1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [] 投稿日:2006/11/14(火) 13:26:14 ID:cwVjzMAO0
中国の長い歴史の中で登場した数多くの武将たちの中から、特筆に値するであろう名将百名を選ぼうというスレです。
要は作家の田中某氏の著作「中国武将列伝」と同じ企画ですが、田中某氏の評価に従う必要はなく、各人それぞれの
評価によって、百選に入れるべき武将を推挙して下さい。
・推挙する武将については、その理由を述べること。
・対象となる武将は、近世以前の武将とし、近代以降の軍人は含めない。
・対象となる武将は、特定の時代に偏らないように配慮する。
以上の三点に留意して、中国名将百選を決めましょう。
前スレ
【みんなで】 中国名将百選 【決めよう】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1163478374/
時代区分
春秋戦国(紀元前771年〜紀元前221年 550年間)
統一秦〜前漢(紀元前221年〜紀元前8年 213年間)
新・後漢(紀元前8年〜紀元220年 228年間)
三国〜両晋(220年〜439年 219年間)
南北朝(439年〜589年 150年間)
隋・唐(589年〜907年 318年間)
五代〜北宋・遼(907年〜1127年 220年間)
南宋・金〜元(1127年〜1368年 241年間)
明(1368年〜1644年 276年間)
清(1636年〜1912年 276年間)
これまでのまとめ
春秋戦国
【確定組】
楽毅、魏無忌(信陵君)、白起、李牧、王翦
【候補】
墨子、管仲、呂尚、孫武、伍員(子胥) 、廉頗、孫ビン、夫概、趙奢、士会、
趙奢、趙無恤、王子成父、先軫、楚の荘王(熊侶)、蒙ゴウ、司馬錯、樗里疾
統一秦〜前漢
【確定組】
韓信、霍去病、衛青、灌嬰
【候補】
項籍(羽)、周文、蒙恬、章邯、項梁、彭越、英布、田横、
周亜夫 、李広、李陵、趙充国、范明友、陳湯、劉邦
新・後漢
劉秀、耿エン、馮異、岑彭、呉漢、廉范、班超、張奐、虞[言羽]、賈復または馬援
三国〜両晋
【確定組】
曹操、ケ艾、石勒、祖逖、王猛
【内定組】
周瑜、劉曜、慕容垂
【論争中】
陶侃、石虎、謝艾、慕容恪、桓温、謝玄、姚萇、李雄、皇甫真
劉淵、劉聡、冉閔
南北朝
【確定組】
劉裕、檀道済、韋叡、陳慶之、
拓跋珪、高歓、宇文泰
【候補】
柳元景、蘭欽、奚斤、楊大眼、元英、周盤龍、
斛律光、慕容紹宗、宇文護、韋叔裕、李弼
段韶、高長恭、爾朱栄、王勇、沈慶之、陳顕達
赫連勃勃、拓跋Z、侯景(宇宙代将軍)
蕭道成、斛律光、陳覇先
隋・唐
【確定組】
楊素、李世民、李孝恭 、李靖 、李勣、裴行倹、郭子儀、李克用
【候補】
韓擒虎、賀若弼、張須陀、竇建徳、楊義臣、李密、劉黒闥、徐勣
李孝恭、薛仁貴、高仙芝、顔真卿、張巡、王式、黄巣、高駢
李存孝、安録山、薛礼、劉方、蘇烈、劉仁軌、李光弼、史思明、李愬00
まとめつづき
五代〜北宋・遼
【確定組】
朱温、李存勗、郭威、柴栄、趙匡胤、曹彬、楊業、狄青
【候補】
周徳威、郭崇韜、王彦章、郭言、楊師厚、劉?、康延孝、符存審、
任圜、李神福、台濛、周本、孟堅、張彦卿、陸孟俊、劉仁贍、張武、
王環、趙季良、蘇章、潘崇徹、銭弘佐、顧全武、張元徽、李瓊
【論争中】
耶律休哥
南宋・金〜元
【確定組】
宗沢、岳飛、完顔宗望(オリブ) 、孟[王共]、ココ・テムル
【候補】
李庭芝、忽必烈(フビライ) 、完顔宗弼(ウジュ) 、伯顔(バヤン) 、
阿朮(アジュ) 、韓世忠、杜杲、張弘範、范仲淹、チュウ師道
張俊、呉?、呉リン、劉リ、虞允文、李顕忠、楊存中、僕散忠義
徒単合喜、宗翰(ネメガ)、耶律斜軫、史天沢、兀良合台(ウリャンハタイ)
劉整、張弘範、脱脱(トクト)、拡廓帖木児(ココテムル)、呂文煥
明
【確定組】
徐達、常遇春、朱棣、戚継光、袁崇煥
【候補】
朱元璋、陳友諒、方国珍、湯和、李文忠、藍玉、于謙、兪大猷、王守仁
呉三桂、李自成、鄭成功、馮勝、張輔、張士徳、馬芳
清
奴児哈赤(ヌルハチ) 、阿巴泰(アハタイ) 、多爾袞(ドルゴン) 、費英東(フィヤントン)
康熙帝・玄Y、岳鐘h、策稜(ツェリン) 、僧格林沁(サンゴリンチン) 、宋景詩 、関天培、
明亮、楊遇春、李長庚、関天培、李秀成、石達開、劉永福
前スレより、考慮する武将について
7 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 18:47:07 ID:1kk6Cs2h0
>>5 いい加減その電波をはねかえせよ。 いつまで引っかかってんだ。
それはともかくとして…
中国というものの範囲だけど、土地的なもので言えば「中華本土」と呼ばれる範囲とするが、中華王朝という枠組みで、漢化政権あるいは中国風の国号を用い、なおかつ中華本土内に領土のある政権、とすればよくはないか?
南詔とか西夏はどうなるんだろ… 詳しい人がいれば入ってもよさそうだけどね。
その規範でいけば、チンギス・ハーンの蒙古は除外するけど、中国風の国号となったフビライ・ハーンの「元」は含む。
また、女真は含まないが、「金」は含む。 あるいはキタイはだめでも「遼」はいい、と。
でないと、北魏はおろか隋や唐まで含まないなんてことになりそうだから。
漢民族だけが中国人ではない!
で、国籍は出身国というより所属国で判断すればよろしいかと。
高仙之や李光弼は「中国の名将」としてランキングされるが、郭侃などは紹介はされてもランキング除外、とか。
そんなところでどうかな?
田中ヨッシが先鞭をつけているだけに、そうそう違う武将が出てくるとも思えないけど、どういう判断で紹介するのか興味深い。
8 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 18:57:59 ID:yxgR08jb0
とりあえずみんなで何人かづつランクイン入りすると思われる人物の名前を上げていくか?
いきなり100人づつ上げていくわけんもいかんしw
9 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 19:00:31 ID:jchs3O4hO
中原指向を持つかどうかで分けた方がよい
渤海や遼、西夏などは広義における中国文化圏と言えるけど
支那の地に入って中華帝国になろうとしなかったから中国じゃない
金や清は歴とした中華王朝
要は支那兵を率いれば中国の武将扱いでいいだろ
契丹人やモンゴル人を率いた武将が中国武将とはいえん
逆に異民族出身でも漢人を率いてれば中国の武将だ
10 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 19:12:30 ID:1kk6Cs2h0
>>9 でもなぁ、遼は間違いなく中国兵を率いているぞ?
趙延寿や楊袞(名将とは言えにくいが)などは燕雲十六州に鎮した将だし、遼はキタイと漢人とを住み分けしてもいたし。
二十六史にある以上、中国としても問題ないと思うけどなぁ。
11 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 19:28:22 ID:2mD79BmXO
>>9 でもさ、中華戦線のモンゴル軍の中には漢人も多いんじゃなかったか?
(モンゴルは現地の兵をよく使うし)
12 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 19:35:28 ID:yxgR08jb0
>>10 > 二十六史にある以上、中国としても問題ないと思うけどなぁ。
それも一理あるが、やはり遼や金を中国にいれるのは抵抗あるなあ
13 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 19:37:28 ID:1kk6Cs2h0
>>12 名前に抵抗あるわなw
耶律とか述律とか完顔とか…
それはわかるが、それだと漢人マンセーな田中ヨッシ風味満載になって、おれは構わないが、アンチが沸きまくると思うけどな…
14 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 19:43:36 ID:yxgR08jb0
>>13 ただ抗金というジャンルがあるからね。
他の時代なら異民族の王朝だってほとんど違和感ないんだけど。
先入観かな?
とりあえず境界は曖昧にして名前を上げつつ論じていった方がいいんじゃないか?
15 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 20:31:35 ID:jchs3O4hO
中国戦線における元の将はもちろん中国武将ですよ
でも漢人でも西域で西域の兵で戦ったら、その戦績を中国武将としてカウントするのはアウト
郭侃は中国戦線の功績だけ評価
16 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 21:39:04 ID:yQpFrdGM0
所属国家というか王朝で判定するという手もある。
まず基本二十六史の大部分はそのまま認める。
で、遼とか金とか元とかは部分的に認める。中原進出を果たして以降を認める、
とか(これだと遼は除外だな)。
さすがに南詔とか西夏は外国でしょ。
なかなか決まらんねとはいうが
まがりなりにも清代まで1スレでいけば上々じゃないか
8 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/01(月) 18:44:41 ID:F5OTQss+O
あっさり決まってたらスレたてる意味ねーだろ
特定の時代を突出させることなく候補をそろえたのは大したものだ。
仕切り屋さんのおかげだな。
かの人は全時代に通じているわけでしょ。
おれなんか、限られた時代だけだもんな。
普通にすごいと思うぞ。
時代区分は若干の変更があったんじゃなかったっけ?
元の脱脱って、ちょい微妙じゃないか?
元史の脱脱伝を一通り見てみたんだけど、
彼が兵を率いたのって
1若い頃に答里、刺刺の反乱軍に勝利。
(とは言っても、率いたのは元朝正規軍の精鋭部隊)
2芝麻里(李二)等の徐州紅巾軍打倒。
3大軍を以って張士誠を敗北寸前まで追い詰める。
の三回だけだろ、
しかも軍団の規模や兵の質は元朝の精鋭軍を率いている
脱脱側の方が賊軍よりもはるかに上だろうし・・・
確かに百万を号する大軍を見事に率いた手腕は買っていいとは思うけど、
百傑に入るほどでもないと思う。
13 :
12:2007/01/02(火) 15:02:38 ID:jqm9xRH00
芝麻里は芝麻李の間違いね
清は費英東の代わりに揚古礼のほうがいいんではないか。
あと、乾隆期の兆恵がいないのは疑問だ。
ちょっとまってくれ。今はどの時期の話をするんだ?
清代の候補が確定させるのが先決
>>4でOKなら、100人に絞る作業に移るってことだね。
その前に、時代区分の確定と候補者が重複や抜けが
無いかのチェックが必要
春秋戦国の候補で、呉起が抜けてるし。
清の時代にはあまり詳しくないので、
阿巴泰、費英東、策稜、明亮、楊遇春、李長庚に
どんな武功があったのか教えて欲しい。
18 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/03(水) 02:38:01 ID:isoS44jK0
阿巴泰〜李長庚、遅くなったが紹介します。
阿巴泰(アハタイ)
ヌルハチの第七子。崇徳元年、アジケらとともに明伐戦に参戦、五十六戦して全勝、10城を落とし俘虜10数万を獲る。
5年十月、再び明伐。88城を抜き6城を降し36万人の俘虜を得た。順治元年、饒餘郡王に進められる。康熙十年、敏と謚された。
費英東(フィヤントン)
清初の5大臣の一。天命三年、撫順の堅城を攻めたとき、敗戦ムードの諸将を叱咤して遂にこれを破り、太祖から「万人の敵なり」と賞賛された。
太祖の下で転戦し、「戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず取る」といわれた。「佐命第一の功臣」としてその功績は諸将の上に冠した。
策稜(ツェリン)
モンゴル貴族。12歳のとき康熙帝に目通りし、その娘を娶る。
1715年、オイラートのツェワン・アラプタン侵入を撃退、ついで二十年、オイラートの大軍を破る。
同年扎薩克(官名。意味はよく知らん)となり、23年には多羅郡王に進む。
三十一年、オイラートが大挙して南侵、コブドに駐留する清軍を破り、清朝を脅かしたがこれを撃退した。超勇の号を賜る。
翌年、オイラートが性懲りもなく攻め入り、策稜の二人の息子を攫ったが、策稜は兵2万を率いて追撃、エルデニ・ジョーの会戦でオイラートを撃滅した。
1750年、没。祖廟に陪葬された。モンゴル人で祖廟に合祀されたのはのちの僧格林沁のみ。
明亮(ミンリャン)
1765年、伊犂領隊大臣として将軍・明瑞らに従い、回部・烏什の乱を平定。
69年、ビルマへ遠征して功があった。
71年、僧格桑が乱を起こすと将軍阿桂(アグイ)に従って奮戦、5年をかけて乱を平定、功により一等襄勇伯に任ぜられた。
79年、改めて四川提督を授けられ、伊犂将軍、鑲紅旗蒙古都統、刑部尚書、黒竜江将軍を経て正紅旗漢軍都統となる。
96年、ミャオ族の反乱平定に参加、同年末ミャオ族の首領石柳ケを捕らえた。その後も各地の叛乱鎮定に奔走する。
1821年、老齢により致仕し翌年没した。奔放不羈な性格で軍を動かすのにも独断専行が多く、
しばしば罷免されたがそのつど許されてはただちに軍に復帰したことは、彼の軍略が当時の清朝になくてはならないものだったことを現している。
楊遇春
1784年、総督福康安(フカンガ)に従って甘粛のイスラム教徒の叛乱、88年、台湾の林爽文の乱、96年、ミャオ族の乱などに奮戦した。
フカンガ死後も白蓮教の乱平定に従って功があり、累功により一等男爵となる。
1828年、陝甘総督、伊犂将軍となってイリ、カシュガルを治めたが、三十五年、老齢と病気をもって致仕した。
結髪以来大小数百戦を経験し、かすり傷一つ負わず、人々から「福将」と賞賛された。
また毎戦かならず黒旗を持ち、楊家軍として恐れられた。
李長庚
海の名将。進士ながら内乱平定に功績があった。その残党が倭寇と一緒になって内海を脅かしたので海軍を率いてその討滅に力を尽くした。
1797年、福建海壇総兵となり、最終的には福建水師提督に昇進、海賊・蔡牽をしばしば破って勇名を馳せた。
官軍の水軍が頼りにならない中、孤軍よく戦って蔡牽を阻み、嘉慶帝の絶大な信任を得た。
しかし1807年、浙江提督としてまた蔡牽を追い、広東潮海の海上において交戦、敵勢力を追い詰めたが、流れ矢(鉄砲)に当たって戦死した。
・・・アハタイとフィヤントン以外は正史読むのメンドイから自前の記憶と「アジア歴史事典」に拠った。もしかしたら抜けてる部分があるかも知れんが勘弁。
19 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/03(水) 02:59:38 ID:isoS44jK0
岳鐘hと策稜は個人的に大好きなんだが、
康熙帝の武将って事で外してもいいかもわからんね。
曹操入れて張遼をはじくみたいな感覚で。
明亮が入るなら阿桂と兆恵も候補には入ると思う。
明亮はナルサスのモデルということでガイエが肩入れしてるだけで、
こいつ以上の武功を立てた同時代人はいっぱいいる。
>>19 策稜は清朝随一の名将だと思うので外すのはちょっとためらいがあるなあ。
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/03(水) 14:34:53 ID:icNFhde00
選考段階で「それ誰?」とかないように、アゲイとジョーホイの略歴も置いとく。
阿桂(アゲイ)
1717-1797。字は広庭。姓は章佳。最初満州正藍旗、1763年以降は武功により満州正白旗に属す。38年(乾隆三年)の進士。48年、兵部尚書班弟に従って金川を討った。
55年ジュンガル征伐に参与、ウリヤスタイに赴き兵站の事務を司った。翌年父の死により北京に帰ったが再び軍務に戻った。参賛大臣としてコブドに駐屯し、
さらに回部の平定に従い、イリ地方の屯田の事務を管理して功績を挙げた。63年、北京に帰り軍機大臣を授かり太子太保を加えられた。65年回部ウシの平定に赴き、
67年伊犂将軍となった。翌年経略使傳恒のもと副将軍としてビルマに出征、しかし戦果は上がらず、71年転職させられた。この年から
副将軍温福とともに金川征伐に乗り出し、定辺将軍を拝して73年にまず小金川を、76年には大金川を平定した。
この大功をもって誠謀英雄公に封ぜられ、再び軍機大臣に返り咲いた。
その後黄河の治水などに尽くすとともに、81年の蘭州、84年の石峰堡でイスラム教徒の反乱を平定して軽車都尉の世襲を許された。
さらに台湾の林爽文の乱やグルカ族の平定にも参加した乾隆期の名将。1797年没。文成公と謚された。
兆恵(ジョーホイ)
1708-1764。満州正黄旗の人。姓は呉雅。1737年、兵部中郎となる。その後内閣侍読学士、内閣学士、盛京刑部侍郎兼摂兵部事、正黄旗満州副都統、
鑲紅旗護軍統領などを歴任するも、48年事件に連座して免職留任に処された。同年六月復権、戸部侍郎となり、8月から翌年にかけて金川の軍糧を督辦した。
50年、正黄旗護軍統領嚮道統領を授かる。53年、チベットに赴きジュンガル部防衛の任に当たった。54年、ジュンガル部のアムルサナが降伏して
ジュンガル攻略の策を献じたので、乾隆帝は大軍を派遣した。ジョーホイはこの征伐戦に従い、北路の軍務を協理し、糧秣、兵站を統括した。
55年3月、ジュンガル部を降して功があり、十月には北路の兵站を総括した。ここでアムルサナが叛いたので乾隆帝はジョーホイを総大将とした大軍を編成、
56年3月、アムルサナを討ち、ふたたびイリを征服し、ブルハン・ウッディーンとホージャ・ジハーン兄弟を追ってパダフシャンで殺し、ジュンガル地方を完全に
平定した。この結果アフガニスタン、コーカンド、タシケントなどが相次いで朝貢国となった。功により領侍衛内大臣戸部尚書兼鑲白旗漢軍都統を授けられ、
60年には御前大臣となった。その後江南、直隷などの水利事業を監督し、64年北京で没した。謚は文襄。
22 :
20:2007/01/03(水) 15:28:18 ID:LJBWto2n0
>>21 すげー、アジア歴史事典持ってるのか。裏山。
フォロー感謝です。
自分が気にいった時計がアゲイ
>>18 >>21 サンクス。
この中で決定は阿巴泰、策稜。
候補は楊遇春、李長庚、明亮、兆恵、阿桂。
選外は業績不詳の費英東かな。
25 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/03(水) 21:58:37 ID:KkDIyuIb0
>>24 ヌルハチとドルゴンがいるでしょ。
まぁドルゴンは戦術的才能より政略・戦略の才能に長けるタイプだから外れても仕方ない気はするが。
あと、康熙帝と岳鐘hもね。
康熙帝もドルゴンと同じで政戦略に長けるタイプだから、岳鐘hを残したほうがいいんかな。
岳鐘h=清朝唯一の漢人大将軍。漢人ながらその統率力と人望は満州人からも崇拝された。
26 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/03(水) 22:00:00 ID:KkDIyuIb0
あ、18と21で名前挙げた中での選抜か。ならそれでいいや。ごめん。
>>25 ヌルハチ入れちゃったら既に資格無しと弾かれた征服王朝の征服前武将のヲタが怒り狂うだろ
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/03(水) 22:50:44 ID:KkDIyuIb0
清朝は後金含むじゃなかったか?
と思って読み返してみると、後金含むとはどこにも書いてないなぁ。
ヌルハチ、哀れにも失格か。
>>28 参加資格は
・中華本土に領地を持つ
・中華風の元号・国号を使う
この二つを満たしている時期の政権に所属していた武将という事だったはず
ヌルハチが前者の条件を満たしていると言うのは厳しいのでは?
同じ女真の完顔阿骨打も駄目って言われているし
だったら費英東も失格だな。
西夏も中国本土に食い込んでたりするが。。。。
残念だけど、西夏は単体の歴史書が二十六史に入っていないから、今回このスレ的にはアウト。
遼も燕雲十六州得て以降に限定するだろうし。
>>32 専門外だからよく知らないんだけど、五胡十六国って二十四史から漏れてたりしない?
五胡十六国は入ってないね
>>33 二十四史に限定したら清も入らないんだけどね
>>29 その条件は、個人的には「中華本土に本拠を置いた政権」にするべきだと思う。
でないと、遼を入れて西夏を外す理由にならない。
この条件だと、清は入関以降、元はフビライ以降(もともと国号・元号の点からして
そうなるが)となるが、ただ問題は金で、海陵王以降になってしまう。
仮に西夏を入れるとしたら名将って誰がいるの?
李元昊くらいしか知らないんだが
>>33 晋書に伝があるからいいんでないの?
それ言ったら、五代十国の十国さえも入らなくなってしまうし。
五胡流入のとき活動した地域は、京兆畿内を中心としてるわけだし、西夏などおよびもつかないでしょ。
五胡十六国でまとめられちゃうけど、よく考えれば
前秦やら前燕やらは入るけど北涼や西涼はアウトということになるのでは
>>36 遼の本拠地は中華の外じゃなかったか?
いまだと内モンゴルになる
>>40 だけど、清朝期に公認された「正史二十四史」の中に「遼史」は入っている。
中国王朝が遼を中国王朝と認めているわけだから、とやかく言うことはないとは思うが、それでも違和感あるので、陰山以南で活躍した人物だけあげようとしている。
ちなみに、清朝を入れるために「二十六史」をもって中国王朝の枠組みの基本とすればいいと思う。
でも、上記のようにできるだけ中華本土での活躍に絞りたい。
西夏も入れてもいいんだろうけど、遼と違って京師を陥落させ、一国を滅亡させるほど攻め込んでないし…
吐蕃も長安陥としているけど、すぐ取り戻されてるしな。入れるには抵抗ありすぎだから。
劉邦は候補に入るほどの人かな
もちろん凄い人だけど軍事に入れるのとは違うような
司馬イが入らないのは意外
候補に入れていいと思います
>>42 とりあえず前スレを読んでくれ、としか言えんな。
西夏は正史(のような物)が無いので名前の挙げ様が無い。
精々、
>>37の言うように李元昊くらいしか出てこない。
中華内で戦ったに限定すると衛青や高仙芝はアウトにならない?
高仙之は国内で安録山と戦ってるよ。
これの宰相(政治家)バージョンも作ろうぜ
対遊牧国家で活躍した武将を外すのは厳しい。
高仙芝は元の郭侃と同レベルに考えるとアウトかな?
でも最後の戦歴は中華内での安史の乱だからな〜
西域で戦った武将も外したくないな。
宰相バージョンほしい
ただ、宰相の場合100人も選ぶと微妙なのも入るかもよ
白眉は一時代に2,3人じゃない?
確かに名宰相となると一王朝で十人は無いな。
春秋戦国だと管仲・子産・商鞅・李斯と多いが
明や清になると
>>51の言うように2、3人くらいしか出て来ない。
54 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/04(木) 20:17:31 ID:CXfziSWK0
高仙芝の国内の戦績じゃやっぱりアウトだな
56 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/04(木) 22:02:50 ID:E57e1IaHO
>>42 劉邦は統一後、自ら親征して反乱を鎮圧している。
(候補に入れても問題は無いだろう)
司馬懿はどちらかと言えば陰謀家で文官か軍師が司令官として戦場で采配を振るったのに近くないか?
用兵能力の凄さは認めるが名将の部類に入るとは思えない。
>>48 そもそも郭侃が入ってないのは時代的な問題が大きいのでは?
モンゴル帝国の国号が元になった後も活躍していないとは言わないが、やはり世代が一つ前だろう
>>56 ムリムリ。
たかが、一地方の反乱に帝国の全力で当ったのに、その親征で矢傷を負ってるし、
当たり所が悪けりゃ死んでるww
後は、対項羽・対冒頓単于とか負戦が多い。
候補入りは厳しくないか?
質問ですが
白村江の戦、文禄慶長の役で戦った中国の将は誰一人として入らない?
語れるべき人がいないのかな
60 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/05(金) 09:42:34 ID:dElCpDPa0
>>59 仕事前にいっちょ書き込み。白村江の戦いで日本軍を覆滅したのは劉仁軌。
戦勝したあと前任の劉仁願いに代わって百済鎮撫の任につき、
668年、李勣の副将となって高句麗平定。674年、新羅を攻めて大勝した。
功績により文昌左相同固閣鸞台三品となり、685年没した。
・・・この人を入れたいという有志は結構いたが、人数制限で泣く泣く削るはめに。
次、文禄・慶長の役。
秀吉の朝鮮出兵に対し4万の兵を率いて朝鮮入りしたのは李如松。
1593年、平壌で小西行長の軍を撃破、しかし連勝に驕り、
碧蹄館で小早川隆景の軍に大敗して命からがら逃げ墜ちた。
その後和議を主張して事態を収拾、同年末帰国した。
1597年遼東総兵官に任ぜられ、翌年土蛮の侵攻を迎撃、長躯その本拠を突いたが、伏兵に遇って戦死した。
・・・この人は候補にも挙がってないけど、明朝廷の一流将帥って訳でもないから仕方ないか。
>>60 李如松の父親の李成梁は候補に挙げられてたけどね(なぜか選考漏れに)
やっぱり、実績が伴わないとこのスレでは不利
逆に一発屋も不利なんだよね
名将百選でなくていいから、各時代に一名「一発屋」枠が欲しいな
瞬間最大風速を記録するようなバカがどの時代にも何人かいるじゃん
こうすれば宇宙大将軍もこのスレに名前を残せ(ry
62 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/05(金) 12:24:59 ID:ne0XULCqO
>>59 李如松以外の参戦主要武将
文禄の役
祖丞訓・栄応昌・李如伯・李如梅・李寧・大受・楊元・張世爵・沈?敬
慶長の役
麻貴・楊鍠・劉テイ・董一元・陳リン・高策・李芳春
詳しくは
>>60に任せます。
63 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/05(金) 18:46:09 ID:PWrAjd9/0
帰ってきたらいきなり任された。
それはともかく、伝なしの人はムズいんだよ。
アジア歴史事典にも東洋歴史大辞典にも載ってない人はいっぱいいるわけでね。
改めて《明史》を読み返さにゃならんし。
読み返しても一行だけで済まされてる人もいるし。
まぁとりあえず史書と格闘するんで、1、2時間ください。
あと、謝罪。
自分、前スレ905で「元末群雄はアクの強い魅力がないから擁護する気にならん」などとのたまった大バカですが、
全然そんなことないね。江南三大勢力の虚虚実実の駆け引きとか、勇将謀将の活躍とか、隋末唐初の群雄たちに
まったく劣らないということをつい先日理解しました。知らなかったとはいえご無礼の程、平にご容赦していただきたい。
ところで帰り道に本屋で「巨商 沈万三」を勝ってきて、まだちょこっと(一話だけ)しか読んでないんだけど、
虚構と真実、どれくらいの比率で読んだらいいんかな?
>>63 沈万三読んだけど、これは殆ど虚構。
身も蓋もないこというけど、そもそも沈万三はこの時代既に亡くなっています。(生きていたとしてもかなり高齢)
元末当時活躍していたのは、沈万三の息子世代だそうです。
65 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/05(金) 19:22:08 ID:PWrAjd9/0
>>64 情報感謝。
ほとんど虚構か。
まぁ、エンタテインメントとして楽しむ方向ならOKだわな。
少なくとも塚本作品よりは面白いだろうと。
何故か職場近くの紀伊国屋は中国史コーナーに塚本氏の本ばっか置くから困る。
66 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/05(金) 20:13:39 ID:0PrrZ7jxO
前スレでは各時代煮詰めきれないまま先に進んじゃったから
前スレの評価を叩き台にして、もう一回最初の春秋戦国から議論していかない?
それより先に時代の区分と中国の武将を明確に定義しないと
後から揉める。
劉綎(テイ)って、「抗清名将」の一人ですよね?「劉大刀」の綽名を持ち、
清軍と戦って戦死した…。でも、この人は猛将に分類した方がいいのでは。
父親の劉顕も一緒に。
というか、劉顕は江南で活躍したけれど、戚継光・愈大猷と同時期なのが
ネックですかね。賊軍の数十人を素手で格殺したりとか、印象的な
エピソードには事欠かないんですが。
あと、王崇古は文官で扱った方がいいですか?
アルタンと丁々発止を繰り広げた人ですけど…。
横レスごめんね
>>66
69 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/05(金) 20:38:16 ID:PWrAjd9/0
翻訳完了・・・精度低いけど。
文禄の役の将帥
祖丞訓
字、号、生没年全て不詳。萬暦年間中遊東副総兵となり、対北虜戦に活躍。
同20年(1591)、朝鮮の役が起こると騎兵三千を率いて平壌に入った。しかし
城内は隘路が多く、騎兵隊の機動力が殺され、城壁に上った日本軍の鉄砲掃射を浴びて
殺傷されるもの多数。生き残りの兵とともに退却し、遼東に帰還した。
日本軍と最初に交戦した将軍。
栄応昌
萬歴20年、祖丞訓の失敗を踏まえて対日本戦の戦略を建議した。現地でも活躍するが
糧秣問題に苦しめられる。李如松とともに召し還された。
李如伯
李如松の弟。この人も父に従って北虜討伐で活躍していた。薊州副総兵、寧夏総兵官、
右都督などを歴官。朝鮮の役において日本軍を思う存分ぶちのめした。
のち病を得て帰国、20年ほどひきこもったのち、遼東総管の任を授かってしばしば清軍を蹴散らした。
李如梅
李成梁の第三子、李如松の弟。遼東副総兵、代総兵官、左府倹書などを歴任、兄に従って日本軍と戦い、
功があった。兄が戦死するとその職を継ぎ、兄を上回る用兵手腕で日本軍を恐怖させたが、宮中で弾劾されて
罷免された。成梁の子の中では如松が最も勇敢で父の風があり、如海はそれに次ぐといわれた。
李寧
克力蓋が河套の日本軍を攻めたとき、逃げ去る日本軍を追撃、殺戮戦を繰り広げた。さらに日本軍と連携して
邪魔をする倭寇を撃破。査大受とともに精兵三千を率いて東江の小道に潜伏、小道を通る日本兵を襲撃して360人を殺した。
祖丞訓とともに開城に屯した。
査大受
命を受け、決死隊を率いて日本軍の兵糧を焼き毀した。活躍シーンはそんだけ。
楊元
李如松の副将。命を受けて小西門の城壁を登り、大西門を登った李如松と連合で火器を一斉掃射、日本軍を殲滅した。のち、日本軍に身を投じようとした沈惟敬を捕らえてぶっ殺した。
張世爵
不明。まったく分からん。
沈惟敬
奸臣。兵部尚書石星を篭絡して朝鮮入り、敗戦ムードが色濃くなると
日本軍の先鋒小西行長と会見を開いて和議を結び、翌年、自ら名護屋に
赴いて盟約を結ぼうとするも上手くいかず、しまいには朝廷から国賊扱いされて
楊元に捕らわれ、斬首のうえ棄市された。
・・・結構苦労して調べたんだが、張世爵はなにしたのやらさっぱりわからん。
慶長の役
英雄善戦、の四文字が頼もしい勇将、麻貴は万歴十九年、寧夏で叛乱を起こしたホバイを討伐。
25年、対日本防備の総兵官となり、朝鮮に赴く。兵を三路に分かち、左路を李如松が、右路を李芳春と解生が、
中路を高策がそれぞれ指揮して進軍したが、加藤清正、小西行長の前に敗れる。万歴二十七年(?)将兵を九路に
分かち、進軍したが小西行長の軍に大敗し、楊鍠などは日本軍の旗を見るだけで恐懼した。怒った朝廷は楊鍠の官職(経理)
を奪い、贖罪として麻貴に戦功を求めた。麻貴は劉綖、陳璘、董一元とともに出陣、軍を4路に分かち、東軍は麻貴、
中路は董一元、西路は劉綖、水軍を陳璘に任せて総勢14万2千人の大軍で日本軍に対した。
しかし戦況は芳しくなく、劉綖は小西行長に敗れ、麻貴も蔚山を抜こうとして果たせず、董一元は島津義弘のために破られた。
秀吉の死により日本軍は撤退し、明王朝はかろうじて面目を守ったが、官軍の弱体化は覆うべくもなかった。
・・・長文で一個にまとめてみた。一応麻貴、楊鍠、劉綖、董一元、陳璘、高策、李芳春の7名カバー。
翻訳下手だからなー。間違ってる部分もあるかもしれん。そんときはご勘弁。
70 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/05(金) 21:36:21 ID:PWrAjd9/0
時期的には蒙古と元、後金と清はできれば一緒がいいな。
これなら現行の時代区分にそれほど手を加えることなく変更できる。
あと、中国地付きの人で西域遠征した人は認める(衛青とか)。
最初から中国国外に生まれ育った人は除外(郭侃とか)。
で、26史に入ってる国家の将は基本オッケー(耶律休哥とか)。
個人的な意見はこんなとこ。
>>70 郭侃は華州ケ県の人。思いっきり中国地付きなわけだが。
72 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/05(金) 22:54:11 ID:PWrAjd9/0
>>71 あれ、西域でばっか活躍してるから向こうの生まれだと思ってた。
でもあそこまで西域で戦って中国に戻ってちまちま戦っても、なんか違うなぁ。
73 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/05(金) 22:58:57 ID:ne0XULCqO
>>69 お手数掛けまして申し訳ないです。
張世爵について
1593年の碧蹄館の戦いで李如松を大将とする明軍で
副総兵として右軍を率いたぐらいの情報しか見当たらない。
自分も今日、図書で世界人名辞典を見てきたが余りの分厚さにビックリした…
貴殿はアジア歴史辞典を所蔵とは凄いですな!!
でも古本で値段が10万前後とは…orz
74 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/05(金) 22:59:32 ID:PWrAjd9/0
それでもフラグ汗の遠征前にはスブタイに従って汴京陥としたりしてるのか。
中国でもそこそこ頑張ってたんだな、郭侃。
75 :
59:2007/01/05(金) 23:06:28 ID:qGtnEJwf0
お答えしてくれてありがとうございます
白村江も文禄慶長もネットで調べても余りありませんね
劉仁軌はなかなかの良将みたいですね、他の将は分かりますか?
李如松は猪突猛進型みたいですね
76 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/05(金) 23:38:13 ID:PWrAjd9/0
>>75 さすがにネタ切れ。ご期待に沿えず申し訳ないです。
77 :
59:2007/01/05(金) 23:51:23 ID:qGtnEJwf0
>>76 いえいえ、沢山の情報をありがとうございます
78 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/05(金) 23:54:54 ID:PWrAjd9/0
>>70 自分で書き込んどいてなんだが、中華国外で生まれ育った人はアウト、はいかんな。
遼、金、モンゴル、元、後金、清の武将を否定することになるもんな。
まぁアレだ。俺はこーいう調整役には向いてないってことがわかった。得意な人に託すよ。
「中国に領土をもち中華王朝の体裁を整えた国の武将」という条件で選んでいたので
衛青や五胡はセーフだが郭侃はアウトになったんじゃなかったっけ?
あと、遼・金は曖昧だから中国内部で戦った武将のみに限定していたはず
80 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/06(土) 01:16:10 ID:aSdIOMOo0
81 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/06(土) 12:13:58 ID:ZzP7/Zjf0
時代区分と中国名将の定義。
難しいな、今まで散々議論してきたのに不安定なままだというどけはある。
とりあえず南宋・金・元時代にトゥルイとスブタイ入れたいなぁ。
一応中原国家の金に侵攻して最終的には金を滅ぼしたんだから、可能性はゼロじゃないと思うが。
とりあえずカタカナの連中はちょっとな
83 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/06(土) 12:34:29 ID:LaAcgcRh0
連投。
「中華王朝の体裁を整えた王朝」の武将ってことだと完璧にはじかれるんだよな、モンゴル武将は。
でも中国の支配権は漢人だけに与えられたものじゃないし、なんとかならんかな。大元王朝の母体としてってことで。
84 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/06(土) 13:16:02 ID:LaAcgcRh0
また連投。モンゴル武将オッケーでの南宋〜清まで30人(ほとんど前に出した叩き台とかわらんが)
【南宋・金・元】
宗沢
完顔宗望(オリブ)
岳飛
完顔宗弼(ウジュ)
拖雷(トゥルイ)
速不台(スブタイ)
孟珙
忽必烈(フビライ)
伯顔(バヤン)
阿朮(アジュ)
【明】
拡廓帖木児
張士徳
徐達
常遇春
馮勝
朱棣
馬芳
戚継光
兪大猷
袁崇煥
【清】
阿巴泰(アハタイ)
多爾袞(ドルゴン)
康熙帝・玄Y
岳鐘h
策稜(ツェリン)
楊遇春
僧格林沁(サンゴリンチン)
宋景詩
李長庚
関天培
うん、ほぼ前回どおり。南宋・金・元でやたらモンゴル人優遇措置をとってるが、これでこそ抗元大将孟珙の真価が発揮されるというもの。
ま、勝手な30選だからスルーは覚悟。でも一考ぐらいはしてほしいな。
多爾袞は政治家であって馬上の将軍ではないと思うが・・・
実際に軍隊を率いているのは確かだが、名目上の総司令官。
同様に康熙帝もモンゴル親征してはいるが、結構接戦だったし、
実際の前線は配下の将軍が指揮していた。
>>84 王保保は元の武将なんだからどう考えても元だろ。
87 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/06(土) 19:44:15 ID:nClBpJ/Y0
>>86 拡廓帖木児を元に入れるとしたら、外すのはやっぱ忽必烈かな。武将というより大政治家。
ともあれ、蒙古の二人は外したくないんよ。
金軍精兵100万を覆滅したトゥルイに、汴京を陥として完顔陳和尚を殺したスブタイ。
でもこの二人のどっちか外せっつったらスブタイかな。戦功が中国史より世界史により多い。
ま、あくまでモンゴル武将OKという仮定の話だけどね。
明、清はまだ煮詰める必要ありそうだな。多爾袞、康熙帝を外したら他に誰を入れるかとか。
>>84 朱元璋は前スレから議論が激しかったが、やはり入れるべきだと思う
1356年 集慶路攻略
1360年 応天府での陳友諒撃退
1363年 ハ陽湖の戦い→陳友諒勢力撃滅
一連の戦績を追っていけば、配下の将たちの活躍も当然あるが、
やはり勝利を収めることができたのは、総司令官としての朱元璋の
戦術、指揮能力が優れていたからに他ならない
戦略的失敗を指摘する声が、前スレではあったが
それを戦術的勝利で挽回できたことこそ、朱元璋が将軍として優秀であった
ことの証左と言えないだろうか?
馬芳って馬林の父親だよね?
詳しい功績あんまり知らないんだが、やっぱ李文忠外すくらい名将?
89 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/06(土) 20:41:54 ID:nClBpJ/Y0
>>88 馬芳と李文忠比べたら正直李文忠のほうが上かも知れんが、6王からのエントリーが多すぎるとなんなので避けた。
あと、戚継光、兪大猷ら海の名将(戚は北虜とも戦ってるが)に対して陸の名将代表ってことで。
膳房堡、朔州、登鷹巣、鴿子堂、龍門、万全右衛、東嶺、孤山、土木、乾荘、岔道、張家堡、大沙灘ほか各地を転戦して生涯負けなし、
兵卒から大帥にまで成り上がり、「未だかつて大勝せざるはなし」とか「斬首無数、威名辺境に轟く」とか賛嘆されてるのは十分名将の名に値するかと。
ただ、知名度と歴史に与えた意義は少ないよな。前スレでも言ったけど、歴史を決めたのはやっぱり呉三桂。
だから呉三桂と変えてもいいんだけど、まぁ好みで。
90 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/06(土) 21:05:49 ID:nClBpJ/Y0
89つづき
土蛮が叛乱を起こしたとき、兜を外して見せたら「げぇ、馬芳!?」で土蛮が一斉に逃げたとか、それを追撃して殲滅したとか、
宣府太守のとき山西に北虜がちょっかいを出すと軍を率いて一日に500里を踏破、一気に戦闘に持ち込んで7戦7勝したとか、
辛愛率いる10万の衆を一戦にして壊滅させたとか、特に顕著な武功はそんくらい。
北虜も馬芳の軍を前にすると恐懼して逃げ去ったほど。
知略にすぐれ、かつ勇敢。間諜を使って敵の内情をよく探り、戦陣にあっては士卒に先駆けて突撃した。
・・・うん、李文忠に負けてないかも。
ぶっちゃけ現時点で他時代も【確定】【内定】【候補】に別れてるんだから
そんなに頑張って10人に限定しなくてもいいと思うが
荒れそうな話題ですまないが・・・
中国と韓国が争ってる互いに自国の歴史と主張している高句麗の扱いはどうしようか・・・?
一応今の中国の領内ではなるが・・・・。
五胡の時代にはかなりの漢人が亡命してるし
前燕にボコボコにされたり、
隋唐と死闘を繰り広げたり、関わりが深い。
荒れそうだったらスルーでいいが
93 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/06(土) 21:15:34 ID:nClBpJ/Y0
>>91 特に10人確定、にこだわってはないよ。
とりあえず10人出して、確定数名を選出、残った分は入れ替え候補として待機、というのが基本スタンス。
みんなそれぞれ思い入れのある武将がいるだろうし、そういう声は逐一取り上げてスレに反映させるべきだと思う。
なにせ【みんなで作る】【名将100選】なんだから。
>>89-90 サンクス、前スレで連戦連勝みたいに言われてたので戦績が分かって納得
タイプ的に、唐代の裴行倹、蘇定方みたいなポジションか
一兵卒からってのがポイント高いなあ
ここまでの【確定】の連中はこれでいいのか?
それとも春秋戦国から吟味しなおすか?
とりあえず、清代は暫定候補を決める。
その他の時代は、このスレになって出てきた候補を
まとめる。
その後、名将と時代区分を明確にするってやらな
いと、元代あたりは、特に決まらないぞ。
96 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/06(土) 21:25:52 ID:nClBpJ/Y0
とりあえず清朝の候補として、施琅を挙げとく。
清朝初期の制海権はこの人が一手に引き受けてたようなもんだし。
>>92 二十五史に入ってないので除外で問題なし。
>>92 マンチュリアを中華地帯なんていうのは中共くらいだし、高句麗は駄目でしょうね
・五胡十六国のうち僻地の国
・遼
・西夏
・金
・モンゴル
・後金
あたりのどっからどこまで含めるかが問題だな
100 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/06(土) 21:46:47 ID:nClBpJ/Y0
モンゴル頼む!!
オゴタイ時代以降の金伐戦以降でいいから。
102 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/06(土) 22:01:58 ID:pq9LO3/Q0
明代の候補に秦良玉は入らないかのう?
103 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/06(土) 22:05:54 ID:nClBpJ/Y0
>>101 了解。やってみる。
春秋戦国(紀元前771年〜紀元前221年 550年間)
統一秦〜前漢(紀元前221年〜紀元前8年 213年間)
新・後漢(紀元前8年〜紀元220年 228年間)
三国〜両晋(220年〜439年 219年間)
南北朝(439年〜589年 150年間)
隋・唐(589年〜907年 318年間)
五代〜北宋・遼(907年〜1127年 220年間)
南宋・金〜元(1127年〜1368年 241年間)
明(1368年〜1644年 276年間)
清(1636年〜1912年 276年間)
まずこれが現在の時代区分だろ。
こっからオゴタイ以降のモンゴルと後金を入れるなら・・・。
清(後金含む)で天命元年(1616〜1912)とするだろ。
で・・・モンゴルは難しいな。時代的には問題ないわけで、拖雷たちをどう中国武将と位置づけるかだからな。
とりあえず、先にも言ったように中原国家の金に進出=中華志向、といえれば楽なんだけど、
モンゴルの場合ひたすら貪欲な征服欲に突き動かされて戦いまくるだけだからな。
最初の頃は漢民族を皆殺しにして中原で遊牧しようとか言ってたし。
それでもモンゴルの台頭自体が中華王朝・金にとっての脅威であって、
中原を脅かして最終的に征服王朝・元を打ち立てた最初の一歩、布石が拖雷、速不台の金伐にあるとすれば、モンゴルを入れてもいいのでは?
さすがに苦しいかもしれんが、拖雷も速不台もちゃんと26史に載ってるわけだし、戦功も赫々たるものがあるし、あっさり切り捨てるのはどうかと。
>>103 変な言い方だが、元の中国にあたる地域=明の支配地域で
良いんじゃないかと。
大雑把に言って、クビライ家の世襲領のうち、モンゴル高原と朝
鮮を除いた地域って感じかな。
>>103 隋と南北朝はあわせることにしたんじゃなかったっけ?あれは提案だけだったか?
106 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/06(土) 22:30:23 ID:nClBpJ/Y0
>>105 多分提案だけだったはず。
南北朝は150年と短いながら多士済々だから、隋まで一緒にするととんでもなく絞る必要が出てくる。
107 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/06(土) 22:34:22 ID:nClBpJ/Y0
>>102 入らないか? じゃなくて候補に挙げるよ、って宣言していいと思うよ。
秦良玉は確かに名将だし、候補が多けりゃ時代ごとに10選するときあぁこの人どうするかなぁ、って悩む楽しみも出てくるし。
108 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/06(土) 22:58:38 ID:nClBpJ/Y0
>>104 ごめん、何度か読み返したがよくわからん。多分俺がバカタレなんだろうけど、明代の話か?
僭越ながらバカにも分かる説明お願いします。
109 :
104:2007/01/06(土) 23:04:22 ID:VpdbGzYD0
>>108 ごめん、俺の日本語が不自由なだけなんだ。
元の支配地域というか、元代の武将が活躍した範囲の
つもり。意味不明ならスルーして
110 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/06(土) 23:13:40 ID:nClBpJ/Y0
>>109 OK了解、把握した。
ところで現時点でモンゴル人武将を入れてもいいと考えてる諸兄、どのくらいいるのだろうか?
今板にいる人たちのご意見を聞きたい。
個人的には中国の武将じゃあないだろうと思う。
112 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 00:05:13 ID:PFqy+Fj90
アレで、耶律休哥とかと同じ感覚で許可してくれないかなぁ。
しかし向こうは漢化された文明をもってたけど、
モンゴルは野蛮人集団でろくに文明をもたなかったのが痛いか。
それでも拖雷、速不台は惜しすぎると思うんだが。特に拖雷が金の精鋭100万人を
潰滅させなかったら金王朝はもうしばらく命脈を保ったと思うんだが、それでも駄目?
モンゴル系は元朝期に活躍したやつだけで充分。
清も入関以後。
遼も要らんな、正史があるじゃないかとか言っている奴がいるが、
編纂したのが中国史上でも異質な元朝だということを考えて言っているのか?
漢民族王朝が編纂すれば、金はどうなったか知らんが、
遼はほぼ確実に周辺諸国扱いになったろう。
清が入関以後なら、確実に多爾袞は外れるなあ・・
すでに政治家で、実戦なんてやらなくなってるし。
>>112 「中国で活躍した名将」を挙げるスレだったら問題ないよ。でもここでは中国王朝に
籍をおいた人物って定義がなされているのだから、元以降はともかくそれ以前の
人たちは無理があるでしょ。おなじ理由で、入関以前の清(後金)も無理でしょ。
たとえば日本史の名将を挙げるときに、江戸以前の琉球の武将を「日本の武将」だって
入れられますか?仮の話ですが、琉球の武将が侵略してきて九州を占領したとしても、
それは「琉球の名将」であって「日本の名将」とはいえないと思うのです。
琉球が日本に編入されて以降なら、問題なく沖縄出身の日本軍人でいいと思いますが。
余計なことだったらスルーして欲しいんだけど。
中国での軍功って3つに分類できると思う。
1 騎馬民族または大国などの強大な勢力に対抗した。
例 李牧 廉頗など
2 中国(中華思想の影響圏内ってことで)で、国内の
統一・平定に尽力した。
例 白起 王翦 など
3 非中華圏や騎馬民族で中華圏を征服することに活躍
した。
例 楊遇春(
>>18) とか元の武将
これらの分類を格付けするか、単に戦果の大きさだけで
名将とするかで、定義が出来ないと元の将の取捨などが
出来ないと思う。
>>116 モンゴルにとって中華世界は征服対象の一つに過ぎないだろうしな
実際金を滅ぼした後南宋が粘ったこともあって、南宋滅亡までにもかなり領土を拡大してるし
(まあ元代になるとモンゴル帝国西方の独立傾向が強くなるんで、中華を基盤にするようになったが)
ただ漢民族系でも膨張傾向が強い王朝だと諸外国に積極的に侵略戦争しかけてるし、それはどうなるのかって疑問はある
トゥルイ・スブタイは外れても仕方ないとは思うが
張柔・史天沢のような漢人で中国でしか戦っていない武将はどうなるかな
>>115の真似をさせてもらうと、「琉球」に仕えて九州で戦った
日本人の武将、ということになるんだが
う〜ん、微妙だ・・・。
日本の名将を列挙していく時にアイヌのコシャマインやシャクシャインを入れるかどうか?と
似た問題やね
ましてやモンゴルや女真は最終的に中原を征服して王朝を樹立してるしな。
>>118 その例だと、日本出身の琉球武将ってことになるかなあ。
とにかく、どこに籍をおいているかだと思う。中国でも高仙芝や安禄山、李克用
など明らかに非漢人でも唐朝に仕えたということで中国武将扱いされているし。
121 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 02:31:04 ID:0+8myHFo0
中国≠支那(いわゆるチャイナ)ということで、
広い意味での「中国武将」として選べばいいのでは。
122 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 02:32:52 ID:KFYtGt2+0
皆々様のご意見の数々、骨にしみました。
モンゴル武将を入れる企ては断念します、つーか諦めざるを得ないレスの数々だから、
これ以上固執するのは漢ではあるまいと。
となると
宗沢、岳飛、宗望、宗弼、孟珙、忽必烈、伯顔、阿朮、拡廓帖木児、
・・・一人枠が空くな。元末群雄の張士徳を明からこっちにもってくるか。
まぁなんにせよ、孟珙が外れることはまずないだろうからそれだけは安心。
諸兄にはご意見ありがとうございました。感謝の気持ちとして粗品はないですが。
そんではもう一眠りします。それではまた。
>>122 もうモンゴルは
【異民族】 中国好敵手百選 【周辺国家】
て感じのスレたててそっちに移住するかね
キタイ・女真・モンゴル好き辺りは変なストレス溜まってそうだし
周瑜はあまり記録がなくてよく分からないんじゃないか
ここに入れるには物足りないような気が
125 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 08:29:58 ID:G6cc/SYd0
>>123 拖雷、速不台を強烈に推した俺ですが、
さすがに異民族だけで百選は難があるだろ。
中華武将たちを彩るスパイスとして数名から十数名選出するのがほどよいと思うのだが。
西夏もNGかな?
となると十六国のうち、西夏と同じ地域の前涼後涼、
北涼西涼南涼なんかもだめになるわけか。
候補に挙がってる謝艾は前涼だから自動的に落選と。
127 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 13:17:15 ID:wZbPE9qNO
西夏と前涼などの五胡十六国の場合は地域が同じでも条件が異なると思うが・・・
128 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 13:40:32 ID:wOXlQQqO0
五胡十六国(の一部)・遼・金・モンゴル・後金を外すと田中●樹の名将百選とかぶって面白みにかけるんじゃないか?
別に田中氏に恨みはないというかむしろファンだが、ここは独自路線を提唱したい。
>>121の言うように
「中国≠支那(いわゆるチャイナ)ということで、 広い意味での「中国武将」として選ぶ」のがいいと思うのだが。
周辺異民族の流入・侵入、それに伴う文化風俗の変化、、それによる王朝の交代、
乱立や南北対峙の中にこそ中国史が持つダイナミズムが存在するんだろう
異民族除外なんて、どんだけ中国史知らないんだよと笑われるだけだと思うが。
異民族武将や周辺の異民族王朝に関しては、これまで決まってた条件に従って
判断するんじゃダメなのか。
西夏にせよモンゴルにせよ、条件にかなってる奴がいれば候補に入れればいいし
駄目なら外せばいいだろう。
130 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 14:22:49 ID:bt3urDdg0
>>129 大賛成。前スレから続く「耶律休哥は中国の武将か否か?」に対する明確な答えだよな。
国家・領土に関係なく才能による推薦、候補入り。これが一番正当な意見だと思う。
おれはここまで理路整然と語れんから、
>>129の語る理論は一種の憧れ。正直に凄いなと言わせていただく。
>>125 モンゴル(モンゴル帝国、カイドゥ・ウルス、北元)だけで10人はいけるから十分かなと思った
132 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 15:08:22 ID:wZbPE9qNO
>>129の仰る通りです。
異民族の中華に置ける立場や歴史的推移を排除するなら
秦や楚そして呉越なんか元々中原国家から蛮夷って呼ばれていた訳で、
そうなるとその国々も対象から外さなければならなくなる。
133 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 15:31:38 ID:bt3urDdg0
支援書き込み
最初に決められたルールは
・推挙する武将については、その理由を述べること。
・対象となる武将は、近世以前の武将とし、近代以降の軍人は含めない。
・対象となる武将は、特定の時代に偏らないように配慮する。
の三点。前スレ7で
「中華王朝という枠組みで、漢化政権あるいは中国風の国号を用い、なおかつ中華本土内に領土のある政権」
という項が加えられたが、これは絶対的な条件ではないと思う。
とりあえず最初の三項目と延々議論されてきた時代区分にさえ抵触しなければ問題ないのでは?
異民族王朝や征服王朝を完全に無視したら、極論すると隋唐帝国でさえはじかれかねんし。
134 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 15:40:18 ID:bt3urDdg0
133続き
異民族王朝について熱く語りたいのは山々だが
現在は一応清朝ね。とりあえず候補の中から5人ぐらいは確定を出そう。
異民族とかは関係無しで、中国から他国への遠征または、
中国への侵攻をしてきた将も功績があれば名将で良いのか?
個人的には、他国への侵略行為っていうのは、平治に乱を
起こすってことで、賞賛に値する行為では無いと思うんだけど。
136 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 15:47:54 ID:bt3urDdg0
確かにそういう場合は「涜武の人」といわれて人間的に悪く見られがちだが、
それはさておき十分な軍事的成果をあげた人物は名将でいいと思う。
人格と才覚が正比例するわけではないのだから。
137 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 15:48:54 ID:0+8myHFo0
途中参加で過去ログ読めないんだけど、
このスレの「名将」の定義教えて。
「実際に軍隊を率いて、軍略に富み、多くの戦で勝利した」人物かな?
>>135 みたいに専守防衛の軍人しか駄目だとなると、清の大半の将軍は
失格ということになるんだけど。
138 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 15:57:34 ID:0+8myHFo0
奴児哈赤(ヌルハチ) 、阿巴泰(アハタイ) 、多爾袞(ドルゴン) 、費英東(フィヤントン)
康熙帝・玄Y、岳鐘h、策稜(ツェリン) 、僧格林沁(サンゴリンチン) 、宋景詩 、関天培、
明亮、楊遇春、李長庚、関天培、李秀成、石達開、劉永福
揚古礼(ヤングリ)、兆恵(ジョーフイ)、阿桂(アゲイ)
一応清代では上の人たちの名前が挙がっているけど・・・・
>>135 侵略行為といっても全部を十把一絡げにはできない
全く無用なものもあれば必要だったものもある
それに他国を攻撃した人物を外すと大半の人間が落選になってしまう
140 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 16:03:44 ID:bt3urDdg0
>>137 おおかた貴兄の提言した定義で合ってると思う。
まあ、たまに生涯一度の大戦で勝って名将の名を博した人物もいるけど、
そういう人は一発屋呼ばわりでこのスレ的にはあまり歓迎されない。
貴兄の提言に「部下に慕われた」という一項目を追加すればほぼ完璧かと。
>>138 前回の選考で阿巴泰と策稜は確定組になったんだよね。多爾袞と康熙帝は政治家、戦略家としての側面が大きいから除外するとして、
後金オッケーなら文句なしでヌルハチ、あと「戦う豆腐屋」宋景詩も推したい。
あと施琅を推薦しといたんだけど挙がってないね。改めて推薦。
>>135 それだとまず班超あたりを外さなきゃならなくなると思うが……
142 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 16:11:15 ID:0+8myHFo0
奴児哈赤:ほとんど徒手空拳から連戦に次ぐ連戦で後金を建国
ただ、後にハンとなったので外すべきか?
多爾袞 :しばしば総司令官として軍隊を指揮するが、あくまで
名目上の大将であり、彼の本領はむしろ政治家。
呉三桂とともに入関の立役者であはあるが・・・
康熙帝 :モンゴル親征をしたが、最前線には立たず。あくまで
武威発揚のための出馬であり、実戦指揮は執っていない
143 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 16:11:18 ID:bt3urDdg0
>>136続き
人格と才覚が正比例するわけではないと書いたがもう一つ。
人格者であっても職業軍人である以上、上の命令に背くことはできないってことがある。
それに、戦略的にどうしても戦わなければならない場合もあるだろうし。
平地に乱を起こそうがなんだろうが戦術の能力があれば名将でいいだろう
長期的な戦略や道徳的なものさしは、考慮したとしても優先順位は低くした
ほうが軸がぶれなくていいと思う
145 :
135:2007/01/07(日) 16:20:25 ID:4nWwK0O60
そうすると、異民族王朝や征服王朝であっても、
>>133のルール
(もう少し明確化した方が良いとは思うけど)で、選定してくのね。
それで名将の定義は
「実際に軍隊を率いて、軍略に富み、多くの戦で勝利し、部下
に慕われた」人物ってことでいいかな。
146 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 16:20:30 ID:0+8myHFo0
>>140 名将定義補足、多謝。
後に君主となった人物もオッケーであれば、努爾哈斉に異論なし。
少年時代から戦場に出て、努爾哈斉の娘婿となって「武勲王」「超等公」の
称号を得た楊古礼も個人的には捨てがたいが、あまり入関前に偏るのもなあ。
清前期のモンゴル代表として策稜(ツェリン)、漢族代表として岳鐘h・施琅
というところか。ただ岳鐘hは、例の事件に絡んで雍正帝が過剰に持ち上げて
それが列伝の高評価につながってるような気がする。
「岳飛の末裔」(未確定)と言う点もあるし・・・
147 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 16:37:43 ID:bt3urDdg0
>>146 あの事件っつーと
曾静「漢民族の誇りを忘れたのですか、自立しなさい!!」
岳鐘h「だが断る」
ってアレ?
確かにあれで雍正帝の心を掴んだよな。
でもちょっと地味。一応戦功はそれなりだし、清朝唯一の漢人大将軍として確定にしたいところなんだけど・・・
西域防備に回されたのに西域から来たツェワン・アラプタンの侵入を許してるし。
「衛(青)、霍(去病)、郭(子儀)、李(光弼)に伍す、って書かれてるけど、「超勇公」策稜に比べるとやや落ちるか。
148 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 16:47:46 ID:bt3urDdg0
>>145 一応名将の定義はあれでいいと思うけど、
ときどきとんでもないDQNで慕われるどころじゃないけど、用兵家としては間違いなく天才、ってのもいるからなぁ。
特に五代十国。
でもまぁ基本はあれでいいと思うよ。拓跋珪、拓跋Z、石虎あたりはその限りでない感じだが。
149 :
148:2007/01/07(日) 16:49:00 ID:bt3urDdg0
間違えた。五代十国じゃなくて五胡十六国だわ、すまん。
150 :
146:2007/01/07(日) 17:18:55 ID:0+8myHFo0
>>147 そう、それw
個人的には、
努爾哈斉・阿巴泰(努爾哈斉の子)・施琅(漢人)・策稜(蒙古)あたりは
確定でもいいかなと思う。
でも満洲旗人で一人くらいほしいかな(費英東/楊古礼?)。
康熙雍正年間の将軍では、西北方面の遠征軍を率いた富寧阿(フニンガ)もいる。
乾隆年間の将軍では、新疆征服の功績で兆恵(ジョーフイ)有利かな。
それで、現在は次のどの段階?
1 清朝の候補者決定
2 時代と中国の範囲の定義を確定
3 前スレの候補者の見直し
4 それ以外
152 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 18:06:34 ID:bt3urDdg0
今は1番、清朝候補者決定だろうね。
次が2番、中国の定義確定
最後に3の候補者見直し→全時代の10選確定。
100選が決まったらその中から10傑を選ぶとかやりたいな。個人的には孟珙に一票。
153 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 18:20:16 ID:bt3urDdg0
おせっかいだが清朝の候補なんてもう忘れた、って人に。
>>18、阿巴泰、費英東、策稜、明亮、楊遇春、李長庚の略歴
>>21、阿桂、兆恵の略歴
どーぞ。
全時代の十選はいるか?
取り敢えず各時代から10人くらいだして
A時代確定のαとB時代の候補のβを比べてβ>αの場合、チェンジする
という為の10人なんだから、細かく決めるより確定武将の割り出しと
残り枠を候補・内定武将から選出していって100選が確定って流れだろう
155 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 18:34:21 ID:bt3urDdg0
それもそうか。あんまり厳密にすると自由度下がるよな。
でも総合ベスト10はやりたい。ベスト5とかベスト3とかでもいいけど。
156 :
清朝候補その一:2007/01/07(日) 19:58:25 ID:bt3urDdg0
費揚古(フィヤング)
1645-1701。棟鄂(ドンゴ)氏。盛清の名将で内大臣三等伯オショの子。1658(順治15年)、14歳で父の爵を襲い、74年には安親王岳楽に従って呉三桂ら三藩の乱平定に当たった。
その功労により79年には領侍衛内大臣兼火器営総官に起用され、議政大臣に加えられた。その後ハルハ左翼トシエト・ハン(土謝図汗)とジャサクトゥ・ハン(扎薩克図汗)との
間に紛争が起こると、89年命を受けてトシエト・ハンのもとに使いし、紛争の調停に当たった。ところがジュンガル部長ガルダンがこの紛争に乗じて被いにハルハを侵害すること
になったので、翌年彼はホルチン(科爾沁)に行って兵を整え、清の本軍とともにガルダンをウラン・プトゥン(烏蘭布通)に破った。ついで93年、安北将軍に任ぜられて帰化城に
駐し、バヤン・ウラン(巴顔烏蘭)に拠っていたガルダンの防衛と折衝の任に当たり、95年には撫遠大将軍を授けられた。翌年康熙帝が自ら大軍を率いてガルダンを討つと彼は
その先鋒となり、ガルダンをジョー・モド(昭莫多)に追い詰めて大いにこれを破り、ガルダンを敗死させた。97年病により京師に帰り、領侍衛内大臣一等公に封ぜられたが、
まもなく同地において病卒した。
海蘭察(ハイランチャ)
?-1793。乾隆20年(1755)、兆恵のアムルサナ征伐に従い、タルバガイでバヤルを生け捕りにした功によりエルケ・バトゥル(称号。バトゥルは多分勇者の意だとして、
エルケはわからん)の号を授けられ、一等侍衛に進められた。32年(1767)傳恒らのビルマ遠征に従い大金沙江沿岸の老官屯で戦功を立て、34年(1769)鑲藍旗蒙古副都統を
授けられた。36年、金川のミャオ族が叛乱を起こしたので、翌年雲南から鎮圧に赴き、将軍温福や阿桂の下で戦功を立て、参賛大臣を授けられた。38年、部下の守っていた
美諾が敵の手に落ちたので降格された。翌年戦功により再び参賛大臣に復し、40(1776)年、金川の乱を完全平定した功績により一等超勇候に封ぜられた。45(1781)年、
甘粛のイスラム教徒蘇四十三が叛乱を起こして蘭州を侵したのでこれを平定、49(1785)年、再度イスラム教徒が叛いたので参賛大臣として尚書・福安康とともにこれを鎮圧、
張文慶を捕らえた。翌年台湾の林爽文らが叛き彰化、嘉義を陥としたので、翌年7月、参賛大臣として将軍・福安康を率い、台湾に渡ってこの乱を平定した。55(1791)年
西チベットに侵入したグルカを討ち、福安康らを率いてこれを討ち、グルカ兵を撃破、追撃してグルカ族の国都カトマンドゥまで逼った。グルカが和議を求めると
藩兵1000、蒙古兵3000をチベットにとどめて凱旋した。戦功により侯爵から公爵に進められる。乾隆57年没。
157 :
清朝候補その二:2007/01/07(日) 20:01:37 ID:bt3urDdg0
徳楞泰(デレンタイ)
1745-1809。盛清の将軍。蒙古正藍旗の人。字は惇堂。チャハル(察喀爾)部の伍弥特(ウミト)氏に属する。1773(乾隆38)年、定西将軍アグイを助けて
金川の乱平定に活躍したのを始め、84年には甘粛のイスラム教徒の反乱鎮定に従い、87〜88年にかけての台湾の叛乱鎮定にも活躍して功績により参領となり、
継勇巴図魯の称号を受けた。91年には名将ハイランチャに従ってチベットに出征し、グルカ族平定に功を立てて副都統護軍統領となった。ついで95年にはフカンガを
助けて湖南方面に出征し、湖南・貴州方面で威を振るっていたミャオ族の叛乱鎮定に活躍した。のち97年にはミンリャンらとともに四川方面における白蓮教徒の乱の平定を命じられて出征し、
数年にわたる反乱鎮圧に大いに活躍し、非常な功を立てた。この遠征の間、99年には参賛大臣となり、翌年には成都将軍に任ぜられ、1804年には欽差大臣を授けられた。
乱平定後の05年に侍衛内大臣となり、翌年には西安大将軍となるなど、多くの功績をあげたが、まもなく病没した。謚は壮果。
羅思挙(らしきょ)
清中期における郷勇の代表格。貧困の家に生まれ、家業につとめず、盗賊稼業で生計を立てた。不法行為はなはだしく、人々はたいそう彼を恐れた。嘉慶初年、
白蓮教の乱が各地に激しさを加え、羅思挙の郷土でも教主・王三槐らが乱を起こし威勢を振るうに及んで、それまでの生活を恥じ、郷里に帰って郷勇に加わり、乱徒平定に尽力した。
ことに教匪征伐のためデレンタイ、ミンリャンらが入川するにいたってこれに協力し、いわゆる随征郷勇として各地を転戦した。その戦闘における巧妙な作戦と勇猛ぶりは
当時弱体化の一途をたどっていた清朝官軍と対照的なものがあり、彼の存在は郷勇の存在意義を高めた。道光元年(1821)、累進して貴州提督となり、
さらに四川・雲南提督を経て湖北提督となった。その後も趙金竜らの乱平定などに功績を挙げたが、1840年病死した。謚は壮勇。著書に「羅壮勇公年譜」がある。
158 :
清朝候補その三:2007/01/07(日) 20:04:24 ID:bt3urDdg0
陳・化成(ちんかせい)
1776-1842。字は蓮峯。嘉慶7年金門右営把総に任ぜられ、累進して同18年銅山営参将となり、20年烽火門参将に抜擢された。道光元年彭湖水師副将、同3年台湾水師副将
を経て同年碣石鎮総兵となる。同10年には福建水師提督となり、12年イギリス船が福建・浙江・江蘇・山東などの海面に来航するや、不慮に備えるため督師巡邏を命ぜられた。
19年イギリスの軍艦が福建省を侵すと海林洋に戦い、同年江南提督に任ぜられた。江南水師はもとより怯懦であったが陳は鋭意教練し、士気ようやく奮うに至った。彼はまた
呉淞の防備を堅固にし、砲台を修築し、沿海に26堡を築造した。道光22年、アヘン戦争が起こると彼は呉淞西砲台にあって防御に努め、奮戦してイギリス艦3艘を破壊したが、
敵弾に当たって戦死した。宣宗は特詔を下して銀一千両を賜い騎都尉兼一雲騎尉與職を追贈し、忠愍と謚し、殉難地に祠を建てて英霊を祀った。
僧格林沁(サンゴリンチン)
?-1865。モンゴル、ボルチギット族の貴族。1834年御前大臣となり、正白旗領侍衛内大臣、正藍旗蒙古都統などをへて、36年鑲白旗満州都統を授けられ、帝の深い恩顧を受けた。
1853年、太平天国の北伐軍が直隷に進出したとき、参賛大臣に任じられ、同年10月以来蒙古騎兵を率いて転戦、太平天国軍をさきざきで敗退させ、1855年3月、主将・林鳳祥を連鎮で、
また同年5月・李開芳を高唐州で捕らえて北京に送り、太平軍の北伐を水泡に帰せしめた。この功により威名は天下に轟き、その後鑲藍旗満州都統、正黄旗領侍衛内大臣、
署鑲紅旗漢軍都統などを歴任した。1858年、アロー号戦争で英仏連合軍が天津の海口に侵攻したとき、欽佐大臣に任ぜられて軍務を任され、英仏軍退去後大沽および双港において
砲台修築や海防施設の強化に当たり、翌年6月には蒙古旗兵を率いて大沽砲台を守り、連合軍の進撃を撃退して諸々の恩賞にあずかった。しかし60年には連合軍の猛攻の前に大敗し、
通州に退いた。そのため職を奪われ、いろいろあって降格され欽佐大臣とされた。北京条約成立後、山東の捻軍をはじめとする華北各地の農民反乱を平定するため、
郡王の位に復され反乱平定に従事するようになった。各地で民軍を破り御前大臣、正紅旗漢軍都統を復され、1863年には世襲親王に進んだ。
64年、貝勒となるも多年にわたる軍事活動の中で部下の蒙古将兵の多くを失い、1865年、曹州で宋景詩率いる民軍に破れ、包囲されて戦死した。
159 :
清朝候補その四:2007/01/07(日) 20:07:02 ID:bt3urDdg0
唐・炯(とうけい)
1829-1909。清末の官吏。字は鄂生。1849年の進士。62年太平天国の石達開が四川に侵入してきたとき、これを破って捕らえ、棄市に処した。67年には四川総督崇実の命を受けて貴州地方の民乱を平定、偏刀、水上、太平、黄瓢、白堡をたちまちに破り、
寇賊王超凡、劉儀順を斬り、潘人傑、唐天佑らを降した。また平越、甕安、黄平、清平、麻哈を抜いて大いに成績を上げ、法克精阿巴図魯の称号を賜って蜀に還った。78年からさらに四川総督丁宝驍フ命を受けて塩茶の専売制の整備に当たり、
手腕を発揮した。82年張之洞の推荐によって雲南布政使となり、フランス人のベトナム侵略を防衛したが、誤聞を議して勝手に任地に帰り、光緒帝の怒りに触れて免職となった。その後雲南の鉱務を監辦していたが、1905年退職した。
著書に<成山老人自撰年譜>6巻がある。
塔斉布(タチプ)
1817-1855。晩清の将軍。姓は陶佳。字は智亭。はじめ三等侍衛から、咸豊元年(1851)都司として湖南に赴任、撫標に所属、参将に進んだ。1853、当時長沙で湘軍の練兵に当たっていた曽国藩に起用され、副将として湘軍を率い、
以来、太平天国との戦いにその勇猛さをもって頭角を現した。特に1854年、配下千人をもって成功した湘譚県城占領は湘軍最初の勝利といわれ、おりから靖港での敗戦で総帥曽国藩が自殺を図ったほど意気阻喪していた湘軍を
奮起させる重要な意義を持った。これによって湘南提督に任命されるという異例の抜擢を受け、さらに岳州、田家鎮などでの戦功で騎都尉の世職を与えられたが、1855年、九江攻防戦中に軍営で病死した。謚は忠武。
160 :
清朝候補その五:2007/01/07(日) 20:14:06 ID:bt3urDdg0
宋・景詩(そうけいし)
生没年不明。清末の農民暴動の指導者。山東の人。従来ほとんど知れなかったが、1951年映画「武訓伝」批判運動の中で行われた武訓歴史調査団によって知られるようになって以来、武訓と同時代、同じ地方で武訓の保護者であった地主勢力と生涯闘い続けた
真の英雄として武訓と対照的に顕彰されるようになった。彼は貧しい豆腐売りであったが、当時山東各県に広がっていた白蓮教系の秘密結社に加わり、1961年はじめ、農民所有地への増税反対を契機に18人の村の仲間たちと蜂起した。山東の白蓮教、
五旗約一万の一翼として黒旗軍と呼ばれた。同年秋形勢不利と見て勝保の軍営に投じ、安徽・河南の捻党の回乱鎮圧に差し向けられた。勝保の推挙により参将に任ぜられたが、機会を見て再度脱走したため免職された。62年末、部下千余を率いて故郷に脱走して
以後、表面は帰順を誓って清軍内に留まりつつ、山東白蓮教軍の鎮圧に差し向けられるや、逆にこれと呼応して敗軍を収容し、あるいは太平天国軍の残存部隊を収容して隊伍を拡大、各地で地主の武装勢力を撃破した。なお武訓のたてた崇賢義塾の後援者である
揚樹坊一族は、最大の民団として宋景詩軍と最も激しく対立した柳林鎮民団の中心であった。清朝側は山東・河南の暴動に牽制されて武力鎮圧に出ることが出来なかったが、63年4月、その鎮圧と同時にサンゴリンチンの洋槍隊など大部隊を動員、
9月直隷省で宋景詩軍を撃破した。こののち、宋は安徽の捻党苗沛霖軍、のち湖北の太平天国張宗禹軍に加わり、65年曹州でサンゴリンチン軍を掃滅したと伝わる。その後の消息は明らかではないが、清朝の記録では71年毫州で改名して符水治病をしていた
宋景詩を捕らえ、安徽省城で処刑して晒し首にしたとある。しかし現地調査の農民の話ではそれは別人で、1900年彼は故郷に姿を現したという。
劉・永福(りゅうえいふく)
1837-1917。清末・民国初期の軍人。淵亭と号す。欽州の貧農の家に生まれ、幼少の頃父母とともに流民となって広西の上思州、ついで遷隆州に移った。
農耕や船頭生活のかたわら父から武技を授けられたが、17歳で両親と死別し、21歳のとき天地会の一派に身を投じた。太平天国の乱後馮子材の追撃を受け、
1865年首領の呉亜終に従ってトンキンに逃れ、阮朝のトゥドゥックに帰順した。その後一度トゥドゥックに叛いたが、呉亜終から離れて67年六安州で黒旗軍を編成し、
ソンコイ川流域とくに勝保を中心に強固な地盤を樹立した。68年以来、ときには阮朝官軍や清朝派遣の馮子材と協力して匪賊討伐に当たり、その功によって
トゥドゥックから物資的援助を受けたほか、領兵官、三宣軍務副提督(ともに1874)、太原布政使(1879)などの官を授けられた。しかし彼の阮朝に対する態度は一貫せず、
黒旗軍は土匪的性格を持ち続けたので、ベトナム人から嫌悪されることが多かった。しかし、フランス人がソンコイ川北上を狙ってトンキンに進出してきたのに対し、
黒旗軍はしだいに組織化されて抵抗し、73年ハノイ占領中のフランス軍司令官ガルニエを戦死させた。また81年、ソンコイ川をさかのぼってきたフランス商人を撃退し、
翌年フランス軍が再びハノイを占領すると、83年、フランス軍排斥の檄文を発し、これを攻撃して司令官リヴィエールを敗死させた。こうして彼は清朝はもとより阮朝や
一般ベトナム人から利用されたが、信頼を受けるにいたり、83年トゥドゥックから三宣提督を授けられた。またこの間、1876年にフランスを憚る阮朝の要請をいれて
墓参を理由に一時帰国したが、清朝からは英雄視して迎えられ、阮朝からはただちに呼び戻されている。しかしフランス人に対する彼の抵抗はあまりに激しかったため、
83年トゥドゥックの死後、阮朝がフランスに屈服するとふたたびベトナム人から疎遠された。清仏戦争には清朝派遣の唐景ッ軍や阮朝の一部役人とともに各地で戦ったが、
清朝とも折り合わなくなり、85年両広総督張之洞の要請に従って帰国した。86年広東南澳鎮総兵となった。94年日清戦争が起こると台湾防衛に派遣され、
翌年下関条約締結後、台湾民国総統に推されたが辞退し、また日本の樺山資紀の投降勧告をはねつけ、日本軍に抵抗を続けた。義和団事変には湖広へ進んで排外運動につくした。
1911年辛亥革命にあたり広東都督胡漢民の要請により広東民団総長となったがまもなく解散した。15年、日本が突きつけた21ヶ条要求に激怒し、義和軍を組織して
抗日戦を計画したが、実行に移る寸前で排外運動に終始した生涯を閉じた。
候補は多い方がいいと思って、とりあえず清朝のメジャーどころを並べてみた。清朝の場合、他にも名将はごろごろいるが。
161 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 21:03:01 ID:bt3urDdg0
なんか6時半頃から過疎ってるが、空気を読まず新ルールを開陳させていただく。
まずは
>>121の「中国≠支那で、広い範囲の『中国武将』を選ぶ」を前提に置き、「中国王朝に籍をおいた人物」ではなく
おもに中国国内で活躍した武将、の中から選出する。五胡十六国、金、蒙古、後金、清の異民族武将たちも、中国国内、
あるいは国境付近で中国の武将と戦った人物はすべて候補入りの可能性ありとする。
選考基準はまず才能ありき。遼の耶律休哥のような境界が不鮮明な武将でも、国境付近で宋軍と戦った実績があり、
実際大勝している実績がある人物は10選入りを認める。
当時の宗主国と国境が直接つながっていない国に関しても、その国の人物が中国本土において十分な戦功を挙げた(トゥルイの金軍100万人覆滅など)
のであれば10選入りを認める(この場合当時の宗主国は南宋より金であろうから、普通に認める)。
こんなもんでどうか? 一人で勝手に決めた事だから、どんどん口出し、手直ししていただきたい。
>>161 その話は、取りあえず、清代の候補者を確定させてからで良いだろ。
俺は清代詳しくないから候補者を決めるのは、他の方に任せた。
163 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 21:17:57 ID:bt3urDdg0
とりあえず現状で確定してんのは
奴児哈赤、阿巴泰、施琅、策稜の四人か。
あと一人二人ほしいところだな。とはいえ俺は晩清をほとんど知らん。
とりあえず豆腐屋の英雄宋景詩と言ってみるか。
164 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 21:45:28 ID:0+8myHFo0
>>156-160 候補選定乙。
>・対象となる武将は、近世以前の武将とし、近代以降の軍人は含めない。
普通「近代」といった場合1840年のアヘン戦争以降を指すのだが、
このスレの場合はとくにそれにこだわらず、「馬上の指揮官」であれば
1840年以降でもいいんだよね?
165 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 21:51:48 ID:bt3urDdg0
個人的には一応清の滅亡までを考えてるけどどーなんだろ。
劉永福とか僧格林沁とか豆腐屋のお兄さんとか、
アヘン戦争以降にも名将と呼べる人物はいるからいいと思うが。
というかあの時代(アヘン戦争後)こそ中華政権の意地の見せ所だったともいえるしね。
・・・惨敗だったけど。
166 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 22:02:40 ID:0+8myHFo0
>>156 の費揚古は名将というにはちょっと不足の気が。
オヤジのコネで軍隊司令官になったわけで、個々の戦場でも
目だった戦績(寡兵で大軍を破るとか)があるわけでもなし。
岡田英弘『康熙帝の手紙』読む限り、ジュンガル戦の功績も
「勝つべくして勝った戦」のような気がする。
それを言ったら乾隆年間の征服戦も圧倒的兵力で突き進んだわけで、
個々の武将の力量というのもあまり影響していない。
167 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 22:03:42 ID:0+8myHFo0
>>156 の費揚古は名将というにはちょっと不足の気が。
オヤジのコネで軍隊司令官になったわけで、個々の戦場でも
目だった戦績(寡兵で大軍を破るとか)があるわけでもなし。
岡田英弘『康熙帝の手紙』読む限り、ジュンガル戦の功績も
「勝つべくして勝った戦」のような気がする。
それを言ったら乾隆年間の征服戦も圧倒的兵力で突き進んだわけで、
個々の武将の力量というのもあまり影響していない。
168 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 22:08:07 ID:0+8myHFo0
うわ、間抜けなことに・・・ゴメン orz
清滅亡を下限とするなら、サンゴリンチンは当確と思う。
現行ルールの時代区分だと1912年までですな。
ただ、英国や仏蘭西の近代軍人と戦った人物を
将とするか軍人とするかは明確にしないといかんの
ではないでしょうか。
>>169 >英国や仏蘭西の近代軍人と戦った人物
将でいいんでない?
近代軍人と戦った人物が皆近代軍を率いていたわけでもあるまい。
171 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 22:25:58 ID:bt3urDdg0
奴児哈赤、阿巴泰、施琅、策稜に僧格林沁入れて5名。
時間枠の改編を忘れてたから奴児哈赤が(つーか後金)入るかどうか微妙だが、
王朝発足時から選んで良し、とすれば奴児哈赤OK。
確定組五人が揃ったところであとは春秋戦国に戻っての確定決めだが、
その前に新ルール(というか改変ルール)について議論する、ということで諸兄、了解?
洪承疇が候補に入ってないのは納得いかないなあ。
173 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 22:36:02 ID:bt3urDdg0
>>172 略歴紹介して候補入りを宣言すればいいんでない?
とりあえず基本ルールに、
「推挙する武将については、その理由を述べること」ってあるし。
174 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 22:38:53 ID:0+8myHFo0
>>172 そうだそうだ、なんで洪承疇忘れてたんだろ?
てか、結局満洲旗人はゼロになりそうですな。
175 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 22:54:58 ID:bt3urDdg0
う〜ん、俺が書いていいんかな?
洪承疇
明末清初の将軍。呉三桂の前任。早くから清に降り清朝のためにつくしたが
報われたとはいいがたく、その人生は概して不遇であった。
・・・こんなもん?
176 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 23:04:51 ID:0+8myHFo0
洪承疇(1593〜1665)
福建安南の生まれで万暦年間の進士。各地の巡撫・総督を歴任し、
陝西の流賊反乱軍を鎮圧し、李自成らを退けた。
崇禎年間に大軍を率いて清軍と対峙するも敗れて清に降伏。
順治年間に大学士となり、華南の征服戦に多大なる貢献を果たす。
南明政権を追い詰めるが、順治18年に致仕。
よく考えたら清に大敗してるんだな。これは大きなマイナスだな。
177 :
175:2007/01/07(日) 23:08:17 ID:bt3urDdg0
やっぱ俺が出しゃばる必要なかったな。余計な真似してゴメン。
178 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 23:12:50 ID:0+8myHFo0
>>177 いえいえ、こっちもリロードせず書き込んでしまった。
洪承疇は面白い人物だけど、名将っていうか、政治家っぽい
側面(進士だし)ももちあわせてるんだよね。
それはいいとしても、清に一度負けていることが気になるなあ。
179 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 23:15:29 ID:0+8myHFo0
180 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 23:22:37 ID:bt3urDdg0
もしそうだったら漢文自由自在で大助かりなんだけどね。
一応正史列伝も読むけど斜め読み程度。
あとはアジア歴史事典と東洋歴史大辞典から引っ張ってきてる。
列伝2割
自前の記憶2割
辞典からの引用6割ってとこ。
洪承疇の2行は自前の記憶から引っ張ってきた。概要ぐらいはまぁ憶えてるし。
負けてるっていったら岳鐘hとかも負けてなかったっけ?
三国〜晋の確定組の曹操なんて赤壁とかやらかしてる訳だし
隋唐の李世民も負けてるぞ(部下のせいにしたけど)
大功あげて不敗のやつなんかめったにいないだろうしな
183 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 23:36:48 ID:bt3urDdg0
雍正帝のときにジュンガル軍と戦って負けてるね、岳鐘h。
乾隆帝期に復権、大金川の叛乱を平定して以前の負けを取り戻してるけど。
なにより不思議なのは厳格苛烈な雍正帝がミスした岳鐘hを殺さなかったこと。
年羹堯とかはあっさり自殺させられてるんだが。
184 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 23:36:53 ID:0+8myHFo0
>>180 レスどうも。アジア歴史事典持ってるうらやましい・・・
自分は北京旅行したときに買ってきた人物事典くらいしかない。
ところで各時代の「確定」って何人までオッケーなの?
余裕があればだけど、
明清で大学士になって北と南で活躍した洪承疇は入れてもいいかも。
185 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 23:41:11 ID:bt3urDdg0
10人以内なら何人でも、と言いたいが基本的にあとで入れ替えがあるから、
まぁ最初の段階では一時代に5、6人じゃない? 一気に10人決めるとあとが苦しくなるし。
186 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 23:57:48 ID:0+8myHFo0
>>171 奴児哈赤、阿巴泰、施琅、策稜、僧格林沁
では清代の候補はこれ+1ぐらいかな。
誰か候補いませんか?(洪承疇?)
ところで阿巴泰が確定になった理由を教えて。
187 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 23:59:28 ID:asB6HySG0
>>176 僧格林沁も反乱軍に敗死してるんだから、
一度くらいの敗戦は大目に見ようや。
188 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 00:00:17 ID:k9cHV6vm0
>豆腐屋の英雄宋景詩
これも+1候補ですね。
189 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 00:14:35 ID:LKoNrYsf0
>>186 阿巴泰を確定にした理由。 崇徳元年、アジケらとともに明伐戦に参戦、五十六戦して全勝、10城を落とし俘虜10数万を獲る。
ついで5年十月、再び明伐。88城を抜き6城を降し36万人の俘虜を得た。順治元年、饒餘郡王に進められる。康熙十年、敏と謚された。
・・・いくら弱体した南明相手とはいえ、生涯に五十六戦全勝、しかも96城を陥として50万人近い俘虜を得たんだから、
これはもう破格の名将といって差し支えないと思う。
特に欠点らしい欠点もないし、多爾袞が大本営指揮官、阿巴泰が実戦担当と考えるとちょうどいいのでは?
190 :
186:2007/01/08(月) 00:16:51 ID:k9cHV6vm0
>>189 こりゃすごい戦績ですね。
納得しました。
191 :
186:2007/01/08(月) 00:24:08 ID:k9cHV6vm0
奴児哈赤、阿巴泰、施琅、策稜、僧格林沁
が確定として、あとは洪承疇と宋景詩を推してる人がいるんで、
とりあえずこの7人を清の名将として暫定的ですが決定しますか?
あくまで暫定ということで、この先より説得力・熱意のある推薦者が
現れれば話し合うということで。いかがでしょう?
192 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 00:29:23 ID:LKoNrYsf0
いいのでは?
って俺一人が納得してもなぁ。
息を潜めて趨勢を見守ってる方々、ここは決断のしどころですぞ?
左宗棠はどうだろう?
誰も名前を挙げていないのが不思議なんだが。
最初は「近代(1840)以降に活躍したからかな」と思っていたが・・・
どうやら清末に特に思い入れがある人がいないからっぽいw
195 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 00:35:43 ID:LKoNrYsf0
左宗棠入れるなら林則徐のほうがよくないか?
ただ硬骨なだけの政治家という勿れ、
保守的な清朝にあってポルトガル砲や洋式銃を輸入して
西欧列国に対抗しようとした戦略眼は並々ならぬものがある。
第一次アヘン戦争では見事イギリス軍を撃退したし。
二度目はなかったけどな、さすがに。
清末は詳しくないんで、みなさんのご意見に従います。
議論をどうぞ。
197 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 00:49:00 ID:LKoNrYsf0
>>196 つーことは、
それはつまり現状の7人確定で清朝の暫定候補決定、
新規(というか追加)ルールの議論に入って良し、ということかな?
前スレ1のルール三条に、新規(追加)ルールを上書きということで。
ちなみに追加ルールは
>>161ね。
もうひとつ付け加えるなら、
異民族国家や征服王朝の武将はその時代の最初から選抜して良し、という時間枠を設定したい。
よろしいのではないでしょうか。
そのうち清末により詳しい方も参加されると思いますし。
異民族国家といっても、ある意味春秋戦国時代からして
該当する気がしないでもない。
200 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 01:04:16 ID:LKoNrYsf0
では皆さん
>>161を読んで吟味していただきたい。
一人で勝手に作り上げたルールだから無意識的に好きな時代を贔屓してるってこともあるだろうし、
そこんとこを指摘してもらってルールを改定、
五胡十六国、遼、蒙古、後金などの異民族国家、征服王朝の武将がすんなり受け入れられる完成版にしていきましょう。
>>199 確かに。だから本来中原国家に「異民族」なんて括りはいらんはず。
まぁ匈奴とか柔然とかは別問題として。
そこんとこを煮詰めていきましょう。ぜひとも。
中華思想の国を以て中国と為すの?
中国での異民族ってのは、人種ではなく
未開人・蛮族って意味であって、そのため
騎馬民族が異民族とされるんだよね。
それでなければ単純に支配地域で中国
としますか?
>後金、清の異民族武将たちも、中国国内、
>あるいは国境付近で中国の武将と戦った人物は
>すべて候補入りの可能性ありとする。
この場合の「中国の武将」というのは、漢族ではなく異民族も含むんだよね。
たとえば後金の費英東なんかは、同族の女真族(満洲族)との
戦闘で主に武勲を挙げた人物なんだけど。
203 :
200:2007/01/08(月) 01:16:55 ID:LKoNrYsf0
異民族なんて括る必要はない、というのは例えば呉王闔慮。
中原からは遥かに遠く、蛮族どもの国と蔑まれながらも、
春秋五覇の一人にまでなった男。
才能と実力でのしあがった人物の代表みたいなもんです。
後世の異民族がそれを模倣して何が悪い? いや、悪くない(反語)というのが俺の持論。
さぁ、議論しましょう。・・・ちょっと眠いけど明日も休みだ、大丈夫。
204 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 01:26:11 ID:LKoNrYsf0
>>202 もちろん異民族同士の抗争で名を上げた将帥も含まれるはず。
誰と戦ったか、ではなくどれほどの将才があったか、が問題なわけだから。
>>201 ちょいと乱暴ながら中原に乗り込んだ異民族はその時点ですでに中国武将と称していいかと。
そうでないと五胡十六国の一部の国なんかは中国国内に版図を持ちつつも中華国家ではないとされてしまうので。
とにかく中原国家と対決姿勢をとった時点でその国も中国の一部、と断ずるぐらいの切り口でいいのではないかと主張します。
現代の中華人民共和国の版図内に過去に都を置き
支那風の国号をもつ王朝、
およびその王朝に直接に結びつく先行政権において、
優れた軍略の才をもち、実際に軍隊を率いて、多くの功績を挙げた人物。
(配下の兵士に慕われればなお良し)
という定義はどうだろう。
205の定義だと、遼も金も西夏も入るし、
元の先行政権ということでそれ以前のモンゴル帝国も含むことができる。
清の先行政権の後金も入るし、
一方で高句麗とかベトナム、新疆のイスラム政権は対象外。
207 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 01:38:48 ID:LKoNrYsf0
>>205 いいですね、その定義。
それなら蒙古→元、
後金→清と繋げることにほぼ問題はなくなる。
(創業期の国家には将才と人望を兼ね備えた人物が多く排出するし)
ただ、燕雲十六州の契丹はどうするべきか。
俺が定義した「国境地帯で中華国家と戦い勝利した人物」でいけるかな?
契丹=遼では駄目なんだっけ?
燕雲十六州って、現代だと中華人民共和国ではない?
209 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 01:45:54 ID:LKoNrYsf0
あ、現在の中国の版図だと遼も入るのか。
グレイト。申し分ないですな。これを新規ルールとすることで問題ない?
結構短期決戦で議論終息しましたな。
あとは春秋戦国に戻って、時代ごと10人に増やす、削るの作業だけか。
えっ、205の定義でいいのかな?
まあ、明日以降に他の人にもチェックしてもらいましょうか。
今日は落ちますね。おやすみなさい・・・
211 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 01:57:39 ID:LKoNrYsf0
>>205の定義が完全であるかどうか他の有志たちにも諮ってもらうとして、
俺も寝ますかね。連休だからといって延々起きてるのも体に悪いし。
205の定義だと、古い時代の方に無理が出るような。
好きなこと書いて、俺も落ちるけど。
そこまでいくと、もう中国の武将じゃあねえよなあと思ってしまう。
遼もモンゴルも後金も、当時の中原王朝からは明確に外国扱いされているんだがなあ。
ここまでの流れは「この人物を入れたいから定義をここまで拡大しよう」みたいに見受けられる。
そのあたりを語りたいのなら「中国で活躍した外国人武将」スレでも立てたらと思う。
>>129を書いたものなんだが。
>>129で書いたとおり異民族武将とか異民族政権だからどうこうと言うのは無いし、
除外はやりすぎだとは思ったが、戻ってきてみると意外な方向に話が進んでて驚いた。
先行政権までとは、ちと無秩序に拡大しすぎなんじゃないか?
>>129で俺が言いたかったのは、基準が存在するのだから、まずそちらに照らし合わせ、
それに従って粛々と選考を進めようと言う事なのだが・・・。
また、新規ルールを作るにしても数時間で決定では議論の時間が短すぎると思う。
用事や仕事がある人も多いンのだから、最低でも一日位は置いた方がいいんじゃないか。
現在の確定武将
楽毅 (燕)
魏無忌 (魏) ※信陵君
白起 (秦)
李牧 (趙)
王翦 (秦)
韓信 (前漢)
霍去病 (前漢)
衛青 (前漢)
灌嬰 (前漢)
曹操 (後漢)
ケ艾 (曹魏)
石勒 (後趙)
祖逖 (東晋)
王猛 (前秦)
劉裕 (劉宋)
檀道済 (劉宋)
韋叡 (梁)
陳慶之 (梁)
拓跋珪 (北魏)
高歓 (北魏)
宇文泰 (北魏)
楊素 (隋)
李世民 (唐)
李孝恭 (唐)
李靖 (唐)
李勣 (唐) ※徐世勣
裴行倹 (唐)
郭子儀 (唐)
李克用 (唐)
朱温 (後梁)
李存勗 (後唐)
郭威 (後周)
柴栄 (後周)
趙匡胤 (北宋)
曹彬 (北宋)
楊業 (北宋)
狄青 (北宋)
宗沢 (南宋)
岳飛 (南宋)
完顔宗望 (金) ※斡魯補(オリブ)
孟[王共] (南宋)
拡廓帖木児 (元) ※ココ・テムル
徐達 (明)
常遇春 (明)
朱棣 (明) ※永楽帝
戚継光 (明)
袁崇煥 (明)
奴児哈赤 (後金) ※ヌルハチ
阿巴泰 (清) ※アバタイ
施琅 (清)
策稜 (清) ※ツェリン
僧格林沁 (清) ※センゲリンチン
計52名
後漢建国連中が確定してない?
ヌルハチは定義によっては外れる?
どうも文禄慶長の役の明側はそれほど優れた将はいないみたいですね
日本はほぼオールスターな感じなのに
>>203 そもそも当時漢民族というくくりが存在してないし
呉楚越の姓名も中原と変わらないから
それを持ち出して蒙古や女真と同じように扱うのはおかしすぎると思うな
日本語と中国語並に根っこから異なる言語を話す人種なんだし
219 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 09:03:35 ID:/mQ1WrzGO
>>217 日本側は秀吉がマジで明を攻め滅ぼし大名にその領土を与えようとしてたから。
明側は朝貢の見返りに金・絹などを与えたり、
領土を侵されたらそれを救護しる義務があるから。
日本は戦時態勢にあったが、明は平和ボケしてたので有能な武将が少なかったのでは?
自国も乱れていたことだし。
遼は微妙かもしれんがモンゴルは明らかに中国じゃないな
後金は・・・遼東はやはり中国の外と認識されていたのか?
221 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 10:24:14 ID:wRHn2Luk0
先行政権・・・別段無理はないと思うが。
中国国内で活躍した武将=中国の武将、基本的にこれで問題ないのでは?
確かに清末あたりの西洋から中国にやってきて活躍した武将はスレ的におかしいだろうけど。
あとは春秋戦国時代などの分裂期における新ルールの定義を決めたいと思うが、どうか?
222 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 10:48:18 ID:wRHn2Luk0
連投。
モンゴルはないってことはないだろ。
元のフビライからして元来モンゴルの皇族なわけだし、途中で王朝の流れが止まったわけでもない。
中国で活躍した外国人武将スレ、を作らずに外国人武将をこのスレ内に組み込むのが新ルールの眼目であって、
独立した別スレを立てるのは本末転倒。実際異民族武将だけでは数に限りがある。
モンゴルに話を戻すとチンギス時代まで遡ると確かに齟齬が出るかも知れんが、
オゴタイ期以降、金との対決姿勢を明らかにした後なら問題ないのでは?
金に取って代わって中原に王朝を立てようとしたのだから。
>>214 確かに、煮詰めることなく数時間で新ルール確定、なんて言ったのはまずかったな。
やはりある程度長い時間をかけて、侃侃諤諤の議論にかけることは必須条件だった。批判も含めて。
さて、分裂紀におけるルール・・・どう手をつけるべきか。
223 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 11:16:55 ID:wRHn2Luk0
さらに連投。
蒙古と南宋が組んだ蔡州の役が太宗オゴタイの6(1234)年、この時期には
ある程度モンゴル帝国の体裁も整ってた。
で、トゥルイの活躍はオゴタイの4(1232)年。伐金戦のたった2年前。
スブタイにいたっては定宗3(1248)年まで生きてる。
正式な元の成立は1260年からだが、その空白期間はわずか2、30年でしかない。
それをモンゴル=斬り捨てとするのはあんまりじゃないか?
言語が違うというならのちの元の名将、阿朮もモンゴル語以外は話せなかったわけだし。
224 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 12:26:16 ID:wRHn2Luk0
四連投。いい加減にしろとか苦情が来そうだが・・・
俺が出てきた時点でみんな退避したのか? 誰もレスしないってことは。
とりあえず、分裂期における名将の定義
将兵を慈しんで慕われ、敵からも尊敬を受けた
成否に関わらず、分裂国家の統一に奔走した
純軍事的に領土を拡大した。あるいは敵から国土を守りぬいた
・・・なんか普通に名将の条件だな、これじゃ。
他に分裂期だけに適用される名将の条件があったらよろしく。
>>222-223 元を特別扱いしすぎでしょ
フビライは歴としたモンゴル帝国の五代目のハーンだし、元はモンゴル帝国の国号なんだし
それに1260年は元の成立じゃなくてフビライの即位だよ
元の成立は1271年(まあ1260年とする場合もあるけど)
>>216 吐蕃はシナ風の国号を持っていなかったのでアウトだろ
>>221 その新ルール自体に反対しているのだが。
だからそういうことを語りたいのなら新スレを立てればいい。
>221で中国国内で活躍した武将といっておきながら理由もなく西洋人は除外と
かってに決めたり。はっきりいって、君個人がモンゴルを加えたいためだけに
新ルールを持ち出したとしか思えない。
228 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 14:04:19 ID:HPYsMVEr0
>>227 西洋人除外、はあくまでアジア圏内にとどめたかったから。
西洋人入れると世界史スレになりそうだし。
実際モンゴル入れたくて新ルールを利用してるのは確かだから返す言葉もないのは確かだけどね。
でも新ルールのほうが柔軟性に富むと思うのもまた事実。
前スレでさんざん議論された耶律休哥もこのルールを適用すれば確実に入るし。
229 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 14:21:33 ID:HPYsMVEr0
>>225 元はモンゴル帝国の国号=モンゴルと元をあえて区別する必要はないってこと?
だったら嬉しいが、俺の勘違いだったらすまん。
勝手に定義を提案したものです。
自分としては「中国史」といった場合、モンゴルもキタイもマンジュも
全部含めてイメージしてしまうので、そこの武将を「中国武将」と認識
するのに違和感はないのですが、「中国史」を「支那史」に限定して
イメージする人が多いのにも納得できます。
ただ「支那史」に限定すると、じゃあ鮮卑系の北朝隋唐はどうなんだ、とか
そもそも「中原」の概念すら時代によって伸縮しますので、ここはおおらかに
>>205 を提案した次第です。
>>230 中国国内に立てられた政権だから問題ないよ>北朝隋唐
民族を問題にしているのではないよ。所属した国籍(これも近代的な概念だがあえて他の言葉が
みつからないので)が問題だと言っています。
中国王朝に仕えたモンゴル人もキタイ人もマンジュ人も中国武将でいいと思いますよ。
でも中国政権ではない明らかな外国扱いの国に仕えた武将を中国の武将扱いには出来ない
でしょう、と言っているんです。
山田長政は、シャムに仕えた「シャムの日本人武将」ですが、日本の武将だと言えますか?
逆に日本に帰化して幕府に使えたイギリス人三浦安針を、日本の政治家ではなくイギリス
の政治家だなんて言えますか?
>>229 区別するもなにも基本的には同じものじゃん
モンゴルが弾かれるのは、中華王朝の定義の範囲の都合でしょ
そりゃ征服王朝かつ世界帝国なんだから定義の仕方によっては中華王朝じゃなくなる
233 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 15:15:22 ID:7I247Mkx0
新ルール完全版を作ってくれた大恩人の登場だ。ひれ伏さねば。
俺一人だったら本当にただモンゴルから数名入れたいだけの案にしかできなかっただろうし、
230氏には感謝してもしきれないものがある。
こっから本格的に議論しましょう。大哥。
>>231 後半部分はまったく異論ありませんが、
すいません、「中国国内」「中国王朝」っていうのは、
どこら辺を想定していますか?
たとえばチンギス期のモンゴル人武将や、ヌルハチ・ホンタイジ期の
マンジュ・モンゴル武将はアウトとお考えですか?
>>233 えーっと、賛同してくれるのはありがたいのですが、
自分でも粗い定義(清末の西洋人武将のことはすっぽり抜けてたし)
だと思いますんで、あまりとらわれずに議論してください・・・
236 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 15:40:30 ID:7I247Mkx0
161で新規ルールの荒い版を出したのは俺なわけだが、
まずそれをここに挙げさせていただく。
まずは
>>121の「中国≠支那で、広い範囲の『中国武将』を選ぶ」を前提に置き、
「中国王朝に籍をおいた人物」ではなく おもに中国国内で活躍した武将、
の中から選出する。五胡十六国、金、蒙古、後金、清の異民族武将たちも、中国国内、
あるいは国境付近で中国の武将と戦った人物はすべて候補入りの可能性ありとする。
選考基準はまず才能ありき。遼の耶律休哥のような境界が不鮮明な武将でも、
国境付近で宋軍と戦った実績があり、実際大勝している実績がある人物は10選入りを認める。
当時の宗主国と国境が直接つながっていない国に関しても、その国の人物が中国本土において
十分な戦功を挙げた(トゥルイの金軍100万人覆滅など)のであれば10選入りを認める
(この場合当時の宗主国は南宋より金であろうから、普通に認める)。
…というのが当時の俺が考えた定義。これに追加して
武将はあくまでアジアに限定、基本的に現在の中国領に準拠した土地の武将のみから選出し、
清末の西洋人武将は含めないこととする。
すべての時代からまんべんなく武将を選出する、という基本ルールに則り、遼、モンゴル、後金
など現在の中国領土で活躍した武将たちからも平等に選考する。
これに205氏の定義を重ねればおおかた平等な選考が可能だと思うが、どうか?
237 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 15:44:25 ID:7I247Mkx0
ちょいと訂正。
現在の中国領の武将からのみ
↓
中国領及び、中華国家に軍事的・文明的影響を及ぼした周辺国家の武将から
に変更。
う〜ん・・・
チンギス期のモンゴル人武将に思い入れのある人の気持ちも理解できんでは無いんだが。
じゃあ、マッカーサーや、沖縄戦司令官のバックナー中将は日本軍人かね?
もしも警察予備隊や自衛隊に所属したアメリカ人がいたとすれば、彼らは日本軍人かどうかの
検討に値すると思うが。
俺は
>>231に賛成。
民族によって除外は大反対だが、例えば「中華政権成立以降」といような区切りを設けた方が良い。
「無制限に先行政権まで認める」のは反対。
中華政権成立以降といっても、その時実績のある武将まで含めるか、在籍・存命まで含めるかといった
細かい区切りをどこにするかの話合いには賛成。
その結果、スブタイやトゥルイも入れてよし、となれば候補に入れるべきだと思う。
239 :
231:2007/01/08(月) 15:53:19 ID:I2J5S0VT0
>>234 あくまで個人的な考えですが。
中国国内>いわゆる秦および漢(西域やベトナムの辺りを除く)の領域かな。もちろん
時代によって変化、拡大しているものですが。チベットやモンゴルは現在は中共の
領土内ですが、だからって過去にさかのぼって中国扱いはできないと思います。
(政治的にはまた別の話)
日本にとっての沖縄や北海道みたいなものですか。
中国王朝>基本はこの範囲に拠点を置いて(首都)支配した王朝、ですか。
ただ侵略王朝は難しい。おおざっぱな考えですが、国号・元号など中華王朝の体裁を
整え、かつ中原を支配できれば中国王朝扱いでもいいかなあと思う。江南の亡命
政権(六朝、南宋)は別ね。
五胡は中国内(長城以南)で国を建てているからOK。遼はアウト。金は少なくとも精康
の変以後(首都を問題にすると海陵王以降になってしまうな)。清は入関以降、後金は
アウト。モンゴルはフビライの即位ないし元朝成立以降、フビライの支配下に入った人達。
それ以前のモンゴルはやはり外国扱いかと。
>>236 宗主国云々の意味がよく分からんのだが
チンギス期のモンゴルや後金を入れるということは冒頓やエセンなんかも
入れてもいいってことか?
241 :
231:2007/01/08(月) 16:02:05 ID:I2J5S0VT0
追加。
征服王朝の樹立に貢献した武将は、入れてもいいんじゃないかと思ってます。
例えば精康の変で活躍して中原を征服した金の武将たち。入関以降、李自成を
撃破して中国を征服していった清朝初期の武将たち。あくまで中国征服に貢献
した武将だから、モンゴルだったら金を征服したトゥルイやスブタイは入るが
ロシアや中東で活躍したバトゥたちは入らない。
242 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 16:05:29 ID:7I247Mkx0
>>240 その当時中原を支配していて他国から歳貢を受けていた国。
だから当時は南宋から歳貢を受けていた金が宗主国と考えているが。
243 :
242:2007/01/08(月) 16:10:27 ID:7I247Mkx0
>>240つづき
チンギス期のモンゴルを入れるとは言ってないよ。
というかモンゴルが国家としての体裁を整えたのはオゴタイ以降で、
それ以前はひたすら征服欲に突き動かされて膨張を続けていた
国家というには少し語弊がある存在だったので。
244 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 16:11:24 ID:q3aW16fg0
現在の中華人民共和国の範囲内で活躍した武将。
吐藩・西夏・遼・金も範疇に入れる。
元は、現在の中国国内で活躍した武将。
(ここら辺は知識不足のため、なんともいえませんが・・・)
という簡単な定義でいいと思うのですが、駄目なんでしょうか?
元は中国の外から来た王朝ですが、現在の中国が
しっかりと組み込まれています。
それで考えれば中国出身か、現在の中国の範囲内で活躍した人
とすればいいのではと愚考するしだいですが?
245 :
231:2007/01/08(月) 16:22:19 ID:I2J5S0VT0
>>244 その理屈だと、チベット方面で活動したロシアやイギリスの軍人たち、同じく
日清・日露で活動した日本とロシアの軍人たちも中国武将として扱うと?
ティムールは拠点こそ離れているが間違いなく現中国領で活躍しているので彼
も中国武将扱いすると?そういやアレクサンドロスもチベット方面まで進出して
きていたな。あれは手前で引き返したのだったか?とにかく現中国領で活動して
いたら彼も中国武将扱いか?
246 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 16:34:58 ID:7I247Mkx0
せっかく議論が白熱してきたところに水を差して悪いが・・・。
エセンは10傑候補に入れてもいいと思う。相手が放蕩バカ皇帝だったとはいえ、
統率力、戦闘力ともに十分だろ。
ただまぁ、エセン入れるとどうしても于謙を入れる必要が出て、
明の10人枠にそんな余りはないからせいぜい候補どまりだろうが。
247 :
244:2007/01/08(月) 16:39:50 ID:q3aW16fg0
>>245 >>1さんが清末など近代以降の軍人は入れないと言ってるから
それは暗黙の了解だと思っていたが、すでに白紙の状態?
248 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 16:46:04 ID:7I247Mkx0
>>1 の基本ルール3条は健在のはず。
俺たちはその上で新ルールを模索しているわけで。
>>247 春秋戦国〜漢代あたりの騎馬民族も中国武将扱いするって
いうことでもあるんですけど。
>>239 レスありがとうございます。
100人というくくりがあるので、やっぱりチンギス期やヌルハチ・ホンタイジ期の
武将は100傑からは外して、「参考武将」にとどめておいたほうがいいかも
しれませんね。
>>246 「支那風の国号をもつ王朝に仕えて」という条件を入れたらどうでしょう?
>>247 このスレで言う「近代以降」は「1840年以降」ではなく、
清滅亡(1912)までを指すらしいですが・・・?
251 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 16:59:49 ID:7I247Mkx0
>>250 確かにエセンは支那風の国号を持つ王朝に仕えてはないな。
ハーンだし、蛮勇ならトップクラスだと思うが。
さて、まだ語り足りない人いる?
おれは征服王朝の功労者、拖雷と速不台がオッケーってことで
すでに大満足なんだが、みんな満足した? 満足なら、各時代の10選に移ろうか。
まず春秋戦国から。
252 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 17:04:28 ID:7I247Mkx0
春秋戦国
【確定組】
楽毅
魏無忌(信陵君)
白起
李牧
王翦
【候補】
墨子、管仲、呂尚、孫武、伍員(子胥) 、廉頗、孫ビン、夫概、趙奢、士会、
趙奢、趙無恤、王子成父、先軫、楚の荘王(熊侶)、蒙ゴウ、司馬錯、樗里疾
・・・伍子胥と呉起は確定確実だと思うが、人格的に忌避されてるのか? 呉起の名前がない。
まとめるとこんな感じでいいですか?
@清滅亡(1912)以前の武将であること
(いわゆる制式軍隊の軍人は不可)
A現中華人民共和国の領域内に都を置き、
支那風の国号を持つ王朝に所属して、活躍した経歴であること
(王朝の樹立に貢献した場合は可、先行政権治下のみの活躍は不可)
B実際に軍隊を率い、軍略に優れ、多くの戦功があること
(配下の兵卒に慕われていればなお望ましい)
254 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 17:11:13 ID:7I247Mkx0
また先走ってしまった。いかんなぁ、よくない癖だ。
現在議論終盤、と。
255 :
244:2007/01/08(月) 17:14:00 ID:q3aW16fg0
>>253さんに感謝
それで賛成です。自分の言葉足らずに嘆くばかりです。
>>251 >みんな満足した? 満足なら、
ちょっと非常識すぎないか?
みんなで話し合うスレなんやから、返事くらいちゃんと聞こうや。
ただでさえ異民族武将には抵抗感のある人も多いんやからさ。
>>253 おおむね賛成。
清滅亡まではちょっと長いかな?という気もするけど、軍用機の実用前でもあるしね。
いや、それより
>>215の52名は確定なんだから(だよね?)
残りの48人を候補枠から選んだ方が早いかと
(つーか後漢の確定武将も決めるほうが先か?)
現在の候補武将
墨子、管仲、呂尚、孫武、伍員(子胥) 、廉頗、孫ビン、夫概、趙奢、士会、
趙奢、趙無恤、王子成父、先軫、楚の荘王(熊侶)、蒙ゴウ、司馬錯、樗里疾
項籍(羽)、周文、蒙恬、章邯、項梁、彭越、英布、田横、
周亜夫 、李広、李陵、趙充国、范明友、陳湯、劉邦
周瑜、劉曜、慕容垂
陶侃、石虎、謝艾、慕容恪、桓温、謝玄、姚萇、李雄、皇甫真
劉淵、劉聡、冉閔
柳元景、蘭欽、奚斤、楊大眼、元英、周盤龍、
斛律光、慕容紹宗、宇文護、韋叔裕、李弼
段韶、高長恭、爾朱栄、王勇、沈慶之、陳顕達
赫連勃勃、拓跋Z、侯景(宇宙代将軍)
蕭道成、斛律光、陳覇先
韓擒虎、賀若弼、張須陀、竇建徳、楊義臣、李密、劉黒闥、
薛仁貴、高仙芝、顔真卿、張巡、王式、黄巣、高駢
李存孝、安録山、薛礼、劉方、蘇烈、劉仁軌、李光弼、史思明、李愬
周徳威、郭崇韜、王彦章、郭言、楊師厚、劉?、康延孝、符存審、
任圜、李神福、台濛、周本、孟堅、張彦卿、陸孟俊、劉仁贍、張武、
王環、趙季良、蘇章、潘崇徹、銭弘佐、顧全武、張元徽、李瓊
李庭芝、忽必烈(フビライ) 、完顔宗弼(ウジュ) 、伯顔(バヤン) 、
阿朮(アジュ) 、韓世忠、杜杲、張弘範、范仲淹、チュウ師道
張俊、呉?、呉リン、劉リ、虞允文、李顕忠、楊存中、僕散忠義
徒単合喜、宗翰(ネメガ)、耶律斜軫、史天沢、兀良合台(ウリャンハタイ)
劉整、張弘範、脱脱(トクト)、呂文煥
朱元璋、陳友諒、方国珍、湯和、李文忠、藍玉、于謙、兪大猷、王守仁
呉三桂、李自成、鄭成功、馮勝、張輔、張士徳、馬芳
多爾袞(ドルゴン) 、費英東(フィヤントン)
康熙帝・玄Y、岳鐘h、宋景詩 、関天培、
明亮、楊遇春、李長庚、関天培、李秀成、石達開、劉永福
現在候補で178名いる
多分、1/3ぐらいはすぐに減らせると思う。結構「コイツは要らなく無い?」って意見があった武将は多いから
あとは後漢の
劉秀、耿エン、馮異、岑彭、呉漢、廉范、班超、張奐、虞[言羽]、賈復または馬援
は取り敢えず何処まで確定にする
>>253 Aの部分で五胡十六国時代の五胡の国は該当しないし、
金・元・遼あたりが支那風の国号かどうかが微妙だ。
>>253 先行王朝での活躍と王朝樹立への貢献は分離できるのか?
モンゴルでいえば(というかモンゴルしか該当しないが)
トゥルイは貢献したがチンギスはしてない、となったりしたら
それはなんかおかしいと思うが
262 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 17:37:41 ID:/mQ1WrzGO
蒙古から元の国号に決めた時の経緯を引継ぎ、明・清は国号を定めたんだけど・・・
戦乱期の終結後に、統一された勢力圏を以て中国と
する手もあるな。
対象とする武将は、その国に所属していた人間とす
る。
三国〜両晋・南北朝は、隋初の勢力圏
五代〜北宋・遼 南宋・金〜元は、明初の勢力圏
更にその勢力圏の国から、中華思想の国以外は除外
するとしてもよいかも。
264 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 17:56:49 ID:7I247Mkx0
>>263 すでに完成してる時間枠を今更になって
いじると余計わかりづらくなると思うよ。
確定してる時間枠で十分。
265 :
263:2007/01/08(月) 17:59:52 ID:ccC5uxEZ0
>>264 時間枠は変更しない、武将の所属している勢力の話ね。
266 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 18:01:12 ID:7I247Mkx0
統一秦〜後漢落としますね。
統一秦〜前漢
【確定組】
1.韓信
2.霍去病
3.衛青
4.灌嬰
5.未定
6.未定
7.未定
8.未定
9.未定
10.未定
【候補】
項籍(羽)、周文、蒙恬、章邯、項梁、彭越、英布、田横、
周亜夫 、李広、李陵、趙充国、范明友、陳湯、劉邦
新・後漢
1.劉秀
2.耿弇
3.馮異
4.岑彭
5.呉漢
6.廉范
7.班超
8.張奐
9.虞詡
10.賈復または馬援
【候補】
祭遵
>>260 五胡政権で中華風の国号を持っていない国?
赫連勃勃の夏(統万城)ぐらいじゃあないのか?(夏は古代夏王朝に由来しているが)
涼州の政権を問題にしているかもしれないが、前涼はれっきとした漢人政権だし
(というか、晋を宗主国として絶えず五胡政権から攻撃を受けていたわけだし)
その後の後・西・北・南の四国に関しては、ほぼ前涼の領域内におさまるような
呂光の後涼くらいか怪しいのは
五胡が中国史に含まれないって、おかしくないか?
268 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 18:06:48 ID:7I247Mkx0
三国〜南北朝、投下。
三国〜両晋
【確定組】
1.曹操
2.ケ艾
3.石勒
4.祖逖
5.王猛
【内定組】
暫定6.周瑜
暫定7.劉曜
暫定8.慕容垂
【論争中】
陶侃、石虎、謝艾、慕容恪、桓温、謝玄、姚萇、李雄、皇甫真
劉淵、劉聡、冉閔
南北朝
【確定組】
1.劉裕
2.檀道済
3.韋叡
4.陳慶之
5. 拓跋珪
暫定6.高歓
暫定7.宇文泰
【候補】
柳元景、蘭欽、奚斤、楊大眼、元英、周盤龍、
斛律光、慕容紹宗、宇文護、韋叔裕、李弼
段韶、高長恭、爾朱栄、王勇、沈慶之、陳顕達
赫連勃勃、拓跋Z、侯景(宇宙大将軍)、于謹
蕭道成、斛律光、陳覇先
高歓、宇文泰は下げようという意見が多いので暫定。
後漢の候補には臧宮やWコウジュンも入れて欲しいな。
270 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 18:11:44 ID:7I247Mkx0
隋・唐
【確定組】
1.楊素
2.李世民
3.李孝恭
4.李靖
5.李勣
6.裴行倹
7.郭子儀
8.李克用
9.未定
10.未定
【候補】
韓擒虎、賀若弼、張須陀、竇建徳、楊義臣、李密、劉黒闥、徐勣
李孝恭、薛仁貴、高仙芝、顔真卿、張巡、王式、黄巣、高駢
李存孝、安録山、薛礼、劉方、蘇烈、劉仁軌、李光弼、史思明、李愬
五代〜北宋・遼
【確定組】
1.朱温
2.李存勗
3.郭威
4.柴栄
5.趙匡胤
6曹彬
7.楊業
8.狄青
【候補】
周徳威、郭崇韜、王彦章、郭言、楊師厚、劉?、康延孝、符存審、
任圜、李神福、台濛、周本、孟堅、張彦卿、陸孟俊、劉仁贍、張武、
王環、趙季良、蘇章、潘崇徹、銭弘佐、顧全武、張元徽、李瓊、
范仲淹、チュウ師道
【論争中】
耶律休哥
>>270 候補の徐勣は5.李勣で確定してるから削るべきだ。
272 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 18:16:10 ID:7I247Mkx0
はい次。
南宋・金〜元
【確定組】
宗沢、岳飛、完顔宗望(オリブ) 、孟珙、拡廓帖木児(ココテムル)
【候補】
李庭芝、忽必烈(フビライ) 、完顔宗弼(ウジュ) 、伯顔(バヤン) 、
阿朮(アジュ) 、韓世忠、杜杲、張弘範、張俊、呉玠、呉璘、劉リ、
虞允文、李顕忠、楊存中、僕散忠義、徒単合喜、宗翰(ネメガ)、
耶律斜軫、史天沢、兀良合台(ウリャンハタイ)、劉整、張弘範、
脱脱(トクト)、呂文煥、拖雷(トゥルイ)、速不台(スブタイ)
明
【確定組】
1.徐達
2.常遇春
3.朱棣
4.戚継光
5.袁崇煥
6.未定
7.未定
8.未定
9.未定
10.未定
【候補】
朱元璋、陳友諒、方国珍、湯和、李文忠、藍玉、于謙、兪大猷、王守仁
呉三桂、李自成、鄭成功、馮勝、張輔、張士徳、馬芳
273 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 18:29:53 ID:7I247Mkx0
清
【確定】
1.阿巴泰(アハタイ)
2.策稜(ツェリン)
3.施琅
4.僧格林沁(サンゴリンチン)
5.未定
6.未定
7.未定
8.未定
9.未定
10.未定
【候補】
岳鐘h、策稜(ツェリン) 、宋景詩 、明亮(ミンリャン)、楊遇春、
李長庚、関天培、李秀成、石達開、劉永福、阿桂、兆恵(ジョーホイ)、
海蘭察(ハイランチャ)、徳楞泰(デレンタイ)、羅思挙、陳化成、塔斉布(タチプ)、
唐炯
・・・以上、リスト作りました。あとは未定部分に有力候補を埋めていけばいいかと。
274 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 18:31:54 ID:7I247Mkx0
>>271 あ、ホントだ。でもまぁこのくらいのミスはね、勘弁してください。
俺も結構疲れたし。
275 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 18:38:26 ID:7I247Mkx0
南宋・金・元のトコだけリストになってない。しまったなぁ。
ま、誰か有志が手直ししてくれることを願って俺はノータッチ。
辛いからね、案外。
>>215 そうそうたる面子だな
なんだかんだで半分決まってるんだなぁ
>>275 リスト作成乙です。
まあ、誰かが意識的にリードしていったほうが
肯定・否定の意見も出やすいので、275さんには感謝です。
いろいろな意見を出しながらまたーり決めていきませう。
278 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 21:59:57 ID:q3aW16fg0
明代に秦良玉を候補に推挙します!
>>270 こうしてみると、五代十国はちと候補出しすぎたかな。
同様の乱世、五胡に対抗しようとしたせいか…
ところで、遼を中国とみなすことに賛成していたけど、中華政権をその文化の濃度で象徴するならば、遼はやはり除外される。
というのも、漢文化を参考にし、国号も漢風にしたけど、独自の文字の制定や民族文化を大事にして中華政権とは一線を置こうとしているから(これは日本やその周辺国にも言えること)。
燕雲は間違いなく中華政権が保有し続けていた重要な地で、日本で言えば九州か東北などが日本に似た文明をもった国に制圧されている状況といえる。
それがやがて日本国すべてを飲み込むというなら、その国はその前にあった日本国に取って代わった新しい日本国と言えるかもしれない。
遼は中原を衛星国家をもって支配した(後晋や北宋)ので、北朝と呼ぶべき存在ではあるけど(実際、北宋も遼のことを北朝と言っている)、上記の独自の文化をもって南を制御しようとした点で、中国とは違う国と判断する。
ということで、遼は入れない方向にしようか?
280 :
231:2007/01/08(月) 23:15:19 ID:I2J5S0VT0
>>279 国号も遼から何度も変えたりしたそうですしね。中原を支配したわけでもなし、
首都を長城以南に置いたわけでもないし。
>>251 えーと、あくまで私は入れてもいいんじゃないかと思っているだけですんで。
他のひとたちの意見は知りませんよ。
まあ、考慮に入ったら十傑入りは確定な人物ですがね。特にスブタイなんて、
金征服とロシア征服に大功績を挙げた世界史上でも希有な人物。外したくない
という思い入れのある人の気持ちは判る。
>>278 多分百選は難しいだろうね、馬芳が未だ確定組に入れないこのスレのレベル考えると
唯一と言っていい女性武将候補なんだろうが……
候補で辛うじて入れておくレベルか?
>>279 三国〜両晋ははじめから候補自体厳選していたから
小競り合いレベルは端から除外されている(一国・一勢力を興亡させて候補入りといったところか)
おかげで三国からほとんど入っていない、凄まじい状況なんだが
他の時代は候補削りした方が良いと思う
前漢はともかく、新〜後漢って議論あんまり無いまま終わった印象があるんだが
十傑が下手すれば挙がらない唯一の時代にならないよな?
とりあえず皇甫嵩を候補に推薦しておく(三国志考察スレでは名将の常連)
>>280 遼は副都を幽州においているし、中原も間接統治という形。
だからこそ、清朝がその先たる契丹国家の歴史を正史としたのだろうけど、そうじゃなく中国文化に同化しまいとした姿勢をもって中華政権とは違うと言いたかったわけ。
中国文化の恐ろしいのは… まぁここの人には言わなくても知っていることか。
>>281 最近両晋には詳しい人が他スレでも多いみたいだし、意外に掘り下げられているんだろうね。
翻って、五代十国の興亡の流れはともかく、勢力間同士の主な戦いと、指揮した将帥の名前を知っている人がどれだけいる? ってレベルだと思う。
だからまとまりもなければ贔屓も入っている。少なくとも自分が挙げたものは。
私見で悪いが、削る候補として
郭崇韜→この人は軍政官。名将とするよりは名臣あるいは名宰相とするべきか。
楊師厚→人となりが悪い(おい)。
劉鄩→能力は申し分ないけど、皇帝がバカすぎ。 大事なときに実力を削がれた。
符存審→悪いけど李存勗の功績に還元させてもらおう。
任圜→総合的にかなり有能だけど、本来将帥ではない。あくまで宰相。有名なのも宰相のときだし。
張彦卿→やけくその人。
陸孟俊→やっぱ良将止まり。
王環→粘り善戦もしたものの、良将といったところ。
張元徽→猛将だろうな…
耶律休哥→これ入れるなら、堯骨もいれるべき。しかし、遼は除外すると言った。
過疎ってるよね、このスレ
同じIDばっかりだもん
もう中国定義論は後回しでいいよ
論争になるのって耶律休哥や元将2,3にヌルハチら後金入れても10人いくかぐらいだろ?
その10人そこらの為に残り50人を決めれず、人が居なくなるのは避けたいところだね
284 :
260:2007/01/09(火) 00:33:22 ID:sFH2DvQA0
>>267 遅レスだが、
「Aの部分で五胡十六国時代の五胡以外の国は該当しないし」
の書き間違いだ。スマン
段部や宇文部なんてのはどうするのかと思ってね。
五胡十六国が対象外という意図は無いので。
一日にこれだけレスが付いてるんだから別段過疎ってはいないだろう。
定義を決める議論も楽しいもんじゃないか。
候補の選定になったら名前の羅列だけじゃなくて選考理由も要るし、ある程度スローペースになるのは当たり前だ。
それを考えるとむしろ詳しい人が多いんで驚くぐらいだが。
>>282 確かに耶律徳光(堯骨)は華北の政権を二つ(後唐と後晋)滅ぼしているので
能力は問題ない。なんで名前が出なかったのか・・・。
個人的には遼は入れてもいいと思うが、定義の議論は後回しにしたほうがいいかな
ID同じって部分読んでないな
自己主張の激しい奴ばっかで妥協する気もゼロの奴ばっかだからだろうけど
遼、金、元、後金 辺りで政権ごとにそれぞれ5人くらいずつ選定してみるのもいいかもな。
百選に入れるか入れないかは処置は定義が決まってから、という形で。
最終的に中国史レベルで見れば百選に入るのはそう多くないだろうし、定義的にダメなら
その時初めて別スレを検討するのもいいだろうし。
>>287 いや、ちゃんと読んどる。そう決め付けるな。
でもまぁ俺の書き方も悪かった。
>>285にきちんと書いてなかったが。
それなりの専門知識も必要になるから、ある程度書き込む奴が偏るのはやむをえんって事だ。
定義はこのままウダウダやってる限り絶対に決まらないだろうな
ここが中国定義スレと化してるし
盛り上がってるの宋〜清初の“専門知識”持ってる人だけだし
さっきも言ったが、先に90〜110名ぐらい決める作業をしたほうが
現実に合わせて定義を決めることが出来る
その時に武将が足りない(明らかに格が落ちる武将が数人いる)なら議論武将入れればいいし
充分だったら、もうすっぱり諦めるとしたほうがいい
>>289がなんでそうネガってるのか判らんが・・・
ていうか、このスレ一通り読んでる?
>>215、
>>258見るだけでも、既に200名以上出てるんだが。
>現実に合わせて定義を決めることが出来る
「中国名将」がどこまでの範囲かという人それぞれの現実に対する認識にズレがあるから、
統一された定義が必要だし、話し合いをしてるんじゃないのかい?
現実に合わせて、という言葉の意味が良く判らんが、候補が揃った後で
「候補にチンギス期のモンゴル武将が3人います!この現実に合わせてモンゴル武将も
中国名将に入れるべきです!」
なんて無茶苦茶言いだす人が出てきたら困るだろ?
定義についてはある程度議論も進んでるんだから、もう少し辛抱しなよ。
叩き台出して、ある程度時間おいてスレ参加者の反応見て・・・って、な。
ああ、200名からの絞込みも早くやれってこと?
それは定義議論と並行してやっていいんとちゃうの?
周辺異民族や先行政権について、定義が決まったらそこの部分だけ先行やり直して、
その分微妙なやつを削ればいいじゃん。
下の二行の武将が足りない場合と足りる場合が「現実」だ
スレの為に住人が居るんじゃなくて住人の為にスレがあるとも言う
いいか、判りやすく例を出してもう一度言ってやる
>>258から48人選べばこのスレは終わるわけだ
そこでまず選んでみる
まず第一のケース
48人選んで100選が決まったが、その内の3人がどうも残りの97人に比べると微妙だ
そういう「現実」が起きた場合、その3人をそのまま入れとくよりは耶律休哥とかの方が釣り合いがとれる
それなら全体のバランスを見て、遼・モンゴル・後金から残り97人に見劣りしない3人を選んだ方が良い
次に第二のケース
48人選ぼうと思ったが、どうしても58人になる。つまり全体で110人になった
この110人はどれも遜色ない。それなら遼・モンゴル・後金の候補武将に出番はないという「現実」だ
それなら残り10人を外す作業をするのが妥当な作業だろう
そういうことだ
定義論争には興味ないから参加してないけど、
いちおうROMってるよ
俺みたいな奴が多いんじゃね?
>>283 まあモンゴルは定義によって顔ぶれがガラっと変わるしねぇ
正直宋以降の話題にはついていけないけど、このスレはすごく参考になります。
今まで全然知らなかった名将達を知ることが出来てすごく面白い。
ただ自分としてはなるべく早く定義を確定して本題に入って欲しいなというワガママな思いもあります。
296 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/09(火) 11:32:27 ID:RVRXm+Dx0
>>253の定義でとりあえずやってみたら?
リストも出てるんだし。
297 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/09(火) 13:17:24 ID:xTG4DJizO
傍から見てるとモンゴル武将を入れたい人と
モンゴル武将を入れなくない人だけが争ってるだけに見えますが・・・
まるで濮議問題の時の欧陽修と司馬光みたいですよ。
モンゴル武将を入れたい人は的外れな武将を推薦してる訳ではないんですから、
そこまでムキになる必要があるの?
第三者が有意義な提案を出してもなんだかんだ文句言ってるとしか思えないけど。
自分も
>>253の定義で良いと思うけどな。
Aで言ってる領域にチベットは当然入らないのはわかってるのに挙げ足とるのは愚かとしか思えないけど。
大体、清末まで中華と言われてた領域って
此処に書き込みしてる人なら分かってるはずと思いますが・・・
(時代により範囲の多少の誤差はあるけどね)
すまん、今日初めて来たんだが、中華民国、中華人民共和国は対象外?
>>297 今の中華人民共和国領内にチベットは無いことになってるのか?
>>299 シナ風の国号を持つ王朝という縛りがあるから吐蕃なんかは入らないだろ
そうなると西夏はOKでいいのかな
301 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/09(火) 15:06:46 ID:xTG4DJizO
>>299 >今の中華人民共和国領内にチベットは無いことになってるのか? おいおいネタか?
チベットは一応中華人民共和国領内ということになってるが、
中国共産党が武力で侵略して無理矢理領土にしてるの知らないのか?
>>300 西夏は史家が便宜上呼んでるだけで本来の国号は夏。
詳しいことは後程述べます。
中華民国って国民党の時代の中国?
それとも台湾の言ってるの?どっち?
>>301 征服したならその国の範囲内にはいるのは当たり前だろ
中華人民共和国は文化圏の呼び名じゃなくて国家の呼び名だぞ
あれだと誤解を招き易い上に曖昧だから、現在の中華人民共和国の領域内(自治区除く)とかの方が良いのでは?
303 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/09(火) 19:13:07 ID:A/SyTNQO0
モンゴル(つーか拖雷と速不台)、後金を入れたくて
>>161を提言、
>>253に賛成してその尻馬に乗っかった俺だが、こんなにもめるとは思わんかった。
いいと思うんだけどな、別に。速不台とか奴児哈赤が入っても。
ところで昨日リスト作ったのも俺だが、不備が目立つな。清朝の確定に
策稜入れときながら候補の策稜削り忘れてるし。
あと、一番の失敗は後漢の10人を確定にしてしまったのがまずい。
あくまで暫定候補、ってことで一つ勘弁していただきたい。
現在候補は祭遵と皇甫崇の二人だけ。候補ふやして議論しなおさにゃならんよな。
>>297氏はもしかして十国春秋で俺と共同戦線をはった人?
なんとなく文体が似てるような。
勘違いだったらすまん。とりあえず蒙古・後金OK派ということで感謝。
304 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/09(火) 19:58:06 ID:xTG4DJizO
>>303 >>297を書いた愚人ですが、貴殿の仰ってる方では無いですよw
別に擁護した訳ではないのですが、第三者として意見を述べさせてもらっただけですよw
まあ貴殿には以前お世話になったご恩もありますけどね!!
自分も宋、南宋が大好きなんですよ。特に趙匡胤と岳飛がね。
反モンゴル武将派があれこれ難癖つけてくるのは仕方ないですよ。
みんなで焦らず慌てずマターリ煮詰めて行きましょうよ。
>>304 俺は定義はしっかりしてくれとは言っても、アンチモンゴルであったことなど無いが
ていうかモンゴル好き
307 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/09(火) 20:13:17 ID:A/SyTNQO0
>>305 そこで反論の論拠を語るならともかく、
過剰反応はよくないと思う。
みんなスレの仲間だってことを忘れめぇや。
308 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/09(火) 21:08:17 ID:A/SyTNQO0
今なら人も少ないんでここに書いておこう。
おれの理想的南宋・金・元10選
宗沢
岳飛
完顔宗望(オリブ)
完顔宗弼(ウジュ)
拖雷(トゥルイ)
速不台(スブタイ)
孟珙
伯顔(バヤン)
阿朮(アジュ)
拡廓帖木児(ココテムル)
・・・李庭芝や張弘範じゃこの連中に匹敵しえないから、
拖雷、速不台らモンゴル人武将(しかも中国の歴史に影響を与えた)
二人を入れるのは妥当だと思うが。
抗金名将にも宗沢・岳飛以上の存在はいないし。
それでも反論はあるんだろうな。
>>308 アジュよりウリャンハタイの方がよくないか?
父や子と違ってあまり中華の政権に大きなダメージ与えていないから外れてるのかな
310 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/09(火) 22:52:50 ID:xTG4DJizO
>>306氏の様な定義に対する意見なら難癖とはいいませんが
中には明らかに的外れな反対意見も見受けられと思いますが。
拙い文章なので不愉快な印象を与えたことについては申し訳ごさいません。
>>308で挙げている元の武将は
>>253の定義をクリアしているので問題ないのでは?
311 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/09(火) 22:53:42 ID:xTG4DJizO
続いて投下
チベットの件
>征服したならその国の範囲内にはいるのは当たり前だろ
現代の国際社会と第二次世界大戦終結までの世界とは
侵略して領土にしたのとは背景が異なるのだけど・・・
中国共産党が一方的な武力行使でチベットを
無理矢理に中国の領土にしてることが国際社会から非難されているの知ってる?
チベット自体も中国共産党の支配を認めていないんだよ。
>中華人民共和国は文化圏の呼び名じゃなくて国家の呼び名だぞ
そんなことは百も承知で意見を述べさせているのですが・・・
現在一応中国の領土になっているからといって、
此処で討論している定義の反対材料に利用する輩がいるから釘を刺したんだけ
君には勘違いさせてしまったみたいだね・・・orz
312 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/09(火) 22:55:00 ID:xTG4DJizO
もう一回投下
>>300 西夏は党項(タングート)という民族の政権で
本人たちは『夏』または『大夏』と名乗っていたのだが宋から見て西方にあるので勝手に西夏と呼ぶようになったそうです。
国名の由来は首長であった拓跋思恭が黄巣の乱の時、唐の長安収復を援助して、
その報酬に夏国侯に封ぜられたことに由来する。
ついでに拓跋思恭は唐の国姓の李を賜り、定難軍節度使を世襲するようになった。
西夏は唐の定難節度使として
夏州、銀州、綏州、宥州、静州の五州を領土としていた。
>>310 「難癖」という言葉自体が相手の意見をまともに聞く気がないと言ってるのも同然な事に気がついて欲しい。
せめて”スレの仲間”の「意見」として向き合う度量を求む。
いろいろな考え方の人間が話し合って作り上げるから、こういうスレは面白い。
進行が上手くいかないからと言って相手の意見にレッテル張りして済ませるのは良くない。
>
>>308で挙げている元の武将は
>>253の定義をクリアしているので問題ないのでは?
その意見には賛成。
>>253の定義が了承されるのなら候補として問題ないと思う。
>>253の定義でOKならムカリやウリャンハタイも捨て難いが、スブタイとトゥルイにはちと劣るかな。
314 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/09(火) 23:22:41 ID:A/SyTNQO0
>>309 用兵家としてはウリャンハタイかな? とも思ったが、
スブタイの獰猛さを引き継いだってことと
南宋朝廷に対する猛威の数々でアジュにした。
まぁこの二人は趣味でわかれるね。
>>310 これで文句なし、といいたいところだけど
今なお議論中だから。
>>253氏の支持者は十分いると思うけど、
結論が出るのはまだ先っぽい。
315 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/10(水) 00:11:03 ID:804GQKAKO
>>313 貴殿が孤軍奮闘(?)しているのを見兼ねて自分は第三者として助け船を出しただけで
反対意見を一切受け入れないというつもりで発言した訳では無いんですよ・・・
だから難癖という言葉が不適切だったと反省してるのに貴殿にそんな風に言われるとは・・・orz
>>314 確かにまだまだ定義を煮詰めていかなければなりませんね。
元の将を入れることに異論は無いのだけどな。
>>253の定義で
>>308の候補を見るとトゥルイや
スブタイなんかは大元に仕えてないから該当し
ないと思うんだけれど、その辺どう取り扱うのかが
疑問だ。
>>253の定義だと西夏・遼も入るということでいいのかな?
>>308 スブタイは中国方面では開封を落としたぐらいしか目立った活躍をしていないので
ウリャンハタイかムカリの方が適当じゃないか
318 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/10(水) 00:26:27 ID:yyDrmM7X0
>>301 大勢に影響ないからどっちでもいいけど、
>>253の定義Aは、明らかにチベットほか自治区を含んでるだろ。
中国と曖昧にいわずに、わざわざ「中華人民共和国」って書いているんだから。
>>315 そうでしたか。いや、こちらの読解力不足だったし、少し言葉がきつすぎた。
申し訳ない。
ただ、やっぱり「難癖」のような言葉はなるべく控えめにする事をお勧めするよ。
こういうスレだからこそ。
俺はこのスレ内でも何度か書いているのだけど、異民族との関わり方にこそ中国史の
ダイナミズムが存在すると思っているので、異民族や、異民族王朝だからといって
無条件にはじき出すような処置には大反対。
だけど、無制限に候補の範囲を広げるのは無茶だと思うし、なにより、なるたけ多くの人が
納得する形のj「名将百選」として円満にスレが完結して欲しいと思ってるので。
そのために「(選考ルールとしての)定義」にこだわるし、勢い任せにねじ込むような形で
問題事案が処理されるのは、あまり宜しくないと感じているのです。
ために、時として「考慮を促す」ための反対意見を書く事もありますが。
無学の身で定義や、論争の仕方に偉そうに口ばしを突っ込んでいる理由はそれだけです。
申し訳ない。
>>316 特にその二名に関しては、「王朝の樹立に貢献し」「中国国内で戦った」という部分を
適用しているんじゃないかと思うのだけど。
320 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/10(水) 00:53:24 ID:u4K2BXet0
気が早いが元末明初の群雄、張士徳は候補から確定に上げてもいいかも。
張士誠陣営の基盤固めに領土拡大のための戦功の数々。
最後は兄とともに敗れ去ったとはいえ、知勇兼備の一代の英傑。
なにより軍紀厳正で民を害さなかったのがポイント高い。
まぁ、おれが張士徳を好漢と認めたのは「沈万三」の影響だけどね。
徐達に「あいつとはまともに当たらないほうがいいナリよ」と言わせた将略、侮りがたし。
明末元初には格別詳しい方がいるようのでこれ以上はそのひとに任せたい。
で、武将の定義(主にモンゴルと遼)はその時代になってから改めて決めるとして、
春秋戦国に戻って確定武将を選出したいと思うが、どーだろ?
321 :
320:2007/01/10(水) 00:56:29 ID:u4K2BXet0
明末元初とか書いちまったよ。
これはもちろん元末明初の誤りね。ホント、おれは誤字が多いな。
322 :
316:2007/01/10(水) 00:57:14 ID:OhdIJL040
>>320 元・遼は候補者が多いので、100名に含めるかどうかで
大分、選ばれる人が変わると思うぞ。
>>319 モンゴル帝国の将も含めるという解釈で良いのでしょうか?
323 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/10(水) 01:02:23 ID:yyDrmM7X0
モンゴル人武将の場合、
元の建国に貢献した武将になるのか?
アリクブガの乱で活躍したとかそういう人?
324 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/10(水) 01:05:39 ID:yyDrmM7X0
325 :
320:2007/01/10(水) 01:14:15 ID:u4K2BXet0
そんじゃ、春秋戦国(昨日のをコピペしただけだが)
【確定組】
楽毅
魏無忌(信陵君)
白起
李牧
王翦
【候補】
墨子、管仲、呂尚、孫武、伍員(子胥) 、廉頗、孫ビン、
夫概、趙奢、士会、 趙奢、趙無恤、王子成父、先軫、楚の荘王(熊侶)、
蒙ゴウ、司馬錯、樗里疾
俺的には昨日も書いたとおり、呉起と伍子胥を推薦する。
あくまで俺の意見ですけど。
>>322 >>323 トゥルイ、スブタイ両名とも金朝攻略の功績が大きいのでそういう部分で推されているのだと
解釈しているけど、その辺は定義や、定義の解釈で変わってくるかもしれないし、議論次第ですね。
モンゴル帝国の中華文化圏における世襲領として「元」の成立、もしくは領域確保、拡大に貢献した
武将のうち、中国国内で戦闘を行い、軍事的才能を発揮した人、が候補として挙げられているかと
思います。
なので、
>>323の範囲の武将も候補には含まれるかと。
327 :
325:2007/01/10(水) 01:34:25 ID:u4K2BXet0
このリスト、呉起と李牧が載ってないな。
まぁ忘れてた名将がいたら適宜追加するってことでいいか。
328 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/10(水) 01:58:07 ID:yyDrmM7X0
>孫武、伍員(子胥)
この二人推す。
329 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/10(水) 02:04:15 ID:u4K2BXet0
現在
孫武、伍子胥、呉起の三人。空き枠は5つだから、
後半で結構熾烈な候補争いになるかもね。
とりあえず落ちますわ。疲れがたまると仕事に支障出るし。
330 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/10(水) 07:47:08 ID:804GQKAKO
>>318 >大勢に影響ないからどっちでもいいけど
ああっ分かってる、話の流れで説明しただけだが・・・
>>253の定義Aでいくとチベットほか自治区を含んむからそれが入ったら明らかに
此処で討論している国以外も範疇に入ってしまうからこそ意見を述べたんだし、
だから
>>302が改案を提示してくれたんしゃないか。
中国と書いたのは中華人民共和国って打つのが面倒だっただけで他意は無い。スマン
>>320でちゃんと元末明初って書いてるよw
まあ余り一人で無理しなさんな。
それと自分も孫武に一票。
>>325 樗里疾を推薦。戦歴が豊富で、五カ国連合軍を撃破するなど、
輝かしさにも事欠かない。
332 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/10(水) 13:02:47 ID:804GQKAKO
>>330 スマン早とちりしてた、下の方の行のことですねw
>>253 の定義のうち、Aの「現中華人民共和国領内」から黒龍江、吉林、遼寧、
内蒙古、新彊、青海、西蔵、雲南を除けば問題なく賛成しますよ。
334 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/11(木) 00:50:08 ID:yCYsBCCA0
【確定】
楽毅・魏無忌(信陵君)・白起・李牧
王翦・孫武・伍子胥・廉頗
↓次行ってみよう。
336 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/11(木) 07:59:34 ID:Gc4IavKo0
墨子、管仲、呂尚、孫ビン、夫概、趙奢、士会、 趙奢、趙無恤、
王子成父、先軫、楚の荘王(熊侶)、蒙ゴウ、司馬錯、樗里疾
・・・候補まだこんだけいるよ。樗里疾を推すって意見もあったし。
ま、ある程度人のいる時間帯じゃないと勝手に決めるわけにもいかんわな。
337 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/11(木) 08:05:50 ID:Gc4IavKo0
連投。
すっかり忘れてましたが・・・、
候補に范蠡も入れておくべきだろう。
338 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/11(木) 10:43:36 ID:C+LN86faO
候補にいれてもいいけど范蠡はどちらかといえば
策士、政治家としてのイメージが強いな。
339 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/11(木) 12:03:51 ID:A4o8zhbQ0
期限決めて、暫定100でもいいから決めちゃわない?
各時代、1週間くらいで候補出して、土日の人いるときに決めるとか。
じゃないと延々と続くよ。
定義とかはそれと平行して決めればいいし。
340 :
319:2007/01/11(木) 12:13:57 ID:S0aR8yMA0
ていうか定義を巡って大きくモメるのはおそらく遼・金・元・後金辺りだと思うので、
それ以外の時代を並行して先に選考するのは全然アリだと思う。
341 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/11(木) 13:18:57 ID:xk+LUb/AO
孫武 孫濱 楽毅 白起 太公望
候補を書いてる人は、その推薦理由も書きましょうよ
343 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/11(木) 19:46:37 ID:WZPevdHS0
とりあえず五人、推薦理由コミで挙げる。
呉起・・・母親の喪に服さないわ嫁さん殺すわ、
それでも戦は無敗の男。生涯最後のときにまでただでは死ななかった。
李牧・・・田中●樹氏と同意権。対匈奴対策の創始者。グレイト。
伍子胥・・復讐にかけた生涯。「日暮れて道遠し」も名言ながら
「俺の目を門にかけておけ、この国が滅びるさまが見えるから」が凄い。
孫臏・・・祖先のほうは事跡がはっきりせんのでこの際除外。
「龐涓この樹の下に死す」のエピソードがかっこええ。
范蠡・・・このスレ的名将の条件にはそぐわないかもしれないが、
越王句践10年越しの復讐を助けた政戦略の手腕は驚嘆の一言。
春秋戦国の話題で盛り上がっている中申し訳ない、
スルーしてもらって構いません。
>>320 張士徳の軍の軍紀が厳しかたってのは史料からも裏付けられるよね。
以前元末スレにも書いたけど、張士徳の腹心だった史椿は張士徳の死後、
軍紀が弛緩してしまった張士誠軍に見切りをつけたって話がある。
張士誠軍が弱体化したのは張士徳死後に
張士徳の弟で、無茶苦茶無能の張士信が軍団の実権を握ってしまったから。
常州の戦いの時、朱元璋軍を破らずとも、逃げおおせる事さえ出来れば、
張士誠が天下を取るのも夢ではなかっただろうね。
>>343 李牧は確定組でしょ。もう1名挙げてみては?
346 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/11(木) 20:12:14 ID:WZPevdHS0
>>345 ホントだ、確定組に李牧いるわ。
そんじゃ、戦うおじいちゃん廉頗かな。老将って結構好きだったりする。
晩年、各国に自分を売り込むも使ってもらえず可愛そうな所とかも同情心を誘う。
>>344 320です。詳しくお教えいただきありがたい。
347 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/11(木) 20:21:46 ID:sS87NBm10
春秋戦国で名前が挙がってますが、
管仲・孫臏・范蠡は、名相・参謀の方に名前が連なると思うので
このスレでは除外したほうがいいと思います。
>>341 太公望は規定の時代内ではないし、上記と同様の理由で
除外対象だと思います。
>>343 名将の理由じゃなくてアンタが好きな理由になっとる
349 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/11(木) 20:36:43 ID:WVSzKPeC0
>>348 一応、好きな理由の中に
それぞれの極短エピソードを挿入したつもりだが、
これじゃマズい?
350 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/11(木) 20:44:22 ID:sS87NBm10
>>349 このスレは、中国史の好きな人物を挙げるスレではありません。
時代を代表する名将を理由と共に候補に挙げて
【中国名将百選】を皆で決めていくスレです。
351 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/11(木) 20:46:46 ID:WVSzKPeC0
>>350 すまん。そんじゃ名将としての確固たる理由、書いてくるわ。
352 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/11(木) 21:08:29 ID:WVSzKPeC0
呉起
我欲が強く好色だったが、部下に対しては公平で信頼を得た。
魏に仕えて秦の城5つを抜き、しばしば威名を挙げるも、
魏の宰相公叔に疎まれ楚に亡命。
悼王の信頼を得て百越を伐ち、三晋を退け、秦を撃って
生涯64戦12引き分け無敗の記録を残す。
悼王死後・・・については語る必要ないか。さっきも書いたし。
伍子胥
はじめ楚の平王に仕えたが父と兄とを平王に殺され、呉に亡命した。
呉王闔閭を助けて楚を撃ち、連戦連勝して国都・郢にせまった。
平王はすでに死去していたがその墓を暴き、「死体に鞭うつ」こと300回、
父兄の讐に報いた。
闔閭が越に敗れるとその子夫差を助けて越を打倒。
しかし奸臣の讒言に乗った主君の猜疑にかかり、剣を賜って自刎する。
・・・こんな感じでOK?
353 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/11(木) 21:35:27 ID:WVSzKPeC0
廉頗
恵文王から悼襄王まで、40年にわたって趙の宿将をつとめた大元勲。
恵文王のとき斉を破り、晋陽を取る。
孝成王のときには燕を破り、講和条件として5城を割譲せしめた。
蘭相如と深い友情で結ばれ、この二人がいるがために秦は趙を攻撃できないほどだった。
のち、長平の戦いで白起と対峙するも秦の流言に乗った王のために更迭され、第一線から退けられる。
王の信頼を得ることができず乱を起こして出奔、魏に投ずるも用いられなかった。
「再び趙の兵を率いたいものだ」と言い残して没。
趙奢
はじめ田部の官吏。平原君の威を借りて租税を納めなかった食客を殺し、綱紀を改めた。
怒った平原君に国家の統治を説いて感心され、雄才であることを認められて地方役人から
国賦の統治者に抜擢された。
秦が韓を撃ち、韓は趙に援軍を求めた。廉頗、楽乗らが救うことあたわず、と説く中、
ただひとり可と説き、将となり救援に赴いた。趙奢は大いに軍紀を粛清し、兵たちの士気は高く、
趙奢率いる軍は秦軍を大いに打ち破った。功績により馬服君とされ、廉頗、蘭相如らと同格になった。
354 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/11(木) 21:58:06 ID:WVSzKPeC0
士会
諡号を武子、范、隋の二邑に封ぜられたことから隋会、隋武子、范武子、范子などと呼ばれる、晋の上卿。
城濮の戦いでは若くして帷幄にあり、作戦に参与した。
成公、景公の代に卿となってこれを補佐し、軍を治めて大いに名声があり、
上軍の将と大傳を兼ねた。周室が乱れるとこれを平定、刑法をただし典礼を講習して晋国の法を定めた。
性温厚にして争いを好まず、斉に使いした郤厥が辱めを受けたとして激怒すると、
上卿の位を退いて郤厥に譲った。
・・・以上、5名です。よろしく。
乙……と言いたいところなんだが
欲しいのは
墨子、管仲、呂尚、孫ビン、夫概、趙奢、士会、 趙奢、趙無恤、
王子成父、先軫、楚の荘王(熊侶)、蒙ゴウ、司馬錯、樗里疾
という候補も居る中で、どうしてアンタがその五人を選んだか
その五人が他の連中に比べて勝る点、歴史的に見て軍事的に他に追従されない点なんだよな
春秋戦国は割とメジャーな時代だから、そういう人物履歴みたいなのは結構知ってる人多いし
ググるとすぐ出てくるし
356 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/11(木) 22:03:12 ID:n3uTSNYj0
【名前】樗里疾
【時代】戦国
【理由】韓・趙・魏・燕・斉の連合軍を迎え撃ち、
韓将申差を生け捕り、趙渇、韓奐を破り、八万二千の首を斬った。
曲沃、漢中を秦の版図に加えた。
その他にもたびたび趙や魏と戦い、勝利した。
生涯不敗を誇り、「力は任鄙、智は樗里」と称せられた。
秦の初代丞相でもある。
357 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/11(木) 22:11:53 ID:sS87NBm10
>>352>>353 このスレに来てる人なら、春秋戦国は基本として知ってるだろうから
そんな風に人物紹介みたいに書かなくても大丈夫だと思いますよ。
とりあえあず、今の春秋戦国時代での状況はこうですかね
【確定組】
楽毅
魏無忌(信陵君)
白起
李牧
王翦
【候補】
呉起、墨子、孫武、伍員(子胥)、廉頗、夫概、趙奢、士会、
趙無恤、王子成父、先軫、楚の荘王(熊侶)、
蒙ゴウ、司馬錯、樗里疾
候補に楚の荘王が上がっているので、趙の武霊王も候補に挙げたいと思います。
騎馬術の導入や、中山など異民族を攻略した軍事的な才能は、評価されるべきだと思います。
358 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/11(木) 22:13:23 ID:WVSzKPeC0
選考理由
呉起・・・流転していく先行く先で戦功を立てた。
主君との信頼関係が醸成させていない段階で勝利できるというのはかなりのもの。
伍子胥・・ここまで苛烈な人生を送った人物もそうはいないのでは?
廉頗・・・存在自体が秦に対するプレッシャーとなった。
趙奢・・・廉頗ですら「不可能」と言った困難な救出作戦を成功させた。
士会・・・軍歴もさることながら法の制定に功績があったのが大きい。
・・・こんなもんか。まぁ、所詮は好みで選んだ、ってのが本音だが。
だから
>ここまで苛烈な人生を送った人物もそうはいないのでは?
コレの何処が選考理由だよ
もうお前はこのスレROMってろ
360 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/11(木) 22:40:00 ID:C+LN86faO
>>347 孫ビンは地位は参謀だけど
実質的には田忌より孫ビンが軍を動かしていた感じが俺的には感じるけど。
(つーか既に外されてるし)
あと孫ビンか孫ピンって書こうよ。
それと一時代枠の名将確定をどの位の期間で決めるつもり?
なんか春秋戦国時代に物凄く詳しい人が全部決めちゃいそうなんだけど。
参加してる人によって知識に個人差があると思うし、俺みたいに合間の時間で参加してる人、思案に時間を掛ける人、思案がなかなかまとまらない人。
いろんな人が居ると思うし、昨日なんか慌てて決めようとしてた印象を受けたよ。
(釈明してたけどいつも結構、先走るし)
下手したら明日になったら次の時代に突入しそうだけど・・・
>>358 士会・・・軍歴もさることながら法の制定に功績があったのが大きい。
アホだろw
何で名【将】百選で法の制定が功績として考慮されるんだ。
362 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/11(木) 22:59:18 ID:sS87NBm10
>>360 孫ビンは確かにそうだね。墨子残しておいてねぇ・・・(忘れてただけ
でも、名軍師とかいうスレが立ったら選出したくないですか?
決める期間は流れだと思うけど、決まらなくても良いかなと思ってたりしますw
人の見方や意見を見るのも結構楽しいですしね。
自分、昨日は見てなくて、今日見たらビックリしましたよ。
春秋戦国に入ってから、まともに理由をつけて選考してる人が
いませんね。
364 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/11(木) 23:08:55 ID:C+LN86faO
>>362 流れならしょうがないけどなんか一人で突っ走ってる人がいないか?
調整してくれるのは大変有り難いのだなんかそんな印象を受けたのは確か。
>>363 >春秋戦国に入ってから、まともに理由をつけて選考してる人が
>いませんね。
テンプレに従って選考したつもりだが。
ちなみに俺の一押しは樗里疾。
366 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/11(木) 23:14:54 ID:sS87NBm10
再び失礼
勝手に自分の中で、管仲・墨子・孫ビン・呂尚(太公望)を
候補から外していますが能力が劣っているとかいう理由じゃないですよ。
【名将】というくくりだと、外した方がいいんじゃないかなと思っただけです。
【名相】・【名軍師】などに選出されるべき人だと思ったからです。
気を悪くされた方が居ましたらすみませんでした。
367 :
363:2007/01/11(木) 23:16:55 ID:le+aiXxe0
>>365 失礼した。
5名選出となると、比較対象が無いと甲乙つけるのが難しい
と感じたので、貴君まで含めてしまいました。
>>357 楚の荘王を挙げたのは俺だけど、春秋五覇関係者の中で
軍事的功績が比較的分かりやすいという事が主な理由
一応建て前として特定時期に偏り過ぎないという事があったんで、散々挙がっている戦国組は避けた
そして春秋の代表として扱われていた呉越組の誰が将なのかよくわからんと言われてたんで、それ以外なら誰かな、と
369 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/12(金) 01:31:09 ID:dIMnu39r0
>>359 >>361 ROMってろとかアホだろとか、言うのは簡単だよな。
てめぇらも批判ばっかしてないで書いてみろよ、お手本って奴を。
それができないならお前らのほうがアホだ。
少なくとも俺には仕切り屋の叩き台出しって実績がある。あんまりいい意味じゃないけどな。
お前らも最低限の実績を見せてみろよ、5人といわず1人2人でもいいからさ。
それとも、結局さえずるだけで実際には何もできないクソか?
人の名前語るなよ
大体、人によって得意な時代とそうじゃない時代があるんだし
その時代の時はちゃんと発言してる
371 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/12(金) 01:45:48 ID:q0Sgr8L10
俺は直で文句付けられたんだよ。
これを言わずに我慢してたらいい加減腹に据えかねる。
他のスレ仲間の面々にはいらん発言で気を悪くさせたと思う。謝る。
だがあいつらはなぁ。知り合いだったら蹴り倒してるとこだぜ、まったく。
日本語不自由な奴の相手をしてる方が腹に据えかねるんだけどな
373 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/12(金) 02:46:32 ID:twtxu8vH0
だから実績見せろって。
そしたら納得してやるし場合によっては謝罪もしてやる。
日本語不自由とか言うけどな、
あれはもともと苦しい理屈をこじつけただけだから別にいいんだよ。
で? 食いついてくるってことはお前があの二人のどっちかか?
374 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/12(金) 03:01:42 ID:twtxu8vH0
>>370 誰か別の人が割って入ったにしちゃあ文面おかしいと思ったら、
ID見たら同一人物かよ。いかにも頭悪そうな文面だもんな。
「自分は特別」とか思い上がってそうな・・・中学生当たりか、ボーズ?
376 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/12(金) 08:24:27 ID:2GGm7c9B0
ああ、悪い。一晩寝て落ち着いた。
こっにも落ち度があったことだし、和解しよう、和解。
で、名将の条件は
1.戦勝数、もしくは困難な状況での勝利
2.秋毫も犯さず
3.軍紀が厳命で民を害さない
の3点に収斂されると考えていいのかな?
候補に残った連中はほとんどがこの条件を満たしてると思うんで、
あえて今まで無視してたんだが。
この3点で見ると俺が選んだ
廉頗
趙奢
士会
呉起
伍子胥
の五名は条件を十分満たしてると思う。
ただ、呉起は略奪を禁止したかどうかちょっと微妙。
趙奢も絶対的多数の秦軍を隘路に呼び込んで勝利を得る、
という困難な状況下での勝利は満たしてるが戦勝数自体がやや少ないか。
あとの連中は文句なしだな。
俺としてはエピソード重視での選出が好きなんだけどな。
今挙げた条件だと一人が出したら他の人が票を入れる余地が少なくなってしまう。
候補に残るぐらいなんだから実力は全員が十分、あとは好みで分かれるんじゃないか?
おや?
>>358と
>>369と
>>373の人は同一なのか?
このスレでの名将定義はどうなっているんだろうか。
将=將
率いる、統率する、用いる、などの意。
法の制定「にも」功績がある、という広い才能のある士会はともかく
苛烈な人生を送った、ことはこの際評価すべき点ではないかな。
別に厨房の肩を持っているわけではない。おれも含めて、好きな人物には偏った評価をしてしまいがちという啓発みたいなもん。
あの叩き台を出している人なら、その程度でグラつくような識見ではないだろうから、ここは落ち着くのが先だな。
あ、書いているうちに正気に戻ってる。
どうやら沈静コマンドは必要なかったようだ。
379 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/12(金) 08:48:08 ID:USpW6cra0
追加条項
4.他の将にない+αがあればなおよし。
・・・各自の個性の分には昨日紹介文書いたから、
敢えて今から捜す必要はないとして。
次の時代からはしっかり+αの分も調べにゃな。
380 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/12(金) 08:52:39 ID:USpW6cra0
>>358 >>369 >>373 同一人物です。すんません。
今年で30のいいオッサンだというのについカッカしてしまいました。
今後はこのようなことがないよう・・・
たまにあるかもしれませんが長い目でどうかよろしく。
381 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/12(金) 09:49:50 ID:KL4kof//O
エピソード重視もいいが推薦する人物の武功を先ずはいれて
エピソードはオマケぐらいに添えるならいいんじゃないか?
一所懸命に書き込みしてるんだからアホとか日本語不自由とかそんなにムキにならんでも・・・
十人十色だよ、誰だって上手く説明出来ない時もあるんだしさ。
とりあえず、
>>1と
>>253(その後、一部改訂されてるけど)のルールで
推薦してくださいよ。
383 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/12(金) 11:06:41 ID:KL4kof//O
>>381ですが
俺は別に
>>380氏をしつこく責めてはいませんし、別に厨房の肩を持つつもりもない。
不快な
>>380氏に印象与えそうなので追記しときます。
384 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/12(金) 16:23:39 ID:B3dGs0N+O
陳慶之
衛青
じゃね
日本語不自由とかROMってろって言われたぐらいでキレだすようなら
致命的に2chが向いてないと思うぞ
それに最初から煽ってるんじゃなくて
>>348>>355と二度に渡って指摘してるのに改善されてなきゃ
日本語不自由とかROMってろって言いたくはなるだろ。彼らを厨房扱いするなら
仕切り屋さんは黄色い救急車が必要な人だろ
正直いきなりキレだしてポカーンだわ
>>385 おれルールで勝手に向いてないとか決め付けるなって。
それに向いてなかろうが利用するのにどうこう言う必要はないはずだ。
ところで、
>>348と
>>355と
>>359と
>>361と
>>385は同じ人なのか?
だとしたら、うんざりしただろうな。
しかしそちらも、高圧および上からの文言でしかないから、反発を招くという配慮に欠けていると判断できるわけだ。
どういうわけか、2chにはそういう類の輩が作られてしまっているようだけど。
>>385は、自分の考える選考理由、あるいは否定の理由を添えて書けばよかったんだろうと思うぞ。
それでこその考察だろうし。
来月には休止するかもしれんのだ、今のうちに楽しんでおこうや。
つか、五代まで行くんか、これ…
いや違う人だか、俺ルールとか言われても困るし
各人この板以外で見てる板が違うので沸点の高さも違うんだろーが
いったい俺の文章のどこが高圧的なんだ?
つーかアンタ仕切りやの自演?メル欄ageなのも一緒だし文体も似てますな
あと3日で閉鎖なんだし、最後くらい仲良く行きましょう。
>>388 まじで?
閉鎖ってこのスレが?それともこの板自体が?
391 :
389:2007/01/12(金) 20:29:48 ID:4gtRrIhA0
392 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/12(金) 20:31:51 ID:5BGvKpQp0
まだ揉めてるけどもういい加減やめなよ。
>>376 名将であるかどうかという条件のうち、2と3は関係ないと思う。民に慕われたかどうかなんて、
英雄の条件ならともかく軍才には関係ないだろう。個人で好き嫌いならいくらでも論じればいいが。
例えば軍事功績でいったら絶対に外せない曹操や白起は抵触するが、だからはずして名将を語る
のか?
>>376 >>393に合意。名将かどうかの判断は、
ただその軍功と将才によってのみ判定されるべき。
そうしないと、異民族出身の将軍はランクインできなくなる。
2ch無くなっても別の掲示板に移るだけだよ
少々時間がかかるかも知れないが。でもここ新設板だから微妙かな?
まだ絶対に無くなるとは決まってないし、いつもの通りやれば良かろう
三国あたりで停まられると個人的には辛いがw
まじかorz
二、三年前はさっさと潰れろとか思っていたけど、
すっかり住人となってしまった今では・・・
中英板続けたいなら自治スレいった方がいいとオモ
この板はまだ出来て二ヶ月だから様子見ってことで解散してるみたいで
時期的には非常に拙い時期に閉鎖宣言が出されたので自治スレには人を集める必要もあるだろうし
2chが閉鎖するにせよしないにせよ(俺はしないと思うが)
さて、名将の話だが
>2.秋毫も犯さず
>3.軍紀が厳命で民を害さない
このあたりはスレの元ネタである田中芳樹の百選の受け入りなんだろうな
が、このスレでは別段括る必要は無いだろうという点にも同意
というか前スレで話さなかったかな?
>>5-6の中華区分と一緒で二度目な気がする
(次いでにいうとこの
>>5-6の中に俺の発言もあるし、五胡十六国や南北朝では幾人か武将挙げたし
>>215で現在の武将を纏めるとか地味な作業もしてます。という実績を表記すれば約一名は満足しますか?)
曹操、白起の他に確定組じゃ朱温や下手したら趙匡胤ですらアウトになるしな>虐殺はアウト
このスレになってからは兎に角、戦績を挙げていれば
名将って感じになってますね
それでも赫連勃勃とかは査定微妙になってるんだよね
虐殺では彼は(も?)群を抜いてるけど、そういうの外してみて名将かどうかで
戦略眼はともかく将としては候補組の中でも下の方の扱いを受けてた
後は一発屋さんはあんまり歓迎されない方向にあるな
>>399 趙匡胤って、アウトになるような虐殺したっけか?
どうも記憶にないんだが…
>>402 趙匡胤が、とは言いにくいが、蜀遠征のときに結構な略奪暴行虐殺をかまして
後にものすごい政情不安になってしまった。おかげで江南遠征のときには曹彬
にわざわざ略奪すんなよと厳命することになる。
405 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/12(金) 23:36:24 ID:HiuphFCxO
劉秀も部下が虐殺略奪をやらかしてるね
>>403 伝説ねぇ。 そういうのはマイナスの類になるのか…
それと、後蜀討伐のときは、将としては王全斌と王仁贍であって、この人らは名将候補にすら入っていない。
もちろん、部下の失敗は君主の責任ではあるが、それを持ち出すと功績も君主に帰するようになる。
この際は王全斌らの悪行であって、趙匡胤のではないとする方がいいと思うがいかに?
略奪行為そのものが完全にダメなら、五代の名将でランキングしている人らはほとんどが除外される。
五代だけに限らんかもしれんな。
407 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/13(土) 00:09:51 ID:K+5cMBbn0
とりあえず、現在の状況
春秋戦国 【確定組】
楽毅 魏無忌(信陵君) 白起 李牧 王翦
【候補】
呉起、孫武、伍員(子胥)、廉頗、夫概、趙奢、士会、
趙無恤、王子成父、先軫、楚の荘王(熊侶)、
蒙ゴウ、司馬錯、樗里疾 、趙の武霊王
統一秦〜前漢
【確定組】
韓信、霍去病、衛青、灌嬰
【候補】
項籍(羽)、周文、蒙恬、章邯、項梁、彭越、英布、田横、
周亜夫 、李広、李陵、趙充国、范明友、陳湯、劉邦
新・後漢
【候補】
劉秀、耿エン、馮異、岑彭、呉漢、廉范、班超、張奐、虞[言羽]、賈復または馬援
三国〜両晋
【確定組】
曹操、ケ艾、石勒、祖逖、王猛
【内定組】
周瑜、劉曜、慕容垂
【論争中】
陶侃、石虎、謝艾、慕容恪、桓温、謝玄、姚萇、李雄、皇甫真
劉淵、劉聡、冉閔
408 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/13(土) 00:13:02 ID:K+5cMBbn0
もういっちょ
南北朝
【確定組】
劉裕、檀道済、韋叡、陳慶之、
拓跋珪、高歓、宇文泰
【候補】
柳元景、蘭欽、奚斤、楊大眼、元英、周盤龍、
斛律光、慕容紹宗、宇文護、韋叔裕、李弼
段韶、高長恭、爾朱栄、王勇、沈慶之、陳顕達
赫連勃勃、拓跋Z、侯景(宇宙代将軍)
蕭道成、斛律光、陳覇先
隋・唐
【確定組】
楊素、李世民、李孝恭 、李靖 、李勣、裴行倹、郭子儀、李克用
【候補】
韓擒虎、賀若弼、張須陀、竇建徳、楊義臣、李密、劉黒闥、徐勣
李孝恭、薛仁貴、高仙芝、顔真卿、張巡、王式、黄巣、高駢
李存孝、安録山、薛礼、劉方、蘇烈、劉仁軌、李光弼、史思明、李愬
409 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/13(土) 00:20:17 ID:K+5cMBbn0
最後にもう一つ
五代〜北宋・遼
【確定組】
朱温、李存勗、郭威、柴栄、趙匡胤、曹彬、楊業、狄青
【候補】
周徳威、郭崇韜、王彦章、郭言、楊師厚、劉?、康延孝、符存審、
任圜、李神福、台濛、周本、孟堅、張彦卿、陸孟俊、劉仁贍、張武、
王環、趙季良、蘇章、潘崇徹、銭弘佐、顧全武、張元徽、李瓊
【論争中】
耶律休哥
南宋・金〜元
【確定組】
宗沢、岳飛、完顔宗望(オリブ) 、孟[王共]、ココ・テムル
【候補】
李庭芝、忽必烈(フビライ) 、完顔宗弼(ウジュ) 、伯顔(バヤン) 、
阿朮(アジュ) 、韓世忠、杜杲、張弘範、范仲淹、チュウ師道
張俊、呉?、呉リン、劉リ、虞允文、李顕忠、楊存中、僕散忠義
徒単合喜、宗翰(ネメガ)、耶律斜軫、史天沢、兀良合台(ウリャンハタイ)
劉整、張弘範、脱脱(トクト)、拡廓帖木児(ココテムル)、呂文煥
明
【確定組】
徐達、常遇春、朱棣、戚継光、袁崇煥
【候補】
朱元璋、陳友諒、方国珍、湯和、李文忠、藍玉、于謙、兪大猷、王守仁
呉三桂、李自成、鄭成功、馮勝、張輔、張士徳、馬芳 、秦良玉
清
奴児哈赤(ヌルハチ) 、阿巴泰(アハタイ) 、多爾袞(ドルゴン) 、費英東(フィヤントン)
康熙帝・玄Y、岳鐘h、策稜(ツェリン) 、僧格林沁(サンゴリンチン) 、宋景詩 、関天培、
明亮、楊遇春、李長庚、関天培、李秀成、石達開、劉永福、陳化成、唐炯
とりあえずこんな感じだと思う。
つーかさ、前スレの俺のまとめを皆コピペして使ってくれるのはうれしいんだが
元の拡廓帖木児(ココテムル)が確定と候補に被ってるとか
別名で同一人物がノミネートされてるとか
張られるたびに俺のミスが目立つんで、指摘された所は修正してくれ (´Д⊂ヽ
というか、コピペを繰り返されてもスレの負担にしかなって無くないか?
更新した部分があるなら兎も角、
>>3-4のテンプレは一体なんなんだという話に
今更な質問かもしれないけど曹操は後漢時代に入るんじゃないの?
413 :
319:2007/01/13(土) 01:45:11 ID:hNQdOsO70
出張から帰ってきたらスレがジェットコースターのような展開になっていた。
しかも2ch閉鎖騒動まで持ち上がっていた・・・
推薦時のテンプレってありませんでしたっけ?
無ければ
名前、時代、プロフィール、戦績、推薦理由みたいなテンプレ作った方が良いかもね。
推薦の仕方でモメる事もなくなるだろうし
>>413 今は推薦という段階から比較という段階に移らなきゃならない時期じゃない?
まあその武将の実績挙げて貰わないと比較が出来ないのも事実だけど
415 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/13(土) 05:19:13 ID:WRiBNrfcO
一応テンプレ貼っとく
【名前】
【時代】
【理由】
よくわからんが、毛沢東っていうのは排卵のか?
荒れるといかんので釘刺しておくが、
共和国建国以前のあくまで「一軍の将」としての実績でな。
418 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/13(土) 17:31:48 ID:GRy/3VGG0
>>416 暫定定義では1912年以前に活躍した人物となっている。
が、毛沢東は入れたいような気もする。
419 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/13(土) 18:30:25 ID:PoPG9bKz0
毛沢東の抗日に於いての功績は十分に認めるが
定義から外れてるんだから仕方ない諦めてくれ。
>>399 なあ約1名とは俺のことか?
俺はちゃんと功績は認めてるし、感謝もしてるのだけど・・・
ただ慌てるなということを強調したかっただけさ。
420 :
418:2007/01/13(土) 19:28:11 ID:GRy/3VGG0
>>419 では諦めた。
ところで常連は数字なりコテハン付けてくれた方が
議論が分かりやすいような気がするんだが、ご法度?
>>420 新規に参加しにくい状況になるかもしれないし、それぞれで判断すべきかと。
軍規や虐殺・略奪については「考慮していればなお良し」程度で良いと思う。
虐殺や略奪はともかく、軍規に関しては当然のことでわざわざ考慮するようなことではないと思うんだが。
軍規がグダグダで勝利(偶然の一勝ではなく何度も)できた軍隊・将帥なんて知らん。
上に出た曹操や白起の虐殺は、軍隊が無秩序になって起きたのではなく、作戦の一環として行われた。つまり
軍命令がスムーズに遂行されたということで「軍規の厳正」を証し立てることとも言えるし。
ああ、すまん。
上のほうの軍紀を軍規と勝手に思い込んでた。
霍去病、衛青、灌嬰が確定で項羽が候補って何故?
項羽よりかんえいの方が評価されてるあたりたまらん
明末清初の名将について語りたいんだが、
今年中にそこまで辿り付くのかしらん。
427 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/14(日) 14:36:14 ID:50lza9FW0
自戒のため二日間ネット禁してた仕切り屋だが、復帰します。
先日五名推薦したうち廉頗、趙奢、呉起の三名はあれでいいと思うが、
伍子胥と士会に関してはあのままではいかんなと思う(伍子胥に関しては俺が好きな理由だし)ので改めて推薦。
【名前】伍子胥
【時代】春秋
【推薦理由】
呉王闔慮に仕えて楚、越を撃ち、楚にはさらに五回攻め込んで連戦連勝、国都郢を落として
楚という国家を一時的に壊滅状態に陥れた功績は五カ国同盟軍を率いて斉を伐った楽毅に匹敵すると思う
ので(あと復讐にかけた苛烈な生涯、自刎に際しての「俺の目を門にかけておけ」という凄絶な遺言込みで)推薦。
【名前】士会
【時代】春秋
【推薦理由】
周室の内乱平定の功労者。呉の荘王(だっけか?)に勝利した唯一の将軍でもある。
大傳として周の律令にならい晋の国法を制定した「将と相を兼ねる」功績をもって推薦。
・・・これで問題ない?
>>419 399が言うのは多分俺のことだと思う。実績見せろって言ったし。
まぁあれは好きな時代から一人二人引っ張ってきて推薦文書いて見せてろって意味だったのだが、今となってはどうでもいいやね。また蒸し返すのもなんだし。
428 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/14(日) 16:31:25 ID:+0xS3FByO
>>427 呉王闔慮に仕えて楚を撃った点では孫武も同じなのだがこれって功績が被るのかな?
(伍子胥と孫武は名コンビ扱いされてるみたいだし)
俺は孫武を推薦したいんだけど念のため聞きたいな。
もし功績が被ってることに異論が無ければB.C513年に楚の首都郢を攻めようとした時
今は時期ではないと進言した戦略眼、斉や晋をも脅かす快進撃を続けたり、
20万の楚軍を3万で打ち破った用兵能力、
宮中の美女を軍に見立てて見事に統率してみせた点、(これには異論がありそうだが・・・)
何より著者自らその兵法理論を証明したことを理由に孫武を推薦したい。
429 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/14(日) 18:45:27 ID:C+0zULNSO
荘王は士会に敗れる前に晋のゲキ欠(鄭の協力もあり)に一度負けてる
430 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/14(日) 18:51:27 ID:XMSfPqOr0
>>428特に異論はないよ。
まぁ、どっちかっていうと孫武のほうが慎重な感じを受けるよね。
伍子胥のほうは血気盛んというか、復讐のためにすぐにでも楚を攻めたいって感じだけど。
431 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/14(日) 18:56:15 ID:XMSfPqOr0
>>429 あぁ、やっぱ唯一じゃなかったか。それでも荘王は旭日昇天の勢いだし、
それを挫いた士会の功績が特別落ちるとは思わないけど。他にもいろいろ勝ってるしな。
秦の将になって晋を撃ったこともあるし。
とりあえず、教えてくれてサンクス。
432 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/14(日) 23:15:09 ID:+0xS3FByO
>>430氏賛同、サンクス
ところで墨子って墨テキのこと?
公輸盤との仮想戦闘と城を守り防御するのに長けていた以外の
功績を知りたいのだが誰か詳しい人いますか?
一応思想本である『墨子』は読んだけど戦歴ついては書いてなかった記憶が・・・
【名前】呉起
【時代】春秋
【推薦理由】南は百越を平定、北は陳・蔡を併合、三晋(韓・魏・趙)を撃退
西は秦を伐って楚を一大強国に伸ばし上げた。
生涯成績、通算76戦64勝12引き分け、負け無し、
軍中に於いての人心掌握もまさに完璧。
>>427 伍子胥>(あと復讐にかけた苛烈な生涯、自刎に際しての「俺の目を門にかけておけ」という凄絶な遺言込みで)
生き様や遺言は軍事的業績と関係ないだろ。
士会>大傳として周の律令にならい晋の国法を制定した「将と相を兼ねる」功績をもって推薦。
政治家としての功績は軍事的業績関係とないだろ。
中国名相百選に行って来い。
434 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/15(月) 22:37:10 ID:lFZrPZFlO
>>433 ちゃんと軍事的業績を挙げているし、その他をオマケとして付け加えるぐらい別に問題ないんじゃない?
個人的な思い入れもあるんだろ。(たぶん)
前にも言ったが文句言うなら一人ぐらい推薦汁!!
むしろプラスアルファが名将の条件。
いくさ上手いだけなら史上なんぼでもおる。
436 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/15(月) 23:02:11 ID:lFZrPZFlO
伍子胥の場合は暴走気味かと思われ・・・
あるんだろって……さも自分以外が書いたみたいに言って……
>>434 揚げ足とりしてるヤツは無視するがよろし。
>>433で問題にしているところ以外ではちゃんと軍事功績書いているのに、ソコだけ取り上げるのは文句が言いたいだけの人だろう。
たぶんこういうヤツは、戦わずして勝ったような人物は、名将とは認めないんだろうよ。
端から割り込む感じになるけど、
>>427も生涯とか人生とか、そういった部分を
選考理由の前面に出しすぎてる気はする
人選には文句はないけど、どうにも名臣や名相っぽい書き方なんだよな
>>435 戦が強いだけで個性の無い奴なんてそう居ないだろ
441 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/16(火) 04:55:00 ID:Imz5VEqV0
>>437 あるんだろって……さも自分以外が書いたみたいに言って……
実際自分以外だし。書いたのは黄色い救急車が必要な仕切り屋気取りの
最近ちょっと嫌われ者になったっぽい少し僻み癖のついた岩城って名前の俺であって、
>>434は公平な目で間に立ってくれたただけだろ。
今度から名前欄に岩城って書こうか?
なんかところどころで自演とかヘンな誤解されてる感があるし。
442 :
岩城:2007/01/16(火) 05:27:23 ID:Imz5VEqV0
さすがにこの時間にレスはないわな。
今日は早番で帰ってきたらすぐ寝そうなので、今のうちに追記。気が早いけど後漢についてね。
後漢の名将は、
耿弇、岑彭、馮異は確定でいいと思う。
呉漢は虐殺行為があるから微妙。とはいえ彼の場合は荒くれどもを一手に任されたところがあるから酌量の余地はあるんだが。
曹操と周瑜を三国から後漢にひっぱってくるのなら曹操は確定、周瑜は未確定の有力候補ってことでどうか?
ま、あくまで一意見だから無視してくれても全然オッケー。とりあえず参考までにね。
443 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/16(火) 09:16:40 ID:6swSvc8YO
曹操や白起だってノミネートしてるんだから、呉漢が選ばれたってなんの問題も無いと思う。
劉秀の勢力拡大に一番貢献したのは彼だと思うし、ノミネートされる資格は充分にある。
雲台二十八将の中で序列2位とされたのも彼の武功が認められたからこそだろう。
444 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/16(火) 18:53:30 ID:+jHelm1E0
【名前】馬援
【時代】後漢
【推薦理由】隗囂討伐に功績を挙げ、公孫述を滅ぼし、光武帝の全国統一に大きく貢献。
交趾(ベトナム)の微姉妹の反乱を鎮圧、九真・日南・合浦を鎮定。
【オマケ】矍鑠の語源となった武陵五渓の反乱の出陣に際して
光武帝に見せた行動が有名。
【名前】賈復
【時代】後漢
【推薦理由】光武帝のもとにで、督盗賊、偏将軍、都護将軍を歴任。
左将軍となり、赤眉を平定。
敵と相対しても怯まず猪突猛進。光武帝は彼を失うことを恐れ出陣させなかった 。
驍勇無双の豪傑なだけでなく、学問もあり、自らを一番であると自負して同僚にまったく譲らなかった。
光武帝の懐刀的存在。
賈復または馬援となってるが個人的には甲乙付けがたいな。
>>442 仕切屋だというなら、春秋戦国と統一秦〜前漢の選定が
終わる前に後漢の話などするなよ。
その後の流れがグダグダになってるじゃないか。
じゃあ間を取って三国志に行こうぜ
447 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/16(火) 22:01:30 ID:+jHelm1E0
>>445 文句言うなら、自分が流れを戻せばいいじゃん。
【名前】趙奢
【時代】戦国
【理由】斉と戦い麦丘を攻め取り、
秦の大軍が閼与を包囲したとき,
秦に対し巧妙な計略で秦軍油断させてのち全軍をくり出し、秦軍を散々に蹴散らし,閼与の包囲をといた。
この一戦で趙奢の名は全国に轟いた。
ほらこれで流れが戻っただろ?
チミが暫らくカキコ控えてくれれば流れも人も戻りそうなものを・・・
449 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/16(火) 22:47:18 ID:iy2w6cIIO
【名前】孫ピン
【時代】 戦国
【推薦理由】当時天下一の弱兵と嘲笑されていた斉軍を天下最強の軍団に作り替える。
趙を魏が攻撃した際、田忌に魏本国を攻めさせ、趙より撤退して引き返して来た魏軍を桂陵の戦いで魏軍を大破させ、
囲魏救趙の故事の元になった。
ホウ涓が10万の軍で韓を攻めたとき、竃の数を減らし脱走兵が相次いだかのように偽装し、
ホウ涓を油断させ伏兵に適した馬陵に誘いこみ見事撃破。
この二つの戦いでの活躍をもって孫ピンを推薦したい。
孫ピンは将軍になってもおかしくないが身体的理由で軍師として迎えられと俺は思うな。
実際に軍を動かしていたのは彼な訳だし・・・
>>448 それはないのと違う?
少なくとも、そう言う自分には一定の流れを作ろうとする意思がないわけだろ?
最初から他力本願の情けないこと言っているその口では、他人のことをとやかく言うものではないと思うが。
おれは出番を待ってるからカキコミを控えているが… というか、正直この時代についてのレベルは追いつけんから黙ってるだけなんだが、村八分的なことを書かれると、なんか悲しいな。
☆ チン マチクタビレタ〜
マチクタビレタ〜
☆ チン 〃 ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ヽ ___\(\・∀・) < 南北朝はまだ〜?
\_/⊂ ⊂_ ) \_____________
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /|
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| |
| 愛媛みかん |/
2スレ目に入ってなんか荒れてきたね。
前スレは最後までいい感じで議論が進んだのに…。
>>447 戦績不足の一発屋。
名将百選に入れるには物足りないような気がする。
非難だけとするとも思われたくないので、
あらためて樗里疾を推挙。
切り取った領地の広さ、戦勝の数、
五カ国連合軍を打ち破った英姿、
いずれも百選に入れるには申し分無し。
455 :
岩城:2007/01/17(水) 00:20:54 ID:md3ZYLjc0
>>445 悪い。後漢は候補だけで確定が一人もいなかったんで、
今ぐらいの時点でとりあえず確定4、5人決めとかにゃあ、と思ったんだわ。
ところで俺の推挙した廉頗、趙奢、呉起はカウントされてる?
もう一度テンプレどおりに書き直したほうがいいんかな。
456 :
岩城:2007/01/17(水) 01:06:43 ID:md3ZYLjc0
40分待ってもレスがないってことはカウントされてる、ってことでいいんかな。
村八分にされてる感もなきにしもあらずだが。
それはさておきもう一眠りしますわ。七時に帰ってきて浅く五時間ぐらいしか寝てないし。あと五時間は寝たい。
そんじゃ落ちます。じゃあまた。
457 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/17(水) 09:07:57 ID:tUEsnf1J0
【名前】楚の荘王(熊侶)
【時代】春秋
【推薦理由】国政を整備した荘王は周辺諸国を圧迫し、領土を広げた。
国を合併させること26、地を開くこと3000里。
陳の内乱に乗じて一時併合し、鄭を攻めて陳と共に属国化した。
ヒツの戦いで晋を撃破。
この戦い以降、晋は暫くの間低迷期に入り、楚の荘王の威光が天下を覆った。
王(しかも明君)でありながら自ら戦場に出て采配を振るった点を考慮して推薦したい。
>>456 個人の事情は書かない方がいいと思うよ。
458 :
岩城:2007/01/17(水) 22:01:20 ID:6AEXLnsg0
>>457 うん。ここは名将スレであって愚痴垂らす場所じゃないもんな。
ご忠告サンクス。
一応樗里疾派の御仁に対抗して趙奢を弁護。
趙括が将軍に起用されたとき、お母ちゃんが王に告げた台詞。
「亭主は将軍の身でありながら自分の手でご飯を盛り飲み物をついで、
食事の給仕をしてやった部下が数十人もおり、友人としたものは数百。
大王や宗室からの恩賞はすべて軍吏・士大夫に分け、出征を命じられれば
その日から家事を省みなかったものです」
この台詞から推察するに、司馬遷が「戦争だけの記述はおもろない」と斬り捨てただけで
趙奢は閼与救出戦以外にも数多くの戦に出たのではなかろうか? まぁ推測だが。
459 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/17(水) 23:22:24 ID:tUEsnf1J0
じゃあ俺も擁護しとくわ。
趙奢は趙の田の租税をつかさどる役人だったが平原君は奢を賢者と認めて王に推挙したんだろ。
元小役人が将軍に抜擢されたその上、天下最強の秦の軍団を見事な策略で打ち破ったんだから
ただの一発屋とは言えないと思うよ。
ちょっとgdgdになってきたので、この辺で
春秋戦国時代324以降で候補に上がった人のまとめ
呉起
>>352,358,376,432
伍員(子胥)
>>352,358,376,427
樗里疾
>>331,356
孫武
>>428 廉頗
>>346,353,358,376
士会
>>354,358,376,427
趙奢
>>337,353,358,376,447
楚の荘王(熊侶)
>>368,457
武霊王
>>357
春秋戦国候補
まとめ2
議論中 ※1
孫ビン
>>449 范蠡
>>337 名相・参謀候補なので名将から外した方が良い
>>347,366との意見有り
議論中 ※2
呂尚(太公望 )
>>341 時代が違う
>>347との意見有り
ただし、前スレでは時代区分1が神話〜春秋戦国だったので
個人的には含めても良いかと思う
なんで趙奢が一発屋扱いで選考落ちになりかかってて信陵君は確定?
信陵君にしても邯鄲の救援と河外の戦いしかなく、一発屋と大差ないと思うんだが
それで確実に戦績を残してる呉起は候補に留まってるって、ちょっとわからない
趙奢より功績を挙げてるはずの廉頗の扱いの酷さもな。
464 :
岩城:2007/01/18(木) 02:01:59 ID:Wo2jw8sO0
廉頗の扱いがひどいっつーことで改めて書き込み。
【名前】廉頗
【時代】戦国
【戦功】
四十年にわたって趙を守護した大元勲。若い頃は楽毅の五カ国同盟軍にも参加した(っけか? どーも確証がもてん)
蘭相如との刎頚の交わりで高名。廉頗と蘭相如が健在であるうちは秦でさえうかつに趙を攻めることは出来なかった。
長平の戦いでもちびりちびりとやられつつも防備に専念、白起ですらうかつに大攻勢を仕掛けることは出来なかった。
若造の趙括に更迭されたことに憤激するも、邯鄲防衛に尽力。楚・魏の救援を得て趙は命脈を保つ。
長平で趙括が敗れた五年後、燕が趙を攻めるとこれを迎撃、主将栗原を殺し、逆撃して燕都を囲んだ。和平の条件として五城を割譲させる。
さらに魏を撃って繁陽を攻め、ここを攻略するも孝成王が死ぬと後援者を失い、楽乗ごときに更迭された怒りから一暴れして出奔、
魏に亡命するも用いられなかった。「再び趙の兵を率いて戦いたいものだ」と言い残して寿春で死んだ。
白起をてこずらせたことをはじめとする数々の武功、悲劇的な晩年のエピソード。どっちも十分だと思うが足りんかな。
465 :
岩城:2007/01/18(木) 02:18:25 ID:Wo2jw8sO0
連投、追記。
信陵君に関しては「更始無忌は天下無双」っていう名前が一人歩きしてるからじゃない?
ただ、統一秦〜前漢で灌嬰が入って項羽が候補ってのはちょっと疑問だが。
466 :
岩城:2007/01/18(木) 02:21:51 ID:Wo2jw8sO0
更始無忌=公子無忌ね。まぁいうまでもないだろうけど。
465は
>>462、464は
>>463宛てね。
前にも推したけど、廉頗と呉起は当確でいいんじゃない?
複数の人が名前挙げてるし。
>>460-461 サンクス
范蠡と孫ピンは名相・参謀候補なので名将から外した方が良いとの意見有りに対して、
孫ピンを推薦した策士、名相が大好きな俺から一言。
俺的には范蠡≒陳平だと思ってるんだよね。
この二人ってえげつない権謀術数と有能な政治能力で君主に仕えていたのだから、
やっぱり范蠡は名相、名参謀として扱うのが妥当かと思うけど。
孫ピンの場合はライバルのホウ涓にはめられ足斬りの刑にされちゃったから将軍への道を閉ざされた訳だし、
それを不憫に思った田忌が自分の参謀として迎えたんじゃないかな?
何度も言うけど立場は軍師だが実質に孫ピンが兵を動かしていたと思うけど。
これに対して諸兄の意見はどうでしょうか?
>>468 どう思うかと聞かれれば、思わないと答えますね。
作戦指導と軍の統率指揮は別ものでしょう。というか、戦略レベルでの軍の進退と
戦術レベルでの軍の指揮をごっちゃにしてませんかね?
>>469 ふつう、戦略的に優位に立つことができれば、少々の戦術的敗北は補いがついてしまう例が多いんだよね。
つまり、一方面軍司令官ともなると、ある程度の戦略眼、広い視野といったものが備わっていないとならない。
そういうので、常に相手より優位にたっているのも名将だろうし、戦場で相手をこっちの有利なところに誘い込んで撃破するという駆け引きをするのも名将。
ただし、後者の場合でも、ある程度の戦略眼が備わっていないとできないことなんだと思うよ。
ちなみに、将としては統率が第一であることは、言わなくても知っていることだと思う。
孫ピンが一軍の将として振る舞っていたのなら、
韋叡のようなエピソードが伝わっていてもおかし
くないでしょ。
田忌の参謀役として捉える方が自然かと。
>>470さん擁護ありがとう。
>>449で>魏軍を桂陵の戦いで魏軍を大破させ、
囲魏救趙の故事の元になった。
>ホウ涓馬陵に誘いこみ見事撃破。
前者は敵を誘いだし自軍を有利な立場に持ち込む戦略だし、有能な将なら当然行う行為だろ。
後者の敵の総大将であるホウ涓を叩き潰すという行為は戦略としては一番の上策、
しかもやり方が鮮やかすぎるから其処にしか目がいってないのかな?
孫ピンが優れた戦略眼を持ってる証明に十分なってるはずたが。
>>471 韋叡は元々将軍であり虚弱体質で馬に乗れず代わりに輿に乗り竹杖で指揮をしたんだし、
その点は大谷刑部(吉継)も立場が似てるよね。
でも孫ピンの場合は足斬りの刑と顔に入れ墨されて罪人にされたんだよ。
その為将軍としての道を閉ざされたんだし、韋叡とは事情が全く違うよ。
(戦場では車に乗って采配を振るってたみたいだけど)
俺は名称が参謀で一将として振る舞ってなかっても実際の功績は将として評価出来なるのではと言いたいのだが・・・
473 :
岩城:2007/01/18(木) 23:44:30 ID:8Ld5Nvm20
指揮統率能力は十分、赫々たる戦功があるんだから名将として問題ないはず、とか
>>347で孫ピンを諦めた俺が言ってみる。諦めた人だから説得力に欠けるが。
474 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/19(金) 00:06:09 ID:gFPKPPac0
>>472 別に能力が劣っているとか言ってるわけではないので、
孫ビンに関してそれほど意固地になる必要はないと思いますが?
もし名将とするというなら、参謀百選などの時、
孫ビンは参謀に当てはまらないということですよね?
べつに擁護したわけじゃなかったけど。
ひとりの人格に、いくつもの傑出した才能を有している、というのもあることだし、そう一元的に決め付けないほうがいいと思ったわけ。
であれば当然、統率の才と参謀的な才を持ち合わせた人もいて、そういう人はだいたいまともな戦略眼を持っていたりする。
まぁ自分で宰相だ、と切り捨てつつも、一押しした五代後唐の任圜などはそのタイプ。
名将かつ猛将、あるいは名将かつ名参謀というのでも、別にいいんじゃないの?
>>475 そういうこと言いはじめたら本当にきりがないから、ある程度識別してるんじゃない?
まともに軍事功績で考えれば、管仲が候補にすら入らないのもおかしくなっちゃうし・・・
477 :
岩城:2007/01/19(金) 02:05:51 ID:0AbRmQW50
まぁ、唐の李靖・李勣なんかは「将と相を兼ねる」の最高位みたいなもんだし。
複数の才能が一人の人物に内在しててもいいのでは?
とはいえ、十選入りが可能かどうかとなると別の話だけど。
478 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/19(金) 02:07:41 ID:LF6RxA64O
>>476 じゃあ管仲が入らないのはおかしいんだろ
まあ、この可否はともかく俺も名将かつ猛将なんてのがいても問題ないと思う
実際に両方のことができてるなら、むしろ片方だけ無理に選択するほうが不可解
479 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/19(金) 02:36:47 ID:9Y5dP5ir0
岩城氏と
>>475さん
>>478さんサンクス
>>474 ただ答えを返しただけで別に意固地になって無いけど・・・
>>476 管仲は政治家として垣公に貢献した割合がかなり大きい訳だし、名相として扱うのが普通かな。
管仲は大好きなのだが名将として推薦するには少し疑問があるな。
反対してる人もいるし、別に孫ピンを外してくれてもいいよ。
孫ピンに将としての才があったかどうかはわからんが、無いと断ずるほどの材料はない。
別に「将と相を兼ねる」みたいな人物がいてもいいだろうし、将と参謀の能力を持っていた
としてもおかしくはない。
しかし孫ピンに関しては身体的な問題であろうと、将として従軍したことはない。参謀と
して従軍し、参謀として功績を挙げており将としてのそれはない。
そういう人物を「将としての才もあっただろうから入れろ」というのはどうか?
孫ピンより孫武の方が将として扱われているのにね。
少なくとも孫ピンは、候補に入れるほど将として活躍して
ないでしょ。
>>475 管仲は斉の宰相になってから、軍を率いて戦ったことは一度も無いぞ。
管仲の時代の斉軍の将軍は王子成父だ。
孫ピンといい、どうして軍を率いて戦ったことが無い人物が候補に挙がるのか。
理解に苦しむ。
なあそろそろ次の時代にいこうぜ!!
>>484 落ち着け、中途半端なところで議論を打ち切ったりなんかしたら、
自分の語りたい時代でも同じことをされるぞ。
俺だって自分の好きな時代を語りたくて仕方ないけど我慢しているんだ。
それにしても、もすも無限にスレが立てられるなら、
それぞれの時代ごとにスレを立てて、最後に統合したいよな。
ていうか、クソスレさっさと潰してそうした方がずっと有意義な気がする。
>>1で「近代以降の武将は含めない」とあるのに、
清のリストに近代以降の連中がひしめいてるのはなぜ??
>>481 >孫ピンに将としての才があったかどうかはわからんが、無いと断ずるほどの材料はない。
ライバルで魏の将軍であるホウ涓が孫ピンの才能を妬んで罠にはめたのって才能がある証拠にならないか?
ホウ涓は自分が一番になりたい為に、目の上のこぶである孫ピンを排除しようと画策したんだけど。
>「将としての才もあっただろうから入れろ
立場は参謀だが功績は将として評価出来るのではとは言ったが、俺は入れろとは言ってないぞ。
参謀と踏まえた上で議論してるんだし、孫ピンの場合は事情が複雑なんだよ。
それに前にも書いたけど別に候補から外してくれたらいいよ。
管仲が桓侯を覇者に押し上げたのは明らかに政治家としての手腕だから外すのに異論はないのだが。
488 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/19(金) 22:39:16 ID:gFPKPPac0
どうも、孫ビンや管仲を除外対象といった本人です。
あの時から数日見てないと色々と進んでいますね。
前スレを見ていないので、よくわからないのですが?
趙の武霊王を候補に挙げておいてなんですが、
国君と言いますか、君主も将としてカウントしてしまうんですか?
田中氏の某書の影響ですがどうなんでしょ?
勝手に現在の流れで確定に入れてしまうと
春秋戦国時代の確定組みは8名でしょうか?
楽毅 魏無忌(信陵君) 白起 李牧
王翦 呉起 廉頗 趙奢
【候補】
☆孫武 ☆伍員(子胥) 夫概 ☆士会
趙無恤 王子成父 先軫 楚の荘王(熊侶)
蒙ゴウ 司馬錯 ☆樗里疾 趙の武霊王
呂尚(太公望){神話も時代に含むなら}
☆が付いてる人は、現在推す人が多いってことです。
勝手にまとめてますが、不愉快ならごめんなさい。
>>486 清代は、ほとんど知識が無いのでわかりません。
>>250参照
このスレで言う「近代以降」は「1840年以降」ではなく、
清滅亡(1912)までを指すらしいですが・・・?
1912年以降の武将がいるのでしょうか?
489 :
486:2007/01/19(金) 22:43:25 ID:p98moVzR0
>>488 ああ、「近代以降」ってのはこのスレでは1912以降なのね。
納得しました。
☆樗里疾 推してるのは一人のような。やっぱりコテハン付けた方がいいのか?
>>488 君主だろうが文官だろうが兵を率いて戦って、功績があれば入るでしょ
あえて外すのは田中芳樹の考え方で、それはそれで別にいいが
論理的な理由があるわけではないし唯一の正しい基準というわけでもない
コテよりもトリの方がいいと思うよ
>ライバルで魏の将軍であるホウ涓が孫ピンの才能を妬んで罠にはめたのって才能がある証拠にならないか?
>ホウ涓は自分が一番になりたい為に、目の上のこぶである孫ピンを排除しようと画策したんだけど。
ホウ涓の人物眼がどれほどアテになるかも判断つかないし
ホウ涓を破ることがどの程度凄いコトなのかの客観的に判断出来ない
この辺りがこのスレで一発屋が余り評価されない点であり
一方で例え一発でも相手によっては候補や内定に入る奴が居る理由でもある
493 :
岩城:2007/01/19(金) 23:55:47 ID:h4J/Db040
>>491 コテよりもトリ
トリ? トリってなんや? な状況。実のところ俺ってネット初心者だからそこらへんの
知識ゼロだったりする。個人を特定できて自演とかいわれるのを防ぐ方法があるなら、
ぜひご教授いただきたい。・・・覚えがないのに自演って言われるの、かなり痛いんだよ。
>>492 孫ピンとホウ涓は同じ兵法の学問所での同期。
孫ピンはその学問所でのNO.1で将来を期待されてた。
孫ピンがいた為ホウ涓は常に二番手に甘んじていた。(でもその学問所のレベルを突っ込んでくるんだろうな・・・)
ホウ涓は一応魏では有能な武将なんだけど・・・
孫ピンの鮮やかな戦術で呆気なく倒されたからショボい武将と見られがちだけどね。
孫ピンにこれ以上粘着しないから本当に外してくれたらいいよ。
495 :
岩城:2007/01/20(土) 00:08:44 ID:7EhLnEkG0
ついでに書き込み。
伍子胥と士会を推してるのもあらかたは俺。だから実際には一票扱いだと思う。
まぁ順当にいって孫武と伍子胥が繰り上がるんじゃないかなぁと無責任な予測をしておこう。
実戦経験ゼロってんならともかく、
孫ピンは実質将として軍を率いた(一応大将は田忌だけど)上で勝利してるわけだから、
すくなくとも候補に入る資格はあるのでは?
参謀だから無理ってことならまた「参謀スレ」を立てにゃならなくなって、それだと100人揃えるのが大変だと思うが。
名声や評判を評価にいれるのは他の時代にも色々ごたごた残しそうじゃないか?
あくまで実績重視にすべきだと俺は思う
学校の勉強できても現場じゃどうしようもない奴が現実でも中国史じゃ結構でてくるしな
陳宜中とかどーしようもない屑だし
>>496 あくまで実績重視にしないと、俺の好きな武将100選になってしまうな。
好きな武将を挙げて行くなら、まずは実績を示すべし。
コテもトリも必要とは思わないのだが
そもそも岩城ってなに?
500 :
岩城:2007/01/20(土) 00:48:49 ID:3rKkmY6H0
俺の苗字。名前隠すのは問題あるかなーと思って出した。
>>495 >孫ピンは実質将として軍を率いた
ってどこから?単に身体的な問題だというのなら、それこそわざわざ田忌を名目上の
司令官にもってくる必要もなく孫ピンをそのまま将に任命すればいい。しかし彼が任
じられたのは田忌の参謀。
あと
>>488 趙奢っていつのまに確定に入っていたの?
彼は将としての才能があったのかもしれないが、実際に歴史上では将としては記録を
残していない。
あらなにかおかしなことに。
>501の最後の二行は、「〜田忌の参謀」の後にはいります。
503 :
岩城:2007/01/20(土) 01:04:43 ID:3rKkmY6H0
>>501 でも作戦立案は参謀である孫ピンの役目だろ?
そんでもってちゃんと勝ってるし。
・・・でも将軍に任ぜられなかったってことは将に必須の指揮統率能力において
孫ピンは田忌に及ばなかった、ってことになるんかな? いやしかし入墨者(罪人の証)
を士卒の上に立たせるのが憚られたとも考えられるし・・・なんかわからんくなってきた。
>>494 悪い。擁護しようとしたがおれの腕ではこのへんが限度のようだ。苦手な時代に首突っ込むと怪我するな。
>>503 トリ=トリップ
名前欄に、#のあとにテキトーな文字入れて個人識別する。
ちなみに「#春秋戦国」と入れてみる。
505 :
◆JEhdU3V6hU :2007/01/20(土) 01:09:57 ID:3rKkmY6H0
>>504 おお。なるほど。そんじゃ俺は#岩城でいいわけだ。早速やってみるよ。サンクス。
>>505 いや、バラしたらトリップの意味ないやんw
あくまであなたしか知らない「文字」入れないと、
コテハンと一緒で他人が成りすましできるでしょ。
ネット初心者か……道理であれくらいの煽りで過剰反応して、スレを混乱させた訳だ
本来なら2ch初心者ですら半年間ROMってるのが優良ねらーってもんだが
トリもコテも板の最初のガイドに載ってる
聞く前に自分で調べる。ここは普通の掲示板じゃないので初心者には冷たいのです
ついでにメル欄にsageと入れればスレは上がりません
508 :
◆oOLAqFKRB. :2007/01/20(土) 01:13:52 ID:3rKkmY6H0
そやね。そんじゃ、今後自分しか知らん言葉を使おう。
いやぁ、ええもん教えてもらった。感謝感謝。
>>507 まあいいじゃん。
数少ない(?)中国英雄ファン同士マターリいきましょうや。
>>509 中国史ファンである前にちゃねらーでもあるので、溜息一つぐらいは尽きたくもなるけどな
>>508はここが中英板でよかったな。住人の質によっちゃ叩かれてたろ
次から空気嫁よ
半年ロムってろってギャグだからな?
ちゃんと理解してるよな?
半年ロムはギャグというか煽りの常套句だけど
実際、2ch素人はROMから始めた方がいいのは真理だよ
513 :
◆oOLAqFKRB. :2007/01/20(土) 05:11:03 ID:j4er0kts0
いや、案外ギャグと思えなかったり。
・・・あのときの俺、キレて頭に血が上ってたし。
まぁ相手にも不快感与えたし、スレ全体に嫌な雰囲気残したしで反省はしております。マジで。
ROMから、というのは一応、一年間くらいあっちこっちのスレに首突っ込んで「面白そーやなー」とは思ってたわけですわ。
そしたら「中国」「名将」で検索したらここがヒットして、こりゃ参加せねばなるまいと。
まぁ実際参加したのは後漢からだが、非常に楽しかったわけです。全時代にわたって叩き台出しから議事進行まで自分の裁量で進行できたし。
でもチョーシ乗るとあかんね。今後の戒めとして「今後キレたらスレから永久撤去」という俺ルールで自分を律しようと思っております。
まぁ、言い訳以上。
コテつけてるとまたそれが原因で荒れかねないから
自己主張もほどほどにな
2年ほどにちゃんやってるが、トリのつけかたは知ろうとしなかった。
おもしろそうだからやってみる。
>>503 サンクス
まあ仕方ないよw
W孫子大好きな俺でも上手く説明できてないのに。孫ピンは記録が少ないことだし・・・
俺の知ってるかぎりでは孫ピン、ホウ涓は兵法丸暗記のまぐれ屋では無いとおもうけど・・・
あと、参謀ていうか一応斉の威王に軍師として任命されてるんだけど・・・
(最初、威王は将軍に任命したが孫ピンは自分が無実とはいえ刑余の身であることを理由に辞退している)
競馬で三回中二回勝つ方法を提示、田忌がその才能の凄さに驚き、
威王の前でも同じことをやってみせ、威王もその才能の凄さを認めたんだよ。
(競馬はあくまでも切っ掛けだからな)
あと斉の将軍であり、推挙してくれた田忌の顔を立てたんじゃないか?
孫ピンも田忌にはいろいろ恩義があるし、実力さえ試せれば地位など関係なかったと俺は推理。
さっき終わりにすると言ってまた語ったがこれで最後にするから突っ込みは勘弁なw
作戦立案すればいいなら孫ピン以外の参謀も名将に入れていいのか?
>>516 孫ピンが名将に上がること自体には反対はしないが・・・
>最初、威王は将軍に任命したが孫ピンは自分が無実とはいえ刑余の身であることを理由に辞退している
将軍に任命されたからといって、将軍としての実績がない以上、適正がある証拠にはならない
かつ孫ピン自身の辞退の理由が、そのまま将軍に適さない(将帥としてのカリスマ性などの欠如)ことの証明
>競馬云々の逸話
作戦立案能力の才能があるという裏付けにはなっても、将軍としての才能とは全く関係ない
>>518 訂正
将軍としての才能(誤)→将軍としての統帥面の才能(正)
もうこうなったら田忌の方を推薦した方がいい気がしてきた
有能な部下に支えられるのも将軍の才能の一つだし
田忌+孫ピンあたり、セットで考えた方がしっくり来るケースは、2人で1人分ってのは駄目かね
孫武+伍員あたりもそういうくくりで考えるとか・・・
楽毅
魏無忌(信陵君)
白起
李牧
王翦
呉起
廉頗
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上の7名が確定組
田忌+孫ピン
孫武+伍員
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2名組4名で2人分確定
特例を認めてもらう代わりに、この9名分で
選定終了でもいいかもしれない。
もしくは、残り1名を選定してもよいがね。
特例には反対だな
人数合わなくなるし
楚の荘王(熊侶)を推薦した
>>457だけど廉頗が確定で楚の荘王(熊侶)が落選とは・・・orz
楚の荘王(熊侶)の軍事的功績は凄いものがあると思うぞ。
一応春秋五覇に名を列ねてるし、士会を推薦してる人もいるんだし・・・
信陵君もどうなんだ?って話が出たような・・・
526 :
522:2007/01/20(土) 15:17:54 ID:6Y2VCu6m0
あくまで、推薦してる人間の多さで絞っただけだから、
適切に修正してください。
趙の武霊王も、戦闘に本格的な騎馬を導入して
秦に対抗出来るまで国力を上げたところはなかなかだと思うけど
ドウデスカネ
戦国の方が圧倒的に多いし、春秋から
>>457氏推薦の楚の荘王に一票
あとは戦国の候補入れ替え調整要否の議論してみては?
>>524 荘王時代の楚の軍事功績は、確かに凄いのだが、
全ての戦いで、荘王が陣頭指揮をしていたかが、
不明瞭なのが問題ありかと思う。
荘王自身の功績が明らかなら支持する人も増え
るでしょう。出展があるならご教示ください。
これだけだと、なんなので廉頗についての説明
廉頗
秦を討ち、昔陽を取る。斉を破り、陽晋を陥とす。
これらの功により上卿に任ぜられる。
上卿になった後は、長平の戦いの防戦の後、魏を2
回、燕を3回討っている。
こう書くと割とパッとしない戦歴に見えるが、長
平の戦いで大軍を失った後も(李牧が趙の国防を
背負っていた頃と似たような勢力関係でもある。)
西に秦、東に斉という大国に挟まれた地理関係で、
趙が国を保てたのは、廉頗の存在が大きい。
(廉頗のソースはWebなので、大いに突っ込みを入
れてください)
廉頗って、長平で惨敗した趙を舐めた燕王が大軍を差し向けてくるんだけど、
数倍の戦力を樂乗とコテンパンに破って、逆に燕の本土まで攻め入ってるよね
戦国趙では野戦攻城で最も働いてるし、ほぼ負けなしだけど、ただ当時の有名な
名将とは殆ど戦ってないといったあたりがマイナス要素
レンパさん名将には全く異論なし
伍子胥・孫武
呉王闔閭の代に小国であった呉に仕え、富国強兵を行う。
当時の中国勢力圏の3分の1ほどを占める超大国楚の首都
を奪い、滅亡寸前まで追いつめる。
次の呉王夫差の代に滅亡するまでに、春秋戦国時代におい
て、唯一と言っても過言ではないレベルで呉の名を残すま
での輝かしい功績を残す。
(夫差は国を滅ぼしているのでマイナスが大きい)
楽毅が燕を富国強兵し、斉を滅亡寸前まで追い込んだこと
に匹敵すると思う。
前スレでは、孫武は将じゃないと云う意見が多かったのが、
難点ですか。
魏・燕・斉を滅ぼした王賁がどうしてノミネートされてないんだ?
あと、李信や蒙武といった、
始皇帝の統一戦の名将が王翦以外に、
候補に挙がっていないのが不思議。
魏ゼン、樗里疾の宰相コンビも、十分な実績があると思う。
史書では、将とされているんだけどね。>孫武
ただそのわずかな記録をみても、孫武個人が将としてどう働いたのか、どんな功績を
樹てたのかが不明なのがいたい。
征楚戦については、どこまでが孫武の功績でどこからが伍子胥の功なのかと区分けが
出来ないってのが、この二人を評価するのを難しくしている。
春秋は個人の軍功について記載されている資料が少ない
気がする。だから五覇などの評価が難しい。
五覇以外に司馬穰苴なども候補に挙げるくらいはしてもい
いんだけど、なかなか難しいね。
>>533 ノミネートするのであれば、その理由とともに推薦してください。
個人的には強国で、ほとんど負けしらずの時代の将は、特筆
するだけの功績がないとなあと思います。
この時代で特筆する秦将は、白起と王翦かと思います。
>>535 その理屈だと、商オウの改革前でまだ大国になっていない(小国でもないけど)秦の時代に
五カ国連合軍を撃破して対趙・魏・楚戦で活躍、負け知らずの樗里疾などは確定入り?
>>533 そのあたりは、活躍した諸将の代表としてって面もある。
>>529 楚の荘王(熊侶)について
晋と激突したヒツの戦いはもちろん、戎の討伐、鄭を多数回、宋・陳・蕭・庸・百濮・舒蓼など
数々の戦闘に出陣、策をねったのは荘王自身。
春秋五覇のなかで政治家、軍人として、最も才能を発揮。
「鳴かず飛ばず」の逸話がしめすように、非常に才知に富み、ある意味狡猾でさえある。
荘王については史記・左伝・荀子などを見てくれ。
樗里疾について援護。
樗里疾(チョリシツ)は生来滑稽(円転自在)で、知恵はたくましく、秦人は彼を智嚢(ちえぶくろ)とあだ名した。
B.C.330樗里疾は右更(爵14等)に任じられ、魏の曲沃を討ち、邑民をことごとく追い出し、その地を秦の版図に入れた。
B.C.318樗里疾は秦恵文君の命で、韓・趙・魏・燕・斉の連合軍を迎え撃ち、
これと修魚に戦って、韓将申差を虜にし、趙の公子渇、韓の太子奐を破り、首を斬ること八万二千に及んだ。
B.C.314樗里疾は魏の焦を攻め降し犀首を走らせ、韓の岸門を破り、首級一万を斬った。
B.C.313趙を攻め、趙将荘豹を虜にする。
樗里疾は甘茂を恵文君に推挙し、恵文君は甘茂を将軍に取り立てた。
B.C.312楚が韓を攻めたため、秦恵文君の命で韓を助けて楚を討ち、魏章を輔佐して楚将屈カイを破り、
漢中を取った。その功で封じられ、厳君と号した。
B.C.309秦が初めて丞相を置き、樗里疾は甘茂とともに丞相となり、右丞相に任じられた。
B.C.308樗里疾は韓に出て、韓の宰相となった。このとき戦車100乗を仕立てて周に入国した。
周王赧は護衛兵を出して迎え、
すこぶる敬意を払った。
武王が没すると、昭襄王が立ち、樗里疾はますます尊重された。
B.C.306樗里疾は再び秦の宰相となった。
秦人の諺に「力は任鄙、智は樗里」というのがある。
廉頗は確定でいいんじゃないか。
>>536 樗里疾はもろに商鞅の改革後でしょ?
直後だからまだ効果が出てくる前だっていう意味?
540 :
535:2007/01/20(土) 23:45:42 ID:6Y2VCu6m0
>>536 >>535の下3行は個人的な意見ですから。
樗里疾もそうですが、司馬錯も秦が強国になる
軍事的契機を作ったとも言えますね。
両者共に有力な候補でしょう。
>>537 楚の荘王自身の軍功であるなら、こちらも有力な
候補でしょう。
しかし、この3名を候補として決定することについて
は、他の方の意見を採り入れた方がよいと思います。
>>533 ノミネート理由
王賁 魏・燕・斉・代を滅ぼした。
蒙武 王翦の副将として、楚・越を滅ぼす。
李信 遼東で燕王を捕らえる。王賁の副将として、代、斉を滅ぼす。
魏ゼン 魏の河内を攻略し、六十余城を落とした。
魏将芒卯を破り、魏都大梁を包囲した。
魏を討ち、暴鵞を破って首級四万を斬り、三県を奪った。
白起や胡傷とともに三晋を攻め、魏将芒卯を破り、
首を斬る事十万。魏の巻・蔡陽・長社・趙の観津を取った。
樗里疾は上で言及されてるからいいかな。
途中経過を書いておきます。
確定組(でいいですよね?)
楽毅 白起 李牧 王翦 呉起 廉頗
審査中
樗里疾
司馬錯
楚の荘王
伍子胥
孫武
魏無忌(信陵君)
趙奢
伍子胥・孫武は、その実態が分かりづらい。
魏無忌・趙奢は、対秦戦の勝利とはいえ、
一発屋との見方あり。(趙奢には対斉戦で
の功績もありますけどね)
武霊王は無視ですかそうですか
武霊王自身の軍功を挙げて推薦してくださいな。
武霊王…胡服騎射と中山国を滅ぼしたくらいかね?あと北方に領土を拡げた。
武霊王の初期には趙は秦に負け続けなんだが、これはまだ幼君の頃だしな。
まあ、趙奢よりは有力な候補じゃないかと個人的には思う。
>>537楚の荘王(熊侶)について投下。
楚軍が鄭軍を討ったとき、鄭は陳と共に楚への服従を誓う盟約を交わしたが、
すぐさま晋が鄭へ圧力をかけたため、鄭は楚に背いて晋に屈した。
まさに「日の出には楚へ隷従し、日の入りには晋へ平伏す」
といったどっちつかずの外交策で、両国から怒りを買っていた鄭の裏切りに激怒した荘王は
紀元前597年、大軍をもって鄭都を包囲。
三ヶ月の攻防の末、晋からの援軍も期待できないと万策尽きた鄭伯襄公は降伏した。
楚では降伏してもいつ裏切るかわからない鄭など滅ぼしてしまった方がいいという家臣もいたが、
荘王は鄭の存続を許し、器量のあるところを見せた。
絶纓の会の時、后の着物に悪戯をした蒋雄に対し機転を利かせ不問にした。
それに感激した蒋雄は荘王が秦に囲まれピンチに陥った時、命を張って荘王を助けた。
器量の大きさはプラスαにならないか?
547 :
◆oOLAqFKRB. :2007/01/21(日) 06:45:58 ID:OFEn38vU0
これまで伍子胥を推してたわけだが、
孫武と伍子胥はどっちかに一本化したほうが有利かも分からんね。
俺はエピソード的に伍子胥の肩持ちなんだけど、総じてみると自ら軍事理論を構築し、
実戦でそれを証明して見せた孫武に託したほうがいい気がしてきた。
伍子胥は夫差を諌めすぎて自刎させられてるし、孫武はその辺どうなんやろ? 身を全うしたのかな?
548 :
◆oOLAqFKRB. :2007/01/21(日) 08:05:33 ID:OFEn38vU0
時間空いたけど連投。趙の武霊王に対抗してこの人を。
【秦の繆公】
即位後間もなく、自ら兵を率いて茅津を伐ち、勝った。
賢臣・百里奚と蹇叔を獲る。
某年秋、自ら将として晋を伐ち、河曲で決戦、戦勝。
驪姫の乱を避けて秦を頼った夷吾を保護、百里奚に軍を率いさせ夷吾の入晋を助ける。
夷吾は晋公となった暁には「八城を割いて秦に献上する」と約束したが、
位に就くと約束を反故にし、使者を殺した。丕豹はこの背信に乗じて晋を撃つべしと主張したが、
繆公は「晋君と百姓は心が通じ合っている」としてこの件を不問に付した。ただし心の中で丕豹の言を重用した。
繆公十二年、旱のため食糧を求めた晋に、「夷吾は敵だが晋の百姓に罪はない」として食糧を与えた。
二年後、今度は秦が飢饉となった。これに乗じて晋軍が攻め寄せたが、繆公は丕豹を将として自らも親征し、晋軍を潰走させた。
退却する晋公を僅かな麾下とともに自ら追ったが逆に晋軍に囲まれ、負傷。しかし「三百野人」に助けられて危機を脱し、晋公を捕らえるにいたる。
周室から同姓の晋公を殺さないで欲しいと嘆願され、妻にも頼まれたので処刑は取りやめ、国に帰した。かわりに河西の地を割譲させた。
繆公二十四年、晋の公子重耳を晋君として擁立した。
翌年秋、晋文公とともに周の襄王を助けて出兵、王弟・姫帯を伐ち殺した。
二十八年、晋文公を助けて鄭を囲んだが、「晋が強くなるのは秦の憂いです」というものがあり兵を退いた。
のち百里奚の諌めを無視して百里視、西乞術、白乙兵らを鄭に遠征させたが敗北、
しかしその罪をとがめず、責任は賢臣らの意見を聞かなかった自分にあったとして不問に付し、自らを律した。
戎王の使者・由余が賢明であることを知り、戎王を堕落させるために女楽を送った。
三十六年、百里視らを将として秦を撃たせ、百里視らは雪辱に燃えて勇躍奮戦し、大いに敵を破った。
三十七年、由余の策に従って戎王を伐ち、十二国を併呑し、領土千里を開いて、ついに西戎の覇者となる。
人望が厚く、死後秦人は「黄鳥を歌う」の詩を作って英霊を称え、殉死するもの百七十七人にのぼった。
・・・将軍に任せてることも何度かあるけど、たいていの場合親政して勝ってるので名将といってよいかと。
この段階で候補増やすのもなんだし、審査落ちでもいいけど。
>>547 >孫武は〜身を全うしたのかな?
孫武は空気を読み、平和的に隠遁し、太湖のほとりあたりで静かな余生を送り、
兵法書を纏め上げたのだろうと推測してる専門家もいるけどね!!
俺もそうじゃないかなと思うな。
史記には「呉が、西方の雄、楚を破り、北は斉や晋を脅かし、
天下に名をとどろかせたのは、孫武の働きによるところが大きい」と記されてるし、
事実、江陵にあった楚の都を陥落させてる。
それを考慮して俺も伍子胥より孫武を推すよ。
あの情勢を読む鋭さ、優れた統率力と戦略戦術は侮れないものがあるし。
孫武と伍子胥について補足
楚の荘王が、近隣の小勢力を吸収して確立した
版図を(その勢力から云っても凄い功績ではある)
それまで歴史上で名前すら出てこなかった小国が
滅亡寸前まで追い込んだわけで、楚の荘王より
功績で上回ると思う。
551 :
◆oOLAqFKRB. :2007/01/21(日) 12:26:46 ID:OFEn38vU0
士会についての推薦文、
周室の内乱平定の功労者。呉の荘王に勝利した唯一(じゃなかったわけだが)の将軍でもある。
これだけじゃあまりにも根拠薄弱なので、春秋紀伝引っ張り出して補足。
ただし古い漢語はわからんので訳は適当。台詞とか政事駆け引きの部分は無視してとりあえず戦功だけ書いた。
【士会】
通称范武子。濮城の戦いでは若年ながら帷幄に参与し、晋軍を勝利に導いた。
趙盾が政変を起こして霊公を立てると先蔑とともに秦に亡命、将となりしばしば晋軍を破って、晋人を悩ませた。
秦将賈季とともに西戎を撃って功あり。
晋には士会とまともに戦える将がなく、中行桓子の提案で彼を晋に引き戻す策を講じた。
いろいろあって(このあたり難しくて読めん)帰国するも、趙盾を嫌いこれを患う。
景公元年、楚が鄭を伐つと上軍の将として出陣、鄭を救う。
同三年、再び楚が鄭を犯したときには楚軍を覆滅して鄭を救った。
邲の戦いで晋軍は楚に大敗、さらに七度戦い七回敗れたが、ただ一人士会率いる上軍だけは敗北を知らなかった。
七年、赤狄を撃破。
周室の動乱を平定、周の典礼に倣い晋の国法を定める。
八年、郤克が斉に赴き、笑いものにされて帰ってきた。その怒りは凄まじく、
なにがあろうと斉人を討ち滅ぼさねば気がすまない、という体であったので、士会は自ら上軍の将を降りて郤克に譲った。
その後も晋の重鎮として「晋に范武子在り。才徳諸卿に冠す」と称えられる。
権力に阿らず、人生における進退の潔さを特筆されている。
・・・こんなもんで少しは復権したかなと。
552 :
◆oOLAqFKRB. :2007/01/21(日) 12:53:02 ID:OFEn38vU0
>>551 訂正。前置き文にある呉の荘王に〜は楚の荘王ね。呉の荘王って誰やねん。
で、士会が荘王に大勝ちしたのは景公三年の鄭救出戦のとき。
荘王とは晋国七連敗のときにもぶつかってるんかな? そこまで書いてないからわからん。
孫武は確定でいいんじゃない?
あとは楚の荘王(熊侶)樗里疾、武霊王、王賁、蒙武、
李信、魏ゼン、秦の繆公、士会を推す人がいるし、審議中という感じか?
魏無忌(信陵君)、趙奢は一発屋だという意見も出てる。
俺も魏無忌(信陵君)が名将?と前スレから思ってた、任侠を貫いた人物としては高く評価するが・・・
墨家集団まるまるっと含めるなら墨子もいいんだけどな
墨子は、個人的には軍を率いた将っていう気がしないなあ。
孫武が確定で、残り3名だとして、中では、楚の荘王が一番、有力
だと思う。
それと秦将を推薦してる人は、候補に挙がってる秦将の功績を
格付け(というか順位づけ)してくれないだろうか。
墨子よりは荘王だよなあ・・
557 :
◆oOLAqFKRB. :2007/01/21(日) 16:13:43 ID:EuPDMnAs0
トップは荘王として、二番手あたりで士会、こんかな?
一応荘王に大勝した男だし。
まぁ勝利したっていっても戦略的歴史的にそう大きな意義がある戦いじゃなかったし、
荘王としても楚の国力がダウンしたわけでなし、負けたからって大した瑕でもないわけだが。
それでも一応勝ちは勝ち、っつーことで。敗戦記録を見落としてるのかも知れんがなんとなく生涯無敗っぽいし。
>>557 士会については二番手評価は疑問、推薦してる人が多数いるようには見えないのだが・・・
敗戦は、公子雍を秦から迎えるときに趙盾に負けて亡命してるのがあるかも
士会の場合、正卿で全体の指揮権持った戦闘は赤狄討ったのと周室の乱くらい?
鄭の救援のときは正卿前だから上軍の将の時代で上軍だけの派遣で、
楚の軍もそれに応じた少なさだった=本格的な侵攻ではなかったと思われる
間違いなく名将ではあるのだが、時期に恵まれなかったという気がする
樗里疾の方が領土拡大や撃破した敵の規模の面で士会よりは上じゃない?
商鞅の改革以後、秦が一大強国にのし上がって統一に至る流れを決定付けた意義は大きい
司馬錯も蜀平定その他の功が多いけど、樗里疾で代表させるってことでどうか
>>541 蒙武は王翦の副将だし、王翦確定してるので不要
もし候補に上げるなら親父の蒙ゴウの方がいいんでないのかな(信陵君の連合軍に負けてるけど)
李信は楚を攻めるとき20万で十分と大言吐いた挙句、
項燕に大敗して王翦に尻拭いしてもらってるのが駄目すぎ
始皇帝に最初から20万で攻めろといわれて負けたんなら情状酌量してもよいだろうが・・・
王賁は確かに功績多いのだけど、秦統一の最終局面で楚以外は勝って当たり前の相手
楚の攻略のときに名前が全く挙がらないあたり、親父の王翦にはかなわない
王翦に功績が集中しないように、っていう配慮で任されてた面もある
559 :
◆oOLAqFKRB. :2007/01/21(日) 18:08:15 ID:GwbYllVo0
確かに士会推してるのは俺一人(多分)。
実際士会は領土拡大一切してないしなぁ。
本気の大軍を動員した荘王を完膚なきまで倒したとかあればもうひと踏ん張りできるんだが、
ここは涙を呑んでもらうかな。
>>522 B.C559が晋についた為、荘王が鄭を討つ。晋の士会が鄭を救援、楚軍は 水の北で撃退された。
楚の荘王の唯一最高の宿敵・士会は中国史を代表する天下無双の大軍師。
戦略と戦術に於いて桁外れに天才的なセンスを持ち、政治家としてのバランス感覚も絶妙。
当初こそ趙盾とのイザコザで秦に亡命したモノの、イザ晋に復帰するや、
常に晋の要として大活躍。晋・楚の対決ムードが高まる中、周辺諸国を圧倒したのは勿論、
疾風怒濤の北進を続けていた楚・荘王さえもボッコボコに打ち砕いた程。
(荘王に敗北の味を教えたのは、只一人、後にも先にも士会だけ!)。
郤缺と共に晋を覇者たらしめ、中原の覇者としての毅然とした態度とプライドで
楚の侵攻を抑え込んだ手腕は見事の一語に尽きるだろう。
、軍事・政治・外交に持ち前のバランス感覚を十二分に発揮し続けたのだった。
そして、後世、人々は士会のコトを懐かしみ、慕い、彼のコトをこー評価した。
「晋の歴史上、士会こそが最高の宰相である!」と。
逆に言えば楚の荘王は士会以外に生涯負け無しってことになるな。
561 :
◆oOLAqFKRB. :2007/01/21(日) 18:18:42 ID:GwbYllVo0
おお、士会推してる人俺のほかにもおった。
しかも文体が熱い!! すぐ淡白に諦めた俺とは偉い違いだわ。
562 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/21(日) 18:19:44 ID:3jZN/82mO
あまり熱すぎると周りは引くから注意
スマン
>>552の間違いだ
俺は士会より樗里疾を推すよ。
士会の評価を書いたのは別に擁護したんじゃなく、公平な評価を述べただけだし、
判断はみんなにまかせる。
565 :
◆oOLAqFKRB. :2007/01/21(日) 18:32:12 ID:GwbYllVo0
>>563 と同じく またミヤギタニ信者か と思ってしまった
やっぱりこぴぺかよ
残り枠では、楚の荘王と樗里疾が1歩リードってところかな。
もう1名は、士会・司馬錯ってところ?
個人的には、伍子胥を入れたいけどね。評価が難しいから
仕方がないね。
途中経過ってこんなもんかな?
確定組
楽毅 白起 李牧 王翦 呉起 廉頗
確定への格上げ有力
楚の荘王 樗里疾 孫武
審査中候補
士会 司馬錯 伍子胥 魏無忌(信陵君) 趙奢 趙の武霊王
ノミネートあり
王賁 蒙武 李信 魏ゼン 秦の繆公
あといつのまにか消えたけど孫ピンは結局落選?
なんか時代別にスレ分けしたほうが良くない?
>>569 春秋戦国は、もう少しで結論が出そうなので、
その時点で時代別にスレ分けするかを決めても
いいかも。
571 :
◆oOLAqFKRB. :2007/01/21(日) 20:08:21 ID:GJB0bUMX0
【秦の繆公】
推薦理由は
>>548を。
それまで西戎の一国に過ぎなかった秦を西方の雄に発展させ、
秦が覇道を邁進する原点となった人物。度量も広けりゃ戦も上手い、
一代にして西方十二国を征服し千里に渡る領土を手に入れたというだけでもかなりの武功。この人はほとんど毎戦親征してるし。
せめて趙の武霊王の対抗馬として候補の端にでも昇格させたいものだが、ノミネートで終わるか?
・・・なんか俺、ここんところ標準語と地元言葉がごっちゃになってるな。なんか変な感じだわ。特に問題ないけど。
572 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/21(日) 20:48:33 ID:nUcG41zMQ
韓信と范蠡
573 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/21(日) 20:58:47 ID:gyfAVt37O
士会を推してる人に質問なんだけど春秋紀伝って何?
左氏伝や公羊伝や穀リョウ伝なら知ってるんだけど初めて聞いた資料の名なんで。
決してあげあしをとってるんじゃなくて興味を持っただけなんであしからず。
人数少ないせいか一部の人の意見で決まってしまいそうだね・・
そういう趣旨のスレだから仕方ないか
>>574 他の時代好きな人に迷惑になるから、早めに結論を
出したいけど、そうすると参加出来る人数が少なくの
は自然の理ですからね。
敗北後の処理が上手いってことで宋の目夷とかダメ?
>>1-4 中国、チベット、南モンゴル、東トルキスタンの征服者”毛沢東”を追加して下さい。
>>576 史記世家とか読む限り、名相としてならまだしも、
名将としてはお話にならないかと・・・
具体的な将軍としての業績って記述できます?
>>577 定義から外れてるから毛沢東は既に却下されてるけど・・・
前の方のレス読んだか?
581 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/22(月) 00:46:43 ID:U+5x+ObUO
いつになったら漢代の話題に入るの?
紀元前、紀元後1000年まで、近代までの3つに分けたほうがいいんじゃない
30人 40人 30人ぐらいな感じで
583 :
◆oOLAqFKRB. :2007/01/22(月) 02:42:23 ID:w0A3XmI+0
>>573 春秋紀伝
24史外編っていうシリーズ内のひとつ。ホントは専攻の宋史新編だけ欲しかったんだけど、
分売不可だから30万出して全158巻まとめ買いした。
春秋紀伝は読んで字のごとく、春秋時代の人物を紀伝体で綴ったもの。史記にはない記述やら人物やら載ってるけど
文体がえらい古い漢語なうえ影印本で字が読みづらかったりする。あとなぜか呉の項に孫武が載ってない。
史料価値はまぁ、中の上ぐらい? もっと読みやすかったら評価上がるんやけど。
レスがずいぶん遅れてすいません。8時ごろから寝てました。
584 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/22(月) 06:58:31 ID:0KGaXbt90
気になったけど、
>>538もサイト記事の丸々転載なんじゃ?
>>582 時代ごとの武将数に偏りが無いようにという本スレの趣旨を無視したレスだな。
前スレで時代区分を散々話し合ったのを知らんのか?
>>585 樗里疾を推薦してる人が詳しい功績を示さないから
功績をサイトから流用して貼っただけじゃない?
援護って書いてるし。
素人に質問させてください
白起と王剪ってどっちが名将としての評価高いの?
孫武の功績とその後
孫武は楚の需要拠点である舒と六の二都市を占拠。
慌てた楚は勇猛な武将に精兵を率いさせ反撃に出たが、孫武の作戦は一枚上手で逆に殲滅させる。
孫武が呉に凱旋すると占領地は敵に取り返されるが、孫武が出撃すると楚軍はいつも撤退。
そんなことを数年の間に五回以上も繰り返す。
闔廬七年、預章の戦いで孫武は楚の大軍を完膚なきまで打ち破り、楚の都、郢に迫った。
その為に楚の昭王は都を捨て楚の属国である隋に逃亡、呉軍はついに楚の国都、郢に入城。
その二年後楚が水軍を率いて呉領に侵入、それに対し孫武は水軍を編成、
長江で楚の水軍を大破させ楚軍は壊滅、敗残兵を長江北岸へ敗走させた。
次期君主の夫差の早々と器量を見切り、闔廬や伍子胥の説得を退け引退を申し出た。
それを承諾した闔廬はこれまでの功績に対し孫武に富春の領地を与えた。
それ以後、孫氏一族は代々富春で細々と兵法を教え暮らす。
以上、呉越春秋、左伝、戦国策より抜粋。
どうも
>>488です。
【確定】
楽毅 魏無忌(信陵君) 白起 李牧 王翦
呉起 廉頗 孫武 士会
【候補】
趙奢 ☆伍員(子胥) 夫概 ☆樗里疾
趙無恤 王子成父 先軫 ☆楚の荘王(熊侶)
蒙ゴウ 司馬錯 趙の武霊王 秦の繆公
王賁 蒙武 李信 魏ゼン
魏無忌(信陵君)は、すでに確定です。
自ら率いた兵で秦を2回も敗走させて、その内一回は
候補にも挙がってる蒙ゴウを破っています。
五カ国の兵をまとめるのも大変な統率力だと思いますよ。
孫武と士会を確定に挙げてみました。どうでしょう?
孫武が名将であるということは、比べることは出来ませんが
誰もが認めていることだと思います。
あと士会は推挙されている方の説明通りの功績と、
候補に挙がっている楚の荘王を敗走させています。
白起が指揮してたら信良君は脱糞して敗走してたと思う
信陵君が他の確定組と戦って、勝てる気がしないんだよね。
士会も同様。戦績が少ない。
人にはジャンケンみたいに相性があったりしますからね
実際にどうだったかはわかりませんよ?
白起だって廉頗の長期戦を嫌って謀略で更迭させてますからね。
信陵君が名将じゃないというのなら、信陵君がいようがいまいが
秦は白起で趙や魏を滅ぼしてるはずでしょう?
蒙ゴウは、候補にも挙がらないということですか?
>>593 >信陵君が名将じゃないというのなら、信陵君がいようがいまいが
>秦は白起で趙や魏を滅ぼしてるはずでしょう?
白起がその凄まじい勝ちっぷりのわりに秦の領土を広げられなかったのは、
上に立つ宰相魏ゼン(この人、将軍としては本当に有能なのだが)の無定見によるところが大きい。
長期的な展望に立って、白起をコントロールできる指導者がいたら、
趙も魏もとっくの昔に滅んでいたと思う。
>蒙ゴウは、候補にも挙がらないということですか?
蒙ゴウは名前が挙がっているだけで、議論の対象にはなっていない。
荘王、樗里疾らの有力候補とは一緒に考えないほうがいい。
>>592>>594 士会が外されるとなると、楚の荘王もはずされますよ。
それに、今まで確定に入ってた人を1日や2日で
外してしまうのもどうかと思われます。
白起を対象にしていますが、それは無意味な議論です。
思うのであれば実際に戦わせてみてください。
ifではなく、実際に起こった事象によって選択されるべきです。
蒙ゴウはここの候補に挙がっているんです。
その蒙ゴウに勝ったという事は、ここでの判断は
その候補より優秀ということです。
士会も同様だと思います。
確定組みと比べるのではなく候補の中で比較するべきです。
>>595 つまり周瑜を外すなら曹操は外れ、どちらか一方なら周瑜を優先させる、という事?
>>595 >確定組みと比べるのではなく候補の中で比較するべきです。
確定組と遜色ない人物を選ぶためには、
確定組との比較も重要だと思うが。
あと、あなたは蒙ゴウが候補に挙がっていることに
随分執着しておいでのようだが、
上で述べたとおり、蒙ゴウは名前が挙がっているだけで、
議論の対象にはなっていない。
他の議論の対象になっている候補とは、分けて考えるべき。
>>598 打ち破った敵の強さ、勝利の数、切り開いた(守り抜いた)領土の大きさ、
などなど。
信陵君、士会は上記の点において、
荘王、樗里疾に大きく劣っていると思う。
>>590 孫武は
>>589が孫武の功績をバッチリ挙げて来てますから確定でいいと思います。
なんか揉めてますが俺は楚の荘王に一票入れときます。
601 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/22(月) 22:50:58 ID:tkiMh9I3O
>>583ありがとう、そんなもんがあったんだ初めて知った。
出来れば著者と制作年代も教えてもらえますか。かねがねすいません。
士会はその功績を見れば十分名将なんですが、領土を広げたわけでもなく、彼の軍事行動が時代を変えたわけじゃないのがつらいですね。
それでは春秋戦国時代確定は下記の通りでよいですか?
【確定】
楽毅 楚の荘王 白起 李牧 王翦
呉起 廉頗 孫武 士会 樗里疾
今日のところはこんな感じでまとまってますね。
>>599さんの評価で行けば、魏ゼン 秦の繆公あたりで
異論が出ると思うので数日待ちませんか?
異論が無ければ確定ということで次の時代に進みましょう。
603 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/22(月) 23:03:04 ID:u35ztlRSQ
てか孫武はなんで確定じゃないんだ?
そうとう凄い戦績だと思うが
結局士会入ったんだ。うーん・・
>>605 一応、推薦人は多いよ。
不公平にならないように、推薦人の多い人物で議論したつもりです。
信陵君は以前確定組、士会は現在のところ推薦される方が複数居る。
ですから、今居る人たちの好みだけで決まったのではいけませんからね。
好みだけで言えば、趙の武霊王を入れたいですよw
当時、騎馬といえば戦車が主流だった時代に本格的な騎馬術を
中華にもたらして異民族の脅威をなくし秦に対抗できる
軍事力を趙に持たせた人ですからね。
だからといって、戦績は楽毅や廉頗に比肩するとは言えません。
その点が残念でならない。
>>606 「歴史に与えた影響」でいけばまず外せない存在なんですけどねー>武霊王
個人的には、士会を外すのに一票。決して一発屋というわけでもないのだが。
ただ、じゃあ変わりに誰をと言われると推薦に困る。武霊王は悪くない選択
かも。中山国を滅ぼし西北に領土を拡げたという実績もある。
残り9人は賛成。しかし戦国時代に偏ったな。まあ春秋は史料の問題もあるから
仕方ないのかもしれんが。
とりあえず、春秋戦国時代は
>>602で確定で良いんじゃないかね。
次の時代に移る前に、各時代でスレ立てするかを決めないか?
後代の人は大分、待ちぼうけしている模様だし。
609 :
◆oOLAqFKRB. :2007/01/23(火) 00:05:11 ID:RD0UY7LC0
>>601 春秋紀伝について追記。
清の李鳳雛著。・・・清なんだ、えらく文体が難しいから相当昔の人が書いたもんやと思ってた。
帰ってきたら士会が入選?
推していた身としては嬉しいが推薦人俺一人だと思ってたんでちょっと複雑。
領土拡大してないし歴史を変えた一戦に参加したわけでもないし、そんなに優遇しなくてもいいかな〜とか半分諦めてただけに。
そろそろ次の時代へ移っていいのかな?
まっ、俺は元と明が専攻なんで、
まだまだ議論に加われないわけなんだが・・・
611 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/23(火) 00:13:13 ID:KM4omg4yO
>>608 変にスレを分散させるとややこしくなると思うんだけど
個人的には現状維持でいいと思う
信陵君外れたのかよ、がっかりもいいところだ
5ヶ国の連合軍を率いるなんて相当の名声がなきゃできないことなのに一発屋扱いか
5ヶ国の連合軍を指揮できたのは紛れもなく
当時信陵君に並び立つ将器を持った者がいないとされたからだろうに
信陵君の将器ってのは劉邦のそれと似てる気がしないでもない。
実際に兵を指揮するより、将の将たる指揮に長けていたのでは
ないかと。
616 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/23(火) 00:30:10 ID:ZbyiMUzQQ
韓信、項羽、蒙恬、章邯、項梁、彭越、英布、
617 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/23(火) 01:02:01 ID:OHl5x/oWO
士会を外すなら田単を推す
つうか一回も議論の話題に出てないんだな
折角結論が固まってきたのに、また蒸し返すの?
まぁ、納得いかない人がいるのなら、とことんまで話し合ったほうがいいんだろうけど・・・
こりゃ、マジでスレを分散させたほうがいいかもな。
春秋戦国で異論がある人は、統一秦〜前漢時代が
決まるまでに、意見をまとめておいて、統一秦〜前漢
時代が決定した後に、書き込みすれば良いんじゃない?
結論案が出たばかりなのに、異論のある人の発言を封じるような趣旨の発言はどうかと・・・
>>602から士会のぞいた9人確定で、次候補が順に士会、信陵君、趙の武霊王にしといてはダメか?
>>620 つまり、現状のまま、とことん結論が出るまで話し合えと
言いたいの?
広く意見を訊くなら、それなりの期間をとらないと無理だ
ろうから、
>>619の発言をしてるんだけど。
そいじゃあ、人数少ない時間でなんだけど。
【確定】
楽毅 楚の荘王 白起 李牧 王翦
呉起 廉頗 孫武 樗里疾
士会がとりあえず10番目の候補
ただし、10番目は他の将に入れ替わる可能性あり
春秋戦国で異論がある人は、統一秦〜前漢時代が
決まるまでに、意見をまとめておいて、統一秦〜前漢
時代が決定した後に、書き込みする。
ってところで、統一秦〜前漢時代にバトンタッチで良い
かな?
624 :
478:2007/01/23(火) 02:50:33 ID:e54nKVPx0
私は賛成。
いっそ、田中芳樹の百選で九十九人選出、残り一人は欠番としたみたいに各時代も
九人にして残り一人枠をあけておくというのもいいかも。
…と思ったが、時代によっては10人枠でも足りないなんて意見がでてるし、余計かな。
春秋戦国はかなり長い期間だから春秋からまともに名将を選ぼうとすると
どうしても10人からあふれてしまう
と言ったら決めた枠を今更どうこうと袋叩きにされてしまうかな
>>623 賛同します。
では統一秦〜前漢にいきますか。
個人的には春秋は車引きながらヤァヤァやってる時代だから
他の時代でガチで殺し合いしてるのに比べて劣って見える
>>625 まぁ、今更時代区分議論を蒸し返すつもりは無いけど、
一応参考までに名相スレで使用されている
このスレの時代区分を更に改良した区分法を載せとくね。
春秋(周の東遷〜晋の分裂) BC770年〜BC403年 367年間
戦国・秦・楚(晋の分裂〜前漢の統一) BC403年〜BC202年 201年間
前漢・新(前漢の統一〜後漢の全国統一) BC202年〜36年 238年間
後漢・三国・西晋(後漢の全国統一〜西晋の滅亡) 36年〜316年 280年間
東晋・五胡十六国〜隋(東晋の建国〜隋の滅亡) 317年〜618年 301年間
唐(唐の建国〜唐の滅亡) 618年〜907年 289年間
五代・北宋・遼(唐の滅亡〜南宋の建国) 907年〜1127年 220年間
南宋・金〜元(南宋の建国〜元の北走) 1127年〜1368年 241年間
明(元の北走〜清の入関) 1368年〜1644年 276年間
清(清の入関〜清の滅亡) 1644年〜1912年 268年間
>>625>>628 春秋戦国がせっかく落ち着ついたんだし、
第一、時代区分はみんなで論議して決めたことだしこのままでいいだろ。
>>589で孫武の功績を挙げた者だけど自分が一押しの武将を確定させたいなら、
士会・荘王や樗里疾みたいに功績や推薦理由を具体的に述べたほうがいいと思うぞ。
ほぼ結論が出ようとしてる段階に文句いうのはどうかと思うけどな。
孫武は功績があやふやだったからキッチリと功績を挙げたんだし、その方が議論しやすいだろ?
とことん論議して落選になっても趙奢、伍子胥、孫ピンを推薦した人は文句は言ってないんだし、
みんなも納得するだろ?
どうかなこの意見。
>>628 思いっきり蒸し返してる件について。
だけどなかなかいい区分だと思うw
とりあえず一段落ついたんだし、春秋戦国についての書き込みは
しばらく自粛しようよ。
633 :
◆oOLAqFKRB. :2007/01/23(火) 20:47:47 ID:cFdoig8J0
【名前】趙充国
【推薦理由、というか具体的武功】
1/2
武、昭、宣帝の三代に仕えた西漢王朝随一の将軍にして政治家。若くして羽林に入り、騎射にすぐれて頭角を現した。
沈着にして勇猛。智謀あり、若い頃から将帥の品格と態度を備え、好んで兵法を学び、周辺少数民族の事情に通暁していた。
弐帥将軍李広利の副軍司馬として匈奴征伐に随行するも匈奴の騎兵隊に包囲された。食糧は断たれ馬は疲れ果て、死傷者は莫大。
趙充国は壮士100余人を率いて囲みに突撃、身に二十あまりの傷を受けながら道を開き、この奮戦によって李広利は命を拾った。
昭帝のとき武都の氐賊が反乱を起こすと、趙充国は大将軍護軍都尉とされて出撃し、西祈王を捕らえた。
中郎将、水衝都尉、後将軍を歴職、のち大将軍霍光とともに宣帝を擁立し、功により営平候に封ぜられた。本始年間(前73−前70)、
蒲楼将軍の肩書きを与えられて匈奴征伐に出征、凱旋後再び後将軍、少府。
元康、神爵年間(前65−前58)にかけて、対羌族問題の第一人者として活躍、基本的に『戦わずして勝つ』を至上とし、
示威と慰撫とを使い分けて漢に服属させる策をとった。ところが義渠安国が羌族の指導者30人と兵士1000人を
無駄に殺したので羌族は叛乱、匈奴と手を組んで侮れない大勢力となる。
前61年、匈奴の虚閭権渠単于が10万余の騎兵を率いて南方をふさぐいだがやってきた将軍が趙充国と知ると戦わずして兵を返した。
ようやくにして朝廷は羌人の脅威を認め、これを鎮定するのが急務とされた。宣帝は御史大夫邴吉を遣わして趙充国にに諮った。
『羌族平定の任務には誰を将軍とすべきか?』趙充国はおのれが高齢であることも連続作戦の辛苦も顧みず、
『老臣以上に適任なものは誰一人としておりません』と自薦した。宣帝はまたこうも問うた。『反乱平定にはどれほどの軍隊が必要であろうか?』
趙充国は答える。『百聞は一見にしかず。はるか遠くの軍情を推定するのは非常に難しいものです。私は迅速に金城に赴き、実地の地図を
描いたうえで作戦方案を決定し、その上で主上に上奏しようと思います』
前61年、現地入り。目の前の軍功を追い求めるものではなく、謀によって辺境の長期安寧を求める策を選んだ。叛乱の首魁である先零羌だけを攻撃し、
叛乱に随従させられた罕羌、幵羌ら諸羌の罪は不問とした。慰撫工作のみならず戦術的にも意を用い、常々斥候を放って遠く離れた場所を偵察させ、
行軍の際には下士官と同じように戦闘準備をし、宿営を張るときには自分で陣を張った。自らに勤労を課すことこと謹厳で、士卒を愛護し下士官をいたわった。
このようなので、彼が金城に到着するやたちまち士気は上がり、威望は遠くとどろいた。
634 :
◆oOLAqFKRB. :2007/01/23(火) 20:48:21 ID:cFdoig8J0
2/2
彼と一緒に対羌族戦を任されて出戦したもう一人の将軍、辛武賢はこの戦略に不満を持ち、速決速戦を唱えて出陣、宣帝もこれを許し、
趙充国に彼の部下として働くよう下命した。趙充国は辛武賢の策が危険であることを悟っていたので前後三回にわたって自らの計画を反復説明し、
同時に宣帝の問いにも明快な回答を返した。毎度書を奏し、宣帝はそれらすべてを公卿・大臣たちの間に諮り、議論を交わした。
趙充国を支持する大臣は最初全体の十分の三にすぎなかったが、後には過半数を数え、最終的には百人中八十人の大臣が趙充国の戦略に同意した。
詔書を得た趙充国は先零羌を攻撃、大勝をおさめた。漢軍は羌人が遺棄した馬、牛、羊10万余頭と四千輌の車を手に入れた。趙充国は罕羌、幵羌の
地に兵を進めた。漢軍は軍紀厳明、秋毫も犯さず、命令に背くものは斬ったので、罕羌、幵羌らは漢軍の威徳に感じ、戦わずして帰服した。
趙充国は奏書の中で屯田による十二の利点と戦における追撃がもたらす十二の危険を列挙し、そのうえで屯田策は軍費を省き労役を軽減し、
さらには人民から農業を奪うことなく、また武備を以って『戦わずして勝つ』方策であると強調、 一例としては騎兵を養うことの無駄を挙げ、
騎兵を解除すれば支出をどれほど節約できるかを説いた。彼の屯田策は実際に成果を上げ、
国庫は以前に比べて大いに潤った。
趙充国は屯田策をもって叛羌を威服せしめ、その短い任期において非常に大きな成功を収めた。前六十年時点で漢に降伏したもの三万一千二百人、
黄河あるいは湟水に溺れて死んだもの及び飢餓により餓死したもの五、六千人、斬首されたもの七千六百人、南山に盤踞する叛羌の残党四千人。
この年秋、羌族の若零、离留、且種、児庫らが叛首・先零羌の大豪族、犹非、楊玉らを殺し、残党四千余人を率いて帰順した。ここにいたって
羌族の叛乱は徹底解決を見た。
のち老齢をもって致仕するが、異民族問題が持ち上がるとそのつど召されて機密に参与した。前51年卒。享年86歳。謚は壮侯。
・・・《漢書》趙充国列伝を自分なりに訳して削って書き込んだしろものなんで、間違ってるとこもあるかも。そのときはご容赦を。
635 :
◆oOLAqFKRB. :2007/01/23(火) 20:50:52 ID:cFdoig8J0
>>633 >>634 一応統一秦〜前漢に入ったって事で書き込み。
2つに分けにゃならんとは思わんかった。
まぁ、項羽は俺が挙げんでも誰かが推薦するやろ、っちゅーわけでこの人。
【名前】周亜夫(父)
【時代】前漢
【推薦理由】呉楚七国の乱の時、大尉であった周亜夫は将軍に任命された。
その際何度も反乱軍に攻撃を仕掛けるように景帝に命じたのにも関わらず、反乱軍じは勢い盛んであるが、大儀に背いているため、長くは持たないと見たと判断し、周亜夫は守りの戦略を貫いた。
果たしてそのうちに反乱軍は我慢しきれず、何度も戦いを挑んできたが、
それでも周亜夫が動かず、また奇計で虚を突く戦法をとっ手も、すべて周亜夫に見破られた。
反乱軍が最後に仕方なく撤退したが、この機に乗じて周亜夫は精鋭部隊を率いて追撃し、大勝利を納めた。
文帝は、あの男こそが、真の将軍たる人物だ。」
と、彼を褒め称え、死に際しては皇太子の劉啓(後の景帝)に向かって、
「もし大掛かりな戦争が起こったならば、周亜夫を軍の総帥にして事態を解決せよ。」
と遺言したと言われてるし、実際その通りになった。親の七光りにならないみごとな活躍振りを強く推薦したい。
途中で改行入れてくれ
それとあまり長くても推薦としては却ってマイナスに
なる気がする。適当に要点をまとめてくれ
638 :
◆oOLAqFKRB. :2007/01/23(火) 21:18:49 ID:cFdoig8J0
>>637 すまん。あれもこれも入れんとなぁ、とか思ってたらえらい長くなった。
あれでも相当削ったんだが。
次回から気をつけるんで今回は大目に見てくれると助かる。
やっぱ戦歴の点で厳しいなぁ>周亞夫
もし周亞夫を入れると、似たような王守仁も入れなきゃならなくなる
640 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/23(火) 21:35:05 ID:KM4omg4yO
やっぱり周亜夫は一発屋のイメージが…
>>623 でひとまず確定、次の時代へということでオケ?
いちおう区切りとかは入れとこうぜ。あと次の議論時代の候補者リストとか。
642 :
◆oOLAqFKRB. :2007/01/23(火) 21:40:17 ID:cFdoig8J0
忘れてた。
統一秦〜前漢
【確定組】
韓信
霍去病
衛青
灌嬰
【候補】
項籍(羽)、周文、蒙恬、章邯、項梁、彭越、英布、田横、
周亜夫 、李広、李陵、趙充国、范明友、陳湯、劉邦
とりあえず周亜父と趙充国に一票ずつってことで。
比較のポイント
>>599から
打ち破った敵の強さ、勝利の数、切り開いた(守り抜いた)領土の大きさ、
などなど。
記載例
>>589 >>638 別に責めてる訳じゃない。
台詞的な部分は出来るだけカットすると書きやすくなりそうだね。
644 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/23(火) 21:58:52 ID:wbPilzaYO
なんでスレわけないの?
ここを本スレにして時代区分でわけてスレ立てたほうがいいってのが主流だと思ったんだけど
あんまり長く待たせると議論したい人がスレから離れていってしまうよ
スレ分けの話は、統一秦〜前漢の選考が本格化する前に
話し合って方が良いとは思うけど。
なんか、スルーされてるんだよね。
>>644 今のレス数なら、スレ分けする必要もないんじゃないかな。
むしろ、細分化された各スレが共倒れになることを恐れる。
>>639-640さんより戦歴が厳しい、一発屋との指摘があったので投下。
紀元前159年冬、匈奴の兵3万が上郡に侵入し、また別に3万が雲中郡に侵入した時、
文帝は軍の駐屯地に向かい、将兵の労をねぎらい、また視察した。
その際、劉礼、徐悍の陣は文帝一行を素通りさせたが、
周亜夫の陣は文帝が割り符を見せ周亜夫の許可があるまで
軍中に置いては皇帝の命令でも将軍の許可があるまで従うことが出来ないと拒否、
文帝一行を陣内に入れささなかった。
この視察を通して、文帝は劉礼、徐悍と比べ、軍令が非常に整っていることを評価し、
周亜夫が優秀な軍事的人材であるとことを認めた。
文帝、景帝の時代、何度も北方の匈奴の侵攻を撃退し、文帝から「真将軍」と賞賛され、景帝も周亜夫に丞相の位を授けた。
将軍としての胆力、冷静さは呉漢、岳飛と共に高く評価されています。
こんな感じでどうでしょうか?
周亜夫は決してだだの一発屋ではないですよ。
王守仁が入る入らないは別として王守仁を過小評価し過ぎでは?
自分の知らない、詳しくない時代のことを説明されるのはそれだけで楽しいと
個人的には思っているので、このままでいいと思う。
変に細分化して衰退してもね。時代スレごとで選定基準が微妙に変化していく
可能性もあるし。
649 :
◆oOLAqFKRB. :2007/01/23(火) 23:12:12 ID:cFdoig8J0
煩雑を避けて簡潔にしてみた。
【名前】趙充国
【時代】前漢
【推薦理由】
武、昭、宣帝の三代に仕えた、西漢王朝随一の将軍にして政治家。
ひととなりは沈着にして勇猛。智謀あり、若い頃から将帥の品格と
態度を備え、好んで兵法を学んだ。
天漢2年、副将として匈奴討伐に全身に出征するが逆に囲まれる。
20の創を負いながら李広利を救った。
昭帝のとき武都の氐族を平定、西祈王を擒らえる。
大将軍霍光とともに宣帝を擁立、佐命の勲により営平侯とされる。
本始年間(前73-前70)、匈奴討伐に出征、
大勝して凱旋、ふたたび後将軍となる。
元康、神爵年間(前65−前58)にかけて、西漢王朝における
羌族対策の主要人物として活躍、「戦わずして降す」を根本にすえて
敵の首魁、先零羌のみを撃ち、罕羌、幵羌らは不問として投降させた。
屯田策を上奏、財政を潤沢とする12の方策を奉じる。
短い任期の間についに叛羌を感服せしめた。
前60年時点で漢に降伏したもの3万1200人、黄河或いは湟水に
飲まれて死んだもの五、六千人、斬首されたもの七千六百人、
南山に盤踞する叛羌の残党四千人。
この年秋、羌族の若零、离留、且種、児庫らが叛首・先零羌の
大豪族、犹非、楊玉らを殺し、残党四千余人を率いて帰順、
ここにいたって羌族の叛乱は徹底解決を見た。
老齢により致仕。引退しても国家が往年のように少数民族問題に
直面すると、常に請われて謀に参与した。前51年卒。享年86歳。謚は壮侯。
むやみに兵を動かさず、最小限の用兵で敵を威服させる才覚をもって推薦。
・・・まぁ、一票は一票のままやけど。
とりあえず援護ということで。簡単に紹介。
【名前】 趙充国
【時代】 前漢
【理由】 李広利の失策により城を包囲され窮地に陥ると、
100人余りの決死隊を率いて自らも負傷するが囲みを突破して道を開く。
その後も度々匈奴などを打ち破り武名をとどろかせ、趙充国が軍を率いている
という報告を聞いただけで十万の大軍も進攻をやめて引き上げる程だった。
羌族の巡察をしていた安国の失策により反乱がおきると、70歳を過ぎている
にもかかわらず戦地に赴き反乱を制圧した。
とりあえず、項羽は確定で良いと思うのだけど、どうでしょう?
史記と漢書を再び読み返し中。復習に丁度いいなやっぱり。
>>647 その駐屯の逸話は文帝が誉めたってだけだし、その後一ヶ月先端を開かずにで匈奴6万は撤退してる
文帝を軍紀に従わせて歩かせたりする融通の利かない性格は後年、自身の失脚に起因するし(まあ、軍事とは関係ないけど)
呉楚七国の乱は相手が補給線を無視したり、無策に進軍したりしてしてアホなことしてるので、
周亜夫じゃなくても時間の差はあれ、制圧出来たと俺は思ってる
匈奴撃退の将軍は他の候補組も同じ連中が多いので周亜夫は厳しいと思う
>>651 前々から主張してるひとりだが、俺も項羽は確定に同意
どうしていまのいままで候補に留まってるのか疑問なくらいだったし
メジャーどころには、かえって欠点がクローズアップされてしまう嫌いがあるためからかなぁ。
項羽の将としての武威は、相当なものなのに、戦略的に追い詰められていく過程でマイナス評価されてしまうという感じ?
知名度の低い武将やら将軍やらは、そのマイナスが目立たない、あるいは知られていない、というところか。
655 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/24(水) 00:54:06 ID:nBfhw0zaO
項羽はまあ入れていいと思う
李広と李陵は有名だが活躍は個人的な武勇が主で、全軍は勿論一軍の勝利にもあまり繋がってないので外すべき
あと、これは個人的感想だが田横や英布は名将と言うには小粒過ぎないかな
>>651>>653 俺は逆に項羽がなんで名将なんだと思うけど・・・ パワーとカリスマだけで突っ走る猛将じゃないの?
章邯を降伏させたのは援軍が来なかった所為でもし援軍が来てたら、
勝敗はどうなってたかわからないと思うけど。
斉を攻略するもすぐに彭越に奪い返されてるし、
彭城奪還の際、漢の連合軍56万を3万で打ち破りってるけど、
相手は油断してたし、所詮烏合の衆だろ。
戦略能力は乏しいは、兵站を考えず戦線は延ばすし、人材を使いこなす能力にも欠けてる。
名将と呼ぶには無理があるんじゃないか?
>>656 逆にあれだけインテリジェンスに欠けているくせに、
戦術レベルの優秀さ位である程度何とかなった事がスゴいと思うが
(言い過ぎか?)
>>657 同意
戦略を欠き、兵站を考えず人材を使いこなせずあそこまで勝ち続けたのが
逆に凄い 勝ち続けるのが名将なら項羽は名将でいいんじゃない?
このスレでの将の器量を測る基準は用兵の巧みさや戦術だからね。
戦略性は付加価値的なものと考えたほうがいいんじゃないの?
項羽に戦術力などあるか?
ただ力で押し捲るだけなようなキガス。
章邯を打ち破りった時に背水の陣と同じこと
(項羽の方が先だけどな)やったぐらいしか思い浮かばない・・・
英布、呂布の大型版=項羽
項羽は、傑出した個人的な武勇が、特異なまでに
戦術的勝利にという結果を出した希有な例でしょ。
実際、秦の命脈を絶ち、一時的にとはいえ中国の
覇権を握っている。
(と同然だろとの突っ込みもありそう)
ただ、君主としては、その判断基準が理や利ではな
く、情であったことが欠点で、最後には滅亡している。
個人的には、珍しい例ての名将で良いと思う。
項羽は名将だろう
最後はアレだが、あそこまで勝ち続けたのは凄い
項羽に反対してるのはひとりだけっぽいし
多数決ならもう確定でもいいのでは
IDで見る限り、反対してるのは3名以上いる模様だが。
このスレの定義だと、項羽が名将では無いということの
方がおかしい。
664 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/24(水) 08:57:15 ID:nBfhw0zaO
秦末漢初の候補から、俺は劉邦を推す
秦末の混乱期に軍事的能力で頭角を表し、項羽と並んで楚懐王より秦攻略を命じられるまでになり、
相手の主力が項羽と戦っている隙だったとはいえ、調略なども駆使して秦本国を落としている
対楚戦では項羽を抑えながら別の軍が諸国を下すという戦略の一つの核として項羽と対峙を続け、
かなり危険な時も乗り切って抑え役を果たしている
敗走しても兵を韓信から吸収したりゲリラ活動をしつつ軍を再編成するなど、判断力や行動力は優れている
統一後も多くの戦いを親征して反乱鎮圧をこなしている
彭城や白登の大敗が印象的で、負けてばかりなどとも言われるが、それらを差し引いても充分過ぎる実績じゃないかと思う
戦略や君主としての判断能力は欠けていたとしても、
自ら率いて戦った戦闘はほとんどに勝利しています。
いくら烏合の衆だからといっても、そうそう3万程度の勢力で
50万以上の敵を打ち破るなんて芸当できませんよ。
歴史上、大軍を寡兵で打ち破った例は幾つかありますが、
ほとんど防衛戦であったはずです。それを自ら寡兵で臨んで
大軍を打ち破るという芸当はそうは無いと思われます。
これを一人の部将として考えたのなら、これほど心強いものは無いでしょう?
霍去病だって、兵は飢えてるのに自分は平気で豪華な料理を食べ
同僚の境遇を理解し同情しようともしない。
戦術には天才でも、お坊ちゃん武将です。
李存勗も、戦術の天才と言われているけど、君主としては落第もいいところ。
そうそう二物も三物も天は与えていない… 与えられているのは、劉秀とか李世民とかほんの一握りのひとだけ。
項羽は陣頭指揮によって、戦闘に勝利しまくっているから名将として評価して間違っていないと考える。
667 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/24(水) 09:53:52 ID:IBmLhJRGO
鉅鹿の戦いにおいて秦軍の主力を打ち破ったのはもっと評価されていいと思うんだよね
ただ戦略の面では劉邦(作戦立案したのは張良だけど)に結果的に負けてるのが大きなマイナスかな
項羽の戦い方が力押しだけって、釣りかと思ってしまった
>>668 急にマンガの話になっちゃった、みたいな?w
項羽を散々困らせ、得意のゲリラ戦で影から劉邦をサポートした彭越なんかどうでしようか?
彭越はたえず各地に出没し、漢の遊軍として楚軍を撹乱、撃破し、
梁では楚軍の後方の糧道を断ってますし、
それにより項羽は何度もあと一歩というところで撤退を余儀なくすることに。
項羽は確定入りでいいと思う。
もう何人も言っているが、あれだけ欠点・錯誤・失敗を大量に抱えて、それでも
局地戦の勝利で優勢を何年も保たせたという例は、戦史上滅多にお目にかかれる
ものじゃあない。
「戦術でなく個人的武勇」という意見もあったが、逆に戦術を凌駕する個人的武勇
の凄みを感じるのみ。
君主としてリーダーとして落第というのも同意だが、このスレは名君列伝では
ないしな。
>>664 劉邦はむしろ「リーダーに戦術能力は必ずしも必要とは限らない」の好例かと。
無能だとは思いません。英布討伐など劉備個人の将としての功績もあります。
それでも、時代を代表する将とするには格落ちの感は否めません。
項羽は武勇ばかりじゃなく、それなりの戦術眼と用兵を心得て戦ってるでしょ。
個人の武勇だけで数倍や数十倍の戦力差を覆せるわけでもないし。
鉅鹿や彭城で顕著だけど、相手の急所を迅速に衝き、強襲をかけて突き崩すと
徹底的に戦果を拡大させて甚大な出血を強いる手法を採ってる。
不利な状況での短期決戦では特に秀でた用兵といってもいい。
どちらかというと武勇ばかりにモノをいわせているのは固陵の戦いとか最後の
あがきでなんじゃないかな。
項羽は、なんとなく知的に感じないところが「名」将と思わせないんだろうか?
たしかに屈指の将ではあるんだけど、名将と言われるといまいち納得できない部分がある・・・
確定に入れることに異存はないですが。
逆に項羽は、もの凄い天才で、彼は真に配下の求めることを
理解できず、配下は彼の考えを理解できずに、次第に部下を
失っていったのではないかと想像してみたり。
項羽が名将と言う意見が多数挙がっているので決定には意義はないけど。
俺が敢えて反対意見を述べたのは
項羽が候補止まりになっているのをなぜかと議論もせずに、
確定入りさせようとしてたからだぞ。
同じ確定させるにしてもみんなが納得する形で確定入りさせた方がいいだろ?
俺のこの意見って変か?
>>675 あれ? 逆に、「確定じゃなくて、なぜ候補なのか」、という話で確定要素を話していたんじゃないのかな?
前スレでは、その辺後回しにしたからなぁ。
おれはそれを辛口評価、メジャー叩きと評してはいたが…
677 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/24(水) 22:33:36 ID:nBfhw0zaO
>>671 劉邦についてその意見には文句はないが、英布や彭越、田横あたりが劉邦より軍事面を総合的に見て上とは思わないので、劉邦が落ちるのであれば彼等も軒並み落ちるということだなあ
田横はともかく英布や彭越とは将としての能力は低いと思う>劉邦
英布はどちらかの陣営に引き込み入れれば有利ぐらいかな?
推薦した本人が言うのもなんですが彭越は項羽の行動を散々邪魔をしているよね。
それにより一局集中出来なかったのは事実では?
韓信の働きは桁外れな訳だし。
彭越はともかく英布がそれほど優れていたというのはピンとこないなあ
いや、優秀だったとは思うが、ここで名将と言われるほどだろうか?
誰か俺に凄さを教えて欲しい
681 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/24(水) 23:48:06 ID:NCWSj9l+0
名将というより猛将て感じだな
英布
項梁の軍に加わり、秦を滅亡させるまでの戦いの間に
項羽から九江王に任じられる程の戦功を挙げた。
以下は戦功と関係ない部分で、秦軍数十万人を殺害
したり、一説によれば、項羽の命で、義帝を殺害したとい
う。同時代の梟雄の一人
>項梁の軍に加わり、秦を滅亡させるまでの戦いの間に項羽から九江王に任じられる程の戦功を挙げた。
これだと、英布と同時に王に封じられた他の諸王と何が異なるのかがわからないよな。
例えば、魏豹は魏の二十余城を攻略。申陽は河南郡を平定。司馬卬は河内を平定。呉芮や
共敖もそれぞれの土地を平定し、また項羽に従って函谷関を攻撃している。
684 :
682:2007/01/25(木) 00:43:56 ID:dIy0ZUor0
他の諸王との差違は、
英布は、項羽と共に咸陽まで行軍し、
項羽の配下で唯一王に任じられている。
言うまでもないけど、項羽の論功表彰は、
自らの身を滅ぼすほどにおかしな基準で
あったけど、その項羽が英布の武功は
認めていたということだよね。
まあ、それでも個人的には名将に推薦は
したくない類の人だと思う。
685 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/25(木) 00:54:25 ID:EHeoCAvqO
項羽が認めたのは英布の戦功(能力)というより、汚れ仕事を含め項羽の忠実な将として働いたことに対する報酬と言えないかな?
勿論、無能なら忠実でも使われないだろうが、名将に入れるほどの能力の証拠にはならないでしょう
>>684 魏豹や申陽も咸陽まで従軍してますよ。あと章邯、司馬欣、董翳の降服した秦の三将も。
項羽の配下という立場は、当時の彼らは変わりません。
こうしてみると、項羽によって王に立てられたものは、ほぼ全て項梁や項羽の楚軍に従う
以前に、一勢力のリーダーとして独行していた者といえる(劉邦も含めて)。
単純なエコヒイキという割には、最初から項氏集団に従っていた龍且、鐘離昧、季布という
連中は王にしていない。
まあ言いたいことは、英布は王になった前も後もそれほど優れた功績を挙げた形跡がない、
もしくは見当たらないということです。
687 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/25(木) 01:19:31 ID:EHeoCAvqO
項羽による天下の切り分けは、ちゃんと目的と法則があったよ
旧六国の王族を復活させる一方で、その地に実力で割拠し項羽に従った有力者にも土地を与え、王族の末裔と分割統治させている
(自分以外)巨大な勢力が生まれないようにする措置だったのだろう
後の漢王朝のように反乱を監視するシステムと速やかに乱を鎮圧できる圧倒的軍事力があれば問題ないだろうが、項羽にはそれだけの実力が無かったのであっというまに破綻した
あの封建の問題点はえこひいきではなく項羽の自分に対する過大評価
>>687 要するに項羽のグランドビジョンは時代遅れってこと。
いかにも楚人らしい発想だな。
でもな不公平人事と項一族をえこひいきしてたのは事実だろ?
689 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/25(木) 16:54:50 ID:vK+RSSbVQ
項羽、彭越、章邯一票ずつ
章邯はやはり囚人ばかりの軍隊を駆使して勝ち続けたのは並大抵の将ではなかったと思うから
ではもう項羽は確定入りってことで
統一秦〜前漢
【確定組】
項籍(羽)
韓信
霍去病
衛青
灌嬰
【候補】
周文、蒙恬、章邯、項梁、彭越、英布、田横、
周亜夫 、李広、李陵、趙充国、范明友、陳湯、劉邦
個人的な推薦は章邯、周亜夫、趙充国、范明友、陳湯。
俺も章邯、彭越に一票ずついれとくよ。
章邯は確かに囚人を見事に精鋭に仕立て上げ、周文、田臧、張賀、伍除ら陳勝率いる反乱軍を撃退してるし、
候補に挙がっている項梁をわざと油断させ、夜襲にて見事に撃退してるしな。
援護の要請さえ通っていれば項羽にすんなり降伏しなかっただろうし、
かなりハンデのある状態であれだけ見事な活躍をしたんだから凄いと思うぞ。
韓信には敗れているがそれはまあ仕方ないよな。
彭越も得意のゲリラ活動で項羽の思惑をたびたび打ち砕き、軍の命である兵籠を奪い、
漢軍にそれを提供、その為項羽は何度も劉邦を仕留め損なったんだよな。
彭越の活動も韓信と同様、漢王朝樹立に大きく貢献したんだし、
決して只のオヤジではないんじゃよな。
李広だけ候補にいて程不識がいないのはちょっと哀れ
693 :
◆oOLAqFKRB. :2007/01/25(木) 21:14:56 ID:4EZfoQMx0
この人の推薦者がまだいないようなので自分で書く。
【名前】陳湯
【時代】前漢
【推薦理由】
字は子公、書を好み学問に通達し、文章を作ることに巧みであった。
貧乏で貪欲、郷里では嫌われ者。
長安に行き、富平侯・張勃の推挙で官を得る。
西域に出たいと強く望み、甘延寿の副将として西域に出た。
建昭三年、甘延寿とともに再び出陣、知略をもって
1518人を斬り、145人を生け捕って郅支単于を斬ったが、
独断専行の行為があったとして自ら弾劾した。
元帝はその態度を潔しとして嘉したが、
陳湯に鹵獲物着服の罪があったため
恩賞が与えられることはなく、逆に罪に問われた。
宗正・劉向が弁護したので赦され、黄金百斤を賜り関内候とされる。
射声校尉となるが以前の鹵獲物着服の罪が蒸し返され、投獄された。
太中大夫の谷永の上奏により獄から出され、一兵卒に。
段会宗が烏孫の兵に包囲されたとき、
「援軍は不要、まもなく吉報が届くでしょう」と述べ、実際その通りになった。
従事中郎となり、以後軍事に関わることの一切が陳湯の意見で定められるようになる。
人から代価をもらって上奏文を作るアルバイトをし(その中には簒奪者・王莽もいた)、
また、虚言を奉って衆を惑わした罪が露見して、辺境に送られる。
しかし議郎の耿育が陳湯の無実を上奏し、
「深きをさぐり遠きをきわめて国威を掲げ、国家積年の恥をそそいだ」
功があるとして庇いだて、それにより許されて長安に還った。同地で没す。
没後、王莽が新を建てると、旧恩に報いるため破胡候の爵位を追贈した。
郅支単于を破った天才的用兵家ながら俗欲にもあふれる人間臭さをもって推薦。
【ついでに】
楼蘭王・安帰を斬って楼蘭を平定した傳介子
蘇武に随行して匈奴に拘留されたが、
ようやく故国に帰って後将軍・趙充国の後任となった常恵
しばしば西域に出陣して手柄を立て、
車帥を破り匈奴の日逐王を殺して初代西域都護となった鄭吉
らも候補にしてはどうやろ。
前漢には初期以外名将と呼ぶに足る将軍が少ないようなんで。
694 :
◆oOLAqFKRB. :2007/01/25(木) 21:31:28 ID:4EZfoQMx0
>>693 まちがい。前漢初期以外、というより漢楚争覇時代以降。
李広とか好きやけど当世10選に入るかっていえば難しそうやからね。
【名前】彭越
【時代】前漢
【推薦理由】秦末期の戦乱の中で大盗賊として活躍。劉邦の幕下に入ってからは後方撹乱などに戦功を挙げた。
劉邦が秦の首都・咸陽へ向けて進軍する途中で魏の領内にある昌邑を攻め、彭越はこれに協力して昌邑を攻め落とした。
劉邦が項羽と対立するようになった時、
彭越は梁で暴れ周り、都市をいくつも落とした。
斉王田栄が背き使者を送って彭越を将軍に任じ済陰より南下させ楚を撃たせた。
討伐に来た蕭公角率いる楚軍を彭越は大いに撃ち破った。
漢王の三年彭越は常にあちこちと任来し漢の遊軍となり楚を撃ち、
梁の地において楚軍の背後の糧道を断ち切った。
その為に項羽軍には食糧不足が続き、主敵であるはずの劉邦へ全戦力を向けることができず、
結果何度となく劉邦の窮地を救うことになった。
漢王の四年、漢王と項羽がケイヨウで対峙した際に彭越はスイ陽、外黄など十七城邑を攻め落とす。
漢王の五年、彭越はまたも昌邑一帯の20余城を降し、10余万斛の兵籠を入手、これを漢王に供給。
垓下の戦いに参戦楚を打ち破った。
確かに名将に関しては
>>694さんの言う通りだと思います。
それは国が動乱から平和へと推移していったので仕方ないことでしょうね。
統一秦〜前漢を謳っているんだったら、少なくとも蒙恬、李信、王賁あたりは入れてもいいんじゃねえ?
【名前】王賁
【時代】秦
【推薦理由】
魏、燕、斉攻略の総司令を務める
特に魏の大梁攻略戦では大規模な水攻めを行い、大梁を壊滅させて一気に魏を滅亡させている
国力差とかでケチつきそうだが、それでも軍事的功績では親父に匹敵していると言っても過言じゃない
【名前】蒙恬
【時代】秦
【推薦理由】
30万の大軍を率いて、匈奴からオルドスを奪回、万里の長城を建設させ、漠北の遊牧世界と
中華帝国との間に画期的な防衛線、境界線を築く(その是非はともかくとして)
でも、本業は明らかに文官だよなあ(実家は軍人一家だが)、最初の頃は対楚戦で負けてるのが
マイナスだな
【名前】李信
【時代】秦
【推薦理由】
上記2名とほぼ同じ、秦の統一事業に大きく貢献した点を評価して
対燕戦では、寡兵で燕軍を攻め、太子丹を捕虜にしている
でも、この人の場合は、代々の子孫が有名だわな
功績が分散されがちだが、英布や田横あたりよりは上に来ても良いと思う
>>696 時代の区切り的に秦の統一後にほとんど事績がない王賁と李信は対象外では?
もし実績ご存知でしたらご教示ください
あと王賁の実績は優秀だけど親父が前時代で確定してるからやや押しが弱い・・・
李信は対楚戦での失態が蒙恬以上にマイナスなので苦しい
蒙恬も30万の大軍を率いて、匈奴からオルドスを奪回、万里の長城を建設させた、
斉の討伐と匈奴の押さえ役ぐらいしか功績が思い浮かばないけどな。
凄いと言えば凄いけど・・・
699 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/26(金) 12:50:22 ID:2qZgLV6hO
流れが止まってきたしもうこの時代は
韓信
衛青
霍去病
灌嬰
蒙恬
項羽
周亜夫
李広
陳湯
趙充国
の十人で確定ってことにして、次の後漢の選定に入らないか?
>>699 蒙恬と李広に異議あり
劉邦にチェンジ汁
701 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/26(金) 14:26:01 ID:mgfN0Wf2Q
俺もその二人チェンジ
章邯と彭越推し
周亜夫も異議ありな人いるし
章邯推してる人結構いるし
李信はヘタレだからいらね
>>701-702に同意
統一後の蒙恬の功績は匈奴からオルドスを奪回、万里の長城を建設させたぐらいだし、
李広、范明友、陳湯ら匈奴討伐、遠征組は趙充国に比べるとかなり見劣りな感じがする。
名将の定義。
1敵にしたくない。
2上司にしたい。
3部下にしたい。
「一発屋である=実力が疑問」というのはおかしい。
大事なのは政権の首脳が司令官に与えた軍隊への政治的要求を、どの程度達成させたかということ。
周亜夫を外して迷子や単なる騎兵隊長を入れるのは理解不能。
項羽が確定に入る前は、灌嬰も項羽と比較してどうかと
いう話があったな。
この時代は傑出した存在はいるけど、その数が少ないよう
な気がする。
>>705 一発屋である事じゃなくて
斃した相手が無能であることが外される理由になってるようだが?
708 :
◆oOLAqFKRB. :2007/01/26(金) 17:38:54 ID:lsVncBUw0
>>704 <李広、范明友、陳湯ら匈奴討伐、遠征組は趙充国に比べるとかなり見劣りな感じがする。
に対して陳湯を弁護。
陳湯は郅支単于を斬っただけと違って段会宗が自ら囲みを解いて勝利することを予見、
先見の明によって元帝期の軍事行動の全権を任されるに到ったわけやし、
それで(軍事的には)ヘマこいたこともない。
単純に現場で戦った李広・范明友ほかとは戦略眼のレベルで格が違う。
やや見劣りするとはいえ趙充国にそれほど水をあけられてるとは思わんのやが、どうか?
まぁ巨星・傑物といえるかどうかで言うとそれは無理やなと思うが、
>>705の提唱する名将の条件のうち
敵にしたくない
部下にしたい
は満たしてると思う。上司にこんな奴おったらたまらんけど。
>>705 その条件、2と3は曖昧な条件すぎないか?
上司は有能すぎる部下を嫌うし、部下は厳しすぎる上司を嫌うものだけど、これは名将の条件と一部重なる
処世術や人心掌握術なんかで回避できるけどそれは+αの部分でもあると思うし
>>708 陳湯をそこまで弁護するなら俺はこれ以上は反対せえへんよ。
ちょっと厳しすぎたか堪忍してやw
ちなみに章邯、彭越の評価はどないですか?
711 :
◆oOLAqFKRB. :2007/01/26(金) 18:24:08 ID:lsVncBUw0
>>710章邯、彭越の評価(ただしあくまで個人的意見ね)
章邯はもし援軍が速攻でやってきたら項羽に勝ってしまったかも知れん将才の持ち主だけに
個人的には高評価。まぁ降伏せずに最後まで戦って散ったらもっとかっこよかったんやけど。
彭越はみんなが言うとおりゲリラ戦の天才やないかと。とにかく項羽の後方をかきまわして
全力を振るえんようにチクチク刺すやり口はやり手のイジメ(?)に匹敵する。
城もかなりの数落としとるし、明らかに英布より上やと思う。
終わりを全うすればなお良しやったんやけど、まぁ功臣粛清は多かれ少なかれどの王朝でもあるけんね。
ちゅーわけで、蒙恬、李広よりこの二人のほうが十選にはふさわしいかと。李広は個人的には好きなんやが。
このスレは定期的に俺ルールが発動するなぁ
713 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/26(金) 19:13:19 ID:mgfN0Wf2Q
彭越は確定でいいと思うんだが
・上司にしたい
が名将の条件ならカクキョヘイは落選だね。
715 :
696:2007/01/26(金) 19:39:55 ID:LY1QBMf80
>>697 いや、王賁らが斉を滅ぼして秦の天下統一が成ったわけだから、統一秦最大の軍事的功労者に
なるんじゃないの
>>696の三名は
開国の功臣が入らないのは、おかしくねえ?
(統一後の軍事行動が伴わないという理由で却下されたら、王朝初期の将軍が落ちるぞ)
少なくとも、王賁の戦績は韓信や項羽に劣るとは言え、周亜夫あたりには匹敵するものだと思うけどね
しかし、周亜夫を外そうとする理由もよく分からんな
相手が自滅とか平気で言ってるようだけど(前スレあたりの話だが)
実際の戦場では相手の内部情報や具体的な敵情を判断する方法はほとんどないよ
(間者や斥候といった「目」「耳」を出しても、敵情の全容を解明するのは困難だもの)
それを的確に状況判断して、最良の行動を選択した点でかなりの名将だと思うんだが
一発屋を擁護させてもらえれば、彼らのような人物さえあらわれない時代においては
靖康の変みたいな状況や、あるいは永楽帝による簒奪が平気で行われてしまうんだろうけど
それでも、彼らを評価できないのかなあ
一発で終わらせた、という評価もできる場合があると思う。
この時代の候補者で一発屋って誰のこと?
一発屋であることを理由に候補から外そうとしてる住人
いるかい?
>>717 周亜夫は一発屋なんだって
理由は相手がヘタレだからだってさ・・・orz
周亜夫の一発屋は
>>640のイメージ発言くらいじゃないか。
イメージを覆すだけの戦功を挙げればよいではないっすか。
連投スマン
匈奴相手の戦功は評価が低いようだが、騎馬民族相手に
農耕民族が平原や草原などの、騎馬民族の得意とする地
形で勝利を挙げるというのは、割と凄いことですよ。
上司にも部下にも出来ないなら敵にするしかない。
その意味で去病は最悪。対遊牧民族で活躍出来るのは並みの指揮官より一段上のように思う。
また、出自の劣等感からか部下にも上司にも人気が無かったようだが、
個人的に衛青は1〜3のすべてを満たしている。
他の連中も対匈奴戦のエキスパートという意見も出てる
周亜夫に否定的なのは一発屋だからじゃなくて
そういう諸々の理由でしょ?
なんか被害妄想じゃね?
白頭山の戦い以来続く外患「匈奴問題」は武帝期に衛霍の二人が活躍してある程度納得し得る状況を作った。
一方、呉楚七国の乱はやはり高祖の時代から続く内憂「諸侯王問題」が解決された重要な戦争。
劉氏に政権をくれてやったのが韓信なら、それを磐石にしたのは周亜夫。
724 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/26(金) 21:07:53 ID:Le3dm7lhO
秦を占領し漢の基礎を築いた→劉邦
各国を討ち漢を統一に導いた→韓信
反乱諸侯を討ち漢を安定した統一政権に脱皮させた→周亜夫
最強の外敵を討った→衛青・霍去病
それは歴史的な重要度であって武将としてどーのって話ではなかろう
>>719−720
うーん、李広利のような「圧倒的国力差」でゴリ押しして西域遠征を成功させるという力技が
存在するからなあ、というのは冗談
国力的には、河西回廊を漢が獲得した時点で、もう匈奴側の劣勢確定でしょ
そういう意味で、以降の対匈奴戦争は意味合いがかなり異なってくるものだと思っているんだが
漢を圧倒する巨大帝国の座から転落し始めた匈奴を漠北へ駆逐する戦争
残念ながら、その程度なら李牧や蒙恬、古くは武霊王が達成しているわけだし
(逆に言うと、衛青、霍去病の化け物っぷりが際立つわけだが
彼らと同じレベルは、唐初の対突厥戦争か徐達の北伐ぐらいになるから)
727 :
719:2007/01/26(金) 21:31:56 ID:BDe4c61U0
>>726 >>720は、周亜夫に対する援護の意図ではない。
李広、范明友、陳湯あたりの匈奴討伐組の評価が低い感じが
見受けられるので、書いているだけ。
まあ確かに国力の(彼我の)差があるという点もあるが、李広と衛青・霍去病とでは
やはり差が生じるよなあ。蒙恬は軍事的功績というよりは官僚としての働きが大きい
ような。
>715
統一の功績を称えるのなら、どう考えても王翦は越えられないでしょ。
【名前】鄭吉
【時代】前漢
【推薦理由】車師を破って西域南道を征服し、匈奴の日逐王を降伏させた。
後に西域北道を征服し、初代西域都護に任命された。
>>715 統一の功績だと春秋戦国に回されるんじゃないの?
>>729 鄭吉は初めて西域都護に任ぜられたって事で結構有名だけど
あんまり具体的な事跡がよく分かんないんだよね
>>731 漢書の原文を読んで書いたんだが、
功績はこれだけしか載ってなかった。
伝もめちゃくちゃ短かった。
実績不足かなあ?
基本的に西域は軍事的には貧弱だかんね
大変なのは遠いこと
>>730に同意。自分もそう思います。
あと劉邦を推してる人がいますが劉邦は大して勝った試しがないのでは?
意地の悪い言い方をすれば逃げ上手なだけでは?
秦攻略は張良の策略に因るものが殆どで劉邦はそれに従っただけでは?
(採用するしないの判断力も将才には入りますが)
漢統一後の謀反は地方の反乱に過ぎないから
大した功績ではないという意見が以前に出てますし。
>>732 自分も昔、初代西域都護はどんな凄い奴なんだろうと漢書を調べてみたら
あまりにも素っ気ない記述で驚いたことある
さすがに百選にいれるのは厳しいかもね
東トルキスタンの地域って、漢・唐(これはごく短い期間)・清代の
3度しか中国の支配下に置かれてないよな。
これって凄いことじゃないのか。
737 :
715:2007/01/26(金) 22:14:26 ID:LY1QBMf80
>>730 実はスレ区分上、紀元前221年が両方にまたがっていたりする
「統一」秦の解釈次第だな
統一秦〜前漢に加えれば、まず章邯と蒙恬より確実に上に来る将軍だ
章邯は隋の張須陀と被ってるな、二人揃って候補どまりは不憫すぎる
どっちか入れてやりてえが
韓信
衛青
霍去病
灌嬰
項羽
周亜夫
陳湯
趙充国
個人的には、これに王賁と章邯で十傑、多分無理だろう
>>734 俺は劉邦を推している
一度でも敗走したら名将と呼べないというなら別だが、
劉邦は敖倉を巡って項羽と対峙し続け、命さえ危険になるギリギリまで粘っている
打ち破られてもゲリラ的行動や速やかな再編成で戦場に戻り、相手が項羽でなければ楚軍(曹咎など)を圧倒している
また、負け続けといっても劉邦は中原への進出を食い止められているだけであり、項羽は劉邦の侵攻があるからこそ韓信に手が回らなかったのだから、劉邦自身が項羽にとってかなり脅威だったのは間違いない
項羽の方が上というのは分かるが、負けているからといって能力が無いとは限らない
また沛公から頭角を表し秦を征服するまでの実績は否定しようがないと思うのだが
張良の策、レキ食其の策…とか言い出したらキリがないよ
実質的に決定権が劉邦にあったのなら、劉邦の功績でしょう
晩年の反乱鎮圧は確かに国力の差もあるだろうが、長期化させることなく平定した手腕は認めてもいいんじゃないか?
結局、劉邦より明らかに軍事的功績のある人物がいないんだよ
敢えて言うなら韓信と項羽だけ
>>737 王賁でも李信でも、統一後にもなにか目覚しい功績があるのならいいんですけどね。
少なくとも、>696で出たのは統一前の功績のみ。だったら統一前の人物として、比較
の対象は王翦や白起になります。この二人もしくは他の春秋戦国の確定組の名将達
と比べて差し替えられるほどの功績・将才があったと言えますか?
>>739 やっぱ、そういう認識になるわな
魏・燕・斉を攻略した彼の軍事手腕、まさしく韓信がそれに趙・西楚覇王撃破加えた戦績を残すまで
春秋戦国期においては、親父王翦に次ぐ領土獲得者と言って何ら問題がないものだ
まあ、春秋戦国を再度議論するときに推薦することにするわ
>>738 一度でも敗走したらって劉邦は何度敗走してるんだよ
負けの多さにもかかわらず命を落とさなかった点はある意味凄いけど
秦を征服するまでに章邯に破られてるし
裏切った雍歯から豊邑を攻め取れなかった
細かいところを見ていけば城邑を攻め取れなかったり敵に敗れてから
兵を集めなおして再度攻撃ってのを何度も繰り返している
それはそれで戦略としてはいいけど、秦が一度負けると瓦解して元に戻せない状態になっているから
効果があったわけで対等の条件ではないし
兵を率いた時の能力を考えれば名将とは思わない
数々の名臣の作戦戦略戦術を一まとめにして全て劉邦の功にするという
やり方は乱暴すぎて、もしそれが通るなら一々何も語る気にはならんな
劉邦ねえ・・・
名将というイメージはないが、
確かに同時代の連中の中では戦に勝ってるんだよなあ。
>>471 >数々の名臣の作戦戦略戦術を一まとめにして全て劉邦の功にするというやり方
については誤解と言っておく
言葉が足りない俺が悪かったが
献策した臣下や派遣された将の功績を全て主に帰するつもりはないよ
ただ、韓信のように独立して行動していたのは別にして、献策を取捨選択したり使う将を選んだりした主を無視は出来ないと言ってる
具体的には劉邦が秦を落とす時の策は、張良やレキ食其にとっての功績であると同時に実行して結果を出した劉邦にとっても立派な功績であり能力の証だということ
劉邦の用兵力を考えれば、名将の水準に達してないだろ。
745 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/27(土) 00:55:44 ID:Da4NyyxXO
>>743 でもそれって、用兵の才、劉邦個人の将才じゃあないよね。
部下の意見を聞いた、という点については函谷関の閉鎖など明らかな失敗もある。
これは個人的なイメージにすぎないのだが、劉邦は「AかBか?」でAの方が優れている
と思うからこちらを採用という決断を下したというよりは、「Aが優れていると思われる
のでこちらを採用すべきです」と言われて「じゃあそうしよう」と決断したように思える。
あくまで、私個人がそういう印象を抱いているというだけですが。
「時代区分ごとに”必ず”10人選ばなければならない」
という前提に問題がある。
高祖の単独の指揮で↓の連中と勝負になるか?
韓信、衛青、霍去病、項羽、周亜夫、陳湯、趙充国
ならない。よって失格。
決して「名将じゃない」とは思わない。
けど兵法を極めてるタイプでもないので除外するのが妥当だと思う。
あと灌嬰は猛者だとは思うが名将としては微妙。。。
関張とか秦尉遅のような系統は除外したほうがスッキリする。
項羽だけがその系統でも規格外なのでケチはつけない。
>>747 灌嬰は文句無く名将でしょう。
灌嬰の戦績は凄いんだし、決して只の猛者ではない。
連投スマン
彭越についての推薦文
史記には魏豹と共に卑しい身分の出身であったが千里の地を席巻し南面し、
弧と称し敵を殺し勝に乗じて名声は日ごと高まったとある。
韓信にやや劣るものの漢に対する貢献度では負けてはいないはず。
後方での撹乱行動は項羽にとってイジメどころか寧ろ嫌がらせに近いと思うな。
750 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/27(土) 05:13:22 ID:davQkqlCQ
てか彭越が入らないのおかしい
後戦国時代に活躍した武将は入れるべきじゃないと思う
>>738 >打ち破られてもゲリラ的行動や速やかな再編成
ゲリラ的行動は主は彭越だろ?
軍の再編成って韓信から無理矢理兵を奪っているだけじゃ?
再編成の評価は寧ろ韓信に対してするべきだろ?
>項羽は劉邦の侵攻があるからこそ
彭越の活動が大きくないか?
劉邦もピンチを救われてるんだし。
>>747 項羽が関羽や張飛、尉遅恭と同じ系統の猛将?
史記のどこを読めばそう判断できるのか教えてほしいな
とても上記の連中に、項羽と同じだけ城を落としたり、大規模な野戦で大軍を指揮している
姿が想像できない、さすがにイメージ先行だろその評価
彭越の場合、旧魏国内での活躍がほとんど(戦略的に重要地域だが)
単純なゲリラ戦術というわけでもないし(斉の田兄弟も似たようなことしている)
功績は大きいが、真正面から韓信、項羽あたりと戦ったら(戦わないわけだが)間違いなく負けるな
逆に、攻城戦の経験が殆どない衛青、霍去病あたりには相性が良いだろうな
(特に兵站を平気で無視する霍去病なんかには)
劉邦も同じことが言えると思う
>後戦国時代に活躍した武将は入れるべきじゃないと思う
唐突すぎてちょっと意味不明なんだが
>>754 後戦国時代って、統一秦後の楚漢戦争を指しているんじゃね?
んで、前戦国時代が、統一秦前の一般的に言われる戦国時代。
たぶん、「あと、戦国時代に活躍した・・・」
といいたかったんだと思うが。
じゃあ白起や李牧や楽殻はアウトか。
757 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/27(土) 12:53:44 ID:davQkqlCQ
そうそう
後、戦国・・・
誤解した
>>754には申し訳ないけど、俺は「戦国時代は対象外」なんて意見が
意味不明で訊いたんだけど、やはりそういうことなんだな
どちらにしても理解できないことにはかわりないんだが、何で説明するなり
自論を提示するなりせんのだろう
>>758 本人じゃあないがおそらく
「後(=もう一つ)、今の話題である”統一秦・前漢”の時代に戦国時代(秦の統一前)にのみ
活躍がある人はいれるべきではないと思う」
こんな意味だったのではないかと。
王賁・李信・蒙恬の話題に対するレスと思われます。
>>759 王賁や李信はともかく、統一後の活躍も目立つ蒙恬はこっちでも良いとは思うがね
紛らわしいがこの候補の中で誰が最強?
漏れは李衛公だと思うが。
764 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/27(土) 17:31:34 ID:0JwtOrU7O
なんでですか?
それを決めれば微妙な候補を落としやすくなるはずですけど。
>>765 一位が決まったからって、百位前後の比較に役にたつと思うか?
>>765 たとえば、李靖を最有能将帥として、どういう基準でそれと他とを比較する?
時代や背景が変われば、最強なんて変動するから、こうやって各時代ごとの有能将帥を挙げていっているわけだ。
そこのところをよく理解したほうがいい。
>>768 漢書の鄭吉伝を読んでみたんだけど、
むちゃくちゃ短くて具体的な戦功とか、統治した年数とか、
全然書いてないんだよね。
西域を支配した功績は大きいけど、
候補に挙げるには、事跡が少なすぎるかな。
現在の状況。
統一秦〜前漢
【確定組】
韓信、項羽(籍)、霍去病、衛青、灌嬰 、趙充国、陳湯
【候補】 章邯、彭越
【論争中】
蒙恬、周亜夫 、劉邦、鄭吉
趙充国、陳湯は異論が無ければ確定でいいのでは?
章邯、彭越は推す人が多いので有力候補としました。
蒙恬、周亜夫、劉邦は意見が割れている様なので論争中とさせていただきます。
鄭吉は事跡が分かりにくいということでこれも論争中とさせていただきます。
諸兄こんな感じでどうでしょうか?
よろしいと思います。
蒙恬がオルドス征服で候補に挙げられているので、じゃあ秦のもう一つの外征、
嶺南遠征の司令官はどうなんだと調べてみたらロクな記録がないのな。
今まで反対意見は出て無いし、推す人も多数いるんだから、
章邯、彭越は確定でいいんじゃないの。
范明友が、候補に挙げられるだけで具体的な功績の紹介もなく>770でもハブられているので
ちと調べてみた。といってもググってみるだけだが。
昭帝の時代(前87−前74年)、烏桓は次第に強勢となり、匈奴単于の墓を暴いて冒頓への恨みを報いた。
匈奴は激怒し、東に走って烏桓を撃破した。大将軍の霍光がこれを聞き、度遼将軍の范明友を派遣し、
二万騎を率いて遼東外境の匈奴に出撃したが、匈奴はすでに退去していた。明友は烏桓の新たな敗戦に
乗じて、遂にこれに進擊し、斬首六千余級、三王の首を獲って帰還した。烏桓は再び幽州に侵攻したが、
すぐに明友がこれを撃ち破った。
前73 宣帝、范明友・韓増・趙充国らに匈奴を撃たせる。
…他に見当たらない。あるいは宣帝期の対匈奴戦争にも従軍していたのかもしれないが。
他に功績がないのなら、候補落ちでもいいかと思った。
章邯は無いんじゃないか?
項羽に敗れるまでは確かに名将、
群雄をある程度淘汰した点は隋末の張須陀とかに似ているかもしれないが…
終わりが良くない所為だろうか
彭越は確定でもかまわない
劉邦は「将の将」の体現者として一応推す
>>774 >項羽に敗れるまでは確かに名将
確かに破れてはいるけど章邯がいくら有能でも、
援軍が見込めないあの状況では項羽相手に勝つのはまず無理じゃないか?
俺は兵卒の命を救う為に項羽に降ったのは将として立派だと思うけど。
(章邯の考えとは違う結果になったが)
韓信にも破れてるが相手が相手だけになぁ・・・
劉邦は「将の将」の件は朱元璋の時、揉めに揉めた記憶が・・・
「将の将」は別にしても、
沛公になってから劉邦は転戦に転戦を重ねて兵を増やし、項梁や項羽と共に章邯や三川守李由を破り、楚懐王の下で短期間で項羽に続く地位を得ている
武関から秦を攻める別動隊の将となったのも、彼の「長者」という評判だけでなく、劉邦なら出来ると思われたからに違いない(そして期待を裏切らなかった)
項羽との戦いの中でも、項羽には苦戦や敗走を重ねてるが、神出鬼没の動きで項羽を翻弄したり、項羽が去ると守将を破ったりと、かなり嫌らしい
目の覚めるような奇計や猛烈な勢いこそないし敗北も少なくないが、本人の軍事的な能力も高く評価していいと思うんだがねえ
朱元璋の時もそうだったが、誰も「無能だから落せ」とは言っていないと思うのだが。
778 :
◆oOLAqFKRB. :2007/01/28(日) 20:21:08 ID:d9rsfr9x0
あぁ、朱元璋論争のとき意固地になって朱元璋を確定に残そうとしたの俺やが。
朱元璋の軍事的才能は朱棣に劣らんゆーてね。今となっては恥ずかしい思い出。
当時はまだ標準語モードやったけど、今は博多弁バリバリ。
なんで変わったんやろ。一遍キレたけんかな?
さておき、鄭吉についてちょいと調べてみた。
会稽の人。はじめ兵卒として従軍し、しばしば西域に出て郎となる。
宣帝のとき侍郎となって渠黎に屯田し、西域諸国の兵を徴発して車師国を破った。
功により衛司馬とされ、鄯善国以西の南道諸道を管領した。
前60年、匈奴の日逐王が単于に背いて漢に降ろうとしたので、
西域の兵5万を率いてこれを漢土に迎えた。
車師国討伐、日逐王護送その他の功により鄭吉の名は西域を震わす。
都護騎都尉とされ南北二道を併領し、また安遠候に封ぜられた。
西域諸国の中心である烏塁城に幕府を立てて諸国を鎮護し、漢の威徳を遠西まで広めた。
初代西域都護。着任後11年にして現地で没。
・・・出典はアジア歴史事典。しかしこれだけやと事跡、戦功あんまりわからんな。ま、参考までに。
劉邦の彭城における大敗は、油断以前に大軍を適切に配置する
ことさえ出来なかった。また、匈奴の冒頓単于に包囲されて、
やはり大敗しているし、戦術指揮官として名将に推すには欠点
が大きすぎると思う。
鄭吉は西域都護を11年間勤め上げた時点で、個人的には1票を
投じたい。理由は
>>768と
>>778から。
章邯が後盾も無く囚人ばかりの軍隊で連戦連勝したのは凄い
一度として万全の体制で戦いに臨めた事は無いからなぁ
韓信に負けたのもそもそも項羽の人心を読まない配置が最大の理由だと思うし
悲劇の名将として一票
>>776 ここはあくまでも名将スレだし
劉邦は良将ではあるかもしれないが、名将じゃない
事績が具体的じゃないんだったら、鄭吉は推薦できないだろ
むしろ、霍去病による棚ボタ的な河西回廊の獲得によって、匈奴の西方防備が崩壊したことを
考慮すると、西域経営の功績の多くはやはり霍去病に起因するものと言っていいでしょ
全盛期の匈奴を破るのと、斜陽の匈奴の庇護から乖離しつつあるオアシス諸都市の征服を
同列で評価はできないなあ
劉邦を推したい気持ち、分からなくもないが、やっぱ無理じゃねえ?
でも、彭越も特殊な功績だ、能力・戦績そのものは劉邦と大差ないだろうし
彭越推してた人たちに二人の優劣をどこで判断したか教えてほしいな
>>780 「万卒は得易く一将は得がたし」はかなり疑問のある格言だね
実際にはよく訓練された兵卒を多数抱えることが勝利への近道だ
そういう意味で、章邯は率いてきた兵卒の大部分を項羽に坑殺されたわけで
その後、封ぜられた三秦の人民からは逆恨みを買うなんておまけつきで
こんな状態で戦力が温存されていた劉邦の精兵と戦えなんて、氏ねと言ってるようなもんだ
項羽が自害したのも同じ理由でしょ
捲土重来を果たすには、あまりにも幕僚や兵卒を失いすぎた
軍略を知り尽くしていて、矜持を抱いていた項羽だからこそ、挫折したと言えなくもない
彭越の推薦理由がゲリラ戦術で項籍を苦しめたからなら、斉の田栄・田横兄弟なんてどうよ。
彭越と異なる点は、彼が項籍の軍は徹底的に避けたのに対して田栄・田横は項籍本軍相手に
ゲリラ戦で苦しめたこと。
書によっては田栄が彭越を梁に派遣してゲリラをやらせたともあるし。
785 :
779:2007/01/28(日) 21:37:25 ID:TtaB2GFN0
>>782 霍去病や衛青の匈奴戦の功績から西域都護の設置までは
50年前後空いてます。
それとこの二人は前漢が西域経営に乗り出す前に逝去してる
と思いますが。
また、私が鄭吉を評価しているのは、オアシス諸都市の征服で
はなく、複数の騎馬民族の交通の要所であり、係争地である
異国を、それらの民族と対抗して統治してきたことです。
>>782 劉邦が選に漏れるのはまあ仕方ないかもしれないけど、彭越よりは劉邦の方が将として総合的には上だと思うので、彭越が入るのはちと疑問
上:項羽、股夫
中:高祖、黥布、彭越
下:陳余、張耳、韓王信、魏王豹ほか
この「上」のランクに灌嬰が入るなら曹参も入ると思うが如何か?
>>787 曹参の具体的な戦功をあげてくれ。
あと、曹参が韓信の副将だったことを忘れてはならない。
>>784 >彭越の推薦理由がゲリラ戦術で
じゃあその田横が候補に名が挙がっているのに誰も推薦しないのはなぜだ?
同じゲリラ活動でも項羽の思惑を悉く打ち砕き、行動を制止させた点、
劉邦に対する貢献度、共に、彭越が果した役割りは大きくないか?
それに田横の本拠地である斉の城を落としているしな。
劉邦の場合は個人の器量だけでなくブレーンの策略、弁舌を駆使し戦績を挙げているよな。
彭越は全ての己の器量で戦績を挙げているんだぜ。
(しかも寡兵で)
それと田栄、田横の斉攻略以外の功績を挙げてみてくれ。
田栄はあっさり殺されてないか
田横は人物としては素晴らしいけど
軍事的に大きな戦果を挙げてないと思う
名将の副将は名将ではないのだろうか?
まあそこが一番入選に厳しい点だと私も思う。
だが、論功行賞で諸将が灌嬰でも簫何でもなく曹参を首位に推した、という点に注目したい。
股夫はその時点で既に別格の存在だった。(信者が多杉)
戦時ならそのまま前線指揮官の曹参が首相になったはず。
灌嬰が入って曹参が落ちるのでは樊噲、周勃、柴武らが納得しないかと思う。
>787
S 項羽 韓信
A 灌嬰 彭越 章邯
B 曹参 項梁 周文
C 劉邦 黥布
D その他
簡単に分けるとこんなもんじゃないかな
>>785 じゃあ、名将でなくていいじゃん
(前涼の張軌や前秦の呂光ですら選外漏れなのに)
周亜夫を十傑に推したい
彼が呉楚七国の乱で勝利を収めることができたのは、相手のミスに乗じ続けたことが挙げられる
逆に漢軍の方は、ミスを犯さないようにひたすら防勢に徹していたわけだが
ここで、皇族の梁軍をおとりにし続けた根性が凄い、かなりイイ性格している
(実質、この戦略を採用したことにより、呉楚の補給線は野放図に拡大・長期化することになった)
そして、呉楚の攻勢が限界点に達しても、ひたすら防勢+補給線分断
相手が苦し紛れの決戦を挑んできて、無難に撃破
勝つべくして勝った戦だが、これだけ堅実で失敗を犯さないで戦えたのは、偏に周亜夫自身の
将器の賜物と言っていいと思う
呉楚七国20万+匈奴+南越 VS 漢軍(推定30万以上かな?)
漢軍の動員兵力が不明なんだが、三輔地域メインでの動員だから、そこまで多くはないでしょう
天下分け目の合戦を制している手腕はもっと評価してほしい
794 :
785:2007/01/28(日) 23:44:28 ID:TtaB2GFN0
>>793 鄭吉が明らかに平和でない異国に武力駐留して、11
年間に渡って、統治してきたのは将としての功績でしょ
うよ。
それとも、匈奴、烏桓などの領域外の騎馬民族と政
治的な駆け引きで平和的に西域を保った、非常に優
れた文官であったとでも?
それに、前涼や前秦については、未だ決定の作業に
入っていませんよ。この後に推薦者が出てきても不思
議ではありませんね。
>>789 彭越も、劉邦という不撓不屈のサンドバッグいてこその後方攪乱戦なんだが
独立勢力でやってたら、それこそ田斉のごとく項羽に制圧されておしまいだった可能性大
田栄、田横は論功行賞漏れから、一気に全斉をゲリラ的に奪取しているから、凄いと言えば凄いんだよな
逆に彭越は魏一国すら単独で切り取れなかったとも言えるわけで、評価に困るよ
(そもそも領土拡大が主目的じゃないから仕方がないと言えば仕方がない)
戦略的には非常に大きな役割を果たしているし、地の利のある彭越でなければできない仕事だったけれど
796 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/29(月) 01:08:26 ID:3C48d4S+O
>>792 曹参と劉邦は逆だろ
鄭吉だが、既に大宛や楼欄を征服、進出しており、匈奴も弱体化の一途をたどっている時代
しかも西域の兵は数も装備も漢より劣っていた
これらの点も考慮すべきだと思う
魏で独立なんかしたら真っ先に東西列強に挟み討ちになると思うけど…
もう周亜夫は確定でいいと思う。793のいう通り、勝つべき戦いには勝つのは
凄みを感じる。戦略で勝つのも名将。
ただ、自分的には、後は難しいというのが本音。(強いてあげれば、章邯だけど)
どれも、春秋戦国の十人には見劣りがするんだよね。
それと後に予定している時代の名将と肩を並べるのも難しい気がする
五胡や隋唐の時とかかなり違う。
ここは八人(七人)で終わらせ、他の時代の人物を増やすか、
(隋唐は300年以上あるので少し譲っていいと思う)
新の時代の武将を候補にいれるかしたらよいのじゃないかな。
新の荘尤や光武帝配下をのぞく群雄を候補にすれば、なんとかバランスとれそう
799 :
◆oOLAqFKRB. :2007/01/29(月) 01:39:55 ID:iqawi9oV0
>>788曹参の具体的武勲。
【名前】曹参
【時代】前漢
【功績】
沛の人。劉邦決起当初からそれに従う。
将として胡陵・方与を撃ち、秦の泗水の軍を攻めて大いに破った。
東に進んで薛を降し、泗水軍守の軍を薛の城郭西部で撃ち、
ふたたび胡陵を攻め取り、方与を守った。方与が叛いて魏につくとこれを撃つ。
秦の司馬尼の軍を碭で打ち破り、碭・狐父および祁を獲った。
また下邑以西、虞にいたるまでを攻め、秦将章邯の車騎を撃破、
その他諸々の戦いで先陣の功があった。
ふたたび章邯を破り、陣を陥れてこれを追い濮陽に至り、定陶を攻め、臨済をとる。
劉邦に従って東郡の都尉を攻め、これを城武の南で打ち破り、
秦将王離の軍を成陽で撃ち、王離と再戦して再び大敗させた。
敗走する秦軍を追撃して開封にいたり、秦将趙賁を破る。
西のかた秦将楊熊の軍を打ち破り、秦の司馬および御史一人ずつを捕獲した。
再び趙賁を破り、南陽の郡守・齮と戦って陣を落とし、宛を取って齮を生け捕る。
秦の郡を藍田で攻め、夜襲をかけて秦軍を大破させる。
三秦を平定、咸陽を落として新城と名を改める。三秦の将・章平を撃破。
項羽と劉方が袂を分かつと章邯・竜且・項他らをたてつづけに撃破、
碭・蕭・彭城を取る。劉邦の将軍として項羽を撃つが大敗した。
しかし潰滅することなく、外黄の王武、燕の程処が叛くと急行して悉く平定した。
高祖二年、劉邦の別将として韓信の下につき出陣、魏の五十二城を落とす。その他戦功赫々。
竜且と上仮密で戦い、これを大敗させ、竜且を斬って斉を平定、70余県を得る。
項羽死後、天下が平定されると右丞相から斉の相国に任ぜられる。
英布が叛くと車兵騎兵十二万余を率いて劉邦の軍と合流、英布を破る。
生涯に二百二十二間を降し、
王二人、相三人、将軍六人、卿・司馬候・御史それぞれ一人を捕らえた。
蕭何死後丞相の位を継ぐ。蕭何の定めた法を曲げず、
無為無策とも呼ばれたが天下はよく治まった。・・・まぁ、特に推すわけでもないけど。
800 :
◆oOLAqFKRB. :2007/01/29(月) 01:45:53 ID:iqawi9oV0
>>799 訂正。下のほうの“生涯に二百二十二間”は生涯に二百二十二城、の間違い。
801 :
◆oOLAqFKRB. :2007/01/29(月) 02:07:56 ID:iqawi9oV0
悪いけども連投。今度は灌嬰の武勲。
二千石のものを擒らえること二人、
城を降すこと四十六、国を平定すること一、郡は二、県は五十二、
将軍を擒らえること二人、柱国・相国各一人、二千石以上のもの十人。
数字だけ見ると曹参の方が上やね、明らかに。
まぁ作戦活動の困難さとかいろいろ条件があるけんが、数字だけでは計れんわけやが。
>>798 時代の長さと名将の数は必ずしも一致しないから、長いから多くて良いっていうのには賛成しにくい
ただ時代ごとに十人挙げるのは偏らないようにする為というのもあるが、決定作業の都合でもある
取り合えず百人選び終わったら調整はしなくちゃならないでしょうね
(そうしないと話題が無くなるしw)
>>799 いや、当方も特に推す訳でもないが、
灌嬰が入るなら曹参も入れるのが当然。
しかし秦末漢初では韓信、項羽の二人以外は全部格落ち。
結局灌嬰曹参ともに入れないのが百選の純度を高めるだろう。
余った枠は他の時代にくれてやるのがいいかと。
個人的に章邯は良い線いってると思うけど、項羽にも韓信にも負けている。
「迷ったら除外」というスタンスでやる分には入選は無理。惜しいところだが良将止まりだ。
>>803 >灌嬰が入るなら曹参も入れるのが当然。
灌嬰は戦績だけでノミネートされてる訳ではないのを忘れていないか?
>しかし秦末漢初では韓信、項羽の二人以外は全部格落ち。
韓信、項羽の化け物二人と比較するのは厳し杉じゃないか?
他の時代の武将で韓信、項羽に勝てる奴なんて何人いるんだよ。
章邯は項羽にも韓信にも負けているがあの悪条件で良く戦ったと思うけどな。
805 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/29(月) 12:50:47 ID:3SFy6HSnO
灌嬰や曹参も入るとなると、樊會とか周勃も候補になるんじゃない?
>801
灌嬰の武勲の詳細を簡単に付け加える
楚の本拠である彭城を降し、垓下から逃げた項羽を追跡して斬っている
さらに長江を渡って呉・豫章・会稽郡を平定している
後に匈奴とも戦っている
807 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/29(月) 18:30:35 ID:o6Jf9g770
353 :名無しさん@お腹いっぱい。 :sage :2006/12/03(日) 09:16:31 ID:g5gmsaEl0
灌嬰
楚の本拠の彭城を降伏させ、亥下で敗れた項羽を追跡して斬っている
他戦功多数
369 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/12/03(日) 23:21:11 (p)ID:K3j/CdUKO(3)
368 :名無しさん@お腹いっぱい。 :sage :2006/12/03(日) 23:00:49 (p)ID:z0cozBnwO(2)
横山「項羽と劉邦」と「史記」しか読んだことないけど、灌嬰入るのなら曹参、周勃とか入るんじゃないかな〜と思ったんだけど、だめ?
>>368 灌嬰は別格
秦以来の騎兵隊を任され、項羽追撃などの大役を務めた
実力、功績とも随一だろう
>匈奴とも戦っている。
灌嬰は匈奴と戦い、打ち破っていますし、統一後の謀反討伐にも参加、見事な功績を残しています。
灌嬰が入るなら、劉邦の子飼いの中では最大の軍功を
挙げたと評価された曹参が入っても良いだろう。
このスレの基準は戦功が第一なのだからな。
>>809 戦功第一なら劉邦が先に入る罠
潅嬰も確定と言うには微妙だと思うが、曹参は無いわ
一見記録される実績は多くても、劉邦や韓信の節度を受けたものだし、騎兵を率いて中核となるとか項羽を斬るとかの特筆するような実績には欠ける
>>810 灌嬰は郎中の騎兵を率い 陽の東で楚の騎兵を撃破、
別部隊、別将として項冠、南燕の西で魯で王武、王武の別将桓嬰を白馬の城下で打ち破っている。
更に韓信が斉王となった後、楚将某を魯の北で打ち破る。
項声、薛公、 公を打ち破って傅陽などを平定。 呉・予章・会稽の三郡を平定。
匈奴の騎兵を武泉で燕・趙・斉・梁・楚の車騎をあわせこれを率いて匈奴の騎兵をサ石で撃破。
B.C177辺境の吏騎85000で匈奴を討ち退却させている。
車騎将軍として燕王臧荼を韓王信を代にて討っている。
こんな感じですが特筆に欠けますか?
813 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/29(月) 22:46:15 ID:3C48d4S+O
>>812 あわてんぼさんめ
俺が特筆すべき功がないと言ったのは曹参だよ
潅嬰は君の言うとおり
漢の将から韓信以外に一人選ぶなら彼だろう
曹参に特筆すべき功がないと言ってもなあ。
当時の関係者達の評価をさしおいて、潅嬰の戦功の方が
上というのも、どんだけ傲慢な話なんだ。
>>814 当時の関係者の評価も功績の分析もしないで愚痴るだけの方が傲mry
>>814 手柄を多く立てたからといって内容も考察せず、
いくら定義とはいえ戦績の数だけで名将扱いしようとするのは理解不能。
灌嬰が韓心や項羽はもちろん、白起や郭去病や李靖や徐達やらと同列に並べられると思うとニヤリとなる。
つらつら読み返すにID:3C48d4S+Oも十分に傲m(Ry
これから煽りモードをお楽しみください。
r'丁´ ̄ ̄ ̄ ̄`7¬‐,-、 /
r'| | | |/ >、 /
! | | | |レ'´/| | 待 て
| | | /\ | |l /⊂う |
| | |__∠∠ヽ_\ | リ / j ヽ あ わ て る な
|´ ̄ O  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄`! 〉
l'"´ ̄ ̄ヾ'"´ ̄ ̄`ヾ::幵ー{ / こ れ は 孔 明 の 罠 だ
⊥,,,,,_、 ___,,,,,ヾ| l::::::| |
lヾ´ f}`7 ヘ´fj ̄フ | l::i'⌒i |
>>819 l ,.ゝ‐イ `‐=ニ、i | l´ ( } ヽ
l { U | l 、_ノ ∠ヘ
l / ̄ ''ヽ、 | l ヽ_ \,_________
! ハ´ ̄ ̄ ̄`ト、 |亅〃/\
,人 f ´ ̄ ̄ ̄``ヾ j ,!// {_っ )、
// `ト、__iiiii______,レ'‐'// _,/ /スァ-、
,.イl{ { 々 !/´しllllト、 ̄`ヽ、 // /´,.-、 /彑ゝ-{スァ-、
,.イ彑l l > ゞ く l 〃 l|ハ.lヽ、 ハVゝヽ二ノ/ゝ-{、彑ゝ-{、彑ァ-、
,.イ彑ゝ-'l l ( (,) レシ′ !l `ソァ'´ _ノ7{、彑ゝ-{、彑ゝ-{、彑{
ュゝ-{、彑l l ` -イヘ !l // /⌒ヽヾ/_ゝ-{、彑ゝ-{、彑ゝ-{、
{、彑ゝ-'l l f⌒Yハ ', !l/ / ヽ_う ノ /-{、彑ゝ-{、彑ゝ-{、彑ゝ
彑ゝ-{、彑l l{ に!小 ヽ /!l / ,/ /彑ゝ-{、彑ゝ-{、彑ゝ-{、
821 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/30(火) 02:13:36 ID:caJWhNhE0
iloveme
曹参と潅嬰のどちらか?
個人的には、どちらかに絞ることなく両者を挙げてもいいと思います。それだけの
功績があるのなら。
光武帝劉秀配下から、太祖趙匡胤配下から、洪武帝朱元章配下からそれぞれ数人
づつあげられてますしね。
ただ>814、生前の評判や地位勲功は参考にはなっても比較には使えないと思います。
論功行賞というものには、実際の功績以外のプラスアルファが常に付き纏いますから。
例えば、南宋初期に張俊・韓世忠が枢密使、岳飛が枢密副使に任じられてますが、これ
をもって韓世忠の将才・功績は岳飛より上だとは言えないでしょう。
統一前は曹参、統一後は灌嬰でどうだろう
灌嬰は韓信が斉王になった後、別行動を取り
車騎将軍として内乱鎮圧や匈奴討伐に駆け回る
文帝の代まで活躍、丞相になり没する
曹参は韓信が垓下向かった後、斉を保持、そのまま次の斉王劉肥の宰相になる
陳豨や黥布を討つが灌嬰より動きは少ない
恵帝の代、丞相になり没する
>>823 曹参をエントリーさせるのは別に構わないよ、
只、推すつもりは無いだけ。
曹参、灌嬰は同じようなレベルだと俺も思う
この時代は韓信が凄すぎるから小粒に見えるのもしかたない
韓信
項羽
霍去病
衛青
趙充国
陳湯
周亜父
章邯
彭越
灌嬰or曹参
といった感じかな
上九人まで確定しちゃっていいなら、残り一枠はおいといて
次の時代へ行くという手もあるが
>>826 灌嬰はともかく曹参はないだろ。
つ 灌嬰は元々確定してたんだし無理に外す意味が分からない。
残り一枠を曹参or彭越で残すというのはどうだろう。
829 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/30(火) 20:46:30 ID:+h3ybGLZO
もういい加減次の時代の議論に入ったほうがいいのでは?
後漢以降の時代について語りたい人達が待ちくたびれてると思うよ
じゃあまとめると
韓信、項羽、霍去病、衛青、趙充国、陳湯、周亜父、章邯、灌嬰
の九人が確定、
残り一枠が劉邦、曹参、彭越、鄭吉といったところだろうか
統一秦〜前漢をいったん纏めるなら、
>>619、
>>623で言われていた春秋戦国の異議申し立てタイムに入る?
でも、春秋戦国に続いて統一秦前漢も一枠の議論の余地を残しているのだから、
いちいち前代に戻ることもないのでは?
この調子で時代を進めて行って、清が終わったらまた戻るでいいんじゃないでしょうか?
outカンエイ
inリュウホウ、テイキツ
でお願い致します。
元々確定と仰りますが、たいした審査も無く確定にされたのが不思議なレベルでございます。
>>834 いいんじゃないでしょうか。
どの時代も同じ様な事態が予想されると思いますし、
取り敢えず次の時代に移るのも悪くないかと。
諸兄いかかでしょうか?
837 :
◆oOLAqFKRB. :2007/01/30(火) 22:04:34 ID:ruL/ZO9Q0
後漢入るならとりあえずこれ貼っとくわ。
【新・後漢】
劉秀
耿エン
馮異
岑彭
呉漢
廉范
班超
張奐
虞[言羽]
賈復または馬援
以上十名、確定なし、暫定。
劉秀から呉漢までは確定でもいい気もするけど雲台28将から引っ張りすぎな気もするけんが、
とりあえず事跡・戦功を挙げた上で決めようやってことで。
あと、結局曹操・周瑜の曹丕簒奪前組はどっち扱いにするんかな?
こっちに引っ張ると廉范とか張奐あたりは一気に落選しそうやけど。
・・・とりあえず来てみたけど、きついんでやっぱ寝ますわ。皆さんあとはよろしく。
灌嬰と曹参が本当はどちらが上かは分からないが、灌嬰はまだ当時、年が若く武将として
とりたてられるのが遅かったため、統一時の戦功が曹参が上になった可能性がある。
自分なら、どちらを選べといわれたら、北へ南へ各地で勝利を重ね、先見の明で呂氏排除を
行い(名将の条件からは外れるが、的確な判断もプラス要素にはなる)
大軍を率いて、匈奴に引き返させた灌嬰を選ぶ。(無様な指揮ならば、匈奴に破られ、国力に
甚大な被害を与えた可能性もある。戦わずして一応の目的は果たしたということでプラス材料にはなる)
まあ、後漢に入るなら別にいいけど
>>836 今のうちに後腐れなく前漢時代は確定しておいたほうが良いように思う。
でないと、また議論してもグダグダを繰り返すだけになる。
後漢の政策課題のひとつに羌族の叛乱が挙げられる
これは前漢における対匈奴戦争並みに、国家財政を圧迫しているが
その間に多くの将帥を輩出している
というわけで、推薦
【名前】馬賢
【時代】後漢(安帝〜順帝期)
【理由】
護羌校尉、弘農太守として141年に戦死するまでの間、先零羌の叛乱平定を皮切りに
20年以上にわたって三輔地域から涼州にかけての諸羌の叛乱を討伐し続けた
(皇甫規、張奐、段ケイよりも戦績は凄いと思う)
主な戦績
三輔、益州を領有し趙魏に国境を接していた、零昌(シ眞零の子)率いる先零羌の別種を
任尚の指揮下で大いに破り、三輔、益州を快復する
馬賢派遣前に、羌族鎮圧に任じられていたケ隲、任尚率いる官軍は先零羌に手も足も出ず
河東、河内まで侵入を許してしまう体たらくであったが
馬賢派遣以降は一挙に反撃に転じ、先零羌を遂には瓦解に追い込んでいる
またその任期中に、隴西、安定、北地、上など、諸郡を諸羌から快復している
まあ、戦死がマイナスか
>>839 後腐れがなくなるまで相当長期間gdgdな議論をすると思われますがよろしいですか?
馬援と賈復を推薦します。推薦理由は以前に俺が
>>444に示しています。
賈復は「猛将」の側面が強く、この際はほかのそうでない人に譲るのが良いと考えます。
馬援は… 入れるべき人だわなぁ… 死神呉漢と交替する?
そうでないと、光武帝陣営で終わってしまう。まぁそれだけ名将が麾下にいたということではあるけども。
分かりました。賈復は他に譲ります。
個人的には馬援をかなり推したいので、馬援は是非残してほしいです。
先祖の汚名を晴らそうと遮二無二に光武帝の元で活躍した点と、
人物を見抜く優れた識別眼を高く評価したい。
845 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/31(水) 12:23:43 ID:KUkdqQ3LO
思いきって光武帝を外してみるのはどうでしょうか?
確かに昆陽の一戦等でみられるように光武帝は優れた将ではありますけど
全国統一の過程における功績は配下の将達の貢献が大きいと思うし
呉漢や馮異等を選出しておけば敢えて光武帝自身をランクインさせる必要も無いかなと
>>845 その案、いいかもしれませんね。
仰る通り、劉秀自身も有能な将なのですが、雲台28将を
上手く使いこなした、名君として扱い、あえて外してみる提示案を
みんなで検討してみるのも一つの手だと思います。
>>845 しかしなぁ… 皇帝に即位した後も、賈復や馬武らよりも真っ先に敵陣に斬り込み、敵兵を斬りつつ陣頭指揮するあたり、項羽を彷彿とさせる統帥ぶりを発揮しているしなぁ…
これは劉邦や劉備らと違い、紛れもない名将の証明なんだけどなぁぁ
>光武帝陣営で終わってしまう。
>光武帝は外してはどうだろうか?
>敢えて光武帝自身をランクインさせる必要も無いかなと
純粋に能力の高い奴を選出するんじゃないのか?
結局自分の好きな武将を捻じ込むだけのスレか
>>848 だからみんなで議論しないかと伺ってだろ。
なのに文句ばっかgdgd言ってる奴って…
もっと有意義な意見は出せんのかと言いたい。
>>842 馬援はいらないんじゃないか?
誰の節度も受けずに戦った戦いは二つしかないし、
いずれも反乱平定。
強敵だったことは確かだが、反乱二つ平定では戦績不足。
耿恭や段ケイ、馬賢を入れた方が良い。
851 :
◆oOLAqFKRB. :2007/01/31(水) 16:59:40 ID:0wTpCgQw0
劉秀を入れるか外すか、について。有意義かどうかわからんが2案。
とりあえず、朱元璋あたりと比べてみるってのはどうやろーか?
向こうも惜しいところで候補に落ちた選手(?)やし、
比較して劉秀のほうが明らかに上やったら、文句なしに確定、とか。
もしくは改めて後漢書をひいて、光武帝紀を調べなおす。
で、呉漢、耿弇レベルと比べてどうか対比してみる。
・・・どっちにしてもちょっと手間かかりそうやが、そんくらいしか思いつかん。
>>851 う〜む、良い案だとは思うが、
後漢末と元末両方の英雄を比較できるほど
両時代に精通した住人がいったいどれほどいるか・・・
853 :
852:2007/01/31(水) 17:17:29 ID:dB2ZjeT80
後漢末じゃなくて新末だ、スマソ
854 :
◆oOLAqFKRB. :2007/01/31(水) 17:19:17 ID:0wTpCgQw0
連投になるがついでに推薦。この人が落ちることはまず無いと思うが、一応。
【名前】耿弇
【時代】新〜後漢初
【功績と推薦理由】
字は伯昭。生来学問を好み、上谷太守にして黄老の学を修めた父・況に学んだ。騎射を
見てこれに傾倒し、将帥の道を歩む。
劉秀が廬奴にいると聞くとはせ参じて拝謁し、「漁陽太守は南陽宛(劉秀の地元)の人、
上谷の太守はわが父です。この二郡から騎兵1万人ずつを発せば、邯鄲なぞ恐るるにたり
ません」と進言、劉秀は「君は北道のよき案内役だ」と笑うもたまたま薊で乱が起こり南征。
耿弇は上谷に帰って父に進言、寇恂、景丹らとともにそれぞれ騎兵2千、歩兵1千を率いて
出陣、漁陽の兵と合流して南進し、王郎の大将、九卿、校尉以下4百余を斬り、兵卒3万人の
首級を挙げた。涿郡から河間の22県を平定し、劉秀に再閲。劉秀は大いに喜び、将帥らに
「まさに上谷、漁陽の士大夫とこの大功をともにすべし」と発破をかけて邯鄲を抜いた。
偏将軍を叙す。父・況は大将軍・興義候とされた。
更始帝が劉秀の勢力拡大をおそれ、軍を解除して召し戻そうとしたとき、劉秀に「弇願わくは
幽州に帰り、益々精兵を発して以って大計をなさん」と述べて劉秀自立の覚悟を決めさせた。
劉秀は幽州の全兵力を発して南進し、耿弇は常にその先鋒を務めて銅馬・高湖・赤眉・青犢を
破った。尤来・大槍・五幡を追撃、呉漢ら12将軍とともにこれを追い、ついに平谷でこれを
大破、首級3万余を挙げる。劉秀即位後、建威大将軍とされた。驃騎大将軍景丹・強弩将軍陳俊
らとともに厭新将軍劉茂を破って降す。建武3年(27)、延岑・杜弘の軍と戦って大勝。斬首
三千余、将士50人を生け捕りにし、杜弘を投降させた。5年(29)、呉漢とともに富平、獲索の
賊を討ち、降るもの4万余という大勝を飾る。
詔を受けて張歩を撃ち、虚報と謀略(ホントはここが耿弇伝のキモなんやけど、割愛)とを駆使して
大いにこれを破る。光武帝は自ら車賀でこれをねぎらい、「その功は韓信よりも高い」と絶賛した。
耿弇はさらに張歩を追い、投降させ、ついでに五校の残党も平らげて、斉の地を悉く平定した。
生涯に平らげた郡は46、陥とした城はおよそ300。一度の敗戦すら経験することがなかった。
建武13年(37)、大将軍を辞めて政治顧問となり、“四方の異議あるごとに、すなわち
召し入れて籌策を問われた”らしい。永平元年(58)年、56歳にして没。謚は愍。
情報戦の巧妙さと寡を以って衆を破る精緻な用兵は雲台28将の中でもトップクラス。また、
戦時が終わって文治の時代が来ると剣を書に持ち替えて政治顧問となる適応力の高さも推薦理由として挙げたい。
別の時代と比べる必要ないんじゃないの?
後漢の時代で十人に入るかどうかの問題にすぎないと思うのだが
だから単純に同じ時代のほかの候補と比べりゃいいだけのことであって
>>851 少なくとも前向きな意見を述べるのは有意義だと思うけど。
【名前】樊崇
【時代】新末
【功績と推薦理由】
赤眉軍の実質的な指導者。勇猛で名が知られ、決起後、すぐに数万人の勢力をつくる。
新軍を各地で破り、太師・王匡率いる新の大軍にも勝利をおさめ、新の権威を地に落とした。
その後、緑林の更始帝に降伏するが離反。長安を目指して進軍する。
その過程で更始帝軍に連戦連勝した。兵が集まり、三十万に達する。
ここで読み書き、計算ができない樊崇は劉盆子を立て、自立し、御史大夫となる。
その後、ついに更始帝を降伏させ、長安を占領する。
だが、政務が乱れ、統治ができず、食料が足りなくなり、長安の西を攻める。
略奪を繰り返し、その際、兵を大勢、凍死させる。
その時、光武帝配下のケ禹が長安に来て、公称百万の大軍で攻めかかるが、これを大破する。
再び、長安を手に入れ、南にいた延岑を討伐させるために、
副将格の逢安に十数万の軍で攻めさせる。
その虚をケ禹が再び攻めるがまた撃破する。
逢安は敗れて逃げ帰り、長安は食料が全くなかったため、二十数万を率いて東に帰る。
途上、ケ禹にまた襲われるがまた撃破。しかし、馮異に敗れる。
退路を自ら来た光武帝と耿エンに阻まれ、やむを得ず降伏する。後に謀反をおこして処刑される。
ポイント
・まだ、有力な山賊に過ぎなかった頃、新の官軍を精鋭をうち破っている。新の与えた打撃は光武帝にも匹敵する。
・武将としては弱くはなかった(一応、天下はとった) 更始帝陣営の武将たちを破り、更始帝を降伏させている。
更始帝陣営に内紛を起きていたが、その原因を作ったのは赤眉軍自身の勝利である。
・内政では失敗しているが、『名将』としてなら大きな減点にはならないはず。
それより、光武帝二十八将の筆頭・ケ禹を三度も破っているのは大きい。
ケ禹はこのせいで名将としての評価は低いが、
凡庸ならば、光武帝がここまで重任を担わせるはずはないと思える。
ケ禹は馮異たちの劣らぬ武将であった可能性もありえる。
少ないとも良将ではあったのではないか。
それを不利な状況で三度も破ったのは賞賛に値する。
・部隊が寄せ集めの雑軍である。これを数十万を統率し、戦いにおいては勝利に導いているのは評価できる。
あと、曹操・周瑜は三国に含めても、孫堅・孫策・呂布はこちらでいいのかな?
なら、孫策を推薦したいのだが。
>>858 トウ禹は赤眉討伐のために光武帝より大軍を任されたにも関わらず、戦況が思うように行かないことに功を焦り
同僚の馮異の諫めも聴かずに無理して出撃したあげく
敵の罠に嵌まって大敗し、たった二十四騎で逃げかえるという大失態を犯しており到底名将とは言い難いと思う
ただその後も光武帝からの信任は揺らぐことは無かったけど
後に曹操がこの故事を部下とのやりとりの中で引用したりしてるから
この時のトウ禹の敗戦は後世の人達の間でも結構有名な出来事だったようです
>>858 光武帝がケ禹を重用したのは名将だからとは限らないしねえ。
前スレでもケ禹が出てきたときも言ったが、彼は曹操における夏侯惇、秦における蒙恬
と同じで政権の重臣であっても必ずしも名将な人物ではない。
むしろ、実戦における名将が政権でナンバー2の地位を占める例ってあまり見ないような。
>>861 そうなると、その国は亡国の道を歩んでいることになるわなw。
鄧禹は頭脳明晰だけど、諸将の折衝役みたいなところがあるから、その意味で総大将とされたのじゃなかろうか?
「馮異の意見を聞けよ、おまい! いっつもおれに言ってるのにどうした!?」って劉秀は思ったに違いないw(いやウソです)
>>861 >むしろ、実戦における名将が政権でナンバー2の地位を占める例ってあまり見ないような。
つ徐達
>>863 軍部のナンバー1もしくは2なら徐達だろうけど、朱元璋政権のナンバー2(臣下のナンバー1)なら李善長じゃない?
んで、曹操は後漢に入れるのか?
866 :
863:2007/02/01(木) 00:49:34 ID:Sr9B3q+U0
>>864 >>861さんの基準に合わせるならどう考えても徐達になるんじゃない?
なんつっても魏の筆頭に夏侯惇、秦の筆頭に蒙恬挙げてるんだから。
>>861さんは政権とは言っているけど、事実上は軍部のナンバー1を指してるでしょ。
>>865 入れないと「後漢はいつまでか」から始まり、各時代の分かれ目を確定する不毛な論争が巻き起こってしまう
曹丕の魏帝即位までを後漢とし、軍事的な活動が主にそれ以前にかかる将は後漢、以後の将は三国とすべきだろ
名将になるかどうか別にして、劉備は後漢で諸葛亮は三国ということだな
現行の時代区分に従えば220年までだからな
曹操、周瑜は後漢の候補に入れるべきだろう
前スレで、曹操台頭以降から三国時代としてこのスレでは扱っていく、って流れになったと思うんだが
(劉裕登場からが南北朝時代の開始って言うのもそのとき決まった話しだし)
まあ、実際後漢は候補があんまり挙げられていないから、曹操、周瑜たちが入ってきてくれれば
結構盛り上がりそうな気もする
870 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/01(木) 22:37:48 ID:PVet+kzxO
じゃあ後漢末の英雄も入れた案を
劉秀
耿エン
馮異
岑彭
呉漢
馬援
班超
曹操
孫策
周瑜
ってのはどうだろう?
【名前】馮異
【時代】後漢
【推薦理由】光武帝の挙兵後、潁川で配下に加わり多くの苦労をともにする。
兵士の信頼の厚く、読書家で春秋左氏伝、孫子に通じ兵法に明るく、
温和な性格で、兵士に戦場以外では他の部隊の後ろにいるように命じていた。
また軍の規律が高く、掠奪行為をしなかったため敵にも慕われ、
投降した兵士たちは馮異の部下になりたいと願ったほど。
戦功を立てたが、謙虚な人柄で決して自分から発言せずに
一人離れて大木の木陰に座って休んでいたので、大樹将軍とあだ名された。
戦歴としては偏将軍として河北で戦い、孟津将軍として河内を守っている。
河内にて寇恂らと蘇茂を大破し洛陽に迫り、
陽夏侯に封じられ、七尺の宝剣を賜る。弘農郡を降伏させる。
征西大将軍となり、 禹に代わって赤眉と戦いこれを破る。
延岑と戦いこれを討つ。
公孫述の将軍程焉と戦い破り、その為咸陽王と呼ばれた。
隗囂の将軍行巡と戦いこれを破り、隗囂と隗純を撃退。
公孫述の将軍趙匡と戦い斬るも陣中にて没する。
人柄の良さ、古典・兵法に精通、且つ戦上手、光武帝の腹心中の腹心で軍師格。
馮異こそ名将の鏡だと個人的には思う。。。
あと馬援にも一票。
光武帝関係で6人ってのはやりすじゃねえの?とはさすがに思う。
対外的にハデなことが無い(少ない)から、建国期と末期に集中してしまうのも
仕方ないのかもしれんが。
>>870の案には馬賢、樊崇がはいってないよ。
改めてこんな感じで
劉秀(光武帝)
耿エン
馮異
岑彭
呉漢
馬援
班超
馬賢
樊崇
曹操
孫策
周瑜
関羽は?
877 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/02(金) 00:09:57 ID:GioyAU1BO
>>876 分かってて言ってるとは思うが別の韓信ですじゃ
878 :
◆oOLAqFKRB. :2007/02/02(金) 06:40:59 ID:EQQRNHqC0
孫策が挙がるなら落選覚悟でこの人も。ただ、曹丕即位後まで生きとるんよね、この人。
【名前】張遼
【時代】後漢末〜三国曹魏
【戦歴】
丁原、何進、董卓、呂布に仕え、曹操が下邳で呂布を破ると部下を引き連れて投降、
武勇抜群なのを認められて中郎将に任命された。別将として魯国に派遣され、諸県を平定。
袁譚・袁尚討伐に従軍、功績を立て行中堅将軍となる。楽進とともにみたび鄴を攻め、
これを落とした。また別軍を率いて趙国と常山を攻め陥とし、黒山の賊、孫軽を投降させた。
ふたたび袁譚攻撃に参加、これを破る。別軍を率いて海岸一帯を攻略、遼東の賊・柳毅らを破る。
鄴に帰還すると曹操自らの出迎えを受け、盪冦将軍に任ぜられた。さらに別軍を率いて荊州を攻撃、
江夏の諸県を平定する。
荊州攻略のため長社に駐屯、造反者が屯所に火を放ち、軍が混乱すると冷静に対処してこれを鎮撫、
造反の首謀者を捕らえて斬った。
陳蘭・梅成が氐族の居住地に拠って叛乱を起こすと討伐に派遣され、寡兵で険路をゆき部下が
諌めるのも聞かずに進み、陳蘭・梅成両将を斬った。
赤壁ののち、楽進・李典らとともに合肥に駐屯。孫権が10万の大軍を率いて攻め寄せると
決死隊800人を編成、大会戦に挑み、先頭に立って陣を陥とし、囲まれる都度これを破って、
ついに東呉の兵を潰走させた。追撃に移り、孫権を追ってあわやその命を絶つ寸前までせまるも
大魚を逸す。しかしこの敗戦で孫権は張遼恐怖症とでも言うべきトラウマを抱えることになる。
曹操はこの勝利を大いに喜び、張遼を征東将軍に任命した。
曹丕は王位につくと張遼を前将軍に任命、孫権が背くと再び合肥に駐屯させ、これにあたらせた。
曹丕登極後、晋陽候に封ぜられ、「彼は古代の召虎なり」とたたえられた。
病に伏せると曹丕からは大医の見舞いを受け、道にはかつて孫権を打ち破ったときの虎賁(近衛兵)
らが見舞いに訪れてひきもきらなかった。孫権が再び叛くと曹休とともに海陵に赴き、長江沿岸に布陣。
孫権はかつてのトラウマから張遼を過剰に恐れ、諸将に「張遼は病気とはいえ、これを侮るな」と命じた。
諸将とともに東呉の将呂範を破るも、病状が悪化してそのまま江都で没す。謚は剛候。
戦歴・戦功ともに曹操陣営随一。曹操の信頼厚くしばしば別軍を任され、常にその期待にこたえる働きを見せた。
病臥したとき虎賁800人が彼を見舞い、道にあふれんばかりであったということから将士にも人望の厚い名将で
あったことがうかがえる。よって推薦。
879 :
◆oOLAqFKRB. :2007/02/02(金) 06:49:25 ID:EQQRNHqC0
追記。
前スレで皇甫崇を推しとる人と祭遵推しとる人がおったから、
このふたりも候補に入れてはどうかと。雲台28将からはすでに
候補多勢出とるのにこれ以上増やしてどげんするとかって感じでも
あるけど。これを4〜5人に絞って、後漢末からも3〜4人とすると、
中期からは一人二人か。しかもその枠にはすでに班超おるし。
俺が暫定候補に挙げた廉范とか張奐あたりは生き残る余地ないですな。
あと、曹操は劉秀を偉い尊敬しとったし、劉秀のほうが帝位についても
陣頭指揮したり戦術的才能には優れとった(しかも実際天下取った)みたい
やから、曹操確定=劉秀確定、でいいのでは。あとは推薦文の挙がっとる
耿弇と馮異、それと支援者の多い馬援が一歩リード?
しかし俺の推薦文(←耿弇。張遼もそんな感じ)は長すぎなのがいかんやね。
みんな短くまとめるスキルが高くて感服する。
>>879 戦歴の凄いから多少長文になるのは仕方ない。
エピソードを交えるなら必要そうなとこをチョコット入れるのがいいかと。
881 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/02(金) 10:24:40 ID:NT9K+D4vO
張遼は大軍を率いたことがほとんど無いからなぁ…
882 :
◆oOLAqFKRB. :2007/02/02(金) 12:02:43 ID:pgBI3Mo20
大軍を率いた経験っつったら袁兄弟討伐後、曹操から数十万の軍隊の全指揮権を任されて
烏丸族を殲滅、蹋頓単于をぶっ殺した。多分これだけやね。まぁ烏丸は少数民族やし、
数十万おったら凡将でも力押しでバッサリできたのかもしれんが、いくら大軍で寡兵を攻めても
勝てんやつは勝てんけんね。寡兵の赤眉に大軍で当たって三度も負けたケ禹がいい例。
合肥のときは烏丸討伐のときとは真逆で、800人で10万人を潰走させるんやから、
もちろん寡兵での作戦行動も得意。数千〜一万人単位とはいえ毎度別軍を任されるのも信頼が厚いことの証。
状況に従ってどっちでもいける万能タイプやと思うんやが、どうやろ。
まぁifは無しやから、大軍を率いての用兵、一回きりでは評価に疑問符がつくなのもしゃーないけど。
あと耿弇の推薦理由に一個追加。
更始帝が劉秀の勢力拡大を恐れて軍隊解除の上帰れと命令したとき、悩む劉秀に「幽州に割拠して自立するべきです」と進言して独立の決意を固めさせた功。
いちおう推薦文にも書いちゃおるけど、長文に隠れてわかりづらいし、これは一つ二つの武勲よりはるかに高い功績やと思うのであえて追加。
昼んなったんでメシ喰ってきます。それではまた。
>>882 まあ、もちつけ。
寡兵ながら兵力が倍以上の敵を何度も撃破したり、敵側の思惑を阻止したりしてるなら、
それはそれで十分評価に値するんじゃないかな。
大軍を率いてもヘボい奴だっているんだし。
( 禹のことじゃないよw)
張遼は知略にも富んでるみたいだし。
数千〜一万人単位は張遼が自ら望んで曹操から与えてもらったのではと俺は勝手に推測。
寧ろ寡兵に因る機動性を重視したとも考えらるし。
あと個人の近況報告は別にイランよww
枠が余ったら別時代に持ち越しでいいと思うけどな
だったら後漢は曹操だけでいいよ
俺あんましこの時代知らないんだけど、
新末群雄(劉秀軍除く)に骨のある奴っておらんの?
なんか、全く話題が出てきてないんすけど。
骨のあるやつといったらカイゴウとか延岑とかかな、個人的には延岑が好きだけど
ただやっぱ圧倒的に劉秀軍が強過ぎて他のやつらは霞んでしまうな
荘尤はガチ
あるにはあるわなぁ…
劉秀初期で言えば、邯鄲の王朗とか(耿弇によってあぼ〜ん)
後には徐州の董憲とか(劉秀自らの速攻であぼ〜ん)
さらにもと故郷でもある南陽での鄧奉の乱(これも劉秀の陣頭指揮であぼ〜ん)
荊州の秦豊(岑彭にあぼ〜ん)
あとは隴西、四川の大物くらいだが、どうも劉秀陣営が強すぎてどうしようもないって感じだなぁ。
反乱や割拠している地点は、どの時代にも通じる要衝でもあるわけだから(鄴や徐州、揚州、荊州、隴西、四川といえば、分裂期にはなんらかの勢力が割拠する)、そう見劣りするわけでもないし、鄧奉は微勢力ながら、劉秀を結構苦しめてはいるんだけど…
劉子輿は王郎です
朗だと于禁を推薦した将軍です
891 :
1:2007/02/02(金) 22:08:46 ID:4PZLSFbn0
【名前】段ケイ
【時代】後漢
【推薦理由】
泰山、琅邪の賊の東郭竇、公孫挙三万余人を
大いに破って斬首すること万余、これを鎮圧した。
焼当、焼何、当煎、勒姐等の八種羌が隴西、金城を侵したため、
一万二千騎を率いてこれを撃破。首二千級を斬り、捕虜数万を得た。
羌が張掖を侵すと、大帥を斬り、千六百人を殺し、さらに首三千余級を斬った。
勒姐、零吾種が允街を囲んだため、救援に向かい、数百人を斬った。
羌五六千人が武威、張掖、酒泉を侵すと、護羌校尉となって三千余戸を降伏させた。
万余の兵を率いて勒姐種を撃破し、その酋長を斬り、四千余級の首を得た。
復た勒姐種を撃ち、四百余級の首と二千人の捕虜を得た。
当煎種を湟中で撃ち、首級数千を得た。
西羌と戦って斬首すること二万三千級、捕虜数万、家畜八百万頭を得て、
万余戸を降伏させた。
>>890 あ、ほんとだ。
そういば、前スレで五代のとき別の人に自分も誤字を指摘したけど、最初Why?になるのがわかったw
サンクス。
893 :
2:2007/02/02(金) 22:29:40 ID:4PZLSFbn0
【推薦理由2】
当煎の諸種が反乱を起こして武威を攻めようとしたため、
これを撃って、斬首すること三千余級。
西羌はここにおいて鎮圧された。
征西将軍馬賢を戦死させた東羌先零は何度も三輔を攻め、
朝廷には討つことが出来ず、皇甫規、張奐もこれを鎮圧できなかった。
段ケイは万余人を率いて、先零諸種を逢義山で撃破し、
斬首すること八千、得た家畜は二十八万頭に及んだ。
羌を奢延澤で破り、追撃してさんざんに打ち破った。
羌を討って一万九千級の首を斬り、数え切れないほどの戦利品を得た。
百八十戦して、三万八千六百余級の首を斬り、
牛馬羊騾驢駱駝四十二万七千五百余頭を得た。
段ケイ軍の戦死者は四百余人であった。
後漢後期の最大の外患であった対羌戦争において常勝を誇り、
名将馬賢ですら勝てなかった東羌をも破った。
同時代の名将としては皇甫規、張奐がいるが、
段ケイの武勲はひときわ大きく、頭一つ抜けているように思われる。
戦略眼に優れ、東羌討伐の際には張奐との論争に勝っている。
士卒を手厚く遇し、苦しみを同じくしたため、皆喜んで段ケイのために死戦した。
宦官と手を結んで富貴を得たが、彼の武勲を損なうものではないだろう。
樊崇を推したものだが、
ケ禹が『へっぽこ』という評価については反論すると
http://www2u.biglobe.ne.jp/~dnak/sangoku/touu.htm これを見ると、前半だけを見ると『名将』といっても過言ではない気がする。
光武帝が重任を与えたのもただの調整役ではとどまらないだろう。
ケ禹が無様な姿を見せたのは赤眉との戦いだけ。
そのため、ここまで評価が低いのは不当に思える。
ケ禹が馮異の意見を聞かなかったのも、ケ禹なりの算段があったかも知れない。
(失敗しているにしても)
ケ禹が弱いのではなく、樊崇が異常なまでに強かったと解釈するのが自然な気がするが
また、樊崇を推す理由として、ケ禹の参謀として、馮異がいたこともかえってプラスになる。
樊崇は馮異を破ったともいえる。
ケ禹が馮異の意見をきかなかったせいにしても、馮異を野戦で敗走させたことに変わりはない
自分なりにこの時代の議論をまとめると、
新・後漢
【確定組】
劉秀、馮異、班超、曹操
【候補】
耿エン、岑彭、呉漢、賈復、祭遵、馬援、樊崇、段ケイ、馬賢、張奐、虞[言羽]
皇甫崇、孫策、周瑜、張遼
こんなとこか? 上の四人は確定でいいと思うが
耿エンは後半活躍してない点、岑彭は暗殺された点で議論の余地があると思うので
候補にとどめた
>>895 多分おちるだろうとは思うが、候補に厳尤も入れておいてくれ。
>>895 樊崇、段ケイは確定にしても良さそうだが諸兄どうだでしようか?
樊崇は光武帝には負けているが緑林・更始帝軍を倒し、トウ禹を三度も打ち負かしている。
一応、天下獲っており、欲得抜きの性格で人々から慕われていた点も考慮しました。
段ケイは対羌戦争において数多くの武勲を挙げ、
馬賢ですら勝てなかった東羌をも悉く平定していますし
十分資格を満たしていると思います。
>>896 取り敢えず厳尤の戦績を挙げていただけないだろうか?
周瑜確定でいいんじゃない?
孫策時代も戦ってるし、江陵を赤壁の兵力そのままで一年で墜としたのはヤバイと思うんだけど
899 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/03(土) 18:43:45 ID:dptrkRIWO
耿エンは確定でいいと思う
あと岑彭に関してだけど、暗殺されたことと名将の資質とはあんま関係無いと思うけどな
諸葛孔明が入っていないのはなぜ。
ゴメン。
名相ならともかく、どう解釈すれば正史の孔明が名将に入るのか聞きたい・・・
>>903 防御に回って劣るとは思わんが、攻勢に出た場合の戦績は芳しいとは言えないからなあ。
会戦に及んだ時の強さはともかく。
一応自分が指揮した戦闘はたいてい勝ってるからな
名将までは行かなくても普通に有能ではある
まあ本人の言うように
「運籌策於帷幄之中、吾不如子初遠矣。若提枹鼓、會軍門、使百姓喜勇、當與人議之耳」
と言ったところなんだろうな。
>>904>>905 孔明が獲得した領土上げてみるべし(・・・もしあったらだが)
入蜀はホウ統、漢中は法正、南蛮は李恢・張ギョクだから
>>907 陳式が武都・陰平を平定できたのは諸葛亮が郭淮を牽制してたから。
南蛮も高定らの反乱の時に南征して平定してる。
この時、李恢は昆明で倍の軍勢に包囲されたが策略を用いて突破という活躍をみせたが、その後諸葛亮に合流してる。
>>905の見解が妥当だろうな。
つ 果てしなく議論が続きそうだし諸葛亮の話はもういいだろ。
他のスレで散々やりやってんじゃん…
911 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/03(土) 22:45:23 ID:dptrkRIWO
とりあえず後漢を確定させよう
その後で好きなだけ諸葛亮について語ればいい
>>891を改めて読んでみたけど、段ケイは確定としてもいいような気がする
後漢は三つに分れるね。
1新末から建国・統一戦(光武帝関係)
2西北の対異民族戦争
3董卓以降の末期
1の代表で劉秀、2の代表で班超、3の代表で曹操は確定でいいでしょう。
それぞれで二番手を出すとすれば1で樊崇か馮異、2で段ケイか皇甫崇、3で孫策か周瑜
となりますかね?
樊崇支持者が多くてよかった。ついでにトウ禹の名誉回復も少しできたし
(あまりにもトウ禹が無能なら、光武帝の減点材料にもなりかねないし)
自分的には、劉秀、馮異、耿エン、岑彭、呉漢、樊崇、班超、段ケイ、曹操、周瑜
の十名。
馬援が抜けたのは、活躍が地方反乱が相手なのと、最後に計略を誤り、
耿エンの弟である武将の耿舒からぼろくそに言われているせい。
悲劇的な最後と人格で高名があり、『勇将』の方がぴたりくる。
それにさすがに光武帝陣営六名は多いと思うので、群雄代表の樊崇をいれた方が
バランスがいいような気がする。
段ケイも支持者が多いので入れる。後漢は『戦争が強すぎて滅びた』といわれるほど
異民族には強かった。その代表者として選んだ。
(国力差もあるのでさすがに一人でいいと思う)
自分で推した孫策を抜けたが、これは周瑜が三国に含まれると思っていたから。
南北朝の端をつくり、三国時代の幕開けをつくった周瑜の方がふさわしいと思う。
張遼については、曹仁、夏侯淵、張コウ、徐晃、関羽、呂蒙らと三・戦板や様々なサイト
で誰が上か延々とこれからも論争中である。つまりは大きな差はないといえる。
孫策が落ちたのでこれも落とした。
異論があると思うけど、こんなものでどうかな?(次点は馬援ということで)
>>913 いい線いってると思う。
個人的には、それでも光武帝関係で五人かよと思うが、じゃあ誰を抜いて代わりに
誰を入れるのかとなるとかなり悩む。
あとは周瑜が悩みどころか。でもここも誰を代わりにするかが難しいな。
>>913 いいんじゃないかな。
馬援にはまあ涙を飲んでもらうわ。勇将と言ってくれてるし。
光武帝陣営には凄いのが犇めき合ってるので、
個人的には多く入るのは仕方ないんじゃないかと思うけどな。
916 :
◆oOLAqFKRB. :2007/02/04(日) 11:14:00 ID:Y86/aXwU0
>>913 呉漢と岑彭はどっちか落として四人に削るというのはどうやろ?
両者戦歴似とるし。戦功なら呉漢、人格なら岑彭、ぐらいの差やないかな。
で、後漢末に一枠増やして孫策か張遼を入れるという案を提示したい。
張遼挙げたのは俺やから、ここは公平を期して孫策かな。
>>916 孫策と周瑜は、入れるならどちらか一人じゃないですかね?
後漢末にもう一枠つくるなら、田中芳樹にならって蜀陣営から一人といきたい
ところだが…いないんだよなあ。
918 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/04(日) 11:44:48 ID:74slseESO
個人的には武闘派の代表として呉漢を残して岑彭は次点に回すのでいいんじゃないかなと思う
で後漢末から一人入れるなら自分も孫策を推す
後漢末なら、黄巾平定とか涼州討伐で名をはせた皇甫嵩の方が張遼や孫策よか上だろ
後漢の対羌族の討伐戦のほとんどの原因は、劉秀の洛陽奠都に帰趨するところ大でしょうな
どう考えても、関中から河南にまで絶対国防圏を後退させたのは失策だろう
長安はおろか、首都洛陽まで羌族に攻め込まれておいて
>>913の「戦争に強すぎて滅びた」は
ちょっと贔屓の引き倒しじゃないかい?
馬賢と涼州三明の皇甫規、段ケイ、張奐の中から一人選ぶとすると、あとは好みの問題だからな
馬賢の場合は失地回復、戦歴の長さ、何より羌族討伐戦のパイオニアとして
段ケイは東羌を悉く平らげた当たりがポイント高い
うーん、馬賢の方を俺は推したいが
>>920 段ケイは確定でいいのでは。
指摘どうり馬賢より功績は上なんですし。
孫策より皇甫嵩の方が俺もいいと思います。
曹操が登場するまで皇甫嵩が黄巾賊を討伐しまくっていたんだしこの功績は大きいと思います。
たしかに、国家に対する功績では間違いなく皇甫嵩ですな。
>>917 敢えて蜀から選ぶなら劉備だろうけど、無理に選ぶ必要もないでしょう
【新・後漢】
劉秀、馮異、耿エン、呉漢、樊崇、班超、段ケイ、曹操、周瑜、皇甫嵩
呉漢を残して岑彭を外しては?という意見があったので岑彭は次点にしてみました。
残りの一枠は孫策を推す声が多いですが
孫策より皇甫嵩の方が功績が上だと思いますがいかがですかね?
馬賢を推す意見もありますが段ケイは東羌を悉く平らげている点を
考慮して段ケイを確定にしました。
諸兄の意見を参考にして考えてみました。
取り敢えずこんな感じですがどうですかね?
俺もそれでいいと思う
孫策は早死しすぎたね
推薦
名前:陳規
時代:北宋末期〜南宋初期
推薦理由:もとは一地方の県令というしょぼい職ながら、北宋〜南宋の過渡期において
現地住民に請われ留まり徳安府を大〜中勢力から少なくとも九度の侵攻から守りぬき
鎮撫使(ミニ宣撫使:宣撫使は五大軍閥の主将が歴任した大官)になった。
文官出身で、しかも実績のみでこの大責をまかされたと断言してよいのはこの時代では彼のみ。
本人の武力には疑問符が付くが、火槍(限定的火炎放射機能を持った槍)を開発するなど
その活躍は一介の有能な文官では説明がつかない。
「守城録」という防衛戦の専門書としては墨子以来の著作も遺している。
順昌府の戦いで劉リと共に宗弼の軍を撃破する。
劉リが岳飛効果の恩恵を受けているため陳規は単に清廉潔白な官僚と思わてる節も多い。
張巡・袁崇カンと共に数少ない守りの名将・・・かもしれないが
撃破した有名どころは所詮順昌府の宗弼一回きりで、その時は皇帝親衛隊を引き連れた
劉リも一緒だったというネックはある。
しかし劉リの順昌府以前の戦歴はそれほど振るわないという点と、失策らしい失策は
見られないという手堅い点から推挙する理由は十分だと思う。
こいつを候補から外すくらいなら、同じように劉リを外しても良いと思う。
・・・でも知る人ぞのみ知る名将という感じもするし、複雑である
927 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/05(月) 16:05:25 ID:l7X58MU20
>>924 周瑜を入れるぐらいなら、岑彭を入れて欲しい。
切り取った領土の広さ、撃破した敵の数、
独立した指揮権を有して戦った期間、
いずれも岑彭は周瑜を上回っている。
928 :
◆oOLAqFKRB. :2007/02/05(月) 17:20:18 ID:jKij5xHO0
>>927 戦略構想では周瑜のほうが上では?
益州を取って荊州あたりをそうついとる劉備陣営を潰し、
長江以南を平定して
一足飛びに南北朝時代を確立させようとした戦略眼は
当時の将帥たちの上を行っとると思うんやけど。
まぁ、準備万端整ったところで病死したってのが痛いか。
ともあれ、
孫策に使えてからほぼ一生涯に渡って独立指揮権を任されとったわけやし、
将才では負けてないと思う。戦術活動の成果としては岑彭のが上か知れんけど、
大局を見極める目は周瑜やろ。
それに、前期四人、中期二人、後期三人のバランスもあるけんね。
光武帝の麾下があんまり入りすぎるとバランス崩れるやろ。
他所の時代やったらみんな軽く10傑入りできる将器の持ち主だけに、
斬り捨てるのは実際惜しいけど。
929 :
◆oOLAqFKRB. :2007/02/05(月) 17:23:17 ID:jKij5xHO0
>>928、間違えた。前期四人、中期三人、後期三人やわ。失礼した。
>>928 実現されなかった戦略構想は実績とは言えない。
また、孫策時代の周瑜は孫策の指揮下や後方支援で動くことが多く、
独立した指揮権を有して戦ったのは孫策死後。
大きな戦いで指揮権を握ったのは、赤壁が初めて。
後漢を代表する名将というには、実績が足りない。
大局を見極める目があるというだけでは、
岑彭の実績には及ばない。
バランスに関しては、実績のある武将を入れられるなら、
崩れてもかまわないと思う。
どうしてもバランスを崩したくないというのなら、
周瑜よりはるかに実績の多い馬賢を入れた方がより釣り合うように思う。
931 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/05(月) 18:39:56 ID:pT1BwXegO
流れからするとバランス重視の方がいいをじゃない?
俺は周瑜を馬賢に替える案に賛成。
水軍で陸戦をする無茶をやらかす周瑜
周瑜は赤壁のお陰で一発屋のイメージが強いし
益州を取って曹操に対抗云々は既に甘寧が提唱しているからな。
それなら寒門出身で一兵卒から出世して
最後は呉軍総司令格までのし上がった呂蒙を入れたい。
>>933 周瑜は赤壁で曹操の南下を防ぎ、曹操麾下の猛将曹仁守る江陵を確保。
それに対して呂蒙は2度にわたる荊州侵攻で見せた手腕は鮮やかだが、相手関係を考えれば実績は落ちる気がする。
相手関係ねー。
確かに(公称)二十万の曹操軍を破った周瑜と比べると
呂蒙の相手は関羽だからね。
でも名族出身で先祖に太尉を出した周瑜はスタートの時点で恵まれた感がある。
ちなみに虎穴に入らずんば虎子云々の初典は三国志の呂蒙伝。
>>935 確か成立時期の古さは三国志のが後漢書より先だったっけ?
呂蒙伝が初典とは知らなかった
そういう言葉が班超の時代から残ってたか
後漢書作った范曄が三国志から拝借したのかどっちだろう
やっぱ周瑜は議論のタネになるか。
ただ、>924の他の人選にはほぼ文句なしってことでいいのかな?
ってことは
劉秀、馮異、耿エン、呉漢、樊崇、班超、段ケイ、皇甫嵩、曹操
を確定として、
残り一枠を岑彭、馬賢、周瑜からってことでよろし?
あえて樊崇を抜くという選択肢もある
時代のバランスも含まれてランクインしてる面もあるし
940 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/05(月) 22:13:00 ID:pT1BwXegO
残り一枠を岑彭、馬賢、周瑜から選べばいいと言う意見が出てるが、
周瑜より岑彭、馬賢の方が功績は上回ってるし、周瑜は外してもいいんじゃない?
光武帝陣営からは4人でいいと思うし、先程も言ったが残りの一枠は馬賢がいいと思う。
あと俺はあえて樊崇を抜くという選択肢には反対だな。
941 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/05(月) 22:34:54 ID:4mxDS0egO
たまにいわれる光武帝陣営から出しすぎ、って意味がよくわからん
実力があるなら、たとえ後漢10傑が劉秀陣営で埋め尽くされてもいいんじゃないの?
と素人は思う
逆に実力で決まるんなら曹操で全部埋まるだろ
>>942 曹操が尊敬する光武帝を差し置いてか?
なにか強い推薦理由がありそうだが…?
>>941 その実力の優劣どうやって量るのか、万人に納得されられる方法があるのならそれでもいいよ。
しかし実際には同時代で敵対対決するとか同陣営で評価や功績や行賞に明確な差がつけられる
のならまだしも、同じ王朝でも別の時代に別の戦争でそれぞれ活躍した人物の優劣なぞ付けられ
ようがない。
だったら、一つの時期陣営に偏らずまんべんなく選出するようにするというのは一つの解決法。
乱世に一地方の平定に活躍して平和をもたらした人物と、対外戦争に活躍して国難を排除した人物。
どちらを上とするかなんて、功績のどの部分を重視するかによって変わり、結局個人の趣向で選出
するのと大差ない。
劉秀って、一端滅亡した国を中国史上で唯一人、復興させた
人じゃなかったっけ。
それだけの偉業をしてる人間の陣営だから、選ばれる人間が多
くなっても妥当でしょうね。
でもほとんど別物だからな
名目さえ復興ならいいのだろうか、という問題はある
そりゃ名前だけでしょ?>復興
前漢と後漢は別物よ、別物
>>945 名文的には復興ではあるけど、中身は別の王朝なんだよね。
たまに、漢朝四百年とかいうけど、あれはあまりにもまとめすぎな表現で、正しくはない。
劉秀陣営が非凡なのは、常に相手よりも少数で戦いに勝ち続けたところにある。復興を成功させたことだけではないということ。
でもまぁ、バランスをとる意見には賛成ですな。
949 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/05(月) 23:56:47 ID:SAxiv0vUO
【名前】延岑
【時代】新末〜後漢初
字は叔牙。新末の混乱に乗じ挙兵する。
赤眉軍との杜陵の戦いに於いて諸戦は破れるものの、その後態勢を立て直し大いに破り、赤眉軍に決定的な打撃を与えた。
その後は劉秀勢力と死闘を繰り返すことになる。
他の群雄が次々と劉秀に殲滅されたり降伏していく中で彼だけは劉秀に決して屈することは無かった。
幾度も劉秀配下の名将に敗れながらも、一度はトウ禹を破る等劉秀を苦しめ続け決して反光武の姿勢を諦めなかった。
結局流れながれて蜀の公孫述の元にたどり着きそこで劉秀に対する最後の抵抗を試みることになる。
成都を大軍に包囲され弱気になった公孫述に対し
「男児たる者正に死中に生を求めるべきです!居ながらに窮してはなりません。
財物は集め易いもの、これを惜しむこと無きように。」と進言し
これにより財物を散じて得た敢死の兵五千人を率い、
劉秀軍の先鋒であった呉漢を計略をもって破った。
この時呉漢は落馬して水に落ち危うく死にかけるところであった。
さらにその後ゾウ宮の軍を三度破る等意地を見せるも大勢を覆すことは出来ず
結局態勢を立て直した呉漢の軍に敗れ公孫述と共に族殺された。
>>945 バランスを重視の方がいいって方向で話を進めているのに、
無理に光武帝陣営を増やす必要はないじゃないか?
残り一枠を岑彭、馬賢、周瑜から選べばいいだけだろ?違うのか?
>>942 短期間で統一を果たした光武帝陣営と統一できないまま終わった曹操陣営では雲泥の差。
何が実力か。勉強しなおしてこい。馬鹿もの。
実力からいえば敗北が多い曹操はトウ禹と同クラスと解釈されてもおかしくない。
武力で政権をとれたのでランクインできただけとも思える。
曹操がこの程度だから、彼を苦戦させた周瑜や劉備の評価も低い。
とにかく、自分は岑彭を落とすことには反対。統一政権下のもとの異民族討伐や傑出した英雄が
あらわれず、乱世がえんえんと続いた後漢末と復興を名目とはいえ、新王朝を作った光武帝と
では差がでるのは当然。
また、この選出ではバランスや功績と同時に、将としての軍略や戦いの強さも重要と思う。
岑彭の将才は相当なもので外すには相応な理由がいると思う。
自分的には、功績は確かに大きいが、それほど傑出した戦いぶりをしていない皇甫嵩を落とす
べきだと思う。腐敗していたとはいえ、後漢の軍の指揮を大部分まかされ、多数の兵で民衆反乱に
過ぎず戦闘経験も浅い黄巾軍と王国を破ったぐらいでは『良将』の域を超えないのではないか。
それがだめなら、周瑜を外すべき。孫策死後、曹操が袁一族と戦っていたころ
劉表や黄祖などを相手ほとんど国力を伸ばせなかった手腕はこのリストにあげる
には不足かと思う。曹操がイメージで強いと思うから周瑜が入るわけで、曹操がトウ禹や苻堅と同じ
凡将クラスには勝てても、良将クラスには勝敗を繰り返してなんとか勝ち、名将には負ける
レベルと思えば納得がいく。
942が馬鹿なことを言うものだから、感情的になっているかも知れないが
判断そのものは誤ってはいないつもりだ。だから曹操を外せとはいわない。
後漢末・三国の連中は調子に乗りすぎだ。皇甫嵩か周瑜を外してほしい
>>951 いや、充分感情的になりすぎてると思うよ
後漢・三国の連中を不当に貶めてやいないか。
>>951 >何が実力か。勉強しなおしてこい。馬鹿もの。
>曹操がこの程度だから、
>後漢末・三国の連中は調子に乗りすぎだ。
周瑜や皇甫嵩を外すべき理由には一考に値する物があるのに、感情的になりすぎて台無し。
まずは相手に話を聞いてもらえるように提案しないと、逆方向に行っちゃうよ。
>>951の考え方で行くと、たった十年程度で亭長から天下統一した劉邦とその将たちの評価が低すぎるな
955 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/06(火) 10:26:48 ID:d+GgwL/rO
周瑜が入らないとなると後漢末〜三国志の人物がほとんどランクインしなくなるような…
無理に選出する必要はないと思うのだが
957 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/06(火) 11:07:18 ID:x2IBZ7jtO
多少バランスが崩れても周瑜を外し岑彭を確定にして、
皇甫嵩に反対意見が無ければ現状維持、反対意見がが有れば馬賢を確定入りにすればいいんじゃない?
無理に後漢末〜三国志から選出する必要はないと思うのだがと言う意見もあるし。
>>951 そうやって評価するのなら、比べるのなら劉秀と曹操、劉秀配下と曹操配下でするべきでしょう。
キッツイことを言えば、天下を統一したのは劉秀であって岑彭たちはその配下。
「相手のレベルが低いからそれに勝っただけの曹操も凡将レベル(あるいはその逆)」
なんて、それこそ程度の低いちゃもんにしか聞こえない。
日本史戦国の方でよく聞かれる「信長は周囲がザコばかりだったから勢力拡大できたんだよ」
同じことだな。
こんな主張がまかり通るのなら、「光武帝の時代には、敵に無能しかいなかったから統一できた
んだよ」なんて阿呆ないちゃもんも成立してしまうわな。
念のためいっておきますが、私は信長の周囲も光武帝の時代にも、敵はザコしかいなかった
なんて思ってませんよ。もちろん、後漢末もね。ですからそのテの議論はやりません。
後漢末は低レベルってのを示さないと、周瑜は外せないような。
取り敢えず周瑜の事跡と岑彭の事跡を書きだしてみて皆で比較検討してみてはどうだろうか?
962 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/06(火) 12:45:59 ID:aUi93BeQO
逆に考えるんだ
後漢末はどんな優れた人物でも容易には覆せない状況だったんだと
100m走で100m10秒台出した選手と、100mハードルで出した11秒台出した選手を見て、それだけで前者が優れていると断定するようなものではないか?
>>962 まあアヘン戦争や義和団事件を個人の将才で覆せたとは思えませんしねえ。
ところで、次スレどうしますか?
>>963 ですね。
個人の将才だけでかたがつくなんて思ってる人はここにはいないだろうけど、時としてそのときの政治的背景や人々の世論といったものを無視しがちに思う。
劉秀の生きた新の時代は、漢の劉氏が不遇に扱われ、その不満や不安が劉氏擁立というかたちで現れた。
劉秀は後発ながらそれにのり、更始帝にはない公平さでもって部下が働きやすいような環境を与えている。
当時劉氏復興の世論が各地にはあり、劉氏擁立や血統を主張して、それ以外の勢力は大義名分的に弱かったといえる。
こういう流れで後漢末を見てみると結構興味深い。
曹操は後漢王朝の中興の臣だけど、一面では君側の奸ともとれる。これは後漢王朝を保守しようとする人々の世論の後押しがやや弱く、漢朝の臣と曹操独自の臣との結びつきが思うほど強固ではなかったのではないか。
曹操が戦線を延ばした先で負けているのは、そういうところにあると思うし、またその先で曹操を阻み、分裂を決定付けたのは孫権軍閥だということ。
曹操軍閥から離反せしめなおかつ撃退した周瑜という将軍の功績は、戦績以上に大きいのではないか。
自分は五代の流れからも、こういった独立国が誕生する瞬間、それに関わった将や臣たちの功績は高く評価できると思う。
とすると、とーぜん劉備も評価するに値するわけだけど… さて…(個人的には目を見張るほどの将才があるとは思えない。劉秀と違って負けが多いし…)
新末は王莽の極端な復古政治に対する反発が漢朝の復興を望む声につながり
後漢末では宦官や外戚の専横による政治の腐敗に対して民衆の間に漢朝に対する失望が広がってたんじゃないかな
966 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/06(火) 18:31:25 ID:x2IBZ7jtO
つまり
>>951が偏った知識で物事を判断してるだけだろ。
ただそれだけだ!!
それより論議に移らないか。
偏った知識というよりは偏った愛
>>965 漢朝に対する失望があったと同時に、漢朝や劉氏政権が正統だという意識があったみたいだからややこしい
劉備も劉淵も劉氏だからって王朝の名前を「漢」にしたし
(だから纏まらなかったのかねぇ)
ところで、段ケイの「ケイ」って、「熲」この字でよかったっけ?
あとなんで耿エンも漢字じゃないんだ?
>>969 段ケイのケイは潁の字の水が火になった字。
>>957 賛成。
>>955 それではダメなのか?十分な戦績を持った将軍が
曹操しかいない以上、仕方がないのでは。
>>964 歴史的意義よりは、実績の多寡で選んだほうがいいように思う。
でないと、一発屋がランクインしてしまう恐れがある。
周瑜は戦略家として優れているが、司令官としての実績には乏しい。
独立した指揮権を握ったのは二回だけ、切り取った土地は長江中流域のみ。
荊州を敵軍の三分の一の兵力で攻め取り、
公孫述から長江の制河権を奪い、巴郡を平定し、
蜀を平定する一歩手前で死んだ岑彭の方が、
遥かに一軍の将としての実績は豊富。
関羽は?
973 :
◆oOLAqFKRB. :2007/02/06(火) 23:08:16 ID:LcIQFcaZ0
初期の4名、中期の3名は確定でいいと思う。
かわりに呉漢がはいっとるから岑彭には涙を呑んでもらうとして。
で、後漢末では曹操確定、周瑜内定。
馬賢を推す声は多いけども彼はむしろ後漢中期に活躍した人、な気がするし、
寡聞にして俺はこの人の具体的実績を知らん。
皇甫崇は実績十分ながら大兵力をもっての反乱平定は出来て当然、な気もする。
話を蒸し返すようやけども叩かれ覚悟で孫策、張遼を推したい。
まだこの二人引きずってんのかよと言われそうやが、
孫策は夭折ながら僅か2000の寡兵で挙兵して連戦連勝、東呉の礎を造ったし、
(これは弟に同じことやれゆーても絶対できんかったと思う)
そのうえ一時曹操をビビらせた。
張遼は烏丸族殲滅やら合肥の対孫権戦で見せた活躍やらで曹魏陣営最高の名将やと思うし、
光武関係で4人出とるわけやから曹魏の将を一人追加てもいいかなと。
実績から言ってもし彼が蜀漢の武将やったら確実にランクインするやろーし。
ついでに、スレ立て技能ない俺がそろそろ次スレの容易せなねーと無責任に言っとく。
974 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/06(火) 23:13:14 ID:snPB2VPW0
>>973 馬賢の戦績
三輔、益州を領有し趙魏に国境を接していた、零昌(シ眞零の子)率いる先零羌の別種を
任尚の指揮下で大いに破り、三輔、益州を快復する
馬賢派遣前に、羌族鎮圧に任じられていたケ隲、任尚率いる官軍は先零羌に手も足も出ず
河東、河内まで侵入を許してしまう体たらくであったが
馬賢派遣以降は一挙に反撃に転じ、先零羌を遂には瓦解に追い込んでいる
またその任期中に、隴西、安定、北地、上など、諸郡を諸羌から快復している
975 :
◆oOLAqFKRB. :2007/02/06(火) 23:20:07 ID:LcIQFcaZ0
>>974 サンクス。前漢の趙充国みたいな人やと思えばいいんかな。
>>973 徒手空拳で大勢力を築いた奴は、他の時代にもいくらでもいる。
孫策だけをランクインさせるのは、不公平な気がする。
張遼は単独で指揮権を握った経験に乏しい。
司令官というよりは、司令官の下で働く良将といった感じ。
どうしても後漢末、三国からランクインさせたいという執念には頭が下がるが、
そこまで無理して良将レベルの人間をランクインさせる必要は無いと思う。
孫策や張遼を他の確定組と並べたら、遥かに遜色があるように思う。
977 :
◆oOLAqFKRB. :2007/02/06(火) 23:26:47 ID:LcIQFcaZ0
>>976 そうですな。個人の嗜好でランクインさせるべきでもないしね。
確かに感情的になったのは悪かったが、後漢末・三国は知識がかなり知られており
こういう企画で優遇されるから警戒しすぎてしまったんだよ。
曹操軍の十位っていったら、曹洪クラスだろ。
他の時代と比較はできないといっても、光武帝や岑彭が曹洪以下といわれて馬鹿らしいと
思わない人がこのスレにいるか?こんなのが論議に入ってくると、スレそのものが
壊されかねないと感じてしまったんだ。悪かったよ
942はただの新手のネタかも知れぬし、忘れることにする。
でも、自分で書いてみて、やっぱり曹操はイメージ先行で強いと思われすぎてると思う。
戦略は良いが、戦術はそれほどでもないのではというのが印象。
また、十六国は創始者全て入っているわけではないので、呉や蜀から無理に出す必要はないと思う
ただ、歴史的意義を考えるなら周瑜だが、孫策の方が功績はでかい。だが若死にはいたい
三国で無理にいれるなら、この二人を外して益州を短期間で落とし、漢中を奪い、曹操を撃退した
劉備も検討してほしい。負け戦は多いが実績は大きい。
(逃げ上手も戦術のうちという説もあるし)
赤壁の勝利もこの人の存在が本当に影響を与えた可能性もある。
残り二人の枠は、皇甫崇を外して、岑彭と劉備でどうだろう?
(孫策+周瑜が認められるなら別だろうけど)
979 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/06(火) 23:46:00 ID:/ii+IWQG0
>>961 岑彭
信義を守る義士で、規律高い軍隊を率いて電撃戦を展開、秦豊を滅ぼす、呉漢が隗囂に破れた際には殿軍として奮戦、公孫述討伐に活躍した。
その軍の規律は高く兵士は精鋭、行軍速度が速く、長駆敵の予想しないところにあらわれて攻撃し、数倍の敵を打ち破った。
周瑜
孫策が暗殺され、その遺言で孫家陣営の軍事責任者となる。
赤壁の戦いに於いて曹操の南下を受けると抗戦を主張し、それが決まると全権を委ねられた。
水軍に長けている孫権軍の長所を最大限生かし、曹操軍を完全に押さえ込み、曹操軍の軍船を焼き払う。
この戦いで、初めて曹操を撃退した武将として天下に轟いた。
江陵を攻め曹仁・徐晃らを撃破。牛渚の合戦、呉郡の戦い、黄祖討伐に参戦。
以上Webより抜粋
周瑜より岑彭の方が功績、将才は上だと思いますがいかがですかね?
バランス無視なら岑彭、バランス無視なら馬賢のどっちかを確定入りにすればいいのでは?
周瑜は曹操に対する完璧な廟勝の策を示したことも評価して良い
赤壁の敗戦がなければ曹操が天下を統一していた。
曹操陣営が劉秀陣営より評価が低いのはこれが理由。
もし曹操が天下を統一していたら劉秀陣営との評価は対等となったろう。
それほど周瑜の戦功は大きい。
もし劉秀が曹操の立場であったら天下を統一できなかった可能性もある。
よってここで周瑜を外すのは納得できない。
天下を統一したかどうかは同時代においての評価の物差しとはなっても、異なる時代間の評価の物差しとはなりえない。
と思いっきり周瑜に好意的な評価をしてみる。
>>978 >逃げ上手も戦術のうちという説もあるし
檀道済ならともかく劉備の逃げ上手は全くの別物。
劉備じゃ話にならないと思うが・・・
>皇甫崇を外して、岑彭と劉備で云々
皇甫崇を外して岑彭と馬賢なら話はわかるがこれ又話にならないと思うが・・・
あと黄巾賊は只の民衆蜂起ではないと思うけどな。
貴方こそ後漢末〜三国志をいろんなことイメージ先行で語ってませんか?
983 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 00:11:41 ID:JZVX5tASO
皇甫嵩って正しく書いてる人少ないね
984 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 00:20:38 ID:jhdIx4wjO
あと一人他の誰かを抜いて周瑜と岑彭を二人とも入れるってのは無理かな?
樊崇抜いたらどうだろう。
986 :
◆oOLAqFKRB. :2007/02/07(水) 00:40:02 ID:km6BbKIv0
現状での確定は初期で4人、中期で三人、末期で1人やから、
抜かんでも入れようと思えば入るんやない?
ただ、光武関係が多くなりすぎるのは個人的に歓迎できんわ。
優遇しすぎ、って感あるけんね。
まぁ、その優遇しすぎな叩き台出したのは俺なんやけど。
987 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 01:07:40 ID:MJVknA0pO
>>971 すべての一発屋とかいうのを、全部肯定する気はないけど、その戦果自体の難度なども考慮しなくては。
一回で戦闘を終らせ態勢を決めた場合、その戦略構想と戦術面での実行力は特筆に価するでしょう。
どういう意図で一発屋と分類しているかは、こちらの得心がいかないところだけど、周瑜に関して言えば勢力的に劣っているのに、勝ったというのが大きいわけで。
岑彭も神速の用兵を旨とした将で、すごいのは認めているし好きな武将ではあるが、安易に実戦経験が多くて勝ちも多いほうが名将、という判断はしかねる。
勝ち難きに勝ちてというのも名将と思えるわけで、戦績の多寡はむろん考慮はするけど、それをどの場面でも当てはめすぎるテンプレートにしては、悪いけど視野が狭くなると、そう考えるわけだ。
まぁその辺、一考レスということで。 周瑜と岑彭の件は、正直自分でも判断に迷っています。
>周瑜に関して言えば勢力的に劣っているのに、勝ったというのが
でもな曹操側は水上戦が不得意、尚且つ水軍の大半は荊州の降伏兵で自前ではないし、
ホウ統、黄蓋の計略なども絡んでいたり、
いろんな要素が入り交じり決して周瑜一人の力で勝利したとは言えないような気がする。
990 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 09:33:49 ID:EmdZipWL0
「名将」っていうイメージだと三国志は小粒な気がする
ソウソウも将としては微妙
三国志の世界には勝ちっぱなしの将軍があまりいないからな
ただ逆に全体のレベルは逆に高い気もするが
>>989 そりゃね。 自分も方々で将帥一人「だけ」の功績なんてない、とふれて回っているから、その点はわかるのだけど…
麾下に入った将をうまく使ったかとか、他軍との連携で主力部隊を統率したかとか、戦況を決定付ける重要なアクションをおこしたとか、そういう視点も必要と思う。
多くの将帥は、ある会戦や決戦で、やはり多くの計略やかけひきなどが介在して、将帥だけの手柄だとはいいきれない部分がある。
しかし、戦術能力には直接関係ないにしても、それを取捨選択し、戦略戦術の優位性に結びつけるのは将としての能力でもある、と。
別に周瑜だけに限ったわけではないけど、いつもいつも特定の臣下に軍事の全権を与えて前線に送るなんてことはないし、あってもそれが継続することも少ない。
一回の起用において、勝利せしめたのに一発屋と言われては不本意な場面も(今後)あるんじゃないかなぁ。
ああ、それと周瑜は外すには「惜しい」と思っているだけで、それを無理に入れろとは考えていないです。
議論が白熱しているのはいい事だと思うが、
そろそろ新スレ立てないとやばくないか?
スレ立てやるよ。
996 :
◆oOLAqFKRB. :2007/02/07(水) 13:01:39 ID:aIhWbTiK0
>>987 別にバカ言われるのはいいが、なにをもってバカと?
初期から劉秀、馮異、耿弇、呉漢の4人、
中期から段潁、樊崇、班超の3人、
末期からは曹操1人で皇甫嵩は確定に到ってないんやから、
現状での確定は八人。岑彭、周瑜ともに入る余地ありやと思うが。
雲台28将からの枠入りが増えすぎるのはどうやろって言っただけでバカ扱い?
997 :
◆oOLAqFKRB. :2007/02/07(水) 13:22:48 ID:JG4hHm9I0
皇甫嵩はまだ候補やと思っとったら、
確定に決まっとったんやね。
それやと二人入るっちゅーた俺が確かにバカタレやな。すまん。
>>996 こういう輩の中には反応したりすると喜ぶのが多いから、
基本は無視の姿勢をとった方がいいと思うよ。
◆oOLAqFKRBさんは過剰な反応を示すから、
ある意味からかわれてるんだと思う。
それと、新スレに皇甫崇を確定にして、樊崇を候補に落としちゃったけど、
あくまで暫定(確定とは言っているが)的なものだから、
納得行かない人がいるなら議論を重ねる余地はあると思うよ。
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