そうだのぉ
文王 (=゚ω゚)ノぃょぅ 「何を釣っておいでですか?」
太公望 ( ̄ー ̄)ニヤリ 「お前をな〜! 」
これだと殺されるな・・・
77 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/08(日) 16:23:28 ID:hHA9crCA0
>>72 四不象は清朝の宮苑に残っていた。
太公望の時代はもっとたくさんいたんだろうね。
78 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/30(月) 23:26:05 ID:RB1xs3d/0
>>77 漢の時代までは黄河流域に広大な森林地帯があったらしい。
シフゾウもそんなところに生息する動物だったのかもね。
79 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/18(金) 21:12:23 ID:3gWhZThV0
四不象って昔の中国でもそれなりに神聖視された動物だったのかな?
80 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/19(土) 04:22:49 ID:ybrKRqc1O
実際何歳まで生きてたんだっけ?
81 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/10(日) 13:40:57 ID:CfPLqFgF0
>>79 一時は野生絶滅までいったんだし、
あまり大事にはされていなかったような・・・・・・
82 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/10(日) 14:09:56 ID:rSNnxnHmO
太公望が建設した初期の斉は何邑くらいでどれくらいの規模だったのか?
最初からリンシが首都?
>>82 史記読めよ
俺達はお前のお母さんじゃないんだから何でも聞いて済まそうとするな
84 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/26(木) 14:22:35 ID:B4W/heTSO
釣られたな
85 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/23(木) 06:37:22 ID:Sf1+MamR0
太公望が釣ろうとしていた魚は何だろうか?
またドドメ色チームか。
87 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/12(金) 21:59:31 ID:K21W8HSh0
88 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/16(火) 21:29:56 ID:PF4aren40
結局この人は実在したのかな?金文に出てくるんだろうか?
武王とかは金文にも登場してたはずだが。
姜は羌なんだろうかなとも思う。すると、殷に生贄狩りの対象とされていた人達だ。
殷に生贄として支配されていた人達の反撃が殷周革命の真相なんではなかろうか。
この時代には謎が多い。殷と周は別の民族だったのか?
89 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/16(火) 23:11:02 ID:6v25LBswO
↑
精子飲め
90 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/19(金) 19:42:16 ID:StA8lDg/0
太公望呂尚の名は、金文ではこれといったものは知らないが、
西周代の作とされる「詩経・大雅・大明篇」に、牧野の戦いで
武王を補佐する「師尚父」の名で出てくるから、伐殷に功のあった
将軍としてそういう人物がいたことはまあ事実と考えてよさそう。
それが斉に封ぜられたとか、経歴とかもろもろのおもしろい話が
出てくるのはみんな「史記・斉太公世家」から。司馬遷が何を見て
それを書いたかは知らない。
呂尚の娘で、武王の妃+成王の母である王姜(邑姜)なら、やたら
金文に出てきて大活躍してるんだけどね。でも金文でも「呂尚の娘」と
書いてあるわけじゃないけど。
92 :
呂尚:2007/11/22(木) 22:20:46 ID:cgaQCjlP0
「真の天子よ、かかってこい。」
「では文王西伯候姫昌!お相手つかまつる!」
「そうじゃない。」
93 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/17(月) 13:11:33 ID:XaZ9ES1f0
揚
94 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/04(月) 18:21:16 ID:1OTEuBrq0
ageておこう。
いくらなんでも下がり過ぎだ
95 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/24(日) 03:45:46 ID:VhioRVfXO
ちょっと、みんな頑張って!
96 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/01(火) 21:10:55 ID:AIpMA/hPO
無双出演記念あげ
97 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/01(土) 23:54:35 ID:eAHbw1or0
98 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/01(土) 23:55:06 ID:eAHbw1or0
99 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/01(土) 23:56:34 ID:eAHbw1or0
100 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/01(土) 23:57:48 ID:eAHbw1or0
101 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/02(日) 00:00:05 ID:cOKgWnbL0
太公望って羌の出身だったって事は、今で言うチベット人だったって事?
102 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/02(日) 00:15:17 ID:axYoSQFeO
今さっき宮城谷昌光先生の太公望を読み終えた
しばらく余韻を楽しんだあと、久しぶりに中英板を覗いて見たくなった。そこで来てみると太公望スレが一番上に上げられていた
何だか運命というものを信じてしまいそうだ
>>101 チベット系だけど今のチベット人とは別物じゃないか?
羌族は中原あたりにいたらしい。
太公望は羌族っていうより、チベット系や今の羌族の同祖と呼ばれている古羌族っていった方がいいかもなあ。
あの後東の羌族の国は滅ぼされるし、チベット系でも遺伝子的に東と西で別れたようだし。
ただY染色体を調べてみると、日本人と古羌族の同祖と呼ばれるチベット系や彝族は同じ系統が見つかるんだよね。
そこにロマンを感じる。
105 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/28(火) 22:12:41 ID:iBx+vs29O
姜斉の二代目の名前の漢字がわからない、姜尚の次の姜キュウのキュウは表しにくい漢字なのかね
106 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/29(木) 00:54:27 ID:ae/mtWu90
渭水の太公望は、ツァラトストラがやった「ましな人間」釣りとダブる。
見事に釣られた右手の王が文王で、左手の王が武王、だとロバは周公旦だなw
107 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/26(木) 11:41:29 ID:zmqqmcIq0
108 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/26(木) 15:33:04 ID:yZAqndtb0
周王朝の創始に大きく関わった太公望。
偉人として扱われる事がおおいが、
中国に、春秋戦国時代を招いた奸物と捉えることもできる。
殷のチュウ王って、そんなに悪い人ではないと思う。
大儀が無く天下を取った、周の武王と斉の太公望。
その結果、下克上の乱世へと移って行くのである。
太公望マジで大好き!!
桓公以降の子孫は桓公を意識しても太公望を意識してる感じがしない
111 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/12(日) 21:57:42 ID:dYnHB39rO
周が封建した諸侯の大半が同族なのはおかしいよね。
同族以外で有名なのは燕公や斉侯ぐらいだよね。
>>111 楚や秦は無視か?春秋五覇の一人に数えられる事も有る宋は有名じゃないのか?
114 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/11(火) 06:07:25.19 ID:n2eyi7hX0
>>108 史実通りかどうかはともかく、
その時代は多かれ少なかれ元から荒れていたんだと思うよ。
115 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/25(水) 21:29:07.21 ID:Oaxo5PkK0
宮城谷の太公望は面白かったな
横山の殷周伝説で
嫁をもらいつつも宋異人に養ってもらってる時のエピソードが面白すぎ
117 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/09(火) NY:AN:NY.AN ID:Tx4XO3Cd0
呂尚は読書しまくった無職から大出世って凄いね
俺も読書しまくろう
傅説(ふえつ)は道路工事をしていた所をスカウトされて殷の高宗の宰相になったというよ。
119 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/03/03(月) 01:32:04.14 ID:+aMD4GPD0
孫子を読んでると太公望が殷にスパイとして潜入していた事が書かれてあるな
120 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/16(水) 05:07:17.98 ID:5Z0rU2ir0
史記読むと周が勢力拡大できたのは太公望の働きが大きいと書いてるけど
具体的に何したかは書いてないんだよなあ
そこが知りたいのに
そこは誰も知らないんだよ。何しろ「太公望」という名称自体、文王の父が大公で
その人が待ち望んだ人物という意味だとか、呂尚自身の位が大公だったとか、
諸説有って本当の事は誰も知らない。
122 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/22(火) 03:23:32.80 ID:Z6rsdqT60
>>108意味がわからん
春秋戦国時代に移っていくのは武王と太公望が殷を倒してから200年以上後の事なのに
武王と太公望のせいにされても困るだろ
123 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/22(火) 20:45:31.15 ID:uvmJS+vD0
なんかちょっとよく分からん逆説を唱えてみたかったんだろう。
もっとも受王を逆に再評価してる奴はいる。
いわゆる史書で悪く言われてるだけで、実は何も悪くなかった、というような。
もちろんでっちあげはあるんだろうけど、正しいともいえない。
そもそも史記は受王を頭脳明晰で怪力を持ってたとプラス面も書いてるんだよ。
そしてそういう英邁な暴君が、臣下の意見を聞かない、やたら戦争をする、反対者を殺す、というのはよくあることで
そんな失策の中で周に攻められ国を滅ぼした、というのは別におかしくない。
124 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
宮城谷の作品だと受王は頭の良い改革者って書かれ方だったな
だけど、改革が性急すぎたのと、傲慢な性格と、敵である太公望達も天才だったから滅んだみたいな感じだった