前漢vs後漢vs唐vs宋vs明vs清

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123名無しさん@お腹いっぱい。
674 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :04/02/18 19:54
>647(晋の国について、教えて下さい。いい国だったのでしょうか?)
司馬氏の晋は、中華史上最も弱体な統一王朝だ。そもそも三国時代末期は
中華社会が経済的にも政治的にも、どん底まで落ち込んだ時代であり、
一時とはいえ中国全土を統一した王朝が出現したことそのものが、
ひとつの奇跡であったと言える。晋の天子は大土地所有者(=貴族)の中で、
第一人者の地位を保っていたに過ぎず、経済問題に直結する土地制度の
諸問題につき、手を打つ力が全くなかった。民衆にとっては明日をも知れぬ
暗黒社会であり、いい国であったかと問われれば、はっきり否とする他ない。
この王朝の二代目である恵帝は、中国史上最悪の暗君とも言われるけれど、
そもそもどんな明君が君臨したとて、晋朝の構造的問題を是正し、強国に
生まれ変わらせしむのは不可能であった筈だ。中国史の中で重要な位置を
占める王朝ではないため忘れられがちだが、もっとも類似するのはやはり
唐王朝だ。王朝交代の流れから見れば晋の系統は南朝の終焉とともに
絶えるが、政治制度的には晋の延長線上に唐があると言って差し支えない。

>647 (晋の国について、教えて下さい。)
三国分裂の結果と見られがちだが、本来晋は魏の後期には既に司馬家の
独裁政権として半ば完成されていた。禅譲はその結果に過ぎぬ。
仲達殿のクーデターの段階で魏の政治軍事権を握った時点で王朝の基礎が
固まったと言えるが、当時の士大夫や貴族豪族にとっては単に頭が代わる
のみの事だったかも知れぬ。
良い国であるかは問題外だろう。収奪を元とする古代王朝である以上
民間の生活は期待は出来ぬし、何より貴族の力が強大すぎた。
王朝の優劣度でも下位に属するのも致し方ない。

>67(唐と宋ってかなり違うんですか?)
最大の違いは経済力じゃ。農業においては自作農と、荘園で小作に従事する
「佃戸」とがあったのは唐代と相違ないが、佃戸の地位が宋代においては上昇し、
半奴隷的な色彩は完全に払拭された。当然それにより生産性も高まった為、
佃戸の中には、零細な自作農より生活の楽な者も多かったのだ。
さらに商工業も唐代と比して飛躍的に発展し、都市の商工業者が新たな階級として台頭した。
北宋の都が、交通の要衝たる?京(開封府)に置かれたのも、その現れじゃな。
唐王朝に対し華やかな印象を持つ者も多いかもしれぬが、経済大国の宋のほうが
一般庶民の生活水準も高く、軍事的に脆弱であっても文化的活力があった。
さらにもう一つ付け加えよう。>71で来が述べておる事と関連するが、唐末から五代の
動乱を経て門閥貴族が一掃され、皇帝権が著しく伸張した。
このことは皇帝と人臣の間の実力格差が、埋めようもなく拡大したことを意味する。
いささか乱暴な考えなれど、北宋以降の王朝交代が、すべて漢族政権と異民族の
征服王朝との間で行われたことは、それが理由である・・・と申す史家もおる。
124名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/30(月) 14:55:20 ID:ldcLExQ50
167 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :03/09/08 18:19
>165(中国史の名君ベスト5を挙げてみてください)
序列を付けるのは非常に難しいが・・・

1.聖祖康煕帝(清)
2.太宗李世民(唐)
3.太祖趙匡胤(北宋)
4.光武帝劉秀(後漢)
5.太祖朱元璋(明)

と、私は考える。康煕帝および李世民は軍事、内政を両立させた点が偉大じゃ。
古来より外征にかまけた天子は、おおむね国家財政を破綻させ、王朝そのものの
衰退を招いておる。前漢武帝、隋煬帝などがその典型だ。しかるに康煕、太宗の
二帝は、版図の拡大に並行して内政も能くし、各々長期政権の礎を築いておる。
趙匡胤は軍人皇帝ながら、五代以来の武断政治を排除し、文治主義による皇帝
独裁体制を確立した。軍事面での弱点を経済力によって補うという、新しい形の
国家を形成した点は評価に値しよう。光武帝はやや時代が上るものの、やはり
有力豪族を牽制した、文治主義的な面を評価したい。最後の朱元璋であるが、
かなりの傑物ではあるものの、暴君的要素が強すぎるゆえにこの位置じゃな。

171 :来俊臣 ◆SiKEI/O88M :03/09/10 19:23
>165
では、我輩はこう並べる
1 明の太祖 洪武帝朱元璋
2 清の聖祖 康熙帝愛新覚羅玄?
3 後漢の世祖 光武帝 劉秀
4 唐の太宗 李世民
5 前漢の高祖 劉邦

洪武帝は他の歴代皇帝と違い、財産・地盤の全く無い流浪の托鉢僧から
立身し自分の政治・軍事・人事各方面に渡る才能と研鑚で一代にて中華
を統一して二百八十年にも渡る明王朝の基礎を築いた。後年の大粛清を
差し引いても余りある大きな功績だろう。
康熙帝は幼少で即位しながら早くから親政し三藩の乱や対外遠征と勝利
を収めながら内政・文教面でも多大なる成果を残した清王朝最高の名君
と言えよう。
光武帝も王莽期の混乱から一代で天下を平定し後漢王朝を築いた功績は
大きいが、洪武帝よりはるかに恵まれた出発点をかんがみ第三位とした。
唐の太宗は我輩の時代では名君の代名詞であったが、隋王朝の国公の家
柄。兄弟を抹殺した玄武門の変。そして晩年の長孫無忌の専横を許した
事で光武帝の下とした。
漢の高祖は人心掌握術と有能な家臣を使いこなし天下を平定したが特に
内政面での功績が見当たらぬため第五位とした。
尚、北宋太祖と武則天陛下については主観が入るため別格としたが優れ
た皇帝であることに代わりない。
しかし、こうして見ると創業の皇帝が多いな。
125名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 01:59:47 ID:J3benrf30
298 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :03/09/30 20:46
>287(玄武門の変は太宗の汚点と呼ばれてますが、お二人はどう評価しますか)
後世の者の評価はともかく、太宗李世民自身、玄武門の変を自らの汚点と考えて
いた事は間違いない。その汚点を正当化すべく、太宗は歴史の改竄を企図した。
玄武門で殺害した兄、李建成の功績を貶めることは言うに及ばず、父帝高祖李淵の
勲功まで自らの物として史書に記させた疑いもある。長期政権の創始者、例えば
前漢高祖や宋・明の太祖と比して、李淵があまりに地味に映るのは、その為だろう。
そのように考えると玄武門の変は、李世民の残忍で狡猾な本性を象徴する事件で
あったと言える。そうして帝位に上った後も、即位にまつわる後ろ暗さを払拭する為
明君として振る舞い続けた太宗だが、その緊張感を生涯に渡って持続させた点は
驚嘆に値すると言ってよかろう。太宗の治世は粉飾されておる部分も多いが、
それを差し引いても中国史上屈指の明君とみて間違いはない。

>295(エェー 元のフビライについて教えてYO)
殺戮と略奪によって世界中を恐怖に陥れた蒙古帝国だが、フビライ汗はまだしも
開明的な帝王であったとされる。南宋を滅ぼした際もその皇族を優遇しておるし、
当地での蛮行も戒めたというから、蛮族としての蒙古からの脱却を図る意気込みは
あったのだろう。軍事的資質、汗家の熾烈な権力闘争に打ち勝った権謀術数の才も
相当な物であったと認めざるを得まい。だが、中華の支配者としての内政面における
事績は稚拙を通り越して無残と言うより他ない。蒙古人には財政処理能力など皆無
であったから、フビライ汗はそれまでの伝統に従い、色目人(西域人)官僚に経済政策
を委託したが、この連中は場当たり的な搾取を繰り返す事にのみ長じていた。
言ってみれば、絹の道での中継貿易において利益を上げるような限定的財政手法を、
農業国である中華にそのまま敷衍させ、宋代を通じて発達した経済構造を根底から
破壊し尽くしたのだ。元朝の国家としての施政方針を定めたのはフビライ汗であり
その後継者達も同様の手法で統治した為、漢地にどれほどの混乱が生じたかは
筆舌に尽くしがたいものがある。草原の王者として君臨しておる分には偉大な帝王と
呼べたかもしれぬが、中華の支配者としてのフビライ汗は暗君と言って差し支えないと
私は考える。