前漢vs後漢vs唐vs宋vs明vs清

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180名無しさん@お腹いっぱい。
>596(李氏朝鮮が静かなブームだけど、国家としての歴史的意義はどんな物なんですか?)
20世以来しばしば指摘されてきたように、李朝社会はその停滞性と他律性を大きな特徴とする。
特に商業分野での不振が著しく、市場経済・貨幣経済が未発達のままで、首都ソウル以外には、
万単位の人口を擁する都市がほとんど存在しなかった。
その理由はいくつか考えられるが、最も大きな要因は朱子学的国家観に基づいた極端な重農
抑商主義にあっただろう。同時期に成立した明王朝の影響を強く受けたものと考えられる。
ただ、明王朝では商業抑制策がうまく機能せず、結果として朱元璋の忌み嫌った貨幣経済が
発達することになった。これは中国では既に市場経済が社会に根を下ろしていたためだ。
中国の支配者層である士大夫階級は、多くが都市生活者であった。地主ではあったものの、
封建的な土地支配ではなく、市場を通じての売買により所有権を取得した。日用の必需品も
すべて市場から調達している。すなわち、市場がなければ生活を営むことができなかったのだ。
対して李朝社会の支配者層である両班は、ほとんどが農村に居住し、大勢の奴婢を使用して、
ある種の荘園経済を営んでいた。荘園は自給自足の社会だ。荘園主は自ら所有する土地から
日常生活に必要な物資を調達し、市場における交換を必要としない。
明王朝と李氏朝鮮が、ともに成立段階において重農抑商を目指しながら、かたや失敗に帰し、
かたや成功を収めた要因は、かくのごとく社会支配層の存在形態の差異にあった。
むろんこの「成功」が李朝社会にとって大きな不幸を招いたのは事実だが、
巨視的には明王朝も含めた東アジア社会全体の停滞の一環をなすものであったとも言える。

>608(北宋特に王安石は契丹や西夏に軍事的に圧迫されながら軍制改革に手を
    つけなかったのは何故ですか?王安石の新法も財政・税制改革が主な物だったし)
新法の中にも軍制改革は含まれている。保甲法というのがそれだ。
農閑期の農民に軍事教練を施し、民兵として使用することを目的とした制度だな。
王安石は、盛唐における兵農一致・国民皆兵こそ周礼の理想に合致するものと考えたらしい。
中唐以降盛んになった傭兵の使用は、俸給の支払いに莫大なコストが要求されるため、
財政面からみればこの考えにも一理ある。しかしながら唐の府兵制は、均田制を前提として
はじめて維持可能なものであったから、土地私有を名実ともに公認した宋代社会には
到底馴染むものではない。また、戦争のたび一々農民を徴発して戦地へ動員していては、
農村経済が崩壊する。そのため、既に華北を中心として広く行われていた義勇兵(郷兵)を
正規軍と交代させて国防に当たらせるという手段にとどまった。

北宋政権が金の侵攻により崩壊に至った原因として、軍事政策の不備を指摘する立場からは、
保甲法の成果を否定する見解が多い。とは言え、数字上ははっきりと結果を出しているのだ。
神宗の元豊7年には、仁宗期に比して国軍50万人の増員を得、歳出にして二百万貫の減額を
達成することができた。途中、旧法党政権の時代に一時的な廃止を見たものの、
徽宗期に入ると、>>375で述べたとおり民兵の総数はおよそ700万超にも達した。
181名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/02(水) 00:07:04 ID:BfTUmOpS0
658 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/05/10(水) 21:31
>610(もし徽宗が旧法派に同調したら、王安石ら新法派を弾圧した?)
そうであったなら、私はそもそも宰相として登用されていない。
弾圧される側にまわって、歴史の影に消えていただろう。
私が司馬光の下で新法の廃止に力を注いだ一件はあまりにも有名な事実だが、
それはまだ地方官時代のことで、宣仁太后の没後、戸部尚書として中央に入った後は、
一貫して新法の敷衍に努めた。旧法党への鞍替えなど不可能であったし、意味もなかった。

そもそも徽宗が新法を弾圧した可能性などほとんどゼロだ。
徽宗は父の神宗や、兄の哲宗に心酔していたし、この期に及んで旧法党に便宜を与える理由が
まったくなかった。摂政の向太后でさえ、心情的には旧法党に同調しつつ、新法党の大臣を
用いざるを得なかったのだ。宣仁太后ですら一時期は新法の採用を周囲に打診したことがある。
旧法党の述べる主張は何の定見も説得力もなく、司馬光の死後はほぼ分裂状態であった。
党争に敗れたというよりは、勝手に自滅したとみなすのが正解であろう。


659 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/05/10(水) 21:32
>618(蔡京様は、徽宗をどう見ておられたのですか?)
ほぼ貴卿の指摘するとおりだが、徽宗自身は天子になれてやはり幸福だったろう。
あれほどすさまじい奢侈生活を営んだ人間は、中国はおろか世界史全体の上でも稀だ。
…不幸であったなどとは言わせん。

豊享豫大の説を唱えて徽宗に贅沢を勧めたのは私であると一般には言われるけれど、
そんなものは後世の史家の誇張だ。ほとんど破綻状態であった財政収支を修復し、
宋王朝の中興を果たした功績を賞賛こそされるべきで、そこから生み出された富を
欲望の赴くままに食い尽くした馬鹿と責任を連帯させられるなど、まったくの不条理だ。

諸君も徽宗の描いた花鳥図を目にしたことがあろう?
絵画とは写実的であると抽象的であるとに関わらず、画家の精神を反映しているものだ。
単に技巧のみ備えたところで自ずと限界がある。徽宗にしても、天子として人後に落ちぬ
享楽的な生活を送っていたからこそ、ああいった非凡な作品を生み出し得たのだ。
もし一介の親王として生涯を終えていれば、後世に画名を轟かすことはなかっただろう。
その意味でもやはり徽宗は幸福だった。してみれば北辺で孤独のうちに客死したことなど、
なんの同情にも値せん。暗主暴君に相応しい因果応報でしかない。

>619(モンゴル帝国やティムール朝を始めとした遊牧民国家は急速に膨張しますが、
    大抵後継者選びの段階で内紛おこして帝国分裂→衰退・崩壊・土着化しますね)
遊牧社会というものは経済力にまったく乏しく、非文明的で停滞を生じやすい社会だ。
余剰生産物もほとんど生み出さぬし、各氏族・部族は互いに孤立して連絡を持たず、
自然環境に翻弄されながら未開の生活を営む───というのが本来的な姿だ。
一般に抱かれる粗暴で攻撃的なイメージは、あまり正しいものとは言えないだろうな。
確かに天災などの事情により食糧備蓄が欠乏した場合、各部族・氏族が結束して大規模な
略奪行動を起こし、ついには巨大な遊牧国家を形成するケースもある。
匈奴や突厥がその好例だが、世界史全体としては極めて特殊の事例と言えるだろう。
必要に迫られたための臨時・突発的な結束であったからこそ、定見もなく無秩序に膨張して
中国内地に確固たる支配を及ぼすこともなく崩壊しているのだ。

まあ、そう考えれば遼王朝は例外ということになってしまうが、
遼を立てた契丹族は、本拠地が万里の長城に外接して、唐との往来が盛んであったため、
遊牧民としては文化的にも政治的にも成熟していたのだろう。
かといって、契丹も遊牧社会には違いがないから、全く無抵抗に中国文化を受容もせず、
遊牧民と農耕民を分割して支配するという、特殊な統治機構を作り上げた。
意図してのことではなかろうが、結果としてこれが巧くいき、それまでの遊牧国家とは全く
性質を異とする画期的な政権を誕生させたわけだ。
金(女真族は遊牧民とは言えんが)にしても、蒙古帝国にしても、基本的には遼の方式を
踏襲したからこそ、一定の支配力を以て中国内地の統治が可能であったのだろう。
182名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/02(水) 00:07:41 ID:BfTUmOpS0
660 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/05/10(水) 21:33

>625(司馬光や蘇軾の墓を暴いて屍を晒して辱める事を思いつきませんでしたか?)
宣仁太后が歿して、哲宗の親政が開始された直後からそういう動きはあった。
中心人物は新法党の宰相章惇と、私の実弟卞だ。この二人は新法党の最過激派とでも
いうべき立場で、旧法党への復讐に手段を選ばなかった。
司馬光の贈諡を奪って追貶し、宣仁太后の推薦になる皇后孟氏を廃し、
遂には宣仁太后自身の陵墓を庶人のものに変え、追罰を与うべしと上奏するに及んだ。
皇后の廃位には同意した哲宗も、宣仁太后の追廃は許さず、奏状を床に叩き付けて
惇卞両名を罵倒した。もっとも、この件で章惇なり蔡卞なりが処罰された事実はない。
母后の向氏に泣きつかれたため、表面上のパフォーマンスを演じただけだろうな。
ただ、その後章惇が世論の激しい批難を浴び、哲宗歿後直ちに失脚したのは
明らかにこれが原因であった。悪人ではなかったが些か直情的すぎたと言えよう。

そういった事情が過去にあったため、私が旧法党への弾圧を加える際もある程度の
慎重さが要求された。墓を暴くとなればたとえ姦党のそれであっても世論の反発が恐ろしい。
なので姦党碑を立てて旧法党員の名を明示し、彼らの著作を処分して、
子弟の任官と京師への立ち入りを制限するくらいがせいぜいの限界であった。
弟などは「生ぬるい」と噛み付いてきたものだが、感情論だけで政策を決定しても意味がない。
全体としては妥当な判断をしたものと自負している。


662 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/05/10(水) 21:35
>630(北宋の障壁である尚文卑武の基本政策を改めようとしなかったのは何故ですか?
    結局、それが南宋まで尾を引いて王朝の衰退を早めたし)
尚文卑武の気風自体は中国社会に伝統的なもので、宋代のみに見られる特色ではない。
ただ宋代の場合は、実際の政治機構に反映された面が大きかったというだけの話だ。
いずれにせよ、そうした文官上位の統治傾向が宋の衰頽を早めたという認識は誤りだ。
軍政と財政の中央集権化に成功し、国家権力が何者の掣肘も受けなかったからこそ、
五代以前の王朝とは比較にならない確実な支配を可能にしたのであって、
そこには文官による軍隊の統制が不可欠の要素だった。
いったい宋は脆弱な政権と考えられることが多いが、実際には軍事面でも経済面でも、
唐はおろか前漢の最盛期をもはるかに凌駕した。中国史において300年を超えて政権を
維持した王朝は宋のみだ。唐王朝は多くの優れた政治制度を生み出したが、
それを実行に移すだけの実力に欠けていた。古代から中世にかけての中国文明を
集大成させて、まったく新しい社会を切り開いたのが宋であるといっても過言ではなかろう。
183名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/02(水) 00:08:00 ID:BfTUmOpS0
663 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/05/10(水) 21:37
>635
>唐は南部の穀倉地帯を押さえられて滅びましたよね?
間違ってはいないが、既に唐末は中央の権力がまったく地方に及ばなくなっており、
単に江南への支配が及ばなくなったため政権が崩壊したというようなことではない。
そもそも唐王朝が、黄巣の乱のような大乱に遭ってなお無事でいられた筈もなかった。
食糧供給の問題に目を向けるなら、むしろ穀倉地帯そのものを失ったことよりも、
運河による輸送ルートをズタズタに破壊されたことの方が深刻であった。

>それまでに存在した北にある政権は南部を南朝に押さえられたままでも
>ある程度存在できたのになんで唐はそれですぐ滅びちゃったんですか?
初唐あたりを境に農業生産の中心が関中(陝西省南部。長安も入る)から江南へと
シフトしたからだ。史記が「中国の富の十分の六は関中にあり」と述べたとおり、
秦漢両王朝はまさに関中の富を背景にして中国全土を統一する政権を築いたが、
唐代においては国都の食糧供給を関中の農業生産力のみでは賄えなくなり、
新たな穀倉地帯として江南地方の開発に着手した。同じく長安に都した前漢と比べ、
唐の国都維持にかかるコストは遥かに割高だったということだな。
江南の農業生産地としての価値が高まるにつれ、関中の地理的意義は失われた。
五代の混乱期における少数の例外を除けば、唐以後関中に都した政権はない。
今日の陝西省は中国の中でも見るべきところのないごく貧しい地域だ。
一方江南は中国経済の中心として繁栄を謳歌している。
こうした構図はまさに唐代に端緒が開かれたものと言える。


>637 トゴンティムール
>気がついたら大都放棄だよ。今更、田舎のモンゴリアになど帰りたくないな
そう思うのであったら、形ばかりでも抵抗を示してみればよかったのではないか?
元王朝の終焉には何の悲劇性もない。抗戦するでも、降伏の条件をめぐって折衝を
繰り返すでもなく、まるで数年かけてあらかじめ準備していたかのように、
手際よくあっさりと北地へと逃げ去ってしまった。
ま、潔い態度と言えばそれまでだが、明の側でもさぞ拍子抜けしたことだろう。
所詮蒙古人は漢地を支配する上で必要とされる度量も定見もなかった。
そなたの治世を好例として、漢化政策に力を入れた時代もあるにはあったが、
それもごく表面的な調整を図ったにとどまり、漢人と蒙古・色目人の間の根本的な
融和をなすようなものでは到底ありえず、すべて場当たり的な弥縫策の域を出なかった。
邪教に傾倒して怠惰な淫蕩生活を送るだけなら、中国に居住する必要もあるまい。
寺院の中に篭っていれば、モンゴリアの冷たい風を肌に受けることもなかろうよ。
184名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/02(水) 00:11:05 ID:BfTUmOpS0
685 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/05/24(水) 23:37
>639(蔡京の生きてた頃の宋て世界でも最高水準の航海技術持っていたのに
    何故、海外進出を国家プロジェクトで行わなかったの?)
具体的な必要性がなかったからだ。中国製品の需要など世界中いたる所に存在していたから、
新規に市場を開拓する必要がない。また、陸上の交易路(例えば旧来のシルク・ロード)は
西夏の出現により衰えたが、南海貿易に要する海上交易路を阻むものは一切なかったため、
やはり新規に航路を開拓する必要はまったくなかった。
宋代の貿易港としては泉州(ザイトン)が有名だ。泉州に市舶司を設置し、
外国船の直接寄航を認めたのは哲宗の元祐二年のことで、これは宣仁太后の治世にあたる。
こと海外貿易の奨励については、新旧両法党ともに積極的だったのだ。
南海貿易から得られる関税は、徽宗の代でおおよそ国家財政の二十分の一を占めた。
むろん貿易に従事したのは外国商人ばかりではなく、中国商人も目覚しく南海・中東諸国を
往来していたので、当時の航海技術は十分に反映されていたと言えよう。

>641 アフマド
>南宋が大量に残した負債を俺が処理しなけりゃ大混乱になっていただろう
言うまでもなく南宋の通貨は銅銭であり、税金も銅銭での納入を原則としていた。
いくら政権が交代しようとも、銅の価値自体は不変だ。
よって南宋が崩壊したことで直ちに市場経済が停止するような事態は生じなかった筈だ。
補助通貨としての紙幣も存在はしており、それは確かに南宋の滅亡とともに機能を
失ったに違いないが、元が南宋の紙幣の兌換に応じたなどという話は聞いたことがない。
したがって「南宋が大量に残した負債を俺が処理」などというのは全くの出鱈目だ。

むしろ負債というならば、元王朝が紙幣一本建ての通貨制度を採用していたために、
その崩壊後、中国社会から貨幣資本がすっぽりと消失してしまった点を挙げるべきだ。
元代は銅銭が鋳造されず、本来は紙幣の発行準備金として
蓄積されていなければならなかった銀も、そのほとんどが西域に流出してしまった結果、
元から明への王朝交代が発生した際、貨幣経済が麻痺同然に陥った。
これこそまさにモンゴル人が中国社会に残した負債と称して差し支えないのではないか。


686 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/05/24(水) 23:38
>643(林則徐の評価をお願いします)
イギリスを相手にある種の意地を貫いたという観念的な功績のみが一人歩きして、
英雄視されることが多いが、実際には林則徐の強硬で保守的な態度がアヘン戦争を
招いたといえるのだから、賞賛すべき性質の人物ではない。単にg善などとの比較で
まだしもまともな人物に映るというだけで、虚名の英雄に過ぎないだろう。

もっとも、500年近くにわたって鎖国的な外交政策を続けてきた中国社会において、
体制側から自発的に開国論を唱えるような人物が出現したはずもない。
その意味では林則徐の不明も時代の精神を反映したものであり、
彼もしくは道光帝個人を無為無能と責めるのは酷であると言えなくもない。

アヘン戦争後に締結された南京条約の内容を見ると、広州をはじめとした五港を
外国貿易のために開港し、治外法権や外国人居留地の設置を定めているが、
宋代にはこの程度の対外政策は既に実行されていた。してみれば宋代の政府であれば、
この複雑な外交関係を臨機応変に処理できたのではないかと思わないでもないが、
まあ───意味のない推察だな。所詮は近代化に立ち遅れたことが全ての悲劇の原因だ。
185名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/02(水) 00:11:26 ID:BfTUmOpS0
>644(何故、中国の士大夫階級は重農主義なんですか?)
儒教がそもそも反商業的なイデオロギーだからな。
とは言え、孔子自身は商業に否定的ではなかったと考えられるし、論語の中にも直接
商人を攻撃するような思想は見てとれない。商業による利殖が儒教の説くところの
「義」に反すると言われ、商人蔑視の風潮が固定化したのは漢代以降のことだろう。
むろん司馬遷のように商人の歴史的役割を高く評価する者も少なくはなかったが、
そうした考え方は儒教が社会倫理として発展してゆく過程で、次第に衰退していった。

士大夫というものは、その殆どが地主だ。
地主階級=士大夫と考えてもさほど大きな誤りではない。
地主にとって、自己の所有する土地で農作業に従事する農民は、財産そのものだ。
農民がその経済生活の全てを地主に依存してこそ、地主の利益は最大のものとなる。
農民が生活に必要な物資を商人から購入することは、農民の購買力が外部に流出し、
地主が本来得られるべき利益を、商人に収奪されることを意味する。
それゆえ地主というものは、農村に貨幣経済が浸透することを好まない。
むろんこうした社会観がそのまま政治に反映されれば、経済発展を妨げる要因となるから、
宋代以降次第に修正されては行くが、そもそも中国が農耕社会であることや、
儒学を根拠としていることから、後世に至るまで一定の説得力を有し続けたことは確かだ。


>654(蛮子の皆さん、突然ですがモンゴル皇帝モンケ・カアンの名において
    ちょっと征服させてもらいますよ)
確かにモンゴルは南宋政権を滅ぼして、中国全土に支配を確立したのだが、
モンゴル流の経済政策を旧南宋領に及ぼすことができなかった。
江南地方では科差、科糧が実施されず、中唐以来の両税法がそのまま維持されたのだ。
宋代に流通した銅銭の回収がスムーズに行かなかったことと、壮丁を人数割りにして
均一の税を課す方式が、漢人の強い反発を受けたためだろう。
中国史上いかなる時代でも、このようなダブル・スタンダードが実施されたことはなかった。
これは政策上の便宜から出たものではない。金王朝と同じで、江南にまで完全な支配を
及ぼすだけの実力に欠けていた結果、妥協をはかるしかなかったのだ。
結局、モンゴル政権に可能だったのは、旧南宋領の漢人を差別的な立場に置いて
精神面での嫌がらせをする程度のことだった。まあ、蛮族らしい姑息な知恵と言えよう。

>656(なんで長安から北京に中心が移ったの?)
宋が南渡して以来、中国の経済的・文化的中心はずっと江南であって、
現代に至るまでその構図は変わっていない。地図を見れば一目瞭然たりうるように、
北京はまったくの辺境だ。運河の終端であることから、孤立した地域ではないにせよ、
独立の経済を維持するには到底困難な都市であったといえる。
明王朝がここに都したのは、あくまでも北辺防衛のための便宜に応じてのことだが、
それにしても食糧輸送の莫大なコストを負担してまで北京に拘る必要性は薄かった。
江南の気質を嫌う永楽帝だからこそ意味のある国都だったと言えよう。
現に永楽帝の死後、あとを襲った洪煕帝は南京への再遷都を決めている。
洪煕帝があまりに短命で、さらにそのあとを継いだ宣徳帝が、祖父に似た武人肌の
持ち主だったためか、再遷都の計画は結局沙汰やみとなったが、
まともな感覚で考えれば、やはり北京を国都とすることは不自然だったのだ。
なお、長安をはじめとする陝西地方が衰頽した経緯は>>663で述べたとおりだ。
186名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/02(水) 01:02:46 ID:BfTUmOpS0
>673(文天祥て結局、大した政治的文化的功績残してませんね)
確かに政治的には何の定見もない無能な人物であったと言える。
もっとも、賈似道時代にはまだ微職にすぎず政権の中枢にいたわけではないので、
亡国の責任を負わせるのは酷であるが、右丞相に擢用されてからも、
勝算の皆無な抗戦論を唱えてみたり、講和使として皐亭山に赴いたにもかかわらず
伯顔を相手に口論を挑んで身柄を拘束されたりと、言動のすべてが場当たり的で、
思慮の浅い人物と苦笑するより他ない。文天祥の精神の根源にあったのは
言うまでもなく朱子学だ。なにせ理宗の科挙で状元(首席)になったくらいだからな。
朱子学が服を着て歩いていたようなものだ。こうした愚直で純粋な生き方が、
後世の人間を感動させたことは確かだろう。辞世となった『正気の歌』も忠烈の
証として高く評価されているな。むろんそれはそれで適切な評価ではあるだろうが、
私個人としては、朱子学の徒らしい幼稚な意地が滲み出た駄文にしか見えん。

>674(蔡京様が1275年の南宋の宰相だったらどういう対モンゴル対策しましたか?)
どうもこうもない。その時点では既に南宋の原状回復は不可能だろう。
文天祥や張世傑を更迭し、恭宗を伴って伯顔の軍門に降るだけのことだ。
むろん陳宜中のように後々態度を翻して、無様な最期を遂げるつもりはない。
元に登用されれば素直に応じるし、いらぬと言われれば静かに隠棲するのみだ。

740 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/06/14(水) 03:14

>680(北宋の太宗は兄の太祖を暗殺して即位したという俗説があるけど本当の所はどうよ?)
確かに太祖から太宗への権力交代には不自然な点が多い。
太祖には男子があったから、本来なら彼らのうちの一人が後を継ぐのが当然だ。
太祖が没した直後、年の明けるのを待たず改元した点も不審といえる。
宋の文治主義が完成したのは太宗の時代だ。あくまで軍人的性格の強かった
太祖と比して、太宗の文臣を優遇する態度は極端なものであった。
文臣の歓心を買うため、卑屈なまでの人気取りをした───といっても過言ではない。
こうした所作がすべて、違法な権力奪取への批判を抑える目的から
出たものという主張も、なるほどそれなりの説得力を有している。

しかしながら、いずれも状況証拠ばかりで真相はわからん。
仮に簒奪が事実としても、李世民や朱棣のように公然と行われたのではあるまい。
公然の権力奪取であったのならば、多かれ少なかれ記録が残るはずだ。