前漢vs後漢vs唐vs宋vs明vs清

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115名無しさん@お腹いっぱい。
203 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :2005/05/10(火) 08:50:05
>140(宰相は天子になろうとする意識さえなかったようですが、ある意味忠臣なのかね)
「意識さえなかった」というところがポイントだ。
科挙制度の確立は単に統治制度上の進展ではなく、中国社会の実質的な支配者層である
私たち士大夫の意識をも根底から革新せしめた。
私たちの地位はすべて天子の恩賜によるもので、天子の権力の下で位人臣を極めることが
唯一の社会的成功だった。この観念はまさに宋代以降に現れた中国史の大きな特長だ。
私たちは貴族でも諸侯でもなく、試験によって選抜された官僚だ。
天子の地位を脅かすほどの武力も資本も持ち合わせない。簒奪はいわば不可能事なのだ。
天子と人臣の間の観念的な距離が、埋め難いほど隔絶したとも言えるだろう。
すなわち中国史は宋代以前と以降とではっきりと分けて考える必要がある。
なにせ宋代以降の王朝交代はほとんど外的な要因による支配民族の交代であって、
内部的な簒奪に成功したのは永楽帝朱棣と、あとは袁世凱くらいではなかろうか。
116名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/26(木) 17:32:08 ID:7gdSzXGX0
201 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :2005/05/10(火) 08:48:47
>105(姚広孝について論じてみて)
道衍という僧名のほうが有名か。一般には燕王朱棣(後の成祖永楽帝)の軍師として知られる。
僧籍のまま歴史の表舞台に出たというのが、やや異色といえるかもしれん。
史書には「常に謀臣として帷幕に参し職守の機事は皆彼の言により決し其功第一と称せらる」
───と、記される。なにか具体的な軍功を立てたとの記事も見当たらぬ以上、
即ち燕王近侍の佞倖だろう。無謀な造反を唆すくらいであるから褒められた人物とは言い難い。
まあ、精神面で燕王を支えていたのかも知れん。
さすが勲功第一と称されるほどだから、燕王の即位後には太子小師に叙されている。
ただし、小師とは政治上の実務を担当する地位ではなく、言ってみれば名誉職だ。
政治的には枢要な地位を襲わず、名誉を得た後も常に寺院に起居して史書の編纂に生涯を
尽くしたというから、この点だけみればかなり淡白な人間だったのだろう。
そのため永楽帝との関係も終生にわたって良好であった。
どこか謀反を焚付けた謀略の徒としての足跡と整合性を欠くような印象も受ける。
あるいは、もともと大した存在感も功績もない、単なる学僧だったのかもしれない。
そういう人物を勲功第一とすることで、むしろ自身の威光を些かなりとも脅かされぬようにした
永楽帝の知恵だったのかもしれない。そのように考えればすっきりする。…あまり根拠はないが。
蛇足だが、永楽帝が帝位を奪取した政変を後世に靖難の変と称する。
たまに北宋末の靖康の変と混同される場合がある。時代も経緯も全く無関係であるけれど、
圧倒的優位にある一方が、到底勝ち得べからざる一方に敗れた───という点では共通する。
117名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/26(木) 17:54:49 ID:7gdSzXGX0
199 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :2005/05/10(火) 08:47:50
では本日の回答を行う


>93(李靖と陳慶之ってマジ凄いやんけ!)
李靖にせよ李勣にせよ、唐建国期の功臣の武勲は非常に華々しい印象を放つ。
実際上の唐王朝は安定性に欠ける脆弱な政権であり、
太宗李世民も特に軍事上の失策が少なからず目に付くけれど、
それらを差し引いても太宗とその家臣団が優れた能力を有していたことは間違いない。
いったい6〜7世紀の中国はいまだ中世の停滞期を脱しておらず、
してみれば唐の統一は奇跡にも近い偉業と言えるが、
その要因として単に社会構造的な因果関係を観念しうるのに加え、
統治者の優れた能力と強固な意志に由来する部分も見過ごすことはできない。
とは言え、旧唐書をはじめ史家の筆はこの唐初時代を過剰に粉飾した。
ために太宗の巨視的な功績は間違いないとしても、
細部の事実関係を解り難くしているというきらいはあるな。
ちなみに陳慶之なる人物のことはよくわからない。李靖の部将だろうか?
旧唐書を調べてみようと思ったが、時間の関係上今回は勘弁して欲しい。
118名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/26(木) 18:09:52 ID:7gdSzXGX0


74 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :2005/04/27(水) 10:41:37
>69(北宋を自滅させた張本人として何かコメントを)
北宋王朝の特長の一つとして、言論が自由なあまり政策が安定しないという点があった。
それは新旧法の抗争をみれば一目にして瞭然だ。王安石にせよ、蔡確にせよ、章惇にせよ
反対派を徹底的に弾圧して行財政の改革を推し進めるだけのマキャベリズムに欠けていた。
そこを初めて解決して政治権力の安定を実現したのが私だ。その意味では秦檜も韓?冑も
あるいは史弥遠や賈似道でさえ私の亜流に過ぎない。
また、私の理財家としての功績も評価されて然るべきだ。
いったい中国史上最重要の税制は両税法と塩税であり、その一方の柱である塩税の制度を
完全な形で確立したのは他でもないこの私だ。
南宋が国家財政の八割超を軍事費に割いてなお破綻しなかったのはなぜか?
元が世界史上類を見ぬ紙幣制度を確立させ、かつ正常に機能させえたのはなぜか?
これは即ち消費税である塩税が確立され、安定した財源を確保できるようになったからだ。
北宋王朝は滅亡したが、これは財政破綻による必然的な崩壊ではない。
外交的な失敗を重ね、丸裸の首都に敵を招き入れるという二重三重の戦略ミスの結果だ。
言うまでもなくこれは軍政のほぼ一切を統括していた童貫の責任だ。
もしくは童の腰巾着に成り下がり彼の意を迎えた蔡攸、私の後任として宰相位を襲った王黼、
そして誰よりも何よりも最高意思決定者であった徽宗皇帝の責任だろう。
そもそも私は金国との同盟にも、遼と戦端を開くことにも、はっきりと反対を唱えている。
にもかかわらず、愚行を止められなかったのは、既に私の発言力が後退していたためだ。
つまり、老いだな。とうに七十歳を超えていたのだから致し方のないことだろう。
引き際を心得なかったことが責められるとしても、亡国の責任まで押し付けられては堪らない。
むろん南宋が金国を打ち倒して旧領を回復しえなかった原因は、暗君の高宗皇帝と
中国第一の姦臣とされる秦檜に負わすべき責任であって、これも私と無関係なのは明白だ。


───以上
119名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/26(木) 18:10:31 ID:7gdSzXGX0
73 :蔡京 ◆GtkPmKwSp2 :2005/04/27(水) 10:41:08
では本日の回答を行う

>67 朱元璋
確かにそうなのだが、もう語り尽くされた感もある。
しかし、明代史に詳しい者がわりと多いという事実にまず驚いたものだ。
日本人は殊に明王朝への興味が薄いようで、戦前の研究では朱元璋を中国歴代の
天子の中でも凡庸で特長に薄い人物と考える向きも多かったらしい…
ま、文化史的なものに重点を置けば、明王朝は特筆するべき個性に乏しい面がある。
その創始者たる朱元璋も、自ずと似たような評価を受ける羽目になったのだろう。