14世紀、明朝を開いた朱元璋は、廷杖という制度を導入した。
廷杖とは、皇帝が制裁を必要と感じた場合、公的な手続きを経ることなく、その場の判断で、官僚に
対して杖責めをすることができる制度であった。
たとえ大臣のような高官であっても、廷杖を免れることはできず、皇帝の胸先三寸でどうにでもできる
ものであったから、廷臣たちが皇帝の発言に異を唱えることに制約を加え、朱元璋が確立を目指す皇
帝の独裁権力の基盤をより強化するものであった。
永嘉侯朱亮祖は、明朝建国の功臣の一人であったが、広東の守備に赴いた際、言質での不法行為
を働いたことが告発された。
朱亮祖は息子の朱暹と共に、皇帝の命を受けた役人によって宮廷の庭へと連行され、左右から役人
たちに俯せに押さえつけられて、露にされた大腿部を杖によって執拗に打たれ続け、結局絶命した。
杖責めとは名ばかりで、事実上の杖殺であった。
朱元璋の治世においては、多くの功臣や官僚がこの廷杖によって殺された。
明代、廷杖は永楽年間に一度は廃止されたが、正統年間に復活し、以後この酷刑は、朝廷で多用
されるようになった。
明代を通じて廷杖は次第に形を変え、処刑の制度として定着し、次のような手順を踏んで行われるよ
うになっていった。
罪状が記された名簿を携えた官吏が朝廷から派遣され、名簿を処刑の執行人に渡した。
そして、処刑を執行される者が本人に間違いないかを確認し、そこで罪について検討をして、減刑の
可能性を見い出すことができないか再度点検してみる。
それでも朝廷に上申するに値しないことが確認されれば、処刑の執行が前日の深夜になって数人
の者に言い渡される。
処刑執行の宣告を待っている間、囚人たちは気もそぞろでうろたえているが、自分が指名されると、
恐怖にのた打ち回って暴れ、手がつけられなくなる者もいる。
執行人たちは、指名を受けた者たちに神妙にするように言ってはみるが、そのような言葉が当人の
耳に入るはずもなかった。
翌朝、官吏は執行人に、囚人を牢獄から引き出す合図である3発の号砲を発砲させる。
そこで再び囚人が本人か否か、及び罪状について確認する。それが間違いないことが分かると、官
吏は再び処刑場に囚人を出発させるための合図である3発の号砲を発砲させる。
囚人は後ろ手に縛られて、罪状が記された立て札を首の後ろに突き立てられ、木製の格子がつい
た長方形の箱に座らされる。
それは御輿のように担がれて、沿道に観衆が詰めかける中を行進した。大半の人々は、演劇を楽し
むかのような野次馬気分で駆けつけて来ているわけであるが、中には囚人に恨みでもあるのか、罵倒
する者や、腐った野菜や果物を投げつける者もいる。
いよいよ処刑場に到着すると、官吏は一名ずつ引き出せとの合図である3発の号砲を発砲させる。
この期に及んでも、処刑前に官吏は減刑の余地がないかどうか最後の検討に入る。何度も繰り返さ
れるこの儀式は形式的なものではあったが、土壇場で処刑の中止が宣告され、牢獄に戻された例も存
在している。
両手を縛られた囚人は、灰が円形状に敷き詰められた上に引き出され、執行人たちがその傍らに立
つ。その場で、多くの食べ物や飲み物が囚人に与えられるが、ほとんどの者がそのような飲食物を受け
つけない。
いよいよ処刑の執行を開始させる合図として銅鑼が打ち鳴らされる。
観衆たちの間から大気を揺るがすような喚声が沸き上がる中、2人の執行人は後ろ手に縛られた囚人
を俯せに寝かせて、両足を伸ばさせる。
それぞれが囚人の両脇に並ぶと、人の胸ほどの高さまである、いくつにも節が連なった竹を振り上げ
て、膝の後ろの部分目がけて振り下ろした。
最初の打撃で皮膚が破けて血が流れ出て、囚人は激痛に比類と共にのた打ち回る。逃げようとして
もたちまち押さえつけられる。2度目の打撃を食らうと、もう立って歩けなくなるという。
それを何度も繰り返しているうちに、皮膚が破け、血が流れ、肉がはみ出し、骨や筋肉を支えている
腱が飛び出してくる。更に続けると骨が砕けていく。
囚人は頭が割れんばかりの叫び声を出し、ついには声さえかすれて出なくなる。
記録によると、膝ばかりを叩いたわけでもないようだ。胴体も叩くから、50回ほど叩くと、皮膚と筋肉
や腹膜が破れて、内臓が飛び出してくることがある。
威力が足りないと見られる時は、水をたたえた瓶に笞を浸して、粘り気を与える。
叩く度に飛び散る返り血で、執行人の服は真っ赤に染まっていった。囚人が虫の息となり、息絶える
頃には、処刑場は血の海になっている。丹念に叩かれた囚人の身体は、軟体動物のように崩れていた。
234 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/20(火) 15:11:36 ID:RgHqYmkc0
囚人たちは、杖刑がこのような過酷な処刑であることを知っていたので、この刑が自分たちに執行され
ることを知ると、自殺する者が相次いだ。
自殺の大部分は短い縄を手に入れて、牢獄の壁に打ち込んである棒に結びつけ、それで首を吊って
死ぬのである。
ただ、頼りの棒が自分たちの身長よりはるかに低い位置にあるので、首を吊ろうするには、横になった
まま倒れ込むと同時に、身体を硬直させて、伸びたままの姿勢を保たなければならなかった。
処刑執行前に勝手に自殺した者は、その死体を便所に3日間投げ捨てられるという侮辱を与えられる。
身分が高い官僚や貴族にとって、自分が汚物に塗れるところを想像すると、このようなことは耐え難い
辱めであっただろうが、なぶり殺しから逃れようとする心理に対して、どれだけの抑止効果があったかは
疑問である。
便所における放置期間が過ぎると、その死体は足に縄をつけて荒れ地へ引きずられて行き、そこで検
屍官がいる前で、鉄の棒で力いっぱい身体を3回殴られる。
それでも生きている兆候が発見されなければ死亡したものと認められ、その死体はごみ捨て場に捨て
られる。
死んだ振りをして脱獄しようとすれば、この時に発覚する。
明代、こうして自殺する者の数は年間2000人に達したという。