琉球処分 (りゅうきゅうしょぶん)
明治政府による琉球藩設置から分島問題の終結までをいう。
明治維新にともない、1872(明治5)年、明治政府は〈琉球国〉を廃して〈琉球藩〉とし、廃藩置県に向けて清国との冊封関係・通交を絶ち、明治の年号使用、藩王(国王)自ら上京することなどを再三迫った。
が、琉球が従わなかったため、79年3月、処分官、松田道之が随員・警官・兵あわせて約600人を従えて来琉、武力的威圧のもとで、3月27日に首里城で廃藩置県を布達、首里城明け渡しを命じ、ここに事実上琉球王国は滅び、〈沖縄県〉となる。
華族に叙せられた藩王(国王)尚泰は東京在住を命じられた。
しかし琉球士族の一部はこれに抗して清国に救援を求め、清国も日本政府の一方的な処分に抗議するなど、問題は尾を引いた。
外交交渉の過程で、清国への先島分島問題が提案され、調印の段階まできたが、最終段階で清国が調印を拒否して分島問題は流産、琉球に対する日本の領有権が確定した。
『最新版 沖縄コンパクト事典』2003年3月・琉球新報社発行、2,415円(税込)
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200512281300_01.html 武力的威圧のもとで、日本ではなかった琉球王国に侵攻してきた日本人(大和民族)。
日本人(大和民族=ヤマトンチュ)が沖縄人(琉球民族=ウチナーンチュ)から嫌われるのはこういった歴史的背景が根強く影響している。