1 :
郭沖:2009/06/14(日) 12:42:46 ID:lCH5fXMf0
わしは代郡の郭沖と申す者じゃ。皆わしの事を知っておるかの?
久方ぶりに目覚めてみれば、裴松之とか申す小僧っ子がわしを嘘つき呼ばわりしておるではないか。
わしだけのことならまだ許せもするが、
その所為で諸葛丞相までも疑わしき目で観られるようになったと聞いておる。
これではあの時と同じではないか。 全く以て遺憾である。
裴松之とやらがわしに反論しておる。知らぬ者は諸葛亮伝を読むがよい。
裴松之が心から聞きたいと願うと申すなら聞かせてやろうかの。
彼の者の反論はひとつとして的を得ておらぬ。
以下はわしの裴松之に対する反論じゃ。
2 :
郭沖:2009/06/14(日) 12:43:58 ID:lCH5fXMf0
第一事 法正が法の執行を弛めるよう諫めたが論破して退けた件
裴松之は
壱、諸葛亮が統治の権限を有しているのはおかしい。
弐、諸葛亮は善政を敷いたことで知られるが、善政の誉め言葉に刻剥を用いる例を聞いたことがない。
と反論しておる。
壱、劉備は成都を平定すると諸葛亮を軍師将軍に任じ、左将軍府を仕切らせた。
劉備が州内の平定に出征中、諸葛亮は常に成都の留守を守り
物資のや兵の補充を欠かした事がなかった。
左将軍府とは漢の左将軍である劉備の幕府のことである。
劉備は州内の平定のために出征し成都に居なかった。
その間、成都を取り仕切っていたのは、幕府の長 諸葛亮なのである。壱におかしな所があろうか?
弐、「善政」とは刑を疎かにし徴税を甘くすることを意味するのかのう?
そうではあるまい。
なあなあで通っていた劉障時代から一変して急に厳正な政を行えば、不満の声があがるのは当然である。
所得隠しを認めず厳正に税を取りたてれば、従来に比べ百姓の納税量は増すことになる。
劉障時代を当たり前と思っていたのであれば、相対的に「刻剥」に思えもしよう。
諸葛亮の善政は一世通してのことである。どうして変革時の不満を以て矛盾と言えようか。
3 :
郭沖:2009/06/14(日) 12:45:08 ID:lCH5fXMf0
第二事 劉備に近づいた賢者を刺客と見破った件
魏の謀臣が見た目の立派な者を選び出し、
その者に天下の計を語って聞かせ、覚え込ませたとすれば、どうかの?
その者、劉備の面前において自分の調子で語る分には足りるであろう。
しかし諸葛亮のような知者と語らえば、すぐに正体を晒すことになるであろう。
劉備が面識のない者と二人で会うはずはないのであるからして、
必ず近従の者が侍っていたはずである。そこへ武人でない者が現れたとしても
顔色を変えるはずがない。
即ちこの者が畏れたのは諸葛亮の智なのである。この刺客の智が偽物である証である。
これで裴松之の抱く疑念はすべて霧散したであろう?
4 :
郭沖:2009/06/14(日) 12:46:13 ID:lCH5fXMf0
第三事 空城の計の件
これは現世でいう第一次の時のことではない。第四次直前の出来事じゃ。
5 :
郭沖:2009/06/14(日) 12:47:10 ID:lCH5fXMf0
第四事 蜀人が諸葛亮の言葉を聞いて志の高さを知った件
当時「第○次侵略」などという称はなかったのじゃ。
「亮出祁山,隴西、南安二郡應時降,圍天水,拔冀城,虜薑維,驅略士女數千人還蜀」
これはわしが劉宝ら論者にどの戦役での事か説明したまでのことじゃ。姜維で分かるであろう。
蜀人が諸葛亮に祝いを言ったのは、街亭に派兵する前の事なのじゃ。
諸葛亮は魏を併呑すると公言していた。
しかし皆、魏を併呑できるとは思えず、建前に違いないと考えておった。
そこに諸葛亮が三郡を手に入れた。皆が祝ったが喜色を示さず、あのように言ったので
皆やっと諸葛亮が建前で言っていたのではないと分かったという話じゃよ。
裴松之はわしが劉宝らと話をしているのだということを忘れているのではないのかの?
わしは史官ではない。書を遺しているのではない、語っていたのじゃ。
後の人間が話の枝葉を捉えて適否を批判するのは如何なもんかの。
6 :
郭沖:2009/06/14(日) 12:49:16 ID:lCH5fXMf0
第五事 兵との約束の件
第三事「空城の計」と併せて反論するぞ。
曹真が八月に蜀へ攻め込んだが、長雨が一月以上も降り続き
桟道のうち断絶するものが出てきたため撤退した。
諸葛亮は魏延らを羌中へ向かわせる。この動きは当然明帝に伝わった。
明帝紀「魏書曰:初,亮出,議者以為亮軍無輜重,糧必不繼,不撃自破」
これは羌中の件である。
諸葛亮(蜀)が軍事行動を興しているのに看過する術はない。
病の曹真に替わり司馬懿を長安に赴任させ20万を以て対処させた。
魏延らは羌中から南安へ向け東下。漢中の諸葛亮らも動いた。
司馬懿はその動きを察知し、蜀の懐深く潜り込んで頸を締め、
この機に一気に蜀を滅ぼしてしまおうと考えたのじゃ。
そうして密かに剣閣を目指し軍を進めたのであった。
無論20万という大軍ではない。司馬懿は20万を任された だけである。
誤って伝わってしまっておる。
諸葛亮は先の長雨で桟道が切れたことを知っていたので
魏が秦嶺山脈を越えてくることはまず無いと油断していたのじゃろう。
だからこその羌中派兵であったとわしは考える。
軍を北上させつつ後方に残っていた諸葛亮は陽平で司馬懿と遭遇した。
司馬懿にしても諸葛亮と遭遇するとは思ってもみなかったのである。
そして諸葛亮のこの態度。
司馬懿「何じゃ、あれは…?、
あの諸葛孔明がこうもあっさり降伏するとでも言うのか。。。」
きっと司馬懿はこう思ったことじゃろう。
あり得ない状況に困惑したのじゃ。
司馬懿「しかし降伏を告げにくるでもない…。
傑物は約束を違えぬものじゃ。計略であっても安易に約束はしたくないもの。
降伏のような大事は尚のことじゃ。
それらしい態度は見せはするが降伏を告げに来ないというのは
“降伏を申し出た”と こちらに勝手に解釈せよと計っているからじゃ。
つまり降伏の態度は偽り。これは罠。
そもそも何故こんな所に孔明が居る? 情報では祁山に向かったはずではないか。」
事前に得ていた諸葛亮が祁山へ向けて北上したという情報も偽物で
周到に用意された罠だと疑ったのじゃ。
そして剣閣を諦め撤退したというわけじゃ。
これが第三事「空城の計」の話である。
7 :
郭沖:2009/06/14(日) 12:50:13 ID:lCH5fXMf0
陽谿で魏軍破れ、又、鮮卑も北地郡まで迫ったので
明帝は行幸され長安の不安をお鎮めになり軍を鼓舞された。
司馬懿が関中に戻ってきたのでそのまま祁山へ向かわせた。
事実はこうじゃ。 しかし、これでは司馬懿が形無しなので魏書は筆を曲げた。
この戦いは司馬懿像の形成に大いに関わるのじゃ。形よう残さねばならなかったと言えるのう。
かくして司馬懿は上邽で諸葛亮と対峙したんじゃが
このとき司馬懿はこんな事を言っておる。
「吾倍道疲労」
長安から陽平へ行っては引き返し、今度は上邽へ来たのであるから
道のりは本来の2倍である。
どうじゃ?
蜀兵は先年の秋から戦い続けておった。
衛るために戦いに出たはずが魏軍が撤退した後も国許に帰れず、
追撃するわけでもないのにそのまま他方面に遠征すると聞かされては
帰りたい想いも一層募ろう。
人間、目的を明確に定めなければ気力も続かん。
防衛という目的が果たされた今、帰郷によって一端完結しなければ
気持ちの切り替えが上手く出来んものじゃ。
諸葛亮はそうした兵士たちの思いを酌んで帰郷を約束したんじゃよ。
これが第五事「兵との約束」の件である。
8 :
郭沖:2009/06/14(日) 12:51:17 ID:lCH5fXMf0
わしの話は正しく伝わっておらんの。公議の場でもなかったのじゃからそれも致し方ないかのう。
にしても三事と五事の時系列錯簡は酷いもんじゃ。混同もあるぞ。
考えてもみい。あの場には扶風王はじめ並み居る士丈夫が揃っていたのじゃぞ。
蜀記に伝わるような頓珍漢な話なら誰が納得しようか。あり得んことじゃ。
あんたのせいとは言わんが、家康が浜松で空城計使ったから
家康は孔明と同等の知能の持ち主だとかいう妄説がある
真偽不明の事同士を根拠にひとの知能を測る浅はかさよ
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/15(月) 00:00:25 ID:WiX/5iO1O
誰か
これ転載?
12 :
郭沖:2009/06/15(月) 22:51:53 ID:6BIOjYrb0
郭沖じゃ。
無二じゃよ。
記入欄が狭うて長文は難儀するでのう、一旦、備忘録に書いて転写したのじゃ。
反論文の合間に人を挟みたくなかったのもあるかの。
ここはお前の日記帳じゃないんだ
チラシの裏にでも書いていろ、な。
14 :
郭沖:2009/06/15(月) 23:55:20 ID:6BIOjYrb0
嘆かわしや、なんと不遜な物言いじゃ!わしはこれでも爺じゃぞ。
おぬし、ちと短慮だのう。
わしの言葉の終わらぬうちに合いの手が入ったら語りにくいではないか。
そういう意味じゃ。
読みにくい。
的を得ておらぬ、まで読んだ。
的を得る、だって