952 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/16(土) 23:06:12 ID:aQ06foXV0
項羽陣営に、蕭何並みの能力と役割を持つ人物がいなかったのは事実。
彭越のゲリラ活動があったにせよ、楚軍の兵站線は貧弱だったと思う。
咳下の戦いでは、百万の漢軍よりも先に兵糧が尽きるという状況。
転戦続きの楚軍にとっては、蕭何の能力が漢軍以上に重要だったかも知れん。
楚軍の人物を考えると、張良に対する范増くらいしか思い浮かばんなぁ。
蕭何は元より、韓信に匹敵する人物もいない気が。
まぁ、戦に関しての楚漢最強は項羽だろうけど・・・・・・
項羽の強さが異常過ぎるんだが、彼は一体何者だったのだろうか?
953 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/17(日) 01:24:21 ID:g7hfqpSi0
兵力は兎も角、食料は敖倉が供給源とちゃうの?
だけど、沸いて出るものでもなし。
蕭何が本拠地で後方管理運営した制度が合理的かつ効率的だったから
という面が強いのじゃないかな。
蕭何のそういった実務能力は、旗揚げから見知っているということで
十分その任に耐え、また信頼できるからこそ、だろう。
>>949 諸葛亮は補給を結構重視していたと思うが。
そりゃ蕭何には及ばないが、彼も元を正せば後方の補給役。
木牛や流馬の開発なども、兵糧をより大量に運ぶための彼の思案。
第二次北伐では確かに二十日ほどで撤退しているけど。
また、北伐の撤退理由が兵糧不足というのも、認識不足によるものというよりは、当時の蜀という地域の地理的な限界や、兵糧輸送技術の限界なのではないかな。
補給を怠った李厳を罰しているし。
(これに関しては政治的な思惑があるとも言われるが)
>952
寧ろ項羽自身が韓信ぽくない?
>>955 だから、「地形的条件での失敗」例として挙げているわけで。
人間のちからが及びのつかない一例でしょう。
そういえば、牟田口中将のインパール侵攻作戦中の、ジンギスカン作戦も
地形によって挫折させられた一例にはなるけど、あれ、補給を軽視した将軍として
諸葛亮といい対比になると思わないか?
なにしろ、補給困難とわかっても作戦を強硬したのだから。
どう考えても、補給兵站を重視していたとは言い難い。
だから、補給が切れた上で、兵に被害が出る前に、目先の勝利を放棄しても
軍を撤退させた諸葛亮は、一般に言われるように軍才は最高ランクに届かない
かもしれないが、将として統率者として、衆を預かる責任者として、超一流であり
信頼の置ける指導者だったといえるでしょうね。
補給が困難なことは出陣前からわかってたのであればはじめからその方面から攻めないのが当然ではないでしょうか。
劉邦が負ければよかったのに
鍾離昧乙
>>959 劉邦はさんざん負けたじゃん。それでも何とも出来なかった項羽がヘタレ。
いやだからこそ蕭何さんの価値があるんじゃないっすか。
>>961 何も出来なかった、じゃなくて出来るチャンスが何度かあったのに全部自分で潰した。
ヘタレとは言わないが天下取る器じゃないわな
>>961 さんざんというほど負けてない
というのは、最初の大敗以外は劉邦が敗走している間にも韓信が趙、斉、燕を侵食しているから、劉邦としては死にさえしなければ戦略的には勝っているようなものなんだ
>>958 困難を承知の上で攻めなければならん場合もあるんだよ
>>965 進撃路が豊富というわけでもないからね。
後蜀期でも、子午谷ルートで強襲したことあったけど
出口抑えられて関中に出られなかった、という…
同時期に陳倉には本隊主力が進んでいたけど、やはり頭抑えられた。
劉邦、蕭何、曹参、夏侯嬰、周勃、樊カイ、盧綰……。
沛県には人材揃いすぎじゃね?
>>967 劉邦側が勝ったからそれらの人材が有名になったってのもあるだろうな
負けてたらもっと無能に書かれてたか、名前すら残らないで終わったと思う
969 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/20(水) 00:17:16 ID:QTDy0Q9F0
>>967 正直、蕭何以外は普通だろ。
彼らの将器や武は、長い戦で培われ磨かれたものだと思うが、飛び抜けた
才能だったという感じはしない。
劉邦と同郷で、古参故の経験や地位が良い方向に動いた結果かと。
樊櫂は、ガタイの良さもあったんだろう。
とは言え、劉邦に従い続けた忠誠心は本物だと思うが。
周勃、灌嬰なんかも地味に良い武将
灌嬰は派手な部類に入ると思うが。
漢軍初の騎兵指揮官だし、
項羽の本拠を陥落させているし、
項羽を追撃して自殺に追い込んでいるし。
項羽の死体ばらばらにした5人が灌嬰の部下の騎兵だったことはあまり知られて無い感じだな
周勃はいい意味で平凡なイメージ
夏侯嬰って生涯役職が太僕のままなんだよね。
同僚の周勃や灌嬰は漢統一後どんどん出世していったのに、夏侯嬰は死ぬまで太僕のまま。
夏侯嬰は出世欲とは無縁の男だったんだろうか。
灌嬰は五千の兵を率いて平原で戦えば、同じ兵数を率いた韓信に勝てると思う
>>975 太僕って九卿じゃなかったっけ
普通に高位じゃないのかな
977 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/21(木) 22:06:47 ID:ZZU4LW9f0
飛仕影音の大型古装連続劇 「楚漢風雲」のDVD10枚組を買ったが、全巻揃で
なんと2000円だった。航空便で送料が700円。値段の違いに驚いた。
もっとも中国語の字幕しかないが、結構、それで話は分かる。
>>975 太僕ってのは皇帝の御者であると同時に、国有の馬全ての育成から管理までを扱う
地位では丞相とかの方が上だが、ステータスは太僕も十分高い
それに、もしかすると物凄い利権が集中しててウハウハだったかもしれん
ほんとに馬好きだったんだなあ
すごい腕力があり、いくさをさせれば剛力無双、でもみずから好んで自分を御者だと思っているというイメージがある
ホウ城の戦いって今日の野球日本対韓国みたいな感じだったんかな
いやなこと思い出させんな
>>982 烏合の衆だったのは確かだな・・・・・。
という事は、星野が魏豹か。
そもそも項羽は天下を統一する気なんてあったの?
986 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/24(日) 03:21:57 ID:lNRUqGCX0
>>985 中華を一国にまとめるという構想なら、なかったと思うが。
>>985 劉邦(とブレーンの張良)以外、誰も再統一なんて考えていなかった。
あったとしても、旧六国の子孫を温存しての春秋の覇者のような政権運営か
新たに、漢による諸侯の封建か、項羽は前者に近かったように思う。
劉邦は、秦の失敗を鑑みた上で、再統一を志向したんだから
ある意味、先見性・戦略眼は項羽なんぞ足元に及ばなかったわけだ。
(ただ統一すりゃあいいやというレベルではないから)
>>987 そういう見方でいくと、劉邦陣営が再統一ってのを本気で考え出したのはいつだろうね。
三秦倒したあたりから?
>>988 一度項羽にボロ負けする前から殷王を廃して河内郡を直轄化とかしてるから、かなり早い段階から考えてただろうね
項羽は秦を倒した後に自分が主導して国を配分してるから、この段階で項羽にとっての「天下統一」は終わってるんだよね
諸侯の支持を受けた周王のような存在であればいい、と思っていた(ただし、国を細分化しているので項羽が主導権を握りやすくしている)
だがこの国分けが諸侯の支持をまるで得られないもので、不満が爆発し各地で反乱・紛争が勃発し、そこに劉邦が突け込めた
「彭城の戦い」って中国史上においてかなり絶望的なシチュエーションだよな
本拠地は落とされて、士気は下がるわ、補給は断絶だわ、手持ちの勢力以外
中原諸国は完全に敵側だわ、滅亡寸前の群雄でもここまで酷いのはなかなかないぞ
ここから、戦局を引っくり返して逆に関中を圧倒するんだから、
項羽は化け物扱いされるわけか
少なくとも、春秋戦国期でここまで速攻・流動的な指揮采配を振るった将軍はおるまい
>>990 まったく。
かろうじて追従するのは李存勗くらいだな。
本拠地の失陥は免れているので、状況はまだまだだが。
>>990 おおむね同意だが、項羽は関中を圧倒はしてない。
劉邦たちは常に関中から進出しており、項羽はそれを退けているが項羽から関中に進出してはいない。
しかも、代趙燕斉を韓信に平定されながら有効な対策を打てず、楚にまで劉邦の調略の手が伸びた。
絶望的なところを五分近くまで持っていたとは言えるんだろうが、防戦一方で実際には優勢になったことはない。
ちょっくら、新スレたててくるわ
項羽と劉邦、時々韓信
やっぱり、項羽あっての劉邦だよな・・・
項羽という一代の怪物がいたからこそ、韓信始め多くの人物も才能を
発揮したという感じがする。
良くも悪くも、項羽中心の時代だったんだろうなぁ。
項梁存命なら、どうなっていたかな・・・
韓信って、確かに軍事の天才だが劉邦と項羽に並ぶほどだったかね?
彼も結局は将の一人でしかなく、欲を出したり中途半端な態度だったのが
破滅の始まりだったんだろうな・・・・
「中華の運命は、あんな股夫などに好きにさせるものではない。
全ては我々楚軍と貴様ら漢軍とで決着を着けるものだ。
違うか!違うか!違うかァ!!
なぁ、劉邦。」
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。