1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
清朝は私のものよ!
2
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%A4%AA%E5%90%8E 西太后(道光15年10月10日(1835年11月29日) - 光緒34年10月22日(1908年11月15日))は清は
咸豊帝の妃で、同治帝の母。清末期の権力者。満州 旗人(鑲藍旗人)の葉赫那拉(エホナラ)氏の出
身。慈禧太后(じきたいこう)のこと。老仏爺。
中国語では「慈禧太后(Cixi Taihou ツーシー・タイホウ)」ないし「西太后(Xi Taihou シータイホウ)」。
英語では「Empress Dowager(寡婦女帝)」という呼称がよく使われる。個人名は杏貞。
紫禁城内における二人の皇太后の住む場所によって東太后(皇后・鈕祜禄(ニウフル)氏。慈安皇太后、
母后皇太后)、西太后(第二夫人。慈禧皇太后、聖母皇太后)と区別して呼ばれた。徽号と合わせた諡
号は孝欽慈禧端佑康頤昭豫荘誠寿恭欽献崇煕配天興聖顕皇后。なお「せいたいごう」という読み癖は
正式の読みではない。
「中国の三大悪女」として漢代の呂后、唐代の武則天とともに名前が挙げられる。
生涯
西太后の出生地は不明で、安徽省蕪湖説、内モンゴルのフフホト説、山西省長治説など諸説があるが、
近年の学界では北京出生説が有力とされる。 西太后の父親だった恵徴は、清朝の中堅官僚で、最終官
職は安徽寧池太広道の「道員」だった。恵徴は1853年、安徽省の赴任先で太平天国の乱に巻き込まれ、
その心労により同年六月三日(7月8日)に鎮江で病死した。
1852年、数え十七歳のとき、三年ごとに紫禁城でおこなわれる后妃選定面接試験「選秀女」を受けて合
格。翌年の五月九日(6月26日)、十八歳で咸豊帝の後宮に入って「蘭貴人」となり、序列第三位の妃とな
る。ちなみに皇后は、咸豊帝の皇子時代から仕えていた鈕祜禄氏(のちの東太后)であった。
西太后については、民間に多くの逸話が伝えられている。たとえば「西太后は、下級官吏の貧しい家に
生まれ育った」、「最初、円明園の宮女となったが、たまたま通りかかった咸豊帝に声と容姿が美しいこと
からみそめられ妃に昇格した」、 「いわゆる『葉赫那拉(エホナラ)の呪い』の伝説のせいで皇后になれな
かった」などが有名である。しかし現在では上に挙げたどれもが根拠のない流説であると判明している。
1856年、西太后は咸豊帝の長男(愛新覚羅載淳。咸豊帝の唯一の男子)を生み、その功績により、皇后
に次ぐ二番目の地位である貴妃に昇進。次第に帝を取り込み様々な策略を企て発言力を強めた。
その後咸豊帝が崩御した1861年、西太后は咸豊帝との間に生まれた皇太子載淳を同治帝として即位さ
せ、自らも東太后と共に垂簾聴政の名の下、咸豊帝の弟である恭親王奕訢(エキキン)を取り込み、事実
上の摂政として政治に介入した。一方咸豊帝の遺命を受け政治の中枢を掌握していた「顧命大臣」載垣
や端華・粛順たち8名は垂簾聴政に真っ向から反発し、激しい権力争いの末に載垣や端華・粛順を処刑
(辛酉政変:1861年)し、権力を手中にした。またこの時、梳頭太監だった宦官李蓮英をとりたてて重用し
た。
1874年同治帝の大婚を機に親政を行おうとしたが、天然痘のため若くして崩御。一説によると真の死因
は梅毒で、西太后が皇帝と皇后(嘉順皇后)を離間させたため、同治帝は天橋の売春宿へ通うようになり、
そこで感染したという。天然痘か梅毒か、学者のあいだでも意見は分かれている。 同治帝は子供を作らず
に死去したため、後継問題が持ち上がった。通常、皇位継承は同世代間では行わないことになっている。
この場合名前に「載」の字がある世代は、皇帝候補者とはなり得ない。しかし自身の権力低下を恐れた西
太后は、その通例を破り他の皇帝候補者よりも血縁の近い、妹の息子である載湉(さいてん)を光緒帝とし
て即位させた。そして再度東太后と共に垂簾聴政を行い、権力の中枢に居続けた。
西太后さらに1881年東太后が崩御。これによって西太后は清朝において誰に遠慮することもない地位を
確立した。このため西太后によって東太后は毒殺されたという風聞が広まった。1887年光緒帝の成年に
伴い、自らは隠退を要望するが、混乱を恐れた重臣たちの意を受け3年間の「訓政」という形で政治のフォ
ローを行う事を条件に、光緒帝の親政が始まる。 1888年には自身の姪を光緒帝の皇后(のちの隆裕皇
太后)に推挙。
同治帝の即位以降、西太后は宮廷内政治に手腕を発揮する一方、表の政治においては李鴻章らと結
び、彼らの推進する洋務運動を支持した。洋務運動がある程度の成果を上げて清朝の威信が回復した期
間を同治中興と呼ぶが、この運動の成功は、西太后と李鴻章ら洋務派官僚が結びついたことによる政治
的安定が大きく寄与した。しかし洋務運動は1895年の日清戦争により挫折する。清朝の敗北は北洋海軍
の整備が遅れていたことが大きな要因であるが、整備用の海軍予算を西太后が私的に流用していたとい
われる。
日清戦争の敗北は、西太后に一時的な権力からの後退を余儀なくさせた。彼女が結託していた李鴻章
の威信低下や海軍予算の流用により、帝党と呼ばれる光緒帝支持派が勢いを増したためである。帝党は、
明治維新にならって政治制度も変革すべきと主張した変法派の康有為・梁啓超を取り込み、1898年に真
の光緒帝親政を開始した。これを戊戌の変法(別名戊戌維新、変法自強運動、百日維新)という。西太后
は当初は改革の推移を見守っていたが、戊戌の変法は立憲君主制を目指すものであったから、自らの政
治権力低下を恐れ、これにクーデターを仕掛けることを決意した。改革に好意的と見られていた袁世凱が一
部で進めていた西太后暗殺計画を密告した事により光緒帝を逮捕の上、中南海の瀛台(エイダイ)に幽閉
し、三度目の垂簾聴政を開始した(戊戌政変)。わずか三ヶ月あまりで西太后は権力の座に返り咲いたこと
になる。さらに将来光緒帝を廃位すべく、端郡王載漪(サイイ)の子溥儁(フシュン)を大阿哥(清朝では立
太子の制度を廃止した為、普通は皇長子もしくは皇嗣子を指す)に擁立した(己亥の建儲)。ただ光緒帝の
廃位は諸外国の反対により実行できず、西太后の意のままにはならなかった。清朝内部においては並ぶ
ものなき権力者でありながらも、西欧列強には譲らねばならないことが多く、彼女はフラストレーションを蓄
積させていった。この点が後の義和団支持へとつながっていくことになる。
1900年義和団の乱が発生。義和団は「扶清滅洋」をスローガンとし、国内にいる外国人を次々と襲った。
このため、清朝内にはこれに支持を与え、この機会に一気に諸外国の干渉を排除しようとする動きがあっ
た。その中心人物の一人が西太后である。しかしこれは西欧列強の実力を過小評価したものであり、すぐ
さま日本を中心とした八ヶ国軍が派兵される事態を招いた。その結果、首都北京が陥落、西太后自らは側
近を伴い西安へ逃走を余儀なくされた。この際、光緒帝の側室珍妃を紫禁城内の井戸へ投げ捨てる事を
命じたといわれる。
義和団の乱終結以後、遅まきながら西欧風の政治改革の必要性を認識した西太后は、かつて自らが失
敗させた戊戌変法を手本に所謂「光緒新政」を開始した。しかしその新政も、辛亥革命への流れを堰き止め
ることはできず、遅きに失した観は否めない。
1908年光緒帝が崩御した翌日、「ラストエンペラー」溥儀を宣統帝として擁立し、西太后も74歳で崩御し
た。光緒帝と西太后の亡くなった日が近いことから、自らの死期の近いことを悟った西太后が帝を手にか
けた、という流説が飛び交った。
後世の評価
権力欲と人を巧みに操る感覚は並外れたものを持っていたが、それ以前に皇太后という身分では外界の
情報が届きにくく、かつ、国体(王朝)の保持を第一義としてしまったために、人民を顧みない政治を行い続け
たことは当時の中国人にとって不幸以外の何物でもなかった。また諸外国との戦争処理の際に安易な妥
協や講和をし続けたことで清朝そのものを疲弊弱体化に導いてしまった事については後世の歴史家たちか
ら批判されている。
他方で西太后が君臨する前から中国の疲弊弱体化は進んでおり、西太后が現れなかったらもっと早く中
国の分割・植民地化は進んでいた、という学説もある。 もっとも、現代中国においては清朝が存続するより、
早急に滅亡して中華民国が早く成立したほうがよかったとする意見もある。
9 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 01:15:23 ID:7ES2bvw30
誰か西太后のAA作れ
wikiをコピペするやつって馬鹿なのか?
リンク貼りゃ終わりじゃん、コピペは邪魔だろ
安得海が慈安太后に死を賜ったのは慈禧太后のせい。
3に出てくる中国三大悪女の中で一番下じゃ無いかと思ってる。
武則天は女性だっただけで普通に英雄だと思うし、
呂后は権力争いを宮廷外に持ち出さなかったので俺としては権力者として合格。
3人で比べるとどうしても・・・・・。
まあ、後の二人が優秀なだけだって話は普通に有るけど。
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/12(月) 15:27:19 ID:ZNNluy890
武則天は、政治家としては超一流だったからね。
中国史上の名君の一人に数えてもいいぐらい。
能力そのものはあったと思うんだけど、
まあ、上の二人とは時代が違いすぎた
垂簾の奥から宦官通して命令していればいい時代ではなかったからなあ
16 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/13(火) 00:28:26 ID:XTW6ncRs0
映画「西太后」で吹き替えをアンパンマンがやってなかったけ?
キシリア様がやってた気がするが
>>16 劉暁慶主演・李翰祥監督の作品だよね?それであれば、アラレちゃんの小山まみさんだったようなキガス。
19 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/13(火) 21:53:14 ID:3AyImGIa0
キシリア・ザビのCVを確認してみな、坊や
んちゃ って挨拶する西大后・・・
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/13(火) 22:57:21 ID:XTW6ncRs0
16だけど、小山さんだったんだ。
「父殺しの男」とギレンを罵った女。
22 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/14(水) 04:59:09 ID:t8ray9Lc0
ライバルの四肢切断をやったのは呂后だけだよね。
則天武后と西太后はやってないよね?
3人ごちゃごちゃにされていて、彼女たち全員がやったようにされているような気がする。
23 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/14(水) 05:24:12 ID:GfPzGSj60
則天武后はライバルを合法的に始末(罪を着せて処刑)してはいる
西太后は東太后暗殺を疑われてはいるが定かではない、他の后とは問題ナシ
映画で四肢を切断されて甕に漬けられたことになっている后は、
史実では長生きしているらしいし
25 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/14(水) 22:25:12 ID:GfPzGSj60
麗妃は光緒16年に54歳で死去。
その墓所は妃の墓の中でももっとも大きく位置も最高位だそうだ。
四肢を切断したのは呂后
ライバルを棒叩きの上、「骨まで酔わせておやり」と酒甕に漬けたのが則天武后
西太后の話は、この二人のエピソードを足して2で割ったみたいだね
27 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/15(木) 07:22:18 ID:MC4g6Spx0
呂后の四肢切断は史記にあったよね。
則天武后の残虐エピソードは史書にあるの?
西太后の話は完全に作り話っぽい。東太后暗殺疑惑もあくまで疑惑だし。
>>27 いや、呂后の話も史記ではなかったように思う
そのあたりは、ぜんぜん知らないが、まあ、二人とも筆誅の可能性は
大きいよね
29 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/15(木) 11:09:49 ID:MC4g6Spx0
高校時代に漢文で呂后の四肢切断を読んだ記憶があるんだが。
確か史記だったような。
ごめん、間違えた
史記や漢書に載っていないのは、虞姫の自決の話
31 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/15(木) 16:39:26 ID:G5jcntV40
則天武后のライバル、王皇后と淑妃が誣告を受け処刑されたのは
唐書あたりを見れば出てくるんでね?
則天武后は後から入った上に自分の息子のライバルも多かったんで
片っ端からそれらを始末しなくちゃならなかった。
呂后は戚夫人が積極的に呂后の息子を太子から引きずり下ろそうと
画策した報復として残虐行為に出た。(他の夫人に出来た男子は一応無事)
西太后は唯一の皇子の生母として、東太后に継ぐ地位にあったし
女児しか産まなかった麗妃よりも立場も待遇も上なんで地位を脅かされる心配もない。
息子の嫁はいびったけどね。
息子同治帝の皇后を死に追いやったのは慈禧太后のせいだろ?
33 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 21:30:30 ID:jGuY6DSk0
清朝の「ゴッド・母ちゃん」ハッ!
こういう悪女系はみんな悪事が誇張されるな。
男社会で来てた中国では、女性が権力を持つと憎まれるんでそうなるとか。
呂后と則天武后と西太后のエピが似通ってくるのはそれぞれの伝記を書くのが男で、
もうステロタイプで書いてしまうからだとか。
でもキリスト教の女=悪よりは儒教系の男尊女卑はまだマシなんだと。
36 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/07(土) 06:59:55 ID:5FKj3FjVO
西太后がやったのは珍妃を井戸に落として殺したんだよね。
紫禁城に珍妃の井戸があるけど、あんな小さい穴に本当に人間が入るのだろうか?
日本の井戸とは全然違うからね。
ボットン便所の穴よりもっともっと小さかった。
三人のどれにしても中国の女は嫉妬深い。
もっと平和な時代ならただのウゼー女で終わってたんだろうけど
西洋勢力が進出してくる時期に権力握ってたのが間が悪い
38 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/04(金) 00:07:14 ID:Ew5bbp8r0
武則天は空前絶後だと思うけど、
西太后程度に権力を握った皇太后は他に何人かいそうだしね。
39 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/19(土) 23:34:16 ID:67T0udbi0
まあそういう虐げられた歴史があるから、近代になって男女平等が西洋から叫ばれてる訳だ
それをそのまま日本に適用する市民団体は激しくウザいが
41 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/27(日) 02:11:53 ID:/4yXNTQ30
まあ、呂后にしろ武則天にしろ西太后にしろ
三国時代の英雄に比べれば、ミジンコのように器の小さい人間ばかりで
こいつらがどんな事をしたとかどんな人物だったかだとかどうでもいい
うんこのようなクズ女どもだったということに変わりはない
三国時代の英雄プ
教科書もう一回読み直してから来い
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/10(日) 23:00:16 ID:7bq/3MCP0
ただ、この人は美食家であることは結構有名です。
所謂現代に残された「宮廷料理」の大半は彼女の賞賛によって、
普及されてきたものだ。まあ、そのためにかなり浪費した。
彼女の名誉の為に言っておく。
現共産党政権の中国で旧世界のシステムを、ましてや満州民族の国家を徹底的に悪にするのが常道である。
彼女の生家は確か汚職に巻き込まれた中堅官僚で責任を取らされて給料を国家に
賠償した経歴がある。
東太后の死に関しても当時彼女は病気を患っており東太后が薨去したときも
臣下たちはてっきり西太后が亡くなったと勘違いしたぐらいである。
珍妃の死に関しても宦官が勝手に暗殺したらしい。
あとは彼女は美に関して大変興味をもっており薔薇のクリームを自ら監督して
作らせたり、当時化粧は身分に応じてしていたが皇帝の死後自分にあった化粧法を編み出した。
洗髪する習慣のないところに医者に命じて漢方に基づくシャンプーを作らせたり
歯磨き粉を調合させて使用していたという。
>現共産党政権の中国で旧世界のシステムを、ましてや満州民族の国家を徹底的に悪にするのが常道である。
まあ、別に共産党でなくとも、次の政権は、自分の政権を正当化するために、
前政権を否定するのが常だよな
女であることと、前王朝であることで、不当な扱いを受けているのも事実だろうが・・・
といって、浅田次郎の「蒼穹の昴」までの力量の持ち主かと言えば、ちょっとねえ。
まあ、小説はフィクションだが。
昔、何かの本で母親と旅してる途中、宿屋で偶然(人違いで)母親が大金を手に入れ
太后になった後、その勘違いのせいで牢獄にぶち込まれていた郵便配達人を助け
お詫び代わりに宝石をちりばめた上靴を渡した・・・て話は真実なんだろうか?
47 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/28(土) 20:40:06 ID:3kHxKscs0
ああ、テレビで放送してたね、そんな話
48 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/31(火) 19:18:26 ID:qqusvKvE0
>>45 ありゃ中国好きがこうであったらいいなあという理想の西太后をかいたんじゃないか?
彼女がなりたかったのは権力者ではなく優雅な未亡人。康熙帝母親だったか忘れたけど
息子である皇帝が相当母親に散財したらしい。
酒が目に漬け込まれてた麗妃は19歳で死んだ娘より長生きしてるし。
49 :
呂后:2007/07/31(火) 19:50:51 ID:VfgVbKvH0
呂后様ににらまれたら終わりですな。
51 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/05(日) 20:06:51 ID:/SggSnmG0
西太后、朝鮮のミン妃ともに時代遅れってことさ。
同時代には理想的な政治形態は民主主義じゃないかしらとのたまわったハプスブルクのエリザベート皇后や、戦場に飛び込んでったナイチンゲール、
養蚕を自ら世話したり、包帯製作や教育に熱心だった昭憲皇太后陛下がそれなりに
活躍してたのに生態号は贅沢三昧、ミン妃は占い三昧に側室を拷問三昧じゃ
勝負はついてたってことさ。
52 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/05(日) 23:24:20 ID:94iQjZQh0
堀口大学の自伝で初めて閔妃のことを詳しく知ったが、これまたそうとう
なやり手ばばあって感じだなw。まあ政治手腕って点では列強の攻囲から
ただ逃げまとうだけの西太后より多少上ってとこかな。
扱っていた人数の桁が違うけどな。
ナイチンゲールってどっかの皇后だったっけ?
金持ちの娘ではあったらしいが
55 :
sage:2007/08/13(月) 19:06:20 ID:cc0ZAZTK0
アイヤーちっともすすんでねー!
皇后に限定して列挙したんじゃにゃいけどね
ナイチンはヴィクトリア女王の次ぐらいに知名度があって窓からハンカチをふれば崇拝者が駆けつけることを知って閣僚を脅したつーエピソードを岩波文庫だったか読んだことがあるぞ。
うーんあとミン妃にも面会したことあり日本にも来たことあるイザベラ・バートも挙げとくか。
あのね、お仕事で看護してる人とか旅行した人と
一国の皇太后とか一緒にしない方がいいですよ。
57 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/29(土) 17:18:36 ID:l9rGik0k0
遊び心のないやつめ。
58 :
武則天:2007/09/29(土) 18:10:24 ID:38V3f94UO
西太后さまの使ってた薔薇のクリーム欲しい…。
60 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/16(金) 09:29:13 ID:bhZ03Z5H0
中国では美食とか美容系の商品に
慈喜○○みたいな名前がついてたりする。美食はともかく
残ってる写真見た限りではそれほどの美女とも思えないが、
アンチエイジングのイメージで売ってる名前なんだろうか。
豪華イメージが強いんじゃないか。
>>60 清朝は、明が皇后を「色」で選んだがため、だんだん皇帝がアホになりだしたことを
考慮し、皇后・側室は本人の品性や父親の能力で選ぶようにして、
その結果、清朝は名君ぞろいになったが、後宮がチト寂しくなったという話があるからなw
63 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/05(水) 18:32:56 ID:XoJ2hmAd0
最新科学で100年の謎を解明!清朝11代皇帝光緒帝の死因はヒ素による毒殺か?―香港誌
2007年12月4日、清朝(1636年〜1912年)第11代光緒帝(1875年〜1908年)の謎に満ちた最期に関する
興味深い記事が、香港の総合雑誌「紫荊」に掲載された。中国のニュースサイト「中国新聞網」が伝えた。
「病死か?」「毒殺か?」、光緒帝の死にまつわる謎は100年後の今日、最新の科学技術によって解明され
ようとしている。1938年に埋蔵品のすべてを盗掘者に奪われてしまった光緒帝の墓陵「崇陵」。80年代に国家
文物部門が再調査した際に、光緒帝の遺骨と遺髪を発見した。今回これらを化学分析したところ、遺髪の一部
に通常の1000倍から2000倍のヒ素が確認された。毛髪全体にではなく一部分にだけヒ素が存在していたこと
から、急激な摂取による中毒死の疑いが濃厚になった。今後は胃の付近の微細骨を検査し、再度ヒ素が確認
されれば中毒死と断定されることになる。
歴史に名を残した西太后(1835年〜1908年)に疎まれ幽閉された光緒帝。彼が崩御した翌日に、西太后自
身も崩御。「崇陵伝信録」や「清稗類チャオ」には、臨終の床についた西太后が自分の死後に光緒帝が権力を
握ることを恐れたため、人を使って彼を殺したとの記述がある。また「後功口述歴史」のなかに、光緒帝は死の
直前に西太后から賜ったヨーグルトを食べたとの礼部尚書(長官)の証言が残っている。「清実録」の中には、
生前の光緒帝の健康状態について「慢性病があったが、死の直前まで元気だった」と記されている。
ttp://www.recordchina.co.jp/group/g13391.html
西太后がいなかったら清朝は50年早く終わっていたと言われていたくらいだからね。
ただ、光緒帝を殺めたのは明らかに間違いだったな。
>>64 まあ、一日違いで死んだというのはどう見てもおかしいw
でも、そんなに光緒帝に権力を持たせたくなかったのかねえ
死後、批判されたり、后位を剥奪して庶人に落とされたりするのを
恐れたのかね?
光緒帝を即位させたのは自分だから始末してからとおもったんじゃね
実際光緒帝って政治能力はどうだったんだろう
変法派の康有為あたりは異常に持ち上げてるけど。
>>66 無能な皇帝を選んだのは自分だから、その責任を取ったということかねえ
歴史の参考書で光緒帝の写真を見たときは、びっくりしたよ
こんな憂いにみちた気品というものがあるのかとオモタ
肖像画で見るご先祖様のワイルドぶりとは偉い違いでw
ただ・・・当時は誰がやっても失敗したときだし、あの繊細さではいくら素質があっても
駄目だったような気がする。案外、連れて行ったのは光緒帝では、
これからの難局はのりきれまいと思った西太后なりの「慈悲」だったりしてねえ
西太后が手を出さなくても5年持たないで清は滅びたからね。
10歳にもならない溥儀ならともかく、立憲君主制やりたかった光緒帝を
袁世凱あたりが放っておいたかどうか。
表立って手を下さなくとも結局同じ運命を辿った気がするね。
>>67 >無能な皇帝
ちょと待てぃ。光緒帝は無能ではないだろー
それなら同治帝と嘉慶帝の方が余程だよ
嘉慶帝はともかく、同治帝は何かする時間も無かったんで単純に無能とはいえない。
光緒帝は実行力とか策もないのに理想を追うからある意味始末に終えないよ。
おまけに人を見る目もなかった。
71 :
67:2007/12/13(木) 20:47:22 ID:cmmcta2K0
>>69 ごめん、この書き方だと誤解を招くなあ、とうpしてから思ったんだけど・・・
西太后の目から見て、の意味だよ
映画で甕に入れられて有名になった麗妃は実際は優遇されてたらしいね。
その娘も西太后に可愛がられて皇后の子にしか与えられない「固倫公主」の称号を貰ってる。
咸豊帝の死後の事なんで、垂簾聴政してた西太后が許可しない限りは許されないことなのに。
麗妃自身も同様に西太后の治下で順調に加封されてってるし、病弱だったわりに50代半ばまでの
長寿を保てたのはそれなりに手厚い保護があったからだと言われる。
73 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/26(土) 20:55:48 ID:Mk2SScv60
西太后がやった残酷拷問&刑罰一覧みれるサイトってないですか?
74 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/26(土) 21:23:27 ID:/EPQixth0
なんか西太后って別に嫌いじゃなかったけど、なにかの番組で美貌を維持
するため毎朝若い婦人の乳を吸っていたって聞いてさすがにひいた。
75 :
sage:2008/01/26(土) 21:33:48 ID:8QiwahHA0
西太后は偉い
もし対日本用の艦隊を作って日本に勝ったとしてもあとで列強と戦ってあぼーん
それより頤和園を作って観光に寄与できたことは賞賛できる
76 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/29(火) 01:15:43 ID:OzMvMzzDO
>>71 時代に適した器じゃないが光緒帝は、西太后から見ても、
無能とは言えないじゃないか??
時代が時代なら、皇帝として君臨し続けても、おかしくないと思うが。
在位が最盛期にあたっただけで、実際は、本人の力量によるものじゃない
――そんな奴も、歴史の中には存在する。
77 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/19(水) 23:00:39 ID:eTeZRDmaO
映画、西太后の瓶に入ってた麗妃役の女優が美しかったなぁ〜。
なんて名前の女優なんだろ。
娘の大公主役の女の子も美少女だよ
お芝居見ながら思わずはしゃいじゃって、東太后に「メッ」って
怒られる所が可愛い。
若い頃美形な人は、お婆ちゃんになっても「若い頃は美人だったんだろうな」と
思わせるものがあるけど、西太后の肖像を見ても、顔はむしろブサイ。
伝記には決まり文句のように、”絶世の美女”だの女官の徳齢いわく、
”群を抜く美貌の持ち主”と絶賛されまくり。
あれが満州人の基準では美女扱いだったのだろうか。
そういえば珍妃の写真もみたことあるけど、ずんぐりしてちょっと頭の鈍そうな印象の顔立ち
決して美人とは言い難い。
溥儀の皇后婉容は端正な顔立ちだったね。
80 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/27(日) 00:43:25 ID:h/xLmIpYO
むしろ、慈安太后の実際の容姿が知りたい。
81 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/27(日) 15:27:35 ID:bCZhs3q2O
東太后はそれこそ絵しか残ってないからねー、清史稿にも容姿に関しては大した事書いてなかったよーな。
性格が温和というのは稗史の類でも共通して言われてるけど。
82 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/27(日) 20:42:22 ID:Qc+Eyshf0
歴代皇后の肖像は結構リアルな感じなものもあるけど、
慈安大后のはアバウトなのしか残ってなかったね。
亡くなったのは1881年だったから、写真が残っててもいいと思うが
あんまり表に出てこない人だったのかね。
83 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/17(土) 13:43:06 ID:IpVlxQP9O
昔の后妃は人前に姿を見せない、見させない風習があったから慈安は抵抗あったんじゃないのかな
映画の慈安太后は子供達を目で叱る場面が印象的だった。
ちょっとお行儀悪くしちゃった公主とか、重臣を前に怯える同治帝に
言葉じゃなく目で「ちゃんとしなさい」って伝える場面。
自分で生んだ子じゃないけど、子供達の心をしっかりつかんでたんだなと思う。
西太后だったら言葉で怒鳴りつけるんだろうな。
その前に、その女優のチェン・イエが美しい。リュウ・シャオチンよりね。
86 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/28(月) 10:42:01 ID:nMyXiFQeO
>>67 > 歴史の参考書で光緒帝の写真を見たときは、びっくりしたよ > こんな憂いにみちた気品というものがあるのかとオモタ
光緒すごいイケメンだよね
女性とみまごうくらいの美顔で役者並みのクオリティだった。
慈禧の妹婿に似たのかな
珍妃も綺麗だけどお姉ちゃんブスすぎない?同親なのに
輪郭とか肉感は似てるけどさあ・・
87 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/27(水) 12:57:37 ID:bImSOrvs0
>>86さんへ。
残念ながら…、珍妃のあの写真は加工しているから美人かどうか不明っス
光緒帝は根回しとかそう言う高度な政治手法にはまるで才能がないからねぇ・・・。
しかも周りにいるのは口の軽い小人ばっかだし。
伊藤博文が会見した翌日に監禁されてるんだから余計注意不足としか言いようがない。
89 :
86:2008/10/10(金) 05:57:54 ID:MN1fUDV0O
90 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/10(金) 22:41:50 ID:c5kAwk+ZO
写真に画像修正が加わってるって事。
当時でもそれ位の技術は確立されてたんよ。
中華じゃないが、あの夏目漱石は自分の顔の天然痘のアバタが気に入らなかったので、全ての肖像に画像修正を加えアバタを消した。
だから現在目にする漱石の写真は修正済みのものばかり。
漱石の子孫の下には無修正のが存在するとかしないとか。
91 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/11(土) 04:19:02 ID:AZVvvW/eO
ふ〜〜ん。そなんだ。
でも瑾妃と隆裕皇后はガチでブスだよね。正に豚と駱駝
でも古代から身分の高い人の容姿は醜いケースが多いみたいだしね。
綺麗なのは徳齢だよね。
慈禧たちの写真に珍妃が一緒に映っているのないよね。
もう冷宮に幽閉されていたんだっけ?
本当に可哀相。。。
92 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/13(月) 19:08:10 ID:z9vzg+KwO
日テレでこれから特集やるね。
マンセー使用だな>日テレ特集
94 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/13(月) 21:56:55 ID:yf6yTk/oO
見逃した・・もう楊貴妃やってる
古い方から順番にやれよ・・
どんな内容だった?どんな映像でた?
96 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/13(月) 23:12:17 ID:XRmKuJ7oO
いやぁ、東陵事件後の西太后の遺骸写真は中々出ないから貴重だったけど
西太后の弁護に徳齢は無ぇだろ。
ありゃ兄貴が汚職をやらかした煽りで宮中を追放され、自身にも後ろめたい事があったんで
かなり西太后マンセーにして仕えた自分も立派ですた
と誤魔化しの文で儲けた香具師さ。
なにせアメリカへ移住出来たのも、宮中にいた時溜め込んだ財産だったというし。
マトモな研究者はネタにすらしないよ…
97 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/14(火) 03:07:57 ID:d3IhqqM/O
ツーシータイホウ
ツアンタイホウ
リーフェイ
ドンジーティエ
クワンシュイティエ
チェンフェイ
アンドハイ
ルンユイホワンホウ
プーイー
98 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/14(火) 14:00:33 ID:Fb1ut3sZ0
>>95-96 もっと詳しく、
西太后のおおらかだったというエピはどんな?
>>98 うちに来たら、録画したから見せてやれるのになあ
>>96 西太后もだけど楊貴妃もひどかったよ
玄宗の息子の嫁だったことはスルーだもの
松下由樹はセイタイコウと言っていたが、ナレとかはセイタイゴウだったな。
あと、残虐性は編集されずひたすらマンセーだった。
再現がリー・ハンシャン監督で劉暁慶主演作品であればなぁ。マンセー扱いはできなかったな。
>>100 それいったら、極めつけの江青なんて、
あれもこれもそれも毛沢東を一途に愛してたから故だからおk、だったよ>結論
民放のバラエティに期待はしてなかったけど、
番組中ですでにgdgdになってるってなんだかなあw
いや、江青の部分は映像は完璧な悪女として描かれてるし、ナレーションも入ってるのに
ナビゲーターとスタジオの部分だけは「毛沢東を愛してた故です」ってなってて
TVの中でもチグハグだったよ。再現VTRのスタッフと、現場のスタッフの意思疎通出来てないだろってレベル
あと、東太后への毒殺疑惑も取り上げなかったな。
105 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/14(火) 23:33:12 ID:JTdvn6hJO
後光緒帝崩御直前、光緒帝と西太后が和解したなんて言ってたな。
なら何故光緒帝の崩御が幽閉先の瀛台だったのかと小一時間w
後は西太后の悪評は康有為が言い触らしたのが原因とか。これは事実半分。
確かに康有為は清の反動勢力として西太后を名指しして批判したが、彼だけの力で悪評は広まった訳じゃない。
まあ実際に残虐説の方が眉唾っぽいんだけどね
咸豊帝は若死にしたわりに 女好きなんだかしらんけど
両宮皇太后 麗妃だけじゃなくて「四春」と称された4人の貴人やら
他にもいろいろと側室がいたわけだが ほぼ全員が、特に同治帝の
最大のライバルになるはずだった第二皇子(夭折)を生んだ妃ですら
光緒帝の御世まで健在 50過ぎの当時としちゃ天寿を真っ当したと言っていい年まで
生存&昇進してるんだよね
108 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/17(金) 00:52:49 ID:jN/PE6YtO
ま、稗史由来の話は洋の東西を問わず針小棒大だからw
煙もないのに火を点けるのも仕様みたいなものだし。
あの特集、西太后が大らかな人という証拠で末裔(多分実家のエホナラ氏だろう)が
生前に賜ったという書が骨太な字だから
て言ってたな。後何かエピソードあったかなかったか。
見たとき、そんだけしかないんかい!と突っ込んだ記憶が。
オリンピックに影響されて最近中国映画観るようになった。
映画「西太后」も観てみた。
戦闘シーンがかなりショボイが、
とにかく衣装が美しい。冷酷さをさらに際立てているような感じ。
これがきっかけで清朝や満州の事に興味持ったよ。
110 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/13(木) 00:09:08 ID:0tQeYokcO
>>106 葡萄棚から吊るした紐で足首を縛り、大きく開脚したプレイは蜜がとまらなかったえ
111 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/13(木) 05:17:16 ID:e+cxN3OE0
それ「金瓶梅」じゃん
112 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/14(金) 02:00:24 ID:IP2bUOtCO
肉まんと水餃子
113 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/04(水) 12:08:41 ID:3p7FOqaH0
bgz
114 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/18(月) 04:48:10 ID:iooba5H60
115 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/04(木) 17:55:24 ID:ZFU/yDLyO
一枚目の画像で横に座ってるのは光緒タソ?
116 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/06(土) 02:20:55 ID:aHCoNU8A0
元記事(動画)の情報源はたぶん2ch。
田中裕子 当時の写真とか肖像と微妙に似てるな
119 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/12(水) 04:58:01 ID:tlJtvp0Z0
,, -──- 、._
.-"´ \.
:/ _ノ ヽ、_ ヽ.:
:/ o゚((●)) ((●))゚oヽ:
:| (__人__) |: ぷ・・・
:l ) ( l:
:` 、 `ー' /:
:, -‐ (_). /
:l_j_j_j と)丶─‐┬.''´
:ヽ :i |:
:/ :⊂ノ|:
120 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/25(金) 02:42:21 ID:TzkL6CU+O
たまにあげとくか。
>何故光緒帝の崩御が幽閉先の瀛台だったのか
袁世凱が暗殺したって説もあるぞ。西太后没後に光緒帝に報復されると考えたからだそうな。
122 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/22(月) 15:41:35 ID:wkChIgEe0
田中裕子の西太后は、西太后を演じた歴代中国女優より似てる
と中国のマスコミが認めてるね
嘉慶帝は確かに無能だがケチで乱費しなかったから及第w
明なんかだと無能な皇帝は宦官の道具になって遊びまくって
財政破綻させてる
124 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/11(土) 03:20:00 ID:G45EemFn0
田中裕子の慈嬉ドラマ、これから地上波で見られるみたいだね。
頑張って全部ビデオに録画しよう。
125 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/11(土) 21:21:12 ID:quAmtyhnO
田中裕子>>>>>劉暁慶
126 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/12(日) 03:34:24 ID:kiTrzpX40
暁慶は怖すぎ。
島崎和歌子に似てる。 島崎の顔も怖い。
127 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/12(日) 03:43:19 ID:kiTrzpX40
麗妃役の人の顔も怖い。昔の長山洋子に似てる。
同治帝役の陳道明はコメンテーターの松尾なんたらにそっくり。
128 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/20(月) 20:56:16 ID:PhHRiRqHO
今NHKで西太后ネタしてたんだが、徳齢かよ…
ハァどっとはらい。
取り敢えず日曜夜に期待。
>>126 島崎和歌子は確かに悪女顔だな
鈴木京香の愛人顔と双璧だわ
明治日本にとっての大恩人だな。
日テレでよくやってた頃は、劉暁慶の吹き替えはアラレちゃんの小山茉美さんだったね
スーチンガオワーの西太后はどうよ?
133 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/26(日) 06:28:52 ID:bvTwn3Xs0
西太后ドマラ今夜スタートあげ!!!!!!!!!!!!
134 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/26(日) 13:15:28 ID:uTf5fEYqO
田中裕子!田中裕子!
あの中央電視台が本人に一番近いと評した田中裕子の西太后が見れるのか
田中裕子のドラマの本スレ何板?
どこにも無いみたいだけど
136 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/27(月) 01:33:53 ID:4FcqavpV0
蒼昴の第1話見た。
ラストの入浴シーンで慈嬉が日本人みたいにいい湯だなしてたけど、
中国、しかも宮中で湯船なんてあるの?
「続」に出てきたみたいな入浴スタイルじゃないの?
139 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/27(月) 12:47:06 ID:7xGA1L9QO
本当は清宮廷の風呂桶は小さく、殆ど掛かり湯だったから続のが実際のに近い。
因みに日本の宮中の風呂も戦前は掛かり湯で、肩まで浸かる事は無かったといい
数十年前までは宮中三殿に仕える内掌典は戦後になっても掛かり湯だったという。
唐代の華清池みたいに浸かり湯する方が大陸では珍しかったみたい。
まぁ劉暁慶みたいな演出が難しい、って辺りでしょ。
やっぱりそうだよね。
日本のたらいの行水に似た感じかな?
あと、慈嬉が光緒に惜しみ無い愛情を注いだ的な事を言っていたけど、あれはどうなの?って思った。
そりゃ甥に対する情はあったと思うけど、あそこまで愛でてたの?
あれじゃまるで慈安だよね。
とりあえず小説上は親がわりとしてかなり愛情を持って(時には容赦なくぶったたいたりしながら)育てたということになってたと思う。
まぁフィクションということで。
そういえばこれはあくまでも「浅田次郎の書いた小説のドラマ化」だったね。
小説は未読だけど、ドラマはなんだか慈嬉を美化した感じだね。
美術のクオリティ的には「円明/垂簾」が神だった。
143 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/30(木) 08:10:18 ID:ds8uH+w4O
ただ、光緒帝がかなり幼い時に慈安は崩じてるから
どこまで光緒が慈安を親と感じてたかは解らない。
間違いなく慈禧はキツイ親と感じてたろうけど。
144 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/30(木) 21:26:58 ID:AXiV5mfI0
AAA BBB
2000 123 456 ←
>>325 自分は原作既読なのでそっちの情報とイメージもかなり交ざってるかもですが、
春児のお宝買い戻しは基本的に、自分が得た過分の恩恵を周囲に還元しようという志から来ているものだと思います。
春児は宦官として自立できるようになるまで、すごくたくさんの人に助けられたこともあり、自分は本当に恵まれていると感じています(このへんはドラマでは伝わりにくいかもですね)。
加えてこれ以上の金はとりたてて必要と思っていない、さらに自宮したから刀子匠に借金(暴利)もない。
そこで普通の宦官ならせっせと血道を上げる蓄財(阿片とか賭博とか賄賂とかに使う)を放棄して、少しでも自分の受けた恩を還す、という意味も込めて他人のお宝を買い戻すことに使うことに決めたんだと思います。
蓮栄なんかは汚い金にまみれれば宦官らしく堕落するだろうと思って、おそらくわざと春児に袖の下が渡るようにしくんだんだろうけど、
春児は完全にその思惑から外れ、むしろ真逆の方向に行ったわけです。この辺はドラマ的にも面白いところかな、と思います。
彼のキャラクターは決して一点の曇りもないというわけではなく、人並みに悩んだり怒ったりするけど、
それでも自己保身を度外視して他人に尽くせる人であることは確かだと思います。
誤爆すいません!
147 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/20(日) 22:42:11.59 ID:BSkGM04sO
実子の同治帝と甥の光緒帝は何歳くらい違うんだっけ?
148 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/24(木) 20:38:30.92 ID:YwHJdx8xO
15歳。
幼帝を立てたのは垂簾聴政が一番だが、ある意味自分の子の可愛い盛りから子育てをやり直してみる気が多少はあったのかもしれない。
中国語版の「蒼穹の昴」をストリーミングで見ています。
エンディングテーマが浜崎あゆみは日本語版だけだったのですね。
今、知りました。
慈禧を画像でググると漏れなく東陵事件後の西太后が見れますよ。
大概は台湾と大陸のサイトからだけどな。
スレ違いながら、さっき婉容の特集見たけど動く婉容かわいかった。
152 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/29(日) 06:28:41.63 ID:d6hsEUVa0
清朝が滅亡して今年でちょうど100年なんだってね
文句しかねーよw
154 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/31(火) 11:25:51.16 ID:NTYUqQUl0
BSプレミアムの番組、なかなかよかったね。
慈禧や珍妃の末裔なんかがそれぞれ出てきてすごかった。
テレビでは今までなかった切り口だったね。
慈禧ファンとしては結構満足した。
再現Vもなかなかよかった気がする。
スタジオのトークが多すぎたのが残念だったけど、
中村うさぎが案外、的を射た事ばかり話してたのが意外だった。
逆に進行役の方が的っぱずれの感じで、
でもこれが世間の人達の認識なんだろうなあ〜と。
呂后・武則天・西太后
と三大女傑と言われてるが
武則天と西太后が双璧だよねー
呂后は小者すぎて二人には全然及ばない
孫殿英が西太后の墓を暴いた時の様子を詳しく知りたいのですが。。。
158 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/25(日) 00:29:33.31 ID:G9+I0eRDO
西太后は王朝末期の人物だから呂后・武則天と一緒にするのは酷だろう。
武則天に至っては王朝の全盛期だし。
でも、映画にドラマにされてる西太后こそ中国最強の女帝に相応しい
西太后の妹(光緒帝の母)ってどんな性格だったんだろう
161 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/29(木) 13:54:07.47 ID:GBOFcCeQ0
>>123 嘉慶帝は無能じゃないだろ
咸豊帝の方がよっぽど無能
162 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/20(金) 08:35:08.07 ID:3R7DZ/X/0
>>1をチャイナドレス姿で高手小手にギッチギチに縛り上げて
いやらしい器具で三つの穴をグッチョグチョに掻きまわしてみたい
163 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 21:07:08.29 ID:6xoo3gnx0
>>155 武則天と西太后は半世紀近く権力を持ってたけど
呂后は15年だけだしな。
164 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/05(日) 01:03:27.69 ID:SA+m1J/xO
うむ、呂后だしな
北洋艦隊の予算を流用させたとかって、事実なの?
166 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/11(日) 22:17:13.02 ID:8mb2htnfO
真偽は不明
167 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/15(木) 07:37:44.34 ID:N0pTxVb10
若き日の西太后とSMプレイしてみたい
もちろん俺がSで西太后はMだ
168 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/17(土) 19:55:07.69 ID:tPdajdj/0
169 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/19(月) 02:37:23.82 ID:3P4ovXyj0
先進8ヶ国連合軍に宣戦布告して逃亡したばばあ
ババアふざけんなよ市ね
170 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/19(月) 10:43:59.82 ID:Y1tN7UA10
朝鮮の貞純王后と似たようなタイプ
・・・
173 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/03(火) 08:50:32.04 ID:qkCL5lbP0
1
174 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/16(水) 23:53:03.06 ID:pLuISVW80
175 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/10(日) 11:02:08.93 ID:rTdV+oiCO
咸豊帝も同治帝も不甲斐ない
176 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/25(月) 05:31:36.23 ID:TyZ9XUA70
平和ボケ
孫殿英が西太后の墓を荒らした時の詳しい様子を知りたいのですが、何か良い資料はありませんか?
西太后の遺体は身ぐるみ剥がされた上に、口も裂かれたんですよね?
178 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/17(金) 14:53:36.30 ID:Xhl9+zsXO
呂后にもそんな話があったような
179 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/28(金) 10:55:18.18 ID:RWknLRZf0
180 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/28(金) 23:40:37.10 ID:3pSvc21C0
181 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/09(水) 20:41:53.19 ID:ZYFTlO6L0
実質上のラストエンペラー西太后
182 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/12(火) 09:23:46.61 ID:0Rd+9guT0
183 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/12(火) 10:45:40.55 ID:dAzu/abVO
確か西太后の「愛人だった」と称する白人が当時本を出してたような。
もう七十近い時の西太后を「若く美しい」とかなんとか書いてたようだ。
でもアメ兵が北京攻略後に紫禁城でれいーぷしたと言うことは、光緒西安蒙塵も無かったし
蒙塵前にコロコロされたという珍妃も、紫禁城に居たままで井戸に捩込まれた訳だな。
だとしたら、当時の紫禁城内はどんだけスゲぇカオスだったのか。
田中裕子よかったけど、やっぱ劉暁慶だな
185 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/28(木) 23:56:09.65 ID:qJHq8QF1O
西太后、死して僵尸と化す
>>185 霊元道士のラム・チェンインが出てたドラマにそういうネタあったな
187 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/30(土) 12:57:04.63 ID:wVA5m+aaO
実際には僵尸になった訳でないが、東陵事件の後の噂話にあったもの。
墓を暴かれ文字通り身ぐるみ剥がされた西太后の遺骸は孫殿英の証言では、蓋を開けた時は腐敗しておらず生きているかの様だったという。
恐らく適宜な湿度としっかり密閉されていたお陰なのだが、溥儀の代理の人々が見たのは柩の蓋の上にひっくり返され黒く変色し白い毛がびっしり生えた遺骸であった。
この白い毛、今から考えれば黴の一種だったのだろうが(事実後に中共の文化財保存作業で再納棺された時には防腐剤や薬品を中に何度か散布している)
当時遺骸に白い毛が生えるというのは僵尸になった証と考えられていたので、人々は西太后が僵尸になったと噂したのだ。
更に話は大きくなり孫殿英の部下の証言という形でこういう話が出てくる。
柩を開くと中は生きているかのような西太后の遺骸と金銀財宝の山だった。
財宝を運び出し衣服まで引っぱがすと、兵士の一人が欲情し遺骸の足を持ち上げ一戦挑もうとしだした。
所がその瞬間、西太后の全身に白毛がみるみる生えだし遺骸が起き上がり出した。
パニックになった墓荒らしの兵士らは、慌てて西太后の墓室から逃げ出した…
これは溥儀ら清朝の関係者の「白い毛が生えていた」という報告から生まれた出鱈目なのだが、死して尚西太后は伝説を作ったという所だろう。
先週のアド街に西太后出てきた
やっぱ関帝よりメジャーな西太后さま
189 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN ID:8zBFv/XM0
今更な愚痴だが蒼穹の西太后何故原作と性格変えたんだろう
おまけに春児が刃を向けるなんて 題名代えろって言いたいよ
日本人が書いた中国人って向こうからしたら違和感あるんじゃ?
田中さんが演じた西太后が一番本人に似てるからって・・・
妖艶さは劉暁慶だね
192 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/20(金) 22:03:25.01 ID:CG5uCvLH0
西太后の残虐エピソードがフィクションだって知らない人が多すぎる
193 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/05(土) 17:17:17.60 ID:W4Dd2oDS0
>>191 原作通りのお茶目な彼女ならいいのに(TT)
乾隆帝との漫才は笑ったのにドラマじゃ全然笑えない
194 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/15(火) 14:14:28.50 ID:dHm+9kPl0
母乳おいしかったのかな?
195 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/20(金) 17:08:56.76 ID:Nc98WOqX0 BE:5843501388-PLT(14000)
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ミミミミ
ミミミミ
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女性蔑視・軽視の吉川裕(東北大学大学院博士課程)を糾弾する
196 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/05/04(日) 15:09:14.19 ID:WAwoiz/u0
珍妃と光緒帝について・・・
ググると写真が数種類あって、
しかもそれぞれが全部見事に全く顔が違うから
どの写真が本物なのかわからない
どれが本当の姿?
光緒帝の修正無しの写真は、立ち姿で臣下と撮られたスナップ写真みたいなのが実際のらしい。
それ以外は西洋人向け新聞に載せられた写真のような「絵」。
珍妃に関しては本来の写真は不明で、たまに何も修正されてないような余り美人に見えない写真もあるが
あれは珍妃でなく珍妃の妹瑾妃の若い時のが混同されている。
その他の珍妃の写真は修正済みか、その修正済み写真に更に衣服を加筆して西洋人向けの新聞に掲載されたもの。
二人の交際は当時の西洋人向け新聞に、若き皇帝と美しい妃の悲恋として掲載されていた。
>>197 勿論、半分絵になってるような人工的なのは全部除外してるよ。
それら以外で3枚の光緒写真が出てくる。
> 光緒帝の修正無しの写真は、
立ち姿で臣下と撮られたスナップ写真みたいなのが実際のらしい。
↓
・屋外で臣下と共に写ってるやつ
(顔が腫れぼったく糸目で、芸人のおさるに似てる)
・父の醇親王(?)の横に立ってるやつ (可愛い顔した少年)
・やや斜めから撮った上半身のやつ (黒衣で超、のつく美男子)
3枚とも別人だけど・・・
そうそう、全く同じこと思ってたんだよね
少年の写真は、父といえども
自分が座って横に皇帝を棒立ちにさせるような事は無いだろうと思って・・・
でも、臣下といる成年の写真のエラみたいな頬の黒い部分を隠して見たら
同一人物に見えなくもない
少年の写真と口が一致する
全体の腫れぼったさと糸目については、屋外で晴天だから
日光が成年の顔のところにちょうど当たってああなったのかなぁ?、と
いわゆる逆奇跡の一枚でおさるみたいな顔に写ったみたいな
あと、慢性の持病で顔が浮腫みがちだったとか?
とにかくいつもとは違う顔に写ってるものではないかと・・・
さらに、馬に乗せられてる幼児の写真も光緒なんでしょ?
馬の幼児、醇親王の横の少年、臣下といる成年
3枚とも全員、口元がちゃんと似てる
結果、全部光緒皇帝で間違いないと思った
超美形の写真、
集英社のマンガ中国の歴史 第10巻で光緒帝として堂々と紹介されてて
子供の頃に読んで以来ずっと信じて生きてきたから、違うと知ってショック
でもほとんど絵のような感じではないよ
他の写真と勘違いしてるのでは?
>>201 ごめん、間違って書いてたわ。指摘スマンね。
>>200 んー、それがあれは修正済み。
輪郭以外は顔の陰影とかごっそり消して目元・口元は弄ってる。顔が白っぽいのは削除した結果。
そこまでやった理由はよく分からないけど、西太后なんかは写真で陰影が付いたらイカン!という事で
本人は撮影前にドーランをごってり塗って撮影に臨んだというから、後宮内では顔の陰影を嫌がってたのは間違いない。
とはいえ他の男性皇族は写真を見ての通り、ドーラン塗ったような人は居ない。
あの超美形の写真は先に述べたように西洋人向け新聞や、後西洋人向け土産物としてのポートレートでも使われていて珍妃とセットになったのも売られていた。
夏目漱石なんかそうだが、痘痕とか何か本人の気に入らない所があると修正した写真しか絶対表に出さないのが当時当たり前だったので、光緒帝側にも何か理由はあったんだろうが分からない。
正直弄り過ぎなので敢えて「絵」と書かせて頂いた。
が、この超美形になった写真がある意味光緒帝の好印象に繋がり、彼の在位と寿命を延ばした要素になってるので結果的に悪い事では無いんだが。
戊戌政変でほんの僅か光緒帝は廃位に追い込まれ、大阿哥溥イ雋が立てられたものの
内外の反対に押し切られ西太后も事実上の光緒の廃位取り消しをしたんだが
この外(外国)の反対の一助が、「清の若き改革を目指す開明君主である光緒帝」という触れ込みとこの写真だった。
光緒帝の宣伝は康有為や梁超啓らの変法派による所が大きいが、西洋人は西洋人で妙なオリエンタリズムの憧れと神秘的なアジアという好奇心の象徴として清を見ていた。
そんな中で光緒帝のような存在は簡単に謁見所か紫禁城からすら出なくて姿も見えない若い皇帝、珍妃との恋愛話など連中の東洋の神秘とロマンを掻き立てるものだったらしい。
あの西太后ですら「あの紫禁城の奥深くに住まう、大国を統べる美しき女帝」なんて見られ方だったので、ある外国人男性が「俺、実は西太后の愛人でした」というしょうもない本を書いたらバカ売れするような変な状況だった。
そんな感じの話の上であの超美形の写真なので、当時の西洋人の光緒帝の印象は頗る良かったとされる。
西欧列強の光緒帝廃位の反対は勿論西太后らの反動政権に極端に力を持たさせ過ぎたくなかった為(その危惧は義和団事件で現実となるが)だけど、元々が光緒帝への非常な好印象も基因であった。
そんな意味であの写真は随分と光緒帝の助けになってた訳。
>>203 >若い皇帝、珍妃との恋愛話など連中の東洋の神秘とロマンを掻き立てるものだったらしい。
今でもそうだと思う・・・
かくいう自分も、その掻き立てられてる一人だしw
現代でも光緒と珍妃は悲劇の皇帝・王妃みたいに語り継がれてるね。
結局、あの美形写真はニセだったかもしれないけど、それでもなかなかシュッとしたいい顔をしていたと信じてる!
(醇親王とうつってるのとか、朝服の肖像を見る限り)
珍妃の写真は検索で4枚ヒットした
・一番有名というか、オフィシャル扱いになってる顔アップのやつ
(これが瑾妃の写真に修正を加えたと言うやつ?)
確かに瑾妃を数倍盛って美人にした感じ
可愛いけど微妙に太っちょな写真だし
タレントのSHELLYに似てる顔
・小卓に片手を添えて立ってる、長い爪をした全身の姿
・正面からうつした上半身の写真・右の額に小花を沢山付けてる
・真っ正面からうつした真っ赤な服をきた全身の姿
(いかにも修正・合成感ありあり)
これら全部顔が違うし、明らかに全員別の人たち
これ如何に?
欧米じゃ普通に年食って即位してる君主ばかりだったから
207 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/05/18(日) 23:59:24.22 ID:dWpe8mJn0
醇親王の正室だった西太后の妹の写真を見たことあるが、
ロシア人みたいな顔立ちしていて、さすが光緒帝の実母だなと感心した覚えがあるな。
載恬の弟かつ、溥儀父の載豊もなかなかいい男だよね。
溥儀溥傑の兄弟は残念だったけど・・・。
東太后を見てみたい
東太后は絵ですらあんな感じで、ちゃんとした朝服画も出て来ないんよな。
写真は全く出て来ない。東太后が生きてた時に、奕言斤とか皇族で写真撮ってた人もいるけど。
西太后は列強八国に北京占領されるまでは外国人は穢れている、会うのは祖法に背くと言って全く引見しなかったので
東太后存命時には外国人にすら会ってなかった為に(当時写真撮影技術があるのは外国人だけ)、当時の若い時の写真は無いという。
東太后存命の時に、臣下など対外的に後宮以外の人間に引見しやすい立場だった西太后が外国人に会ってないとなると東太后の写真はそもそも撮影自体も無かった可能性がある。
とはいえ、同治帝の嘉順皇后には大婚記念の写真があるとか聞くので全く存在してないとも言い切れない。
光緒帝の時は珍妃が写真機が欲しいと光緒帝にねだり、結局二人一台づつ買ってお互い撮り合いっこして遊んでいたという。
因みに第二次大戦後の混乱期軒並み皇陵が盗掘され、その時慈安陵もごっそりやられたらしいので多分柩も開けられてるだろうから遺骸に復顔術をしたら大体の容貌は分かるかもしれない。
東太后に癒されたい
老仏爺の新刊、売れてるみたいね
発売日なのに買えなかった。。。
早く読みたいよー
つくづく悲劇的な天子だ
戊変前にせめて光緒と珍妃との間に世継ぎが出来ていれば・・・
幽閉前からもう既に虚弱体質で不能だったのかな
全くどの后妃とも子供が出来た記録(懐妊を匂わせる記録)が無いんよな光緒。
珍妃は入宮が姉と一緒で、元々かなり幼少だったから寵愛を受け始めたのも遅く
早くに西太后に何度か冷宮送りにされたためにその寵愛の期間すら結構短い。
一応清朝では一人の后妃だけ連チャンで同床させない慣習があったらしいので、懐妊のチャンスは更に厳しかったかもしれない。
それ以前に懐妊中だった同治帝の嘉順皇后を同治崩後に責め殺した伝説すらある西太后が、ただでさえ気に入らなかった珍妃の懐妊を妨害しなかったとは思えないしねぇ。
どの后妃とも記録って・・・っても3人だけだし
そもそも隆裕や瑾妃は殆ど召される事がなかったのでは?
入宮したての頃に義務・事務的に渋々呼んだことは数回あったとしても
お互いよそよそしく会話も続かなかったのでは?
1時間ともたずにすぐに自分の宮に帰る隆裕の姿が想像つくけどw
瑾妃の方は眼中にも入れてなかったかも
珍妃とさえも可能性薄なのに、この2人と同衾したとは到底思えない
ましてや懐妊なんてあり得ない気がする
本日の日曜美術館でテーマ台北故宮
乾隆四庫全書の特集
圓明園と熱可離宮・さらに浅田次郎登場するも、
我等が慈禧については一ミリも触れず・・・ガッカリ
218 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/08/25(月) 22:29:29.20 ID:kQDdn6N90
「世界史リブレット人」シリーズの『西太后』読んだやつはいるか?
800円の価値無し
西太后の事全然書いてない
そもそもリブレットシリーズ自体が同人誌のようにペラくて価格に見合ってないのな
同等価格の中公新書「西太后」とは天地の差だわ
最近こういうのが多くて困る
「西太后のアンチエイジング・レシピ」も読んでみたら西太后と殆ど関係なし、
著者である漢方女の自己満足、単なる "私考案の特製漢方レシピ見て見て!" 発表会本という有様
オールカラーで表紙からして西太后の写真が載ってる分だけリブレよりまだマシだがな
「西太后 最後の十三日」 、「 西太后の不老術」
同著者のものだがハードカバー仕様にするほどの内容じゃない
余白が多く文字数・内容も少ないしカサ増しもいいとこ
慈禧の生母の写真見たけど、そっくりでワロタ
長生きだったのは母譲りかな
慈禧母の逝去した1876年に珍妃が生まれたというのも因縁めいてるw
老仏爺の新刊、予約しますた
有名作家著で期待できそう
楽しみ!早く読みたい
晩年に程度の低い美少年を重用したのは
自分の寿命が近いと悟り
自分が死んだ後の憎まれ役を用意しておいた
という策略かな?
すいません
スレ違いでした