明朝末期、農民の反乱が頻発した。張献忠は、明朝を滅ぼした李自成と並ぶ、反乱の指導者
で、各地を転戦していた。
1640年、明朝の政府軍に敗退した張献忠は、四川に進撃した。
四川の中心都市成都を占領した張献忠は、皇帝を名乗った。そして、役人を登用するための科
挙を行うことにし、支配地域から志望者を集めた。
試験場の前には長い杭が打たれ、4尺の高さの位置で、杭と杭の間に縄を張った。そこに1人
ずつ名前を呼んだ者を整列させ、縄から背を飛び出している者は、全て用意された宿舎へ連れて
行かれた。
男たちが怪訝そうな表情を浮かべながらそこまで行くと、部屋に閉じ込められて片っ端から首を
刎ねられた。その数は1万人に達したと言われる。
彼らは科挙を受けるために、硯や筆を持参していたので、それが処刑された現場に山のように
積まれた。
縄に頭が届かなかったために、処刑を免れ、役人として採用された者もいた。
張献忠という男は、ただ人を殺すだけではなく、殺し方や、殺す理由にまで独特のこだわりを持
った。
ある時、張献忠は太医院に古来より伝わる「銅人」を手に入れた。「銅人」とは、鍼灸の基本と
なるツボの位置を穿った原寸大の銅製人体模型である。
張献忠はこの「銅人」を使って、新たな殺人を考えついた。
「銅人」の上に紙をかぶせてツボの位置を隠した上で、針術の試験を行うと宣言し、医者を集
めて参加を強要した。そして、ツボの位置を1ヶ所でも間違えば死刑であることを付け加えた。裁
判官に法律の試験を行って、100点満点を取らなければ処刑してしまうようなものである。
医者たちは震える手で「銅人」のツボに針を突き立てていったが、緊張のあまり、多くの者が
途中で間違えてしまった。その者たちは、即座に処刑場へ連れて行かれ、死刑執行人たちが
事務的に首を刎ねていった。
このために、張献忠の支配地域にいた医者たちはたちまち死滅してしまった。
世の中にはどういうわけか女性を敵視する男が存在するが、張献忠もそのような男だった。
張献忠は、女は人の心を惑わすものとして、ことごとく殺し、根絶するように命令した。
張献忠は幼児に対しても容赦がなかった。捕らえた幼児たち数百人を1ヶ所に集め、その周
囲で火を焚いて、逃げられないように火の壁を作った。そうした上で、張献忠は周囲から槍で突
き立て、あたかも小動物狩りでも楽しむかのように、幼児たちが悲鳴を上げて逃げ惑うのを楽し
みながら殺していった。
この他にも、張献忠が試した殺しの方法は多岐に渡った。人間の足の筋を抜いて、歩けなく
してみたり、人間の皮を剥ぎ取ってみたり、まるで人体実験をしているかのようであった。
張献忠が虐殺を命じた地方では、兵士たちが人の頭を放り投げ、それが積み重なった山や
手だけの山、鼻だけの山、耳だけの山が形成されていた。
やがて肉が腐って骨から崩れ落ち、蛆虫が蠢くようになると、辺りを無数の蝿が飛び回り、沸
き立つ悪臭で息も止まりそうであった。
当時の中国の男たちの多くがそうであったように、張献忠もことのほか女性の纏足を愛した。
張献忠は特に、纏足をした女の足首を切り落とさせて、それを山のように積み重ねて、鑑賞
しながら酒を飲むのが好きだった。
この時、彼は気持ちよさそうに独り言を言った。
「足がもう一つあったら、尖った山頂ができるのだがなあ」
「これでどうでしょう」
その場にいた、愛妾が、自分の足を見せた。
「よかろう」
冗談だと、愛妾が弁解しても後の祭りであった。命じられた兵士によって、彼女は足首を切り
取られてしまった。
張献忠は最後に清軍の討伐を受けて敗北し、殺されたが、大好きな人殺しを思う存分に
やったのだから、よい時代に生まれ合わせたと思っていたかも知れない。