前漢vs後漢vs唐vs宋vs明vs清

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131名無しさん@お腹いっぱい。
319 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :03/10/02 17:06
>309(王安石もヘタレですか?)
王安石については何度か断片的に語って来たが、この機会に詳しく論じてみよう。
北宋が、遼・西夏に対する莫大な歳幣(安全保障費用)および官僚組織の充実による
費用などがかさみ、11世紀半ば頃から財政難に陥っていたことは前に述べたと思う。
王安石はそのような状況下で宰相となり、新法と呼ばれる改革を断行した。詳しい
内容について言及すると冗長になり過ぎるゆえ省くが、新法の根本的理念は農民や
中小商工業者を支援し、それによって生産増加と景気浮揚を図ることにあった。
だが、これらの政策は富を独占する地主・官僚等に打撃を与えるものであったから
彼奴らの凄まじい抵抗に遭い、さらには法適用にあたっての不手際と、改革に伴う
一時的な景気の後退によって、民衆にも全く歓迎されなかった。新法は長期的視野に
立った経済政策であり、継続されれば効果を上げられたとは思うが、王安石は余りの
不人気から在職五年で宰相を罷免される。翌年には復権したものの、一年間の
左遷生活の中で完全に覇気をなくし、すぐに自ら辞職して二度と政治に関わらなく
なってしまった。やはり、ここで諦念してしまったことが新法を失敗に終わらせた最大の
原因であったろう。王安石は皇帝の信任篤く、かなりの権限を有しておったから、
独裁的に新法を推し進めて成功させることは可能であった筈だ。反対派である
旧法党には、これといって新法に代わり財政難を解決する具体的試案は何も無く、
ただ己の利益と儒家的価値観に縛られて、感情的に新法を謗っていたのみだからな。
その後、新法・旧法の政策対立は単なる派閥抗争へと堕落する。そして最終的に
勝利者となった私は旧法党を全て駆逐し、新法を完成に導いて国庫を黒字にしたが、
その金は徽宗の贅沢三昧に費やされて、王安石の理想とはかけ離れた結果を生じた。
結局のところ、王安石はあまりにも実直過ぎたのだ。実権を有しておる以上、反対派
に対して幾らでも過酷な処置がとれたものを、無駄に説得を試みるなどしておる。
それに政治家として、良い意味での狡猾さが無かった為、付け入られる隙を与えた。
改革に成功した宰相として、しばしば王安石に比せられる者に、明代の張居正がいる。
こちらは王安石と違い、権力維持の為に反対派を弾圧するなどの非道さを持ちあわせて
いたのが成功の鍵と言えよう。私もまたその範疇だな。尤も私は亡国の臣であるが。

>326(蔡京閣下が武則天を論じてみて下さい)
なるほど。来とは異なる視点で武后を考察するのも一興だ。
武后の治世は概ね太宗時代の威光を受け継ぎ、唐の隆盛期ではあった。
しかしその内実は、均田制の崩壊によって確実に税収が落ち込んでいた筈だ。
実際問題として唐王朝は巨大に過ぎ、均田制のような画一的制度を継続するのは
不可能に近かったと思うが、その崩壊に直面して武后は場当たり的な対応しか
講じていない。武后は人材登用に関して積極的だったとされるが、そうして門地に
こだわらず登用した官僚群の中にも、傑出した経済官僚は居なかった。
狄仁傑からして、宰相としての内政面における実績は特に見当たらない。
均田制の崩壊はそのまま府兵制と租庸調制の崩壊でもあるから、中唐以降の
皇帝権の後退、軍事力の低下の直接的原因であり、単なる経済問題には留まらぬ。
結局のところ武后は、国家最大の懸案につき無為無策であったのだ。
ただし、構造的な問題を解決できず先送りにしたとは言え、とりあえずの繁栄を
維持するだけの良政は敷いており、晩年になってもそれほど政治能力に衰えが
見られなかったので、玄宗よりは遥かに真っ当な天子であったとは言える。
なれば唐代において太宗に次ぐ賢帝であったともみなし得るが、やはり能力に
おいても実績においても、太宗とは比較にならぬとしか言いようがない。
132名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 17:04:30 ID:J3benrf30
442 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :03/10/14 02:42
>438(金王朝最大の暴君、完顔亮について一言)
完顔亮、すなわち金の海陵王だな。これも判断の難しい帝王だが一言で申す
ならば“焦り過ぎた”ということだろう。都を移し、漢族官僚を重用し、諸制度を
整備しつつ、自らも中国文明に陶酔して中華の帝王に相応しい中央集権型の
皇帝独裁国家を築こうとした。これは施政方針として間違いではない。しかし、
それら諸政策と並行して南宋討伐の軍を起こしたことが、結果論から言えば
海陵王最大の失策であった。とは言え戦況はむしろ金軍に有利であったから、
遼陽でのクーデターがなければ、長江を渡って南宋を滅ぼしていたかも知れん。
海陵王は暴君に違いないが、明確な方針を持って国家運営をしており、決して
無能ではなかった。もし南北統一に成功しておれば、かなり強大な統一王朝が
中華全土に出現していたと思う。海陵王の私生活における残忍さや、即位の
際に多くの皇族諸侯を殺した事は、あまり重視する必要はあるまい。廃帝に
関する事績だけに、捏造や誇張の類が多かろうしな。

>560(王安石、司馬光について一言お願いします)
司馬光というのは、ある意味非常に清廉潔白で道徳感情に溢れる人物だった。
だからこそ、新法によって貧民(主に農民だが)を経済的に支援し、その生活水準を
底上げするという理念に、吐き気すら催すほどの嫌悪感を感じたのだな。
富者がいる一方で貧窮した農民が多数存在するという、階層化された社会秩序こそ
理想と信じて疑わなかったのだ。現代人には奇異に映るだろうが、このような
歪んだ思考も儒家的倫理観の一典型として存在し得る。すなわち司馬光は
私利私欲を図る為に新法を非難していた訳ではなかったゆえ、
宰相としてそれらを全面的に廃止するにあたり、迷いも後ろめたさもなかった。
無論、このような現実から遠く離れた理想主義者が宰相として国政を統括するのは、
国家にとり害悪でしかない。その意味で司馬光は私以上に悪質な宰相であった。
一方の王安石だが、現代的な感覚では、貧民を慮る正義の味方に映るやも知れぬ。
だが新法というのは、ある程度貧困層を支援して経済力を備えさせ、しかる後に
搾取すべしというのが本質であった。王安石自身はしばしば“愛民”などと口にし、
新法の社会福祉的な側面も強調していたが、まあ無理のあるこじつけだったな。
どちらかと言えば科挙官僚というのは司馬光のごとく経済にも軍政にも刑法にも
疎い者が多く、王安石や私のような実務家のほうが珍しいのだが、より宰相として
相応しいのがどちらであるかは言うまでもない。
133名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 17:06:26 ID:J3benrf30
49 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :04/02/26 18:06
では本日の回答を行う。

>39(今の日本のように、他国に容易く金をやる国は、古今稀では?)
有史以来一貫して東アジアの雄であった中国は、外国との間に自由で
対等な通交関係を結ぶという思想がなかった。そのために中国は常に
外国に対し服従と貢納を要求する立場──すなわち朝貢関係を
築いてきたのだ。朝貢関係の実態は、中国が政治的安寧という利益を
享受する対価として、諸外国が希望する通りの経済的恩恵を与える
ものであったから、正に中国は「他国に容易く金をやる国」として
東アジアに君臨してきたのだ。漢・唐・元・明・清と細かい相違はあれど
みなこうした姿勢で外交威信を保持していたのだが、ひとつだけこの
方針に失敗した王朝がある。それが即ち私の北宋王朝に他ならない。
つまり来が>40で述べている通りの屈辱的な外交を強いられたのだが、
実を言えば我が北宋王朝は、一般的に精強と思われている前漢・唐を
遥かに凌駕する軍事力を持っていた。それなのに北宋の外交威信が
大きく低下したのは、ひとえに中国の爆発的な経済発展が周辺諸国を
中世的社会から脱却する役割すら果たしたゆえであり、外交関係の
優劣を決する要因が複雑化したためと言える。また、北宋王朝は
強大な軍事力を有していても、それを円滑に運用できぬという構造的
欠陥があった。量的に満足されても質的に問題を抱えていたのだ。


59 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2003/11/12(水) 19:02 ID:h1BfEjLY
>705 伯顔
よく来たな。確かに貴公の申すとおり、私が蒙古に対して否定的なのは
中華思想によるものも少なくはなかろう。これは私の経歴上仕方がない。
科挙の有無についても同様だ。ただし私は必ずしも科挙至上主義者では
なかった。胥吏(行政の末端運営に携わる民間人)に試験を課して、
官僚への途を開く制度を作ったのは私(と王安石)だしな。
しかし、元朝の官僚任用制度は実に素朴なもので、殆ど南北朝以前の
門閥主義に逆戻りしたものと言ってよい。蒙古至上主義をとったのは格別、
およそ蒙古人以外で元朝の宰相にまで上った者が片手で数えられるほど
しかおらぬというのも、驚くべき不均衡といえよう。
それと元朝の最も非難されるべきは、その経済運営だ。旧南宋の領土に
おいては両税法を維持したものの、華北における税制は全くの支離滅裂。
これは耶律楚材にも責任の一端がある。さらに元朝一代はすべて通貨を
紙幣をもって流通せしめ、これは高度の兌換性をもつものであったから、
その点驚愕するが、およそ農本主義の中華社会において循環経済を敷衍
せしめんとすれば、まず農民の購買力を育成することに重点を置くべきなのだ。
しかるに元朝においては土地の私有に制限なく、また制限を設けんと企図した
形跡すらない。土地の兼併は大いに貨幣経済を衰退させる方向に作用する
ものであり、この点でまず経済政策に整合性が見られない。
実際、宋代以来築き上げられてきた、現実に即する経済振興策は元代に
おいて殆ど水泡と帰し、さらに後継の明王朝も宋代の社会を範とすること
薄かった為に、中華社会を長く停滞せしめた。やはり蒙古の漢土支配は、
中華社会にとり不幸な出来事だった。異論もあるだろうが、私はそう考える。
134名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 17:07:10 ID:J3benrf30
まず秦檜は宋代云々の話を超越し、中華第一の姦臣として名高いから、
四悪に数えられるのは当然だ。秦が金と通謀してしたというのは俗説に
過ぎず根拠は薄いけれど、それを差し引いても、南宋が永久に中原を
回復すること能わざるは、是秦檜一人にその責めを負わせても、特に
不公平とは言えぬ。賈似道は歴史上賛否両論のある宰相だ。いわゆる
「賈似道の公田」は、当初の目的であった豪民抑制がまったく行われず
いたずらに中小農民の土地を無法に収用するのみの悪法に終わった。
一時的に国庫収入は好転したものの、国家全体の生産性を著しく
損なったのだから、私としてはどうあっても賈を評価する気にはなれぬ。
賈は進士なれど科挙に応じたことはなく、天子の妃であった姉の恩蔭で
その地位を得た破落戸子弟に過ぎぬ。こうした下衆に朝廷の権を掌握
されたこと自体、もはや南宋は末期症状に陥っていたと言えよう。
韓?冑は寧宗擁立の功臣で、非進士ながら宰相にまで上った者だが、
>153で来が述べたように朱子学を禁じた事及び対金戦に敗北した事が
主な原因で姦臣の名を後世に残す羽目となった。
そして最後に私だが…悪く言われる事が多いのは、旧法党を徹底的に
弾圧したためだろう。南宋では基本的に新法が害悪視されたのでな。
北宋が滅びた直接のきっかけは、やはり対金外交の失敗に端を発する
もので、それは主に童貫と蔡攸(私の長子)の責任だ。


>155(皇帝独裁権の良点と悪点を教えて下さい)
最大の利点は政治の安定が期待できる所にあった。皇帝権の強さは
すなわち人民支配の実力そのものであり、強固な政府の庇護下に
あってこそ民間における文化・経済はめざましい進捗を見せるのだ。
ただし皇帝独裁体制にも幾つかの類型があり、君主の恣意が何者の
掣肘も受けずそのまま実施される古代の専制君主政と、封建領主的
色彩を失った官僚である大臣が政策を立案して、最終的な決断をのみ
君主に委ねるところの近世的独裁制とでは、まったく性質を異とする。
この差異がいずこから生ずるかと言えば、前者の独裁体制は、君主が
封建諸侯の中の第一人者である為に成立した見せかけの独裁権力に
過ぎず、すなわち君主の権力が相対的に下降すれば、たちどころに
体制崩壊して中世的分裂社会へと移行するのに対し、近世的独裁とは
国家機関をすべて君主の下に集中せしめ、君主に事故ある場合にも
大臣や外戚に全権を委ねることがないように官制が整備された体制を
指すのである。近世独裁体制は、分裂割拠状態にあった中世社会を
政治的に再統一したのみならず、国内市場の再統一により爆発的な
経済発展をもたらす役割をも果たした。そしてこれこそがまさに中国に
おける皇帝独裁権の最大の成果であったのだ。
しかし、中国の皇帝独裁制は、あまりに強大かつ整然となり過ぎた。
ために社会は近世の限界とも言える一点にまで上りつめた後、長期の
停滞に陥ったのだ。国内の富は天子と官僚・大土地所有者にすべて
吸収され、市民階級はついに台頭せず、人口の増加は富の偏在に
拍車をかけた。産業革命も政治革命も行われる事なく、中華社会は
西欧列強の進出の前にあえなく膝を折る結果となった。これは中国の
皇帝独裁制が内包していた構造的欠陥に他ならない。

皇帝個人に依存する独裁体制ではその能力器量が大きく関係する。
清朝の康熙・雍正両帝の如き名君なら中央・地方の官僚組織も
潤滑に機能できる。
だが文盲に等しい暗愚な者が一度、帝位に就けば目も当てられまい。
特に皇帝独裁権がほぼ確立した明代ではそれが当然となり官僚も
私利私欲に走り、ついには自滅とも言える滅亡に相成った。
要は皇帝の政務能力云々が良点にも悪点にも成り得るのだ。
蔡京殿の言われる市民階級の台頭も、西欧諸国が実行しつつあった
十七〜十八世紀に清の三代黄金期だった事が結果的に後々の中華に
悪影響を及ぼしたのは皮肉と申すしか無い。
135名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 17:08:26 ID:J3benrf30
293 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :04/03/30 18:35
>232(高祖)
高祖の覇業なりし要因はまさに帷幕の将吏に人を得たことを以て第一とし、
帝本人が用兵の才覚や高度の知識教養を備えていたと少なくとも文献上からは
読み取る事ができない。ゆえに高祖が他者より秀でていた点は、士大夫に要求
されるが如きものにあらず、むしろ侠客としての求心力であったに違いない。
秦王朝崩壊後の諸反乱は伝統的士大夫層により組織されたものと不平無頼の
衆徒とに大別されるが、即ち後者を代表するのが高祖劉邦だ。
秦王朝に代わる中国の支配者が必ず高祖でなければならなかった理由はない。
反乱者の勢力は拮抗していて、ある意味誰が最後の勝者となってもおかしくは
なかったのだ。それゆえに高祖の成功はその能力に拠るところが大であると
言える。一般に中国の天子で卑賤から身を起こして長期に存続した統一王朝を
樹てたのは高祖の他には明の太祖くらいとされている。この一点を以てしても、
劉邦が平凡な人間であったとは考えられない。ただし群雄として戦乱を生き抜く
能力はあっても、治世の天子としては平凡な資質しか発揮できず、その死後に
幾許かの混乱を生じせしめたのは事実だ。ゆえに明君とは評価しにくい。


>284(洪武帝と光武帝も一文字違いで大きく違いますね)
そうでもない。洪武帝と光武帝には政策面で似通った部分がある。両者とも
対外政策に消極的で、交通路を閉ざした内向的な鎖国国家を志向した点が
まず挙げられるが、最大の共通点と言うべきは中華史上特筆すべき官制の
改革を行ったことだろう。洪武帝が中書省を廃止して宰相をおかず、行政の
各部局を天子に直属させて極端な独裁体制を築いたのは有名だけれども、
光武帝もまた宰相を信任せず、前漢における丞相(成帝以降は大司徒)を
司徒と改称して実権を剥奪し、これに伴い三公を空名の名誉職に堕した。
明においても後漢においても、かかる官制改革の結果として生じたのは、
天子近侍の官による側近政治だ。すなわち明朝では内閣大学士が、後漢
では中書・尚書が政治上の実権を有して宰相に代わり重用されている。
いったい中国の官制は、天子近侍の微官が側近としての特性から次第に
表面の大官を凌ぐ実権を有するようになり、やがてそれに取って代わると
いう現象を繰り返して発展してきたが、光武帝・洪武帝はその節目となる
時期に出現した天子なのだ。なお粛清うんぬんについては以前にも述べた
ので割愛するが、洪武帝が天子としての資質に欠けたことを証明する事実
であると私は考えている。
136名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 17:09:31 ID:J3benrf30
309 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :04/06/22 23:01
>298(中国の最盛期とはいつだったのでしょうか?)
領土的、軍事的な極盛は清王朝だろう。歴史上、あれほどの大帝国は類を見ぬ。
蒙古帝国やサラセン帝国といえども、その支配の確実性においては清王朝の
足下にも及ぶまい。すなわち存在そのものがひとつの奇跡だ。
ただし、清王朝は内部的には先進性を喪失した行き詰まりの社会だった。
経済も文化もまったく領土の内にて完結し、自閉的な社会を営んでいたことは
明王朝に何ら変わるものではない。これは即ち近世社会から近代社会へと脱皮
する条件を欠いていたことに他ならぬ。肥大化した領土と人口が国力の増大に
結びつかなくなった時、中国社会はまさにその発展を止めたのである。
社会機構全体を勘案すれば、中国社会にもっとも活力が見られた時代は北宋で
あったと確信する。思想一つをとってみよ。中国史の上でついに朱子学を超える
学問は生まれなかった。そして朱子学とは北宋に端を発する宋学の集大成だ。
さらに宋と明清の決定的な差は、鎖国をしなかったことである。すなわち外交に
おける方針の差だ。北宋は確かに外交的優位性を維持しえなかった王朝だが、
それは所詮精神的な部分での屈辱を味わったに過ぎぬ。何となれば歳幣として
対外流出した莫大な資本は、再び貿易黒字という形で宋の国内に還元されたの
である。北宋は徽宗皇帝が出現して財政の均衡をことごとく崩壊せしむるまで、
継続的な好景気に沸いたまさに経済大国であった。
その意味で、おそらく中国史上もっとも近代社会へ肉薄した時代であったろう。
むろん、いかに天子独裁の体制が確立した近世中国とはいえ、一人の天子に
社会の趨勢を左右する力はない。しかしながらあの時期に徽宗のごとき天子を
戴いた北宋王朝は不運であった。そしてそれは中国の歴史全体にとっての不幸
でもあったのだ。歴史の転換期に居合わせた者としては、慙愧の念に耐えぬ。

>313(中国史で残虐を欲しいままにした人物で誰が真っ先に思い浮かぶか)
ふむ…社会的な風潮として残虐がまかり通った南北朝時代がまず想起されるな。
南斉の明帝、東昏侯、宋の孝武帝、後趙の武帝など、その手の兇暴な天子には
事欠かぬ有様だ。とは申せどどれもみな小粒で、中華第一の残虐とするには
いささか物足りぬ気もする。なればやはり朱元璋を挙げるのが妥当といえようか。
思えば、士大夫ならざる者が中国の帝王として士大夫の上に君臨するとき
当然に起こりえる悲劇なのかも知れないが、それでもやはり朱元璋は看過しえぬ
禽獣だ。後世に残した禍根も鑑みれば、その罪たるやまさに中華第一であろう。
137名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 17:10:34 ID:J3benrf30
328 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :04/06/24 22:24
>322(永楽帝が建文帝に勝利できた要因を幾つかお願いします)
靖難の変は中国史における不可解な謎の一つだ。そもそも永楽帝の挙兵は
追い詰められたものとは言え、無謀の一言で片付けられるものであり、成功の
可能性は皆無に等しかったと思われる。永楽帝は北平にあって土着の諸侯化
していた訳ではなく、あくまで天子の将帥として駐屯していたに過ぎない。
建文帝がかの地にあからさまな悪政を敷いていたとでもいうなら格別、
かかる事実は文献をいかように解しても存在していなかっただろう。
即ちこれは大義の絶無なりし造反で、人心を得らるるべくもなかった。
だが、このことが逆に建文帝側の危機感を薄からしめたのだろうな。
建文帝の思惑は叔父を武力で討伐するにあらず、和解の途を探っていた様に
思われる。耿炳文や李景隆など燕王討伐の指揮に当った武将も、建文帝から
そのように言い含められ、いざ出征すると守勢を余儀なくされたようだ。
耿も李も一定の水準は具備した名将であったし、建文帝がより断固たる方針を
与えていればああも無様な敗北はしなかったであろう。
仮に建文帝が南京の陥落前に脱出していれば、容易に再起を図れたのでは
ないだろうか。方孝孺が頑なな抵抗を見せたように、燕王は南京を領してなお
天子たる正当性を欠いていた。
総括すれば、燕王を勝利者たらしめたのはその軍略や智謀にあらず強運のみ
であったと思われる。してみれば歴史上稀に見る、万分の一の奇跡だったろう。

351 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :04/06/26 23:48
>330(武則天とその時代は暗黒時代に見える?)
いや。武后の時代はおおむね太宗の治世の延長であり、中世中国の極盛期かつ
唯一の安定期でもあった。ここにおいて後漢末にはじまる長き混乱は一応の終息を
見たのだとも言えるから、暗黒時代との謗りにはあたるまい。
武后は多分に暴君的な要素を備えていたが、暗君ではなかった。
めざましい功績もなかったが、さりとて明確な失政があった訳でもない。
ゆえに守成の天子としては十分に及第点を与えられるだろう。酷吏を盛んに用いて
恐怖政治を旨としたのは、ここにいる諸君にとっては周知の事実だろうけれども、
それも天子独裁権の強化と、秩序維持を企図していたと考えれば、方向性としては
妥当なあり方だったと言って良かろう。例えば、君主権が既に極大に達していながら
無用の警察力を跋扈せしめた明王朝などとは、まったく趣旨が異なるのだ。
しかし武后も玄宗も、はたまた太宗も唐王朝の構造的な脆弱性を解決しえなかった。
この盛唐の時代に、均田制ないし租庸調制に代わる新たな支配体制を構築できな
かったことが、中唐以降の混乱の発端だったのである。軍閥の割拠と異民族の
侵入による社会的混乱、それに伴う唐王朝の支配力低下は、ようやく発展の兆しを
見せていた商工業と国内市場の開発をことごとく頓挫せしめたのだ。
唐王朝は近世中国の雛形だ。北宋以降の官制・税制・法制は、その殆どが唐代に
初めて作られたもので、中国史の上では極めて重要な意義を有する。
と、同時に中国史上指折りの脆弱な政権だった。その意味では悲劇的な王朝だな。
138名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 17:11:29 ID:J3benrf30
352 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :04/06/26 23:50
>332(南宋は結局、無駄に命脈を保っただけですか?)
南宋がついに華北を復せしむこと能わざりしは、即ち朱子学的な物の考え方から
せば無為邪道の謗りを免れまい。こと経済面に目を向ける限り、常に南宋王朝は
北の金国を遥かに凌駕していた。国家財政の八割を養兵に支弁してなお財政的な
健全性を確保しえたのだから、どうして中原の回復が不可能なりしと言えようか。
惜しむらくはこの王朝には、傑出した人材が現れなかったことである。
高宗が暗君なのは言うまでもないが、随一の明君とされる孝宗とて肝心のところで
北伐の手を緩めてしまった。尤も、王安石新法の理念が完全に潰えた南宋が仮に
中原を回復したところで、いかに領土を保ちえたか疑問ではあるが。
とは言え、南宋は百年余存続し、文化面では宋学が大成され、北宋時代に比して
勝るとも劣らぬ繁栄を謳歌したのだから、必ずしも無駄な延命であったとは言えぬ。
私も孝宗朝以降の南宋に生を受けていれば、おそらく和平派に与したことであろう。

>359(旧法党に謀反の罪を着せ全員死刑にすべきだったと後悔していないか)
誤解なきように言っておくが、私は新法派の官僚として、死刑やそれに類する
酷刑に頼ることなく、長きに渡った権力闘争に完璧な勝利を収めたのだ。
私が宰相として政権を占めてから後、旧法派は完全に潰えて、以後二度と表面に
現れることはなかった。北宋の官僚社会は、己に付和せぬ者を殺戮することで
権力を維持できるような素朴な構造ではありえなかった。
政敵を生かしておいたことで、後に禍根を生じたという事実がないのだから、
後悔する理由は皆無だ。私は最も弊害の少ない合理的な手段によって、不動の
権勢を朝廷に確立した。残虐非道たることは何ら有効な処世術ではないのだ。

369 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :04/06/28 20:34
>360(北宋末期、飢饉に陥った人々は官民問わず人肉を食べ始めた)
さもあろう。反乱が常態化して社会秩序の著しい紊乱を生じた北宋末期には、
それを要因とする飢饉も各地で発生していた。特に方臘の乱で荒廃した江南地方
にはその傾向が顕著であった。その意味で女真族の侵入は駄目押しに過ぎない。
王黼や蔡攸など朝廷の首脳部は、事態解決に必要な能力を欠いていた。
やはり徽宗の朝廷は、私がおらねば立ち行かぬ仕組みになっていたのだよ。
まあ、その結果として人肉食が朝野に蔓延したというのも、明確な裏付けはないが、
理屈としては頷ける話だな。ちなみに范温なる者については寡聞にして存ぜぬ。
139名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 17:12:16 ID:J3benrf30

>361(司馬光の罪は族滅・凌遅に値しますか?)
少なくとも刑法上の価値判断からせば、死を持って論ずるに足る罪責はない。
まして凌遅など士大夫に加えるべき刑ではなかった。いかに王黼とて蔡攸とて、
はたまた童貫とて、そうまでの断固たる方法にて処刑された訳ではなかったのだ。
司馬光は旧法派の精神的支柱だったが、宰相として朝政を執ることわずか一年で
歿した。後に続いた者たちの方がより害悪が大きかったのもまた事実だ。

>362(旧法党て何でも適当に反対すればいいと思っている連中だった?)
端的に言えばそういう事だ。共産党や旧社会党になぞらえるのは適切ではないが。
そもそも新法の理論は誰にでも理解可能なものではなかった。財政的な困難を
打開しようと模索せば、歳出を抑制して歳入を増やす──すなわち予算の削減と
重税の賦課こそが唯一絶対の手法なりと、旧法派の臣僚は確信していたのだな。
ゆえに新法のすべてが無定見な暴走としか映らなかったのだろう。
すなわち国益上の観点からも、権力闘争的な意味合いからも、新法を全否定して
朝廷における勢力を拡大させぬことが、旧法党の利に資する行動だったのだ。
王安石は社会の実情を正しく把握して、問題点を整理する能力を持っていたが、
その解決策として具体化された法案を円滑に適用する実務能力には欠けていた。
そのため、反対派を説得するに足る成果を迅速に提示できなかったことが、
この抗争が長期化した要因の一つだ。一体、私が現れねばどうなっていたことか。

>364(同じ神宗でも北宋のと明の万暦帝では雲泥の差ですね)
まったくだ。心の底から同意させてもらう。
中国に数多君臨した天子の中で、私が唯一尊い奉る、神宗英文烈武聖孝皇帝と、
万暦のごとき屑が廟号を同じくするというだけでも不愉快である。
そもそも万暦帝など、世界史全体の中でも稀に見る不徳の帝王だ。
張居正という中国史上最高の理財家を擁しながら、その業績のすべてを
無意味化して、明朝を瓦解せしめた暗愚ぶりには感嘆の情すら禁じえぬ。
神宗の廟号が聞いて呆れる。この馬鹿には煬帝とでも諡してやれば良かったのだ。

603 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :04/08/27 12:58
>598(暗黒時代の定義って何ですか?)
狭義にはヨーロッパ中世を指す。古代社会の隆盛を極めたローマ帝国が瓦解し
ヨーロッパの政治的混乱は社会の生産性を著しく後退せしめ、同時にギリシャ・
ローマ文明も衰えて東へと流れた。巨視的にはローマのごとき古代の大帝国は
内部に矛盾した関係を孕んだまま、周辺の諸国・諸民族を併呑して統一を完成
したために、やがて分裂傾向を示して群雄割拠の体をなした。
これを必然とするか、偶然とするかは見解の分かたれるところに違いないが、
かかる分裂と文化衰退の時代を中世的な混乱とみなして、暗黒時代と称すのは
必ずしも合理性を欠く考え方ではない。さりとて暗黒時代にも光はあった。
古代社会の遺産は、確実に中世の長い混乱を抜けて近世社会への途をひらく
萌芽となりえた。その意味で、中世暗黒時代なくして近世ひいては近代社会の
誕生を論ずることはできぬ。翻って中国をみれば、古代の最盛期たる漢王朝が
崩壊してより後、やはりヨーロッパと同様に中世的な暗黒時代が出現している。
まさに三国時代であり南北朝時代であるが、唐王朝もその延長線上にある
中世の最盛期と言えるだろう。
140名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 19:12:52 ID:J3benrf30
805 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :04/10/28 19:38:12
では本日の回答を行う。

>781(中国史内で一番仕えてみたいと思っている皇帝は誰ですか?)
何と言っても神宗帝(北宋)の下で宰相を務め、新法の指揮を執りたかった。
王安石にはどうしても半端な面が多かったから、まだ若輩であった私としては
歯痒い思いをさせられたものだ。もっとも、神宗の科挙に応じて朝廷に入った
ことは事実なので、質問の回答としてはやや不適当か。
では、唐の太宗が良い。私の能力は長期安定政権の下でこそ、もっとも役に
立つものと考えられるからだ。税制の抜本的な改革や軍制ないし地方官制の
再整備など腰を据えて取り組みたいテーマも多い。

806 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :04/10/28 19:41:03

>中国史で「こいつだけは許せん」と云う人物は誰ですか?
王黼や李鋼など個人的に恨みがましい人間はいるが、小物に過ぎて質問の答え
としては不適当かも知れない。中国の一士大夫としては、フビライ汗や朱元璋に
許しえぬ憎悪を感じるな。特に朱元璋は、明代以降の中国社会を停滞せしめ、
文化的ないし経済的な発展を阻害する重要な役割を負った天子であると言える。
ただ、一つの社会が衰退する原因を長期的なスパンで捉えたとき、その責めを
個人に負わせるのは酷であり、史学的な解釈方法としても妥当性を欠くだろうな。
となると、単に個人的な好き嫌いの問題だ。ああいった品のない男は好かん。

175 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :04/11/25 20:06:20
>145(蔡京さんが権勢を振るっていた時期の北宋では金に勝つことは
    不可能だったのでしょうか?)
不可能ではなかった。堕ちたりとはいえ宋王朝は、当時の地球上において最強の
国家だったのだ。局地的な戦闘に敗れはしても、経済力・人口・兵力のすべてに
おいて女真族の政権を圧倒していた。宋の朝廷が南渡してなお百余年存続し、
金王朝よりも長くその命脈を保ったことがなによりの証左だ。
まあ現実に北宋は滅亡して徽宗も欽宗も虜になったのだから、今さらIfを論じても
詮無きことだろうけれども、率直に申して、女真族の入寇はかなり無謀なもので、
むしろ徽宗をはじめ童貫・蔡攸らの自滅するに乗じたとするのが妥当と思える。
この当時の北宋の朝廷の右往左往は目を覆わんばかりの惨状だ。
徽宗の無責任ぶりは言うに及ばぬが、後を襲った欽宗も優柔不断の極みと言える。
もっとも───この時期私は半ば失脚状態にあったので、貴公の問いに対する
答えとしては不適当かも知れない。「権勢を振るっていた時期」とは言えないからな。
しかし私が宰相として権勢の絶頂にあった頃は、そもそも女真族などまだほとんど
知られていなかったし、敵対する理由もなかった。

178 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :04/11/25 20:11:46
>159(南宋が金に勝つ事は不可能でしたか?)
南宋が経済力・人口・兵力の全てにおいて金に勝っていたことは間違いない。
金は熙宗・海陵王の出現により中華王朝としての体裁をある程度整えて、
一定の中央集権的な統治体制を確立したものの、経済的に貧しく、文化的にも
南宋にはるか劣後した脆弱な政権だった。よって、金が南宋を滅ぼし中国の
全土に覇権を確立することは、一時期を除けばほぼ不可能事だったのに対し、
南宋が金を倒して失地を回復することは、理論上いくらでも可能だった筈だ。
しかし、南宋は軍閥の台頭を恐れるあまり積極的な外征策を放棄し、国境線を
維持するための養兵そのものに予算のウエートをおくアンバランスな財政を
採った。つまり兵員の数量にのみ注目し、軍隊としての質的向上を怠ったのだ。
専守防衛───というとかなり語弊があるが、少なくとも失地回復・北伐主義を
積極的に採用しなかったのは確かだ。だが、かかる国策とは別にして、一般の
世論は北地回復を望む傾向が強かった。強硬な攘夷論を唱える朱子学の
出現は決して偶然ではありえない。世論を反映していたからこそ偉大な学問と
なりえたのだ。惜しむらくは朱子学的見解と朝廷の方針が合致しなかった事で、
こうした目に見えない軋轢も南宋の国力を低下させた原因だろう。
141名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 19:13:38 ID:J3benrf30
309 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :04/12/14 19:39:40
>285
>蔡京氏は仮に(北宋の)神宗に仕えていたら、どの程度の地位に上れたと思う?
仮にもなにも、私は神宗皇帝の臣だ。神宗の在位中、熙寧三年(1070)の殿試にて
進士に登第し、以後数十年にわたって宋家の朝廷に奉職したのだからな。
なお、神宗の崩御したる元豊八年(1085)、私は知開封府(首都圏知事)の任にあった。
仮定の話に過ぎぬとしても、私があと十年早く生まれておれば、あるいは神宗の寿命が
十年長ければ、神宗の朝廷で宰相となることは十分に可能だったろう。

>それと、神宗の批評を少しお願い
私にとっては大恩のある天子で、おいそれと評価はできぬ。
だが、客観的に見ても堅固な意志と優れた実行力を具備した名君であったと思う。
神宗の即位した当初、周囲を固めていたのは実母の宣仁太后をはじめ守旧派の廷臣
ばかりであった。そうした中で王安石を抜粋し、国内外に山積した問題を解決すべく
改革を推し進めたのは並大抵の事ではない。惜しむらくは、武功に焦慮するあまり、
野放図に戦争を生じたことだろう。未だ改革による富国の実効もあがらぬまま、
次々と西夏・吐蕃・交趾に兵を起こし、悉く失敗に帰した。神宗がその治世において
最も重きを置いたのは、遼に圧迫されて振るわなかった国勢を更張し、対外関係を
打開するにあった。短慮といえば短慮だが、それが父祖以来の国是でもあったことと
考え合わせれば納得がゆく。返すがえすも短命であったことが惜しまれる天子だ。

310 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :04/12/14 19:41:55
>289(道路利権団体のCMは、それはそれで非常にムカつきませんか?)
あえて年末に道路工事を集中させる意味はないので、単なる慣習なのだろうが、
確かに12月になると、あちこち掘り返して交通を妨害しているような印象は受ける。
誰が言い出したものか、年末・年度末の道路工事は予算の帳尻を合わせるための
消化工事と揶揄されることが多い。実際にそんなことはあり得ないが、
行政のマイナスイメージに繋がることから払拭に躍起なのだろう。CMもその一環か。
だが、それがかえって視聴者の神経を逆撫でしているのだとしたら、
アッピールの方法を少々見直したほうが良いかもしれん。

>291(宋で第一の名君は誰だと思いますか蔡京さん?)
北宋を樹てたのは言うまでもなく太祖趙匡胤だ。しかしその成立過程において、
軍事面での功績は五代後周の世宗、内治的な面での功績は太宗趙匡義を無視できん。
北宋王朝は、世宗・太祖・太宗の三者が共同して作り上げた作品とも言え、
各々の業績を分かち別個に評価を与えるのが難しいという側面もある。
特に北宋の文治主義的な性格を具体的な制度として敷衍せしめたのは、
主に太宗の手によるものだ。帝位を襲うにあたって些か不明瞭の点があったため、
必ずしも評価の芳しくない太宗だが、中国史上稀に見る名君であったには違いない。
とは言え、世宗の達成できなかった中国統一の事業を継続して完成し、
中央集権体制の礎を築いて、立国の大方針を後世に範示したのはやはり太祖だ。
異論も多いが、宋第一の名君といえば太祖を挙げるのが妥当な見解であろうと思う。
142名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 19:14:36 ID:J3benrf30
344 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :04/12/19 08:56:22
では本日の回答を行う。

>まあいい質問、明で一番の名君は?
朱元璋以外には考えられん。あれを中国史全体の中で名君と呼べるか否かは別としても、
こと明王朝に限って考えるなら、他に名君と呼べる者が一人たりとも存在せぬのだから、
必然的に元璋の名を挙げるより他ない。強いて言うならば、永楽帝には及第点を付けても
いいかも知れないが、華々しい戦功の代償となった経済的損害はあまりに大きく、
何より内政面での治績に特段の評価を与えるべき点が見当たらない。
そして、それに続く仁・宣宗ないし嘉靖帝などは暗君と断じた所で何ら不当とは言えない。
明王朝は世界史上稀に見る強大な国家であったが、唐の絢爛、宋の理想に遠く及ばぬ、
退廃と行き詰まりの社会でもあった。文化も学問も明代を最高峰とする物は何一つない。
このような社会からどうして名君の名に相応しい天子など出現しよう。

>341(明時代で名将で思いつく人は?)
朱元璋だろう。明代一というよりは、世界史上第一の名将といえるかも知れん。
永楽帝も名将として良かろう。漢人の天子で、親ら漠北に遠征し、かつこれほどの
武勲を挙げた者は空前絶後ではないか。むろん天子の治績は包括的に評価するのが
通常であるから、いかに彼らが名将なりといえども当然に名君たりうる訳ではないがな。
他に名将として相応しい人物もいるのかも知れないが、基本的に明王朝は内向的な
国家観を採ったから、例えば唐や前漢のような赫々たる武功には乏しい。
言い換えれば、名将など必要とされない時代だったのだ。

>453(永楽帝の世界帝国志向は正しかったのですか?)
明王朝の基本理念は、強固な長城の内側に引き篭もって、ただ漢民族のみの安寧を図る偏狭な
国民主義、国粋主義に他ならない。すなわち唐の世界国家主義とは対極に位置するものだ。
むろん永楽帝もその例外でなどありえぬ。永楽帝の行った外征の主目的は、
中国の「国境」を万里の長城よりさらに前進させ、実効的な安全保障を図ろうとしたものでしかない。
永楽帝の興味の対象は、中国の安全を脅かす蒙古人を中心とした異民族の勢威を削ぎ、
服従せしめることのみで、中国と西方諸国を繋ぐ陸上交通路の回復にはまったく無関心だった。
また鄭和を南海攻略に派遣して、ペルシア・アフリカにまで明王朝の威勢を示したものの、
唐宋以来の海上交易を復活させる意図には欠けていた。結局のところ朱元璋の志向した
鎖国主義から一歩たりとも抜け出したものではないのだ。かつて世界の中心とも言えた中国を
巨大で凡庸な田舎国家に堕した罪は、まさにこの半ば気の触れた父子が負うべきものだ。

143 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :04/05/28 13:38

>139 ダーマー
>そう言えば蔡京さんはこの人物を余り好きそうじゃなかったな。
朱元璋のことか。
確かに軍人としては世界史上最高の人物として過言ではなかろうし、天子としても
超人的な実行力を備えていたと思うが、政策理念が極端に偏狭で、高い評価を
与えることはできない。朱元璋の、商賈を軽んじて排他的な農本主義に傾倒し、
国粋主義を旨とする内向的な国家観は、中国の潜在的国力を悉く後退せしめた。
結局この天子は自らが出た素朴な農村社会の価値観から、一歩も前に進む事が
できなかったのだ。
143名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 19:20:34 ID:J3benrf30
729 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :05/02/09 23:34:50
>713(北宋は外国に金を払いすぎです。その金で軍隊を強化することは考えなかったのか)
誤解されていることが多いが、遼や西夏への歳幣が北宋の財政を圧迫したという事実はない。
金国に対する南宋の歳幣も同様だ。いってみれば九牛の一毛で、至極妥当な範囲での
安全保障費だった。そもそも遼にせよ西夏にせよ、宋から得た歳幣を何に用いるかといえば
第一には消費財の調達であり、それは宋の商人を相手とする取引だった。
すなわち宋の朝廷が支払った財貨は、再び商取引の形で大部分が宋の国内に
還元されたのであって、一方的な持ち出しではありえなかったということになる。
視点をかえてみると、政府支出が外国を通じてふたたび国内の民間所得に転じたということで、
財政政策にも類似した資金拠出だったのである。
むろんそれらとはまったく別個に、軍事費は天井知らずに膨張していた。
宋代ほど軍事費がかさんだ王朝は他に類例を見ないのではないか。
これはとりもなおさず宋の兵制が傭兵を中心として運用されていたためである。
王安石の改革も、それを引き継いだ私の政策も、突き詰めれば軍事費の削減が目的だった。

>758 明成祖
>お前、そんなに明が嫌いかよ?
ふむ…そんなに嫌いかと言われれば、本来私の死後の話だけに格別憎悪する理由もないが、
宋学の影響を強く受けた士大夫にとってみれば、少なからず明の歴史には違和感を覚える。
私の主観を排するにしても、やはり明王朝は中国史の中で高い評価を与えられた政権では
ないからな。本当ならば、宋王朝は唐よりもむしろ明清に近い性質を持っているのだ。
にもかかわらず一般に唐宋と括られるのは、宋と明清に形而上的な面での隔絶が
著しいからであろう。文化的後退と国力そのものの盛衰は必ずしも一致しないとしても、
客観的な魅力を乏しくすることは確かだ。あとは個々人の好みで判断してもらうより他ないな。

>少しは肯定的に論じてみろよ、例えば俺様の業績とか
少なくとも軍事的な能力や功績については評価している。
父帝とともに、世界史上一、二を争う名将であったことは疑いようがない。
また、世界史的な役割を考えれば、14世紀という時代にかくも強大な政権をつくりあげ、
中国のみならず東アジア全体の平和と安定に寄与したことは認めざるを得ない。
なんとなれば明の領土の広大さは唐代のそれにほぼ匹敵し、しかも支配の確実性において、
唐とは比較にならぬ実力を有していた。明王朝の台頭は、蒙古帝国に破壊された東洋的な
国民主義の復興といえ、歴史の必然として起こりえた力学的作用には違いあるまいが、
朱元璋とそなたの個人的能力に依拠した部分も小さくない。その点は私としても評価しよう。

前スレ323
>北宋って馬鹿だよね
>自分の力も弁えず調子のって金に無礼しまくって滅ぼされてんだから
そう言われると身も蓋もない。北宋の総量的な国力や軍事力が、金国を遥かに上回っていたことに
関しては以前に幾度も述べたとおりだが、であるからこそ愚かな結末と罵られる羽目にもなるわけだ。
ただ、まあ、当時の政情に少なからず関わりを持った者として言わせてもらえば、
やはり馬鹿だったのは童貫と蔡攸だ。私があと二十…いや、十歳でも若ければ、ああいった醜態を
史上に留めずに済んだものと確信している。南宋初期に編まれた『鐵圍山叢談』なる文献は、
そのあたりの事情を斟酌して、国難を招いた責任を童貫・王黼らに求め、私を徹底的に擁護している。
しかし此説が社会的に省みられ、歴史解釈を見直すべきとの論調はついに生まれなかったようだ。
何せ『鐵圍山叢談』の著者である蔡絛は私の実の子だからな…。仕方がないといえば仕方がないか。
144名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 19:21:55 ID:J3benrf30
前スレ372
>明の土木の変をどう捉えます?
端緒となったのは、オイラートが朝貢使の員数を水増しして、明からの返賜を不正に受け取っていた
ことにあるが、これを明の側から戦端を開く理由としてしまったのは、明らかに外交政策のミスだ。
朝貢使への賞賜は、宋初以来、中国にとってある種の安全保障費なのであって、開戦の大義名分と
なすことは全く趣旨に反した迷走だ。これはほぼ中国史全体に共通することだけれど、
朝貢に絡むコスト負担が予算全体に占める割合は、極めて僅少なもので、何ら財政を圧迫しない。
また、仮に圧迫したとしても、拠出した資金は貿易黒字の形で再び中国国内に還元される。
つまり、土木の変は経済的な要因で生じた戦争でなく、中国側の国粋主義的感情が爆発したものだ。
そして、国家として統治能力が破綻したわけでないにもかかわらず、天子ひとりが捕虜となって
そのために看過しえぬ事件となった経緯は、北宋の靖康の変にも通じる愚かしさだ。
ただし、爾後の対処が比較的まともで、穏当な決着を見た点が大きく異なるとは言える。

>8-9(南宋と金では、どちらが優れていましたか?)
優れていたか───と一口に言っても、本来ならそれは文化水準や経済力、軍事力など
様々なファクターを考慮したうえで比較せねばならないが、
こと南宋と金国とを比べてみれば、南宋が劣っている点などただの一つもない。
そもそも北宋時代に河南省が繁栄していたのは、そこに私たちの国都があったからに他ならず、
元来は生産力に乏しい純然たる消費都市だったのだ。
してみれば金国が河南を含め淮水以北の各地を支配したからといって、
江南からの交通が遮断されれば経済的には何らの意味をなさず、負荷を得たに過ぎない。
その一方で、南宋王朝は腐敗した手足を切り捨てることができた。
童貫が下らん失策を犯さなければ、女真族など歴史の表舞台に立つことすらなかったかも知れん。

>ついでに訊ねるが朕の取った海禁政策の是非を論じてみよ
少なくとも歴史の上での一大変革であるには間違いない。
海外貿易の関税収入で巨利を得ていた私たち宋代の人間の感覚からすれば驚くべきことだ。
実際上鎖国政策のデメリットは小さなものではなく、交通と文化流入の隔絶は
深くゆっくりと中国ないし東アジア全体を蝕み、ついには西欧社会に呑み込まれる事態を招いたが、
百年単位のスパンで未来を見通した政策を打ち立てることは殆ど不可能事といえる。
その意味では確かに明王朝ないし朱元璋にのみ責を負わすのは酷であるには違いないだろう。
単に明王朝樹立時の事情のみを考慮して海禁策の是非を論じるならば、
なるほど農本抑商型の社会を志向し、全て自給自足的な形で、万里の長城の内側においてのみ
経済を循環させるという政策の一環をなすものとして、明確な矛盾を指摘することはできない。
結局のところ朱元璋の過ちは政策の内部的矛盾ではなく、原理原則そのものの誤りなのだろうが、
そうした非難はすべて結果論に過ぎぬと言われれば沈黙せざるを得ない。

>17(もしティムールが生きて中国遠征したら明は勝てましたか?)
時期にもよるか。史実の計画よりやや早く、靖難の変の混乱に乗じて中国に雪崩れ込めば或いは
勝利を得ることも可能だったかもしれん。戦闘慣れしている永楽帝を相手にしては難しかったろう。
ただ、いずれにしてもティムール王朝は蒙古帝国の亜流に過ぎない。
強力なのはティムール個人の「腕力」であって、彼の能力のみに依拠した脆弱な体制の政権だった。
仮に明朝を追うことに成功したからといって、長期にわたって中国を支配するのは困難だった筈だ。
都市を攻め立てて野放図に略奪を繰り返す原始的な政権が、そのままの形で中国を支配しても、
所詮は一時の混乱で終息したことだろう。後継者にも恵まれなかったからな。
145名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 19:27:53 ID:J3benrf30
>35(朱元璋を暴君と位置づける蔡京は杉山正明の影響が強そうね)
名前はよく耳にするが、残念ながら杉山という学者の著作は一度も読んだことがない。
朱元璋暴君論というよりは、遊牧民族の挙動を主軸にした歴史解釈が斬新であると聞く。
私は基本的に遊牧民を過大評価しないので、おそらく見解を異とする点のほうが多いであろう。

>あえて耶律楚材論を尋ねるが、まさかこれも同じく?
一般的に語られる耶律楚材の功績とは、第一にチンギスに近侍してその蛮行を諌めたことに
あるとされるが、征服事業に伴う殺戮や略奪を戒める発想そのものは典型的で、
楚材の人間的高潔を示す証拠としてさほど説得的とまでは言い難い。
同じ立場であれば私でもその程度の進言はする。要は士大夫としてのたしなみのようなものだ。
かかる抽象的な功績よりも、むしろ楚材については財務官僚としての事績を論じるべきと思う。
何度か述べたが元王朝の税制は最初から極めて独自性の強いもので、
丁税に貨幣納(銀納)を法定した点と、土地の所有如何に関わらず田税を全人民に課した点が
大きな特色として挙げられる。かかる税制を採用した根拠がどこにあるかは今ひとつ不明だが、
少なくとも従前の中国には存在せず、士大夫である耶律楚材のする発想とは考えにくい。
元王朝の財政政策には楚材の意思が反映されたと思われる形跡が乏しい。悪人であったとは
考えられないにしても、具体的な功績を見出すのは難しいというのが私の率直な見解だ。
フビライの時代になると銀納すら廃されて、不換紙幣一本の幣制が採用されるが、
耶律楚材が生きていたらどういう反応を示したか興味深いところではある。

90 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2005/06/11(土) 18:52
>40(明で名高い詩人が余り輩出しなかったのは何故でしょうか?)
明王朝が文化的な魅力に乏しいのは、鎖国を原因とするところが大きいと私は思う。
文化とは他の異質な文化に触れることで相乗的に発展するものだ。
異文化に接触する機会が限定されれば、自ずと過去に範をとり懐古主義に陥るよりほかない。
明詩が唐代の模倣に終始して後生の評価が高くないのは、まさにその典型的な事例と言えよう。
実際のところ李夢陽らの復古主義に対しては反動も見られたが、文化史的な評価は低い。
もっとも盛唐の詩を中国第一のものとするなら、そこに忠実であった李夢陽はそれなりの
賞賛を受けるべきとも思えるけれど、概括的な文化史を語る上でどうしてもオリジナリティーが
重要視される傾向は否めん。実は明代は中国史においてもっとも詩作の盛んな時代であった。
にもかかわらずその点がほとんど知られていないのは、凡作の多かったことを示すものだろう。

92 名前:蔡京 ◆GtkPmKwSp2 投稿日:2005/06/11(土) 18:54
>50(中国の南北朝時代の皇帝ってDQNが多いイメージがある)
イメージだけではなく確固とした事実だ。
南北朝時代は中国社会が極限まで低迷し停滞した時代であり、中国史上もっとも悲惨な時代と
しても過言ではない。社会の生産性と活力の低下は、同時に社会秩序と道徳の後退をもたらす。
言い換えれば儒教が衰え怪力乱神が勢力を得たとも解釈しうる。中国社会の道徳を規律する
儒教が省みられず、社会全体が宗教的・神秘的雰囲気の中に置かれた、まさに中世的現象だ。
このような社会にあって個々人に合理性や道徳的態度を求めるのは困難だ。
政治権力の腐敗や、王侯貴族の紊乱を戒めるべき倫理や思想が説得力を有しないのだから、
暴君ばかり輩出されるのもある種やむを得ない現象であったと言える。
この暗雲が晴れ、中国社会が漢代以前の水準を取り戻すには、なお数百年の時を要した。