の住む兵庫県伊丹市には陸上自衛隊の駐屯地と中部方面総監部がありますが、今でも弱いのでしょうかね?

掲示板荒らしとして関西鉄道掲示板界にその名を知られる「みなと鉄道」(矢野信吾)は
就職を機に鉄道掲示板界引退を表明するも、「ズンベロドコンチョ」として掲示板に復帰。
数々の極悪違法行為を反省することなく、今日も掲示板を荒らし続けている。

みな鉄資料館 http://f4.aaacafe.ne.jp/~storm/
元駅長室 http://jbbs.shitaraba.com/auto/586/
みな鉄掲示板 http://6110.teacup.com/minato/bbs
みな鉄HP http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/6689/
みな鉄スレ http://hobby3.2ch.net/test/read.cgi/train/1073717022/
daily ウォガ!◆dailyTVyk2 ホームページ http://p7.aaacafe.ne.jp/~woga/
画像掲示板 http://p7.aaacafe.ne.jp/~woga/imgboard2/imgboard.php
みなど鉄道掲示板 http://6015.teacup.com/minado/bbs
196名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/02/24 17:03 ID:medl/vFx
良スレあげ



197名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/02/26 01:21 ID:aolMG4g1
ノモンハン当時の23師団は
64連隊熊本、71連隊広島、72連隊久留米編成
71連隊は(第1大隊福山、第2大隊浜田、第3大隊山口、連隊本部広島)
生存者は、敗北でも引き分けでもない相撃ちだと言う。
戦後ソ連国防相となったジェーコフ軍団長は、
将軍の過去最も苦しい戦闘はどこかの質問にノモンハンと言った。
ソ蒙地上軍は激戦中でも日本軍の遺体を埋め、草花まで供するなど余力を見せた。
小松原師団長は、ソ連通だったそうだが、
首脳部や幕僚間ではソ連軽視が大半を占めていたらしい。
198名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/02/26 01:42 ID:vOTmZSXj
終戦時の近衛師団長は部下に射殺されました。
合掌。
199牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/02/26 23:18 ID:uAa3g/4T
中国軍が弱すぎたから無敵関東軍なんて伝説ができた。
大戦初期も装備もままならない米英の植民地軍相手だったから
バターンでもマレーでも勝ってますますのぼせ上がってしまった。
それで軍首脳が戦争を舐めた。
確かに個々の兵は粘りがあって命令にも従順だが
首脳が無能すぎた。
結局日本軍は身体は健康だがおつむが弱い大男のような軍隊になってしまった。

そういえば、今日は2.26だが反乱軍の将校たちもおつむは弱いような…。
大局観がなくて行き当たりばったりなんだよな。
200佐藤惣之助 ◆fzb6TDvnUA :04/02/26 23:22 ID:W3aheWGM

長期にわたる徳川家の愚政のせいで

アメリカ戦争しなきゃならなかったと

書き込んだら

三河人に怒られたWWW
2012.26事件:04/02/27 00:41 ID:EaiEI5XI

岡田啓介首相(海軍大将)・・・無傷 (護衛官3人死亡)
高橋是清大蔵大臣・・・殺害
斉藤実内大臣(海軍大将)・・・殺害 夫人も負傷
鈴木貫太郎侍従長(海軍大将)・・・瀕死の重傷→回復
渡辺錠太郎教育統監(陸軍大将)・・・殺害
牧野伸顕前内大臣・・・無傷 (護衛官1人死亡)
202名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/02/27 23:04 ID:opYPMv04
>>193
「帝国海軍将官総覧」は、時々古書店で売ってるよ。
新人物往来社刊だけどもう絶版かな?
203名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/02/28 21:58 ID:5jFAWqE9
>>179
第8師団・第10師団・第12師団・第15師団はともに官民挙げての物凄い誘致活動があったらしい。
弘前・姫路・久留米・豊橋ともに県庁を取られて地方が沈滞していたのを陸軍師団が救った。
また弘前・姫路には非県庁所在地には珍しく旧制高校も置かれる。
第39連隊は第10師団に属して、日露戦争では血染めの戦旗の伝説を残した(歴史博物館に寄贈)。
その後青島攻略戦・済南事件・満州事変・徐州攻略戦・フィリピン防衛戦に参加した。
204牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/02/29 00:18 ID:Q+c/yn9n
>>202
昨日、本屋で「帝国陸軍将官総覧」が新装版になって並んでいるのを見た。
海軍版の発売も近いかも。
このスレの海軍版として故郷の旧国名、山、川などの名を関した艦船自慢の
スレも立てたいのだが艦船の編成や戦歴の史料が手元にないのでできなかった。
有名どころならわかるんだけどね。
「丸」の愛読者でスレ立ててくれる人いないかな?

そういえば、大和級の4番艦は空母に改造して「尾張」か「土佐」
という名にする予定だったと聞いた記憶があるのだが詳しい人がいたら教えて。
もしかしたら「尾張」は勘違いかもしれない。「おわり」じゃ縁起悪いもんな。
205名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/03/02 01:08 ID:WhVN00Bz
昭和17年10月広島39師団(藤)は、宜昌を仙台13師団(鏡)と警備交代
16年の敵反攻で宜昌の13師団は、陥落寸前に陥り39師団が救援し喰い止めた。
13師団は野戦師団(2万5千人)で、39師団は警備師団(1万4千人)
宜昌は旅団長率いる2連隊(5大隊)で守備していた。これを広島231連隊は
連隊長指揮の2大隊と2中隊で守備し、兵力は2分の1以下に
兵力比も1中隊に対し敵1個師団、そして圧倒的な敵の火力下
1人で数10人を相手に戦う死闘を展開することになった。

攻撃なら、1人の勇士がいれば他の者はそれに従がって進むからまだいい。
防御戦は、兵1人1人の戦闘能力が勝敗を左右する。
いちいち細かい命令指示をまたずに、自信をもって戦闘行動の出来る能力が要求され
各個人が鍛えられた戦士でなければ、そこが弱点となって敵に抜かれる心配がある。
そして素質、広島部隊の資質である機敏さを発揮することになる。

206牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/03/03 00:05 ID:L8rl02Q5
日本軍は指揮官の無能さを兵の粘り従順さで補ってきた。
それは海軍も同じ。
敵の自動小銃に対してこちらは日露以来の38式。
スプレーを噴射したかのような濃密な弾幕への白兵突撃に黙々と従い、
食料がなくとも自活しながら敵の攻撃を受けて一歩も退かない粘り。
対して将官たちは猪突猛進するのみ。
教科書どうりの作戦で敵にあざ笑われているのに作戦を変えない。
取った土地は寸土といえど敵には渡さないという馬鹿げた方針のために
戦略的撤退という発想もなく負ければそれを隠すだけに汲々として
負けた原因を探り次回の作戦にフィールドバックするということもない。
こんなバカな指揮官が上にいたんじゃ兵が哀れすぎる。
207205:04/03/03 02:01 ID:3xqA6o8c
 39師団両角歩兵団長(元13師団65連隊長)が
「広島の部隊を連れていて戦争に負ける奴があるか。」
と言ったということを聞いて喜んだ兵隊は宜昌に到着、警備交代のとき
「あとどのくらい来るのか」「これだけで守るつもりか。強いんだなあ」と
親切、同情、冷やかし笑いながら軽蔑するものもいたという。

昭和17年暮、宜西地区左翼の中島高地が攻撃された。この陣地は13師団時代敵に
占領された経験のある陣地で、僅か40名で千人の敵を撃退した。
守備兵は銃弾を撃ちつくし、手榴弾を投げつくし、ついにはビール瓶、土塊、石を投げ
(ガラスの破片は匍匐する肌を切り、土塊、石は手榴弾と思い込んで逃げ回り、
それが散ると時として目をやられる。)夜の闇を味方とし、原始的な創案を役立て
陣地寸前で敵を撃滅した。

208205:04/03/03 23:53 ID:XQgkfDZR
昭和19年6月、宜西陣地最右翼ピラミッド、華福山陣地に飛行機40機が爆撃と
銃撃を繰り返し、火砲約1万発の砲撃により陣地は廃墟と化し、前後6回突撃を
反復して来た。守備兵たちは爆撃砲で鼓膜をやられ、しばしば幻影に襲われながらも
奮戦を続け、雲霞のように攻め寄せる敵を陣地寸前で撃滅した。

昭和19年7月、西陵山地区羽黒山陣地41名守備に、飛行機の銃撃並びに火砲7千発の
砲撃により、陣地はほとんど破壊され畑のように変わった。手段を尽くし
陣地を補修し反復攻撃を30数回撃退、敵4コ営に壊滅的打撃を与えた。
40対10,000の圧倒的優勢な敵も猛攻撃を挫折した。

両守備隊は、第34軍司令官佐野中将より連続して感状を授与された。
209205:04/03/04 00:26 ID:XjwnaEKq
207の事は防衛庁公刊戦史「一号作戦(3)広西の会戦第三章宜昌をめぐる
彼我の攻防」「143-181頁」に割かれ、「超過広戦面の長期にわたる持久戦例」
として、高く評価されている。

軍司令官は「誠に攻めれば強く、守れば固く、藤部隊(広島39師団)の
栄誉は、永く国軍の戦史に、燦然と光輝くであろう」と
210205:04/03/04 00:31 ID:XjwnaEKq
まちがえた公刊戦史には208の事でした。
211名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/03/04 00:35 ID:CFS4WvWL
あったまわりいなこのスレ
だから日本軍なんてのは結局、ルーズベルト、チャーチル、スターリン、トゥルーマン
に踊らされていただけなんだよ、バカ右翼どもが。
日本てのは後進国なの。今の小泉の姿勢見てれば明らかだろ。
しかしなんだね。景気が悪くなるとこういうナショナリズム全開バカが出てきて本当にやだねぇ。
こんなことよりテメーの働き口や年金の心配した方が賢明ってもんじゃねーの?
212名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/03/05 21:35 ID:2ZlyfqOM
ag
213牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/03/08 00:55 ID:uFaIm3nY
>>211
頭のいいお方は後進国日本においてナショナリズム全開にならず
常にテメーの働き口や年金の心配をしてらっしゃる。
その上、バカ右翼に暖かいご忠告まで。
有難くって涙が出る。
ところでルーズベルトetc.とはマクロな見方なんだが
是非とも頭の良いあなたのミクロから見た
日本軍についてのご意見が拝聴したいなあ。
214名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/03/11 21:15 ID:RJhUIOO8
>>211
好む好まざるを問わず、自分の国の歴史を否定するのは
自己を否定しているのと同じだよなぁ

それとも、まだアイデンティティーの確立していない
ちびっこさんなのかなぁ

                    ・・・・ト、オモイマスタ。

215佐藤惣之助 ◆fzb6TDvnUA :04/03/15 01:10 ID:wjjUTdpp

近衛師団  数字は車両数

工兵連隊      48
砲兵連隊      49
輜重兵連隊    124
捜索部隊      29

【師団司令部】
野戦病院      20
衛生隊        31
兵器勤務隊     5
通信隊        17

【歩兵団司令部】
歩兵三連隊(サイゴン警備)
歩兵四連隊(吉田支隊海路)
歩兵五連隊(タイ進出主力) 91
216佐藤惣之助 ◆fzb6TDvnUA :04/03/15 01:24 ID:wjjUTdpp

近衛師団は精鋭部隊

昭和16年の6月28日南部仏印進駐を担う1コ師団
以後ナトラン以南の地区へ配備
日米開戦に伴いサイゴン⇒タイ⇒マレー作戦へ

この際第三連隊を南方軍の指揮下に置いて南部仏印の警備に
第4連隊えお吉田支隊に組み換え海路バンコクへ進行させる
第5連隊は91車両を持ち陸路南部仏印からタイへ

ちなみに第5歩兵連隊長は岩畔豪雄
井川忠雄と共に日米諒解案を起案した人物
217佐藤惣之助 ◆fzb6TDvnUA :04/03/15 01:24 ID:wjjUTdpp

疲れた

こんど

ほかの師団も知ってるのは書き込む
218佐藤惣之助 ◆fzb6TDvnUA :04/03/15 01:29 ID:wjjUTdpp

しかし

何処の人間か?までは知らないW
219南極X号がダメか?何人も相手はかわいそう:04/03/15 04:14 ID:GsidEPyk
■陸自主力第2波が到着 クウェート、女性隊員も
 【クウェート市14日共同】イラク派遣陸上自衛隊主力部隊の第二波約百九十人が
十四日午前七時(日本時間同日午後一時)ごろ、政府専用機二機でクウェートの
ムバラク空軍基地に到着した。 一月中旬の先遣隊から、
陸自部隊の到着は通算四回目。隊員数は最多で、初めて女性の隊員十一人が部隊に加わった。
女性自衛官の海外派遣は、東ティモール国連平和維持活動(PKO)に続き二例目。
220佐藤惣之助 ◆fzb6TDvnUA :04/03/16 00:04 ID:kIJPwvBN

>>219

女性隊員と?

萎える顔だったぞWWW
221名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/03/16 00:06 ID:c8WqmBBd
わざわざ選んだのでは?変な事起きないようにwwwww

222佐藤惣之助 ◆fzb6TDvnUA :04/03/16 00:07 ID:kIJPwvBN
>>221

少子化阻止に頑張ってもらわねばWW
223牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/03/16 00:18 ID:GCZ4C6DD
>>216
近衛の最後の師団長は久野村桃代。
インパールのビルマ方面軍(第15軍だっけかな?)の参謀長をやったが
あまりに無能だったので「ムノ村」とあだ名された。
そんな男が近衛の師団長になるんだから
戦争末期はよほど人材がいなかった?
224佐藤惣之助 ◆fzb6TDvnUA :04/03/16 00:44 ID:kIJPwvBN
第15軍

近衛師団、33師団と55師団を傘下に


33師団長は桜井省三中将 歩兵団長荒木正二少将
歩兵第213連隊長宮脇幸助大佐 歩兵第214連隊長作間喬宜大佐
歩兵第215連隊長原田棟大佐が中心

55師団長は竹中寛中将 歩兵団長濠井富太郎少将 
歩兵第112連隊長小原澤幸蔵大佐 歩兵143連隊宇野節大佐 
歩兵第144楠瀬正正雄大佐が中心

55師団は確か編成地仙台
225佐藤惣之助 ◆fzb6TDvnUA :04/03/16 00:53 ID:kIJPwvBN

33師団はビルマ作戦・インパール作戦の主力となった唯一の師団

日中戦争(武漢地区)→南京→バンコク(海路進攻)

55師団は

坂出→仏印ハイフォン→タイ進攻

55師団は更に宇野支隊を編成して
詫間港→サンジャック(海路)→フコク島(海路)
226205:04/03/18 02:52 ID:BBW5lLKT
広島231連隊は、昭和15年の宜昌作戦でも日本軍のエース的存在となった。
33集団軍司令官張自忠上将を討ち取り軍感状を受け、
(事変勃発以来、高級指揮官の戦没は初めてだった。)
敵の宜昌防備中核、当陽主陣地を激戦の末これを抜き
(それ故39師団主力も,他師団も大した難なく進攻できた。)
快進撃をもって宜昌東側に殺到、同地の占領を軍命令により
1日遅れの仙台13師団に譲った。
(13師団の行動距離も、39師団の80%にも達せず、
しかもほとんど敵影のない平野部が大半だった。)
最終時期の戦功は、231連隊の当陽敵陣地の攻略にあった。
張上将を葬る大殊勲は、各新聞社とも3、6、13師団には記者を送ったが、
5師団の分家とはいえ、警備師団の39師団は目標外、ところが蓋をあけると、
前記強豪師団に劣らぬ強者振りを発揮、各社とも最大の特種を逃がした。
227205:04/03/18 04:12 ID:BBW5lLKT
張自忠将軍は、39師団専田参謀長と日本陸軍士官学校の同期、
然も親交のあった間柄、戦いの前夜専田参謀は「張自忠に専田ここに在り」
と知らせてやりたいと語った。
その専田参謀が検死役にまわり「間違いない張君だ」
参謀長の、悲痛とも思える一言だった。
周囲に居合わせた者は一斉に「おめでとう」の声を発した。
だがつぎには悲運にも散って逝った武将の最期に敬虔な祈りと黙祷を捧げた。
一説によると将軍の夫人は戦死の報を聞き、夫の跡を追い絶食自害したという。
もしこれが事実なら、古来の日本婦道に比すべき姿であろう。
228205:04/03/20 01:54 ID:sJW9my6h
師団司令部では張将軍の遺体を敵側に引き渡すことになり、安置場所を
張将軍の護衛兵だった捕虜に教え、敵側に引き取り方を連絡させる為釈放し
安置場所に日本兵は配備しなかった。そして夜半すぎ敵が
猛烈な夜襲をかけて、その混乱に乗じて張将軍の遺体を持ち去った。

ところが第11軍は「張自忠の死体は飛行機で漢口まで送れ」といって来た。
自動車も運行至難な地域に、どこへ離着陸させるつもりか。
結局参謀長の手帳ぐらいを、飛行機で吊り送ることにした。

229牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/03/20 03:17 ID:q2hk0U8s
同じような話は日清戦争当時の中国黄海艦隊の司令官(名前失念)にもあったな。
230名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/03/20 12:12 ID:y8BKObb2
>224
55Dは編成地が善通寺。
231205:04/03/20 14:20 ID:BNvo+3WC
宜昌の市街がかすかに見え、連隊将兵の意気はまさに天を衝く勢いで、
藤部隊の独り舞台の観があった。そのうち投下された通信筒による軍命令で
現在地へ停止することに「宜昌は仙台13師団が独占する。」13師団は冬期作戦で
散々苦杯をなめた、不首尾を名誉挽回させるという軍の配慮か。
39師団最大の悲劇白河の渡河で山口233は三百数十名の戦死者を出した程なのに
仙台13に手柄をたてさせてやりたいから広島39はそのまま停止とは。
ある一兵士は「停止命令が下り、しばらくして反転命令が来た。
今敵に時を与えるのは反撃により多くの友軍の血が流されると言う
大事な時に一体何を考えているのであろうか。
戦後その真相を知った後、何とも言いようのない憤りを憶えた。
戦争を弄んでいるのだ。戦争ごっこではない。多くの血が流されたことを
知っているのであろうか。」と言っている。
232名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/03/21 11:32 ID:qMCcP+rE
205さん博学ですね。
参考資料は何ですか?戦史叢書?
233西三河地方人 ◆gDdnWZhdRI :04/03/21 21:02 ID:JzFJUrxo
板違いっぽいスレを開いてみるとここにも佐藤君がいた。
さて、我愛知県には山頂より三河湾を一望に見渡すことにできる三ヶ根山という
風光明媚な山がある。ここは元々はドライブウェーと展望台の観光施設として開発
されたのだが、いつのころか旧陸海軍の慰霊碑が集まり始め、今では慰霊のメッカ
となっている。全国の部隊、数々の慰霊碑が立ち並ぶ様相はまさに霊場の雰囲気で
ある。我国の近代史、苦悩の歴史に共感し思いをはせるならば、1度来て見てはいかがな?
更に山頂付近には東京裁判においてA級戦犯として刑死された、東條、広田、松井、
土肥原、板垣、木村、武藤、の七氏が分骨された「殉国七氏之墓」があるが、
ここも巨大な石碑が建立され荘厳な雰囲気である。
234西三河地方人 ◆gDdnWZhdRI :04/03/21 21:06 ID:JzFJUrxo
235名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/03/21 23:34 ID:Yj7vGwgF
・・・昭和12年には内地に14個師団あったわけだが、紅白戦みたいに2つに分けて演習したらどっちが強かっただろうか?
(赤組)1・3・5・7・9・11・16
(白組)2・4・6・8・10・12・14
236佐藤惣之助 ◆fzb6TDvnUA :04/03/21 23:41 ID:HxVbAh2A

あんまり装備に差がなかったみたいだし

指揮官の能力差で決まるんだろうね
237205:04/03/22 01:33 ID:+LSk8Krb
232>>多くは郷土資料による。連隊史や各中隊史(記)、
子供のころ老人達から聞いた話も参考になった。
第11軍のことも各戦記によるが、福山連隊史では許せないのは
岡村寧次の態度と名指してある。


238昭和人 ◆eM9eCHT9nc :04/03/22 03:39 ID:GSvqr21j
牛沼、205・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

こいつら単なる戦争ヲタだな。旧軍の組織、資料、戦記をだらだらと書き写して
いるだけ、しかも得意げに、さらにこれを博学だなんていってしまうやつがいるから
ばかばかしい。ときおり歴史に対する意見もあるが、いっていることが幼稚で過去の
戦争に対する自己の歴史観を構築しているとはとうてい思えない。
こんな輩が常駐支配しているスレはいらない。この板はお国自慢の板、邪魔だ。
消え去れ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
239名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/03/22 11:40 ID:x66lmFOO
>>238
イヤ〜ン
240205:04/03/24 00:10 ID:v/nAHlVp
>>237過去の戦争に対する自己の歴史観を構築するたあどうゆうことかいの?
幼稚で愚劣なもんに、頭のええひとの歴史観とやらを教えてつかい。
まあ、あんたが考えることはあんたの脳みその自由じゃ。
掛替えのない脳みそののう。じゃが最初の文に「こいつら」たあ
行儀を知らん昭和人よのう。
241牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/03/24 00:30 ID:KjLkihWS
>>238
「歴史家は常に冷徹な観察者でなければならない」
これはドイツの歴史学者ランケに言葉だ。
「歴史」という学問も科学であるからには個人の感情は極力排さなければならない。
日本の歴史学はランケの考えに基づいて構築されている。
だからこそ大学で歴史を学ぶ際にはランケの歴史学が必修とされている。
だが、悲しいかな人間は自分のバックボーンというものに少なからず影響を受ける。
過去、皇国史観、家永史観が時代のバックボーンの中で強い影響力を持ってきたのはそのためだ。
もちろん、おれも過去歴史を学んだ者だがバックボーンの影響力から逃れられない。
歴史という光は一筋だがそれが時流というガラスのプリズムを通す時、
様々な色をなす。
旧日本軍は残虐無比だという色もあれば、貧弱な装備闘った英雄だという色もある。
君がどの色に最も反応するかは知らないが少なくともここで語り合っている人たちは
後者の色に近いし、おれもそれを望んでこのスレを立てた。
おれのレスを見てもらえばわかるがおれは必ずしも
旧軍を全面的に賛美しているわけではない。
将官級に厳しく、一般の兵に甘く評価している。
旧軍の将官は帝大より陸士陸大の方が出世できそうだと入隊し、
試験と年功序列によって登りつめた現代の官僚のようなものだと思っている。
だから作戦は稚拙で、負けても責任を取らない。
対して一般の兵は稚拙な作戦と装備補給の中で牛馬のごとくこき使われ、
人間業とは思えない精神力を発揮して闘い死んでいった。
その兵士を支えたのは家族に対する誇りであり郷土に対する誇りではないのか?
ここではそういう郷土のために死んだ兵士の偉業を
現在郷土に住む者が堂々と自慢し合う場だ。
そして自分の父祖を誇りに思え。それがおれのここでの主張だ。
最後におれは軍事オタではない。どちっかつーと鉄オタだ。



242昭和人 ◆gDdnWZhdRI :04/03/24 11:20 ID:jHqRMP7k
>>240 切捨て・・・話にならん。
>>241 わかった、それがスレッドの最初にあったならけちをつける気持ちは
毛頭なかった。すまん、その歴史観に対して敬意を表しなおかつ賛同する。
ただ若干の相違をあえていうならば、軍部(幹部)悪玉、兵善玉という見方である。
俺はそうは思わない。なぜならば米国の対日占領政策に迎合しているように
とれるからである。東條は、東京裁判で他の被告が沈黙する中証言台にたち
必死に我国の立場を訴えたではないか。宇垣は中将のバッチを外し自ら特攻機に
搭乗したではないか。大西も阿南も軍人として立派であったではないか。
確かに作戦計画には失敗や錯誤もあった。インパール作戦など兵は誠に可哀相
であった。しかし我陸海将兵は総力戦を国のため、郷土の為、家族の為に戦った
のである。将も兵も一緒である。失敗は未来の国防に役立てればいい。
日清も日露も同様である。
郷土のために死んだ兵士の偉業を讃える。そして自分の父祖を誇りに思え、このくだり
については誠に同感相通じるものである。
最後に実は俺も近代史に興味をもっているが、どっちかというと鉄ヲタである。

>>204
大和級4番艦
@大和 A武蔵 B信濃 C土佐
243名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/03/25 00:22 ID:M2MrcW0B
>>241
牛久沼太郎 ◆.CA8T6GEL6 タン
(・∀・)カコイイ!! 
ガンガレ!!
244205:04/03/25 23:24 ID:8niLQsQi
昭和人よ「切捨て」じゃ、そりゃあ命のやりとりで言う言葉ど。
相変わらず行儀を知らん。われは軽ういいよるが。
昭和人の歴史観とは特定の思想を持って、その思想の固定観念で判断するのか
しかも巷でよく聞く反米保守の意見を述べ、とうてい自己の歴史観とはいえぬ
全く狂信的共産主義者とたいして変わらん。その固定観念で先入観を持ち、
偏見を持ち、希望的観測を持ち最終的に判断を誤る。
国の為とか国防とか理屈を言うが、敵と闘う時「お国の為とか相手が憎いとか
考えなかった、ただ生存本能と負けてはならぬと気持ちだけだ」と語った
兵士が居るがそもそも闘いとは負けてはならぬ意地があるのみで、
それは思想、哲学の論理でなく生物として男の感情ではないか。
それ故子供のころ戦争の話を聞くのが楽しかった。
ちなみにわしの歴史観などない、風土、民俗学の方が好きである。
それ故ランケの西洋的な近代歴史学の見方よりも、イブン=ハルドゥーンの
歴史序説や司馬遷の史記など風土的考察があって面白い。
245牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/03/25 23:55 ID:QInDB5wD
>>242
軍部(幹部)悪玉、兵善玉だなんてことは露ほども思っていない。
人間ならどんな地位にあろうともどんな組織に属していようと
一定の人間が集まれば悪人と善人の比率は同じになる。
従って、将軍たちにも立派な人物もいれば兵にも悪辣な奴はいる。
ただ、将官級を厳しく見るのは責任の度合いが違うからだ。
彼らは兵士の生殺与奪の権を握っていた、
だから責任もそれだけ大きいと言う訳だ。
たとえ、戦犯にならなくてもいやしくも閣下と呼ばれた人間は
全員腹を切ってもよかったと思っているくらいだ。
それと腹を切る時は一人で死んでほしかったね。
宇垣は搭乗機の乗員を道連れにして死んだ。
あの戦争をなんとか生き延びて新生日本の再建に役立とうする有為な若者を無駄に死なせてしまった。
おれはあれで宇垣の業績はすべて帳消しでになって
やっぱり他と同じく無責任な将軍という見方をしている。

>>244
日本の歴史学がランケ史学を支持しているは建前でね。
戦後、公平中立な立場から歴史を見るという理想から出てきたものだ。
だが、現実は理想とは程遠いのは知っての通りだ。
ここでは歴史観なんて小難しい物は抜きにして
郷土の英雄を褒め称えたい。
中国韓国人は日本の軍人を悪魔のような極悪人のごとく思っている。
日本の左翼思想に影響を受けた層もまた同じ。
おれらが褒めなきゃ誰が褒める。





246上京東北人V ◆O/x7wr2xZ2 :04/03/26 00:15 ID:nysmID3y
>宇垣は搭乗機の乗員を道連れにして死んだ。

本当に道連れだったのか?喜んで同乗した可能性は?

>あの戦争をなんとか生き延びて新生日本の再建に役立とうする有為な若者を無駄に死なせてしまった

俗説かもしれんが、生き残って帰って来た奴はずる賢い卑怯者だったケースも多かったらしい。
真面目で真剣な奴ほど死んでいる可能性もある。

主張にやや左翼思想が入ってる気がするなあ。人命尊重とか。
247牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/03/26 06:34 ID:KeojX3RN
>>246
宇垣と一緒に逝った者達は当然喜んで死んでいっただろう。
だが、考えてみてほしい。彼らは20歳をやっと超えたかという年齢だった。
尊敬する宇垣が敗戦の責任をとる為と称して最後の特攻に行くと言えば、
感激して同行すると言うのは明らかだ。
そのことに宇垣が気付かないはずがない。
だからこそ宇垣は一人で死んでほしかった。
あまり知られていないことだが終戦の翌日、東京秋川で一家心中があった。
死んだのは当時立川の参謀だった某少将。
彼はフィリピンで陸軍初の特攻を行った第四航空軍の参謀だった。
彼は若者を特攻に行かせた責任を取って、
そして忌まわしい自分の血を後世に残さないために
両親と妻娘を道連れにして死んだ。
当時彼は狂っていたという説もある。
だが、責任の重さというのは人を狂わせるほど大きい。
他人の子供を道連れにした宇垣は有名だが
自分の子供を道連れにした少将の名はほとんど知られていない。
某少将の名は隈部正美。記憶の片隅に留めておいてほしい。





248牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/03/26 07:00 ID:KeojX3RN
付け加えるとおれは右でも左でもないと思っている。
ただ、日本が好き。家族が大事と思う思想でもなんでもない
素朴な考えを持っている。
人間で一番辛い死に方の一つは飢え死にだろ。
戦場では多くの兵士が食うものを食えずに死んだ。
だが、将官級で飢えて死んだという奴をおれは知らない。
兵士が飢えている時に毎晩、酒飲んで、将校飯を貪り食っていたって話は聞くけどな。
闘って死ぬのはまだ許せるが
もし、自分の家族がそんな状況で死んだとしたら絶対に許せない。
悲惨な死に導いた将軍の罪はあるいは敵よりも重いんじゃないか?
249昭和人 ◆gDdnWZhdRI :04/03/27 01:44 ID:cOcb2wBO
>>244
巷でよく聞く反米保守であってもそれに賛同するんであればそれを自己の歴史観
といってもいいだろう。意見がないよりいいわな。
今日本人の多くは過去の戦争の歴史を誤った過去として断罪しているが、果たして
本当に誤りだったのか?開戦前の国際環境は?勢力図は?列強の植民地支配は?
政治力学は?このような疑問が近代史への興味を駆り立てていった動機である。
そしてその疑問に答えてくれる多くの著書に出会い賛同し、感動した。その結果が
過去の戦争の歴史に対する共感と戦死者に対する感謝である。これが基本。
俺の歴史観を押し売りするつもりはまったくないが、「丸」写しのレスが多く意見に
乏しかったのでついけちをつけてしまった。すまん。
因みに今読み始めたのは遅ればせながら司馬遼の「坂の上の雲」である。

>>247
宇垣中将に粘着してしまうが「有為な若者を無駄に死なせてしまった」
という言い方はやめてくれ、彼ら若者は無責任将官の為に犬死したというのか?
実は犬死でしたと遺族にいえるか!本人はもちろん遺族も我息子は恐れ多くも
海軍中将宇垣纏の搭乗機と共に南海の空に散ったことを悲しみと共に誇りに
思っているはずである。それがすでに亡き人への最大の供養であろう。
先の大戦では軍人、軍属、民間、多くの犠牲者がでた。しかし犬死などひとり
もおらん、皆現代日本の礎になったのだ。そういうことにしとけ。
俺が印象に残す悲しい例は、沖縄からの疎開学童約1000名を乗せた対馬丸
雷撃沈没である。
250牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/03/27 02:10 ID:Siqf7ZBu
>>250
宇垣と運命を共にした若者たちには敬意を評している。
彼らは純粋に日本を愛していた若者だからこそ
終戦の詔勅を聞いた後、生き残ったという幸運を棄てて最後の特攻に赴いたのだろう。
だからこそ、宇垣は彼らを道連れにすべきではなかった。
宇垣ほどの名文家なら希望を失った彼らの力を別の方向に向けさせるだけの
文章を残せたはずだ。
「俺は死ぬが君らは生きろ」と言えたはずだ。
それをしなかったことが宇垣の晩節を汚したと言える。
事実そのようにして自害した師団長もいる。
昭和人ならわかると思うがこれは歴史観の問題ではなくて人間観の問題だ。
死ぬ時は一人で、死なぬのなら従容として裁きを受ける。
これが戦争に負けた国の将軍のあり方だと思うのだが。
251上京東北人V ◆O/x7wr2xZ2 :04/03/27 09:17 ID:yeRMx1Er
>>247
成るほど。言いたい事はわかりました。
特攻の責任をとって一家心中までした将軍と宇垣を比較してるのか。

でも宇垣は垣は中将の階級章をは外して特攻機に乗ったということは中将の階級を捨てたって
事では無いのかな?これは「軍人の世界」では凄い事だと思う。
官位を捨てて一個人として特攻機に乗ったに等しい心境は理解出来ますね。
252上京東北人V ◆O/x7wr2xZ2 :04/03/27 09:19 ID:yeRMx1Er
>>247
成るほど。言いたい事はわかりました。
特攻の責任をとって一家心中までした将軍と宇垣を比較してるのか。

でも宇垣は中将の階級章をは外して特攻機に乗ったということは中将の階級を捨てたって
事では無いのかな?これは「軍人の世界」では凄い事だと思う。
官位を捨てて一個人として特攻機に乗ったに等しい心境は理解出来ますね。
253名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/03/27 21:35 ID:/T3a4f0N
なんで地方によって兵の強弱が出てくるんだろうな(というか何故関西の兵は弱かったのか?)。
254205:04/03/27 23:15 ID:/InHCOb1
>>245牛沼さんありがとう。これまで書いた39師団も現在中国では
極悪人あつかい、将兵とも中国人との友情があったのだが。
>>249丸写しのスレは「郷土の誇り」師団、連隊の戦歴、実績を書く人が少なく
風評で書かれたもが多かった。
それと「郷土の英雄」一将兵の視点を大切にしたいんじゃが。
今読んでおるんは歴史読本四月号日露戦争100年目の真実。
255名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/03/27 23:39 ID:SuKtvyK/
関西人は純情で人情味溢れ義理堅いですが

名古屋人は目の前で殺人、強姦、強盗などがあっても
何も関心を示さない冷酷動物ですよ。

愛知岐阜民は信長の子だからしようがない。
256牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/03/28 00:40 ID:mZF8d5Qf
>>255
16師団(京都)は第1師団(東京)と共にレイテ戦での主力だった。
本土との連絡をほとんど断たれた状態でアメリカの4個師団と闘って師団は壊滅状態。
そのときあえて死地に応援に向かったのが名古屋の26師団だった。
アメリカの制空下においては兵員、物資の満足な輸送も行えず
装備兵員の半分以上を失いながら京都師団と闘った戦友の間柄だ。
ちなみにその時の16師団は約13700名がレイテに上陸し生還者は620名。
生きて故郷に帰るには宝くじに当たるほどの幸運が必要だった。
戦闘の悲惨さは1師団の兵だった大岡昇平が「レイテ戦記」や「野火」に書いている。
京都も名古屋も生死を共にした戦友。
そしてここ最近のやりとりを見ればわかるようにどこの郷土の兵もみんな英雄だ。
ここでは自慢するのはいいが、他の地方を貶すのはやめにしてもらいたいな。



257牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/03/30 00:03 ID:f5y7JijU
205さんは広島の方だとお見受けしましたが、
原爆投下時のエピソード(第二総軍司令部が壊滅して各部隊長は個々の判断で
救援に向かったそうですが)や日清戦争当時の広島大本営のことで
ご存知のことがあればお聞かせ下さい。
258牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/03/30 23:12 ID:uJUKzNzv
考えて見れば広島に大本営が移った時、
大元帥である明治天皇も広島に動座され帝国議会も広島で開かれた。
つまりは臨時首都だった。
広島人はこれを自慢しろ。
259205:04/03/31 23:55 ID:fgXN8L8/
>>257原爆投下時のエピソード=相生橋でアメリカ兵の捕虜が縛られて一部の市民達に虐殺されていたそうです。米軍の原爆投下で広島人なら
身内、親類、縁者に犠牲者が居るものだが、それにしても捕虜で同じ原爆被害にあった者を、しかも集団でリンチするとは。
昔の広島人は、名を惜しみ、卑怯といわれることを恥じ死するより辛いと考えて居たそうだが、この様な外道の逆恨みをする者もあり、全く恥部であり汚点を残した。
捕虜の話となると、39師団231連隊に居た菅(すが)少佐。
のちに、ボルネオのクチン捕虜収容所張となった菅中佐と軍参謀長のやりとり
「菅、捕虜のあのざまは何だ。仕事をしているのか」「彼らも疲れきってますので」
「菅、貴様それでも日本人か」参謀長の言は、捕虜を虐待し酷使するのが、日本人の姿となる。
古来日本の武士は情誼に厚く、昨日の敵は今日の友とした。その一断面を考えれば冷厳とはいえ、温情の一片があった。
参謀長を睨みかえした彼は「お言葉を返して恐縮しますが、捕虜が毎日何を食べ、どれほど作業しているか閣下はご存知ですか。
捕虜も人間です。あの骨と皮ばかりの姿を、よく見てください。」と怒気をこめ反発の叫びを発した。
これには参謀長も返事に困り、逆に捕虜達は、作業に出るたびに特別な増配にありついた。
他にも「私は捕虜の葬式の相談に帰ったのではない。」(昭和20年春の収容所会議の席上での発言)で、東京中枢部の関係者を威圧沈黙させた。
戦後米国の女流作家アグネス・キース夫人の「三人は帰った」でベストセラーになり、映画化「戦場に架ける橋」(菅中佐には早川雪舟が扮した。舞台がタイ方面になり
実際とはちがうが。)、数々の雑誌、新聞に報道され、多くの外国人に対して、対日感情の好転に大きく貢献した。そして遺灰は菅大佐の死後13年ぶりに、郷里広島の
遺族の手に帰ってきた。こういう人こそ郷土の誇りである。
第二軍総司令部は、二葉の里にあったそうだが、詳しい話はきてませんので、長くなった続きはまたします。
260牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/04/01 16:30 ID:NXD+ZTgf
205さんありがとうございます。
「生きて虜囚の辱めを受けず」。
これほど罪深い言葉はありませんね。
日露戦争までは捕虜も恥とならなかったようで。
軍が現実的思考から精神的思考に移るに従ってこの言葉が全面に出てきたようです。
実際、捕虜は収容所の建設、食料衣服の支給、警備要員の配置など
間接的に敵を苦しめる戦力なのに。
捕虜とならないために潔く散る。
一見華々しいようだが戦争は華々しさより粘りが大事なはず。
島が攻略されても玉砕などせずゲリラに徹すれば
米軍も一定の戦力を貼り付けねばならなかったのにバンザイ突撃で日本軍の抵抗は終了。
米軍は面倒な掃蕩作戦をしなくて済んだ。
日本軍がそれに気付いたのはやっと硫黄島沖縄からですでに手遅れ。
軍がいかに精神的に硬直し現実を見ていなかったということでしょう。
261205:04/04/02 02:38 ID:ymCgK6Fk
259の続き、原爆投下時、詳しくありませんが宇品に居た暁部隊が救援に活躍したそうです。
日清戦争当時の広島は日本初の戒厳令がでたのは、不穏な騒乱を防ぐ為とか。
各地の兵隊が広島に集まり、宿泊施設が足りず民家に宿泊した兵隊もいたとか。
大本営の広島移設は伊藤博文首相の考えだったらしい。大本営のことも詳しくありませんが。
ただ軍都広島となり、そのお膝元の兵隊によって日本の興亡がかかった一戦を戦った
(大島第九旅団)というのもめずらしい。以後広島の師団ほど歴戦を繰り返したことは
他に類例を見ないほどと言うのも、海外出兵の港を持つ軍都のお膝元ゆえか。
262名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/04/02 03:35 ID:aVAyBGIx
rr
263牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/04/05 00:54 ID:WfRffeg3
サルベージ
264205:04/04/06 02:44 ID:G08LdNrt
帝都東京に対し軍都広島、宮城を守る近衛は名誉部隊とされてきたが、戦歴赫々たるは広島部隊。
国軍のなかでも共に特別な存在だと近衛を意識していた。
マレイ作戦でもジョホルバール一番乗りを広島5師団、近衛師団、久留米18師団の各第一線部隊が争い、
5師団浜田21連隊第3大隊が突入、近衛師団より数分早かったが、かなり意識している。
のちに浜田21連隊第3大隊は、宇都宮51師団の指揮下に(1個中隊程度の小兵力で)入り悲惨な戦闘をする。
265牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/04/07 00:30 ID:6WoMhrVk
>>264
そういえば「死んでもラッパを放しませんでした」の木口公平は広島第5師団でしたね。
あれはラッパを吹いている最中に撃たれて即死したので死後硬直で
ラッパが放れなくなったという人もいますが、
真相は何であれ広島師団の誇りとなったのは確かでしょう。
266牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/04/07 00:45 ID:6WoMhrVk
ついでに言えば「爆弾三勇士」は久留米師団ですね。
267205:04/04/07 23:40 ID:z79gTgtB
木口小平は21連隊ですが、日清戦争当時なので岡山人。でも21連隊が似合う。
浜田の兵隊さんは、5師団きっての純朴で心がけのよい部隊、誠実、地味で、
広島とカラーが違い実直な兵士が多かったそうです。
浜田連隊は、中国地方屈指の高山三瓶山と浜子の膝まで没する砂浜で鍛え、
脚は無類に強くなり、一番乗りが多く「健脚強剛の二十一」とよばれた。
広島70師団(槍)の金華山攻略で殊勲は福山103大隊で攻撃は圧巻、全員殊勲。
黙っていても部下がどんどんやった。「広島、福山は、細かい命令指示を
またずに行動する、今村将軍曰く(気がきいていてずるくさい)」に対し
浜田104大隊は、夜行軍の連続、折柄の豪雨を物ともせず突進した健脚は、
流石浜田連隊よく攻撃に間に合った。兵隊はブツブツ不平をこぼすのが
常だが、不平不満をいわず頑張った団結力は他の三大隊(広島、福山、山口)
では、失礼ながら見られまいと。島根県人(石見)らしい。

268205:04/04/08 00:32 ID:2uoeYKwH
続いて浜田21連隊第三大隊は、51師団指揮下に入りニューギニアの
サラモアで激闘マレーでも味わったことのない物量攻撃をうけながら
十数倍相手に奮戦力闘。宇都宮師団の兵士も勇敢だったという。
そして51師団から玉砕命令が下ったが、浜田の兵隊さんは
軽々しく死することなく「これから死中に活を求めるのだ」と決心した。
ところが翌日撤退命令が下りサワラケットの山々を越えた。
行軍は悲惨で路傍に餓死者が横たわり、その数二千人余り。
この行軍中、51師団の鈴木参謀が浜田部隊の際だった行動を賞賛する
事実サワラケット越えをした各部隊で軽機はおろか小銃さえ持つ者は
稀であったのに浜田部隊は小銃一丁すら損ずる者はなかった。
この場合ラッパでなく銃を放さなかったということです。
269牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/04/09 00:14 ID:WWs131ri
>>268
水木しげるの自伝漫画でニューギニアのことが出ていた。
水木は境港出身だから浜田連隊でニューギニアに派遣されたのでしょう。
漫画では本人がのんびりしている分、余計に戦場の悲惨さが伝わってきます。
270名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/04/11 10:39 ID:qVR4hU5z
>>269
境港だと多分松江連隊か鳥取連隊になると思う
271205:04/04/16 00:32 ID:UogOCj7j
浜田連隊は主に石見で人口が少なく広島県から入隊した人もいた。
ニユーギニアでは福山41連隊も戦った。ポートモレスビー攻略戦で
スタンレー山系頂上線に進出、所在の敵を撃破してイオリバイアを占領し
敵米豪軍の心胆を寒からしめた。しかしガダルカナル島の方が攻撃失敗で
ポートモレスビー攻略続行を不可能にして撤退、後退行動は食糧が枯渇し
難渋した。そしてギルワで圧倒的に優勢な敵に包囲され猛反攻を受けた。
物量に物をいわせた敵の攻撃に引き替え、補給の全く続かない我軍の憐れさ、
末期には地獄の如き様相を呈し、敵は我が負傷者を収容した壕を戦車で潰し
火焔放射器で焼き殺したりし、我方も食糧は尽き果て人肉を食むまでに、
それでも一歩も退かず長きにわたりくいとめたが、他の各地区守備隊全滅が
伝えられ、ギルワ陣地も最後が迫った。しかし撤退命令を受け脱出を
始めても悪路と食糧の欠乏で多くの犠牲者を出し、中には一個中隊が全滅し
一人の生存者もなかったとか。6ヶ月にわたる食糧の不足と悪疫で衰亡に
陥り退却した将兵であったが、誰一人「敵は強い」とか「戦闘で負けた」と
言った者はなかった。立派な戦歴をもつ福山41連隊が全くもったいない
使われかたをしたそうです。
272EXCULTer's / ティータイム♪ ◆Lyv1wb1ee2 :04/04/16 05:48 ID:2iFpazYW
>牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6
コイツはゴミだなオイw
273EXCULTer's / ティータイム♪ ◆Lyv1wb1ee2 :04/04/16 05:57 ID:2iFpazYW
ゴミスレあげ
274名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/04/16 23:37 ID:ERXkHHQG
>>273
ケーん♪はクーミん♪とおホモ達って他スレに書いてありましたが、
普段はどんなプレイを楽しんでいるのですか?
275名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/04/17 09:17 ID:XKhTa5ys
>>272
ここは、めでたいあんたの出る幕じゃない。
276EXCULTer's / ティータイム♪ ◆Lyv1wb1ee2 :04/04/17 17:20 ID:wpu+dDF/
ゴミスレあげ
277牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/04/18 00:00 ID:a8Ymjtzh
ニューギニアは数ある大東亜戦争の戦場の中で一番悲惨でありながら
それほど知られていないのが実情だね。
ニューギニアに南海支隊(支隊といっても兵力約1万6千で一個師団ほどの戦力があった)が
初上陸した頃のニューギニアを担任する司令部はラバウルの17軍でガダルカナルと
二方面を担当していて参謀のほとんどはガダルカナルにかかりきりでニーギニアを担当する参謀は
わずか二人だった。
作戦開始からニューギニアはまま子扱いされていたんだね。
その後は18軍が創設されてニューギニア専任になったけど、
戦略限界点を超えた戦場ではどうにもならないのは明らか。
18軍の基幹は20(龍山)41(宇都宮)51(宇都宮)師団と
北関東の兵が主力だったらしいけど
中国地方の兵は初期の南海支隊の隷下だったのかな?
278205:04/04/21 01:09 ID:jLUWPZl3
福山41連隊は初期南海支隊(四国編成)の指揮下で、
浜田21連隊第三大隊は、その後18軍51師団の指揮下に、
5師団歴戦の精鋭に中野師団長、室谷歩兵団長共々大きな期待と
信頼をかけ、大隊は敵の執拗な攻撃もその都度撃退し、
我が陣地に限って一歩も敵に譲らず、寡兵よく奮戦して期待を
裏切らなかったと。面白いのは弾薬は使用しなければ減らないので
よほどのことでないよ射撃はしないように皆が心得ており、
敵の襲撃があっても一発必中でなく一発で二人を倒すことを
考えたそうで、広島5師団は忻口鎮、徐州、南寧と弾薬不足の激戦を
多数経験しているので、大陸でも弾を適当に減らして討伐に出たそうです。
279名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/04/21 09:20 ID:JuPyA5r2
このスレ面白い
280牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/04/23 01:06 ID:bxD/Dlcj
ニューギニアの実相があまり知られてないのは
人間としてのタブーを踏み越えてしまったことが原因なのだろうか?
大岡昇平の「野火」にも記述されているいわゆる「猿の肉」って奴だ。
大岡はレイテだったけどね。
今でも存命のニューギニア生き残りの元兵士の中には
死んでも葬式はしないでくれと言う人が多いと聞いた。
自分は獣に堕ちてしまったので葬式をしてもらう資格がないのだと言う。
極限の戦場は死んでも地獄、生きても地獄ってことだ。
281名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/04/25 18:24 ID:61IodvV7
>>271
ちなみに歩兵41連隊はその後何とか軍旗を持って帰還
部隊は全滅だったとか

その後再編成されてレイテ島へ
ここからは41連隊はひとりも帰還していません。
全滅どころではない
282牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/04/26 00:33 ID:6R1UGnQE
たまにサルベージしないと沈みっぱなしになる。
良スレだと思うんだけどなあ。
283205:04/04/26 00:42 ID:AWMzJg3/
>>281このニューギニア転進で41連隊の損害は2,000余命が死没し、
約300名が負傷や病気で後送され、生存者は200名となっていた。
その後30師団の編成に入りレイテ島ハロ付近で圧倒的な敵と戦闘、
この戦闘で「その速射砲の行った戦車攻撃はレイテ島東部で行われた最も
有効な射撃であった」と米公刊戦史は伝えているそうだが、生存者も皆無の為
最後の情況もわからない。日華事変の30才台の経験豊かな幹部の時と比べ
最後の時期は現役将校11名、連隊長が40才台の他は大,中隊長20才台
だったとあり、矢張りいかに善戦しようと、玉砕、敗北は広島県人にとっては
不名誉なことなので、郷土資料では余り多くは語られていない。
284名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/04/26 00:50 ID:illjYfxy
おい牛、お前ちょっとイラク行って捕まってこいや。
285牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/04/26 00:59 ID:6R1UGnQE
>>283
玉砕は不名誉なことじゃないでしょう。
圧倒的な敵に対して死力を尽くして戦い抜く。
負け戦とわかっていながら故郷の名誉を守るため決して逃げなかった。
彼らあってこその今日だと思います。
286牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/04/26 01:06 ID:6R1UGnQE
>>284
お前も木の又から生まれたわけじゃなし、
爺さん、曾爺さんで戦争に行った人はいるだろう。
戦争でどのように戦ったか話を聞いたことはないのか?
婆さん、曾婆さんが銃後でどんな苦労をしたか聞いたことはないか?
その苦労の末に今のお前がいる。
下らねえ書き込みする暇があれば自分の爺さん婆さんの自慢をしろ。
それがこのスレの本旨だ。
287205:04/04/26 02:30 ID:AWMzJg3/
福山41連隊は明治期は広島県東部、岡山県西部編成だったが、昭和期は
安芸2郡(賀茂郡、豊田郡)と備後で純広島県編成に、日華事変に際しては
杭州湾で国崎支隊として6師団の先頭に上陸し南京浦口まで常に最先頭で
活躍柳川十軍司令官より感状、徐州では敵の包囲攻撃に屈せず零距離の
榴散弾射撃、戦闘部隊に非らざるも大小行李に銃剣を棒にくくり槍を作り
敵兵を刺殺する等激戦山東省匪団潰滅作戦で感謝状、南寧作戦には
敵の意表を突き奇襲し、敵の約2万は各所で友軍どうし相撃、
六百余の死体を遺棄し潰走安藤二十一軍司令官より感状、今村5師団長は
「南寧防御戦を遂行できたのは、41連隊の奮戦のお陰である」と。
広島11連隊も上海ー南京戦に行くはずだったが、師団主力が平型関、
忻口鎮で苦戦の為師団復帰、もし杭州湾に参加していたら、
大活躍したろうし、忻口鎮の激突は中止されていただろうに。
288205:04/04/26 03:30 ID:AWMzJg3/
>>285玉砕が不名誉だと言ったのは、子供のころ老人たちが
「玉砕なんかしてたまるか、命令出すほうがバカタレじゃ、わしは
従わんし負けはせん、小部隊になろうが一人になろうが」と言って
おられた。231連隊の戦記で「今日の苛烈をきわめた激闘を戦い
抜き、負傷しながらも一命を完うし、病院まで後送しても、誰とて
非難するはずがないのに、手当てもそこそこに帰陣して居る。廃墟の
ような陣地へ、明日の命も危ない死地である。我が死守すべきたる
陣地の責任感、自分が行くの犠牲心、身についてきた戦闘の自信で
あろうか、それにもまして、激戦に耐え抜いた誇りがあり、他人に
陣地をゆだねることは、その心の誇りが許さなかったのだろうか。」
と最終的には個人の誇りではないのでしょううか。
289205:04/05/01 00:35 ID:nb3w41be
戦記に「陣地を死処と考えるな、生き永らえて戦える処である。」
「敵を壊滅する為にどんな困難があるかも知れないが、
歯をくいしばって生きるだけ生きるのだ。」とある。
それに広島人は、基本的に人の風下に立って服従して戦うのを嫌う。
軍上層部が理想とする九州、東北兵とカラーが違う。
敵の射撃を受けても、応射厳禁の厳命を犯し、勇ましいのが軽機を射った。
独断禁を犯してやるには相応の勇気がいる。のち大目玉をくらったが、
結果的には敵軍の配備が明白になって、好都合だったとも言う。
確かに広島人は、軍上層部が求める兵隊らしい兵隊ではないでしょう。
290牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/05/01 01:28 ID:QwLOTkeq
玉砕戦では弾薬食料がつきると敵の火線のど真ん中に突撃して全滅。
こういう玉砕のパターンは一見華々しいようですが、
敵にとっては好都合。殲滅戦の手間が省ける。
この愚かさに気付かせてくれたのが小笠原兵団の栗林中将。
もとより生還は期さず。どうせ死ぬにしても粘って粘って一人十殺の戦法を取って
109師団(金沢)という3桁師団を率いながら硫黄島で敵と互角以上の戦いをした。
この戦法を沖縄で取り入れたのは牛島、長のコンビ。
島嶼戦を安易に考えていた米軍の戦略を根底から覆した。
米軍のコルネット、オリンピア両作戦を中止させたのは
硫黄島沖縄の英霊のお陰でしょう。
硫黄島では応射禁止をやぶって応戦したためにすり鉢山の砲台がばれてしまい、
緒戦で潰されましたけどね。
惜しむらくはもっと早くにバンザイ突撃の愚かさに
気付いていればってところでしょうか。

291名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/05/02 17:24 ID:n7RLWq1i
かわいそうな43&44連隊、世紀の大ボンクラ大将のおかげで
評価下げまくり、やはり戦略がダメな場合は戦術や戦技でカバー
出来ないの証明だな。将が黒木や児玉なら・・・・
292牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/05/04 01:45 ID:JvzKA6gw
司馬遼太郎の「坂の上の雲」では203高地でいたずらに犠牲者を出している
乃木に代わって児玉が指揮をして203高地を取り旅順を攻略したと記してあって
乃木=無能、児玉=陸軍の頭脳という評価ができてしまったが、
最近はその評価も少し変化しているようだね。
293205:04/05/04 22:39 ID:giqflff8
203高地が出たので昭和の203高地と呼ばれた忻口鎮攻撃、昭和12年
10月13日から11月3日まで20日間の死闘を展開、攻撃する5師団は、
配属部隊(15混成旅団など)あっても41連隊は上海で、また過去の戦闘で
人的損耗も大きく、兵力一万三千人程度(復帰した11連隊をふくむ)
日本軍は操典にあるあらゆる種類の攻撃を行い、結果ことごとく失敗した。
そして砂塵により視界をさえぎり、目を痛めるもの多発、昼夜の別なく
間断のない襲撃して来る敵の反撃に、その都度損害を出しながら撃退、しかし
我将兵は疲労、寒気、弾薬、糧食の不足に苦しみ、戦友の遺体を土嚢代わりに
積んで戦い続けた。10月30日広島11連隊は野砲援護のもと総攻撃、
敵の気分的な弛緩時点をとらえ敵に大きな損害を与えた。11月2日戦況は
急に活発化し、山口42連隊配属工兵のトンネル堀開が成功して敵陣地爆破、
友軍機が敵頭上へビラを撒いた。敵は猛射し翌日には銃砲声も敵の姿も
なかった。全く悪戦、苦闘の激戦だった。
294205:04/05/04 23:53 ID:giqflff8
続いて寺内司令官(元5師団長)は忻口鎮での停滞に不満で、
「東条中将と板垣5師団長(ニ葉会メンバー)の合作によって無謀に
前進し失態を演じた」と憤激した。
粟飯原21連隊長と西村参はともに陸大出身の同期だったが、不仲で
両者の対立は深刻なものだった。忻口鎮の攻撃の際も1日だけ準備の
余裕を願った21連隊長の具申は冷たく却下され、翌朝から猛攻を
開始して惨状を現出した。また時として参謀長自ら連隊を指揮する
こともあり混乱した。
大場42連隊長も留守宅に投石されたり、嫌がらせの手紙がきた。
その文面に「連隊長は会津の出身だから明治維新で長州につぶされた。
最近の北支戦線で山口42連隊の死傷者が多いのは、連隊長が
恨みをはらそうと故意に兵隊を危地に進ませているからだろう」と。
この様な人間関係で兵達は激戦した。
295205:04/05/05 00:57 ID:NLV0s67q
山西の敵閻錫山は約30年にわたり育成した山西軍3個師及び
中央軍9個師、四川軍(八路軍)約3万も加わっていた。
山西軍は鈍重で精悍性に欠けるが、素朴で困苦欠乏に耐え、北国の
兵隊らしく、日本の東北兵に似ているのは風土的特徴といえる。
当時日本軍上層部は最強山西軍、最弱蒋介石の中央軍と考えて
いたらしい。閻は山西軍を温存させようとして中央軍を山西省に
入れたが、意に反し中央軍は一線に展開せず、山西軍の背後に在って
督戦軍と化してしまった。敵も拙劣なことをした。
忻口鎮付近の戦闘で戦死1,651戦傷4,594計6,245名
参加兵力からみたら忻口鎮の死傷者は極めて高い。山西省の陣地攻撃
と抗州湾上陸、広島師団は忙しい限りでした。
そう言えば、違う板のカキコでこう書かれてた

「戦争末期、大阪の部隊は、勝てないとなるとバラバラになり
自分の命を守ろうとしてた。だが、九州あたりの部隊は、突入してきた。
だが、戦後、米軍の将校からすると、むしろ、つつ激して貰った方が楽だった。
撃ち殺せばいいから。むしろ、バラバラになった大阪部隊を殲滅する方が
手間がかかった。」と。
まあ、見方を変えればこんなもんかな。このカキコが真実かどうか分からんが。
>>296
訂正:つつ激→突撃
298牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/05/08 00:23 ID:a8YgZH6I
>>296
ジェームズ・ミッチナ−原作の「南太平洋」という映画を知ってるか?
南太平洋の最前線にある島が舞台になっているミュージカル映画だが
そこでの米軍の水兵の生活は次の蛙跳びのために作戦準備中とはいえ
まるで戦争とは無縁なのんびりしたものに描かれている。
それもこれも島嶼戦で日本軍が玉砕し文字通り全滅してしまったので
ゲリラ戦に対する備えが必要なかったからだ。
グアムの横井伍長やルパングの小野田少尉のように一人で生き残っても
組織的抵抗は不可能で逃げ回るしかなった。
そして生き残るということは横井さんが帰国したとき
「恥ずかしながら帰ってきました」と言ったように恥ずかしいことになってしまう。
号令一下、部隊が玉砕してしまうことは数多い日本軍の欠陥の一つだ。



299205:04/05/12 02:22 ID:F6NGlwQV
こういうのもある。「広島の者は手を挙げろ」初年兵達は一斉に
握りこぶしを挙げた。全員広島出身だ。
「お前らの先輩はなっとらん。指揮官一人敵陣に突っ込ませておいて、
誰もついて行きはしなかった。」これは比喩だろうか?
「広島の兵隊には退却しろ。そして後方を衝け」これは敵の本に書いてあった
言葉だそうだが、弾を食らってすぐ頭にくる県民性を物語っている。
中隊長は決心と攻撃計画を納得させるつもりで居たが、その必要はなかった。
「必死の顔をする者は一人も居ない。熱心に聞いては居るが、笑い話が
混じる。大した連中が揃ったものである。これなら戦える、勝てる。
よーし見ていろ大隊長がいう半分どころか、戦死者は一割以下に喰い止めて
見せるぞ」と楽天的な県民性と言うべきでせうか。
300XO田舎 ◆urW4FVDB5k :04/05/12 02:39 ID:xONHvpmN
   .┌"" ̄〔二二二〕 ̄""┐
 ┌'"" ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄""┐
 |゙        .(○○).       ゙|
 | (1|7|M) l     l [ご当地] |
 |..____________ |
 | | | ̄ ̄ ̄ | ̄ ̄ ̄ | ̄ ̄ ̄ | | |
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 | ────────────..|   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 |        ⊂ニニ⊃     .JR  | < よゆうで300ゲット クソ田舎 マジック!
 | _        | ∩ |        ._ |   \_________
 |_o____.⊂ニ⊃_宙____o_|
  l」''豆||豆''H l×ロl H jj''||豆''l」
 ┌─┘_'__三三三三三'___└─┐
  \______________/
      ノ ̄ ̄`ゞ
     ノ二ニ.'ー、`ゞ         ズビーシ
    Y´⌒` r‐-‐-‐/`ヽ、≡=─
    |; ⌒ :; |_,|_,|_,hに丿ヽ ≡=─
    .|: ; : : : .| `~`".`´ ´“⌒⌒)≡= -
    . |; ; ; ; 人  入_ノ´~ ̄ ≡= -
     l ; ;/   // /''  ≡=─
301名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/05/15 12:26 ID:5RY/FKob
九州の部隊は中国で残虐行為を繰り返していた
302牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/05/15 23:04 ID:4CE2ar2R
>>301
おいおい、無責任な事書き込むなよ。
恐らく、南京を攻略した熊本の第六師団のことを言っているんだと思うが、
その時、第六師団はどういう状態だった知っているのか?
長くなるから省くが日本人と中国人の戦争観の違いが後に南京大虐殺という
不祥事を起こしたとおれは理解している。(あった、なかった論はキリがないから
勘弁。でも中国人捕虜の虐殺があったことは確か)
あの状況で九州以外の部隊が主力だったとしても同じような事件は起きた。
逆に問いたいがどこの地方の部隊だったら残虐行為がなかったと言えるのか?
ここは各地方の部隊を公平に称えるスレであって根拠なしに貶めるスレではない。
もし、どうしても貶めたいならそれなりの根拠を書け。
議論は望むところだし、このスレも面白くなると思う。
303205:04/05/18 18:41 ID:n/x7VEmW
日華事変では、日中両国とも暴行、放火などの事件を起こした。
澄田39師団長は「日露戦争では軍紀の厳正なことで世界の絶賛を博した
日本軍も日支事変では不幸にして、いまわしい事件が続発した。
少なくとも藤部隊だけは、この悪風潮から脱却して、日露戦争時代の先輩の
名をはずかしめない、真に立派な部隊に仕上げることを、深く念願とした。
軍紀と訓練の向上をはかり、意図の徹底に努力した。」と
地域の部隊というより、指揮官にもよるのではないでしょうか。
304名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/05/18 20:13 ID:STA9duQM
熊の人間の性格から言ってありえるな
305名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/05/19 11:54 ID:WcdSHD6g
歩兵は郷土の連隊に入隊するとして、砲兵や工兵、輜重兵などはどうだったのですか?
306牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/05/19 23:25 ID:duJ0GzlR
>>305
砲兵工兵などは特科兵と呼ばれて、歩兵は連隊単位で一連隊区から徴募されたが
特科兵は地方(お国板の地方じゃないよ)での職業などや適正を考慮して
師団単位で師団管区から徴募された。
つまり師団が4個連隊編成なら四連隊区から選ばれる訳だ。
そのため団結力は歩兵よりは若干弱いかったそうだ。

307205:04/05/20 00:31 ID:VKB1qeOf
>>305砲兵、工兵、輜重兵も基本的に郷土部隊です。
宜昌で広島231連隊第7中隊の第1土塁に敵の砲撃、米軍機による空爆で
軍曹以下12名は防戦、3日間に及ぶ爆撃で陣地が壊滅したと判断したのか
500人の兵力で突撃してきた。陣地直前に敵を撃退したが、その後も
敵は何回となく反復突撃し、遂に交通壕を堀り突入したため、白兵戦で
撃退したが、時に陣地の後方に住んでいる中国人が、炊き出しをして、
陣地に差し入れてくれた。日頃から民衆に信頼されているからだろうと
みな強く心をうたれた。「米軍機P51が飛来し低空射爆撃、全く敵から
見たら赤子の手を捩じる様に思っているだろう。普通であれば守備出来る
陣地ではない。広い陣地に十名余りでは、中支にあって米軍と闘っている
ことになる。負けてたまるか。」宜昌を守る事が出来たのも地元中国住民の
協力のおかげでもある。
308205:04/05/20 02:16 ID:VKB1qeOf
昭和16年10月栄誉1師団と機械化15師団が嶺河口陣地を包囲攻撃
して来た。守備兵力は広島231連隊11中隊の120名と投降帰順
中国兵150名。初回から3回も夜襲、反復突撃を撃退した。栄誉1師団も
敵ながらあっぱれな奮戦だった。敵は死傷者の収容に移ったが、情義を
もって見逃してあげた。敵方の無電を傍受したところ「死傷者800、
至急補充頼む」しかし宜昌で仙台13師が苦戦、敵の奪回寸前の為
広島39師団は救援にむかい、嶺河口の包囲は解けず、敵の砲撃は
最高の猛威をふるい、この小さな陣地に一千発をこえる集中砲撃を浴びせ
かけたが、1名も死傷者をださなかった。幸運なのか、戦上手か不思議な
ことだが、包囲中の敵は、中国人保安隊に対し寝返りを勧告
(家族を含め処刑すると脅迫)したが、中隊長との情義的密着は固く
その国民性が示すとうり信頼の途をえらんだ。この籠城戦でも、いくさに
勝つには、地域住民の協力と地域住民に信頼されることでしょう。
309名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/05/20 11:13 ID:BAuksi5A
戦時中は力士も多く徴兵されたけど、職業や適正や考慮されたのか
砲兵隊に入隊したものが多かったらしいね。
310205:04/05/22 00:54 ID:5crT5nOF
砲兵でも連隊歩兵包隊があり、歩兵砲は一発必中を信条とし、
最前線の部隊には頼もしい限りだが、その命中程度のいかんによって、
ぼろくそに叩かれたり、守護神の様に持ち上げられたりで奇妙なつらい
立場にあるそうです。
それと栄誉1師と闘った嶺河口防御戦のもようは、当時偕行社発行の
機関誌により広く知れ渡ったらしい。住民も敵に焼き払うとおどかされたり、
隊長の首に十万元の賞金をかけたりしたが最後迄協力してくれた。
嶺河口籠城の歌の一部 「それ来た今度は総攻撃 来い来い束になって来い
日頃鍛えたこの腕が 頂好頂好(テンホテンホ=大いに結構)とうなってる」

311205:04/05/27 02:08 ID:fa3S0TFJ
広島11連隊の隊風、青年将校についていえば陸軍士官学校卒業の際、
六鎮台司令部の所在地の連隊には、優良な成績保持者が配属されたそうだが、
陸軍大学校に入校する青年将校は11連隊から少なかったようで、
十年近くも合格者皆無のこともあったらしく、勉強より演習訓練に熱心で
その資質を備えていると思える将校すら、頭からこれを受験しない者も
相当にあった。陸大入試に落とされてもクソくらえといった伝統のほか、
将校はみな曲がりなりにも確乎とした自信か自惚れかをもち、個性の強い、
一癖もニ癖も持ち合わせた人間が多かったらしく、軍神と謳われた郷土出身
杉本五郎少佐(死後中佐)も栄進栄達の執着者を最も嫌い、上層部の派閥に
激憤して亡国の溝と称し、将校に対し極めて厳格に模範を要求したが、
部下に注ぐ愛情は格別で、退役者も困る事があると私宅を訪問して
助けてもらった。菅大佐にしてもそうだが上層部に厳しかった。立身出世を
馬鹿にする広島らしい伝統、個性の豊かさも郷土の誇りでもある。
312名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/05/28 16:56 ID:XzmGOP92
>>302
司馬遼太郎氏が書いてたよ、九州の部隊は暴走したとね
ただオブラートに包んだような、歯切れの悪い書き方
だったが。
313205:04/05/31 02:38 ID:rtXWKdBS
広島5師団は北清事変で、その勇敢さと軍紀の厳正さを眼前に見ていた
英軍は「我々は、貴軍と共に戦ったことに、無上の光栄と誇りをもつもので
ある」の一文を我軍に提出した。間もなく日英同盟の締結となったが、その
英軍とマレーで戦うとは、皮肉なものだ。
元梶浦広島231連隊長は「宣撫に力を入れて、殺、焼,盗の三悪を戒めた。
その証拠に前部隊(仙台13師団)の時は鶏、豚は全く見られなかったのに
交代後住民は安心して鶏豚を飼い路上に女、子供が戯れ遊ぶ様になった。
殊に交戦中水や炭を運んでくれたこともあった。」とあり軍紀の厳正と
中国住民の信頼が精強度に比例している。他の部隊の軍紀については余り
知りませんが。
314名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/05/31 23:57 ID:nbBYsFA6
歴史板でやった方がいいと思うが
315牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/06/02 23:59 ID:t6CqOVEG
最近買った戦記物。
「日本陸軍がよくわかる辞典」
「日露戦争名将伝」
どちらもPHP文庫。
まだ読んでないけどね。
>>312
熊本師団が残虐行為をしたことは事実だ。
だが、それは日本軍の体質に大いに関係している。
補給が貧弱だから捕虜を食わせていく余裕がない。
だから捕虜は殺さざる得ない。
また中国人の戦争の仕方は2000年前から変わっていなかった。
中国の兵士は将棋の駒のように捕虜になれば殺されずに敵側の兵士として働くことになる。
だから捕虜になることに抵抗感はなかった。
虐殺は捕虜の扱い対する教育も余力もなかった日本軍としてはやむを得ない処置だった。
それを一地方の気質のせいにするのは間違いだ。
責任を負うならマクロでは日本人全体。
ミクロでは余力のないまま戦争を始めた大本営の参謀たちだろう。
言うまでもないが参謀の出身地は日本の全地方に及んでいる。
316 :04/06/04 14:14 ID:QO3yacGi
うーむ、面白い。

良スレあげ
317205:04/06/04 14:57 ID:k2hoiZ6G
>>315日本も明治以前は将棋の駒の様に、これは東洋共通ともいえますね。
捕虜になることの抵抗感については、南寧戦では「我軍の捕虜となることを
嫌い、手榴弾で自爆する兵を散見した。」とあり、また明清戦争の
ありさまを記したマルチニ神父の「タタール戦記」に、「明の君主の救援に
はせ参じた司令官のうちに、一人の英雄的な婦人がいた。彼女は三千の兵を
つれて四川省からやってきた。この気高く心の広い婦人はただタタール
(満州人)に対してのみでなく、のちに皇帝に反抗した謀反人に対しても、
彼女の勇気と胆力をしめした。」この女傑は秦良玉と呼ばれる四川、
湖南省に住む苗族の女性で、苗軍団は明代土兵と呼ばれ広西省の少数民族で
構成された狼兵(対倭寇戦の時は司令官瓦氏(女性)で軍紀厳正で民間人の
食糧をうばった狼兵は即座に処刑されたという。)と共に精強で一方数万の
朝鮮軍が、明の督戦武官を谷底に投げ満州軍に降伏したが対照的であった。
南寧も広西省だった。全てが捕虜となることに抵抗感はなかったとはいえ
ませんが抵抗感のない方が多いでしょう。
318205:04/06/06 18:18 ID:aOFd4OrX
女傑、秦良玉の手兵は白柄組、日本では旗本奴の組で真似たのでしょう。
それと中国ではよく督戦軍が後方にいるので、後ろからやられるより
日本軍の捕虜になった方がよいのかも。
319熊出身:04/06/07 23:48 ID:6tSyadGl
そういや8年前死んだじいさんが、
「♪今日も勝ったぞ6兵団、今日も負けたか9(?)兵団♪」
(歌詞はかなり記憶曖昧・・・)てな鼻歌を風呂で歌っていたのを30年前に聴いた。
じいさんは長兄だが、弟2人を満州と沖縄で亡くしたことをたまに俺に語ってくれた。
曰く、弟達は地元の相撲大会じゃ負けたことがないとか、ただ一人戦地から無事で
帰って来た自分には"あの世で弟に合わせる顔がない"とか。

良スレですね。
>>牛沼久太郎殿
貴方が>>302で書かれたことを、小5で熊本→広島に転校したとき、当時の担任に
言えたら、その事実を知っていたら、少しは楽だったかもw
320205:04/06/11 01:35 ID:WqTD7/g3
古今世界いずれの戦場でも、現住民を味方にせねば、占領警備は出来
なかったといわれる。それは部隊の軍紀にあり、誠意ある宣撫活動による。
広島231連隊は、訓練断行と軍紀厳正を両立させようと努力し、
昭和16年の沙市時代には第十一軍中に傑出するまでに到った。
この目立たない地味な努力は次第に結実し、敵軍の大反攻の時ですら
捕虜部隊である保安大隊は、一人として脱走するものもなかった。
嶺河口でも保安隊長楊少佐は、近郷の貧農出身で英才を惜しんだ故郷の
人達の温かい配慮で、官軍学校に送ってもらった。そのおかげで今日ある
身だ。彼は正義感も強く、熱烈な郷土愛に燃えていた。そして敵兵達と
同一の民族である。学問を学んだだけに、漢奸と呼ばれるのも屈辱だろう。
さぞ苦悩したであろう。そして住民の方々も。広島人としては彼らの
誠実と信頼を忘れてはならないと思います。
321牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/06/13 02:02 ID:sA8cQfu3
今週の「そのとき歴史が動いた」で203高地をやっていたな。
乃木を名将のように扱っていたが真相は如何に?
結局乃木は長州閥のお陰で出世できたように思う。
乃木の大きな罪は203高地を銃剣突撃で203高地を陥してしまったこと。
それが後の日本軍の基本方針になり大東亜戦争で無用な犠牲者を出した。
322名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/06/13 10:59 ID:sD+wGUgK
>>321
第一次世界大戦の欧州戦線の要塞戦の死傷者数とか
クリミア戦争のセバストポリ戦を見ても
乃木は結構いい指揮をしてたと言う説があるけどね

最近は乃木ダメ将軍説はちょっと弱いみたい
323205:04/06/13 18:36 ID:1ZtcnLkE
>>321南寧戦で第21連隊に配属の第5砲兵連隊第3中隊は、約500m
局地的後退の際、野砲3門を埋没したが、それが敵の手に渡った。
砲兵5連隊長、堀尾大佐は責任を感じ、今村師団長を訪ね、中隊生存者
約60名を自ら指揮して敵中に突進しようと許可を求めた。しかし師団長は
許可しなかった。代わりに南寧攻略時に捕獲したフランス製の砲4門を与え
今後の活躍に期待した。その時今村師団長は乃木将軍の忍辱の生涯も語り
連隊長の突進を断念させた。名将今村均氏は乃木将軍を尊敬していた
そうなので、ここでは無用な犠牲者をださなかった。
結局南寧は21軍の方針「軍主力の到着まで、敵を引き付けておく」で
立派に固守されたが、困難な引き付け役は日清以来、常に広島師団が
受け持ちで、快勝よりも紙一重の激戦の方が多かった。

324名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/06/13 19:46 ID:ZrJ/4Jr4
乃木のおかげで、その後の43と44連隊は一時的に
単独部隊が組めなくなるほど消耗してしまった
あの時の司令官が乃木でなく黒木か児玉だったらと
うちの死んだ爺さんがよく言っていた。爺さんの
爺さんが44連隊で突っ込んで死んだからな。
325205:04/06/17 18:02 ID:Z2KDG7Ul
>>324善通寺11師団は、昭和12年9月から10月下旬の上海戦でも
損害を多く出した。善通寺師団も広島と同じく上陸師団だったので激戦が
多かったのでしょう。日本軍の損害は戦死9,115名で戦傷者は
31,257名に達した。参加師団は名古屋3、善通寺11両師団に
兵力不足で9月中旬に金沢9、仙台13、東京101の3個師団を戦線に
投入、敵は従来の兵力へ張自忠の3個師団と陳誠の部隊を送り、クリークと
トーチカの巧みな利用で堅固な防御陣地を構築していた為各所で肉弾戦を
展開した。11月5日に柳川兵団が杭州湾上陸(福山41連隊を先陣に
続いて熊本13、続いて大分47など6師団に久留米18、宇都宮114
師団を加えた)で上海の背後を突いて敵もついに崩壊した。陳誠、
張自忠両将は広島部隊と宿縁で陳誠将軍は南寧で陣頭指揮した。
326名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/06/22 22:51 ID:m8Tk+jyy
>>205は広島糞慰撫史観の親父ww

272 名前:名無しの歩き方@お腹いっぱい。[] 投稿日:04/06/22 22:18 ID:xV6Odb2P
>>225東北は先の戦争でも強かったのか?ガダルカナルは、冬期作戦は、
宜昌では十センチ加農十二センチ榴弾砲を持ち兵力でも広島部隊の
二倍以上を持ちながらやられるし、救援したのは広島師団、
戦歴で広島師団と比べてみればよい。
まあ東北は前九年合戦から戊辰戦争まで敗北続き、いや先の戦争までか
他国に蹂躙された屈辱の歴史からか自分を強く見せたがるのだろう。
「屈辱と権威への恭順を持つ集団からは勇気ある精神はうまれない。
この集団は屈辱的恭順性を持ち、従順さがその障害となっているのである。
(屈辱の歴史は卑屈な精神と敵の餌食となるような弱者にしてしまう)」
広島は他国に蹂躙されたことがないので、勇気ある精神を持ち、損ずるこが
なかった。
327広島糞慰撫史観糞親父がウザイ:04/06/22 22:55 ID:m8Tk+jyy
関が原で西軍が勝っていれば京都が首都のままだった
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/chiri/1087743173/272

328牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/06/24 00:36 ID:TlECm3fO
ネタ切れ気味なので沖縄戦の停戦記念日なので沖縄戦について少し。
沖縄戦は日本軍が無理矢理沖縄の民間人を狩りだして
悲劇を倍加させたように言われているが必ずしもそうでもない。
沖縄防衛の32軍司令官牛島満中将は沖縄赴任後にまずした仕事は
戦闘員と非戦闘員をはっきりと分け、
戦闘員だけが戦闘に臨める体制を作ることだった。
そのために県民の県外への避難を進めその過程で対馬丸の悲劇も起こっているが
避難させることができた県民は約10万。
米軍の侵攻が予想以上に速かったために残った県民は孤立してしまった。
このとき初めて防衛召集がかかり約3万の民間人が軍に組み入れられた。
県民の疎開が遅れたのは台湾沖海戦の誤報による楽観主義が主な原因だと思う。
大本営も32軍の基幹第9師団を台湾に抽出してしまったしね。
一応、牛島は県民の疎開の努力をしていたことを知ってほしい。
329名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/06/24 04:07 ID:ClMos/Rt
詳しくないんですが・・、
先日テレビでやっていたけど、
県民に対して島南部は主戦場になるので島北部に避難する様なお達しが出ていたそうですね。
島北部も大変なとこですが、与えられた状況下でやれることはやったのでは?
と思います。
330牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/06/25 00:12 ID:cOH5mGlX
>>329
沖縄は島だからね。
どこへ逃げても同じ。
だから本土への疎開を勧めたんだけど、船もいつ沈められるかわからい。
現に対馬丸は赤十字をつけていたのにやられた。
だから県民は究極の選択を迫られ沖縄に残ったのではないかと思う。
結果、多くの県民が残り戦禍に巻き込まれた。
兵隊も必死だ。
民間人が足手まといになってそれで自分の命が危なくなるかもしれない。
その時、初めて皇軍の兵士が同胞に銃を向けるという悲劇が起こった。

331名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/06/25 00:31 ID:goHQPhuJ
牛沼久太郎さん

かなり詳しいですね。
感服いたしました。
私の祖父はビルマから生還した一人です。

これからも頑張って下さい!

宇都宮 桜通り十文字より。
332牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/06/25 00:46 ID:cOH5mGlX
>>331
ありがとう。
お祖父様はビルマの帰還兵ということは第33師団通称弓兵団だね。
インパール戦では最もインパールまで近付いた師団として有名ですね。
あの戦いに参加して生還したお祖父様は間違いなく郷土の英雄です。
これからもお祖父様を大事にして下さい。
333名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/06/25 01:03 ID:goHQPhuJ
牛沼久太郎さん

いやぁ、本当に凄く詳しいですね。
脱帽です。。。

祖父は5年前に亡くなりました。
私が小学校まではたまに戦時中の話をしてくれたんですが、
中学に上がるとピタッとその手の話はしなくなりました。

そう言えば、那須の戦争博物館を見て来ましたが、
中々良いですね。
館内の案内人は軍服を着込んで熱心に説明してくれます。
334牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/06/25 01:22 ID:cOH5mGlX
那須の戦争記念館ですか。
よく右翼系の雑誌に広告が出てますね。
館長がエキセントリックな人のようなので遠慮していました。
誤解だとしたら大変に失礼なことですね。
暇を見つけて行ってみたいと思います。
335名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/06/25 01:36 ID:goHQPhuJ
>>334
牛沼久太郎さん

えっ、そうなんですか。。失礼しました。
右翼系の雑誌は見たことがないので・・・。

>館長がエキセントリックな人のようなので遠慮していました。

確かにそうかも。
でも、気さくな人で印象は悪くなかったですよ。
私もこの間初めて行ったんですが、
観光に来てた方達もごく普通の人達だったです。

さて、寝ます。
ありがとうでした。
336名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/06/29 23:22 ID:4LPvYWPh
スレ違いですいませんが、

曽祖父が第七騎兵連隊に在籍していたのですが(仏壇に記章がありました)、
戦時中に何をしていたのかgoogleで検索してもわかりません。
曽祖父、祖父は亡くなっており、父に聞いてもわかりません。
知っている事がありましたら教えて下さい。
337牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/06/30 01:20 ID:K0cPgMuD
>>336
北海道の方ですか?
第七騎兵連隊は旭川の第七師団に配属されていますね。
戦績については詳しいことはわかりませんが、
日露では乃木の第三軍隷下で203高地の攻撃にも加わったようです。
騎兵とは第一次大戦まではその名の通り馬の機動性を生かして
長距離の斥候や奇襲に活用されました。
「坂の上の雲」の主人公の一人である秋山好古大将は帝国陸軍の騎兵の生みの親であり、
騎兵を得意とするロシアのコサック騎兵と互角以上の戦いをしました。
第二次大戦中の騎兵は性格を変え自動車と装甲車を活用した攻撃部隊となり、
一部は戦車隊になりました。
恐らく、曾祖父様は歩兵の攻撃を支援する部隊の一員で兵隊の中ではエリートと言えるでしょう。
第七騎兵連隊は師団と行動を共にしたと考えられます。
第七師団は大戦中は主に北海道の防衛に当たり終戦も帯広で迎えています。
海外で悲惨な戦闘をせずに済んだ幸運な師団です。
338牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/07/02 01:01 ID:7T2muqIV
たまには海軍の英雄の紹介を。
江田島の元海軍兵学校の資料館で最も感動し且つ涙を誘うのは
6号潜水艇の艇長であった佐久間勉大尉(福井県三方町町出身)の遺書だろう。
明治43年4月15日、まだ実験段階にあった潜水艦で事故が起き
佐久間の乗り組む6号潜水艇は沈没してしまった。
乗り組み員は必死に浮上を試みるがやがて全員が窒息死してしまった。
艇長の佐久間は苦しい息の中で冷静に状況を記録し遺書を残した。
その時の遺書。
小官の不注意により陛下の艇を沈め 部下を殺す、誠に申し訳なし。  
されど艇員一同、死に至るまで 皆よくその職を守り沈着に事を処せり。 
我れ等は国家のため職に倒れしといえどもただただ遺憾とする所は
天下の士はこれの誤りもって将来潜水艇の発展に打撃を与うるに至らざるやを
憂うるにあり。
願わくば諸君益々勉励もってこの誤解なく
将来潜水艇の発展研究に全力を尽くされん事を
さすれば我ら等一つも遺憾とするところなし。

同様の事故は欧米でも多数発生していたがこれほど沈着冷静に遺書を残した例はなかった。
この事故から約70年後の昭和65年、
日航のジャンボ機が墜落した時も同様の遺書を残した乗客がいたが
死を目前にしてもなお周囲を慮ることができるのは日本人の美徳と言っていい。



339205:04/07/02 23:52 ID:NBxIm0wu
大東亜戦争で第16軍司令官となった今村均中将はジャワ島に敵前上陸を
敢行した。16軍の主力は2,38、48の各師団と第56混成旅団の
約6万。ジャワ島の守備兵力は蘭、英、豪、米の連合軍約8万で、総指揮官
はテルプールテン中将でこの中将は、下級部隊が日本軍の動向を知りたいと
司令部に連絡すると「まだ新聞の朝刊が出ていないのでわからない」と返事
をして、3月1日に日本軍が上陸しているのに3日の昼も「まだ日本軍は
上陸していない」と発表し、その声明を出した5分後に日本軍の軽戦車が
姿を見せた。5日の夕方になってもバンドンで会議し、「我がオランダ軍は
降伏するが、他の連合軍は勝手に戦闘してくれ」と宣言。7日未明に
38師団若松大隊700名がバンドン郊外に突入し、3月10日に16軍は
バンドンに入城。(2師団と38師団の確執については伊藤正徳氏の
帝国陸軍の最後進攻篇P124,決戦篇P83〜85にもある。)
なぜ敵軍は戦意がなかったのか。明白なことは現地人を敵としていた
からだろう。長期間の搾取の為現地人は恨み骨髄になり、日本軍に協力的
だった。その後の日本軍政は今村中将の人徳もあり例外的な成功をおさめた。これは日本陸軍中でも異例で、
明治から昭和のまでの名将といえば、矢張り今村均将軍であろう。
340336:04/07/03 22:11 ID:Su8SR8WO
>>337
牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 さん、ありがとうございます。
曾祖父は帯広で終戦を迎えたそうです。祖父も帯広出身です。
軍服姿で馬に乗っている写真が幾つかありますが、所属や階級がわかりません。
親戚でも知っているものがいません。
戦場に行くことはなかったとはいえ、子孫へ戦時中に何をしていたのかが伝わらないのでは曾祖父も浮かばれないでしょう。
調べる方法があれば・・と思っています。

341牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/07/07 01:19 ID:yjWMduk9
>>339
戦後今村はオランダによって戦争裁判にかけられ、
オランダはインドネシアを失った憎しみから根も葉もない罪状をでっち上げて
死刑を求刑した。その時インドネシアの初代大統領のスカルノは密かに使いを送って
刑場に行く途中で襲撃隊を送ってあなたを助けるからと提案したが今村は断ったと言う。
理由は同じようにでっち上げの罪で死刑になった部下に申し訳ないということだったらしい。
裁判は罪状のでっち上げがばれて禁固10年になり巣鴨で服役することになったが
今村はインドネシアの小さな島であるマヌス島の刑務所で服役したいと言い出した。
理由は旧部下の戦犯たちと一緒に刑期を務めるため。
これに対してマッカーサーは次のような談話を残している。
「私は今村将軍が旧部下戦犯と共に服役するためにマヌス島行きを希望していると聞き、
日本に来て以来初めて真の武士道に触れた思いだった。
私はすぐに許可するよう命じた」
342牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/07/07 01:30 ID:yjWMduk9
>>340
市販の文献では詳しいことは判らないと思います。
元第七師団の兵士たちによる回顧録や軍籍名簿は
自費出版や私家本の形で出ているかもしれないので
師団の編成地であった旭川の図書館にもしかしたらあるかもしれません。
図書館のレファレンスに相談してはいかがですか?
旭川くらいの都市の図書館ならレファレンスもしっかりしていると思うので
もし図書館にない場合でも史料を探してくれたり最寄の軍人会を紹介して
くれる場合もあるでしょう。
343205:04/07/13 02:02 ID:/REAZCng
今村均将軍は、「司令官宿舎に泊められ酒好きの将軍の無邪気な
話の中から、広島師団が如何に良い伝統の美質を有するかを察知し何とも
いえぬ快心を覚えた」また「仏山は人口約20万を擁する。南寧攻略軍の
占領した市街の多くは、広東をはじめ市民が悉く避難し無人の境を
なしているのに、仏山とその地方一帯は占領部隊の適切な処置により
一人も離散せず、日本軍と相互し生活起居を同じくしている事は
珍しい風景だった。この点からも第五師団の各部隊長に私は大きな敬意を
感じた」とゆうておられた。(わしは自慢しすぎですが、広島人が
軍紀厳正の素質もありと考えております。)広島でも「今村のおやじは
話がわかる」と親しみを持ち、悪く言うひとはおらんでしょう。

344大都会・仙台 ◆NuZY6ZdVBM :04/07/13 02:06 ID:QSPXAAGX
>>343は一体何歳なんでしょうか。

まるで知り合いのように語りますね(藁)
345牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/07/14 01:15 ID:P8+zEDT1
>>344
それだけ親しみがあるからだろ。

今村均大将は宮城県出身。陸大27期の首席。
インドネシアの占領政策だけでなくガダルカナルの撤退戦でも評判が高い。
孤立した島から日本軍が撤退できた最初にして最後でしかも唯一の例。
アメリカ海兵隊が総攻撃を開始した時は既にガ島はもぬけの殻だった。
大本営にこの人がいれば玉砕戦は激減しただろうにね。
346名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/07/15 20:46 ID:oQIsXduU
>孤立した島から日本軍が撤退できた最初にして最後でしかも唯一の例。
キスカ島の撤退を指揮した大村他に氏んで謝れ
347牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/07/16 00:39 ID:ERgH5NUo
>>346
ごめん。アリューシャン方面は念頭になかった。
というかキスカのことはアッツの山崎保代大佐の玉砕が有名すぎてよく知らない。
キスカの指揮官の名が大村というのも今知った。
知っていることがあれば教えてほしい。
物の本によればアッツの予想外の抵抗にびびった米軍が攻撃を躊躇している隙に
キスカから撤退したようなことが書いてあった。
それと書名は忘れたがアメリカ人が書いた戦記に
米軍がアリューシャンに師団単位の大兵力を投入したのは
アメリカの本土だからというのは表向きの理由で
実は日本がB29クラスの戦略爆撃機を完成させた場合、
アリューシャンが中継基地になるおそれがあったからと記してあった。
日本軍は戦楽爆撃の構想など原爆と同じくらい現実味のないことだったので
何故北辺の島に米軍が大兵力を投入したのか理解できなったらしい。

余談だが日本軍が戦略爆撃機の中継基地を作るために
アラスカに密かに調査部隊を派遣してそれとアラスカの森林パトロールが闘うという
「アラスカ戦線」という小説が早川文庫から出ていているが
アメリカ人が書いたにしては日本人もヒーローとして描かれていて結構面白い。
オススメの娯楽小説だ。暇なときに読んでね。
348西三河地方人 ◆gDdnWZhdRI :04/07/16 01:05 ID:qqf6X9/A
>>347
モノクロですが「キスカ」というタイトルの映画があります。
ビデオレンタルにいけばたぶんあると思いますよ。
349牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/07/16 01:08 ID:ERgH5NUo
>>347
訂正
戦楽爆撃→戦略爆撃

ある意味これがあれば戦いが楽になるから当たってなくもないか。
350牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/07/16 01:11 ID:ERgH5NUo
>>348
映像関係では今月と来月はスカパーのホームドラマチャンネルで
戦争映画特集だね。
時間の関係でじっくり見られないのが残念。
351西三河地方人 ◆gDdnWZhdRI :04/07/16 23:48 ID:qqf6X9/A
キスカ島撤収作戦を成功させたのは、木村少将率いる第一水雷戦隊で旗艦は
軽巡「阿武隈」です。
アリューシャン列島のアッツ、キスカを攻略した我軍でしたが、18年5月米軍の
逆襲でアッツ島守備隊は玉砕、キスカ島も米軍に封鎖され約5200名の我軍
将兵は孤立状態になりました。撤収作戦はこの海域の天候特徴である濃霧の発生
を利用して警戒網を突破し湾内に突入して収容するという危険なものでしたが
奇跡的に作戦は成功し全員が帰還しました。その後米軍はもぬけのからとも知らずに
大規模な上陸作戦を決行し同士討ちの犠牲者まで出してしまったとのことです。
この作戦が成功した要因は濃霧を利用したところにあるのですが、実は封鎖中の
米艦隊が目標誤認のレーダー射撃をやってしまい補給の為たまたま厳重な封鎖を
そのときだけ解除してしまったことも大きな要因だったようです。
なおこの撤退で将兵は全員帰還しましたが、軍用犬など動物たちは収容を許されず
放棄されてしまいかわいそうでした。   以上キスカについて。
352牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/07/17 00:54 ID:RVq8itFo
アッツの戦闘で初めて玉砕という言葉が使われた。
以後、大本営は孤立した島から兵士を救援するという重荷から解放された。
兵士を見捨てても「玉砕」という言葉で美化をすれば責任を逃れられる。
なまじ生還してしまったキスカの兵は邪魔だったかもしれないな。
353名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/07/21 19:06 ID:2wrGRH7e
アッツ島の守備隊も米軍の大規模攻撃に対して奮戦したが、
如何せんアッツという間に全滅してしまった。
354新宿クーミン ◆TokyoWy1fk :04/07/21 19:56 ID:aHnOn999
軍事ヲタ共死ね
355牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/07/23 00:01 ID:/9myXPkt
>>354
IDがなかなか良い。

ところで8月8日5時半、浅草雷門交番前集合でオフ会をやるのだが、
皇軍を熱く語りたい人に来て欲しいなあ。
別に詳しくなくても軍事に興味がなくても熱く語りたくなくても構わないのだが、
人が多い方が盛り上がるからヒマなら来てね。
出席の可否や質問は [email protected] まで。
356名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/07/23 00:13 ID:/5GWPC7g
>>355
イイナ〜おふ会   (´・ω・`)ショボーン  
357名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/07/23 00:29 ID:Ajx7rSP2
オフ会の日程決まったぞ。
8月8日(日) 末広がりの縁起のいい日だ。
午後5時半 ちょっと早めなのは神谷バーが混むから
浅草雷門交番前 わからなければ交番で訊こう
会費 ¥3000プラスアルファ
日曜日なので出席率は悪いと思うが5時半スタートなので
一次会は早く終わるから万障繰り合わせて出席してね。
生の奈良ちゃんに会えるぞ。
質問、出席の可否等は [email protected] まで
358名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/07/30 17:12 ID:3aAEDVfP
面(つら)見ると完全に関東が朝鮮系だろ。西田敏行とかなすび、三瓶、村上弘明
とかの北の縄文顔より、渥美清、たけし、坂本九、美空ひばりとかのエラ出っ歯
不細工系チョソ顔が関東に圧倒的に多いし勝新太郎とかのモノホンが実際住んでるのも
自分そっくりの香具師ばっかできっと居心地がいいんだろう。マナー悪かったり
やかましかったり、短気だったり、あつかましかったり.......etcと親近感あってさ(w
359205:04/08/04 01:56 ID:wGWLwujZ
>>358
日本人研究という本に、広島県の人脈を調査していくと、安芸、備後に赴任
した関東武士の末裔が非常に多いのである。隣の山口県や愛媛県とは相当に
違う血脈なのだ。関東の飛地といえるほどの濃さで、鎌倉御家人の血脈が
受け継がれている。広島人は蝦夷と関東武士の血が濃いのだろう。
事実わしの血脈を含め関東や東北の血がエット(たくさん)入っておる。
ほいでもわしらは、広島の風土で作られた人間で、土壌や植生が違う。
そういえば、海音寺潮五郎氏は「覇者の條件」文春文庫、平将門とその時代
(P211)で「坂東武士というのは、朝鮮人の血が濃厚に入っていた、従来の
日本人と違って荒々しくて勇敢で強情っ張りでね。そういうところは、
朝鮮的性格だと思っているんです。」
司馬遼太郎氏(この人の史観は?だが)は「日本の朝鮮文化」中央公論社
の中で(P73)「坂東人の原型は朝鮮原型のように思いますね。アイヌ、
プラス朝鮮。こういうことをいまの日本人は日常茶飯で認識しないと、
いつまでたってもオトナになれません。」と人種は別として、風土から
いうと東北は朝鮮、華北と似て、関東は移行地帯で、西日本は華南から
ネパールかも。スレからはずれてしまったが。
360名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/08/04 07:33 ID:bMQRTQGL
東北の風土とは朝鮮とは似ても似つかない
361名無しの歩き方@お腹いっぱい:04/08/04 23:30 ID:VBXGs+Ar

ケッ! なにが郷土の英雄だ!バッカじゃねえの!

気違い軍隊の日本軍のどこが、英雄だっちゅうの?
362205:04/08/05 00:47 ID:Xg1E3HPD
>>360
東北と朝鮮の大部分(南部の一部を除き)は落葉広葉樹林帯では?
司馬遼太郎氏は「手掘り日本史」集英社文庫昭和55年、私の歴史小説の中で
東北の部隊が強いとして(P29)「濃厚に封建的な潜在体制や意識がのこって
いたからです。」「地主や村長なりの形でおりまして、これが実に権威が
あり、そのまま国家権力の重みをもってしまう。よほどの反骨の持主で
ないかぎり、従順にならざるをえない。」おそらく南部の名子制度の様な
農奴制度かブナ林帯の小作制度のことをいいたいのだろうか。
(P31)「軍隊における兵の強弱とは、勇敢であるかどうかというより、
後方から受ける恐怖の度合いではかることもできます。ここを一歩でも
退いたら国家によって家族まで殺されてしまうかもしれないという、
どうにもならない恐怖感が、兵士をして強からしめことが多い。」と
きめつけているが、それでは督戦軍が後方にいる中国軍等が最強になる。
確かに大軍勢の時など勇敢だったが、思考力停止の蛮勇ともいえる。
それよりも同士的結合を持ち、まるで戦を楽しんでいるかのような八路軍
の方が兵士の質も良かった。と子供のころ聞いたことがあるのだが。
363失笑。 ◆/q3IBffcPs :04/08/05 00:50 ID:UmvxKFaU
どうせなら8月9日に露西亜大使館前でオフやれよ
364名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/08/05 07:28 ID:A2YQxJHs
>>362
何か風評を根拠にしてるなあwww リアル東北人と接した事あるかい??

だから西日本人には根強いんだって。東北朝鮮人説はww
ていうかお互いに擦りあってるような感じもするよ。
東北人が強かったとしたらガタイの良さと、北東北系の野蛮な気質かもよ。

365牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/08/06 00:41 ID:KkRy6BY2
>>362
広島といえば宮島。
宮島近辺は清盛の瀬戸内海における根拠地として多くの平氏が土着した。
その平氏の発祥は坂東。鎌倉の御家人以前から安芸と坂東は関係があったんだね。
朝鮮とのつながりで言えば長州の大内氏の家系は源平藤橘のいずれにも属さないで
百済王から始まっている。
まあ、千年以上前の先祖を云々しても意味はないけどな。
千年も遡ればほとんどの日本人は親戚になってしまう。
366205:04/08/06 00:45 ID:SOFXD7Cy
>>364
それが東北人と接したことあるんじゃ。酒飲んで別れる時ヘバゆうんが。
他に三人知っとる。擦りあてられとる朝鮮人もかわいそすぎる。東北と
朝鮮人が全て似ているとは、思わぬが、戦前東北を旅行した人は内地と
違い、大陸や半島に近い様な娘の身売り、一部の富者と多数の貧困等、
異なげな所じゃと。上記の司馬遼太郎氏の強兵説は批判的に書いておるん
じゃがのう。東北人が強かったとも思うてもおらん。曽祖父が日露戦争に
いっておるが、祖父から聞いた曽祖父の北東北兵弘前八師団の評価は、
黒溝台、奉天とまあ他部隊をおとしめることになるんでいわんがのう。
ガタイの良さは戦前の華北人の身長平均168より良かったんか。確かに
華北兵と東北兵は似ているらしい。北東北人は野蛮とは、南東北人?ほいで
東北に行ったこともあるが風土は雄大で、広島のように平野が少なく
こじんまりした所の陰険で狡猾な人間と違い、東北の人間はスケールも
大きいですね。上記362の同士はバツで同志。
367名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/08/06 00:54 ID:OadzBXMd
>>366
>戦前東北を旅行した人は内地と違い、大陸や半島に近い様な娘の身売り、一部の富者と多数の貧困等、
異なげな所じゃと。

日本の東北地方は内地ですよw 満州の事じゃないんでしょ?
368牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/08/06 00:59 ID:KkRy6BY2
司馬先生の説によるとマレー半島から始まる黒潮の沿岸に住む人々に
共通性があるとか。
いわば黒潮文化圏みたいなもので精強だが政治性に乏しく
権力者にいいように利用される。
皇軍では最精強といわれた台湾の高砂義勇隊がその好例で、
日本では土佐人がその気質を色濃く受け継いでいるという。
維新の時、最も犠牲者が多かったのは土佐だが、
政治性がないために結局は薩長に
おいしいところを持っていかれたということだね。
369牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/08/06 01:23 ID:KkRy6BY2
軍隊の強さは指揮官の命令一下、一糸乱れぬ行動が取れるかどうかにかかっている。
日本人は農耕民族だから田植えなどの農作業も近隣の人々が協力し合ってやっていた。
個人の意見よりも集団の意思を重視した社会でもある。
都会の兵よりも田舎の兵が強かったのはこういうところにあるんじゃないかな?
軍隊の強弱は一人の兵の強弱じゃない。
西洋人は体格はいいが日本軍にやられ放しだった。
最終的に勝てたのは物量と日本の参謀がバカだったからだ。
10人のばらばらの強兵よりも10人の団結した弱兵の方が強い。
東北の兵が強かったのは村社会という共同体で長い間育まれた
団結力のおかげじゃないのかな?
370205:04/08/06 01:36 ID:SOFXD7Cy
>>365
鎌倉以降、関東は毛利、小早川(土肥)、山内、和智(広沢)、大庭、香川、
熊谷、児玉、多賀谷、金子、阿曽沼、長井、国司、宍戸等
甲信地方飯田、井上、赤川、武田、中村、市川、板垣等
伊豆、駿河方面に天野、吉川等、出羽平賀、陸奥荒谷等で
蝦夷の移住した佐伯郡や沼田郡(現豊田郡、日本書記仁徳紀による)
ちなみに厳島(宮島)の神主も佐伯氏の世襲だった。
他に分家となり関東、東北の地名を持った家も多数あり。毛利が
山口県に移っても、国人の分家は別れの杯を交わし、土着する者が
多かった。岡山の宇喜田氏も百済人説あり。
371名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/08/06 01:39 ID:OadzBXMd
東北は同郷同士で部隊を編成したと聞いたこともありますね。
強かったとしたらそういうのもあるのかもね。
372205:04/08/06 04:10 ID:SOFXD7Cy
>>367
満州(中国東北部)でなく日本の東北地方のことじゃが。
それと東北兵に関して、(内山仙台元13師団長の記述から要約「敵の夜間
攻撃が激しくなると、これに不慣れの兵たちが、不安にかられて発射し、
それが口火となって、敵影を確認もしないのに、夜通しの乱射となった。
第三十九師団(広島)から、増援に来た福島小隊の一個分隊を、
中間に配置して、この部隊が射撃しない限り、一切の夜間射撃を禁止する、
という非常手段に出て、さしもの乱射もピタリと止んだ。」)まるさ連隊
戦記より。これは宜昌のことだが、その前の冬期作戦でも13師団は
李宗仁軍に撃破され、広島231連隊が救援した時敵兵と誤認され猛射
された。確かに東北兵は集団の意思重視か。良くも悪くも。
梶浦元231連隊長は「防御は攻撃戦以上兵一人一人の戦闘能力が勝敗を
左右する」といわれたが、同じ日本でも広島とかなり違う。










373205:04/08/06 04:39 ID:SOFXD7Cy
>>369
平治の乱で処刑された藤原信頼の死骸を、ある武士が打ち殴った時
平清盛はこれに怒りその武士を追放した。死骸敵対という重罪だった。
首を切り、晒す行為はそれと違い狩猟民が山の神に鹿の首を捧げるのと
同じで、武士は狩猟民から生まれたともいう説がある。
日華事変でも、中国人は首切りを不吉としたが、死骸を打ち殴ることに
抵抗はなく、日本人から見ると残酷に思えた。これは文化の違いであろう。
日本人の倫理のなかには農民だけでなく、山海の民のものもあるのでは。
374名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/08/06 08:00 ID:H0WtgZ23
205は仙台の部隊を増援した広島の部隊の話ばかりだなw
郷土資料を参考にしてるようだから仕方ないか。
375福岡人なのだが・・・ ◆Zfw1oRa3mc :04/08/06 20:24 ID:tkIIr96u
攻撃の時は九州の兵隊(特に熊本・鹿児島)
守備の時は東北の兵隊が強かったって、爺ちゃんが言いよった。

後、名古屋の兵隊も強かったそうです。
376205:04/08/07 02:30 ID:dL8JI4FL
>>374
郷土資料ほど参考になるものは他にない。一兵士の視点からもみえるので。
上記でも13師団の戦闘は、兵員一人一人が考えれば違った展開に
なっていたろう、特に敵の立場で考えていれば。敵からみれば、乱射は
あせっている、あと一歩だと、陣前に敵を引き付けて射たなければ。
防御はただでさえ敵に主導権があるのだから。と昔に聞いた話だが。
東北人は素直なのだろう。ずる賢く、駆け引きが出来て、敵より精神的に
優位にたたないと、難しいのだが。 では郷土資料より
「平素の敵は、追や銃を散発的に射ってくるが、今夜は聞こえない。
不気味な静寂が続く。これは敵兵が接近している証拠である。こんな晩は、
歩哨の神経もとぎすまされる。不思議なもので、銃声を聞いていると、
敵の動きが判るので安心する。風のそよぐ草が、敵影に見えたり、その音が
足音に聞こえたりするのも、こんな静かな夜である。」
377名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/08/10 07:22 ID:i/mgQcQy
>>205
当方、大阪に住む若輩者です。
以前に、広島に住む叔父に、戦争で支那の宜昌というところに行ったと
聞かされたことがあり、ネットで検索する内に、ここのスレッドに辿り着いた次第です。

205さんのカキコミ、たいへん興味深く読ませていただきました。ありがとうございます。
もう少し詳しく知りたいと思うのですが、宜昌作戦が実施された辺りの当時の事が
書かれている書籍など御存知でありましたら、教えていただけないでしょうか?
378205:04/08/11 23:51 ID:qYzqE2yb
>>377
返事が遅れまして、申し訳ありません。
私の拙文を読んでいただいて、誠に有難うございます。
宜昌の勇士であられる叔父様は、どの部隊で何中隊かご存知でしょうか。
宜昌でのエピソードが御座いましたら、うかがいたいのですが。
私は親類の方から宜昌からシベリア抑留のこと等、少年時代もう少し詳しく
聞いておけばと、今更ながら思っているのです。
残念ながら全国版の書籍に、元39師団草野参謀長曰く「超過広戦面の
長期にわたる持久防御戦、世界戦史上特筆大書するに足る戦例」の
宜昌防御戦はおろか、宜昌作戦について詳しく書かれたものは皆無に
等しいのが現状です。古書等にはあるかもわかりません。
この書き込みで39師団の郷土資料参考は、「はるかなる戦場」藤友会や
「虎の子奮戦記」歩兵砲中隊(たくみ出版)、その他各中隊記等です。
379205:04/08/12 00:13 ID:0cxHgYMb
http://www.hawaii.edu/asiaref/japan/special/kajiyamaHiroshima/HiroshimaCollection4.htm
郷土資料で、藤部隊第一中隊戦記があります。他のページには、広島師団の歩みも。
380205:04/08/12 00:16 ID:0cxHgYMb
もう消えてしまいまして、すみません。
381名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/08/12 06:24 ID:h1SlL66c
>>205様、わざわざ御返信をいただき、誠にありがとうございます。

宜昌の話は、十年程前に叔父から聞いたのですが、現地で撮った古い写真を数枚を見せられ、
言葉少なく、そこが「宜昌」という中国(支那)の地だということを聞いただけでしたので、
当時のエピソードや、どの部隊にいたとかの詳しいことは、聞いておりませんでした。

その時、私は、まだ子供で、先の大戦の知識が殆どなかったことと、小学校で自虐史観を
聞かされていたせいもあり、もし当時の事を聞いて、叔父に思い出したくないような過去を
思い起こさせてしまうのではないかとの心配から、詳しく聞くことができなかったのです。

しかし、今になって、恐らく、叔父は、当時の事を何かしら伝えたいが為に、わざわざ古い写真を
持ち出してきて私に見せたのではないか、また、伝え聞くのが私の義務ではなかったのと思うようになりました。
(もしかすると、親類の方から先の大戦の話をお聞きになられた205様も、私と同じ思いをされたのかもしれません。)

叔父には暫く会っておりませんが、叔父も高齢になってきたこともあり、次に会った時には、
思い切って、当時の事を聞いてみようと考えております。
そこで、失礼のないように、私も、なるべく当時の事柄を知っておいた方がよいと考え、ネットで情報を探していた次第であります。
その中でも、205様のカキコミは、とても興味深く読ませていただきました。

いろいろ検索しましたが、ネットでも情報が少ないようなので、今度は、古書なども探してみようと思います。
アドバイスをありがとうございました。
そして、消滅してはいましたがリンクの御紹介もいただき、ありがとうございました。
382381=377:04/08/12 06:43 ID:h1SlL66c
>>205

205様に御紹介いただいたリンクを辿っていくと、Hiroshima Collection というページがあり、
そこで書籍が紹介されていました。どうやら、アドレスが変わっていたようです。
参考にさせていただきたいと思います。本当にありがとうございました。

http://www.hawaii.edu/asiaref/japan/special/KajiyamaHiroshima/HiroshimaCollection4.htm
383検索中:04/08/12 08:32 ID:/dy2xbDs
第3機関銃中隊(ビルマ)とは、何名位入隊して、どんな集団だったのでしょうか。
名簿などは、どんな所で閲覧出来ますか。?
384牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/08/12 16:45 ID:Sp3632wl
>>383
部隊に固有の番号が附されるのは連隊以上です。
第3機関銃中隊という時の「第3」は連隊に所属する
3番目の機関銃中隊という意味でその上部の連隊の番号がわからないと何とも言えないのですが、
調べる方法はいくつかあります。
まず、ご親族が第3機関銃中隊に属しておられたならその本籍地からたどることです。
日本軍の建制は本籍地主義ですから本籍がわかれば所属連隊もわかります。
因みにビルマ方面軍の隷下にあった師団は15(名古屋)、18(久留米)、31(甲府)、
33(宇都宮)、49(京城)、53(京都)です。
師団は標準的には3個連隊で一つの師団になります。
連隊もおおむね師団編成地に近い地域で編成されるので
本籍さえわかれば連隊まで特定することは可能です。
師団個々の活躍についてはビルマ方面軍に関してなら
インパールと援蒋ルート破壊についての著作が数多く出版されているので
それを参考にしてはいかがでしょうか。
個人的には高木俊郎の「インパール」三部作をお勧めします。
文庫化されていて容易に入手できます。
さらに細かいところまで調べたければ、
それらの著作の巻末に出ている参考文献を調べるといいでしょう。



385205:04/08/13 03:23 ID:gRBZ4cK4
>>382
リンクまで辿っていただいて、ご苦労をおかけしました。
私が子供から少年の頃は、祖父や親類その他地元の年配の方から戦争の
ことを子供心に無邪気に尋ね、話を聞き、昔のつらいこと等も明るく話して
おられました。その後戦記を読むようになって、話の内容も少しは
知ることも(経験してないのでわかりませんが、苦労もこれほどされて
おられるのかと)できました。宜昌のことも、行った方はなつかしそうに
話しておられました。
詩の一文に「中国の最も良き所は何処なりやと 曰く 宜昌なり これ
我が第ニの故郷なり」「嗚呼 我 いつの日ぞ 今ひとたび
宜昌の丘に立ちて 泣かん日は」とあります。
386名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/08/14 18:12 ID:FKQZu7xA
大阪の師団は腰抜けっぷり(脱走の多発)と婦女暴行で悪名とどろいてたらしいね。
387牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/08/16 01:03 ID:borYX2qW
>>386
ここではたとえ他の地域といえども特定の師団を貶めるのは日本人全体を
貶めるのと同じだ。
それぞれが皆、苦しい中で必死になって戦った。
郷土の英雄を自慢するのはいいが、
貶めるのは日本人として自分の先祖に唾する行為だと自覚しろ。
因みに大阪第4師団はバターンで米軍を降伏に追い込んだ輝かしい戦績がある。
脱走と婦女暴行ってのは地域の特性というより個人の問題だろ。
また脱走した兵士も卑怯者でも腰抜けでもない。
婦女暴行も戦争が生んだ狂気の一面だ。
それぞれがそれぞれの場所で必死になっていた。
それを後世の人間がああだこうだ言うのは傲慢というものだ。

388名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/08/16 01:28 ID:g7bgrU1p

    大阪人   なんでこんなに   必死なの

 
389383:04/08/17 06:59 ID:E6utRF1j
>>384

ご丁寧なアドバイス、感謝します。
本籍は、福岡県柳川市ですから久留米に成ると思いますが、
生年月日は T 10年3月15日生まれです。

履歴書を見ると、

入隊は、S 十七年四月十日らしいのですが、

歩兵四十八連隊入隊と書いてたあっり、

現役兵として歩兵第148連隊補充隊に入隊
歩兵第百四十八連隊に転属と書いてあったりしてまして、
百の違いが、良く解りません。

かなりいい加減な履歴書で何処まで信用出来るやら。
戦地も何処を転戦したのかも分かりません。

 門司→ラングーン 〜 ラング−ン→浦賀

 〜 此処の部分が全然解りません。
「龍」第6736部隊に居たらしいのですが、
本人が死亡していて、確かな事が解りません。
お勧めの「インパ−ル」探してみます。
390牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/08/17 12:40 ID:vN6wCRyT
>>389
よくわかりました。
「龍」とは日本軍の師団秘匿名で56師団のことです。
同師団は久留米の12師団の留守部隊を中心に編成された師団で
148連隊も12師団隷下の48連隊を分離編成されたもので
148連隊の兵士の多くは履歴書の記載通りといえます。
56師団はマレー・シンガポールで戦った後、
17年3月にビルマ方面軍の指揮下に入ってラングーンに到着しています。
前述のビルマ方面軍の隷下師団に56師団が抜けていました。
申し訳ありません。
56師団はビルマ中国国境地域に配属され中国軍と闘っています。
148連隊は雲南省騰越に配属され米式訓練と装備を施された
中国軍と戦闘を繰り返していましたが、
孤立とアメリカの援助を受けた中国軍の前に
148連隊は全滅に近い損害を受けています。
師団司令部も同地域を放棄して、
タイ南部まで南下中に終戦を迎えています。
56師団はインパール戦には参加していないので
「インパール」には出ていないと思います。
ビルマ中国付近の戦闘の史料としては
「壮絶!ビルマ・インパール」と言う本がありますが
発行年が古いので恐らく絶版でしょう。
図書館で借りてみてはいかがですか。
391383:04/08/17 17:19 ID:UdVPLqSk
>>390
ありがとうございました。

>>148連隊は全滅に近い損害を受けています。
生き残りの長男です。
生前にもっと話を聞いておけば良かったと思いました。
戦争の事は、あまり喋りませんでした。今月2日他界しました。
392名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/08/18 09:33 ID:lFDXyWFE
>>391
ちなみに軍事板にこんなスレが昔ありました

久留米師団
http://yasai.2ch.net/army/kako/1006/10064/1006400658.html
393牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/08/20 00:38 ID:ScPFCgiI
>>391
ご尊父様のご冥福をお祈りします。
常々思っていたのですが、
兵士の損耗率7〜8割(軍事的にはこの状態で全滅と言います)の
戦場から帰還された兵士の方々は
よほどの強運の持ち主といっていいでしょう。
その受け継いだ強運を生かして今後も豊かな人生をお送り下さい。
394名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/08/20 19:09 ID:Ms3pX7z3
辻曰く、仙台第2師団は前評判は良かったが、やる気も士気も無く
戦も下手でガダルカナル以降どうしようもなくへたれだったらしい
395名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/08/20 20:10 ID:U7av7ccU
嫌気が差してたんだろうなあ。

なんか昔の軍隊をお国板的視点で悪くいうのはどうかと思うなあ。

関西とかもそう
396牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/08/21 14:11 ID:yR+/d5z6
>>394
へたれは辻の方だろ。
ガ島の敗戦は辻を始めとする大本営作戦部の稚拙な作戦のせいなのに
責任を第2師団に転嫁している。
兵力の逐次投入。ワンパターンの夜襲白兵主義、敵兵力の下算。
これで勝てという方が無理。
辻はノモンハンの敗戦から全然進歩していないんだよな。
アメリカ兵曰く、日本軍は兵は強いが参謀がバカなので助かった。
397205:04/08/21 23:30 ID:7ZmIRzTw
>>394
仙台師団は、昭和に入って兵員一人一人の知性や能力等それと近代化、
機械化に対応出来なかったところがあったようで、日露戦争の時において
も、東北師団は・・・。「今村均回顧録」芙蓉書房出版にも、東北出身の
今村均氏は昭和に入っての東北兵に関し、オブラートに包んだ様に書いて
おられた様な。激戦に脆いところも、これは歴史的限界ともいえる。
戊辰戦争やそれ以前を考えると、いくら訓練で強兵を作ったとしても激戦と
なると歴史的経験が顔を出す。もちろん戊辰戦争でも賊軍の汚名を着せ
ながら、信義を貫いた東北人は立派なものだが。
そういえば中国でも紅軍が軍事顧問ブラウン(ドイツ人)の強引な陣地戦で
一方的に防御戦に追い込まれ、紅軍の半数の五万人が戦死したことが
あった。広島5師団の好敵手である林彪は、遊撃戦(ゲリラ)という論文を、
ブラウンにたたきつけ、中国戦法を主張したが、ブラウンには理解して
もらえなかった。だが林彪はその日に国民党軍2個師を壊滅し、その数日後
「戦いたい場所と時期に敵を誘いこむ」得意の戦術で国民党軍八個団(連隊)
を壊滅。一方の国民党軍は日本の士官学校出の将校や、後に米式訓練などで
改革したが、結局紅軍の勝利となり、林彪は他国に蹂躙された自国の歴史や
その歴史から考えた有効な戦術をよく理解していたのだろう。
398名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/08/22 00:15 ID:RCNas9GP
それは今村の出身が東北だからでしょう。
強かった弱かったも含め仙台はあまり変な評判は聞いたことが無い。
それに仙台師団が東北人だけで構成されていた訳ではあるまい。
過去の軍隊を貶めるようなレスは関心できない。
399名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/08/22 05:44 ID:RtUdVIgU
日露戦争までは熊本仙台など僻地の従順な兵が活躍したが
太平洋戦争になると久留米や広島の辺りの兵の活躍が目立つね
400名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/08/22 05:46 ID:RtUdVIgU
あと仙台第二師団はジャワ、ガダルカナル、ビルマのいずれでも期待された
活躍はできてないように見える。
401391:04/08/22 13:54 ID:rPsGRJSh
>>393
ありがとうございます。
ですが、父程の運は無い様です。
奮闘、努力もしませんでしたから。
なんとか、息してます。

402名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/08/22 13:56 ID:EwFflEkG
>>400
ガダルカナル、ビルマでそれぞれ壊滅して総入れ替え状態なのに
期待するほうがどうかという気もする
403牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/08/22 16:22 ID:loHKkb2u
どこの兵隊が強いかと言うのは日本軍は大和魂があるから強いという
伝説と同じ類いだと思う。
東北人に比べて広島人が強かったと言うなら
戦国時代になぜ広島は尾張から来た出来星大名の領地になってしまったのか。
東北では仙台の伊達、盛岡の南部、弘前の津軽のように
自分で切り取った土地を守り抜いている。
これは兵の強弱ではなくて兵を束ねる武将に人を得たからだろう。
軍隊も同じで上がしっかりしていれば自然に強くなるはずだ。
硫黄島の109師団は寄せ集めの3桁師団でありながら
米軍に多大な出血を強いた。
これは栗林兵団長の的確な戦術の賜物だろ。
また強いと言われてきた師団は「強い」という意識が油断を生んだとも言えるのではないか。
無敵関東軍は「無敵」という伝説のために自壊した。
戦場では豪胆な者より臆病者の方が向いているのかもしれない。
豪胆な人間は時に相手を舐めてかかって痛い目に遭う。
臆病者は臆病が故に行動も慎重になり決して敵を侮らない。
硫黄島の兵士は自分が弱いと自覚していた。
だから蛸壺から出ることなく恐怖を吹払うために必死に戦ったのではないだろうか。
ほんの紙一重の差が戦場で英雄になるか否かの分岐点なのだと思う。
404名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/08/22 19:15 ID:RtUdVIgU
戊辰戦争で仙台兵はドンゴリといわれ戦いもせずすたこら逃げたそうな
405名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/08/22 23:00 ID:ij1qAIko
いざという時、普段威勢の良い人間が逃げ出して、
おとなしい人間が人が変わったかのように活躍することはよくある事らしい。
406205:04/08/23 02:41 ID:i/l/bR8Q
>>403
広島人は戦闘に負けて尾張の出来星大名の領地になった訳ではなし、秀吉軍
との戦闘も士気衰えず守り、運も含め和睦でした。東北地方では、他地方と
戦闘はせずでは。確かに「強将のもとに弱兵なし」「軍隊は指揮官なり」と
これは同意。しかし他の要素、「精強は軍紀にかかる」兵の質、特に広範囲
に孤立した防御戦においては。他の部隊から広島231連隊に来られた方達
は「孤立した陣地、守備兵が少なく敵と近距離に対峙し銃声の聞こえぬ日は
無い。この状況下広島の兵隊は明るく朗らかだった様に思う。私のいた
第五十連隊は、テニヤン島で、米軍の猛攻で潰え去った。少数守備隊の弥彦
や羽黒の猛攻によく守り抜き敵を撃退した。」「軍隊の見本の様な部隊で
あった。他部隊に比較してみてはっきりと言える。」等。
蛸壺から出ることなく?ニユーギニアで戦闘した浜田21連隊第3大隊は、
宇都宮51師団から賞詞を受けたが、「敵の投げた手榴弾が壕の側に落ちて
炸裂に間があれば投げ返し、間がないと思えば壕より飛び出し、破裂すれば
また壕内に飛び込む」等奮闘、数十倍の敵を撃退し退却命令が出るまで
守り抜いた。宜昌でも広島231連隊は、自らの精鋭を疑わず、数十倍の
敵の猛攻にも勝利への自信を持って戦闘しましたが、この様な兵士が
臆病でしょうか。不安感から乱射した部隊と比べても。恐怖の克服について
「これに耐え抜くか否かが、陣地を支えるか、どうかになる。」同意です。
407名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/08/23 07:13 ID:CCJvN3Iw
第二師団は夜襲を、第五師団は上陸を、第六師団は強襲を、それぞれ
特別に訓練されていた。
408名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/08/23 12:15 ID:C49nU+mP
>>407
それぞれ専門の訓練をやってたのは有名ですね。
409名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/08/23 12:18 ID:Dk+gQs+Z
ちゃんとした戦史をみたかったら防衛庁関係で閲覧したほうがいい。
>>205氏のような郷土資料系の参考はあてにならない。
なぜかというと郷土マンセー的側面が大きいから。205氏を見てれば良くわかるw
410205:04/08/24 00:23 ID:Fg5oGfJL
>>409
以前にも書いたが「廣西の会戦<3>1号作戦」防衛庁防衛研究所戦史室
昭和44年(P143〜P181)に広島231連隊の宜昌防御が出とる。
「「はるかなる戦場」のあとがきにも「連隊史(戦記)を作ろうでは
ないか」の声がおこったのは、昭和四十六年四月下旬のことだった。
(中略)防衛庁防衛研究戦史室の公刊戦史に、局地防御戦としては異例の
紙面をさいて、宜昌防御が掲載されたことも、ひとつの動機となった。」
「既刊の多くの戦記図書には、驚くべき無神経さで、平然と素図の手書きで
逃げている。これは害があって益はない。体験者だけなら我慢できても、
後世の人達は、かならずその粗雑さに反発するだろう。(中略)幸運だった
のは戦史室の支援を得られたことである。(中略)不足分は戦史室の強力な
テコ入れで救われた。要図上の関係位置と悌尺については、かなり強い
自信をもっている。」等防衛庁研究所戦史室と郷土戦記も関係が深い。
郷土資料の広島11連隊iA会(歩兵砲兵会)著は米国の大学に購入されて
いるそうだが、広島の郷土資料だからあてにならないのか。わしの未熟な
人格と郷土資料とは、関係あるまい。まあ全国にでているマンセー戦記もの
より、防衛庁関係で閲覧した方が、戦史家の評価が高い郷土広島231や
広島5師団の奮闘、精鋭ぶりがわかるであろう。
411名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/08/24 12:16 ID:pZeQXbLK

「東北の兵は力は強いが鈍重」「九州の兵は剽悍で機敏」

北方のクマ」「南方のトラ」

 
412名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/08/24 19:44 ID:TLkC1QqO
素人の常識的に考えて防衛庁が特出しで戦いの参考にしてるのは広島の部隊だけじゃないと思われる。
古代中国から現代戦まで幅広いだろう。参考にする過去の戦いはサンプルが多い方が良いだろうし。


413205:04/08/25 23:08 ID:P4UvSXsF
>>412
いわれておる意味がようわからんのですが。上記にある「iAの記録」は
詳しく書かんかったが、追補録にこう書かれている。
「昭和50年7月に日本陸軍の最精鋭部隊である歩兵11連隊の、日支事変
間に於ける大激戦に悉く其の名を連ねている連隊史のないことを痛感し、
その詳細な戦闘記録を「iAの記録」として発刊し、日本の国会議会図書館を
始め主要図書館、防衛庁関係に寄贈して永久保存を願い、加えて米国国会
議会図書館、スタンフォード大学、ミシガン大学等よりお買上げの栄を賜り
、巷間に大好評を戴き異色的なる書籍として大きな反響を呼びました。」と
あり、まあ、まずは自分が興味あることから、調べられるのがよいかと。
414牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/08/26 00:20 ID:iWpCjjQR
205氏の姿勢はお国自慢としては正しいあり方だろ。
しっかりと自分の郷土に誇りを持ち、郷土の兵士を自慢している。
おれは広島39師団がそれほど強い兵団だとは知らなかった。
占領地警備と治安維持ってのは目立たない任務だからな。
この板の多くのスレが他の地域の足を引っ張って自分の地域の方が凄い
なんて自慢するばかりのお国貶しになっている中で
このスレにおける205氏の存在は有益だぞ。
415205:04/08/27 02:21 ID:zzkanxZ8
>>414
有難うございます。広島39師団は、昭和49年1月8日澄田元師団長の
靖国神社の祭文に「編成後数年にして、光彩陸離たる伝統を誇る、兄師団
たる第五師団に比肩する国軍中屈指の精強師団となり(中略)戦没者諸士
は、身を以って日本屈指の最精強師団を造成され(中略)護国の鬼と化せ
られました。英霊どうぞとこしえに、安んじて冥せられんことを希う次第で
あります。」とあります。
私のスレで東北人を結果的に貶める様になったかも知れませんが、東北兵
は粘り強く持久戦、防御戦にも強いとであろうという、まあ実績でなく風評
によるものですが、(日本軍は攻撃主体で本格的な防御戦は敵の反攻による
昭和14年以降であろう)防御戦に誇りを持ち実績のある広島部隊の郷土と
しては、戦争体験者もそうですが、正直憤慨し、どうしても容認出来ない
ところがあります。(しかし東北出身5師団長が三代続く縁もあり)戦後の
蒋介石の回顧録に「中日戦争間、最も奪還したかったのは、宜昌と南寧で
ある。」両方広島師団による確保。さらに戦記に「南寧の政略は語らざる
作戦といわれ、あれほど悪戦苦闘した南寧防御戦が、現在の戦記類には、
いとも簡単に片付けられている。淋しいとか、不思議と思うより憤激に耐え
ない。やはり語らざる作戦として今日まで尾を引いているのであろうか。」
とこの無念を誰も書かぬなら、わしが書かなければという思いもあります。
416名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/08/29 00:09 ID:nbX9u+U9
東北人が防御戦強いという風評?に嫉妬してたのかw
別に広島人を貶めてる訳ではないのにこれは相当だな。
だから東北の名前が出るとムキになるんだな205氏は・・・。
このスレ楽しみにしてたけど残念
417名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/08/29 06:21 ID:D63tFwcu
>>416
ムキになってるのは、あなたのように見えますが。傍から見てても恥ずかしくなります。
もう少し頭を冷やしてから、書き込んだ方がいいですよ。

418名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/08/29 07:43 ID:cqvYUj13
205さんは広島をマンセーするのは良いが、他を貶めるのは良くないな。
それじゃ他スレの人間と一緒だ。このスレだけでもマトモに行こうよ。
419名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/08/29 07:51 ID:sAtvyvQ3
普通に広島だけマンセーしとけばいいのに。
何十年も前の事をおかしな動機でお国自慢板風の優劣をつけるとは病気だろう。
非常に邪心であり考えがあまりよろしくないのでそういう人間は出て行った方がいい。

ちなみに俺の九州のじいさんは抑留組だった。
420名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/08/29 08:29 ID:AIAHbTaz
第2師団(仙台) 夜襲の仙台師団として名高い。日露戦争では世界戦史上
奇跡とされる夜襲を敢行して一躍武名を上げる。その後満州事変中国戦線で活躍。
太平洋戦争ではガダルカナルで壊滅する。
第6師団(熊本) 永らく日本最強と云われた師団。明兵団。日露戦争では奉天一番乗り
など活躍する。太平洋戦争ではブーゲンビルで自給体制を整えながら戦闘を継続した。
第14師団(宇都宮) 関東軍から南方へ転出。パラオで米軍と激戦を交える。
海が米兵の血で赤く染まったとまで云われオレンジビーチとの異名もつく。
第18師団(久留米) 第一次大戦で青島を攻略。日中戦争では杭州湾に敵前上陸。
太平洋戦争では真珠湾奇襲攻撃の1時間半前に全日本軍の先鋒を切ってコタバルに
敵前上陸。シンガポールを陥落せしめる。その後ビルマ戦線に転じ最期はミートキーナで
玉砕する。蒋介石やチャーチルから世界最強の師団と絶賛された。太平洋戦争ではこれ
が最強か?
第56師団(久留米) 龍兵団。菊とは兄弟部隊。ラモウ、トウエツで玉砕。約40倍
の連合軍に一歩も引かずに3ヶ月激闘し、一兵残らず玉砕。しかも島嶼ではなく陸地
内部での玉砕故に世界戦史上稀有な例である。日本では数少ない機械化師団でもあった。

421205:04/08/30 01:00 ID:JUvrKfgx
風評に嫉妬?実績がある方がなにが悲しゅうて嫉妬せにゃあいけんのか。
おかしな動機?わしのことをやれ病気じゃあ、人格攻撃しておいて、
ほいで邪心じゃゆうて書くもんが立派な動機があるんか。出て行けゆうん
は、わしを恐喝しとるんか。ほいじゃがマンセーいう言葉が好きじゃのう。
根拠を書かんところも、ウリナラマンセーするどこかの国と似とるわい。
結果的に貶める様にゆうて謙虚に書いたら、はあ、人の揚げ足をとりよる。
まあ日本人として、不細工なこと、せんほうがええよ。
じゃが戦争体験者が憤慨した思いに、同じ様な気持ちになったのは、
戦争の話がタブー視され、戦争体験者の多くが亡くなられた現在、ゆうもん
がおらんのかと考え、上記が文で最後の方はえらそうな、思い上がった劣文
に、なったことは反省している。
422牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/08/30 01:15 ID:smZ5eQky
熊本や久留米の師団は大陸と対峙しているから
いわば国境に配備されたも同然。
いざ鎌倉となれば真っ先に先陣をきる。
だから兵隊の覚悟が違う。
そんな伝統があったように思う。
東京、大阪など中日本の師団はどこかのんびりした風があるもんな。
関東軍が白兵戦に強かったのも同じ理由じゃないか?
第二次大戦では九州の師団だろうがどこの師団だろうが所在地関係なく
第一線に派遣されるけど運搬手段の貧弱だった日清以前は
師団の所在地が兵の士気にも大いに関係したんじゃないか。
同じ意味で宇品が近かった広島師団も強かったんだろ。

423名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/08/30 02:43 ID:+BFE2UsO
戦史に詳しくなくてスマンが、近衛師団って戦ったことあるのかしら
424名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/08/30 04:51 ID:Jfu4kgB+
>>423
全国から見栄えの良い兵(背の高い兵)を集めていたが
お公家師団だとか、お上品だとかいわれて、日露のころにはすでに弱兵の代名詞
の師団だった。
しかしマレー半島攻略作戦では広島第5師団と共に活躍して一転武名をあげた。
なお、第23師団、近衛師団、第5師団、第48師団、第56師団は日本では珍しい
機械化師団でもある。
425西三河地方人 ◆gDdnWZhdRI :04/08/30 10:56 ID:eygNM6Ms
昭和20年12月1日大場栄大尉以下47名は米軍に降伏した。
サイパン島陥落後3ヶ月以上に渡って徹底抗戦を続行した陸海の勇敢な兵隊の話です。
彼らは降伏命令によって降伏を決意した。その日は軍装を正し、亡き戦友の慰霊祭を
行った後、隊列を組みそして軍歌を歌いつつ、日章旗を先頭に下山し整然と武装解除
したという。これを米軍側は歓迎しパーティーまで行ったとのこと。
ここでは「武士相身互い」「敵ながら天晴」の日米両軍だったようです。
なお大場大尉がどこの部隊の人かは知りません。牛沼氏ならご存知かも?
426西三河地方人 ◆gDdnWZhdRI :04/08/30 11:10 ID:eygNM6Ms
>>425
サイパン島陥落後は終戦の詔勅8月15日の間違いです。陥落は19年
7月くらいでしたね。すいません。
427名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/08/30 12:32 ID:uSe+EpZz
広島VS東北はもういいから。205氏はそれ以上荒れる原因作るな。
ここは郷土師団自慢スレであって貶める事じゃないんだから。
文章で書かれた過剰な郷土マンセー戦記ばかり参照してて、
作戦図やその後の進捗具合を見てレスしたものとは思えない。
勝ち負け以前に研究すべき戦いが多いのは常識、評論だったら誰でも出来る。


話は変わるが本土決戦時は鹿児島南部と首都圏双方に部隊を配置したけど米軍の作戦図とほぼ符合してたなあ。
作戦の基本なんてのは紀元前当たりから変わってないかもしれないね。今だに。


428名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/08/30 12:34 ID:uSe+EpZz
広島VS東北はもういいから。205氏はそれ以上荒れる原因作るな。
ここは郷土師団自慢スレであって貶める事じゃないんだから。
文章で書かれた過剰な郷土マンセー戦記ばかり参照してて、
作戦図やその後の進捗具合を見てレスしたものとは思えない。
勝ち負け以前に研究すべき戦いが多いのは常識、評論だったら誰でも出来る。


話は変わるが本土決戦時の日本の作戦図みると鹿児島南部と首都圏双方に部隊を配置してたけど
米軍の作戦図とほぼ符合してたなあ。
作戦の基本なんてのは紀元前当たりから変わってないかもしれないね。今だに。
429西三河地方人 ◆gDdnWZhdRI :04/08/30 13:37 ID:eygNM6Ms
時々このスレッドを開いていますが、中心コテ牛沼氏の陸軍戦史とその組織
に対する精通度には感心します。とても俺の及ぶところではありませんが、
少々抵抗を感じる部分があります。それは「参謀がばかであった」という発言
またはそうととれる発言があることです。果たしてそうだったんでしょうか?
昭和の参謀とて皆明治、大正の教育を受けて育った軍人です。俺は兵と参謀を
区別する考えには賛同しかねます。軍参謀が悪の根源だったとするのは米国の
戦後占領政策です。
開戦直前の国策会議で当時の軍令部総長、永野修身の発言がとても印象深い。
「戦うも亡国、戦わざるも亡国、いずれも亡国であるならあえて戦おう」
「世界史をみると戦わずして亡国となった国に再起はない、それが世界史だ」
と。
430EXCULTer's / 西京経済企画室 ◆Lyv1wb1ee2 :04/08/30 13:38 ID:iRK/EmJU
んで貼り直し、っとw

http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/chiri/1091201799/479
…。

≫479
>73 名前: 佐々木大介 [[email protected]] 投稿日: 04/08/21 13:19 >HOST:E218222208220.ec-userreverse.dion.ne.jp<8080><3128><8000><1080>
>対象区分:[個人・一群]管理人裁定待ち

≫E218222208220.ec-userreverse.dion.ne.jp
       ↑
このアドレス、どっかで見たコトあんぞ♪(ヲッ☆

# そのへんのネットカフェでもガサ入れwwwしてみっか( ̄ー ̄)ニヤッ♪
# たぶん ” Q ” だな。

$ 昼の1時頃、な。そっか、土曜の昼の1時に能天気にネットカフェなんか
$ いけるヤツとくれば…無職かQwしかいねーな(ゲラ

% つーこたぁ、http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/chiri/1091201799/479
% の引用はクーミん♪じゃなくて ” Q ” の履歴だなw
% でかしたゾ。

…いずれ分かるコトだな。テメーで偽装&足付けやがってよっ♪(ヲッ☆
-----------------------------------------------------------------
ここで失笑と緑茶w入ります。
http://search.yahoo.co.jp/bin/query?p=%a2%a1%2fq3IBffcPs&hc=0&hs=0
431205:04/08/31 00:59 ID:+CDB0BRP
>>427
郷土マンセー戦記じゃゆうて、貶めよるんはあんたじゃろう。
作戦図云々で解った様に言われるが、あんたが、貶めた郷土資料に出ている
戦要図や部隊の行動概要図、配備要図を見て、図案化した進路、攻撃や
陣地(例えば配属、増援部隊は+で表す)等基本的に解っておられるのか。
作戦図をみると?ほぼ符合?日本と米国の作戦図はどの資料を参考にした
のか。作戦の基本とは?具体的に書かれよ。
432名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/08/31 01:33 ID:dai0a8qg
205そっくりの人物は以前別スレで九州も貶めてましたなw 
そもそも広島のは一部の時期に活躍しただけで通史的にはオーバーに語る事はない師団でしょうな。
防衛庁戦史が参考にしてるのなんて別に広島だけじゃないんだし。
試しに軍事学の本の1つでも開いてみれば、彼が明らかに後年の郷土資料を参考にしてるのは丸わかりですね。
勇猛果敢な九州師団が特にそうだけど長い帝国陸軍の歴史の中で生まれた風評や評判というのはそれなりのものであって、
一夜にして出来たものではない。これらの評価は現在もほとんど変わってないだろう。
彼に言わせると広島師団が評価されてないがどうも許せんらしいw 自慢するだけなら別にいいんだけど。
結論として彼は郷土資料ばかり参考にしてて且つ過去にさかのぼった不純な動機があるのは明らか。
433205:04/08/31 22:22 ID:bILUvYId
>>432
以前別スレとはどのスレか。そっくりの人物とあいまいなことをいわんと。
一部の時期に活躍で、通史的にはオーバー?日清戦争で大島旅団の活躍から
北清事変で世界に軍紀厳正の日本軍を知らしめ、日露戦争では黒溝台や
奉天で感状を授与され、昭和においても歴戦をした広島師団がか。
日清戦争当時の西島助義第11連隊長は「当連隊部下兵士多数ハ広島県出身
者ニシテ能ク軍機ヲ守リ(中略)弾丸雨注ノ中勇奮健軍死ヲ畏レズ実ニ
日本軍隊ノ価値ヲ発揚シ余勇リン然トシテ(中略)」
今村均元5師団長「広島師団は、明治以来このように多くの戦場にやられ
た師団はなく、いつも赫々たる武勲を立てている。こんな比類のない戦歴を
(中略)」や「広島の青年たちは軍隊が機械化、技術化される段階でそれを
よくこなし(中略)平衡がとれ気がきいていてズルくさいといえよう。」
澄田元39師団長「第三十九師団は日清日露の両戦役において赫々たる
勇名を馳せた第五師団の弟師団である。」や「素質が良い点で衆が
うらやんでやまぬ広島師団である。」
梶浦元231連隊長「将兵は広島、島根両県出身者で理知、機敏、剛毅の
良質があり、智情意の調和のとれた優良な資質を持っていた、而も伝統の
強さは第五師団として発揮していた。」と、このような評価もある。
試しに軍事学の本の1つでも開いてとは?題名をあげよ。
434名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/08/31 23:08 ID:wziq+Q55
>>433
気持ちはわかるけど
感情的に言えば言うほど周りの人は離れていくよ
435牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/09/01 01:26 ID:iTljPA8w
>>429
参謀を含め陸大出の高級軍人には官僚が多い。
確かに優秀な人もいたけどね。
官僚とはセクト主義、前例踏襲、自己保身、組織防衛、杓子定規に
物事を進めるという意味だ。
例をあげると長くなるからこれから徐々にレスで書いていくけど、
昭和の軍人は明治の軍人とは異質なものだよ。
古川柳に「売り家と唐様で書く三代目」というのがあるがまさにその通り。
初代は苦労して財産を作る。
二代目は父親の苦労を見ているからなんとかそれを守ろうとする。
三代目は生まれながらに財産があるので遊び放題。
稽古事で唐様の字を習ったり、大尽ぶって無駄なことに金を費やす。
それで財産はなくなり家まで売るようになるといった意味だ。
これを軍人に当てはめれば明治の軍人は自分たちで維新をなしとげ、
苦労しながら日本を一人前の国にした。
大正の軍人は受け継いだ財産をわずかながら大きくした。
そして昭和の軍人は財産を食い潰して国を滅ぼした。
明治の軍人は自分たちが作った国なので日本の限界もはっきり知っていた。
日露では連戦連勝の日本軍だったがこれ以上は戦えない。
だから国民の非難覚悟で講和を結んだ。
昭和の軍人にはこういう芸当はできない。
それとおれが高級軍人を貶すのは
日本軍を貶すということではないということはわかって欲しい。
むしろ、無能な官僚を上に戴きながら果敢に戦った
名も無い兵士たちを尊敬している。



436名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/01 01:48 ID:g8jLLhIL
官僚とはセクト主義、前例踏襲、自己保身、組織防衛、杓子定規に
物事を進めるという意味だ。


プッ、何処かで聞いたような官僚批判だな!所詮はこんなレベルか
世界中見渡しても官僚化してない正規軍なんてないだろ。
アフォかw
437名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/01 01:48 ID:tSoWLSAa
読売新聞 地球を読む  2000年7月3日  岡崎久彦
http://www.glocomnet.or.jp/okazaki-inst/yomi7300nankin.okazaki.html
 しかし、南京事件後七年余の中国占領軍の行動は、占領に必ず伴う一部の越軌暴行は
あっても、他の文明諸国軍隊と較(くら)べて特に劣るものではないと言って良い。一つの例
として、日本が占領していた都市と、占領日本軍の連隊所在地の都市とが、戦後姉妹都市
となった例もあるという。ドイツが占領したロシア諸都市、米英仏が占領したドイツ諸都市と
占領軍の本拠都市との間の姉妹都市など想像も出来ない。
438名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/01 01:50 ID:lrJSCw3e
720 名前:牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/09/01 01:35 ID:iTljPA8w
>>715
奈良ちゃんが都内のおれのマンションに遊びに来たので
男の礼儀として失礼の無いようにもてなそうとしたら
そこで若干の行き違いがあっただけ。
そんなことで名無しで煽ってもしょうがないだろ。
439牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/09/01 01:58 ID:iTljPA8w
>>436
ここは煽りは禁止だと言ったはずだ。
それとどこかで聞いた事のない斬新な官僚批判があるようだから
是非聞いてみたい。

軍隊は平時には官僚的になるが戦時になれば軍人に戻る。
それが強い軍隊だ。
陸海軍の武器の共通化もお互いの技術の交換も統一した生産もできなかった
陸海軍のセクト主義は他国じゃ考えられない。
これを官僚的と言うんだよ。
440名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/01 02:02 ID:yXie/C43
牛沼氏は女性を娼婦だと思ってるらしい・・・。
441名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/01 02:03 ID:lrJSCw3e
東京にマンションを持っているのには驚いたが・・・。
442名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/01 02:04 ID:g8jLLhIL
>>439
??? 
どっかで聞いたような官僚批判しといて

「軍隊は平時には官僚的になるが戦時になれば軍人に戻る。それが強い軍隊だ」

だってさ!言ってる事矛盾しまくり(w
443名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/01 02:06 ID:g8jLLhIL
そもそも官僚制度じゃない正規軍なんてあるのォ??

是非教えてよ!
444名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/01 02:07 ID:g8jLLhIL
へえ〜、作戦の命令とかも紙に残さないんだ!!軍隊ってww

これは恐れ入った。
445牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/09/01 02:08 ID:iTljPA8w
>>442
だからどっかで聞いたことの無い官僚批判してみろよ。
言っていることが矛盾しているって日本語わかっているか。
煽り禁止って意味もわかっていないようだし。
遊ぶならあっちで遊びな。
446名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/01 02:09 ID:/NUZohhO
どうでもいいけど・・・

台湾人の対日感情があまり悪くないのに、中国南部の対日感情が激しく悪いのは

台湾を統括=旧日本海軍=虐殺しなかったし日本の国力をわきまえていた(WW2開戦にに消極的)
中国南部を統括=旧日本陸軍=南京で数千〜数万規模の虐殺(中国の主張の10〜100分の1)をしたDQN集団。

だと思う。
447牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/09/01 02:10 ID:iTljPA8w
>>443
答えはあっちに書くよ。
448名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/01 02:10 ID:lrJSCw3e
>陸海軍のセクト主義は他国じゃ考えられない。

全世界の軍の制度を理解してのご発言?
449名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/01 02:11 ID:g8jLLhIL
>>445
そもそも何で俺が官僚批判するのォ?

頼むから幼稚な青い君と一緒にしないで プッ 
450名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/01 02:16 ID:yXie/C43
牛沼氏と言うのはスケベなのか?
まあ新jよりはいくらなんでもマシなんだろうけど。
451牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/09/01 02:26 ID:iTljPA8w
いや、他人を批判するからにはご立派な官僚批判をお持ちなのかと思った。

で、さっきの答え。
官僚主義と官僚制度の違いはわかっているか?
紙に命令を書いたり予算を配分を決めるのが官僚制度だ。
官僚主義とはその制度にあぐらをかいて
本来、交通整理的な役目のはずの官僚が道路全体のことに口を出すことだ。
こんなことはお前以外の大人なら言わずもがなのこと。
昭和10年頃、チェコから陸軍に自動小銃の技術供与の話があった。
だが、陸軍はこれを断ってしまう。
何故なら銃が自動になると兵が弾を際限なく撃つので
軍の予算がなくなるという理由だった。
少なくても欧米を仮想敵にした軍隊の官僚じゃないだろ。
彼らは国の命運よりも自分の組織の予算の方が優先していた。
結局旧式の銃では腰だめで撃てる米軍の自動小銃にはかなわなかった。
それと日本軍は敗戦から原因をつきとめフィールドバックするという
方法を採らなかった。むしろ隠蔽しようとした。
これなんかも官僚主義だろ。
そういう官僚主義をおれは批判している。


452牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/09/01 02:29 ID:iTljPA8w
>>451
フィードバックだった。
間違えちゃったよ。
453名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/01 02:32 ID:lrJSCw3e
>>451
>本来、交通整理的な役目のはずの官僚が道路全体のことに口を出すことだ。

交通整理は交通整理しかやらない。
道路全体のことなんて考えない。
これがセクト主義だろ?   0点
454福岡人なのだが・・・ ◆Zfw1oRa3mc :04/09/01 02:32 ID:AA+XUpi8
>>451
そうなんだ、うちの爺ちゃんが自動小銃があればって嘆いてたのを思い出した。
455陽句:04/09/01 02:37 ID:lrJSCw3e
いずれにしても、
時代遅れの軍国青年は女にはもてませんから!

残念!
456牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/09/01 02:39 ID:iTljPA8w
>>453
交通整理は車がスムーズに走れることだけ考えていればよい。
道路の作り方、どこに道路を作るかを決めるのは政治家の役目。
どにかく自分たちの交通整理がやりやすくなるように
政治家の職分に口を出して政治家以上の権限を得てしまう。
これが官僚主義だ。
お前は突き当りまで説明しないとわからないのか?

もう眠いからあんまり面倒臭い煽りはするな。
特に質問が無ければ寝る。
457名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/01 02:44 ID:lrJSCw3e
>陸海軍の武器の共通化もお互いの技術の交換も統一した生産もできなかった
>陸海軍のセクト主義は他国じゃ考えられない。
>これを官僚的と言うんだよ。

と、>>456では、エラク矛盾するわけだが・・・
官僚主義の定義も曖昧で、首尾一貫して使われていない。
どっかの本で読んできたネタを
あたかも自分の意見のようにして偉そうに書き込むと
こうなる。
458牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/09/01 02:53 ID:iTljPA8w
>>457
だからどこが矛盾しているんだ?
矛盾の意味わかっているか。
陸海軍の対立は有名だろ。
そんなことはおれの意見じゃなくたってみんな知っている。
脳みそのレベル上げろ。
陸海軍の軍人が競って権力を握ろうとする行為は
セクト主義が極端に行き着いた結果だぞ。

459牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/09/01 02:59 ID:iTljPA8w
それと官僚主義の定義は一行目に書いている。
これで曖昧ってどういう頭しているんだ。
460名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/01 03:09 ID:lrJSCw3e
>紙に命令を書いたり予算を配分を決めるのが官僚制度だ。

どこの国でも、企業でもそれをやってると思うが?
予算も決めずに、口頭で指示出すだけいい加減な組織って
世間にはあまりないよ。
君らの教団は知らんが・・・
461牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/09/01 03:15 ID:iTljPA8w
何を言ってるか理解できない。
頭壊れちゃった?
結局、その粗雑な頭で煽ろうとするからバカがばれるんだよ。
矛盾、曖昧。覚えたての言葉を使いたい年頃なんだな。

そんじゃ寝るわ。

462名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/01 03:21 ID:lrJSCw3e
逃げられた・・・
正論を言ってるつもりだったんだがなぁ。
命令(指示)を文書化するのも、
予算配分を決定するのも、普通の会社で行われていること。
これをもって、
「あなたの会社は官僚制度ですね?」
なんて言う奴がいたら非常識の誹りを免れないだろう。

議論に負けて、「頭壊れちゃった? 」だの「バカ」だのの捨て台詞。
どちらが無能なのかは歴然としているんだが・・。
463EXCULTer's / 西京経済企画室 ◆Lyv1wb1ee2 :04/09/01 03:24 ID:jh7M3K88
ハッテンヘルス向けのスレだなw
464牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/09/01 03:30 ID:iTljPA8w
>>462
寝ようと思ったのに。
冷静にレス見てみな。
お前のは議論にもなってないぞ。
単なる煽り。で、おれに負けてる。
お前が突っ込んだところを返しても話題を変えるだけだもんな。
軍隊は紙で命令を書く官僚制度だとかなんとか言い出したのはお前のほうだろ。
それがいつの間にか会社が官僚制度になっている。
つまり会社のように紙で命令を出しても官僚制度じゃないから
軍隊も官僚制度じゃないって言いたいのか?
それを矛盾と言うんだけどな。
あと、おれが批判しているのは「制度」じゃなく「主義」だって書いただろ。
もう忘れたのか?
だからバカだと言われる。

465EXCULTer's / 西京経済企画室 ◆Lyv1wb1ee2 :04/09/01 03:32 ID:jh7M3K88
キモーw
466名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/01 03:39 ID:lrJSCw3e
>軍隊は紙で命令を書く官僚制度だとかなんとか言い出したのはお前のほうだろ。
いつ俺がそんなこと言った?

>あと、おれが批判しているのは「制度」じゃなく「主義」だって書いただろ。
そんなことは理解している。
ただ、「官僚制度」の定義があまりにも稚拙で
それを元に「主義」を批判しても説得力がないぞ、と言ってるんだが?

いちいち、レスに「バカ」だの何だのと罵声語を入れるのは、
議論に負けてる側の傾向なんだが?
467名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/01 03:42 ID:lrJSCw3e
そもそも、掲示板で論理の脆弱性を突かれただけで
ここまで熱くなって、相手を罵倒するような
幼稚な精神の持ち主が、
偉そうに、旧日本軍の制度を批判してもなぁ
とは思いました。
468名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/01 03:44 ID:awZ5KQQ/
前のほうの書き込みに既にあるかもしれないけど、官僚はドイツ語で
ビューロークラツトというらしい。早い話事務仕事をしている人はみんな
官僚ってことになるんだとか。評論家西部邁はこう説いている。まあ参考までに。
469名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/01 03:46 ID:lrJSCw3e
なるほど。それは勉強になった。
470名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/01 03:48 ID:lrJSCw3e
なるほど。それは勉強になった。
471名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/01 06:55 ID:nrbDqk8X
一連のやり取りを見ていると
牛沼久太郎が勝ち負けにこだわり、負けず嫌いで
煽りに対して自制が効かなくなるという性格の持ち主であることがわかる。
いつもは飄々と振る舞っているが
執拗な煽りを喰らうと、本性の一部が顔を出す。
この手のタイプは、名無しでかなり悪質な書き込みをしていると思う。
軍団の黒幕は、案外、新宿クーミンではなく、牛沼久太郎なのかもしれない・・。
472名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/01 09:18 ID:+HhJ58Iw
牛沼先生の方が筋が通ってるよ。
煽る側はなんとかイチャモンをつけようと必死なのがよくわかるよ。
勝った負けたも煽り側から言い出したことみたいだし。
先生が反論するとまるで答えられないw
473EXCULTer's / 西京経済企画室 ◆Lyv1wb1ee2 :04/09/01 09:22 ID:jh7M3K88
兵役のない国で偉そうに語んなよ(爆笑)
474名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/01 09:31 ID:+HhJ58Iw
僕はこのスレを見て牛沼先生のファンになりました。
このスレは悪質な煽りも無く良い雰囲気だったのに
ぶち壊しになっちゃいましたね。
煽りは相手にしない方が良いのでは?
普段はあまり書き込みはしないのですが先生を応援したくて書き込みました。
これからも頑張って下さい。
475EXCULTer's / 西京経済企画室 ◆Lyv1wb1ee2 :04/09/01 09:32 ID:jh7M3K88
ハッテンヘルスwでも逝けよ(爆笑)
476名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/01 09:38 ID:+HhJ58Iw
ハッテンヘルスって何?
EXCULTer's / 西京経済企画室 ◆Lyv1wb1ee2 は行かないの?
あんまり煽りには慣れていないので落ちます。
477449:04/09/01 13:39 ID:dBFhuW/q
>>451
いつのまにか官僚批判から官僚主義批判に変わってるなw
最初に官僚批判をしといてなんでこう都合の良い方に考えたがるのか!!
紙に命令を書いたり予算を配分を決めるのが官僚制度なんだろ?
じゃあ金がなくて予算配分上手動装填銃を使い続けた日本は官僚主義になるの?
矛盾しまくりだなあ(爆笑)
でも手動装填銃って弾薬の消耗を防ぐためには有効だと思うよ。



>>462
そりゃあほとんど悪い意味でしか「官僚制度」を使わないから怒るでしょうね。
あなたは結構鋭いですね。

>>468
民間企業にも官僚制度に類似した制度はある程度浸透している。
西部邁以前にこれは大学の教科書にも書いてある。
478名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/01 13:56 ID:dBFhuW/q
ついでに>>435のまとめを叩きます。

>それとおれが高級軍人を貶すのは、日本軍を貶すということではないということはわかって欲しい。
むしろ、無能な官僚を上に戴きながら果敢に戦った名も無い兵士たちを尊敬している。

軍人である以上、下っ端から高級軍人まで官位を指定されてる立派な官僚である事も知らないw
479牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/09/01 18:46 ID:zl/l/k7f
>>478
お前より軍の組織は知っているよ。
だからこそ批判する。
軍隊は人命を預かる以上上に行けば行くほど責任は重くなる。
だが、旧軍では上に行けばいくほど無責任がまかり通りようになる。
フィリピン第四航空軍の司令官だった富永恭二は陸軍で初めて特攻を命じた。
その時の訓示で「諸君だけ死なせはしない私も必ず後に続く」と言ったが、
戦況が悪化すると直属の上官である山下大将にも自分の副官にも告げずに単独で
台湾に退いた。
これは明らかに敵前逃亡。通常なら銃殺ものだが予備役編入即日召集、
満州139師団長へ左遷という処分だけで済んだ。
インパールで軍法会議覚悟で単独撤退した15師団の柴田師団長は
「15軍、方面軍、大本営とバカの三乗が上にいる限り戦は勝てない」と書き残している。
この柴田師団長の抗命も結局軍法会議は開かれなかった。
大佐以下の抗命では厳正なのにな。
またノモンハンでは師団長、参謀が戦勝の宴会を開いている時に
大佐級の連隊長は詰め腹を切らされて自決している。
陸大閥の仲間を庇いあい、下に辛く上に甘い無責任体質。
これは官僚主義の典型だろ。
それに対しておれが嫌悪し、批判するのに何か問題があるのか?
それともこれでよかったと言うのか?
それならそれで一つの見識だが、何故よかったのかという理由は記してもらいたい。
480EXCULTer's / 西京経済企画室 ◆Lyv1wb1ee2 :04/09/01 18:48 ID:jh7M3K88
>>479
偉そうなコトは兵役に逝ってから言えw
481名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/01 20:29 ID:8FnOelbc
>>479
>またノモンハンでは師団長、参謀が戦勝の宴会を開いている時に
大佐級の連隊長は詰め腹を切らされて自決している。


また牛沼は何処かの旧軍非難本から引用かw 
そもそもこういうのって事実に基づいてるのかね?
482名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/01 20:39 ID:s1EJJ1ba
ケーンが一番まともだなw
牛沼は兵役の経験もないのに、なんか偉そう。
敵前逃亡を批判できる奴は、
自分は、絶対に敵前逃亡しない自信があるんかね?
誰だって死にたくはないだろう。
お気楽に冷房が効いた部屋でパソコン叩いている奴が
偉そうに人の生き死にに関わる問題を論じるな
483名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/01 21:15 ID:awZ5KQQ/
というより、このスレは日本史版で語るべき内容ではないか?
どうしてお国自慢版で論議されているわけ?論議の内容云々の前にそれが知りたい。
牛沼氏にしろケーン氏にしろその辺は分かっているはずでは?
484名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/01 21:34 ID:8FnOelbc
お国自慢も兼ねて郷土の軍隊を語ろうと言う趣旨なんだろう。

でもこの板にある当然の結果、お国軍隊を貶めるレスが散見w
485名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/01 21:38 ID:q5+wm3ss
>>4に、お国自慢だった各地の師団を語れ、とある

お国板にはもったいないスレですなぁ、感心いたしました
486名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/02 00:40 ID:2QD8Hnat
http://imperialarmy.hp.infoseek.co.jp/division/dantai.html
各部隊の衛戍地が見れます。
487牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/09/02 01:11 ID:0y0zKheM
そう、おれも敵前逃亡しないとは言い切れない。
だが、富永は多くの若者を死地に赴かせた責任がある。
その責任を感じていたなら、例え怖くても死にたくなくても
戦場に留まっていなければならない。
それが上に立つ者の責任だろ。
敵前逃亡して尚且つ処罰できない。
そういう組織に対して憤っている。
もちろん、立派な将軍も多かったのは事実だ。
以前、出てきた今村をはじめ外地で兵士の復員を見届けてから自決した師団長もいる。
陸海軍の縄張り争いもそう。
日本では海軍機の機関砲の銃弾では陸軍機の規格に合わずにまともに闘えないという
悲喜劇を起こしている。
陸海軍が共同して兵器の生産をすれば1.5倍の生産量が確保できたという記録もある。
資源が乏しい国が無意味な縄張り争いのために3分の1の資源をどぶに捨てていたわけだ。
一時が万事この通り。
無責任とセクト主義。これが日本軍に巣食っていた官僚たちのやったことだ。
それでもやはり日本軍を称えるのはそういう劣悪な環境でも
尚、国を愛し、国のために闘った兵士たちに敬意しているからだ。



488牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/09/02 01:25 ID:0y0zKheM
>>481
残念ながら当時は生まれていなかったので知識は本から得るしかない。
本や史料を読み込んで自分なりに咀嚼して書いている。
時々、参考文献なども挙げているがそれらからの丸写しはしない。
そもそも本から得た知識を切り売りして糊口をしのいでいるので
本からの情報がなければまんまの食い上げになる。

このスレをお国建てたのは旧軍の師団こそが
最も郷土のお国自慢になると思ったからだ。
陸軍の部隊は郷土と堅く結びついている。
ビルの高さや店の数を自慢するのもいいが
郷土の名誉のために戦って死んでいった兵士を
称えるスレがあってもいいじゃないかという趣旨だ。
おれも歴史関係ならビルの高さよりも多く語れるしな。
489名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/02 02:11 ID:P/l0Vidf
敵前逃亡だろうとなんだろうと生きて帰ってなんぼやろ
戦死なんて所詮犬死に。称える奴もアホ。マラリアにでもかかってイネや。
490名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/02 02:16 ID:Z/jo2qaw
どんな本から情報を得ていますか?
参考までに少し教えてください
491名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/02 02:32 ID:NU6v57Zi
引退宣言の舌の根も乾かぬうちに
2chに舞い戻って書き込みを続けるような
往生際の悪いコテに、戦死を称えられても
英霊は浮かばれないな・・・

726 :牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/09/01 01:50 ID:iTljPA8w
>>722
マジに書いたんだけどな。
それと切腹代わりに多分このスレには来ないよ(たまにくるけど)。
8月一杯で2ちゃんを引退すると奈良ちゃんに宣言した。
492牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/09/02 04:00 ID:tqZ5kLgr
>>490
入門編でお勧めは大岡昇平の「レイテ戦記」五味川純平の「ノモンハン」「ガダルカナル」
光人社のNFシリーズ。それに半藤利一、高木俊朗の著作など。
戦争全体を俯瞰したいなら司馬遼太郎の「坂の上の雲」山岡荘八の「小説太平洋戦争」などがある。
この二作は小説としても面白い。
これらは書店で簡単に入手できるけどさらに興味が出たらこれらの本の巻末に掲げられている
参考文献を読めばいい。
入手困難な本もあるけど国会図書館のような大きな図書館なら大抵ある。
図書館に行ったら、当時の新聞記事を閲覧してみるのもいいね。

>>491
こっちには時々書くと書いただろ。
資料の都合のいいところだけをツマミ食いするのはご法度だ。
引用するなら全文を引用しろ。
昨日の今日だからで何か煽りがあるはずだからと来てみたら
案の定だったので書いた。
「樹静かならんと欲すれど」と言う奴だ。
静かにしたいんだが「あらし」が止まないんだよなあ。

493EXCULTer's / 西京経済企画室 ◆Lyv1wb1ee2 :04/09/02 04:02 ID:2jlSuRiu
>>492
偉 そ う な コ ト は 兵 役 に 逝 っ て か ら 言 え w
494某コテ:04/09/02 04:30 ID:NLHoU8JJ
「郷土の名誉のために戦って死んでいった兵士を」って
何の根拠があって言ってんだ?
嫌々駆り出されて犬死にした無名の兵隊さんも多いだろう。
この手の話はあまり美化して語ると危険。
495EXCULTer's / 西京経済企画室 ◆Lyv1wb1ee2 :04/09/02 04:32 ID:2jlSuRiu
…だな。ファッションハッテンヘルス逝きだな(爆笑)
496某コテ:04/09/02 04:33 ID:NLHoU8JJ
うん。よくわからんが、ファッションなんとか逝きだな
497名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/02 11:53 ID:oyZC7ugb

さすが韓国兵役に詳しい解同在日満州族


139 名前: EXCULTer's / 満州再認識♪ ◆Lyv1wb1ee2 投稿日: 04/08/10 16:06 ID:zPi/CMZ4
>>132
そっか、兵役制度は日本にはないから気が付かなかったよ。
やっぱり国に帰るのかな?

160 名前: EXCULTer's / 満州再認識♪ ◆Lyv1wb1ee2 投稿日: 04/08/11 20:26 ID:HhHe1P2a
>>158
いや、実際にどうしているのかって言うことだよ。
兵役期間は国に帰ってるのかそれとも免除されてるのか、
ってことを聞いてんの。
日本人には米英人と同じく兵役がないのでそのへんが気になった。

171 名前: EXCULTer's / 満州再認識♪ ◆Lyv1wb1ee2 投稿日: 04/08/12 04:27 ID:31aVLmSq
>>163
では、日本では人口が多く、経済情勢の悪いことも手伝って任
意志願制で兵力は維持され、兵役の義務化は当分の間ないと
は思うが、仮に兵役が義務化されれば我々日本人と在日たち
との間で決定的な違いが出てくることになるワケだよな?

つまり…兵役に来なかったヤツはそれらの理由を聞かれる、と、
言うことになる。それからアトは想像に任せる。

# そうなった場合について聞かせてくれ。
498名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/02 20:07 ID:Ls0IdoW+
岐阜はどこの管轄?
499名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/03 01:05 ID:prmXF/Y7
>>498
第3師団歩兵第68聯隊など
500名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/04 08:17 ID:ueuyWAdN
500♪(ヲッ☆
501名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/04 08:28 ID:vC6ZB55y
おれは、おやじじゃないから、ハッテンヘルスが何物かはわからんが、
ケーンはよく行くんだろうな。
502筑豊人@東京:04/09/04 09:59 ID:D8OUKEfe
第二師団が水戸というのは意外。
503筑豊人@東京:04/09/04 10:05 ID:D8OUKEfe
第二連隊か、、、みすった。
504名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/04 14:23 ID:iUBIWsBl
元々東京だけど、日露戦争後師団が増えたときに、水戸に移ったんだよ>歩二
505名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/04 14:42 ID:YA2w1o/i
>>504
佐倉じゃねーの?
506名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/04 17:51 ID:vC6ZB55y
age
507504:04/09/04 19:03 ID:UFb8dV7d
間違えました。>>505の通り佐倉でした。
508牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/09/05 01:56 ID:7G24ELF/
>>507
第2連隊は日露末期に新設された14師団に編入されて水戸に移っている。
代わりに第1師団に佐倉57連隊が創設された。
第2連隊はシベリア出兵のときに尼港事件に巻き込まれて第3大隊が被害を受けている。

千葉の人に聞きたいのだが、佐倉連隊の駐屯地はやっぱり大佐倉にある
佐倉城跡(現、国立民俗博物館)だよな?
駐屯地としては手狭のような気もするのだが。
509筑豊人@東京 :04/09/05 02:03 ID:60Aauo68
>>504-508

arigato
ぐぐったらこんなの見つけました。

http://www.google.co.jp/search?q=cache:VVmx66VvYU8J:www.city.sakura.chiba.jp/gyoseikanri/sisihensan/hohei57.htm+%E4%BD%90%E5%80%89%E9%80%A3%E9%9A%8A&hl=ja&ie=UTF-8

あと佐倉といえば、よもやまシリーズで佐倉出身の将校の人がいたけど、地元の連隊だったのかなぁ?
あとでチェックします。
510牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/09/05 02:22 ID:7G24ELF/
>>509
こちらこそありがと。
紹介されていた本に興味を持ちました。
申し込もうと思ったんだけど、発行が去年の3月か。
在庫があればいいんだが。
511名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/05 21:43 ID:hYPb9TU5
筑豊人@東京殿
比留間宏さんのことだろう。あの人は陸士57期の工兵出身で、工兵15連隊附だ。
父親はやはり工兵で、陸士12期で、工兵9連隊の連隊長、爺さんは歩兵出身で、
戸山学校出身の将校で歩兵2連隊だった関係で佐倉に住み着いたはずだ。
漏れも本は実家においてあり今手元にはないが、あの人の本は、読みやすく資料的にも
参考になることが多いので何度も読んで内容も結構覚えているのでたぶん間違いない。
512490:04/09/06 23:53 ID:ekQJfkWJ
>>492
どうも。
普通の歴史小説か。
「坂の上の雲」は挫折した。

吉村昭の戦史小説は連隊名をきちっと書いてました(たぶん)
おれが知ってるのなんて、弘前第31連隊と青森第5連隊くらいかな・・・(逆かも)
513牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/09/09 23:59 ID:nf1x5gaw
戦記物は連隊名や長をきちんと書くのが鉄則だろ。
しかし、あまり詳しく書きすぎると読むのに煩わしいという欠点もある。
戦地の地図が付いていることがあるが、
それを把握していないと読んでも位置関係がわからずに混乱することがある。
彼女に「坂の上の雲」を勧めたが、6巻あたりで挫折した。
日本海海戦の描写がわかりにくくてダメなんだそうだ。
あそこから本格的に面白くなるのにな。
514筑豊人@東京 ◆CbCl/p/5U2 :04/09/10 00:01 ID:/OdNyDwT
>>511

そうですそうです!
515牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/09/10 00:14 ID:qkv3MoMe
>>514
同じシリーズで岡山連隊の人が書いた本もあったように思う。
新兵か内務班についての内容だったかな?
516むべ:04/09/15 01:13:43 ID:iDvUDt4K
サルベージ
517205:04/09/17 01:29:26 ID:5qnOxIZr
東北出身の元広島5師団長板垣征四郎氏は、無謀な忻口鎮攻撃で多くの
犠牲者を出し(板垣師団長自身反省しておられた)郷土資料でも指揮官と
しての資質に問題あり、だが郷土資料で人間としての評価は悪くない。
太原城攻略の時、広島11連隊は太原城外に達し、攻撃準備に着手したが、
これより先、広島5師団の太原攻略を容易にする為、正太線に西進中の
20師団は、敵の強烈な猛攻で進展せず、遂に109師団を起用し、省境を
突破、20師団は正太沿線で苦戦しながらも、5師団より早く、太原東南
付近に到達し、川岸師団長が決意すれば、その攻撃〜一部占領は可能
だった。20師団参謀でも、攻撃決行の話が出たが、師団長は「5師団は、
太原を目標に悪戦苦闘を重ね南下している。太原攻略の栄誉は5師団のもの
である。抜き駈けの功名など出来ぬ」と5師団の参謀間でも20師団の
攻撃を待つよう依頼したらどうか、の意見も出たが、板垣5師団長は
「川岸師団長は決して抜き駈けをやらぬ。余計な申し出は、5師団の恥で
ある。」と即決した。板垣、川岸両師団長は信義の人であろう。
518205:04/09/18 03:15:03 ID:GgnzA9Yd
上記の続きであるが、板垣元5師団長について。
第五師団作戦主任参謀国分七郎中佐(のち第四十六師団長)の回想
 『師団が大運河を渡河して徐州に迫らんとしたところ、中支派遣軍の
第十三師団(荻洲立兵中将ノモンハン事件当時の第六軍司令官)が徐州を
占領したという情報があった。(南北から徐州目指して進撃した各師団の
いずれもが一番乗りを希望したのは当然であったが、その順序について
戦略的な考慮が払われるべきは言うまでもなく、その点で、第十三師団は
戦況を無視して強引であった)平素は謹厳寡黙の師団長もこの時は多少腹に
据えかねるところがあったのか「オギスがアキス(空き巣)か」と珍しく
声を出して笑われたのが印象的であった。
おそらく師団長はこの時、かつて太原城攻略時の川岸第ニ十師団長の
示された真の武人の襟度というものを想起され、これが脳裏に去来した
ことと思う。筆者もこの両事件を体験し、武士は相見互いということを
痛切に感じさせられたものであった。』
このように徐州も含め広島師団と仙台13師団は、かなり因縁が深かった。
519元・福島市民 ◆ZNyEE09Iv2 :04/09/18 23:44:21 ID:t3BlkVNl
幕僚も大事ですね。
師団長によっては師団幕僚以下がほとんど仕事してて師団長はお飾りってケースもあったかもしれませんね。
実は最終決定権すらない可能性も。

ちなみに海軍では、負けてボロボロになって港に帰還する際、軍曹クラスが指揮官になって軍艦を指揮してたケースもあったようです。
520むべ:04/09/19 01:45:03 ID:79kZFNXy
>>515
「新兵よもやま話」を読み返してみたら岡山連隊の話ではなかった。
岡山連隊のことが書かれているシリーズもあったような気がしたのだが。
地獄のような内務班のなかでここは極楽だと言っている新兵がいた。
聞くと地方では極貧の暮らしをしており、腹いっぱい食えるだけ幸せだと飯を食っていた。
演習で戦友たちがバテて食事が喉を通らない時にも彼だけは他人の分まで平らげた。
「こんなに食えるのも天皇陛下のおかげ」と変な意味で天皇陛下を尊敬していた。
だが、その彼も南方に送られ飯が食えずに餓死したそうだ。
こんな話が妙に印象に残っているのだが、知っている人いるかな?

521むべ:04/09/19 02:01:10 ID:79kZFNXy
>>518
荻洲中将は13師団で上海、徐州、武漢と手柄を立てて
関東軍では猛将という評判だったそうだが、
如何せんノモンハンの時の対応が悪すぎた。
関東軍の参謀長だった磯谷廉介中将は責任を取って自ら予備役になったが
荻洲小松原のコンビは現場の連隊長大隊長を自決させたにも関わらず
祝勝の宴会まで開いているからな。
522名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/19 11:40:43 ID:qGFJWkXJ
ノモンハン事件では新潟の部隊も勇猛に戦ったらしい。

昭和14年7月,ノモンハンで日ソの激突が重大危機に陥り,逆上した関東軍が,北満国境駐屯の仙台,大阪両師団に応急動員下令
出動を命じたとき,仙台第2師団は勇躍出発,ハイラルより徒歩行軍4日間で現地到着,先遣部隊たる新発田16連隊は
直ちに戦闘加入勇戦奮闘したのに反して,大阪第4師団は出動下令されるや急病人激増
何とかして残留部隊に残ろうと将兵が右往左往し,怒った連隊長が医務室へ出向き,自ら軍医の診断に立ち合う始末
やっと出動部隊を編成したまではよいが,ハイラルから現地までの行軍では,大阪師団は1週間を要し,しかも落伍兵続出
現地にやっと先遣隊が到着したら,日ソ停戦協定成立
途端に元気が出た浪花っ子の面々,口々に戦闘に間に合わざりしを残念がり,落伍した将兵は急にシャンとなって続々原隊復帰
帰りの軍用列車では一番威勢がよかったというおとぼけ師団であった
523205:04/09/19 15:37:31 ID:zU7i3hW+
>>521
ノモンハン事件のおり荻洲司令官は陣中に訪ねた、関東軍参謀辻正信少佐に
「小松原が早く死ねばことは片ずくが」という驚くべき暴言をはいた。
後方の安全な陣地におり、しかも輸入品のウイスキーを昼間から飲み、
最前線で血みどろの苦戦をしている小松原兵団長に対する本心か。
小松原氏はコンビでないのでは。荻洲中将は徐州でも「敗走の敵兵などに
かうことなく、一路徐州へ突進せよ。」戦闘の目的は徐州を攻略すること
か、それとも敵部隊を潰滅させることか。激戦をせず機動と行軍で北進し、
一番乗りにあせった部隊の作った間隙は大きく、支那軍は一将軍の功名心
で脱出した。併進した名古屋3師団、金沢9師団も迷惑したことだろう。
広島5師団は勇将張自忠軍と死闘、姫路10師団が苦戦する台児荘を救援
し、向城、北労溝などで1ヶ月余り激戦を続け、李宗仁が機動退却戦法を
対岸にとる大運河を渡河し追撃を重ねていた頃、荻洲仙台13師団長は
空き巣に。5師団に追われた李宗仁軍に冬季作戦で3師団、13師団は撃破
され、13師団は特に損害が多くなんとも皮肉なことである。冬季作戦では
広島231連隊が安陸北方で13師団救援し敵軍を蹴散らすと、一転し
3師団管内へ侵入した敵軍を信陽西北方へ潰走せしめるなど両師団の危急を
救った。兄弟広島部隊をいやでも意識した、敵軍に勇名を轟かせた。
524牛沼久太郎 ◆.CA8T6GEL6 :04/09/22 01:47:49 ID:OeuJqkwn
>>523
ノモンハンの主力だった23師団は陸軍初の3個連隊編成の師団で、
従来の4個連隊編成の師団に比べて定員は減るが、
その分を機械化して4個連隊の師団に比べて機動性を高くした近代的な師団だった。
小松原はその師団長に親補された陸軍の期待の星だった。
ここで言う期待の星とは陸軍の典型である武断豪傑型の将軍という意味。
無敵の皇軍が進めば鬼神も避けるという信念を保持していた。
実際に前近代的で軍閥の私兵を寄せ集めた中国軍に対しては無敵だったので、
過剰な自信を強め、
ソ連軍に対して三分の一の兵力で十分であると考えていた。
ノモンハンの前年の張鼓峰では19師団がソ連軍によって壊滅的な打撃を受けているのに
それを教訓とした形跡も無い。
三分の一の兵力で事足りると思っていたから最初の三分の一が敗れると次の三分の一、
また三分の一と結果的には兵力の逐次投入に陥ってしまい23師団は壊滅した。
近年の研究ではノモンハンではソ連軍の方が被害が大きかったようだが、
それは兵隊の頑張りによるもの。
一体、どこの世界にサイダー瓶にガソリンを詰めた火炎瓶で戦う正規軍があるだろうか?
自信過剰と敵への侮り、精神性の重視などは荻洲と似たところがある。
それで荻洲と小松原は似た者同士でコンビと書いた。
525205:04/09/23 00:29:24 ID:f0t+0QtJ
>>524
昭和13年ごろの日ソ両軍の兵力比では、在満鮮日本軍を1とした場合、
極東ソ連軍(バイカル以東)は、師団数で2、7飛行数で5、9戦車数で
11,2でさらに装備兵器の性能及び単位編組内の重火器・火砲の装備数、
戦車、装甲車等の付属火力と、機動力を加味することが重要で、当時ソ連軍
の狙撃1師団は、戦車約80両、装甲車約90両、、軽砲約60門、、
重砲約15門を装備していた。1個師団でも日本軍と相当火力差が。
「7月4日戦車約10台・砲10数門を有する約2個大隊を火焔瓶と砲撃で
撃破。」とある様に、対機甲戦の肉薄攻撃は携帯地雷より爆薬類又火炎瓶
の方が効果が大きく、昼間高温で砂地走行の戦車等は、エンジンが過熱して
いるため、火焔ビンでたちまち火だるまとなったが、地雷は微粒の砂地の
為、板を併用しないと起爆困難で、特に敵6T型戦車の様に、装輪兼装軌
には効果が少なかった。ふと、モンゴルを旅行した時、砂地でバスが
脱輪し、観光客全員でバスを押した時の事を思い出した。砂のキメが
細かかったような。話がずれてしまった。「早期に投入すべき兵力を、
貧乏人の臍繰りよろしく、なぜ思い切って使用しなかったのか、の非難は
当然である。23師団をして、あのような悲惨な苦戦にしらしめたのは、
幕僚の不明にその責任を帰すべきである。」と辻正信氏。小松原氏に
責任を押し付けるのはどうかと。
526名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/23 10:46:36 ID:FcKpDcrM
      張鼓峰
       日本   ロシア
戦闘兵力 6814名 15000名
動員兵力 8862名 32000名
火砲    37門   237門
戦車    −     285両
航空支援 −     250機
戦死    526名  792名
戦傷    914名  2752名
戦病    −     527名
死傷率  21.1%  27.1%
戦車破壊 96両  
砲 〃   16門  
機関銃〃 3丁  
飛行機撃墜 3機  
鹵獲小銃 105丁  
〃自動小銃 3丁  
〃機関銃 22丁  

ソ連軍の損害は、1993年に秘密指定解除によって公表された統計調査より
日本軍よくがんばったなあ
と言うか小銃と火砲だけでどうやって飛行機落としたんだ?
527名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/23 13:01:14 ID:VXCrXwP6
>>526
結局は指揮官が優秀・兵隊の士気錬度が高かったから。
ここで本や戦記だけ読んで偉そうに批判してる人間とは違う現実が存在する。
ノモンハン事件後、ソ連軍の損害やレベルをある程度掴んでおり、次こそはと打倒ソ連軍に燃えていたらしい。
兵隊レベルまで下って匍匐前進のやり方からやり直して研究していた師団もあったようです。

精神力で劣った装備をカバーするのは現代戦では常識、武器が無くなったら素手でも戦うのも常識
建前に近いとはいえ日本軍はそんな難しい事をちゃんと実行できた。
腕前があれば小銃で近距離飛行のジェット機でも落とせる。レシプロなら尚更。
528名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/23 13:07:28 ID:VXCrXwP6
>>524
>ガソリンを詰めた火炎瓶で戦う正規軍があるのか?

ちなみに当時の戦車には中々有効w 当時の日本は金が無いから自前で何とかしようとするのは普通


529名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/23 13:29:58 ID:j2/ujG9z
>>527
小銃でジェット機落とすなんて竹やりでB-29を落とすのとほぼ同義だw
確かにベトナムでカラシニコフに落とされたF-4が存在したのは事実だけどそれを戦力とみなすなんて牟田口のインパール作戦以下だぞ
530名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/23 13:40:35 ID:lqQz77qp
>>529
装備は戦力で兵隊は戦力ではないと?
精神力で劣った装備をカバーするのは現代戦でも常識、武器が無くなったら素手でも戦うのも常識
その位の精神力は必要という事さ。勿論装備が充実してる事に越した事はないけどね。

旧日本軍の批判本ばかり読んでる人間には信じられない話かもしれないけど。


531名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/23 13:46:33 ID:1hltFzfl
実際ジェット機は難しいかもしれんがレシプロ機やヘリは小銃で撃墜可能、
対航空戦闘は兵隊の基本動作の1つでしょうなあ。生き残るためだからあらゆる敵を想定するのは当然
532205:04/09/25 02:59:02 ID:hZ/wlCCq
上記に続きノモンハン事件について
日本軍の、特に意外な障害は、敵のピアノ線による移動低鉄条網で、
我戦車は次々とピアノ線にからまれて動けず、歩兵も足をとられて
前進できず、その間敵の痛烈な銃砲撃は多大の損害をだした。
ソ連軍は戦車が戦力の主体。一方劣勢の日本軍は、それに対抗する為肉攻を
したが、ソ連軍は、戦車の外部に金網を張って、肉攻を封じた。そのため、
おびただしい犠牲者を出した。その事実は上層部が痛感していたはずだが、
その後、終戦まで訓練といえば肉攻反復主体。上層部の無為無策を、底辺の
兵隊の生命とすり換えている。
533名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/25 03:09:31 ID:Bx/hvOxP
無為無策って言っても金と物がねーのに戦争したんだからしょーがネーべよ。
534むべ:04/09/26 02:58:33 ID:ivhLq1NK
カネとモノが無ければ、無いなりに工夫の余地があるんだろが、
残念ながら日本軍の兵器体系は節約よりむしろ浪費に近かった。
日本軍の兵器の思想は「攻撃は最大の防御」でほとんど
敵に攻撃された場合の防御を考えてなかった。
ゼロ戦に防弾装備がなかったのは有名だろ。
陸軍では戦車。ノモンハンでも二個戦車連隊が投入されたがあっという間に
半数の戦車を失い撤退している。
ノモンハンまでは日本軍の戦車が貧弱だったのは理解できる。
だが、ノモンハン後は日本軍の薄い装甲と小口径の砲では
近代戦に通用しないことは認識できたはずだ。
同盟国ドイツは戦車大国だった。
ドイツに技術協力を求めてでも戦車の開発に力を入れるべきだった。
ブリキの缶詰のような戦車100両よりも強力な戦車30両の方が敵には脅威だ。
戦車の開発に力を入れなかったために同時に対戦車戦などの周辺技術も発達しなかった。
結局、日本の戦車はお飾りに過ぎなくなって対戦車戦では相変わらず
アンパン地雷を抱えての攻撃となりこれが敗戦の遠因の一つにもなった。


535名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/09/26 03:01:22 ID:+I7Q6FTi
そんなことより、クーミンスレで奈良県民と話し合え
536むべ:04/09/26 03:14:52 ID:ivhLq1NK
(つづき)
海軍も同じだ。
マリアナ沖海戦で海軍は最新鋭空母「大鳳」を投入した。「大鳳」の初陣だった。
しかし、「大鳳」は敵魚雷一発で撃沈。
実際は魚雷一発程度では大型空母にとってはかすり傷だが
「大鳳」は沈んだ。しかも魚雷を受けてから3時間後。
魚雷攻撃で格納庫に揮発性ガスがたまって何らかの火花で大爆発を起こしたためだ。
つまりダメージコントロールという思想がほとんどなく、
緊急事態に対する備えがなされていなかった。
逆にアメリカの空母「ヨークタウン」は珊瑚海海戦で日本機の数次の攻撃で大破。
被害は資料が手元にないので詳しくは言えないが確か自力航行ができずに
ハワイまで曳航されたほどの被害だったと思う。
それでも沈まなかった。そればかりか三ヶ月で修理してミッドウェーに参加。
アメリカに勝利をもたらした。
いたずらに太平洋の真ん中で鉄クズになる空母を作るのは大いなる資源の無駄。
それなら空母二隻分の資源を使ってタフな空母一隻を作った方が
はるかに資源の有効活用になると思うがどうだろうか?

537むべ:04/09/26 03:24:25 ID:ivhLq1NK
それとおれの日本軍批判に対するエクスキューズ。
現代人が歴史を見るときは神の視線で物事が見える。
巨大迷路は中にいる人には出口を見つけるのが困難だが、
上から見下ろせば迷路の出口はすぐにわかる。
だからああすればよかったのに言いたくなってしまう。
いまさら過去のことを言っても無駄だが、
所詮は床屋談義だ。
野球ファンが贔屓チームの監督を批判するのと同じ。
他国の軍隊も欠点は色々あっただろう。
だが、他国の批判をしても詰まらない。
日本贔屓だからこそ日本チームの批判をして優れたところは賞賛する。
わかってもらえるかな?
538盛新@ゆいと ◆seinannT3Q :04/09/26 03:29:41 ID:hwCfcaQg
ハッテンヘルス向けのスレだなw
539205:04/09/28 23:33:47 ID:ulhg1keo
ノモンハン事件の鹿児島の71連隊資料(当時広島編成、歩兵砲兵広島、
歩兵大隊第1福山、第2浜田、第3山口)で我が軍の装備は、この地方
での作戦に不充分であったとかおおむね短所が書かれている。
長所は夜間訓練が精到と緒戦の必勝「白銀査千南方の戦闘に参加した将兵
(広島師団編成)は、その後補充された将兵(関東軍)より勇敢で
あった。」(諸隊より幹部及び兵を個別に補充し、直に戦闘に参加させた
ので戦力の低下をきたした)。
歩兵71連隊のノモンハン戦死者数上位10は(広島343、山口337、
島根223、鹿児島166、東京81、熊本72、大阪58、北海道55、
秋田55、山形44)。広島人として、書くのは気が重い。
精神力云々について今村均氏は「敗戦の第四の大きな原因は、物質と科学を
軽視した、精神主義の偏重である。(中略)劣悪の装備をもって、肉弾よく
敵を撃破し得るのは、幾度であって常ではない。なぜなら肉弾は、弾丸の
様に、すぐ何度でも補充し得るものではないからである。」と
物量がない時は精神力(必勝の精神は大切だが)より、機転(一兵士や
部隊)によって勝敗が左右する事もある。
むべさんの意見とは同意出来るところもありますが、むべさんの合理主義的
思考(誤認があれば申しわけありませんが)に対し、わしはあくまで
一兵士、郷土視点の自慢だが、視点の違いがあってよいのかと。
540205:04/10/01 22:53:56 ID:QbXg1WBt
今村均将軍は「敗戦の第五の大きな原因は、軍隊の慈悲心欠如である。
(中略)支那事変当初の指導者は、入城一番乗りをきそわしめたりした為、
各部隊は、手間が取れ足手まといになる捕虜や市民のあつかいを
いい加減にし、ただ入城だけをあせったため、いつでも、敵の軍隊
そのものは逸がしてしまい、のみならず支那兵をして捕虜になることは
戦死と同様のことだと観念させ、また荒らされた市民の恨みを買い、
敵兵の抗戦意識と後方の兵站線の不安を大きくし、進むことは進み得るが、
いつまでたっても敵は手をあげず、ついに長期戦にしてしまった。
即ち、知る戦陣道徳。敵対する敵軍以外の者には、慈悲心をもって接する
ことが、迂遠のようで、じつは戦勝獲得の近道であることを。」
今村均将軍は、他に世界史の例をあげ、軍紀厳正の方が勝者であったと
述べられた。(常勝、軍紀厳正、真の精強広島5師団についても、
そのように思われ、述べられたのではあるまいか。)
なぜなら、今村均氏は広東省で、他の部隊が占領した街は市民が避難した
のに、仏山の5師団について「一人も離散せず、日本軍と生活起居を同じく
している。国軍の仁義はこうでなければならない。第五師団の各部隊長に
私は大きな敬意を感じた。」と(仁義ある広島師団の戦い)であろう。
541205:04/10/01 23:42:03 ID:QbXg1WBt
上記に続き、軍紀について徐州作戦時の戦記から。
『我々の分隊長は常日頃我々補充員を教育した。
「ええか、よう覚えとけ。お前たちの家族は一日も早う無事でお前たちが、
帰還することを神に祈っとる。強姦するな。強奪するな。住民を殺すな。
これだけ守ってくれたらお前たち全員を内地に連れ帰り、家族に引き渡す
責任が果たせる。」彼は又戦闘の名人であった。突撃になっても鼻歌
で交じりであった。初めて戦闘を体験する我々から見るとその動作は
まるで神業のように思われた。
「重器があそこにおる。チェッコはあそことここじゃ」と敵の布陣を指摘
してくれる。「どの銃でも一回の装填数は決まっとる。(重機関銃は
九十発、チェッコは三十発、小銃は五発)。撃ち尽くしたらパタッと止む
隙間がある。どの銃でも新しく装填をやり直すまでには少なくとも五秒は
かかる。その間を狙って走れ。どんな鈍足の主でも二十メートルは走れる
はずじゃ」』とあり日清、北清、日露以来広島師団の軍紀厳正の伝統が
受け継がれ、弟39師団も軍紀厳正で、伝統はこの地方の戦国期以来の
美風にあるのかもしれぬ。古来より「精強は軍紀にかかる」と。
542205:04/10/08 04:30:17 ID:MG01F7ZD
今村均将軍は武将の資質について「アレキサンダーにしても、
ナポレオンにしても、項羽にしても、軍隊と苦難を共にしていた間こそ、
常勝将軍だったのだ。下と離れて豪華な生活をやりだし、酒と女に
身と心を傾けだした時、皆いけなくなってしまった。と私は考えている。」
「なんとしてでも勝たねばならぬ。軍人が国家に負う最高の義務は、
戦勝を獲得する一事であり、武将が、どんなに人格を修養し、立派な善行を
重ねても、戦いに負けるようでは、それは罪悪である。」
「武将は、戦術戦略の研究と、将に将たる徳の修養と、そのいずれを
欠いてもならないものと信ずる。」
これに、真っ先に該当する人物は今村均将軍ご本人であろう。
543名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/10/15 16:27:24 ID:82bpprtW
さらに在日などほとんど目にすることのない鹿児島で生まれ育った人間から
見れば、関東人と朝鮮人が同じに見えるんですよ…。
今住んでいる埼玉でも、やはり「自分とは違う顔立ちだ」とは思うのですが、
朝鮮人っぽく見えることはないですし、朝鮮人っぽい顔立ちの人は
関東系だったりしますし。。。
関東在住の方ってホントに気付いてないんですか?
関東人と朝鮮人の顔つきの区別がつかない…orz
と言うか、本気で東京には多すぎる・・誰か東京人を駆除してくれーー
つーか関東ってモロ、チョン顔だろ。東京人は東京から外に出るなよ
東京は日本から独立してくれ。東京って治安悪いね。
東京だけ出なく関東一円ウリナラフィールドで出入りできなくなる事キボーン。東京に核を
544西三河地方人 ◆gDdnWZhdRI :04/10/17 18:30:54 ID:ni1I8zXl
>>536
空母「大鳳」はそれまでの経験を生かし建造された最新鋭空母でした。
舷側防御はもちろん、飛行甲板にも急降下爆撃機の投弾する爆弾に
耐える装甲が初めて施され、艦首は荒天時でも波を被りにくい
エンクローズドバウも初めて採用されました。にもかかわらず初陣で1発
の命中魚雷によりガソリン引火爆発沈没、誠に悲運の空母でした。
しかしこの空母は決して手抜き建造されたものではありません。
日米においてダメージコントロールに対する概念の相違が明暗をつくったのです。
例えば米空母のハンガーデッキはオープンデッキ、対して我空母はクローズド
デッキ、被弾してガスが漏れが生じた場合にどっちが危ないか?ですね。
それに米空母は戦闘時、揮発系パイプラインには海水を注入し油は抜いて
います。だけど甲板装甲はそれ程ではありません。
大破しても沈没しない空母、中でも戦争後半大量建造されたエセックス級
は特攻機の突入をたびたび受けていますが、1隻も撃沈できませんでした。
当時2隻つくるのを1隻にしていいものを・・・できませんね。それが最新
なのだから。
545むべ:04/10/20 23:48:49 ID:xhbuTEqJ
>>544
悲劇の空母といえば「加賀」だろ。
大和型三番艦を改装した海軍期待の空母だったのに。
戦わずして海の藻屑に。
大和は20数発の魚雷攻撃を受けてやっと沈んだタフな艦だった。
その大和の装甲を受け継いだ大型空母。
「加賀」が実戦に参加していればと
死んだ子の齢を数えてしまうのはおれだけだろうか?
546西三河地方人 ◆gDdnWZhdRI :04/10/21 08:58:13 ID:ahIWCzgt
>>545
それは空母「信濃」のことですね。
大和型3番艦を改装した重装甲当時世界最大の空母でした。
完成したのは昭和19年後半だったような。
回航中遠州灘沖で米潜の雷撃により沈没してしまいました。命中魚雷は4本。
沈没要因は艦体の気密性試験省略などによる隔壁の連鎖破壊だったといわれています。
幻の空母ともいわれていますね。そのころには搭載する飛行機もありませんでした。

空母「加賀」はミッドウェー作戦に参戦し急降下爆撃機の爆弾命中で大破大火災に
よって沈没しています。

海軍の話題ですいません。
547むべ:04/10/22 00:51:07 ID:hkl+D0m1
>>546
すまん。間違えた。
引っかかりはあったのだがそのまま書いてしまった。
昔は田宮のウォーターラインシリーズでかなりの艦船を所有していたのだが。
大人になるにつれ軍事予算が削減されて自然消滅してしまった。
泊地(つまり保存場所)もないしな。
「大和」「武蔵」「加賀」「信濃」「陸奥」「長門」「日向」
こういう旧国名を冠した戦艦を持っている地元の人にも
地元の船の自慢をして欲しい。
548むべ:04/10/22 03:16:38 ID:hkl+D0m1
前の方で朝鮮人について書いているので朝鮮人で中将だった洪思翔中将について。
洪中将は陸大35期。中将昇進は昭和19年。同期のは中位の昇進速度だ。
中将昇進後に師団長をやっていないところを見ると
朝鮮人への差別が多少はあったのかなと思ってしまう。
少将で旅団長経験はあるんだけどね。
だが、普通なら世間に範を示すべき高級軍人が朝鮮名のままで中将になったということは
創始改名の強制はなかった有力な証拠にはなるはずだ。
戦後、フィリピンで捕虜虐待の責任を問われて刑死。
作戦に関わったわけでもなく、民間人を殺したというわけでもないのに
死刑とは不運、悲劇の将軍であると言える。

549205:04/10/26 23:26:07 ID:w+I5I0QI
今村均将軍は「敗戦の第三の原因に、作戦可能の限度を越えて戦争をやった
ことである。(中略)ナポレオンもヒトラーも、長駆モスクワに迫り
ながら、共に敗れた。みな、全てその国、その軍の戦力と補給力とが
まかない得る、作戦可能の限度を越えて戦いを進めたからである。
大東亜戦争にしても、兵を止めるべき限度、防護すべき区域はあった
はずだ。どんなことがあっても、トラック島とジャワの線、または、
トラック島とシンガポールの線を越えてはならず(中略)」とあるのだが、
気になるのは広島第十一連隊史に「シンガポールは島内に水源地を有しては
いるものの、これはおそらく非常用でその給水のほとんどはマレー半島
ジョホール州からの送水管によるものであった。(送水管はジョホール水道
の陸橋に並行して設けられている。ジョホール州を占領し、シンガポール島
の上陸に成功した日本軍がなぜこれを遮断しなかったのか、給水が断絶
すれば英軍は否応なく戦うことなしに降伏したと考えられるが、この間の
事情に触れた記録は見つからない。)実際に第二十五軍司令部が給水管を
遮断したのは英軍降伏の前日の二月十四日というから、その状況判断の
遅きに失したこと論外である。ここらの事情を解明した資料は存在しない
ようである。」とあり山下中将、辻政信参謀はどう考えておられたのか?
と思うが今となっては、わからぬが。
550205:04/10/27 00:42:24 ID:fQ/z6eK9
上記の給水、送水管が十三日日本軍の砲爆撃により破壊され、又糧秣の
集積所としていた競馬場を日本軍に占領された英軍は降伏を決意。
その戦闘が、越智春海氏の「マレー戦記」に次のよう記されている。
「彼らはそのまま、ゴルフ場を横断して行くではないか!市川少佐は仰天
した。(またか!)と思った。しかし今度だけは無茶だ。とも思った。
しかし、放ってはおけない。「各隊前へ!」より他なかった。
仙台幼年学校の区隊長から、この歩兵第十一連隊(広島)の第三大隊長に
転任して来た市川正は、しばしば戦理に合わぬ攻撃法をやらかす部下たちを
ほとんどあきれていた。(これが伝統と言うものだろう!)とそう思う他は
なかった。(中略)しかし激戦場にぶつかると、てんで頼もしかった。
勝つこと以外には何も考えていないのだった。(中略)
「とにかく、こうしましょうや」と提案する中隊長たちの方法は、てんで
敵を無視していた。けれども、それは百発百中、成功するのだった。
「まず自ら必勝を信じなければ、ならない」という統帥要綱の言葉を、
この部隊の将兵は一人一人が身につけていた。」とある様に、命令指示を
またず、自信をもって戦闘できる能力を持った広島連隊らしさが、
記されている。
551むべ:04/10/31 00:05:40 ID:b523Ng87
11月中は2ちゃんに書き込みができない。
その間にこのスレが撃沈されてたりして。
552205:04/11/05 01:58:14 ID:pFn63XL4
広島第十一連隊第八中隊戦史より。
『そこには太い金モールの大佐がいて、腰をかけよ、ともいわず、
いきなり「さっきの敬礼はなんだ」と来た。
「ハア? 敬礼がどうかしましたか」
「軍司令官閣下に対して無礼ではないか」  
「敬礼をしました」
「敬礼が違っておると言っているのだ」  
「どう敬礼をすれば良いのですか」
「敬礼の仕方もしらんのか。それでも将校かね」
「中尉です」
「軍人なら軍人らしくしろ」 
「軍人ではありますが、私は在郷軍人ですから」
「在郷軍人?」
「在郷軍人が赤紙で引っ張られたのです」
「引っ張られたとは何んだ。あきれたよ」
余程あきれたらしく後は何も言わなかった。』
権威や尊大さに対しては、反発心を覚える広島人らしいエピソード。
わしの曽祖父から親類にしても、上官に対して
従順だった人は、どうもおらんかったようです。
553名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/11/10 18:48:59 ID:EF7KH6On
554205:04/11/11 00:07:44 ID:Pc0L2D3O
 浜田連隊のニューギニア作戦手記より
「このように少数でもよく陣地を守り通すことが出来たのは、
敵は我が軍の如く夜襲ということはほとんどせず、
昼間の攻撃のみ頼っていたので、夜はやはり警戒の為に
不寝番はたてていたものの、皆よく寝られたお陰である。
(ただし夜間も神経戦の為か追撃砲は射ちこんでいた)」
米、壕軍などは、東洋人と違い夜襲はやらんらしい。
555名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/11/11 09:10:58 ID:9o+dvZ4a
>米、壕軍などは、東洋人と違い夜襲はやらんらしい。 

可動率が悪化しますからね
四六時中働かさせれば士気や効率が低下します
軍隊こそ経営学の実践に最適ですから
556205:04/11/12 01:41:32 ID:UaVdsdam
555>>
戦場と経営学の実践とは違うと思う。むしろ古よりいう合戦は狩り
と同じくであり、つまり人間の戦闘行為は狩猟の延長ともいえるのだが。
むろん効率性においては、他の面で(ガマ行軍)など問題もあった。

「マレー作戦で主役をつとめた広島5師団が、35日間というもの
ほとんど不眠不休で戦い、歩きながら眠る兵など、疲労が重なった強行軍
なのにその間戦闘を重ねること96回、1日に約2回敵と戦ったうえで、
約8万の英軍を撃破、とくに約4個旅団をほぼ完全に壊滅させたことは
戦史に残る偉業であった。」
これは戦術において、敵が考える常識や予想出来ん速度で進軍したことが
重要ではあるまいか。
557名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/11/12 07:43:56 ID:DXasNCDb
>これは戦術において、敵が考える常識や予想出来ん速度で進軍したことが 
>重要ではあるまいか。 

これについては甚だ同意
洋の東西を問わず戦力比の悪い状況において大勝したケースでは多く見られますね

もし、広島5師団が「35日間というものほとんど不眠不休で」戦わず充分な休養が与えられており、
「歩きながら眠る兵など、疲労が重なった強行軍」を行わないで済む作戦の基に行軍をしていたならば、
より強力に英軍を撃破出来ていたのではないでしょうか?
勿論、前述の「敵が考える常識や予想出来ん速度で進軍する」というのは当然です。

さんざん言われていますが、
強兵に無理をさせなければ成立しない作戦より、
弱兵にでも楽々遂行出来る作戦のほうが良い作戦でしょう。
558205:04/11/13 00:56:50 ID:7+la6Fnx
>>557
おおむね同意します。旧日本帝国陸軍では、「戦闘即行軍」
「戦争とは炊事戦争だ」とまで言われ、重い背のうは、行動を圧迫し
機動性を阻害した。このガマ行軍で疲労困憊し、宿営地に着けば炊飯に
苦労する。しかもいつ出発の命令が出るか知れず、背のうで体力を消耗し、
長時間の炊飯で貴重な休養時間をとられ、疲労回復どころか蓄積となって
戦力をひどく低下させていた。特に田舎兵に比して都会兵において、
それ故に都会の部隊は弱いという評判がたったのだろう。
マレー戦で「疲労が重なった強行軍に」になったのは、広島5師団が中央
突破で、ゲマスの堅陣を抜いたとき西海岸の近衛師団はバクリ付近で
苦戦中、東の久留米18師団はコタバル上陸成功した後、牟田口師団長が
マレー半島で自分のところの兵力を温存させ、しかも第5師団に、自分の
所へ「一支隊を出せ」と第5師団の幕僚達を怒らせた。そしてシンガポール
戦では強引に右側へ、おいしい所は自分の手柄でということか。
つまり功名心が作戦に影響している事が多かったのだろうと思いますが。
559205:04/11/16 03:00:29 ID:ur5pXKHy
牟田口久留米18師団長は、シンガポール戦で「この攻撃で、必ず
連隊長は二人とも戦死するだろう。死ぬ前に、もう一度、
会っておきたい」と泣いた(辻政信氏手記)。そのような攻撃をして、
かえって敵の士気を高める結果に。
浜田連隊史に次のように記してある。
「右方の高地から第十八師団が、今日はどうでもシンガポールの街に入る
のだ、第十八師団だけが無茶をやるのだという。世界中の注目を浴びての
戦闘だけに各部隊とも殺気だった。(中略)第十八師団はプキテマで敵の
十字砲火を浴び手痛い損害を出した。(中略)聞けば第五十五連隊(大村)
であった。第五十五連隊長の憔悴した顔が今でも目に浮かんでくる。
連隊副官も既に二人戦死し、今は三人目である由。歩五十五の惨状は
まったく気の毒とも何ともいいようがなかった。暗いことと敵の砲撃の
中ということ、それに何より後退することという悪条件が重なり、
付近には歩五十五の戦死者の遺体や兵器が残されており惨憺たる状況で
あった。」
まあご自身も負傷されたそうなので、余り悪くはいえませんが。
560205:04/11/20 17:32:15 ID:qNME6tJj
大陸では敵がよく夜襲をして来る。南寧戦でも次のよう記してある。
『敵は相当の訓練を受けているようで勇敢にも陣地の上に半身を乗り出し
「シーサン、ライ〜」と呼びかけながら撃ってきた。夜になると、きまって
夜襲してきた。鉄条網をくぐり、草鞋ばきの数人がひそかに忍び寄り手榴弾
を投げて突入してくる。そのため一睡もしない夜が多くなっていった。
第三大隊長伊藤大尉は毎夜の夜襲に、これを防ぐ名案はないかと考えた末、
故郷広島県竹原で、昔猪をワナで生捕る事を思い出し、工兵小隊に太い
針金でワナを二十個作らせ、いつも敵が伝ってくる尾根に並べ、ワナの
細引きを傍の松の木の上に通し、端を握った工兵が近くの穴に潜んだ。
その夜も敵兵が押し寄せてきた。ガチャ〜とワナに足を引っかける音が
する。工兵が細引を引くと敵兵がかかっていた。夜が明けると敵兵が吊り
下がっている。味方はヤンヤの喝采。敵は息をのんで一発も射ってこない。
それから毎日吊り下げた。この陣地への夜襲がピッタリとやんだのは
いうまでもない。』と近代的でない創案でも工夫しだいで功果があった。
561205:04/11/26 23:35:55 ID:KLlZQTLs
日本人の夜襲、特に斬込隊を米軍は極度に恐れ、彼らに言わせると
戦闘ルールに外れる、あるいはスポーツ精神に反すると。そして米軍は、
開発間もない「スナイパースコープ」をもって、斬込攻撃を封じ去った。
これは暗夜に赤外線を放射し(赤外線ゆえ全然相手に気付かれぬ)
夜襲部隊を発見すると、小銃にセットして狙撃するもの。
米軍の夜襲対策は流石に近代的だった。
562名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/11/30 14:16:22 ID:73nLYnCK
薩摩、長州の身分の低い奴らがごたごたぬかすな
俺は武士だそれも旗本だぞ。


563名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/11/30 21:58:19 ID:lA3fo2hi
(゚Д゚≡゚Д゚)









軍板かとオモタ
564名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/12/02 20:10:20 ID:IYo2RR2i
三重県伊賀市、服部半蔵、忍者ハットリ君
565名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/12/03 00:41:10 ID:xtHrvN0u
ゼロ式艦上戦闘機
566名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/12/03 01:01:03 ID:GT6t+G/j
俺も空母のウォーターラインシリーズ買おっと。
567205:04/12/07 02:52:48 ID:7gkNZSbv
広島70師団(槍)の戦記より
『中尉は広島第五師団時代からの歴戦の勇士である。
こんな山の一つ二つ夜襲するのはお茶の子さいさいである。
部隊長のやり方を見ていると歯がゆくてならない。
部隊長が「命令するまで部隊を動かすな」と命じたにもかかわらず、
中尉が独断で動かしたのである。部隊長をおいてけぼりにした夜襲部隊は、
それこそ遮二無二突き進んだ。第一線陣地はまたたく間にぬいた。
結果的にはそれがよかったので、のちに部隊長は「助平根性をおこした
ばかりに、あんなぶざまな恰好になってしまった。中尉のやり方が
一番よかったのだ。」と策におぼれた自分の非を率直に認めていた。』
命令に反した部下を咎めず、逆に褒め、自らの非を認める度量をもつ人
こそ、上に立つ人物にふさわしいといえよう。
568名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/12/07 09:13:00 ID:HxLFnnAV
(゚Д゚≡゚Д゚)









軍板かとオモタ
569むべ:04/12/11 01:46:54 ID:eOy824qU
お久しぶりです。
留守中に玉砕したかと思ったけどまだ生きていた。

>>561
硫黄島の栗林中将は夜襲を厳に戒めていました。
それでも米海兵隊は夜襲を恐れ兵はほとんど眠れずに
眠けまなこで翌日の戦闘に参加しなくてはならなかった。
日米両軍とも西太平洋の島々で数多くの島嶼戦を経験し、
攻める方も守る方も最新の戦術と装備で闘ったのが硫黄島だったそうです。
硫黄島以前の戦闘で夜襲を繰り返し、いたずらに戦死者を重ねたことも
敵を寝不足にしてひいては戦力の減退をもたらした言う点では無駄ではなかった
ように思います。

570名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/12/11 01:52:10 ID:fa5UaUC8
731部隊ってなんですか?
ニュース23で言われているようなことは本当にあったの?
571むべ:04/12/11 02:08:42 ID:eOy824qU
>>570
関東軍防疫給水部のことだ。
長は石井四郎軍医中将。
ニュース23は見てないが生体解剖や生物兵器の研究をやったのは事実だろうな。
内地でも九大医学部がアメリカ人捕虜を使って生体解剖をやっているのだから
統制の緩い外地ではなおさらだろう。
石井中将はGHQによって戦犯からはずされているが、
これは毒ガスの技術と引き換えだったという噂もある。
それと青酸化合物で銀行員20名以上が殺された帝銀事件の犯人も元731部隊の
生き残りだという説もある。
どこの国の戦争でも暗い面があるのは事実だ。
だが、その一面をもって筑紫のように日本軍すべてが悪だったと
断罪するのもどうかと思うぞ。


572名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/12/11 02:19:02 ID:fa5UaUC8
>571
ありがとうございます。
573名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/12/11 02:21:32 ID:4pcqzesC
戦争だからといって何もかもが許される訳でもないのだがね
574むべ:04/12/11 02:46:11 ID:eOy824qU
>>573
それはそうだ。まったく同じ意見だ。
だから、石井も本来なら処刑されるはずだった、
だが、石井は生き残り、捕虜を殴っただけで処刑された兵士もいる。
結局は裁く方も裁かれる方も同じく「悪」なんだよな。
中国だって大躍進、文革で日本人が殺した以上の中国人を殺している。
現代の人間は過去の戦争に関しては実際に戦争に行って殺した人間は別として
ニュートラルの立場にあると思う。
親が人を殺しても子供には責任は問えないもんな。
筑紫が日本軍の罪を断罪するなら同じように他国の罪を断罪しなければ
著しく公平を欠く。
日本人の罪を日本人の責任として告発するのが義務だと思っているのなら
中国人が中国人の罪を告発する義務を果たしていないことを非難すべきだろう。
日本の罪も外国の罪も同じように断罪して初めて筑紫の言うことに
説得力が出ると思うのだがどうだろう?



575名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/12/11 02:57:59 ID:4pcqzesC
そうだね中国は中国でチベットとがでは最近でもひどいことしてるらしいし、日本を
責める権利はないかもね。
でも日本とアジアの関係以上にドイツがヨーロッパとうまくやってるのは
ドイツ人ひとりひとりが反省し過去に目を向け謝罪しているかららしいよ。
日本は戦争で何が起こったのかさえ知らない若者が多いでしょ?
まぁ、教育方針も悪いのだろうけど…
ただ中国だって他国に謝ってないんだからオレらもアンタらには謝罪の気持ちは
持てないよっていうのはあまりに大人げないと思う。
それをいえば欧米の列強にドイツが謝る必要はないわけだし。
そこらへんが日本人に無いうまく物事をはこぶドイツ人のスマートさなのかな?
まぁ戦時中のドイツの自動車会社はやりたい放題でまだ謝罪はないようだけど
576名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/12/11 17:37:34 ID:8uqTyzW/
勘違いしている奴が多いが、ドイツはナチスの犯した行為についての謝罪は繰り返し行ってきた

しかし、侵略行為とその際に生じた問題や犯罪については全く謝罪はしてはいない
日本は何でも自虐的になっていれば丸く収まると思ってるお花畑が脳に宿ってる超の付くお人よし国家
577205:04/12/12 01:26:02 ID:ssnvAGAd
 むべさん お久しぶりです。
民衆の悲惨さについて徐州の戦記から
『逃げ遅れた農民の一団が悲痛な叫び声を上げて集まって来る。
「危ない。あっちへ行け」と大声で叫びながら手を振って合図するのに
どんどんこっちへ集まってくる。何を血迷ったか支那兵は、その気の毒な
さ迷える民衆に対し射撃を始めた。自国の民衆に銃を向けるとは何事で
あろうか。息絶えた若い母親の乳房にすがり泣いている幼子、又傷を受けた
子を抱えて、気が狂ったのかと思われる母親、親にはぐれた子、子を失った
親、家は焼かれ帰るべき所も食べるものも失った難民の群。この戦場の
悲惨な姿は、中尉のいう「戦争とはむごいものよのう」という言葉が
ピッタリあてはまる。』このように中国人が自国民を虐殺した例も多い。
謝罪云々はお互いに言い分はあろう。じゃが終戦時、昨日の敵は今日の友で
中国軍編入を願いでた我兵士もいたし(連合軍の方針で却下された)、
また嫁を世話するから是非残れと言う中国人も多くいた。現在の思想で
考える方が、かえって偏見をたかめているのではと思いますが。
578むべ:04/12/12 02:27:43 ID:JbwfFUaW
>>577
お久ぶりです。
再び戦争を起こさないために戦争の悲惨さを語るのは大いに結構だと思います。
ですがその悲惨さの責任を現代の我々の世代に負わせようとするのには疑問があります。
戦争の被害を糾弾する権利があるのは直接に体験した世代の人々だけであり、
その責任を負うのは被害をもたらした世代の人々だ考えます。
中国や韓国の戦争責任追及は直接に被害を受けていない世代が直接手を下していない
我々の世代を非難するという滑稽な図式になっています。
祖父母の無念を晴らしたいという気持ちはわかりますが、
それが許されるなら元寇の責任はどうするのか、白村江はどうなる、
と際限がなくなるような気がします。

579205:04/12/14 03:20:09 ID:oe87I/ON
578>>
戦争には悲惨な面もあり、また命のやりとりである戦闘の楽しさもあるで
しょう。戦闘体験者の昔話でも、楽しそうに戦闘を語っておられました。
責任を負うのは被害をもたらした世代の人々とは、戦争体験者のことだと
思われますが、体験者がその責任を負う必要があるのでしょうか?
確かに中支の第11軍などは、中国人に対し無茶な命令をだしましたが、
少なくとも我が部隊は、軍紀厳正で匪ではないと(中帰連の人達は、
日本軍は犯罪者だというでしょうが)。
我々の世代も戦闘の話をあたかも太平記や戦国期の物語のように聞き、
それを親族、郷土の誇りと思っている限り、無関係とは思えません。
現在の中国や我国の進歩系文化人とやらの、郷土部隊に対しての捏造や
誇張はあきれる事もあります。
(まあ主義、思想たあ人間の内面じゃのうて飾りもんじゃろうが。
うわべを見よったら内面の観察はどうするんなら。)
(なかにゃあ、飾りもんを権威として人をやれウヨじゃあサヨじゃゆうて
カバチタレル(文句いう)もんがおる。こんならフウ(風)が悪いわい
のう。)と書物やTVを見て思いますが。
580205:04/12/17 01:36:03 ID:JF3/xwaH
つまりわしは、現在の法や現代思想への便乗迎合で考える事は、すまいと
思うております。
いわゆる西洋近代の幾何学的な理性、生命の血潮が流れることのない
冷たい操作的思考でなく、現在の功利主義でもなく、近代思想から言うと
幼稚かもしれませんが、先人より受け継がれた義を尊ぶであるとか、
温情を持つとかです。
外面による知識、現在のトレンド思考より、人の内面により培った規範や
生物としての感情「醜悪なことを見たり、聞いたりすると、むくれ上がる」
あるいわ「卑怯なやつは懲らしめてやるという、先祖伝来のたぎり立った
血が流れている」その情感こそ日本的であると思っています。
いくら知識による国際法等を兵士にうえつけても軍紀が厳正となるので
しょうか。無論必要でしょうが、それより将兵一人一人の規範、義や情が
大切なのではと思います。
わし自身は、偉そうにゆうても、つまらん人間ですが、こうありたいと
いうことです。
581205:04/12/20 21:31:58 ID:0reHBplp
広島五師団の陣地攻略の巧みさは日露戦争までさかのぼってみると
まず大石橋付近の戦闘がある。広島五師団は名古屋第三団、大阪第四団、
熊本第六団と共に第二軍で闘ったが、敵塁は堅固で各隊は固着し進展せず、
が広島五師団の夜襲で勝利を呼び込む。
この戦闘は天聴に達し、第二軍は勅語を拝受した。
「第ニ軍ハ大石橋付近ニ於テ優勢ナル敵ヲ攻撃シ次テ第五師団ヲシテ夜襲
ヲナサシメ遂ニ之ヲ破リ防御堅固ナル陣地ヲ陥レ併セテ営口ヲ占領シ
水路ノ利ヲ占ム朕深ク毎戦能ク其功ヲ奏シタルヲ嘉ス」
奥ニ軍司令官の五師団に対しての賞詞文にも
「明治三十七年七月二十四日五師団ハ(中略)堅固ナル敵陣地ニ対シ
攻撃ヲ実施セシニ敵ノ頑固ナル抵抗ニ由リ日暮一旦戦斗ヲ中止セシモ夜長
更ニ全力ヲ挙テ決意敵塁ニ突入シ以テ其拠点ヲ奪取セリ子此夜襲ノ効果ハ
我軍全般ノ作戦ヲ有利ナラシメタルモノニシテ敵ノ主力カ敗退セシハ蓋シ
此勇敢ナル動作ニヨルモノ多カルヘシ仍テ本職ハ特ニ五師団ノ功績ヲ
賞賛シ(中略)」とあり、この伝統は戦国期、中国地方西部の平地が
少ない風土で、籠城戦が多かった事に起因するかも知れぬ。
582205:04/12/20 23:22:15 ID:3DBLtlX5
上記の団は×で師団です。次いで黒溝台の戦闘について弘前8Dが苦戦し、
広島5D、仙台2D、名古屋3Dを加え臨時立見軍を編成した。
広島第五師団の健闘は、この感状が物語っている。

         感状       第五師団

「明治三十八年一月二十八日柳條口付近ノ敵ニ向ヒ歩砲火ノ集射ヲ冒シ
快速ナル攻撃前進ヲシテ以テ敵ノ機先ヲ制シ我二倍スル敵ヲ
撃壌シタルハ勇敢敏捷ノ動作ニシテ為ニ軍ノ右側及沈旦堡ノ守備ヲ
確保スルニ至ラシメ又村山支隊ハ遠ク我軍ノ左側ニ在リテ優勢ナル敵ノ
歩騎兵ヲ撃壌シ軍ノ動作ヲ容易ナラシメタルハ其功績偉大ナリ仍テ
感状ヲ附与スル」  
     
     明治三十八年二月三日 第八師団長 男爵 立見尚文
583名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/12/20 23:28:28 ID:Cjb8bGmR
(・∀・)てか、自衛隊に『近衛師団』を復活創設させないのかなぁ〜。
皇居警備は皇警(皇宮警察)が行っているが、大日本帝国時代は
大日本帝国の最強兵を近衛兵として皇居宮城警備に当たらせたんだよな。

(・∀・)復活させてくれ!!
584むべ:04/12/21 01:20:12 ID:JNG3HobN
近衛師団も精鋭ぞろいという割には目立った活躍がないな。
大戦末期には近衛第一、近衛第二、近衛第三に分割されて
第一は8月15日のクーデターで森赳師団長が惨殺されているし、
第二はスマトラなどの占領地の警備がほとんどで
マレーシンガポール攻略作戦くらいしか目立っていない。
ちなみに最後の師団長は久野村桃代中将。
インパールを戦った15軍の参謀長だった人。
無能と評判でムノムラとあだ名されていたというから
大本営もこの師団にはあまり期待していなかったんじゃないかな?
やっぱり広島師団の例もあるように地方の建制に基づく師団の方が
郷土の名誉、上下の信頼と言う点で強かったのかも知れない。
585205:04/12/21 23:26:16 ID:iP77p5kd
マレー・シンガポール戦参加の三個師団で近衛師団だけが感状を貰え
なかった。
主役の広島五師団は別格として、近衛のマレー戦での総合的功績は、
久留米十八師団と比べると決して劣らないが、第二十五軍が感状を
出しすぎてはと思ったのか、あるいは近衛が「失敗すれば軍の責任だ」と
言ってくるので、腹を立てたのかも知れない。
日露戦争で近衛は、世間が喜ぶイケイケの華々しい活躍の出来る第一軍に
属した。それに比べ日露戦争での広島五師団は第二軍や第四軍で常に
困難な戦闘を行った。しかも歩兵四個連隊の内三人の連隊長が戦死と
言うほど激闘している。広島師団は日清からマレー戦まで常に激戦で、
それに比べると近衛は優遇されているとも言える。
586205:04/12/22 01:13:49 ID:ZViZnFPt
奉天会戦で広島五師団は(大阪第四、弘前第八、後に名古屋第三も加わる)
と共に第二軍に属した。第ニ軍は最も激戦したが、中でも広島五師団は
甚だしく敵と接近し常に敵から右側背を機関砲で掃射される為激闘と
なった。戦史にも『この戦闘で五師団が最高の犠牲を払い中でも
広島第十一連隊に戦死傷者を多数出しているのは我中国(地方)士風を
最高度に発揮したからである。』とある。
 
    感状       第五師団
「奉天付近ノ会戦ニ於テ連日連夜最モ猛烈果敢ナル攻撃ヲ続行シ殊ニ
沙坨子附近ニ於テハ既ニ多大ノ損害アルニモ不係強固ナル決心ニ基キ
奮テ難局ニ当リ優勢ナル敵ヲ其正面ニ牽制シ其運動ヲ阻止シ軍ノ目的ヲ
達成セシメルハ其功偉大ナリト認ム仍テ感状ヲ附与ス」
明治三十八年三月十二日     第二軍司令官    奥 保鞏

十日午後三時第ニ軍の大阪第四師団の一部が奉天に突入、一番乗りを
果たし終わりを告げた。
587名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/12/23 09:49:26 ID:ApaKLWHK
満洲軍総司令部(松川少将)の各兵団に対する批評
第二師団は正直に働きしも機先を制するの明に乏し
第十二及び近衛の両師団は明確に云い難きも、少し気前が足りない
第十師団は臆病
第五、第八師団は巧者に動く
第四師団は能く働けり
第三師団は苦戦に堪え、能くその任を完うす
第九師団は運動攻撃共に遅緩なり
第一師団は優柔不断なり
後備旅団は悉く用を為さず
588205:04/12/25 00:59:31 ID:mIXee1Ss
奉天会戦で松川満州軍作戦主任参謀は、日誌にこう批評している。
「各軍中、二軍のみは戦闘らしき作戦指導を行いしも、他軍は軍の
体裁を成さず。就中第三、第四軍は命令行わず。
一般に軍隊の運動は過去の諸会戦に比して足重きを感じたるは
補充兵多きに原因するものならん。」

しかし、沙河の冬営における補充兵の弾丸雨注のもと対陣教育は、
就役後僅かに半年に満たない補充兵も対陣の末期には、平時において
三年の訓練を受けた既教育兵に劣らない腕前に成長したと言う。
奉天会戦に偉勲をたてた素地はこの訓練に養成されたともいえる。
589205:04/12/30 00:15:59 ID:yUQo7Lzu
沙河会戦について巷の書籍等では鵜沢連隊長が戦死という万宝山の
戦闘は、山田支隊(四十一連隊)の敗退という一部俗説もあるが、
郷土資料では「第三中隊平田大尉以下多数の死傷者を出したが屈せず
ニ十一時頃ことごとく同山を奪還した。決して敗退したのではなく、
突出した万宝山は左右の連絡上、第四軍司令官から後退を命ぜられ
戦場整理を行ったものである。その間の四十一連隊の奮戦はめざましく、
押しよせる多数の敵に対し攻撃する意気に燃えていた。」とあります。

その弟部隊である、広島39師団の福山232連隊が一字違いの天宝山で
苦杯をなめた。新任連隊長の命令どうりに敗走する敵に追尾深入りし、
まんまと敵の攻勢になり戦死170名。通常戦死1に対し戦傷3の比率で
発生する。ということは死傷計680名となり参加700名で無傷はたった
20名となる。(負傷程度にも影響されるので実際と違うところもあるが)
第39師団にとって山口233連隊に次ぐ戦死者数だった。
590名無しの歩き方@お腹いっぱい。:04/12/30 17:43:13 ID:nrFvh9m8
山田保永のその後の処遇を考えれば答えは明らか
591205:04/12/31 05:03:03 ID:gfT/Lz5c
>>590
山田保永少将が万宝山が原因で、内地帰還という資料をもって
おられるのでしょうか。処遇からいえば第五師団長上田有沢中将も
山田少将と共に内地帰還で上田五師団長は万宝山と関係がないので
どうか。ただ両者共指揮官としては、余り評価出来ぬところがあり
山田少将の失態といえば火砲を遺棄した事件もある。

山田支隊の配属となった砲兵第十四連隊第ニ大隊と砲兵第十連隊は
支隊長から撤退命令を受け十月十六日午後六時過ぎ後退を開始したが、
頼みの歩兵四十一連隊は万宝山に包囲されて孤立しており、
後備二十連隊がロシア軍の攻撃を受けて、砲兵隊は護衛するものもなく
敵軍の好餌となった。砲兵隊は野砲九門と山砲五門が敵に捕獲されると
いう失態を生じた。砲兵連隊長は憤激し護衛を付さなかった山田少将に
対し「砲兵の軍旗とも言うべき砲車を奪われて何の面目がありましょう。
閣下においてぜひ砲車を奪い返していただきたい」とこの件もあり
万宝山敗退説が出たのであろうか。
592名無しの歩き方@お腹いっぱい。:05/01/02 20:01:26 ID:mCrhrFKf
2chの中でも知能指数や教養レベルが最も低いスレ
のひとつであるお国自慢版の中で
屈指の良スレだな。
593205:05/01/04 02:37:59 ID:oHs0PBG9
もっとのちの処遇でいえば、内地帰還となった上田有沢中将が、
その後名誉進級で大将に、山田保永少将も中将に名誉進級した。

新たに広島第五師団長となった木越安綱中将は、
黒溝台や奉天で激闘を重ねて第五師団は感状をもらう。
戦後の明治四十五年には陸軍大臣に任じられたが、
中将のままで、大将の器と言われた木越中将は不遇であった。
594205:05/01/07 23:36:31 ID:NTevph/S
福山232連隊が、苦杯をなめた天宝山のH田連隊長は陸軍大学を卒業し
南京政府の軍事顧問を勤めていた。だが、戦闘の場では全く予想もしない
処で、見当もつかぬような事態が、突如として起こりうる。敵兵と
いえども、祖国、民族愛に燃えている人間であり、それを見くびり、
軽視した、恐るべき結幕だった。この戦闘で支那軍は、日本兵の墓標を
建てたことに我が兵士は感謝している。
それと宜昌(漢水)作戦で広島231連隊第二中隊O川少尉は
士官学校出身、戦場三ヶ月のこの将校は敵射撃のとだえた瞬間、
「突撃!進め!」と突入したが、誰もついて行かなかった。O川少尉は
敵弾に倒れた。広島231連隊の第三大隊(十五年兵から広島、今まで
浜田出身が主力)桐野少佐が「広島の者は手を挙げろ!お前等の先輩は
なっとらん!指揮官一人、敵陣に飛び込ませて、誰もついて行きゃしな
かった。」とはこのことだろうが、(広島231連隊第二中隊は
宜昌防御で感状を貰った部隊である。)指揮官と兵士の見解の違いも。
595205:05/01/08 01:32:52 ID:8rCYZ3iw
広島第39師団を詳しくいうと、各第一、第二大隊は、広島231連隊、
福山232、山口233で、各第三大隊は浜田編成で十五年兵より、
一県一連隊となり、231は広島、232は浜田、233は山口となった。
第三大隊長桐野少佐がいわれた「広島の者は手を挙げろ!」とは
第三大隊が浜田編成でバカ正直者ぞろいと評された。これは皮肉で
第三大隊はその健脚から霞部隊の異名があったが、広島の者は信用出来ん
ともとれる。つまり純朴な浜田や、「闘って勝たざるなく、攻めて取らざる
なき勇猛果敢な備後兵」といわれ、荒削りの粗雑な処もある福山と、
ピリッとして隙がない、天下に精強を知らしめたが、上官にとって
純朴度に欠けたところもある広島安芸兵との違いもある。

藤部隊第一中隊記に「戦死した人の批評をすべきではない。戦死した人
こそ最大の忠義者であり、身を以って国に殉じたのであるから、随って
第二中隊の戦闘について論評はさし控えたいが、多くの広島出身の
戦争体験者は自らきまった解答を出されるのではないかと思う。
広島人を愛するが故に敢えて一文を付け加える次第である。そして
O川少尉の冥福を謹んでお祈りする。」とあります。
596205:05/01/12 03:07:16 ID:WoB1ehk0
第二中隊のO川少尉(福岡県・陸士)は、年も若く広島の兵隊の気心も
まだ十分につかめていなかった為の悲劇といえる。
広島231連隊、第三大隊(浜田編成)第十一中隊松本小隊は、
宜昌作戦で張自忠上将を討ち取り感状を貰い、のち栄誉1師に包囲された
嶺河口守備でも松本中尉以下寡兵にして多数の敵に損害を与えた。
勇将松本中尉は広島人、張将軍を討ち取ったのは広島県M市の某軍曹で
あるが、昭和十五年九月一日の第十一中隊所属者は、198名で、
出身県は島根123名、広島55名と島根県人が多い。

山口233連隊第三大隊(浜田編成)は宜昌で長沙作戦のおり、
仙台十三師団が陥落寸前、玉砕覚悟の苦戦にわずか五百名で所在の敵を
撃破しながら仙台十三師団司令部に到着し、戦列に加わり、仙台師団の
将兵も「精鋭大守大隊」と喜び、内山十三師団長はこれを「干天の慈雨」
同じく救援の232連隊第六中隊福島小隊(福山編成)を「天降る神兵」
といわれた。
597205:05/01/15 20:10:22 ID:aU/xO0je
マレー作戦で第二十五軍の計画では、ペラ川の線で広島第五師団と
近衛師団の第一線を交代させる予定が間に合わず、クアラルンプールで
久留米第十八師団と交代する筈だったがこれも間に合わず、
結局広島第五師団が千二百キロの全戦線を、一日平均二十キロの
快速進撃は世界新記録だったそうだが、軍の予定以上に第五師団の突進は
早かった。

宜昌作戦でも第十一軍は名古屋第三師団と仙台第十三師団の両師団で
当陽を攻略させ、あとは軍が日本屈指の精強師団と思っていた仙台第十三
師団の独走態勢と考えていたらし。軍の予想に反し、警備師団の広島第
三九師団が快進撃で、両戦闘師団を抜き広島第231連隊は敵の当陽
主陣地にぶつかり、敵軍から離脱出来る状況ではなかった。
敵堅陣を抜くだけが、唯一の活路であった。広島第231連隊は激戦苦闘
のすえ突破した。軍は、広島第三九師団の実力過小に評価し、見くびった
観があった。結果的に宜昌作戦のエースは、広島第三九師団であった。
598205:05/01/20 02:35:21 ID:+W8ra//S
「金モールの肩章を吊ったエリート参謀より、第一線で何度か
敵と闘った兵士なら、末端の上等兵、一等兵でも、軍の参謀より
数段優れた作戦指導が出来たであろう。エリートコースをたどった
秀才がいかに愚者で小人物であるかということは、軍人だけではなく、
現在の政財界を観ても一目瞭然である。」
「終戦時の混乱期に戦友を敵に売ったり、部下を食い物にした隊長と
上級将校はざらにあった。終戦時の収容生活で、給与が次第に悪く
なったのは、賄料を先ず師団司令部がうわまえをはね、続いて
旅団司令部、大隊本部が右にならえをした。階級に応じて支給された
給料を、隊長が横領せずに公平に分配された兵はよいが、横暴な隊長の
下にある兵達一日一食しかも雑炊であった。」と戦記にはある。

机上の作戦遊戯や自己の進級と保身ことしか頭にない隊長の下での
兵士は、たまった者ではないと思うが如何であろうか?
599第七師団:05/01/20 02:53:24 ID:Z5Wb3F1G
NHKでやってたね203
600名無しの歩き方@お腹いっぱい。:05/01/22 23:11:44 ID:R0qQUl6k
歩兵三十四連隊で600get!
601205:05/01/23 23:15:23 ID:AMpQsjTD
うわまえをはねるのは中国の国府軍でもあった。
『天門で李大尉は、朝から友人の将校を数名集め連日のように
夜ふけまで、賭け事をやっていた。
「奴(大尉)は、我々の月給のピンハネして、賭金にしている。
金がなくなると、女房まで賭けている。我々の手取りの月給では、
靴下が一足半しか買えない」と散々の悪評だった。』
日本以上ともいえる。
602むべ:05/01/24 23:32:59 ID:P5a2o58/
>>598
日本軍の包囲殲滅は日露以来の伝統だった。
203高地でも多大な犠牲を払いながらなんとか敵を包囲殲滅することができた。
しかし、この戦法が金科玉条となって他の戦法の研究、応用が十分にできなかった。
ビルマの18師団イギリス空挺師団を包囲しながらイギリス軍のアドミンボックスという
新戦法に対応できずに包囲した18師団のほうが全滅の危機に瀕した。
机上の理論だけで学んだ戦法では時代の変化に対応できない。
実戦の経験から新しい戦法ができるはずだが陸大出の参謀にはその発想が少なかったようだ。
作戦の神様と言われた辻正信しかり。
味方がいけいけどんどんの時は素人が参謀をやっても勝てる。
味方が不利な時にいかに逆転させるかが参謀の真価だろう。
辻はアドミンボックスに適切な対応ができなかった。
包囲したのだから殲滅は時間の問題だと考えた。
現場を知らない者が後方で指揮を執る。
現代の官僚や大企業のあり方に似ていないでもない。
603205:05/01/25 23:03:47 ID:O+rIXAcj
>>602
辻政信氏についてはしかりと思います。辻参謀のアイデアで我軍に、
タイ軍服を着て、タイ・マ国境を突破しようとしたが失敗し、
後の作戦を含め広島の戦争体験者は、辻政信参謀の評価が低い。
「マレー・シンガポール戦は作戦で勝ったのではない。将兵の闘魂のみで
勝ったのだ。むしろ作戦は狂ってばかりいた。弾薬さえつきかけた。
だが日本軍はもっと学ぶべきものがあった。敵の圧倒的火力戦法と、
敵の意外に旺盛な戦意を、まるで黙認し戦勝という結果に酔いしれて。
日本の敗因は、米英の圧倒的物量だけに依るものではない。日本人自らの
心中に最大の欠陥があった。」とマレー戦記から要約。

ただ最前線で、幾度か闘ったことのある兵士が、素人とは思えません。
「戦争は参謀達の作戦計画通りに突発するものではない。
考えも及ばない時間と場所で突然、バタバタと始まる。
最前線の下級指揮官と兵士の英知、英断と度胸、機敏さで戦局が決まる。
それ故、戦争の真実は、第一線の戦闘参加者でなければ判らない。」と。
604名無しの歩き方@お腹いっぱい。:05/01/26 00:25:16 ID:E6Jg7Cjx
皇室が日本で唯一の皇室として認められているのはなぜか

それはあのご一家を「国民の象徴」だと国民がみな信じているからだ
敗戦からの復興も高度経済成長も震災や災害のときも、つらいときも苦しいときも
あのご一家が国民とともにあったからだ

血なんてどうでもいい
二重橋の向こうで
行幸の車の中で
避難所の被災者達の前で

あのご一家が手を振って下さり手を握って下さったからだ

DNAだのY遺伝子だのどうでもいい
聞いたことも無い旧宮家などごめんこうむる
国民はあのご一家を敬愛し思慕し尊敬しているのだ

そのご一家のご長男の一人娘があの家を継げないのならば
そんな決まりなど変えてしまえばいいのだ

われら国民の愛するあのご一家にはどうか栄えて続いていって欲しい
数千年の血が国民になにをしてくれた
大切なのは今あそこに確かに居て下さるあのご一家なのだ

605205:05/01/29 04:19:44 ID:FRWWMvoa
594で書いた、福山232連隊のH田連隊長も陸大出のエリートで
「貴様らに何がわかる」と思い上がった気風があり、H田大佐は、
その猪突猛進振りを危惧した部下の進言を一笑に附した。

中国軍が日本軍に比べて、戦術、戦技とかなり劣っていることは
事実でも、日本の師団にも強い師団と弱い師団があり、優劣に差が
あるように、中国軍にも侮れない精強な師団もあった。
中支の第一線の宜昌、当陽地区に、信頼されて広島第三十九師団が
配置されているように、中国軍もそれは同じことだと考えていなかった。
前線の経験のある部下の意見を聞く度量があれば、決断を誤らない。

「指揮官としての条件は、知謀よりも人格的識見にある。」
606名無しの歩き方@お腹いっぱい。:05/01/29 05:54:27 ID:UkVMcGof
>>604
ヽ(・∀・)ノ大日本皇室万歳!!
偉大なる大日本民族に栄光有れ!!
607裏参道並木通り ◆/DAi7vzpHc :05/01/29 11:04:27 ID:Yuyr95Vt
つまり・・・ここでも広島は凄いって事なんだね。
608205:05/01/31 23:46:09 ID:tNrVei1Y
終戦前後の話で、『宜昌憲兵隊長のS准尉は、私物をまとめて、
八月十二日漢口に出張用務と自作して、部下憲兵にひと言も明かさず単身
宜昌を脱出した。部隊側では、情報収集の早い憲兵隊のことで、命が
惜しくて逃亡したのだろうとあきれたり、笑ったりした。憲兵歴の長い
S准尉は、中国人たちを何十、何百人殺傷したか知れず、数々の恨みを
買っていた日本憲兵は、終戦後、軍事裁判に付され多数が処刑され、
下級下士官、兵でも十年以上の重労働の刑に処せられた。現地で終戦を
迎えたら銃殺刑にされることは明らかであった。』

『終戦時S准尉は、日僑収容所に潜り込んでいたが、宜昌時代の兵士に
見つかり「おい、珍しいところで遇うたのう、宜昌のS准尉じゃろうが。」
と鉄拳制裁を受け、その後もS准尉は、賭博のことで因縁をつけられては、
殴られた。S准尉は「どうぞ勘弁してください。身分がばれたら日本へ
帰れなくなります。内証にして下さい。」で済んだ。というのは、
誰も部下を置き去りにして逃げてきたという事情を知らなかった。もし、
わかっていれば、国府軍に突き出されるか、殴り殺されて揚子江に浮く
運命であったろう。』憲兵隊は日中双方から評判が悪い。
609205:05/02/04 00:36:08 ID:k4PiaGhz
憲兵は普段威張っているので、兵達の評判は悪いが、全ての将校が
そうでないように憲兵の中にも、まっとうな人はいる。
広島の原爆で被爆した、憲兵の人で後に被爆者手帖を貰うことを、
ほいと(kojiki)根性じゃと拒否した人もおると聞いたことがある。
わしの親類も、同じような理由で被爆者手帖を拒否しております。
シベリア抑留された人も、ソ連は理不尽なことをしたが、
補償して貰おうと思うたことはないんじゃそうです。
ある知人の家では、家族の為、被爆者手帖を貰った人もおるので
一概にはいえん。その家風、家族によっても違うであろう。
これは、あの家は手帖を貰うた家じゃけえ、嫁はもらえんとか、
色々と問題があるんで、このへんまでと、しておこうと思います。
610205:05/02/06 00:18:38 ID:u7cMuhn8
昭和二十年五月、広島第三十九師団は満州に転用されたが、
第三十九師団の中から約三分の一が宜昌、当陽地区に残留し、
新設の第百三十ニ師団の中核となり、あとは各師団からの転属者で
編成した。第百三十ニ師団を第三十九師団の弟と思っていたのか
中国軍は、「宜昌、当陽の住民を愛し、大切にして下さって有難う。」と
感謝の意を表した。
ただ「第百三十ニ師団長の柳川中将は、戦犯容疑者となり栄養失調で
漢口の刑務所で獄病死した。師団の経理部では、差し入れの為、
経理金の二百万元を支出し、連絡に行くH参謀に手渡したが、
H参謀は、全額横領して、しかも漢口で都度豪遊、大尽遊びをした。
この金が渡っていれば、柳川中将も元気で帰国できたであろう。」
そして広島第三十九師団主力は、満州へこれが運命の岐路となった。
611205:05/02/09 04:13:00 ID:QIrReYTC
広島第三十九師団が満州に着いた頃、終戦前夜の新京駅警備でのこと。
『避難民の、うつろな目、血走った目、一様に我々兵隊を見る目は
冷たく光っていた。その中から疲れ果てて髪をふり乱した母親が乳飲み子
をだいて、「兵隊さんこの子を助けて下さい。死にそうなんです。」と
泣きながらすがりつく、他の女性から「あれは何よ、客車を一台占領して」
客車には兵隊が二十人ばかりいる。「指揮官は誰ですか」と聞くと
「自分であります。」その兵は兵長で顔を見たとたん、いきどうりが
突然こみあがり、殴ってしまった。
「立て兵長、こんくらいでぶっ倒れる様な関東軍じゃけえ、地方人を置い
てけぼりにしゃあがるのよ。我々は関東軍のような弱虫じゃあないど。
中支派遣軍じゃ、つい三ヶ月前まではのう、中支の最前線の山の中で、
十数人で何百人を相手に、トーチカで戦って来た者で、わしのボロ服を
みてみい、関東軍じゃあ、初年兵でも着とらんじゃろう。ところで、
あれをみてみい、女子供や病人がおる。この中に入れてやれえや。
さっき誰か知らんが、軍用列車じゃゆうて追い返したらしいじゃあ
ないか、お前等は国民を守る為の軍人じゃろう。非常時のおりお互い
仲良くやろうじゃないか。」「わかりました。悪かったです。」』
612名無しの歩き方@お腹いっぱい。:05/02/13 12:51:06 ID:mJfFilUR
松本出身者中心(?)五十連隊のことを
「エタ連隊」といっているのを別の板で見たのですが、
どういうことですか?
部落出身者が多かったって言うことなんでしょうか?
613205:05/02/14 04:10:01 ID:m2LPoguG
>>612
おそらく、連隊長を称してのことだと思いますが、
よく、連隊長の姓氏をもって、○○連隊といいます。
あるいは、部隊の略称かも知れません。
詳しくは、郷土資料や戦史等で松本第五十連隊の
歴代連隊長から連隊の略称についても調べられれば、
良いかと思われます。
614名無しの歩き方@お腹いっぱい。:05/02/14 10:25:58 ID:NSCKs2q7
アドバイスありがとうございます。
615205:05/02/19 00:34:05 ID:RZPQ2qOE
新京駅警備の続き『「おい、兵長許せ、殴ってしまったが、この駅の
状況をみて、頭にきとったんじゃ。兵長さんよ、この人達も頼みますよ」
「奥さん兵隊さんに言っておいたから、心配せずに女子供はあの中で
休みなさい。」お礼の言葉を背に受け所定の位置に帰った。』

後に在留邦人を見捨て逃げた関東軍と、怨恨の罵倒を浴びせられたが、
全ての関東軍が邦人を見捨てて逃げたわけではなく、北満で
最期まで、闘った部隊もあることは忘れてはならない。

ソ連抑留においても広島第三十九師団は、固い団結が保たれ建制で
屈しなかったが、多くの関東軍や憲兵出身者の中には、ソ連側の扇動に
崩れていき、ソ連の犬になり、虎の威を借る狐となった者もいた。
ソ連抑留で広島第231連隊F中尉の手記にも「関東軍関係の人達は、
ともすれば自分の身を守る為、他人を犠牲にする気配があった。」と
616むべ:05/02/19 00:55:14 ID:rWroshLo
>>612
江田島は「えだじま」と言われるけど、
本当は「えたじま」なんだよな。
やっぱり205さんがおっしゃる通り連隊長の名を取ったのでしょう。
軍隊と言うところはその地方の男子を身分門地に関係なく徴兵するので、
特定の身分の人々を集中して編成することはない。
617名無しの歩き方@お腹いっぱい。:05/02/20 16:20:44 ID:ujpCdFV4
帰還船はサルミ沖に停泊して汽笛を鳴らした。
夢にまでみていた汽笛を聞いてこれは夢ではない、本当であると確認すると、うれしさが体中をかけめぐった。
昭和21年6月4日午前8時。三年間住み慣れた八紘山南麓に決別した。
なだらかな坂をゆっくり下りて、手塩にかけた緑の農場に立つと何十万本と数知れない芋が私を見つめてほほえんでいるように見える。
「ありがとう。君たちのおかげで、生きて日本に帰れる。ほんとうに有難う」
私は深々と農場の芋に最敬礼した。
618名無しの歩き方@お腹いっぱい。:05/02/20 16:21:37 ID:ujpCdFV4
悲喜こもごもの心境で海岸に出ると、帰還者はサルミ埠頭へ黙々と前進している。
着のみ着のままの兵隊の脛は細くやせこけて見えるが歩む足どりには力があった。
爆弾で折れた椰子の根本で、今死んだばかりの兵隊がいた。
戦友は手で砂を浅く掘り、横たえた死体に砂をかけている。
「今乗船というのに死ぬ奴があるか。穴掘って埋めるにも今どうにもならないよ。
砂の上でがまんしてよな」戦友の声は悲痛である。
今日の日まで戦友同志は同体の気持ちで生きようとしている。
頭はまさにマラリヤでやられていたが、魂は日本に帰っていると思った。私も静かに合掌した。
619名無しの歩き方@お腹いっぱい。:05/02/20 16:22:43 ID:ujpCdFV4
検査場に入る前、集まった師団将校は二列横隊に整列して、師団長の決別の挨拶を受けた。
「・・・戦いが敗れたりと云えども、幸いにして諸官を送還出来ることを喜ぶ。
今後に於いて、日本復興のため生命を捧げてほしい。余は全責任を負ってここに残る。
幾万の死んだ戦友と共に、はるか南溟より諸官
の活躍を祈ってやまない。諸官、さらば」
田上師団長、今田参謀長、国分経理勤務部長らは、指定の戦犯要員収容所へ静かに歩み去って行く。
涙でかすんだ私の眼は、その後姿を彼方に消えるまで追っていた。
富谷太一著「ニューギニア最後の死闘」から引用
ttp://www10.ocn.ne.jp/~awjuno/sub408.html
620205:05/02/24 04:45:40 ID:xBSLXpEq
ソ連抑留でソ連の扇動で多くの日本人が崩されたが、
ドイツ人軍捕虜は節度と節操をもち、その態度は常に整然と
堅い団結をもって行動していた。「今はつらいが、いつの日かまた、
ドイツ魂をもって見返してやる時機が来る」
ところが関東軍等の日本人は、ソ連当局にへつらいピンハネ、密告、
日本人同士の、つるしあげで道義は地に墜ち、腐れ切っていた。
現在でも感化されやすい多くの日本人にも、このような弱点が
無いとは言い切れない。
621205:05/02/27 22:00:08 ID:x/U68xMI
ソ連抑留で広島第39師団は、粗悪きわまる給養下、激労と栄養失調で
20%をこえる犠牲者を出した部隊もあった。

復員船でのこと「甲板上では人民裁判が開かれた。ソ連扇動の
民主化(共産化)運動で収容所でやらされた自己批判が、逆に利用され、
革新勢力の駆逐が始まった。しかし不和雷同する騒がしさはなかった。
やはり日本人としての良識だろうか。実際に、心から共産主義を信奉し
行動した者には、人民裁判も公正に評価して無罪となったが、私腹を
こやし自己保身の為に他人をスパイして苦境に陥し入れた連中には、
相応の刑罰が課せられた。」
中には復員船から海中へ放り込まれた者もおり、その人員不足について、
船員は語っていた。
「故国の灯火が見えはじめた頃、突然発狂状態となり、日本海に
投身自殺した。」この書類への記入で片付けたと。
622むべ:05/03/01 01:31:07 ID:TaUF0ghI
詳しいことはわからないが、
シベリアの収容所で共産思想に染まらない兵にやる懲罰に
「暁に吼えろ」というのがあったそうだ。
方法は反抗者を野外の丸太にくくりつけるという簡単なもの。
冬のシベリヤでさかんに行われたという。
一晩くくりつけられた反抗者は
暁の頃、死を前にして発狂したかのように野獣のような咆哮を上げて死ぬ。
それで「暁に吼えろ」と呼ばれるようになった。
復員したシベリヤ帰りの共産党員でこの処刑の責任を取った者を
寡聞にして知らない。


623205:05/03/02 02:29:32 ID:nhJ00t/z
>>622
「暁に吼えろ」とは、愚直なY村憲兵軍曹がソ連の犬となって、
収容所の実権をにぎり、同じ日本人を零下三十度の戸外の木に縛りつけ
凍死させた事件のことだと思います。
それは、ソ連人の現場の者が党幹部の命令で民主化運動もノルマとして
やり、上層部に報告しなければならないという側面もあり、
それに扇動された日本人が、同胞を悲惨な状況にさせたともいえます。
それとロシア人(ソ連)が要求したのは、労働のノルマで、栄養失調で
あろうと過労を要求し、課せられたノルマにおいて達成せぬ者は減給し
「働かざるもの喰うべからず」ということでしょう。
共産主義は人間を機械にする。抑留された病身者の方が早く帰国出来た
のも、ソ連側からすると、故障した部品は使えないと考えたのかも知れま
せん。現在の日本においても、ソ連と社会制度の違いはありますが、
ノルマ主義の弊害を他人事と思えない部分も。
624名無しの歩き方@お腹いっぱい。:05/03/02 03:15:27 ID:r9upd/MF
初歩的質問です。
2.26事件の反乱に加わるよう命令された第一師団の兵士たちは、
東京、およびその周辺地域を本籍地とする都会人なのですか。
もし、兵士たちが都会人だったのなら、
農村出身兵士の家庭の窮乏を
青年将校たちが問題視したため、蜂起したとするよく見る
解説は当たらないように思えます。

2.26事件以後、第一師団が東京に戻ること無く、
満州に張り付けらたと聞きます。
この第一師団の満州常駐は、東京に本籍地を持つ者にとって、
召集はイコール外地、満州へ行かされることになったと理解して
いいのですか。同じ軍隊生活でも、麻布や赤坂で過ごすのと、満州で
は大きな違いがあるはずで、反乱将校につき合わされた東京都民は、
損したように思えます。
625205:05/03/04 02:04:47 ID:ePpmycXg
>>624
東京の師団について、詳しくは知りません。
確か麻布の第三連隊兵舎にエレベーターが付いていたとか。
ニ・ニ六事件で、第一師団の兵士がどう考えていたかは、
当時の第一師団兵士の手記等があれば、参考になると思います。

東京兵団は、第一師団の他に弟師団も多くありますので、
東京に本籍があり、東京兵団に召集後イコール満州とは限らず、
東京第二十七師団のように、中支で闘った部隊もあります。
姫路はどうでしたか?
627名無しの歩き方@お腹いっぱい。:05/03/05 14:36:23 ID:TWzDZ35b
>>624
東京の都会出身者は大体は
101師団に行った人が多かったはず

中国軍からも馬鹿にされて捕虜尋問のときとかに
日本軍「もう日本軍とは戦いたくないだろう」
捕虜「101となら何度でも戦ってやる」

といわれたらしい。(それだけ弱い定評があった)

でもそんな101師団も上海攻防戦のウースン上陸戦で第3師団がほぼ壊滅という苦戦の中で
裏から回って敵軍壊滅の突破口を開くという大殊勲を上げる

この後国府軍は壊滅
徒歩で撤退したため日本軍に捕捉され8万とも言われる戦死者を出している
628名無しの歩き方@お腹いっぱい。:05/03/05 16:24:01 ID:uE9NdVFQ
ここのエロい人に聞きます。私の大叔父が
四国の出身で生前よく鯨部隊がどうのこうの
と話をしてくれました。鯨部隊って何なの
でしょうか?捕鯨班なのでしょうか?
おせーて
629205:05/03/05 22:02:47 ID:O7mPx4et
>>626
姫路師団は、兵庫、岡山、鳥取、島根(斐伊川以東)で編成され、
10、17,54,110師団があります。ただし、日露戦争時は、
島根、岡山西部は広島師団で福知山20連隊は姫路師団です。
いずれにしても近畿地方と中国地方の混成ともいえます。姫路は、
近畿地方でありながら山陽であるという複雑さがありますね。
>>628
鯨部隊とは、四国4県で編成された善通寺第40師団のことです。
宜昌作戦にも参加し、その後いわゆる大陸打通作戦では益陽攻略から
西側の第一線で戦っています。
他に第5悟旅団も210独立大隊は、善通寺40D(鯨)の転出者で
編成、勇勝山戦で佐野中将より軍感状を授与された207独立大隊は、
広島39D(藤)で編成、大隊長管中佐は「藤部隊のおかげである」と
208は、熊本58D(広)で編成、209は、39D(藤)と
58D(広)で編成でした。こうしてみると、藤と鯨は縁があります。
630名無しの歩き方@お腹いっぱい。:05/03/06 01:03:10 ID:M96ArIJs
武     田     信     玄 大元帥殿。
631むべ:05/03/08 01:18:22 ID:8zBi4Mi4
総軍、方面軍、軍、師団にはそれぞれ漢字一文字の通称号が付されていた。
これは数字だと聞き間違いがおきたりする恐れがあったため。
敵に師団のナンバーを秘匿するという目的もあった。
師団の通称号は次の通り。
第1 玉、第2 勇、第3 幸、第4 淀、第5 鯉
第6 明、第7 熊、第8 杉、第9 武 第10 鉄
第4の淀は大阪師団で淀川にちなんだもの。
広島の第5師団は鯉城にちなんだもの。
楓、祭、雪、椿と言う優雅なものもあった。
しかし戦争末期の本土決戦師団になると流石に音がバッティングしない
漢字一文字のネタが切れて
東京を護るから護東(140師)、仙台を護るのは護仙(142師)、
名古屋を護る護古(143師)など何にも考えていない通称号になってしまった。

226事件当時(昭和11年)は日中戦争以前なので20個師団編成の頃だから
東京出身者は甲種合格ならおおむね第一師団でしょう。
甲種合格して「運が悪かった」と言えた最後の頃かな。
これ以後は日中戦争、日米決戦と師団の数は膨れ上がる。

 
632むべ:05/03/09 00:48:12 ID:vXanTu78
東京大空襲のNスペでカーティス・ルメイが出ているな。
ある意味、敵で一番憎むべき軍人。
633628:05/03/09 00:48:48 ID:CxcWGabh
よくわかりました。ありがとさん
634205:05/03/09 01:21:05 ID:LEvYXnkw
通称号で広島第39師団の「藤」は、広島第5師団の営庭の池上の
藤棚からで、サッカーにおいてサンフレとかいう広島のチームの色は
薄紫の藤色とも思え、偶然かあるいは意図してそうしているのか
定かではないです。
広島第5師団のほうは、「鯉」の前の通称が漢字ニ文字の「松竹」で
由来はわかりません。
昭和14〜15年の南寧戦あたりまで「松竹」を名乗っているので、
いつ頃から漢字一文字の通称となったのかもわかりません。
ちなみに、広島11連隊は鯉城連隊か、十+一で士(サムライ)連隊です。

日華事変で師団の数は増えますが、広島師団は北支戦線での歴戦が続き
損害が多く人員不足で特設師団(広島105師団)が編成出来ず、
第5師団は、現役甲種合格者どころか予備隊まで動員したが、
老頭児(ロートル)部隊も活躍している。現役兵の多い他の師団に、
勝るとも劣ることなく最前線で闘った。
他に善通寺師団も、上海戦での損害が多大で特設師団が出来なかった。
635205:05/03/11 22:38:37 ID:i8yEDbef
>>632
空爆もそうですが、近代戦は多くの国民を犠牲し貴重な財産を破壊する。
中国大陸の住民も同じで、日本軍の作戦では、現地調弁で住民から
徴発して賄うのを原則とした。農村の住民は一部の富裕を除いて余剰の
食糧のない零細農家で、その生命の糧を異国の軍隊によって徴発される。
その上に一部ではあるが、主婦、姑娘が強姦されることもある。
更に禿山ばかりの中国では、日本のように薪の貯えが無い。そこで
兵達は、住民の食卓、椅子、戸板等で薪の代用に使用し、炊事や採暖用に
燃やされた。工兵が河に架ける軍橋にしても、杭や板材も現地の民家を
毀して使用した。兵達は「文句があるなら、蒋介石に言え」と

中国住民に被害を与えるのは日本軍だけではなく、日本軍の作戦妨害の
為、中国軍が撤退にあたって橋梁を破壊し、市街や村落に放火する
焦土戦術をやって後退することもしばしばあったので、あわれなものです。
636205:05/03/14 00:52:17 ID:TVnyhgXL
元広島第39澄田師団長は、大東亜戦争について「幾多の有色民族が、
列強の植民搾取から解放され、かつ民族の自決権を獲得したることを、
見逃す訳にはまいらない。」とされながら中国において「作戦間、糧まつ
補給が絶えたためやむなく徴発(住民不在のため購買票を残すが、敵地域
のため作戦終了後も代金をとりに来る者なく支払うすべもなかった。
まず徴発とは体裁のよい奪掠であった。)させたりしたものを除くと
真に部下が行った犯罪と思われるものは二十件内外に過ぎなかったと記憶
する。この数字は私の三年有余の在職間の累計であり、他師団の犯罪数
(中国側から見せてもらった)に比べると実に九牛の一毛である。
藤部隊の軍紀、風紀が他師団に比べて一等地を抜いていた証左であると
断言してはばからない。」と
元広島第5師団長今村均氏も、敵の死体に女軍人のものがあったので
「こんなにも日支事変は、支那一般の民衆を、いきどうらしめているのか
と反省させられた。」と述べられておられます。
637一広島人2ちゃんねら〜:05/03/16 11:24:14 ID:SCZrJQOt
>>636
「長崎の鐘」で知られる永井隆医博も浜田第二十一聯隊の軍医中尉として南寧攻防戦に参加していましたね。
「昭和の聖将」今村大将と「原子野の聖人」永井医博の意外な共通点でしょうか。
638205:05/03/17 02:53:44 ID:jXgtAUTS
>>637
永井隆医博は、島根県三刀屋出身なので浜田21連隊の軍医だったので
しょう。「広島師団の歩み」に広島第5師団21旅団長の中村少将が戦傷
された(のちに亡くなられました)時、「永井隆軍医が応召前に長崎医大
の外科に在って、助教授を勤めていたから、病理になかなか詳しい。」と
出ています。
かって南寧戦で戦ったN田少佐が、大陸打通作戦のおり南寧の崑崙関
(阿片戦争の時広西人が英軍を撃破し、広島第5師団が奮戦した地)で、
蒋総統の題字「碧血千秋」の忠魂碑と墓地、更にこの地に散華した
中村旅団長の石碑も建立されていたので少佐は「今村将軍が、日支両軍の
忠霊碑を建てられ、ねんごろに慰霊祭をやられたが、おそらく支那軍も
その礼の厚きに感激して蒋総統が建設されたものと思う」と
永井医博は「富める者は天国に入り難い。私は大いにかせぎます。しかし、
それを財布に入れたら富める者になりますから、入れないですぐ出して
しまうことにしております。そしていつも貧乏でありたいのです。」と
清貧で、私欲にとらわれない点で今村将軍と共通点もあると思います。
639名無しの歩き方@お腹いっぱい。:05/03/19 19:25:42 ID:6P+LD1Kv
>>626
日露戦争のとき、姫路師団の軍医が正露丸を発明したらしい。
第54師団はインパール後の撤退戦で有名。傷病兵まで一人残さず見事に撤退してイギリス軍から世界最強の部隊と言われた。
第110師団は残虐行為をしなかったことを国民政府に認められ帰国第一船を与えられた。

この辺でしょうか。
640205:2005/03/22(火) 22:10:18 ID:/3/riAGS
>>639
世界最強といったイギリス軍人とは、リード大佐のことでしょう。
伊藤正徳氏によると第54師団は、ビルマ派遣軍の中で断然、頭を抜いて
いたと記されていますし、ビルマ派遣軍中最精強だったのでしょう。
姫路第110師団は北支で八路軍と戦っている。
日華事変でも、姫路第10師団は、第5師団(広島)、第6師団(熊本)
と共に初めから動員され、世間での風評はともかく、軍では精強な師団と
評価されたのかも知れません。
徐州の台児荘で第10師団の瀬谷支隊(岡山10iと松江63i)は、
堅固に陣地化された敵兵の守兵10万に突進し、悪戦苦闘する。そこで
5師団から坂本支隊(広島11i第3大隊、浜田21i第2、第3大隊、
山口42i第2大隊)を派遣救援した。この件が両師団の確執にまで
なったのだが。
641205:2005/03/25(金) 23:28:56 ID:8PzkxDkM
台児荘について伊藤正徳氏や秦邦彦氏は、いずれも広島第5師団側に
問題があり、姫路第10師団の瀬谷少将は退却したことの責任を問われ
予備役に編入したとあるが、稲田正純作戦課長の回答が防衛庁戦史室に
保管されている。
『台児荘からの後退は大本営からの命令で退ったのだ。瀬谷、坂本
両少将がうまく危機を脱して退ったので安心すると共に、敵の主力を
寄せつけたので、徐州会戦で敵を撃滅できたので「瀬谷少将は責任を
問われて予備役に退けられた」とあるのは誤りも甚だしく、
現役中将に進級のうえ勲一等、功三級に叙せられた。』と

作家、史家が筆を執るとき、このような虚偽の記述もあるので、
読者は注意が必要であるのは言うまでもない。
642名無しの歩き方@お腹いっぱい。::2005/03/27(日) 02:22:12 ID:xh+eNI2+
今村均大将に関しては
http://www.geocities.jp/kinsinsitu/
があります


今村均大将について、

http://www.geocities.jp/kinsinsitu/
643名無しの歩き方@お腹いっぱい。::2005/03/27(日) 02:41:03 ID:xh+eNI2+
今村均大将に関しては
http://www.geocities.jp/kinsinsitu/
があります


今村均大将について、

http://www.geocities.jp/kinsinsitu/
644205:2005/03/30(水) 01:59:55 ID:8C3msqiW
台児荘について、郷土資料から『某雑誌記事に、当時の第10D師団長
磯谷中将が、この戦闘について記述しているのを読み、驚き唖然とした。
編成部隊の戦闘主役である63iを脱落させ連隊番号を誤り、師団出発時
に「どこまでも突進せよ」と訓示、わが坂本支隊が坂井となり、しかも
徐州に進撃中。撤退時に何とか止まらんかと交渉したが、私の師団で
ないので、命令するわけにはゆかなかった。
自分の部隊の主体となって苦闘した歩兵連隊を忘れているのも、あきれた
話だが「どこまでも突進せよ」では大本営の限界線もあったものでは
ない。わが坂本支隊が、徐州へ進撃中とは恐れ入ったが徐州会戦はこの
台児荘の戦闘後に、敵大部隊が徐州付近に集結していることが判明した
為発起したものでこの戦闘の時点では、進出限界は沂州までであった。
沂州攻略寸前を救援にきた坂本支隊である。しかも台児荘からの撤退は、
敵の追尾がなかったので成功している。ピンボケも甚だしい。』と
戦後になって上級将校が語るものにも、このような虚偽、誤認がある。
645205:廃藩置県暦135/04/02(土) 04:01:15 ID:3gLwP7Yk
沂州から徐州会戦まで広島第5師団は支那軍を牽制する使命が与えられ、
敵の大軍の中に頭を突っ込んでは退がる戦いで、後方支援部隊が置かれて
ないので将兵には難戦死戦となった。

徐州会戦が終わり、広島第11連隊、長野連隊長は、訓示のなかで
「連隊は、昨年八月出征以来十ヶ月間に、1,128名の尊い生命を
散華させ、2,332名にのぼる痛ましい戦傷者を出し、出征以来の
生存者は、838名となった」と血涙の言葉を述べた。
(内将校は、戦死46名、戦傷74名生存19名である)
北支、山西から徐州まで激戦の連続でした。
646205:廃藩置県暦135年,2005/04/05(火) 02:40:33 ID:/JTAJr+W
福山232連隊でのこと、第七中隊の宴席でF曹長は、A少尉を殴った。
A少尉は、将校侮辱罪として、中隊長代理T少尉に訴えた。事件を
公けにすると、F曹長は二等兵に降等され憐れであり、中隊としても
恥を外部に公表するより、中隊長が仲に入り、曹長からの始末書一枚で
穏便にすませるが普通であるが、この時、T少尉は、F曹長を反攻罪と
して大隊長に告訴し、大隊長A大尉は、軽薄な男で、将校侮辱罪として
F曹長を軍法会議に提訴した。

同じ頃、第八中隊のM軍曹は、姑娘の誘いに乗り、敵の密偵とは知らず、
夜半歩哨線を越え脱営した。本来なら敵前逃亡罪として、反逆罪の汚名を
着せられ郷里に通報されるのであるが、I中隊長は、本人には無論、
郷里の父母を気の毒に思い、「△△出動の際、マラリアの発熱に冒された
M軍曹は、咽喉の渇きに堪えきれず敵前のクリークに水を求めている
とき、不運にも敵の捕虜となった」という、I藤中隊長温情の戦闘詳報が
作られた。
温情のある隊長と軽薄な隊長とでは、部下兵の扱いに天地の差がある。
647205:2005/04/08(金) 01:00:30 ID:DPSdx7KJ
続いて福山232連隊でのこと、I軍曹は順応でも服従でもなく、自分の
思い通り行動し、上官を批判する。殊に戦闘の拙劣な指揮官、卑怯な
将校に対する非難は露骨且つ痛烈で、将校も陣糞漢な号令を掛けて
兵隊の嘲笑を買ったり、卑怯な振舞いをして人格を疑われる例は少なく
なかった。
高地占領の命令を受けるやM小隊長は何を勘違いしたのか、部下兵の
小銃を借りて敵を狙撃しようとした。I軍曹は「ぶった斬るど」と
罵倒した。S大尉はM少隊長の昂奮状態から小隊の指揮をI軍曹に執るよう
命じ「このI軍曹が小隊の指揮をとる。高地に向かって突入する、生命の
惜しい奴は残れ」号令一下、I軍曹が後も振り返らずに駈けた。
その後もI軍曹は、無能な指揮官を容赦なく誹謗したので三代目の
△△中隊長から不興を買い、S挺身斬込隊要員として中隊を追われ、湘桂
(大陸打通)作戦に出動し、昭和19年12月に第39師団に復帰した。
648名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/04/08(金) 06:30:30 ID:tjZ1P4gU
>>532>>534
陸軍の対戦車攻撃の主力は速射砲や野砲による砲撃。肉薄攻撃はその補助。
ノモンハンでも沖縄戦でも、戦車撃破の内訳を見れば明らか
ノモンハンでのソ連の主力BT-5の主砲口径は47mm、チハは57mmなんですが・・・
ちなみに日本軍もノモンハンの戦訓から対戦車能力を重視した一式戦車砲(47mm)を開発し、チハに搭載しています。

>戦車の開発に力を入れなかったために同時に対戦車戦などの周辺技術も発達しなかった。
論理の飛躍では?


>>536
>魚雷一発程度では大型空母にとってはかすり傷だが
それは言いすぎでしょう。
魚雷を食らえば普通はドックまで曳航して修理せねばならず、その間は戦線から離脱するわけですから。

さらにいうと、>>544さんの言うとおり大鳳はタフな空母ですよ。
500キロ爆弾の直撃に耐える装甲甲板、最新の注排水装置を備えており、「不沈空母」と謳われました。
事実、魚雷を喰らっても、何事も無かったかのように作戦を続けていました。
あと、珊瑚海では翔鶴も中破してますが修理されていますよ。
ヨークタウンも大破ではなく中破です。

>>545
> 大和は20数発の魚雷攻撃を受けてやっと沈んだタフな艦だった。
それは武蔵。
649205:2005/04/08(金) 23:31:23 ID:KvFwiwjF
>>648
対戦車攻撃に、速射砲による砲撃はいうまでもないですが、ノモンハンで
71連隊の敵戦車50台の包囲攻撃において、速射砲1門は、発射弾6発
で戦車5台を擱坐させ、同行中の辻政信氏は、その威力に舌を巻き感激
したという。(速射砲は94式37m/mで、初速780m・重量335
kg・貫徹力30m/m・1馬引又は4馬駄載・歩兵連隊に4門装備。
閉鎖機はスライド式の自動開閉で、訓練された射手・弾薬手なら、毎分
20〜25発前後発射する。支那事変勃発の昭和12年7月頃までは、
秘密兵器とされ離島で訓練を受けた)しかし軍馬が敵の好目標と
なったり、気候、土質、水不足(湖沼は、大半が海水以上の塩分で飲めず
戦闘間を通じ終始非常な苦痛を与えた)等の自然条件を考えておられ
ますか。まあ当時の上層部の方々は、考えておられなかったのしょうが。
陸軍においては、昭和20年においても肉攻訓練を反復していますが、
ノモンハンにおける戦車撃破の内訳の資料をお持ちですか。郷土資料では
見つけられらかったので、伺いたいのですが。
論理の飛躍ではないと思います。我軍も対策を考えたといっても
大局的にみて、我が兵士は昭和20年においても、ソ連軍の装備には
羨望を覚えたと語っておられます。どうも前線の兵士より、机上の論理で
辻参謀のような上層部の考えをゆうておられる観がありますが。
650サミー・ナセリ ◆TwjEJIsRnc :2005/04/08(金) 23:33:30 ID:R9JtShZj
過去において、真の世界最強の軍隊はイギリスの軍隊でしょう。
651名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/04/08(金) 23:40:24 ID:xUHHNFMB
武器云々言っても結局金と資源が無かっただけw
技術的に凄く劣ってた訳じゃない。研究はちゃんとしてても具現化不可だったんだよ。
652648:2005/04/09(土) 11:27:59 ID:vmG4JG+X
>>649
クックスのノモンハン本にそのような記述があったような。手元に無いので、また調べてみますね。
沖縄戦のほうは国防省のレポートです。「沖縄―日米最後の戦闘」光人社NF文庫

>気候、土質、水不足等の自然条件を考えておられ ますか。
私は対戦車戦闘の話ししかしてないのに、どういう脈絡ですか?
もっとも、当時の兵士の手記なんかでは「渇き」の話がよく出てきますから、兵站が不味かったのは事実ですね。

>陸軍においては、昭和20年においても肉攻訓練を反復していますが
梱包爆弾や対戦車地雷の訓練はどこの軍隊でもしますよ。
それに昭和20年にはロタ砲を3千門以上生産して配備しています。
配備が遅れたのは成形炸薬弾頭の国産化に手間取ったためで、戦車を開発しなかったためではありません。

>我が兵士は昭和20年においても、ソ連軍の装備には 羨望を覚えたと語っておられます。
昭和20年においてはノモンハンのときよりソ連との装備の格差は開いています。
関東軍の装備は明らかに劣化しているくらいですからね。
653名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/04/09(土) 23:13:03 ID:ercEzHPd
いつも思うが>>205
自分だけしゃべってるときはいいのだが
ちょっと何か言われると
相手の発言内容と全く関係ないことを持ち出して反論しまってスレが荒れる原因になってる気がする

それがなければもっといいスレになるのに
654むべ:2005/04/09(土) 23:17:37 ID:gBMPW+6V
>>648
半年も前の書き込みにレスありがと。
記憶頼りで史料にあたっていないので間違いは勘弁。

戦争当時の日本軍は言わば
「家貧しくて孝子出ず」と「貧すれば鈍す」が同居していたようなもの。
カネとモノがないなりに最も効率の良い兵器を生み出した。
ノモンハンでソ連軍に惨敗した97式戦車は主砲を57ミリから47ミリにした。
一見貫通力が落ちるように思えるが代わりに砲身を長くして初速を速くして貫通力を高めた。
貫通力が悪ければ戦車を大型化して主砲を大きくすれば良いと考えるのは資源がある国の発想。
今後も97式を主力にしなければならなっかた日本では口径を小さくするという逆転の発想をした。
海軍ではマリアナのアウトレンジ。敵が数で勝るならそれをアウトレンジで攻撃する。
貧しい家に生まれた孝子たちは必死に大国に抗する法を考えた。
日露戦後の秋山真之の「連合艦隊解散の辞」に
「百発百中の砲、百発一中の敵砲百門に対抗するを覚らば…」という一節がある。
この言葉通り猛訓練と知恵の限りを絞ってハンデを乗り越えようとした。
だが、百発百中の砲でも百発一中の砲千門には敵わない。
そして、日本は徐々に鈍になっていった。
無意味な玉砕戦。特攻攻撃。
確かに兵器思想に欧米を越えるものもあっただろう。
VT信管の大元の発想は日本海軍だったという説もある。
だが、それを作るだけのカネとモノがなければ絵に描いた餅。
むしろ兵が郷土の栄誉を担い弾となり盾となり闘った。
それが欧米の先進兵器を凌駕した一点だったと思う。






655むべ:2005/04/09(土) 23:23:16 ID:gBMPW+6V
>>253
彼は一途に自分の郷土の兵団だけを自慢する。
これが本当のお国自慢だと思うぞ。
この板は他国貶しが多すぎる。
656名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/04/09(土) 23:28:08 ID:ercEzHPd
>>655
実際よく突っ込まれるところだが
百発百中の砲vs百発一中の砲百門

【1回射撃目終了後】
百発百中の砲(破壊済み)vs百発一中の砲(残り99門)

となり完敗を喫してしまう
何で海軍士官学校でのお偉方が誰も突っ込まなかったのか
657むべ:2005/04/09(土) 23:40:11 ID:gBMPW+6V
海軍の軍神に突っ込みを入れるなんて。
お前、重営倉行きね。
658名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/04/10(日) 00:18:09 ID:omXpjw34
>>656
それはあさはか
「言葉のとおりだと負けるけど、要するに訓練一生懸命やりなさいってことだよ」と
誰かが突っ込んでいた(誰だったかは失念)はず。
態々言われなくてもそういう意味だとわかるでしょ?
659205:2005/04/10(日) 02:21:16 ID:vdL4b7xk
>>652
戦闘において自然条件は重要だと思いますが。対戦車戦闘においては、
自然条件は、関係ないのでしょうか?郷土資料からノモンハンでも
「戦場付近の土質は、微粒子の砂質で粘着質はなく、掘開は容易
(散兵壕で約20分以内)であるが、砲爆撃の震動及び風で、たちまち
崩れまた埋もれた。この砂質は、敵の砲爆撃の効果を減少したが、反面
自動車・砲車等の移動を阻害し、地雷の不発も生じた。」とあります。
肉攻についても、「ノモンハン事件で、すでに貴重な体験をしている。
ソ連軍は、戦車の外部に金網を張って、肉攻を封じた。その為、おびただ
しい犠牲者を出したのである。その事実は東京上層部が痛感していたはず
だ。それでも今なお、肉攻の訓練を反復するとは。つまり上層部の
無為無策を、底辺の兵隊の生命とすり換えている、と言っても過言では
ないだろう。」と戦後に当時の兵士が感想(装備についても)を語って
いるのです。
>どこの軍隊でもしていますよといわれておられますが、例えば英米露の
梱包爆撃及び対地雷訓練とはどのようなものでしょうか。資料についても
知らず、わしは無知故にわかりません。手がかりになるものは無いので
しょうか。書籍等でありますか?
>>653
自分だけでしゃべっているのではなく、当時の兵士が語ってることを
いったのです。それをわしのくだらん自我、不徳ゆえ荒れる原因を作った
ことは、申し訳ないと思います。ついつい相手の方の発言に、条件反射的
に反応してしまいます、言いがかりにはともかく、議論になれてない
せいか、人間性がついていかないのです。648氏とのことでも、視点の
違いなのでしょうが、ただ内容と全く関係ないことを持ち出してとは
納得出来ません。それはどこでしょうか?
660205:2005/04/10(日) 02:47:27 ID:vdL4b7xk
>>655
広島師団を、今村将軍も比類なき戦歴と言っておられますが、
他地域には、広島師団に勝る戦歴と実績、武勲が無いのでしょう。
というとまた嫌われますが。
この板では、自分の郷土兵団自慢といわれても仕方ないですが、
他板では、郷土意外のある師団についても、肯定的に記しています。
661205:2005/04/10(日) 02:58:39 ID:vdL4b7xk
郷土意外より以外でした。ある師団とは、大阪師団のことです。
662むべ:2005/04/10(日) 03:04:44 ID:vwPTIkTh
郷土兵団の自慢は大いに結構だと思いますよ。
私の住む茨城の第二連隊がぺリリュー島で
島民を戦火に巻き込まないよう無い船をやりくりして
疎開させた後に全滅。
帰島した島民たちが親切で勇敢だった兵士の死に涙し、
ぺリリュー神社を建立し今でも慰霊し子供たちに語り伝えていると聞けば
やはり誇らしいものを感じます。
663648:2005/04/10(日) 07:36:58 ID:030wymmE
>>654
誰も訂正してなかったものですから、気になってw
>>654のご意見には、ほぼ同意できます。

>>659
>対戦車戦闘においては、 自然条件は、関係ないのでしょうか?
それは関係ありますよ。ただ、私は速射砲の話をしただけなのに205さんが>>649
「気候、土質、水不足(湖沼は、大半が海水以上の塩分で飲めず
戦闘間を通じ終始非常な苦痛を与えた)等」と例示した上で
>自然条件を考えておられ ますか。まあ当時の上層部の方々は、考えておられなかったのしょうが。
とおっしゃったため、戦闘ではなく兵站の話かと思い、脈絡ない話と感じたまでです。

(対戦車戦闘における)ノモンハン事件での貴重な体験とは、
「戦車に対しては速射砲が効果的」という教訓でしょう。
そこで陸軍は車両牽引式で、(94式に比べれば)威力も大きい
1式機動砲を開発し、新たに独立速射砲大隊まで編成しています。
戦車にしても、>>648にあるように努力はしています。つまり決して「無為無策」などではないのです。

>それでも今なお、肉攻の訓練を反復するとは。
兵士の心境は察しますが、歩兵が戦車に対抗するためには、
いくら対策を講じられようが肉攻か無誘導の無反動砲(ロタ砲>>652)くらいしかありません。
それは欧州戦線でも同じことです。それとも、他に訓練すべき戦闘法があったのでしょうか?
664648:2005/04/10(日) 07:47:54 ID:030wymmE
>>659
梱包爆弾(破甲爆雷のようなもの)や対戦車地雷です。
欧州でも歩兵の対戦車戦闘といえば、対戦車砲を除けばこれらを使うのが常道でした。
バズーカの登場が1942年、パンツァーシュレッケが1943年(ともに開発年代で、配備が進むのはもう少し後)
ですから、ノモンハン時点では歩兵が地雷を抱えて戦車に攻撃するのは当たり前の戦術です。
訓練の内容については具体的に書いた書籍は知りませんが、
少なくとも上記のような肉攻兵器が欧米においても生産・配備されていましたし、
戦記を読めば(バルジ戦でもベルリン戦でもかまいません)実際に使用されていることも分かりますよ。
665648:2005/04/10(日) 08:24:33 ID:030wymmE
なんかスレチガイの気味の話題を長々振ってしまって申し訳ない。
私の地元は静岡県浜松市なのですが、郷土連隊については調べたことも無いのです。
スマソ
666名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/04/10(日) 12:21:15 ID:2cA3/oCA
郷土の連隊って概念が変ww
そもそも地元率なんて低いんじゃねえの?
今村氏は東北人だし。
667名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/04/10(日) 13:41:56 ID:rlQffOke
>>658

こうやって上を否定できない雰囲気が
根性論絶対主義になっていったんだろうね
機関銃に素手で突っ込んでも根性があれば勝てるとか
668648:2005/04/10(日) 18:47:39 ID:030wymmE
>>667は少なくとも、東郷さんとデッキ掃除の話は知らないんだろうなぁ
669648:2005/04/10(日) 19:35:08 ID:030wymmE
>>666
徴兵と士官を混同しないでください
670名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/04/11(月) 00:06:15 ID:xsESYb7P
要するに>>667は理解できてないわけね
671名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/04/11(月) 01:00:16 ID:dZZsrRKH
>670
そんな間違った考えがあることは理解しているが
正しいとは思いませんが何か?
672205:2005/04/11(月) 01:01:41 ID:kssatlqY
>>663>>664
いかに戦車にしても努力しているとしても、実戦において使われなかった
のであれば前線兵士にとっては、「無為無策」でしょう。
>歩兵が戦車に対抗するためには、いくら対策を講じられようが云々に
ついて、他に訓練すべき戦闘法があったのでしょうか?とありますが
わしは無知ゆえわかりません。しかし歩兵包隊所属の方を意見を、
「心境は察しますが」と無知といわんばかりに、自論を述べておられる
ほど、対戦車戦闘に詳しい方なので質問しますが、戦車の外部に金網を
張り、肉攻を封じた場合の対策法について伺いたいのです。欧州戦線でも
同じことですといわれますが、当時の米国、あるいは英国や独逸でも
金網対策法は、同じ肉攻対策と考えてよいのですか?それと自然条件も
関係ありますといっておられるのであれば、地雷の不発は砂質による
ものでしょうか。あるいは温度、摂氏何度ぐらいで不発は起きるもの
ですか。それとも湿度の少ない乾燥地帯によるものでしょうか?また
マレー戦のように雨量の多いジャングルにおいての不測事態は、どの
ようなものがあるのですか?
例の沖縄戦の光人社文庫は、今日見つけられませんでしたが、本の紹介に
ついては感謝致します。
673648:2005/04/11(月) 05:39:33 ID:+HBULoR9
>>672
>実戦において使われなかったのであれば
チハ「改」も一式中戦車も一式砲戦車も実戦に参加しています。
「実戦に使われなかった」などという勝手な思い込みに基いての旧軍批判はいかがなものでしょうか。
>わしは無知ゆえわかりません
旧軍が無為無策ではないという客観的事実は>>648>>652>>663>>664に書いたとおりです。
これを読んでも、あなたはまだ無為無策だったと思われますか?
引用ではなく、あなた自身のご意見をお聞きしたいのです。
>無知といわんばかりに
それは違います。肉攻はご存知のとおり、キルレシオの悪い戦闘法です。
だからこそ、そんな訓練ばかりやらされれば「自分は消耗品扱いされている」と感じるのは
当たり前であり、上層部に不満を持つのも当然です。
しかし歩兵の対戦車戦闘法といえば肉攻メインであるというのも現実であり、
(戦争を続ける以上)仕方ないことだったのです。
>戦車の外部に金網を 張り、肉攻を封じた場合の対策法
対戦車砲を使うことです。それが>>663でも言ったようにノモンハンの戦訓でしょ?
>当時の米国、あるいは英国や独逸でも金網対策法は、同じ肉攻対策と考えてよいのですか?
肉攻対策でもあり、HEAT弾対策でもあります。しかし、欧州でも太平洋でも写真等を見る限り、
こうした対策をしていない戦車も多数前線で戦っていますね。
>地雷の不発は砂質によるものでしょうか。
重量を感知して作動する信管ですから、砂にめり込んで作動しなかったというのもありえる話ですね。

それ以下の質問については私は知りませんが、興味があるなら
ttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/476980833X/qid=1113164903/
ttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4906436617/qid=1113165001/
等を読まれてはいかがでしょうか。あなたの質問に対する直接の答えは載っていないかも知れませんが、
当時の歩兵の戦闘というものの概観はつかめるかと思いますよ。
674648:2005/04/11(月) 05:48:11 ID:+HBULoR9
あと、一口に肉攻といってもいろいろあります。
http://www.horae.dti.ne.jp/~fuwe1a/newpage414.html
金網で封じられるのは火炎瓶位ではないでしょうか。
675205:2005/04/12(火) 01:56:21 ID:1il/35Dp
>>673
実戦においてとは、満州のことで、主要な兵器を本土防衛用に
後送中で我々の武器は少しの手榴弾しかないと戦記にあり、
それを、わしの拙文で誤解をされたのでしょう。
あなたは、無為無策という言葉を文字面だけで解釈され、全体的に
何をいわんとしておるのかと解釈されないようで。戦記から引用した
ものからわしの考えは、想像力を働かせばわかると思います。
兵士が語られたものでは、批判するのに不都合なので、わし自身の意見
を聞きたいと。わしが、無為無策だったと言えば、あなたは、客観的
事実を書いたのに、広辞苑で無為無策の意味を調べられよ、と
おっしゃるのでしょうが、それに等しいと言えると思います。
責任は、前線兵士でなく上層部でしょう。悔しいですが、戦闘において
日本は勝負して敗れました。俗っぽくいえば、こういう努力をしたと
いっても、勝負事に負けての言い訳になります。(ただ我々日本人の
大義はあったと述べるのは別ですが。)
676名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/04/12(火) 11:57:02 ID:hZFnKA17
習志野空挺・・・精鋭無比
677名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/04/12(火) 12:29:56 ID:F1bMI7Ft
分析は結構だけど責めても仕方ない。金も資源も工業力も無い中で実力以上の戦いをすると、出来るのは研究くらいで装備化するのは困難になる。
678648:2005/04/13(水) 08:00:42 ID:F/NwSutQ
>>675
なるほど、あなたの言う「上層部」とは終戦間際の大本営作戦課でもなければ、
時の首相や陸軍大臣、武器調達担当者など特定の対象ではなく、帝国を悲惨な戦争おいやった
昭和初期からの歴代政府、軍指導者たち全てという意味なのですか。それなら理解できます。

>責任は、前線兵士でなく上層部でしょう。
それはまったく異論ありませんよ。
679名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/04/13(水) 20:46:43 ID:vG9f8+Rn
アジアを侵略し続けた明治維新からの無理、失敗が明るみにでたと解釈する方が自然だね。
昭和の軍人が駄目でそれ以前はOKなる解釈は不自然だよ。
近い人間に責任をなすりつけるとは情けない。
680205:2005/04/14(木) 01:51:05 ID:INEJxtYL
>>678
昭和初期からの歴代政府、軍指導者たち「全て」といってはおりません。
今村将軍のような方も、おられたわけですから。また逆に大本営作戦課に
ついても、全て肯定しているとすれば誤解を招きますので。参謀にも
まれに立派な方々もおられましたでしょうが、うまく表現出来ないので、
また戦闘体験者の引用をします。
「俗に秀才と云われる学校の優等生は、単に記憶力が優れているだけで、
人間としての最も重要な創造性、判断力、決断力、思考力が欠如して
いた。随って秀才型の人には視野の狭い欠陥もあった。何しろ童児の頃
から自分を秀才と信じ、自分の考えが一番正しいと思い込んで成長し、
他人の言葉に耳を藉さない偏見が身についているから始末が悪い。
安全な後方で、専ら机上の作戦遊戯を弄ぶだけで、前線も実戦も経験
しなかった。敵と戦ったことのない参謀に、作戦の責任指導をさせて
いた。これが旧日本陸軍のエリート至上主義の愚かな実態であった。
ときの日本政府は、こういう盲目不遜な族を養成する為に、国民の
血税を惜しみなく使って結局はどぶに捨てることになった。」
681205:2005/04/14(木) 03:03:50 ID:7j4hadeF
>>679
アジアを侵略し続けた、には同意出来ません。
662でむべさんが書いておられた様に、温かいエピソードもあります。
むろん、アジアの民衆に、ご迷惑をかけたことも、否定はしません。
それは、635でも書いています。
今村均将軍は「日清、北清、日露、日独、シベリアまでの歴代指導者は、
皇軍は聖師でなければならぬとして、戦陣道徳の恪守を厳重に監督して
きた。従って、皇軍の向かうところ、草の風になびくように迎えられ、
風を聞いて投降するものがあいつぎ、敵情は、手にとるようにわかり、
大きな犠牲なしに、すみやかに戦勝を得るようになった。しかるに
時代がかわり、支那事変当初の指導者は、捕虜や市民のあつかいを
いいかげんいし、支那兵をして捕虜になることは戦死と同様のことだ
と観念させ、また荒らされた市民の恨みを買い」と後半は以前にも
書いています。捕虜の扱いにおいて、明治期と昭和期では違いが
あると思いますが。
日本の歴史においても、平安期の武士は降人に手をかけないのが礼法
でしたが、後三年の役における源義家軍やのちの鎌倉武士等は、
手捕りの者の多くを殺し、この礼法を守っているとはいませんでした。
682一広島人2ちゃんねら〜:2005/04/14(木) 11:31:39 ID:XCuNsin7
>>679
長谷川伸「日本捕虜志」嫁。話はそれからだ。

ttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4122006813/qid=1113445666/sr=1-6/ref=sr_1_8_6/250-6831098-0042669
ttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4122006813/qid=1113445666/sr=1-6/ref=sr_1_8_6/250-6831098-0042669

>>205さん
うちの近所にも「わしはジャバ島で今村大将の部下じゃったんじゃ〜」と言ってる爺様がおりました。
683205:2005/04/15(金) 03:07:04 ID:9KfQYijL
>>682
おそらく、再召集で行かれた方でしょうか。今村将軍の部下であった方は、
南寧戦参加の方も含め、悪くいう人はおらんでしょうね。
その今村氏が、小学生の時、ある錦絵を買い、担任の志賀先生にお目に
かけ、先生は「この軍人さんは、戦地の避難民が棄てたと思われる
赤ん坊を寒さや餓え等で死なせるのは可哀想だと抱いて行き、そのまま
敵と戦った。国と国との戦さでも敵の軍人でない人民は皆親切に
いたわってやるのが日本人の本当の心だよ。このことを忘れんで覚えて
おいで」といわれたそうです。
 よしよし行かん ともないて 吾はやまとの ますらをぞ 左手に敵の
 みなしごいだき 右手に振わん日本刀
この事は、のちの今村将軍に多大な影響をもたらしたでしょうが、当時の
子供から青少年にも、この樋口大尉(丹波篠山出身)の美談は感動を
与えたのでしょう。
長谷川伸氏については、映画の芝居の作者という以外詳しく知って
いませんでしたが、日本人の義理、人情を描き、市井の立場で書かれて
おられるようで、何とか探して「日本捕虜志」(他の作品も含め)は、
是非読んでみたいと思います。本のご紹介、有難うございました。
684名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/04/15(金) 19:59:51 ID:nuS73ewF
>>680
捕虜の扱い?

また時代の遠い人間を「美化」してるの?ww


>後三年の役における源義家軍やのちの鎌倉武士等は、
手捕りの者の多くを殺し

殺したくて殺したんじゃないでしょww

鎌倉期から変質した武家の歴史を勉強しなよ。
685205:2005/04/16(土) 02:11:00 ID:VVW4v53F
>>684
殺したくて殺したんじゃないとしても、結果的に女子供を虐殺している
ことは、日本史板の「西の政権は何故いつも敗れるのか?」の76と80
で書いています。
鎌倉期から変質した武家の歴史を勉強せよとは?平安期に比べどこか
よくなったのですか?そもそも武士(もののふ)の道とは、東国でなく、
もちろん広島でもなく、下士の発生は別でしょうが、概ね都で発生した
ものだと思います。広島県は、鎌倉武士の末裔が多い土地柄ですが、戦場
での礼法に厳しい平清盛は尊敬しても鎌倉武士は尊敬しておりません。
風土が違いますし、鎌倉武士の末裔も広島県において西日本的な傘連判状
という横の連判状で結束しています。のちの小早川隆景の朝鮮における
温情について、日本史板の文禄慶長の役についての他スレで、ほかの方が
書いておられましたが、これは郷土の誇りだと思いますが。
686名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/04/16(土) 02:20:27 ID:YA3wlIqH
鎌倉以降、武士がある意味残酷で凶暴になったからこそ西日本に蔓延してた当時の「とある思想」を超える事が出来たんです。
そして東日本鎌倉に政権が出来た。
まあ自分を慰めるような一方的な歴史観を持つオッサンにはわかるまい。
687名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/04/16(土) 02:25:06 ID:PTmdXnDv
>>685
歴史はオメーの好き嫌いの問題じゃねーんだよ。

688205:2005/04/16(土) 03:24:12 ID:5TPTPAIO
>>686
鎌倉以降、武士がある意味残酷凶暴になったからこそ西日本に蔓延して
いた当時の「とある思想」とは何でしょうか?それをどう超える事が
出来たのでしょうか?
軍紀いうもんをどう考えとるんか知らんが、ほう残酷で凶暴であることを
誇るんか、自分を慰めるような一方的な歴史観を持つオッサンたあ
誰のことなら?つまらん、かばちたれなや。お兄さんよ、わりゃ、
何、知ったげにいよるんかいの。
まあ、わしゃあ歴史観というほど大したものは、持っとらんが、
わしゃあ「とある思想」について伺いたいんですがのう。
「とある思想」たあなんなら。ようわかるよう、ゆうてつかい。
>>687
おどれは、礼儀を知らん、糞ボンクラか。好き嫌いゆうて問題に
しとるんは、われじゃろう。
689むべ:2005/04/16(土) 03:59:56 ID:QXzaBSRf
明治の軍人と昭和のそれの違いは、
司馬遼太郎によると国家観に対するリアリティーの違いだと言っている。
この言葉を敷衍すると明治の軍人は自らの手で維新を成功させ日本という国をドラスティックに変革させた。
ほとんど一から近代国家を建設した経験から自分たちが作った国の限界を知っていた。
日清、日露、第一次大戦と10年ごとに戦争が起きたのは偶然ではない。
一度戦争をすれば再び戦争ができる国力に回復するまでに10年かかると知っていた。
日露では民衆の不満を知りながらあえて講和をした。
これも国力の限界を知っていたから。
昭和になり維新を知っている人々が死に絶えると国家に対するリアリティーが失われた。
だからこそ、中国との15年戦争中にも関わらず、
12倍もある国力のアメリカとの戦争に突き進んでしまった。
三国干渉のときには「臥薪嘗胆」と唱えて三国に屈した。
これは決して腰抜けではない。国の現実を知っていたからだ。
明治大正の軍人はリアリストだった。
だが、昭和の軍人たちは国の現実を知っていてもそれから目をそらした。
国力以外に何らかの優位性があると幻想した。
明治と昭和の軍人の違いはこのリアリティーの有無であろう。

690むべ:2005/04/16(土) 04:16:15 ID:QXzaBSRf
平安時代の一時期に死罪がなかったのは
平安の公家たちが平和主義者だった訳ではない。
彼らは血の穢れを嫌った、
そして何よりも祟りが自分の身の上に振りかかるのを嫌った。
天慶の乱の将門の首塚があちこちにあるのは公家たちの恐怖の裏返しだ。
道真の天神様も同じ。
国が乱れ乱が起これば首謀者は殺さなくてはならない。
それはどの政権でも一貫した方針である。
だが、公家は自分の手で殺したくない。
そこで汚れ仕事を武士に任せた。
源平以後、都が罪人の怨霊に悩まされたという記録はない。
これは公家が汚れ仕事を武士にまかせきって安心してしまったからだ。
権力の最も重要な部分である生殺与奪の権を
極めて臆病な理由から武士に明け渡してしまった平安の貴族たちは
この時から政権を担えない単なるお飾りになってしまった。

691むべ:2005/04/16(土) 04:19:54 ID:QXzaBSRf
>>682
長谷川伸が軍記物を書いているとは知らなかった。
確かに軍人たちの上下関係、戦友の関係はやくざの任侠と共通点があるな。
692むべ:2005/04/16(土) 04:48:37 ID:QXzaBSRf
>>688
人のことを言える身ではありませんが
どこにでも煽りはいるので熱くならない方がいいでしょう。
歴史「学」に私が入るのは厳禁ですが
歴史「観」はそれぞれの人が育った環境、考え方で
千差万別の違いがあります。
歴史「学」はそれぞれの人が持つ歴史「観」を形成する上での
材料を提供しているに過ぎません。
「学」はキャンバス、「観」はそこに描かれる絵という関係だと思います。
絵に個性が表れるのは当然です。
693686:2005/04/16(土) 11:57:31 ID:SrkRP+F5
>>690
>平安の公家たちが平和主義者だった訳ではない。
彼らは血の穢れを嫌った

正解へのプロセスを示すとはさすが牛沼氏ですな。
実は205が批判した鎌倉武士の残酷性、凶暴性はとある思想である「穢れ」を克服できたと解釈出来る。
鎌倉武士の野蛮性こそ無知蒙昧な思想に近い西日本に蔓延してた穢れを超越できたと。
これは日本史上特筆すべき件でしょう。
典型的な日本人らしい平和ボケに犯された平安貴族・武士とは比較にならない。
それを擁護するとは現在の平和ボケ日本人を批判する資格は無い。


694686:2005/04/16(土) 12:03:50 ID:SrkRP+F5
鎌倉武士は穢れ知らずで
「俺は神社仏閣なんぞ知った事で無い」
とばかりに大暴れした記録は残ってますね。
つまり退歩を示すはずの野蛮性がどんな役割をしたのか。
なぜ東日本に政権が出来たのか。これは自分の頭で考えれば色々広がりますよ。
歴史は面白いものです。
695648:2005/04/16(土) 16:53:48 ID:FdV9usnO
>>680
文章の切れ目が悪かったかな。
「”帝国を悲惨な戦争おいやった”昭和初期からの歴代政府、軍指導者たち全て」であって、
今村将軍などは含んでいません。(そもそも今村将軍は軍指導者といえるほどの地位にはなかったと思いますが)
エリート主義の弊害はよく言われる話ですが、おおむね同意ですね。

>>681
19世紀とは違って、戦時国際法や国際慣習法が踏みにじられ、
戦争が「野蛮化」したのは日本に限った話ではなく世界的な流れでもありますがね。

>>694
もしも「野蛮」な関東武士団が政権をとらず、「平安」時代がそのまま続いていたら、
その後の蒙古襲来を撃退することが出来なかったかもしれませんしね。
696205:2005/04/17(日) 04:10:24 ID:MIZ0XQTN
>>693
前回は余りにも無礼さに憤慨してしもうたが、平安期において非戦闘員や
降人を殺すのは、禁止されておったが、戦場での礼法を東国武士が無視
し、殺害をしたのを正当化しておる。無知蒙昧な思想、穢れも克服できた
と解釈しておるが、「もののけ」や「けがれ」について、意味がわかった
うえで書いとるんか?あんたに説明してもらおう。

呪術的なものを、無知な迷信とは後世の価値観をあてはめて考えて、
それで神社仏閣等はと、文化大革命でも支持しておられるんか。どうも
あんたの論は、まるでマルクス主義者じゃ。歴史を発展段階でとらえ、
平安は貴族による奴隷制で鎌倉はそれを打破した封建制ということか。
まあ、あんたの頭の中で妄想すりゃあ歴史は面白いんじゃろう。
697686:2005/04/17(日) 19:22:31 ID:Nsm54Vvz
>>695
平安時代の支配階級のやり方のままではモンゴルの属国になったでしょう。
ただし、大陸からの使者まで切ってしまった鎌倉武士のやりかたは
当時の国際ルール的にも無知で強引だったようです。

>>696
>戦場での礼法を東国武士が無視し、殺害をしたのを正当化しておる。無知蒙昧な思想、
穢れも克服できたと解釈しておる

俺の勝手な解釈どころか有名なのでは?>>694の件

>「もののけ」や「けがれ」について、意味がわかった
うえで書いとるんか?あんたに説明してもらおう。

そんな事ここでは関係ない。

>無知な迷信とは後世の価値観をあてはめて考えて、
それで神社仏閣等はと、文化大革命でも支持しておられるんか

後世の価値観どころかそれで今だに苦しんでる人間がいるのによくもそんな言葉が吐けますね。
こんなことだから西日本人は差別の温床なんだと極端に言えばそう解釈されてしまうよ。
「後退」を示すはずの鎌倉武士の「野蛮性」が何で無知蒙昧で非科学的な穢れを克服できたのか。
その時点でマルクス主義歴史観の発展云々とは異なってるんですけど。
こじつけも甚だしい。
そもそも明治期の戦争で捕虜の待遇を良くしたのは敗者会津藩出身の軍人ですよ。
これ、戊辰戦争と関係あるんです。
それが平和ボケで自らは手を汚さない支配階級が先導した平安時代と関係あるんでしょうかねえ。

698名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/04/17(日) 21:14:04 ID:nlrPVLeQ
そろそろ完全にスレ違いになっているので
申し訳ないですがよそでやってもらえますか?
699205:2005/04/18(月) 03:27:18 ID:LuuLqLjn
>>697
「もののけ」の「もの」とは憑き物の「もの」で、「け(気)」に
憑いた。「けがれ」とは死、病、社会や政治の脅威と敗者の怨念も含め
それにたいする忌避や恐怖の観念といえる。武士は武力だけでなく、
呪術的に魔よけの役割ももっていた。それに殺された者の怨念、霊の
幻影に悩まされるので戦国期においても、殺した相手の「足の裏を掻く」
そうすれば蘇生しても歩けまいと。つまり鎌倉武士によって克服出来た
わけでは無い。それは現代においても。
マルクスは、唯物論者で歴史発展の科学的法則において体系化した
のではないのか。彼らの史観では「科学、技術の発展で社会変革が
起きる。また近代戦も勝敗を決するのは武器の量と質でそれを支える
工業力や資源等の物的要素である。そして宗教はみな非科学的な
アヘンである。」つまり非人格的な物的要因のみの解釈ともいえる。

マルクス史観の人達は、享楽にあけくれ退廃した貴族と、粗野であるが
躍動的な世界を創造し歴史を推し進めた武士とする在地領主論者だと
思いますが。武士の戦士的側面から武士論を展開する武士職能説を
修正主義といって批判しておるのでは。
まあ、スレ違いになるので明治以降として、捕虜の待遇を良くしたのは、
会津人で戊辰戦争と関係あるとゆうておられますが、具体的に書いて
いただきたいですね。
700名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/04/18(月) 14:20:43 ID:uZGYW0w2
700get!キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!
701むべ:2005/04/18(月) 21:56:55 ID:pCxhUeud
スレ違い気味になってきたので心気一転、第一師団から簡単な来歴を記してみる。

第一師団(玉)編成時期 明治21年5月14日 編成地 東京 
補充担任 東京 所属歩兵連隊 第1(麻布) 第49(甲府) 第57(佐倉)
日本で最も古い師団の一つ。編成当時は歩兵第1〜3と第15の4個連隊編成だった。
日露戦争では第3軍に属し有名な203高地の戦いでは主力が全滅に近い損害を受けながら
旅順を攻略した。
日露戦後、新たに創設された第14師団に第2第15連隊が移り代わりに第49、第57連隊が編入されている。
師団は昭和12年2月22日満州に移駐。
昭和15年に師団は3個連隊編成に改組され第3連隊が28師団に編入された。
太平洋戦争では「日米の天王山」と言われるレイテ戦に参加。
リモン峠の攻防戦を戦ったが撤退、セブ島に転進した。
レイテ上陸時一万余名あった人員はセブ島転進時には八百名に減っていたという。

702むべ:2005/04/18(月) 22:29:17 ID:pCxhUeud
第二師団(勇)編成時期 明治21年5月14日 編成地 仙台
補充担任 仙台 所属歩兵連隊 第4(仙台)第16(新発田)第29(会津若松)
宮城福島新潟県人で編成された師団。
日露戦争では第一軍に所属。九連城攻撃、遼陽会戦、沙河会戦に参加。
太平洋戦争では第16軍に属しジャワ島攻略戦に参加、占領後は同地の整備にあたった。
その後、ガダルカナル戦に参加したが総攻撃に失敗、歩兵団長の那須少将をはじめ
三個連隊の連隊長全員の戦死という損害を受けている。
その後、ガ島から撤退。フィリピンで再建。20年2月仏印に転進し同地で終戦を迎える。
703名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/04/18(月) 22:32:33 ID:VqN5ZAkl
>>699
>捕虜の待遇を良くしたのは、会津人で戊辰戦争と関係あるとゆうておられますが、具体的に書いて
いただきたいですね。

軍隊のマナー云々語る上でこんな常識的な事も知らんで語ってたのか。失格だよ。
704205:2005/04/22(金) 00:03:07 ID:4LjoN0xv
>>703
その常識的な事がわかりません。だから詳しく教えてほしいのです。
会津藩出身の柴五郎大将の生涯を描いた「守城の人」村上兵衛著、
光人社NF文庫。その中に、明治10年の西南の役での事ですが、
239ページに
『(中略)多くの旧会津藩士、ひろくは東北諸藩の士族たちに、普通に
起こったことであった。そこには戦争一般の恨みというより、同胞
あい搏つ「内戦」というものの復讐の怨みの深さが滲み出ている。
薩摩兵のなかには、捕らえられて「命ばかりは・・・」と、地に
アタマをすりつけて命乞いをするもとサムライもないではなかった。
「何を言うか。貴様ら、会津で何をしたか、覚えておるか」
そう罵って相手の首を刎ねる声が、夕暮れの空気をふるわせて戦野に
ひびいた、という。』とありますが、この記述は、間違っておるので
しょうか。間違っておるのであれば、それは違うという資料はお持ち
ですか。また会津藩出身の軍人が、捕虜の待遇を良くしたという書籍が
あれば、教えてください。
705名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/04/22(金) 21:57:23 ID:wFmjEwIL
>>704
野蛮な復習をした会津人が捕虜の待遇を良くするはずがないと言いたいのかな?
あんたにはいつも西日本優先の変な蔑視があるなあ。
706名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/04/22(金) 22:08:10 ID:rJlAfsmP
ちなみに会津人の捕虜の待遇云々は明治後期から大正にかけての話だろう。
その人は旧会津藩子弟の元陸軍少将で元会津若松市長だよ。

他に捕虜関連では江本茂夫中佐が有名
707205:2005/04/23(土) 02:31:02 ID:wu9ipPX1
>>705
西日本優先の変な蔑視がある?被害者意識が強いようですね。
すぐ差別という話になる。
東北人の将軍については、今村将軍の例もあり、板垣元5師団長も
人格的には、悪くいっていません。もちろん会津人柴五郎大将も。
会津人の松江豊寿大佐の捕虜待遇も立派ですね。

それを、そもそも明治期の戦争で捕虜の待遇を良くしたのは会津人であり
戊辰戦争と関係あるといわれるので、西南の役で捕虜の扱いは、どうかと
思ったのです。
つまり、いつも自分達の側(夷)は正しく、悪いのは過去の征服者、
大和民族であると思うておられるのでしょう。
708名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/04/23(土) 09:30:34 ID:Q7ABSd/o
明治大正期の捕虜の優遇措置は武士の情けがテーマだったんだろう。
松江豊寿の板東捕虜収容所とかね。

>西南の役で捕虜の扱い

まあ酷い話だがそれがあったから薩摩と会津には現在わだかまりがないのでは?
長州にはあっても。
709名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/04/23(土) 11:50:20 ID:HuDq6jn9
>>705
まず>>704を読んでなぜそう思えるのか説明してくれ
ハタから見てると
あんたの脳内にもう一人の205がいて
あんたに都合のいいことをしゃべってるのに対して
都合のいい反論してるだけにしか見えない
710705:2005/04/23(土) 12:12:34 ID:TaBBYOu9
>>709
「そう思えるのか」の以前の部分の君の指摘が必要だよ。

・野蛮な復習をした会津人が捕虜の待遇を良くするはずがないと言いたいのかな?
・あんたにはいつも西日本優先の変な蔑視

両方か片方かどっちだ?
711名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/04/23(土) 13:25:16 ID:HuDq6jn9
>>710
後半
漏れには広島優先には見えるが
別に西日本優先には見えないが

712705:2005/04/23(土) 13:38:23 ID:dSJGOI1D
>>711
以前別スレ?で民族ネタに反応してたのでカマをかけただけだよ。
それ以上の深い意味はない。



205氏は郷土資料参考だから個人的にはアテにしてない。
自分等の過去のアルバム的記述も多いから悪くは書かない。
まあこの板としては問題ないけどね。
彼の広島部隊が活躍した記述だが、見方によっては苦戦してた部隊の増援をもって手柄に変えてるだけとも取れるし。

713205:2005/04/23(土) 23:49:48 ID:7/wAMiUE
>>710>>712
共産主義的史観のあんたは、>会津が捕虜の待遇云々や西日本優先の
変な蔑視云々等、自らの妄想で恨のスローガンを繰り返す。東北人にも
まともな人もおるのに、あんたの様に妄想と被害者意識で語る者もおる
ので、他板において東北人が叩かれる原因になっとると思う。捕虜の
待遇を良くしたのは会津人で戊辰戦争に関係あるなら、他の地域の人は
捕虜を虐待したとでも言いたいんか?戊辰戦争と、どう関係あるかも説明
しておられん。西南の役の事も、早ういえいや。

郷土資料参考を愚弄するんなら、あんたの参考になる資料を提示せいや。
わが郷土部隊兵士の記述を、馬鹿にするぐらい思いあがるんじゃったら。
>広島部隊が活躍した記述だが、見方によっては苦戦した部隊の増援を
もって手柄に変えた?苦戦した部隊を救援したことばかり書いとらん。
それ以外にも手柄はえっと(多く)ある。増援したと強調しておる
ところをみると仙台第13師団のことか。つまり長州人も含まれておる
広島第39師団に、救援されたんが悔しいんか?
714名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/04/24(日) 02:57:57 ID:Rb821yDQ
>>713
おまいが会津ネタとして反応してどうする
715むべ:2005/04/24(日) 03:07:50 ID:V5RbhPB+
捕虜の待遇については詳しくはないのだけど
会津は戊辰で破れて捕虜の悲哀を十分に味わった。
だからこそ捕虜に対して同情的だったと推測はできる。
捕虜の待遇なんてのは郷土の違いというより司令官の資質だと思う。
兵個人が捕虜に同情的でも上官の命令なら殺さなければならない。
小笠原兵団のある将校は米軍パイロットに
人道許されざる残虐行為をしたと噂されているしね。
だからといってその行為に加担した兵が本当に残虐だったとは言えないだろ。

716705:2005/04/24(日) 07:44:07 ID:iE2M6dqL
>>713
俺は関東人だよこのガキ親父、勝手に東北人にすんなよなァ。

>共産主義的史観のあんたは
あんたの頭の中では共産主義=悪なんですか?
共産主義的発想の恩ケイを一切受けてないと言えるのかな?

>戊辰戦争と、どう関係あるかも説明しておられん
そもそもあんたのレスで松江豊寿の名前が出て来た時点で普通は了解済みだと思うけど。
さすが牛沼氏は察しがついたようで>>715で述べてる通り。

>西南の役の事も、早ういえいや。
薩摩を叩きたくて西南戦争に行った会津の連中の所業が捕虜の待遇の参考になるかよアホ

>つまり長州人も含まれておる広島第39師団に、救援されたんが悔しいん
作戦計画に入ってたか急を要してたのかは不明だけど、何かあったら増援部隊が来る事かもしれない事なんぞ
普通は了解済みだろうよ。そもそも保険みたいなもんだから。
要するにあんたの郷土資料を参考にした上の過大宣伝に疑問を持ってるという事だね。
悔しいとか感情的な問題じゃないんだけど。別に増援が広島じゃなきゃいけないって訳でもないんだろうから。
717205:2005/04/25(月) 02:39:54 ID:oGiNVWE8
>>716
ガキ親父か。相変わらず無礼な罵倒をするのう。東北人と違うて
関東人か。東日本優先で幕府側の会津を弁護したわけか。
共産主義を善悪二元論で解釈しとらんですが。共産主義的発想の恩恵を
一切受けてないといえるか?当時の進化論を社会の発展段階に変えた
理論で共感出来ん。科学的法則のもと民衆も階級単位で手足を動かす
操り人形と考えとる。あなたの郷土資料に対する見方でもその観がある。
松江豊寿氏の名前が出たら了解済みで、西南の役が捕虜の待遇の参考に
ならんゆうんは支離滅裂な思いますがのう。
>急を要したのかは不明だけど、と素直に書かれたあなたを見直した。
長沙作戦のおりの仙台第13師団は、陥落の危機にありながら、隣接の
広島第39師団や、第11軍に対しても状況を知らさなかったが、
軍の航空偵察で、戦況を知った軍は第39師団に救援を命じたわけで、
第39師団の赫々たる戦績のひとコマであり、過大宣伝しておらん。
718205:2005/04/25(月) 03:48:20 ID:oGiNVWE8
>>715
捕虜の待遇には、もちろん司令官の資質が大きいく影響しますが、
民族や地域によっても違いが出てくるとも思います。
先の大戦でも、米、豪、ソ連と違いがあるのではないでしょうか。

兵個人が捕虜に同情的でも上官の命令で殺す。この場合は、
兵士が残酷だったとはいえません。
郷土の戦記や中隊史にも記してありますが、残忍な現場指揮官が
捕虜刺殺の命令を出し、実行した方は、命令とはいえ我々は悪魔で
あったと罪悪感をもっておられます。逆に捕虜の刺殺を拒否した方は、
復員まで進級とは一切無縁だったそうで。
719名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/04/25(月) 23:07:27 ID:/kaRXSB8
お国自慢板っぽくなってまいりました!!
720名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/04/26(火) 22:09:50 ID:9DrDuAqY
往時の陸軍の施設は、今どのぐらい残ってるのかな?

師団本部跡で今残ってるのは
第4師団・第6師団・第9師団・第10師団(異説あり)
第11師団
・・・
ほかにもあるだろうか。
721205:2005/04/27(水) 02:03:25 ID:GBPIuZsM
>>689
司馬遼太郎氏のことを記されておられますが、わしは司馬史観に概ね
批判的です。ただ久しぶりに司馬氏の(雑談「昭和への道」第八回
秀才信仰と骨董兵器、昭和61年NHK教育テレビ放送)ビデオ録画を
見ました。
前半、「アジアは解放されたじゃないかと論理の辻褄の合いにくいと
結果論をいう人もいますが、」といわれ、わしには同意できません。
(司馬氏の意見には、虚言を含め不愉快な事が多い)司馬氏自身は、
結果論を語りながら、よういえるのうと思いますが、後半の英国人
ストーリー氏の意見を引用し、ペーパーテストの秀才(陸大出の参謀達)
批判には、戦争体験者の意見と近く、同意出来るところもありました。

他に司馬氏の意見で「私は、思想というのはありがたいものでなく、
土木機械に過ぎないものだ、と思い始めているのです。思想の奴隷に
なってはどうしようもない。」集英社文庫「手掘り日本史」昭和55年。
あくまで同意出来る部分ですが。
722一広島人2ちゃんねら〜:2005/04/28(木) 11:34:33 ID:6yLUQxUZ
>>720
榴ヶ岡の仙台第二師団本部跡(現在仙台市歴史民俗資料館)はどうなんだろ?「第四歩兵連隊の兵舎跡の建物」とあるが
これを書いた香具師は多分軍事知識皆無だろうから何とも言えんな。
ttp://www.city.sendai.jp/kyouiku/rekimin/
それと旭川第七師団の本部も現存している筈

>>205さん
煽りは放置しましょうや。
ちなみに漏れが無条件で尊敬する昭和期の皇軍の将軍は渡辺錠太郎・今村均両大将です。
205さんはどうですか?
723名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/04/28(木) 14:33:03 ID:IRjl73qs
>>720
16師団(現聖母女学院本館)はどーよ?
724205:2005/04/29(金) 16:27:53 ID:y2JpUaD4
>>722
渡辺錠太郎氏は、2.26で悲劇的最期を遂げた人ですね。
ただ人物、人柄については無知に等しいのです。

今村均氏は、ご自身を「私の性急短気、些細のことにすぐ腹を立てたり
心をみだしたりする性癖は」
あるいは「教官の説明をきいているうちに、ここのところは大切だ。
と考え、気を入れて聞きはじめると精神が統一し、自己催眠にでも
おちいるものか、知らぬまに居眠りにはいっていまう。」
と回想しておられます。このような短所も人間くさいのですが、
独裁型の人とは違い、人の意見をよく聞く人柄であったので
名将にふさわしい人物だと思います。
郷土資料でも「少くとも私が知る範囲の将軍(師団長以上)のうち、
明治の健軍このかた脱帽して名将軍を冠したい人は、今村将軍のほかに
見当らない気がする」といわれるかたもおられますしね。
725むべ:2005/04/30(土) 14:01:17 ID:ycbbS4oO
石原莞爾、栗林忠道の両将についてのみなさんの評価をお聞きしたい。
726205:2005/05/01(日) 00:46:13 ID:WMAD2uE4
>>725
栗林忠道氏についても、人物、人柄についてはよく知りませんが、
硫黄島戦では、郷土から独立混成17連隊第3大隊が戦っています。

広島第39師団で、(宜昌の最前線から多数の兵士を抜く事は至難で
あったが)冬季作戦〜宜昌作戦を戦った13年兵から昭和18年1月と
3月二回に分けて帰国、その後、再招集兵として硫黄島で散華した人も
おられます。生存者がおられず、郷土資料には記述が少ないのです。
ただ郷土兵に関しては、宜昌でも「13年兵はベテランであり、戦闘は
経験が物をいう。戦闘度胸と戦機を見る眼は十分。後輩を鍛えあげた。」
とあり、硫黄島の全ての兵士が、弱兵揃いとはいえません。
栗林氏の評価も、当時の兵士が語っておられる資料が見当たらないので
判断し難いのです。
727205:2005/05/01(日) 01:53:43 ID:WMAD2uE4
続いて石原莞爾氏について、今村均氏がキリスト教と親鸞の教えに影響を
受けている(浄土真宗、安芸門徒の多い広島の兵の心を、強くとらえた
部分もあるかも知れぬ)のに対し、石原氏は日蓮宗の影響を受けていると
いう比較も出来ます。
石原氏は「世界最終戦争論」で中華文明に親近感を持たれ、日中を中心と
する北亜細亜諸民族が、世界の中でも最も優秀で、西洋の覇道主義に対し、
我々は東洋の王道主義を求め、そして日米で最終戦争となるであろうと
されておられ、風土論もあり、なかなか興味深い考えですが、わしは、
大雑把にいえば、東洋の共通性があるといえども、日本と中国はそれぞれ
違った文明圏であると思うております。

むべさんは、東洋の王道楽土を求めた石原氏の「世界最終戦争論」に
ついて、どのように考えておられますか?
728205:2005/05/04(水) 01:01:09 ID:SdrQSF/p
石原莞爾将軍の「最終戦争論」経済往来社、昭和47年から引用すると、
「中国の王道、米国の覇道であるが、日本は無道のため戦争に敗れたので
ある。(中略)日本がもし少なくも北清事変(広島第5師団が参加した)
当時の道義を保っていたならば、蒋介石もあの抵抗を持続することが
困難であったろうとは中国人から、たびたび聞かされたところである。」

「日本民族は既に一面、欧米覇道の文化を取り入れるとともに他面、
アジアの王道文化の本領をもっているのであります。今後日本が世界の
文化に対し、西洋覇道の犬になるか、あるいは東洋王道の干城になるか、
それは日本国民の慎重に考慮すべきことであります。」
「日本民族は新生活の創設に当って朝鮮人に多くを学ぶべきであり、
(中略)日本は朝鮮統治四十年を通じて、朝鮮人の民族意識を抹殺
しようとする愚策を強行して来たが、(中略)」と(P168〜171
引用)概ね東亜諸民族の道義的結合を唱えておられる。
729むべ:2005/05/05(木) 22:09:25 ID:aVnW0++M
「西洋の中心はやがてアメリカに移り、東洋の中心たる日本と最終戦争を
闘うことになる」
これが石原中将の「最終戦争論」の根幹でしょうか?
満州建国はこの最終戦争に備えての国力の充実のためということになりますが
石原の本意を理解して支持する者は少なかった。
いたずらに中国本土の奥深くまで攻め入ってみたりソ連にちょっかいを出してみたり。
五族協和の満州国建国の理念に忠実であったなら日米決戦は違った形になっていたと思います。

730一広島人2ちゃんねら〜:2005/05/06(金) 12:09:59 ID:NA9IyA5u
>>724
渡辺大将については、「棒給の半分が丸善で購入する洋書の代金の支払いに消えていた」とか、「陸軍内では「文学博士」の
異名があった」、「天皇機関説、結構ではないか」発言などから今村大将にも通じる陸軍にはめったにいない理知的な将軍と
いうイメージがありますね。

>>722に自己レス。
旭川は偕行社跡ですたorz
731205:2005/05/08(日) 03:21:28 ID:/40YgzIS
>>729
おそらく最終的に日米の東西両文明の対決となるということでしょう。
石原莞爾氏の「最終戦争論」は文明論でもあり、戦後の「新日本の建設」
で、最終戦争に備え、都市解体し、簡素生活の徹底を唱えられ、これを
近代思想から細部を批判する方もあるでしょうが、文明論として読むと、
石原氏はスケールの大きい人物ともいえます。
732205:2005/05/13(金) 02:03:13 ID:OB7KYz0c
731で書いた最終戦争に備え、と言うより石原莞爾氏は、都市の解体、
簡素生活を、世界に先んじて次代文化の見本を創造する日本の責務と
しておられます。

石原六郎氏の(石原莞爾氏の弟)「石原莞爾の思想と人」から
『「戦争というものは起こしたいと考えても必ずしも起こらなかったし、
反対に起こしたくないと思っても起こったことがあった。」とは
石原莞爾の語ったことである。(中略)戦争が人間の理性では
左右されないものであることを端的に述べているとも言えよう。』
>>730
沼田多稼蔵氏の『日露戦争新史』芙蓉書房出版、6ページに
渡辺錠太郎氏が序文を書いておられますね。
733名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/05/13(金) 02:38:57 ID:X7AW+E5T
競艇に負けた親父が二人、西郷が幾らのもんだ!!
といきまいていました、やけ酒飲んで。
落伍者の末路ですが歴史の一時期はよく読んでいるようです。
但し雑誌は(丸)と思います・・
734205:2005/05/16(月) 23:30:58 ID:ompEPBa7
今村均将軍は、敗戦の大原因(日本民族の宿命)で、
「わが国は、取るべき、なすべき準備手段をやらなかったことを反省は
するが、こうまでなったのは、民族の宿命であったという考え方が、
どうしてもとりのぞけんでいる。」と述べられておられます。
しかし宿命論では、主観的で客観的でないと考えられ、理性的に敗因の
原因として、述べられたのが、(1)軍首脳部が、近代戦争の性格に
そぐわない思想で、戦争を進めたこと。(2)陸海軍の対立、
(3)以降は、補給の限度、精神主義の編重、軍隊の慈悲心欠如と、
以前に、このスレに書いております。

「戦場に出るとたいていの人間は運命論者になるようだ。」
「戦場では、誰もが大きな宿命的な力に支配されている事をかんじる。」
と戦記にもあり、戦争体験者のかたからも聞きましたが、戦争(闘い)と
いうものは、予測が出来ないもので、それを理性的判断で、解釈出来ない
宿命(運不運を含め)という部分もあると思います。
735205:2005/05/20(金) 03:43:04 ID:DEx1Mm9r
今回は、師団長でなく、連隊長について。
広島231連隊の初代横山武彦連隊長は、広島県高田郡吉田町出身。
冬季作戦のおり、天皇陛下のご信任が厚かった戦闘師団である○○師団は、
高城近くまで迫ったが、逆に敵の反攻にあい警備隊近くまで、追尾されて
いた。○○師団の師団ぐるみの苦戦に、救援におもむいた横山連隊長は、
「我が連隊だけで、こんな敵ぐらい追撃してやれるのに」と言われ、
我が連隊だけで、他の戦闘師団以上の戦闘力を持つと、広島郷土部隊に、
絶対的な自信を持っておられたのであろう。宜昌作戦においても、
いけいけの連隊長でもありました。

横山連隊長は、その後広島第70師団の第62旅団長に着任した。
しかし悲運なことに敵の狙撃弾により、その生涯をとじた。
横山連隊長により、部隊は編成創立の基礎を固めた。
736205:2005/05/21(土) 03:06:16 ID:IFiL3bv+
第二代広島第231連隊長は、梶浦銀次郎氏で京都市出身。
梶浦連隊長の健兵対策は、蚊蝿の撲滅、便所内に消毒液の設置。
そして訓練強化。
梶浦連隊長は、「防御は攻撃以上兵一人一人の戦闘能力が勝敗を左右
するので、寸暇を利用して教練、射撃、銃剣術を奨励した。我部隊の
戦力は、一中隊で敵一個師団に対せねばならぬ、従って一人で数十人を
斃さねば我が任務は果たせないことになる。」と語られた。

梶浦連隊長は、「宜昌は一個師団で守って苦戦したところ、これを
我が連隊だけで守るのだ。一人でも死んではいかん。生き抜いて陣地を
守れ。圧倒的な敵の火力下で防御戦闘する為には、一人一人が強い信念で
戦わなければならない。」と行く先々で諭した。

「防御戦闘に成功した、我歩兵ニ三一連隊の名声は南京総軍も認めた。」
とも述べられておられます。(南京総軍で広島231連隊は、軍紀厳正で
戦闘に強い部隊だと皆よく知っていた。軍が師団単位で指令を出すので、
一部隊がこれだけ有名になるのは、きわめて珍しい。)さすがに広島
第11連隊の弟部隊だと。第231連隊は、良き連隊長に恵まれた。
737むべ:2005/05/22(日) 02:57:38 ID:W9n3U+gc
チリ陸軍で八甲田山の悲劇再び。
738むべ:2005/05/24(火) 01:43:31 ID:jWzipIR4
八甲田山に入った第八師団の二個連隊のうち、
青森第5連隊は199名の犠牲者を出し、
弘前第31連隊は訓練の行程210キロを無事踏破。
両者の違いは指揮官の資質の差だと言われている。
739205:2005/05/25(水) 03:07:21 ID:E2+0cBFF
>>738
八甲田山については、詳しく知りませんが、興味深いところを。
第31連隊では、宇樽部で地元の村民女性が先導役となり、彼女は、
悠然と皆を導いた。各要所でも、道に慣れた地元民を雇い、
通過する村々で食糧、酒等が差し出されるという歓迎ぶり。
荷物は少なくしその都度購入、地元村民の協力という要素が大きい。

それに対し第5連隊の方は、田茂木野で村民の案内の申し出に
「駄賃がほしいのか」と罵倒、そして携帯した食糧は凍結し、
昼食をとれなかった。といったところでしょうか。

指揮官の資質とは、経験者(この場合は地元村民)の意見を良く聞き、
彼等を信用して任せるということでしょう。
740名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/05/28(土) 00:12:02 ID:8/IyDGmf
おいおまいら、
いくら外地編制部隊だからって、平壌の第30師団は無視ですか?
741205:2005/05/28(土) 03:03:19 ID:d7Fj1e3j
>>740
第30師団(豹)は、広島第5師団から外された福山第41連隊が、
編制に入り、昭和19年5月平壌を発ってミンダナオ島に至り、
その後レイテ島ハロ付近で戦闘。それは283で書いております。

無視してはおりません。ただ勝ちいくさではないので、戦闘において、
いかに善戦しようと、戦勝でなければ都合のよい、言い訳にもなります。
多くの犠牲者を出しているので、心情としては、つらいのですが。
742筑豊人@東京:2005/05/28(土) 03:13:16 ID:OG8NhlK2
>>515

チレスだが棟田博のことだろうね。
一時彼の作品(有名ドコでは拝啓天皇陛下様とか)にはまって、実際岡山市や
津山市とか尋ねていったものだ(行って気付いたが彼は湘南に移り住んでいて
その地で没した)。
743名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/05/28(土) 08:18:54 ID:Qvt+EDKd
福島県いわき市本籍だと
旧陸軍ではどこに配属されたの?
水戸?仙台?
744むべ:2005/05/28(土) 23:47:16 ID:DU/ofigh
フィリピンの元日本兵で気になったのは山川中尉の階級。
今、87歳なら終戦時は27歳。
27歳で中尉ということは大卒後、甲幹で少尉任官、
3年で中尉昇進というところかな?
優秀な人だから60年もジャングルで生き残ることができたんだろうな。

>>743
いわきだと会津若松だろ。
会津の連隊は強い。
745むべ:2005/05/28(土) 23:58:48 ID:DU/ofigh
>>741
41連隊はニューギニアから引き抜かれた部隊で
オーレンスタンレーでかなりやられていた上に
ミンダナオ上陸後は米軍が来襲してからは二個大隊投入、
その後、戦線が不利になると更に二個大隊と
戦力の逐次投入が行われた。
これでまともに闘えと言う方が無理。

746名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/05/29(日) 01:54:51 ID:W+QKLBfb
>>743
会津はガダルカナルでも軍旗を先頭に突撃したりしてる
747名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/05/29(日) 19:40:34 ID:0SFDViyr
いわき市民としては会津より方言が似てる水戸のほうに親近感あるんだけど
戦中の人はどうだったんだろ(今のいわき市はなかったけど
748名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/05/29(日) 23:31:40 ID:L62rCbwL
>>747
今よりもその感じは強かったんじゃない?
749205:2005/05/30(月) 01:55:35 ID:yYUl4f7J
>>745
第41連隊の犠牲者の多くは、スタンレーでなく、ギルワ以降でしょう。
>闘えと言う方が無理。しかし「古来兵法で言う、運も実力のうち」
であり、(日本人の滅びの美学もあろうが、その価値観よりも、
広島人は、負けず嫌いの方が、上回るのであろう。)玉砕すれば、
善戦しようが、勝負においては、敗者となるのです。
指揮官にしても、今村将軍が名将なのは、不敗という面もあるでしょう。

広島第39師団の両角業作兵団長は、元会津若松第65連隊(白虎連隊)
長。長沙作戦のおりの昭和十六年十月四日、「第六十五連隊は、危機に
備え軍旗を司令部に奉還した。」とあり激戦になっている。しかも宜昌で、
会津第65連隊は、仙台第104連隊、高田第58連隊より前面で闘って
いる。十月六日以降、広島第39師団の救援となったが、敵の反攻で、
宜昌(13師団)沙市(39師団)への敵兵力投入は、
実に10倍〜20倍の兵力で、特に広島231連隊の一部守備地へは
30倍の敵兵力となった。その後会津第65連隊の守備地は、
広島第231連隊の第1大隊が交代した。広島と仙台師団区の
東北南部〜越後は、幕末以来宿縁か、とも思います。
750むべ:2005/05/30(月) 23:38:46 ID:KtLubUB3
お気持ちはわかりますが、
勝敗にこだわるのは英霊に対して酷と言うものでしょう。
竹槍で飛行機を落とせが如き命令を受けてどう闘えばいいのか。
個々の戦いで見れば確かに勝った部隊もあったでしょうが、
全般的に見れば日本は惨敗したのですから、
むしろ、勝ち負けにこだわらず困難な状況で全力を尽くした兵たちを
称えるべきだと思います。
751205:2005/06/01(水) 01:33:12 ID:D115VSgV
>>750
英霊に対して責めているのではないのです。
勝負は、喰うか喰われるかであり、全体論(個人ではなく)として、
やはり敗者には、弱点があり、不運をもたらしたと思うのです。

我が国の惨敗には、軍隊の社会にも問題があったともいえます。
戦記にも、『日本軍特有の悪弊は、陸軍士官学校に留学した蒋介石が、
高田連隊に体験入隊をしたとき、理由も無く、毎夜のように古参兵に、
殴打され、負傷者まで出る日本陸軍の暴力制度を見て、
「この軍隊は弱い」と同僚に語ったことが伝えられているが、
日本軍の軍隊社会の欠点で、上に諂い下に傲岸卑烈な根性、面従腹背の
要領の良さ、建制が維持出来なくなると、南方戦線で、密林や山獄を
まるで乞食部隊のように放浪し、これが日本軍かと眼を疑わせるような
泥溺性を暴露して、正に蒋介石の予言通りとなった。』とあります。
まあ、蒋介石氏の国民党軍も、奴隷制度と変わらなかった訳ですが。
752205:2005/06/01(水) 03:06:57 ID:Pccnbox4
作家の伊藤桂一氏は、「いじめられ鍛え上げられ兵隊は強くなり、
私的制裁に参っているようでは、戦場で脱落する。」とされながら、
八路軍は思想による同志的結合により、「中共軍には、私的制裁など
無かったが、実によく戦った。」「私的制裁は、天皇の軍隊が思想の
軍隊に及ばない、というひとつの人間的弱点を示しているようである。」
伊藤氏は、思想を強調しておられますが、八路軍は同志的結合により、
精強であったと思います。

それと伊藤桂一氏は、「高田の歩兵第58連隊では、私的制裁という
ものなど、ほとんどなかった、という話を耳にしたことがある。
確認したわけではないが、おそらく東北や裏日本の部隊では、
東京、大阪のような私的制裁のあり方ではなかったと思う。
かりにあっても、よく人情の通った上でのそれではなかっただろうか。」
と、蒋介石氏の高田連隊で体験と食い違う。
伊藤氏は、東北兵賛美者とも思えるので、美化しておられる部分も
あろう。ただ地域、郷土により、それぞれ特徴はあったと思います。
753205:2005/06/05(日) 01:18:04 ID:1IPra6p+
647で、福山232連隊のI軍曹、後の曹長が、時の中隊長から
不興を買い中隊から追われ、S挺身隊要員となったと書いたが、
特殊部隊であるS挺身隊についても書いておこう。編成において、
志願者によるものであったが、I軍曹のような例もある。
それと中国人帰順兵40名も配属。教育隊には陸軍中野学校卒の
○○中尉がいた。
訓練内容は、家屋侵入の方法、尾行、偵察の要領、中国人の風俗、習慣、
変装等。教練は、中国軍式の各個訓練、武器なしでの潜入、飛行場爆破、
倉庫爆破、橋梁爆破、護身術(空手、棒術)、秘密兵器としては、
万年筆型拳銃、缶詰型爆弾、導火炸(導火線の一種で、点火すると、
一秒間に60メートル走る。直径10センチ程の材木なら、4、5回、
巻いて点火すると、真二つに切る威力があった。)
顔の洗い方は、両手を顔にあてて、顔を廻しながら洗面する。
間違っても手を動かしてはならない、日本人ということが忽ち
見破られてしまうからである。他に、用便後ペーパーを使用する習慣は
なかった。(これは当時のロシア人も同じく、大陸の民族は、
余程高貴な階級でない限り、大便の後でも、チリ紙は使用しない。)
また当時の中国人には、入浴の習慣はない等。続きは以降に。
754名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/06/05(日) 09:01:19 ID:DUYzClyh
しかい205は痛いな
軍事版まで恥さらしに行くなよな
755205:2005/06/06(月) 03:54:55 ID:JPrEjHRz
>>754
どこが恥をさらしとるんか。他地域の部隊と比較せず、具体的戦闘例を
いわんで、強いゆうて妄想ごっこの自慰をした覚えは無い。なんで、
あんたは、行くなゆうて人に指図するんかいの。

広島第39師団は、進攻こそしなかったが、湘桂(大陸打通)作戦を
牽制し、孤軍となり執念の中国軍の空陸一体の大反攻に遇う。
しかし軍の要請で第39師団から特殊部隊である挺身隊を編成し、
湘桂作戦に参加した。
挺身隊の残酷な話だが、『中野学校卒特務機関出身の○○中尉は、
憲兵から貰い受けた敵のスパイに対し、「青酸カリの実験をしろ」と
命令した。○○中尉は、戦闘では臆病なくせに、戦闘が無いときは
残酷なことを平気でやる。命令されたM上等兵は、(卑怯者、
自分でやりあがれ)咽喉まで出かかった言葉を我慢すると、
「体調が悪くて出来ん。△△お前がやれ」○○中尉に面あてがましく、
△△衛生兵に頼んだ。(残酷な為中略)「実験成功、湘江にほうり込め」
今度は××上等兵にお鉢が廻って来たが、彼も流石に河に捨てるのは
忍びず空屋の中に寝かせてきたとM上等兵に報告した。』
756むべ:2005/06/06(月) 23:17:32 ID:jnlOwxBr
先日、原爆投下後の広島の復興をテーマにしたNHK特集を見ました。
逆境にもめげない広島人気質が戦中にも戦後にもあったということでしょうか。

生体実験といえば遠藤周作の「海と毒薬」は九大の生体解剖がテーマでしたが、
戦争は人間を狂わすもの。
○○中尉も地方では常識人だったはず。
彼も戦争の狂気に犯された一人だったのでしょう。

757名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/06/07(火) 21:29:06 ID:Z+hvB9Um
広島といえば第五師団!!
地下司令室が残ってるそうな・・
http://www.h7.dion.ne.jp/~mm76/chuugokugunnkanku.html
758名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/06/07(火) 22:23:18 ID:L8rIDtI7
鹿児島行きマース!
鹿児島と言えばーーーーー・・・・・・・・

( ゚д゚) ・・・・・・

(つд⊂)ゴシゴシ

(;゚д゚) ・・・・・・・・・・・

(つд⊂)ゴシゴシ
  _, ._
(;゚ Д゚)・・・・・・・・・・・・・・・・・・ワカンナイヤ・・・。





orz・・・・スマソ・・・アホでスマソ・・・
759205:2005/06/08(水) 01:02:58 ID:YcVVD1Lb
>>756
広島人気質を誉めていただき有難うございます。当時、大学生であった
親類も原爆で亡くなりました。広島人は、原爆の被害にも闘志を失っては
おらんかったのですが、259でも書いたように、米兵捕虜を広島市民が
リンチしたことは言い訳出来ません。明治期、軍紀厳正を誇った広島の
郷土でむごいことをしました。二度とこのような過ちをしてはならん。
アメリカ人に対し申し訳なかったと思います。

挺身隊の続き。『挺身隊は、敵将校を捕らえた。この将校は挺身隊に
協力的だが、未だ潜行任務が残っており、挺身隊の存在、編成を知られた
以上、無事放任は出来なかった。中国人陳伍長はM上等兵に捕虜の将校で
ある黄大尉を仲間にしてやって下さいと懇願した。中国人協力兵は、
戦闘には非常に協力的であったが、無辜の同胞が殺されるのは堪えきれない
屈辱であった。M上等兵は、○○中尉にかけ合いに行ったが、中尉は、
特務機関出身だけに、何の用で来たかを読んでいた。
「M、俘虜を助けることは出来んぞ。」
○○中尉を睨んでいたM上等兵は、ドスの利いた声で静かに云った。
「戦闘で敵兵や弾を怖れるMでは無いが、今後、住民や捕虜の処刑には
一切従がわんから承知しろ。協力兵が謀反を起こさん保証は無い」
M上等兵の云った「謀反」の言葉は効果的であった。「考えて見る。
幹部に相談して善処する」隊長の面子から、即答しなかったが、暗に
黄大尉を助けるというも同然だった。』
760205:2005/06/12(日) 02:44:58 ID:z1AA3C8T
上記のM上等兵は、一等兵の時から、威猛高な△△中佐を殴り、家に
伝わる古刀を携帯し、「兵が軍刀を所持するのは服務違反」という
将校には「腰に吊るしておらん、刀を盗ろうとしても只では渡さん、
取れるもんなら盗れ」と云った。ところが、×新任見習士官は、「貴様、
将校に反抗する奴は切り捨て御免ということが分かっているか。」と
本気で軍刀を抜いた。M一等兵は「昨日今日戦地へ来やがって、将校風を
吹かすな、戦地と内地を一緒にすな。インチキ軍刀より、兼門の古刀が
斬れるど。」と喧嘩になった。
先輩将校が「M止めえ」と云って来たので、気が大きくなった見習士官は、
再びM一等兵を威かした。M一等兵は、将校の顔を立て下がろうとした
のに、見習士官の横暴な態度に堪忍袋の緒を切り上官暴行となった。結果、
部隊内の事件を外部に公表することは得策ではないという高度な配慮で、
M一等兵は、軍法会議送りにならず済んだ。

一方○○中尉は、特務機関出身で戦闘慣れしておらず、実戦の指揮の
出来ぬ男で「何故本隊の先頭に立たぬか。」M上等兵が憤慨して
飛び掛らん勢いであったのをI曹長が制した。647でも書いたよう、
勇敢なI曹長もM上等兵を押さえることによって自分の心を制した。
戦闘は、広島231連隊出身の第一小隊長のS中尉が代って指揮をとった。
761205:2005/06/17(金) 00:57:54 ID:c4Wa19+q
M上等兵は、その後戦闘で捕虜にした中国軍の副師長を誤って殴殺し、
終戦後戦犯に問われた。第97旅団長の梶浦銀次郎少将は、広島第231
連隊長以来の部下であるM上等兵と会ったことは無かったが、乱暴者
ながら、有能な兵士であることをよく承知していた。
「Mを殺させてたまるか」と梶浦少将は、M上等兵を旅団司令部に呼び、
直接会い、M上等兵に新品の懐中時計を贈り、特任の偽陸軍少尉に
任命した。
しかし、やはり素性がばれた。M偽少尉が危うく死刑になるところを、
以前助けた黄大尉により、証拠不十分となり、無事帰国出来た。
(黄大尉は、挺身隊と武昌まで共に行動したが、武昌で残留を機に国府軍
に奔っていた。黄大尉は、M氏に救われた経緯から、兵卒を馬鹿にした
趙少将が武装解除に抵抗し、M氏を罵倒した為に拳銃で殴られ、
死んだのは当り所が悪かった為で殺意があった訳ではない。との力説
弁護による。)
762205:2005/06/24(金) 01:35:52 ID:uk8Ralm7
>759にある住民の処刑について「○○中尉の中国人の皆殺し命令は、
絶対であった。S挺身隊の行動で、野営でなく家屋に宿営した場合、
その家族が敵に通報すると包囲殲滅されるので、家族を皆殺しにする。
銃殺すると近隣の村か敵に知られるので、絞殺か青酸カリを使用する。
戦闘で敵兵を殺すのと違って、無抵抗な住民を殺すことは、挺身隊の勇士
(編成と同時に日本軍人でなくなる。戦死公報、遺骨の回収は出来ず、
目的達成の為には手段を選ばず自己を滅却す決死隊である)と雖も良心の
呵責に堪えず、誰もが指名されることを嫌がった。中国人協力兵も
宿営地の住民が、抹殺されていることを、こんな筈ではなかったと
日本軍に不信の念が募りつつあった。」という事情があった。
763205:2005/06/28(火) 02:17:27 ID:RXMknFQ+
また日本軍の恥部ですが、伊藤桂一氏の<戦場の女たち>から、
『これはビルマでの話だが、某兵団で、どうしても強姦事件が絶えないと
みて、内々に強姦を認めた。(中略)しかしビルマは親日国で、かつ民衆は
熱心な仏教徒であり、強姦などは行えない。残された方法は証拠の湮滅ー
つまり、犯した相手をその場で殺してしまうことであった。これによって
事故は起こらなかった。
殺さねばならぬ、という責任が兵隊をひるませたか、それとも常に
殺しつずけたから表面の問題化しなかったか、そこまではわからない。
ところが、一婦人が暴行された、と軍へ訴え出てきた。裾をまくって
犯される形までしてみせた。やむなく調査したら、兵長以下三名の
犯人が出てきた。彼等は顔を覚えられているし、三人で輪姦した、
と白状した。准尉が「なぜ殺さなかったか」ときくと、三人は「情に
於いてどうしても殺せなかった」といった。よって軍法会議にかけられ、
三人とも降等され、内地に送還された。
一方では強姦したら殺せ、といい、一方では、発覚すると厳罰がくる。
奇妙な軍隊の規律である。』
764むべ:2005/07/01(金) 01:03:51 ID:3IPtpHjz
命が軽くなるのが戦争でしょう。
サイパンで民間人の女性が身を投げる映像をみるたびに
何故、投降しなかったのだろうと思います。
自分の命でさえ軽く見るのですからましてや他人の命は鴻毛の如しでしょう。
それでも当時の日本は法治国家として最低の機能だけは働いていた。
だからこそ強姦して殺せば厳罰が待っていた。
国共内戦の時、アメリカから軍事援助を受け圧倒的な軍事力を誇っていた
蒋介石軍が共産軍にわずか5年で敗れたのは
中国古来の伝統というべき略奪がはびこっていた。
共産軍は略奪をしないとう一点だけで民衆の支持を受け
蒋介石軍を大陸から追い落とた。
日本軍も共産軍同様軍記は厳しかった。
今では語られることはありませんが、
中国民衆に熱烈な歓迎を受けていたいたことは事実です。
一部不心得者の行為がクローズアップされて
それが日本軍の本質だと言われていることは残念でなりません。
765205:2005/07/01(金) 23:02:46 ID:OriSfy3B
>>764
当時の日本は法治国家でしょうが、ビルマの件で伊藤桂一氏は、
「この兵隊たちに強姦必罰というような公式は、いかに軍隊でも
押しつけられに過ぎなかった。」強姦をしてバレれば、厳罰となったが、
殺しても(証拠湮滅)バレなければよいということです。
上から押しつけられた法などは、いくらでも抜け道があるもので、
兵士自身が規範を持つか、上に立つものが、自ら規範を示すしかないと
思います。
共産軍は略奪をしないという一点だけではなく、士気、戦術、同志愛に
おいても国府軍に勝っていた。日本軍は、全体的に軍紀においても共産軍
より劣っていたと思います。
中国民衆に熱烈な歓迎かどうかは別として、戦記にもあるよう、日本軍が
撤兵したら、国府軍と中共軍が抗争し、地方軍、土匪が蜂起して、折角
平穏であった中国に戦乱が起こるであろうと憂慮する人達が多かったで
しょう。
766205:2005/07/02(土) 00:16:47 ID:DiqjOvLb
伊藤桂一氏は、「戦場で、焼く、犯す、殺すーという悪事が行われるのは、
戦闘によって同僚が殺され、その怒りが敵や、敵地の民家に向けて発散
されるからであろう。(中略)積極的に戦場でのモラルを確立しようとする
動きは、日本軍においては稀薄であったといってよい。(中略)兵隊の
心情は、もともとは良心的であり、かなり苦しい殺伐な行動を強いられ
ても、なお善悪を判断する良識はもっている。それが崩れるのは味方の
出血によって報復的感情に駆られる時か、兵隊は、怒らせて使え、という
指揮官の術策に陥ったりする場合だろう。」
伊藤桂一氏は、歩兵13連隊で少年兵を殺した例を挙げ、輜重の伍長が
「君達はそれでも日本兵か。こんな赤ん坊みたいな者を殺して気持ちが
いいのか」と抗議すると相手は「第一線を知らぬ輜重隊が何をいうか。
毎日戦友が殺されてみろ。仇を討つのがなぜ悪い」と口々にいう。
伍長は「無抵抗で降参した者を大勢で殺すのは卑怯だ。」すると相手の
一人が「お前は俺達よりチャン(支那兵)の方が正しいというのか」と
つめよる。伍長は「俺はただ君達歩兵は武士道というものを重んじて
いるだろうと思ったからなんだ」
ただ伊藤桂一氏は、九州兵団について勇猛と評価しながら、第6師団が
苦杯を嘗めた第二次長沙作戦での記述が「熊本兵団戦史」にないと、
隠蔽体質?を批判し、他に九州兵団の女関係であるとか。東北兵団フアン
の伊藤氏は、九州兵団に若干厳しいともいえる。
767205:2005/07/08(金) 01:15:24 ID:83Rujl3y
伊藤桂一氏の<戦場と女たち>から「慰安婦も多くは、欺されて連れて
こられたのである。女っ気がないと、夜も日も明けないのは九州兵団
らしく、久留米の「龍兵団」は北ビルマまで女を連れて行っている。
ついて行ったのは大半が天草女で、おそらく好きで?ついて行ったの
だろう。(雲南の戦闘については中略する)日本の女たちはみな毒を
あおいで死んだが、同行していた朝鮮女たちは、死なずに雲南軍に降った。
このことは朝鮮の、日本に対する姿勢と思想を、端的に象徴しているよう
である。(中略)彼女たちの心底には、本能的、無意識的に、日本への
憎悪と抵抗があったのである。(中略)しかし、朝鮮の女性たちが、
慰安婦として機能的にはきわめて良質であったことを、兵隊たちは知って
いる。女性の機能の優劣は、民族のもつ悲劇性の度合いに比例するのでは
ないか。研究したわけではないから、これ以上のことはわからないが。
(中略)中国女は、相手を信じ切った場合、躊躇なく自身を賭ける
盲目的な情熱を持っていた。狡猾打算というものを持つことが少なかった
のだ。」と後半は、比較民族論をしておられる。
768205:2005/07/09(土) 00:48:09 ID:GVRJGsbx
郷土資料から雲南の拉猛慰安婦について「彼女たちには勲章も墓標も、
いやその名前すら記録になく、悲運にも彼女らは、各地を訪ねる慰霊団
からも完全に黙殺されている。これでは永久にその霊魂は浮かばれる途が
ない。もし自分が彼女らの立場だったらいったいどんな気持ちがする
だろう。守備部隊長の金子少佐は、再三にわたり慰安婦に救援どころか
弾薬糧秣の補給すら望めないと事情を話したが、頑として彼女らは動かな
かった。最後のトラック便にも乗らず、決意は堅く『私達も兵隊さんを
手伝います。お国の為と思えばこそ、ここまで来ているのです。兵隊さん
達と最後まで一緒にいさせて下さい。私達も兵隊のつもりです。』
6月7日、患者を除いて960名ほどのこの陣地は敵の攻撃にさらされ、
慰安婦達も衣服を鮮血に染めて必死の活動を続けた。戦傷者の収容手当に、
陣地の補修に、あるいは伝令にと。だが、激流の中の1本の竿に等しく
玉砕は時間の問題と判断された。
敵側も業をにやし蒋軍最精鋭の栄誉1師(栄誉1師が、長沙作戦のおり
広島第231連隊11中隊の守る嶺河口陣地を数十倍の兵力で包囲攻撃
したことは以前に書いた)を投入。この猛攻も紙一重で喰いとめた。7月、
敵は火炎放射機やロケット砲等米軍新鋭兵器を装備し、第2次総攻撃開始。
その兵力比1対30。それでもなお死闘を続け、8月7日ついに200名に
減少しながら陣地を死守。敵軍は地下坑道を掘り進め、20日夜、ついに
我主陣地の直下に達し、爆破後夜襲し、これで主体の戦闘は決着した。」
769205:2005/07/09(土) 01:39:24 ID:+TzMAL5c
上記の続き、「9月6日に金子少佐が爆死。翌7日には残存兵力約80名
となり隊長代理の真鍋大尉は傷病兵に自決を命じた。青酸カリによるもの
だった。この時である。『あなた方は、お逃げなさい。日本に義理だて
することはないわ。命を大切にしてお国に帰りなさい。私達は兵隊さんの
後をここで追うから』日本人慰安婦が、朝鮮人慰安婦に白布をかかげて
投降をすすめた。そして青酸カリをあおったのである。突入した中国兵が
数えたとき、その遺体は七体だったという。この情景は、中国軍に投降した
朝鮮人慰安婦が伝えたものである。
のちに守備隊には栄光の感状が授与された。当然ながら彼女らのことは
一文字も記されていないし、そして現在でも無視され忘却されたまま
なのである。彼女達は、永久に路傍の雑草に咲くあだ花だった。
ただ一つ疑うことのできぬ真実は、彼女らも同じ『人間』であり国に
殉じたことである。いま彼女達の霊前にどのような言葉を捧げれば
よいのか。なんとも哀れでうら淋しく悲しい気持ちが、胸を去来する
だけである。騰越も9月13日玉砕したが、慰安婦十数名が『戦死』を
遂げ、この陣地でも拉孟と同じく朝鮮人慰安婦を投降させている。
両陣地の連絡はないのに、符合した行動となった点を注目したい。」
770205:2005/07/09(土) 02:21:04 ID:+TzMAL5c
「慰安婦もこと朝鮮人については事情が違う。彼女達はいわば日本人に
だまされて強制的に連行されたものが大半である。16〜20歳前後の
若い挺身隊の美名のもとかき集めて送った。だから日本女からすれば、
彼女らを悲惨な谷底へ突き落としたのは同胞の日本人との気持ちがある。
朝鮮女からすれば、仇敵ともいえる日本人に騙され、しかも日本の男に
肉体を提供しているわけだ。日韓併合は態のいい異民族支配の征服と
いえる。数枚の紙切れ条約で異民族が融合するはずがない。この
被征服者の反発意識は、朝鮮女にも必然的に強く潜在していたはずだ。
つまり日本人に対し怨み骨ずいに徹していたであろう。日本人慰安婦が
叫んだ『日本人に義理だてすることはない』の一言こそは、歴史的に
重さがある。」iA隊の記録の付録から要約しました。
771むべ:2005/07/10(日) 01:25:11 ID:JSK8b+Am
朝鮮人慰安婦がだまされて強制的に連行されたかどうかは大いに疑問があります。
ここでは多くは言いませんが、彼女らがそれほどか弱くだまされるほど
愚かだったとは思いません。
戦後の日本で進駐軍のパンパンになった女性たちは例外はあるでしょうが
貧しさから抜け出したいと言う自分の意思と信念の強さを感じます。
女性、ひいては人間とは民族、異民族という社会学上の区分ではなく
現実の世界に生きています。
自分が豊かになる武器が肉体以外にないと悟れば
進んでそれを提供するというある意味でのしたたかさ、現実主義の中で生きています。
朝鮮人慰安婦も同じでしょう。
慰安婦として強制されたという彼女たちの訴えも
生きるための極めて現実主義的な行動だと思います。

772名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/07/11(月) 00:39:32 ID:crwA18gZ
金子じゃなくて金光
773205:2005/07/12(火) 03:11:48 ID:Cbrc6+dk
>>771
上記770もそうですが、戦前を知る当時の人達が、そういっておられる
のです。現在は、当時を知らぬ者、否定、肯定の保守や革新の知識人と
やらが、推測や政治思想でゆうておるだけです。これは観念論であり、
現実主義の欠如であり、真実を知っておるのは当時の方達だけです。
終戦後より、戦前の日本は「身売り」や「唐ゆきさん」等でしょう。
現在の自国の価値観で判断し、民族性を無視してはならないと思います。
また人間の現実とは、自己の富の追求のみではないでしょう。
「朝鮮の慰安婦達の願いは結婚し、主婦になること、慰安所で、結婚して
ゆく同僚があると、それを祝福し羨望する他の仲間達の眼もとは尋常な
ものではなかった。」と伊藤桂一氏は書いておられます。
>>772
そう金光氏。岡山県の方。
774205:2005/07/16(土) 02:17:14 ID:y5SpvQ1V
○田章氏(第四中隊小隊長)回想から、『マレー作戦が終わって警備に
付いたころ数名の日本女性とあったことがある。ほとんど五、六十才
くらいの老女で中には日本語も十分に話せず、会話の半分くらいしか
聞き取れない人もいたり、「私が日本を出る時には陸(オカ)蒸気
(汽車のこと)が走っていたが、今はどうなっているか」と聞いた人も
いた。
九州出身の人が多く、この人たちの話によると「よい金儲けが
あるから連れて行ってやる」と言って貨物船の石炭車庫の中に閉じ込め
られ、シンガポールで水浴びして、石炭の汚れを取った後売り飛ばされ
たという、いわゆる娘子軍であった。彼女達は、シンガポールはもちろん
のこと、更に北上してクワラルンプール周辺に広く散在し、幸運な人は
華僑やマレーシア人と結婚して細々と生活を立てていたらしい。
開戦と同時にマレー在住日本人は英軍によってインドのデリーに連行され、
交換船によって日本内地に帰国した人と、マレーに留まった人に分かれた
という。』と、このように拉致、人身売買は、戦前日本にも多くあった。
775名無しの歩き方@お腹いっぱい:2005/07/16(土) 14:00:42 ID:6TeJstZG
>773
記憶に間違いがなければ、金光少佐は兵庫県出身だったと思います。
776名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/07/20(水) 05:55:53 ID:kjPFgDnY
すごい遅レスで悪いんですが
>>702
>宮城福島新潟県人で編成された師団。
って本当なんですか?那須少将って…栃木の人じゃ

だって実家栃木だし
777名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/07/20(水) 12:52:31 ID:FZKw1QqM
>>775
金光恵次郎 岡山県和気郡備前町生まれ

>>776
兵隊のことをいってるんでせう。
将校の郷里と率いる部隊は何の関係もありません。
東北の部隊だから東北人が率いるなんてことは別に規定されてないんです。
778むべ:2005/07/21(木) 01:00:38 ID:k1kZiqQT
仕官は士官学校予科を終了した時点で隊付きになる。
これを原隊と言う。
一応、任地志願制だが多くの場合は出身地の部隊が多かった。
本科を終了して晴れて仕官になれば全国各地に配属された。
その後、優秀な者は陸大に入り卒業すれば晴れてエリートコース。
陸士出は大佐止まりだが、陸大出は将官になれる。
因みに師団長は中将の相当官だが師団といえば兵員数は1.5万〜3.0万。
社会的地位は人口10万以上の市長並みだ。

779205:2005/07/22(金) 00:47:43 ID:7/Ru5JkK
伊藤桂一氏は、広島第70師団が負傷者はつとめて救出した例をあげ、
『一個分隊十名で行動したとして、一名負傷者が出た場合、後続部隊に
任せて放置すれば、分隊の戦闘員は九名残され、負傷者を救出収容すれば、
担架係に四名とられる。装具もあるので二名では無理。残された戦闘員は
半数。もう一名負傷が出たら、戦闘員はなくなる。だが救出された負傷者
の身になれば、戦友の愛情、郷土兵団の気質に泣き、再び善戦すべき決意
を固め、負傷してない分隊員にも、共感として伝わるはずである。問題は、
しまいには戦闘そのもに支障を来し、兵団の戦力に影響すれば負傷者の
処置に対する考えは難しくなる。要するにその兵団の気風によって解決
すべき問題といえよう。「負傷者は必ず収容する」という精神は、初年兵
教育に独自の結実を挙げるに違いない。きびしさのなかにも、必ず温情が
流れるからである。このように、部隊の気質、郷土性によるそれは、
かなり重大な意味をもっていることがわかる。大きくは郷土性に護られ
るか、小さくは一中隊長の人格識見戦闘能力にどう影響されるかで、』と
伊藤桂一氏は、広島師団が支障を来したのはどの戦闘かを挙げておられん
のですが、それは別として、「郷土性」は重要であると思います。
780205:2005/07/22(金) 01:32:34 ID:7/Ru5JkK
負傷者の収容については、広島第39師団の宜昌作戦時にも、戦記に
「負傷兵とその装具を四人で担いでの行動である。遠く迂回して山を越え、
谷を下り、肩に喰いこむ苦しさは、体験した者でなければ解らないで
あろう。」とあるが、広島部隊は、宜昌作戦において最も激戦し、
武勲を立てたので、支障を来したといえるかどうか。
確かに、負傷者を乗り越えて攻撃をする日本の地域兵団もあろうが、
(中共八路軍は違うが、中国国府軍もそうであろう)郷土性の問題と
なろう。
伊藤桂一氏は、大阪兵団は合理的で、関東兵団は、あくどさはないに
しても、底に人情が通うというようなことはない。無性格、無特徴的で
伊藤氏自身、関東兵団に、兵隊として七年間身を置きながら、その
性格を、どう説明してよいかわからないとされておられる。
781名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/07/24(日) 13:44:57 ID:fkzUogmd
>359
それを言うなら、関西の大和朝廷の武士達がまだ未開発な関東平野に移住して、荘園を開いていってますよね?
関東の英雄、平将門と源頼朝も天皇家(関西系)の子孫らしんですが。
そうなると、西から東へ。そしてまた西に帰って来たとゆう、日本人の経路が見えてきますね。
782205:2005/07/25(月) 23:37:45 ID:SVYlp3yW
>>781
あくまで、風土論で語ったものです。武士道も都から発祥したもので
しょうが、現地民の影響によって変化しており、血族的要素より地縁的
土地柄を重視しております。土地柄によって郷土兵士が構成されるので、
風土や歴史的要素も無視出来ません。
>751〜752の関連として、河北の部隊等は、「初年兵教育で、病者を
営庭へひきずり出し、初年兵が死亡し、木銃で叩く等、初年兵を殺すため
教育しておるようなものであるが、初年兵をいたわって教育しても、
中共軍との戦闘で、みるまに死んでいく。生き残った者だけが、精鋭と
しての道をたどる。弱者必滅の真理、自然淘汰から古参兵は強かった。
でなければ剽悍な中共軍とは戦えない。恐ろしい兵隊がそこには出来
上がっていた。戦闘の専門家である。」と伊藤桂一氏は、関東兵団の
独混八旅団(「春」、河北)について(独昆五旅団、「桐」山東も含め)
語られておられるが、独昆八旅が、「一ヶ月の戦闘で将校の半数以上が
死傷した。他は推して知るべき」とあり、この部隊の活躍ついては
次回に述べよう。
783名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/07/26(火) 21:37:18 ID:am3cpgtM
石原莞爾は軍隊内のイジメ防止に郷里や住所の近い人間同士で隊を構成したとある。
上に行く人って意外と気を使ってるのね。
784205:2005/07/29(金) 02:00:04 ID:vH2X8Hwy
>>783
同村の者を同中隊に編入した場合、私的制裁も同村の後輩を自らの手では
やれない。むしろ蔭になり力になってやる場合が多いということでしょう。

「あるとき兵力二千の関東軍が、約三百の中共軍を追い河北省まで入って
きたが、逃げながら反撃の機会を待っていた中共軍約に三千に包囲
された。この時、独混八旅の二十四名が、包囲網の一角を開き、一名の
負傷も出さず、関東軍二千の討伐隊を救出した。関東軍の死傷者は約百。
救出を行った古参兵達は、関東軍は薄情だ。死者の小指だけ切ってきた。
我々だったら遺体は必ず収容するといった。」
「この事例は、演習と実戦の違い、中共軍の作戦、兵員間の人情、戦闘
熟練者たちの戦力、それに必ず遺体を収容する中共軍に対する立場と、
同時に、いかに多くの仲間を殺してきたか(私的制裁で)、という
悲劇の追懐につながる悲痛な絶叫である。」
伊藤桂一氏<駐屯地の初年兵教育>からの要約。
785205:2005/08/04(木) 03:17:13 ID:jw29dbbY
独昆八旅の戦闘から「中共軍は必ず死体を収容にくる。遺棄死体に
照準を合わせて日本兵が待機したが、遂に発砲せぬまま夜が明けた。
ところが死体はひとつも残らず消えていた。中共兵が、いかに
隠密行動に長じていたかの一例である。」
中共軍の戦闘巧者ぶりは一枚も二枚も上手であるが、
日本兵が死体の収容にきた者を射つとは「武士の情け」に欠ける。
広島第39師団は、敵が死体収容する時には、情義をもって見逃して
いる。しかし上記にあるよう関東兵団なりの人情はあるのでしょう。
同じ河北省にあった姫路第110師団は、中共軍大部隊を包囲して、
味方の死傷はほとんどなく、敵二千の屍を埋めてしまったことが
ある。姫路第110師団「焼くな殺すな犯すな」を徹底し、
北支において「精強は軍紀にかかる」を実証した。逆に言うと
他兵団は、いかに非道な行為を繰り返してきたかと言うことにもなる。
786名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/08/11(木) 18:19:08 ID:BOGh84G+
787205:2005/08/25(木) 00:28:08 ID:a45rA+0b
広島第5師団の南寧の戦記から。
『山中の道のない所を眠りながら歩く。Aは初年兵で戦場には慣れて
いないし、足ははれ、息はせわしくもう一歩も歩けそうになかった。
戦友達は彼の装具を分けて持ってやり、捨てられるものは全部捨て、
引っ張るようにして連れて来た。分隊長は、そ知らぬふりをしていた。
「もうこれ以上みんなに迷惑をかけたくない、ここへ置いて行ってくれ」
とAが苦しげに言った途端、分隊長の「卑怯者」と罵声と共に鉄拳が
飛び、足蹴りにされた。Aは辛うじてこの行軍にしたがったが、目的地
に着くと同時に後送され、私も戦闘で負傷し、野戦病院でばったりと
Aと会い、話はこの行軍のことになった。
「分隊長の言動こそ君に対する最上の好意で、あれによって君は
救われた。あれが戦場の荒っぽい愛情なんじゃ。」
「落ち着いて見て初めてあの時の分隊長の気持ちが分かりました。
卑怯者という言葉は最大の侮辱です。死んでたまるか。軍服を脱い
だら恨みをはらしてやると意を決して歩けん足を引きずり付いて行き
ました。戦場のすさまじさが今は理解出来ます。」病室のAは、
すっかり元気回復して、たくましい兵隊になったように思われた。』
788205:2005/09/03(土) 00:22:17 ID:3ZpT7Lhl
上記に続き南寧戦から『予想をはるかに越えた激しい反撃、弾雨であった。
あとはもう突撃により敵陣を奪取するしかない。先頭の○木上等兵の
大きな声が聞こえた。
「小隊長殿、前に出てきてください。後ろの方で刀を抜いておっても
敵は斬れませんでぇ」
小隊長も気後れして後ろにいたわけではなく、いかに戦闘指揮するか
判断しかねていた状況と思われる。しかし、戦場では第一線指揮官はその
事情がどうあれ先頭にいなければならないのである。○木上等兵は息も
つかせず、「前へでんさいや!」
と繰り返し怒鳴った。
彼は古参の上等兵でありこの日も自ら最前線に出て分隊員を叱咤激励して
いた。過去の戦闘で彼がこれほどまでに興奮した例はない。敵前数十
メートル、倒すか倒されるか、H少尉や兵隊達もこの呼びかけに勇気百倍、
突撃準備体勢に入り着剣した。手榴弾を腰からはずして敵めがけて投げ
つけた。敵もこれに応じて手榴弾を投げ反してきた。横目でチラリと
誰かが倒れるのが見えた。修羅場である。
789205:2005/09/03(土) 02:03:03 ID:ECuzhzjE
生死を境にして敵味方入り乱れて闘う凄惨さはもはやたとえようがない。
どのくらい時間が経ったのか。気がついて見れば敵の姿がなかった。
我々は勝ったのである。誰の顔も返り血で真っ赤であった。
「ようも死なずに来れたもんじゃ。」「不思議に弾が当らんかった。」
しかし突撃したH少尉や分隊長の○藤軍曹がたちまち敵火を浴び散華し、
激しい戦闘で絶命した○木上等兵の顔面は無惨なほど損傷が大きかった。
戦死者の慰霊祭が行われた。十二分に職務を果たせず、多く犠牲者を
出しうちひしがれていた指揮班長の私に第三小隊長○保少尉は言った。
「この間の激闘を聞いた。ご苦労じゃった。犠牲者が出たのは残念じゃが、
これが戦場のならいというものじゃ。こういう辛い経験を通じて、いくさ
上手になる。いつまでも沈んでおらずに早う立ち上がれ、元気を出せ」
一言一言かみしめるようにやさしく慰めてもらった。戦死者の横顔が
脳裏をよぎり、私は唇をかみしめた。目頭が熱くなるのはどうしょうも
なかった。』
790名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/09/10(土) 00:58:47 ID:m6yxUSiT
うちの爺さん(大尉だったはず)は静岡連隊(第34連隊)だったんですが、
34連隊はどこでどう戦ったのでしょうか。
なにもしゃべらず死んでしまいましたので知りたいのですが。
ご存知の方がいらっしゃれば教えてほしいです。
791205:2005/09/10(土) 03:39:54 ID:3EHD3+2n
>>790
静岡第34連隊は、名古屋第3師団で、終戦まで中国大陸で戦いました。
名古屋3Dは、上海戦で特設師団編成不能になる損耗、死傷者を出し、
徐州、武漢、冬季、宜昌、第2次長沙作戦では苦杯を嘗めたが、
大陸打通と有名な戦いにも多く参戦している歴戦の師団です。

歴戦の名古屋第3師団の中でも静岡第34連隊は特に素質が良く、
多くの武勲を立てた部隊です。河南省信陽では、強くて勇ましい、
そして住民には親切でやさしい「富士山」の胸章は、良き日本軍の証と
され中国人からも尊敬されました。静岡連隊は、軍紀厳正の強い部隊
でした。
792名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/09/10(土) 06:55:37 ID:fAP6zNcx
>790
よかったじゃん
爺さんの事を誇りに思えよ
793名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/09/10(土) 08:31:08 ID:m6yxUSiT
>>791
205さんありがとうございます。まったく何も知らなかったので嬉しいです!
死んだ爺さんにもっと色々聞きたかったです。
終戦後、軍関係者は肩身の狭い思いをしていたんだと思います。
だから、戦争の話はまったくといっていいほどしませんでした。
忘れないように「791」をコピーしときます!!
794むべ:2005/09/11(日) 00:22:39 ID:KizYxciM
お爺さんの階級は大尉だと中隊長の可能性が高いですね。
大尉は実際の戦場で戦う最上官でこれ以上の階級になると
命令のみで銃を持って戦うということはありません。
ちなみに小隊は約30人。これが最小の戦闘単位です。
中隊は小隊が3〜4個で構成されています。
だから中隊の人員は約100人。
大隊は中隊が4個。連隊は大隊が4個。
これが通常の編成人数です。
約100人くらいが指揮官が1人1人を把握して指揮できる上限でしょう。
階級で言えばちょうど折り返し地点。
軍隊では要にある階級といえます。

205さん、ご無沙汰してます。
この夏の人大杉でこのスレが下がっていたので見ることができませんでした。
この夏は清張の「昭和史発掘」を読みました。
226事件についてかなり詳しく記されている本です。
読後の感想は気が向いたら書きます。
795小石川@アミノ酸:2005/09/11(日) 00:45:25 ID:PSYlaLp4
>>794
ちなみに私は瀬島龍三に焦点当てた「沈黙のファイル」をこの夏、遅れ馳せながら
読みました。
なかなか興味深い記述がいくつか・・・・
796むべ:2005/09/11(日) 01:03:55 ID:KizYxciM
小石川って商社勤務っぽいけど
瀬島さんってお宅の会社の人?
797小石川@アミノ酸:2005/09/11(日) 01:12:59 ID:PSYlaLp4
違いますCIではありません。
ただ、アジアで仕事やってると瀬島とか賠償ビジネスの亡霊に出くわす事が・・・
798台灣軍の歌:2005/09/11(日) 03:12:22 ID:BTkLmUMt
胡寧の戦、武漢戦、海南島に南寧に弾雨の中を幾山河 無双の勇とうたわれし 精鋭名ある南の 護は吾等 台灣軍 嗚呼 厳として台灣軍
胡寧って今は何て名前の都市ですかね?地図で探しても載ってないですわ(≧▽≦)
799205:2005/09/13(火) 02:22:37 ID:i90nkXGI
>>794
むべさん、お久しぶりです。松本清張氏の「昭和史発掘」は読んで
いません。財閥と軍閥との関係は他の著書で清張氏の引用を見た記憶は
ありますが題名を記憶しておりません。2・26事件については、
反乱軍として参加した近衛歩兵第3連隊出身者も多くいた支那駐屯軍、
後の東京第27師団関係の戦記から「彼等は2・26事件事件は
面白かったと話していた。そのはずである。支那駐屯軍のなかには
反乱軍として行動した者が多くいた」とあったので、その点からも
興味深いものです。第27師団については、いずれ述べようと思います。
>>798
胡寧について、場所はよく解りません。台湾混成旅団のことですね。
武漢戦で、漢口一番乗りを兄師団の熊本第6師団と競争した波田支隊は
有名。距離関係から漢口一番乗りは、6Dの確か都城第23連隊でした
か。しかし兄6Dと実力伯仲の戦闘。南寧では、広島第5師団と苦闘を
共にし、その後、一個連隊を加え第48師団となった兵団です。
800205:2005/09/13(火) 03:56:44 ID:Dgk+KkYM
一番乗りで、伝説となったのは昭和16年12月年末の第二次長沙作戦、
名古屋第3師団と熊本第6師団の競り合いであろう。
両師団は鎮台以来の伝統ある精鋭師団であり、お互いに競争意識が強く、
並列され先陣争いとなったのか、軍司令部が両者のどちらが強いかと
興味本位もあったのか、また突進する両師団を軍司令部も制止することが
出来なかった等、諸説、風聞があるが伊藤桂一氏によると「事実は
阿南軍司令官の決意によるもので、この作戦の失敗から、将軍は
『進退伺』を懐中にしておられたという。」いずれにしても敵の反攻で
苦杯を嘗めることになった。

「第三、第六両師団の一部は年末長沙城を攻撃していたが、湘江西岸の
岳麓山に陣地を占領していた重砲から猛射され、かつ両師団ともに優勢な
敵の反撃受けて損害続出し、脱出も困難になりつつあり、第四十師団に
対し、長沙方面へ急進し、両師団の脱出を容易にならしむべし、」と
任務を受けた高知第236連隊は、巻き添えを蒙って苦戦損耗し、
陣地撤退時の戦闘に堪える兵力は40名でしかなかった。
801名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/09/14(水) 00:33:02 ID:WfMPo0fn
14師団最強ってことでFA
802元福山人:2005/09/16(金) 11:56:50 ID:FvbvRBT4
205さんこんにちは。前に別スレでお世話になった「元福山人」です。
先週、福山に行った時に例の叔父さんに教えてやりましたよ。(広島五師団は旅順じゃない けど奉天で活躍等。まあ年も年なんで 本人の父親を否定せぬようにやんわりと。まあ納得してました)
ちなみに叔父さん自身は海軍で潜水艦に乗ってて、どこかで撃沈され護衛艦?で呉に戻りその後特攻隊(潜水艦の)で出撃予定のまま終戦だそうです。
そんな話しで盛り上がりました。
スレ違いだけどお礼に来ました。ありがとうございました。
803名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/09/16(金) 18:27:17 ID:Cy7HvdgW
乙です
804205:2005/09/18(日) 00:30:05 ID:oThKx8qx
>>802
いえ、別スレでは話がずれてしまい、「元福山人」さんにご迷惑をおかけ
しました。福山連隊の武勲については、南寧戦の奇襲について書きました
が、マレー作戦のジットラ陣地突破でも、福山の一部隊は「たいした
こたァにゃァ」と常識はずれの突撃で、(大戦果には必ず常識はずれの
行動が付随していることが多い。)グルカ兵を震えあがらせました。
その模様をマレー戦記から『戦闘後に捕虜のグルカの中尉は、グルカの
勇猛さを宣伝したが、しかし途中でやめ、
「何せ、日本軍は無茶ですよ、タンクに向かっていくとは。我々は、
あれだけは出来ませんなァ」「ほう、砲撃だけは、うまいじゃないか」
「あれは本国軍ですぞ」「グルカは、撃たんのか?」
「グルカは勇敢ですからねえ、みな第一線ですよ」
「ほう。勇敢だから、ねえ」グルカの獰猛性はあてにならない。
まるで日本軍を恐れていた。白兵戦でも、我が方の、銃剣刺突や白刃突撃。
右腕がつり刀が手から離れなかったのを見て、グルカ兵は震えながら
眺めていた。奮戦していたグルカ兵が、この緒戦に敗れてからは、
銃剣が突進すると逃散するか、両手を頭上に上げて出て来たのは、
最初の一撃がいかに痛烈であったかの証明であろう。』
805小石川@アミノ酸:2005/09/18(日) 23:01:12 ID:mObSXqeD
そう言えば、コタバルに上陸したのも広島の師団では・・・何処の部隊?

個人的に休みを利用して乗り鉄もかねてバンコクからコタバルまで行きましたが、
コタバルでは石碑とか史跡らしき物が発券できませんでした・・・・非常に
良い所でした>コタバル
806205:2005/09/19(月) 03:11:25 ID:U0qIWRlC
>>805
コタバルに上陸したのは、久留米の部隊56連隊を主力とする部隊です。
しかし緒戦の上陸戦で損害が余りにも多く、その後、牟田口第18師団長
はトレンガヌ方面で兵力温存し、マレー虎に襲われ苦労していた。
広島師団は、パタニ、シンゴラ方面です。
マレー戦記から『ジットラ入口の提道でも、先陣の福山41iは、すっと
通過したが、我々(広島11i3Bn)が通りかかると、いきなり撃ち
かけた。これは、英軍の防御方針で、「相当な部隊」を渡らせ陣内に入れ、
その直後、砲撃と戦車を含む逆襲部隊によって橋梁点を遮断し、侵入部隊
を殲滅しようという作戦だが、「相当の部隊」というのが福山健児の四一
であり、敵の優勢な包囲下に激闘を繰り返し、グルカ部隊などの手には
負えない。そして遮断しておく筈の橋梁点が、広島十一連隊第三大隊に
次々と突破された。
開戦以来初めて大猛射が、私達の去った直後に集中した。こういう時は
前線に限る。後方では処置なしで、右往左往するか死んでしまうかだ。
しかし前線には無限の安全地帯がある。敵の第一線部隊とぶつかるまで
前進するのだ。そこへは絶対に砲弾が落下しない。』
807小石川@アミノ酸:2005/09/20(火) 23:53:57 ID:Rb8z5t/F
なんか華僑を虐殺、シバイタ(これには色々あるだろうが)広島の第五師団と
一八師団とごっちゃになっておりました。

>牟田口第18師団
ミャンマーに行った時、日本軍の軍刀が露天でうられたりしてました・・・・・
まだ、タイ側との国境近くの土産物屋では売ってるらしいが。
808205:2005/09/21(水) 01:17:13 ID:k1pjuLDh
>>807
華僑処断について、第十一連隊史から、『中国側では数万と言い、日本側
では数千と言う。その正確な数の把握は我々には不可能である。
中国人粛清工作の事実上の実施責任者は第二十五軍司令部の辻政信氏参謀
と言われているが、それにしても軍司令官山下奉文中将も参謀長鈴木宗作
中将も作戦命令としてこれを決裁したとすれば非戦闘員殺害の責めを
免れることは出来なかったであろう。軍事裁判の結果処刑となった
シンガポール警備隊司令官河村参郎少将(当時)の遺書というべき
「十三階段を上がる」によれば、河村少将は二月十七日夜、軍司令官に
呼ばれ山下軍司令官から敵性華僑を処断せよと命じられ、更に鈴木参謀
から敵性と断じた者は即時厳重処分せよと指示されたという。(中略)

中国人摘発の第一線にたったのは第二野戦憲兵隊とその指揮下に入った
補助憲兵で、中国人たちの不幸な運命はこの英語も中国語も理解しない
憲兵達の胸三寸で決められたと言う。しかし同じく警備隊の指揮下に
あった第五師団から派遣された両大隊は戦闘下と戦闘後の状況の違いを
冷静に判断して無益の殺戮を全く行わなかった。戦後我が第三大隊長
市川正少佐と第十中隊長大川幸三大尉はこれらの事件の参考人として
チャンギー刑務所に送致されたが、調査の結果無罪として釈放されたのは
その沈着として判断を誤らなかった行動の証左であった。』
809名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/09/23(金) 13:59:26 ID:GxtNw8/t
下のページに有る画像は
私の曾お爺さんに当たる人の略歴書のようなものなんですが
(当時は陸軍歩兵大尉だったらしい)
なにしろ明治時代に書かれたもので専門知識がある方じゃないと解読するのはなかなか・・
どなたかその辺に詳しい方居ませんか?
一応ここでは画像の姓が書いてある部分だけはモザイクで隠させてもらいます

http://photos.yahoo.co.jp/bc/itsu_2000/lst?.dir=/%c1%c4%c0%e8%a1%a6%ce%ac%ce%f2&.src=ph&.order=&.view=t&.done=http%3a//photos.yahoo.co.jp/
810名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/09/28(水) 00:47:36 ID:qSnTBNlG
プライバシーの問題あるから無理です。
811205:2005/09/28(水) 02:14:46 ID:EkufTnHf
>>809
専門知識も無く、勿論、国語力にも自信はあるはずも無いのです。
明治19年の「四十五日ヨリ十二日間春季小演習トシ月遠州袋井駅地方
へ長途行軍」「駿州静岡へ長途行軍、」「検閲使技術検査ヲ受ク」?
これも正解かどうか解りませんし、他年には、自分には難しく読めん
字もあります。楷書になれた現代人の欠点でしょうか。
812むべ:2005/09/29(木) 00:03:47 ID:ryWMYjqZ
面白い史料だな。
斜め読みで端折って記すと、
嘉永6年(1853)米沢生まれ。
明治5年陸軍教導団歩兵科入学。
明治7年軍曹に任官。
明治9年教導団卒業。東京鎮台第1連隊第1大隊第2中隊に赴任。
明治10年3月12日別働第2旅団付きになり、3月18日肥後国山鹿に移動。
3月21日より同地にて戦闘開始(むべ註西南の役)。
明治13年中尉。
明治23年大尉。

主なところはこんなところだ。他は演習の記録と勲章の記録だ。
一番重要な箇所は西南の役で別働第2旅団の士官として山鹿口の闘いに参加したこと。
この時の別働第2旅団の司令官は山田顕義少将(のちに中将)で日大の創設者だよ。

813205:2005/09/29(木) 01:29:59 ID:WdC1WOER
>808の広島第11連隊第3大隊ついて戦記から、
『華僑の粛清が指令された。重慶政府に協力した華僑を粛清せよと言う
のだ。参謀は強硬に督促する。やむなく有力容疑者十一名処刑の偽報告を
提出し、その場をつくろっておいた。
この十一人を保護するのに、ずいぶん辛苦したものである。というのは、
島内には三地区警備隊とは別に、憲兵隊が駐留していたからである。
憲兵隊は、全島くまなくスパイしていたのである。
十一人のうち一人だけは、重慶政府の発行文書を持っていた!
この男は当時ビンタン島に分駐していた第十一中隊へ送り、かくまった。

戦後、市川少佐はチャンギー刑務所に収容されたが、心気朦朧となる
取調べに「もし、やっているとすれば一人だけです。」と供述した。
法務管は、活気ずいた。彼らは、有罪者を作り出すのが任務だった。
こういう情勢下に、市川の証言した当の人物が、法廷に現れた。
一切の事情が始めて明らかになり、問題の十一人の消息も判明した。』
814名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/09/30(金) 10:28:07 ID:NlEyyzmH
>>811>>812
レスありがとうございます

特に >>812 の方貴重な解釈していただきありがとうございます
西南戦争には行ったようなことは聞いていたんですが別働第2旅団で山鹿の戦闘に
従事していたとは知りませんでした、大変貴重な発見です。
言われてみれば明治10年の欄にそのようなことが記してあるのが見受けられますね
いやでも凄い、やはり専門知識を持った方にはかないません。
815むべ:2005/10/01(土) 00:42:22 ID:MRw7e190
惜しむらくは明治10年の後半の項がはっきり見えないこと。
おそらく戦闘の様子が書かれているとおもうのだが。
816205:2005/10/07(金) 03:12:51 ID:SykfUMNx
>813の市川少佐は、多忙な生活(終戦時は中国)ですっかり忘却して
いた部分があった。華僑の粛清に関して、第5師団の11連隊の某中隊は
、確かに加わってました。それは郷土の「第十一連隊史」にも記述があり
ます。隠蔽しておる訳では無いのです。「山中のゲリラ部隊は列車爆破や
襲撃とテロ行為をするので、治安維持の為に出動し、山中のゲリラ部隊の
掃討に赴いた訳ですが、軍服を着ていないゲリラや女性までも我が軍に
攻撃したので、敵の隠れ家を襲撃した。ゲリラ側は、自身の隠れ家に
ガソリンをかけ、自らの家族も巻き込む自暴自棄的行動をとったので、
女性・子供を助ける事が出来ず、結果黒こげになったその時の赤ん坊の
泣き声が胸を痛める。」と語った豪放磊落でありながら、子供にやさし
かった某少尉の言を記したした某一等兵の記述もあります。
ゲリラは兎も角、非戦闘員まで巻き込んだ事件であれば罪の意識を持つ。
(それはシンガポール降伏当日豪州兵達が、略奪、強姦でインド人や
華僑を殺し、抵抗し刺し殺された娘も多かった。自分の守っている土地
で、暴行するのも当時の将兵においても不思議な事であったが、我々
日本人は、法的責任では罪に問われずとも、人情に欠けた行為に罪悪感
を持つ。我々は武士道を重んずる者である。それ故ゲリラ討伐でも
・・・。)マレー戦において、アジア解放の聖戦であったと誇りを
持って語れる人と罪悪感を持って当時の事を語りずらい人に分かれるのは、
やはり兵士に罪悪感を持たせた軍政と言う問題にもなります。
817205:2005/10/07(金) 03:44:39 ID:SykfUMNx
戦果報告で殺した人数について、兵士は戦意のない敵の非戦闘員に
対し見逃すことも多くあり、命令であっても情けをかけ本部には、
バレるのですぐに戻らず、適当な時間を見計らって殺してもいない
偽報告に戻る。偽報告が敵の損害として計上される訳であるので人数を
正確に記したものではない。
『非戦闘員まで殺して、敵の損害数を増やす指令部もどうかしている。
まじめで従順な兵士は、命令通り殺すので付近で敵の「ギャー」という
悲鳴が聞こえると「やってしもうたか。」と気分の良いものではない。』
818むべ:2005/10/10(月) 00:14:24 ID:wTz3fagY
>>814
この大尉殿は若くして亡くなられたのかな?
西南の役当時、少尉なら明治末年から大正の初年まで生きていれば
恐らく少将、日清・日露で手柄を立てれば中将・大将まで可能だったかも。
記録が明治23年で切れているということはその頃亡くなった?
因みに日露戦争で第3軍参謀長だった一戸兵衛は
東北出身でありながら大将になっている。
年齢は大尉殿より2歳下。少尉任官は大尉殿と同じく明治10年。
君も世が世なら大将閣下の子孫ということになっていたかも知れないね。
819名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/10/16(日) 10:45:54 ID:2gYeNwcR0
>>818 レスありがとうございます

>この大尉殿は若くして亡くなられたのかな?

ええ、そうなんです。日清戦争に従軍して帰ってきてしばらくして亡くなったそうです
結構な大酒飲みだったようで暇があると部下を集めて酒盛りを開いていたとか
収入もそれらに殆どが消えていたとか・・・
そんなエピソードも聞いています

自分の祖先を辿って歴史を紐解いていくと面白いもんですね
祖先のお陰でいろいろと勉強させていただきました
820205:2005/10/21(金) 03:57:07 ID:4U6MU7Pi0
マレー戦記から『英軍の追撃砲弾や地雷は、アルミニュウム製品で、
日本軍のより、至近距離の死角が少なかった。そのため、致命的では
ないにしても、かなり負傷者が出た。当時日本軍の鉄弾死角は35度。
伏せていれば、着弾点から1メートル離れていれば、だいたい安全
だった。英軍のニュウム弾死角は20度そこそこに爆発し、ほとんど
水平に近く破片が飛び散るので、最低2メートル以上離れていないと、
伏さっていても、破片にキスされる。
「ニュウム嬢にやられたわい。」
「毛唐のキスときたら、しつこいけんのう。」などと茶化せるのは、
2、3個の破片を見舞われた者で、げっそりしているのは10個ばかり。
目ばかり動かして汗をかいているのは、数10個も、彼女たちを
抱き込んでいた。しかし追撃砲が有効なのは最初の数発で、日本軍の
足には、とてもかなわない。』
821むべ:2005/10/22(土) 17:30:28 ID:tu2wGqq60
勇敢さが時に匹夫の勇になることもある。
ガ島の初期、旭川第7師団から抽出された一木支隊第1梯団は
5000の敵海兵隊を2000と下算した挙句、
梯団の兵900で撃退できるとガダル上陸後
第2梯団を待たずに突進、1日の戦闘で全滅した。
一木支隊長は米兵を撃退した後
ガ島対岸の小島ツラギまで行くつもりだったらしい。
自軍の兵の勇敢さを信じ、機械化された2000の兵を900の兵で
撃退できるとした自信が悲劇を招いた。
822EXCULTer's / Esprit de Kokura ◆D4EhC3sDGs :2005/10/27(木) 13:20:51 ID:ZElKixwD0
このゴミスレまだあったのかw
823名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/10/27(木) 23:40:44 ID:vJpLLbFP0
陸軍軍人のデータベースを発見
http://shinsui.b7m.net/
824むべ:2005/10/27(木) 23:51:42 ID:zQtPg3cs0
おお、これは便利だ。
早速、お気に入りに入れておいた。ありがと。
でも、まだ未完成って感じだな。
825205:2005/10/28(金) 04:40:47 ID:Fpnt82wz0
>>821
ガ島では、第28連隊長の一木支隊の916名が、ガ島米軍の10900
名と戦闘し、日本側は戦死777名、米軍の戦死は34名となって
ますが、完全な大敗です。斥候の34名派遣したのなか3名を残し全滅
したのに作戦を続行する。責任は、一木大佐か、それとも第17軍に
あるのでしょうか。
マレーのジットラ戦で辻政信参謀は、斥候を幾組も出し「守兵はいない」
と斥侯の報告から敵陣地の占領を指示した。(実際その通りだったが、
戦場は常に流動している。次の戦闘命令を下すのは、非常に危険であった)
その為佐伯捜索部隊は、一夜で潰滅状態となり、爾後ほとんど使え
なかった。それから>804に書いた戦闘となりました。
勇敢さが時に匹夫の勇となるのは、参謀や上級将校の思惑通りに闘った
時で、下級将校、下士官、兵の英断で、敵はおろか味方からも無謀な
常識はずれ、戦理に合わぬ戦闘をした時は成功する。といってよいのでは
ないかと思います。その例は、広島や福山の部隊の活躍で何回も書いて
おります。上に行くほど無能な日本軍の体質ともいえます。
826205:2005/10/30(日) 02:41:51 ID:Ytf/2xAD0
>804の戦闘の省略した部分ですが、『福山連隊は、ジンゴラでタイ軍
連隊長夫人の尻を射って程度を下げていたので、ここでは暴れ回った。
連隊主力は上流で渡河したのだから、そのコースを利用するのが常道で
あるが、本道上に待機した一部隊は、橋を突っ走って行った。敵前で橋を
渡ることは常識はずれだ。』

マレー戦記から『ゲマス付近で軍参謀は、向田戦車隊に第五師団に代って
突破作戦を命令した。英軍を弱虫と思っているのだろうか。
第五師団(広島)が、どれほどの破壊力を持った兵団か、彼等にはまだ
判ってないのか。大たわけが!いくら戦車を持っていても、向田隊には、
歩兵一個大隊ほどの戦力もないことが、まだ判っていないのだ。』
『向田戦車隊全滅!「日本軍の先頭部隊を全滅させ、戦車十数輛を撃破し、
ゲマス前方十キロ付近の陣地を確保中」その無電は、ヒース中将が、
本作戦中に受けた、たぶん唯一の勝報であった。』
827205:2005/11/04(金) 02:58:46 ID:PYWHGOdv0
上記に続き『参謀という人種は大抵デタラメばかり仕出かすのだ。
二言目には「司令官閣下も、そう思っている」と来る。
しかし司令官はまるっきり知らないケースさえあるのだ!
「虎の威をかる」連中が多い。これは大本営からしてそうだ。
中佐か大佐クラスが、司令官の人事を決定している始末だ。
参謀は、まず陸士の成績が優秀だ。陸大を出なければダメだ。
そこで、ガリ勉することになる。部下のことなど放っとらかしだ。
参謀たちは、プランする。その遂行の為には、犠牲はなんでもない。
死ぬのは他人だ。予備役将校や、下士官兵だ。これは消耗品だ。
作戦が成功すれば、立身するのは誰か。作戦が失敗すれば、前線部隊の
せいだ。または司令官の責任だ。どういう精神で編成されているのだ
ろうか、日本の軍部は。
シンゴラでも、タイの軍服まで着せやがって!まるでデタラメなのだ。』
828205:2005/11/07(月) 03:50:58 ID:KobYxVWc0
辻政信参謀の作戦は、第5師団の一部隊にタイの軍服着てタイの軍隊に
化け国境を突破、徴発した自動車で潜行し、ペラ川の橋を確保する奇抜な
アイデアであったが、ピプン首相の日本軍に協力する旨の声明も、
シンゴラへ通達される時間は遅れ、お互い武器を持っていたのだから、
当然撃ち合いとなり、福山部隊の小銃弾が、タイ軍の連隊長夫人の尻に
当ったので、ピプン首相の声明を知っても反撃命令を下したらしい。
予定外の戦闘で、しかも自動車は確保出来ず、辻参謀の計画は失敗した。

辻参謀のプランに『将校連中は、明らかに辻参謀のアジに魅了されていた。
面上には、一種の喜色が浮かび上がり、ほとんど奇抜な作戦の成就を
疑わない輝きだった。(さすがは作戦参謀だ。アジるのが、うまいわい。)
それは辻の思惑通り、果たしてスラスラ運ぶのだろうか。(師団長も
師団長だ。よくもまあ、素直に一個大隊を献上してくれたもんだ!)』
829名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/11/15(火) 21:17:20 ID:yO9xfSBN0
板違い
830名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/11/16(水) 14:19:29 ID:ixRc/BA9O
そうでもないかもめ。
831むべ:2005/11/16(水) 20:04:08 ID:cXnwD3jR0
何日か前の読売新聞の教養面で
参謀と何ぞやという特集が出ていたな。
色んな本からのつまみ食いだったけど解りやすくまとめてあったから
興味のある人は図書館で読んでみてね。

辻は後世の人間から見れば参謀としては明らかに失格だったけど
人間的魅力というか人をひきつける能力はあったようだ。
軍人としてではなく宗教家として生きればよかったのかも。

832205:2005/11/18(金) 02:05:55 ID:LPJDK33r0
>>831
辻参謀の長所は、話術の巧みさや、軍司令官や師団長クラスを思いの
まま動かすことが出来る「人使い」のうまさ、常に全軍の状態が畳み
こまれている明晰な頭脳。現在に生きておっても有能な人物と評価
されることでしょう。
ただし、自軍が自分の思う様に動くゆえに、自らが計画した予測通り
に物事は進むと過信し、戦場という突発的な不測の事態における
判断力を持ち合わせておらんかった(間違えた)ともいえます。
机上の戦争ゲームでは、達人でしょうが、実戦では・・・。

辻政信氏と広島第5師団の関係は、山西省忻口鎮攻撃まで遡ります。
そして忻口鎮でも多大な犠牲者を出しております。しかし太原まで
攻略したので、参謀としての責任は問われなかったのでしょう。
833名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/11/19(土) 01:34:52 ID:T5nxqku/0
近衛師団の従軍証はべトコンみたいな赤い星なので驚きますた。
834名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/11/23(水) 12:44:40 ID:uWa/t7Q80
全部の師団が広島師団だったら、ワシントンでル大統領に降伏文書へ署名させることなぞ朝飯前だった。
それを、東北人や東京人、関西人、九州人などが寄って集って台無しにしてしまった。
もう少し現実的なことを言えば第五師団をマレー戦後に主戦場に転じなかったのが最大の敗因だ。
東北人や九州人が本気の米軍に勝てると思っていた大本営の参謀は頭悪過ぎ。
海軍もそうだ。
ぶっちゃけ、日本は大東亜戦争に敗れたかもしれないが、広島人は決して敗れていない。
それは米軍が原爆を広島に投下したことでもよくわかる。米軍は広島人が怖かったのだ。
835205:2005/11/23(水) 23:13:45 ID:eDPIgOGw0
>>834
>広島人は決して敗れていない。には同意しますが、根拠の無いことは
書かん方がええとおもいますよ。
広島第5師団は、日清、日露や日華戦の忻口鎮、徐州、南寧戦と弟の
広島第39師団も宜昌防御戦等、寡兵にして大軍との激戦で全ての
勝負は紙一重。広島師団の渋とさ、理智、闘志、勝利への信念で何とか
乗り越えることが出来ました。広島人の県民性が巷で言う
「熱しやすく、冷めやすい」では、持久戦等出来ん訳で県民性などは、
ええ加減なもんです。
シンガポール戦でも、紙一重の激戦で「激戦は常に最後の五分間だ。
日英両国の貶誉を分けたものは、最後の五分間だった。」他師団も
シンガポールでは、激闘しております。英軍も良く奮闘、敢闘精神は、
充分称賛されるべきものです。マレー・シンガポール戦後、常に第一線の
第5師団の将兵の疲労は、作戦中に表れなかったマラリア病が、
シンガポール陥落で待っていたかのように、各隊に患者を多発した。
くたばっておる筈の肉体を精神で支えて来たのでしょう。
836むべ:2005/11/23(水) 23:55:19 ID:GIZPIHse0
他の郷土師団もそれなりに強い。
ただ、それを運用する側に問題があったのは確か。
大体、大国アメリカと戦うのに200万の兵を
大陸に貼り付けておくなんて大間違い。
しかも大陸の将校たちは南方で手柄を立てられては
自分たちの評価が下がると思ったのか、
しなくてもいい作戦をして徒に犠牲を増やした。
日本の将校は万骨を枯らしてでも功をなそうとするタイプが多かった。
戦争全体の戦略を考えずに
取りあえず目先の勝ちにこだわる愚将と言っても言い過ぎではない。
837小石川@アミノ酸:2005/11/24(木) 00:00:33 ID:rUYazPXI0
>>832
>現在に生きておっても有能な人物と評価 されることでしょう。
そうかなぁ〜
単なる山師でしかないと思うけど、ちょっと利口なプロレスラーの大仁田
程度じゃと思うけど・・・佐藤に上手い事使われて、余りに愚かな原因(といわれて
る眉毛説)で死ぬ辺りが、なんか。
838むべ:2005/11/24(木) 00:39:25 ID:SdWKKqji0
辻は白山の山中の樵のまずしい家に生まれて
親に学費の面倒をかけまいと陸軍幼年学校に入り、
陸大まで優等な成績で通した。
当時は一番のエリートコースであり、
学校教育の中で優秀なのは確か。
現代の有能な人物とはこういう試験に優秀な人物だろ。
もう少し遅く生まれていれば
東大法を成績優秀で卒業して官僚になっただろうな。
辻は品行方正、清廉潔白をなりより好み、宴会は大嫌い。
上司にでも遠慮なく直言できた。
こういう人物は戦争がなければ政財界で出世できたはずだよ。
晩年の誇大妄想に近い言動は
自分が歩んで来た道の間違いを認めたくなかったんだろうな。
839名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/11/24(木) 01:14:39 ID:MWrkMD/l0
妄想にとりつかれた戦前教育を受けた元少年兵が多いスレですね。
幼年学校出じゃないと出世に遅れをとる事実はあったようですね。
840空港通2丁目 ◆SHKGFkSErk :2005/11/24(木) 23:03:37 ID:2++3n3/l0
おっ、これはまた暑苦しいスレですね。

伊予人はいくさには役に立たんな。
関が原もご維新も負けてばっかだし。

だが、そこがいい!
841205:2005/11/25(金) 00:23:41 ID:IVT/Qhod0
>>837
辻参謀については、むべさんが>838に書かれたことと同意です。
>828でも書いたように、奇抜な作戦を考案し、山師といえる面も
あったでしょう。
>839妄想にとりつかれたと判断するのは自由ですが、当時の方の意見も
聞く耳を持ってもよいのではと思います。
「日本は、侵略の為のみに戦争を起こしたのではない。自存自衛の為一国の
興亡を賭して立ち上がった。しかし日本人は邪心をおこした。
私利私欲の盲者たちが、余りにも横行した!戦地へ不発弾を送るバカ者が、
その資材を流用する闇商売で、巨富を築き、戦後は紳士面で社会を闊歩
した。ジェラルミンを何に使ったのか、飛行機は空中分解した。
私利私欲は社会を破壊するものだ。日本人はみずから敗戦を招いたので
ある。日本は敗れてよかった。私心をたくましくするような民度の低い
日本人がアジアに君臨していたら、アジアは哀れなものであった。
日本は民度を一新して世界の舞台に出直すべきである。それをやりとげる
のは、今の政治家達ではない。苦悩する青少年だ。戦争反対ー非常に
結構だ。しかし今でも世界のどこかでは、戦争が行われているのだ。
スローガンや署名活動で、戦争をなくすことは出来ないのだ。」
現在も日本は、私利私欲の現状ですが。
842205:2005/11/25(金) 01:03:58 ID:IVT/Qhod0
>>840
>伊予人は、いくさには役に立たんな。そのようなことは無いのです。
シベリア出兵の松山第22連隊、野中支隊は優勢な敵の包囲攻撃に対し
勇戦奮闘し、遂にこれを壊乱に陥らせ戦勝を得て、後日感状を授与されて
おります。広島と瀬戸内海で隣の地域ですが、松山連隊の兵士の特徴に
ついては、無知ゆえよう解りません。
高知連隊は、猛攻型で九州人に近い特徴でしょう。東北〜日本海側が
実直忠誠型であるように。瀬戸内は九州、近畿とも違い、瀬戸内の中でも
中国、四国それぞれ性格が違い、更に広島と岡山が違うように、愛媛と
香川が違うか判断し難いのです。
843むべ:2005/11/25(金) 02:29:32 ID:yP7fvC8e0
伊予人なら日露の秋山兄弟がいるだろ。
松山では郷土の英雄なんでないかい?
844空港通2丁目 ◆SHKGFkSErk :2005/11/25(金) 22:22:00 ID:I5MfuVh80
>>843
秋山兄弟はねぇ、あれはいわゆる「武人」ではないですよ。


・「武名を上げる」「武勲を立てる」なんて全然興味ない。
(そんな事言って、デカイ顔してる奴が大嫌い)

・作戦立てる時は、味方はもちろん敵もなるだけ人が死なないようにする。
(戦略目的を達成すれば良い、浪花節には付き合えん)
845暗 黒 麺 ◆MVHZL7fMt2 :2005/11/26(土) 00:24:09 ID:wCTHoscz0
暇なんでスレを汚さしてもらう。

私の母方の爺さんは日中戦争に従軍した。実家の近所の○○造船の爺さんは
シベリヤに抑留された。ちなみに爺さんは満州事変には関与していないそうだ。

庄内人より
846暗 黒 麺 ◆MVHZL7fMt2 :2005/11/26(土) 00:43:39 ID:wCTHoscz0
私の母方の爺さんの家では、旧家ということもあってか、事あるごとに酒宴がひらかれる。
親戚一同が集まっての酒宴では、決まって戦争の話がでていた。日中戦争に従軍していた爺サマの
体験談は、どれも面白い話ばかりだった。しかし、あらかた体験談が終わると必ずこう言ったもんだ。
「あげだごどはあってはならねもんだ・・戦争というものは・・」と。何を見るとはなしにこう言うのだ。
爺サマの目は何処も見つめては無かった。脳裏にある戦争の記憶と対峙していたのかもしれない。
あれほど重い言葉を聞いたことはなかった。そのとき僕は、戦争というものの深淵に触れた気がした。

独り言でした。
847205:2005/11/27(日) 00:58:20 ID:Djzc9BNt0
どうも戦争論になったようですが、宮本常一氏が昭和19年中学校教師を
された時、生徒に「決して死んではいけない。たとえ自分が乗っている
船が撃沈されても木のきれ一つあってもつかんで生きることを考えよ。
いかなる日にも命をおしみ、命の尊さを知れ。君達がそのようにして
苦難にみちた現実の中で、耐えうるものこそ、明日をひらく力になる
のだから。そしてその為の命なのだから。心がはやる時、おちつきを
なくした時、いつも私の言葉を思い出してほしい。命を惜しめ」
さいわい一人も戦死することなく帰ってきた。と書かれてます。

そして「大東亜戦争は、批判者達の言う軍部、政府、ブルジョア達の
陰謀によるものかもわからない。しかし私はただ単にそのように考えたく
ない。圧迫された民族の心の底のどこかに、あるいは血の中にその圧迫を
はねかえそうとする意欲が強く動いていたことも、戦争を拡大させた原因
だったと思う。周囲民族の我々を支持する気持ちは、我々の彼らに対する
信用の裏切りの為に、我々から離れていったけれども、自らの足で歩いて
ゆこうとする夢は捨てなかった。少なくとも戦場にあって聖戦を信じ、
自らに忠実であった人々の人間的な努力が、政策や戦略をこえて、
同じ民族の心の中にともした火は明るいものであったと思う。
自らを卑下することはやめよう。人間が誠実をつくしてきたものは、
良し間違いがあっても、憎しみをもって葬り去ってはならない。
あたたかい否定、即ち信頼を持ってあやまれるものを克服してゆくべきで
なかろうか。私は人間を信じたい。まして野の人々を信じたい。日本人を
信じたい。」『庶民の発見』から、好きな文章なので引用要約しました。
848空港通2丁目 ◆SHKGFkSErk :2005/11/27(日) 23:33:11 ID:O89VbsBp0
>>847
スレ汚しスマソ。

あえて誤解を恐れずに言えば、戦争にはロマンがあります。
愛国心、忠誠、自己犠牲、というのはたしかに「尊い精神」でしょうし。

直接戦争を知らない俺らの世代は、書物でそれを知るのみですが
どうも人が死ぬ、それも目の前でバタバタ死ぬ、ついでに自分も死ぬ
そういう物のようです。

ロマンに酔ってはいかんよなとつくづく思います。
849暗 黒 麺 ◆MVHZL7fMt2 :2005/11/28(月) 01:47:10 ID:Uj2FFRHa0
「聖戦」ね・・・爺さまから聞いた「聖戦」のお話。

日中戦争での出来事。ある司令官、突撃命令出した。
「とちゅげきー!」・・・何を思ったのかその司令官、「散り方が気に食わん!やり直し!!」
慌てて戻る一兵卒共、敵の銃弾背後から雨あられ、その部隊全滅したそうだ。
こんなのが「聖戦」でありましょうか。二十畳近くある大広間で黙る、爺さまから聞いた話。
850名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/11/28(月) 01:49:32 ID:AohweJjUO
こういう軍やら英雄やらに熱くなる年頃ってあるんだろうな
バカどもが
851暗 黒 麺 ◆MVHZL7fMt2 :2005/11/28(月) 02:47:52 ID:Uj2FFRHa0
「聖戦」の被害者の話をさせてもらう。

僕の知ってるチヨさん(仮名)、某百貨店に釣具の店出していた。
戦時中チヨさんは結婚し、祝言を挙げたのだが、チヨさんの愛する人10日もしないうちに
召集令状来て南方送り。しばらくして遺品が届いた・・・眼鏡のみ。
ある日チヨさん、百貨店側からこう言われた「チヨさん、もういいから」チヨさん「なんだい!
私に死ねって言うのかい!」・・・「聖戦」は最愛の人の代わりに「釣具屋」をチヨさんに与えたもうた。
彼女はたった一人でお店を切り盛りしてきたんです。戦後何十年とそのお店を「たった一人で」。
書いてるそばから泣けてきたわ。『聖戦』の代償は個人の痛みでもあります。お店もうないけどね。
852205:2005/11/29(火) 00:01:18 ID:P3YXJenc0
>>848
愛国心、忠誠、自己犠牲という「ロマン」に酔うておる訳ではないのです。
忠誠心についても、要求する指揮官について否定的に今まで書いており
ます。そして敵味方に対する温情についても書いてきたのです。
>>849851
戦争指導者の「聖戦」と前線で闘った将兵の「聖戦」は違うと思います。
確かに軍や政府のスローガンである「聖戦」と言う言葉に疑問を持つ
兵士も多かった事も事実です。また司令官の中には、戦争を遊戯する
ゲームでも観るような、観戦を主体として計画された作戦もあったで
しょう。
しかし、アジア解放の為の聖戦として闘った兵士の気持ちも考慮して
いただきたい。その故に>847で宮本常一氏の文を引用したのです。
上層部のみの考察から政治思想で革新勢力の言う指導者の陰謀で戦闘した
操り人形の兵士ではなく(保守系も上層部の立場で戦争を捉えていますが)
、前線将兵の立場も例を挙げて書いてきたのです。しばしば無視される
銃後の方々の痛みについて述べられた事に感謝します。有難う御座います。
わしも泣けてきたので、書くのはつらいのです。でも前線将兵を誇りに
思う気持ちには変りないので、これからもまた、述べてみたいのです・・・
853小石川@アミノ酸:2005/11/30(水) 00:20:11 ID:qCP5ccoJ0
>>852
>アジア解放の為の聖戦として闘った兵士の気持ち
ってそう思って戦地に行った人間どの位いるんだろうかねぇ。
少なくともウチ祖父、伯父なんてそんな感覚なかったらしいし。
しかし、従軍した人の話しきくのは興味深い、ウチでは伯父の話しが
特に。
854205:2005/11/30(水) 03:23:45 ID:KANmVxrp0
>>853
「アジア解放の為の聖戦として闘った」いささかスローガン的な過ぎた
表現でしたが、他に言葉が見つからんかったからです。
マレー戦でも、ヨーロッパ人の広壮な邸宅を見て、
「西洋人ばかり贅沢するんか。」と嘆いた兵卒の方もおられ、
その憤慨は、贅沢に慣れた現代日本人の価値観とは違うでしょう。
また「祖国、同胞の為の悲愴感」が勇敢にさせたと言う要素がより強いで
しょう。将兵の考えは郷土兵団の性格によっても違い、更に細かく言うと
個人(戦争体験者の話)によっても様々違う。
戦闘体験者の話では、戦闘においての敵との駆け引きや戦地生活の
明るい話が多く、また広島人は辛い経験も明るく語る性格もあり、
広島部隊が、「危機に瀕しても明朗であった」のは、北清事変
(義和団事件)でもそうですが、宜昌防御戦で他部隊から転入された方の
感想として述べられておられます。また明朗ゆえ危機を乗り越えたとも
言えます。(ただし、戦記を読むと兵士の苦悩が記されておりますが)
わしの言は、暗の側面を語っておらんといわれれば、仕方ない部分も
ありますが、明の部分も戦争の一側面です。
855むべ:2005/12/02(金) 00:25:25 ID:6WHebfTp0
>>845
鶴岡にはシベリア抑留者の全国組織の本部があったな。

戦争に聖戦なんてありゃしない。
戦場にいる兵士にとっての闘いは目の前に殺到する敵を
自分の身を守るために殺すか殺されるかという
本能をむき出しにした弱肉強食の地獄があるだけ。
では、何でそんな地獄に身を投じるかといえば
家族を守るため、故郷を守るために他ならない。
戦争とはそんなものだ。
明治維新以後、海外へ出征した兵たちは
自分らが負ければ日本が滅びて
家族も故郷も蹂躙されると少なからず思っていたはず。
だから、人間の限界を超えたところで必死になって闘ったんだろうね。
856小石川@アミノ酸:2005/12/02(金) 00:50:46 ID:84+juKvY0
>自分の身を守るために殺すか殺される
で死ぬなら良いが、先の戦争じゃ戦死者の半分以上が餓死、栄養失調からくる
病死だし・・・
857むべ:2005/12/04(日) 00:35:06 ID:zyNUDQB00
五味川純平だったけかな?
日本兵は国のために戦って死ぬのが義務あったとしても
無能な参謀のために飢えて死ぬ義務はない、
というようなことを書いていた。
多数の日本兵を殺した敵の英雄よりも
数倍多くの同胞を死なせた参謀や司令官たちを
日本人自身の手で裁けなかった。
それどころか国会議員にまでしてしまう。
お人好しなのか敗戦で余裕がなかったのか・・・。
858空港通2丁目 ◆SHKGFkSErk :2005/12/06(火) 02:50:37 ID:bpiwMLPG0
>>856
あぁ〜。

栄養失調も辛いだろうが、どうせ生きて帰れないなら、そっちの方がいいですね。
「撃たれる」とか「切られる」とか痛いだろうな。
せめて眠るように死にたい。

「一将功成りて万骨枯る」と言いますが、俺なんかは有事の際には
万骨枯らす側の人間なわけで。

(しかも、たいして役に立ちそうにない。もう最悪、まさに犬死に。)
859205:2005/12/09(金) 00:26:57 ID:YvVvORjS0
戦争とは色々な側面を持っておりますが、戦闘体験者のいわれるように、
「勝利の喜びと、それに随伴する悲しみとは、多分車の両輪なのだった。
悲しみが深いだけ、喜びは大きいのだろう。戦争は、感情の上下動を
最大限に体験していることで、とても表現のしようがない。」
という面もあります。

話は変り、英国軍捕虜中尉の日英両軍について興味深い観察です。
日本軍(広島部隊)の少尉が戦場地理を知り、「野砲と重砲を四、
五十門並べて、軍港を破壊しておかないと渡河は難しい」と解説すると
英軍中尉は、「日本軍は、軍司令官クラスの考えることを、少尉までが
考えるのか。我々は、小隊長は小隊のことしか知らないのだ。
中隊長になる為には、その為の教育を受けなきゃならないのだ。
それで、指揮官が戦死すると、さっぱり後の収拾がつかないことが多い」
イギリスの階級社会、組織の細分化と英軍も欠点があった訳です。
860むべ:2005/12/10(土) 00:32:48 ID:fJZO35S00
イギリス軍の場合、指揮官だけがイギリス人で
兵隊はグルカ人ってのが多かったから、
指揮官が戦死すればあとは烏合の衆になってしまう。
日本軍は指揮官が次々に戦死して
最後は曹長が指揮をとった例があるという。
861小石川@アミノ酸:2005/12/10(土) 01:11:29 ID:VBlPRbDc0
確かにアジアでは特に非英国の人間が多かったんじゃ。
しかも英国は国内の階級が軍にまで・・・・ではなかった?

ネパールで元グルカ兵だった宿屋のオヤジに会った事が。
彼らの生活見てると最強の兵士ってのは真実だと実感。
経験つんだ登山やる人間が1日の行程を奴ら往復をやってしまう、しかも
ゴムゾウリで・・・・

862205:2005/12/10(土) 22:26:12 ID:uDCyh6mE0
>>860
>指揮官だけがイギリス人で兵隊はグルカ人・インド人だったので、
烏合の衆になってしまうとは、言えんしょう。グルカ兵は忠誠心が
強く、イギリス人は嫌いでも、女王には忠誠を誓うと言う特徴があったと
思います。インド兵も第一次、第二次両大戦で欧州戦線でも参戦しており、
イギリス軍が植民地兵・傭兵を前線に使うたのは、歴史的にウエールズや
スコットランド兵を前線に使うたアングロ・サクソンの狡猾さもあったで
しょう。英国の階級社会制や組織の硬直さもあったと思えるのです。

英国の社会や制度を問題にしておる訳で、植民地軍であるから烏合の衆に
なった訳ではないのです。マレイの英軍は、イギリス・スコットランド兵
を含んで英国中尉は、収拾がつかないと云うておるんです。日本軍が
前線指揮官が戦死した場合、下士官が指揮を執るのは当然の事として、
戦闘形態が日露戦以降小隊から分隊へ変化する事態も考慮して、
下士官以下の古参上等兵等の兵卒の能力も考慮する必要があると思います。
863205:2005/12/10(土) 23:57:17 ID:uDCyh6mE0
>>861
そうです。西欧の階級社会も問題となります。ゴムゾウリは音が出ない
ので夜襲戦闘に役立つでしょう。戦闘慣れした広西軍兵士等は、足音も
立てず、夜襲して来ました。西洋人には出来ない技術です。
>804・806に書いたように、グルカの獰猛性は宣伝の部分が
あります。しかし、グルカ兵は、各国兵士を畏怖させたように、
現在でも世界最強の評価をされております。
他に李宗仁の広西軍や台湾の高砂兵、四川軍(八路軍)等、世界的精強の
山岳兵が行軍に強いのは、日本軍でも、平野部や都会兵が行軍に弱く、
山岳地域の郷土兵が行軍に強いことにも関連するでしょう。ただし、
戦闘の巧拙もあり、一概には、いえんと思います。広島師団は、行軍速度
世界記録を残しておりますが、都会兵を軽視するものでは、ありません。
864小石川@アミノ酸:2005/12/11(日) 23:24:50 ID:O5dstPjM0
>>862
>女王には忠誠を誓う
スレの本題にはちょっと外れますが。
第2次大戦後は色んな国、地域に拡散してますね。>ゴルカ
ホークランド紛争の時は両軍に・・・・最近はインド軍が一番多い?
最近は各国か出す国連軍関連にはネパールの傭兵が多いみたい、アフガン
とか。

そう言えばインドに旅行した時、ヒマラヤ方面の高地でインド軍が着てた
セーターが英国調でカッコ良くて(肘当てつきの)、売ってくれとお願い
するも拒否された。

広島で言えば米軍で一番出世した日系人は陸軍参謀総長まで勤めた広島出身
の子孫(3世)だったかと。
865名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/12/12(月) 09:57:16 ID:C3Bq7wKw0
>>864
> 広島で言えば米軍で一番出世した日系人は陸軍参謀総長まで勤めた広島出身
> の子孫(3世)だったかと。

ま、他の土地の移民だったらそんな離れ業はできんな。これを見ても広島人が選ばれた民族であることが
よ〜くわかる。
866205:2005/12/13(火) 00:06:24 ID:wsfqMGGn0
>>864
ネパールのグルカ(チベット系ヒマラヤン諸民族)は、昔教育テレビの
NHK特集に出ておりましたが、その時元グルカ兵は、我々は勇猛で
第二次大戦では、日本軍と互角だったと強調しておりました。
グルカ退役軍人が、香港で警備関係の仕事をしておられる場面も
出てきました。フォークランド紛争で、アルゼンチン軍は、
英国軍グルカ兵を最も恐れたそうですが、白兵戦でグルカ兵の
ククリ刀を恐れたのかも知れません。
>>865
どこの誰が出世したとかは、どうでも良い問題じゃと思いますが、
広島県は、海外移民が日本で一番多いので、出世する確率が高いと言う
ことです。それに広島人自体、出世を軽視する部分もあるでしょう。
むしろ、広島移民が多くを占める日系人部隊が、米正規軍のテキサス
2師団との喧嘩し、少勢で多勢の米兵2師団をシゴした(ぶちのめした)
武勇伝や、ドイツ軍を畏怖させ、欧州戦線で武勲を立てたことの方が
興味深い。その方が広島人らしい。
867名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/12/13(火) 01:56:51 ID:kVSKEpWx0
このスレはなんか権力に支配されたい志願兵が多い感じがする。
気持ちも分からないではないが、ボランテイアにでも参加したらどうよ。
868むべ:2005/12/13(火) 23:39:50 ID:Dtr/S9Q40
志願兵=volunteer
869名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/12/16(金) 13:52:18 ID:cFEh/jdb0
リクルートは徴兵
870空港通2丁目 ◆SHKGFkSErk :2005/12/17(土) 02:16:18 ID:/Jk0vcUJ0
>>867
「権力」を否定して「社会」を形成するのは不可能だよ。

俺のような小市民は、投票という「民主的手続き」を通じて
「権力」に対してお願いするばかりだ。

権力者は、公平であって欲しい、有能であって欲しい、寛大であって欲しい。
戦場に連れて行かないで欲しいと。

君がアナーキストなら何も言わんし、議論する気もないが。
871205:2005/12/22(木) 00:45:57 ID:cmduSKT+0
話は変わって、支那駐屯軍ー第27師団について。
支那駐屯軍は、北海道から九州に至る日本全国から選び抜かれた
甲種合格の現役兵で構成され、「眼鏡を掛けた兵卒は一人もいなかった。」
とされる。通州事件後の警備、広島第5師団と共に闘った山西省
忻口鎮戦では、壊滅的打撃を受ける(萱島部隊)。
昭和13年には、関東、東海の甲種合格の現役兵、補充要員には
昭和11年2.26事件において反乱軍として行動した近衛第3大隊
予備役兵も多勢いた。彼ら青年将校達は罰則として当時、最前線である
支那駐屯軍に配属された。また補充要員の半数以上が(旧制)中学校以上
の卒業者、そのまた半数は大学、専門学校卒業者であった。彼らの中には
東京大学を始め各大学出身者が多く入隊。特に目立ったのは、明治大学を
卒業したN見中将の子息が二等兵で入隊していたことで、下士官や古兵に
気合をかけられていた。インテリの多い支那駐屯軍は、後に武漢攻略で
ジャーナリストから「インテリー部隊」は強かったと言われるように
なった。支那駐屯軍の概要を書いておきました。
872名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2005/12/27(火) 22:46:25 ID:LgBYZp5h0
落ちそうなので保守
873205:2005/12/28(水) 00:41:56 ID:dS4oO3nR0
>871の萱島高部隊(第二聯隊)の第一大隊は、山口、浜田、熊本、
鹿児島、宮崎、大分、高崎、第二大隊は、水戸、宇都宮、松本、
第三大隊は、旭川、札幌で、牟田口廉也連隊長の第一聯隊も、広島師団区、
姫路師団区、弘前師団区等、それぞれ各師団、聯隊の選抜者。
これらの歴戦の古参兵と後に入隊したインテリ兵の第27師団は、
武漢攻略中最大の難所、麒麟峰で激戦した。
岡村寧次氏は、「路側に堵列した第二十七師団の各部隊を閲兵した。
その軍容の整然としたありさまを見て流石に現役師団だと思った。また
老兵の多い他の兵団と異なり若い者ぞろいで、真に新鮮な感じを受け、
大いに意を強くした。その後の実戦に当り第二十七師団は果敢奮闘し、
この私の期待を裏切らなかった。(中略)この師団のことに第一、
第二聯隊は、東京付近のインテリ兵が多いから戦闘行動はどうかしらと、
一部では疑問視されていたのであるが、戦闘が始まってみるとみな頗る
勇敢なので大いに安心し感心した。(中略)この閲兵式とインテリ兵の
勇敢との二つのことが最も深い印象として思いだされる。」と称えられた。
874むべ:2005/12/28(水) 00:56:23 ID:yveiG02e0
>>871
N見中将とは28師の納見師団長のことでしょうか?
28師は東京師団区で編成された部隊で32軍隷下宮古島で戦い、
32軍首脳がほとんど戦死したため
沖縄戦の降伏文書の調印は納見中将が行い、
中将は武装解除、兵の復員の目途が立った後
昭和20年12月に自決しています。
無責任な軍首脳が多かった中で自分の責任を全うした
数少ない将軍の一人です。
875205:2005/12/28(水) 23:32:39 ID:0/AtIvq30
>>874
N見中将とは、能見敏郎氏のことではないのです。
それとN見中将の息子さんは、軍事教練でかなり気合を入れられた
そうなので、ご本人が、辛い思いをしたのではないかと、N見中将と
したのです。納見氏とは別人です。

ちなみに、第28師団長の能見敏郎氏は、広島県尾道市出身。南寧戦では、
郷土の地元、福山第41連隊長でした。敵軍の強圧に納見連隊長は、
今村均師団長に出撃をこん請し、2個中隊抽出指揮しました。
(今村氏は6個中隊抽出を提案されたが、納見41連隊長は、それでは
防備に支障をきたすことを懸念され、しかも我が福山連隊なら2個中隊で
やり遂げるに違いないと決意された。)以前書いたように、敵の意表を
突いて奇襲攻撃を敢行。今村氏は「南寧防御戦を出来たのは福山第41
連隊の奮戦のお陰である。」後に福山連隊が感状授与となった訳です。
876名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/01/02(月) 14:33:45 ID:7mvbCAYw0
>>875
安芸ほどじゃなくても、備後兵でも十分強い広島兵。他とは段違いの強さ。
ヤクザ者で虚勢ばかり強い九州、前進一速後退五速ギアの大阪、進むも退くもトロくさい東北・北海道、箸よ
り重い物を持つと腰が抜ける関東、いるんだかいないんだかわからない北陸・四国とは勝負にならんなw
877名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/01/02(月) 14:48:01 ID:T2CXefdJ0
広島人は駄目だな。
878名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/01/02(月) 22:07:16 ID:8IXbUkyr0
>>876
それが戦後、軍隊が無くなって『仁義亡き戦い』になるわけだな。
879名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/01/02(月) 23:53:20 ID:2n5vibG30
>>877
広島人は視野が狭い。
880名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/01/03(火) 00:05:44 ID:sYFl9RTa0
>>879
当時の広島の軍隊が広島出身者とは限らないのにね。
しかも当時のヨソの地域の軍隊を貶めてアピールする様は異常としかいいようがない。
軍ヲタが広島マンセーと騒いだ後、戦史の知識を丸写ししてるだけのレス
881205:2006/01/03(火) 02:38:50 ID:4SVSqHWJ0
>>876
作家の今東光氏が、「九州人はとかく大言壮語を好む癖がある。」
「九州人はハッタリだけで、九州の部隊がくると村人達は娘を全部隠した
もんだ。権力側につくと九州人ほど強くなる人種もないんでね。虎の威を
借る狐よ」今氏は、津軽藩士の家の出ですから幕末の九州兵の蛮行
(広島藩の農民出身兵士も九州兵の蛮行について述べてます。)を、
腹に据えかねる部分はあったでしょう。長州人は律儀として貶して
おりませんね。蛮行以外を弁護すると九州兵が虚勢を張るのも命がけの
わけで、立ち射ち等、敵味方に対し虚栄心が強く見栄っ張りともいえ
ますが、長所として捉えると正面を見すえて応戦するので戦死者の
ほとんどが眉間を射ち抜かれていたという勇猛無比で、日本人好みの
部隊でしょう。そして九州兵の性格の長所短所は歴史的・文化的・儒教的
影響か韓国人の性格に似ております。
東北兵は、老練さ、臨機応変に欠けますが、餓死しても命令のない限り
その場から離れないという忠誠心に強い特徴は、これも日本人の感性に
合致し、人気投票で高いでしょう。要は地域兵団をどのように見るかです。
882205:2006/01/03(火) 03:09:33 ID:4SVSqHWJ0
続いて近畿兵や関東兵も弱兵の代名詞でしたが、それぞれ活躍もして
おります。確かに軍中枢の評価は低く、宜昌作戦においても、警備師団の
中から、広島39D(藤)は、犠牲の多発が予想される最前線、善通寺
40D(鯨)は、石本部隊参加に比べ、行軍に弱いとされる都会兵の
大阪34D(椿)は後方、宇都宮33D(弓)は東北兵が混じっても
警備と雑魚兵団扱いでした。後の大阪34Dの大陸打通においての活躍を
考えると一概に言えません。
>>878
「仁義亡き」とはいえまいと思いますが、広島人は、もめるとすぐに
収まらんのです。性格も九州人が如く竹で割ったようにあっさりしとらん
ので長期戦となり、犠牲者も大勢出ます。まあ板違いじゃと思います。
>>880
広島の軍隊が広島出身とは限らない?郷土部隊のことでしょ。ほう、
初耳ですが、何処の地域の部隊が加わったんですか。その地域名を
言うて貰いましょうか。
883名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/01/04(水) 14:26:05 ID:AHkPGKhM0
>>875
N見中将って永見俊徳中将のことですか?
無天はわかりませんが陸大出身者では他に永見中将くらいしか該当しないような
884名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/01/04(水) 15:10:15 ID:KNI4WEoiO
山本五十六は群馬のどこ出身か知ってる方いますか?
885むべ:2006/01/06(金) 00:49:10 ID:8qAlMllp0
山本五十六は長岡の下級武士の家の出じゃなかったのか。
で、通った学校が小林虎三郎が米百俵で作った学校。
群馬出身とは初耳だ。
886名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/01/06(金) 14:16:05 ID:GYddCdpT0
>882

関東が弱兵?
北関東の兵は精強で有名では?
887205:2006/01/07(土) 00:02:03 ID:IqkBZulX0
>>883
永見氏以外にもおられると思いますが。将官事典等で調べられると良いで
しょう。わしからは、名前を挙げるつもりは、ありません。
>>886
関東が弱兵と断言しておりません。軍中枢からさほど重要視されて
おらんかったと言うたのです。宇都宮第14師団も戦歴として隣の
東海地区の名古屋第3師団と較べると歴戦・武勲があるわけでも無く、
勝利の戦闘でもない、一戦闘であるペリリュー島血戦を強調するのも、
北支戦線があっても戦歴に乏しいと言う裏返しでしょう。
北関東の兵士が精強で有名と言われるのは、どの資料か解りませんが、
「上州の長脇差、野州健児に水戸魂」と八路軍との戦闘で難戦苦戦の
連続であった旅団であった桐兵団兵士の方は書かれてます。
ニューギニアの浜田将兵が高崎115iに陣地構築や戦闘法を教え共に
闘った宇都宮51D兵士、支那駐屯軍における宇都宮師団区兵士と
広島師団区の兵士の交流を考え、また、むべさんの地元でもありますし、
今回は、遠慮して書きました。
888名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/01/07(土) 00:36:03 ID:3vTQOFhe0
ガダルやビルマで頑張ったじゃん。どっちもヒドイ負け方だけど・・・。
負けた理由は糧秣弾薬の不足というか、著しい補給不足だと思うけど。
兵の頑張りは半端ないんじゃない?
889名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/01/07(土) 02:05:33 ID:+YA/JbbV0
?
ガダルの2師団と38師団は関東ではない。
ニューギニアの41師団と51師団のことか?
ちなみに独混68の歩126はレイテだな。
890名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/01/08(日) 13:16:59 ID:TqBLDJyA0
>205
なかなか言い方って難しいね。
「モノも言い様で角が立つ」場合もあるし、そうじゃない時もある。
891むべ:2006/01/09(月) 00:50:46 ID:v+WYq+cG0
北関東の兵が精強かどうかは別として
過酷な戦場に投入されたことは確かでしょう。
14Dのパラオ、33Dのインパール、41、51Dのニューギニア。
兵は敵の銃弾よりも飢えと疫病で多くが亡くなった。
ニューギニアでは連合軍の兵員10分の1、実質兵力50分の1、弾薬100分の1の
戦力で終戦まで持ちこたえた。
ニューギニア担任の18軍3個師団20、41、51Dの兵員9万7千は
終戦時には1万3千にまで減っていた。
連合軍、特に豪州軍はこの地域に多くの兵を貼り付けねばならず
その点では負けたとはいえ賞賛に値する闘いだったと思う。



892205:2006/01/10(火) 00:01:53 ID:ehNm/urt0
>>890
そうですね。多少辛辣に言うただけで、他板でもわしは、集中攻撃を
受けました。まあ、他人がどう思おうが人格罵倒しようがどうでも
良いことですが。
>>891
南方戦線はそうですね。宇都宮33Dは、宜昌戦では、後方。
(余談、宜昌作戦では広島231聯隊が感状を授与されましたが、仮に
広島聯隊が参加してなければ、福山232聯隊が感状授与となったで
あろうほど両聯隊は活躍しました。山口233聯隊は、悲運の苦杯。
白河渡河戦でした。)錦江戦後、昭和16年に山西省、昭和17年には
ビルマ。
宇都宮41D(河)も山西省からニューギニアへ、高崎238iの
生存者は40名余りであったそうで。
宇都宮51D(基)も昭和16年、熱河省から南方へ。宇都宮兵団は、
桐兵団も含め何れも北支で戦闘した兵団であり、悲惨な戦闘は南方に
送られずとも、八路軍と闘った桐兵団(社会生活が営めないほど精神的
後遺症を受けた)も共通することですね。
893名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/01/10(火) 20:26:58 ID:E17GKxd40
同じ中国地方でも、姫路第10師団になってくると、攻撃担当が播磨の浜手の男たち(荒っぽく屋台を練る)だけになってくるからな・・・。
従軍したと思われる爺様方は一昔前まで祭りに出てきていたが、もう流石に年だ。
894205:2006/01/12(木) 01:35:14 ID:kdvjOCrV0
>892は、ベトナム戦争のように泥沼化した戦闘だったので、
社会生活が営めないほど精神的後遺症を受けた方もおられたと、訂正。
ニューギニア戦に参加した、広島第5師団の浜田第21聯隊の部隊に
授与された高山陣地の戦闘の賞詞文後半部分を記しておきます。
岩本准尉ハ敢然白兵戦ノ外ナシト右陣地ニ在リシ竹内兵長佐々木上等兵ト
共ニ各自手榴弾数発ヲ投擲シ白刃ヲ振ッテ左陣地ニ既ニ侵入シ在ル敵ニ
対シ突撃ヲ敢行セリ敵ハ猛烈ニ手榴弾ヲ持ッテ反攻セルモ我ガ岩本准尉
竹内兵長佐々木上等兵三名ノ猛烈ナル肉弾戦ニ依リ遂ニ浮足立テル折柄
准尉ハ敵三名ヲ刺殺シ敵ノ投ズル手榴弾ヲ投ゲ返シ奮戦中其ノ側背ニ躍リ
出タル竹内兵長亦銃剣ヲ奮ッテ敵二名ヲ刺殺シ続イテ佐々木上等兵之亦
敵中ニ躍リ出テ入リ敵二名ヲ刺殺セリ斯クノ如クシテ三名一致協力激闘ニ
依リ頑強ニ抵抗セル敵モ遂ニ悲鳴ヲ挙ゲ後退シ十六、二○完全ニ敵ヲ
撃退シ陣地ヲ確保セリ
右ノ如キハ旺盛ナル攻撃精神ト崇高ナル犠牲的精神ノ発露ニシテ衆ノ範ト
スルニ足ルモノト認メ茲ニ之ヲ賞ス
  昭和十八年九月三日
      第五十一師団長   中野英光
895205:2006/01/13(金) 02:53:33 ID:TJuj/vDY0
浜田第21聯隊、第九中隊は岩本准尉以下14名の少人数となり、
一個分隊の兵力に減少していたが、歴戦の歩21の勇士である。
一致団結し高山陣地を確保した。敵は一日千発以上の猛攻撃を繰り返し、
敵600名が猛烈なる砲と重機の掩護のもとに攻撃前進し、その内
約200名の敵が波状攻撃で肉迫して来た。岩本准尉の手記を要約、
『敵は勇敢で我が陣地前50m付近より交互に手榴弾を投げ自動小銃を
乱射しながら陣地30mまで肉迫して来た。この状況を見て私は
「よし今だ」と待機していた兵に一斉射撃を命じた。敵はあわてて見る
間に多数が陣地前方で薙ぎ倒された。新手の敵が死傷者を乗り越えて
手榴弾を投げつつ来襲した。敵の手榴弾素早くを投げ返して死物狂いで
応戦し斬り込みの時機を狙っていた。敵がやや浮き足立ったのが判った
ので、私は「今だ!全員突っ込め!」と命令し、生き残った全員が
「准尉に負けるな」と銃剣を揮い敵中に躍り込んだ。我々の捨て身の斬り
込みで、さしもの敵も攻撃を断念し死体を残して退却した。私は敵が退却
した後、激戦の中に失った戦友の屍に取りすがり抱きしめて大声で男泣きに
泣いた。「今は亡き戦友よ許してくれ」と。高橋大隊長と松本副官が馳せ
つけ、少人数で陣地を死守したことに感嘆し涙を流して喜ばれた。私が
部下の屍を抱いて男泣きしている姿をみて、大隊長も私に強く抱きつかれ
て涙を流して激励された。人間の信頼と愛情は死を賭してこそお互いに
通じ合うものだということを痛感した。』
896205:2006/01/13(金) 23:50:32 ID:ZSeRn1i/0
浜田第21聯隊第3大隊は、歴戦部隊であったのに、糧秣や弾薬の搬送に
当った地味な貢献にも健脚部隊の本領を発揮した。
  賞 詞
    歩兵第二十一聯隊第三大隊
「(中略)歴戦ノ戦闘部隊トシテ特ニ欲セザル任務ニモカカワラズ、
一糸乱レヌ統率ノモト大隊長以下栄養失調ニ犯サレタル全将兵一丸ト
ナリテ背負袋ヲ担イ、悪路ノ敵中ヲ突破大任ヲ果シ、危急ノ戦局ヲ有利ニ
導キタリ。コレ偏エニ光輝アル歴史ヲ有スル百戦錬磨困苦欠乏ニ耐エ抜ク
伝統ノシカシムルトコロニシテ、オヨソ長途ノ行軍ニオイテ体力ヲ消耗シ
尽キタ部隊トハ想像ダニデキズ、ソノ行動タルヤ真ニ犠牲的精神ニ他
ナラズ(中略)貴隊ノ行動コソ将ニ大隊長以下全員ヲ似ッテ之ヲ立証
シタルモノニシテ我ガ師団将兵ノ範トスルニ足ル。
  昭和十八年五月三十日
     第五十一師団長 陸軍中将 中野英光」
897名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/01/14(土) 01:10:22 ID:n6+PfT29O
>>885間違えました↓聞きたかったのは特殊潜航艇隊長岩佐中佐が群馬のどこ出身かです↓
898名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/01/14(土) 22:54:33 ID:hvvjXsHh0
大東亜戦争でのエピソードはありますか?
生きて帰還された方が少ないから難しいでしょか?
899名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/01/18(水) 11:47:38 ID:nKURr4uj0
いつも興味深く拝見しております。
私の伯父は福岡24聯隊で日華事変のころ中尉でした。寡黙な人で、全く当時のことを話しませんでした。
親父からの情報では、「杭州湾上陸」とか「ボルネオの飛行場大隊で武装解除」とかその程度です。
所謂職業軍人でしたから、それなりに「何か」ありそうなのですが、負けたことが相当悔しかったのでしょうか。
家宝の刀を軍刀にして持って行き、武装解除で取り上げられたらしいです。
近所には、インパ−ル作戦の生き残りの人がいます。一昔前までは、このような老人がそこそこおられましたが
ほとんど鬼籍に入られました。
900名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/01/18(水) 18:32:40 ID:G9rPmBE40
900
901205:2006/01/19(木) 19:57:53 ID:ksn1N2tS0
>>899
「杭州湾」「ボルネオ」から久留米第18師団の福岡第124聯隊の
ことだと思います。福岡第124聯隊は、久留米第18師団(菊)から
離され、蘭印戦後ガ島に送られ全滅に再建し、第31師団(列)所属と
なり、今度はビルマで苦労した部隊です。郷土兵団から離された後、
全滅のとなった広島第5師団福山第41聯隊と共通する悲運でした。
902899:2006/01/19(木) 20:33:52 ID:ZmGzfliY0
>>901>>205)さんレス有り難うございました。第124聯隊だったのですね。存在は知っておりました。高崎伝氏の
「最悪の戦場に奇跡はなかった」という本に苦労のようすが書かれていましたが、その中で、どこか(失念)
に駆けつけたとき、「博多の聯隊だ」というと、「日本一強い聯隊が来てくれた」と泣いて喜ばれたとあります。
日本一かどうかは別として、そのような一般の評価はあったのでしょうね。その先輩たちの勇猛さを知ると、
我が身を振り返って情けなくなるときがあります。
木下恵介監督の「陸軍」という映画には、わが郷土の聯隊が博多の街を行進する姿がでてきます。空襲前の
旧い街並みと「日本一」の聯隊の姿は貴重ですが、撮影当時(昭和19年)の福岡聯隊は留守部隊しかおらず、
エキストラは「日本一」の残りのヒトビトだったかもしれませんね。長々失礼しました。
903205:2006/01/21(土) 00:17:56 ID:3oiSxmj/0
>>902
高崎伝氏のそれは、実績とは関係なく、九州人らしく「日本一」と
ラッパを吹く強気は良しとしても、捕虜の首を切った事等の降った者に
対する行為をも勇猛とされておられるようで、どうも・・・。
>887の「上州の長脇差、野州健児に水戸魂」で引用しました
関東兵団桑島節郎氏の『華北戦記』の方が、その点読み易かったのです。
九州部隊は、強者にも弱者にも勇猛といえばそれまでですが。
久留米第18師団は、シンガポール戦でも、速攻でブキテマ東方面に
進出した広島第5師団へ追いつく為、兵站を無視し、テンガー占領後、
ろくに付近を掃討せずブキテマ方面に前進し、第25軍司令部が
危機一発となったこともあり、緻密さに欠ける大雑把な部分も
ありましたが、勢いに任せる勇猛な闘いも九州部隊らしいとも言えます。
904899:2006/01/21(土) 19:45:57 ID:ZyviGDgH0
>>903
大雑把に九州の部隊といっておきますが、たしかに所謂「残虐な日本兵」の印象の一部を担ったのは
確かだったでしょう。前出の高崎氏の別の手記でも「捕虜を生かして帰したことはなかった」とありますし。
それが正しい選択だったのかどうかはわかりません。現在の後知恵で評価することは困難ですから。
少なくとも、私は非難する気にはなれません。
一介の平凡な人間である私も、極限状態ではそうなるものか。ならないで済むのか。
我が先輩達はそうなってしまったのでしょう。汚点もあるでしょうが、郷土の先輩達を誇りに思って
おります。貴殿が郷土広島の師団を誇りに思うがごとく
905むべ:2006/01/22(日) 23:56:39 ID:K/xtLpF90
>>897
確か、お尋ねの人物かどうかわからないが
江田島の幹部学校の展示室に遺書があったような記憶がある。
岩舟出身、前橋中学から海士じゃなかったかな?
部下が全員、西日本出身でただ一人群馬出身だったから印象に残った。
906むべ:2006/01/23(月) 00:04:36 ID:4O3jOA3w0
>>904
九州出身の兵が強いというのは戦国の島津や
西南の役の印象が強いからではないのでしょうか。
上海事変のときの肉弾三勇士も久留米の工兵であり
九州兵は勇猛で命知らずとの評判が出たのでしょう。
907205:2006/01/24(火) 01:25:24 ID:owFfd1cO0
>>904
わしが、捕虜虐殺に眉をしかめるのは、郷土の古老から善悪を学んだ
価値観、つまり郷土的価値観であることを、否定しません。闘う意思を
持った相手なら兎も角、やはり降った者を殺すのは当事者でなくとも
罪悪感を覚えるのです。子供の頃抵抗せん相手を殴った罪悪感の痛みと
似ておるかも知れません。捕虜の処遇については、広島では原爆投下後、
郷土戦闘体験者が戦地におらぬ市民は「酷いことをするのう」と云われた
よう米軍捕虜をリンチした市民もあり、大きな事は言えませんが、
某元長崎市長の広島第五師団は犯罪集団発言には、到底同意出来ません。
その反発もありますが、広島部隊は、極限状態においても、むしろ敵に
対し温情を持って接した、代表的部隊であったことは度々書きました。
日本民族は古来、今村均氏の云われるよう「窮鳥懐に入れば、猟師も
これを殺してはならない」ことを重視しておりましたが、一方で弱小で
あろうと強大な相手であろうと命を賭け対決しておるのであって他の
感情が入りこんではならないと云う価値観もあったでしょう。
また地域風土による違い、広島の浄土真宗的価値観と九州の儒教的価値観
の違いでもあったでしょう。九州の部隊は、度胸試しである、敵の頸を
斬らんことが臆病者にされる傾向が部隊ぐるみの集団群集心理にあった
のではないかと思えます。幕末以前の時代から仲間に対する勇者証明の
見栄から、そうしたのかも知れません。九州兵団が近畿兵団の合理的
出兵拒否を臆病と決め付け罵倒するあたりは。近畿兵団では、逆に
芷江作戦時のように「お前は何の為に参加したのか」と馬鹿にされる
でしょう。その近畿兵団も衡陽では九州兵団に優るとも劣らぬ活躍を
しております。
908名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/01/24(火) 01:37:08 ID:RJm0KBpY0
最近かの有名な陸軍参謀本部指揮下の『満州第731部隊』の、
石井部隊長の日記が部隊長付の某女中の家から発見され、
TVで放送されて話題になったけど、
帝銀事件の真犯人も旧731部隊員っていうことでいいんですね。
909904:2006/01/24(火) 19:19:31 ID:vGyQT3DX0
>>906さんレス有り難うございます。肉弾三勇士の手柄(?)は短い導火線で無理に突撃した事故だったと聞いております。
しかも、かれら英霊は所謂部落出身者であったと。ここにも哀しいかな北部九州の負の環境があるようです。
>>907さんのご指摘も私は理解できます。ただ、古来より連綿と続く郷土の人たちが、なぜこのように勇猛であり、命知らずであり
残虐であったのか。私の一番の思いは、そうした先輩達と自分自身との繋がり乃至接点です。
前にも書きましたが、こんな自分でも、同じようになるのか?ならずにブン殴られるのか?それだけではありません。
はたして、銃剣で機関銃の弾幕に突撃できるのだろうか?その他色々。
私は体力にはそこそこ自信はありますが、それでも信じられないような気がします。やっぱり、先輩方を尊敬するしかありませぬ。

910名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/01/25(水) 18:13:07 ID:qWAVTcDT0
白馬青牛
頑張れ

【江上】騎馬民族説は今。。。vol.4【波夫】
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1135934774/
911名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/01/25(水) 20:11:28 ID://I92MXkO
>>905ありがとうございます!!祖父がよく言っていたので。
野墓な質問ですけど、高崎の十五連隊の事を教えてもらえませんか?
912205:2006/01/27(金) 01:54:31 ID:LPrXw3Sp0
>>910
応援して、いただくのはありがたいのですが、それは、このスレとは
関係の薄い話ばかりです。
>907の日本軍が惨敗した芷江作戦のとき衡陽攻略に激戦した経験を
持つ大阪第68師団では、将校、下士官、古参兵の入院(出兵拒否)が
相次いだ。芷江作戦開始前に「部隊はオトリとして使用される」という
噂が流れ、入院者はオトリになることを嫌がった。
芷江作戦に参加し、1、2、3、5各中隊長戦死、他は負傷という多大な
犠牲を強いられた兵隊達は、入院して参加しなかった兵隊達から、
「何の為に参加したのか」と馬鹿にされたと言うことです。
山西省の忻口鎮陣地攻撃と並んで「昭和の203高地」と名高い衡陽陣地
攻略で、近畿兵団の苦闘に軍は、勇猛に名高い熊本第58師団を、
第三次攻撃に参加したが、強引な強襲で熊本第58師団は、歩兵十二個
中隊で大隊長全員戦死、将校は聯隊中十名生存、中隊5名の所もあったと
言う。(熊本第58師団の大陸打通作戦から終戦までの戦死、戦病死者、
生死不明者の合計は7、368名。終戦まで他の戦闘損害も含まれるが、
推定半数の将兵が直接この作戦で犠牲になったことは間違いないと
思われる。熊本58Dに配属されこともある広島39DのM挺身隊兵士の
記録、広島64Dへ転入された元熊本兵団兵士の回想からも相当な犠牲を
払ったとされる。)その中、近畿兵団は、横山勇司令官に感状を授与
される活躍をした。また防戦敵軍、方先覚の統師する三万将兵、
糧秣欠乏の中の善戦健闘は降伏したものの、逆感状を与えてもよい活躍、
天晴なもので敬意を表したい。
913名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/01/27(金) 20:22:19 ID:wIIBYkne0
スレ違いかもしれないが、
今日の読売の検証・戦争責任Hを読むと、
統率の外道=特攻の発案者>黒島亀人海軍軍令部第2部長(広島出身)は、
陸海合わせ約1万人(読売では9564人)の前途有望な若者を無駄死にさせた張本人のくせに、
なんと戦後20年=昭和40年、72歳まで生きていた。
こんなことまかり通っていいのか?
黒島こそ終戦記念日に切腹すべき、
少なくとも戦犯で絞首刑じゃなきゃおかしいよ。
しかしコイツよくおめおめと戦後20年も生きてたな、
恥さらしの権化だ!!
このこと当時の人は何とも思わなかったのか?
914名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/01/27(金) 23:59:10 ID:RuY78Aje0
>>903
あの人は、真珠湾攻撃計画の実務を担当したことしか知りませんでした。
読売読んでないので詳細は知りませんが、そのようなことであったとしても
所謂「戦犯」(東京裁判)では裁けないと思います。もちろんBC級でもです。
GHQの言う罪状に該当しないですよね?
自決はそこそこの地位でもされている方がおられるので、どうなんでしょうかね。
ハギレが悪くてすみません。貴方が言われる意味は理解しているつもりです。
915むべ:2006/01/28(土) 00:39:01 ID:F5ywIyqM0
陸軍の特攻の責任者は在フィリピンの第4航空軍司令官富永恭次だった。
彼は死に行く特攻隊員に「お前らだけを死なせはしない、わしも必ず後に続く」
と訓示しておきながらフィリピンの戦況が悪化すると、
単独でフィリピンを脱出、敵前逃亡して終戦まで生き抜いた。
富永の副官は終戦の日に自殺。彼の家族全員が後を追った。
そういえば牟田口や辻、服部など戦争中威勢のいいこと言っていた連中は
ほとんど生き残っているな。

916913:2006/01/28(土) 16:10:50 ID:NOVAMqG60
>>914
913へのレスと解釈させていただきます。
913の戦犯というのはもちろん所謂「戦犯」の意味でなく広義の戦犯です。
故意に(結果として1万人もの)日本人の若者を殺す計画立てたんですよ。
そんな人間がどうして生きながらえることできるのか?
全く無責任の一語だと思います。
917914:2006/01/28(土) 19:03:27 ID:rERDubha0
>>916
大変失礼しました。アンカ−ミスです。ご配慮感謝します。
貴方の言われることは、前にも書いたとおり理解しているつもりです。敗戦によって
強力なGHQが敗戦日本を支配して軍事裁判をしたおかげで(?)日本国民は自力で
なす術が無かったと思います。貴方の持論を具現化するには、日本国内で国民の
名において裁判をする必要があったでしょう。しかし、そうであっても訴追するための
法律がありません。GHQはむりやり条例を作って事後法にもかかわらず当てはめましたが、
当時の日本に彼らを裁く法律も実施する権力も存在していなかったと思います。
>>915さんが言われるように、国民にとってはまさに国賊のような人たちをどうにかして裁きたい
とは思いますが、「裁判」という法律手段に訴えることは不可能だと思います。ましてや、国会議員に当選した
人までいるにつけては、何をかいわんやであります。
918名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/01/29(日) 19:12:51 ID:Re0Y9Y9J0
>>916
そこに義憤を感じられるなら、某板の3大有名人牟田口簾也、辻政信、富永恭次について
お調べになる事をお勧めしますw

ついでに戦争”犯罪者”という言葉は、作戦の指揮・立案者には(それがどんな非道なものであっても)
使われるものではないと思います。
戦争犯罪とは、国際条約に規定される捕虜の虐待、市民の虐殺等に適用されるべきかと。
919205:2006/01/31(火) 22:50:19 ID:bOrtlwkS0
忻口鎮の戦闘で辻政信氏も含む人間関係の確執について、当時
二十一旅団司令部犬塚大尉の回想から要約すると、
「南條堡付近の戦闘時、粟飯原(浜田第21)聯隊長は歯が悪いので
当番兵が温めた弁当を出した。側で見ていた辻参謀は戦塵の中で贅沢だと
内心怒ったらしい。爾後聯隊長に悪感情を持つに至った様である。」
忻口鎮の戦闘で、「山口聯隊の一将校が丸裸で旅団司令部へ来て『聯隊は
全滅です』と悲痛な声を出した。と辻参謀が『何が全滅だ、お前が生きて
おるではないか』と怒号した。私は将校を慰め『苦しい時は敵も味方も
苦しい。我慢して聯隊に帰れ』と言うと『私は卑怯者でしょうか』と
泣きながら帰って行った。」
「西村参謀長と辻参謀は粟飯原浜田21聯隊長に良い感情を持っていない。
粟飯原大佐が聯隊長になられ閲兵の時、内地ではめったに見られない
英国製の長靴を履いて同じく外国製の鞭を持って師団長に随行したところ、
西村参謀長が兵にまで聞こえる大声で『聯隊長鞭を捨てろ!』と大喝した。
これは異常だと感じたが爾来悪い方へ悪い方へ進んでゆき遂に戦場まで
続いた。参謀長も悪い人ではない。正直な人だが一徹な所があった。」
920205:2006/01/31(火) 23:46:17 ID:bOrtlwkS0
当時21聯隊本部付、水谷曹長の回想の要約。
「北支方面軍参謀辻政信大尉が第一線部隊の戦闘指導の為聯隊本部に
ありて将校マントを着用し常に前線に出て掩壕の上より双眼鏡を持って
敵情を視察し、時には兵と共に敵弾下で焼藷を食べる等豪胆ともみえる
参謀であった。(中略)辻参謀は速やかに敵陣地の中央を突破し敵の
背後に進出するよう執拗に強要した。粟飯原聯隊長は『現在の戦況より
して、この上の中央突破は無謀で徒らに大きな犠牲を払うばかりだ』と
言われた。辻参謀は『方面軍の命令指示に従がえないのか』と言葉を
荒げた。また辻参謀は『第一大隊より一部兵力を主力方面に抽出転用し
敵の退路を遮断させよ』と言う。聯隊長は『敵は兵力を増強し既に大隊の
背後に迫り包囲態勢をとりつつありて今兵力を抽出することは無理だ』と
言われた。そこでまた辻参謀は『戦場で仏心で戦に勝てると思うのか』と
怒号した。辻参謀は持ち前の強い性格による自信過剰と自己顕示欲とで、
命令系統を無視して上級司令部の権威を笠に、いわゆる幕僚統帥を
おこなった。その犠牲を粟飯原聯隊は真面に受けたと言っても過言では
ないと思う。
たまたま終戦後、元参謀辻政信氏が山口県岩国小学校講堂に於いて、
衆議院立候補者の応援に来られた時、私も面談する機会があり、山西省
忻口鎮戦の話をした所、『あの時は自分も若い参謀で21聯隊には随分
無理を言って申し訳なかった』と語られておられた。」
921名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/02/03(金) 22:13:56 ID:X9jRJd+C0
私の祖父も>>790氏と同じ静岡連隊だったのですが
(と言ってもおっさん二等兵でしたが)
応召して満州へ行ったら終戦になったのでシベリア送りになった、という話をしていました

一方、ググると南方へ行った話もあり、終戦が漢口だったという話もあり(三国連太郎とか)
微妙に話がいろいろあるのですが、部隊の戦歴一覧みたいなのがわかるとこってないですかね?
祖父の仕事仲間のおじさんは「乗ってた船が沈んで…」という話をしていたので、
独立なんとか連隊のほうとごっちゃになってるのかもしれませんが
922名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/02/07(火) 21:59:29 ID:vNpnjKyY0
辻ーんの話は板違いじゃね
923205:2006/02/09(木) 23:17:55 ID:+7ZzMoeR0
>>921
静岡の各部隊について、終戦時等明解に答えることが出来ませんが、
満洲で終戦となったといえば、宇都宮第63師団(石)の独歩24、
25大隊は、名古屋師団からの編入です。静岡の部隊が含まれておったか
解りません。
華中で終戦となった第65師団(専)は名古屋、熊本師団区の兵員で
構成され、独歩134、135、136大隊あたりを調べられると良いと
思います。また広島第39師団、善通寺第40師団、熊本第58師団の
転入者で構成された第5旅団(悟)にも静岡聯隊から配属された方も
おられました。
>>922
辻さんの話は切りがないですが、部隊の歴史も含んでおるので板違いとも
言えません。ただし>919では、山口聯隊が平型関で辻氏の命令通り
戦闘して多大な損害を出した事や、忻口鎮、太原戦後「辻さんが
粟飯原さんの悪口を中央部で言い廻っておる」話は省略しました。
924むべ:2006/02/11(土) 02:17:22 ID:N2vXXKd20
辻の同じような話はガダルカナルでもある。
第三次攻撃の時の攻撃ルートをめぐって
川口支隊の川口少将と対立した挙句に
大本営の参謀ながら少佐だった辻が少将を解任。
戦後、辻は「少将は戦闘直前でありながらビールを飲んでいた」と
自分の本に書き、
少将は「あれはビールではなく
ビール瓶を水筒代わりに水を詰めた物だった」と反論。
同じ本で辻がガ島上陸の際のことを書いている。
痩せこけた兵達が「手伝わせて下さい」と米などの運搬を手伝ってくれたが
兵達はとんだ食わせ者、運ぶふりをして米を盗んでしまったと書いた。
兵が米泥棒をしなければならないほど飢えてしまった責任は誰にあるのか?
辻のような大本営の参謀が補給を軽視し、根拠もなく敵を侮って
まともな作戦指導をしなかったからだ。
責任を棚に上げての書き様に
ガ島の生き残りの多くが憤ったそうだ。



925205:2006/02/15(水) 23:48:59 ID:tjOTFJ2k0
逆に軍や参謀の言いなりにならなかった例として、初代広島231聯隊長
横山武彦氏(広島県高田郡吉田町、現安芸高田市出身)は、宜昌作戦の
おり、山口233聯隊が多大な犠牲を出した白河渡河で、夜半渡河せよ
との第11軍の命令を拒否し、独断で渡河し勇将の側面も強いが、
部下思いの聯隊長でもあった。
その例として、夜間到着し休養のとれぬままの早朝行軍に「そんなに
早くては兵隊が死んでしまう。」と聯隊長の独断で出発を数時間遅らせた。
参謀に、「歩兵は消耗品ではない。帰って師団長(初代村上啓作氏)によく
伝えよ。」また、行軍の中「何処まで行かしあがるんか」と兵隊が言って
いるのを聞かれ、「中隊長、兵隊は何も知らずに歩くので大儀がっている。
よく状況を説明してやれ。」と言われ、「遅れたら遅れたで良いから、
兵隊を走らせたりせず、そのままの体勢でついて来い。」と。
結果として、広島231聯隊は、歴戦の名古屋第3師団、仙台13師団、
池田支隊(熊本第6師団鹿児島第45聯隊)よりも、常に前線で闘い、
他師団を後塵せしめエースの座を確保する活躍をした。
926名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/02/18(土) 23:45:49 ID:oMUvEc2F0
また広島自慢かよ
927名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/02/19(日) 10:52:45 ID:6rCTqRUP0
>>925
925 :205:2006/02/15(水)まで読んだ
928名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/02/20(月) 14:52:26 ID:vZt9v4sy0
?
929名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/02/20(月) 15:02:33 ID:PUEs2CsT0
さすがこのスレに出て来る軍都は風格都市として認知されてるようだ。
歴史、文化人、有力藩主、藩校、城下町、名城、軍、ナンバースクール、旧帝国大、このあたりがキーワードかな?

日本風格都市ベスト10

1 東京 
2 京都 
3 大阪 
4 名古屋 
5 金沢 
6 岡山 
7 熊本 
8 仙台 
9 姫路 
10 鹿児島

http://www.gengetsu.ne.jp/report/kaiho9/fukaku.htm
城下町であったか、軍都であったか、学都であったかなどを子細に検討されている。
歴史、規律、教育などが風格を形作り、人や町や国を育てていく要素になると考えられているようだ。
930名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/02/22(水) 13:43:08 ID:VmjCni/P0
う〜む、風格で東京が一位というのは・・・。
難しい判断だね。
931むべ:2006/02/22(水) 23:37:31 ID:omsF1Pt00
風格は個人の判断によるから別にして
城跡に連隊司令部と駐屯地が設置されたから
城下町が軍都になる例は多かった。
>>929のような大きな町でなくても高田とか弘前、佐倉などは
日本人の故郷のような良い町だと思う。
そういう町から出征した兵たちに思いを馳せて堀端の桜を眺めるのが好きだ。
やっぱり、じじ臭いか。
932名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/02/24(金) 13:58:19 ID:dUKOOoD40
良いんでないの
933205:2006/03/01(水) 02:50:07 ID:EYQEZzGK0
>>929
風格等どうでも良いが、軍都廣島は全国兵士が宇品港から出征した。
>311で引用した、石田義顕少将(陸軍王国の山口県徳山出身)の
執筆寄稿文から『憧れの歩十一』に「昭和二年の四月、北鮮羅南の
旅団副官から転じ、ようやく憧れの広島11聯隊付に補せられ、我が憧れの
希望を十分に満足し得て余りありというべく第一の故郷に優る第二の故郷と
なる、それほどの奇縁まことに感謝に堪えない。」
「郷土に誇る美点、精神はその伝統の中に躍動し続け、それが平時諸般の
成績上に現れ、戦時において遺憾なく発揮され、あの赫々たる武勲となり、
いまも歴史を飾るものとして残るのだ。旧広島聯隊管区の壮丁は、
誠実機敏にして勇敢、成績は常に優良の部を貫き通し」
「最も印象的な存在は十一聯隊の西営庭に聳える老楠の大木である。
いつまでも長寿を保ち我らの歴史を視つめて居ておくれと祈らないで
おれなかった気持ち・・・」
今もその老楠は、原爆に耐え存在し我らの歴史を視つめております。
934名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/03/02(木) 22:19:57 ID:eU4tsjOi0
>>929
まだそんなもん貼ってんのかよ?何年前のだよ。

ド左翼の辻村明著「地方都市の風格」の嘘なんてさんざん暴露されたろ?

このジジイと出版で関係がある出版社のある県や、
このジジイの出身地、ジジイの関係してる県はすべて
このランクの上位に入ってる。
まったくくだらん本だ。
釣られないように。
935むべ:2006/03/05(日) 00:19:19 ID:UR4dY6Yl0
そんなに目くじらたてなさんな。
学術書じゃあるまいし本なんてのは作者の思い入れが入っているのは当然。
それを差っ引いて読むのが大人の読書だ。

936小石川@アミノ酸:2006/03/05(日) 01:00:22 ID:pM/KnyFO0
タイでは95式軽戦車がレストアされて観光客でも乗れるらしい。
日本の某社にエンジンの補習をタイ陸軍から依頼されるも、日本のアレな
人達が騒ぎ出すのを恐れて断ったとか。
時間が有れば乗りに行きたい。土日はさんでスケジュール組めばなんとかなるかな。
つでに久々にM16やAK47撃ちに行くか・・・・
937むべ:2006/03/05(日) 01:16:36 ID:UR4dY6Yl0
日本の蒸気機関車でさえ部品をつくる技術者がいなくて
部品供給用の機関車をストックしていると聞いた。
それと同様、いくら製造元でも60年前のエンジンの部品を作るのは
難しいような気がする。
938205:2006/03/09(木) 23:58:49 ID:dbgThigh0
広島第5師団第11聯隊の戦記から、青島を訪れた慰問団のこと。
『一番腹が立ったのは広島県会議員団の慰問だった。同郷の議員の慰問と
いうので重傷者は担架で、歩けない者は背負われて講堂に集まったので
ある。三十分待ち、一時間待った。痛みを訴える兵もいたが講堂から
去らなかった。(中略)ドカドカと五名の議員団が姿を見せ、驚いたこと
には五名は酒気を帯び、一名は立っているのがヤットと言う姿である。
それでも軍医が一名前に出して挨拶をして広島県の兵ばかりであることを
述べた。一議員が議員団を代表してか、
「皆さんご苦労さまです。一日も早く快くなられることを望みます。では
之で」で終り。又ドカドカ出て行った。二時間以上待たされて、有難い
お言葉を戴いたのは十秒であった。
先生、議員さんと言われている内に人間は偉くなるものである。
一銭五厘で、赤紙一枚で大切な命を皇軍の為に捧げる奴は大阿呆者に
見えたのであろうか。皇軍慰問の名で税金を使い態の良い海外見物をやる
議員の目に重傷者や手足を失った兵がどのように映ったか・・・」』
939205:2006/03/11(土) 23:45:29 ID:sA27w4dd0
続き。『終戦後、このとき酒に酔ってフラフラしていた議員が立候補の
挨拶と票纒めの依頼の依頼に来た。彼(宮○一等兵)は、その議員を
応接間に通し、政策とか公約らしきものを引出そうとしたが、この先生、
議員と言われることが嬉しくて生きているらしく頭の中には県民の代表と
して県政にという何物をも持合わせていないようだった。彼は意地悪く
青島での出来事を話して協力する気のないことを告げた。票にならない
処におる必要なしと青島以上の早さで帰った。議員とはこんな男でないと
勤まらないものであることを彼は知った。』
逆に『宮○一等兵を一番喜ばしたのはコロンビアの二葉あき子である。
彼女は講堂でショーが終わると舞台衣装をぬぎ化粧を落とすと外科第一号
室に入った。宮○一等兵がいる部屋である。そこには広島市二葉ノ里出身の
兵が負傷して入院しており彼女の家と隣だったとかで、その兵を見舞った
のである。「今日本で流行している歌はなんです」とある兵が聞く「支那の
夜という歌なんですよ」と答えて現在、内地で流行していること、松竹では
映画化し、主演は林長次郎と支那娘の李香蘭になるらしいことなどを話した
後、ピアノを弾き「支那の夜」を唄って聞かせた。そのあと五線に
おたまじゃくしを並べその下に歌詩を書いてくれたものである。』
940205:2006/03/17(金) 22:30:55 ID:nzNT2zlv0
慰問団の話は様々で、広島第39師団でも松竹歌劇団の訪問の時には、
『舞台の上を突如銃弾が流れた。独唱していた、風見章子が、胸に手を
あてるようにして思わず身をすくめた。
「大丈夫じゃ、あたりゃせん!やりんさい!」広島弁の野次が飛んだ。
遠来の日本娘たちを威嚇しようとするのか。銃声に混じって追撃砲弾が
落下しだした。慰問講演どころではなくなった。何中隊かの兵隊が、
非常呼集を掛けられて、急ぎ駆け去っていった。
東宝慰問団の時は、慰問公演が終わった後、彼女達の希望で第一線陣地を
案内した。案内役の兵に外の兵が焼き餅を焼いた。彼女達の下着が盗まれる
ということで、専属の不寝番を立たせることになったが、志願者が多く、
本部ではその人選に苦慮した。一年振りに見る日本娘が恋しく、慰問公演が
終わった後も、暗くなるまで兵隊達が彼女達を囲んで、山の陣地に戻りた
がらなかった。』
941205:2006/03/17(金) 22:54:23 ID:nzNT2zlv0
>925に書いた横山聯隊長のエピソードに、
『第一大隊本部の全員が天婦羅の食中毒を起こした。原因に炊事兵が
食用油と間違えて使った油が桐油だった為で、この為吉満大隊長以下が
猛烈な下痢に悩まされた。これを聞いた横山大佐がカンカンに怒り、
「自後第一大隊は天ぷらを禁ず」という珍妙な聯隊長命令を出した。
故意にやった訳ではない、多忙な戦陣間の間違いであったが、横山大佐は
少年のように怒り、無知でわがままな命令を出した。
横山大佐の慎重な面は良いにしても、児戯に似た神経質すぎるところが
あって決して一等大佐とは思えなかった。』との評価もあります。
しかし、部下に対しても思いやりのある聯隊長であったことには違いない。
942名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/03/22(水) 16:04:59 ID:FF6TK1BN0
富山だと瀬島龍三参謀かな
943205:2006/03/28(火) 23:26:57 ID:Kbs0QA9R0
宜昌作戦後、体力の限界をはるかに越えた行軍・戦闘から、
広島第231聯隊は、下痢、大腸炎、マラリア脚気患者が次から次と
出てきた。漢口の軍司令部でも、「聯隊は精強でよい部隊であるが、今の
ところ病人が多い、」との評だった。第二代聯隊長大佐着任当時、患者者が
多く、各中隊戦力は、二、三割減という実態であった。中隊員が200名に
満たない警備師団では、中隊員数が多い重量戦闘師団よりも戦力減は
苦しい。梶浦聯隊長最初の仕事は健兵対策で、食品の煮沸殺菌、用便後の
手指の消毒、糞便に群がる蠅や蚊の駆逐、「不動の姿勢をとっている時と
いえども、蚊が止まったらたたいてよし」と不動の姿勢は軍人基本の姿勢
であったにもかかわらず徹底していた。
「マラリアや 潰れるほどに 布団着せ」とマラリアは、「おい、
寒いけえ布団を掛けて呉れい」悪寒戦慄の激しさに布団を四、五枚掛け
ても、ふるいは止まらず、戦友が布団の上に乗ってふるいを止めさせる。
悪寒が去ると四十度の高熱を発し、三日熱・四日熱と毎日続く。
風土病には、揚子江の魚を刺身で食うと、首に大きなコブが出来、だんだん
下がって腕の関節まで来ると何時の間にか消えるという病気である。
胸から腹に来ると命はない。とのこと。
944名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/03/30(木) 13:47:17 ID:SBKtC+lb0
お前まだ生きてたんだ
945名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/04/02(日) 11:05:18 ID:kk8xhXjc0
★国内一の衰退都市広島のここ1年★
■郵政公社が広島郵便貯金ホールを来年廃止決定、厚生年金会館も廃止の方向へ【good】
■社会人口減が止まらず、全国4位の減少数と発表がある
■止まらない支社・支店の撤退、Jエア・デオデオ等の本社機能流出で地域中枢性低下が顕著に
■都市型産業の減少日本一と発表され、名実共に国内一の衰退都市となる※参考日経【great!】
■サッポロ飲料、丸紅、ローソン、ヤマハなどなど相次ぎ広島支店閉鎖、札幌仙台福岡は当然存続
■ヴァージン、丸善、ダイエー2店鋪、ファッションビルが廃業撤退、映画館が次々と閉館でアンケート結果でも中心部衰退が浮き彫りに【cool】
■2002〜2005年度に国内で廃校した大学・短大15校の内4校が広島都市圏の大学短大【great!】
■第二地銀が山口銀行に吸収される、広島経済に大打撃、山口銀行はムーディーズ格付が下がりリストラは必至【great!】
■駅前Aブロック、紙屋町シャレオがことごとく赤字で退出店鋪相次ぐ
■超高層ビル計画他頓挫が続く、京都を除く政令市唯一4年間着工・計画決定全くなし【cool】
■百貨店売り上げが前年比平均10%ダウン、中心部の集客力低下が顕著に【good】
■広島に本社を置く企業や拠点が続々と撤退、デオデオ本社機能も一部移転5年後完全移転が発覚【great!】
■大喜びし、期待に胸を膨らませていた宇品地区の妄想マンション計画、ふたを開けてみれば15階建てマンションでした 【good】
■都心部の空室率が依然として悪化、賃料値下げするも改善の見込みは全くなく衰退都市の定番路線をひた進む【good】
■大都市圏、地方主要都市が回復する中、今年も都心部の地価下落が止まらず、更なる衰退が浮き彫りに【cool】
■学生の就職内定率が今年も大幅に全国平均を下回る、有効求人倍率の底上げは郊外スーパーのパート需要【good】
■財政悪化のために広島市長が「財政非常事態宣言」を出す、この影響で続々と中止縮小する計画が出る【cool】
946●新宿クーミン ◆Tokyo/FXYA :2006/04/02(日) 22:38:38 ID:pCSdjVKI0
このスレ、この板では一番の長寿スレになりましたな…。
実は>>1は僕ですw
947支那事変(日中戦争)の原因:2006/04/03(月) 17:57:23 ID:PkFpChTj0

17 :名無しさんの主張 :2006/02/13(月) 23:15:57

シナ人は丸腰の日本の民間人を残虐な方法で何百人も殺してるけどな。

子供の足をつかんで振り回し壁に打ち付けて殺したり、
日本人の女の人を片っ端から強姦して陰部に棒突っ込んで殺したり、
日本人の住民を一箇所に集めて銃殺したり。

尼港 南京 済南 通州
http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/doyoyon/doyoyo11.html

これがシナ事変(日中戦争)の一因になったのは言うまでも無い。
948むべ:2006/04/04(火) 23:43:43 ID:007Cstzp0
>>946
そろそろ新スレ頼む。
949205:2006/04/04(火) 23:52:09 ID:2+S53hwg0
>>947
中国兵の残虐性を強調しても、日本軍も中国軍云々は言えん。
また、敵兵の鼻を削ぐ行為も戦国時代伊達氏の例もあるし。
支那事変の中国人避難民が山に上がる等は、日本の戦国時代も、農民が
拉致され労働力として売買されることを恐れ、山上がりの習俗があった
ことを考察することは資料参考となるが別スレの問題となる。
じゃが、外国の方が、このスレを視て日本人は自分のことを棚にあげ、
隠蔽する民族じゃと思われるのは、日本人の誇りとしてつらい。
このスレに限らず、顔に色が付くわい。わし自身は卑怯な行為を恥じる
日本人でありたい。近隣諸国の人達が卑劣な行為をしようとも。
ほいで嫌韓中人が反日の中国や韓国を貶め爽快感を持つ行為が、文化的に
近い我が国の歴史を貶める行為に繋がることが、まだ解らんのかのう。
我が国には、人身売買や犬を食う習慣、更に食人習慣もあった。
そのような不都合な事実も認めても、日本人として誇りを持つんは、
わし自身の感情で他者に押し売りはせんが、そこらは、あんたら自身で
考えや。
950むべ:2006/04/05(水) 00:14:19 ID:6oJz3UtD0
戦争は文明社会の中で文明が及ばない世界だからな。
文明が及ばないとは、人間が本性に帰るということ。
倫理、道徳のたががはずれて容易に残虐行為をしてしまう。
日本の某兵団はアメリカ人捕虜の肝を精がつくと食っていたという。
平時のまともな人間ならとてもできない行為だ。
それは敵も味方も同じ。
どっちがより残虐行為をしたかと比べるのはナンセンス。
より大切なのはまともな文明人戻ったときに
どれだけ己の行為を恥じることができることだと思う。
その点では戦後、元日本兵が自信の反省のため
満州などに謝罪旅行に出かけたことを否定はできない。
自虐的だとかあるいはもっと反省せよとか、
第三者がとやかく言うことは問題外だけどな。

951名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/04/05(水) 02:22:42 ID:kd4IY1op0

戦友
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/senyuu.html

♪ここはお国を何百里〜
 離れて遠き 満州の〜
 赤い夕日に照らされて〜
 友は野末の石の下〜


952●新宿クーミン ◆Tokyo/FXYA :2006/04/08(土) 19:44:44 ID:CF+W+nnR0

953●新宿クーミン ◆Tokyo/FXYA :2006/04/08(土) 19:45:00 ID:CF+W+nnR0
>>948
了解しました。
954名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/04/08(土) 20:03:15 ID:P+5C6yrW0
自衛隊に近衛師団の復活を求む。
955●新宿クーミン ◆Tokyo/FXYA :2006/04/09(日) 19:44:29 ID:e6LAOW5F0 BE:119175833-
次スレ
郷土の英雄。帝国陸軍師団の歴史 其の弐
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/chiri/1144579367/
956205:2006/04/10(月) 01:36:31 ID:5cLWazul0
     感状
  歩兵二百三十一聯隊第十一中隊第一小隊
右は小隊長歩兵少尉松本治雄指揮の下に 宜昌作戦に従ひ 各地に転戦し
偉功を奏す 特に五月十六日 師団の大洪山脈内第三十三集団軍主力に
対する掃討戦に方(あた)りては 長山南方山腹を急進し 集団軍総部に
遭遇するや 機を失せず之を包囲攻撃して 総司令官張自忠以下其の首脳を
殲滅し 且多数の重要書類を鹵獲して 爾後の作戦指導に寄与したる所
甚大なり 又五月十九日 白河の敵前渡河に際し 小隊長は将校斥候として
徒渉場偵察の任務を受くるや 周到なる準備を整え 兵二名を率い夜暗を
利用して敢然水中に身を投じ 河中を詳密に偵察し 敵弾雨飛の下 毅然と
して任務を遂行し 遂に好箇の徒渉場を発見報告せり
次で小隊は 渡河部隊の先陣として諸隊を誘導し 猛火を冒して勇躍断崖を
攀登して敵陣に突入し 奮戦力闘以て部隊主力の渡河及爾後の戦闘進展を 
有利ならしめたり 之を要するに 小隊長の旺盛なる責任感 犠牲的精神及
適切なる指揮は 部下小隊の奮闘と相俟て 作戦竝に戦闘に貢献したる所
偉大にして 其の武功抜群なり 仍て茲に感状を授与す
   昭和十五年十月二十日
     第十一軍司令官
       陸軍中将 園部 和一郎 
957205:2006/04/10(月) 02:22:02 ID:5cLWazul0
上記の広島県人である松本治雄少尉(後に中尉)は、突撃隊長と
あだ名され、何れの戦場でも愛刀を振りかざして真一文字に敵陣に
突入し、不敵にもカラカラと哄笑されておられたそうで。
新スレよりも、こちらに書いておきました。
958205:2006/04/11(火) 01:41:41 ID:ak2yqFNL0
   感状
     歩兵二百三十一聯隊第二中隊 同配属部隊
 右は中隊長代理陸軍少尉岡田守人指揮の下に 宜昌対岸陣地の右翼約三、
四粁に亘る広正面を守備し 長時戦闘準備に渾身の努力を傾倒しありしが、
昭和十九年六月九、十の両日 敵は飛行機四十機の銃爆撃並に各種火砲
約一万発の砲撃に依り 徹底的に我が陣地を攻撃し 其の優勢なる兵力を
以て 砲弾に膚接しつつ 前後六回の突撃を反復せり この間陣地の
守兵は 熾烈なる砲撃のため 聾者となり幻影に襲われつつも 死傷を
意とせず 比隣相扶け 寡兵廃墟と化せる陣地に拠りて 奮戦是努め 
悉く其の敵を陣前に破摧して これに大打撃を与え 次いで同月二十一日
黎明 部隊主力は陣前に出撃して所在の敵を撃滅すると共に 進んで其の
攻撃拠点を破壊し 以って長時間に亘り計画準備せる宜昌方面の反攻を 
完全に挫折せしめたり 以上の行動は 将兵全員鉄石の団結と 旺盛なる
攻撃精神とにより 毅然として敵の猛攻を粉砕し 延いて第十一軍の
湘桂作戦を容易ならしめたるものにして 其の武功抜群なり
 仍て茲に感状を授与す
   昭和十九年九月三十日 

  第三十四軍司令官 陸軍中将 正四位 勲一等 功四級 佐野忠義
959205:2006/04/11(火) 02:15:41 ID:ak2yqFNL0
   感状
     歩兵二百三十一聯隊第八中隊田中小隊   同  協力部隊
 右は小隊長陸軍少尉田中節三指揮の下に 宜昌北方西陵山地区の北角
陣地を守備し 長時日に亘り戦闘準備に渾身の努力を傾倒しありしが 
昭和十九年七月二十五日十一時より同二十七日払暁に至る間 優勢なる
飛行機の銃爆撃並に各種火砲七千発の砲撃により 陣地設備及び陣地前
障碍物の大部破壊せられ 死傷者続出するに至りしも 将兵互に相励まし 
手段を尽くして陣地を補修し この間敵の反復せる突撃を撃退すること
三十数回 しかも剛胆周密なる計画に依り 敵を陣前至近距離に誘致
したる後 これに集中火を浴せ 更に弾雨を冒して寡兵逆襲を敢行し 
接敵格闘敵を陣前に撃滅し 以って敵四箇営に殲滅的打撃を与えたり 
 以上の行動は 将兵全員鉄石の団結と 卓越せし武技とに依り 堅く
必勝を信じて滅死敢行し 宜昌地区に於ける敵反攻封殺の素因を
作為せるものにして 其の武功抜群なり
 仍て茲に感状を授与す
   昭和十九年九月三十日

  第三十四軍司令官 陸軍中将 正四位 勲一等 功四級 佐野忠義
960205:2006/04/12(水) 23:09:12 ID:41BWmTXj0
>959の第八中隊の「滅死敢行」は間違えで、「堅く必勝を信じて
滅死敢闘し」に訂正。
羽黒陣地(12名守備)の陣地長なき後、代理のM兵長は、腸が露出する
のを、片手に靴下を重ねて押し込み敢闘を続け、
「わしは死なんど。みんな頑張れ」言いながら散華された。
田中小隊の損害は、戦死5名・重傷3名であったが、実はほとんど全員が
負傷していた。戦闘不能の3名以外は軍医の意見を振り切り帰陣し、
廃墟となった、あすは死地となる陣地に還り戦闘を続行した。
田中小隊の41名が敵一個師と戦闘し、敵四箇営に殲滅的打撃を与えた。
(一箇営、約1千名で四箇営4千名)2百倍以上と思われる敵と戦闘し、
百倍の相手を殲滅した。前線指揮官の田中少尉・第二中隊長代理岡田少尉
共に広島県人。将兵共に広島人であり、進取・必勝の信念を持つ伝統の
広島部隊の真価を心ゆくまで発揮した快心の絵巻であった。
961205:2006/04/18(火) 01:38:04 ID:5DJ/C76v0
第二中隊の戦闘の守備兵力は、最も多いピラミッドが15名、他は5名
程度の陣地が大半で、第二中隊本部7名のほか予備兵力はなく、重火器は、
聯隊砲、重機関銃各1及び軽機関銃各陣地一銃(ピラミッドは二銃)で、
あとは擲弾筒と小銃だけだった。間断のない爆撃と反復攻撃に、陣地を
無惨にも畑のような耕地地伏にしながらも(岡田中隊長代理は、「来るなら
来い!われにも、訓練周到の精兵がある。精魂をこめて掘った鉄桶の陣地が
ある。中国兵の一兵たりとも陣地を汚させはせん。絶対に負けん!」)、
遂に擲の突破を許さなかった。
片目の者、足の指のちぎれた者、右手がだらりと下がっている者等、
全て奮戦敢闘し、特に敵の攻撃重点となったピラミッド等は全員負傷した。
第二中隊員約100名のうち、戦死者9名・戦傷17名。戦力は
25%減少しても屈せず、敵の宜昌奪回の夢は破れ去った。
ピラミッド付近の陣地は、約1万発の砲爆撃で、名物の蚊も約10間は
出なかった。
962205:2006/04/22(土) 22:44:52 ID:eRJfhxJT0
敵の砲攻撃の主要目標は、華福山の阿曽沼小隊(長・阿曽沼少尉、広島県
熊野町)14名・ピラミッドは、竹本小隊(長・竹本少尉、広島県大崎町)
15名・旗鉾の平藤兵長、(広島県大竹市)以下5名の各陣地で、
竹本小隊長(初年兵の教官兼務の行軍演習時、敵のピラミッドへの砲撃
から急ぎ帰隊された)の回想の要約から、
『敵さんの野砲や追撃砲が、一斉に火蓋を切った。その弾着は、極めて
良好だった。砲撃の合間に正面に出ようとするが、その隙間がない。
追撃砲の直撃弾であろう、軍曹と古参兵の二人がやられていた。
衛生兵が死体に繃帯をし、せめて死後の酷い姿を少しでも飾ってやろう、
とする戦友の心遣いが、痛いほどよく解った。遺体を床の上に列べ、
毛布をかけて手を合わせ、何とも言えない感情が胸中をはしった。
「くそっ」軍刀を固く握りしめ、トーチカに急いだ。トーチカは蜂の巣の
ようになって、一発射てば、二〇発ぐらいのお返しが来た。
全く敵側の砲制下におかれてしまった。制空権も既に敵手にあり、
銃爆撃の密度も加わった。過去の戦闘とは、その様相が一変しており、
比較にならない鉄量の激烈さで、支那軍からこれほどの砲火を受けた
前例もない。日本軍の中支戦線では、初めての経験ではなかろうか。
だが、小銃・機関銃・手榴弾などでは、砲攻撃に対抗できない。
むしろ敵の突撃を待つだけである。」
963205:2006/04/26(水) 02:00:21 ID:gbeU41+p0
しかし、中国軍の攻撃は拙劣であった。続いて竹本小隊長の回想手記の
要約から「間髪を入れず突入してこそ、歩・砲・空の連繋は成功する。
敵兵は、一息ついて丘稜を馳け降りて来た。我々は、この一瞬こそ、
待ち構えていたのである。各銃が一斉に火を吹いた。
バタバタと敵兵達は斃れる。しかし彼らも勇敢で、倒れた戦友を乗り越え
突進したが、敵の一兵も遂に我が陣地内に踏み入ることは出来なかった。」
同じ様なことは、第八中隊の守る羽黒陣地でも、日本軍の陣地が一発も
撃ってこないのと、破壊された陣地の状況から、日本兵は一人残らず
全滅したものと錯覚し、一瞬気を緩めた瞬間、横穴を蹴って出た守兵が
急襲射撃し勝機が逆転した。侮りと逆に少人数でも強い広島部隊への
怖れが、自軍の都合の良い楽観的解釈に繋がったのであろう。
一瞬の判断ミスは我が広島部隊側にもあり、第二中隊の感状にある
二十一日に出撃した某曹長は、15名の部下と共に、一斉に手榴弾を投擲
する為、抜刀した刀を無造作に地面に置いた。いざ突撃というとき、足下
においた刀を探した「刀が無い!」草むらの中に転がっているに違い
ないが、暗いのと、気が動転し慌てれば慌てる程わからない。
この十数秒が突撃の機を失し、逆に中国軍が手榴弾を投擲し、後退する
ことになった。主陣地を攻撃した岡田隊の奇襲が成功した為、曹長の失敗は
不問にされたが、「勝敗は一刻を争う。戦闘間では、譬え指揮官以下に
戦死者が続出しても、戦闘を続行しなければならない。況や刀の紛失で。」
しかし、様々な国の勝利を得た、何れの戦でも、100%完璧な戦闘とは、
無いであろう。敵、味方共に失敗があるのが常であるが。
964205:2006/05/02(火) 22:02:50 ID:s84ib9OH0
ピラミッド陣地は、敵の砲撃の最重点目標にさらされた。もともと狭い
陣地故に動けず、無我夢中で陣前に肉薄する敵兵群を射ちまくった。
銃身は灼熱し、陣地内の相互の連絡も途絶えた。掩蓋ごとに長い孤立の
奮闘が続いた。生きているのは自分だけではないかという不安感に襲われ、
耳は聞こえず、幻覚にさいなさまれる。精神的、肉体的人間の限界を
遥かに越える凄惨な状況下では、極度の焦躁と孤立感に陥り、長く辛い
自分との闘いであり、錯乱・発狂寸前で、ここで、この苦闘に耐え抜くか、
否かが、陣地を支え得るか、どうかになる。しかし血みどろの死闘を
やるのは、所詮人間である。自己克服の精神力がないと、まず内面的に
崩れ去ってしまう。
それに傑出した指揮官が要求される。竹本小隊長が、この激しい戦闘の中、
死傷者の続出にあいながら、自若として慌てず騒がず、冷静に剛胆に、
よくこの悲惨な状態を切り抜けた。
965205:2006/05/07(日) 00:35:42 ID:vx6WEi6i0
岡田中隊長が、数名を連れて敵中を突破しピラミッド陣地に到着した際
戦況を説明した竹本小隊長の落ち着いた言動に岡田中隊長は驚嘆し、
また頼もしく思った。
『はるかなる戦場』から、「竹本小隊長は、この最悪な場面ですら、
必勝の信念だけは、持ち続けた。とはいえ人間は弱いものである。
竹本小隊長の伝令が、岡田中隊長の姿を見つけると突然大声で泣いた。
そこには何の粉飾もない、人間の生の姿があった。
味方の苦しいときは敵も苦しい。これが戦場の常道であろう。
わが陣前にあるトーチカ陣地の横を、敵兵十数名が夢遊病者のように
フラフラになって後退する姿が見うけられた。」
966205:2006/05/10(水) 01:45:59 ID:QY7qZWe80
続いて岡田中隊長は、当番兵と共に、隣陣地旗鉾に向かった。
敵の機関銃がさかんに頭上をかすめていた。守兵五名で必死に防戦に
つとめた為、全員負傷の惨状だったが、重傷にもひるまず四名が敵方を
睨んでいた。あと一名が見あたらない。彼は足を打ち抜かれ、奥行き
四メートルの横穴の奥にいざり込んでいた。
岡田中隊長は「出て来い、手当てをしなけりゃ駄目じゃないか」
「出たらまた射たれる」と返事が聞こえた。息も絶え絶えの声である。
彼は補充兵で郷里に妻子を残している。どうしても生きて帰りたいので
あろう。穴の入口まで続いた血の量から推して、すでに仮死の線上を彷徨
している。死期の迫った兵が弾丸を避け生きようと、もがいている。
中隊長が強いて引っ張り出そうとすれば、彼は手に噛み付くに違いない。
岡田中隊長は、意識の存続する限り死からの逃避に全力をしぼりつくす、
はかない抵抗を目撃して、人間の弱さについて、新しい教訓を学んだ。
中隊長は、中隊一丸となって敵の攻撃を喰い止め、任務を達成したと
いう歓びの反面、戦死者九名。かけがえのない尊い生命を散らした
勇士たち。故郷の肉親が知る由もない惨烈の最期は、中隊長の心の重圧と
なって、大隊長への戦況報告は重かった。
967仙台人:2006/05/11(木) 19:39:31 ID:KuR+9y2X0
仙台の師団が強かったとは知らんかった。
けど、どの師団が強い弱い関係なしに日本の為に戦った人達のことは尊敬している。
968205:2006/05/12(金) 00:15:19 ID:2cylOQ5v0
>>967
宜昌は、前任が仙台第13師団(宮城・福島・新潟)じゃったので、
陣地に愛着からか、郷土の東北や越後の山の名前が多かった。
感状を授与された第八中隊の守備した陣地も、羽黒山12名・弥彦山8名
及び重機一銃の6名配属・米山7名・金北8名で計41名であったが、
弥彦、米山、金北は、越後新潟県の山の名前であろう。羽黒山は
弘前師団区の山形県になるので、なぜ羽黒と名称したんかは定かでない。
仙台師団の強弱は別として、我が国の将兵と共に、勇敢に健闘した敵軍
将兵に対しても敬意を表したい。と、わしは、思うとります。
969名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/05/12(金) 10:45:21 ID:uLfG2xuX0
ガダルカナルまで長く日本最強師団といわれていたとか聞くしな。
でも相手が悪すぎただけで、決して他の師団が弱かったとか思えん。
全師団が日本最強師団と変わらない戦闘能力持ってたとしても勝っていた
とは思えない
970名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/05/12(金) 10:56:57 ID:uLfG2xuX0
それに広島師団がそんなに強かったとは初めて聞いた。
いろんな地域の郷土資料調べたら同じように実は強かったとわかる師団が
たくさんあるんじゃないかな。
971205:2006/05/13(土) 00:26:18 ID:MzM84XiS0
>>969970
仙台師団が日本最強師団?とはねえ。他師団と比較して強かった実例は
あるんか?ガ島で、仙台第2師団が、己の鈍重さを棚にあげ、バンドン
攻略で先を越された恨み?からむくれた相手である静岡第230聯隊の
突入を牽制した所を、逆に突進を依頼しておったらどうなったか?静岡聯隊
の方が仙台2Dより精強であったろうが、推測の域を出ん。
「バンドン突入の二倍の突進を頼むぜ、と激励するのが筋だ。それが
戦勝の道だ。然るに頭から突入を牽制し遠慮させる。このような師団
(仙台第2師団)に、ガダルカナルの堅陣が抜けるか。」
伊藤正徳氏の『帝国陸軍の最後』から要約。
ガ島で米軍将校は「日本軍はいつも同じ時間帯に、同じ方向から、
同じ要領で攻撃してきた。機関銃を同じ方向に定めて射てば、
日本軍の攻撃を粉砕することが出来た。」これがどの師団について
述べたものか知らんが、拙劣な攻撃をした師団は何処の師団であろうか。
広島師団ならマレー戦の実例から予測を覆す攻撃をした実例もあり、
このようなワンパターンのマニアル通りの拙劣な攻撃は出来んよ。
仙台人の今村均将軍は、広島師団を「明治以来このように多くの戦場に
やられた師団は他になく、いつも赫々たる武勲を立てている。こんな
比類なき歴戦を私のときにけがすような事があっては申し訳ない」と
云われたが、広島師団より武勲がある師団はあるんか?
972名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/05/13(土) 01:37:43 ID:Dstszmoh0
確か日露戦争での大活躍でそう呼ばれるようになったとか。
あと九州の師団も最強とかいわれていたから結局どこが一番とか
分からんがな。てか稚拙な攻撃とか兵隊がというより参謀の責任だろ
広島師団ならこんな攻撃はしないとか言い切る理由がマレー戦の実例
から予測を覆す攻撃をした実例もあり、、、て説得力無いよww

>広島師団より武勲がある師団はあるんか?
そんなの知らねえよ。お前詳しいんなら武勲多い順に1〜5位
まで示してみろ
973名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/05/13(土) 01:55:06 ID:ofZfK0As0
はいはい
開戦奇襲時の英軍と本格的反攻の米軍相手を
比べられてもしょうがない気もするけど。
広島師団より武勲がある師団はないない。いいよそれで。


974205:2006/05/14(日) 01:43:39 ID:ZY8Hr/830
>>972
仙台第2師団が、日露戦争の大活躍?追撃で逃げる敵を追うことが?
参謀の責任もあるが、中隊、小隊、分隊単位で工夫することも必要で
あろう。類例、実例から考察することが、説得力が無いのであれば、
あんたの「いわれた」という意見は戦闘実例も挙げず、妄想に溺れて
おると云うことか。武勲の多い順じゃ?前線では駄目でも、
無血入城部門なら仙台師団が上位であると云いたいんか。
>>973
兵団の違いにより戦闘方法にも違いがあると云うとるんじゃ。
それ以上は推測になるので答えようがない。
975名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/05/14(日) 13:03:08 ID:Ta6zBM/A0
44 :名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/05/13(土) 14:00:45 ID:uJVG4VN90
まぁ広島5Dも北部仏印進駐の際に不法越境かまして妥結しかけた交渉を
白紙に戻す不手際やらかしてるから、そんな大きな事は言えないというか。
976名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/05/14(日) 21:59:54 ID:qAbxndqw0
無駄に長々書いてるが要約すると
白島師団がマレー戦で敵の予測のつかない攻撃をした。
だから広島師団は稚拙な攻撃はしないんだ。 




これで納得しろと?
977名無しの歩き方@お腹いっぱい。:2006/05/14(日) 22:02:49 ID:qAbxndqw0
ミスった

白島でなく広島。
978205:2006/05/16(火) 23:03:26 ID:Ov+f+kA60
>>976
完全に失態のない戦闘はないであろうが、ミスを広げんことも
重要であろう。

広島部隊の宜昌防御の話に戻す。梶浦聯隊長の戦後談によると、
「攻撃戦闘なら、一人の勇者がおれば、他の兵がこれに続くことが
出来るが、陣地では兵一人々々の、悲惨な状況下にも孤独にめげず、
判断の正常性を失わない、高度な能力が要求されるが、
これはどの師団の兵にも、出来るというようなものでない。
当時の宜昌地区の状況は、濡れた障子紙、いっぱいに、ふくらませた
ゴム風船のようなもので、一触即発、若しも百に近い陣地の中で、
一つでも敵に抜かれたら、連鎖反応で忽ち前線総崩れとなっていただろう。
(中略)味方が苦しいときは、敵もまた苦しい。聯隊の将兵が、中国兵
よりも、常に一歩、一段だけ苦難に耐え抜く精神力があったことが、
最後の勝利に直結する最大の要因であった。」と。
979205:2006/05/20(土) 23:41:50 ID:rotnc1ir0
防御戦では、専守防衛に徹するだけでは、善戦しても、勝利することは
出来ない。逆襲と攻勢転移は防御戦に不可欠であり、広島5Dの
南寧戦でも、「陣地戦とは奇襲と強襲の使い分け!」が本質であった。

第二中隊は陣地を守り抜いたが、敵軍は、退却する気配もなく、中隊陣地の
眼の前に敵兵がうごめいいては、いつ攻撃の拠点とするか判らない。
岡田中隊長は、これを奪取する決意をした。主目標は正面の
敵ベトントーチカ陣地で、未明の奇襲攻撃である。敵は約一営であったが、
中隊長は人員が少ないほど奇襲効果があり、且つ損害が少ないとして、
五名を率いることとした。(編成に人事係りが提出した名簿は、札付きの
悪兵達、酒ぐせが悪く、喧嘩する。転属でもあれば、候補として確実に
中隊を追われる者達で、あった。どういう基準で人選したものか分らな
かったが、こういう兵こそ勇敢だろうと思い、岡田中隊長は承諾した。)
服装は、中隊長が刀を背中に負い、兵は着剣した銃を左肩から、左脇腹に
下げたものを胴に縛りつけ、手榴弾を五発あてを腰に着け出発した。
980205:2006/05/21(日) 00:34:42 ID:mftJRjOo0
>979に続き、中国の匪賊のような出立ちである。また、左側に十五名、
右に七名が配され、二十七名の決死出撃隊である。
中隊長以下五名は、隊長を先頭に匍匐の縦隊となって前進した。敵に発見
されることも怖いが、敵の施設地雷にも神経を使う。(前進間に後の者の
剣先が、前の者の股に刺さって負傷する事例もあった。)あと数米。
ひょいと岡田隊長が顔をあげたとき、敵兵を発見したが、一瞬の差で
敵歩哨も気付いた。「今だッ」転瞬に決断した岡田隊長は、抜刀し、
四勇士も突っ込んだ。隊長は「手榴弾を投げろ」と叫び、五人は次々と
あたり構わず投げた。敵兵が投げてきた手榴弾を、とっさに誰かが拾って
投げ返した。暗夜の手榴弾は、目標に命中するよりも、敵に恐怖心を
与える、心理的効果の方が大きい。あち、こちで連続爆発することに
よって、多数の日本兵が襲撃しているという、錯覚と恐怖心を中国兵に
及ぼす効果があった。混乱した敵兵は相撃(同志討ち)をした。
やがて大隊長の引き揚げ命令で、後方からの掩護射撃下に無事帰還した。
981205
七月の三〇一陣地の奮戦、八月の土塁の決闘と激闘したが、惜しくも、
まぼろしの感状となった、第七中隊の戦闘も見逃せない。
救援に行って負傷した森本少尉(福山市)の回想手記の要約。
「数日来の敵の攻勢は、いよいよ本格化して激しく、目標は土塁陣地で
あることが明白となった。守備は後口軍曹の指揮する一個分隊十二名。
午後にはP40の二〜三機が、ロケット砲を射ち込み、機銃掃射で攻撃
してきた。敵の砲兵は、発煙弾をわが陣地に射ち、敵機の攻撃目標とした。
わが方も同じく発煙弾を敵陣へ射ち返した。困惑したのは上空の敵機で、
誤認して支那軍を攻撃した。
翌日、我々数名が増援となり、砲撃の合間をとらえて土塁陣地に走り
こんだ。昨日の敵機のロケット砲撃で、三名が散華しており、階段の陰に
いた初年兵一名が助かっていた。また敵側の山砲の命中精度は非常に
よかった。しかし陣地を守備する全員、きわめて意気軒昂で、あれほど
一方的に叩かれ打ちのめされたようでも、不死身の根強さを持ち続けた。」