前漢vs後漢vs唐vs宋vs明vs清

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160名無しさん@お腹いっぱい。
303 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2007/05/31(木) 14:44:44
>>243
>張居正って蓄財しなきゃただの奸臣じゃね?万暦帝は真性のクズ。
>徽宗の方が歴史的な価値が高い。ぶっちゃけ張居正はお前以下の奸臣だと思う

張居正に限らず桑弘羊や楊炎、第五gなどにしても、
特に経済面で大きな改革をなした政治家は、皆一様に汚れた面を持っていた。
改革者に要求されるのは非情さと豪腕であり、この点に欠けていた王安石が、
志半ばに倒れたのは当然の帰結であるとも言えるだろう。

私と張居正は、共に強引なやり口で権力を奪取し、独裁的な地位を築いた上で、
思いのまま政治を行った点が似ている───と、しばしば指摘される。
しかしながら全体的な評価でいえば、張居正が中国史を代表する理財家の一人と
されるのに比べて、私はただ国を滅ぼした姦臣と悪罵されるのみだ。
それが全く不当な評価であるとの思いは、これまでしばしば主張してきたところであり、
張居正を私以下の姦臣と看破したそなたの慧眼には敬意を表しておく。

万暦帝が真性の屑であるとした点も、まったく同意だ。
世界史全体を探してみても、これほど不徳の天子はなかなか見当たるものではない。
むろん徽宗もその悪行たるや万暦に劣後するものではないと思うが、
そなたの指摘するとおり、芸術家としての名声があるぶんだけ、
やや歴史的評価が高くなっているな。
ま、私にしてみれば目糞鼻糞もいいところの似たもの同士に見えるがな。

365 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2007/09/06(木) 21:57:56
また間が空いてしまった。
早速回答を行ってゆくとしよう。

>>310(何故北宋は西夏にすら勝てなかったの?)
宋の軍隊は歩兵が主力であるから、騎馬の精鋭を相手にする野戦には弱い。
また、平和が長く続いたことで軍規が乱れ、そもそも兵士各個の質が低かった。

しかし、それはそれだ。戦争の勝敗は野戦の結果だけで決まるものではないし、
こと要塞に立て篭もった防御戦においては、騎兵に格別の有利は生じない。
そして西夏が貿易立国である以上、宋と戦争状態になり経済封鎖を受ければ、
戦争の継続どころか、国家財政そのものが立ち行かなくなる。
いくら前線に精鋭を投入したところで、社会構造的な部分で西夏は宋にかなわんのだ。

そもそも西夏が宋との国交を断絶して戦争を始めた理由は、
ナショナリズム的な理由から宋への臣従を拒んだことと、
貿易赤字解消のため塩の輸出を認めさせようとしたところにある。
しかし、慶暦の和議ではそのどちらも実現しなかったのであるから、
勝てなかったのはむしろ西夏の側であり、そなたの質問は根本が誤っている。
161名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 22:20:25 ID:J3benrf30
224 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2007/03/14(水) 19:15:59
>217(北宋時代の軍事費も相当なものだったでしょうな)
相当どころの話ではない。宋はその国初から兵農一致の国民皆兵制を断念し、
傭兵による常備軍を保持していたため、軍事費は財政全体の8〜9割を占めた。
人民は兵役を免れたものの、労役は依然として存在したし、
軍事費は主に塩税で調達されたから、結局は別の形で生活を圧迫された訳だ。
王安石が唐代の徴兵制へ回帰をはかったのも、かかる事情が背景に存したためだ。

王安石の兵農一致政策(保甲法という)は、財政面から言えば一応の成功をみた。
なにせ保甲法による軍隊の維持コストは、従来の十分の一程度の試算だったからだ。
実際はそこまで計算どおりには行かなかったにせよ、歳出削減の効果は劇的だった。

ただし、兵制改革のもう一つの重要な目的である軍隊の精鋭化は達成できなかった。
王安石は、軍隊の弱体化は傭兵の士気の低さに原因があるのだから、
外敵から自らの生活を守るという確固たる目的を有した民衆を徴兵することで
士気の高い軍隊を作ろう───と、考えたわけだが、実際そう単純なものではない。
王安石は民衆の国防意識を過大に見積もっていたのだな。
民衆にとっては、いかに農閑期とはいえ、一銭にもならぬ軍事教練などに
駆り出されるのは迷惑であろうし、また、戦争は農閑期を狙って起きるものではない。
加えて、兵士は卑しい身分であり、軍隊はやくざ者の集まりである───という、
中国独特の卑武精神もある。そうした気風は何も士大夫だけが持つものではない。

であるから、巨大な軍隊を抱えつつも、外交で平和を模索するという宋の国家観は、
実情を反映した合理的な考え方であったのだ。宋は弱腰で腑抜けた時代であると
揶揄する者も多いが、近世東アジアの超大国として、それが最も妥当なあり方だった。

301 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2007/05/31(木) 14:38:58

>>237 朱元璋
学問といえば朱子学しか思い浮かばぬであろう狭量なそなたが、
回教徒の文献に興味を示すなど全くの意外だ。片腹痛いとはまさにこのことか。

>しかし何故唐宋は回回と交流があったのにアリストテレス哲学を
>中華で研究しなかったのか納得のいく奏上を求む。

ふむ。唐と宋では事情が異なるゆえ、別個の説明が必要だろうな。

まず唐代においては思索的な哲学などそもそも需要がない。
儒学は訓詁学として単なる文字解釈の学問と堕し、
庶人はもとより知識人すら、高邁な哲学よりも
ひたすら現実逃避と死後の安寧を欲する仏教に傾倒した時代だからな。

宋代に入ると仏教勢力は大きく後退し、儒学がにわかに活気を帯びて、
その哲学的な面からのアプローチによる再構築が始まったが、
宋代の文化高揚がルネサンス的な側面を有していた以上、
参考として学ぶべきは中国古代の知識であって、
わざわざ何らの関連性を有しない外来の学問を受容する意味はなかったろう。

アリストテレス哲学が宋学と比して数段優れていたというのならば格別、
各々発生した経緯や、思想構築の土台となる地理的・社会的事情が
全く異なっているのだから、客観的に甲乙のつけられるような問題ではない。

私の考えとしては概ねこんな感じだ。
納得はいったかね?
162名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 22:20:48 ID:J3benrf30
918 名前:アブドゥル=ラフマーン 投稿日:2006/11/03(金) 13:13:0
>>884 南宋の故地奪還
それは当然、あの歴史的にも稀有なほど徹底された文治政治によるが故だろう。
宋王朝は節度使などの武人の叛乱で滅び去った唐王朝の歴史を教訓にした
尚文軽武、文官による国家統治を目指した。中国歴代王朝で官吏の給料が最も高額だったのは
宋王朝、特に北宋期だ。逆に軍事部における士気は驚く程低かった。南宋が元の攻撃に雪崩を打つが如く
滅亡に至ったのは、南宋軍兵卒の逃散が著しく、終いには罪人に焼印を押して兵になることを強要せねば
ならなかった様な錬度の未熟な軍事力であったことは決して無関係であるとは言えぬ。
しかも、その士気の低い軍兵を率いるのが高官とは言え戦場の駆け引きなど机の上でしか
計算したことが無いような、実戦経験の乏しい長袖の文官なのだ。
こんなことで、どうして敵に打ち勝つ事が出来るだろうか?
・・・生まれながらの戦闘民族であった蒙古人や女真族に適わぬ事は道理であろう。
他にも色々と政治的事情があったのだろうが、その項に関しては
蔡太師の回答を待つと良いだろう。

923 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/11/09(木) 00:20:16
では本日の回答を行う。

>884(南宋が華北を奪還できなかったのは何故ですか?)
一には秦檜の没後、必ずしも主和論が後退したわけではなく、
北伐派と和平派の争いが政策論争の域を超えて、北宋時代の新・旧法の抗争に似た
感情的対立に堕したためだ。華北の奪還は大事業であり、朝廷の意思統一を抜きに
実現しうるものではない、孝宗もまた高宗に似て優柔不断の面があった。
海陵王南侵の後に締結された和約は、韓侘冑の出現するまでほぼ五十年にわたり
効力を維持した。その間に南宋の財政状態は漸次逼迫し、専守防衛の枠を超えて
失地回復の実現に予算を充てるほどの余力を喪失した───という事情もあった。
もともと南宋は、淮河以南の領土を保全するのみで十分に政権維持が可能であった。
総じて生産力の低い華北地方を奪還することに経済的な面でのメリットはない。
ともすれば失地回復は精神論に基づいたものでしかなく、実益が薄かったといえる。

924 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/11/09(木) 00:21:11

中国史のなかにはしばしばこうした筆禍事件が散見される。
むろんそれらには自ずと程度の差があり、康煕・雍正・乾隆の三代における文字の獄は
とりわけ過酷な部類に属すると言えようが。

思えば康煕・雍正・乾隆三代は中国史上もっとも豊かで安定した時代であった。
単に表面上の国力が充実したのみならず、民衆生活にまで豊かさが及んだという点でも
特筆するべき出来事ということができる。かかる繁栄が異民族政権の下で実現したことを
残念に思う向きも少なくはないが、そうした考え方は偏狭なナショナリズムの域を出まい。
むしろ異民族政権の統治において不可避ともいえる、支配民族と漢人との間の軋轢が、
文字の獄という形式的かつ表層的な事件を引き起こすに留まり、
国家の存立を脅かすほどの深刻な対立にまで至らなかったことを幸運とすべきであろう。
163名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 22:21:10 ID:J3benrf30
27 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/11/12(日) 22:34:02
やれやれ
困ったものだ


>>20(三国志時代の正統はやっぱ曹操の子孫たちなの?)
そもそも中国史を通観する上で、各王朝を正統非正統に分別すること自体が無意味だ。
後漢から直接禅譲を受けたことで魏を正統の王朝とするならば、
魏は晋に、晋は宋に、宋は斉に正統性を伝えたこととなり、
陳を最後に中国史における政権交代の正統性は断絶したこととなる。
実に馬鹿げた形式主義というより他ない。

むろん蜀漢正統論にも何ら客観的合理性は存しない。
東晋や南宋のような亡命政権が、存続上のアイデンティティを確立するために、
蜀漢に自己を投影して理想像に仕立て上げたというだけの話だ。
宋学の大義名分論にマッチしたという事情もあるが、
蜀漢のような取るに足らない小政権を「正統」視すること自体が惨めな有様だ。

三国時代は、古代社会の秩序が完全に崩壊した後に出現した不毛の時代だ。
文化面でも社会制度の面でも、優れた点は皆無に等しい。
であるからこそ後世の人間が恣意的な粉飾を重ねるには都合がよかったのだと言える。


>>33(何故、宋代では士大夫を処刑する例が少ないの?)
宋代の士大夫は天子の地位を脅かす存在ではなく、生かしておくこと自体が危険な
権臣が出現しなかったことや、科挙制度の整備が進んだ結果、官僚の採用が公平化し、
昇進にも一定の基準が完成して、イレギュラーな方法での権力獲得が困難になったため、
権力闘争に伴う暴力的な側面が後退した───というような説明も一応は可能だ。

とは言え、統治制度の変化や士大夫自身の政治的性格に原因を求めるよりも、
これはやはり宋代に特殊の慣習に基づいたものと考える方が素直ではある。
まあ、俗にいう石刻遺訓なるものが存在したかどうかはわからないが、
「言論を咎として士大夫を殺すべからず」という不文律はあった。
もともと宋は新興の支配階級ともいえる士大夫の関心を買うことで、
長期政権の基礎を確立したものだから、その一環をなす伝統であったと言えよう。。

>>35(万暦帝と似ているね、徽宗は)
奢侈に溺れて政治を省みず、天子として必要とされる指導力を欠いた結果、
ついに国を傾けるに至った───という点では共通する。暴主昏君の典型的な姿だ。
むろん徽宗は芸術面においては賞賛に値する事績を残しているものの、
万暦帝との比較でそこに言及しても無意味と思う。私に徽宗を擁護する義理はないしな。

国という大きな存在が動揺する原因を個人の行動に求めても仕方がないとは思うが、
徽宗にせよ万暦にせよ歴史上特筆すべき権力を有した中国王朝の皇帝である以上、
まったくその責任を否定するのはかえってナンセンスだ。
史上稀に見る亡国の暗主として、非難の対象になるのは当然の事だろうよ。
164名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 22:21:31 ID:J3benrf30
75 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/12/01(金) 00:43:00
では本日の回答を行う

>>43(隋の文帝て過小評価されてますが本来ならもっと評価されてもいい名君では?)
隋の文帝は中国史上もっとも容易に天下を奪うことに成功した人物───と言われるが、
比較的明確なビジョンに基づいて王朝の創建を果たした有能な天子ではあった。
豪民抑制と兵権集中を柱として君主権の強化をはかり、
北魏の均田制を継承しつつ、貨幣経済の進展を促すような政策も見られる。
ただ、こうした統治観は息子の煬帝にもほぼそのまま受け継がれており、
実のところ文帝と煬帝それぞれの治世は、さほど性格の異なるものではなかった。
隋が短命に終わった原因を煬帝個人の失政に求める見解は、
それ自体は誤りではないとしても、基本的には実力を超えた強権に基づく統治が
もたらした結果で、仮に文帝がもう少し若くして隋を建てていたとすれば、
隋は彼の存命中に滅亡した可能性もある。結局のところ隋も西晋も統治基盤の
脆弱な中世の王朝という点では変わらず、どんな人物がリーダーだったにせよ限界があった。

76 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2006/12/01(金) 00:43:39

>>72(隋の天下統一が易々と行われたのはなぜ?)
この頃既に江南の経済力は華北を上回っていたと考えられるが、
南朝の貴族社会は常に分裂拮抗の傾向にあり、政治的統一が進まなかった。
そのため、北周と陳という二つの政権を比較すれば、前者のほうがはるかに
効率的な運営が為されていたといえる。これがそのまま南北両朝の実力差だった。
そこにたまたま佗鉢可汗の死による突厥内部の混乱があり、
隋の文帝は北方を省みることなく、南征に専念することが可能だったのだな。
ま、陳がもともと支配領域の狭い弱小な政権であったことを考慮するとしても、
やはり文帝は幸運に恵まれた人物だったと言えよう。
むろん好機を正しく捉えて適切な行動をとるのも才幹のひとつではあるが。

168 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2007/02/08(木) 03:46:35
>>94(唐の名君指数で言うと太宗>武則天>>>玄宗>>>>その他ですか?)
「太宗>>>>>>その他」としてしまっても、あながち不適切ではなかろうと思う。
唐は中国史全体の中では脆弱な部類に属する政権であるとはいえ、南北朝時代のような
ある種典型的中世社会から出現した王朝としては、不自然なほどに強大であった。
太宗の偉大なる点は、極めて脆弱な統治基盤に基づいて長期政権の基礎を
確立したところにあり、他の時代に類例をみない出来事であったといえる。
これは多分に太宗個人の実力に依拠していた。中国史上最高の名君と称される所以だ。

武后や玄宗も確かに水準以上の能力を備えた天子ではあったし、
個々には明君と評しても差し支えない。
しかし、太宗との比較で考えればあまり賞賛するべき点がない。
なぜなら武后も玄宗も、巨視的には太宗の余光を負って唐室の権威を維持したに留まり、
均田制や府兵制の崩壊による国家支配の実力低下を食い止めるには至らなかったからだ。

むろん均田制も府兵制も一種の建前にすぎず、太宗の代から既に実態と乖離していたとの
指摘も可能だが、当面の繁栄に甘んじて弥縫策に終始した責を何者かに負わすとすれば、
時系列的に考えて、太宗よりも武后・玄宗を挙げるのが妥当だろう。
165名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 22:22:01 ID:J3benrf30
298 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2007/05/31(木) 14:29:50
長らく待たせた。早速回答に入る。

>225(カエサル暗殺2052年目に当たりますが、宰相殿のカエサル観を教えて)
結論から言えばそれほど高くは評価していない。
ガリア平定を果たした人物であるから、軍人としては一定の才覚を備えて
いたのかもしれないが、それにしたところで、ガリア戦争が、
ローマの国力増大に伴って当然に起きた領土的膨張の一貫として捉えれば、
殊更にカエサル個人の能力や個性を過大評価する必要はない。

外征による戦利品から得た富を惜しみなくばら撒いて人心を買う政治手法も、
古今東西ありふれたごく平凡なもので、到底高い評価には値しない。

とかくカエサルは、世界帝国ローマは一人の優れた指導者に
統治されるべきであるという強い信念の下で独裁を推し進め、
無意味な内訌を繰り返すのみの共和制ローマに終止符を打った───と、
肯定的に語られることが多いが、裏を返せば、時流に乗って富と名声を得た
だけの軍人が、権勢欲にとりつかれて既存の秩序を自らの都合のいいように
つくり変えたというだけの話だ。

また、そもそも、帝政による統治権力の強大化を現実のものとしたのは、
養子オクタヴィアヌスなのであって、カエサル自身は志半ばに倒れている。
身の丈に合わぬ権力を欲した独裁者の破滅──としか評価のしようがない。

確かにカエサルは馬鹿ではなかったろうし、
政治家としての能力も、ある程度の水準に達していたとは思われる。
しかしながら今日「万能の英雄」「運命の寵児」「仁慈の指導者」などと、
大仰な修辞を凝らして賞賛されるような、世界史的スケールの大政治家では
到底ありえん。むしろ凡庸という評価を与えても、それほど不当ではない。

歴史を経済構造、社会構造の枠組みの中で捉えていくのではなく、
指導者個人の人となりに着目して、その個性や思想が社会に及ぼす影響を
過大評価してしまうと、どうしてもカエサルのように
個性的で魅力に富んだ人物が必要以上にクローズアップされることとなる。
このようにして構築された歴史観は、所詮は物語であり、非科学的といえよう。
166名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 22:22:21 ID:J3benrf30
222 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2007/03/14(水) 19:10:10

>203(もし自分が文天祥の立場だったらさっさと南宋見限って元の高官になりますよ)
文天祥が元への仕官を頑なに拒んだ理由は、むろん忠義忠節もあったには違いないが、
それ以上に非漢人への生理的嫌悪を抱いていたからではないかと思う。
いったい国民主義すなわちナショナリズムの勃興は近世社会に普遍的にみられる現象であり、
中国では宋代にその端緒が開かれた。むろんその理論的後押しをしたのは朱子学だ。
ナショナリズムとは必ずしも国粋主義や純血主義とイコールではないが、
国や民族といった概念により彼我を区別することから、排他的な傾向を帯びやすいといえる。
文天祥は科挙に主席で及第しており、中国人ないし漢人であることに、
どれほど高いプライドを抱いていたかは容易に想像がつく。
あれにとって蒙古人など無教養の蛮夷どころか獣の群れ程度にしか映らなかったであろう。
まあ、そのような意味でも視野の狭窄した愚かな人間であったと言えるな。

>205(司馬光嫌いです)
前にも述べたように中国において史学とは哲学とも通ずる傾向がある。
資治通鑑はその名の通り「(歴史を)通じ鑑みることで(政)治に資す」ための著作であり、
宋学の精神と司馬光自身の価値観を強く反映している。
宋学の集大成が朱子学であることを考えれば、資治通鑑から尊大な印象を受けるのも
むべなるかな当然のことと言えよう。いずれにしても資治通鑑は中国において史記とも
並び称される大著であり、背景に存する価値観はともかく、資料としては一級のものだ。
そう考えれば司馬光も、歴史家としては偉大な人物であったと評価せざるを得ない。

ただ、政治家としてはどうかとなると、これはもうあえて言うまでもない。
無能だ無見識だという以前に、そもそも現実の社会状況を把握し、
その対策である新法の構造を理解するための知識が根本的に欠けていた。
王安石と書簡をやり取りして新法の是非につき議論を交わしたと伝えられるが、
実際のところ議論など成立する筈がないのだ。猿に論語を説くようなものだからな。

ゆえに司馬光に対する評価は「史家としては有能、政治家としては馬鹿」とするのが、
もっともシンプルで適切なのだが、現実にはあまりそのように捉えられていない。
新法もまた構造的な欠陥を有しており、司馬光の批判も理に適う面があった───と、
王安石のアンチテーゼとして一定の役割を果たしたかのようにさえ考える向きもある。
当事者の一人としては、馬鹿も休み休み言えといいたい。
167名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 22:22:57 ID:J3benrf30
173 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2007/02/08(木) 03:57:00
>>130(雪夜訪普図)
訪普の普はいうまでもなく宋建国の名臣、趙普のことで、
雪のちらつく晩、唐突に家臣の元を訪れ二人で酒を酌み交わす
趙匡胤の飾らぬ人柄を示すものとして有名な絵画だ。

趙普という人物は些か地味で、日本での知名度はあまり高くないが、
宋が唐以来の地方藩鎮の割拠を抑え、強固な中央集権を確立しえた背景には、
趙普の補佐によるところが大きい。中国史上屈指の大政治家ともされる所以だ。
ただ、普の人となりは、教養のなさとも相まって、豪放というよりむしろ横暴に
近いものがあり、太宗の宰相盧多遜の弾劾を受け、中央より退けられたこともある。
良くも悪くもアクの強い人物といえよう、粗野という面では太祖と通ずるものがある。

>183(陸秀夫は嫌いですか?)
>184(張世傑は時勢を知らぬ愚人ですか?
    それとも最後まで宋朝に忠義を尽くした義人ですか?)
嫌いかどうかと問われれば、嫌いだ。
義人か愚人かと問われれば、そのどちらでもあると言える。
陸秀夫にしろ張世傑にしろ、はたまた文天祥にせよ、突き詰めれば何ら変わらん。
個別に扱うなら、朱子学亡者1、2、3号とでも呼んだ方がわかりやすい。
連中にしてみれば、宋の再興が果たせるか否かなどさしたる問題ではなく、
朱子学上の正道主義に殉ずることが唯一無二の目的だったのだろうよ。
忠義忠節も場合によっては単なる自己愛に過ぎん。
朱子学は経学としても哲学としても優れた性質を備える東アジア史上最重要の
学問であると同時に、陸張天のような馬鹿を大量生産する道具でもあった。

223 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2007/03/14(水) 19:12:21

>211(じゃ、方孝儒なんてお話にならない馬鹿ですか)
方孝孺の場合は、まあ、文天祥らと比較するのはやや不適切か。
あの場合、常軌を逸していたのは永楽帝なのであり、方孝孺も朱子学精神というより、
むしろ一般的な良識としてたやすく節を曲げることに抵抗を感じたのだろう。
かかる局面であれば私でも身の振り方を躊躇するだろうよ。
叔父が甥を弑逆するなど考えられぬ暴挙であり、
容易に尻馬に乗ったのでは世論からの風当たりも恐ろしい。
また、簒奪によって確立した政権が永続するのかどうかも不透明だ。
仮に建文帝が存命であり、いずこかに落ち延びて挙兵し、
南京を回復でもした日には、永楽政権に与した者など悉く誅殺の対象だろう。
建文帝の復辟など絶対にありえなかった───というのも、所詮は後知恵だからな。
168名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 22:23:31 ID:J3benrf30
378 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2005/11/18(金) 09:28
>349(宋代四悪人を一人ずつ論じてみて下さい)
前にもそういう言葉は聞いたな。
詳しくは知らんが、おそらく秦檜、韓侘冑、賈似道、そして私の四名を指すのだろう。
一人ずつ考察して行くか…。

■秦檜■
言うまでもなく、中国第一の姦臣として蔑まれている男だ。
いったい南宋の宰相は強権的で専横を事とする者が多く、秦檜もまたその例に漏れぬが、
そのことが直ちに檜を最悪の姦臣たらしめた訳ではない。
たとえば同じく南宋の宰相、史弥遠も専権が激しく非難が多かったが、『宋史』においては
姦臣伝に名を連ねていない。やはり秦檜への非難は、主和論にまつわるものがほぼ全てだ。
これまで何度も述べたように、金国と比して南宋の兵勢は圧倒的な優位を占め、
少なくとも高宗期であれば華北を奪還できた可能性は十分にあった。
にもかかわらず、南宋の首脳部が主和論を採用し金国に阿ったのは、高宗の個人的な性格に加え、
敗戦のリスクをとるに相応しい経済的メリットが見出せなかったからだ。
その意味で秦檜の主張には客観的な合理性があった。情緒的な観点からは檜のような
強圧的かつ利己的な文臣が好まれないのは普通だが、ここまで評価を貶められた理由は、
やはり岳飛信仰の反作用と考えるのが妥当だろう。まあ、やりたい放題の人生だったとは言え、
死後ここまで罵詈雑言の対象とされているのは、哀れと言えば哀れだ。

■韓侘冑■
「タク」の字が正確には異なるが、便宜上似た字を用いた。
韓侘冑を一言で評するなら、「無理をし過ぎた」といえる。
侘冑は北宋の宰相韓gの曾孫にあたり、高宗皇后の妹を母とする名門の出身で、
科挙を経由せず恩蔭により官途に就いている。かかる形で官を得た者が出世を阻まれ、
進士出身の文臣と比して一段も二段も低く見られたのは、特に宋代に顕著な現象だ。
本来高位の官に就き得ぬ者が、身の丈に合わぬ立身栄誉を求めれば、人気を犠牲にして、
権謀術数をめぐらせねばならぬ。侘冑にはその能力以上に衆望が徹底的に欠けていた。
既に死んだ秦檜の官爵を剥奪して岳飛を追封したのも、行軍の計を立てて北伐に執念を
燃やしたのも、結局は衆望を得んとしたためだ。まあ、その賭けがほとんど裏目にしか
出なかったのは侘冑の能力の限界としても、敗戦の責を負わされ謀殺されるに至ったのは、
衆望はおろか朝廷における人望も零に等しかったからだろう。これはこれで悲劇と言える。
169名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 22:23:58 ID:J3benrf30
■賈似道■
恩蔭により官途に就いた点は韓侘冑と共通する。
しかし、似道は侘冑と比べて卑しい出自であった。それが逆に異才を育んだと言えるかも
知れない。こういう人物がさしたる障害もなく、若くして高位に上ったのは、
既に南宋の政治秩序が紊乱していた証左とも考えられるが、とにかく一定の才覚はあった。
いわゆる「賈似道の公田法」は大土地所有者から安価で土地を買収する政策で、
その企画力と問題把握能力は評価されて然るべきだろう。ただし、その反面、法の実行に
あたって配慮を欠いたため、当初の目的を十分に果たせなかった点は、無学ゆえの思慮の
至らなさと言うべきか、朝廷の権力の限界と言うべきか。
とまれ、似道が南宋の亡国を早めたという指摘にはさほど合理性がない。
別の時代に生まれていれば、一定の政治的成果を挙げ、名臣と讃えられたかもしれん。
まあ、平時ではそもそも宰相にまで上れたような経歴の持ち主ではないのだが…。

■蔡京■
つまりこの私、蔡元長だ。
福建の豪農に生まれ、若くして進士に登第し、時の宰相王安石に才を買われて抜擢され、
その下で改革に邁進した。ひとたび朝廷の方針が変更され改革主義が後退すれば、
心裡に理想を抱きつつ身を潜め、ついに権力を得るや、かかる理想を実行すべく粉骨砕身し、
破綻した財政をたちどころに回復せしめ、兵を精強たらしめ、民間の負担を軽減せしめた。
進士出身ながら、才ある胥吏を積極的に抜擢し、官への途を開く制度も整えた。
塩税を抜本的に整備し、公正かつ安定した税源として確立もした。
書をしたためればいにしえの王羲之に比せられるほどの大家と尊ばれて、
官民こぞって私の筆跡を模範としたものだ。詞余、雅楽の発展にも尽くし、北宋院体画の
確立にも大きな役割を果たした、まさに中国文化史にその足跡をとどめる巨人とも言える。
これほど総合的な才能を持ち合わせた政治家が歴史上果たしてどれほど存在したものか。

───と、我ながら恥じ入るほどに自画自賛してみた。
それほど大きな誤りはないと思うのだが、諸君がこれと同じ内容を他人に話すことは勧めない。

>393(北宋時代、孝明皇后の異母弟のは素行不良のため官職を追われていた)
王継勲は孝明皇后(太祖皇后)の同母弟だった───と、史書にはある。
まあ、それ自体は瑣末なことだが、とにかく継勲は素行が不良であった。
孝明の死後、その悪事が公に露見し、太宗は衆意に応えてこれを斬ったという。
市中の少年少女を拐し、遂には食人に及んだというのも、概ね史書の記すとおりだ。
まあ、この程度の小物にまつわる逸話など、いちいち事実性を検証する必要があるとも
思えないが、太宗の即位にある種の簒奪色を認める立場からは、
先代の外戚であった継勲の死を、政治的な動機による粛清と考えることもできる。