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名無的発言者:
平凡社 『日本史大事典 第5巻』
「南京大虐殺」
日中戦争で南京占領に際し日本軍によって中国軍民に加えられた大規模な残虐行為。
一九三七年(昭和十二)八月、日中戦争は華北から華中に拡大、日本軍は上海で中
国軍の激しい抗戦に直面し、大きな損害を被った。十一月上旬ようやく中国軍を退
却させると、中支那方面軍(軍司令官松井石根大将)は、指揮下の上海派遣軍(軍
司令官朝香宮鳩彦王中将)と第一〇軍(軍司令官柳川平助中将)を、与えられてい
た任務を逸脱して国民政府の首都南京に向かって急進撃させた。上海戦で疲労し、
凱旋の期待を裏切られた日本軍兵士は自暴自棄となり、補給がともなわず現地徴発
に頼ったこと、中国侮蔑感情や戦友の仇を討つという郷党意識にとらわれていたこ
となども加わって、南京への進撃途上ですでに掠奪・強姦・虐殺・放火などの非行
が常態化する状況となった。十二月十三日、南京占領に際しては、十七日の入場式
に備え、徹底的な掃討を行い、投降兵・捕虜を長江沿岸などで大量に処刑し、多数
の一般市民をその巻き添えにし、略奪・強姦・放火を重ねた。さらに十二月二十二
日、佐々木到一少将が城内粛清委員長に就任、中国兵の狩出しと処刑を続け、三十
八年二月初めに及んだ。犠牲者数については中国側の公式見解は三十万人とするが、
戦闘行為による戦死者を除き、上海から南京へ進撃途中から三十八年二月初めまで
の期間をとれば、十数万人から二〇万人前後に達するとみられる。この事件は「シ
カゴ・デイリー・ニューズ」(一九三七年十二月十五日付)、「ニューヨーク・タ
イムズ」(一九三七年十二月十八日付)などによって報道され、国際的非難を浴び
たが、日本では厳重な報道管制を受け、日本国民は敗戦後の東京裁判によってよう
やくその事実を知らされた。同判決の結果、松井大将が大虐殺の責任者として死刑
に処され、南京での裁判で第六師団長であった谷寿夫中将らが処刑された。