1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
晋の正卿
先しん、先且居、趙盾、げきけつ、荀林父、士会、げき克、欒書
、韓けつ、知おう、荀えん、士匂、趙武、韓起・・・
2 :
sage:2007/02/02(金) 21:39:31 ID:lMNW1vBJ0
宮城谷小説読んでる内にはまったんだけど、晏子から孟夏の太陽
の3部との間の話が書いてある本知らないですか?
晋の六卿と言えば真っ先に趙盾が思い浮かぶ、父親の趙衰が文公の
腹心だが、趙盾を立てたのは義母の君姫であり、義母の恩に報いようと腹違い
の弟である趙活を趙家の頭領にして、趙同には最大の領地を与えるが趙盾
の思いとは裏腹に、郤缼は下軍の将に最も使いやすい趙朔にして実質的に
趙家の主に趙朔がなる。
4 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/02(金) 22:59:44 ID:jM6o37uaO
六卿の派閥争い面白れー。
宮城谷小説の知識がメインの、なんちゃって春秋好きである私の一人言。
襄公の死後、次の君主には、幼い後の霊公は無理だろうと秦から公子雍
を迎えに、士会らを秦へ送るが霊公の母の必死の懇願に折れ、霊公の
擁立をする。何故か霊公は趙盾と犬猿の仲で、趙盾の暗殺を謀るように
なる。その時暗殺者は趙盾に正義を見たのか自殺して、趙盾に自らの
危機を伝える。
知・趙・魏・韓・范・中行
欒氏や郤氏、胥氏や羊舌氏などはスレ違いかな。
春秋末期は晋の六卿といえばその六氏のことかもしれないが、
それまでは単に晋の大臣(大臣は三軍の主将と副将を兼ねるから定員六人)、
という言葉通りの意味であろうから別に問題ないのでは。
三軍三行ね。
范、中行氏は斉に行った後存続してたの?
存続してなければ范増や中行説の名はのこらんよね。
あと、范雎もね。
范雎自身は魏の出身だけど、范氏の族人の中には、晋の後身である魏に戻ってきたのもいそうだし、
范雎の性格や行動を見てると、士会から士鞅までのそれと結構似通っている部分が多い。
范増ってそうだったのか、正直知らんかった、サンクス
そうだったのか…って根拠はないぞ
氏が同じ以外
当時の姓の由来は出身地が多いから、あながち根拠がないわけではないんじゃないかな。
なぜ「うじ」と入力して「姓」と変換されるんだろうMyPC
可能性があるのは認めるが、推測であって根拠とは言えないんじゃないかな
周の卿士である気概を范増が示したのはどこだったか思いだせんのよね。
趙衰〜〜○趙盾〜〜〜趙朔〜〜○趙武〜〜〜趙景叔〜○趙鞅〜〜趙襄子〜
○先軫〜○先且居〜〜先克〜〜〜先穀×
孤偃〜〜〜賈季×
郤芮〜〜○郤缼〜〜○郤克〜〜〜郤リ(郤至・郤犨)×
欒枝〜〜〜欒盾〜〜○欒書〜〜〜欒檿〜〜〜欒盈×
○荀林父〜〜荀騅〜○中行偃〜〜〜〜〜〜〜中行寅×
荀首〜〜○知罃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜知檪〜〜〜知伯×
き傒〜〜〜き午〜〜〜き盈×
胥臣〜〜〜胥甲〜 胥童 〜胥午×
〜叔向〜〜楊食我×
○士会〜〜〜士?〜〜○士カイ〜〜士鞅〜 士吉射×
○韓厥〜〜○韓起〜〜〜韓須〜〜韓簡子〜〜〜韓庚〜〜韓康子〜
魏犨〜〜魏悼子〜〜〜魏絳〜〜魏エイ〜○魏献子〜〜〜魏侈〜〜魏桓子〜
【趙氏略系】
┌ 夙(共孟?)─ ── 穿( )── 旃( )
└成子衰(子餘)─┬宣子盾(趙孟)──荘子朔(趙孟)──文子武(趙孟)
├ 同(原叔)
├ 括(屏季)
└ 嬰斉(樓嬰)
【荀氏略系】
荀逝敖┬桓子林父(中行伯)─宣子庚(中行伯)─献子偃(中行伯)─穆子呉(中行伯)─文子寅(中行伯)
└荘子首(知季)───武子罃(知伯)──荘子朔(知伯)──悼子盈(知伯)──文子躒(知伯)
魏氏って春秋の頃ってあまり目立たないよね
22 :
18:2007/02/06(火) 04:58:21 ID:aBtKXf6D0
荀林父と荀偃の間は荀庚ですか?荀騅って誰だろう。
>>22 荀庚(中行庚)は荀林父の息子ですから、間違い無いです。
荀騅は多分、荀林父の弟で知首の兄でしょうか。
>>21 魏武子は大夫扱いで一等低い感じのスタートだもんな。
>>23 荀驩と荀騅は同一人物なのかもしれんね。
畢萬─芒季─武子犨(仲州)─悼子顆( )┬荘子絳( )┬献子舒(子荼)─簡子取─襄子曼多─桓子駒
│ └令狐文子頡──魏 戊
└廚武子リ(呂季)─宣子相(呂仲)
魏悼子と魏荘子は兄弟だったとおも。
欒氏、韓氏、羊舌氏は名族
とりあえず作ってみた。
【晋】
靖侯宜臼┬釐侯司徒─献侯籍──穆侯費生─桓叔成師┬荘伯鮮──武公称─┬献公詭諸
│ │ └羊舌文…【羊舌氏】
│ └韓武子萬─求伯───定伯簡…【韓氏】
└欒叔───欒賓─共子成(共叔)─貞子枝──欒盾───武子書──桓子黶…【欒氏】
魏犨が遺言で若い妻に自分の死後は再婚させるよう言ったが、死ぬ間際には
若い妻を殉死させるよう、息子?に言って息子?は魏犨の正常な時の遺言に
従い、その若い妻を再婚させ、何かの時若い妻の父に助けて貰ったという
話があったような、何かの小説でも載ってたかな。
>>30 サンクス 気になってたんで読み直します。
胥臣・・・野人となっていた郤缼を文公に推挙した。
胥甲・・・霊公に近すぎて趙盾に疎まれ追放される。
胥克・・・病により郤缼に卿の位を降ろされる。
胥童・・・詞の寵臣であり三郤を滅ぼし、欒書・中行偃に殺される。
胥午・・・敗れる事が分かって欒盈に協力し共に滅びる。
胥臣の家系図はどうなってるだろう。
>>32 胥甲から胥童までは一本系図でつながってるが、胥臣から胥甲、胥童から胥午のつながりが分からん。
沙中の回廊では、胥甲は胥臣の息子だと書いてるが、胥甲は胥臣の族人の可能性もあるかも。
胥甲は胥臣と同じ下軍の佐から登場するので親子と思っていいんじゃないだろうか。
一応まとめておこうか。
【胥氏】
┌司空季子臣─胥甲─胥克─胥童
└胥嬰
胥午と胥梁帯についてはわからない。
巫臣
‖――娘
夏姫 ‖
叔向
【羊舌氏】
>>28参照
羊舌文─羊舌大夫─羊舌職┬羊舌赤(伯華)─子容
├羊舌肸(叔向)─楊食我(伯石)
├羊舌鮒
├羊舌虎(叔虎)
└ (季夙)
楊食我が殺された理由がよく分からないけど、夏姫の孫?だから
つぃてない人なのかな?
>>38 詞の時の胥童みたく、六卿の勢力を削ごうとして、士鞅や知櫟の逆鱗に触れたのでは?
山狗のような声とかね。
指摘されるまで申公巫臣と夏姫の娘だというのに気付いてなかった。
叔向は文弱な大夫だと思って侮ってると、結構な実力者でもあったんだな。
42 :
29:2007/02/22(木) 08:47:47 ID:YFuilRnm0
やっと沙中の回廊を読んだけど魏顆・魏絳・魏リが兄弟になってます。
又、史記魏世家だと魏顆―魏絳ですね。
>>40 楊食我=山狗のような声ですか?史記だけ見ると六卿の方が悪くみえるので。
>>42 左伝の楊食我が生まれたときの話ね。
祖母(伯華・叔向の母)に羊舌氏を滅ぼす子だと云われて面会を拒まれたと言う。
44 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/25(日) 21:54:34 ID:FAUTw4Fc0
頃公の十二年時は趙鞅・韓起・魏舒・中行寅・士鞅・知櫟 が六卿か
このころは晋室の事や正卿になるより、領地を増やす事のみ考えてるみたい。
趙盾が政権を執ったときから始まってると思う
文公が太子を除く公子を晋国外に出したのが晋室弱体の原因か
いや、やっぱり献公が驪姫に惑わされて、申生を自害に追い込んだのが、
晋室弱体の遠因だろ。
公族・余子・公行の三族を定めたところで決定づいたと考える。
三族のいきさつは分かるが
家臣の子弟が公族になって本当の公の親族はどうなったかわからない。
理屈がわけわかめ。
晋には驪姫の乱以後、公族の官がなく晋にひとりの公子もいない
卿の嫡子を公族の官に任命し田土を与える事にした。
成公が自分を推してくれた卿への礼のつもりか又は自分の子
から他の国のような公族を復活させる為か
卿の家が肥大化する基になった。
趙盾より、成公の方がそのつもりがなくても晋室弱体化の原因ですね
文公の四年 晋は三軍を編成した。
中軍 将 郤穀 上軍 将 狐毛 下軍 将 欒枝
佐 郤湊 佐 孤偃 佐 先軫
文公の五年 城濮の戦い
中軍 将 先軫 上軍 将 狐毛 下軍 将 欒枝
佐 郤湊 佐 孤偃 佐 胥臣
三行を創設
中行 将 荀林父 右行 将 屠撃 左行 将 先蔑
清原の蒐・・・三軍に新しい二軍加え五軍とした
新上軍 将 趙衰 新下軍 将 箕鄭
佐 胥嬰 佐 先都
襄公の六年 先且居・趙衰・欒枝・胥臣の四卿が亡くなる。
中軍 将 狐射姑 佐 趙盾
董の蒐・・・陽処父が狐射姑の降格を謀る
中軍 将 趙盾 佐 狐射姑
襄公の七年 襄公死去、狐射姑は翟へ出奔した
中軍 将 趙盾 上軍 将 箕鄭 下軍 将 先蔑
佐 先克 佐 荀林父 佐 先都
先克に恨みを持つ五人(箕鄭、先都、梁益耳、士穀、蒯得)が乱を起こすも
皆敗れた。
霊公の六年 士会率いる秦軍が晋国を悩ます
中軍 将 趙盾 上軍 将 郤缼 下軍 将 欒盾
佐 荀林父 佐 ゆ駢 佐 胥甲
黄父の蒐・・・胥甲を追放する、士会が卿になる
成公の元年 趙盾の引退
中軍 将 荀林父 上軍 将 先穀 下軍 将 欒書
佐 郤缼 佐 士会 佐 胥克
成公の六年 荀林父が正卿の座を郤缼にゆずり中軍の佐になりたいと願い出る
中軍 将 郤缼 上軍 将 先穀 下軍 将 欒書
佐 荀林父 佐 士会 佐 趙朔
景公の三年 邲の戦い
中軍 将 荀林父 上軍 将 士会 下軍 将 欒書
佐 先穀 佐 郤克 佐 趙朔
先且居等が死んだ後、士穀が趙盾や狐射姑を差し置いて正卿になる予定が先克
の邪魔でなれなかったという話は、もし士穀が正卿になってたらと思うな。
>>53 もし士穀が正卿だったら、襄公亡き後は秦にいた公子雍が順当に晋侯になって、
襄公の息子の夷皋(霊公)は、ひねくれた人生を送らずに命永らえれたかも。
ただ、そうなると、黒臀(成公)は晋侯になれなかったけどね。
そして、弟の士会も秦に亡命する事もなくなるし。
隰叔─士爲─成伯缺┬穆伯穀──貞子握濁─荘伯弱──文伯瑕──景伯彌牟
├范武子會─文叔燮──宣叔匃──献叔鞅─┬昭叔吉射
│ └范皐夷
└彘共子魴─彘求
隰叔─士爲─成伯缺┬穆伯穀──貞子握濁─荘伯弱──文伯瑕──景伯彌牟
├范武子會┬文叔燮──宣叔匃──献叔鞅─┬昭叔吉射
│ └范皐夷
└彘共子魴─彘求
誤爆続き失礼・・・
文公の四年 晋は三軍を編成した。 633BC
中軍 将 郤穀 上軍 将 狐毛 下軍 将 欒枝
佐 郤湊 佐 孤偃 佐 先軫
文公の五年 城濮の戦い 、三行を創設 632BC
中軍 将 先軫 上軍 将 狐毛 下軍 将 欒枝
佐 郤湊 佐 孤偃 佐 胥臣
中行 将 荀林父 右行 将 屠撃 左行 将 先蔑
文公の八年 清原の蒐・・・三軍に新しい二軍加え五軍とした 629BC
中軍 将 先軫 上軍 将 狐毛 下軍 将 欒枝
佐 郤湊 佐 孤偃 佐 胥臣
新上軍 将 趙衰 新下軍 将 箕鄭
佐 胥嬰 佐 先都
襄公の元年 秦軍を殽山で破る、狄を箕で破るも先軫の戦死 627BC
中軍 将 先且居 上軍 将 ?? 下軍 将 ??
佐 趙衰 佐 ?? 佐 ??
襄公の六年 先且居・趙衰・欒枝・胥臣の四卿が亡くなる。 夷の蒐・・・五軍のうち二軍を廃する。 622BC
中軍 将 狐射姑 上軍 将 ?? 下軍 将 ??
佐 趙盾 佐 ?? 佐 ??
襄公の六年 董の蒐・・・陽処父が狐射姑の降格を謀る
中軍 将 趙盾 上軍 将 ?? 下軍 将 ??
佐 狐射姑 佐 ?? 佐 ??
襄公の七年 襄公死去、狐射姑は翟へ出奔した 621BC
中軍 将 趙盾 上軍 将 箕鄭 下軍 将 先蔑
佐 先克 佐 荀林父 佐 先都
霊公の元年 先克に恨みを持つ五人(箕鄭、先都、梁益耳、士穀、蒯得)が乱を起こすも 皆敗れた。 620BC
霊公の六年 河曲の戦い、士会率いる秦軍が晋国を悩ます 615BC
中軍 将 趙盾 上軍 将 郤缼 下軍 将 欒盾
佐 荀林父 佐 ゆ駢 佐 胥甲
霊公の十一年 黄父の蒐・・・胥甲を追放する、士会が卿になる 610BC
中軍 将 趙盾 上軍 将 郤缼 下軍 将 ??
佐 荀林父 佐?? 佐 ??
霊公の十四年 趙穿、霊公を殺害する、三官の設立、趙盾の引退 607BC
中軍 将 荀林父 上軍 将 先穀 下軍 将 欒書
佐 郤缼 佐 士会 佐 胥克
成公の六年 荀林父が正卿の座を郤缼にゆずり中軍の佐になりたいと願い出る 601BC
中軍 将 郤缼 上軍 将 先穀 下軍 将 欒書
佐 荀林父 佐 士会 佐 趙朔
景公の三年 邲の戦い 597BC
中軍 将 荀林父 上軍 将 士会 下軍 将 趙朔
佐 先穀 佐 郤克 佐 欒書
景公の四年 霊公殺害の罪により屠岸賈の手によって、趙朔の家が皆殺しに
される、赤子の趙武のみ生き残る。 先穀は邲の敗戦により憎まれており、赤狄を呼びいれ乱を起こそうとするも殺される。 596BC
景公の六年 楚が宋へ侵攻するも救援を送れない為、解揚を宋に行かせ
降伏しないよう「晋軍はまもなく到着する」と伝えさせる。 秦が晋の輔氏に侵攻するが魏顆が秦軍を破る 、父魏犨の愛妾を救った恩を返すと老人が夢に出る。 594BC
景公の八年 断道の会、郤克の怒りを解く為、士会が引退 592BC
中軍 将 士会 上軍 将 ?? 下軍 将 ??
佐 郤克 佐 ?? 佐 ??
景公の十一年 鞍の戦い、晋軍は魯、衛の要請を受け斉に侵攻する。
荀首は楚に人質になっている荀罃と人質交換を鄭に依頼する。 巫臣が楚から夏姫をつれ亡命する。 589BC
中軍 将 郤克 上軍 将 荀庚 下軍 将 欒書
佐 荀首 佐 士燮 佐 趙同
景公の十二年 晋は三軍を増設して六軍を作る。588BC
新中軍 将 韓厥 新上軍 将 鞏朔 新下軍 将 荀騅
佐 趙括 佐 韓穿 佐 趙旃
景公の十六年 趙同、趙括兄弟が中傷により誅滅される、趙武は韓厥の助力
により趙家を再興させる。583BC
中軍 将 欒書 上軍 将 荀庚 下軍 将 ??
佐 荀首 佐 士燮 佐 ??
詞の三年 秦の軍を麻すいで破る。578BC
中軍 将 欒書 上軍 将 士燮 下軍 将 韓厥
佐 荀庚 佐 郤リ 佐 知罃
新軍 将 趙旃 佐 郤至
詞の五年 郤リ、郤至、郤犨の三人は伯宗を嫌い、中傷により殺す、
子の 伯州犂は楚に逃げる。576BC
詞の六年 鄢陵の戦い。 魏リは楚王の目を射るも、養由其の一矢にて絶命
する。苗賁皇の策により楚を破る。575BC
中軍 将 欒書 上軍 将 郤リ 下軍 将 韓厥
佐 士燮 佐 中行偃 佐 知罃
新軍 将 ?? 佐 郤至
詞の七年 詞は胥童ら寵臣と謀り、郤リ、郤至、郤犨の三人を滅ぼす。
胥童は欒書、中行偃に殺された。 574BC
詞の八年 欒書、中行偃は詞を殺害した。王都から悼公を迎える。
573BC
中軍 将 韓厥 上軍 将 ?? 下軍 将 ??
佐 ?? 佐 ?? 佐 ??
悼公の九年 楚は侵攻しようとした、子嚢は言った「国君は明察、臣下は
忠誠、上位者は謙譲、下位者は努力を惜しまぬ、かかる状況では
晋に立ち向かうのは良くない」。 564BC
中軍 将 知罃 上軍 将 中行偃 下軍 将 欒檿
佐 士匃 佐 韓起 佐 士魴
新軍 将 趙武 佐 魏絳
悼公の十三年 綿上の蒐。 士匃が譲ったので下位者は皆譲り合った。
560BC
中軍 将 中行偃 上軍 将 趙武 下軍 将 欒檿
佐 士匃 佐 韓起 佐 魏絳
悼公の十四年 遷延(ぐずぐず)の役、 欒檿は勝手に退却する、成果の
ない戦に欒ケンと士鞅は秦軍に突入し士鞅のみ生還する。
士鞅は欒檿に 脅迫され秦に亡命する。 559BC
平公の三年 平陰の戦い、晋軍は斉に進攻する。 555BC
中軍 将 中行偃 上軍 将 趙武 下軍 将 魏絳
佐 士匃 佐 韓起 佐 欒盈
平公の四年 中行偃が病死した。士匃は斉に侵入し穀に達したが、斉の霊公
死去の報告を聞いて引き上げた。鄭の子蟜が亡くなった事が
晋公に報告される。晋と斉は講和する。 554BC
平公の六年 士匃は欒盈を国外に追放した、羊舌虎らを殺し、叔向が幽閉された。
叔向は祁奚により放免される。552BC
平公の八年 欒盈は胥午を訪ね協力を求める、魏舒を味方に得て晋都、絳に
攻め込んだ、士鞅は魏舒を味方に付ける為、迎えに行き平公が
父士匃の元にいると告げ、魏舒を連れて行った、欒盈は敗れた。
550BC
平公の九年 鄭の子産は晋への礼物が重すぎと士匃に訴え、諌めた。549BC
中軍 将 士匃 上軍 将 ?? 下軍 将 魏絳
佐 ?? 佐 ?? 佐 程鄭
平公の十二年 宋の向戌の仲介により晋の趙武と楚の子木とで盟を交わした。 546BC
中軍 将 趙武 上軍 将 ?? 下軍 将 ??
佐 韓起 佐 ?? 佐 ??
すごく読みにくくてすみません、
悼公元年から遷延の役までは晋の黄金時代ですね。
胥臣と賈侘は別人ですよね?
そりゃ別人でしょ。
謎の司空季子
趙武後、晋の宰相は韓起―魏舒―士鞅―趙鞅―知瑶でok?
このように思うがどうだろう。
名宰相 一位韓厥、二位士会、三位趙盾
悪い宰相 一位欒書、二位趙鞅、三位趙盾
>>66 いや、こんなんでは?
名宰相 一位韓厥、二位士会、三位趙武、次点知オウ
悪い宰相 一位士カイ、二位趙盾、三位荀林父、次点中行偃
68 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/10(土) 23:11:11 ID:YRiHeE1N0
天官 大宰
地官 大司徒
春官 大宗伯
夏官 大司馬
秋官 大司寇
冬官 大司空
何だか風雅な官職だな。
十二国記ておもろいですか
71 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/15(木) 21:43:30 ID:aD/0kbL+O
知氏はどの辺りから力をつけてきたの?士会の頃は名前も出てこないのに
士会のころに荀林父って人がいたと思うが、その子孫の分家。本家は中行氏だったかな。
そのころは士氏も范氏っていう名前になってる。
んで、中行氏と范氏が、趙氏を滅ぼそうとしたときに、知氏の当主が晋の宰相だったが、
趙氏の味方をして、中行・范氏を倒し、その領土を分け取りにしたあたりで、
晋国内では一番強くなったのかな。
73 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/16(金) 07:36:29 ID:DJVeAh99O
趙氏って三度滅亡の危機をよく乗り切ったよな
>>73 趙朔と趙憮恤の話と趙盾の失脚時か趙鞅の中行・范氏との戦いですね。事件名が分からない
のでややこしいけど、孟夏の太陽2冊目(1冊目は紛失)買ってしまった。
無恤(あわれまない)って名前はひどいな
中行・范氏との戦い開始が前四九七年で、中行寅・范吉射の斉への逃亡が
前四九〇年、知瑶が韓・魏・趙氏と共同で中行・范氏の領地を分割して所領
にしたのが前四五八年らしいのだが、それまで中行・范氏の残党が残って
いたのか?又はそれまで知瑶の暴走を抑える人物がいたのだろうか。
>>77 知瑶の祖父の知櫟や趙鞅達が、名目上は中行・范氏の領地のままで、
晋公を差し置いて実質的に支配してたんじゃね?
知櫟は知瑶以上に強欲だけど、かなりの慎重居士でもあるから、趙鞅達と示し合わせて、
事を荒立てないように名より実をとる方策を取ったのかも。
で、知櫟の死後は、趙鞅が紀元前463年に死去するまで知瑶を抑えてたと。
なるほど趙鞅が長い間、実力者の位置にいたみたいですね。
知氏も知櫟の父、知盈が亡くなった時に卿から降ろされそうになった事が
あったが、(実際に士魴や魏相の後は卿になれなかったので)一大夫のまま
なら、これほど力を持てなかったと思われ。
平公が独断で寵臣を卿に任じたら、詞の二の舞になるか又は、六卿の力を
削ぐ最後のチャンスだったか。
知首・知罃の遺徳は残っていたからだろうが、
何で料理人があんなに偉そうなんだろう。
晋の知盈が亡くなった時、葬儀も行わぬ内に平公は酒宴を催した、その席で料理人の
屠蒯は楽師に酒を飲ませ「汝は国君の耳にして、聰(鋭敏な聴力)を司るのが役目、
股肱が毀損したのは忌み日にまさる痛心時。しかるに汝がこれを国君に申し上げず
音楽を奏したのは聰ともうせぬ。」更に寵臣に酒を飲ませ「汝は国君の目にして、
明を司るのが役目。しかるに国君の容は卿佐の喪にふさわしい物でないのに、汝が
それを目に止めぬのは明とは申せぬ」こんどは自分で酒を飲んで「味は気を流通させ
、気は志を充実させる。志によって言が決まり、言によって命令が出る。臣は味を司る
のが役目。この二人が役目を果たさぬのに国君が処罰命令を出さなかったのは臣の責任
でございます」平公は納得して酒宴をやめさせた。これまで平公は知氏を廃して自分の
寵臣を立てようとしていたが、この件で考えを改め知櫟を下軍の佐に任命して、申し
わけにした。
84 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/31(土) 23:53:52 ID:DTPxzBB/0
魏絳は悼公の寵臣といえるかな、当時の宰相の韓厥・知罃・中行偃との
関係は良好みたいだが。
魏絳と韓厥は出世の仕方が似ている。
パターンはあるだろうね。
宰相にあたる正卿でも本当に実権があった人はかなり限られてるね
>>87 実権のないというと誰だろう?
とりあえず、中行偃<范カイかな。
基盤の弱い正卿だと先軫が浮かぶかな。
兵権のない士爲や荀息が正卿に準えられないのが残念。
91 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/07(土) 15:15:48 ID:S5QjN/8f0
叔向って何で正卿にならなかったの?
>>90 献公が上軍の将・申生が下軍の将というように公族が兵権を独占してたの
ですかね?
>>91 趙武らの後ろ盾はあったものの、叔向=羊舌氏の地力は趙、韓、魏、范、
中行、知はもちろん祁氏より小さいはず。
叔向の下に祁午、張趯、籍談、女斉、梁丙、張骼、輔躒、苗賁皇の八大夫
あり、とあるが六卿の下はどんな位があるのですかね。
申生ら三公子が追放されたときに兵権が卿大夫に移ってしまったのではないかな
献公が桓荘族を滅ぼしてしまったから、親族に三公子のあとの受け皿がなかったわけだし
晋の悼公即位時に任命されてる人たち。(春秋左氏伝より))
【太傳】士握濁
【司空】右行辛
【卿】魏相・士魴・魏頡・趙武
【公族大夫】荀家・荀会・欒黶・韓無忌
【公車御】弁糾
【公車右】荀賓
【中軍尉】祁奚
【中軍副尉】羊舌職
【中軍司馬】魏絳
【中軍候奄】張老
【上軍尉】鐸遏寇
【上軍司馬】籍偃
【公御者】程鄭
予想ですが、名君悼公即位時の卿は韓厥・知罃・中行偃・范カイ・魏相・士魴
・魏頡・趙武の順番で4軍でしょうか、魏頡は魏絳の兄で魏本家の当主という
感じですかね、いきなり2卿の魏氏はまだ魏絳の活躍前なのに
BC573の2月に悼公即位してその時点では、欒書・韓厥・知罃・中行偃・
魏相・范カイ・士魴 ・魏頡という感じか、そして11月前後に韓厥が正卿に
なって12月に魏相没後に趙武が卿になる方が正しいかな。
魏絳は魏犨の末の子という話もありますか。
悼公即位時点では中軍の将、欒書・佐、中行偃・上軍の将、韓厥・佐、范カイ・
下軍の将、魏相・佐,知罃・新軍の将、士魴・佐、魏頡。が、つじつまあう感じ
かな、
公族の官と公族大夫は別物みたいだが、四軍だから四人の公族大夫となる
かと考えるのだがどうだろう、
太傳=晋公の教育係で実権はありそうだが、特に権力があり大夫の中で
上位とかあるのだろうか?
中軍候奄の張老=張孟に、中軍尉の祁奚、上軍司馬の籍偃、このあたりの
大夫は存在感が大きいですね。
公族大夫に荀家・荀会・欒黶・韓無忌が並んでいる。
ということは欒黶・韓無忌(荀家・荀会の系譜は不明)の父にあたる
欒書・韓厥が卿、あるいはそれに相当する地位なのはほぼ間違いないだろうね。
>>98 太傳と司空は名誉的ポジションだと思う。
士握濁は范氏の本家だから上位に祀り上げられたのだろうし
右行辛はこの頃の晋公室では最長老じゃなかったかな。
101 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/14(土) 16:40:17 ID:NfYTdQ2E0
魏絳は魏相・魏頡の後をうけて魏氏の当主になったものだと思うが、傍流にいた
者が急に当主となる事に、一族内から不満がでるという話は公族ではよくあるが、
大夫の一族間の勢力争いというのは、あまり聞かないな。趙朔 の時に趙同・趙活
が、それぞれ当主としての根拠を持っていた事により不満を持っていたぐらいか。
趙括は初めて公族大夫になったうえ、文公の外孫だもんな。
趙朔が成公の婿なだけに対抗心があったのだろうか。
時代が下って邯鄲午は本家の趙氏に反乱していたり、
知氏と中行氏が揉めてたりするのは同族争い。
叔向が叔魚を見捨てたりするのも同様かな。
文公の頃は中軍の将=宰相という感じではなく、
軍事に優れている人物を将として据えていたのかな
当初は郤氏の二人を中軍に、欒氏を下軍に置いているんだし、
名族への憚りはそれなりに大きかったと思うのだけど。
大部分を想像で仮定してみたのですが、こんな序列でどうですか?
趙衰は実力者ながら常に謙譲して下の地位にいたものの、先且居が宰相になれば
補佐する為、中軍の佐は妥当かと、欒枝と胥臣が将となって、趙衰と同格であった
胥嬰・箕鄭・先都が続き、狐射姑と荀林父がどこに入るか、郤湊はいつまで現役で
あったかと。
郤湊・胥嬰・箕鄭・先都がいまいちどのような人物か分からんです。
あと実力でいえば陽処父もいましたか、卿にはなってないはずですが。
BC627、中軍将、先軫・佐、郤湊・上軍将、欒枝・佐、狐射姑・下軍将、胥臣
・佐、趙衰・新上軍将、胥嬰・佐、箕鄭・新下軍将、先都・佐、荀林父
箕の戦い後
BC626、中軍将、先且居・佐、趙衰・上軍将、欒枝・佐、狐射姑・下軍将、胥臣
・佐、胥嬰・新上軍将、箕鄭・佐、荀林父・新下軍将、先都・佐、郤缼
文公の頃は卿である事より、文公に近く意見を重要視された、孤偃・趙衰の影響力
は大きそうですね。
郤・先・胥氏から二人同時に卿になるが、孤氏の兄弟と違い血縁が遠く、それぞれ
別の勢力を持っていたのかも?
襄公即位前後は卿の序列は不明なのが多い。
とりあえず三行の将は、新軍の卿のすぐ下の地位なのかどうなのでしょう。
>>104 確か、郤穀と欒枝は晋国内で文公の帰国の手助けをしてたはずで、郤氏の二人
を大族郤氏の総帥にするつもりで高い地位を与えたとも考える。
右行の将、屠撃(左史伝)は先穀(史記晋世家)になってます、この先穀は
先且居の孫とは別人だろうし、屠撃とは他に名前がでてきますか?
晋は武公の統一まで内乱で、都市が戦争慣れしてるんだよな。
郤氏はともかく欒氏と韓氏は公室と同族。大族はこのあたりじゃないだろうか。
>>104 その先穀は先蔑の間違いじゃないでしょか。
110 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/17(火) 18:39:51 ID:KndYP9120
正卿になったばかりの趙盾は切れ者みたいだな(箕鄭らが乱を起こした時の処置など)。
趙盾は切れ者でしょう。
春秋時代で一番好きな話が、士会が秦に亡命して晋を攻撃するようになった時、
士会の重要性を郤缼が説き、趙盾が受け入れる事なんだよな。
苗賁皇・伯州犂・伍子胥など亡命して活躍する人物は多いけれど、再び戻って
活躍したのは、士会ぐらいかな、その場を与えた趙盾が評価されて欲しいな。
113 :
出勤中:2007/04/19(木) 08:22:50 ID:vEGVQm4jO
趙盾の場合、突っ込みどころも多いもんね。
いくら暗君とはいえ主君殺しの汚名は消せない。
趙括を公族に見立てて公室の基盤を決定的に弱めている。
趙穿を処分せずにいたら悼公の代で卿になってしまっている。
そら反感も買うわなと。
趙盾は器が大きい反面、鈍感な感じがする。
趙穿を処分しなかったのも、あえて汚名をきたのかと。
仮に士会があのまま秦に残れば伍子胥並に活躍してたかも。
趙盾ひいきの意見だけど。
趙盾の悪い面は霊公・趙同・趙括を指導する事ができなかったことか。
趙盾が弟たちを指導できないのは仕方ないと思う。
117 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/22(日) 11:55:57 ID:PUJBkvJ00
趙盾
趙盾自身の述懐で「自らは夷狄に生まれ育ち云々」てのがあって、
文公の子ふたり(趙盾の従兄弟でもある)は狄に残っている。
文公の義理の甥であったとしても、屏季括は文公の外孫。
趙家の中では意外と発言力がなかったのではないかと。
賢夫人とされる君姫は、文公の亡命時のいつごろの娘だったのだろう。
趙盾よりは若いはずだが狄を出てからか、案外趙盾の従妹という事は
ないだろうが。
蒲城にいたころは舅犯の娘が妻。これは夭折して子がない。
文公の滞在期間が長いのは狄と斉。狄では2公子を儲けるも晋に入国せず。
んで重耳の亡命に付いて他国に出た妻子は太子歓とその母・杜祁以外に記録がない。
鄭を通過するときに趙衰が60才。享年が76だったとして君姫が子を産める年齢を逆算。
こう考えると君姫は斉以降に生まれた可能性が高いね。
紀元前655年 重耳が80人の従者と共に狐氏の邑へ行く。
654年 趙衰と(隗氏の族長の娘)叔隗の間に趙盾が出生する。
651年 献公死去。里克・丕鄭乱を起す。
650年 恵公夷吾即位する。
645年 恵公、秦軍に敗れ捕虜となる。子圉を人質として、恵公帰国する。
斉の管仲死去
644年 趙盾10歳の時、重耳は狐氏の邑を去る。
637年 懐公圉即位する。
636年 文公重耳帰国し即位する。
635年 文公の妻、季隗は二人の子を狄に残し晋へ行く。
634年 叔隗・趙盾のもとに文公・趙衰からの迎えの使者が来る。
君姫は趙盾に才能ありと認め、文公に固く請うて、趙盾を嫡子として
自分の生んだ三子の地位を下げ、叔隗を嫡妻として自分はその下位についた。
622年 趙衰死去。趙盾が33歳で趙氏の総帥となる。
621年 董の蒐により、趙盾が晋の正卿となる。
君姫が趙盾より年上でないと合わないかな、趙朔と趙同が同じ年だったかな。
君姫≧趙盾でも君姫≦趙盾おかしくないではないね。
ただ
>>120を読んで重耳が子供を連れて亡命していないなら君姫≦趙盾じゃないかね。
70前後の爺さんに幼い娘を嫁がせる文公マンセー
キッチリ子を作ってよこす趙衰マンセー
重耳が亡命した年に、晋に虞国が滅ぼされ、重耳の異母姉穆公夫人が秦に高齢で嫁ぐ
というケースもありますね。
そのわりに子供3人の穆姫はすばらしい。申生の姉だったっけ?
六卿を語れよ
127 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/02(水) 04:32:29 ID:25qZ827VO
六卿でなく晋を語るスレになってるな
まあ何かと晋が春秋時代の国で一番ネタが多いからね
>>37訂正
【羊舌氏】
>>28参照
羊舌産?─羊舌文─羊舌突─羊舌職┬羊舌赤(伯華)─子容
├羊舌?(叔向)─楊食我(伯石)
├羊舌鮒
├羊舌虎(叔虎)
└ (季夙)
肸の字が表示されなかっただけでしょ
IEで書き込めばよかった。
三国志の羊コの一族につながるの?
つながらないっしょ。
羊舌氏は族滅させられてるはずだから。
でも羊姓の祖なんでしょ?
羊氏は周の官名が元になってたはずだけど。
136 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/11(金) 03:49:32 ID:tuXsk1oOO
晋では難を避けるために隠れたり、亡命したり、捕虜になったりと困難を経験した人から名臣を輩出することが多い。
例えばゲキ欠、士会、知武子、趙武など。
これも逃げの重耳を生んだ晋のお国柄かな。
公族や卿大夫の亡命は後継者争いの副産物だからねえ。どこにでもある話だろうけど、
晋の場合は卿大夫の家々が他の国の公族並みの力があるからではないかと。
重耳が献公の死後、里克の誘いに乗って晋に帰ったら、
やっぱり名君といわれるまでの活躍はできなかったかな。
>>138 全く違った転回になりそうだな。
>>136 困難を以って名臣になったというと、郤缼・士会・趙武は
必然かなっと思った。知罃は商人が楚からの脱出の誘い
を断った事が案外、楚の共王に見込まれ評価が上がったかも。
宮城谷小説のアレ?
元ネタ回廊だよねおそらく。
前出だが范・中行両氏が斉に亡命してからの資料がなかなか無いんだけど、
亡命後は斉で客卿待遇とかのままでフェードアウトしちゃったのかな。
漢に仇なす笵増と中行説
欒氏は斉に残らなかったのですか?
士から范へと変わったように
范氏のその後は姓を変えたという事はないですかね、
斉は田常の頃から有力な大夫は田氏以外であまり知らないな。
斉には高氏と国氏が両卿としていたのにね。
魯の三桓氏や鄭の七穆らもいるけど残った家は少ない。
>>143 欒盈が晋に戻ったときに、残らず付いていったんじゃない?
欒盈は范氏さえ倒せば、晋に復帰できたんだろうか、
仮に魏氏が味方に付いた場合、中行氏は范氏に付きそう
だし、趙・韓氏を交えて結局復帰は無理ぽいか。
148 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/20(日) 13:52:26 ID:5CKfy9BMO
六卿と括って言い習わしも六卿の時代は意外と短いよね
趙氏に限って言うと、趙武ー趙成ー趙鞅の三代ですか、
この頃の六卿は国主と考えられるのかな、家宰が宰相と
呼ばれていたり。
中行・范氏亡命後も傍流の人物が卿になってたみたい
ですが、知遥が政権を執った時には、まだ六卿だったの
かな。
六軍に当てはめりゃ范・趙・知・中行・魏・韓なのは当然なんだろうけど、
欒氏や胥氏、あるいは鞏朔を卿に数えないのはたしかに不自然だよねえ。
晋陽の戦い?までが春秋時代と思ってたけど
韓・魏・趙が周王から諸侯と認められるまで
一般的に春秋時代なんですかね。
じゃあ暫定B.C.403年で。
六卿だけだと段々ネタ尽きてきたな・・・
献公はもっと評価されてもいいと思う
マイナスの部分が大きすぎるから・・・
前685年 斉の桓公即位、管仲を補佐とする。
676年 献公即位
669年 献公は桓・荘の族を滅ぼす。
667年 斉の桓公、王命により、覇者となる。
666年 献公は大子申生を曲沃に、重耳と夷吾を
捕と屈の守り手とする。
661年 晋は二軍を作り、耿・霍・魏を滅ぼした。
658年 荀息は名馬と壁を虞へ贈り、虢を攻める道を
借りる。晋と虞は虢の下陽を滅ぼす。
656年 驪姫の陰謀により、申生自殺する。
655年 晋は虢と虞を滅ぼす。
651年 献公死去。
献公というと、晋の領土を急拡大させた全盛期と
斉の桓公の活躍する時期はダブってますね。。
献公の時には晋<斉だみたいでけど、
国土では晋>斉のような。
斉はその間に鄭や魯、衛という姫姓を配下におさめてるからねえ。
威信では敵わない。
158 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/27(日) 18:01:37 ID:M9Qw5rLq0
そう考えるとやっぱ桓公と管仲は凄いな
斉に話を広げていいのなら。
管仲が執政しているのを大夫家の鮑叔が支持していたとしても、
卿たる国氏・高氏が全く不満を現さないのが不自然かな。
あと隰朋は士氏と何らかの血縁があると思う。
>鮑叔が支持していたとしても、 卿たる国氏・高氏が全く
不満を現さないのが不自然
鮑叔がいなければ国君に立てなかったのでは、
重耳の時の晋に例えると
鮑叔=狐偃・趙衰で国氏・高氏=欒枝・郤穀といった
感じかと想像するけど、狐偃・趙衰が自分より遥かに
勝る人物として推せばどうですかね。
>隰朋は士氏と何らかの血縁があると思う
何故ですか?
>>160 >上段
管仲以前に管氏の卿大夫を知らないんで。
国策顧問として一代限りの師傳だったのかな。
>下段
>>55の「隰叔─士爲」この部分。
管仲以後(シャレじゃないよ)にも管氏は出てこないよね
管氏と検索すると・・
とりあえず宮城谷小説の管仲でも読もうと思う。
>>154 マイナスとプラスならはるかにプラスの方が大きいよ
武公の頃の領土のままなら文公も覇者にはなれなかったと思う
愛妾の子供を太子にってそんなに珍しいことじゃないし、
死後の争乱なら桓公も同じ
オレへのレスかな?
死後の騒乱もだけど、献公は従兄弟・またいとこをほとんど滅ぼしているわけで。
残った一族は
>>28くらいしかいなかったと。
実力ある公族が少なすぎて臣下に実権を奪われやすくなる例としては曹魏に似てるね。
公族が弱く卿大夫が強い。支配力の低下に直結するだけにマイナスじゃなかろか。
166 :
164:2007/05/29(火) 23:39:20 ID:dmFNzotc0
>>155だった、、、
>>165 それまでが西晋に似てるくらい桓荘の族の害が大きかったんだろし、
元々分家が乗っ取ったから本家系の一族がいないのは仕方が無い
それを修正出来なかった恵公、文公などにも一因があるのでは、、
諡号も良諡だし、親父が武公じゃなければ武公になっていたんじゃないか、と
献公の権勢が強かったから、臣下に封地を与えても統率は取れていたと。
恵公が弱すぎて公族復活できなかったんじゃないか?
>>168 それもあるけど、恵公は自分の子孫以外の公族を復活させる気なんて
無かったのでは?
重耳を殺そうとした位だし、たぶん圉(懐公)等の自分の血脈で、
公族を復活させるつもりだったのかも。
文公が帰還したときには公室の直轄だけでは
卿大夫の勢力を押さえ込めるほどの力がなかった、と。
公室の力も弱いけど、卿大夫もそんなに大族はないと思うけど、
郤芮は恵公が抑えていたのだろうか、里克や邳鄭もあっさり
恵公に倒されたから。
欒枝・郤穀・韓求伯・畢萬・士缺・羊舌伯僑・屠撃・荀逝敖
時代的にはこのあたり。
172の卿大夫が、揃って恵公の言う事に
従わなかったという感じか。
あと狐突と先氏か、先軫は重耳の亡命の旅に
従ったとも国内に残ってたとも云われるから、
一族の長は先軫でいいのかな。
先丹木か先友か。
卿大夫であっても在地領主なわけで、亡命している当主は当主じゃないでしょ。
亡命した卿大夫なら狐氏兄弟や臼季は当主かも知れんよ。
じゃ下の行取り消すよ。
管中の上卷まで読んだが、晋の話はほとんど出ないな、
鄭の荘公が有る意味、覇者だったとしても鄭より西の国には
ほとんど影響を与えてないですし、
西国の虢は鄭と同レベルの国だったのですかね。
鞏雎黶雍隗隰閹鯀驩騅駢酖扈郤鄒邱贏范耿羈缺絳絲紂糜粲稙禹疇甄
携帯コピペ用メモ
周王室が大諸侯を封じるときにはそれぞれ軍事的な役割をあてがわれてるように思う。
異民族をそのまま国にした斉、北狄には晋、西戎には秦と梁、南蛮(楚)への予備役にカク。
時代が下って王室守護のために鄭を置いたものの、王室を分割して封じたために
相対的に王室の権力が低下してしまった。
180 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/11(月) 16:49:33 ID:pgThTTWxO
春秋通しての晋のライバルといえば楚だけど見事に対照的だね
晋は大夫の権力が強く楚は王族の権力が強い
晋は勤王につとめ楚は周王にとって変わろうとする
軍事的にも晋は三軍が皆各自独立して動くことができ楚は王の中軍に戦力を集中している
方角も南北と対照的だし他にもいろいろありそうだ
周王室の実質的な敵が楚だもんな。
卿は周から見ると陪臣だが、諸侯は周の許可なく卿を任命できないんだよな
卿は元来周王室から任命されて諸侯を補佐するって建前なんでは?
御三家の付家老みたいなもので
>>182 知らなかった。
斉では高・国氏は国君がかなりの力を持ってたみたいだけど
晋だと武公以降、ゲキ穀以前の正卿は周より認められていなかったとか。
誤:高・国氏は国君がかなりの力を
正:高・国氏がかなりの力を
>>184 管仲が上京した際の例がいちばんわかりやすいというか有名だと思われ。
187 :
ぷ@携帯:2007/06/15(金) 16:25:36 ID:O46aDw+TO
六卿になったはずの鞏朔が上京したときもおすすめ。
左伝だとかなりひどい扱い。
188 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/18(月) 02:07:36 ID:ejtgAXGmO
それ、いつ頃だっけ?
189 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/18(月) 02:11:14 ID:tcv7Ir090
190 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/18(月) 19:17:19 ID:LAPEetWo0
鞏朔=趙朔と思ってた。ぐぐってみたら士荘伯などと
書いてある所があった、士荘伯=士弱=鞏朔なわけは
ないだろうし。
192 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/18(月) 23:39:33 ID:ejtgAXGmO
>>191わざわざありがとう、んで左伝を見てきた
これはキョウ朔が王室から任命されてない卿だから周王が下に扱った部分もあるけど、それより晋が斉を攻めたことを責めてるんじゃないかな。
このアンの戦がゲキ克が侮辱を受けたことによる個人的な報復から始めた戦争であることを非難してるんだと思う。
左伝のこの段の「士荘伯不能対」ってのは、読み方によっては
士荘伯≠鞏朔
にも見えるんだけどね。なぜかオレの持ってる本ではすべて同一人物になってる。
>>192 王様の言い分は尤もなんだけど、まるで姑の言い分のようで。
これは晋が四つの非礼を犯していることが原因なのでは?
ひとつめは鞏朔が周王によって公式に任命された卿ではないこと。
ふたつめは異性の国を討伐した場合は捕虜は献ぜず報告のみにとどめる事。
みっつめは斉が王室と通婚関係にあったこと。
よっつめは晋があっさりと開戦に踏み切って戦争回避の努力を怠った事。
とまあ左伝から読み取れる部分を抜き出しただけだけど。
>>193さんが「士莊伯不能對」のくだりが士荘伯≠鞏朔と感じた原因は
俺にはわからないけど。
>>193 鞏朔は士弱ではないけど士氏という事ですか。
オレの漢文の読み取りが甘いと言われればそれまでなんだけど・・・
晉侯使鞏朔獻齊捷于周,王弗見,使單襄公辭焉,曰,蠻夷戎狄,不式王命,
淫湎毀常,王命伐之,則有獻捷,王親受而勞之,所以懲不敬,勸有功也,
兄弟甥舅,侵敗王略,王命伐之,告事而已,不獻其功,所以敬親暱,禁淫慝也,
今叔父克遂有功于齊,而不使命卿鎮撫王室,所使來撫余一人,而鞏伯實來,
未有職司於王室,又奸先王之禮,余雖欲於鞏伯,其敢廢舊典以忝叔父,夫齊,
甥舅之國也,而大師之後也,寧不亦淫從其欲,以怒叔父,抑豈不可諫誨,
士莊伯不能對,王使委於三吏,禮之如侯伯克敵,使大夫告慶之禮,
降於卿禮一等,王以鞏伯宴,而私賄之,使相告之曰,非禮也,勿籍。
鞏朔と士荘伯(士弱)が別人として、士弱が鞏朔の介添えをできなかった場合でも
この文で理屈が通ると思うんだよね。
鞏朔は王から「鞏伯」と呼ばれて「周の籍にない人」と言われているので
士氏の一族ではないだろうし。(士氏ならば周の籍にあるはずだから)
197 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/22(金) 09:36:13 ID:lRtg8ZalO
保守あげ
漢文の読み方がわからん俺には・・・・
200 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/22(金) 20:41:25 ID:0iwITPZgO
世界史板の方はかなり過疎ってるな
漢文てのは翻訳サイトにブッ込むと、かなり酷い訳しか返ってこないんだな。
>>196 実は鞏朔といっしょに士弱が派遣されてたと解釈するってこと?「晉侯使鞏朔」とあり、
「所使來撫余一人,鞏伯實來」とあるのに「実は士弱も派遣されてその場にいました」って
のは無理があるんじゃないのかねえ。
そもそも鞏朔と士弱の活動年代に結構なずれがある、ってのは昔どっかで指摘したよな。
あと「介添えをする」とか「周の籍にある」とかってのはどの部分の訳なの?
士弱はこの頃は青年ぐらいだと思われるのだけど
鞏朔の副使となる事は考えられないですか?
>>202 王に面会したのは卿の鞏朔一人で大夫の士荘伯は対せなかった
→外務担当の士荘伯が王の謁見に応対できなかった
別に無理はなさそうですが。
>>203 士弱は襄公九年(564B.C.)に晋悼公から宋の火災につき下問され、襄公二十五年(548B.C.)に
鄭の子産と対話しています。
成公二年(588B.C.)の時点で20歳とすると、襄公二十五年(548B.C.)の時点で60歳。子の士匄
(子文伯)が初めて登場するのが襄公三十年(543B.C.)であることを考えると、成公二年の時点
ではもっと若かったと推測されます。
>>204 まず、鞏朔はこの時点では卿ではありません。卿となったのは翌年の成公三年(587B.C.)で、
それまでは宣公十二年(597B.C.)に任ぜられた上軍大夫であったと思われます。
王の言葉の中にも「命卿に王室を鎮撫させずに」とありますしね。
また、ここでは単襄公が王の言葉を代弁しており、「寧〜」「豈〜」と問いかけで結ばれています。
「対」はここでは「こたえる」と解すべきでしょう。「応対する」の意味ももちろんありますけど。
久しぶりに苦手な人が来てるな。あまりトゲ立てずに頼むよ。みんな逃げるから。
>>202 一緒に派遣されたワケじゃないでしょ。「ひとり来られた」んだし。
ただこの場にいなさそうな士荘伯の名がなぜ出たかが説明できない。
年齢的には士握濁が見られなくなる時期と近いから無理ではないんじゃ。
>介添えをする
士荘伯の「介添え」とかはオレの思い付きによる仮定の話。
王に使いするのに面識ない鞏朔一人というのも不自然だと思ったので。
>周の籍にある
而鞏伯實來、未有職司於王室
いやあ、あれからどれくらい忠告どおり史料を読み込んだのかな、と思ったもんでね。
せいぜいみんなより先に逃げないでくれよな。
>一緒に派遣されたワケじゃないでしょ。「ひとり来られた」んだし。
念のため言っとくけど、「余一人」で王の自称だからね。一人で来たとか関係ないからね。
>ただこの場にいなさそうな士荘伯の名がなぜ出たかが説明できない。
別にここでいう「士荘伯」をどうしても士弱と考えなくてもいいんじゃないの?杜預も
そう言ってるんだし。文公七年には先蔑を「士伯」と称している例もあるし。
>年齢的には士握濁が見られなくなる時期と近いから無理ではないんじゃ。
士握濁はこれより16年後の成公十八年(573B.C.)に大傅に任ぜられてるよ。
初めて士握濁が登場するのが宣公十二年(597B.C.)だから、やっぱり成公二年時点で
周に使いできるほどの年齢の子がいたとは考えにくいけどねえ。
>王に使いするのに面識ない鞏朔一人というのも不自然だと思ったので。
しきたりに従わない不自然な使者だったからこそ王は会わずに単襄公にイヤミたらしい
口上を伝えさせたんじゃないの?
>未有職司於王室
そこは文字通り読めば「王室に職位を持たない」だよね。広く取れば「周の籍にある」と
いえなくもないけど、ここではもっと限定されてると思うけど。
逆に士氏はどういう籍が周王室にあるというの?
つまんね。また潰しか。一番下段だけ。
隰叔の血統なら周室に属していると判断していいんじゃないの?
「潰し」ってアンタ、まだまだいくらも圧かけてないよ。根本史料の『左伝』からちょっと反論
材料を拾っただけでしょうよ。
この程度でつぶれちゃうくらいの根拠で物を言ってたの?相変わらずだね。
>隰叔の血統なら周室に属していると判断していいんじゃないの?
それはどういう経緯で隰叔が周室を離れて晋に仕えるようになったか知っての上の
発言と考えていいのかな?
ここでの「王室に職位を持たない」は「命卿でない」の言い換えでしょうよ。
んなことやってるから話題が膨らまないんだろ。知識あるならさっさと吐きなよ。
少なくともオレは面白くない流れでスレに居続けるつもりはないし。
あら?泣かしちゃったかな。じゃあ邪魔者は消えましょう。
またヒマがあって妄言を見かけたら来るかも知らんけど。
ああ、もう涙目で続ける気力もないよ。
また明日からカンフル打ってがんばるさ。
内輪の応酬ならチャットでやればいいのに
>やっぱり成公二年時点で 周に使いできるほどの年齢の子がいたとは考え
にくいけどねえ。
15歳以下で子供を作る事も、60歳以上で作る事もある世界なので十分考え
れれると思いますが。
>別にここでいう「士荘伯」をどうしても士弱と考えなくてもいいんじゃない
の?杜預も そう言ってるんだし。文公七年には先蔑を「士伯」と称している
例もあるし。
賛成ですが決め付ける事も難しいですね、史書に書いてある事を無視するのも
なんですか。
あと気になるのは20才そこそこで使者となる事例はあるのだろううか?
この時の鞏朔は9番目ぐらいの席次ですか周への正使がこれぐらいの
序列で問題ないか?、又はそのせいで周王は鞏朔を辱めたとか。
割り込み失礼。
手元の岩波文庫の左伝を見たんだが、もし、
鞏朔=士荘伯=士弱
だとすると、鞏朔の名前は文公十七年(610B.C.)に既に出てるから、
士握濁より早く登場してることになる。
あと、
士握濁 登場:宣公十二年(597B.C.) 大傅:成公十八年(573B.C.)
に対し
鞏朔 登場:文公十七年(610B.C.) 卿:成公三年(588B.C.)
だから、むしろ鞏朔の方が士握濁より年長でもおかしくないくらいに思う…
それにしてもこの鞏朔or鞏氏ってどこから出てきたんでしょうね。
鞏朔の前にも後にもいないみたいだけど
三国志演義に鞏志っていなかったっけ、主君殺しの。
>>211 無駄に煽りめいた物言いはなんとかならんの?
知識があっても人間性の未熟なオタ丸出しじゃんよ
勿体ない
>それにしてもこの鞏朔or鞏氏ってどこから出てきたんでしょうね。
鞏氏も知らないけど、少し前のユ駢も知らないし日本でいうと菅原道真や
吉備真備みたいに例外的な存在ですか。
あと陽処父は趙盾に多大な恩を売ってる訳だし子孫が出て
こないのが変かな。
解揚は後に上卿になったような事をどっかでみたような事
があるのだけど名誉的に卿の位を与えられたのですかね。
陽処父は賈季と続簡伯に殺されてるからそこで没落でしょ。
>>214 上で誰かさんが「どの本を見ても同一人物になってる」って言ってるけど、それもそのはず
ここに杜預が「荘伯鞏朔」と注をつけているからなんですな。訳本しか見てないと分かりにくい
ところだけど。
杜預がどういうスタンスで注をつけたのか、文脈からここは鞏朔でしかありえないと判断した
だけなのか、それとも鞏朔が士荘伯と呼ばれる確たる根拠を持っていたのか知りませんけど、
杜預の判断はあるていど尊重するべきでしょうな。
逆にこれをひっくりかえして、ここでの士荘伯=士弱と解釈するためには、
1.そもそも成公二年に士弱が登場できうるのか?
2.士弱がなぜ鞏朔と共にその場にいたのか?周に派遣されたとは一言も書かれてないのに。
3.明らかに使者鞏朔に向けられた問いかけなのになぜ「士荘伯は答えられなかった」なのか?
士弱がなぜ返答する立場にあるのか?鞏朔の使者としての立場は?
このへんを合理的に説明できないと難しいと思うのですよ。ゆえに1.を考えるに当っては
極端なケースを考慮せず一世代三十年で考えてみたんですな。
>>217 ゴメンネ。まあだれにでもこういう態度ってわけじゃないからカンベンしてよ。
やるといったことをやってない人にはトゲトゲしくなります。
何があったかは知らないがたかが掲示板、それも趣味カテゴリなのだから
憶測や仮定の話をいちいち叩くのはどうなのかと思いますがね。
>>220 解説乙です。
間違いを指摘しあうのは、いい事なので攻撃的にならずお願いします。
鞍の戦い前後は、郤氏の全盛期のはずだけど、新三軍の将に郤氏
はいないね。
郤克自身は謙虚な人物だったのか、隠居中の士会の目が気になってた
かもと考える。
士会もそうだが趙盾の消え方が不気味。
225 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/30(土) 22:19:17 ID:aKYmMr4eO
趙盾は功も大きいが罪も大きいな
公行になって逃げる処世術がステキ。
(趙括・趙同・趙朔)と(郤リ・郤至・郤犨)では何となく趙氏の方が
強大そうだな、趙盾時代は一つに纏まっていただろうから他の卿より
一歩抜けた存在だったのかな。
勢力だけなら欒氏のほうが封地が多そう
鞍の戦いの頃の欒書は目だってないような、
邲の敗戦以降から最も出世したのは知氏(荀首)ですよね、
逆に先氏は滅んでいるが、先氏の所領が知氏に行ったのかと
想像してみる。
230 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/01(日) 13:15:28 ID:/q3Tz8IH0
知または智は地名から来てるの?
231 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/01(日) 17:04:09 ID:LDW+EcprO
ラン書は君主を殺したが国民には愛されたという希有な人間だよな
>>231 趙盾同様に君主殺しもやらなければ逆にやられたと思われる
同情できる面はあるのだけど、趙同・趙括・三郤・胥童・詞と
血生臭い事件が多すぎるよね、
まあ危険人物を毅然とした態度で滅ぼしたともいえるかな。
今更ながら、士氏の「士」は何なんだろう。
>>230 晋の荀首が知に封じられ、子孫が封地名をもって氏(族名)とした。
>>233 杜伯の子、隰叔が晋に亡命し士師の官に任命されたので子孫が
官職名をもって氏とした。
知がどの辺りかわからないです。
ちなみに先氏の所領というと原(趙氏に与えられているので関係
ないか)・霍辺りですか。
知は令狐の西南・魏の西北で
黄河が分水から合流後、南北に流れている河畔の邑みたいだね
>>235 レスサンクスです。
令狐の戦いの恨みから、秦伯は晋に侵攻し、羈馬(この辺かな?)を占領
したので晋の人はこれを向かえ撃った。・・・河曲の戦い時。
>>234 上のほうにある士荘伯や士蔑の「士」も士師の職から来てるのかな?
つーかまさにその士氏の話じゃないのか
239 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/09(月) 00:31:57 ID:oDtNRpzoO
士師という役職をあまり見掛けない件
240 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/09(月) 01:13:53 ID:8Gpy962+0
過疎ったなここ
狐毛ー狐シンの方の系統はどうなったのですか?
>>239 あまりってことは少しは見かけてるってことだね^^がんばって思い出せ!
管仲の周辺で見たような気が。斉は関係ないか。
こうよう
中国では春秋時代の事について書かれている資料は日本訳のない物
はどれぐらいあるのかな。
人減ったね
知氏と中行氏と氾氏っていつ滅んだの?
ゲスなツッコミが入るからみんな書き込まなくなったな
つか質問スレになってるのが一番の原因じゃないのか?
話題膨らませずに単発質問だけ繰り返してたらそりゃ過疎るよ。
そりゃそうだ。
楚の話題だけの専用スレ立ててやり直しましょか。
晋の六卿よりは話題が続きそうだから、よい考えと思います。
不足と思うならば、戦国七雄スレを立てればよいかと。
【芋?】春秋戦国:楚総合スレ【クマー】
叔向『わが公室も今はやはり末世です、もと卿だった欒・郤・胥・原・狐
・続・慶・伯の八家は没落して政権は私家に握られ、君は日ごと反省もなく、
歓楽で憂いをまぎらわしておられます、公室の衰微は、もう間もないこと
でしょう』
この八家のうち、原=先軫〜先穀、伯宗、慶鄭でこの三家は滅んだと解釈
していいのだろうか?
続氏は分からないですが。
続簡伯こと狐鞫居のことじゃあるまいか?
>>255 ありがとう。寝てもうた。
他に続とかいう氏を名乗る人を聞かないんでたぶんそうなんじゃないかと。
襄公が亡くなった時に趙盾は従兄弟にあたる季隗の子を選択肢に入れなかったのだろうか?
季隗は公子雍の母より序列は上なのにな
襄公より年上ってのがアウトなんだろうか
序列は上って公子雍の母が位を譲ったからだろ・・・
国君の御母堂ならば、国の母も同然。
だれが狄の小氏族の娘を国の母と思おうか。
公子雍をや公子楽が候補に挙がったのも御母堂が国の母にふさわしいからって理由だっただろ。
異母兄弟への継承+狄の人+趙盾の擅権が成立できない(親しすぎて権力を握り切れない)
季隗の2子が襄公死後に後継候補たりうる理由はないんじゃないかと。
襄公の死後じゃなくて霊公の死後の時でもいいんだけど
狄の小氏族の娘と言っても正卿の母ももちろん狄の小氏族の娘
文公だって母だってそうだし、もう当時はそこまで卑しいとは思ってないのでは
季隗は2子を狄に置いて文公のところに来たわけで、晋の公室に居たことがない、
というのもマイナス要因だったのでは?
公子雍や公子楽は文公とともに晋に入ったか、あるいは晋で生まれたか、
いずれにしても晋の公子となって、それから他国に出たんだろうし。
狐姫の父狐突は晋の将軍だったわけだし、文公自身も晋の公子として育った。
季隗の2子と比べるまでもないと思う。
さらに言えば、正卿の母ももちろん狄の小氏族の娘ってのが一番いけない。
正卿と国君の母の出が同じでしかも狄。反発されない理由はひとつもない。
狐姫って狐突の娘だっけ?
オレはそう信じてる。
その仮定なら孤偃の娘と重耳とはイトコ同士の結婚
だったら逸話としてイトコ同士だった、と残っていても不思議ではなかったのでは
春秋時代の中国って近親間の結婚はありえますかね、
父方の同姓はともかく、母方の同姓は無問題ですか?。
父方の同姓とか母方の同姓って馬鹿か?
その人間の属してる家の姓名乗るわけで
「おれ、父方の姓名乗る。」
「おれは父親の姓嫌だから母方の姓名乗る。」
みたいな姓の名乗り方はありえないのな。
母方の従姉妹を娶るのは特に珍しいことじゃないもんね。
Cross-cousinてヤツね。
その仮定なら恵公も狐突の孫なのに重耳に肩入れしすぎだな
狐毛と狐偃がってこと?それとも狐突がってこと?
申生と重耳と夷吾と奚斉は皆、献公の子なのに奚斉に肩入れしすぎじゃね?
夫人の子と媵の子が同ランクになるほうがおかしくないだろか。
つか、覇者になった文公とその周囲が晋を支配していったのだから
恵公に肩入れした記録をわざわざ遺すようなヘマはしないと思う。
文公の重臣たちそういうところまできっちり気回りそうなの何人も居るしねぇ…
申生が健在な時から重耳は優秀な家臣を揃えてるけど、申生に
従う家臣が少ないよね、リ姫の乱以前の三公子の立場はあまり
差を感じないのだが。
重耳に付いた臣のうち大夫が郭エン1人だったころ
申生には大夫が7人も付いてたはずだけど。
趙氏の中で趙成だけあまりにも目立たないけど、何かエピソードないの?
趙成は趙成子の子孫
ああややこしい
279 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/08(水) 03:17:06 ID:Hp/+XNHiO
卒業論文に晋の六卿について書くことになってしまった
ガンバレ
卒論か
何もかも懐かしい
オレも春秋戦国時代の研究がしたかったなあ
卒論チョーガンガレ!
メインテーマは何なんだ?
283 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/10(金) 20:39:44 ID:nSOo26260
士会の子孫、漢高祖
竜が出てきそうな勢いだな。
荀林父と荀息はどういう関係かわかる人いませんか?
保
287 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/19(水) 13:27:23 ID:BCoS4R3IO
質問してから1ヵ月答え無し…やはりクレクレはダメなんですね。
世代から考えて伯父甥か祖父と孫かなと勝手に自己解決
もうそれでいいやな。
邲の戦いの後から、断道の会までの5年間の晋国内での勢力バランスは
こんな感じでいいのだろうか?
景公・・・・先穀・趙朔を滅ぼし晋公主体の政治をめざす。卿らが力を取り
戻すと屠岸賈を切り捨てる。
屠岸賈・・・仇の子である趙朔を殺し景公に近寄る、卿になろうとするが他の
大夫たちに嫌われてなれない。
荀林父・・・邲の敗戦の責任者であり、処刑されかねなかったが士握濁が景公
を諌めた事により正卿の地位に留まる。
士会・・・・邲の敗戦後は荀林父のフォローに徹する、荀林父の後を受けて
正卿になる。
郤克・・・・士会と共に敗戦の被害を最小限に抑えており、景公の信頼も厚く
郤氏の勢力を着実に伸ばしていく。
欒書・・・・邲の敗戦時は被害の大きかった下軍の佐であり一時的に勢力が
低下したかも。
荀首・・・・下軍に属していたが武功があり、成公に愛され、大夫たちに信頼
されており出世を重ねる。
韓缼・・・・唯一人趙朔の味方となっており、趙家再興に力を尽くす、卿大夫
から尊敬を受ける。
趙同、趙括・・・趙朔亡き後、趙氏の主として卿となるが、欒書を始め他の
大夫から憎まれる。
魏顆・・・・秦軍を単独で破る、魏氏は卿にはなってないがかなりの力を
付けていると思う。
祁奚・・・・景公より趙氏の田土を受けたが、趙氏再興により返還させられ
る。
伯宗・・・・郤氏に憎まれる程度に大夫の中では有力だったのか。
胥童・・・・屠岸賈と同様かっての名族に落ちぶれている。
話が変わりますが、沢尻エリカの騒動に知伯とダブって見える。
290 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/08(月) 16:24:11 ID:bUjMdLmdO
>>285 単純に人少ないからしょうがないよ
宮城谷昌光先生が荀息と林父の関係性
全然わからんて小説で書いてるくらいだから
ソース残ってないんじゃない?
「小説をソースにするな!」といいたいところだが
宮城谷先生ほど古代の資料を調べている人がわからないんじゃ
新たな史料が発見されない限りは謎なんだろうな。
>>289 ではなんで屠岸賈が趙朔の家を滅ぼす事ができたのか、
どういう状況だったのか考えてみた。
景公は子の詞より君主として出来がよくなかった様な気がする。
詞の代には、その為求心力が低下してそうな。
楚の荘王の全盛期であり、名宰相士会の時代では上手く景公を立て
国力が回復させ、内乱を起させないように出来ていたのだろうが。
293 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/15(木) 00:43:07 ID:hajQIknjO
晋の六卿や家臣の家系図を調べるに当たって何か信憑性のある資料ってある?
オレは左伝で適当に納得してる。
295 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/03(月) 18:48:41 ID:8oXfm/Ly0
趙衰の子の中で、趙同の立場って微妙だよな
296 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/05(水) 01:46:39 ID:rmGmMNIr0
ツンデレの士匃について
詳しい事跡が載ってる資料ってあるかなあ
297 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/16(日) 12:12:17 ID:WP1VUdd20
298 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/13(日) 00:08:37 ID:Iq+7nWyI0
士匃の正しい字って変換できる人いない?
晋の六卿で結構スレが伸びるものなんだな。
300 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/14(月) 11:54:30 ID:Rkh0U4LO0
新しい資料なんて出ないのだから、なるべく史実に沿った小説が出ると、
話が弾むかな。
宮城谷先生に書いて欲しい。特に知瑶が出てくる時代
もうすぐ1年か。
302 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/23(水) 17:30:45 ID:7p6D3iD3O
ほしゅ
303 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/24(木) 02:21:07 ID:1Cas2mwg0
過疎っているので活性化のため話題を一つ。
文公重耳が驪姫事件で亡命した際、付き従った名のある士が五人といわれているが、
『史記』では趙衰、狐偃、賈佗、先軫、魏武子の五人。
『左伝』では狐偃、趙衰、顛頡、魏武子、司空季子(胥臣)の五人とある。
結局、どっちが正しいんだろうね。
宮城谷さんは話を面白くするためか、全員付き従わせとったけど。
賈佗って誰だっけ?
狐射姑。
306 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/26(土) 01:47:55 ID:+c1KIafPO
ほしゅ
307 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/26(土) 01:59:18 ID:Lo5oDTmC0
『国語』晋語四の韋昭注に「賈佗狐偃之子狐射姑太師賈季也。」とあり
この注どおりなら賈佗=狐偃の息子狐射姑であるが、
韋昭が何を根拠にそう言ってるかは不明。
狐射姑は賈季とは聞くけど賈佗とは初耳でした。
>付き従った名のある士が五人
格からいったら、狐偃、趙衰、先軫、胥臣、魏武子が普通だよね。
随行者に狐毛は確定ではなかったんだっけ?
狐毛、狐偃、趙衰、先軫、胥臣かと思ってた
311 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/14(木) 01:52:44 ID:wAizyfTR0
狐毛は『史記』、『春秋左氏伝』による文公に随行した五人に外れているが、
懐公が狐突に重耳(文公)に随従している息子の狐毛・狐偃を呼び戻すよう脅す記述が
『史記』、『春秋左氏伝』両方にある。
余談だが、宮城谷氏の『重耳』だと、狐突が息子の狐毛に「お前は何もとりえが無いから、
重耳が危機のときは命を投げ出せ。」と言う場面がある。
弟の狐偃に比べると活躍する記述が少ないからって、幾らなんでもとりえが無いってのは酷いよ宮城谷さん(笑)
おおよそ重耳の輔政の臣っていえば狐偃が筆頭に挙がって、次が趙衰あたりに
なるものね
狐毛がどこかかわいそうに思えるのは俺自身が弟をもつ兄だからかもしれん…
というか狐毛は狐偃のお陰で歴史に名を残してるようなものだろ
狐偃のお陰で上軍の将になれたんだし
蜀の弟は龍なのに兄は馬だと言われた諸葛家の兄ちゃんも仲間か
東周英雄伝っていう漫画の介子推の話が良かったんだけど、
介子推は5人の名臣には入らないが、80人の従者には入ってるのかな。
重耳の従者は何人ぐらい名が挙がるか分らないけど、後の時代で名家以外
で出世した人物は普通に重耳に従っていたのだと思う。
そういや介子推の家臣だったかが落書した
「五匹の蛇のうち四蛇は龍と化したのに、一蛇だけは人知れず去った」みたいな詩があったよね
あれだと四人が功臣として名を遂げたってことになるね
たとえ従者が100人いても
十数年一緒に放浪したのだから
介子推ことはもうちょっと認識されててもおかしくないのにな
みんなが上ばかり向いていて
下の者の苦労や才能に気付こうとする者がいなかったか
それ言っちゃうと、文公も名君と言われているも?のつく人物だし、文公と国に帰る船の中で
誓いを暗に要求する筆頭家臣もいるからな。介子推のような人物はうざいんだろうな。
319 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/29(金) 21:01:51 ID:iS4dW8xq0
むしろ介子推は運が良いほうなんじゃないかな。
文公のため名を知られることなく命を散らせた忠臣たちがたくさんいたはずだ。
介子推は自分の為だけでなくそういった人たちのためにも抗議行動として身を隠したのかもしれない。
勘違いかもしれないけど、介子推の霊を慰める為にちまきを食べるという
風習があったような気がするのだが、(屈原だったかな?)
自分の中では宮城谷氏の小説と違い綿山で焼死するイメージが強いので。
寒食 (火をつかって調理しない)
寒シ足に見えた
欒書の息子で欒鍼の子重への言葉の「晋国の勇は常に整然としている。その上に常に余裕がある」は
とても気に入ってるのだが、欒鍼って左伝でもあまり出てこないし、宮城谷氏の小説では猪武者みたいな書かれ方だよね。
?陵の戦いでの子重の旗を見かけた時の詞への申し様は、前言に背かず、君を辱めず、
礼に合している振る舞いだと思うのだが、あまり評価されてないというか…
遷延の役の時に戦死しているけど、これも子重への言葉にある、晋国の勇を守ろうとしたのかな、
とか思ったりするのだけど。
出番が少ないのは庶子だからとしても、評価されてないのは、父の欒書が弑逆したり、
進言した詞が暗愚だったり、相手の子重が貪欲だったり、と関係者もイマイチだから
なのかしら…
>>323 戦死しなければ、知氏や范氏のように分家たてられたかもしれないと思う。後に范鞅も執政
になったみたいだから当然後押しをしているだろうし、少なくとも兄の欒黶よりまわりに人が集まりそう。
この人の死の影響が晋にとって悪影響大きく欒盈の乱で多くの家を巻き込んでいる。
欒鍼というと特に印象になかったな、傍流に位置して好戦的
な魏リあたりと似たようなイメージしか。
弟は往くつもりでなかったのに、お前の子が誘ったのだ。
そして弟は死に、お前の子は戻った。
つまりお前の子が私の弟を殺したのだ。
お前の子を追い払え。さもなくば私が殺してくれよう。
まあ乱暴ながらも家族思いの兄ちゃんではあるのか、
あるいはタダの見栄っ張りなのか。欒黶。
欒黶は乱暴者だが、優しさがある人物だったのかね、
ただ上司に向って脅迫したようなものだから・・・
お前の子=士鞅は計算高くて陰湿な感じがする。
欒氏というと、やっぱり欒盈が哀れでならない
まだ欒黶の代で滅ぶならわかるけど、欒盈の様に父や叔父とは対極的な人間の
代で滅ぶってところが無常というか、なんというか
伯氏もそんな感じかも
伯氏の場合、伯宗や伯州犂が清廉だったのに対して、
伯嚭が貪欲だった所が、欒氏とは真逆なんだよな。
ちなみに伯氏って、伯宗や伯州犂、伯州黎、そして伯嚭と
4代続けて横死してるのもあまり例が無いよな。
欒鍼が戦死したのは遷延の役で全軍が退却する中、秦軍に突撃していったからだけど、
そもそも総退却に至ったのは、下軍の将の欒黶が中軍の将の中行偃の命令を無視する形で
退却したこと(これは中行偃の指令がダメダメ、ってのが大きいけど)が引き金なわけで…
それに対し欒鍼は、
「復讐に来たのに戦果もなく退却とは、兄の車右として恥ずかしくてたまらぬ」
と言って突撃したのだけど、これは、いわば兄である欒黶の退却という行動を批判した、とも
取れるのかなぁ、と。
欒黶の士カイへの言葉は責任転嫁にも取れるような。
331 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/14(金) 00:25:45 ID:mpSljQE8O
ほしゅ
332 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/14(金) 01:25:53 ID:dJCNEKN10
士鞅の「欒書の徳は民に行きわたり、あたかも周の人が召公の遺徳を慕ったのと似ています。(中略)
欒書の子欒黶を殺すことはないでしょう。しかし、欒黶が死ねば、その子盈の長所がまだ知られぬうちに、
祖父欒書が施捨した効果は消え、父欒黶への恨みが表面に出て来るでしょう。
欒氏が亡びるのはきっとその時です。」という言葉は印象深い。
士鞅の預言の的確さもすごいが、郤氏や詞を滅亡においやったのに民に死後も慕われた欒書もすごい
晋の正卿は死後名声が高いのが多いような気がする、比較的早く滅んだ、
先軫、先且居、郤缼、郤克は逆に活躍の割りに名声が低いように思える。
>>332 気になったんで調べてみたけど、襄公14年ね
先氏、郤氏とも、そのすぐ下の子孫が不始末を起こしてるからねぇ
先氏は、先克が政争で死んだのはいいとしても先穀は国に背いてるし、
郤氏も三郤は公命による誅殺だし、その辺が評価に掛かってるのかも?
そういえば、先、郤とも、親子で正卿になっているね。
同じく親子で正卿になった趙衰、趙盾も次の趙朔の代に(後に復興するとはいえ)滅亡してるし、
やはり親子で正卿になるほど権力を握る期間が多いと恨みも多くなるのだろうか。
他に親子で正卿って…韓蕨、韓起ぐらい?韓氏はうまく乗り切った感じがするから、
一概には言えないかな…
>>336 爵位が高いと士に妬まれ 官位が大きいと君に憎まれ 祿が厚いと人に怨まれる
というからね
本人は努めて謙譲を心がけても、一族や与党のなかには権勢を笠に着る
不心得者がいれば怨みを買う
一族が富強であればそれだけで妬む輩もでてくる
そのいずれも満たしていないとしても、君主が過剰に自己主張や恣意旺盛で
あったりすると、たとえ正卿ができた人物であったとしても権力の大きな臣下と
いうことで目障りで疎ましくなる
韓氏の場合は、貧しさを嘆く韓起に対して、欒氏や郤氏が滅んだのは富裕で
かつ傲慢だったからで、貧しい事はむしろ喜ぶべきという叔向の忠告に従ったから
というのもあるんだろう
そのわりには祁氏と羊舌氏が滅んだ時は他の卿としっかり領地を分け合ってた
気がするが
>>337 なるほど、そういえば趙盾も霊公に憎まれてあわや、だったね。
祁氏と羊舌氏の領地を分け合ったのは、韓起が死んで、魏舒が執政になってからの
ことだから、韓起は叔向の忠告を守りきったのかも。
そういえば、名宰相と言われた趙武でも最期はくどくどとして老人のよう、とか言われたけど、
韓起は最期まで評価を落とさなかったかな…叔向や子産から細々と忠告されてる点、
至らぬところがあったんだろうけど、それを正しく受け入れてこれた、とか。
339 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/18(火) 01:54:19 ID:q6SVg419O
ほしゅ
340 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/18(火) 03:27:02 ID:QYjx1sjO0
趙氏 趙衰:重耳につき従い亡命 趙武:父趙朔の死後、趙氏滅亡寸前に陥る 趙鞅:中行氏・范氏の乱で滅ぼされかける 趙無恤:知瑤に晋陽を水攻めにされる
魏氏 魏犨:重耳につき従い亡命、罪を得て車右を辞めさせられる
知氏 知罃:楚の捕虜となる 知瑤:趙・魏・韓に攻められ知氏滅亡
中行氏 荀林父(中行林父):邲の敗戦で自殺しかけるが止められる 荀寅(中行寅):反乱に失敗して斉に亡命、中行氏滅亡
范氏 士会(范会):秦に亡命 士鞅(范鞅):秦に亡命 士吉射(范吉射):反乱に失敗して斉に亡命、范氏滅亡
郤氏 郤缺:父の郤芮が乱を起こしたため、庶民として野に隠れる 三郤:詞に粛清されて郤氏滅亡
韓氏 特になし
特に危機のない韓氏すげぇな、おい。
341 :
名無しさん@お腹いっぱい:2008/03/18(火) 15:35:54 ID:bld0K3/k0
>>340に追加
趙氏 趙衰:重耳につき従い亡命 趙盾:霊公に粛清されそうになる 趙朔:霊公暗殺の罪を着せられて粛清 趙武:父趙朔の死後、趙氏滅亡寸前に陥る 趙鞅:中行氏・范氏の乱で滅ぼされかける 趙無恤:知瑤に晋陽を水攻めにされる
魏氏 魏犨:重耳につき従い亡命、罪を得て車右を辞めさせられる 魏舒:会盟後の余興の山狩りで獲物を炙り出そうと山に火をつけたら、自分が巻き込まれて焼死
知氏 知罃:楚の捕虜となる 知朔&知盈:相次いで早世 知瑤:趙・魏・韓に攻められ知氏滅亡
中行氏 荀林父(中行林父):邲の敗戦で自殺しかけるが止められる 荀寅(中行寅):反乱に失敗して斉に亡命、中行氏滅亡
范氏 士会(范会):秦に亡命 士鞅(范鞅):秦に亡命、士吉射反乱の責任を問われて失脚 士吉射(范吉射):反乱に失敗して斉に亡命、范氏滅亡
郤氏 郤缺:父の郤芮が乱を起こしたため、庶民として野に隠れる 三郤:詞に粛清されて郤氏滅亡
狐氏 狐毛&狐偃:重耳につき従い亡命 狐射姑:趙盾との権力争いに破れ亡命、狐氏滅亡
胥氏 胥臣:重耳につき従い亡命 胥克:精神病でクビ 胥童:欒書に粛清されて胥氏滅亡
先氏 先軫:重耳につき従い亡命、狄との戦いで戦死 先克:士縠(士会の兄)達に暗殺される 先穀:反乱に失敗して戦死、先氏滅亡
韓氏 特になし
韓氏が危機に見舞われなかったのも凄いが、それ以上に趙氏の何と波乱万丈な人生よ。
>>337 それ、「貧しい事は良い事だ」の例が欒書なんだよな・・
つくづく分からんわ欒書って奴ぁ
東周英雄伝という漫画で刺客しょげいの話に登場する趙盾も宰相時代に
貧しい生活をしている事になってるのだが。
>>337 韓不信には、韓厥や韓起の生き様が伝わらなかったんじゃね?
>>342 欒黶が父の生き方を見習わずに、富裕かつ傲慢になってしまったツケが、
欒盈にモロに跳ね返ってきた感じがする。
これは士鞅も指摘してたが。
>韓氏 特になし
強いて挙げれば、叔向と共に楚へ使いした際に霊王に足切り・宮刑を
喰らいそうになった事と、欒氏の滅亡後に、遺領のうちの州の領有権を巡って
范宣子・趙武と争ったことか
前者は楚の賢臣であるイ啓彊の諫言で救われ、後者も後に自領の原と交換する
かたちで落着させて怨まれる様なリスクは回避してるが
もっともいずれにしても他の氏族に較べればずっと危険度は低いものだなあ
左氏伝が韓に甘いところから平勢センセの説は始まってるんじゃないの?
平勢氏の本は読んだが、素直に頷いていいものか困ったな
世評はどんなものなんだろう
4年位前に世界史板でセンセの本から引用した系図を書き込んだらタコ殴りだった。
まあ我説の強すぎる人ではあるよね。
そうだっけ?アンタがヒラセ系図に自分の妄想を混ぜ込んだ系図を三戦板に晒してたのを
批判した覚えはあるんだけど、ヒラセ説そのものをぶっ叩いた覚えはないなあ。
あのときは確か正統ヒラセ説の確認のために『史料批判的研究』を図書館まで確認しに
行ったっけ。
おおそんな舞台裏が。
晋の卿は謚が分かってるのが多いから、ざっと思い出してみたのだが、
名君である文公の「文」をおくられている人はさすがにあんまりいないのね。
卿だと、范文子(士ショウ)と趙文子(趙武)の2人だけかな?
どちらも楚との講和に調印した人なのが印象的だ。
何故か荀寅も「文」の謚を貰ってる
後は知轢。この人も「文」のイメージにそぐわないね
あれだけ周王朝に貢献してるんだから妥当だと思うが?
>>352 出奔した荀寅に文がぉくられてるのは意外だなぁ。
出た先でもらったのなら、趙氏を非難する意でいい謚にしたとか?
知礫は功績多いけど、武功が目立つかな?まぁ武は知オウがもらってるから文になったのかも?
355 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/22(火) 14:00:57 ID:++jsb7sPO
諸侯にも文の号を贈られるのにあまり相応しくない
文公、文侯がいるからねえ
おっと、鄭の悪口はそこまでだ。
韓魏趙の君主時代の謚と晋の大夫の時で、これらの三氏は謚がだぶる事は
なかったのかな?趙国の君主は恵文王とか武霊王のように同じものは使って
ないようだが。
358 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/24(木) 19:23:48 ID:wGowUd0j0
>>357 あんまり詳しくないのでザッとだけど
これだけ見つけた
武霊王を武王にして霊王であるという説を認めず、
かつ、姓が変わったものをカウントしなくても、
襄(趙)と武(魏)がダブって使われている
襄
趙氏 趙襄子(無恤)
趙 悼襄王(偃)
成
趙氏 趙成子(衰)
趙 成侯(種)・孝成王(丹)
宣
韓氏 韓宣子(起)
韓 宣恵王
武
魏氏 魏武子(犨)、廚武子(リ)
魏 武侯(子撃)
趙 武公、武霊王(雍)
文
趙氏 趙文子(武)
趙 恵文王(何)
魏氏 令狐文子(頡)
魏 文侯(斯)
ageてしまってごめん
あと、襄(趙)じゃなくて成(趙)だった
なんかの本のまとめを見てる感じだ。
361 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/16(金) 19:58:44 ID:Pf24AdlG0
孟夏の太陽見たいな感じで郤氏の小説を書いてほしい
1部 郤豹・郤芮
2部 郤缺
3部 郤克
4部 三郤
362 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/16(金) 23:53:27 ID:SoHW6A/E0
郤至だけでも結構面白そうな気がする
郤缺編で作者は悩むと思う。
4部はあまり爽やかな風がふきそうもない
2部と3部は他の小説で結構詳しいけど、1部と4部は余り詳しいのは無いな
宮城谷先生宜しくお願いします
晏子でちらりと郤至の事が好意的に書かれてるけど、左史伝だと得意げな
いかにも身を滅ぼすタイプ的に書かれてたね。
誤・・・左史伝
正・・・左氏伝
素で間違えた
郤文−郤豹┬郤称
├郤?─郤缺─郤克─郤リ
└郤義┬歩揚┬郤?─郤穀
└歩招└蒲城─郤至
?居
この文公に味方した郤穀や郤湊はさらに前からの傍流なんですかね?
この系図が正しいかは?ですが
徳川宗春とそれ以降の尾張藩主ぐらいの血縁かと想像。
(郤穀と郤缺の関係)
従兄弟?
郤文−郤豹の流れが傍流で郤穀の家が本家かもね
そう考えると郤ゼイが夷吾に付いていたのも分かるな。
郤穀の家は本家で、申生かあるいは献公についていて、
夷吾の時は脇に追いやられていたのが、
重耳が帰国して郤ゼイに代わってあらためて郤氏の宗家に返り咲いたとか
そうなると郤缺がまた本流になるのが良く分からんな
郤缺の能力によるとことなのか
郤芮は恵公夷吾の腹心となる事で、里克や邳鄭など滅びた大夫を尻目に恵公時代に
大きく勢力を伸ばす事で、他の大夫から嫌われ(同じ一族内の郤穀と反目しあう
ようになり)、その一方領民には優しく慕われており、郤缺が現れた時領民・家臣
がこぞって集まったと想像してますが。
趙衰の出自が末っ子なのか否か、微妙に嫡流っぽくないところがあるわけで。
各大夫家でも各公子に付いた庶子と本来の嫡子の鬩ぎあいがあるのは不自然じゃないな。
趙衰は死後に成季って呼ばれることがあるから、末っ子か四男か、
いずれにしても嫡流じゃないのは確かなんじゃ?
襄公の娘を貰えるくらいだから趙穿の家が嫡流でしょう
それで行くと、趙朔も成公の娘を貰ってる。
まぁ、趙穿の家が嫡流ってことに異論はないが。
ところで、趙武が成人した時に当時の卿がそれぞれ祝辞を与えてるってことだけど、
誰がなんて言ったか分かるサイトないかな?
三郤がNGだったことは知ってるけど〜
俺もうろ覚えだな欒書・韓厥・士ショウの祝辞が良くて三郤がダメという話
ね、創作ぽいけど大夫の子息が成人したらそんな風習があったのかな、
趙武の場合だけ特別なのか(次期卿の位が約束された)
智オウも良かったらしい。
韓厥・士ショウ・智オウはWikiに載ってるが、欒書は載ってないな。
あと荀庚からも貰ってるようだ
この時期卿だったのはあと三郤ぐらいかな、8人いるし
調べたら国語に含まれる話だった。
以下、一行で意訳。ちなみに挨拶回りもこの順番。多分当時の序列通りかと。
欒書 成人おめでとう。花が咲いても実がなるとは限らない、努めなさい。
荀庚 成人おめでとう。残念なことに、あなたを助けて行くには、私は老いてしまいましたよ。
士燮 自らを戒めなさい、諫言を聞きなさい、古の賢王は驕慢を憎んでいました。
郤リ 成人おめでとう。でもね、若い者が年寄りに勝てないものはたくさんありますよw
韓厥 善人を友にしなさい、悪人は近づけてはいけません、類は友を呼びます。清廉でいなさい。
智オウ 努力しなさい。趙の忠節、趙盾の文徳を見習いなさい。
郤シュウ 近頃、若いくせに大夫に任命されるヤツが多いな。貴様なんぞ認められるか。
郤至 中々いい才能を持っているようだが、高位に就くのは無理だろうな。
また、最後に張孟を訪ねてこれらを話して一言貰っている。
「欒書の言に従えば益、士燮からは徳、韓厥からは人のありかたを得ることができるでしょう。
三郤の話は亡人の言、何も聞く事はありません。また智オウの言葉は善言です。先主の言葉が
あなたを守ってくれるでしょう」
(荀庚に対するコメントは無し)
382 :
381:2008/06/01(日) 02:49:18 ID:q1/ha2ik0
荀庚の空気っぷりが何とも言えない(笑
まぁ、趙武が成人して数年後には荀偃が卿になってるし、
本当に荀庚は老齢だったのかもしらん。
この頃(趙同、趙括兄弟誅滅後)は六軍編成されてたのが、
いつのまにか四軍になってるね、倹約家の欒書が主張したのかな。
確かにコメントのしようがない祝辞だなw
そもそも祝辞かどうかすら怪しい
郤リの祝辞は
「あんた若いんだから先輩見習って頑張りなさい」
という訓戒かと思って読んでた
>>381ナイス意訳
386 :
381:2008/06/04(水) 23:08:25 ID:OoHECTlZ0
>>385 >「あんた若いんだから先輩見習って頑張りなさい」
本人はそのつもりで言ったかもしれないけど、後世に曲解されただけかもね。
左伝には「成公十三年、郤リが魯に出兵を乞いに来たが、態度が不敬だった」とも
書かれたように、魯の史官に悪意を持たれていたのかも。
387 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/12(土) 09:56:31 ID:2LZcu45JO
過疎ってますね
388 :
381:2008/07/15(火) 00:09:14 ID:m2yARK350
古い話題だからなw
専ブラとかってるので名前が残ってしまった。。。ついでにレス
>>384 真相は人材不足とかだと思うけど、少し穿った見方をする。。。
六軍編成が四軍に再編成されたと分かるのは、秦との間に起こった麻隧の戦い時。
その直前に詞は諸侯と共に周王に朝勤して出兵に際して祭肉を受け取っている。
周王に謁見するのに天子と同じ六軍を率いていくのはどうかと配慮した可能性もありかと。
さらに過疎に
391 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/23(土) 09:30:20 ID:F8+7+/b70
孟子曰魚我所欲也熊掌亦我欲所也二者不可得兼舎魚而取熊掌者也生亦我所欲也義亦我欲所
也二者不可得兼舎生而取義者也生亦我所欲所欲有甚於生者故不爲苟得也死亦我所惡所惡有
甚於死者故患有所不辟也如使人之所欲莫甚於生則凡可以得生者何不用也使人之所惡莫甚於
死者則凡可以辟患者何不爲也由是則生而有不用也由是則可以辟患而有不爲也是故所欲有甚
於生者所惡有甚於死者非獨賢者有是心也人皆有之賢者能勿喪耳一箪食一豆羹得之則生弗得
則死嘑爾而與之行道之人弗受蹴爾而與之乞人不屑也萬鍾則不辯禮義而受之萬鍾於我何加焉
爲宮室之美妻妾之奉所識窮乏者得我與郷爲身死而不受今爲宮室之美爲之郷爲身死而不受今
爲妻妾之奉爲之郷爲身死而不受今爲所識窮乏者得我而爲之是亦不可以已乎此之謂失其本心
392 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/07(土) 00:36:06 ID:fQSjUcSr0
久々に見に来たけど過疎すぎて・・・・
上がってたから久々に(ry
公孫杵臼はどこの出身だったのかな。
陽処父と楊食我関係あるかと思ったけど、字が違った、
叔向が名誉的に楊(陽)氏を授かったのかと思った。
ハゲてる方だけに言いたいことがある。
遂にリアッ●のニューバージョンが販売された。
これって、本当に髪の毛が生えるのだろうか・・?
調べてみたところ、てっぺんハゲには高い効果があるらしい・・
そして、ハゲ疑惑がある、あの若手有名人も利用しているらしい・・
でも、海外には、もっとすごい商品があるらしい・・
ロゲインとか、倍毛DXとか、かなり生えるらしい・・
>>218-219 陽姓といえば趙武復帰後に陽畢がいるけど…どんなもんでしょ
ついでに陽虎を受け入れた理由を妄想できそうなキモス
398 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/28(月) 07:16:44 ID:Mh6RPte8O
晋の六卿たちは人格的な問題がある人たちが多いが無能な人間は少ない気がする
欒書とか士カイとか郤克とか評判は悪いけど能力は高い
さすが長年覇者を務めただけあって晋は名臣を輩出したが、その中で一番の名臣ってのは誰であろう
斉の管仲、晏嬰、鄭の子産、楚の孫叔敖、呉の伍子胥みたいに晋には一番ってのはいない気がするなあ
それでも決めるなら狐偃、先軫、郤缺、士会、韓蕨、趙武、叔向あたりが候補か
400 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/01(木) 11:55:52 ID:q3W+pPnx0
>>399 多い分だけ目立たないって事もあるのではないかな。
つまり層が厚い。
士氏の親子タイムはいつ読んでも微笑ましい。
士会⇒士燮:
「お前は三度人を侮辱したのだ!」バキィッ
「(鞍の戦いの凱旋で)待ちわびていた件。」
士燮⇒士カイ:
「小僧に何が分かる!?」(戈を持って追っかける)
士カイ⇒士鞅:
「お前は一人でやっていけるのか?」
402 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/16(金) 06:44:59 ID:PHlFuGg0O
士会が作ったという法律ってどんなのだったのだろう
士会が古代の礼とかを調べて作ったのは「執秩の法」
執=官爵
秩=秩禄
なので位とか給料とかそういったものを整理したのかと
404 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/16(金) 17:47:58 ID:PHlFuGg0O
なるほど卿や大夫や士の順序や体系をつくったわけか
宮城谷の小説はなんつうか屁理屈多くて読んでられないね。
斜に構えた子にはそうも感じるんだろ
407 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/15(日) 16:58:46 ID:gYDFgZ9zO
『晋は大夫が上、楚は卿が上』晋と楚は不倶戴天のライバル。楚の描写は大雑把だけど晋の描写は詳しい。晋の人の気風はヤクザみたいで時々不愉快になります。六卿では荀氏くらいしか好感が持てません。早い段階で斉・秦に潰されて欲しかった。但し僕は小国・鄭のファンですが…
いまいち意味がわからん
409 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/16(月) 21:11:11 ID:tlbM+FkKO
つまり晋の政治家は嫌いです。他に宋や魯も嫌いですね。陰険な態度が目立つ気がするからです。例えば…郤氏、欒氏、羊舌氏などが滅ぼされるのは醜い足の引っ張り合い…私利私欲で非道です。
410 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/16(月) 22:51:08 ID:R661j0z10
何となく分かるけど、俺はその辺の話が好きなのだけど、郤氏、欒氏の最後は
宮城谷氏の小説などで書かれてるけど、羊舌氏の最後が書かれてないのが残念、
六卿の中に爽やかな人物が一人もいない時代だったのだろう。
412 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/17(火) 19:55:46 ID:u+vvXiTZO
あなたは六卿のイエスマンか?
楊食我:父が名執政、母が絶世の美女、祖母からは蛇蠍の如く嫌われ、羊舌氏の再興
に野望を燃やす青年
韓起:一時代を築いた名宰相、病床の身で権力を失っている
魏舒:士鞅と共に六卿の中心的存在、人望を得ているが決断力に乏しい
士鞅:士会の再来とも言われる知者、駆け引きを好み裏で暗躍する
中行寅:大族荀氏の長、野心家だが甘い所があり士鞅に利用されている
趙成:六卿の中でも1.2を争う勢力を持つが同盟を組む韓起が倒れ、士鞅に怖れを抱いている
知躒:士鞅・中行寅に従いながら、憎んでおり機会を窺っている
頃公:暗愚な君主、補佐となるべき羊舌氏・祁氏を滅ぼす
こんな感じの小説が読みたい
士鞅のキャラがそれだと俺的に何となく嫌だw
415 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/18(木) 22:21:02 ID:Q1Sk8eup0
士鞅が士会の再来ってのは違和感感じるなあ
結構おっちょこちょいなイメージがある
欒盈が乱を起こした時の対応などは、欒盈贔屓なので士鞅には嫌な奴というイメージ
がある、うろ覚えですが確か、宮城谷氏の「晏子」の中の話で
最後の四卿の頃の勢力地図が分からない
まだ都市国家で点で持っていたのだろうか?
知氏滅ぼしたあとはどうやって分割したのだろう?
趙は中原の方はをよく手放したな
孤毛の系統も狐射姑と共に滅亡したと考えて良いですか?
趙簡子が紀元前497年に晋陽の町を築いた。紀元前455年智瑤は汾河の水
晋陽城に水攻めを行った(晋陽の戦い)、趙襄子は魏駒と韓虎に寝返り工作
を行い、智瑤を殺した。晋の滅亡後、趙はしばらくの間引き続き晋陽に都を置いた。
邯鄲は衛に属する街だったが、晋に占領され、戦国時代に趙の首府が晋陽から移された、。
>>417 ひと昔前にとにかく史料を漁りまくって調べた事ある
そのかいあってかある程度まで分かった
その時に調べてかき集めた材料が今でもPCに眠ってるんだが、今はわけあって
携帯しか使えない環境なんよね…
あの頃に纏めて分布図でも作っておくべきだったかも
>>420 絵を書いて写メ撮ってイメピタにアップ
は無理かw
いずれお願いします
献公と文公の領土拡大過程の図も欲しいな
424 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/15(水) 15:47:52 ID:XXvWthsc0
過疎杉わろたw
425 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/15(水) 21:39:34 ID:FeFM/CHVO
晋は公子が力を持たないからある意味共和国みたいな状態だよね。
426 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/22(日) 11:22:00.39 ID:rbdkCAge0
あげてみる
なんかタグがいっぱい出てきて見えない。
429 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/05/25(水) 23:16:22.01 ID:xVII2Cff0
重耳は大河の原作にしたら化けるかも。
どんなホームドラマになるんだろう。
431 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/05/26(木) 22:54:29.31 ID:Zlpcii550
重耳の女性陣なんてホームドラマ大河向けのキャラクタのオンパレードだと思うんだけど。
じゃあ夏姫でドロドロな昼ドラを・・・
433 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/05/26(木) 23:16:11.35 ID:Zlpcii550
女優・杏子(東海テレビ制作)を思い出した。
434 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/27(金) 11:43:23.11 ID:sHobtr8i0
6K
徳川三代ならぬ趙氏四代はどう
放浪の趙衰から、復活の趙武まで
孟夏の太陽……
俺も思った。
438 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/05/27(金) 23:11:23.37 ID:WqtjbZMB0
趙朔が「炎立つ」の基衡なみになってしまうような。
439 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/30(月) 18:35:17.34 ID:t8HGaBz10
大河に登場させてもらえない部分で共通するってか
440 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/07(火) 20:45:55.20 ID:1ZGIO/c00
魏氏は七雄になる家なのに六卿の中だと影薄いな
失敬な!魏舒はキャラ立ちまくりだよ!
角が欠けるほど
442 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/06/08(水) 00:27:41.99 ID:TONXoiJz0
んじゃ、身代が低そうとかどうね。
身代の低さじゃ、清貧を褒められた韓氏とかの方が
444 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/06/08(水) 01:16:21.55 ID:TONXoiJz0
韓氏は左伝だと長者ポジションに見えるから。
六卿では中行氏が影が薄い
初代も三代目も意味不明な大敗してる
それ以外は、、、
446 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/06/08(水) 22:51:53.39 ID:bbpIdnuR0
元帥がいるなら影は薄くないと思うんだよ。
447 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/09(木) 02:47:49.00 ID:VWNZUZGd0
>>444 左氏伝って読んだことないから中身を知らないが、それだと
韓氏は富貴、みたいなイメージなのか?オレには「
>>443」で出てき
た、貧しいのを褒められたというか励まされたというか・・・みたいな逸話
の印象があるんだけど。あ、そういや魏氏については詳しくないからパス。
>>445 中行の一族には士会とか趙武のような分かりやすい名臣がいないと
いうことで一般には印象が薄いのかもね。ただ個人的には、最近タニーさんの
晏子を読んで、「占いどおりに自分が死ぬかどうか」で気をもんでる中行偃が
妙に印象に残った。華々しい活躍じゃないけど・・・。
448 :
447:2011/06/09(木) 10:35:33.20 ID:VWNZUZGd0
さっきのがガサツな文になってる気がしたんで訂正ついでに詳しく。
中行偃が、「予言が当るだけでなく黄河の神に願いが聞かれたならば、今年中に
死ぬ運命だが同時に、軍功をあげて名誉挽回できる」と悲壮な決意で居る様子なので,
オレは何だか同情してしまったという事。ところで,この予言の出典は左氏伝?
華々しい活躍じゃない、と書いてしまったが、考えてみたらリンシにまで
攻め込んでるから...「生涯の最後を飾る活躍はできたけど、先輩宰相士会の
兵略の才とかに比べればこの働きは地味かなと思う」に訂正。
余談だが晏子の主役親子は斉の臣だから、そっちから見るとリンシ市内を荒廃させた軍の
元帥が中行偃というわけで、あまり気分のいい存在ではなかったかも...小説を
最後まで読んでないから、晏子の認識ははっきり分からん。
450 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/06/09(木) 22:58:36.52 ID:uKMAS0Bi0
自分の首持って走るファンキー夢占い。
趙氏って常に正卿になってばかりで勢力大きすぎだと思う。
452 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/11(土) 21:57:06.55 ID:A+BvClnu0
>>451 なんてったって、一族がほろんだはずだったのが、
赤子ひとりの生き残りによって復活したんだものな..,(伝説によればね。)
強運ということではもしかして晋でいちばんの家柄じゃないか?
454 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/06/11(土) 23:24:37.10 ID:vsBc7NlT0
無かった説に乗りたいな。
趙盾・趙武と名前かっこよすぎだろ
>>453 少なくとも景公や屠岸賈に誅されたのは趙盾・趙朔系だけで、
趙盾の弟の趙同・趙括・趙嬰斉や趙夙系は無事だったから、
趙氏そのものが完全に滅亡したとは言えないよね。
その後趙武によって趙盾系が復活したのは正に奇跡だが。
457 :
452:2011/06/12(日) 01:38:19.70 ID:02Lw8z5j0
>>453 >>456 さきほどは偉そうなこと書いてしまったけど恥ずかしながら、ウィキ程度の知識しか
ない春秋戦国初心者なので、誤記があるなら謝ります、前言撤回します。それから、造詣の深い
方はできれば、至らない私に代わって詳しい説明をお願いできませんか?
>>456 リンク先の分析によると、趙同・趙括・趙嬰斉らが誅殺などで殺されたけど趙朔の誅殺は無かったという。
奇跡の復活も無かったという結論だ。理由は簡単に書けないからリンク先を読んでやってくれ。
このサイトは以前からあるんだけど、他に同じような分析してる人はいないようなんで、信憑性は
どうなんだろうな?
>>457 いやいや、そういう事ではないです。ネット上では「無かった」と書いてるサイトも一つだけあるけど、
実際にあったかどうか自体検討してる人は少ないと思います。他に見た事無いから。
参照URLも他の人の感想が聞きたくて挙げただけです。
趙武を命を懸けて守った話が事実かはわからないけど
存在を前から知られていたら趙姫のゴタゴタで立場が微妙だったかも…
認められてなかったとか趙嬰斉の子と疑われていたとか
どっちにしろ公族に連なる血筋には代わりがないから最終的に六卿になり、
それを支えた人たちの行動を粉飾した可能性はありそう
461 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/12(日) 11:11:46.67 ID:8QC9HAE90
普国は、中国の中心的な国だと思います。
普が分裂することが中国の分裂になったということでしょうかね。
戦国時代の始まりの定義が、その時だったと勉強したような。
>>461 普じゃなくて晋(しん)な。定義は幾つかあったらしいけど、現在は三晋の分裂とするのが主流らしい。
諸候の臣下から諸候に成り上がった事が下克上という事で。斉が田氏に乗っ取られたのも同じく。
「中国の分裂」じゃなくて時代が変わったという事だね。
>462
訂正あり。
464 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/15(水) 05:14:48.63 ID:xiyoVD6m0
趙氏といえば・・・無恤への名前のセンスはひどいが、それ以上に「名が体をあらわして」いない・・・という
側面に苦笑してしまう(ネタは史記です)。
465 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/15(水) 07:27:03.63 ID:xiyoVD6m0
さっきのレスに追加。趙氏の「当主たちの名が体をあらわしてない」について独断と
偏見で追加するとこうなります。ただ、いまと漢字の意味が違うものがあるかも
しれないが、そこまで調べきれてなかったりするので細かい所への非難は勘弁して下さいな(汗)
趙衰(チョウシ) →文公とともに長い亡命生活を送るが、趙氏が栄えてついに
一国をたてるほどになる礎はこの随行にあるはずなので「衰える」どころの話ではない。
趙無恤(チョウブジュツ) →父親にしてみればたしかに無恤(=あわれまない)と
名付けたくなるぐらい身分の低い庶子だったようで、実際そんなに可愛がられて
育った感じじゃないけど、他人に対しては「あわれみ・いたわり」の心を持っていた
のでは。刺客列伝によると、暗殺を狙った男を一度は無罪放免してやってる…。普通の貴族だと
できないことだと思うが・・・
番外編:趙武→「衣に勝(た)えざるが如し」と評されるような体格、決してガッチリした武人では
なかったはず。でも楚との和睦に活躍しているから、腕力というより、孫武と同タイプの理知的な武の人と
考えれば、そんなに違和感はないのかな。
趙盾、朔、成、鞅、伯魯etc.については何ともわかりかねます。あと、予防線を張っておくと、Wikiの
趙歴代それぞれのページを編集した経験は僕にはありませんよ(笑)
466 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/15(水) 08:05:54.19 ID:xiyoVD6m0
追加。
事実誤認があれば指摘をお願いします(非難はやめてね、寝不足で神経疲れてるから参っちまう)。
再度のスレ汚し、ごめんなさい。しばらく消えます。
趙盾は夷皋の盾ということか
無恤:恤むものが無い(ほど恵まれてる) という意味でよいかな。
「無」という名前は他にも公孫無知や魏無忌にも使われているよ。
無という字の原義は「舞」だからなあ
そういえば、一時囁かれていた史記の人名当て字疑惑って結局どうなった?
無忌といってすぐ思い出すのは信陵君ではなくて費無忌だな
いや、長孫無忌だろ普通
ごめん俺張無忌だわw
確かに凌煙閣一位の人も捨てがたいが
473 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/06/16(木) 23:52:24.47 ID:7oQDMBzO0
夷吾はどうよ。
晋の恵公のほうだな。
475 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/17(金) 09:33:37.70 ID:JFcPzmAL0
管夷吾
478 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/17(金) 21:58:30.18 ID:Pv7/TUhe0
詭諸も複数見かける名前
479 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/06/18(土) 00:00:14.02 ID:+qyx43jA0
モンゴルでも強敵の名を子に付けるような風習があったような。
480 :
月孔雀:2011/06/18(土) 17:10:30.43 ID:jLWmkU4q0
ジュチ
481 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/06/18(土) 22:53:24.03 ID:Yl9QnLGb0
チンギスの
子も弟も
マロウドよ。
482 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/19(日) 14:38:59.74 ID:Yq1wdcg80
客人か
六卿どうすんだ
献公詭諸は過小評価だわ
484 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/06/19(日) 20:08:32.87 ID:Kn9rL9D60
それは同意。
485 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/20(月) 14:58:15.39 ID:3lf2Q4M50
「重耳」ではただの筋肉バカ扱いなのはかわいそう
486 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/06/23(木) 23:35:05.20 ID:vP4qArPZ0
士?の抜擢とか領土の拡張とか、タダの筋肉バカではないとして
老醜をどう評価するか。
孫権みたいなもんかね。
別に過小とは思わんな
リキを寵愛して嫡男は死に追い込んで、ヘタすりゃ国そのものが分裂しかねない
混乱を生んだ蒙昧っぷりは拭い様がない
文侯の時代までから較べれば飛躍的に国土を大きくした功績はあるから、
評価を下げるなんて事にはならんけど、上げる必要性は考えられんなあ
中国は特に晩節を汚すとどうにもならんってのは詩経なんかを見るだけでも
わかるし
488 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/06/24(金) 23:08:16.72 ID:hOkrG3tb0
驪姫は悪女か。
珍しい名前の人って近い時代に何人かいることが多い。流行りがあったんじゃないかなーと思う。
>>489 たとえば どんな名前?中国史に暗いので、
よくあるのと珍しいのとの区別が つかん。
>>490 劉邦の家臣の酈食其(れきいき)と審食其(しんいき)とか。食と書いて「い」と読むのはこの二人だけと
言われるくらい珍しい。
492 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/06/27(月) 23:44:10.37 ID:ohOQjoZy0
黒肱
黒臀
>>491 レスthanks。そういえば「食=イ」の読み方が珍しいという事については、以前読んだ気がする。
それを考えると「嬰」(晏嬰、田嬰、夏侯嬰)とかは、好まれる字なのかも
しれんね。しかも「偃」にいたっては何故か、「郭」に結びついていることが多いように思える。卜偃こと
郭偃の他にも南郭偃、東郭偃といった名前が歴史に登場するよね確か・・
おっと、小説作品のネタばかりになってしまった(汗) 史料ぐらいにしか登場しない人物名を拾うと
もっと面白いのかもしれないが、俺は読み込みが足りないから、このぐらいで・・(汗)
>>487 晩節を汚すのは桓公も同じ、国のその後も斉と余り変わらん
末子を溺愛するのもよくある話。
武公時代から比べて献公時代の領土拡大はとてつもなく大きい
このベースが無ければ文公は覇者にはなれん
文公を讃えるには献公を貶めるのが簡単な手法。
力量で評価するなら叡哲の「献」に悖るような暗君ではないね。
晋の支族をなくしてしまったことは大失点だけど。
496 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/06/29(水) 20:12:31.82 ID:yfDfV6TP0
獻
>晩節を汚すのは桓公も同じ
>末子を溺愛するのもよくある話。
同じやらよくある話やらで済む問題とも思えんが。
結果として晋は混乱してんだし。
>>494 歴史のつながりを思えば「献公が全くの暗君」とはいえない
と愚考するけど(分家が乗っ取ったあとの晋を運営する手腕は十分だろう)、
それでも「有名エピソード=リキを溺愛して嫡男を死なせ、その後 長きに亘って国が
乱れる」となってしまう君公だと、晋に詳しい人はともかく、一般的な評価は
低くならざるを得ないかもね
このスレにお集まりの皆様にお尋ねしたい疑問があります。マイナーな話にもつきあってくれそうで、レスの
伸びてる所で聞いてみることにしました。(世界史の方には貼ってません)
中国の(特に歴史的な人物の)名前が小説とかで複数回、登場する場合には
二回目以降の表記には、慣習的にルールみたいなものがあるんでしょうか?
Ex.分厚い本じゃなくても、「史記と十八史略から学ぶビジネス心理術」
みたいな本(何冊も流し読みしたため、すぐにタイトル列挙できませんが、雰囲気わかってください)を
読んでると、伍子胥は、アザナ二字で子胥、と文中に出てくることが多いですけど
これだと姓(氏?)が抜けてしまいますよね。姓はすでに分かってるから
これでOK、という慣習ですか?二字が語呂の点でいい、というのなら
イミナとあわせて、伍員の方がすっきりしてると思うんです・・。孫武はずっと孫武で、たまに
敬称の孫子なんですよね。これって全部、今に至るまでの講談とか伝説とかの
慣習が蓄積したんでしょうか?
長文でごめんなさい・・・
>>慣習的に
そうなんと違うか?
500get。
501 :
499:2011/06/30(木) 18:44:18.33 ID:7CieMz700
お見苦しい醜態をさらしております・・・
スレよごし申し訳ない。
>>499 それは慣習と著者の嗜好だな。伍子胥を子胥と書くのは前後の文脈でそうと判る場合でなければ
あり得ないでしょう。そこで伍子胥と書くか子胥かそれとも伍員か、それは著者の好みでしかない。
しかし晋の文公こと重耳は姓が無くても慣習的にそれと判るから重耳と書く。
503 :
499:2011/06/30(木) 21:54:34.72 ID:7CieMz700
ありがとうございました。さきほどの醜態は、ボンクラ兄貴に
からまれたことによるものです(汗&苦笑)。
504 :
499:2011/07/02(土) 15:02:24.92 ID:QAJ2sLOC0
>>502さんへ。本日、無断でしたけど(汗)、レスを拝借
してコピペさせて頂きました。ありがとうございました。
506 :
499:2011/07/03(日) 09:23:00.36 ID:v2Ej7hkX0
>>505 事後報告だけど
>>502さんに ひとこと 断っておくべきかな、と思っただけです、コピペしまくる荒らしと
間違われたりしたら心外なので(汗)。掲示板の経験が浅いので、お気に召さないレスをつけてしまったかもしれませんが、
出来れば生温かく見守って頂きたいと思いますが・・・ これが掟破りなら消えますから、お気になさらず。
>>505 むしろブログもってるなら、教えてほしいところ
508 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/07/03(日) 09:54:23.55 ID:dzV+tjgS0
うんうん見てみたい。
502です。ブログはやってません。499さんのブログにコピペしたんなら見たいかなと思って聞いてみただけです。
オハズカシイ。
>>506 俺は気にしないけど、気にする人もいるだろうから聞いてからにした方が良いかもです。
510 :
499:2011/07/03(日) 12:01:45.95 ID:v2Ej7hkX0
ブログは持ってないんですけど、
>>499の時に「他の所でも聞いてみようか」という訳で、
別のスレで
>>499と同じ質問をして置きました。解決したのはココでしたけど、そっちのスレで
「どんな風に解決したの」と尋ねられたので
>>502の文をコピペさせて頂いた、という経過です。
>>505で質問されてるのとは違って、ブログに貼ったという事じゃありません。
説明が足りなかったようで申し訳ありません。次からは詳細に書くようにしますね・・。m(_ _)m
>>510 あーなるほど。何処で訊いたか判らんけど、同じ質問を複数のスレに投下するのは場合によっては
マルチポスト認定される可能性も有るから気をつけた方が良いです。この場合だと歴史系の板は
マルチポスト扱いされると思います。
512 :
499:2011/07/03(日) 23:33:01.66 ID:v2Ej7hkX0
わかりました、気をつけます。
なんか馴れ合い然としていていやな空気だな
よし!お前がネタを振れ!!
515 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/04(月) 21:49:36.80 ID:O+1r6OO6O
晋って北方の遊牧民起源なんじゃないの?
周から嫁を迎えて姫氏を名乗るようになったとか。
516 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/07/04(月) 22:27:40.40 ID:0GTYR0EU0
まあ唐叔虞の存在に無理があるっちゃあるわね。
517 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/04(月) 23:04:06.32 ID:O+1r6OO6O
姫氏の大部分がそうやって成立した可能性もあるような気さえしてきた。
姫氏に限らず、姓ってみんな「女」って付いてるし。
518 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/07/04(月) 23:22:42.05 ID:0GTYR0EU0
姜姓はまだしも?姓は特に同族意識強いだろうね。
519 :
515,517:2011/07/04(月) 23:40:36.15 ID:QeG1VTo80
調べたら、宮城谷昌光が全く同じこと書いてたらしい。
まあ少なくとも鄭は周の完全な分家とみて間違いなさそうやね。
他は娘を嫁がせて同族にした可能性があるけど。
520 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/07/04(月) 23:48:28.98 ID:0GTYR0EU0
鄭は疑う必要ないだろうさ。
宮崎市定は分家は全部同盟関係が出来てから作った話って書いてたな。
そもそも幽王のころの周の東遷も、武王による商の征服と同じこと、
つまり周民族が西から追われて民族大移動で中原にやってきた同じネタを
時代が分れた2つの話にしたって説だから。
>>521 西から追われた周に商が滅ぼされたって、フン族に追われたゲルマンの侵入で西ローマ帝国が滅亡した、
みたいな話だな。
523 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/05(火) 16:17:12.43 ID:8fOnl4qXO
松平から嫁迎えた有力大名はみんな松平姓になってたっけか。
524 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/07/06(水) 00:46:42.14 ID:HOOfJzCG0
なるほど似てるな。
みんな我が子に押し付けられて文王もあの世で溜息だろうな。
525 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/12(月) 23:41:05.72 ID:4pilcLD80
あげとく
test
527 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/10/04(火) 23:39:00.20 ID:vwu8cwg40
なんの?
528 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/27(日) 06:38:17.26 ID:7Q/zNS7PO
晋で一番の名宰相は誰になるんだろ?
どうも決め手に欠ける
>>399-400で、似たような話題が出ているけど
「決定的な一番」が誰なのか、よく分かりませんね
530 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2011/12/01(木) 23:15:16.58 ID:P4ixZf+m0
清濁併せ呑んで趙盾を推すとしよう。
531 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/02(金) 03:39:09.43 ID:Zy22IYafO
候補があるとしたら趙盾、士会、趙武あたりかな
532 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/17(火) 02:03:07.28 ID:RtmL+wIV0
文公の覇業を助けた一番の功臣は史記だと趙衰、左伝だと狐エン
この違いはいったいなんだ?
即位までと即位後なんじゃね
534 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/18(水) 15:42:51.82 ID:ROt1tHDc0
いやそういう意味じゃなくて史記だと左伝にある狐偃の文公への発言が
ほとんど趙衰のものに変わっているんだよ
もちろん左伝だと史記にある趙衰の発言が狐偃のものというふうに
史記、左伝どちらが正しいのか
そういえば荀林父の擁護をしたのも左伝と史記で記述が違ったな
536 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2012/01/21(土) 11:13:51.13 ID:FA+V4Qdq0
左伝には「指掬すべし」のシーンがなかったような。
「責任とって死ぬ」「死ぬならもろとも」「国に帰らないと無責任だ」「じゃあ帰ろう」
>>536 翻訳だけど岩波文庫のには載ってたぜ。宣公十二年。
>>536 「舟中之指可掬也」
>>537のいうとおり、宣公十二年に記述があるよ
俺は明治書院版で確認した
前々から感じてたんだが、あんた、たまに抜けてるな
539 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2012/01/24(火) 23:21:45.32 ID:qTMwv0st0
ごめん。あった。
540 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/24(火) 23:33:48.51 ID:tvZyQk6+0
重耳が亡命した際の随行メンバーも史記と左伝で違うしなあ
正確なメンバーがわかることができるのか
541 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2012/01/24(火) 23:56:43.97 ID:qTMwv0st0
趙衰と狐偃は確定で。
>舟中之指可掬也
銀英伝のイゼルローン陥落時の帝国軍の混乱ぶりはこれが元ネタかな
543 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/25(水) 23:35:59.57 ID:Oaxo5PkK0
弟に比べて空気な狐毛
狐毛は庶兄なんじゃないかと思えてくる
544 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2012/01/26(木) 00:10:54.74 ID:6NgJT3480
孔子が目立つからアレだけれども、戦国期までの嫡庶ってぶっちゃけ確立されてないんじゃないかなあ。
545 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/28(土) 01:24:15.15 ID:oOE26VBH0
個人的に晋で一番の名宰相は趙武だと思っている
何故なら趙武が中軍の将(宰相)の時、楚、秦といった敵対していた国と和平がなったから
叔向、韓起といった名臣たちの補佐があってこそだけど
546 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2012/01/28(土) 01:27:09.08 ID:5MLXS3c40
三戦に書いたのは誤爆か?
547 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/30(月) 20:36:27.69 ID:Nvw2oPAn0
復活
548 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/06(月) 01:19:49.35 ID:Kegs3TmM0
個人的晋の名宰相(中軍の将)ランキング
1位趙武:楚や秦との和平に成功した
2位先軫:政治家らしいことは何もしてないけど、中軍の将として城濮・殽山の戦いといった天王山で勝利し晋に覇権をもたらした
3位趙盾:ミスが多いが、それでも文公・襄公死後の難しい状況で晋の覇権を守った
3位は士会・郤缺・韓蕨あたりと迷った
>>548 趙氏、上位に二人も選ばれてますます調子に乗りそうだ
という冗談は置いといて
名宰相候補なら、個人的に硬骨漢の荀オウも推したい
550 :
奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2012/02/17(金) 23:58:45.95 ID:2GT6jPUp0
諸侯の中で強くありたい者と政治家として優れた者は異質で当然。
パラメータ評価とかするのは無粋。
荀林父も邲の敗戦さえ無ければ名臣として評価されたろうに
趙氏孤児をベースにした映画見てきたが
韓蕨がただのチンピラになってて泣いた
てかやっぱメインターゲットって中高年なのかな
たしか、あらすじを読んだ限りでは公孫杵臼は居ないんだよな。
韓蕨がただのチンピラって映画作った奴は左氏伝も読んでないのか?
公孫杵臼でてくるよ。すぐ消えるけど。
というかあの作品に史実を期待するのが間違い。
趙盾が死ぬわ、程嬰がただの医者だわ、韓蕨がチンピラだわと。
こういう歴史改変は別にかまわないんだけど、別に映画としても面白くないんだよな。
最初の趙盾が馬車に乗って出てくるシーンは迫力があってよかった
たしかに前半は面白かったね。
後半はなんだか消化不良。
話聞いてるかぎりじゃ、なんか宮城谷の短編の方が面白そうだな
>>558 2番目の短編がなかなか感動できるよ。史実じゃないという説もあるが(...)
ただ、宮城谷節に慣れてないと読みづらいかも
中行呉はなかなかの名将だと思うんだが、そういう話をあまり聞かないなぁ。
ウィキペディアにも記事ないし。
相手が鮮虞や肥などの周辺小国・異民族なのが目立たない理由かね。
鼓を無血開城させた話とか好きだ。
>>560 俺も中行呉は名将だと思う
凡庸な人物が多い中行氏の当主の中でも随一というか唯一といってもいいくらい
なんじゃないかとも思う
あまり話題に挙がらない名将といえば魏舒もそうだろうね
この時代に地形と兵科の適正を認識したうえで、それをすぐさま実行して
なおかつ戦果を挙げるなんてそうはできないし
春秋時代の戦史を語るならけして欠かせない人物だろうとも思う
562 :
560:2012/03/06(火) 08:29:52.10 ID:/UDaWzOv0
>>561 おお、さっそくレスどうも。
中行氏唯一の名将かwたしかに。
父親の偃は、上司にキレられたり今年中に死にますよとか言われて尻に火がつくような、
用兵に波というかむらのある人なのにな。曾お祖父さんもそんな感じだな。
魏舒は戦車隊を歩兵部隊に再編成して狄を破った人だよね。
言われるまでそんな話もあったな〜って感じだったけど、
たしかにこれは離れ業だ。魏舒が名将なのは疑うべくもないね。
知罃も話題にならないけどなかなかの名将だと思う
>>563 ヒツの戦いは運が悪かった。しかし将とか卿になってからは立派に晋の顔だったね
荀氏のDNAは、時どき名将というのがデフォなんだろうか
というよりも中行氏と智氏で分けて考えた方がいい気がする
智氏は荀首に始まってほぼ累代水準以上の当主が続いたけど、
中行氏は中行呉以外は揃って凡庸といってもいいくらいのもん
総領の甚六みたいなもんなのかもしれん
荀林父も邲の敗戦以外はなかなかの名臣だし
中行偃も最後、斉に勝利して名誉挽回できたし
決して凡庸だとは思えないな
567 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/07(水) 19:01:28.07 ID:Dr1lf7sS0
一回の失敗だけで過小評価されてる人って結構いるよね
失ったものの大きさによる
荀林父は晋に大いに貢献してるけど、邲の敗戦を帳消しにするほどの事はできてないからな
中行偃も秦に敗戦してるけど、取り返せないほどの敗戦じゃないからまあいいんじゃないかな
570 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/25(火) 05:10:33.58 ID:DITixyCf0
羊舌文が献公の弟っていうソースは何?
571 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/03/20(木) 15:44:47.05 ID:1B/ZMSLW0
572 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/06/17(火) 19:31:13.46 ID:bsVwsHYr0
智瑶ってなんか魅力的だよね
573 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/09/18(木) 20:50:27.85 ID:co4tPDJc0
>>570 基本的に関係は不明だけど伯だから多分兄。
574 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/09/18(木) 22:23:36.21 ID:ZSOmMo4gO
六卿の肩書の正式名称は原文だと
将中軍 正卿
佐中軍 次卿
将上軍
佐上軍
将下軍
佐下軍
575 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/09/19(金) 12:56:04.40 ID:Ov6GV3mZO
羊舌氏は武公の長男
576 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/09/20(土) 22:23:30.33 ID:nFyUOTZq0
>>573それなら何故献公が後継ぎになったんだろうか
羊舌文は庶兄だったとか?
577 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/09/21(日) 21:43:05.13 ID:FX7I8Ab9O
長男が後を継がないことはかなり多かったからね。
戦国時代末期も趙や楚は王の兄が継いで抵抗したりしていたから。
羊舌氏は厳密には不明だけど伯を名乗っているから多分長男でしょう。
578 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/31(金) 16:31:09.80 ID:Ip61oSRS0
あ
>>576 武公が元気すぎてなかなか死ななくて、先に死んだってのを見たな。
事実かどうか知らないけれどw
580 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/11/16(日) 21:49:48.95 ID:ldxJ6v5x0
晋の正卿として最後に名前があるのは士鞅だけど、
中行寅が六卿時代最後の正卿だと思う。