唐の高宗の皇后だった武則天は、夫の死後に皇太后として実権を握っていたが、690年、ついには
皇帝の座を簒奪して中国史上空前絶後の女帝となり、国号を周に定めて一時的とは言え唐を滅ぼし
てしまった。
その際、唐の皇族や、唐に忠誠を持つ高官、貴族たちの勢力を根絶するため、犯罪者上がりの酷吏
を用いて、密告を奨励、容赦のない弾圧を行った。
酷吏として大いに手腕を振るった胡人出身の索元礼は、「鳳凰晒翅(鳳凰羽を広げる)」と自身が命名
した拷問の方法を得意技とした。拷問を受ける囚人の両手と両足を束ねて、木の枷で締めつけながら
笞などの責め具でいたぶる方法である。
「仙人献果(仙人果実を献上する)」は、手枷を嵌めた両手を高く掲げさせておいて、その上に煉瓦を積
み重ねるものであった。
他にも索元礼は自ら考案した拷問方法に、「玉女登梯」「方梁圧髁」などと名前をつけて、悦に入って
いた。
囚人を縛って逆さ吊りにしておき、髪の毛に大きな石を縛りつける。それを揺すると、痛みに加えて髪
の毛が軋み、今にも抜け落ちそうな恐怖を与えたと言われる方法も実施した。
囚人の顔にぴったり合う鉄製の籠をかぶせておいて、そのほとんどない隙間に木の楔(くさび)を金槌で
打ち込むという方法も採用している。
この楔を打ち込まれると、皮膚が破れて脂肪がぬらつき、それでも叩き込み続けると血で顔が真っ赤に
染まった。血しぶきを上げながら泣き叫ぶその囚人の姿は、地獄絵図そのものであった。
この拷問はただ痛いだけでは済まず、楔を打ち込む場所に、鼻や目の近くを選んでやると、その悲惨さ
は倍増する。脳にまで響き、少し責められただけでも吐き気を催すのだ。それでも囚人が我慢を続けてい
ると、頭蓋骨にびびが入り、ついには陥没し、頭の形が崩れ始める。
索元礼はこれらの方法を駆使して、自分が欲しいだけの自白を数千人の囚人から引き出して手柄を立
て、唐朝の残党の討滅を望む女帝の意に迎合した。
世間の怒りが索元礼に集中すると、武則天はこの酷吏を用済みと見なし、逮捕して投獄した。
かつての部下に逮捕された索元礼は、今まで自らが考案し実施してきた拷問を受けることとなった。取
り調べ自体が捏造に満ちていい加減なことは知り抜いていたから、あれこれ言い逃れをしようとした。
すると、取り調べを担当していた役人は、
「索元礼がよく用いていたあの籠を持って来い」
これを聞いた途端に索元礼は恐れおののき、自ら自白を始めて罪を認めた。試してみるまでもなく、索
元礼自身がこの拷問具の効果が抜群であることを熟知していたのだ。
索元礼は処刑こそ免れたものの、獄死した。
索元礼と同じように武則天に用いられた酷吏に、来俊臣や周興らがおり、告発があった者を捕らえると、
残虐な拷問を加えて、自白を強要させた。
この手法によって、それぞれ数千人を冤罪で陥れ、死に追いやった。
二人も索元礼と同様に、拷問の方法にも趣向を凝らし、より残虐で効果的な拷問の方法を次々と考え
出し、実行に 移していた。
ある時、周興が謀反を企てているという告発が、ある者によってなされた。武則天は、来俊臣に命 じ
て周興を尋問させた。
来俊臣は、周興を尋問するに当たって、特別に趣向を凝らした。
来俊臣は、正式に逮捕して尋問するのではなく、一席を設けて、周興を食事に誘った。
その席上で、わざと周興に教えを請うた。
「周の兄上、なかなか罪を認めようとしない者がいて困っている。どうすればよいか?」
周興は笑いながら、即座に、
「簡単なことさ。大きな甕(かめ)を用意し、炭で真っ赤になるまで焼く。そしてその中に、囚人を投げ
込めばいい。嫌でも自白するはずさ」
と得意げに語った。
それを聞いた来俊臣は、感心した様子で、
「よい方法だ」
と言い、早速部下に大きな甕を持って来させて、炭で赤くなるまで焼いた。そして、周興に、武則
天の命令書を示して言った。
「周の兄上が告発された。どうか甕に入ってもらいたい」
周興は真っ青になり、土下座して、甕に入ることなく罪を認めた。
周興は死罪を免除されて流罪とされたが、配流先へ行く途上、恨みを抱く者に殺された。
279 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/17(木) 13:25:41 ID:csijItwY0
この故事により、自分の案出した方法で、自分自身が懲らしめられることを、「請君入甕」と言うよ
うになった。
ちなみに悪行の限りを尽くした来俊臣は、ある時告発を受け、武則天によってあっさりと処刑され
た。
酷吏を用いて恐怖政治を敷いた女帝は、本来自分に向けられるべき世の人々の恨みを全て来俊
臣に背負わせた上で、その来俊臣を処刑することで世間の支持を集めたのである。