中国前漢の建国の経緯〜王莽の簒奪までの人物達の総合スレです!
建国の経緯:項羽と劉邦が激しい戦いの末、劉邦が前漢を建国(*・ヮ・*)
劉邦死後:皇后呂后と呂氏一族が権力を握り専横を奮ったが、呂后死後陳平や周勃などにより呂氏全滅(*;ヮ;*)
文帝・景帝時代:この二人の皇帝は文景の治と呼ばれるほどの治世を行う(*^ヮ^*)
7代目武帝時代:霍去病、衛青、李広利ら中国を代表する名将が匈奴討伐に。さらに西域・南越・朝鮮なども征服、内政も充実し全盛期(*>ヮ<*)
宣帝時代:武帝が悪政をするようになり、宣帝になってからも霍光が権力を握ったりするが宣帝の治世が光る(*^ヮ^*)
滅亡:しかしその後は暗愚な皇帝が続き、最後は外戚の王莽によって簒奪されて滅んだ(*;ヮ;*)
何年も続いた中国の王朝、その中には英雄達が大勢います!
彼らを語りましょう!!
とりあえずは衛青
東漢の対匈奴戦争の英雄
悲劇の英雄・李陵(?〜前74)
字は少卿。李当戸の子。李広の孫に当たる。若くして侍中・建章宮監となった。匈奴と度々戦って、騎都尉に登った。李広利
の下につくことを厭い、武帝に奏上して歩兵五千で別働隊を率いることとなった。匈奴の本軍に遭遇して善戦したが、ついに降
伏した。李陵が匈奴の単于に漢軍に対抗する戦術を授けていると、誤って武帝に伝えられたため、武帝は李陵の家族を誅殺し
た。漢への帰参の道を絶たれたため、単于の女婿となって右校王に立てられ、匈奴で重用された。昭帝の時代となり、霍光・
上官桀らが任立政を遣わして、漢に帰参するよう求めたが、李陵は応じなかった。匈奴にいること二十余年で没した。
4 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 10:12:03 ID:x/hU9IuZ0
霍去病(かく きょへい 紀元前140年 - 紀元前117年)は、前漢の武帝時代の武将である。父は、霍仲孺。異母弟は、
大司馬大将軍になり、武帝後の政治を取り仕切った霍光。
衛青の姉、衛小児の子にあたり、同じく衛青の姉であり、霍 去病の叔母にあたる衛子夫が武帝に寵愛されて戻太子を
生んだことで皇后に立てられたため、親族にあたる霍去病も覚えが良く武帝に寵愛されていた。
騎射にすぐれており、18歳で衛青に従って匈奴征伐に赴いている。その後も何度も匈奴征伐に功績を挙げ、紀元前121
年に驃騎将軍に、更に紀元前119年には匈奴の本拠地を撃破し、衛青と並んで大司馬とされた。大功と武帝の寵愛により
権勢並ぶ物が無くなった霍去病だが、紀元前117年、わずか24歳で病死した。
霍去病と衛青は同時代に活躍し、血縁でもある事から良く比較される。衛青は少年時代に奴隷であった経験から人にへ
りくだり、常に下級兵士の事を考えていたと言われる。その一方で霍去病は物心付いた時には既に一族は外戚であり、叔
父が匈奴討伐に大功を上げていた。その事から叔父とは対照的に傲慢であり、兵士が飢えている時に自分達は豪華なテ
ントの下で宴会を開くような事をしていた。しかし宮廷でも兵士の間でも霍去病のほうが人気が上であった。衛青はへりくだ
りが度を過ぎて媚を売るような所があったらしく、また霍去病の傲慢も頼もしい勇壮と見られていたようだ。武帝も自身の性
格から積極果敢な霍去病をより好んでいた。
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 10:48:52 ID:ls0BDsa60
飛将軍李広
浅学ながら、前漢の人物なら張騫が好き。
あの時代に匈奴を超えて遠く離れた月氏に行こうなんて男らしいじゃないか。
8 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 15:22:02 ID:I+OijTzU0
韓信最強スレはここですか
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 16:57:24 ID:p6hSK/du0
大きく分けると、楚漢戦争時期の英雄と、
西漢の対匈奴戦争時期の英雄に分けることができるね。
楚漢戦争は、別にスレがあるから、ここは対匈奴戦争の英雄たちについて語るべきだろう。
11 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 20:28:11 ID:6IO3YM3P0
となると、衛青、霍去病が中心となるが、この2人のスレも既に立っているし…
12 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 22:52:20 ID:EA2GaG9NO
傅介子って暗殺者はある意味カコイイ
>>7 だよね! あの頃は今みたいに正確な地図もなかったろうし、匈奴って
言ったら昔から遺恨があった危険地帯だったんだから、
そこを越えて未開の、遠く離れた国の文化に触れた彼は本当に凄いと思う。
私事になって申し訳ないんだけれど、横山とKOEIの三国志から中華の歴史に興味を
持った人間だから、そんな時代に既に遠くまで旅した人が居たなんて
思うとアツい歴史の探求ロマンを感じるんだよ。
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/26(木) 08:59:22 ID:o3xkLot+0
李広か可哀想
15 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/26(木) 09:19:00 ID:Dxm3QFEy0
前漢が建国してからの粛清の話はひどいね
高祖の粛清は外様に限ったもので後の明太祖のと比べると
まだ優しい方だ。
17 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/27(金) 00:30:55 ID:X6f4Dp+60
朱元璋の粛清は徹底していたからね。
皇帝の絶対独裁権力確立のために、皇族を除いて疑いのある者は殺し尽くした。
だけど、残った皇族が仇にw
同じ腹から生まれても信用できないのは煬帝が示してくれたからな
まして叔父甥じゃ望むべくも無し
19 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/28(土) 10:04:47 ID:BavDBui30
周亜夫は若い頃から、父と同様に軍人として活躍し、匈奴が漢の領域に侵攻してきた際には、文帝から、一軍を率いてその防衛の
一翼を担うように命じられる。
それから間も無く、情勢が安定すると、文帝は国の守りに力を尽くしてくれた将兵を慰問したいと、各陣営を訪問・閲兵した。どの陣
営も和気藹々とした雰囲気で、文帝を迎えたが、周亜夫の陣営のみが
「ここは戦陣なので、皇帝陛下にもそれなりの作法で閲兵して頂きたい。」
と言って、文帝にも陣中の作法を守らせて、陣営内でも下馬をしたうえで通行させるほどであった。
後でこのことを知った、文帝の側近達は、
「なんと無礼なやつだ。」
と、周亜夫を非難したが、文帝は、
「あの男こそが、真の将軍たる人物だ。」
と、彼を褒め称え、死に際しては皇太子(後の景帝)に、
「もし大がかりな戦争が起こったならば、周亜夫を軍の総帥にして事態を解決しろ。」
と遺言したと言われる。
20 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/28(土) 13:17:54 ID:5ZA7Fjqp0
蕭何の後の丞相って陳平だっけ
いや
確か曹参だよ
22 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/28(土) 13:19:50 ID:M7M267blO
曹参(相国)
23 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/28(土) 14:07:25 ID:NLoxtnrf0
楚漢に興味持ったんだけどさ
司馬遼太郎の「項羽と劉邦」読めばおk?
横山のほうがいいよ
25 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/28(土) 14:11:38 ID:NLoxtnrf0
司馬のなら家にあるんだけどなぁ・・・。
26 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/28(土) 14:35:45 ID:KENND1UvO
個人的には司馬さんの方がオススメ
登場人物に個性があって面白い
司馬作品以外の楚漢戦争全体を扱った長編小説って他にある?
>>23 横山は劉邦に有利に描きすぎてて史実からだいぶ離れてる。
項羽も劉邦もあんまり魅力的な人物に描かれてないし。
29 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/28(土) 16:36:06 ID:J3WpbWcV0
基本は司馬遼太郎だろうな。
小説読むの面倒なら、今BSでドラマを放送している。
と、言うことで司馬さんの小説買ってきたオレ。
31 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/28(土) 17:36:07 ID:M7M267blO
司馬遼太郎は「劉邦の名前」などのヨタ話を鵜呑みにさえしなければ、流れを知るためにもいい
もちろん小説として面白い
32 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/28(土) 17:51:31 ID:q28Qj66t0
司馬小説で最初に読んだのが項と劉だった
その次が歌人と竜馬がいく
なんか項梁カッコいいぞ^^
あー、ここは前漢スレだから
項羽と劉邦スレの方に行ったほうが良いのかな?
移動したほうが良いだろうな。ココは建国後のスレだから。
35 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/29(日) 00:45:32 ID:/C8v3riaO
スレタイには項羽って入ってるけどな
厳密には項羽は秦末の英雄だね
文帝(劉恒)も英雄だろう
租税完全免除なんて羨ましすぎる
38 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/29(日) 01:12:33 ID:/C8v3riaO
細かい事だが免除は田租だけだな
人頭税や徭役や兵役はそのまま
あ、人頭税はそのままだったのか。
スマソ
40 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/29(日) 12:20:17 ID:26deI4230
周亜夫
文帝は経済政策は散々だったけどな
42 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/29(日) 17:02:51 ID:/C8v3riaO
散々というほどかな?
貨幣問題のことを言っているのかもしれないが。
まあ文帝、景帝の「垂拱の治」は豪族による兼併を放置した側面などもあるから、よく言われるような手放しの賞賛は妥当じゃないとは思うけどね。
あと前の補足だが、租の免除は田を捨てて末業に走った者や豪族の庇護下に入った者を帰農させるための政策。
損して得取るみたいな感じ。
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 20:52:46 ID:z5SLeeYr0
呂后は有能な政治家だったみたいだね
有能な権謀術数家であったが具体的に何かしらの政策をした訳じゃない。
まあ匈奴の挑発に乗らなかったのは賢明と言える。
明快に冒頓単于
皇帝の能力では
武帝、宣帝、哀帝が三強
名君かどうかとは別だけど
47 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 23:08:07 ID:Mxq5a4G70
言っちゃ悪いけど張良が最高の人物だよ。
揚げ足のとりようがない。
誰にも疎まれないところと、中立的且つ公正で陰謀無しで登りつめ、
自分の成したことに責任と自信を持ち、満足できたところがすばらしい。
48 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 11:48:06 ID:qcYHtY3f0
張良って政治家としての才能はあったのかな
49 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/06(月) 14:59:32 ID:1fYhM/hGO
言っちゃ悪いけど張良も隠遁後は戴けないよ。何故韓信や英布、ハンカイなどの功臣討伐を諫めなかったのかな。他の事には手出ししといて。それをしなかったが為に謀反は続発した。
漢が長期政権だったのは結果的に初期の荒治療というか静粛があったからだと思う
日本史を例に挙げてごめんなさいだけど
足利尊氏は気前よすぎて外様が力をつけて後に応仁の乱とか起きたし
人は一代、御家は万代みたいな考えはあったかどうか分からないけど
戦争を勝利に導いたのは張良の功が大きいのかな?
劉邦の勢力を作り上げた点では蕭何の功が圧倒的だと思うが。
劉邦が匈奴討伐に出陣する際に張良は何らかの進言をしたのだろうか。
敗退するのが分かってて沈黙していたとしたらとんでもない奴だが。
53 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/06(月) 19:26:22 ID:1fYhM/hGO
張良は漢作った後は知らんぷりしてたらしい。この辺が責任感無いよね。自分の理想を実現出来るような奴はいないと絶望して匙を投げたのか、面倒だったのか。この人は多分凄いインテリであらゆる意味で理想主義者だったんだろうな。
54 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/06(月) 19:47:41 ID:JiEmqUdw0
張良は項羽に韓王を殺されたから復讐として劉邦に手を貸してただけじゃないの
統一後の国家運営なんて興味なかったとか
55 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/06(月) 19:55:32 ID:1fYhM/hGO
そう考えると張良の好感度下がるよね。なんだか利己的に人殺しに励んだ天才って感じ。まぁ無私の役人などいないということか
韓王信が冒頓単于に帰順してしまい、同じ韓の出身の張良は猜疑を受ける立場になってしまったのかもしれない。
57 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/06(月) 21:38:48 ID:9AjiD4XmO
そういう点では漢の社禝を守った陳平の方が張良より上かもね
58 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/06(月) 21:47:33 ID:1fYhM/hGO
ネタ振りだけど、氾僧って本当に愚鈍な軍師だったのかな?政策も戦略も統べてポシャッてたらしいが、これは漢が勝ったから記述されたことではないだろうか?
×:氾僧
○:范増
60 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/07(火) 01:17:56 ID:kwp1zpVwO
功臣粛清の状況を考えたら下手に進言して手柄をたてたりして警戒されるより、我関せずの方が賢いと思ふ。
封地に留を自ら選んだ様に粛清されない為に気を使った張良…乙
>>60 劉邦に3万戸やろうって言われたのを「陛下と初めてお会いした留の町をいただければ十分です」
とやんわり断ったあたり、大きな領地を持ったらいずれ警戒されるのを見通してた感じだな。
実際、劉邦に仕えて以来、他人に警戒されたり嫌われたりした形跡が全くないもんな。
蕭何ですら功績第一位に推された時、前線で戦った武将たちの不満を買ってるのに。
他人に全く警戒されないってのは策士として超一流の証だ。
63 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/08(水) 16:58:44 ID:paAGZ4v9O
ただあの主君が曲がりなりにも王となったのは范増の功績が大だったことの逆証とも言えるな。
歴史は勝者によって作られる。だから、史実には范増が献策して成功したものが只の一つも(ここが重要)残っていないのではないだろうか?
64 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/11(土) 18:01:02 ID:kjdj6lnpO
羊飼いを楚王に据えて反秦連合の求心力にしようと献策したのは創作?
65 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/17(金) 13:33:09 ID:Ih508dKX0
羊っていつ頃から家畜になったんだろう?
代用品になるとある男が気づいた時
>>53‐
>>56>>60‐
>>61 老子の言葉に「功遂げ身退くは、天の道なり。」「足るを知れば辱められず、止るを知れば殆うからず。」という言葉があるが
老荘の徒の張良は正にこれを実践したのである。
また若い頃からの夢である仙人に本気でなろうとして穀物断ちを行い心配させる事により呂后の猜疑の目をも躱している。
張良の一連の行動は始めから計画されていたのだ。
> 老子の言葉に「功遂げ身退くは、天の道なり。」「足るを知れば辱められず、止るを知れば殆うからず。」という言葉があるが
そう考えると儒教は大変だよな。
死しても忠を、それよりも孝を果たせだからな。
69 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/27(月) 22:19:18 ID:9lDE+jB3O
>>64 はっきりとは分からないけど、逆に信憑性がない?
項籍を王にしたければ、わざわざ范増も、王をたてようとは言わない。
発見しちゃって、王にせざるを得なかった。
だから、その求心力を逆効果にしてしまう壊王暗殺についても止めな
かったとか?
え〜え、釣りですとも
陳平の人間の心理を巧みについた権謀術数と高祖も政治家としての素質を見抜けなかった才能が好き。
71 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/04(月) 13:03:47 ID:dC0XunPP0
呂氏の一族から英雄らしい者は出なかったんだろうか?
72 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/05(火) 21:46:29 ID:rnG4/WcxO
項籍との戦争の時から呂族の名将を聞かないね。
あの頃を経験してないとなかなか武門を学ばせることは出来ないかも…。
73 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/02(火) 14:42:11 ID:O8SaJtfJ0
呂氏の一族ってのは武門として向いてない一族だったのかな
ほ
75 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/02(金) 10:23:17 ID:IZtifpwf0
呉楚七国の乱平定の最大の功臣
霍氏は呂氏の失敗を検討しなかったのだろうか?
>>76 呂氏の時と違って諸侯王はロクなのがいないし、大臣はあらかた自分の与党だし、敵はいないと思ったんだろうね
まさかただの傀儡だと思ってた宣帝自身が最大の敵になった上、張安世や魏相みたいな奴らまで(霍氏から見ると)余計なことをするとは思わなかったんだろう
劉邦登場以前って、劉という姓は珍しかったの?
80 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/28(水) 23:58:53 ID:VrroZAlQ0
劉<りゅう>【氏】
@帝尭の子孫が名乗った。祁姓。
A晋の士会の子孫が秦に残って劉氏を名乗った。祁姓。(春秋)
B周の頃王の子が劉に封じられ、封地名をもって氏とした。姫姓。(春秋)
Cその他にも劉氏があり、漢代以降さらに増える。
81 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/03(土) 03:43:44 ID:mxc3sHGOO
呂馬トウ
82 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/14(水) 23:01:26 ID:AfLa1Gt70
前漢末期で、確か劉姓の皇族が数万人に達していたんだよね。
83 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/09(月) 10:58:13 ID:pOag7Fkq0
劉秀にしても、田舎の豪族という感じだったでしょ。
84 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/09(月) 14:04:53 ID:0U9nnT6P0
陰麗華は美しかったのか
85 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/12(土) 12:14:31 ID:w8Tsxxw+0
そりゃあ、標準以上の美人だったと思われ。
客観的に見て絶世の美女だったかどうかは疑問としても、
劉秀があれだけ寵愛したんだから、容姿も平均以上と思われる。
劉秀という人物像が、かなり庶民的な感じだから
麗華さんも絶世の美女という類ではなくて、かわいい感じだったと妄想する。
あまり笑わないそうなので、人によっては冷たいイメージを受けるかも。
87 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/04(月) 16:07:03 ID:xdpB2Y0N0
姓からして“陰”だから、あまり陽気なイメージは出て来ない。
88 :
国重高暁 ◆takawYpCqc :2007/07/19(木) 15:52:07 ID:CJ8DboaQ0
漢建国の功臣・蒙恬。
北伐に活躍した上、毛筆を
作ったという記録もあるのに……
霍去病や衛青よりマイナーとは(T_T)
89 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/19(木) 18:54:34 ID:WuhV5Je4O
漢じゃないですよ
>>88 蒙恬は秦の人ですよ。
毛筆なんか作ってないし。
間違いを堂々と書き込まないでくださいね。
>>90 作っていないというソースを。
でないとそっちが捏造を堂々と書き込むことになる。
チン毛で作ったとかどうせそういうネタだろ
93 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/20(金) 01:07:31 ID:cvHGxUDpO
毛筆くらい秦帝国以前の戦国時代からあったんじゃないの?
戦国時代の竹簡の写真を見たことあるけど。
「作った事実がない」ことの証明は、悪魔の証明であって無理を強いるもの。
「蒙恬が毛筆を作った」と主張する側が、作った事実を証明すべき。
95 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/20(金) 16:14:10 ID:BUd/KAb40
作っていない事実なら、以前から毛筆はあったことを
証明すればいい
蔡倫の紙だってちょっと怪しいしな。
どうやってケツふいてたんだろう
98 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/21(土) 21:57:22 ID:64vIxJMgO
>>96 蔡倫の紙は新規の発明じゃなくて、改良した物だったと陳舜臣が書いてたような・・・
つまり、性能を著しく向上させたってことになるのかな。
前漢代(だったと思う)の墓から崩れかけた紙が出土したことがあるらしい
でも、紙が爆発的に普及したのは蔡侯紙から
昔と比べて、製造費が安くなったのか耐久性が上がったのかは知らないけどね
「洛陽の紙価を貴からしむ」が西晋の話ということは、
当時は紙はいちおう普及してたが、需要が増えると
値段が高騰するぐらいには貴重品だった・・・
そうすると、漢代に紙が本当に普及してたかはちょっと分からなくなる
「洛陽の紙価」は比喩的表現なんだろうけど
しかしスレ違いだな
現代だって米やら野菜が不作なら高くなるし、ガソリンなんて高くなっていやになるくらいだぜ
でも普及してるよ
そりゃそうだが、紙は現代のように簡単に書き損じたり
鼻かんで捨てたりできるほどには普及してなかった、という意味ね
呉の朱然の墓から木簡は出てきたが紙はなかったはず
秦の時代に、書きやすいように書くものを統一して、筆とよんだんでしょ
それが不遇の臣である蒙恬の功績になったという話
104 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/26(木) 12:47:35 ID:DB5o6prs0
秦に仕えた武将は不遇な死に方した人ばっかだね
105 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/26(木) 21:51:57 ID:EvwynN0Q0
章邯とかね。
褒美ねだりで全うした爺様が光りますな
107 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/31(火) 10:29:07 ID:Jipg5bY50
游 侠
王翦は、子孫も栄えたしね。 蒙恬なんだけど、こいつと扶蘇は
防衛用に結構な兵力を保持してたらしいけど、2世の即位、二人自殺後
この大軍はどこへ消えたんだろう。
章邯は囚人部隊までつくらざる得なかった。それほど逼迫していた秦軍。
いくら北方の守備とはいえ中央のピンチに北に大軍置いたままてのも・・
>>108 北の大軍は反乱軍に加わったんじゃないの?
おそらくは武臣の軍に吸収されたものと思われる。
北方の主力軍って、王離の率いてた軍のことじゃないの?
李由とかが率いていた軍なんじゃね?
李由は三川郡太守
113 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/02(木) 00:20:34 ID:LlaPrLHG0
>>112 いやだから北方から配置転換したんじゃないのかと
匈奴に編入されて漢を苦しめたとか{{要出典}}
>>114 確かに匈奴には「秦人」と呼ばれる農耕民もいたからな
116 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/02(木) 15:06:24 ID:j+i3+VgM0
117 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/24(金) 16:17:41 ID:IVEPfF6w0
>>115 匈奴の版図での農耕地域って、漢との国境沿いが多いと思うけど、
北方の方、バイカル湖周辺などでも多少は農業できたのかな?
118 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/25(土) 21:18:49 ID:pnNQEch8O
愛知のキチガイ脳糞古川は神だと思っている。
半年ほど前の正月休みに両親と愛知のキチガイ脳糞古川の実家(もんじゃ焼き屋)に 食べに行った時の話。
両親と3人で鉄板を囲んで食事をしているといきなり脳糞古川が玄関から入ってきた。
もんじゃ焼き屋に似合わない勝勝負服ないでたちで。
脳糞古川が「私いつもの〜」と言って二階へ上がろうとすると、
店内にいた高校生集団が「脳糞古川さん!」「脳糞古川さんかわいいー!」などと騒ぎ出し、
脳糞古川が戻ってきてくれて即席サイン会になった。
店内に13、4人ほど居合わせた客全員に店内にあった色紙を使い サインをしてくれた。
高校生達が脳糞古川の母校愛知のキチガイ高校トラウマ部だとわかった脳糞古川は いい笑顔で会話を交わしていた。
そして脳糞古川は「またね〜」と二階に上がっていき、店内は静かになった。
私と両親は脳糞古川の気さくさとかわいさに興奮しつつ食事を終え、会計を済ませようとレジに向かうと、
店員さんが階段の上を指差しながら 「今日のお客さんの分は出してくれましたから。また来てくださいね」と。
あれには本当にびっくりした。
バイカル湖の周辺って冬湖が全凍結するくらい極寒地帯だからなぁ。
周りは平原って感じがするから、農業よりもやっぱ魚とったり動物取ったり
のほうがいいんじゃね?果物やキノコとか取れるらしいから採取がメイン
なんじゃないかな〜
120 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/31(金) 00:44:16 ID:KQIe6y2H0
陸賈好きだなー
前漢って五行でいうとこだと火ってよく言われるけど張蒼が
暦整理した時は、秦と同じ水で黒だってことになってたよね?
ここら辺前漢時代はどういう解釈だったんだろう。
122 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/08(月) 13:33:16 ID:7NsCeSqo0
>>121 武帝の頃には漢は土徳=黄となった。
火徳ということになったのは王莽の頃で、それが後漢にも引き継がれた。
124 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/21(日) 13:15:28 ID:NSf3bGtf0
糞スレ立てんなアホが。
126 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/17(月) 13:05:01 ID:XaZ9ES1f0
揚
127 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/15(火) 13:52:44 ID:/y4L7esB0
国内最大、前漢時代の陶製の棺が出土―重慶市
2008年1月6日、重慶市●陵区(●は培の偏をさんずいに変えたもの)の遺跡「平安村墓葬群」から中国
国内最大となる長さ1m93cmの陶器製の棺が発見された。重慶商報が伝えた。
「平安村墓葬群」は長江のほとりにあり、三峡ダムの貯水が進めば水没してしまうため、緊急に発掘が
進められていた。6日、新たな墓穴が見つかり、陶器製の棺が発見された。棺のほかに大量の皿や壺、
陶器製の人形、鳥、犬などの副葬品も発見された。
同遺跡は約2000年前の前漢時代のもの。陶器製の棺は出土例が少なく、極めて貴重。これほど大きな
棺を作るためには専門の窯が必要で、埋葬者が富裕であったことがうかがえるという。
http://www.recordchina.co.jp/group/g14564.html
盗掘無残!荒廃した「杜陵」の“今”をカメラがルポ―陝西省西安市
2008年1月7日、チャイナフォトプレスは10余年前に大規模な盗掘被害にあった、漢代の名君「宣帝」とその
皇后の墓である「杜陵」の現状のルポを配信した。
陝西省の古都、西安市はかつて1000年にわたって王朝として栄え、歴代皇帝の墓が多数残っている。中
でも「杜陵」は西漢時代(紀元前206年〜紀元8年)の皇帝の中で最も埋蔵品が多い墓と言われている。その
ため盗掘犯にとってはまさに「お宝の山」。広大な敷地では殉葬者の墓も含めた一群が、どれも無残な穴と
化している。周囲一帯には瓦片が散らばり、掘り起こされたばかりの真新しい土の山も見える。
盗掘犯が狙っているのは、「瓦当」(がとう)と呼ばれる文字や模様が描かれた筒瓦の先の部分。魔よけや
吉祥を意味する。その文字は「瓦当文字」と呼ばれ、今でも篆刻やはんこなどに好んで用いられるという。
現在、警備の方がどうなっているのか?「杜陵保管所」の職員は、「この広大な敷地を職員数人と2台の
バイクだけで見回るのは無理」と嘆く。しかも最近の盗掘犯はハイテク化しており、以前よりさらに捕まえに
くくなっているという。
盗掘犯はお目当ての「瓦当」だけを持ち去るために、貴重な歴史文化財である筒瓦をどんどん割っていく。
中国人すべての財産である「杜陵」を守る方法はないのか?とルポは悔しさをにじませている。
ttp://www.recordchina.co.jp/group/g14536.html
129 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/16(水) 15:11:27 ID:JGiRxsGA0
>>128 宣帝のお墓、そんなことになっていたのか
130 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/14(木) 02:06:53 ID:73xnrRJEO
こっちにも書いときますが
明日の、つまり日付の上では今朝だが
朝5時からのNHK教育で放送する
知るを楽しむ 歴史に好奇心にて劉邦と韓信についてやるとか
何でも嫉妬にまつわる特集らしいです。
武帝以降の賢臣といえば誰かいるかな?
宣帝
孝恵帝や孝武帝の「孝」ってなに
親の跡を継いで頑張った!親孝行!の「孝」
だから実質的に初代となる高祖と光武帝と昭烈帝にはつかない
>>134 ほんと?
時代が下ると、長ったらしい諡号の中に「孝」が入ったりしてるけどね。
太祖・啓運立極英武睿文神徳聖功至明大孝皇帝
>>136 うい〜。手持ちのは注記がないわ…
なんて書いてんの?
師古曰:「孝子善述父之志,故漢家之諡,自惠帝巳下皆稱孝也.
お手数をおかけした。
ゆえに漢家の諡号には恵帝以下みな孝がつく、ということか。
べつの王朝はまったく関係なかったな…
な
楚の名将項燕はどんな活躍をしたのですか?
オウセンにレイプされた。
辟陽侯と呂后はどのような深い関係にあったのですか?
144 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/19(金) 17:00:35 ID:PLEgB4cW0
項羽は呂布と変わらんw
人間という点においてはなw
戦下手で周りの人間に動かされてばっかりの呂布は項羽とはまったくタイプが違うな
147 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/27(土) 05:18:47 ID:nQc28qcd0
項羽って楚の武将って事は漢民族じゃないの?
148 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/01(水) 18:38:27 ID:qODxsTqA0
>>146 項羽も離間の計とかでひっかかりまくってるじゃんw
前漢中期以降の著名人たち
こいつらは英雄っぽくはないけど、なかなか個性的な面子が揃ってる
・公孫賀
丞相就任の時のヘタレエピソードが印象的だが、丞相在任最長記録保持者。
・スイ弘
堂々と「漢はおしまいなので有徳の士に禅譲しなさい」って主張して処刑された。
・蘇武
20年近く匈奴に抑留されて生還した根性の人。自殺したが単于に助けられた逸話もある。
・常恵
蘇武と一緒に抑留されたが、生還後は蘇武より出世した。
・張安世
前漢で一番栄えた張氏の始祖。地味な大物。張湯の子。
・張賀
張安世の兄。幼い宣帝を育てた忠義の宦官。
・魏相
宣帝親政期最初の宰相。硬骨漢。
・丙吉
赤子の宣帝を助けたと言う功績を隠した謙虚な人。
・趙充国
「百聞は一見に如かず」が有名な老将。
・石顕
趙高、司馬遷以来の大物宦官。悪く言われるが司馬遷も同じ中書令だったことはあまり語られない。
・劉向
錬金術師。
・陳湯
最高の軍事的能力と最低の人格的評価が同居。上司も脅す大物。
・テキ方進
占星術と儒学双方に通じ、政治では外戚を敵に回しつつ丞相を長期間務めた怪物。
・何武
三公制度や州牧制度の提唱者。
・孔光
丞相に2回就任するなど、物凄くめまぐるしい官歴を持つ。孔子の子孫。
公孫賀は前任者が三代も続けて不幸な末路って事で泣いてまでして
丞相に就くのは嫌だって拒んだんだよね
それでも結局は丞相となって、そして本当に自分の末路も散々といふ…
この時代なら張釈之が好きだね
気骨もある本当の忠臣って印象
袁おうが好き
152 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/28(金) 23:27:33 ID:qk8j3RSlO
劉邦→劉備、劉表、献帝
曹参→曹操
夏侯嬰→夏侯惇
張良→張翼
司馬仰→司馬イ
エンオウ→エンショウ
となるわけか
何だかんだで先祖同士は面識あるんだな
例えば司馬仰が二十万秦兵とともに生き埋めにされていれば晋王朝は存在せず、
劉邦が鴻門あたりで死んでいれば後漢もショク漢も存在しなかったわけだ
そう考えると不思議な気持ちにならないか?
>>153 司馬ゴウは秦の人間じゃないから生き埋めになる可能性は無い
むしろ、司馬ゴウが劉邦に先んじて関中に入る可能性があったことを取り上げるべきだ
晋や漢が存在しなかったらしなかったで、
別の国家が別の興味深い歴史を歩んでいただろうけどな
>>152 曹操も夏侯嬰の子孫だよ。
父親が養子に入って曹氏を継いだ。
157 :
な:2008/12/04(木) 22:47:57 ID:XDkWBlRGO
スレチだったらごめんなさいm(__)m
漢文で<項王の最期>をやっているのですが、内容がよく分かりません(;_;)
どなたか、おおまかなあらすじで良いので、教えて頂けないでしょうか?
よろしくお願いしますm(__)m
>>157 平易なアレが読めなかったら漢文どころか日本語も不自由してるだろう。
とっととお帰りください。
159 :
な:2008/12/05(金) 16:25:55 ID:stcHw3UOO
すみませんでした。
160 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/06(土) 21:48:49 ID:Sx67lDfJ0
すいません。質問。大昔に図書室で手塚治虫が監修してた
中国の歴史だったとおもうのですが。
劉邦と項羽が始皇帝の大名行列?みたいなのを遠くから
見てて項羽が「倒してやる」劉邦が「いつか俺もあんなのに乗りたいな」
みたいな事を言うシーンがとても格好よくて好きだったんですが
これって元ネタはどういうのなんですかね?
>>160 ほとんどそのとおりのことが史記に書いてあるんです
項羽と劉邦は別々に始皇帝を見てますけど
162 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/06(土) 21:57:20 ID:Sx67lDfJ0
そうなの?史記見たことないけど司馬センはなんで知ってるんだろう?
歴史家だから自分で脚色なんてしてないよね?
後。手塚治虫監修の中国の歴史すごい面白かったんだけど
あれ売ってるのかな?前漢時代の一冊も面白いんだけど
一番好きだったのは孫子の回。ネズミと猫が進行役としているんだけど
孫子を天才孫子の幼馴染を秀才として描いてて
そのすれ違いがドラマチックなんだよね。木に文字書いて
敵の軍師となった幼馴染が確認のために火をともした所に
矢を射るのは泣ける。
史記に脚色というか創作というか、とにかく司馬遷が「つくった」部分が皆無かといえばそうでもなくて
例えば始皇帝が死んだ車中で趙高と李斯と胡亥が交わした密談の内容は
絶対に知られないはずなのに史記に詳細がバッチリ書いてある
この密談の内容は想像で埋める他ないもので一言一句全部が事実ではないかも知れんが
そういう意味の会話が交わされたに違いない、だから司馬遷は真実を伝えてるんだ、
と吉川幸次郎か誰かが言っていた
項羽と劉邦が始皇帝を見たときの感想がつくられたものかどうかは知らないよ
「事実を記録することと真実を世に伝えるは異なる」
近代以前の歴史家ってのは記録者でなく、真実と信じるものを世に主張しようとする者。
その為には、改竄も創作も辞さない。
むしろ、密談だから司馬遷が知るはずがない、という前提が間違ってるんじゃないかな
密談といいつつ人間扱いされない奴婢や下役はいたかもしれない
その時点では密談でもどちらかが後に漏らしたかもしれない
密談に聞き耳立ててた奴がいたかもしれない
現に漢成帝と王章の密談や、孫権と楊竺の密談はそうして漏れている
ところで、劉邦の母はなぜか陳留に葬られている
どうも劉邦や劉太公と同じ場所にはいなかったらしい
離縁されたのだろうか?
167 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/15(月) 11:28:58 ID:yTdSyqZqO
>>162 それ孫ピンな
「ホウケンこの木の下に死す」は実話かどうかわからんけど
168 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/14(水) 10:03:43 ID:ZBF0Lhf70
よく見たら劉邦の母親は、劉邦が漢王に封じられる前に亡くなっているんだな
紀元前202年段階で、称号を贈られている
正確な生没年は分からないけど
劉邦が関中を目指している途上で陳留を降伏させているので、
劉邦について行って陳留で亡くなったか
あるいは陳留の出身だったか
ちなみに、おとっつぁんの太公は紀元前197年没
劉邦の死ぬ2年前、韓信が反乱を起こす1年前
170 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/18(日) 17:40:16 ID:WpgzMeXD0
項羽なら冒頓単于倒せたかも
171 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/29(木) 02:05:19 ID:nFOVAT6d0
>>170 さすがの項羽もパルティアンショットされれば即死だろ
172 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/30(金) 03:03:23 ID:TZ+42JGa0
張良おまえ殺したろか
173 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/30(金) 11:35:31 ID:nAJh4Gir0
項羽は匈奴を怒号だけで追っ払ってるレベルだから
冒頓なんてカスに負けるわけ無い
匈奴なんて所詮李牧とか蒙恬にボコボコにされたレベルの雑魚異民族だしな
李牧→秦にボコられたゴミ
蒙恬→匈奴ぐらいしかマトモに勝ってないゴミ
秦史上最強の戦の天才である章邯を粉砕した項羽と匈奴では次元が違う
174 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/30(金) 22:19:05 ID:zg0GKn0R0
武帝って六十代で昭帝を孕ませたのか...
精力ピンピンだなあ。
そして、外戚の介入を防ぐという理由だけで生母を殺している。
昭帝が不憫。
後は呉の孫権も高齢でも絶倫だったね。
>>148 項羽は兵力10倍差でも勝てる人だからな
さすがに韓信には兵力3倍差でも勝てなかったけど
>>174 絶倫というか色ボケじじい度では張蒼先生には敵うまい
177 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/20(月) 23:49:52 ID:6b01SF/LO
>>174 そもそも昭帝が即位しなきゃいけなかったのは、
武帝が戻太子を殺したからだしな。
張春華とか懐かし過ぎるんだが
今頃何やってんだろ
TVで、馬王堆から出てきたミイラ「辛追」の話をしてた。
>>175 負けたわけではないからな
所詮韓信は兵家としては2流どまりだった
陳平、韓信を手放した項羽って
韓信はともかく陳平の自己申告が正しければ
陳平を追いつめちゃったのはマイナスな対処だよなあ
項羽って自分の失敗や間違いを認める事が出来ない中二病
age
185 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/14(木) 15:07:13.37 ID:FBOAUFOx0
あげ
186 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/23(土) 10:22:19.54 ID:g6Er3+Dx0
最後、和睦を無視した、劉邦と張良。とても褒められた人物ではない。
騙される方が悪いんですよby民主党
188 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/23(土) 14:32:46.19 ID:ALvIruCSQ
さすがに韓信が斉王になった頃は項羽も実力を認めて講和しようとしてたけどね
しかし韓信が斉王で独立してたら歴史は変わってたなぁ
漢VS楚VS斉の三国志
韓信には張良、陳平みたいな参謀が居ないからなぁ
戦には強いが戦略で負けた項羽と一緒の末路のような
ただ韓信は兵站に対する理解があったからやっぱ強いか
カイ徹「確かにある程度未知数な所もあるかも知れんけどさぁ」
李左車「俺たち存在自体なかったことにされてるん?」
独立って簡単に出きるのか?
張耳や曹参がお目付役のように
韓信は独立しても暗殺される予感しかしないわ
韓信ってカイトウにそそのかされてレキイキ陥れるまでは
それなりに政治的バランスもありそうな感じだったのにな
195 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/08(木) 19:43:32.52 ID:Db7txlvv0
私、そこそこ有名企業に勤めているもんすけど、社長になってもらうには劉邦みたい
な人がいいです。今の社長は前社長の娘婿というだけでなった人で、項羽や曹操きどり
なんすよ。バカの癖に人の失敗やミスの指摘や自慢話をえんえん2〜3時間するし、部下の意見
は聞かんし・・・。劉邦みたいに、あんま頭良くないけど人の意見は素直に聞く人のほうが
ありがたいです。この会社もう駄目かな・・・。
勘違いされがちのようだが、劉邦はものすごく鋭いから多種多様な意見から適切なものを選んだり、少数意見を取り上げて成功したりできるんだ
ただ素直に聞くだけの人間なら長安を都にできん
ネット限定かも知れんけど現代日本じゃ高祖の将に将たる能力がほとんど評価されてないよな
198 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/09(金) 15:28:32.52 ID:r/jI9zF70
>>196 別に劉邦自身は大して鋭くないよ
長安だって張良が強く推したところが大きいし
劉邦の凄いところは臣下の言葉を聞き入れて任せたってとこなんであって。
だから儒教が大きな割合を占めてる中国では劉邦は典型的な理想君主なんだろう
項羽のように自身が最強で劉邦なんて比べ物にならない力を持っている君主より
徳を持って臣下を重用してその力で天下を平定した君主の方が。
まあ馬鹿社長と武将としては中国史屈指の項羽を同類にしてるそいつは論外だが
劉邦の頭の良さがわからないのか
粛清の嵐で功臣から見放されて、やってる事は劣化始皇帝。
死後は嫁に実権握られる。
史記の成立年代が新の頃だったら糞味噌に書かれてたんじゃないか
史記も十分糞味噌に描いてるけどな
楚漢戦争を描く筆致は心底馬鹿にしていたとしか思えない
202 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/28(水) 12:35:27.56 ID:T18v0Zjc0
劉邦の粛清なんて朱元璋とかに比べれば大したことないだろ
ワイが聞いた情報によると、もうじき中国はバブルがはじけて昔の貧乏な中国に戻るらしい
もう経済は破綻してて、取り戻すのは無理なんだそう
その世界ではごっつい有名な政府関係者筋から聞いた確かな情報や
まあお前ら頭の良い連中には、今さらなくらいのネタや、
お前らからすればもう常識的なくらいの知識や
2ちゃんねるやってる人間なら知ってて当然な
項羽の粛清は天下取り確定前にやってるのがアホ
205 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/18(水) 17:36:52.56 ID:8g5I93we0
ちょっと聞きたいんだが
この頃の戸って具体的に何なんだ?
楚漢戦争関係の人物伝的なサイトは色々見たけど戸がどれくらいなのかよく分からん
ショウカが確か功績第一で8千戸貰った、ってあって張良が3万戸選べって言われて断って1万戸になった
曹参も1万5千くらいもらった、ショウカも後で追加で数千くらい貰った、
韓信はよく分からんけど斉王→楚王だからいっぱいなんだろう
これで1万戸ってどれくらいのもんなわけ?
それに数だけならショウカやら曹参より張良の方が2倍クラス上だけど
漢の功績第一はショウカなのにショウカより多いのはいいの?
相国とかそういうのをショウカが持ってってるから張良が多いのか
純粋に張良自身の功績がそれに値すると劉邦が考えたのか
それとも張良が貰った(はずの)3万戸ってのは生産性が低い地域のものとか?
そもそも前漢末期に戸数が1千万個以上あったらしいけど
時代が下ってるからそこを考慮して仮に半分の5千万戸しかないとしても統一帝国の漢、
その最大の功績者達数人がこんなもんで少なくないんだろうか?
算数からやり直し
>>205 税金取れる本百姓が1万登録されてる領地、だ
後の時代には人頭になるので価値が下がる
チャンネル銀河で大漢風ハジマタな
210 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/10(日) 07:45:38.62 ID:4kGlHq98O
兵馬踊から項羽放火跡見つかったみたいだね
始皇帝は戦は将軍任せで一度も戦場に出てないけど
劉邦は世に出たのは遅いが旗揚げから死ぬまでずっと戦場だったな
>>211 下手の横好きそのものだな
将の将たる器という意味では始皇帝>>>>>>劉邦
いまだに劉邦を戦下手だと思ってるなんて珍しいな
215 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 13:08:33.29 ID:HVJAUxgn0
劉邦って項羽にはほぼ全戦全敗だけど、
項羽以外だとかなりの勝率誇ってるのになあ
宮崎市定が概説書で高祖は戦下手と書いたり
司馬遼太郎が劉邦の負け振りを誇張ぎみに描いたりしてる
影響力の強い人たちが作ったイメージは簡単には覆らない
劉邦の戦ベタのイメージは匈奴に捕縛寸前まで
追い詰められたのがデカイんじゃないかと思うんだが
韓信>>項羽>>冒頓単于>>>>>>>>>>劉邦>>>>>>その他
劉邦には鍾離昧とかを許して部下にする度量がなかったよね
>>213 肝心な点を見逃している。
始皇帝:周りの者は、従わされた。
劉邦:周りの者の多くは、自分の意志で従った。
>>219 季布は許して取り立てたんだから、鍾離昧だって出頭してたら許されたかもしれん
相手が項羽じゃなければ
劉邦も周りを力で従えるはめになっただろうよ
223 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/11(水) 15:07:31.90 ID:zQgu6ecSO
>>221 季布は信頼度MAXの夏侯嬰が間に入ったからな。
一方、鐘離眛は韓信頼った時点で詰み。
224 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/13(金) 22:26:46.85 ID:9tl8RDxL0
漫画キングダムの時代からすぐあとのことなんだよな、項羽と劉邦の時代って。
項羽とか劉邦をどう描くのか、それとも秦の中華統一で終わるのか。
まぁ終わるだろうな。
あれだけ化け物級の軍師とか武将を描いてるけど、結局項羽の下ってことでしょ。
毛部がどうとか李信がどうとか、すべて項羽にぬっころされる哀れな秦武将だもんな。
225 :
100樓的豬:2012/07/27(金) 14:42:32.62 ID:3k5D6Q2g0
100L的豬 洛陽紙貴是因為左都的三都賦熱賣 小日本人就是小日本人 終究不懂中國歷史
呉王劉ビ[ミ鼻]の反乱はなぜ失敗したのか
やっぱり劉ビの作戦ミス!?周亜夫は別に凄いとは思わないが…
それに知力は劉ビは絶対景帝より高いと思う。チョウ錯を斬るとか景帝って馬鹿な人間だあ
227 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/28(土) 16:52:16.60 ID:+x9EV6hIO
確かに景帝が優れてるとは思わないけど、
晁錯を処罰したのは当然の処置。
呉王側は君側の奸を除くという大義名分を失うわけだし、
マジで収束すればめっけもんだし。
呉王の軍は不利になると雲散霧消してしまった。
それは利に釣られてきた奴が多かったのが主要因と言われるけど、
大義名分がなくただの反乱軍でしかないという事実が
呉王側につくのを拒絶させたのも大きいと思うよ。
229 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/03/27(木) 10:37:53.55 ID:Uftly0od0
項羽
230 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
外戚凄い