1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
サルフの戦いは1619年、遼東に後金を建国したヌルハチが、明より発せられた討伐軍を破った戦い。
全軍を4つに分けて後金を包囲攻撃しようとした明軍に対し、ヌルハチは迅速な機動によって明軍の各部隊を
各個撃破することで、自軍に数倍する大軍を打ち破った。
最初の大きな戦闘が撫順東方のサルフ(薩爾滸)で行われたために、戦役全体がサルフの戦いと呼ばれるよ
うになっている。
この戦いの勝利は、後金(後の清)隆盛への第一歩となった。
世界の軍事史上でも屈指の、少数による各個撃破が実現した戦い。
偶然でしょ?
このスレは間違いなく過疎るな
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/29(月) 21:06:54 ID:g5J+zOMU0
なるほど。
明軍には捕捉不可能でしたか、、。
さすがぬるはちだ。
ぬるぬるしてたんだろうな。
受験の時1616(イムイム、ヌルハチ)と覚えたもんだ
火器の装備において優る明軍に対し、
その火器の威力を最大限に削ぐ戦術で、
勝利を掴んだ点においても画期的な戦い。
この頃のヌルハチ=満州族に明を倒そうなんていう気はなかったと思う。
遼東に独立国として割拠し、宋と遼あるいは金のような、
歳幇を受け取れる関係を気づければ理想という感じだったんじゃないかな。
まさか内乱で超大国の明が崩壊するとは思わなかっただろうし。
結果的に大帝国となっても、創業時にそこまで考えていない場合は多いと思う。
金にしたって、靖康の変でああも呆気なく宋が倒れるとは思ってなかっただろうし。
ヌルハチってこの時かなりの年寄りだよな。
それでも牛と同じくらいだったらしい。
秀吉の朝鮮出兵の時、朝鮮側に援軍派遣を申し入れたってのは本当なのかな。
13 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 21:20:39 ID:CTYZiQ4Z0
ちなみにサルフの合戦については、今でも欧米の士官学校なんかでヌルハチの
戦術を教えているらしい。
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 21:21:51 ID:CTYZiQ4Z0
あまり知られていない明側の将軍について史料があったら誰か教えてください。
15 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 23:24:21 ID:txPMl5Le0
アスターテとどっちが凄いの?
>>14 明側の将軍って、楊鎬、馬林、杜松、李如柏、劉挺らのこと。
ええと李如柏が李成梁の息子で、
楊鎬が、慶長の役でしくじった人だっけ。
>15
そう言えば、前に世界史板のガイエのネタ元を探すスレで、
俺はアスターテ会戦のモデルは、サルフの戦いだ。って書いたら、
全否定された事有ったなぁ〜
18 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/12(月) 23:40:19 ID:5zSj65DP0
>>16 楊鎬は慶長の役で失敗やらかした人で、
李如柏は文禄の役の碧蹄館の戦いで敗北した李如松の弟。
李成梁の息子たちだし、ヌルハチともいろいろ付き合いがあったんじゃないの。
そういう失敗した人をまた起用して、
大将を任せてしまうのが当時の明朝。
贈賄とかして復職したんだろうか。
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/25(日) 16:07:20 ID:Y73BN7at0
そもそも明代を通じて、武官にまともな人材は少なかったからな。
たまに優秀な指揮官が現れるとその部隊は見違えるように強くなった。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%83%95%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 サルフの戦いは、1619年にヌルハチ率いる後金(のちの清)が明の後金討伐軍を破った戦い。
全軍を4つに分けて後金を包囲攻撃した明軍に対し、ヌルハチは各軍を各個撃破することにより大軍を
打ち破った。特に最初に行われた大きな戦闘が撫順東方のサルフ(薩爾滸)で行われたため、この戦役
全体がサルフの戦いと呼ばれる。
建国間もない後金の存亡をかけた決戦で、この戦いに勝利したことが後金興起の第一歩となった。
戦いに至る経緯
建州女直を統一して1616年にハンに即位し後金を起こしたヌルハチは、1618年に明に対して宣戦を布
告し、遼東における明の拠点である撫順を攻撃した。明はこれに対して楊鎬を遼東経略に任命し、女直
討伐にあたらせた。
しかし明軍は予算不足のため兵の結集に手間取ったので、楊鎬は兵力を補うため後金に北隣する海
西女直のイェヘ部と、南隣する朝鮮にも助兵を要請した。イェヘは女直の統一を進めるヌルハチと対立し
ていたためこれに応じた。一方の朝鮮では国王の光海君は出兵を渋ったものの、先の文禄・慶長の役
において明に救援してもらった恩義(「再造の恩」)があったために断ることができず、朝鮮は都元帥の
姜弘立に1万の兵力を授けて鴨緑江を越えさせた。
1619年、10万の明軍は全軍を4つの軍団に分け、四路に分かれてヌルハチの本拠地ヘトゥアラ(興京)
を包み込むように進撃を開始した。北路は開原総兵官の馬林がイェヘの援軍とともに開原から、西路は山
海関総兵官の杜松が瀋陽から出発し、両軍はヘトゥアラと撫順の中間にあるサルフで合流してヘトゥアラ
を目指す計画とした。また南路からは遼東総兵官の李如柏が遼陽から清河を越え、東南路からは遼陽総
兵官の劉挺が朝鮮軍を帯同して丹東付近から北上して、それぞれ西南と東南から直接ヘトゥアラに迫った。
総司令官の楊鎬は予備兵力とともに後方の審陽で待機し、全軍の総指揮を取った。
サルフの戦い
これに対してヌルハチはヘトゥアラで全明軍と一手に戦うことを避けて各個撃破をはかることにし、まず
ヘトゥアラ北方において最初の攻防の拠点となるサルフ山およびその川の対岸にあるジャイフィアン山に
明軍を足止めさせるため築城を開始した。
明軍の進軍は降雪によって遅れ、3月1日、杜松の西路軍が単独でサルフ近郊に到着した。サルフ及
びジャイフィアンで後金軍による築城が進められていることをみた杜松は馬林軍の到着を待たずにサル
フ手前の渾河を渡河し、サルフ山に攻撃を開始した。数に勝る杜松軍はサルフ山をただちに占領し、2万
5000の兵のうち1万をその守備に残して残る主力1万5000でジャイフィアン山に攻めかかった。
一方、主力とともにヘトゥアラにあったヌルハチは明軍到来の第一報を受けるとただちにサルフに向か
って出撃し、同日夕刻にはサルフの南に到着した。ヌルハチが到着したとき、ジャイフィアンを守る後金の
守備部隊は支えきれずに後退し、後方のキリンハダに入っていた。ヌルハチは八旗(8軍団)に分かれた
後金軍主力のうち2旗をジャイフィアンの敵主力に対する牽制に派遣する一方、自らは6旗を率い、宵闇
に乗じてサルフに迫った。
サルフを守る明軍は、敵軍はキリンハダの守備隊と合流してジャイフィアンに向かうとみていたために
まったく奇襲を受けたかたちになり、混乱と暗さのために火器をほとんど生かせないまま接近戦に持ち
込まれて壊滅した。後方部隊の壊滅によりジャイフィアンの明軍主力は動揺し、牽制の2旗とキリンハダ
の守備隊、そしてサルフから転進してきた後金軍主力6旗の全軍による三方向からの突撃の前になす
すべもなく壊滅し、杜松以下主だった将領が戦死した。
シャンギャンハダの戦い
一方、杜松の西路軍との合流を目指して北からサルフに向かっていた馬林の軍は、杜松が戦死したとき
サルフの北にあるシャンギャンハダという地点にいた。3月2日、杜松軍壊滅の情報を得た馬林軍はシャン
ギャンハダに後退して塹壕を掘り、火砲を並べて後金軍の攻撃に備えた。
後金軍は火器への対策として戦場で下馬した兵士が接近して塹壕を突破し、その後に騎兵が突撃をかけ
るという戦法を編み出しており、この戦いでもその作戦を取ろうとした。しかしシャンギャンハダに到着したヌル
ハチ率いる後金軍の本隊が、高地を占領して明軍の塹壕を上から攻撃しようとすると、明軍はこれを阻止しよ
うと後金軍に攻撃をしかけ、後金軍が騎馬のまま突撃を敢行する乱戦となったが、馬林と不仲な潘宗顔を司
令官とする明軍の後方部隊は自陣を固めて馬林の本隊を救援しようとせず、まもなく馬林は敗走した。
続いて潘宗顔の陣を攻撃した後金軍は、下馬した兵によって敵の戦車を排除した後、騎兵の突撃を行い、
潘宗顔も壊走させた。馬林・潘宗顔の敗報を聞いたイェヘの援軍は後金軍との戦いを放棄し、自国に撤退し
た。
アブダリ・フチャの戦い
北路・西路の敗報を受けた楊鎬は、生き残っていた李如柏と劉挺の両軍に進撃停止を急報した。李如柏
の軍はもともと緩慢な進軍を続けていたためすぐに退却したが、劉挺軍はすでに敵地の奥深くに入り込んで
おり、進撃停止の命令も届かなかった。
劉挺の軍はシャンギャンハダの戦いがあった3月2日にヘトゥアラの南方を守る後金の守備隊を破り、順調
に北進を進めていた。この情報を得たヌルハチはサルフの方面で北路軍と戦っていた後金軍を再集結させて
ヘトゥアラに戻り、劉挺軍に対して次男ダイシャン率いる主力を派遣した。3月4日、劉挺の軍はヘトゥアラの南、
アブダリという地点でダイシャンの軍に遭遇し、ただちに陣を固めた。これに対してダイシャンはその弟ホンタイジ、
そして別働隊を率いて劉挺の後方に回り込んでいたヌルハチの部将ダルハン・ヒヤとともにて三方向から劉挺
の陣を包囲、攻撃して明軍を壊滅させ、劉挺も戦死した。
アブダリの戦闘があったとき、朝鮮軍と明の劉挺軍後方部隊は兵糧不足で劉挺の主力より遅れ、アブダリ
の南のフチャという地点に留まっていた。ダイシャンはただちにこれに対する進撃を開始し、ホンタイジを先鋒
とする後金軍がフチャに迫った。朝鮮軍の姜弘立は鳥銃(日本式鉄砲)と長槍で前面に防御線を展開してこれ
を迎え撃ったが、大風が吹いたことによって火器の発した煙が巻き上がり、それに朝鮮軍が視界を奪われた
隙をついて後金軍の騎兵が接近、突撃して前衛を突き破った。
明軍も壊滅的打撃を受け、夜に入ると朝鮮軍の中営(本隊)5000のみが孤立して残された。後金は朝鮮軍
に対しては降伏を勧告し、観念した姜弘立は朝鮮軍の残兵を率いてヌルハチに投降した。朝鮮軍の投降を
知った明軍の生き残りの将校は自殺し、東南路軍は消滅した。
明軍の敗因は、諸将が相互にいがみ合っており、お互いに十分に連絡をとっていなかったことや、功を争って
突出したことで後金による各個撃破を許したことが大きい。この戦いの後、遼東の明軍は後金に対して全く守勢
となり、開原・瀋陽・遼陽が次々に後金の手に落ちることになる。
26 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/10(土) 23:07:57 ID:YRiHeE1N0
ヌルハチって1619年のサルフの戦いの時点で、
もう結構な年寄りだよね。
27 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/29(木) 23:55:51 ID:bup2r0A20
若い頃苦労したのさ。
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/08(日) 15:57:16 ID:KW5filkU0
毛利元就みたいなタイプかな。
老年になって花開いた。
29 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/15(日) 23:41:57 ID:m6ZS4eDy0
サルフの戦いと、厳島の闘い。
何だかいろいろな面で似ているかも。
30 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/04(金) 00:23:01 ID:Ew5bbp8r0
厳島の戦いでは、毛利元就率いる本隊が陶晴賢本陣の背後の山から駆け下り、
小早川隆景の別働隊が海岸から攻め寄せた。
軍勢を複数の部隊に分けて攻撃したという点では似ているかな?
ただ、サルフの戦いで特筆するべきは、やっぱり機動性でしょ。
31 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/16(水) 01:54:04 ID:+q5rYEU+0
ヌルハチは、戦場での臨機応変な戦術が見事だったのに対して、
毛利元就は、本番の戦いの前に、謀略の限りを駆使して、
勝てる状況を作ったという点で、かなり違うと思う。
32 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/16(水) 03:23:41 ID:8pubxG6Y0
ここでなにゆえ仙剣奇侠伝?
誤爆か?w
>>31 比べるなら上杉謙信かな。
現場で臨機応変に陣を操り兵を駆り立てるのは謙信の得意とする所。
また、手取川の戦いにおいて、敵方の織田軍が大量の火縄銃を保持していたが、暗闇で射程を捉えにくいという弱点に着目し、夜襲を仕掛けることによりそれを封じ、見事な大勝利を得ている。
>>34 スレ違いだが、手取川の戦いなんて地元の人間ですら知らなかった話だ。
昔から手取川では源義仲の軍勢が渡河に苦労した話ぐらいしか、昔の戦の話は語り継がれていない。
単なる小競り合いを大戦果にして宣伝した上杉側の捏造だよ。
22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/15(火) 18:08:31 ID:qdl2IjY+0
>>20 >日暮れ時に奇襲をかけて火器の有効性を無効化したり、
上杉謙信が手取川の戦いで信長の鉄砲隊を無力化したのも夜襲だった。
優れた武将は考える事が同じだな。
同じ人かな?
>>35>>36 そう、どちらもオレの書き込み。なるほど、捏造ですか。
確かに調べ直したら架空説が有力ということですね。
このネタのソースはこの間、テレビ(NHKの「その時歴史が動いた」)で、それを元に実在の戦いなのだと思ってしまったわけ。なお、その番組を見る迄手取川の戦いの存在は知りませんでした。
そういえば、この番組、白村江の戦いの軍船も捏造だという話があったし、あてにならないな。
もはやテレビの放映内容はうのみにできないということは理解しました。
スレ汚ししてすみませんでした。
38 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/18(金) 23:33:59 ID:3gWhZThV0
まあ、昔の戦いなんて、資料が少なくて実態がよく分からないものが、
ほとんどだと思うよ。
今定説として出回っているものだって、いつ覆されるか分からんし。
あの番組はあまり評判よろしくないからなぁ
NHKは結論ありきで、細かい部分を粉飾したり都合の良い解釈をしたりして番組を作ることもあるし
(俺が知っている例はNHKスペシャルの生命だったりするから畑違いだけど)
40 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/19(土) 23:41:34 ID:67T0udbi0
何年か前だったけど、NHKスペシャルの、生命の歴史についての番組、
あからさまに間違いだらけで噴飯ものだった。
あの時ほど、テレビが伝えるものはいい加減だと思ったことはなかった。
41 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/23(水) 23:55:36 ID:Izw1qIy70
>>37 「その時歴史が動いた」も、ネタがなくなってきたなら、
こういう中国、あるい他の外国の有名な戦いとか、事件をもっと取り上げて欲しいな。
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/24(木) 04:37:18 ID:kxJ1bT7V0
サルフの戦いで活躍した八旗軍の将軍は?
44 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/24(木) 11:29:25 ID:21o75wr10
サルフの戦いはともかく、
テレビ番組で、世界史ネタはもっと掘り下げてやって欲しいよ。
特定のネタに集中している気がするし。
たまに放送する『世界の偉人100人』も
出てくる面子が定番だから面白くない。
47 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/06(水) 23:03:16 ID:QXYmkP8U0
日本の戦国時代の戦いだと、
どの戦いがサルフの戦いに似ているかな?
長篠
49 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/08(金) 15:03:43 ID:+HIjuS7e0
サルフの戦いの要は、ヌルハチ率いる金軍の機動にある。
長篠の戦いに類似性はない。
50 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/18(月) 23:55:44 ID:oFXeSC450
長篠の戦いは、陣地を城塞化して防戦を続け、敵を疲弊させた。
実際の戦果も、退却中の敵を追撃することで得たものがほとんどだったわけだし。
よく満州族と書かれるけど、正式には満洲族。つまり清と同じくさんずいが
つきますね。
ヌルハチ=猪の皮という意味らしい。
52 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/09(月) 07:49:15 ID:9Euc/kpT0
満州は文殊菩薩の“文殊”から取ったものらしい。
53 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/09(月) 17:23:17 ID:XEUFewCQ0
まさか、「ヌルハチ」を「ボルシチ」と間違えてる奴はいないよな?
七大恨
55 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/13(金) 11:13:00 ID:Bdtke26y0
満州族にチベット仏教が浸透したのはいつ頃なのかな?
56 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/19(日) 01:40:50 ID:5YZjLQHH0
モンゴル経由じゃないよ?
中原進出前に一応モンゴルを征服しているし。
57 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/06(木) 23:57:40 ID:/Atb6jV80
文殊から満州国を名乗った時点で仏教は浸透しているだろう。
58 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/13(木) 15:13:36 ID:CnSPSLAq0
ヌルハチってまさに戦場の男だよな。
死んだのだって、戦傷が悪化したのが原因だし。
>>47 やはり賤ヶ岳の戦いなんじゃないかな
機動力を活かした内線作戦で外線作戦をとる敵を撃破した、ってのが両戦役だと思うから
ただ秀吉の方が、ヌルハチよりも、一枚も二枚も上手かな
同じ迅速な機動と言っても、秀吉は歩兵、ヌルハチは騎馬、だったわけだからね
60 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 01:03:48 ID:j1QIES5M0
>>59 賤ヶ岳の戦いは、兵力面において秀吉の方が優位だったからね。
サルフの戦いほどの劇的な印象はないかも。
61 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/10(水) 22:02:11 ID:6QZRHWyi0
秀吉の用兵の要は、機動力と兵站を組み合わせた戦略的なものだと思うな。
対してヌルハチの用兵は、純粋な戦術色が強い。
62 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/25(木) 23:24:34 ID:EuS1yaiC0
豊臣秀吉は、戦いが始まるまでに、勝てる状況を作り上げるのに長けている。
63 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/12(水) 09:47:27 ID:4OZJbs3t0
揚
64 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/15(土) 22:38:43 ID:eRmVf0Bu0
サルフの戦いでは明軍の火力を上手く封じ込めたヌルハチだが、
続く寧遠城攻めでは、明軍の火力に手痛い目に遭った。
サルフは砂煙がたまたま舞い上がっただけで封じたわけじゃないんじゃない
次戦でズタボロにされてるわしわけ
サルフの戦いの結果は、遼東地域における覇権の確立であって、
明を滅ぼして天下を取ることには直接繋がっていない。
ヌルハチにしても、遼東地域に独立国を打ち立てることが目的であって、
明を滅ぼそうなんてまだ考えていなかっただろう。
明打倒を本格的に考え出したのは、二代目以降。
67 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/06(水) 11:09:14 ID:XCjgIH4y0
サルフの戦いの時点で、朝鮮はまあまあ上手く立ち回っていたのに、
後で馬鹿やらかしたな。
68 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 00:37:21 ID:z5f9vKMd0
そんなに上手いと言えるか?
69 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/30(月) 12:46:23 ID:MNpMBgIV0
(つд⊂)
70 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/01(火) 23:34:05 ID:2hYL4EVl0
>>68 あの民族にすれば、上出来と言えなくもない。
71 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/20(土) 12:31:12 ID:OtxUQx740
ドルゴンとかホンタイジとかアジゲとかドドとか
怪獣みたいな名前でカコイイ
大怪獣ドルゴン、山海関を越える!!
73 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/24(水) 14:49:48 ID:DbB0r8woO
ドルジも混ぜてやってくれ
愛新覚羅の遺伝子は優秀すぎる
潘宗顔が馬林に協力してればずい分形勢変ったんだろにな
>>66 仮に中原進出にしくじって、遼東独立国家となった場合、
どういう形態の国家になったんだろう?
朝鮮を直接併合しちゃうかな。
アジア史的には中原進出失敗したほうが良かったのではないかと思う
周辺に脅威が存在するということは軍事的に活力を失わないという事だから
清が満州一帯〜ウラジオ辺りまで
順(李自成)が中原
ジュンガルが蒙古高原
78 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/29(日) 05:29:31 ID:QharpyIW0
李自成が陝西を固めてもう少し慎重な戦略を選択していたら
かなりその後の展開が変わったかもしれない
80 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/14(木) 17:29:43 ID:1TcrJnVM0
81 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/04(土) 11:41:46 ID:QHPNIKWI0
83 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/26(日) 04:49:14.50 ID:JBFFfo7s0
>>74 清朝は順治・康熙・雍正・乾隆と名君揃いだしな
(前の明朝は暗君のオンパレードなのに300年も続いたのがある意味すごいけど)
漢・唐・宋・明・清の皇族はなんとか子孫が残っているね
秦・晋・隋・元の血統は断絶してしまったが
84 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/17(木) 02:18:37.52 ID:+TkLMPcq0
85 :
忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:8) :2013/01/18(金) 19:15:09.25 ID:+gdrC7dw0
ヌルハチは袁崇煥の火力に完敗して敗死したから、近世の域にも達しない中世の名戦術家止まりだと思うなあ。
86 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/17(日) 15:50:16.80 ID:9oQvjJKI0
87 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/26(火) 17:16:33.78 ID:KMB29zLL0
>>85 > ヌルハチは袁崇煥の火力に完敗して敗死したから
戦傷が原因で死亡したのか、ごく普通の病死かはハッキリしていないのではなかったか?
88 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
ヌルハチ→ホンタイジ→ドルゴン→順治帝→康熙帝→雍正帝→乾隆帝
しかしもはや冗談としか思えんなこれ
よくもここまで人材が続くもんだ。王朝に一人は出るねクラスが