lll初代llll   始皇帝   lll皇帝lll 

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239名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/15(日) 00:29:48.18 ID:jOE8EozH0
チノ=リはあっても孝公が出るまでは逆転の目は十分あったと思うけどな
商鞅変法と函谷関建造が決定的すぎる
何度か連合軍に追い込まれても本国は無事だったのが転落した斉との違いだろう
240名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/16(月) 14:00:55.57 ID:xdQtEXkm0
ふらついてた秦だが、献公から孝公へのバトンタッチは見事すぎた
差が決定的になったのは昭襄王の魏ゼン執政期だろうけど

商鞅変法はよく触れられるけど、函谷関建造も大事だよね
何度もピンチはあったが函谷関で防ぎ逆襲に転じる
函谷関を迂回したり、侵攻が腰砕けに終わったりと、まさに鉄壁

地味に楚の懐王が秦本国、しかも王都に迫る位置まで侵攻したが後一歩だったな
241名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/18(水) 08:59:54.82 ID:cqhMeH1F0
水銀うめええええwwwwww
242名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/25(水) 21:08:15.53 ID:vrxQph0s0
スレチですまんが、秦の領地と三国時代の蜀の領地ってほとんど同じだっけ?

もし中国が三国じゃなく六ヶ国に分かれてたら…
243名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/25(水) 21:50:38.06 ID:gu6fAw1a0
>>242
戦国・秦と三国・蜀が同じ領土面積だなんて
長安に行けずに悔し泣きした魏延さんに謝った方がいいよ

冗談はともかく、蜀は関中取ってないし隴西も占拠できていない
一方で戦国・秦は南中を制圧していない
ただし、戦国・秦の方が制圧している面積は多いはずだ
ただ生産力は時代の変遷で変わっているから、単純な国力比較はできないけどね
244名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/25(水) 22:14:25.06 ID:SHoUsHme0
それと懐王が藍田で大負けするまでは漢中のあたりは楚の領有のはず
245名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/28(土) 16:40:40.88 ID:iAmgz91J0
南中は楚が制圧したけど秦の攻勢で連絡を断たれそれっきり

秦都咸陽を目前にして無念の講和、藍田の戦いが与えた影響は大きいねえ
246名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/03(木) 21:16:18.87 ID:Ehd3cT6Y0
>>197
周は西と東に分裂したのです。
王朝名とは別で西周君に周王が庇護されて、別に東周君もいて。
247名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/18(金) 06:39:03.16 ID:w5pJFZcl0
質問サイトでも西周と東周を王朝のことだと勘違いされるよね。
東周時代に周が東西に分裂したことって意外と知られていない。
更に言えば、始皇帝の統一直前まで周があったことさえ驚き。
衛の滅亡が秦の二世皇帝の時というのも驚き。
248名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/05(火) 16:14:01.72 ID:OM/70j380
なんかBSプレミアムでやってる
249名無しさん@お腹いっぱい。:2014/01/02(木) 21:02:06.60 ID:mttqCjw30
>>247
え、分裂?
周の都が東に移ったから東周っていうんじゃないの?
250名無しさん@お腹いっぱい。:2014/01/02(木) 21:51:24.73 ID:8D5dlCOT0
>>249
ざっと調べたら西周・東周には二種類あるようだね

一つは、王朝としての西周・東周
周王朝を平王が洛邑に東遷した前後で西周・東周と分割して呼ぶ
(以下、王朝としての東周は「周王朝」と表記する)

もう一つは、戦国時代に存在した小国の西周・東周
戦国時代になって、周王朝の考王がそれぞれ、
弟の姫掲(西周桓公)を温に封じて成立したのが西周国
弟の姫斑を鞏に封じて成立したのが東周国
西周国の第3代恵公の子が、東周国を継承して東周恵公になっていたりややこしい

周王朝の勢力は、赧王の頃には完全に西周国と東周国に分裂していて、
紀元前256年に周王朝・西周国、紀元前249年に東周国が、秦に滅ぼされているね
251名無しさん@お腹いっぱい。:2014/01/17(金) 05:53:54.83 ID:QbC5zHXT0
始皇帝は結構身近な人に裏切られてる人物という印象がある
母親の太后や仲父の称号を与えた呂不韋、異母弟のセイキョウ、呂不韋の後に相国になった昌平君
みんな始皇帝を裏切ってる
本当の意味で味方だったのは華陽夫人(孝文王の正妻)と父親の荘襄王(子楚)だけだと思う
252名無しさん@お腹いっぱい。:2014/01/22(水) 00:06:39.04 ID:uW3ZoWG00
始皇帝、特に周りの人物は外国と縁が深い
そんな中、荘襄王や始皇帝は秦の君主として秦人にも信用されねばならなかった
徐々に政治的傾向が行き違い対立に至るのは当然と言うべきか
253名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/06(日) 22:22:00.35 ID:OWB7Jx1m0
しかし子楚の異人は色々考えたくもなるな
どんな経過であんな名前つけたのか
254名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/07(月) 03:19:02.06 ID:CEZWZ0m50
呂不韋が本当に始皇帝の父親だったのかは微妙だよなあ
始皇帝を貶めるために作られた話っぽさそう
255名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/07(月) 08:17:26.82 ID:fdGYPfVS0
まぁ中国の場合王権なんて誰が継いでもいいわけで
日本だと絶対に受け入れられない話なんだろうけどね
256名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/07(月) 13:37:15.78 ID:6BEdZnX50
>>254
結論からいうと恐らく嘘だろうと思われる。

まず史記は司馬遷が当時の史料を元に作ってるが
その中でも戦国策に拠った部分が大きいのな。
なのに戦国策にはその話が載ってない。
次に秦始皇本紀にないところも変。
そして十二ヶ月で時期が合わない。

以上から見るに、司馬遷は後にできた始皇帝を貶めている資料を参照したが
信憑性が微妙だったから本紀には入れなかった、というところが近いんじゃないか。
257名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/07(月) 18:26:01.32 ID:t/Z44zXv0
荊軻に薬箱をぶつけた侍医に「薬箱をぶつけて私を助けてくれたのは侍医が私を愛してくれているからだ」って言ったのを見ると
子供のころから誰からも愛されなかったんだろうなあとか愛に餓えていたんだろうなあと思う
258名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/07(月) 18:49:33.34 ID:KFz2cuHJ0
ケイカの待ってた信頼できる友人って誰だったんだろうな
しかしよりによって新婦用とかw
259名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/07(月) 20:03:16.36 ID:CEZWZ0m50
>>258
秦舞陽は祖父が名将で知られた秦開だから
祖父の名声のおかげで孫も必要以上に名声が高まったんだろうなあ
260名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/07(月) 23:06:04.30 ID:JVcQjToM0
荊軻「信頼できる友人を待ってます(うそぴょーんwこんな馬鹿げた任務引き受けられるかよw)」
261名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/07(月) 23:13:59.77 ID:JVcQjToM0
七色ウォーターw
絶対ハズレ
262名無しさん@お腹いっぱい。:2014/05/21(水) 16:18:57.07 ID:TSxLLhaK0
始皇帝が匈奴を打ち負かしたのは凄いと思う
劉邦なんて手も足も出なかったのにね
263名無しさん@お腹いっぱい。:2014/05/21(水) 20:22:49.08 ID:i+IbXEV40
なのに長城築いたのは偉いわ
拡張主義の中華思想では斬新極まりない
264名無しさん@お腹いっぱい。:2014/07/29(火) 02:28:37.57 ID:Too3xN8v0
X1用ソフト 始皇帝 (dB SOFT) 1985年
http://ameblo.jp/koorogiyousyoku/entry-11900885435.html
265名無しさん@お腹いっぱい。:2014/08/14(木) 19:45:02.49 ID:FzKK7R2G0
しかし、六国にとってはつくづく残念な話だよな
見かけ上は秦の国力は圧倒していたんだけど、
合従して20年ぐらい頑張っていれば、
始皇帝の死後、胡亥と趙高が秦を滅茶苦茶にして
秦の方が先に滅亡していたかもしれないのに
266名無しさん@お腹いっぱい。:2014/08/14(木) 21:36:42.80 ID:OBzv9mf20
そうなると皇帝の概念どうなるんだろうね?
267名無しさん@お腹いっぱい。:2014/08/14(木) 22:00:32.21 ID:BAdsc0jEO
まかり間違えば、宇宙大将軍並の一発称号の可能性も。
で、王が最高位の称号のまま。
268名無しさん@お腹いっぱい。:2014/08/14(木) 22:14:14.16 ID:16JZCJ9N0
胡亥と趙高がメチャクチャすると言っても、
陳勝・呉広の乱でも、秦本国の動揺は少なくて、旧韓や郢近辺をきっちり抑えられてるから
秦を滅ぼせるところまではいかないんじゃね?

秦は昭襄王の時に八割方優位が確定しちゃってるから
秦が大崩れしたとしても五分五分に戻すのが精一杯じゃねーかな
269名無しさん@お腹いっぱい。:2014/08/15(金) 22:02:18.11 ID:6W4FEuSr0
>>268
いや、胡亥さんは在位わずか三年であの破壊力だぞw
いくら不満が高まっていたからと言って、何百年もの秦国の基盤を持つ大帝国が滅亡w
マジで馬鹿の語源二人、パネェ

それに、項燕の孫の項羽が楚軍司令になる可能性が高いしな
李左車も李牧の孫って説があるし
張良だって韓の宰相になるかもしれん

さすがに秦攻撃の一本化は難しいかもしれんが、あのコンビが秦をしきっている限り、
全土の半分が秦の状態でも、年数が少し延びるだけで終わりなんじゃないかと思う
270名無しさん@お腹いっぱい。:2014/08/15(金) 23:27:24.59 ID:IuvWhL+k0
日本が鳩山菅直人の2年でほぼ壊滅したのと一緒だな
271名無しさん@お腹いっぱい。:2014/08/16(土) 18:59:26.94 ID:HhY3/tzEO
>>270
全く違うよ。日本の崩壊は安倍の下これからが本番。
272名無しさん@お腹いっぱい。:2014/08/18(月) 22:23:23.60 ID:OXNFCMUh0
>>262
始皇帝に負けた後の匈奴軍は
周辺部族を取り込んで巨大化し匈奴帝国軍になったから
273名無しさん@お腹いっぱい。:2014/08/20(水) 13:25:10.58 ID:Qj54daLU0
>>267
王が各地で乱立してる以上、その上の称号は皇帝じゃなくても生まれたろう。
既に東帝西帝があったし。シャーハンシャーに当たるものはどこもあるし。
274名無しさん@お腹いっぱい。:2014/09/30(火) 22:20:00.11 ID:jy9O8Vca0
>>265
趙高は始皇帝が生きていた間は悪事を働いていたという記録がないよな
やはり勝手な真似はできなかったと考えるべきなのか
>>269
扶蘇が後継者になっていれば長期政権になっただろう
始皇帝が弟の成蟜を攻め滅ぼしたように扶蘇が胡亥を殺していれば秦も長く続いたんじゃないかと思う
275名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/04(土) 04:10:20.79 ID:9Ae+pYQ10
六国が滅び敵がいなくなったと思ったからこそ趙高が好き勝手をやったのだろう
趙高も自分が宮廷の外のことに関して何もわからない自覚はあっただろうから敵がまだ残ってる間は皇帝のお世話しかしないだろう
276名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/18(土) 02:59:38.76 ID:aPhEHNcs0
宮城谷さんは「始皇帝が呂不意の息子だというのは中傷だ」という説をとっていたけど、俺も同意だな。
司馬遷は漢の人間だからね。
277名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/18(土) 04:14:18.57 ID:xtmkl5Tt0
始皇帝が民衆に嫌われていたから、始皇帝が本当は秦の王室の一族じゃないみたいなデマが作られた
あるいは漢が秦を貶めるために作られた話なんかじゃないかなと自分は思ってる
278名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/18(土) 08:46:56.94 ID:yeWlK/r40
中国の場合血ってあんま意味ないのな
易姓革命の国だから
その点継体天皇による王朝交代がタブーの日本とは根本的に違う
279名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/18(土) 20:54:45.99 ID:KkAaBi/80
>>277
俺もそう思う
280名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/18(土) 21:04:10.47 ID:3lrki4jQ0
話としては面白いんだよなぁ
でも一番人気の水滸伝からして下衆い話だ
セレブにまつわる下衆話だよ、大衆は文字通り下衆い
281名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/19(日) 12:12:29.10 ID:xUgk2Rq40
>>278
継体天皇が天皇の血筋じゃなかったかどうかなんてDNA鑑定でもしないと確かめようがないからなあ
応神天皇の子孫って言われてるんだから、とりあえずはそれを史実とするしかあるまい
282名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/19(日) 17:22:32.19 ID:xFYEJK9k0
>>281
まぁ普通は信じないわな
スレチなのでこのあたりで
283名無しさん@お腹いっぱい。:2014/11/30(日) 22:36:02.61 ID:CLv8GylX0
趙姫たんの下僕になりたい
284名無しさん@お腹いっぱい。:2014/12/17(水) 20:00:14.45 ID:BnHRCIOQ0
そういえば清王朝末期に革命派が国名どうするかで結構議論があったそうだけど
「大秦」は国名の候補にならなかったのかな

一応「支那共和国」ってのは候補に挙がっていたそうだけど
他には「大夏」「中国」「夏華」「大中華帝国」とか候補があった

中国大陸を統一する国家の国名が漢字2文字ってのも何だかって気がするし
中華思想的に漢字1文字の王朝が漢字2文字の周辺国の王朝より格上の考えがあるから
「大秦民国」或いは「大秦共和国」とかでも
良かった気がするんだよな・・・
285名無しさん@お腹いっぱい。:2014/12/17(水) 21:42:24.30 ID:dbcp/ai2O
>>284
今でこそ秦始皇の評価は高くなったが、清辺りまでの王朝の秦始皇に対する評価は民と文(儒)を虐げた暴君。
大陸で最初に「皇帝」の称号と後世の帝政の基本ラインを創始した人物であるにも係わらず、各王朝でも先朝の名君を顕彰し祀る廟にてただの一度も祭祀対象に選ばれなくて
常に皇帝としてやっちゃいけない見本としてしか見られてなかった。
主君がやたら宮殿を建てるのに執心した時や、仙薬・金丹を飲みたがり仙人のような異人を求めたがると臣下が決まって
「恐れ多くも皇上に於かせられては、秦の始皇帝の末路をお忘れでありましょうや!」
と諌言するような案配で。

清末の知識人には当然それがデフォだったから、そんな考えは全く涌かなかったと言えるんでないかと。
まして帝政廃止後の民政国家を目指すのに、大陸最初の帝政国家の国号を使ったらマヌケの謗りを免れなかったんでは。
286名無しさん@お腹いっぱい。:2014/12/28(日) 02:31:47.75 ID:jwRlFnQ80
周の王室って最後どうなったの?始皇帝との関係は?
287名無しさん@お腹いっぱい。:2014/12/28(日) 03:24:34.68 ID:tBF3G56i0
最後の王の頃にはその影響力は王畿(後の洛陽周辺)にしか届かなかった。それが更に東西に分裂して
東周君と西周君が勢力を争った。周王は西周君の武公を頼る事にした。
昭襄王の時に、武公は韓と交戦中の秦軍にちょっかいを出して攻撃されたので、秦に出向いて謝罪して
領土を献上した。周王もそのまま秦の保護下に入った。やがて王が崩御すると秦は王畿を占領して
九鼎を運び去った。かくて周の王室は滅んだ。
東周君はその後も7年続いたが、最後は秦に滅ぼされた。始皇帝の父の荘襄王の時の事だ。

九鼎は「鼎の軽重を問う」の故事に出てくる鼎で天子の象徴。
288名無しさん@お腹いっぱい。
秦の領土に住んでいた住民が秦氏を名のっただけで
始皇帝や王族と血族的な繋がりはないぞ

日本に来た秦氏だって自称であって・・・