才覚一つで王朝を樹立した太祖・ヌルハチを筆頭に、八旗制を充実させ
国の基礎を固めた太宗・ホンタイジや遠征に遠征を重ね、清の領土を
広げ清王朝の最盛期を築き上げた乾隆帝などの英雄と呼べる皇帝たち。
清王朝の末期、軍事・外交に挑み続けた李鴻章。日清戦争で最後の輝きを
放った左宝貴や黄海海戦で海軍提督となり奮戦した丁汝昌、そして
中華帝国洪憲皇帝と称した袁世凱などなど…日本にも大きな影響を及ぼした
清王朝のあまり知られていない英雄達について語っていきましょう!!
と、清王朝に最後の最後まで抵抗を続けた国姓爺・鄭成功についても
語っていきたいと思ってますw
2 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 22:53:31 ID:vDcehqPW0
糞コテが立てたスレで語ることなんぞ何もないわ、ボケ
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 23:04:47 ID:1mQzRoWo0
まずは、清朝にとって、開国の戦いとも言うべき、
サルフの戦いについて、語りましょうか。
むしろ張廷玉について語ろう。
とりあえず
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E5%BB%B7%E7%8E%89 張廷玉(ちょうていぎょく、1672年(康熙11年) - 1755年(乾隆20年))は字が衡臣、号が研齋の安徽桐城出身の政治家。保
和殿大学士、軍機大臣、太保の位を得て、三等伯に封ぜられ、三朝に渡って五十年仕えた。
康熙十一年生まれで、父は康熙朝の大学士・張英。康熙三十九年に進士(科挙の最終合格者)となる。康熙朝の検討、直南
書房、洗馬、侍講学士、内閣学士、刑部侍郎、吏部侍郎等の職を歴任。
雍正元年礼部尚書に昇進、次年に戸部尚書、翰林院掌院学士、国史館総裁、太子太保へ転任。
三年、大學士の仕事に配属される。四年、文淵閣大学士、戸部尚書、翰林院掌院学士へ進み,康熙實録總裁官を兼任。
六年(1728年)、保和殿大学士兼吏部尚書へ転任。
七年,少保の階級を得る。同年、西北での戦争により、軍機房を隆宗門内に設け、怡親王允祥より、その仕事を大学士の蔣廷
錫が取締った。雍正帝の臨終で、オルタイ(鄂爾泰)と共に 勅命をうけて大臣となった。乾隆帝の時代に、両朝の元老となった事
を朝廷が重くみて、死後太廟へ祭られた。清の時代を通して、漢民族の大臣で太廟へ祭られた者は張廷玉ただ一人である。
張廷玉の在任期間での主な仕事は皇帝の秘書であり、清の朝廷の政治へ上奏文の制度と軍機処の運用規則の改善で貢献し
た。他の直接政務を処理した大臣と違い、歴史上張廷玉の具体的な功績はあまり多く残されていない。
張廷玉の人となりは小心翼々として、「萬言萬當、不如一默」(清:黄山谷の言)謹んで守った。そのため雍正帝は彼を「器量純
全、抒誠供職」と讃え「大臣中第一宣力者」と称した。
相前後して『康熙字典』、『雍正実録』、そして『明史』、『國史館』、『清会典』を編纂した。
清朝に反抗した英雄は?
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/26(木) 09:03:05 ID:o3xkLot+0
>>6 台湾に拠った鄭成功が、その代表格だろうね。
清代初期には、鄭成功とその他の明の残党勢力。
続いて三藩の乱時における、呉三桂を初めとした、明から清に降った武将たち。
康熙年間後期以降は、反清勢力は地下に潜伏した。
天地会などの伝説が残っている。
乾隆年間末期には、白蓮教の教徒の蜂起があった。
8 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/27(金) 00:29:08 ID:X6f4Dp+60
白蓮教の蜂起には、明朝滅亡以来ずっと続いてきた反清運動組織は、
関わっていたんだろうか?
9 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/28(土) 10:00:23 ID:BavDBui30
乾隆帝の十全武功
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/28(土) 17:20:52 ID:0CnKDMPQ0
アヘン戦争の発端を引き起こしたとされる林則徐、彼は英雄の類に入りますか?
>>3 サルフの戦いで、明王朝軍側に劉挺と李如柏の名前が見えますが、この2人は
文禄・慶長の役で小西行長と戦ったみたいですね?
と、清王朝(後金)VS明王朝の山場といえる“寧遠の戦い”で、常勝・ヌルハチに
敗北を与え、一人孤軍奮闘した袁崇煥!!彼がもう少し早く生まれていれば、明王朝の
滅亡は遅くなっていた…かもしれませんw
>>6 英雄かどうかは分かりませんが、ヤーウェ(ヤハウェ?)の第二子を名乗り、太平天国を興し
清王朝に反旗を翻した洪秀全はどうなんでしょうか?
と、その太平天国の乱で、王朝の自慢の正規軍(八旗)は太平軍に連戦連敗を喫していましたが、
(この頃の八旗は正規軍としての機能を全くしていなかったらしいです)唯一、曽国藩が編成した
義勇軍だけは勝利し続けたとあります!!
あと、オイラは知らなかったのですが、5年ぐらい前に中国で曽国藩ブームがあったみたいですw
12 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/29(日) 12:36:07 ID:26deI4230
>>11 林則徐は、文官だけど、英雄と呼んでいいと思うよ。
英雄とは、何も武将に限らないから。
サルフの戦いに参加した李如柏は、遼東安定に功績のあった李成梁の子で、
朝鮮の役で碧蹄館の戦いで明軍を率いた李如松の弟。
明では、部門の名門と言える。ちなみに、この李氏は朝鮮出身らしい。
袁崇煥はもう少し早く生まれていればと言うより、冤罪で処刑されちゃったから、
微妙だね。
洪秀全も英雄といや英雄か
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 17:16:00 ID:nk1jxttHO
愛新覚羅て何か意味があるの?
金朝の覚羅氏と言うような意味
愛新は金 という意味の満語の発音を漢字表記したもの
カックラキンを思い出した。
ふるー
18 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/06(月) 14:20:20 ID:V8MlL4X+0
ジュンガルのガルダン
19 :
専制国家 ◆YlUlIeJEnU :2006/11/06(月) 21:16:24 ID:AaFdn4fS0
この時代あたりの小説教えて下さい。
特に李鴻章が活躍するやつ。
「清朝大官の幻影」
「曽国藩」
はよんだ。
太祖・ヌルハチは金王朝の始祖・完顔阿骨打(昔、こんな名前の漫画家さんが居たようなw)
の子孫になるのでしょうか?
と、久しぶりに映画「ラスト・エンペラー」を観ようか思案中ですw
>>12 おぉ〜!!李如柏は朝鮮・李氏の出身だったんですね?
(12さんのおかげで、勉強になりますw)
と、アヘン戦争以後の清の“グダグダ”に(アヘン戦争→太平天国の乱→日清戦争→
義和団→辛亥革命)涙が出てきます つ∀T)
>>14 15さんと同意見で、姓名だと思います。
と、宣統帝・溥儀の弟(溥傑)に嫁いだ公家出身の嵯峨浩は、結婚後“愛新覚羅浩”と
名乗っています。
>>19 オイラのオススメは陳先生の「江は流れず」です!!
と、日清戦争の話で、李鴻章が死ぬ直前の下関条約までが詳しく描かれています!!
あと漫画ですが、江川達也の「日露戦争物語」も面白くてオススメですw
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/07(火) 07:56:36 ID:3Thn7Qq9O
>>20 ヌルハチは完顔氏とは氏族的には無関係。
完顔阿骨打さんはロリエロ漫画家さんでいますよ。
愛親覚羅は「金(王朝)の」「金の貴族の」という意味。
ただ実際に金の末裔だったかは未詳。
清代じゃないけど、李成梁の影響は大きいな。
李成梁は朝鮮系らしいけど、朝鮮の王朝の李氏とは関係があったのだろうか?
24 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/16(木) 15:03:09 ID:ITguuZLR0
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%88%90%E6%A2%81 李成梁(りせいりょう、1526年 - 1615年)は、明代の武官。遼東総兵として遼東一帯を統括し、女真族の鎮撫に当たった。
字は如契。かつて朝鮮から亡命した女真族(朝鮮族との説もあり)李英の子孫で、遼東鉄嶺衛(遼寧省鉄嶺)の指揮僉事の職
を代々世襲していたが、隆慶4年(1570年)に遼東総兵となり、当時侵入の激しかった女真族に対する防御に当たることとなった。
李成梁は、軍備を拡充しつつ、建州女真、海西女真などに分かれていた女真族が明との交易権を巡って争っていることに付け
込んで内部分裂を図ることにより、遼東の安定に多大な功績を上げた。この時期、李成梁の後援を得て勢力拡大に成功したのが
後の清の太祖ヌルハチである。
長年に渡って遼東を統括し、地方の実力者として割拠した李成梁は、一方で軍費の流用などの汚職や専断が多く、万暦19年
(1591年)に弾劾されて失職、一旦は復職したものの、万暦36年(1608年)に罷免された。
息子に文禄・慶長の役で日本軍と戦った李如松、サルフの戦いに参加した李如柏らがいる。
25 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/16(木) 19:55:07 ID:F8OeYS/+0
清朝なんて馬鹿揃いのカスばっか。
今のちうごくは歴史上最低レヴェルの野蛮人ばっかだし、終わってる。
あそこがすごかったのはせいぜい唐まで。
以降は悲惨すぎる惨めな歴史wシナ猿は世界で最も多いゴキブリ民族というのがとりえwwwwwwwwww
26 :
専制国家 ◆YlUlIeJEnU :2006/11/19(日) 19:50:00 ID:e05zy3Rh0
尊敬できる人物、李鴻章。
27 :
専制国家 ◆YlUlIeJEnU :2006/11/19(日) 20:48:32 ID:e05zy3Rh0
り・ホンチャン最高
>>25 中国の最盛期は宋代だよ。
軍事的にはぼろぼろだったけど。
29 :
専制国家 ◆YlUlIeJEnU :2006/11/21(火) 20:15:56 ID:lTDc7fIl0
>>28 宋代は文人がもっとも尊重された文化の時代。
明代は文人が暗黒の時代。
清代には文人がそれなりに活躍してるし、文化も発達しているぞ。
明が文人暗黒の時代とは笑わせてくれるな
31 :
専制国家 ◆YlUlIeJEnU :2006/11/21(火) 21:06:04 ID:lTDc7fIl0
>>30 文人と言っても読書人層ではなくて科挙官僚のこと。
やはり、洪武帝、永楽帝の粛清の影響かな。
ならちゃんとそう判るように書くか、日本語勉強しろよ
33 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/22(水) 11:08:05 ID:Mfg438L+0
>>19 浅田次郎の「蒼穹の昴」は?
かなり娯楽色の強いやつだけど
李鴻章えらくカッコ良く描かれているよ。
狼狽した汚職高官の前に鎧をまとってドーンと現れるシーンなんか
江田島平八のようだったw
「江は流れず」は袁世凱がなぜか憎めない可愛いキャラになってるw
袁世凱って姉さん女房なんだね。
35 :
専制国家 ◆YlUlIeJEnU :2006/11/22(水) 18:45:00 ID:ZIa1LVZG0
>>33 「蒼穹の昴」もよんだ。
リ・ホンチャン最高にかっこいい。
36 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/30(木) 23:35:16 ID:AZAp2Au20
>>34 妾には朝鮮人も
いろいろと朝鮮に関わっていた人だし
37 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/07(木) 14:36:14 ID:LLssZ0AR0
清の太祖はヌルハチだけど、その前の李成梁の存在が大きいよな。
ヌルハチが生まれた頃の女真族は建州女真五部、海西女真四部、野人女真四部に分かれており、互いに激しい抗争を
繰り広げていた。その抗争の主たる原因は、明に対する朝貢の権限を求めてのことである。朝貢によりこの地方の特産物
である高麗人参や動物の毛皮を売買することで巨利を得ることができた。これを利用して明は朝貢の権利を分散させること
で飛び抜けて勢力の強い部族を出さないようにし、また互いに権利を巡って争うように仕向けた。
しかし女真の抗争があまりにも激しすぎると思った明の遼東総兵李成梁は、一つ明が制御できる程度の大きな勢力を作
り、その後ろ盾となることで女真族を治めようとした。これに選ばれたのが、建州女真のヌルハチである。ヌルハチが選ばれ
たことの理由としては、ヌルハチの部族は祖父の代から明に対して友好的であったからであろう。ヌルハチの祖父と父はあ
る戦闘中に明軍に協力していたにも拘わらず、誤って明軍に殺されたということがあり、これが李成梁の負い目となってヌル
ハチに助力したとも考えられる。
事態は李成梁の思惑通りに進み、ヌルハチは女真族の中の大勢力となり、1589年(万暦17年)には建州女真五部を統一
した。それと同時に李成梁の懐に入る賄賂の量も大幅に増えた。これに気をよくしたのかヌルハチの統御の事を忘れてしま
っていた。
39 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/03(水) 16:11:05 ID:N5AfSxer0
そのまま争わせておけばよかったのに。
外敵がいなくても明の内乱は避けられなかっただろうけど。
そうしたかったのかも知れんが、日本(秀吉)が攻めて来て女真を相手にする余裕が無くなっちゃったてのもある。
その文禄・慶長の役による明国内の軍費などの消耗も大きかったが、それに対処する政治的な動きが何も無かった。
(「何も無かった」は言い過ぎかも知れんが。)
41 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/03(土) 20:11:21 ID:h8+xsO/m0
42 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/03(土) 23:20:48 ID:+lYRig7F0
ドルゴン未出?
摂政王
ドルゴン(多爾袞 1612年11月17日 - 1650年12月31日)は清朝初期の皇族。ヌルハチの第14子。順
治帝の摂政となり、清朝が中華帝国となるに当たって指導力を発揮した。
ドルゴンの母はヌルハチの4番目の正妃であるウラ・ナラ氏出身の孝烈恭皇后で、ヌルハチが死ぬ際
に殉死を命じられている。
ドルゴンは、ホンタイジの下で、モンゴルのチャハル部討伐に功績を上げ、一族内での実力者となる。
1643年、ホンタイジが死ぬと、ドルゴンとその同腹の弟であるアジゲ、ドドの勢力と、ドルゴンに反対す
る勢力に分かれて、権力闘争が始まった。
ドルゴンの実力は群を抜いていたが、部族連合制の名残を色濃く残していたこの時期の満州族は、独
裁的な手法を嫌ってドルゴンが皇帝になることに激しく反対した。
結局、ドルゴンも反対を押し切ることはできず、ホンタイジの第9子であるフリン(順治帝)を皇帝とし、ドル
ゴンがその摂政となることで妥協した。
その後、ドルゴンは一族内の反対派を粛清し、幼い皇帝に代わって独裁的な権力を手に入れた。
翌1644年、明朝が李自成によって滅ぼされると、対清の最前線となっていた山海関の守将呉三桂は、
清朝に対して、明朝の仇である李自成を討つための援軍を求めた。
ドルゴンはこれに応えて、自分と弟たちの支配下にある軍と、皇帝直属の軍を率いて中原に入り、李
自成軍を破った。
李自成逃亡の後、清軍はそのまま北京に入ると、明朝最後の皇帝である崇禎帝を手厚く弔い、減税と
特赦を行うなどして明朝の遺民の心を慰める一方で、満州族の風習である弁髪を漢族に対しても強制し、
「髪を留める(頭を剃らない)者は首を留めず」と言われるほどの苛烈な政策で支配を固めていった。
1648年、その多大な功績から皇父摂政王と呼ばれるようにまでなったが、1650年に狩猟中に急死した。
追尊して義皇帝と称され、成宗の廟号を与えられた。
しかし、ドルゴンの死後、それまでドルゴンによって押さえつけられていた反ドルゴン威力が一気に巻き
返し、ドルゴンに大逆などの罪状が被せられ、爵位を剥奪、宗室からの除名が行われた。
ずっと後の乾隆帝の治世になってから、ドルゴンは名誉を回復されて、忠の諡を贈られた。
46 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/22(木) 16:10:27 ID:eOP6+K7E0
ドルゴン死後の厳しい処置については、ドルゴンは兄ホンタイジの妻であり、順治帝の母である女性(聖
母皇太后)を娶っていたからだとも考えられている。
ドルゴンが実際に順治帝の母を妻としていたかどうかについてははっきりとはしないが、皇父と言うドル
ゴンの称号は、その事実を窺わせる。
兄嫁を娶る行為は、満州族のような非漢民族にとっては、さして問題のあることではなかったが、漢族が
奉じる儒教の感覚からでは非常な不義に当たる。幼い頃から漢文化に傾倒していた順治帝にとって、母と
叔父の行動が許せなかったゆえに、死後のドルゴンに対して辛く当たったとも考えられる。
47 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/10(土) 15:33:30 ID:YRiHeE1N0
48 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/26(月) 23:50:30 ID:1aOMKual0
中原進出前の瀋陽の宮殿ってどんな規模だったのかな。
清朝歴代皇帝のクオリティは歴代最高だろうな。
暗君らしい暗君なんていないんじゃない?
普通衰退期の皇帝は暗愚(若しくはそう見なされる)が殆どなのに、光緒帝や同治帝、宣統帝も無能ではなかった。
クォリティはともかくブランドイメージは漢人のエンペラー達に比べ大分落ちる。
有能でなければならない必然が彼らには存在した。
まあそれでも雍正帝は神だけど。
ただ、惜しむらくは、清王朝も乾隆帝以降は中華思想にとらわれて、
康熙帝の頃まで持っていた対外的柔軟性を失ってしまった事かな。
52 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/02(水) 22:38:43 ID:P4E6hWHY0
少数の満州族による多数の漢族支配という、
苦しい構造を抱えていたから、
前半に暗君が出ていれば、それだけで滅亡に直結する可能性があっただろうね。
53 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/20(日) 20:33:29 ID:LXxzI9QX0
太祖ヌルハチから康熙帝まで、複数の創業者が連なった感じ
>暗君らしい暗君なんていないんじゃない?
普通衰退期の皇帝は暗愚(若しくはそう見なされる)が殆どなのに、光緒帝や同治帝、宣統帝も無能ではなかった。
確かにそうとは思いますが咸豊帝には良い印象がないのですが
あと睡簾聴政を跳ね返せないというのは……
57 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/10(日) 05:27:36 ID:CfPLqFgF0
>暗君らしい暗君なんていないんじゃない?
それに比べて同じ異民族王朝でも元朝と来たら・・・・・・
清朝は皇位継承を巡る内紛も表面化するほど激しいものは少なかった。
58 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/22(日) 04:00:56 ID:9NxrXYSw0
元の場合は暗君というより情けないぐらい権力ないよな
モンゴルと女真の構造の違いかもしれないが
60 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/26(日) 13:53:42 ID:3USqmbRw0
61 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/27(月) 16:13:56 ID:xae5YiZf0
李鴻章って英雄かい?
うまく西太后にごますって直隷総督に居座り続けただけじゃないか!!
英雄じゃなく政治家だけど個人的には反省マニア&自殺未遂マニアの曽国藩の方が…
その部下だった胡林翼、左宗棠、劉坤一、彭玉麟、史○○(ど忘れ!!)の方が…
62 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/27(月) 19:54:42 ID:j0ZxSBg80
英雄だといわれたらきっと本人が必死で否定するだろう
おもしろい人だよね曾国藩
この人くらいまでが士大夫で、李鴻章になるともうそういう雰囲気はなくて
近代の政治家という感じ
同治帝が暗君ではないなどと誰が思う?とんだバカ皇帝だろうが。
いや、そもそも君主として政治手腕を評価される資格すら無い。
64 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/18(火) 15:12:57 ID:Tue1MnJ00
清朝は全般的に名君が多いから、相対的に評価基準が厳しくなるね。
65 :
愛妃:2007/09/27(木) 02:48:57 ID:cXuvUynbO
雍正帝はある意味英雄。父・康熙帝の後を立派に継ぎ、四男・乾隆帝の時代を全盛期へと導いた。国民のための政治だったと思える。雍正帝大好き!
嘉慶帝と道光帝って個人として話題に上らないね
67 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/27(木) 23:29:50 ID:cXuvUynbO
嘉慶帝はあまりにも皇父の存在が大きかった。道光帝はアヘンや乱など努力をしたのに今でいう官史による「政治と金」で手の打ちどころがなかったんでしょうね。康熙→雍正→乾隆→雍正→雍正→光緒→嘉慶→道光なら今も清朝は続いていたかな?
68 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/02(火) 15:43:17 ID:HPhli2pK0
>>67 やっぱり少数派の満州族による多数派の漢族支配という構図は厳しいものがあるんじゃないかな?
続くとしたら、満州族側が、自ら漢族に同化する道を選ぶとか。
69 :
愛妃:2007/10/03(水) 02:44:29 ID:V9v3UFLZO
68≫関東軍の支那支配なんてもってのほかよね。ましてや日本人だし、満州国が順調に支配できたとしても全土は無理だったと思う。今の主席は紫禁城に住み続ければいいのにね。清朝が中華人民共和国に変わっただけみたいなもんなんだから。
70 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/29(月) 22:27:32 ID:T1XSXeNt0
>>65 雍正帝についてこんな話を思い出した。
雍正帝「お前なんで清を滅ぼせだのなんだのと言うんだ?」
士大夫「お前みたいな辮髪の野蛮人の皇帝なんかに従えるか!」
雍正帝「おまえら漢人だって北魏の頃に鮮卑と混血しまくりじゃん」
士大夫「ゴメンナサイorz 」
71 :
70:2007/10/29(月) 22:30:05 ID:T1XSXeNt0
追伸。ソースは宮崎市定監修の中央公論の歴史書&陳舜臣の故宮解説書。
万暦帝が雍正帝並みに働いていれば、張居正の跡を継いで完璧だったのに。
73 :
愛妃:2007/10/30(火) 18:33:34 ID:GtF2JDY5O
≫70 その話といい、麻雀のこまの話といい、結構興味深い会話は他に残されているのでしょうか?
「宮崎市定」さんの「独裁君主 雍正帝」の他に雍正帝に関して詳しい書物はないかな?知ってる人がおられましたら教えて下さい。
74 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/09(金) 22:36:41 ID:4HxCJr8H0
75 :
漢の献帝:2007/11/10(土) 09:35:35 ID:sbvYvjCq0
張居正なかりせば大明帝国は秀吉の侵略で瓦解していただろう。
当然朝鮮に援軍を送る余裕も無かった筈。
となれば、秀吉か秀次が初代大倭帝国皇帝となり、清朝の出る幕は無かっただろう。
但し、清朝のように上手く支配を続けられたかどうかは大いに疑問だが...。
清朝ですら中華文明に取り込まれてしまったのだ。 秀次も中国語を話す事になったかも...。
>>75 戦術的な勝利を積み重ねることができたとしても、
戦略的な勝利は得られずに撤退に追い込まれたと思うよ。
>>74 王朝末期には、いろいろと不審な事件が続発するね。
明朝も末期になって、明末三大怪案(皇太子襲撃、皇帝変死、幼帝の監禁)なんてのがあった。
78 :
漢の献帝:2007/11/13(火) 22:17:06 ID:fHjzxhjy0
いや! 明朝末期は本当に腐っていた。明の神宗万暦帝は晩年の25年間政務を投げ出していた。
秀吉に勝算はあったと思う。 まぁ明が国難来ると色めきたって一致団結すれば秀吉も退却せざるを得ないが...。
宋時代からだけど
特に清初以降、軍事的にはショボショボだよな
そりゃ列強の侵略受けるわ
中国の歴代の征服王朝が一番苦労しているのは、
軍事的な勝利ではなく、いかに占領した土地を統治するかだよ。
81 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/16(金) 00:29:24 ID:/LgxIzfo0
>>79 清朝も前期はかなり強盛だよ。
軍事面では、征服活動の継続で領土を拡大したばかりでなく、
政策面でもまだあまり中華思想に染まり切らず、かなりの柔軟性を持っていた。
むしろ康熙帝の治世なら、阿片戦争が起こっても、
あそこまで無様な敗北はなかったような気もする。
82 :
愛妃:2007/11/19(月) 07:55:17 ID:ncn0k7dOO
中国は軍事に力を入れているようだけど、日本を脅かす時はくるのでしょうか。
83 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/19(月) 13:40:07 ID:ecbtEY7R0
もう脅かされつつあります。
競争関係になるのは必然だから、仕方のないことではあるけど。
ヌルハチ>雍正帝=康熙帝>順治帝≧乾隆帝>ホンタイジ>光緒帝>宣統帝>道光帝>嘉慶帝>咸豊帝>(同治帝)
85 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 23:59:03 ID:IwoaI9Pw0
86 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/05(水) 18:31:34 ID:XoJ2hmAd0
最新科学で100年の謎を解明!清朝11代皇帝光緒帝の死因はヒ素による毒殺か?―香港誌
2007年12月4日、清朝(1636年〜1912年)第11代光緒帝(1875年〜1908年)の謎に満ちた最期に関する
興味深い記事が、香港の総合雑誌「紫荊」に掲載された。中国のニュースサイト「中国新聞網」が伝えた。
「病死か?」「毒殺か?」、光緒帝の死にまつわる謎は100年後の今日、最新の科学技術によって解明され
ようとしている。1938年に埋蔵品のすべてを盗掘者に奪われてしまった光緒帝の墓陵「崇陵」。80年代に国家
文物部門が再調査した際に、光緒帝の遺骨と遺髪を発見した。今回これらを化学分析したところ、遺髪の一部
に通常の1000倍から2000倍のヒ素が確認された。毛髪全体にではなく一部分にだけヒ素が存在していたこと
から、急激な摂取による中毒死の疑いが濃厚になった。今後は胃の付近の微細骨を検査し、再度ヒ素が確認
されれば中毒死と断定されることになる。
歴史に名を残した西太后(1835年〜1908年)に疎まれ幽閉された光緒帝。彼が崩御した翌日に、西太后自
身も崩御。「崇陵伝信録」や「清稗類チャオ」には、臨終の床についた西太后が自分の死後に光緒帝が権力を
握ることを恐れたため、人を使って彼を殺したとの記述がある。また「後功口述歴史」のなかに、光緒帝は死の
直前に西太后から賜ったヨーグルトを食べたとの礼部尚書(長官)の証言が残っている。「清実録」の中には、
生前の光緒帝の健康状態について「慢性病があったが、死の直前まで元気だった」と記されている。
ttp://www.recordchina.co.jp/group/g13391.html
87 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/11(火) 01:39:16 ID:Thk1CqGI0
中国4000年?の手業、切り絵で描く「紅楼夢」の世界―江蘇省蘇州市
2007年12月4日、幅130cm、高さ65cmの巨大な切り絵をチャイナフォトプレスがレポートした。中国の四大古典小説
のひとつである『紅楼夢』の1シーンを描いている。
蘇州在住の工芸美術家・鄭仙雲(ジョン・シエンユン)さんによるこの作品は、半月をかけて制作された。江南地方の
作風を踏襲しながら、流麗で写実的な手法で芸術性の高いものに仕上げている。
中国の伝統工芸のひとつである切り絵は、今もなお市民の生活に密着したもので、祝い事がある時などにめでたい
字面や絵柄のものを扉や窓に飾る習慣がある。風景や人物、魔よけの図案、吉祥柄など、主に紅紙と呼ばれる赤い
紙を使って制作される。
ttp://www.recordchina.co.jp/group/g13415.html
88 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/11(火) 01:40:58 ID:Thk1CqGI0
実物大「円明園」再建プロジェクトに11億元集まる、目標額は200億元!―浙江省東陽市
2007年12月4日、新華社は、浙江省横店影視城実験区の一角に北京の円明園を再建するプロジェクトに11億元
(約176億円)の資金が集まったことを伝えた。
円明園は1709年に清朝4代皇帝康熙帝が造った庭園。その後も歴代皇帝が手を加え続け、さまざまな建物が建
てられた。四庫全書などの貴重な書物や文物も多数収蔵され、東洋一の博物館とたたえられたことも。1856年、
北京に侵攻した英仏連合軍の兵士たちにより略奪にあい破壊され、現在は廃墟となっている。
プロジェクトの発起人で横店三農促進会名誉会長の徐文榮(シュー・ウエンロン)氏は、これまでに11億6000万元
の建設資金が集まったと発表。しかし目標資金総額は200億元(約3200億円)であると述べ、今後も国内はもとより
遠く海外まで募金を呼びかけていくと語った。徐氏の説明では資金200億元のうち土地や建物などの固定資産に
70億元(約1120億円)、文物の回収と修復に130億元(約2080億円)が必要とのこと。2008年から建設に着手し、
2013年には一般公開する予定。
ttp://www.recordchina.co.jp/group/g13425.html
89 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/04(金) 19:45:37 ID:TO029vCP0
>>84 康熙帝はヌルハチより上では?
それにホンタイジは乾隆帝より上にしたい。
人材輩出で対抗できるのはローマぐらいか、
イスラム圏のことはよく分からないけど
91 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/27(水) 23:55:16 ID:85mCFXjH0
ローマの場合は、優秀な者を選んで養子にしていたしなあ。
92 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/28(水) 15:33:30 ID:eKjiCBv+0
1つ質問させてくれ!!
清史稿の日本語訳ってないんだろうか?
ない!
残念ながら
漢字を読みながら意味を追って行く位しかないな
Wikiとか作ってみんなで少しずつ書き加えたりしながら訳したりできんかな、と思った事はあるが
訳語や文の意見が割れた時に平穏な意見交換とかできなさそうだしな
94 :
ドルーゴン:2008/06/18(水) 22:26:30 ID:Q6VfzrsDO
ドルゴン
ドルゴン
ドルーゴン
95 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/19(木) 05:43:01 ID:wrDGn0s/0
96 :
ドゴルン:2008/06/20(金) 21:27:23 ID:JvTBC9TLO
ドゴルン
ドゴルン
ドルーゴン
ヌルハチ=雍正帝>雍正帝>ホンタイジ>順治帝≧乾隆帝>光緒帝>宣統帝>道光帝>嘉慶帝>咸豊帝>(同治帝)
すまん、違った
康熙帝≧ヌルハチ>雍正帝>ホンタイジ>順治帝≧乾隆帝>光緒帝>宣統帝>道光帝>嘉慶帝>咸豊帝>(同治帝)
清でも比較的凡君と言われる道光帝が明に移籍したらたちまち名君です
100 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/22(日) 21:12:11 ID:4RxaxCUi0
清の平均レベルの皇帝を一人譲ってやったら、
明は百年ぐらい寿命が延びるんじゃないか?w
101 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/22(日) 22:21:01 ID:u2bkYqpj0
明なめんなカス
洪武帝陛下なんて世界屈指の名君だぞ
明とかせいぜい優秀な皇帝は虐殺好きの朱元璋と身内殺しの永楽帝ぐらいだろ。
それ以降はもう語る価値も無い糞ぞろい
咸豊帝のツメの垢でも煎じて飲めば?w
仁宗は?あと孝宗も
神宗は張居正がいる間は良かったと思うが
104 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/06(日) 08:43:30 ID:6GmNBsnk0
105 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/13(日) 13:38:01 ID:vylZXDEd0
TVで世界遺産の頤和園(いわえん)を見ましたが綺麗ですね。
106 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/14(月) 12:44:28 ID:YDk2voHAO
乾隆帝が確か清って国号を定めたんだっけ?その理由が「清和」の末裔って言ったらしいけど、彼ら騎馬民族はチンギス・ハンの末裔を自称だから、乾隆帝→チンギス・ハン→清和って遡るとチンギス・ハン(義経?)って話が出てくるんだね
107 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/14(月) 13:34:43 ID:nt4BdaeUO
順治帝の頃じゃないの?
108 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/14(月) 19:59:29 ID:6+6oI/mJ0
最初の国号が(後)金なのに
モンゴルの末裔を自称?
109 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/14(月) 22:07:27 ID:YDk2voHAO
ロシアが皇女を迎えていたからといってビザンツ帝国滅亡後に正統を訴えたのと同じでしょ。直系じゃなくても末裔を語るなんて珍しくないよ。日本でも「その直系はいないから」って言いたくなる末裔の人がたまにテレビに出てるしね。豊○秀○とか○本竜○とか○方歳○とか
国号を大清にしたのはホンタイジ(1636)だろう
>>106は清が後金であったことも女真族であったことも騎馬民族でないことも
しるまい
111 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/14(月) 23:35:57 ID:xtJ373qx0
>>106とは別人だがモンゴル系の流れじゃないの?
いや、すまん。詳しい人頼む!
112 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/15(火) 01:44:08 ID:ggu4kvbaO
俺は好きだよタンストン(漢字忘れ)
ヌルハチが国号を大金としたのが1616
ホンタイジが国号を大清としたのが1636
北京にはいったのが1644
乾隆帝が即位したのは1736
国号が清になってから100年もあとの話
106は完顔陳和尚の亡霊に憑り殺されてしまったのだろうか?
115 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/23(水) 11:27:10 ID:s8916gyU0
末期の清軍てよく弱いて言われるけどそんなに弱かったの?
初期もそこまで強くなかったけど、統制はキチッと取れていた。
やっぱ三世の春以降じゃないか?堕落し始めたのは。
117 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/24(木) 11:42:14 ID:UmgL8vx30
初期は普通に強かっただろ
とはいえ、八旗だけでは、入関も全土制圧も無理だったわけだ
そりゃ絶対数が少ないんだから、だから弱いってことじゃないが
119 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/29(火) 16:43:51 ID:PNJVND2j0
乾隆帝の遠征でも結構苦戦してなかったけ
120 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/31(木) 08:55:05 ID:JvpjLqaK0
乾隆帝の頃かな清軍が弱体し始めたの
121 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/11(月) 07:56:26 ID:iLagUVn30
清軍の弱体化しめすエピソードとかある?
122 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/12(火) 14:16:15 ID:4aalDfIr0
古い中国映画で日清戦争を描いたものを見た。
李鴻章役の俳優がハンサムだった。
清は皇帝だけでなく、皇族政治家・将軍もおおむね有能、まともかなぁ
124 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/20(水) 11:48:49 ID:pA4fj6dC0
>>123さんへ。だけどさぁ、欧米列強や日本によってたかって植民地状態だよ。
>>121さんへ。僕が読んだ『曽国藩』〈中国人物叢書 12〉宮崎市定監修だと…
三番の乱あたりから八旗は使えない状態だったらしいよ。
ちなみに続歴読シリーズの『大清帝国』は、入門編としてはマアマアの出来です。
125 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/21(木) 09:23:36 ID:agIYsnn+0
三藩の乱も結構苦戦してたからな
>>111 女真(ジュルチン)=ツングース系で半農半猟
満人枠で高官になる連中は使えたんだろうか?
愛国
↑
共産 │ 自民
│
貧乏人←────┼────→資産家
│
公明 │ 民主
社民 │
↓
売国 経団連←w
このチンギス=義経から始まる話は信じてないけど
どこまで本当?
愛新覚羅氏が(ウソと知りつつ)チンギスの子孫を証したのはちゃんとした
史料にあるの?
清はモンゴルのようなもので北方の民族国家だよね。
漢民族を支配したわけで、清=中国じゃない。
ここんところ、歴史教科書は嘘を教えているので、正しく清王朝は中国とは別の国家として
歴史を見直そう。
モンゴルとツングースは全く別だろう。
一方は騎馬民族、一方は狩猟採集民族
>>132 というより、問題はそんなところじゃないと思うぞ。
モンゴルにしてもジュルチンにしても、またキタイやタブガチでもそうだが
外にあった集団が、中国入りして中華風の国号を定めて
制度もそれに倣ったり、援用したり、改良したり、国都を中国内地に置くから
その政権は中国と呼ばれるんだよ。(キタイは一時だが)
だから「中国」と別なわけがない。
「中国」というのを「中華人民共和国」の略称と思っているなら、別だがw
史書見りゃ、昔から自分らのことは「中国」と読んでることはすぐわかるんだがな。
134 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/04(水) 14:22:17 ID:1LOFc/fl0
スレチだけどこのスレなら詳しい人がいると思って質問します。
私は功夫映画が好きでよく見るんだけど清朝って絶対的な悪なんだよね、映画では。
もちろん少林寺焼き打ちをやってたり漢民族王朝じゃないってのはわかるんだけど
実際歴史的にみて漢民族に対してひどい圧政をしてたりってことはあるんですか?
そういったことで詳しい内容教えてください。
わかるとおもっと映画がおもしろくなると思うんで。
よろしくお願いします。
清朝の漢民族に対する姿勢はひどい圧政というよりアメ鞭
例えば弁髪の強制なんか漢民族にとってこの上ない屈辱なわけで
いっそ僧形に変わろうという漢人も多かったと言われる。これが鞭
少林寺の坊さん達が弁髪を嫌って入門したかまでは判らんけどね
ただ被支配者の漢民族は数の上ではマジョリティでただ厳しいだけでは統治できなかったから
清朝は漢人を軍や官僚の組織に周到に組み込んだし明朝での重税を軽減したりもした
これがアメといえばアメかな
行政の末端では役人が民草に非道なことをすることがあったかも知れんが
それは清朝独特というよりはどの王朝でもあり得たことと思う
136 :
134:2009/02/05(木) 21:12:42 ID:GFueMYL80
>>135 ありがとうございます。
ようするに功夫映画での清の悪役っぷりは少林寺弾圧と異民族による統治の反発
ってことでOKですよね?
そりゃ清側としても勝手に山奥の寺にこもって集団で武術修行なんかされたら「自
己鍛練です」とか言われても「はいそうですか」とは言えないですよね。
僧兵化している訳ですから。
清が悪役になっているのは物凄く浅いナショナリズムからきていると思うよ。
歴代王朝としても清はかなり優秀。その前の明なんか目も当てられない。
スウォーズマン・女神伝説の章あたりで苗族かなんかの少数民族が清朝に刃向かっていたけど、
五代皇帝ヨウ正帝の改土帰流は「田舎者を都会に移して文明の恩恵に預からせてやろう」
というコンセプトの政策で、それに対して父祖伝来の地を離れることを拒否した結果、清朝が
苗族などの少数民族を虐殺することにはなったけど、一応改土帰流は冷酷非道の名君、
ヨウ正帝の親切心からきたものだしね。
ん、冷酷残忍だね。
極悪非道か。
139 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/13(日) 12:22:45 ID:MqktGT2v0
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taisinn
Do you know taisinn?
taisinn is great old Chinese studyman.
taisinn writed 『孟子字義疏證』等等 famous books.
taisinn is one of make 四庫全書 people.
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140 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/02(火) 23:01:59.97 ID:JSynidY4O
袁世凱も英雄だろ
141 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/01(日) 11:17:13.09 ID:UByau3jjO
袁世凱も皇帝になろうとさえしなければ
あそこまで悪く言われることはなかっただろうに
もうネタ切れか
143 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/11(水) 09:42:38.98 ID:j07sMqV00
てす
>>130は五胡十六国から中国は存在しなくなったとかいう馬鹿
そのくせ石勒や劉聡は知らないんだよなw
とこれでお前ら「清朝とは何か」は読んだの?