劉備の息子達のネタならなんでも・・・
孫もOK!
自ら2をいただき!!
趙雲が阿斗を救いだして、って話。
実は劉備は阿斗を捨てたかったんじゃないかな。
劉備の事だから、阿斗がガキの段階で、暗愚な人間って
判ったんだと思う。
趙雲も空気読めない香具師だな・・・
などと適当に書いてみた。
どっちかっていうと三戦向きだな、このスレ
オレ、昨日、チラシを捨てたら、
落ちましたよって、親切な人が拾ってくれたんだよ
まさか、捨てたと言えないから、礼を言ったけど
劉備はそんな心境だったのか
まあ、基本的には子供に冷たい父親だからね。
劉封も別の意味で処分されたと聞くし・・・
・・・とレスしてみる。
劉邦も子供を捨てようとしてなかったっけ?
劉備って劉邦を真似るように意識していたのかな?
多分、劉邦の遺伝子と思われ・・・
んじゃ光武帝はどうなるのよ?と
劉備は確実に劉邦を意識してたんだろう
曹操が光武帝を意識してたようにね
曹操は武帝か始皇帝ではないの?
性格的にピッタリな気が・・・
それにしても曹操は妻子に対して気配り上手。
劉備は妻子すら殆ど顧みなかった気が・・・
曹操があれだけ光武帝のマネしてるのに、武帝か始皇帝指向な訳がない
王朝末期まで真似しなくても・・・
曹操って太祖・武帝と呼ばれてるから、
どうしてもどこか武帝を意識してしまう。
劉備は昭烈帝と帝号はわかるが。諡号はわからない。
廟号っぽくいえば適当に先主と呼ぶしかない・・・
あぁ・・・
三國志を始めて読んでからかなり経つと言うのに
劉備の諡号が不明であることに始めて気が付いた。
ありがとう。
15 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/18(土) 07:09:15 ID:kL4waV6g0
曹操と光武帝は全然イメージ重ならないなw
劉備は、劉邦の真似しようとしていたんだろうなあというのは伝わって来る。
昭烈皇帝が諡号なんだが。
むしろ曹操はどこか始皇帝と武帝を意識してたような・・・
劉備は劉邦以外に意外と商鞅を意識してたかも。遺言でも
劉禅と劉永兄弟に商鞅の兵法書の「商君書を読め!」と言い遺してるし・・・
曹操の袁氏を破った後で、配下が内通していた証拠の文書を読まずに焼却した、
なんていうエピソードは光武帝の真似だよね。
あーそういえば・・・光武帝が河北鎮圧でそんなことが・・・
漢中撤退の時も光武帝を引用している
だいたい武帝なんて曹操に限らず、宇文ユウや簫衍だって武帝だろうが
漢武帝は国庫の潤沢な資金を自己満足の為に外征に使い
儒家を重用した人物でこれっぽっちも曹操と被らない
始皇帝は言わずもがなで、何コレと新しいモノを想像した始皇帝に対し
曹操は屯田兵を始め、過去の遺物の使えるものを上手に利用するタイプ
光武帝は豪族のバランスの上に天下を統一した人物だから
後漢末に光武帝を模倣することは豪族層に対しての利権を尊重するぞという意思表示にもなる
それに光武帝と愉快な仲間達は名言・格言が多いので三国志の人物達はよく引用し、手本としてる
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/18(土) 18:38:42 ID:MsQo3DRXO
まあ実際は光武帝は豪族の力を力を抑えようとしてるけどね
劉邦みたいな粛清等の強権的な方法は使わなかったから不徹底なイメージがあるけどね
22 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/18(土) 19:26:21 ID:T+Bty32RO
実際に徹底は出来なかったからね
光→昭
武→烈
というわけで劉備は光武帝二号
実際、光武帝・明帝の間は上手くいってたし>後漢
外戚・宦官・自称清流の三連コンボでアボンしたが
24 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/18(土) 19:50:33 ID:MsQo3DRXO
>>22 劉備本人はあまり光武帝を意識してる感じがしないね
諸葛亮は光武帝を凄い尊敬してた節があるけど
25 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/18(土) 21:38:16 ID:Ke92jJfp0
たしか息子は、死んだ時の贈り名だっけ?あれが「廃帝」なんだよな?
>>24 他に太公望・管仲・商鞅・呉起等々では・・・・・?
>>25 思公。(多分)
続き)
諸葛亮の尊敬する人物(補充)→楽毅
追尊劉禪為孝懷皇帝
劉禅が懐帝・・・思公と併せて2つの諡号があるということか・・・
そういえば、献帝も蜀漢から愍帝の諡号を贈られたと聞く。
病床の諸葛亮が撰んだとか言う諡号ね。
31 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 00:34:04 ID:BN9QeWfIO
諡について誤解してる人がいるみたいだな
廃帝とか少帝ってのは通称としての呼び名であって正式名称じゃない
諡をもらえなかったから便宜的に呼ばれてるだけ
俺がされるとしたら廃人か
33 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 00:51:39 ID:Ko7ym4dA0
>>30 あぁ・・やっと来たね。
スレタイ通りに劉理(奉孝、名が王偏)が劉備の孫な件・・・
そして、劉禅の子の名は・・・
◎璿・瑶・j・瓉・c・璩(琥)・・・多分、王貴人の子
◎ェ・・・張皇后の子?
・・・かな?
「諱の偏が同じなら兄弟」みたいのはこの時代はあまり固執しない方が…
曹操と曹拠も兄弟?ってなるよ?
少なくとも劉瑶は張氏所生じゃなかったっけ。
あぁ、そうか。そういうこともあるね。
そのぷらっとさんは結構「諱の偏が同じなら兄弟、または従兄弟」
ということに自分なりに考えを持っている人のようなので・・・
>>36 えっ、そうなの?じゃあ劉理はどうなるんだろう?
疑問に感じることは劉ェの名ね。
まさか劉「王甚」というわけにもいかないと思うけど・・・
実はな、劉ェについてのスレを立てたいと思ったことあるんだよ
劉備の子や孫で唯一好きなのが、劉ェ
一途というか、やんちゃ坊主って感じでいいじゃん
劉禅とか他の兄弟に「ェ、必死だな(プ」とか言われていそうなのも愛おしい
ゲームで、ェ坊やの能力、エディタ使って高くしたくなっちゃうんだよな
貴重でしょ、劉家でこういう跳ねッかえりの存在は
劉ェって、どこか鬱を抱えているイメージがあるけど・・・
そういや劉備の子孫って今も残っていたりするの?
劉理か劉永のどちらかの孫の劉玄が、晋の八王の乱の時だかに洛陽あたりから
成都あたりに逃げてきたってのはあるよね?
劉禅の子孫を始め、その他の劉備の子孫は皆殺しになったらしい。
劉玄の子孫はいたのか判らんけど。
もしいればその後、ある程度続いたかも知れないね。
45 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 09:37:47 ID:+V857Hec0
諸葛亮の子孫はいるのにな
46 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/20(月) 06:53:38 ID:Xuwy/ECtO
日本にも諸葛さんているけど子孫なん?
台湾に劉備の後裔がいたとか・・・
劉封は最後がなぁ・・・。
50 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 11:37:09 ID:BsQDmJy30
才ある故にか。
皇族なのにポンポン戦に出てる所を見ると
あながち弱くないみたいだね。
亀スレになるが、劉封はどこか信康と似てる気が・・・
軍事能力があるゆえに却って劉備に警戒されたと・・・
信康なんて大した実績もないだろーに
劉禅は家臣次第で名君にも暗君にでもなる素養の持ち主であった。これは陳寿も『白絹の布のような人』と評されている
孔明の独裁政治を許したのも劉禅公の度量の広さであり
孔明もその器の大きさと人徳に先帝の姿を見出し一命を懸けて彼に仕えた
類い希な才能を持ちながら君主の嫉妬によって干されたり消したりされた名臣が居たことを考えると
孔明にとっては自分の才能を十分に発揮出来る、これ以上無い名君に仕えた事となる
その対照的が曹丕だね。正真正銘の名君でありながら嫉妬心が強かった。
特に同腹の兄弟にしては苛酷だったと言うね。
また、孫権も父・孫堅、兄・孫策の地盤を受け継いで、守成型を保ったのは立派。
但し、意外と積極性に欠け、戦下手で部下を処刑することは結構あった。
特に人口不足による倭方面に人口補強を失敗した部下を処刑した。
また、非常に酒好きで老公・張昭と衝突を繰り返したり、
自分の意向に逆らう虞翻を何度も処刑未遂するも、
部下の劉尚(劉繇の子)の諫言の繰り返しで、中断された。
孫権は非常に酒癖の悪い君主だったとか・・・
酒飲んで出した命令は無効だとか言っちゃう人だからな
3国の皇帝にもそれぞれ長所短所があるってことだね
確かに度量の広さは親父譲りだし、疑わないってのはいいよね
まあ某司馬の人とか乗っ取る奴もいるけどな
三国の歴代皇帝
先代 (曹魏)曹操 (孫呉)孫堅・孫策 (蜀漢)劉備
次代 (曹魏)曹丕・曹叡 (孫呉)孫権 (蜀漢)劉禅
>51
家康の息子たちは、曹操の息子たちと比較してみたら面白INジャマイカ?
信康ー曹昂
秀忠ー曹丕
秀康ー曹彰
忠吉ー曹植
60 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/24(金) 22:13:07 ID:gBUjz7K60
劉封って何年生まれ?
う〜ん、俺なら・・・
(徳川家)
信康+秀康≒劉封
秀忠≒劉禅
忠吉+忠輝≒劉永
義直+頼宜+頼房≒劉理
家光≒劉璿+劉ェ
(織田家)
信正≒曹昂+曹鑠
信忠≒曹丕
信孝≒曹彰
信雄≒曹植
勝長+秀勝≒曹熊
津田信澄≒曹休
蒲生氏郷≒曹真
(毛利家)
毛利弘元≒孫鍾
毛利元就≒孫堅
毛利隆元≒孫策
小早川隆景≒孫静
毛利輝元≒孫権
・・・かな?
>>61 こういうのは不毛だが、そのメンツなら
秀忠=曹丕
(秀忠は自分が政権を握った後、鬼のように改易をしまくってる独裁者)
信康=曹彰
(粗野で考えたらず)
忠輝=曹植
(狂騒児。ただし父親に愛されたか、愛されてないかの違いがある)
保科=曹真
(二代目から信頼を受け、実直であった)
家光=曹爽
(宮廷権力抗争には長けるが、基本的に無能。補佐ありき)
信忠=劉封
(信忠は武将として優れた功績を挙げている)
勝長=曹沖
(将来を期待された逸材)
信澄=曹仁
(親族一の名将)
吉川・小早川=孫策・周瑜
(基盤を築いた名将)
隆元=孫登
(人柄穏やかで、縁の下の力持ち)
>>63 秀忠は曹丕と劉禅がミックスしてるね。
(理由;秀忠は戦が下手、泰平の世では能力を発揮)
信康は曹彰と劉封がミックスしてる感じ。
(理由;粗暴な所もあるが、戦はまあまあ、どちらも父に警戒され非業の末路に)
信忠は劉封と曹丕がミックスしてるような・・・
(理由;嫡男として父に期待され、文武両道に優れていた)
・・・こんな感じだと思われ。
ミックスというよか、曹彰と劉封が単に同系統なだけ
信忠はそれ程政治で優れてた実績は無いので曹丕を混ぜるのは躊躇われる
それこそ混ぜるなら劉禅を混ぜろ
っていうか、コレは戦国系の板で三国志に当てはめるヤツにも言うんだが
何故に古代と中近世の人物を当てはめようとするんだろうねぇ
戦国期の人物なら元末明初、三国志なら古墳飛鳥時代の人物に当てはめろよと言いたいが
まあね。時代の状況が違うし。
三国なら同じ中国の元末の状況と比較という見方もある。
朱元璋―劉備
張士誠―袁紹
陳友諒―曹操
というパターンもある。
方国珍―孫権
か?
68 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/28(火) 09:54:09 ID:7s6xctnv0
69 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/28(火) 10:13:47 ID:+2A7jxos0
劉禅は豊臣秀頼
諸葛亮が石田光成
逆に斬新だな
司馬懿は黒田官兵衛。
袁術は秀吉(W)。
73 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/01(金) 09:34:30 ID:xwLxbRj00
それおかしいw
確かに袁術は秀吉と違い名門だけど、大げさ見栄を張り
威張り腐ったの所は意外と秀吉に似てると思うけど・・・
袁≒猿・・・なーんちゃってね。
75 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/01(金) 13:44:00 ID:7P78s+mkO
>>74 うむうむ術殿も実力が備わっていれば良かったが
彼と秀吉公との決定的な違いは人心を掴むこと。関白になって威張り腐るようになっても相手を持ち上げる事は相変わらず上手かった
そこで、陰険な狡猾狸福耳野郎の家康≒劉備に足元をすくわれるわけですよ。
川尻肥前守秀隆≒車冑の二の舞のように・・・
関が原の戦いは下手すれば夷陵の戦いのパターン・・・の場合もある。
感情に勝った家康然り、感情に負けた劉備然り・・・
そのネタ飽きた。
ふーん・・・
こっちも劉備=秀吉、司馬懿=家康のネタにはもう飽きたけどね・・・
俺から見てもどっちも全然似てないと思うし。
それ以外ならなんでもいいよ。
80 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/08(金) 14:05:33 ID:VNtD4jwa0
劉備って狡猾ね
そこがたまらなく良い!
劉備って何人子がいたっけ?
>>79 みみっちいなw
それもひっくるめて飽きた。
強いて話題を吹っかけるなら・・・
劉封がケ禹の末裔の可能性が大であること。
そもそも羅侯の寇氏ってのは、実はケ氏(寇とは同音)の誤筆。
後漢の安帝によって、餓死したケ隲(ケ禹)とケ鳳父子の
子孫が高密侯から南陽の羅侯に降格されたのが史実。
ソースは後漢書。
・・・まあ、劉封はケ芝の親戚でいいと思う。
85 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/03(水) 16:09:29 ID:N5AfSxer0
>>84 そういうエピソードないから親戚にしても劉備と後漢王朝ぐらいの遠い親戚だろう
ドーピングコンソメいかんざき
寇恂
来敏は来歙の子孫
来歙?
91 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/16(火) 09:41:31 ID:gFLUSAdt0
カコウトンの長男って誰?
92 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/16(火) 10:57:58 ID:eqnoPpCV0
>>85 だからこそ面白い。
狡猾だけど、謀の点に関しては曹操などに劣るわけで。
>91
夏侯惇で潜ればすぐ判明する。
>>75 待てやコラ
袁術皇帝陛下は人心掌握に長けておられたし実力も多大なものであったのだ
問題は曹操がそれを圧倒的に上回って優れていたというだけの事よ…
95 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/29(月) 09:23:32 ID:3uhg6g920
草々は織田信長より狡猾で頭もよい
96 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/29(月) 10:02:31 ID:WNbuwy590
劉備は息子の誰でも良いからケイシュウに残すべきだった。
最も信頼してる関羽にケイシュウ防備を任せたわけだが、関羽を諌められる武将がケイシュウに
一人も居なかったのが悔やまれる(馬良やビホウでは関羽を諌められない)
北伐をする際にも公子が居るとなれば、より慎重にケイシュウの防備を高めて
呉に対する警戒もMAXに達しただろうし、場合によっては魏侵攻よりも
公子とケイシュウを守る事が第一義だと考えて無謀な北伐に参加せず
見事にケイシュウを守りきったかもしれない。
劉備の息子って言っても劉邦と劉禅ぐらいしかおらんだろ
劉邦と関羽は仲悪いし劉禅はまだ幼いし
劉封は息子じゃなくて養子だからな
養子を公子にしても中々難しいだろう
99 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/29(月) 15:56:23 ID:WNbuwy590
公子じゃなかったら親族でもいいよ。嫁でもいい。
関羽を自重させる者、もしくは関羽が一目置かざる得ないものを一つは
ケイシュウに置いとくべきだったと思う。
それは価値が高ければ高いものほど良い。
または政略結婚を蜀主導で進めてケイシュウ防衛軍と南三群及び呉、上庸の間で
お互いが裏切れないように縁戚関係を結び出来得れば嫁とか養子の名義で
呉の重要人物をケイシュウか蜀に引き取れれば良かった。
呉から関羽へ政略結婚の申し出があったのが事実かどうか知らないが
呉から、そういう話がなくとも蜀主導で進めても良いくらいの話だった。
ID:WNbuwy590は大変な妄想家の上歴史も知らない。
自分の世界だけで物事を語っているように思える。
>>96 劉禅も劉封も荊州に置いていってるよ。
でも劉禅は即位時に17歳で劉備が益州を入った時で7,8歳。
意味がないな。
>>97 劉封が関羽の樊城攻めの時に救援の兵を送らなかったのは事実のようであるが、それを以って荊州時代から仲が悪かったとは言えないと思うが?
>呉から関羽へ政略結婚の申し出
これが事実だとするとさ、その目的のひとつに、「劉備と関羽の離間」は
なかったのかなー、と思ったり。
もし関羽が独断で受けちゃったら、蜀の首脳陣は面白くないだろうし。
蜀と呉の同盟強化の為の婚姻なられっきとした外交政策なんだからまず劉備を通すだろ。
劉禅って長男?
105 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/12(月) 22:08:04 ID:7N8tepaf0
>>104 長男だよ
昔は居たみたいだけど殺されたんじゃないか?
捨てて逃げてるし
劉備と劉禅、年離れすぎ
うむ( ^ω^)
うほっ
アッ――-―!
なにこのスレ?
関羽×劉備 (> <)きゃー
(> <)きゃー
:(;´゚ω ゚):. アッーーーーーーーー!
116 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/03(土) 22:15:38 ID:QqhT+slP0
結構年を取ってから産まれた子は特に可愛いものだと思うけどなあ。
劉禅と劉永は蜀滅亡まで生きてたが劉理だけは早めに(と言っても244年だけど)死んでるね。
劉封は180年生まれでおk?
178年説有り
http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1173198755/l50 夢蜀【むしょく】
三国時代の蜀の後主、劉禅は後世に於いて無能な君主として描写されることが多い。
しかし、そうではないことを示す逸話をここに紹介する
魏に降伏した後、劉禅は蜀を懐かしむ素振りも示さず、酒宴に明け暮れる日々をすごしていた
かつて蜀の臣だった人々はこれを観て甚く悲しんだ
幼少の頃より劉禅の身の回りの世話をしていた宦官のという者が居た
邇杜は宦官にしては気性が激しく、正邪を弁えた人間だいう評判だったが
ある日、いつものように楽しそうに宮女の舞を見ていた劉禅を見かねた邇杜
「殿は蜀が恋しくないのですか」と言った
劉禅は聞こえない振りをした
すると邇杜は宮女を押しのけ、劉禅の目の前まで進み出て大声で怒鳴った
「あなたにとって蜀はなんなのですか!」
劉禅は目を逸らし、やはり何も答えなかった
ついに邇杜は劉禅の胸倉を掴み、涙をながして言うに
「あなたは毎日何もせず、踊りを見て酒を飲むばかり。一体何を考えてらっしゃるのか」
邇杜に向き直った劉禅の目には涙が浮かんでいた
そして彼は一言だけ、こう言ったという
「夢蜀。」と
「私は蜀の夢を見ない夜は一度たりとも無かった。」
劉禅の気持ちを察した邇杜は大いに恥じたという
この逸話はしかし劉禅が蜀を再興しようという野心があると思われる危険があったため、公には伝わっていない。
これ以降、日ごろ何もしていないが心の中に大志を抱くものを「夢蜀」と呼ぶようになった
最近では後半の意味が忘れられ、ただ単に何もしない人間をさすようになり、いまの「無職」になったという
『消された歴史・隠された真実』 李安庸
( ;ハ;)イイハナシアルー
ワロタ
劉永って誰?
>>123 劉禅の異母弟。
> 劉永字公壽、先主子、後主庶弟也。
> 章武元年六月、使司徒靖立永為魯王。
> 策曰
> 「小子永、受茲青土。朕承天序、繼統大業。遵脩稽古、建爾國家。封于東土、奄有龜蒙 、世為藩輔。
> 嗚呼、恭朕之詔 。惟彼魯邦、一變適道、風化存焉。人之好コ、世茲懿美。
> 王其秉心率禮、綏爾士民、是饗是宜、其戒之哉」
> 建興八年、改封為甘陵王。初、永憎宦人黄皓、皓既信任用事、譖構永于後主、後主稍外永、至不得朝見者十餘年。
> 咸熙元年、永東遷洛陽、拜奉車都尉、封為郷侯。
以上、蜀志劉永伝。
劉備の何歳下?
>>125 劉禅は46の時の子。
他は不明としか言いようがない。
127 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/19(月) 23:58:44 ID:iua/T2O90
劉備ってお盛んだったの?
皇帝となった時は、もうかなり年寄りだし、
今さらそんなに遊べなかったか。
46!もっと早く子供作れw
徐州時代に子供がおったのでは?
張飛がうっかり酔っ払って呂布に乗っ取られたときに、
呂布が劉備の妻子と老母を保護させたって書いてあったと思ったが
>>129 劉禅は新野時代に生まれてるから、それ以前のは相次ぐ敗走、生々流転の渦中で死んでったんだろうね。
( ;ハ;)カワイソウナハナシアルー
陳到が徐州時代に子供を助けていて、そいつが後主になっていたら……
趙雲と陳到の立場が変わっていたことだろう。
そこ子供だったら滅亡はもっと遅かっただろう
劉禅には6人か7人子供いたんだよな
降伏にキレてクビ切った子供が有名だけど
皇太子はボンクラでとろとろしてるうちに殺されたんだよな
劉備の一族ってとことこダメだな
子孫は一人以外全部永嘉の乱で滅亡したし
もしかしたら劉禅は一族で劉備の次に処世術にたけてたのかも
たしかに生き延びた分、どこかしら賢い部分もあったんだろうな。
死んじゃったら何もならないし
娘が最低2人いるでしょ、劉禅より前に
劉禅の場合、生きてても何もならない。
ただ道楽生活をすごすだけだもんな
漢王朝の真の復興のためにはむしろ邪魔だったかな
140 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 20:37:50 ID:4QMZDuqR0
劉封は名将?
よくて良将。
十分過ぎるほど名将だろ。
冒頓単于だの項羽だの韓信だのが超名将が同時代に結集してるせいで割りを食ってるだけ。
しまった。劉邦と勘違いした。
ああ、養子の劉封ね。彼は良将止まりだろう。
ただ人手の足りない蜀漢陣営では相対的に重要な部将の一人だった。
しかし、なんであんなとこから養子取ったんだろう・・・・
劉備がヤクザの親分って考えればそれほど不思議でもない
養子取りまくりは階級が破壊された五代十国には顕著に顕れた傾向だし
当時は宦官が養子を取り始めた時期でもあった
曹操の親父も荘だね
劉封は羅侯の寇氏の末裔とあるが寇氏というのは間違いでケ氏という説がある(中国語で同じ発音)
このケ氏は後漢の建国のケ禹元勲の子孫にあたる(ケ禹の子供が羅候に任じられている)
家柄としては十分すぎるし荊州にかなりの影響力を持ってた家だったから養子にしたんじゃないか?
ケ芝もケ禹の子孫らしいが劉備に仕えたのはこの縁ではないかと
ケ氏ってそんな目池なんや
功臣表が残らない後漢では初期の羅侯と末期の羅侯が同じ氏かどうか分からないよ
魏書の武帝紀に出てくる合肥侯は記録は無いが堅鐔の子孫じゃなく劉氏じゃないか
150 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/05(木) 09:15:48 ID:+BfwA/qI0
150get!
張翼も張良の子孫で漢の三公の家柄だし蜀も何気に家柄いいのが集まってるんだよな
152 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/07(土) 23:04:55 ID:N36CcAaV0
そうだなー だからこそ旧勢力の漢の復活を期待したのかも
153 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/08(日) 09:45:08 ID:5xGTreOv0
昔どっかで見ただけだからソースも探せないしそもそも中国人は先祖を捏造することが多いから(日本人もだが)
ただ三公は本当だからそれなりにいい家柄のはず
155 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/08(日) 13:38:49 ID:zxoijmKC0
蜀って、貴族的な層が特をした王朝?損をした王朝?
>>154 後漢書に書いてあるよ
まー怪しいのは同意だけど
>>155 あまり得したとは言えない
劉備に従った荊州の名家、有力豪族は土地を失ったり一族離散したりしてる
益州の豪族は荊州から来た連中に抑えられて全体的にはあまり良い目見てない
( ;∀;) イイハナシダナー
158 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/17(火) 23:57:24 ID:cn4Eo3Lj0
159 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/18(水) 09:22:40 ID:nnMKJofi0
160 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/18(水) 12:13:00 ID:9RAXKwPEO
>>159 どっちでも大勢に影響は無いんじゃない?
どっちにしろ後漢の功臣の末裔で荊州の豪族で母方が劉氏だったということに変わりはない
どっちが本当と言われてもタイムマシン使って見にいくでもしなきゃ判明しないな
162 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/19(木) 09:17:49 ID:84ng6WUS0
あ、母方が劉一門なんですか・・・・
163 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/24(火) 09:27:18 ID:Z+HdjPBa0
>>160 漢の功臣って、宴席一門より厚遇されてたりするの?
164 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/30(月) 11:14:24 ID:Bz5jjp+Q0
縁戚じゃなkyて
165 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/03(木) 11:27:50 ID:1eY13Fr40
劉永って印象薄いくぁ
safe
167 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/05(土) 15:10:19 ID:xQuNlRPm0
168 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/06(日) 20:46:21 ID:my5T0D1v0
中国語の発音なんてわからんなぁ
169 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/08(火) 09:35:23 ID:SVYA2+2P0
後期蜀としてはまず荊州を取り返すべきだな
170 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/10(木) 09:38:47 ID:X3kiu20M0
晋以降は、普通に劉姓名乗れそうだね
そうかぁ?
172 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/13(日) 20:09:06 ID:h2ljE+J80
劉延と劉備ってどれくらい血縁離れてるんだ
173 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/13(日) 23:26:22 ID:FBVhz9V10
劉延も漢室の一員だったっけ?
数百年前の祖先が同じだったぐらい離れてる
175 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/16(水) 09:54:34 ID:2Yzy/Tsp0
φ('A`)ウボアー
176 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/19(土) 00:20:07 ID:GbnvE59p0
劉裕を養子にすればおk
「りゅう」って携帯で変換できないんだけど…
178 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/20(日) 10:51:24 ID:u6tKMP6C0
そりゃぁそうだろう
179 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/20(日) 15:36:22 ID:SAMkitKt0
この一族は、漢民族だから、今の中国人どもに美化されてんだよ
180 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/20(日) 18:01:15 ID:NUgbQWPZO
そういやうちの地元に名字が劉って家があったな〜
劉永は、董允死後台頭してきた黄皓を遠ざけるように劉禅に言上して、
逆に劉禅の怒りを買って以後十数年謁見が許されなかったんだよね。
皇弟ですらこうなってしまうんだから、
諸葛瞻・董厥あたりの末期内政トップ連中がいくら黄皓を嫌っていても、
実際にそれを除く方向に動けなかったのも仕方ないか。
あ、間違った。
董厥でなくて樊建ね。
皇族が政治に口出すのを嫌うのはどこも同じ
劉備の面影があったらしく、呉懿(伯父)、魏延、王平あたりはみな劉永を慕ってたそうだな。
三国志を扱ってる本によっちゃ、著者が「劉備の血はみな劉永にいってしまった」と書いてたりもする。
劉禅としちゃ、どうしてもコンプレックスが拭えない、出来の良すぎる弟だったんじゃないかね。
劉備の威風があったら、居候されてるものにとってはさぞかし迷惑だっただろうなぁ
劉禅「 兄より優秀な弟など存在せん!」
188 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/22(火) 09:15:34 ID:rdjxAAEi0
織田信雄
189 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/22(火) 16:28:46 ID:J1EeiIxM0
三国時代のレベルの高さは曹操が証明している。
春秋時代は匈奴に負け続け
劉邦は匈奴にぼろ負けした。
曹操は騎馬民族に勝利し、ほとんどを服属させた。
夏侯淵も戦果を挙げた
晋以降は立場が逆転した。
五胡南北朝宋は異民族政権
明は日本にぼろ負けw
中華民国は語るに及ばず
中国はアメリカ、ソ連、ロシアに勝てない
つまり
三国時代>>>>>>>>>>>他の時代
おまいは敵の強さがいつも同じ水準にあると思ってるのか
>>186 wikipediaなどに書いてある、数多くの…の中の一つっぽいな
192 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/23(水) 09:17:10 ID:ONHADRZk0
漢〜三国〜晋あたりが中国の良き時代
清〜共産 の現代は、直視できないぐらいヒドイ国になってしまった
共産党的な価値観で歴史遺物を平気で破壊。
共産党的文化によって国土を塗りつぶそうとしてるモンな。
歴史遺物を失った後に残るのは、韓国のようなウリナラ起源文化だというのに。
唐〜宋あたりが中国の一番良き時代
195 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/25(金) 23:17:27 ID:KVaj4Rtr0
台湾がいいところを受け継いでるな
よく劉禅の暗愚を示す司馬昭に蜀が懐かしくないか以下略だけど、
読み直すと司馬昭には家臣との会話も逐一盗聴されていた、
ってことじゃないか?ああする以外生きる道はなかったよ…
生き延びただけでも上等。少なくとも武田勝頼や豊臣秀頼よりまし。
武田は相手が信長だし秀頼を生かしとくといつ幕府がひっくり返るかわからないから比べる規準が違うな
それに曹氏や司馬氏は人道的すぎる
他の時代で生き延びた旧王朝の帝室で生き延びたのって後周の柴氏ぐらいしか知らない
>196
盗聴されていたなんて生易しいもんじゃなくて
その家臣が司馬昭のスパイだったんじゃないかな
199 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/27(日) 18:02:18 ID:WsnpZ1Lc0
>>197 >それに曹氏や司馬氏は人道的すぎる
よく考えるとそうなんだよね・・・・・
漢代の馴れ合いってやつなのか・・・・
200 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/30(水) 03:54:35 ID:524S9m9cO
>>197 人道的すぎるなどという生易しい事じゃない。
恐ろしい事だよ。
銀河英雄伝説という小説に簒奪について書いてあった。
思い出しながら書きます。
ある王朝の創始者は、まことに賢明であった。
敗者に対する寛大な心が人心を獲得すること。
名目的に前王朝の者が貴族として遇されることで、新王朝に対する敵対心を和らげ、さらには無気力化していくことを洞察していた。
曹氏も司馬氏も生かしてたのは、すべて計算ずくだよ。
(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
曹氏や司馬氏は前政権を長時間かけてグダグダにして人心も掌握してたから無理して殺す必要がなかったんだといえる
戦争で滅ぼされると人心を掌握できてないから前王朝の血筋は滅ぼしたほうがいいな
銀英伝(笑)
___
./ \
.| ^ ^ |
| .>ノ(、_, )ヽ、.|
__! ! -=ニ=- ノ!___
/´ ̄ ̄ .|\`ニニ´/ `ヽ
{ .|__  ̄ ̄ヾ }
i;;',,, r---イ /|,、_,, ,',;:',i
.l;';',;,, } /;\ / ヽ / ,;,;;',;l
.|;;',;, } ./;;;,, \ / ;;;;;;ヽ ,,;;','i
i;',, / /;;,',';; ノ--, ',',;;::',',゙i ,,';';i
i;,'; /./,',',';;" / \ ',',',;;,'i ,;',i
/ / i 、 / ヽ ',;::'、| \
ヽヽヽヾ丿 〈 ヽ'' {////
```` ト, i | 、 i´´´
|',',;; } ! ',',;;i
205 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/07(木) 17:21:13 ID:f3DttMiU0
現在「集団ストーカー」というのがよく話題になります。
創価学会がやっているとか、探偵社がやっているとか、色々憶測が飛んでいますが、
実際には学会が行っている犯罪です。学会員と揉めてからはじまりました
学会の中には創価班・牙城会という部署があり、ここには
「学会・学会員とトラブルを起こした一般市民に嫌がらせをするセクション」
が存在します。
この連中は学会の敵を監視して、嫌がらせをするのが仕事です。
こいつらが行っている任務が、集団ストーカーです。
学会員は組織的なネットワーク網が充実しているため、実行部隊には学会員を使っています。
パッと見には、誰が学会員だとかはわからないでしょう。
それをいいことに、学会のネットワークに個人情報を流し、嫌がらせをさせているのです。
「仄めかし」というのは本来、「どこにいても対象のことを知っている人間がいる」
=「どこにいても監視されている」と思わせることが目的です。
それを治安を破壊する者でなく、単なる一般市民に対してハイテクを駆使して
集団で行うのが、学会の集団ストーカーです。
公安なども行っているという報告がありますが、創価学会は一般市民に対しても
容赦なく実行してしまいます。
また集団ストーカーの後始末は精神科へ行かせて証言能力を奪うか
社会的に抹殺するか学会員にするかのいずれかですが地域や親戚家族をも
巻き込んで猿芝居を演じて基本的には絶対に精神科へ叩き込みます
どちらにしても、学会が、その体質として受け継がれてきた敵対者をひっそりと
抹殺する方法が集団ストーカーといわれているものの実態です。
明治政府もそうだな。旧大名、幕臣のかなりの人数貴族にしてたし。
皆殺しよりずっと賢明だよ。
207 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/09(土) 23:53:40 ID:oKdncoPV0
廃藩置県が成功したのは
幕府が大名を苛め抜いて、ほとんどの藩が
財政破綻状態だったから
208 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/12(火) 09:32:50 ID:b74erQtu0
劉封を処断しなければ・・・・
209 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/16(土) 00:08:22 ID:cZTG0UpU0
劉備は短気すぎ
そうだね
まぁ親分みたいなもんだしね
劉備の娘がレイプされて妻にされたよね
劉封の処刑は計画通りだろ。
養子を取ってから実子が生まれたんでやっかいになったんだよ。
なんでわざわざ養子にしたのか分からんな
劉封の子、劉林視点の三国志も見てみたいな。
劉林は生き残れたのか
218 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/26(火) 10:40:10 ID:SCLUq7dH0
蜀滅亡まで生きてたのか
劉備の場合何でか一族郎党が少なかったから、養子とってでも増やしたかったってとこかと
近世以降みたく概念的な忠義が今一つ信用できない時代のことだし、やっぱり血縁がいちばん信用できたわけで
赤の他人では重要な役目を任せることが難しかったんじゃないでしょうか
曹操なんざ曹一族に加えて夏侯一族がいたし、孫一族は地元豪族みたいなもんだからそうした血族に不足無かったけど
劉備の場合兄弟とか従兄弟がほとんどいないか、出てこない
220 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/26(火) 21:14:04 ID:DN5f3laQ0
曹家が下級官僚だったのは知ってるが
当時の夏候氏はどんな身分だったの?
>>216 それ演技の脚色だから。
実際は劉禅誕生の207年より前の髀肉の嘆をかこってた時に
劉備に跡継ぎがいないんで養子を迎えたというのが有力な説。
ちなみに当時の劉備は40を過ぎてた。
祖父の曹騰が中常侍、父親の曹嵩が司隷校尉から大司農、太尉歴任でかなり高位の官僚
夏侯氏はほとんど地方豪族みたいなものだったんじゃないかな?
223 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/30(土) 23:34:22 ID:Lx0mdGc50
高級官僚か・・・・
劉備と呉夫人の間に子供が出来てたら面白かったのにな
ひょっとしたら、歴史が変わってた可能性もあるだろ
劉備と呉夫人(呉懿の妹)との間に生まれたのが劉永、劉理じゃなかったか?
それとも>224の言う呉夫人って孫権の妹の方?
226 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/02(月) 12:14:49 ID:MGLLn9BvO
227 :
224:2007/07/02(月) 19:29:10 ID:jGOdj6vb0
孫権が妹ごとその子を連れ帰り呉がその子を蜀王として蜀を衛星国に
229 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/06(金) 23:40:44 ID:Y7aIXOSa0
むりっす
230 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/08(日) 21:44:18 ID:Ajlv2E0t0
このスレの趣旨は?
231 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/14(土) 00:33:29 ID:ubQtIGdp0
あ
劉禅ってそもそも家臣のいう事にNOと言えない人だよね。
唯一、自ら決断した事である後宮拡大も、董允が゙反対したらすぐ諦めてるし。
>>232 諸葛亮が病没した時のこと。
李邈は喪に服している劉禅に対して上表し祝賀を述べた。
曰く、「軍権を握り強大な権勢をふるう家臣の存在は国家の害悪であり、今、諸葛亮が死んだことは国家にとって幸いである」と。
劉禅は立腹し李邈を獄に下して処刑した。
一見、黄皓らの言に乗って姜維を降格するようなことをしなかった件などから、劉禅は家臣に対して厳しい態度は取らなかったように思えるが実はそうでもない。
もっとも姜維の件は下手に刺激すればどうするかわからんという恐れもあったのかもしれないけどね。
それはともかく、劉禅には上で上げたような面もあるし、若い頃はそれなりに皇帝の気概を持っていたと言っていいと思うよ。
ただ後年は……
>>233 諸葛亮が蒋エンに「平価は善悪の判断が出来ない。君が良く補佐するように」という文面の手紙を出してるからなぁ。
蒋エンならずとも、董允、費イの入れ知恵なんじゃないかと思ってしまう。
>>234 諸葛亮没後も政治の中枢を担ったのは諸葛亮系列の人材だしなあ。
そういう面もないとは言い切れないね。
諸葛亮直系と言っていい董允が死に費禕や姜維は外地に。
そういった中でお傍に仕えるのは諸葛亮系列ではあるものの諸葛亮直系とは言いがたい劉禅お気に入りの陳祗。
そしてその陳祗は黄皓と意を通じて劉禅を甘やかす。
人の好さはあるもののダメさが目立ってくる劉禅……
>>235 人を疑い自らの意思を貫く心が決定的に欠けてたんじゃないかと思うんだよね。
・李平(李厳)の謀略による上表を信用して、諸葛亮を召還。
後に諸葛亮が連名で李平を弾劾すると、言われるがままに今度は李平を追放。
→容疑者にされた諸葛亮が少し調べると、李平の裏工作は明らかとなった。
また、一度聞き入れた上奏とは正反対の上奏を何の臆面も無く受け入れている。
どうも劉禅は上奏には真実が書いてあると思い込んでいるのではなかろうか。と思える
しかも、上奏の結果を信用する事で何が起こるかを理解していない。
その上、この事で学ぶことなく、後年は黄皓に騙されている。
・性欲が強く後宮を作ろうとしたが、董允に反対されると即座に諦めた。
→部下に反対されるとNOと言えない。更に、その場では流した事を後になって恨む事がある
・黄皓に、かつて信頼した董允の悪口を吹き込まれると、信用してしまう。
→黄皓によって被害者意識を刺激されると、董允の事を恨み、董允の禁止していた事を行うようになる
・陳祗に忠候の諡号を贈る。
→陳祗は能力や働きぶりはどうあれ、後主には阿諛追従し諫言したことは無い。
・陳祗、黄皓らが言うままに姜維を召還しようとしている
→まるで成長していない。
237 :
氏真 ◆rF3U/UzFSU :2007/08/14(火) 16:59:45 ID:GpUWuLe8O
竜善は有能すぎワロタ
>>233 まぁ初期は本物の名君なのに治世長いと(ryって例も結構あるし
そこそこの気概がある程度だとどうしてもね。
長い治世を上手くやるために必要な厳しく自己を律する才能はどう見てもない人だし。
白糸のごとき…と陳寿も語っているとおり、自我を強く持っていたとは思えない人だよね。
240 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 23:36:50 ID:xwpLA6BG0
仮に劉備が天下を統一していた場合、
太平の世を無難に治めたんだろうか劉禅
部下の能力に因るとしか言えんかと。腹黒いのが部下にいたら
あっさりと権限奪われて次代で簒奪されそうw
のわりには41年、反乱もなくみだらに処刑もせず、無難に収めていたわけで
まあ、実権がほとんどなかったような気がするけどね
仮に天下統一しても孔明-ショウエン-ひいラインなら安定期になるんじゃないかな
問題は劉禅の跡継ぎも揃って似たようなのばっかなのだよな
慣例を無視して劉ェが継げばいい
劉ェはあくまでほかのボンクラと比較してマシなだけであってたいした事はないと思う
国の滅亡に憂いてj指圧しただけだし
247 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/09(金) 17:10:40 ID:aDUMyAAmO
age
劉備一族は劉備はクリーチャーであって本来は劉禅のようなのんびりおっとりぼーっとしたようなDNAだと思われる
それにしても、どうして劉備の一族は、劉備に仕えなかったのだろう。
中国では、一族の出世頭に、一族がまるまるついていくのが普通なのに。
よほど一族内部での評判が悪かったのかなあ。
義勇軍時代に軒並み討ち死にとか?
学問のために金を出す叔父さんとかいたみたいなのにな。
何代か前の祖先がひねくれもので一族を離れて田舎暮らし
だから親戚なんて母方ぐらいしか付き合いがなかったとか
(援助してくれる叔父は母方)
根拠は?
援助した叔父は父方じゃろ。劉姓だし。
妻に「分家した相手にそこまでせんでええのに」とか言われてるしな。
刺客をおくる分家
劉平
256 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/21(水) 21:41:09 ID:A3P7LDnK0
劉備って確か娘が捕虜として魏に囚われたんだよな?
その後の娘二人どうなったんだ?
調べても全然出てこない…(;´Д`A ```
曹操と曹純にsenka
258 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/22(木) 16:57:27 ID:MnhbWCBr0
捕虜になった女性は、大抵その戦で功を遂げた人物に与えられますな。
つーことはアレか。
処理機とかになったのか。
違った。
嫁さんになったってことか。
261 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/28(水) 18:30:27 ID:6Xa1/ssZ0
そういう女性って、やっぱり酷い扱いを受けたのかな?
262 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/30(金) 04:54:19 ID:+G0uwaoa0
そういえば張飛って夏侯氏の娘を山で攫って妻にしたんだったけw
その子供の姉妹が劉禅の皇后になったみたいだし、乱世の女性は紆余曲折あるなあ
昔、SWEET三国志で、ターミネータな張飛が変な印象だったけど
後宮に居る時間が長そうな劉禅が妹まで皇后に立てるとは
結構、張飛は美男だったのか?
263 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/30(金) 21:16:47 ID:ccBEJOZ20
>>262 夏侯淵の姪っ子が美人だった可能性のが高いような
夏候氏の娘って…一応敵側の血縁者じゃんか。
あの時代、見目さえよけりゃ奥さんに身分や出生は関係なかったってこと?
>>264 夏侯氏や曹氏の地元は豫州だから、支配者である豫州牧劉備の腹心と縁組してても別に不思議じゃない
見た目じゃなく、地元の有力者と支配者の腹心ということで縁組したんだよ
劉禅と張飛の娘も、娘が美形だったからではなく、劉備と腹心張飛の子供同士ということでのある意味政略結婚
見た目は特に考慮されなかったと思われる
賈南風のケースとか考えたらある程度想像つくわな。
張飛の娘は正史皇后伝に、美人だとハッキリ書いてあった様な気がするのは気のせいか。
>親子共々史書に容貌は載せられていない
269 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/05(水) 14:55:49 ID:j3DWuSPD0
一人なら判るが、姉妹そろって輿入れの理由は?
>>269 張氏からしたら、次の世代でも権勢を維持するにはなんといっても皇后や皇太子を自分の家から出したいところだ
娘が二人いるなら二人とも後宮に入れたほうがその可能性が高まるじゃないか
271 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/09(日) 19:06:52 ID:GofEEMl9O
あれ、劉禅に張飛の娘たちが輿入れしたのっていつ頃だ?
張飛存命時じゃないよね?
宮城谷昌光の三国志
>>271 姉は劉備が即位し劉禅が皇太子になったと同じころ
その年に張飛自身が死んでいるが、一応存命中の話とみていいだろう
関羽亡き後の劉備にとって張飛は一番信頼の置ける人物であり、その娘と皇太子の結婚は劉備と張飛にとっては当然の縁組
274 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/10(月) 13:00:28 ID:T7iLRI4rO
やや邪推してみれば、張飛は蜀屈指の将軍であり実力者。
それを牽制する意味で猜疑心の強い劉備が仕組んだ縁組かも知れない。
劉備という複雑な人格なら考えられる。
漢中王を名乗ったり即位したころは亡命政権の延長みたいなものだから
荊州以前の古参などから貴族階級を作りたかったのではないかな。
関羽・張飛・馬超・諸葛亮の一族あたりがちょうどそんな感じで。
孔明や馬はともかく関張は名士でもなんでもないからな
皇室の縁戚にして貴族化するしかなかったんだろう
関家は孫が劉禅の娘もらってたっけ
劉禅の娘を娶ったのは諸葛瞻
功臣が皇族と姻戚関係を結ぶのは封建制にとって
呼吸するくらい当たり前のことだろう。
そのようにして主家の基盤を固め、臣に栄誉を与える。
名士か否かは直接は関係ない。
ていうか劉備は思い切りわかり易い性格だと思うがな。
世辞でも善人とは言えないが、猜疑心が強いなんて評価は初めて聞いた。
279 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/01(火) 17:22:14 ID:FIIgCDRHO
アクション
280 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/01(火) 19:40:23 ID:NtitaeNo0
>>278 張裕、劉巴、雍茂、彭𣴎の例がある。
元来は執念深く猜疑心が強烈だったんだと・・・
まあ、曹操や孫権に比べればマシだったけどな。
張祐 占いを事とする(つまり影響力の大きい)人物が繁栄の終わりを予言したり、
君主の人相をあげつらえば敵視されるのは当然。初めは劉備の軽口が原因だが。
劉巴 どこが問題?
雍茂 これは弁護できないね
彭ニョウ 叛乱の意思の表明。是非もなし。
記録自体が少ないせいもあって、総じて見ると一代でのしあがった人物にしては
驚くほど粛清の記録が少ない人物だよ、劉備は。
曹操でも少ないくらいだ。こっちは長年天子を傀儡にして敵も多かっただろうに。
283 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/01(火) 20:53:36 ID:NtitaeNo0
>>282 強いて言えば劉備の皇帝即位に意義を唱え、劉備の不興を買ったこと。
(たしか許靖も該当したっけ・・・)
あとは張飛(素性不明)がある時に、劉巴と付き合いたいと言った。
その時、劉巴は「氏素性もわからん馬の骨とは付き合いたくない」と言った。
あ・・・これは劉備の逆鱗に触れることと関係ないか・・・
284 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/01(火) 21:38:24 ID:EPlCqxD30
つーか南北朝とか狂った時代を見ると、晩期孫権が並。
その二人はやっぱ粛清に頼らないでも求心力を維持できる何かがあったんだろう。
285 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/01(火) 23:36:47 ID:kLN4Q6nr0
>曹操でも少ないくらいだ。こっちは長年天子を傀儡にして敵も多かっただろうに。
官渡決戦の前に、皇帝周辺の連中を軒並み粛清してるじゃん。
・コウメイが活躍できたのは劉禅がコウメイを信頼していたから
・キョウイは正史だと頼りになる人物ではなかった
・降伏後の戯れ事もその時の立場を考えれば優れた対応であった
・魏に潜伏して内部から反乱しようとしていた説
ここらへんの評価から考えると、案外劉禅って愚帝じゃなかったと思うんだがどうだろうか
ageとく
武事を専らとする頼りにならない人間が、地縁も賄賂の類もなく
大将軍になれるほど蜀は腐ってなかったぞ。
ていうか腐敗した王朝ほど有り得ないことだが。
そういえば、晋王朝では蜀出身者は軽視され冷遇されていたという話を読んだが、
能天気な劉禅を諌めた郤正の逸話もそこへいきつく流れのものなんだろうな。
その後の侮辱的なエピソードも、信じるとすればそういう形で公然と笑いものにしていたのだろう。
劉禅がどこまで危機感を覚えていたか・計算していたかは解らないが。
しかし、信じるとすれば、郤正は司馬昭らに与していたことになってしまうのだが…。
290 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/08(金) 06:53:27 ID:BTL/bmlCO
よく三国志知らんのだけど、きょういって正史だとそんなに頼りないのか?
291 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/08(金) 16:21:26 ID:8dkFAPZM0
頼りにならないって言うより、むしろ頼りすぎたと言うか、
姜維に頼らざるを得なかった代わりに、姜維の暴走に歯止めを掛けられなかったって感じかな
292 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/22(金) 18:05:23 ID:Ozj345cI0
俺もそこまで詳しいわけではないが、正史の生姜繊維は国力を考えずに北伐を行い、国をぼろぼろにしている
要は軍事と政治がばらばらになっていたわけだ
戦争はあくまで政治、交渉の一手段に過ぎないことを考えるとこれはまずい
こうなった理由としては、姜維が魏からの降将であることが挙げられる
当時の中国では出身地が重要で同郷の人で集まった派閥が形成されたんだが、
蜀の政権には姜維の同郷の派閥がない、つまり政治的な後ろ盾が何もなかった
政治力がない一方で漢中の軍事力を姜維は握っていたわけで
成都の政権組と漢中の軍事組の乖離が起こり、結果主導権争い(黄皓の行為もこの一部なんだろう)
結果、魏がこいつら雑魚じゃねwwwwwとか言って攻めてきて、蜀は滅びましたとさ
姜維が全部悪いわけではないが、責任はあるよね
間違い、勘違い等あるかもしれないけど、俺の理解だとこんな感じ
293 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/23(土) 18:05:07 ID:dB/PWYKF0
>>292 姜維と一緒に蜀に降った連中はみんな九卿まで昇進してるのに、
同郷の派閥がないと言うのか?
そういや郭沖も西平出身の左将軍だったな。
重なる北伐とそれ以前の流入で涼州の人材を吸収していたわけか。
すると、かれらが「涼州奪還」としての北伐を推進するということはありえそうだ。
蜀の涼州閥ってのを見直さないといかんなあ。
いわれてみればそうか
つまり、姜維の行動はますます問題あり、と
つーか、軍事力もってて政治を省みず暴れるのは不味すぎる
どこぞのテロ国家とどっこいだ
何で姜維の評判、悪くないんだよ
軍権握って実際に暴れまわった魏延としか評価できんぞ
戦争は外交の一手段だとかテロ国家だとか、
近代思想用語に振り回されてるレスに説明するのは難しいな…
だが、
>>292>>295のような点においては別に評価高くないだろ。
普通に批判されてる。
涼州閥で思い出したが、姜維の行動範囲を見てみると、
魏の防備が固められて秦嶺山脈を突破するのが不可能になっている代わりに、
祁山を経由して狄道辺りまで進出してるんだよね。
大体渭水を攻防ラインにして、その南岸にはかなりの影響力・支配力を持っていた
ように見えるな。
>>296 なるほど、おっしゃるとおり
確かに近代の思想と当時の考えをごっちゃにしてるね、ごめん
とはいえそこまで詳しく知らないんだよなー
言い訳しているあたり、さらにかっこ悪くはあるんだが
しかし涼州派閥がどの程度の力があったのかは興味あるな
内外に対してどの程度の影響力を持っていたのやら
…あれ? なんかスレ違いっぽくない?
>>292 おまえはまず普通に姜維と書くところから始めた方がいいよ
痛くて見てらんない
スレの題目から話題がずれてるな
あと>298はずいぶん余裕がないように感じた
余計なお世話かもしれないが、もう幾分か心を広くもつことを勧める
300 :
劉永 劉理:2008/05/10(土) 22:00:49 ID:MqpTX3kX0
みんな ・ ・ ・
僕たちのことも思い出してよ もういっそ僕たちは外様かい?
301 :
劉邦:2008/05/14(水) 10:00:08 ID:u64Tg7540
三国志[では劉禅だけが全能。老子によると無能は全智全能らしい。
つまり遊び人だけが悟りの書無しで賢者になれるというわけか
能動的に悪事をした訳では無いのに、酷い評価だよな劉禅。
伊藤誠の祖先か?
中国人は未だにアホウのことを安斗っていうのかな。
まぁ、ピッタリといえばピッタリだなぁ…
306 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/19(土) 04:44:05 ID:cfi2lAPZ0
誰から聞いたんだ?
日本人だって未だに真田幸村の方が本名より知名度が高い事考えたら納得出来る
308 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/19(土) 19:27:07 ID:FZ9IcNN+O
>>301 全智全能なら無能にならないし、そんなことは老子は説いてない。
309 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/21(月) 19:23:49 ID:RdWO9aCM0
>>304 お目付け役の董允が生きてる間は悪いこと出来なかっただけ
董允死んだら黄皓重用して政治は黄皓の言いなり
その上自分は遊覧ばっかりして宮中の女や楽団増やしまくって遊んでるんだから無能でしょ
降伏後、旧臣に恨まれても政治的野心を持たなかったというのは
よほど立場を弁えているか天然かのどちらかでなければ出来ないこと。
半端に野心や責任感を持ち合わせた凡人なら旧臣の傍迷惑な忠義や
蜀残党を滅ぼしたい政権側の罠に乗っちゃって、政治活動を始めて
九族皆殺しの粛清されちゃうところ。
蜀書記述少ないもんな
劉禅の上にも兄弟いっぱいいたと思うけど全然載ってない
○○がいたけどこれこれで死んだぐらいあっていいと思うんだけど
312 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/30(土) 16:01:52 ID:KLLaglvD0
なお、『晋書』「李密伝」で元蜀の臣下でもある李密は、名臣を信じて成功し、
奸臣を信じて失敗した事を例に出し、劉禅を「斉の桓公に次ぐ」と述べている。
これに従えば、劉禅の配下が管仲に及ばなかったか魏に管仲以上の人物がいたか
蜀も魏も管仲以下のレベルで争って蜀が力負けしたかのどれかかね
諸葛亮時代は前者、姜維北伐は後者ってとこか
313 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/17(水) 20:27:13 ID:paFTsDmN0
>>312それって斉の桓公を過小評価しすぎだと思う
確かに晩年はいただけないが、自分を殺そうとした管仲を許し、その男に改革を任す度量、
自身で軍を率いて諸国の軍を破って行った軍事力、そのどれもが劉禅には無いものばかりだ
劉禅は桓公の足元にも及ばないだろう
自身は遊びほおけてたが名宰相晏嬰のおかげで国を保つことができた斉の景公と
同等ぐらいが劉禅の評価としては妥当じゃないだろうか
晏嬰の死後、田氏を重用して国を乗っ取られるもとをつくったあたりも
黄皓を重用して国を滅ぼした劉禅と似ている
黄皓の重用より姜維を放置して亡国した印象
315 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/18(木) 15:38:08 ID:XZuqDaJu0
不毛だな
316 :
孫尚香:2010/02/18(木) 15:48:06 ID:NRfE5wVn0
可惜蜀漢
五虎上將,臥龍鳳雏依然得不了天下
仁政在中國果然行不通啊
317 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/21(日) 00:07:01 ID:xzl/Pvk/O
もし劉封が生きていて劉禅の変わりに君子になっていたら?
>>317 まず十中八九内乱が起きる。
【劉封派】・劉備の遺命なら忠実に守る派
・劉封の経験や実力を買っている派
【劉禅派】・「劉」の血縁こそ大義派
・幼く経験の無い劉禅の方が扱い易い、取り入り易い派
その争いに勝ったとしても、諸葛亮の派閥の中でどれだけ発言力を維持できるか。
維持できたとして、諸葛亮より良い結果が出せたかは微妙なところだろう。
諸葛亮死後に、姜維の北伐病を押しとどめつつ費イの暗殺を防ぎ、宦官の悪政をバンバン裁き
すり減った国力の回復すると同時に、最悪の外交状態を修正という
スーパーアクロバッティックを成し遂げたらもっと蜀は長持ちしただろうけど。
劉協にもっと優秀な兄がいて、そっちが帝になってたら漢(魏)が三国を統一できたか?
っていうのとあんまり変わらないと思う。
>>318 劉封の年齢だと姜維北伐前に死んでるんじゃないの?
それに劉封が継いでも孔明は宰相だったろうし、北伐が親征になるくらいじゃない?
異姓不養というタブー中のタブー(まあ曹操によって一時的に禁が解かれてた時代ではあるが)に抵触する存在だからねぇ。
そんなに強いタブーではない
類例はちらほら見られる
>>304 能動的に悪事をした → ポッポ
劉禅はむしろ無能無気力の管に近いと思われ。
323 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/28(木) 02:45:35 ID:IAyxNZlK0
劉封の隠された事項
劉封は劉備の実子で、母は後漢28将の寇恂の末裔の寇氏(諱は不詳、『吉川三国志』では「芙蓉姫」、
後に「鴻」に改姓した)であること
諸葛亮の陰謀で、劉封は「嫡長子」→「実子」→「養子」と廃嫡から降格に改竄・捏造され、
陳寿がそのまま「劉備の養子」と記したこと
『蜀書』劉封伝にある「封は長沙郡の劉氏の甥で羅侯の寇氏の子」のからくりとは…
「長沙郡の劉氏の甥」→後漢王朝→臨邑侯→劉備の生家→劉備の実子(『典略』、(『後漢書』斉武王?伝)
「羅侯」→後漢28将のケ禹の末子の護羌校尉・ケ訓の系統→爵位は羅侯(現在の湖南省岳陽市汨羅県、長沙市の北方)→劉封の妻がケ氏であること(『後漢書』ケ禹伝)
「寇氏の子」→後漢28将の寇恂の末裔→寇氏は上谷郡昌平県の豪族→劉備の故郷に近い→劉封の母の実家となること(『後漢書』寇恂伝)
ケ芝が劉封の縁戚関係で劉封の妻がケ芝の従妹あるいは従姪であること、
(劉備の子とされる)安平悼王・劉理が劉封の実子でケ芝の「外従子」または「外従孫」であること
劉封の諡号が母の姓にちなんだ「寇太子」または「鴻太子」であること(前漢の景帝の長男の劉栄の「栗太子」「臨江閔王」、
後漢の光武帝の長男の劉彊(強)の「郭太子」「東海恭王」と同様である)
冷遇された彭?ら一部の益州軍閥の反乱の未遂事変の真相は、老いた劉備に代わって、劉封の擁立を目論んだこと
劉封の最大の支持・理解者は法正・魏延であること
北伐で魏延が諸葛亮・李厳(李平)・劉?・楊儀らと衝突したのは、劉封の死と大いに関係があること
字は「公仲」「公然」と伝わること 爵位は「甘陵王」(『蜀書』劉永伝では劉永の爵位)と伝わること
(230年に子の劉琳が「甘陵王」に封じられたことから始まるという)
王としての諡号が「脂、」と伝わること(すなわち「甘陵脂、」)
子の劉琳は劉備が漢の帝位に即くとはじめは「臨邑侯」に封じられたこと
劉封は劉備の実子で、しかも嫡長子である可能性が濃厚である。
諸葛亮の陰謀で「養子」として改竄された可能性が高い。
同時に劉封は「長沙郡」の出身ではなく、実父とする劉備と同じ「?郡?県」の出身の可能性が高い。
324 :
月孔雀:2010/10/30(土) 08:18:46 ID:/dAm/ks+0
劉備の遺言どうり、孔明は、何故、帝位に付かなかったか?
325 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/30(土) 09:54:10 ID:LOnvaRhxO
あれは即位していいよ、とは誘っているが実際はさせない釘みたいなもの。そして諸葛亮への協力だ。
幾ら諸葛亮が法家よりの人間でも、もう漢代の倫理感は儒家に染まりつつあった訳だから、そのモラルに逆らう事は難しいし逆らっても蜀の国家運営は困難だった。
言うまでもなく初期蜀政権とは劉備のカリスマ性に求心力を大きく依存した政権だったからだ。
諸葛亮の権力基盤も劉備の信任篤い臣下としてのものでしかないから、劉備が居なくなれば頗る脆弱なもので、だからこそ劉備没後は漢朝復興を大きく掲げた国家方針を立てなくてはならなかった。
また劉備も諸葛亮の性格や方針も見抜いていたから、実際には即位などしない事も解った上で他の遺臣達に諸葛亮を信頼している事をああ言ってアピールし
自らの没後に諸葛亮が政権運営しやすい様に最後の支援をしてやったと見るべき。
326 :
月孔雀:2010/10/30(土) 14:36:28 ID:/dAm/ks+0
>325
劉備って腹黒いね
327 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/01(月) 17:25:35 ID:uIlwrc9s0
リュウゼンって、本当に劉備の子ですか?
豊臣父子のような嫌疑をあまり聞かないけど、不自然だよね。
劉備、奥さんいっぱいいるのに50くらいで第一子なんて。
流浪の身だから子を残せなかったのか、種無しだったのか
>>327 小沛で高順に城落とされた時に妻子が捕まったという記述がある。
あと長坂の戦いでの逃亡中に娘が曹操軍に捕まっている。
娘どういう扱いうけたんだろ
官妓とかにされたのかな
331 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/11(木) 02:37:45 ID:OKroxbjD0
娘二人は、長坂の戦いでの逃亡のときにつかまってころされているよ
332 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/12(金) 03:15:05 ID:aaLZ1MsF0
>>327 劉禅は正室甘夫人が初めて生んだ子なので第一嫡子扱い
334 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/28(日) 06:59:11 ID:SLgFAmXRO
劉備のDNAはあまり優秀じゃなかったのかな…
劉備の近い血縁を見るに劉備のほうがのんびりした一族のなかでは突然変異だったというべき
ただし劉一族は人からは好かれるようだ
劉永、劉理、劉ェは優秀
>>327 甘皇后伝に、「劉備はたびたび正室を失った」と書いてあるから、
放浪している中で子供も何人か死んでるんだろう
何度も妻子が敵につかまってるし
劉禅って非武装宣言して無血開城、無駄な被害は出しませんってスタイルでしょ?
関東軍の満州撤退時みたいに、非武装宣言しても虐殺、略奪、強姦みたいなのはないみたいだし
反戦平和主義者から見たらどういう評価なのかな?
>>334 成都という環境も悪すぎた
首都と前線とじゃ、あまりにも意識の差が違いすぎる
340 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/26(月) 20:39:46.18 ID:OBRA74Ev0
劉ェは自害するくらいなら魏軍相手に討ち死にするべきだった
さもなければ親父と一緒に降伏するか
341 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/27(火) 22:57:29.77 ID:WnoTeFxEO
兵をひきいた経験や実戦経験ないなら無理じゃねたとえ自分がしたくても
経験あったかどうかは無知な俺にはわからんが
342 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/01(木) 06:49:42.28 ID:5uYrFbuG0
やはり経営者は戦場の真っただ中に身を置いてこそ成立するものだ
安全な場所で都合のいい話ししか伝えられずにいるからこういうことになる
昔からよく劉禅は叩かれるけど
凡君の器はあったと思う
西晋の恵帝の方がよほど暗君
344 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/05/07(火) 00:12:39.19 ID:AauRmX6H0
蜀は劉備のカリスマ性と孔明の辣腕でなんとか保ってた国で、
これを魏相手に保持するのは二代目としたらあまりに条件が悪い。
しかし、親らの遺産を食いつぶした形になったとはいえ、40年も国を保持し、
しかも国を荒れさせることなく魏に降伏し、天寿を全うしたんだから、有能じゃないにしても無能でもない。
君主として中くらいのレベルを下回ることはないレベルだろ。
345 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/05/07(火) 10:13:32.59 ID:8ezoNE74O
まぁ北宋や明の安定期みたいな状況での在位なら、名君ならずともマッタリした凡君で済んだろうが
如何せん理由はどうあれ、亡国の君になってしまったからどうしても悪く言われてしまうわな。
まして後世の演義人気で更に評価は悪くなる。武侯祠の塑像すら存在を許され無いって辺りは流石に酷い気はするけど。
346 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/05/10(金) 01:24:44.07 ID:LV5dD3QY0
劉禅が優秀だとは思わないが、
歴代中国皇帝の大量の有害な君主どもみてたら
諸葛亮存命中は特に問題起こらなかっただけでもマシな方だと思う。
少なくとも霊廟を作るたびに人民にぶち壊されるほどひどかったとは思わん。
347 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/05/10(金) 11:18:14.63 ID:16p5exf5O
明らかに武侯祠の劉禅の塑像の破壊は明代に入って特に度々されだし、しまいには官吏までが破壊の許しを与えた事例があるので
演義の影響が顕著でないかと思う。
ほぼ同時期に定軍山の諸葛亮の墓の治定(明代までに既に墓の正確な位置は分からなくなっていた)が風水師を呼んでなされ、明の地方官吏がそこに墓碑を誌しているので
これらの現象も演義の普及が民間まで及び、諸葛亮人気が高まったのが影響していると考えられる。
後に清代に入ってまた別の箇所に諸葛亮の墓があるとされたので、現在定軍山には二カ所諸葛亮の墓碑が存在する。
348 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/17(月) 20:36:13.04 ID:zX4eNZX60
蜀の劉禅や陳の陳叔宝は暗君と言われているけど、
乱世において無事に天寿を全うしたという意味では勝ち組なのかもな。
つか劉禅は敢えて司馬昭の前で暗愚の振りをしているように思える。
逆に伏見城で家康に会った秀頼は「こいつは優秀だ」と思われてしまったがゆえに・・・
そうなると劉禅は生まれながらの皇子やら安定期の王朝の皇族程ではないが、比較的優遇された生活だったのに結構世故に長けた所があったんだな。
勿論、本人はそこまでの認識や知恵は無くても郤正辺りの入れ知恵で端から打ち合わせ通りの芝居をしただったかも知れないが。
>>348 実際には、秀頼がアホでもバカでも結果は同じだったと思うけどね。
清正が家康より長生きしてれば話は別だったかもだけど
劉禅は戦国のファンタジスタと同じ扱いをされてるな
352 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/25(月) 23:34:11.62 ID:3eYimZZZ0
常に健康に気を使ってた家康の勝ちだね
>>350 清正は自分のお家守るので精一杯だったよ。
司馬昭「蜀を思い出されることでござろうな」
劉禅「ここの暮らしは楽しいので蜀を思い出すことはありませぬ」
司馬昭「・・・」
355 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/30(水) 23:07:23.09 ID:K7F0Cfvl0
中国の有名な暗君
幽王-西周最期の君主。寵妃である褒姒を笑わせるために、諸侯の軍を参集させる烽火を乱用。
結果、本当に異民族の侵攻があったにも関わらず誰も助けに来なくなると言うイソップ童話を字で行く逸話を残す。
劉禅-蜀漢最後の君主。その幼名「阿斗」が中国ではどうしようもない人物を指す言葉になるほどの人気のなさ。
日本においては「在位40年は歴代皇帝トップクラス」「そもそも蜀は無理ゲー」と言う評価が強く、
彼の記事を見ても分かる様にその評価をどうするか考えることは三国志ファンが必ず通る道である。
恵帝-西晋の二代目。あの司馬懿の子孫で司馬炎の息子とは思えないほどの超絶暗君。
マリーアントワネットより千五百年前に「穀物がないのならば肉粥を食べればいいではないか」
と言う言葉を吐いたと言う。西晋が短命王朝で終わったことや、
異民族時代である五胡十六国時代の遠因となった人物。
蕭宝巻-南朝斉の第6代皇帝。内向的性格で、幼馴染の寵妃のために無茶苦茶な後宮工事を施す。
反乱のさなか、衛兵に殺害され首を蝋で固められて反乱勢力の手土産にされると言う屈辱的な最期を迎える。
死後、諸侯に落とされ「愚かな東の侯」という意味で東昏侯の号を与えられた。
後主(高緯)-北朝北斉の第5代皇帝。奸臣を近づけ忠臣を退けた典型的な暗君。
次々に国土を失う中にあっても「まだ一生遊ぶには十分な国土がある」と言う奸臣の甘言(?)に納得してしまい、
結果自分も含めた一族皆殺しの結果を招く。
後主(陳叔宝)-南朝陳の最期の皇帝。隋軍に宮廷を包囲された際も逃げ隠れするなどの醜態をさらす。
亡国を招いたことやその過程で妃が殺されたにも関わらず、何ら恥じる様子もなく連行先の長安で楊堅に仕えた。
あまりの情けなさに殺されることもなく天寿を全うすることができたと言う。
北周宣帝も入れたいところだ
中国だと蜀漢は伝説で、後世の中央を追われた知識人、権力者の希望だからなぁ
時代を経るほど、それを「潰した」劉禅は嫌われる
即座には潰されないタイミングで建国した劉備は流石だけど、最初からカウントダウン状態でもあったのにw
劉禅は名君でも良君でもないけど
暗君・昏君というほどでもない
けれど、なぜか中国史上最悪の昏君扱いされてるんだよなあ
酷いのになると、精神障害患ってたんだなんて訳の分からない叩きが平気でまかり通っていたりする
359 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/05/02(金) 06:30:45.32 ID:D4BamGPGO
だよな、むしろ劉禅から百年経たないのちの時代の南北朝のヒャッハーな皇帝や
明中期にかけての皇帝に較べたら、劉禅は大人しい位。
ヒャッハーは暴君だから劉禅とはベクトル違うかもしれないが、明の暗君オンパレードの歴史を見れば
「もしかしたら劉禅よりダメだコイツ…何とかしなくちゃ」な気分になる事請け合い。
暴君では有り得んし、ラストも自分の責任で決断したんだよな
追い詰められたあの状況でこの決断をして殺されたりするでもないところを見ると、
ああ見えてそれなりに国内、宮内を掌握してたんじゃ?という気もする
劉禅はまかり間違っても名君・良君に分類はできないんだよな
晩年に黄皓の専横を許したのは否定できんし、そもそも主体的に国政を導いた訳でもないし
でも、暗君と呼べるほど何かをやらかした訳でもないし
正直、蜀漢の幕を引かなければここまで悪し様に言われなかったと思う
そう考えると、運が悪かった、というのが劉禅の評価に相応しいのかもしれん
362 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/05/02(金) 20:55:27.27 ID:H7DXgWhf0
>>359 劉禅何気にすごくね?
平時ならまだしも乱世において曲がりなりにも在位40年だぞ
万暦帝などとは訳が違う
363 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/05/02(金) 21:16:43.68 ID:g8PIM01yO
在位年数はよく言われるが相手があることだから単純な比較は出来ないと思うの。
普通に常時ピンチだけど、劉禅が何かをやって切り抜けたというわけでもないな
うーんw
魏が司馬氏による内乱でゴタゴタしてなかったら、蜀はもっと早く滅ぼされてただろうしねぇ。
でも劉禅って加点材料もほぼ無いけど減点材料もそんなに無いよな。黄皓問題はむしろ姜維がアカン。
姜維も気の毒だぞ
諸葛亮だけじゃなく、費イもショウエンも董允も…という状況で、軍事だけで一杯一杯
それで不向きな政争まで…というのはw
結局、蜀の国力の問題かね
人材も足りん
姜維が「軍事のみにかまけて黄皓の専横を許した」云々という言われ方は辛すぎるわなぁ
姜維が軍権握った頃には完全に詰んでいるしなあ
それにしても政争が下手すぎる気がせんでもないけど
軍事力を背景に失脚を回避しつつ北伐、という突っ込みどころ満載の状況なわけだし
>>362 それに対する感想は天嶮の国って凄いんだなぁと
370 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/05/13(火) 01:03:44.59 ID:gx+9/QFI0
>>362ぶっちゃけ諸葛亮と、諸葛亮が残した後継者の二人のおかげだよなあと思う
涼州でひっそりと建国して
在位30年で滅亡した宋建なんていう例もあるしなあ
蜀漢は漢の正統を名乗ってたわけで、思いっ切り喧嘩を売りながらの建国だからなー
あれ以上の放置も望み薄か
>>367 姜維は大将軍・録尚書事で軍事と政治のトップとしての責任がある。
加えて軍事は政治の手段に過ぎないのに、政治を顧みず軍事に暴走していたんだから批判されて当然。
諸葛亮の息子も黄皓と協力して姜維と対立してたんだっけ?
そうそう
時期的に姜維の行動は突っ込みどころ満載だから、
変な行動ではないんだけどね
姜維はそれなりに若いうちに蜀に付いたとはいえ、どうしても基盤が弱いからな。
能力があっても足元を突かれるとキツい。
せめて劉備が生きてる内に降っていれば…。
劉備が生きてる内って、姜維はまだ10代の少年なんですが…
378 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/08/31(日) 19:38:44.15 ID:ywatw0BL0
しお焼のりニンニク乗客贅肉ポイ捨てゴムエアラインメジャーラス糖尿関西京スラム規定野球へアスケロンとるこイラン飲会インドフレ英とんこつニューヨーク骨折森林交際爆竹味flashマックさいむらアリナミン胡麻バブル法香CDラーメン
しお焼のりニンニク乗客贅肉ポイ捨てゴムエアラインメジャーラス糖尿関西京スラム規定野球へアスケロンとるこイラン飲会インドフレ英とんこつニューヨーク骨折森林交際爆竹味flashマックさいむらアリナミン胡麻バブル法香CDラーメン
しお焼のりニンニク乗客贅肉ポイ捨てゴムエアラインメジャーラス糖尿関西京スラム規定野球へアスケロンとるこイラン飲会インドフレ英とんこつニューヨーク骨折森林交際爆竹味flashマックさいむらアリナミン胡麻バブル法香CDラーメン
歯鼻科賞金旅人豪州牛仕掛人ラボセコムユーザー福岡内政アゴエコノミー解体車業しお焼のり駐車禁止管理代番号盗り逃げEUふなぶっしゅバンコク花火シルク平壌大全集CaPSIM5ラ・トゥーfxメン
保険依存王宿題auロボットヤーフォーレポート日本評価カウントダウンサロン「わー!オぉあ」↓☆↓☆内閣飲み会郵政省mannernhk証券ディレクターDJ玩具研究員デズネーespana牧師TeNQdio店長少年
379 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/09/02(火) 14:01:27.00 ID:iwI8iq9D0
劉禅が故郷を捨てなければ、いつまでも 蜀は劉氏の場所という古の所在もあるだろ
劉禅とその国土の人間がどれだけ血を流してきたかも本人としてはわかっている。
その上で劉禅はそれら流れた血刃を全てとめられる方法は、自らの振る舞いをもって
魏の人間に知らしめる苦悩を日々苛んでいたと思う。決して、悠々楽をおぼんでいたのではないと思うが。
380 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/09/02(火) 14:05:55.57 ID:iwI8iq9D0
見方をすれば、魏からの入れ知恵もあっただろうが 漢の歴史の業を止めたのは
彼以外にできなかったと 言える。 その後の反乱も おしとどめられた理由は
暗愚の笠を被れば、劉の機転を自らが封じたと言えなくもない。
その証拠に劉禅以後の劉氏に有名な人物が現れていない。
しかし、劉氏は在する所 優れていたから台当しなかったのではないか?
それだけ機知に優れていたと
>その証拠に劉禅以後の劉氏に有名な人物が現れていない。
三国志しか知らないと、こんな恥ずかしいことを平気で言えるんだな
>>380の内容を見て、劉裕さんや劉淵さんがいきり立ち
劉基さんが主君の朱重八さんに
>>380を凌遅三千刀にすべく策を練り始めました。
トンデモサイトの不完全コピペにマジレスしてやる優しい人達
真っ先に劉少奇を思い浮かべてしまった。