【黄巾賊】 卜己(ボッキ) 【(;´Д`)ハァハァ 】
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無名武将@お腹せっぷく:
中平元年(184)、太平道の馬元義が死刑に遭い、群臣を招いて会議が行われ張角を討伐することとなった。
皇甫嵩は、党錮の禁を解いて中蔵の銭と西園の厩舎の馬を出し、兵士に分け与えるよう進言し霊帝はこれに従った。
皇甫嵩は左中郎将となり節を持って右中郎将朱儁と共に四万余人を率いて潁川郡の黄巾賊討伐に向かった。
朱儁が黄巾賊の波才と戦い敗れたので皇甫嵩は長社県に移動し守備を固めた。
波才は大軍で城を囲み、皇甫嵩の兵は数が少なかったので兵士は皆恐れを抱いた。
しかし皇甫嵩は「賊軍が草原に駐屯しているので風があれば火を放ちやすい」と言い、
兵に藁の束を持たせて密かに城の外に出して火を放ち大声で叫ばせた。
皇甫嵩は鼓を打たせて兵を率いて陣中に突撃したので賊軍は陣を乱して壊走した。
そこに霊帝が派遣した騎都尉曹操が到着したので皇甫嵩は朱儁・曹操と共に黄巾賊を大いに破り首級数万を挙げた。
功績により皇甫嵩は都郷侯に封じられた。
皇甫嵩・朱儁は勝利に乗じて進軍し汝南郡・陳郡で黄巾賊を次々に討ち三郡は悉く平定された。
東郡に進み倉亭で黄巾賊の卜已【ボッキ(・∀・)】 を生け捕りにし七千余人を斬った。
この頃、北中郎将盧植・東中郎将董卓は張角を攻撃したが功を立てられず左遷となり勅令で皇甫嵩に張角を討たせた。
皇甫嵩は張角の弟張梁と広宗県で戦ったが張梁の軍は精兵で破ることが出来なかった。
次の日、陣営の門を閉めて兵士を休ませ敵の変化を観察した。
賊の戦意が緩んだのを知ると夜中に兵を率いて出撃し、明方に敵陣に乗り込み日暮れまで戦って遂に破り張梁を斬った。
首級三万を挙げ河に落ちて死ぬ者五万人、焼いた車は三万余両、婦子を悉く捕虜とし鹵獲した物資は甚だ多かった。
張角は既に病死していたので棺桶を壊して死体を晒し首を京師に送った。
北に転戦し鉅鹿太守郭典と共に張角の弟張宝を下曲陽で斬った。
首級一〇余万を挙げ城の南方に京観(死体を積んでその上に土を盛った物)を築いた。