中国史における酷刑・拷問

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204名無しさん@お腹いっぱい。
 明朝末期、農民の反乱が頻発した。張献忠は、明朝を滅ぼした李自成と並ぶ、反乱の指導者
で、各地を転戦していた。

 1640年、明朝の政府軍に敗退した張献忠は、四川に進撃した。
 四川の中心都市成都を占領した張献忠は、皇帝を名乗った。そして、役人を登用するための科
挙を行うことにし、支配地域から志望者を集めた。

 試験場の前には長い杭が打たれ、4尺の高さの位置で、杭と杭の間に縄を張った。そこに1人
ずつ名前を呼んだ者を整列させ、縄から背を飛び出している者は、全て用意された宿舎へ連れて
行かれた。
 男たちが怪訝そうな表情を浮かべながらそこまで行くと、部屋に閉じ込められて片っ端から首を
刎ねられた。その数は1万人に達したと言われる。
 彼らは科挙を受けるために、硯や筆を持参していたので、それが処刑された現場に山のように
積まれた。
 縄に頭が届かなかったために、処刑を免れ、役人として採用された者もいた。
205名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/23(火) 15:40:07 ID:e7feaU810
 張献忠という男は、ただ人を殺すだけではなく、殺し方や、殺す理由にまで独特のこだわりを持
った。

 ある時、張献忠は太医院に古来より伝わる「銅人」を手に入れた。「銅人」とは、鍼灸の基本と
なるツボの位置を穿った原寸大の銅製人体模型である。
 張献忠はこの「銅人」を使って、新たな殺人を考えついた。
 「銅人」の上に紙をかぶせてツボの位置を隠した上で、針術の試験を行うと宣言し、医者を集
めて参加を強要した。そして、ツボの位置を1ヶ所でも間違えば死刑であることを付け加えた。裁
判官に法律の試験を行って、100点満点を取らなければ処刑してしまうようなものである。
 医者たちは震える手で「銅人」のツボに針を突き立てていったが、緊張のあまり、多くの者が
途中で間違えてしまった。その者たちは、即座に処刑場へ連れて行かれ、死刑執行人たちが
事務的に首を刎ねていった。
 このために、張献忠の支配地域にいた医者たちはたちまち死滅してしまった。
206名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/23(火) 15:40:48 ID:e7feaU810
 世の中にはどういうわけか女性を敵視する男が存在するが、張献忠もそのような男だった。
 張献忠は、女は人の心を惑わすものとして、ことごとく殺し、根絶するように命令した。

 張献忠は幼児に対しても容赦がなかった。捕らえた幼児たち数百人を1ヶ所に集め、その周
囲で火を焚いて、逃げられないように火の壁を作った。そうした上で、張献忠は周囲から槍で突
き立て、あたかも小動物狩りでも楽しむかのように、幼児たちが悲鳴を上げて逃げ惑うのを楽し
みながら殺していった。
 
 この他にも、張献忠が試した殺しの方法は多岐に渡った。人間の足の筋を抜いて、歩けなく
してみたり、人間の皮を剥ぎ取ってみたり、まるで人体実験をしているかのようであった。

 張献忠が虐殺を命じた地方では、兵士たちが人の頭を放り投げ、それが積み重なった山や
手だけの山、鼻だけの山、耳だけの山が形成されていた。
 やがて肉が腐って骨から崩れ落ち、蛆虫が蠢くようになると、辺りを無数の蝿が飛び回り、沸
き立つ悪臭で息も止まりそうであった。
207名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/23(火) 15:41:32 ID:e7feaU810
 当時の中国の男たちの多くがそうであったように、張献忠もことのほか女性の纏足を愛した。
 張献忠は特に、纏足をした女の足首を切り落とさせて、それを山のように積み重ねて、鑑賞
しながら酒を飲むのが好きだった。
 この時、彼は気持ちよさそうに独り言を言った。
「足がもう一つあったら、尖った山頂ができるのだがなあ」
「これでどうでしょう」
 その場にいた、愛妾が、自分の足を見せた。
「よかろう」
 冗談だと、愛妾が弁解しても後の祭りであった。命じられた兵士によって、彼女は足首を切り
取られてしまった。

 張献忠は最後に清軍の討伐を受けて敗北し、殺されたが、大好きな人殺しを思う存分に
やったのだから、よい時代に生まれ合わせたと思っていたかも知れない。