南京大虐殺は捏造だけど

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ブリタニカ国際大百科事典

南京大虐殺

日中戦争中、日本軍が南京占領に際して行った中国軍捕虜ならびに民間人に対する集団殺戮・暴行事件。日本軍
による残虐行為は南京入城時の1937年12月13日から15日にかけて最も激しかったが、これらの蛮行は同年11月の
杭州湾上陸以後、翌38年1月まで続いた日本軍による一連の徴発、殺戮、略奪行為の一部であった。中支那派遣
軍司令官松井石根は捕虜の殺害を厳禁していたが、師団あるいは連隊レベルの将校たちが命令をきかず、大規模
な殺害を引起した。それは満州・中国における日本軍の「下克上」現象、つまり、まず既成事実をつくって上層
部の承認を強要するという行動様式の典型的な実例である。この大量殺戮については多くの証人がおり、また中
国人犠牲者と外国人とによる詳細な史料が残されているにもかかわらず、日本の右翼勢力は事件をことさらに過
小視し続けてきた。一部の者は残虐行為が行われたこと自体を否定した。しかし、戦後の極東国際軍事法廷なら
びに中国国内で開かれた各種法廷への提出記録が物語る犯罪行為のすさまじさが確認されている。犠牲となって
殺された人の数を確定することは不可能である。推定値も、多いほうでは法廷での提出記録の30万人から、少な
いほうでは日本の軍事史家・秦郁彦による4万人とかなりの開きがある。しかしすべての証言を勘案してみると、
殺害された人数15万人を下らないであろう。そのほかに4万人の女性が日本軍人の集団暴行を受け、また無数の
食料品や衣料、住宅その他の物資が略奪ないしは破壊された。日本軍部隊によるこの3ヵ月間の蛮行の凶暴性は、
ナチスの強制収容所における残虐性にも比せられよう。大戦後、多くの将兵が本件あるいは同種の犯罪を理由に
処罰されたが、この残虐行為をするなと命じた松井石根が事件の責任を負わされて処刑されたことは歴史の大
いなる皮肉である。その他の高級将校ことに朝香宮鳩彦(あさかのみややすひこ。上海派遣軍司令官)や中島今
朝吾(第16師団長)、あるいは長勇(上海派遣軍参謀)などの下級将校のほうが直接的責任ははるかに大きい。