有名な赤壁の戦い
実際はどんなものだったんでしょうか?
2 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/07(木) 22:32:10 ID:Ur4UZfrAO
流石にこれは三戦板でやろうよ
スレもうあるんだしさ
三戦に武侠スレと水滸伝スレたててこようかな
三戦板に気兼ねする必要はないよ。ここはここでやればいい。
とりあえずWiki
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%A3%81%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 赤壁の戦いは、208年の中国三国時代に魏の曹操の軍(15万)と蜀の劉備・呉の孫権連合軍(推定5・6万)の間で長江の赤
壁(現在の湖北省)で起きた戦い。連合軍側の勝利で終わり、曹操の天下統一の野望は頓挫する。現在赤壁と呼ばれている
場所とは位置が異なるようである。北宋の詩人蘇軾は、この間違った地で「赤壁賦」を作ってしまったらしい。
史実における赤壁
208年7月、荊州の牧であった劉表を攻める為、曹操は兵を率いて荊州へ南下を始める。八月、劉表が死ぬと策略により劉表
の跡を継いだ次男・劉jは9月に降伏し荊州を曹操に譲り渡してしまう。孤立した劉備は、長江づたいに南下し、長坂で追いつ
かれるが、何とか難を逃れ夏口へ到達する。そこで劉表の長男・劉gと合流し、孫権の命で荊州の動向を探りに来た魯粛と落
ち合う。その兵百万と聞き孫権は驚愕するが、周瑜は、実際には14〜5万しかおらず、軍隊は疲弊しきっているので勝機はこち
らにあると孫権を説得する。
劉備からは諸葛亮、孫権からは魯粛が使者となり同盟を結び、長江を挟んで対峙する。孫権は周瑜・程普ら数万の水軍を送
る。12月黄蓋は策を練り、実行される。周瑜は失策失敗を理由に黄蓋を鞭打ちし、恨みを持った事を理由に黄蓋は降伏した。し
かし、これは偽装であり内側より火攻めに成功、多くの軍船が沈んだ。苦肉の策という故事成語はこの時より生まれた。
曹操軍は慣れない江南の地で疫病や兵糧不足に悩まされたこともあり、荊州の大半を放棄し、樊城の守りを曹仁に託し許都
に引き返してしまう。
孫権・劉備側の完全勝利ということもあり、あたかも曹操が致命的な痛手を負ったかのように評される事もある。しかし実際に
名前の知られた曹操配下の武将の戦死・戦傷の例が皆無であり、またその後の曹操が莫大な費用のかかる銅雀台の建設を
進めていることからして、少なくとも致命的な被害とは言えないと考えられる。実際にどの程度の被害であったかは史書にはっ
きりとは記載されておらず、推測するほかは無いが、この戦いの結果により曹操の南下政策が頓挫したのは事実である。
演義における赤壁
『三国志演義』における赤壁の戦いは以下の通りである。
『三国志演義』では、朱元璋が陳友諒の水軍を火計で打ち破った鄱陽湖の戦いをベースにしている部分があるので注意が必
要である。
208年、華北を制した曹操が江南を平らげようと7月に50万の兵を率いて南下を開始した。ちょうどそのころ劉表が亡くなり、劉
jと後見人に付いた蔡瑁は、曹操に降伏してしまう。曹操は荊州の兵を会わせ「百万」と号した。諸葛亮の意見を取り入れず荊
州を奪う事を諦めた劉備は曹操軍に追われ、ひたすら南に逃げるが大量の領民を引き連れたために進軍速度が上がらず長坂
坡で追いつかれてしまう。この危機を趙雲と張飛の活躍で逃れると、夏口の劉gの下へ落ち延びる。一方、江東に勢力を伸ば
していた孫権は、この報に驚き、文官武官を集めて、降伏するか戦うかの会議を始めた。文官のほとんどは降伏を主張していた
が、そのころ劉備の軍師だった諸葛亮が訪問し、魯粛も主戦論に偏っていたためにこれを利用し、孫権の説得を始める。兄孫策
の義兄弟でもある周瑜も後からやってきて主戦論を主張したために孫権は降伏派を一蹴し戦うことを決める。当初、周瑜は魏に
降伏する考えであったが、諸葛亮から曹操が作った詩で「二喬」(自分と義兄弟の孫策の妻)を欲しがっていると聞かされ、怒っ
て孫権に対して戦うようにと主戦論を主張した。
両軍は、長江に沿う赤壁で対峙した。周瑜は大軍を有する曹操を相手にするには火計しかないと判断し、周瑜は計略を使い、
荊州水軍の要である蔡瑁を謀殺する。蔡瑁謀殺後に曹操の策によって偽りの降伏をしてきた蔡瑁の甥の蔡中・蔡和に対して偽
情報を曹操軍に流させるなど大いに利用した。そして、苦肉の計を用いて、黄蓋に偽の降伏を申し出させ曹操軍内に下らせた。
また、火計を効果的にするために、当時在野にいた龐統を使い、曹操に対して船上ですぐに酔ってしまう兵士達のためにと船同
士を鎖でつなげる「連環の計」を進言し実行した。問題は、当時の季節-10月には東南の風が吹かないと言う事だった。この方
向に風が吹かないと、火計を用いた場合自分達の水軍にも被害が下る恐れがあったのである。諸葛亮は東南の風を吹かせると
言い、祭壇を作り祈祷すると、どこからか東南の風が吹く(民間伝承には、諸葛亮はこの時期に東南の風が吹く日があるのを初
めから知っていたと言う話やドジョウを使って東南の風を吹く日を知ったなどの話がある)。機は熟したとばかりに黄蓋が藁を積ん
だ船に火をつけさせ火計を実行、「連環の計」で互いの切り離しが間に合わない曹操軍の船は次々と炎上する。更に東南の風で
地上に配していた陣にも火が燃え広がり、曹操軍は散々に打ち破られた。なお周瑜が自分を殺そうとしている事を察知した諸葛
亮は、東南の風が吹いた直後にその風を利用して劉備の下へ逃げ去った。
一方、劉備軍は諸葛亮の指示の下、曹操の退却先に伏兵を置き、舞い込んできた曹操と残った軍に追い討ちをかけた。しかし
諸葛亮は「今曹操は天命がつきておらず、殺す事は不可能であろう」と判断し、曹操に恩がある関羽をわざと伏兵に置き、あえて
関羽が曹操に対し恩を返す機会として与え、関羽が曹操を逃がすのを黙認した。
こうして曹操は荊州の大半を手放さざるを得ず、以後劉備と孫権の係争地となる。
6 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/08(金) 08:22:53 ID:El+Z0CMvO
こうめいが風を起こしたから勝ったんだよ
演義の方は、基本的に鄱陽湖の戦いのパクリのようだけど、
よくあれだけ盛り上がる話に仕立てたなと、作者の創作力に感心するよ。
三戦では語ろうにも語れない
魏、蜀、呉のそれぞれで見方が違うからな。
あんまりよく分からん戦い。
11 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/09(土) 09:13:27 ID:vmGpwu3U0
結局のところ、歴史上特筆するべき重要な戦いだったと言えるのかな?
三国時代の数ある戦いのうち、わりと大きな戦いの1つ、といったところ?
でも曹操の南下は頓挫したんでしょ
劉備ってさ、この戦いの前後、上手いこと立ち回っているね。
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/12(火) 23:52:16 ID:+4RDTDB80
なんだかんだで狡猾な男だからね。
まだ、曹操の方が大物感があっていいよ。
曹操の軍勢で疫病が流行ったのは事実。
それが撤退の最大の理由だろう。
>>14 荊州で撤退する時なんか、まんまと民衆を盾に使ったしね。
あの男の才能は、逃げる時に最大限に発揮される。
17 :
「正史」からの引用:2006/12/15(金) 19:58:45 ID:Vd8GYiEq0
「北岸はおびただしい数の焼死者、溺死者により埋め尽くされた・・・」
とのこと。すさまじいね。
ところで三国時代は人口激減期で「演義」の兵力数は歴史と異なる。
赤壁での兵力は曹操軍が22、3万といったところなのに80万と誇張
されている。
小説だから数字は歴史と同じである必要は無いが無理が多い。
例えば弱小国の蜀が背後に魏という大敵を抱えながら呉に75万の兵力
で侵攻したり、南方に50万の兵力を出したり。それでいて主敵の魏に
は最大で30万程度しか出していない。これって矛盾だよね。
正史によると263年の滅亡時に蜀は人口94万、兵力10.4万。
呉は280年の滅亡時に人口230万、兵力23万。
正史の人口記録だと、後漢最盛期に比べて三国時代はほぼ10分の1に減っているけど、
実際は王朝の人口把握能力の低下によるところが大きく、そこまで極端な減り方はしていないと思う。
大きく人口が減少したことは事実にしても。
兵力の誇張は、古今東西どこでも同じだね。
三国時代は、実際のところ、最大でどれぐらいの兵力を動員できたんだろう?
信憑性があるかは分からないサイトか何かで当時の資料やらから夷稜の戦いで劉備が動員した総数はおおよそ13〜15万ではないかと検証してたな。
捕虜逃走を含め帰国出来たのは半数程で、これが滅亡の遠因になる程の戦力低下に繋がっているとすら書かれてたな。
ずっと後の時代の、サルフの戦いでの、
明軍も47万と号して、実数は10万ぐらいだったらしいからね。
桶狭間の戦いの時の、今川義元の軍勢の兵数は、
実数二万五千、号して四万、だったとか。
今川のは総動員可能な数がおおよそ4万ではないかって計算だったような?石高から。
で、今川家は4万つー流れじゃなかったかな?
ただ遠征軍は2万5千とかって数字らしいけど。
日本の戦国時代のような石高からの目安すらつかない2000年前の中国なんて実数は計りようもないっちゃないよなぁ・・
20 :無名武将@お腹せっぷく :2006/10/25(水) 12:53:13
赤壁というか、曹操の荊州侵攻以降の劉備の動きは神がかってるよな。
曹軍侵攻と劉ソウ降伏を知った劉備は、抵抗と曹操撃退の手を考える。
襄陽を占領したてこもるのは時間がないし危険が大きい。劉ソウがいるのだから、占領自体に手間取るかもしれない。
江陵に急ぎそこに拠るのは魅力的だが、だからこそ曹操もそれを真っ先に潰しに来るだろうと劉備にも読めた。
ではどうするか。
自分に近い立場の江夏太守劉キとの合力しかない。しかしこのままでは兵力差にかなり不安がある。
そこで劉備は敢えて襄陽や江陵が目的地かのような行動を取り、曹軍をひきずりまわすことにした。
曹操はまんまとその手に乗り、強行軍に次ぐ強行軍で劉備を追いかける。
更に極めつけは、曹操の切札虎豹騎である。袁譚を斬るなどここ一番に投入されてきた精鋭を、劉備はわざと使わせる策を使った。
それが民と歩調を合わせた行軍である。
江陵を確保されることを恐れた曹操は一挙に決着をつけるべく劉備に虎豹騎を投入。
しかし劉備の遅い進軍は罠だった。今まで民と一緒に行軍していた劉備は、虎豹騎に追いつかれるといきなり全速力で東に逃走。
虎豹騎は民に阻まれ劉備をとり逃がす。後に残るは疲弊して使いものにならない軍馬と恐怖を味あわされた民の曹操への恨みだけだった。
劉備はかくして真の目的を隠し兵力も関羽に分け温存しつつ、曹操には無駄な消耗を強制しながら江夏に入ることに成功したのであった。
24 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/18(月) 15:38:17 ID:DS06TSR40
演義じゃ、諸葛亮がやったことのようになっていることも、
実際は劉備が考えて実行していたりしていたことが多いからねえ。
その点で、劉備は過小評価かも知れない。
わりと「謀」の人だよな、劉備は。
結局、疫病とか、補給などの問題があって、
ちょっと小競り合いをやっただけで、曹操は兵を退いたんだろう。
27 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/20(水) 13:10:48 ID:6Nu581c8O
>>26 なんでわざわざ長江を下ってまでこぜりあいするの?
示威ともとれる行動。 でも失敗した、ということか?
29 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/20(水) 22:50:18 ID:6Nu581c8O
だめじゃん
曹操ショボッ
三国の史書はどれも自国に都合のいいように書いているからなあ
どの史書も同じ
曹操の軍勢と孫権の軍勢との間で戦いはあった。
近くで劉備がうろうろしていた。
曹操の軍勢では疫病が流行っていた。
曹操の軍勢は北へ引き揚げた。
分かっているのはこんな感じか
33 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/22(金) 03:21:37 ID:Dj0q6domO
>>32 孫権は江陵を占領した
劉備は荊州南部を占領した
呉郡から赤壁の戦いがあった近辺って結構遠いね。
曹操はこの戦役で完全な勝利を収めて荊州を平定した後でも、
江東の平定まではまたかなり時間を要したんじゃないかな。
赤壁は戦いの激しさでは官渡や夷陵の方がでかいかもね。
赤壁時曹操が江南を一気に制する気だったのか、
脅して降伏してきたらラッキー程度だったのかわからないが、
水上戦は苦手なうえ陣中は疫病が流行る。
そのうえに呉に鮮やかに負けることになる。
・・・まあ逃亡経路を押さえが間に合わず詰めを欠いたけど。
ただ三国志的には魏と呉の初めての激突であり、天下三分が形作られた。
って漫画に書いてあった
意識としてはどうなんだろう?
やっぱ辺境の江南でも、平定しないと、
天下を取った気になれない感じかな。
37 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/24(日) 00:17:11 ID:xcijv007O
辺境っても荊州も呉も蜀も秦が最初に統一した時から中原王朝の版図だからね
完全に独立されたままでは天下を統一したとは言えないよ
赤壁の防衛線さえ突破できれば陸路で敵の拠点を衝ける。
魏の優位は増え、呉の不利は増える。
また銅山が確保できるので208年以後の魏の南からの退勢はなかったかもしれない。
兵力では魏の方が圧倒的なので、そこで魏が進軍を止めても江陵確保はおろか第二第三の赤壁が何度も出現するだろう。
こうなった場合、本拠留守のジュンイクが造反でもしない限り、呉の破滅は確実。
だから三国鼎立は大国の機能不全によって訪れた勢力均衡だと言える。
2mを越える大男も病臥しては小さな蜂や蚊を容易には殺せないものだ。
その病める大国を文帝と明帝は社会変革によってなんとか治療し、数字上の優位を実体化出来るようにしたのだと考えられる。
>>38 見るたび疑問に思ってるんだが、江夏郡の銅山についてのソースをくれないか。
勢力地図を塗り替えるほどの影響力を持つほどの大鉱山なら、当時または前後の時代の記録から伺えると思うんだが、そんな記録をまだ見たことないんだよな。
当時は、旧楚地域の荊州の方が、旧呉越地域の江東よりだいぶ開発が進んでたみたいだねえ
江南に、漢民族が入植して本格的に開発が始まったのは東漢以降。
西漢時代には、まだ未開の、非漢民族居住地域の色合いが強かった。
戦国時代の呉越の頃は、やっぱり自分たちは中原とは別の民族だという意識が強かったのかな?
秦、楚もまったくの異民族だからな。
楚なんか特に異民族の扱いは酷い、楚人の典型は項羽だな。
楚人は楚人しか重用しない。
まだ荊州のあたりは、漢民族化が進んでいたのかな。
呉にいた山越という異民族って、どんな風習の民族だったんだろう。
楚なんて自分で王を名乗っちゃうくらいだからな
46 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/02(火) 23:04:13 ID:vFr0SExb0
演義の方の戦いについて語る時は、
鄱陽湖の戦いも分析しないとな。
47 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/03(水) 12:11:18 ID:DdWzo4/r0
連環の計は知恵の輪
48 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/05(金) 23:53:40 ID:kUQs2Tdn0
演義の赤壁の戦いは最高だね。
ドラマチックで、ものすごく盛り上がる。
55 :無名武将@お腹せっぷく :2006/10/26(木) 21:12:25
疫病で仕方なく撤退したんだよ
・長江は水流が早く動力を持たない当時の船じゃ水上戦の展開は不可能。
・諸葛亮の出師の表は曹操の生涯の敗戦を挙げているが赤壁の戦いはない。
・周瑜は戦後特に賞されることなく、地位も上がらず加封もない。
・赤壁の戦いの翌年に曹操は周瑜に投降を求めている。
だ、そうだ。
50 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/06(土) 19:54:54 ID:RFb11sdDO
>>49 それは完全な誤読によるものも含まれてるし、ほぼ全てコピペ元のスレで論破されているはずだが
周瑜の分析がソースだな、それ
53 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/09(火) 16:07:05 ID:4+a9Ykwc0
呉の側はどれぐらい戦意があったんだろう。
降伏論も強かったらしいし。
54 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/15(月) 15:30:20 ID:DZp+vL+i0
実際はあまり大した戦いでもなかったようだし、
そんなに意気込んで戦ったわけでもないんじゃないの。
呉にしてみたらオールスターな布陣に近くないか?
朱元璋対陳友諒の水戦以前の時代の講談における赤壁ってどんな扱いなんだろうか。
宋代なんかには、説話とかで三国志が語られていて、
それを基に、三国演義が作られていたんだよね。
どんなふうに語られていたのかな。
宋代では主に五代だな。
李存孝、周徳威、王彦章とくれば、民衆の大人気。それが昂じて、李存孝などニセモノのキャラが実物だと誤認され・・・
三国志関連は東晋頃から、街路や酒家で語られていた… だったと記憶するが。
「さぁさぁ、本日は劉公が逆臣曹瞞を華容に追い詰める話だよ。聞かないと損するよ」
東晋はどうかしらないけど、南宋のときは蜀漢を正統王朝としたがっていた。十八史略もそう。
戦略目標としては、劉表軍閥乗っ取りを企む劉備の行動を阻止すること。
これは成功している。
劉備が逃げたから、追撃を掛けてみただけ。
劉備の身柄確保がならなかったのは惜しいが、
戦いには勝ったことだし、撤収しよう。
↓
後、反曹操陣営は赤壁の戦いに大勝利したと宣伝
60 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/17(水) 19:33:30 ID:M1+zQe//O
>>59 発想は面白いが、劉備は最終的に荊州の支配者になっているから、曹操はその戦略目標も達成出来てないことになるな
>>59 江陵で一年間粘った曹仁が浮かばれません……
でも、演義の赤壁の戦いは素晴らしいと思う。
あの時代に、これだけわくわくする展開の戦いを書けたんだから。
赤壁の戦いがなかったら、演義の魅力も半減だろう。
同感
赤壁までの盛り上げ方も凄く良い
どんどん強くなるライバル、自分の国すらない主人公
それが軍師を得て、ついに一矢報いる
64 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/23(火) 12:49:01 ID:l3w9KF/y0
<クイズ>皆さんは知っていますか、日本にもある「小赤壁」其処には孔明が祈る
祭壇まであるらし。
うちの近所のデートスポット。
つうかカーセクロススポット。
小赤壁は、兵庫県姫路市木場の瀬戸内海木場港から海岸沿いに燈籠地山・姫御前山を経て東へ連なる高さ50m、長
さ約1kmの絶壁。石英粗面岩からなる景勝地として、小赤壁公園になっている。
1979年(昭和54年)、ノジギクや桜の名所として知られる木庭山を含めた磯周辺と共に、姫路市の緑の十景のひとつに
制定された。「小赤壁」の名は、1825年に頼山陽がこの地に訪れた際、中国の赤壁に似ているとして命名したことによる。
頼山陽は、中国へ行ったことないだろうw
頼山陽が、じゃなくて、その知人の中国人が、海からみたとき、「なんか似てる」って言ったとかなんとか。
じゃなかったっけ?
68 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/23(火) 18:21:39 ID:l3w9KF/y0
66さん正解です。
一度言って見たいです。
他にも有るようですよ。
日本にもある三国志名勝 (秩父赤壁)
埼玉県の長瀬駅(秩父鉄道)から歩いて直ぐの所らしい。
私自身は行った事がないので正確な事は分からないが、荒川になるらしい。
ライン下りもあり、秋の紅葉時分は大変な賑わいだそうだ。
高さ30メートル幅500メートルもある断崖が中国湖北省の赤壁に似てい
ることから名づけられ、長瀬の観光名所の一つになっている。
夏の西日が断崖をうっすらと赤く染める光景からもそう呼ばれるようになっ
たらし。
万里の長城もあるらしいぞ
ちっちゃいのw
70 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/23(火) 20:18:48 ID:l3w9KF/y0
↑どこ、教えて!
姫路市西北部の太陽公園という場所にもあるらしいのだが、
俺の記憶の中にあるブツとは違うんだよな
カクエイ田中が日本列島改造と称して地方にバラまいた補助金で
作ったのがあったはずなんだが、ググってもでてこない
どこだっけなあ
わからん。 兵馬俑なら王子公園にあるけど。
73 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/25(木) 18:31:08 ID:W6N42f+x0
鳥取県の中国庭園燕趙園にはないのかな?
今、赤壁と呼ばれている場所と、
実際に戦った場所は別なんでしょ。
さあ?
後世の詩人が訪れ、赤壁の戦いを妄想して詩作してみた場所が有名になったけど、
そこが実は場所違いだったという話を聞いたことがあるけど。
その早とちりした場所が「今、赤壁と呼ばれている場所」のことかな。
詩を作った「文赤壁」と古戦場の「武赤壁」
生物兵器を投入して疫病を流行らせ、強大な曹操軍を退けた軍事衝突だった。
しかし倫理的に問題があるとして、生物兵器投入の事実は伏せられた。
曹操が取り込んだ荊州の水軍ってのはそんなに大きな規模だったのかな。
実際は大したものじゃなかったと思うけどね。
二十万人全員が水上に布陣することもなかっただろうし。
80 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/06(火) 13:29:47 ID:ru5o6rh90
荊州を占領した軍勢の一部を、呉の方へ差し向けたが、
敗北、荊州に留まっていた本隊にも疫病が流行り、
この戦に利なしと判断した曹操が撤退した、
ってところかな。
撤退しただけで何で統一に絶対必要な江陵まで落とされちゃうんすかね
何で囲まれた曹仁への援軍が李通とかチョボチョボと送るだけなんすかね
82 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 17:04:13 ID:jP79iQwPO
連環の計は実際はなかった。火計の威力が曹操軍の船団を飲み込み、陸地の本陣にまで及んだ。そこに周瑜の軽装の精鋭部隊が斬り込んだのだ。
陸軍は劉備が主力だってちゃんと書かれてますけど?
劉備も陸戦に関しては歴戦のプロだしなぁ。
しかも夏口の万単位の戦力のオマケつき
曹操やってきてファビョった孫権に劉gの荊州奪還手伝え位で売り込んだとか
85 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 20:53:28 ID:jP79iQwPO
曹操は敗戦の直後に「劉備は英雄だがわしより頭の回転が遅い。わしならここで伏兵をおき急襲するが…」と言ったそうだ。劉備は追撃したが すでに曹操は退却していた。被害にあった戦艦は荊州にあったもので 実質的に被害はなかったようだ。
>>85 大軍を誇る曹操が退却時火攻めに遭えば死んでいた状況って物凄い惨敗じゃん
軍が総崩れにでもなってなければそうはならないよ?
せっかく手に入れた艦船を失ったと言っても、
撤収するにあたって持ち帰れないから焼却処分したと、
後に孫権へ伝えているが
>85
曹操も負けず嫌いだよなぁ。
>>87 撤退しただけならすぐに動けばいいのにそれから1年も何してたんすか?
曹仁さんもほぼ放置っすよね?
91 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/20(火) 22:55:09 ID:Mnn0kTHd0
【中華芸能】ジョン・ウー映画『赤壁』に趙薇、張震も出演決定
構想段階から話題を呼んでいた呉宇森(ジョン・ウー)監督の映画『赤壁(Battle of Red Cliff)』が3月28日、
ついにクランクインする模様だ。主要キャストには既に発表されていた 周潤発(チョウ・ユンファ) 、
梁朝偉(トニー・レオン) 、 林志玲(リン・チーリン) のほか、 張震(チャン・チェン) 、
趙薇(ヴィッキー・チャオ 、=写真)、 胡軍(フー・ジュン) なども名前を連ねている。
中国新聞社が地元メディアの報道を引用して伝えた。
小説『三国志演義』のクライマックスである「赤壁の戦い」を映画化するもので、
周潤発が周瑜、梁朝偉が諸葛亮、張豊毅(チャン・フォンイー)が曹操を演じる。
関羽と魯粛のキャスティングはまだ公表されていない。
壮大な物語に豪華キャストのこの作品は2部作となる予定で、公開時期については2つの案が出ている。
1案目は第1部を08年の北京オリンピック開会前に、第2部を08年末に公開、
2案目は第1部を公開して20日後に第2部を公開するというものだ。(編集担当:恩田有紀)
2月20日18時58分配信 サーチナ・中国情報局
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070220-00000015-scn-ent
ジョン・ウー監督なら10万本の矢がスローモーションで乱れ飛び
白い鳩の群れも飛び交うんかね
胡軍はいま項羽やってるし
張豊毅はむかし韓信やってたな
ということで楚漢の戦いも映画化希望
惨敗したにしては将校の戦死者がゼロだし
ただ撤退したにしては撤退しすぎ
国内でなんか異変があったのか?
94 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/07(水) 16:21:34 ID:pmuyLG0K0
>>92 制作費が膨らんでいるし、派手にやると思われる。
梁朝偉(トニー・レオン)はスケジュールの都合がつかなくて降り、
代わりに金城武が出るらしい。
>>93 曹操は襄陽までは陥としたが、江陵はその先。
要するに出征した先で敗れたのだから、撤退するのに特に理由を必要としないんじゃないか?
その後、曹仁を置いて1年ほど粘らせたのだから上出来だと思う。
江陵も落としてるよ
97 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/11(日) 23:04:03 ID:ytTibeqn0
呉郡と赤壁の辺りってかなり遠いよなあ。
上出来って馬鹿か。狙いは江陵だけでは無いし。
執拗にストーキングしてる相手がいるだろうが。劉備だよ劉備。
その後の有り得ない雄飛が起きているし、三度目の劉氏マジックを防いだのは流石だが、長年の対立で結果的には共倒れしてる。
長阪の奇策で仕留め損ねた、或いは追い付かれた為に曹操も劉備も天下を失ったのだ。
99 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/29(木) 23:46:09 ID:bup2r0A20
劉備ってよく伸し上がれたものだな
100 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/31(土) 03:08:23 ID:4ZB8YidFO
数々の敗北が劉備を英雄へと成長させたのだろうね
生き残るってのも一つの才能だな
101 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/08(日) 23:57:30 ID:hHA9crCA0
赤壁の戦いの時で劉備はもうかなりの歳だね。
老獪にもなっていようさ。
102 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/20(金) 01:02:12 ID:BcQ8Aocq0
劉備は脾肉の嘆のころに妄想しすぎて猪武者から老獪な人間になったな
104 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/04(金) 02:34:09 ID:Ew5bbp8r0
猪武者と言うより野心家だったんじゃないの
105 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/04(金) 02:38:10 ID:ztB8x+imO
張純ときの死んだふり以来、猪武者ではないと思うけど
なんで、赤壁の戦いを小さな戦いで、曹操軍の被害が少なかったと主張する人が
こんなに多いのか
『三国志の真実』系の本に影響されすぎ、もしくは曹操信者過ぎ。
曹操が負けた戦いすら、勝った、もしくは演習だったと言い張る『蒼天航路』
ですら、曹操の敗北は認めざるを得なかった(曹操の病気でごまかしたが)
もっと、広い視野で歴史を見ようよ
なんでそこで蒼天航路が出てくる
正直説得力無いんですが
>>107 いや、影響されている人は、かなりいると思える。
それとは別に、曹操信者すぎて、武帝紀しか見ずに
赤壁の戦いはない、とかのたまっていた人が確実にいたし。
漫画がソースですか(笑
気をつけろよ、マンガどころかゲームをソースに三国志を語る奴がいる時代だぜ…
しかもエロゲだったりする…
人それぞれの赤壁の戦いがあるのさ
楽しくていいじゃないかw
正史の都合のいいところを断片的にとりあげ、
荊州失陥の理由ついては何の反論根拠もだせず、赤壁を小規模だったと言い張るのは
漫画やゲームをソースにする人と五十歩百歩だと思う。
微妙に関係ないが
「荊州」失陥じゃなくて「荊州南部」失陥もしくは支配失敗ではないかと思うのだが
115 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/24(木) 22:39:57 ID:1hLeDDGu0
赤壁の戦い、映画ではどういうふうに描くんだろうね?
演義の火攻めは外せないわな。
116 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/18(月) 23:05:58 ID:oFXeSC450
呉側からの視点が中心になるみたいだよ。
配役を見ても、主人公は周瑜と諸葛亮だな。
117 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/09(月) 23:18:10 ID:vDJpyU4W0
荊州にあった水軍の規模って実際はどんなものだったんだろうか?
118 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/16(木) 10:46:43 ID:V3c6qb9S0
実際の戦いではそれほど水軍は用いられていないかもね。
長江の近くまで南下したところで、疫病が流行り、
戦線も膠着したために撤退って感じ?
120 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/22(土) 17:22:46 ID:Xgw81GDf0
>>110 お前が気をつけろ!ゲームをソースにしたオタが歴史を語るな!!
このドチビ糞カス!!!!!!!!!!!!!!!!!!
映画の赤壁で監督がジョン・ウー
主人公が周ユと諸葛亮
ジョン・ウーってことは派手なアクションになるんだから
将軍や参謀が主人公じゃ脇役が大暴れするんかな?
まさかビーム出したりロリ二喬出たりしなよな
武侠ヲタは芯でくれ。
123 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/22(土) 23:30:02 ID:ya+PITE50
武侠ヲタには見えないけどw
当時は戦いに当たって、民間からの船の徴発もかなりあったんだろうか?
>曹操やってきてファビョった孫権に劉gの荊州奪還手伝え位で売り込んだとか
孫権にとってあの時点での劉備の戦力がそれほど頼もしいものに思えただろうか。
俺は呉陣営の劉備奉戴説を信じてるんだが、このスレ的にはどんなもんかね?
寄生虫説に1票
>>125 孫権にとって劉備は戦力より、荊州への足がかりとして必要だったと思う。
それまで江夏を通ることも出来なかったんだから、劉備・劉gが味方というだけで江夏をスルーできるのは荊州に侵攻する上でそれだけで大きなメリット。
兵力としてはそんなには期待してなかったかもな。
ただ、孫権たちは劉備の軍事力を過小評価したために荊州で劉備に出し抜かれた感がある。
128 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/01(木) 00:22:02 ID:wDIUvIK+O
曹操が赤壁で決戦しなければいけない理由ってあったのかな?
大河での戦いは艦船、武将共に呉に有利で、曹操は赤壁という地の研究を怠り、特質な天候の事も知らなかった
天地人全ての利を相手に預けて戦に望んだ訳だから負けは予測できそうなのだが、反対する部下はいなかったのか?
わざわざハイリスクな戦いをしなくても、まず蜀を占領して益州あたりから長江を渡河すれば水上戦をしなくてすんだはず
慢心は怖いな
>>128 曹操は赤壁で決戦したかったわけじゃないと思うよ。
曹操はまず劉備を滅ぼしにいったんだろうから(その後は孫権かもしれんが)、劉備をスルーして孫権を狙うとは思えない。
慢心には変わりないんだが、曹操は劉備を狙ってる内は孫権が侵攻(赤壁は荊州側であり孫権は自領を超えて来ている)してくるとは思ってなかったんだろ。
孫権軍に進撃を阻まれ江夏郡にまともに上陸もできないなんて想定してなかったんだろう。
劉表とは仇敵、家臣には慎重論が強く、主の孫権は若輩者、という呉が劉備と手を結んで自分に真っ向から立ち向かってくるということ自体を計算していなかった。
赤壁のような地で阻まれると思ってなかったんだから、研究もしてなかっただろうね。
脅しの文書送れば黙ってるはずだ、ってね。
曹操陣営では程イクとカクはそのあたりの危険性を承知していたんだが、曹操は取り上げなかった。
曹操としてはとりあえず荊州の制圧が目標。
これで天下に王手なんて思ってなかったと思う。
曹操「劉備を江南にのさばらせちゃならんな」
↓
孫権「横からカウンターアターーック!!」
↓
曹操「ちょwwww」
↓
劉備「俺の戦略どおりwwwwwww」
諸葛亮「イヤイヤイヤイヤwwないないwwまあラッキーだけども、それはないッスw」
132 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/02(金) 00:17:19 ID:X+0CgBeZO
>>129 うん呉の進軍は曹操の誤算だった
呉がきたから戦略的な撤退という選択肢は無かったのかな
慢心+覇王の面目っていうのもあったんだろうか
これで孫氏も撃破できたら、一気に天下統一へ、
って思って、欲を出したのかも
134 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/02(金) 12:18:45 ID:uURc7e9lO
曹操の侵攻から赤壁までの劉備はラッキーでは片付けられないよ
あれは劉備の策略でああなった面が意外と強いと思う
赤壁 たそがれ 曹操の小部屋♪
136 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/02(金) 21:49:15 ID:uURc7e9lO
劉備のラッキーを超えてる点
・あんなに敗走続きのはずなのに赤壁時点で(自称)二万の兵を保持
・曹操は江陵こそ占領したが非戦闘員殺しの悪名を被る
・江陵で合流するはずの関羽と上手く合流して一緒に江夏へ
・襄陽をスルーしたお陰で曹操の鋭鋒を躱した
・虎豹騎は劉備追撃の強行軍で使えなくなった
・荊州の支配者ではなかったのにいつの間にか荊州の旗頭になっている
劉備視点から見た曹操の荊州攻め
・いつ攻めてくるかと待っていたら、すでに間近でしかも主は降伏していた
→やばい今すぐ逃げよう。江陵あたりを確保できればなんとかなる!
・襄陽を通り過ぎる。諸葛亮が襄陽攻めちゃえとか言ってる
→いや曹操に近すぎだし。江陵くらいまではいかないとな。紳士っぽくふるまっておいたら逆に味方増えるかもしれん。
「ぼくそんなひどいこと出来ないよ(棒」劉ソウガクブル。劉ソウ見限る者続出ウマー
・なんかついてくる人多すぎて進軍遅すぎるんですけど。「おいてっちゃえば」って言ってくる奴もいる
→おいてったらさすがにみんなガッカリだろうな。江陵は関羽に先行させよう。これなら本隊が負けても関羽隊は温存できるし。
俺?曹操に追いつかれてから逃げることにするよ。
・曹操、襄陽を一気に占領。さらに虎豹騎5000で猛追
→おいおい、早すぎだ。馬つぶれちゃうぞ。
・虎豹騎、劉備に追いつく
→やべ、逃げよ。幸い避難民とか大人数のおかげで俺らの捕捉に手間取ってるし。それに避難民をあんな攻撃する奴は嫌われるぞ。
趙雲、なにやってんだ?息子?おいおい息子よりお前の方が戦力なんだから自重してくれよ。
よし、こっちに逃げれば多分関羽と出会えるはずだ
・魯粛に会う
→お?向こうから面白い話が来たぞ。江陵を確保できてもできなくても孫権の力を借りるしかないとは思ってたしな。ちょうどいい。
もう江陵無理だし、第二候補の江夏に行こう。
・関羽と合流、江夏へ
→よし計算どおり。関羽の船に乗って、さあ江夏行きだ。あ、諸葛亮は孫権とこ行ってて。
139 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/27(木) 09:57:46 ID:OLqrEA5H0
140 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/27(木) 16:36:56 ID:U3FLF5qUO
141 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/28(金) 18:17:42 ID:DQn8pFNA0
理屈を超えた躍進を見るところ、
劉備ってやっぱり、天命があったんじゃないかと思えるw
三国志がおもろいわけだわ。
普通なら、地元住民とのつながりから、その地に勢力基盤を樹立して
一方面の雄となるのに、劉備ってやつは…
ある意味では天才以外の何者でもないな
145 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/28(金) 23:17:45 ID:OKz/v9UK0
高祖の再来w
146 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/04(月) 21:33:04 ID:J390160b0
赤壁では疫病が酷かったというが…
正直、万単位で集まって戦争する事自体に無理が有ったんじゃねぇかと思うんだよな。
当時、万単位の会戦が起きるたびに疫病起こってるじゃん。
「敗戦の痛手隠し」と言ってる人もいるけど、戦役に加わった各将軍の伝と照らし合わせても、
彼等の討ち取った、討ち取られた合計と、疫病による死者数とを比べれば、かなりの差異が有る。
濡須戦なんかでは司馬朗などが防疫を担当した記述が有るし、竹林の七賢など高級官僚も死んでる。
呉書伝を紐解けば、江南の賊討伐の中で死体処理をした程普が病死してる。
多数の人間が集まった時の汚物・廃棄物・死体処理、それに対する公衆衛生の管理。
紀元2世紀の文明レベルで会戦やってた事が、疫病を頻発させたとしか思えんぜ。
148 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/18(日) 06:20:01 ID:nudS+/0L0
赤壁の戦いって、あったかどうかも疑わしいという学説があるって、
何かの本で読んだことあるよ(「諸葛孔明の生涯」だったかな?)。
出師の表に曹操の敗戦が書き連ねてあるのに、赤壁だけ無いとか。
あの戦いの周瑜の武勲は相当大きいのに、褒美がほとんど無いとか。
けど、陳寿の史書には書いてあるから、無いとは言い切れないと
凄い曖昧な結論だったがww
ほんとにそんな大会戦だったとすれば
この戦いで死んだ魏側の武将が少なすぎるからね。
同じような状況の夷陵の戦いでは蜀漢の武将がバタバタ死んでるのにね。
>>149 大会戦という可能性は非常に低い。
曹操軍は行動線の限界と気候風土の違いで、赤壁付近で疫病にかかって停滞していた
そこで攻勢をしかけてきた(諸葛亮の差し金で孫権がやる気になった)周瑜軍を厭って、
長江北岸に撤収したが、南岸の周瑜は持久戦を捨てて、黄蓋の進言に従い
例の偽って投降させ、火船をもって北岸の曹操陣営を焼く作戦を実行した。
その結果、強風も手伝って、曹操陣営を燃やし人馬に被害を与えた。
ために曹操は南郡(江陵)を保ちつつ、軍を引き上げさせた。
というのが、周瑜伝にあるのだけど、両軍ガチンコではなく、限界を感じていた曹操が
引き際を計っていたときに、周瑜の速戦があって、いらぬ損害を出してしまった
という感じにみえる。
>>夷陵の戦いでは蜀漢の武将がバタバタ死
それはやはり、夷陵での蜀漢軍が突出しすぎていたからじゃないだろうか。
高級将校が討ち死にしまくるっていうのは、ほとんど逃げ道を閉ざされた縦深に
取りこめられたからとも思えるが。
夷陵のが死にすぎてるんだろうね、どちらかというと
赤壁については、大会戦であろうがなかろうが、結果として周瑜と劉備は一気に江陵まで攻め込み、曹操は迎え撃たずに北へ戻った
その後も孫権と劉備が荊州でいさかいさえ起こしているのに荊州に再度攻め込むことはなかった
更に曹操自身もあとちょっとで劉備の火計の餌食になるところだったという話さえ残っている
曹操の大敗北であった事実は揺るがない
>>151 結局、曹軍の拡大限界の証明みたいな意味合いは非常に強いね、赤壁での敗退は。
漢中攻防は、劉備のクリーンヒットで無理やりもぎ取られた感じもあるけど
火計死んだのは旧劉表と袁紹軍の降兵であり、
曹操軍自体は疫病による被害の方が大きく、
撤退に成功したと見た方がいい。
>>153 それは史料的根拠は特にないと思うが、まあそれは別としても・・・
袁氏の兵は、冀州を第二の本拠としている曹操としてみれば主力と言っても過言ではない
これが多数死んだのであれば被害甚大であったことに違いは無い
どっちかというと「成功したのは撤退だけ」、と表現するべきだろう
曹姓か夏候姓の連中に死者が皆無だからねえ。
一族に軍団を統率させてる筈なのに。
あんまりたいしたこと無い戦いだったのかなあ。
>>155 『三国志』に名を残すのは原則として中途で戦死などしなかった者だからな
記録が無いだけで本当に皆無だったかどうかは分からない
157 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/22(木) 22:08:15 ID:qUdK0POR0
なら夏侯淵は何?まさかあれは病死とかいわないよね?
158 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/22(木) 22:50:56 ID:ya+mWxdsO
1面から9面まであった。
待て、名前と戦死したり敗北したということ以外、記述がろくに無いのはけっこういると思うぞ。
まあ正史に載ってないだけで当時有名だったり実績があったやつが多いだろうが
正史というか、国史の記録は、そういう戦死者のリストアップするのが目的ではないからね。
それをするなら、従軍した名簿やら論功を記録する書に当たらないと。あるかどうか知らんけどよw
馬良みたいなガチガチの文官でさえ戦死の夷陵の戦いってのは
どれだけ酷い負け戦だったのやら。
やはり曹操軍の幹部クラスに戦死0ってのが
赤壁の規模に疑問を持たれる理由だよなあ。
>>162 皇帝親征で、なおかつ皇帝の近辺がやばくなるほどの重囲に落ちたんだから
ついてきた文官が死ぬのもそりゃおかしくないってね。
赤壁の曹操の敗北は、重囲にさらされる以前に逃げ支度していたところ
思ったより周瑜が早かったか、黄蓋の偽投降を信じすぎて、迎え入れようと
待ってしまっていたか。
どっちにせよ、このときは周瑜が曹操を上回っていたのだと見るな。
>>163 凄い亀レスだけど
船団焼かれたのが致命傷なんじゃないかと。
長江を渡る方法が無くなったっていうので撤退したんじゃないかなあ。
165 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/31(金) 04:01:25 ID:adu3XZdsO
「三国史」通の皆様に質問。
映画「レッドクリフ」の史実率って大体何%くらい?
>>165 レッドクリフは歴史書ではなく三国志演義という小説を元にしている
その上さらに創作を加えているのだから史実率が高いはずはない
三国志演義は史実に近い場面もあるが、赤壁の戦いの史実率は低い
映画でも実際の戦いにほとんど無関係なはずの諸葛亮や小喬がメインキャストにあがっているから
この映画に史実率の高さは全く期待できない
けど、観てないから何%かまではまだ言えない
史書には赤壁の記事が少ないしなあ
168 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/07(金) 01:09:37 ID:IeBX3YDx0
「赤壁ストライブ」という漫画を読んだ。
呉(孫権)視点で、孫権vs豪族とか周瑜vs程普とか描かれてるわりと正史ベースな話。
「真実」とは言わないまでも、こういう一面もあったかも、という感じで結構楽しめた。
発売時期的にレッドクリフ便乗だろうけど、かなり当たりだと思う。
>>168 しかし、この漫画ほど見せ場の無い孔明も珍しいなw
まあ実際はこんなもんだったんだろうが。
見せ場が無い孔明といえば「江南行」って漫画もだったよ
江南行、魯粛メインってすげえw
買おうと思ったけどamazonで3週間ってのがなあ。
「江南行」では普通に読んでたんだけど、ネットで続編読んだら魯粛の美化が気になった
割と正史寄りの漫画だけど魯粛に侠っぽさはゼロで善人すぎるんだ
曹操軍にたいした被害ないしな
174 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/10(火) 16:55:15 ID:VAzPc2Jk0
175 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/10(火) 16:55:52 ID:VAzPc2Jk0
>>147 河原のホームレスのテント村
しかも数万人
そりゃ伝染病で死ぬわw
176 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/10(火) 17:01:42 ID:VAzPc2Jk0
>>160-161 指輪物語でも、最終的に生き残った連中は扱いが大きいのに
途中戦死したヤツは扱いが悪いw
だから映画化したりすると ザコだけが死んでるような見た目に・・・
>>173 さすがにこれは釣りと見て、スルーするぐらいはできるようになったw
178 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/20(金) 21:12:15 ID:aHX/Ke6J0
史実のほうの赤壁の戦いは
なんでこんな戦争やってんだろ? という印象
179 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/20(金) 21:13:41 ID:aHX/Ke6J0
180 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/26(木) 15:28:47 ID:YUKgzXVa0
小喬って美人だったの?
181 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/10(金) 23:44:37 ID:Cn6Cw9WsO
姉の大喬と二人で、江南の二喬、て言われた有名な美人姉妹だよ。周瑜もかなりの美形だったんだよね?
182 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/12(日) 16:20:28 ID:ru5HVa7AO
予告が1番面白いといういつものパターン
高校野球よりも熱闘甲子園の方が熱い
曹操が火計に便乗して、疫病の蔓延や船が敵に渡らないようにと、自分で船を焼いたとかもあるしな
185 :
中原を制しただけあるわ:2009/10/18(日) 01:12:36 ID:TrAM8jDD0
曹仁2回も10万の兵士失ったの?
186 :
中原を制しただけあるわ:2009/10/18(日) 23:49:16 ID:zsCE6MRy0
「未来への最終決戦」と言うのは大阪夏の陣のことを言うのでは?
東南の風が起きた理由。昔、赤壁の空は「曹操は朝廷をないがしろにし、あらゆる物を殺して権力を手に入れた。
だが、朝廷の命令だと強引に攻めてき来る。しかも長年荊州は平和が続いていた。でその荊州を治めていた劉ソウ
が曹操に降伏した。だから赤壁で決着がつくだろう。そこで今一番元気がよくて頭もいいとされる諸葛亮孔明を
頼って東南の風を起こそう!我々も人には見えないが、漢王朝が支えてきたことはよく知っておる、だから
またこの漢王朝を昔のように栄えさせようではないか!!」
と言って東南の風が起こったのではないでしょうか。
曹操は寄りによってなんで官渡の戦いで勝ちながら赤壁の戦いで負けたんだ?
曹操は徒歩で逃げたが、孔明が諫めたので、逃がした。もしあそこで曹操を殺していたら、
その時孫権が運が一番良かったので孫権は中原を治め、周喩が益州攻略に成功し、
劉備ら曹ひらは、何とか持ちこたえぐらいで、曹ひは滅び、劉備と孫権の天下が二分になって
いたと考えられる。
187 :
中原を制しただけあるわ:2009/10/19(月) 20:11:30 ID:zVd+2Q7q0
さすが徐庶!連環の計見破っていたのか。そして
もう二度と攻め込むな」と言わしめた。
曹操より呂布の方が好きな人。曹操は冷酷だが呂布はそうではない。まあ、、、確かに、、、、。
188 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/19(月) 22:04:49 ID:BB5gzwx3O
どんな教育を受ければ、こんな文章が書けるんだ?
ちょっと難解ですな……
190 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/20(火) 16:24:04 ID:mtzw1n2H0
よし俺が添削してやんよ!
…と思って読んでみたが無理ですたw
南斗五車星、風のヒューイと炎のシュレンの仕業だったんだよ。
192 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/25(日) 13:45:05 ID:18RgRu300
ケンシロウ好きなら、ある程度の年齢がいってると思うんだけど
そういう幼稚なギャグはやめとくべきでは?
193 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/27(火) 09:26:03 ID:s5lGbnnZO
幼稚でもいいじゃない、おもしろければ。
ただ191はまったくおもしろくないのが問題
げぇっ!○○っ!
>なんで官渡の戦いで勝ちながら赤壁の戦いで負けたんだ?
天下分け目の決戦では負けるわけにはいかなくても、ド田舎の
辺境視察ついでに少数民族のゲリラを相当するのに失敗しても
「また来るか」で引き返すのは当然のことでしょ。
日本で言えば幕府を開いた家康が、蝦夷地にこもった辺境の民が
「我こそは日本国王なり」ってほざいてるのをほったらかしていた
程度のことだったんだし。
ふと思ったんだが
昔はほぼ自給自足で賄うことも不可能じゃないし
戦争で功績あげて家族でラクしたいなんてのも
中国ならやりそうだよな
とふいに思って兵数ガチでも中国ならいけそうな気がしてきた
数作っとけば1人は当たる人海戦術
197 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/13(火) 01:34:58 ID:R6r5Y85K0
荊州には住血吸虫の風土病がある
そいつにやられて引き返したんだろ>赤壁の真相
寄生虫は宿主苦しめるがなるべく殺さないから(寄生虫自身も死んじゃうから)、
慌てて帰ってどうにかすれば生き残れるぞ
元寄生虫大国の日本を考えると
さほど被害がないように思える
地位の高い奴らは
「何か腹いてぇ!→疫病じゃ、焼けい!→スタコラサッサー→治療」
で済んだが、
兵卒とかは
「何か腹いてぇ!→炎の向こうで上層部が撤退→おい、待ってくれ!→て、敵襲!?→死亡」
だろうな
中国人なら寄生虫も食っちまえよ
400年前の日本の人口が確か2000万人くらいだっけか
たかだか400年で1億突破するって事は
紀元前からしっかりした文明のあった中国での戦争は人数がヤバそうだな
衛生とか医療の方が重要かと。
>>201 日本の人口増は明治以降の品種改良による米の北限の北上と増産によるものが大
てs
205 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/06(土) 07:30:57.67 ID:Z5/rutLSO
ここまでレス見てきたけど
お前ら何かと史実なり正史に記述あるとか言って反論するけど
何で同じ書物読んでるはずなのに内容食い違ってんだよ
本当に歴史書読んでるのか?正史を枕言葉に自分の妄想垂れ流してるだけだろ
特に曹操マンセーしてる奴
206 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/06(土) 14:38:41.68 ID:B+vSVSoSO
解釈の相違です
>>205 まあちゃんと正史他史料読んでる人は
演義程の大戦はなかったものの、曹操は被害を出してるし
後漢末期に確立されたと思われたヘゲモニーを引っ繰り返してる契機になった戦い
という位置付けをしてると思うよ
たいしたことなかった人は史料を見落としてるし
超損害!大損害!って人も史料を読んでない
208 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/03(土) 02:37:00.26 ID:QNt+SK1R0
まあちゃんって誰
お前よりは上
田宮のまあちゃん
211 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/09(木) 13:04:35.15 ID:gbv1cyBU0
とりあえず笑っとけばいいと思ってる馬鹿っているよね
213 :
モー娘。中国ファンのスレ(日本語版):2012/06/18(月) 00:00:24.34 ID:26pbZsMq0
モー娘。中国ファンのスレ(日本語版)
メルクルの事だろ。
216 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/20(土) 19:40:12.53 ID:XzwTfM8z0
赤壁の戦いなんて無かった
有名武将が誰一人死んでいないのもその理由の一つ
217 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/21(日) 09:59:41.72 ID:OtR1lUbZO
なんも戦争する毎に将軍武将クラスが必ず死ぬとは限らないんだが。
もちろん下士官クラスや兵卒は程度の差こそ有れ死人は出易いけど。
皆様どんなでしょうか、このオイラの釣られっぷりw
そんな事言ったら曹操と劉備の戦いなんて多くが無かった事になりまっせ
>>216 考えたんだけど、劉備が赤壁で連合軍の総大将をしてるって可能性は無いか?
魯粛伝の呉書だと関羽が劉備は甲冑も脱がず戦ったって有るし、魏志じゃ曹操は
劉備に敗れたって書いてある。他にも程c伝は孫権が劉備を立てて闘うと云い、諸葛亮伝だと孫権は劉備こそ曹操を止められる
英雄と言った。要は劉備が赤壁において果たした役割は演義や従来の正史絵巻よりも重大なんじゃねって事だ
219 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/09(火) NY:AN:NY.AN ID:ETuSD4UA0
>>218 曹操軍vs.劉備・孫権連合軍って従来の図式で赤壁の戦いを眺めると、
孫権軍の総大将たる孫権は後方にいて、曹操本隊とは別の場所(合肥)
を攻撃しているから、赤壁(烏林)で曹操と戦った軍勢は、
実質的には議論の余地アリだが、少なくとも名目上の総大将は
間違いなく劉備だろうね。
そして、孫権が劉備の許に派遣した大将が、
周瑜と程普(左右の督)って構図。
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名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/10(水) NY:AN:NY.AN ID:QXK1JGd70
自レスしちゃうバカ
うんとこ