【^▽^】隋・唐は漢民族王朝か?それとも征服王朝か?【^▽^】

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40清朝のもう一つの顔(中華王朝のみにあらず)
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仏教思想を背景とした国際関係の理念と清朝1
Dalaibaatur

16-18世紀にかけて、東アジア西部のチベット仏教圏諸国では、仏教と仏教の世界観が、漢字文化圏における儒教・中華思想のそれと同様、国際関係を律する理念として機能しました。ひとつの時代ごとに一対の「仏」と「転輪聖王」が出現し、相携えて仏教をもって世界を安寧に導くというものです。具体的には「仏」にはダライラマが、「転輪聖王」にはモンゴル高原の覇者たちや、後には清朝皇帝たちがあてられました。この理念における「転輪聖王」の位置づけは、正しい仏法の広宣に勤める「仏」への奉仕者というもので、中華思想における「天子」とはまったく別物です。

18世紀後半までにチベット仏教圏諸国のほとんどが、軍事・行政など世俗面では清国に征服・吸収されましたが、その後も清朝皇帝は仏法に奉仕する「転輪聖王」のとしての役割を果たし続けました。20世紀初頭、清朝がこの理念を放棄し、漢人に施行していた理念・制度でもって全版図を再編しようと図った時、チベット・モンゴルの離反が開始し、ほどなく清国は滅亡
します。

Yahooより転載
41名無的発言者 :2000/10/21(土) 03:23
この理念においては、ダライラマを中心・頂点とする宗教的ヒエラルヒーに、転輪聖王を筆頭とする俗人権力者(清朝皇帝、チベット・グシハン王朝の皇族たち、その他のモンゴル人領主たち等)が、奉仕(法を聴く・寺院や宗教的権威に寄進する・自身や領民のための法要を行って貰うための費用を寄付)するという図式が見られます。18世紀に入り、チベット仏教圏諸国が次々と解体・再編され、その俗人権力者たちが清朝皇帝に臣属するという現象が進行しますが、皇帝をはじめとする俗人権力者たちによる、この宗教的ヒエラルヒーへの奉仕という図式は揺るぎません。グシハン朝チベット=ハン国に対する1723-24年の征服、解体という事件にしても、ダライラマ領に限ってみるならば、奉仕者がグシハン王朝から清朝に交代しただけ、とみること可能です。ケサンギャムツォが1720年にダライラマとしてラサで即位するにあたり清朝が極めて大きな役割を果たし、また八世以降のダライラマの即位や転生者の認定に深く関与したことは事実ですが、これを「チベットが中国の一部となった」とか「チベットが「中国」に臣属」したいう観点からのみ見るのは、まったく一面的といえましょう。