西太后だけど何か文句ある?

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1名無しさん@お腹いっぱい。
清朝は私のものよ!
2名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/07(水) 22:19:09 ID:ca1DYoIK0
3名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 00:39:41 ID:WVPcmY9D0
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%A4%AA%E5%90%8E
西太后(道光15年10月10日(1835年11月29日) - 光緒34年10月22日(1908年11月15日))は清は
咸豊帝の妃で、同治帝の母。清末期の権力者。満州 旗人(鑲藍旗人)の葉赫那拉(エホナラ)氏の出
身。慈禧太后(じきたいこう)のこと。老仏爺。

中国語では「慈禧太后(Cixi Taihou ツーシー・タイホウ)」ないし「西太后(Xi Taihou シータイホウ)」。
英語では「Empress Dowager(寡婦女帝)」という呼称がよく使われる。個人名は杏貞。

紫禁城内における二人の皇太后の住む場所によって東太后(皇后・鈕祜禄(ニウフル)氏。慈安皇太后、
母后皇太后)、西太后(第二夫人。慈禧皇太后、聖母皇太后)と区別して呼ばれた。徽号と合わせた諡
号は孝欽慈禧端佑康頤昭豫荘誠寿恭欽献崇煕配天興聖顕皇后。なお「せいたいごう」という読み癖は
正式の読みではない。

「中国の三大悪女」として漢代の呂后、唐代の武則天とともに名前が挙げられる。
4名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 00:40:24 ID:WVPcmY9D0
生涯
西太后の出生地は不明で、安徽省蕪湖説、内モンゴルのフフホト説、山西省長治説など諸説があるが、
近年の学界では北京出生説が有力とされる。 西太后の父親だった恵徴は、清朝の中堅官僚で、最終官
職は安徽寧池太広道の「道員」だった。恵徴は1853年、安徽省の赴任先で太平天国の乱に巻き込まれ、
その心労により同年六月三日(7月8日)に鎮江で病死した。

1852年、数え十七歳のとき、三年ごとに紫禁城でおこなわれる后妃選定面接試験「選秀女」を受けて合
格。翌年の五月九日(6月26日)、十八歳で咸豊帝の後宮に入って「蘭貴人」となり、序列第三位の妃とな
る。ちなみに皇后は、咸豊帝の皇子時代から仕えていた鈕祜禄氏(のちの東太后)であった。

西太后については、民間に多くの逸話が伝えられている。たとえば「西太后は、下級官吏の貧しい家に
生まれ育った」、「最初、円明園の宮女となったが、たまたま通りかかった咸豊帝に声と容姿が美しいこと
からみそめられ妃に昇格した」、 「いわゆる『葉赫那拉(エホナラ)の呪い』の伝説のせいで皇后になれな
かった」などが有名である。しかし現在では上に挙げたどれもが根拠のない流説であると判明している。

1856年、西太后は咸豊帝の長男(愛新覚羅載淳。咸豊帝の唯一の男子)を生み、その功績により、皇后
に次ぐ二番目の地位である貴妃に昇進。次第に帝を取り込み様々な策略を企て発言力を強めた。
5名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 00:40:55 ID:WVPcmY9D0
その後咸豊帝が崩御した1861年、西太后は咸豊帝との間に生まれた皇太子載淳を同治帝として即位さ
せ、自らも東太后と共に垂簾聴政の名の下、咸豊帝の弟である恭親王奕訢(エキキン)を取り込み、事実
上の摂政として政治に介入した。一方咸豊帝の遺命を受け政治の中枢を掌握していた「顧命大臣」載垣
や端華・粛順たち8名は垂簾聴政に真っ向から反発し、激しい権力争いの末に載垣や端華・粛順を処刑
(辛酉政変:1861年)し、権力を手中にした。またこの時、梳頭太監だった宦官李蓮英をとりたてて重用し
た。

1874年同治帝の大婚を機に親政を行おうとしたが、天然痘のため若くして崩御。一説によると真の死因
は梅毒で、西太后が皇帝と皇后(嘉順皇后)を離間させたため、同治帝は天橋の売春宿へ通うようになり、
そこで感染したという。天然痘か梅毒か、学者のあいだでも意見は分かれている。 同治帝は子供を作らず
に死去したため、後継問題が持ち上がった。通常、皇位継承は同世代間では行わないことになっている。
この場合名前に「載」の字がある世代は、皇帝候補者とはなり得ない。しかし自身の権力低下を恐れた西
太后は、その通例を破り他の皇帝候補者よりも血縁の近い、妹の息子である載湉(さいてん)を光緒帝とし
て即位させた。そして再度東太后と共に垂簾聴政を行い、権力の中枢に居続けた。
6名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 00:41:27 ID:WVPcmY9D0
西太后さらに1881年東太后が崩御。これによって西太后は清朝において誰に遠慮することもない地位を
確立した。このため西太后によって東太后は毒殺されたという風聞が広まった。1887年光緒帝の成年に
伴い、自らは隠退を要望するが、混乱を恐れた重臣たちの意を受け3年間の「訓政」という形で政治のフォ
ローを行う事を条件に、光緒帝の親政が始まる。 1888年には自身の姪を光緒帝の皇后(のちの隆裕皇
太后)に推挙。

同治帝の即位以降、西太后は宮廷内政治に手腕を発揮する一方、表の政治においては李鴻章らと結
び、彼らの推進する洋務運動を支持した。洋務運動がある程度の成果を上げて清朝の威信が回復した期
間を同治中興と呼ぶが、この運動の成功は、西太后と李鴻章ら洋務派官僚が結びついたことによる政治
的安定が大きく寄与した。しかし洋務運動は1895年の日清戦争により挫折する。清朝の敗北は北洋海軍
の整備が遅れていたことが大きな要因であるが、整備用の海軍予算を西太后が私的に流用していたとい
われる。

日清戦争の敗北は、西太后に一時的な権力からの後退を余儀なくさせた。彼女が結託していた李鴻章
の威信低下や海軍予算の流用により、帝党と呼ばれる光緒帝支持派が勢いを増したためである。帝党は、
明治維新にならって政治制度も変革すべきと主張した変法派の康有為・梁啓超を取り込み、1898年に真
の光緒帝親政を開始した。これを戊戌の変法(別名戊戌維新、変法自強運動、百日維新)という。西太后
は当初は改革の推移を見守っていたが、戊戌の変法は立憲君主制を目指すものであったから、自らの政
治権力低下を恐れ、これにクーデターを仕掛けることを決意した。改革に好意的と見られていた袁世凱が一
部で進めていた西太后暗殺計画を密告した事により光緒帝を逮捕の上、中南海の瀛台(エイダイ)に幽閉
し、三度目の垂簾聴政を開始した(戊戌政変)。わずか三ヶ月あまりで西太后は権力の座に返り咲いたこと
になる。さらに将来光緒帝を廃位すべく、端郡王載漪(サイイ)の子溥儁(フシュン)を大阿哥(清朝では立
太子の制度を廃止した為、普通は皇長子もしくは皇嗣子を指す)に擁立した(己亥の建儲)。ただ光緒帝の
廃位は諸外国の反対により実行できず、西太后の意のままにはならなかった。清朝内部においては並ぶ
ものなき権力者でありながらも、西欧列強には譲らねばならないことが多く、彼女はフラストレーションを蓄
積させていった。この点が後の義和団支持へとつながっていくことになる。
7名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 00:41:58 ID:WVPcmY9D0
1900年義和団の乱が発生。義和団は「扶清滅洋」をスローガンとし、国内にいる外国人を次々と襲った。
このため、清朝内にはこれに支持を与え、この機会に一気に諸外国の干渉を排除しようとする動きがあっ
た。その中心人物の一人が西太后である。しかしこれは西欧列強の実力を過小評価したものであり、すぐ
さま日本を中心とした八ヶ国軍が派兵される事態を招いた。その結果、首都北京が陥落、西太后自らは側
近を伴い西安へ逃走を余儀なくされた。この際、光緒帝の側室珍妃を紫禁城内の井戸へ投げ捨てる事を
命じたといわれる。

義和団の乱終結以後、遅まきながら西欧風の政治改革の必要性を認識した西太后は、かつて自らが失
敗させた戊戌変法を手本に所謂「光緒新政」を開始した。しかしその新政も、辛亥革命への流れを堰き止め
ることはできず、遅きに失した観は否めない。

1908年光緒帝が崩御した翌日、「ラストエンペラー」溥儀を宣統帝として擁立し、西太后も74歳で崩御し
た。光緒帝と西太后の亡くなった日が近いことから、自らの死期の近いことを悟った西太后が帝を手にか
けた、という流説が飛び交った。
8名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 00:42:36 ID:WVPcmY9D0
後世の評価
権力欲と人を巧みに操る感覚は並外れたものを持っていたが、それ以前に皇太后という身分では外界の
情報が届きにくく、かつ、国体(王朝)の保持を第一義としてしまったために、人民を顧みない政治を行い続け
たことは当時の中国人にとって不幸以外の何物でもなかった。また諸外国との戦争処理の際に安易な妥
協や講和をし続けたことで清朝そのものを疲弊弱体化に導いてしまった事については後世の歴史家たちか
ら批判されている。

他方で西太后が君臨する前から中国の疲弊弱体化は進んでおり、西太后が現れなかったらもっと早く中
国の分割・植民地化は進んでいた、という学説もある。 もっとも、現代中国においては清朝が存続するより、
早急に滅亡して中華民国が早く成立したほうがよかったとする意見もある。
9名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 01:15:23 ID:7ES2bvw30
誰か西太后のAA作れ
10名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 08:15:37 ID:DSZHpcgF0
>>2
IDが良い子
11名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 10:46:58 ID:1Spoy/JF0
wikiをコピペするやつって馬鹿なのか?
リンク貼りゃ終わりじゃん、コピペは邪魔だろ
12名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/09(金) 22:03:05 ID:ZX/IwltgO
安得海が慈安太后に死を賜ったのは慈禧太后のせい。
13名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/12(月) 15:15:32 ID:g1x2uZG30
3に出てくる中国三大悪女の中で一番下じゃ無いかと思ってる。
武則天は女性だっただけで普通に英雄だと思うし、
呂后は権力争いを宮廷外に持ち出さなかったので俺としては権力者として合格。
3人で比べるとどうしても・・・・・。
まあ、後の二人が優秀なだけだって話は普通に有るけど。
14名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/12(月) 15:27:19 ID:ZNNluy890
武則天は、政治家としては超一流だったからね。
中国史上の名君の一人に数えてもいいぐらい。
15名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/12(月) 20:44:38 ID:92ItkPO/0
能力そのものはあったと思うんだけど、
まあ、上の二人とは時代が違いすぎた
垂簾の奥から宦官通して命令していればいい時代ではなかったからなあ
16名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/13(火) 00:28:26 ID:XTW6ncRs0
映画「西太后」で吹き替えをアンパンマンがやってなかったけ?
17名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/13(火) 06:30:08 ID:3AyImGIa0
キシリア様がやってた気がするが
18名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/13(火) 21:47:48 ID:HKSYQOELO
>>16
劉暁慶主演・李翰祥監督の作品だよね?それであれば、アラレちゃんの小山まみさんだったようなキガス。
19名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/13(火) 21:53:14 ID:3AyImGIa0
キシリア・ザビのCVを確認してみな、坊や
20名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/13(火) 22:27:24 ID:uGPf9JaX0
んちゃ って挨拶する西大后・・・
21名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/13(火) 22:57:21 ID:XTW6ncRs0
16だけど、小山さんだったんだ。
「父殺しの男」とギレンを罵った女。
22名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/14(水) 04:59:09 ID:t8ray9Lc0
ライバルの四肢切断をやったのは呂后だけだよね。
則天武后と西太后はやってないよね?
3人ごちゃごちゃにされていて、彼女たち全員がやったようにされているような気がする。
23名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/14(水) 05:24:12 ID:GfPzGSj60
則天武后はライバルを合法的に始末(罪を着せて処刑)してはいる
西太后は東太后暗殺を疑われてはいるが定かではない、他の后とは問題ナシ
24名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/14(水) 10:05:27 ID:sz+p3Guk0
映画で四肢を切断されて甕に漬けられたことになっている后は、
史実では長生きしているらしいし
25名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/14(水) 22:25:12 ID:GfPzGSj60
麗妃は光緒16年に54歳で死去。
その墓所は妃の墓の中でももっとも大きく位置も最高位だそうだ。
26名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/15(木) 00:13:33 ID:lYM29DzS0
四肢を切断したのは呂后
ライバルを棒叩きの上、「骨まで酔わせておやり」と酒甕に漬けたのが則天武后

西太后の話は、この二人のエピソードを足して2で割ったみたいだね
27名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/15(木) 07:22:18 ID:MC4g6Spx0
呂后の四肢切断は史記にあったよね。
則天武后の残虐エピソードは史書にあるの?
西太后の話は完全に作り話っぽい。東太后暗殺疑惑もあくまで疑惑だし。
28名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/15(木) 08:58:22 ID:lYM29DzS0
>>27
いや、呂后の話も史記ではなかったように思う
そのあたりは、ぜんぜん知らないが、まあ、二人とも筆誅の可能性は
大きいよね
29名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/15(木) 11:09:49 ID:MC4g6Spx0
高校時代に漢文で呂后の四肢切断を読んだ記憶があるんだが。
確か史記だったような。
30名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/15(木) 12:25:03 ID:lYM29DzS0
ごめん、間違えた
史記や漢書に載っていないのは、虞姫の自決の話
31名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/15(木) 16:39:26 ID:G5jcntV40
則天武后のライバル、王皇后と淑妃が誣告を受け処刑されたのは
唐書あたりを見れば出てくるんでね?

則天武后は後から入った上に自分の息子のライバルも多かったんで
片っ端からそれらを始末しなくちゃならなかった。
呂后は戚夫人が積極的に呂后の息子を太子から引きずり下ろそうと
画策した報復として残虐行為に出た。(他の夫人に出来た男子は一応無事)
西太后は唯一の皇子の生母として、東太后に継ぐ地位にあったし
女児しか産まなかった麗妃よりも立場も待遇も上なんで地位を脅かされる心配もない。
息子の嫁はいびったけどね。
32名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/18(日) 14:15:19 ID:dqTtB7zeO
息子同治帝の皇后を死に追いやったのは慈禧太后のせいだろ?
33名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 21:30:30 ID:jGuY6DSk0
清朝の「ゴッド・母ちゃん」ハッ!
34名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 23:21:20 ID:PKThkMhj0
こういう悪女系はみんな悪事が誇張されるな。
35名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 23:57:10 ID:RWXNA9VJ0
男社会で来てた中国では、女性が権力を持つと憎まれるんでそうなるとか。
呂后と則天武后と西太后のエピが似通ってくるのはそれぞれの伝記を書くのが男で、
もうステロタイプで書いてしまうからだとか。

でもキリスト教の女=悪よりは儒教系の男尊女卑はまだマシなんだと。
36名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/07(土) 06:59:55 ID:5FKj3FjVO
西太后がやったのは珍妃を井戸に落として殺したんだよね。
紫禁城に珍妃の井戸があるけど、あんな小さい穴に本当に人間が入るのだろうか?
日本の井戸とは全然違うからね。
ボットン便所の穴よりもっともっと小さかった。
三人のどれにしても中国の女は嫉妬深い。
37名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/08(日) 12:18:51 ID:QkQtBcRi0
もっと平和な時代ならただのウゼー女で終わってたんだろうけど
西洋勢力が進出してくる時期に権力握ってたのが間が悪い
38名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/04(金) 00:07:14 ID:Ew5bbp8r0
武則天は空前絶後だと思うけど、
西太后程度に権力を握った皇太后は他に何人かいそうだしね。
39名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/19(土) 23:34:16 ID:67T0udbi0
>>35
魔女狩りは意味不明
40名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/20(日) 03:11:44 ID:IMB/AYN20
まあそういう虐げられた歴史があるから、近代になって男女平等が西洋から叫ばれてる訳だ
それをそのまま日本に適用する市民団体は激しくウザいが
41名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/27(日) 02:11:53 ID:/4yXNTQ30
まあ、呂后にしろ武則天にしろ西太后にしろ
三国時代の英雄に比べれば、ミジンコのように器の小さい人間ばかりで
こいつらがどんな事をしたとかどんな人物だったかだとかどうでもいい
うんこのようなクズ女どもだったということに変わりはない
42名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/27(日) 04:23:04 ID:+w2hqe0y0
三国時代の英雄プ
教科書もう一回読み直してから来い
43名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/10(日) 23:00:16 ID:7bq/3MCP0
 ただ、この人は美食家であることは結構有名です。
所謂現代に残された「宮廷料理」の大半は彼女の賞賛によって、
普及されてきたものだ。まあ、そのためにかなり浪費した。

44名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/13(金) 17:30:18 ID:JqTogvWw0
彼女の名誉の為に言っておく。
現共産党政権の中国で旧世界のシステムを、ましてや満州民族の国家を徹底的に悪にするのが常道である。
彼女の生家は確か汚職に巻き込まれた中堅官僚で責任を取らされて給料を国家に
賠償した経歴がある。
東太后の死に関しても当時彼女は病気を患っており東太后が薨去したときも
臣下たちはてっきり西太后が亡くなったと勘違いしたぐらいである。
珍妃の死に関しても宦官が勝手に暗殺したらしい。
 あとは彼女は美に関して大変興味をもっており薔薇のクリームを自ら監督して
作らせたり、当時化粧は身分に応じてしていたが皇帝の死後自分にあった化粧法を編み出した。
洗髪する習慣のないところに医者に命じて漢方に基づくシャンプーを作らせたり
歯磨き粉を調合させて使用していたという。
45名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/28(土) 11:04:56 ID:bR6URsnB0
>現共産党政権の中国で旧世界のシステムを、ましてや満州民族の国家を徹底的に悪にするのが常道である。
まあ、別に共産党でなくとも、次の政権は、自分の政権を正当化するために、
前政権を否定するのが常だよな

女であることと、前王朝であることで、不当な扱いを受けているのも事実だろうが・・・
といって、浅田次郎の「蒼穹の昴」までの力量の持ち主かと言えば、ちょっとねえ。
まあ、小説はフィクションだが。
46名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/28(土) 16:04:51 ID:IGFTrnEz0
昔、何かの本で母親と旅してる途中、宿屋で偶然(人違いで)母親が大金を手に入れ
太后になった後、その勘違いのせいで牢獄にぶち込まれていた郵便配達人を助け
お詫び代わりに宝石をちりばめた上靴を渡した・・・て話は真実なんだろうか?
47名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/28(土) 20:40:06 ID:3kHxKscs0
ああ、テレビで放送してたね、そんな話
48名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/31(火) 19:18:26 ID:qqusvKvE0
>>45
ありゃ中国好きがこうであったらいいなあという理想の西太后をかいたんじゃないか?
彼女がなりたかったのは権力者ではなく優雅な未亡人。康熙帝母親だったか忘れたけど
息子である皇帝が相当母親に散財したらしい。
酒が目に漬け込まれてた麗妃は19歳で死んだ娘より長生きしてるし。

49呂后:2007/07/31(火) 19:50:51 ID:VfgVbKvH0
>>1
生意気だよ、お前。
50名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/31(火) 21:54:43 ID:/uJpGLxS0
呂后様ににらまれたら終わりですな。
51名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/05(日) 20:06:51 ID:/SggSnmG0
西太后、朝鮮のミン妃ともに時代遅れってことさ。
同時代には理想的な政治形態は民主主義じゃないかしらとのたまわったハプスブルクのエリザベート皇后や、戦場に飛び込んでったナイチンゲール、
養蚕を自ら世話したり、包帯製作や教育に熱心だった昭憲皇太后陛下がそれなりに
活躍してたのに生態号は贅沢三昧、ミン妃は占い三昧に側室を拷問三昧じゃ
勝負はついてたってことさ。
52名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/05(日) 23:24:20 ID:94iQjZQh0
堀口大学の自伝で初めて閔妃のことを詳しく知ったが、これまたそうとう
なやり手ばばあって感じだなw。まあ政治手腕って点では列強の攻囲から
ただ逃げまとうだけの西太后より多少上ってとこかな。
53奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2007/08/05(日) 23:40:11 ID:bxravLvH0
扱っていた人数の桁が違うけどな。
54名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/05(日) 23:45:27 ID:lAemvN4v0
ナイチンゲールってどっかの皇后だったっけ?
金持ちの娘ではあったらしいが
55sage:2007/08/13(月) 19:06:20 ID:cc0ZAZTK0
アイヤーちっともすすんでねー!
皇后に限定して列挙したんじゃにゃいけどね
ナイチンはヴィクトリア女王の次ぐらいに知名度があって窓からハンカチをふれば崇拝者が駆けつけることを知って閣僚を脅したつーエピソードを岩波文庫だったか読んだことがあるぞ。
うーんあとミン妃にも面会したことあり日本にも来たことあるイザベラ・バートも挙げとくか。
56名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/14(火) 00:15:12 ID:UN9WECU30
あのね、お仕事で看護してる人とか旅行した人と
一国の皇太后とか一緒にしない方がいいですよ。
57名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/29(土) 17:18:36 ID:l9rGik0k0
遊び心のないやつめ。
58武則天:2007/09/29(土) 18:10:24 ID:38V3f94UO
>>49
生意気だよ、お前。
59名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/14(水) 12:19:01 ID:AT5omOe/O
西太后さまの使ってた薔薇のクリーム欲しい…。
60名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/16(金) 09:29:13 ID:bhZ03Z5H0
中国では美食とか美容系の商品に
慈喜○○みたいな名前がついてたりする。美食はともかく
残ってる写真見た限りではそれほどの美女とも思えないが、
アンチエイジングのイメージで売ってる名前なんだろうか。
61名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/16(金) 23:09:40 ID:G6YortpC0
豪華イメージが強いんじゃないか。
62名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/17(土) 10:47:55 ID:WbRTOXDq0
>>60
清朝は、明が皇后を「色」で選んだがため、だんだん皇帝がアホになりだしたことを
考慮し、皇后・側室は本人の品性や父親の能力で選ぶようにして、
その結果、清朝は名君ぞろいになったが、後宮がチト寂しくなったという話があるからなw
63名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/05(水) 18:32:56 ID:XoJ2hmAd0
最新科学で100年の謎を解明!清朝11代皇帝光緒帝の死因はヒ素による毒殺か?―香港誌

 2007年12月4日、清朝(1636年〜1912年)第11代光緒帝(1875年〜1908年)の謎に満ちた最期に関する
興味深い記事が、香港の総合雑誌「紫荊」に掲載された。中国のニュースサイト「中国新聞網」が伝えた。

 「病死か?」「毒殺か?」、光緒帝の死にまつわる謎は100年後の今日、最新の科学技術によって解明され
ようとしている。1938年に埋蔵品のすべてを盗掘者に奪われてしまった光緒帝の墓陵「崇陵」。80年代に国家
文物部門が再調査した際に、光緒帝の遺骨と遺髪を発見した。今回これらを化学分析したところ、遺髪の一部
に通常の1000倍から2000倍のヒ素が確認された。毛髪全体にではなく一部分にだけヒ素が存在していたこと
から、急激な摂取による中毒死の疑いが濃厚になった。今後は胃の付近の微細骨を検査し、再度ヒ素が確認
されれば中毒死と断定されることになる。

 歴史に名を残した西太后(1835年〜1908年)に疎まれ幽閉された光緒帝。彼が崩御した翌日に、西太后自
身も崩御。「崇陵伝信録」や「清稗類チャオ」には、臨終の床についた西太后が自分の死後に光緒帝が権力を
握ることを恐れたため、人を使って彼を殺したとの記述がある。また「後功口述歴史」のなかに、光緒帝は死の
直前に西太后から賜ったヨーグルトを食べたとの礼部尚書(長官)の証言が残っている。「清実録」の中には、
生前の光緒帝の健康状態について「慢性病があったが、死の直前まで元気だった」と記されている。
ttp://www.recordchina.co.jp/group/g13391.html
64名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/05(水) 19:22:54 ID:ZrF4eHYL0
西太后がいなかったら清朝は50年早く終わっていたと言われていたくらいだからね。
ただ、光緒帝を殺めたのは明らかに間違いだったな。
65名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/05(水) 21:23:53 ID:ID/3YlCq0
>>64
まあ、一日違いで死んだというのはどう見てもおかしいw
でも、そんなに光緒帝に権力を持たせたくなかったのかねえ
死後、批判されたり、后位を剥奪して庶人に落とされたりするのを
恐れたのかね?
66名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/06(木) 01:43:40 ID:v0p36RQq0
光緒帝を即位させたのは自分だから始末してからとおもったんじゃね
実際光緒帝って政治能力はどうだったんだろう
変法派の康有為あたりは異常に持ち上げてるけど。
67名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/06(木) 09:21:09 ID:RUiuLrI90
>>66
無能な皇帝を選んだのは自分だから、その責任を取ったということかねえ

歴史の参考書で光緒帝の写真を見たときは、びっくりしたよ
こんな憂いにみちた気品というものがあるのかとオモタ

肖像画で見るご先祖様のワイルドぶりとは偉い違いでw

ただ・・・当時は誰がやっても失敗したときだし、あの繊細さではいくら素質があっても
駄目だったような気がする。案外、連れて行ったのは光緒帝では、
これからの難局はのりきれまいと思った西太后なりの「慈悲」だったりしてねえ
68名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/07(金) 06:24:14 ID:kp6jYKmn0
西太后が手を出さなくても5年持たないで清は滅びたからね。
10歳にもならない溥儀ならともかく、立憲君主制やりたかった光緒帝を
袁世凱あたりが放っておいたかどうか。
表立って手を下さなくとも結局同じ運命を辿った気がするね。
69名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/11(火) 20:06:05 ID:gjziI5iX0
>>67
>無能な皇帝

ちょと待てぃ。光緒帝は無能ではないだろー
それなら同治帝と嘉慶帝の方が余程だよ
70名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/13(木) 06:42:18 ID:BU7Ts/4s0
嘉慶帝はともかく、同治帝は何かする時間も無かったんで単純に無能とはいえない。
光緒帝は実行力とか策もないのに理想を追うからある意味始末に終えないよ。
おまけに人を見る目もなかった。
7167:2007/12/13(木) 20:47:22 ID:cmmcta2K0
>>69
ごめん、この書き方だと誤解を招くなあ、とうpしてから思ったんだけど・・・
西太后の目から見て、の意味だよ
72名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/12(土) 12:08:51 ID:5Adpe+/a0
映画で甕に入れられて有名になった麗妃は実際は優遇されてたらしいね。
その娘も西太后に可愛がられて皇后の子にしか与えられない「固倫公主」の称号を貰ってる。
咸豊帝の死後の事なんで、垂簾聴政してた西太后が許可しない限りは許されないことなのに。
麗妃自身も同様に西太后の治下で順調に加封されてってるし、病弱だったわりに50代半ばまでの
長寿を保てたのはそれなりに手厚い保護があったからだと言われる。
73名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/26(土) 20:55:48 ID:Mk2SScv60
西太后がやった残酷拷問&刑罰一覧みれるサイトってないですか?
74名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/26(土) 21:23:27 ID:/EPQixth0
なんか西太后って別に嫌いじゃなかったけど、なにかの番組で美貌を維持
するため毎朝若い婦人の乳を吸っていたって聞いてさすがにひいた。
75sage:2008/01/26(土) 21:33:48 ID:8QiwahHA0
西太后は偉い
もし対日本用の艦隊を作って日本に勝ったとしてもあとで列強と戦ってあぼーん
それより頤和園を作って観光に寄与できたことは賞賛できる
76名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/29(火) 01:15:43 ID:OzMvMzzDO
>>71

時代に適した器じゃないが光緒帝は、西太后から見ても、
無能とは言えないじゃないか??

時代が時代なら、皇帝として君臨し続けても、おかしくないと思うが。
在位が最盛期にあたっただけで、実際は、本人の力量によるものじゃない
――そんな奴も、歴史の中には存在する。
77名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/19(水) 23:00:39 ID:eTeZRDmaO
映画、西太后の瓶に入ってた麗妃役の女優が美しかったなぁ〜。
なんて名前の女優なんだろ。
78名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/20(木) 01:46:12 ID:451eH3bI0
娘の大公主役の女の子も美少女だよ
お芝居見ながら思わずはしゃいじゃって、東太后に「メッ」って
怒られる所が可愛い。
79名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/26(土) 12:11:33 ID:w65S8cEi0
若い頃美形な人は、お婆ちゃんになっても「若い頃は美人だったんだろうな」と
思わせるものがあるけど、西太后の肖像を見ても、顔はむしろブサイ。
伝記には決まり文句のように、”絶世の美女”だの女官の徳齢いわく、
”群を抜く美貌の持ち主”と絶賛されまくり。
あれが満州人の基準では美女扱いだったのだろうか。

そういえば珍妃の写真もみたことあるけど、ずんぐりしてちょっと頭の鈍そうな印象の顔立ち
決して美人とは言い難い。

溥儀の皇后婉容は端正な顔立ちだったね。
80名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/27(日) 00:43:25 ID:h/xLmIpYO
むしろ、慈安太后の実際の容姿が知りたい。
81名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/27(日) 15:27:35 ID:bCZhs3q2O
東太后はそれこそ絵しか残ってないからねー、清史稿にも容姿に関しては大した事書いてなかったよーな。
性格が温和というのは稗史の類でも共通して言われてるけど。
82名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/27(日) 20:42:22 ID:Qc+Eyshf0
歴代皇后の肖像は結構リアルな感じなものもあるけど、
慈安大后のはアバウトなのしか残ってなかったね。
亡くなったのは1881年だったから、写真が残っててもいいと思うが
あんまり表に出てこない人だったのかね。
83名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/17(土) 13:43:06 ID:IpVlxQP9O
昔の后妃は人前に姿を見せない、見させない風習があったから慈安は抵抗あったんじゃないのかな
84名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/17(土) 20:36:08 ID:e+zN+3ew0
映画の慈安太后は子供達を目で叱る場面が印象的だった。
ちょっとお行儀悪くしちゃった公主とか、重臣を前に怯える同治帝に
言葉じゃなく目で「ちゃんとしなさい」って伝える場面。
自分で生んだ子じゃないけど、子供達の心をしっかりつかんでたんだなと思う。
西太后だったら言葉で怒鳴りつけるんだろうな。
85名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/19(月) 21:15:30 ID:VnBSuCOjO
その前に、その女優のチェン・イエが美しい。リュウ・シャオチンよりね。
86名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/28(月) 10:42:01 ID:nMyXiFQeO
>>67
> 歴史の参考書で光緒帝の写真を見たときは、びっくりしたよ > こんな憂いにみちた気品というものがあるのかとオモタ

光緒すごいイケメンだよね
女性とみまごうくらいの美顔で役者並みのクオリティだった。
慈禧の妹婿に似たのかな

珍妃も綺麗だけどお姉ちゃんブスすぎない?同親なのに
輪郭とか肉感は似てるけどさあ・・
87名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/27(水) 12:57:37 ID:bImSOrvs0
>>86さんへ。
残念ながら…、珍妃のあの写真は加工しているから美人かどうか不明っス
88名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/28(木) 15:22:59 ID:Z5z5slOj0
光緒帝は根回しとかそう言う高度な政治手法にはまるで才能がないからねぇ・・・。
しかも周りにいるのは口の軽い小人ばっかだし。

伊藤博文が会見した翌日に監禁されてるんだから余計注意不足としか言いようがない。
8986:2008/10/10(金) 05:57:54 ID:MN1fUDV0O
>>87
加工ってどゆ事?
90名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/10(金) 22:41:50 ID:c5kAwk+ZO
写真に画像修正が加わってるって事。
当時でもそれ位の技術は確立されてたんよ。
中華じゃないが、あの夏目漱石は自分の顔の天然痘のアバタが気に入らなかったので、全ての肖像に画像修正を加えアバタを消した。
だから現在目にする漱石の写真は修正済みのものばかり。
漱石の子孫の下には無修正のが存在するとかしないとか。
91名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/11(土) 04:19:02 ID:AZVvvW/eO
ふ〜〜ん。そなんだ。
でも瑾妃と隆裕皇后はガチでブスだよね。正に豚と駱駝
でも古代から身分の高い人の容姿は醜いケースが多いみたいだしね。
綺麗なのは徳齢だよね。

慈禧たちの写真に珍妃が一緒に映っているのないよね。
もう冷宮に幽閉されていたんだっけ?
本当に可哀相。。。
92名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/13(月) 19:08:10 ID:z9vzg+KwO
日テレでこれから特集やるね。
93名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/13(月) 21:27:32 ID:Fwf93Fl90
マンセー使用だな>日テレ特集
94名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/13(月) 21:56:55 ID:yf6yTk/oO
見逃した・・もう楊貴妃やってる
古い方から順番にやれよ・・

どんな内容だった?どんな映像でた?
95名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/13(月) 22:50:31 ID:6BT//Lav0
>>94
西大后かわいそうかわいそう
96名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/13(月) 23:12:17 ID:XRmKuJ7oO
いやぁ、東陵事件後の西太后の遺骸写真は中々出ないから貴重だったけど
西太后の弁護に徳齢は無ぇだろ。
ありゃ兄貴が汚職をやらかした煽りで宮中を追放され、自身にも後ろめたい事があったんで
かなり西太后マンセーにして仕えた自分も立派ですた
と誤魔化しの文で儲けた香具師さ。
なにせアメリカへ移住出来たのも、宮中にいた時溜め込んだ財産だったというし。
マトモな研究者はネタにすらしないよ…
97名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/14(火) 03:07:57 ID:d3IhqqM/O
ツーシータイホウ
ツアンタイホウ
リーフェイ
ドンジーティエ
クワンシュイティエ
チェンフェイ
アンドハイ
ルンユイホワンホウ
プーイー
98名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/14(火) 14:00:33 ID:Fb1ut3sZ0
>>95-96
もっと詳しく、
西太后のおおらかだったというエピはどんな?
99名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/14(火) 18:01:59 ID:W+LVXdEWO
>>98
うちに来たら、録画したから見せてやれるのになあ
100名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/14(火) 19:34:15 ID:WPbH1B8v0
>>96
西太后もだけど楊貴妃もひどかったよ
玄宗の息子の嫁だったことはスルーだもの