前漢vs後漢vs唐vs宋vs明vs清

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171名無しさん@お腹いっぱい。
843 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/09/15(金) 19:40:58
>723(蔡京が秦檜の立場だったら、やはり岳飛を殺して金に臣従した?)
北宋が金に滅ぼされたのは単に童貫らの戦略上の失敗で、首都を孤立させたまま
敵の直撃に晒してしまったのが原因だ。国力や軍事力の差に起因するものではない。
そもそも戦禍を被ったのは河北と山西の一部のみで、他はまったくの無傷だった。
宋は徽宗朝末期であっても、内部から政権が瓦解するほど衰退してはいなかった。
南宋が150年以上存続したことじたいがその証左だ。
よって、少なくとも高宗時代の初期であれば、南宋が金を撃ち華北を奪還することも
まったくの不可能事ではなかった───というのが私の一貫した考えだ。
岳飛が飛び抜けて有能な将軍であったとは思わないが、水準程度の能力はあった。
軍閥単位で無統制に戦闘を行うだけでは自ずと限界があっただろうけれど、
高宗はじめ臨安の首脳部がもう少しまともな指導力を発揮しておれば、
南宋の歴史は違ったものになっていただろう。

けれど、秦檜個人の立場からすれば、対金戦争を続けることにメリットがなかった。
檜が金の和平派と気脈を通じていたというのが事実であるとないとに関わらず、
軍閥勢力の台頭を抑え、兵権を中央に帰して統一しようというのは、
宋代の政治家として至極自然な考え方だ。よって私が秦檜の立場であっても、
基本的には金との講和を目指したであろうと思う。

ただ、私であればもう少し先まで事態の推移を見守ったかもしれない。
実は岳飛がどの程度まで奮戦し、どの程度宋に有利な戦況が展開されていたのか、
はっきりしたことは不明なのだが、一般に語られているような快進撃で金の心臓部を
突くほどの勢いであったのならば素直に任せてよし、仮に失敗したとしてもさほどの
デメリットはなかったと思われる。どのみち金には淮河以南を征服する実力がないのだ。

戦況が宋に有利に展開しているうちに講和を打診することは、
確かに誤った考えではないとしても、ああまで性急に事を運ぶ必要はなかった。
また、軍閥を放任することで唐末のごとき中央の統制が及ばない群雄割拠の
状態が固定化するとも考えにくい。仮に軍閥がそれほどの実力を有していたのなら、
そもそも岳飛を殺したところで、兵権の回収は困難だったろう。
172名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 23:10:06 ID:J3benrf30
842 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/09/15(金) 19:40:16
>719(北宋の神宗て、結果的に名君と呼べる皇帝なんですかね?)
少なくとも新旧両法の党派抗争の責任を神宗に負わせるのは誤りだ。
朝令暮改で国内政治を混乱させる原因を作ったのは、
明らかに宣仁太后の仕業であって、神宗には何らの非もない。
姦臣を抜擢し祖宗の法を退けた暗君であるという評価も、
所詮は後世の朱子学者の筆による歪曲であって、現代では殆ど修正されている。
神宗は聡明で決断力に富んだ名君であった。早逝したことが悔やまれる。

ただ、残念なことは武功への焦慮が過ぎて、軍事面での失敗を繰り返したことか。
西夏、遼、交趾、吐蕃そして四川の苗族討伐───と、
四方に兵を起こしながら悉く失敗し巨額の損失を出した。
しかし、それでも失意することなく鋭意政務に専念して怠らなかったのは立派だ。
齢を重ねれば熟慮と威厳を備えた名君として君臨しえたものと確信している。

>720(前漢の高祖、劉邦て若い頃は今で言うところのニートだったんですかね?)
家業に励まず放蕩無頼の生活を送っていたというから、まあ、誤りではないかもな。
高祖の具体的な出自や経歴は不明な点も多いが、亭長の職を得て名を売ったことや、
勢力家の娘を娶った点から考えれば、まったくの貧民ではなかっただろう。
ニートというのは無職でも生活できる程度に金銭的余裕がある者をいう。
したがって、そちらの意味でも若き日の高祖はそれに近いものがあったかも知れん。

>721(北宋太祖の石刻遺訓は実在したんですか?)
太祖が周室の保全を遺訓としたのは事実だ。
が、これは代々の天子が秘儀を以て伝えたわけではなく、
公的な事実として私たちにも開示されていた。
言論の咎を以て士大夫を殺さず──というのも、確かに事実上の慣習としてあったが、
太祖の遺訓とは些か考えにくい。どちらかといえば太宗の考えそうなことだ。
いずれにしても石刻遺訓の話は正史に記載のあるものではないし、
また、そういうものが存在したとすれば私たちの耳にも漏れ聞こえたはずだ。
一概に否定するほどの根拠はないにせよ、後世の創作ではないかと思う。
173名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 23:10:27 ID:J3benrf30
>691(読書好きの北宋太宗)
太平御覧は、当時北宋に降った南朝諸邦の遺民を書物の編纂に任じ、
太宗みずから指揮監督することで、反宋感情を抑圧する目的を有したとの説もある。
太宗は当代を代表する教養人の一人であったし、よく文臣を手なずけた明君だ。
能力面では兄の太祖に劣らない───というより、明らかに勝っていただろう。
にもかかわらず、今日に至るまでその実績に相応しい評価を得ているとは言い難い。
これは言うまでもなく、その即位にまつわる疑惑に端を発している。
実際、太宗が簒奪かそれに近い形で天子の位を襲ったものかどうかは不明だ。
しかし、唐の太宗の兄弟殺しと比較して、趙匡義の場合は疑惑が疑惑のまま後世に
語られたため、学術への理解も文尊武卑の態度も、すべて知識階級の不満や批判を
余所へ逸らすための方策ととられる面がある。まあ、不運といえるかもしれん。

836 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/09/15(金) 19:36:13
>692(でも南宋末期の呂文煥を逆臣と呼ぶのは酷でしょ)
いくら酷であろうと、南宋にとっては逆臣でしかないだろう。
まして呂文煥の場合はのちに元将として逆に宋を討っているのだから、
背景にどれほど感涙きわまる物語があったにしても、反将は反将だ。
なにせ時代は朱子学思想一色だったのだからな。たまたま比較の対象として
賈似道という名高い姦臣がいるため、後世においてはあまり非難されぬものの、
存命中は肩身の狭い思いをしたことだろう。少なくとも文天祥と比べれば、
朱子学者の目には許されざる大悪と映ったに違いない。

>709(中国史で名将を挙げるとしたら、真っ先に私ですな)
徐達は思慮の深い慎重な人間で、朱元璋の命令を忠実に実行した。
逆に言えば、独断で何かを為すには向かない、正攻法を守る武将だったようだ。
それゆえに猜疑心の強い朱元璋からの信頼も厚かったのだろう。
徐達と比肩しうる朱元璋の部将としては常遇春がいるが、
こちらはやや性急な猛将としての性格が強い。
徐達は確かに名将とされているし、それに相応しい功績も一応はあるけれど、
やはり朱元璋の成功は朱元璋自身の能力による面が大きかった。
徐達も常遇春も冷静に考えれば平均的な能力の持ち主でしかなく、
むしろ朱元璋は軍事面において人材に恵まれなかったのではないかとの見解もある。
劉基にしてもそうだ。中国史において最も有名かつ優れた軍師として讃えられつつ、
よくよく考えればそれほど有益な進言をしたとも思えない。

>710 ココテムル
ある酒宴の席で朱元璋が「今の世で最も怪傑と呼ぶに相応しい武将は誰か?」と
尋ねると、満座の臣下たちはみな常遇春の名を挙げた。しかし朱元璋ただ一人が
敵であるココテムルを推し、その勇武を賞賛した───という話が野史に見える。
これが正確な事実を伝えているのかはわからんが、朱元璋が次男秦王の妃として
ココテムルの妹を娶わせたことからすれば、案外真実性のある話なのかも知れん。
政治的野心よりもただ戦闘に明け暮れることを好んだところからしても、
まあ、猛将という評価が妥当なものだろう。
174名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 23:10:50 ID:J3benrf30
741 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/06/14(水) 03:16
>682
>遊牧生活を送る連帯集団は支配権志向をを強めて都市に拠点を置く国家を
>征服し新国家を形成する。 しかし文明の発展と共に初期の連帯意識を失い
>新たな連帯集団に征服される。
遊牧集団がその存続上必然的に支配権志向を強めるという点が若干怪しい。
確かに天災その他の事情で食糧備蓄が欠乏した場合に、外部社会からの
略奪を行うため、内部結束を強めるケースはあるが、多くは一過性のものだ。
遼が中国内部にまで支配を及ぼす征服王朝を築いたことは、遊牧社会に特有の
性質に基づくものではなく、あくまでも農耕社会───中国との地理的近接から、
本来の遊牧社会には存在しない特殊の性質を帯びたためと考えられる。
金・元の二つの王朝はかかる性質を受け継いだに過ぎない。
もっとも、遼・金・元は相当に巨大な社会を形成した政権であるといえるから、
その性質にも一定の普遍性を認めることは可能だが、遊牧社会が遊牧社会で
あるがゆえに当然備わる性質と混同するのは、いさかか極端な見解といえよう。

>689(では、阿片については、どのような取ればよかったのでしょうか)
質問の趣旨がいまいち解り難いが…。
まず、前提として黄爵慈らの唱えたアヘン厳禁論も、許乃済らのアヘン弛禁論も、
結局は法による直接の規制でアヘン貿易にまつわる弊害を解決しようとしていた。
どれほど厳格な運用がなされたとしても、法規制の効果には自ずと限界がある。
厳禁論者の主張するようにアヘン吸引者への取締を強化するにしても、
弛禁論者のいうようにアヘン売買の決済に銀を用いることを禁止したにしても、
そもそもはじめからアヘン売買が密貿易で行われている以上、規制の効果は薄い。
厳禁論と弛禁論の争いは、互いに互いの実効性を攻撃するものであった。
どちらがより合理的な主張であったかを今になって決するのは難しい。
が、どうしたことか厳禁論が力を強めて、弛禁論が立ち消えたのは歴史的な事実の示す通りだ。

よくわからないのは、もともと厳禁論者の中にも直接的な法規制の実効性を疑う声が
あったにもかかわらず、清朝政府の意見が、さらに効果の薄いと思われるアヘン輸入
そのものの禁止に傾いたことだ。単に道光帝が林則徐の熱意に打たれた───
とすれば何やら聞こえはいいが、結果論からすれば明らかに悪手であっただろう。

ただ、アヘン戦争は、清朝が英国側の事情にほぼ一方的に翻弄されたもので、
清朝の側からどんな手を打ったところで意味がなかったとも言える。
英国議会の中にも武力発動には反対の声が強く、対清出兵案がわずか九票の
寸差で可決されたことはよく知られている。その意味では林則徐の暴走を許しつつ、
戦争が回避される可能性が絶無だったとまでは言えない。

幾度も述べたように、アヘン戦争の敗因は中国社会が近代化に立ち遅れた点にある。
いわば運命的なもので、仮にアヘン戦争という形をとらなくとも、別の機会にやはり
西欧列強の実力の前に屈する結果となっていただろう。であるからこそ、
結果はどうあれ、半ば自棄になって意地を貫き通した則徐が英雄視されるのだろうな。
175名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 23:11:15 ID:J3benrf30
476 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/02/04(土) 10:41
>439(同じタイプの政治家なのに成功者として後世に認識されている張居正について
    失敗者の観点から語ってくれ)
一般に税制の大改革者として語られている張居正だが、所謂「一条鞭法」が居正の発案で
あることを示す明確な証拠はない。一応説明をしておくと、一条鞭法とは、従来成人男子に
課していた労役を、貨幣納(銀納)に変更したものだが、史家はこれをやや過大に
評価しすぎるきらいがあると思う。労役は人民にとって重い負担であり、その解消の必要は
既に宋代から唱えられていた。王安石(と私)の改革においても主要な課題と位置づけられて
いたことは言うまでもない。いったい労役といえば不当に人民を使役する懲罰的処遇という
イメージが強いが、前近代においてはスタンダードな課税方法であった。
これをやめて貨幣納に切り替えるためには、少なくとも貨幣経済が国内の隅々にまで浸透
していなければならず、元来農本主義的な社会である中国においては、難しい課題だったのだ。
労役が完全に廃止され、地賦(財産税)と一本化されるのは清代中期になってからのことだ。
言ってみれば一条鞭法は時代の過渡期に現れた折衷的な税制と解されるわけで、
確かに観念上は重要な意義を有するが、どの程度有効に機能していたかは極めて疑問だな。
なんといっても、万暦以降、明王朝の軍事費は爆発的に増大し、一条鞭法の上に様々な
労役が課せられていたのが現実だ。これではそもそもの立法趣旨が没却したと言わざるを得ない。
結局のところ、張居正のした財政は、全国の土地の検量を改めることで税収を増やし、
歳出を抑えることで予算全体の調和を図るという、旧来的な手法の域を一歩も出ていない。
つまり、財政構造の再編成にはほとんど手をつけていない、ないしは結果を出していないわけだ。
それであれば、そもそも財政を圧迫する最大の要因である軍事費の削減に軸足を置いた
私の改革のほうがまだしも有効なものであったと言えるだろう。
ああ、一つ付け加えると、私にあって、張居正に欠けていたものは、柔軟性ないし協調性だ。
居正は陰気で意固地で、自らの理念に固執して他人の言に耳を貸さぬ傾向があった。
その点は王安石に似るとも言えるが、居正には理想はあっても、清貧さがなかった。
他人の腐敗には厳格で、自らの私欲を抑えることを知らぬのだから、人望を得られるはずもない。
死後名誉を剥奪される結果に陥ったのも当然のことと言えよう。
私は大衆人気はなかったが、周囲の人間からの人望はあったよ。私利私欲の追求に熱心である
以上に、他人の不正に寛大だったからな。政治家に求められる柔軟性とは、つまりそういうことだ。

490 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/02/11(土) 13:28

>480(北魏の孝文帝の極端な漢化政策をどう見ますか?)
鮮卑族はもともと、塞外で半農半猟の生活を営んでいた民族だった。
半農半猟とはつまり、農耕生産力の不足を狩猟ないし牧畜で補っていたことを意味し、
機会にさえ恵まれれば、農耕主体の社会へとシフトしやすい性質を持っていたわけだ。
言い換えれば、漢化しやすいということで、この点が純粋な遊牧民である匈奴やテイ族とは
決定的に異なっていた。匈奴の前趙政権や、テイの前秦王朝の漢土における支配が長続きせず、
最終的に北魏が台頭できたのは、以上のような理由からと考えるのが妥当であろう。
北魏は中国への入寇以来、概ね一貫して漢人の貴族社会との調和を図ってきた。
それは太武帝しかり馮太后しかりで、孝文帝の漢化政策もその延長線上に起きた出来事に過ぎない。
表面的な歴史の経緯だけを観察すれば、なるほど孝文帝の漢化政策が極端化を呈したことで、
保守勢力の反発を招き、六鎮の乱を経てついには政権自体を瓦解させたように映る。
ただ、これは漢化政策そのものが行き詰まったのではなく、単に皇帝権力の限界が露呈したものと
考えるべきだ。何となれば、その後に成立した反動政権である北周、北斉の両王朝も短命に終わり、
漢化した鮮卑族の完成形ともいえる隋が中国を統一したのだ。
まあ、北魏政権の維持という観点からのみ論じれば、確かに孝文帝は些か性急に事を運びすぎた。
端的に言えば、北魏の天子には、反対勢力を強硬に抑圧して革新的な政策を推し進められるほどの
実力が備わっていなかったということだな。
176名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 23:11:42 ID:J3benrf30
491 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/02/11(土) 13:29
>482(蔡京さんのチンギス史観を教えてください)
これまで一貫して主張してきたとおり、私はチンギス汗とその後継者たちを全く評価していない。
何となれば、蒙古帝国は中国ないしイスラム世界の一時的な衰頽に乗じて勃興したのみで、
特段の評価を与えるべき先進性を含有していなかったからだ。
ただ、それはそれとして、蒙古帝国の出現は、世界各地に色々の作用を及ぼした。
蒙古帝国がイスラム勢力を圧倒し、洋の東西を結ぶ交通路の中心に割拠したことで、
東西交流はかつてない活況を呈した。それは宋の支配下において完成した先進的な中国文化を
西洋へと伝播させ、13世紀以降、イタリア・ルネサンスを開花させる役割の一端を担った。
また、ヨーロッパと西アジアの宗教的対立を解消させた働きも見逃すことはできない。
まさに蒙古の大征服から最も大きい恩恵を享受したのは西洋社会であると言えるだろう。
翻って、蒙古帝国が中国社会に与えた影響は悲惨なものだった。元朝の後に出現した明王朝は、
漢族の政権でありながら、宋の復古ではなかった。それはどこまでも蒙古への反動でしかありえぬ
排他的かつ閉鎖的な政権で、中世以来開拓された西へ向かう交通路を遮断せしめ、
中国社会を世界から孤立せしめた。およそ文明というものが他文化圏との交通を前提として
相乗的に発展するものである以上、鎖国はある種の自殺的行為と言える。
いずれにしても、蒙古帝国の興隆が後世に及ぼした作用の中で、チンギス汗があらかじめ意図して
いたものは一つとしてない。チンギスは本能の赴くまま殺戮と略奪に興じたのみだ。
禽獣は禽獣であり、後世にいかな影響をもたらしたといえど、殊更に賞賛すべき点は何一つない。

492 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/02/11(土) 13:30
>486(五胡十六国時代で一番の英傑は誰だと思いますか?)
基本的に英傑不在の時代であったといえる。
まあ、強いて言うならば五胡十六国の動乱に終止符を打った、北魏の道武帝なり太武帝なりが
時代を代表する英傑ということになるか。ただ、上に述べたように北魏の成功はその特徴的な社会と、
早いうちに漢人と調和して統治基盤を整備し終えたことがプラスに作用した結果に過ぎず、
誰か一人ないし数人の英雄的資質に還元できるような出来事ではなかった。
指導者個人の力量に依存しすぎた前秦は、一個の失策を原因として短期間に瓦解した。
英傑的と呼べるような指導者の個性は、かえって社会全体の調和を妨げる悪弊となりうるものだ。

>517(もし煬帝が高句麗遠征をやらなかったら隋王朝は長く続いたんでしょうか?)
律令の整備といい、運河の再編といい、長期政権を打ち立てるだけの基礎的諸条件は、
まずまず整っていたと言えるだろう。唐が曲がりなりにも三百年近く存続した要因を
太宗の個人的実力に求めるのも一理あるが、隋の整備した諸制度を
ほとんどそのまま受け継いだことによるメリットは無視できない。
もっとも、これまで何度か述べたように、唐は極めて人民支配の実力に欠けていた政権で、
玄宗以降も存続しえたことは殆ど奇跡とも言える。たとえ煬帝が天子として立たず、
隋の天下が継続していたにしても、唐に起きたのと同じ奇跡を享受できたかどうかは疑問だ。
常識的に考えれば、隋が数百年単位で統一を維持するのは困難だったと思われる。
また、煬帝の評価も案外と難しい。暴君色の強い人物だったことは間違いがないにしても、
政権瓦解のきっかけとなった高句麗遠征が、明らかな政治的誤判断だったと言えるか否かは
幾許か議論の余地があろう。何といっても太宗ですら同じ轍を踏んで、痛い目に遭ったのだ。
177名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 23:13:17 ID:J3benrf30
541 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/03/18(土) 17:42
>520(中国史上最高の名君親子が遊びに来たぞ)
朱元璋がある種の天才であったことは間違いない。少なくとも軍人としての能力は世界史上
最高のものを持ち合わせていたと言えるし、政治家としての実行力は唐の太宗に匹敵する。
また、政務への執着心は清の雍正帝とも比肩しうる。永楽帝の場合は、軍事的な面に傾斜
しがちだが、それでも水準以上の能力は備えた人物だったとして差し支えなかろう。
ただ、個人としての能力が優れているから直ちに名君と評して良いか否かは些か疑問だ。
たとえば秦の始皇にしても、煬帝にしても、あるいは徽宗ですら、それ相応な智慧や才覚には
恵まれていた。名君の名君たる所以は、国策に誤りのないよう指導監督するところにあり、
別段超人たることを要しない。たといあやめも分かたぬ白痴狂疾の類であっても、
名臣の輔弼を得て誤謬なかりせば即ち名君と評して何ら問題となるところはないだろう。
ま、私の個人的な見解として、明王朝の国民主義的、あるいは排他的、閉鎖的な性格が
後世の中国社会に及ぼした悪影響を極めて重要視しているため、必然的に朱元璋父子への
評価も低いものになっているが、それも所詮は一方からの批判に過ぎん。
実際のところ、明清を唐宋の発展形として位置づけ、中国社会の極盛期と考える向きも
少なくはない。そういった観点からすれば朱元璋も永楽帝も世界史上稀に見る名君となろう。


569 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/04/04(火) 16:34
>544(明代における朱子学の停滞は、永楽帝による方孝孺とその学派への弾圧が原因?)
方孝孺の一党が粛清されたことで、朱子学の理想主義的な面が骨抜きになり、
変わって統治機構との一体化を促す世俗的な性格が顕著になった───とは言える。
『性理大全』に代表される永楽以降の朱子学が、ただ科挙受験用の技術と堕して、
内省的、思弁的な哲学としての性質を失したという点は、後世しばしば指摘されるところだ。
もっとも、朱元璋の極端・過激な儒教政策がそのまま継続したものと仮定しても、
明一代を通じて朱子学がさらなる発展拡大を遂げ得たかと言えば、それは些か怪しい。
そもそも朱子学は実際の政治には何の役にも立たんのだ。朱子学に基づいた社会改革を
目指した南宋理宗の政治が悉く頓挫したことを考えれば、朱子学派は高尚な議論を
弄ぶのみで、およそ天下の政治を損なうものである───とした韓侘冑の指摘こそ正鵠を
射たものと言えはしまいか。この点、朱子学は本来重農抑商の色彩が濃い思想であるから、
明王朝の農本主義的な国策にこそ合致し、南宋の例と比較すること自体が誤りであるという
批判も一応可能ではあると思う。しかしながら、朱子学が備えた弊害とは、現実の社会問題を
直視せず、いたずらに空論に傾斜してあらゆる変革を嫌うところにあるから、かかる批判は
妥当なものでないと私は思う。そうすると、永楽帝の出現如何に関わらず、陽明学派のような
朱子学への批判意見が生まれたことは至極当然のことと言える。

>545(北虜南倭の禍ですが、蔡京さんならどんな手段で対処しますか?)
北虜にせよ倭寇にせよ、その根源的な要因は明王朝が国策として民間貿易を禁じたことにある。
まず北虜に関していえば、そもそも遊牧社会は中国市場に依存せねば自立的な経済を
営むことが極めて困難であり、中国側の認容する朝貢貿易のみでは社会の維持に必要な
経済的利益を得られなかった。そのため中国への侵入と略奪を繰り返したのであって、
原因さえ取り除けば衝突は止む。なにも全国を挙げて北方社会との通商を推進せよと
いうわけではない。ただ馬市を開いて現地人同士の交易を認めるのみでいいのだが、
嘉靖帝をはじめとする保守排外的な勢力にはそれを理解できなかったようだ。
倭寇についても基本的な部分は同様だ。結局、朝貢貿易の恩恵を受けるのは、
日本の支配者階級とそれに結びついた一部の特権層のみで、末端の商賈(無論これは中国人を
含む)は違法な密貿易を営むより他ない。実際のところ、明代においては私貿易を事実上
黙認していた時期があり、その期間には倭寇の出ることもなかった。まさに「貿易通ずれば倭寇は
商人と化し、禁じられれば商人は倭寇と化す」状態だ。別に祖宗の法をいたずらに侵せとは言わん。
しかしながら、法はその適用にあたって、現実の利益と調和した節度を守るべきだ。
178名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 23:13:59 ID:J3benrf30
582 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/04/11(火) 03:30
>555(僕ちんの帝位が…。叔父ちゃんにけんか売るんじゃなかった…)
喧嘩を売ったこと自体は誤りではない。
朱元璋は唐代における藩鎮の意味を誤解して捉えていた。
朱元璋が皇族の諸子を封建して辺境防衛に当たらせたのは、唐代の精神に倣ったためで、
藩鎮の存在が塞外民族の侵入を防ぐ役割を果たす───という考え方に基づく。
しかし、唐代の藩鎮はそのように合目的的に創設された制度ではない。
あくまでも朝廷の統治基盤が弱小であるために生じた弊害だ。
言ってみれば藩鎮の存在は統治機構全体の中では異質なものであり、
たとえその運用を天子の血縁者にのみ委ねたとしても、本質としては変わりがない。
不要かつ不当な制度は当然に修正を加えるべきで、建文帝が諸王の粛清に乗り出したことは
至極妥当な行動だったと言える。むろん明の政府にはそれを可能にするだけの実力もあった。
にもかかわらず、朱棣の簒奪を許す羽目になったのは、純粋な戦略的ミスによるものだ。
そしてその背景にあったのは建文帝の優柔不断だ。そもそも、統治機構の確立した近世の
中華王朝において、内部的な簒奪が成功すること自体が奇跡なのだからな。

585 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/04/11(火) 03:34

>572(遊牧民史研究家の杉山正明は北宋を契丹の属国と断言していますよ)
宋は遼の圧倒的軍事力の前に政治的従属を強いられた───というわけではない。
そもそも遼は単独での存立すら困難なほど経済基盤に乏しい政権で、
宋に対する軍事的優位は戦術的優位に過ぎず、ひとたび局地戦に敗北を喫すれば
たちどころに崩壊しても何ら不思議ではなかった。セン淵の盟約が結ばれることなく、
11世紀以降も宋遼間の交戦状態が継続したとして、遼が中国全土を併呑した可能性は全くの零だ。
中唐以降の中国では兵農一致型の兵制が崩壊して、軍事コストが莫大に膨張した。
長期にわたる戦争状態は、たとえ最終的な勝利に終わったとしてもマイナス収支しか残さん。
それに比べればセン淵の盟約で約定した歳幣など、まったくのはした金だ。
結局、セン淵の盟約は両国間の国力や経済規模があまりにも隔絶していたために生じた、
極めて特異な外交関係であるといえる。また、遼は宋から受けた歳幣を国内経済の発展に
投資することが出来なかった。すなわち燕雲十六州を中心とした州県部においては、
中国から物資を購入する為の支払いに銀と絹を使い尽くし、北方の部族制地区においては
ウイグル商人を介して、西方社会に財貨を流出し続けた。結局、中国に経済的に従属することで、
中国本土より百年遅れた社会をかろうじて維持したというのが、遼王朝の本質だ。