1 :
名無的発言者:
東アジアが手本にした、かつての偉大な中国は何処に行ってしまったのか
中国の教えを継承した日本は発展したのに
何故中国は日清戦争にすら敗れてしまったのか
2 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 13:52:40
【対中国勢力】
法輪功・・・・・共産党による弾圧により分かっているだけでも3500名死亡 共産党からの脱党を呼びかける勢力
ウイグル・・・・弾圧、ロケット打ち上げ失敗により村壊滅 現在漢民族による無差別な暴力に対し反撃をしている
チベット・・・・ダライラマとその宗教弾圧 僧侶を狙撃している動画が出回る
台湾・・・・・・「一つの中国」に対し台湾猛反発
アルカイダ・・・ウイグル人虐殺に対しアルカイダは組織を挙げてアフリカに移住した中国人を報復殺害宣告
インド・・・・・麻生さんによる日印安保締結 印中間は緊張状態
インドネシア・・インドネシアで反漢人暴動が起きた
米国国防総省・・反日なオバマの意向に反し、中国を危険視 日本に対しては愛想を尽かしている
ライス国務長官(最強)・・・中国・朝鮮大嫌い
EU・・・・・・沈黙を維持 オリンピック時にはチベット問題に踏み込むも国内の不景気に対し中国市場に期待感。仏国は日仏安保締結
【中国国内問題】
臓器売買・・・・中国国内で幼児を誘拐し臓器を取り出して捨てるなど問題が起きている
環境問題・・・・深刻化、日本の省エネ技術が需要となるか
深刻な砂漠化・・中国国民が我先にと木を伐採するため毎年川が氾濫、北京一帯の沙漠化が進む
北朝鮮の暴走・・中国が核実験を停止命令を出しても従わない コキントウさん激怒
食料の質の酷さ・チャイナフリーが一般的な言葉となり鉛中毒の深刻な被害もある
ネット規正・・・残念ながら規正しきれていない
低民度・・・・・モラルの低さ、マナーの欠如が問題となる
格差問題・・・・内陸にいくほど格差が深刻
生命の軽視・・・1億国民が死亡しても共産党は意識しないとの米国国防総省の見解。法輪功信者も含め死刑囚の臓器移植が深刻な問題
中国経済・・・・中国政府の2週間に国債札割れ3度という醜態 詳しくは→
http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20090810-02-1401.html
3 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 13:58:23
4 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 14:06:31
作家・評論家 黄 文雄(氏)人民共和国の法律の約80%は日本のものを真似ている。
モンゴル史家・学術博士 宮脇順子(氏)
中国は、江戸末期から近代言語がないので、辛亥革命の時、日本を見習って、中国を近代化しよ
うとした。辛亥革命を起こした中国人は、日本留学組で、(耳で聞いて分かる)共通語がなかっ
たので、日本語で連絡をした。日清・日露戦争から後は、日本の明治時代の教科書を全部、中国
は日本から輸入した。なので、現代中国語というのは日本語に非常に近い。古典中国語と全然違
う。
問題は、日本を見習って日本のような国をつくろうとしたが、天照おおみ神に対して皇帝の子孫、
大和民族に対して中華民族でなければならないとした。 日本人は、とても言葉が統一されてい
て、非常に均質がとれていてまとまりが大変強い、それで日本のように成功するんだったら、中
国も一つの言葉でみんなで一体になってまとまれば、という強迫観念があった。
評論家 石平(氏)
それが漢民族にだけの適用だったらよかったが、(他の55民族にも適用しようとして誤った)
モンゴル史家・学術博士 宮脇順子(氏)
漢民族の中でもいろんな言葉があり書いた言葉が同じということで1つになっていた。 しかし、
耳で聞いてわかる言葉がなかった。それで聞いてわかる言葉として北京語を共通語としたが、北
京語を聞いてわかっても話せない人が地方にはたくさんいる。日本と同じ国民国家と近代化を目
指すのは、非常に難しい。
日本語ほど、”深いい”言葉はない
@ 他の言語では歴史資料や文献、専門書が揃わない
A 他の言語では、単語が少なく、表現の広がりや深さがなく平和的な議論ができない
B 他の言語は、攻撃的な表現が多く、会話が自我の主張の押し付けだけになってしまう
5 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 14:11:26
大紀元 日本と中国の近代
一世紀前の歴史から語らなければならない。
100年前、つまり1909年とその前後の時代である。日本では近代史、中国では現代史と呼ばれる歴史的過渡期であるが、当時の志ある中国人から見た日本は、やや屈折した感情ながらもそれを肯定し、
また自国の近代化のうえで大いに目標としていた国であった。
やや屈折した感情とは何か。
中華の観点からすれば東夷の島国である日本が、40年も早く明治維新を成しとげて近代国家への転換をはかり、大国ロシアに勝利して世界列強の舞台に駆け上がったことに対する羨望と、
近代化に遅れをとり列強に圧迫され続ける自国という、もどかしい現実の間に揺れる憂国の情のことを指す。
中国の現政権下にある学校教科書には、日露戦争に関する記載がない。孫文をはじめとする当時の革命家の多くが新興国・日本に習おうとしていた事実が、今の反日教育に不都合だからだ。
「暗黒」という恐ろしさ
当時はまだ清朝という満州族による王朝が、博物館の展示物のように存在していた。
一方、清朝打倒に奔走する漢人もいた。なかでも和服に日本髪を結い、短剣を胸の前にかざして立つ写真で有名な美貌の革命家・秋瑾(1875〜1907)は、日本でもよく知られている。
雑誌『中国女報』創刊の詞の冒頭で、秋瑾は次のように述べている。
「この世で最も凄惨で危険な二字は、暗黒である。暗黒のなかでは是非の別がつかず、目も耳もはたらかず、人間の世界にあるべき思想も行動もすべて存在しない。暗黒世界の凄惨な状態は、測り知れない危険をはらんでいる。
危険であって危険と知らない、これこそが真の危険であり大暗黒なのである」
秋瑾は、この文章が世にでた1907年に処刑される。秋瑾が叫んだ「暗黒」の恐ろしさは、まさに彼女自身を殺してしまうことになるが、果たして辛亥革命によって1911年に清朝が倒れた後、その「暗黒」も消滅したのだろうか。
問うまでもない。
その「暗黒」に共産主義という外来の憑き物がとりついて、最も恐るべき、巨大な怪物に膨張してしまった。そのため、中国共産党の残酷さ狡猾さは、過去の中国史上のどこにも存在しないほど増幅されたうえ
、なんと百年後の今日まで、消滅せずに続いているのである。
6 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 14:13:44
辛亥革命ってそうだったんだ。。
その頃の中国は今みたいに奪い合ったり騙しあったりしてたの?
7 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 14:14:44
「変わる」ということへの覚醒
「暗黒」のもつ恐ろしさは、たとえ人権が侵害されても「どうせ変わらないだろう」という絶望感が先に立ってしまい、「変わる」という希望を人々に抱かせないことにある。
民衆が暴発的な抗議活動を起こしても、「暴動鎮圧」の名目で武力を投入する中共につぶされてしまうのはそのためである。
中共が恐れていることは「暴動」ではなく、人々の真の覚醒なのだ。
2009年1月、米国第44代大統領に就任したオバマ大統領が、米国初のアフリカ系大統領であったことは、中国人の覚醒にとって重要な意味をもつ。
人種のことを言っているのではない。リーダーは国民の投票によって選ばれるという当然のことを、大陸の中国人に示したことが重要なのである。
「暗黒」から「光明」への天機
8月30日、中国に近い日本で衆議院議員選挙がおこなわれた。
結果は周知の通りである。民主党が圧倒的勝利を収め、政権交代は確実となった。
現在の中国に対して批判的な日本人は、これから日本の政権を担うことになる民主党の対中姿勢を、親中的で甘すぎると言うかも知れない。
しかし、そのことはあまり重要ではない。
実はいま、中共は間違いなく肝を冷やしているのだ。
今回の日本の衆院選を見て、中国の民衆が「政権は変わる」ということに気づくのを、中共は極度に恐れているからである。
しかも日本国民は、暴力を全く用いずにそれをやった。
中国人からすればこれは驚異的なことであり、中共は今後、それら覚醒した中国民衆が「なぜ日本にできて中国にできないのか」と中共に批判の矢を向けるのを、必死にごまかそうとするだろう
8 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 14:17:28
真相を伝えるということ
すべては偶然ではなく、天機によって動いている。
それはもはや百年前のような未消化の歴史の繰り返しではない。中国共産党という「暗黒」が完全に解体され、消滅することはすでに定められた天機なのである。
しかし、私たちには最大の努力をしなければならないことがある。それは、中共が解体される前に、1人でも多くの民衆に真相を伝えて覚醒させ、救済することである。
秋瑾が言い遺した「是非の別がつかない暗黒」を脱し、人々を光明世界へ導くのはまさに今しかない。泥舟が沈んでからでは遅いからだ。
真相を知り、中国共産党の鉄鎖を断ち切って脱党・離脱を表明した人は、まもなく6000万人に達する。
覚醒した民衆の静かな勇気。それを前にして、中共は震え上がっているはずだ。
(了)
9 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 14:17:35
むぅ やっぱり「中国共産党」なんだ・・
「この世で最も凄惨で危険な二字は、暗黒である。暗黒のなかでは是非の別がつかず、目も耳もはたらかず、人間の世界にあるべき思想も行動もすべて存在しない。暗黒世界の凄惨な状態は、測り知れない危険をはらんでいる。
危険であって危険と知らない、これこそが真の危険であり大暗黒なのである」
このあたりの言葉は、まさに古きよき中国人の気がする。
昔はアジアの礎を築いてたのにね。。今の状況はなんとも・・
10 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 14:21:07
前文読んだ鳥肌たった。。
「暗黒」という点について日本人にも当たると思う
民主党が政権とって始めてびびった
それまでは当たり前の様に平和で退屈に日本がつぶれてしまえって思ってた
でも政権がかわってすべてが変わった
思ったのは「もしかしたら中国と日本があかるい未来を作れるのではないか」ってこと
11 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 14:26:16
中国の捏造歴史
http://kkmyo.blog70.fc2.com/blog-entry-303.html 中国の歴史は常に異民族が取って代わった歴史なのです。彼らが主張するような一貫した漢民族
の歴史ではありません。中国大陸としての歴史は存在しますが、中国人の歴史は1912年清朝が
滅び、中華民国建国され、初めて国を意識して今日までのわずか100年くらいの歴史なのです。
何故なら中国には同じ言語と同じ歴史を共有する国民と言うものが存在しなかったからです。
そのために中国政府は歴史を捏造してまで、国民国家化に向けて必死にもがき苦しんでいます。
北から侵入した遊牧民に漢民族が滅ぼされ隋や唐が出現したが、契丹人の遼や、女真人の
金に北半分を占領されてしまう。そして今度は、ジンギスカンのモンゴルに中国全土を征服
されることによって消滅してしまう。その後 明と言う一応中国人の帝國が建てられるが、その後、
満州人の清朝に征服される。
この中国の歴史の事実をながめたとき、彼らが声高に叫ぶ「永久不変の中国」など どこにも
存在していないことが分かります。
常に異民族が取って代わる中国大陸において、古代から共通中国語と言うのは、一度も存在
しなかった。つまり中国人たちは近代になるまで、自分達が話している言葉を書き表す手段が
なかった、自前の文字がなかった。
日本人の誤解は長年読まれてきた漢文にある。日本人は漢文イコール中国語と思っているが、
この2000年間漢文は中国語とはまったく関係が無い。今の中国語と漢文はまったく関係がない。
漢文に書かれている中国や中国人像は、2000年前の中国であって現在ではすでに人種が
変わってしまっています。
漢文に書かれた中国人と現実の中国人に出会った時、あまりの違いにショックを受けるのは
当然です。
12 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 14:26:19
日本人と中国人って凹凸の様にすっぽり収まる性質が無い?
消極的で控えめな日本
積極的ではっきりと主張する中国
経済協力を必要とする国
技術提供を必要とする国
輸出国としての社会的信用
礼儀を重視する国
礼儀を必要とする国
軍隊を持てず国防意識の低い国
軍隊を持ち国防意識の強い国
専門家じゃないからうまくいえないけど、中国が必要とするものと日本が必要とするものの
メリットはうまくかみあっている気がする。
13 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 14:27:45
公共施設のPC使ってる途中なんだが、中国留学生のアホ女が
使ってる最中にPODを差込に来やがった!中国人はみんな
(俺の住んでるマンションでは唾・痰を平気で吐くし・禁煙
と書いてあるところで平気でタバコ吸うしetc.)日本に居る
んだったら、日本の常識守れよ!。
14 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 14:31:20
>>13 で、ちゃんと日本の常識を教えてあげたのか?
15 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 14:33:33
中国は長い歴史の間に、最も尊いものを見失ったのかもね
知り合いが良く言うのね「中国人はいい人だ」
その人は日本人だけど中国が大好きで、よく旅行しては中国の雑貨買ってかえってくる
中国人を悪く言われても、ちゃんと説明してくれる
実際に見る中国人は最初は冷たい態度とられるけど、最初だけだった
後で仲良くなれるって信じてるから今はすごく仲がいい
多少の警戒心は必要だとも思うけどね 多民族国家だし
痛い目にもあったけど それでも嫌いになりきれない
16 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 14:36:22
仮に中国共産党が政権をおわれたとして
中国人は自国にどんな国を思い描くの?
17 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 14:36:46
iza支那の本当の歴史
清は明という漢民族国家を女真民族が滅ぼして成立させた国である。清の時代、漢民族は女真の髪型である弁髪にしなければ死刑になった。
女真風の髪型にしないだけで死刑である。はっきりいえば清の時代、漢民族は女真民族の奴隷状態だった。
日中戦争の日本は、清国を建国した女真やモンゴル帝国を建国したモンゴル民族と全く同じである。唯一の違いは女真やモンゴル民族は中国征服に成功したが
日本は成功しなかったということだけである。
東アジアでは力のある民族が中国の長江周辺(いわゆる中原)を制覇するのは、この地域の歴史的約束事なのである。かつてトルコ人が征したこと
(隋・唐)もあったし、モンゴル人が征したこと(元)もあったし女真が征したこと(清)もあった。これがこの地の掟なのである。
18 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 14:38:07
日中戦争も豊臣秀吉の出兵も東アジアの歴史的掟に従っただけの話である。しかし日本から中原(ちゅうげん)の地はあまりにも遠かった。
私がこのエントリーで一番いいたいことは日中戦争だけを切り取って侵略戦争というのは筋違いだろうということである。中国の歴史は侵略の歴史そのものではないか。
成功したら侵略ではなく失敗すると侵略になるのか?
ちなみに今の中国の歴史教科書ではチンギス・ハーンは中国の英雄として登場する。
実際は中国が朝青龍の母国であるモンゴルの植民地にされてしまったのが本当の話である。
しかしそれではあまりに惨めで歴史の連続性が途切れるので都合のいい発想の大逆転である。モンゴルの英雄チンギス・ハーンを
中国の英雄に仕立てあげてしまった。豊臣秀吉も明を滅ぼしていれば今頃、中国の英雄として中国の歴史教科書に登場していたであろう。
現在の中華人民共和国では人口の92%までもが漢民族らしい。しかしこの92%の人たちの祖先は、つい百年前は髪型を弁髪にしないだけで死刑になった事実上の奴隷の子孫である。
中国はあたかも歴史を一貫したもの、連続性があるものと偽装するが実際の中国の歴史はズタズタである。そもそも隋や唐からして漢民族の国家ではない。現トルコ民族の国家である。
日本で例えるならば江戸幕府は朝鮮人の政権でした。豊臣秀吉はロシア人でした。織田信長はモンゴル人でした。室町幕府は漢民族政権でしたが鎌倉幕府は日本人の政権でしたみたいな話が中国の歴史である。
中国の歴史を考えるとき、国土の歴史、民族の歴史、国家の歴史を明確に分けて考えないと真実は見えてこない。日本では世界の奇跡といってもいいがこの3つがほぼ一致するが中国の場合、全く一致しない。
日本人はそのことを見落としがちだと思う。
19 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 14:42:18
侵略戦争ではないその理由ー文学博士」
日本軍がいたのはシナが外国人を誘致するために設けた共同租界という地区です。租界とは「中国の開港都市で、外国人がその居留地区の行政・警察を管理する組織、およびその地域。1845年イギリスが上海に創設、
一時は八カ国27箇所に及んだ。第二次大戦中に消滅(広辞苑・第4版)」。つまり侵略でも占領でもなく日本企業と日本人を警護するために8カ国のうちの一国として、シナの了承の下で小規模の軍隊を駐屯させていたのである。
そもそも租界地に日本が軍隊を置かなければならなかったのは、シナがその当時は国家としては体をなしておらず、まさに荒蕪の地と言ってもいいくらいで、香港の例でもわかるように沿岸の主要な港はイギリス、
フランスなどの列強各国に完全に抑えられていたという時代背景があった。
日本にとっても上海貿易は欠かせないものでした。長く大阪港が日本で有数の貿易高を上げていて、そのピークは大正14年ですが、大阪港が栄えていたのはすべて上海貿易のおかげです。
日本にとって上海は死活にかかわるマーケットであった。しかし日本は随分我慢をして、武力でマーケットを保持しょうとしたことは一遍もなかった。しかし列強がことあるごとに貿易の邪魔をするに及んで、
『シナと協定を結んで自衛のために出て行かざるをえなかった』ということです。むろん貿易ですからシナ側の利益にもなったのは当然です。
日華事変は北京の南に流れる蘆溝河に架かる蘆溝橋で日本とシナの軍隊が衝突し、やがてシナ全土に戦線が拡大していくのですが、最初に闇討ちを仕掛けてきたのはシナのほうです。蘆溝橋の近くで日本軍が夜間演習をしていると暗闇から銃撃され、
さては国民党軍が撃ってきたのだと判断し、やがて戦闘が始まってしまった。
ところが撃ってきたのは国民党ではなく、もちろん日本軍でもなく、じつはシナ共産党のスパイであったことが今では定説となっている。共産党員の兵士向けのパンフレットに『蘆溝橋事変はわが優秀なる劉少奇同士の指示に
よって行われたものである』と自慢した記述があった。
20 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 14:44:15
間違いなく蘆溝橋事件は毛沢東ひきいる共産党軍の謀略だった。当時の共産党軍は国民党軍との内線に連敗につぐ連敗で、次々と活動拠点が奪われていった。そこでこのじり貧状態を打開するために国民党軍と
日本軍を戦わせて漁夫の利を得ようとしたわけです。
狙いは的中したということになりますが、まもなく一週間ほどで国民党軍も日本軍もどうも様子が変なことに気付いて銃撃戦はいったん沈静化し、日本軍は事件不拡大方針をとり現地協定を成立させる。
しかしそれから3週間後に北京東方の通州という町でシナ保安隊によって、残忍きわまりない手口で、日本人居留民約260人が虐殺される事件が起きた。その『通州虐殺事件』は戦後の教科書はもちろん歴史年表にもマスコミ報道にも出てこない。
まるでタブーのようになっているが、本当にあったことです。これで当時の日本の世論は激怒します。『日華事変の引き金を引いたのがシナ側』であることは明白である。あの『東京裁判』でさえ、この大東亜戦争の端緒でもある
『日華事変を不問にせざるを得なかった』のもこうした事実があったからにほかならない。だから、日華事変に対して日本人は不当な罪悪感など持つ必要はない。とにかく『始めたのはシナ側』ですから、
これは、絶対に言いつづけなければならない。
さらに通州虐殺事件に追い討ちをかけるように、蒋介石の国民党軍は、上海周辺に正規軍10個師団を配置して日本に圧力を加えて挑発し、それに応戦したところ、今度は上空から同胞のシナ人、
そして日本人、欧米人の区別無く、無差別に爆撃、空襲をかけるという暴挙にでてきた。
21 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 14:46:10
>>18 今のネットすら情報統制された中国人民は歴史の歪曲
教科書の歪曲に気づいているの?
気づいた場合、自国をかえようとする気持ちはわくの?
22 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 14:49:44
蒋介石軍の戦いぶりは、およそ近代的戦争の常識や国際法をはずれたものであった。たとえば、「清野戦術」とは、退却に際して、
敵軍に利用させないために民家などをすべて焼き払ってしまうものである。これは、後に南京から撤退する時にも、ニューヨーク・タ
イムズのダーディン記者が目撃・報告しているように、中国軍自体による放火略奪となって現れる。 もうひとつは「便衣兵」で、中国兵が農民に偽装して、日本兵を
背後から襲うというゲリラ戦法である。国際法では正規兵はそれと分かる軍服を着用しなければならない。一般市民を戦闘の巻き添え
にさせないためのルールである。「便衣兵」とは、このルールを破り、人民の背後に隠れて攻撃をする、という不法な「禁じ手」であった。
さらに日本軍を驚かせたのは、「督戦隊」であった。これは戦意
のない兵隊に対して、後ろから機関銃掃射を浴びせかけて、前進し
て戦わなければ、後ろから撃たれるだけ、という状況に兵を追込む
ものである。これでは、兵は降伏もできず、死に物狂いで戦うしか
ない。部下を見捨てて逃亡した唐生智将軍
南京を根拠とする中国軍は、再び、その付近に大軍を集めつつあ
り、江南地方全体の治安を維持するために、日本軍は南京攻略を決
意した。
松井は、南京攻略を全軍に伝えるに際し、「南京は中国の首都で
ある。これが攻略は世界的事件であるゆえに、慎重に研究して日本
の名誉を一層発揮し、中国民衆の信頼を増すようにせよ。特に敵軍
といえども抗戦意思を失いたる者および一般官民に対しては、寛容
慈悲の態度を取り、これを宣撫愛護せよ」と命じた。
特に松井は南京郊外にある孫文の慰霊廟、中山陵を戦火から守る
ことを厳命し、その保全に成功した。
23 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 14:51:22
12月9日に、松井は平和理に南京開城を願って、降伏勧告を行
ったが、すでに蒋介石や他の将軍達は南京を脱出していた。南京防
衛を命ぜられた唐生智将軍も、降伏勧告を無視して、12日、部下
と民衆を置去りにしたまま逃亡した。
正規に降伏する機会も与えられず、見捨てられた将兵達は、パニ
ックに陥って、城壁の前で大勢が折り重なって圧死したり、数千人
の便衣兵が市民を殺してその衣服を奪い,難民区に紛れ込んだ。
南京ではドイツ人ラーベを委員長とする民間人有志による国際委
員会が、安全地帯を設け、難民区としていた。ラーベは、日本軍に
対して、「貴軍の砲兵隊が安全地帯を砲撃しなかった見事な遣り方
に感謝するため、我々は筆をとっております。」と謝意を表明して
いる[3,p386]。
しかし、清野戦術と便衣兵とで疲弊していた日本軍の一部に、
「若干の暴行・略奪事件があった」と憲兵隊から聞かされた松井は、
必要以外の部隊を城外に出させた。18日、中国軍将兵をもあわせ
祀る慰霊祭を執り行い、「これが日中和平の基調であり、自分の奉
ずる大アジア主義の精神である」と声涙くだる訓示を行った。
日本軍により治安が回復すると、民衆も続々と南京に戻り始め、
屋台も出るなど、市はもとの活況を取り戻していった。12月24
日から、1月6日まで続いた住民登録では、5万人の人口増加が記
録されている。[
24 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 14:53:45
>>日本人、欧米人の区別無く、無差別に爆撃、空襲をかけるという暴挙にでてきた。
それが本当なら
「民より政治が優先」の今の中国政府の思想に合致するね・・
この頃には中国の思想は・・・
25 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 15:04:05
ちょっと日本より無い県に見えるから
↓ウィキの抜粋
捕虜・投降兵の虐殺
第16師団長である中島今朝吾中将は、日記において、
「捕虜ハセヌ方針」、即ち捕虜を取らない方針であることを書いている。
この方針に基づいて、南京城内外での掃討で、
中国軍の中の多くの捕虜や投降兵が殺害されたのではないかと見られている。
南京の北方に位置する幕府山では、山田支隊(第65連隊基幹、長・山田栴二少将)が
捕虜約14,000名を殺害したと言われている。山田少将は、
この処置は上部組織からの命令であったことを日記に書いている。
南京北部の下関では、捕虜が収容された後に殺害され長江に捨てられたことが、
日本側、中国側、そして残留外国人の記録や証言に示されている。
第114師団第66連隊第1大隊の戦闘詳報では、
旅団命令によって捕虜を殺害したことが記録されている。
全く無かったわけではないし捕虜約14,000名の殺害は恐ろしいことかな。。
戦争というものを知らない反戦教育をモロに受けてる俺が言うのもおかしいけど・・
ただはっきりいえるのは、中国側の主張を鵜呑みにするわけにはいかないってことかな
かといって「南京大虐殺は無かった!」っていいきることも出来ないと思う
26 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 15:05:15
>>「若干の暴行・略奪事件があった」と憲兵隊から聞かされた松井は、
>>必要以外の部隊を城外に出させた。18日、中国軍将兵をもあわせ
>>祀る慰霊祭を執り行い、「これが日中和平の基調であり、自分の奉
>>ずる大アジア主義の精神である」と声涙くだる訓示を行った
これが美化のように感じるんだけど、その資料は何処から?
27 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 15:05:39
日本軍駐留のきっかけとなったのは、1900年、宗教・政治結社である義和団が、外国人排斥を旗印に北京の外国公館を襲撃したことであった。時の清国政府は傍観した(裏では暴動を煽った)ため、
やむなく日本、ロシア、アメリカ、ドイツ、フランス、オーストラリアなど十一カ国が共同出兵して暴動を鎮圧した。そして翌1901年、各国政府は清国政府と「北清事変に関する最終議定書」を結び
首都の北京に列国公使館区域を設定する(第七条)とともに、中国在住の自国民を守るため、外国軍隊の北京・天津地区における無期限の駐兵を認めさせた(第九条)のである。
更に同議定書の「交換公文」において、各国軍隊には、鉄道沿線において犯罪捜査を行い、犯罪者に対して懲罰権を行使する権限や、清国政府に通告することなく実弾射撃以外の訓練や演習を行う権限も付与された、という解釈が確立されていた。
このように中国政府との合意に基づいて各国は、北京・天津地域を守るため軍隊を駐留させていた。その規模は、盧溝橋事件当時(昭和12年)、イギリス軍一千名、アメリカ軍一千二百二十名、フランス軍一千八百二十名、イタリア軍三百名であった。
居留民が三万三千名に達していた日本の場合、約五千六百名が駐留していた。
当時、日本軍の支那駐屯歩兵第一連隊第三大隊は、北京郊外にある盧溝橋から北西約四キロに位置する豊台に駐屯地を置いていた。この第三大隊第八中隊の百三十三名が七月七日深夜、
盧溝橋周辺の永定河の河床地帯で実弾を使わない夜間演習を行っていたところ午後十時四十分頃、突然実弾射撃を受けた。その後も午後十時五十分頃に二回目の実弾射撃があり、翌日の午前三時二十分頃、三回目の実弾射撃を受けた。
三回もの実弾射撃を受けて、その「犯人」が中国の第二十九軍か匪賊であるかを確かめる為、第三大隊が永定河左岸堤防に向け前進すると、午前五時三十分、永定河左岸堤防に布陣していた第二十九軍が一斉猛射撃を開始し、
日本側も前夜以来初めてそれに応射、ついに全面衝突となった。これが、いわゆる「盧溝橋事件」である。
28 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 15:08:20
中国大陸で、蒋介石が毛沢東を追い詰めて大陸統一を成し遂げる寸前まで行ったとき、中共の罠に嵌まった張学良によって蒋介石総統が「西安で監禁」される事件が起きた。
1936年12月12日のことであった。このときの「事件」を巡る我が国の解釈・認識は甘かった様に思われる。
例えば当時「同盟通信社」上海支局にいた松本重治氏の回想には、「西安事件は兵諫」だとある。つまり、蒋介石に不満を持つ張学良が「武力を持って諫言したのだ」と云うわけである。国民党内の権力闘争という見方なのだろうが、
それがとんでもない方向に進むことを見抜けなかったところが我が国の情報活動の甘さだったと私は感じている。
やがてこれが「国共合作」となり、盧溝橋事件、上海事件、そして支那事変に発展し、昭和20年8月15日を迎える羽目になったBY SATO
29 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 15:13:23
「スターリンの国際戦略から見る大東亜戦争と日本人の課題」
落合道夫著 東京近代史研究所がご参考になるかもしれません。
この本によると、スターリンはゾルゲ以外にも日本政府上層部に
ソ連スパイ(コード名エコノミスト)を持っており、
そのスターリンに宛てた日本政府の真珠湾攻撃計画の報告が
ソ連崩壊後スターリンの手文庫から見つかりました。
これが誰かはソ連専門家の間で大体推察されています。
またゾルゲが日本軍の南下方針を知らせたので、
スターリンが極東軍をモスクワ正面に移動させ、
ドイツ軍を破ったという話も、
スターリンは始からそのつもりでドイツ軍をロシアの奥地
に引きずり込んだのであり、予定の戦略でした。
もしゾルゲがソ連に帰国していれば口封じで処刑されていた
と思われます。彼の諜報部の上司もロシア人妻も処刑されています。
また蒋介石を捕らえて支那統一を止めさせ対日攻撃に転じさせた
のは、中共ではなく、独ソ戦に備えて東部国境の反共勢力の
蒋介石と日本の無力化を狙う、スターリンと見られています。
代償は蒋介石と人質の子息経国の生命でした。
この結果支那統一の五分前と言われた蒋介石は、見当違いの
対日攻撃に向かいました。そして戦後の国共内戦再開では一度逃した好機は二度と訪れず、
国共内戦に敗れ台湾に逃亡したわけです>>
30 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 15:23:52
漢人の地=中華の地を300年間も支配していた満州人の国である清は孫文の辛亥革命によ
り滅び、中華の地は漢人の手に戻り「中華民国」が建国された。辛亥革命のスローガンであ
る「駆逐韃慮・回復中華」「滅清興漢」が達成されたのだ。一方、滅亡した清は、17世紀
の清の建国以降は「封禁の地」として空家にしていた満州人の父祖の地である満州に満州人
の国を再興したいと考え、当時のアジアの唯一強国の日本にサポートを頼のみ、1931年
に満州国を建国した。中華の地の漢人は、昔から万里の長城という国境防衛線を築き、それ
より北の地に住む北方騎馬民族を「北狄」と称していたが、その北狄のうちの一つである満
州人が300年もの間、中華の地を支配していたので、17世紀以降、万里の長城は国境で
はなくなっていたことが、今日の支那大陸の悲劇の遠因となっている。
今の中国共産党は、歴史の真実とはまったく逆の、モンゴルも満州も中国の歴史上の固有の
領土、蒙古族も満人も総て「中華民族」などと言うウソを宣伝している。歴史の真実とは、
元の時代には蒙古族が中華の地と漢人を支配し、清の時代には満州人が中華の地と漢人を支
配していたのである。そうでなければ辛亥革命の「征服者である満州人・清を追い出して漢
人による中華を再興する」というスローガンなど出てくるはずがない。支配されていた漢人
が、今になって満州もモンゴルも中国の領土だと主張することは、まるで独立後のインドが
植民地支配していたイギリスの地はインドの歴史的固有の領土であると主張するのと同じロ
ジックであり、まったく筋が通らないものである。中国共産党が主張している「歴史」とは、
主客逆転した真っ赤なウソなのだ。
31 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 15:24:35
>>11884年 日本を征伐しようとしていた清国。日清戦争前、清国はすでに日本を征伐するための軍略的偵察を行ない、清国駐日大使館随員姚文棟の兵略書『日本地理兵要』(1884年)を作成している。
1885年〜87年 巨文島事件。英国はロシア艦隊の日本海回航を阻止するため、朝鮮南部のこの島を占領し、砲台を築いた。
1899〜1900/ 義和団事件(白蓮教系の宗教団体)。「扶清滅洋」を旗印に、北京の11カ国公使館員4000人を包囲。日(1万人)英米仏露伊独(1万人)が、これを解放した。義和団事変(北清事変)の際、清とロシアは満州を巡って衝突。
6月に義和団が黒河対岸のブラゴヴェシチェンスクを占領したことの報復としてロシア軍は7月、江東六十四屯を襲い占領し、
居住していた清国民少なくとも3,000人以上(資料によっては2万人以上)をアムール川に追い込んで虐殺するという事件が発生した。
以後ロシアが、事件波及の防止の口実で満州を占領し、独占支配と朝鮮日本進出の具体化に着手。ロシアの征服侵略南下は満州まで迫り、侵略港不凍港を得、日本侵略の手はずも整った。
正に日本は風前の灯火となった。
1894年6月 東学党の乱(甲午農民戦争)をきっかけに日本派兵し、日清戦争。日清戦争で陸上戦闘の主戦場となる。
1894年〜95年 日清戦争に日本勝利。下関条約成立。朝鮮が独立国であることを確認。朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止される。
1882年の福沢諭吉の『兵論』によれば、清国の兵力108万に対して、日本はたったの7万8千だった。日本軍艦52隻に対して清国軍艦107隻。世界各国が清国勝利を信じていた。
清国朝鮮独立を確認し、軍費2億テール賠償、遼東半島、台湾、澎湖諸島を割譲、沙市、重慶、蘇州、杭州を交易史上とした。その後、独仏露の三国干渉のため遼東半島を、返還させられた。
32 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 15:26:08
台湾といえば李登輝首相
中国と台湾は思想的にも大きく違い
朝鮮半島と同じく日本軍がインフラ整備したことにより
感謝したことから今の親日な台湾が存在するんだよね?
でも台湾がどうしてそこまで中国を嫌がるのか、
何故広大な中国は長年にわたって台湾当地を目指すのか?
33 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 15:28:58
ダライ・ラマ ウイグル訪問か
34 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 15:31:49
周恩来も、孫文も、蒋介石も、日本に留学してた
支那の偉い人は、みんな日本に留学してるよ
孫文=孫中山=日本留学時代に中山家が気に入ったから
孫文が作った支那同盟会は東京で結成されてる
また、孫文が導入し、以後長らく支那国民の制服となった中山服は、
日本の学生服のデザインを模倣したもの。
蒋介石 日本陸軍士官学校を卒業し、旧帝国陸軍に2年間、勤務。
国民党軍の兵服、歩兵装備は、旧陸軍兵士のそれと酷似してますね。
魯迅は嫁が日本人
日清戦争で負けてから大正時代にかけて
支那人留学生が1万人以上、日本に留学していたわけだが、
その連中は日本語でマルクス主義、共産主義を学び、
支那に帰ってから、支那共産党を創立したわけです。
日本共産党と支那共産党の結党は、ほぼ同時。(1年の差)
国民党軍は、日本陸軍を模倣して作られた。
毛沢東に航空機を与え、空軍を組織し、後の人民解放軍空軍の土台を作った。
そして、日本は今でも、膨大な数の留学生受け容れ、技術支援、経済支援を行っています。
支那共産党創立メンバー13人のうち、初代主席の陳独秀以下
9人が日本留学組。 毛沢東を除く、支那共産党トップは、ほとんどが日本留学組。
極めつけは、支那共産党の祖で、国民党軍を創設した孫文、蒋介石、周恩来
35 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 15:31:59
東アジアの歴史すごいね。。
こうしてみると朝鮮半島独立させて貢物とめさせたの日本やん・・。
36 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 15:34:13
優秀な留学生 大学院生に20万〜30万だっけ
自分優秀じゃないのに苦学生・・。
それじゃー日本国民も反日感情あらわな国民に怒るでしょうが・・。
37 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 15:35:54
1947年 人民解放軍 南京へ侵攻 ”南京大殺戮”起こる。国民党台湾へ退避
1949年 中華人民共和国成立、同年中国はウイグルを侵略
1950年 中国”義勇軍”48万が朝鮮戦争に参戦し国連軍を攻撃 (正規軍である。停戦まで北朝鮮と合わせて100万の損害を被った)
1951年 中国がチベットに侵略し現地民数百万人を虐殺
1958年 大躍進政策始まる。2年間で2000万人が餓死または失脚死
1959年 中国がインドと国境紛争、カシミール地方を占領
1960年 文化大革命始まる・中国国内外で以降粛清・民族浄化及び餓死で6500万人以上が死亡
1964年 東京オリンピック開催中の10月中国はウイグルで初の原爆実験を行う
1969年 珍宝島で中国軍がソビエト軍と衝突 事実上国交断絶
1972年 日中国交樹立 (新しいパトロン
1978年 米中国交樹立 (新しいパトロン
1979年 中越戦争 ベトナムを武力侵略。懲罰戦争と表明
1989年 天安門にて発生した学生による民主化運動を軍隊で強行鎮圧し死者300人以上
米国との武器共同開発停止。武器禁輸制裁発動
1992年 資源埋蔵に目が眩み、南沙諸島と西沙諸島の領有を宣言
1995年 フィリピンの領有してきたミスチーフ環礁を占領
1996年 台湾海峡でミサイル発射し台湾を恫喝
1997年 フィリピンが歴史的に領有してきたスカーボロ環礁に領有権を主張
同年 日本が固有の領土として主張してきた尖閣諸島の領有を主張
2000年 中国の軍艦が日本列島を一周。中国が尖閣諸島付近で日本の領海内の海底油田調査を敢行
2004年 沖ノ鳥島は岩であり日本の領海とは認めないと主張
同年 中国の原子力潜水艦が石垣島の日本の領海を侵犯
2005年 反分裂国家法を制定し台湾に対して武力行使を明言
同年 日本の資源盗掘を開始
同年 低民度集団の暴動により、在中日本大使館が破壊
同年 台湾問題に介入するなら核攻撃を行うとアメリカを恫喝
同年 アメリカが中国の巨大軍事国家化を指摘
38 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 15:38:44
支那事変勃発後の三ヶ月経った昭和12年10月、ピオ11世は全世界、特に極東のカトリック教会に対して「支那事変での日本の直接の関心は共産党勢力のアジア浸潤駆逐に他ならない」として
@日本の文明擁護の意図を支那が諒解する必要のあることを説き、同時に外蒙よりする凶暴なる共産主義の影響を駆逐すること
A共産主義の危険が存する限り遠慮することなく日本を支援すべきこと
B日本軍当局に対しカトリック教会の立場は全然日本との協力にあることを徹底せしめること等の具体的な指令を発出した。
全世界三億三千万のカトリック教徒に君臨するローマ法王庁の右指令に関して朝日新聞は「これこそ我が対支政策の根本を諒解するもの、知己の言、百万の援兵にも比すべきであって、英米諸国における認識不足の反日論を相殺して尚余りあるといふべきである」と絶賛した。
・日中間の戦争において、日本は明らかに被害者だったのだ。
民国樹立から終戦に至る迄の間、中国は多政府の混戦状況から、一日たりとも抜け出すことはできず、そのカオスに日本は引きずり込まれたわけである。
日中戦争の後半は、明らかに日本が支援する南京政府、アメリカが支援する重慶政府、ソ連が支援する延安政府の三つ巴の内戦の様相を呈していた。
そのなかで日本は南京だけでなく、重慶に対しても、内戦の早期終結と、「共同防共」との希望をすてなかった。
日中戦争の本質を客観的に言うならば、中国内戦に対する日本の人道的、道義的介入だったと言うことができるだろう。
だがそれに対してスターリン=コミンテルンは、何としてでも日中戦争の長期化で国民党と日本を弱体化させ、共産党の拡大と日本のソ連攻撃の阻止を行い、
中国で、そしてうまくいけば日本でも、共産政権を樹立させようと狙っていたのだ。マッカーサーが朝鮮戦争を経て、日本が中国で戦っていたのは侵略ではなく、防共の戦いだったと悟った話は有名だ。
日中歴史の真実
39 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 15:39:48
これは厄介、中国の政治ってよくよく見ると
政治と中国国民、少数民族 全部分断されたそぞれ固有の世界が見えてくるね・・。
40 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 15:44:12
>>共産党の拡大と日本のソ連攻撃の阻止を行い、
>>中国で、そしてうまくいけば日本でも、
>>共産政権を樹立させようと狙っていたのだ。
>>マッカーサーが朝鮮戦争を経て、日本が中国で戦っていたのは
>>侵略ではなく、防共の戦いだったと悟った話は有名だ。
これ、今、日本の政治家の一部がスパイ臭いのと関係あるんじゃ・・
41 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 15:46:30
70年前も、コミンテルンは日中間の戦争拡大を、中国国民党内に潜入させた共産分子に指令し、
ついに「盧溝橋事件」で日中開戦に成功した。それでもわが身に危険が迫ることを避けるため、用心深いスターリンは日米間の戦争をけしかけた。
そして、あろうことか、近衛政権はその罠にまんまと嵌り、日本政府は、米国政権内に潜入していた共産分子の手による「ハルノート」で、コミンテルンの思いどうりに「日米開戦」に踏み切った。
その結果、スターリンが喜んだのは当然だが、毛沢東もほくそ笑んだ。そして念願かなって大陸統一に成功する。朝鮮戦争では、何時寝返られるか分からない降伏した「国民党軍将兵」を、
「中国義勇軍」という名目で参加させ、「人海作戦」で米軍の手によって「合法的?」に始末させ、国内の脅威を取り除いた。
42 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 15:49:38
>>37の年表ってさ
戦後中国共産党が虎視眈々と敷いてきたレールに見えるんですが・・・。
43 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 15:50:47
1928 年の張作霖列車爆破事件も関東軍の仕業であると長い間言われてきたが、近年ではソ連情報機関の資料が発掘され、少なくとも日本軍がやったとは断定できなくなった。「マオ( 誰も知らなかった毛沢東)( ユン・チアン、講談社)」、
「黄文雄の大東亜戦争肯定論( 黄文雄、ワック出版)」及び「日本よ、「歴史力」を磨け( 櫻井よしこ編、文藝春秋)」などによると、最近ではコミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている。
日中戦争の開始直前の1937 年7 月7 日の廬溝橋事件についても、これまで日本の中国侵略の証みたいに言われてきた。しかし今では、東京裁判の最中に中国共産党の劉少奇が西側の記者との記者会見で「廬溝橋の仕掛け人は中国共産党で、
現地指揮官はこの俺だった」と証言していたことがわかっている
「大東亜解放戦争( 岩間弘、岩間書店)」。もし日本が侵略国家であったというのならば、当時の列強といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい。よその国がやったから日本もやっていいということにはならないが、
日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない。
我 が 国 は 満 州 も 朝 鮮 半 島 も 台 湾 も 日本本土と同じように開発しようとした。当時列強といわれる国の中で植民地の内地化を図ろうとした国は日本のみである。
我が国は他国との比較で言えば極めて穏健な植民地統治をしたのである。満州帝國は、成立当初の1932 年1 月には3 千万人の人口であったが、毎年100 万人以上も人口が増え続け、
1945 年の終戦時には5 千万人に増加していたのである。満州の人口は何故爆発的に増えたのか。それは満州が豊かで治安が良かったからである。侵略といわれるような行為が行われるところに人が集まるわけがない。
農業以外にほとんど産業がなかった満州の荒野は、わずか15年の間に日本政府によって活力ある工業国家に生まれ変わった。朝鮮半島も日本統治下の35 年間で1 千3 百万人の人口が2 千5 百万人と約2 倍に増えている「朝鮮総督府統計年鑑」。
日本統治下の朝鮮も豊かで治安が良かった証拠である。戦後の日本においては、満州や朝鮮半島の平和な暮らしが、日本軍によって破壊されたかのように言われている。しかし実際には日本政府と日本軍の努力によって、現地の人々はそれまでの圧政から解放され、
また生活水準も格段に向上したのである。
44 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 15:55:32
中国では蒋介石も日本の陸軍士官学校を卒業し新潟の高田の連隊で隊付き教育を受けている。
1 期後輩で蒋介石の参謀で何応欽カオウキンもいる。李王朝の最後の殿下である李垠イウン殿下も陸軍士官学校の2 9 期の卒業生である。李垠イウン殿下は日本に対する人質のような形で1 0 歳の時に日本に来られることになった。
しかし日本政府は殿下を王族として丁重に遇し、殿下は学習院で学んだあと陸軍士官学校をご卒業になった。陸軍では陸軍中将に栄進されご活躍された。この李垠イウン殿下のお妃となられたのが日本の梨本宮方子妃殿下である。
この方は昭和天皇のお妃候補であった高貴なお方である。もし日本政府が李王朝を潰すつもりならこのような高貴な方を李垠イウン殿下のもとに嫁がせることはなかったであろう。
因みに宮内省はお二人のために1930 年に新居を建設した。現在の赤坂プリンスホテル別館である。また清朝最後の皇帝また満州帝国皇帝であった溥儀フギ殿下の弟君である溥傑フケツ殿下のもとに嫁がれたのは、
日本の華族嵯峨家の嵯峨浩妃殿下である。
45 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 15:56:27
動画は出回ってるし 台湾も主張してるよね・・裏はあるね
v=GHV5SY5GK6Y&feature=PlayList&p=6270C402E170924A&playnext=1&playnext_from=PL&index=55
今も昔も日本人は変わっていないのかも
46 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 15:57:55
1966/9 昭和41年私は総統に敬礼してから、「私はかつて閣下にお目にかかったことがございます」と申し上げた。
「いつか。」と聞かれるので「36年(昭和11)の3月、松井石根閣下にお伴して、南京で・・・・」と申し上げた。
松井大将の名を聞くや、蒋介石の顔色が見る見る変わった。
ふるえ声で――「松井閣下には、申し訳なきことを致しました・・・・・」と私の手を堅く握りしめて、むせぶように言われ、眼を赤くして涙ぐまれた。
私は驚いた。一同も蒋総統のこの異様な態度に驚いた。
周知の通り南京戦の直後、蒋は漢口にいてしきりに対日抗戦の声明文を発表したが、〈虐殺事件〉など一言も触れていない。何応欽軍司令官の『軍事報告書』の中にも一行もない。それを東京裁判は、松井大将の責任で20万余を虐殺したと判決して、絞首刑に処したのである。
あれほど支那を愛し、孫文の革命を助け、孫文の大アジア主義の思想を遵奉(じゅんほう)したばかりか、留学生当時から自分(蒋介石)を庇護し、面倒を見て下さった松井閣下に対して何らむくいることも出来ず、ありもせぬ「南京虐殺」の冤罪(えんざい)で刑死せしめた。
悔恨の情が、いちどに吹きあげたものと思われる。
蒋介石は私の手を2度、3度強く握って離さず、目を真っ赤にして面(おも)を伏せた。
周知の通り、蒋はカイロ会議以降連合国首脳会議から除外されて、発言権を失った。代わってスターリンがのさばり、中立条約を破って満州、南樺太に進攻し、北方四島の侵略まで果たした。
蒋は東京裁判関係からも除外され、派遣した梅判事はすでに共産党にくらがえしており、南京事件に対して何らの発言も出来なかったのである。
蒋介石は88歳でこの世を去るまで、松井大将の冥福を祈ったと聞く
47 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 16:01:03
1938/10/ 1938年昭和十三年十月、毛沢東が部下に与えた指令。・・・中日戦争は、わが中国共産党にとって、党勢拡大のための絶好の機会を提供している。
わが党の一貫した政策は、その勢力の70パーセントを党勢拡張に、20パーセントを国民党との取り引きに、残る10パーセントを日本軍に対する抵抗にふり向けることである・
・・1969年8月林彪が編集した『毛沢東思想万歳』の533〜4頁・日本社会党の理論雑誌『社会主義の理論と実践』1964年9月号
ケ小平の日本認識証言 ケ小平は昭和五二年、三橋健次郎元陸将との会談での証言。・・・日本は中国を助けたことになっている。日本が蒋介石を重慶まで押し下げてくれたので、
日本軍の占領地域の後方に拡がり、八年の間に八路軍は120万「1936/10、長征で30万人から2万5千人まで激減していた」に増え、さらに数百萬の民兵を作ることができた。・
・・『中国との友好交流二十年の感想』、三岡健次郎、平成七年、中国政経懇談会
48 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 16:01:57
1938/10/ 1938年昭和十三年十月、毛沢東が部下に与えた指令。・・・中日戦争は、わが中国共産党にとって、党勢拡大のための絶好の機会を提供している。
わが党の一貫した政策は、その勢力の70パーセントを党勢拡張に、20パーセントを国民党との取り引きに、残る10パーセントを日本軍に対する抵抗にふり向けることである・
・・1969年8月林彪が編集した『毛沢東思想万歳』の533〜4頁・日本社会党の理論雑誌『社会主義の理論と実践』1964年9月号
ケ小平の日本認識証言 ケ小平は昭和五二年、三橋健次郎元陸将との会談での証言。・・・日本は中国を助けたことになっている。日本が蒋介石を重慶まで押し下げてくれたので、
日本軍の占領地域の後方に拡がり、八年の間に八路軍は120万「1936/10、長征で30万人から2万5千人まで激減していた」に増え、さらに数百萬の民兵を作ることができた。・
・・『中国との友好交流二十年の感想』、三岡健次郎、平成七年、中国政経懇談会
49 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 16:05:19
うっへ・・・
50 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 16:08:25
外交政策まずってるのが今も昔も変わりなく・・
おもいおこせば60年で早々国民の気質までかわるわけないよね・・・
51 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 16:16:53
歴史の真実は自分の身近にあるのかも
日本人の印象が
・礼儀正しい
・知性
・お金持ち
・働きすぎ
・まじめ
これ見たら、戦中の真実がどうかを探るのは難しいことではないのかも
逆に言うと、今印象の悪い国民は当時もそうだった可能性があるわけだよね・・
日本が悪者にされる必要はないんじゃないの?
52 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 16:23:24
過去を知った上で改めて問いたいのだけど
中国人は今の政権をどうおもっているの?
中国国内で頻繁に起きる破壊活動をどう捉えるの?
景気のV字回復だって発表が鵜呑みに出来ないんでしょ?
今後、少数民族とどのようにやっていくの?
それとも自分たちの生活が脅かされなければいいの?
53 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 16:25:08
iza菅原道真公の遣唐使廃止こそが、日本における大陸政策の根幹だったのだ。まさに国家千年の計だったのだ!
中国や朝鮮半島のニュースはエンターティメント性が高いので、けっこう追いかけている。数年間特亜情報に接し続け、つくづく感じているのは、特亜人と日本人は、根本的に違うことだ。
この違いは、発展レベルの問題で、時間が解決してくれる話ではない。
今の中国や韓国は、3年前の日本でも、5年前の日本でも、10年前の日本でも、20年前の日本でも、30年前の日本でも、50年前の日本でもない。裏を返せば、明治以降の歴史をみても、終戦後の歴史をみても、
日本の歴史に今の中国は韓国と似たようなステージなど存在しない。
特亜人は、あと5年たっても、10年たっても、50年たっても、100年たっても、今の日本人や欧米人のようにはならないのだ。私を含め、多くの日本人はそのことに気がつきはじめた。おそらく。
日本と一番近い韓国は、中国より民主的で、資本主義社会であり、中国より欧米社会との交流密度は高い。しかし韓国は中国よりはるかに世界中で嫌われている。
韓国が嫌われるのは民主主義や資本主義の発展段階とか時間の問題ではないということだ。もっと根本的、本質的な民族の資質にかかわる問題なのだ。時間が解決してくれる問題ではないのだ。
日本は価値観を共有できる人々、お互いを尊敬し合える人々と共存共栄をはかるべきだ。
ピュー・リサーチ・センターが行った日韓中好感度国際世論調査(2008年度)
何年経とうが、どれだけ誠意を尽くそうが、日本と中韓はうまくいかない。日本に限らず世界中どこの国も、中韓とはうまくいかない。とくに韓国は絶望的だ。いまだに豊臣秀吉がどうのといっているので、
あと400年たっても慰安婦問題を謝罪しろといってるはずだ。
54 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 16:28:52
菅原道真公といえば、濡れ衣を着せられ、左遷先の大宰府で不遇のうちに亡くなった話ばかり有名だ。しかし道真公の業績として日本人が絶対忘れてはならないのは、894年9月に遣唐使を廃止したことだ。
日本と中国は、道真公が遣唐使を廃止してから、1871年9月に日清修好条規によって国交が樹立するまで、977年の長きにわたって国交がなかった。
道真公の時代から明治にいたるまで、ほとんど千年間、日本と中国は国交がなかったのだ!!
たしかに平清盛は宋と交易を行ったし、足利義満は明と交易を行っている。しかしそれらは正規の交流ではなく、民間レベルの貿易だった。
日本と中国は古来よりずっと仲が良かったみたいな与太話を平気で語る学者やジャーナリストがいるが、真赤な大嘘だ。
日本は中国と離れすぎないようにはしたが、意図的にずっと疎遠であり続けたのだ。
55 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 16:29:48
「日本人は自分達より優れたものをあっさり認める。そして持ち前の好奇心でその強味を徹底的に調べて学ぶ」。先進文明を取り入れるには謙虚さが必要であるが、それが中国人にはない。
自国の悪には過剰反応し、他国の悪は目に入らない。これはソフトで、清潔で、つつましい生き方、静的で、優しい振る舞いに無条件に価値を見る日本人の社交感覚に対応している。
道徳的に問責されたとき、理に合わないのでこれを拒絶しょうとすれば論争的エネルギーを要する。それは担当官個人の情熱を必要とし、厄介な重荷であり、しかもあまり美しい行動とはいえないと思うのに違いない。
そう考える気質がすべてに先行する。抵抗するくらいなら潔く非を認める方が、身の汚れを清めることに少しでも役立つ。
こうして自己負担も免れられる。罪は分量ではない。小さな罪でも罪である。罪の大小を他国と比較すべきでない。少しでも罪があればその汚れは清浄化され、乱れは整頓されなくてはいけない。
そういう意味では、日本人は身の周辺の秩序のある美感をなによりも大切にしているのかもしれない。しかし独りよがりの、恐ろしい性格といってよいかもしれない
56 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 16:33:02
>>53 それずっと思ってた中韓は自分たちとは違うって。
韓国はまだ常識が通じる分はなしがわかるかもって期待してたけど
根本的な何かが間違ってるから、例えば日本を否定しながら日本の番組、商品を
そっくり真似たり、文化そのものを簒奪したり。
それでも僕は素直に怒る気になれない。自分を基準にするのはおかしいけど
そういう韓国を見てどこかかわいいなっておもってしまう。
依存なのかと考えれば、それもちがうし・・。 韓国人はプライドが高いけど
プライドに見合った行動をしてないのだと思う。
でも韓国以上に中国に対しては強烈な違いを感じる。
肉食的な何か。政権に至っては狡猾さと残忍さすら感じる
まるで同種の共食いを見せられているかのような・・・。
57 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 16:33:10
日本がつくった建物なので壊したいが、歴史的建造物がほとんど存在しない韓国ではもったいなくて壊せない。しかし隠してしまいたい。韓国人は複雑である。しかしやることがバカげている。美意識・センスゼロだ。
韓国人にとってのソウル市庁舎と、中国人にとっての紫禁城(故宮)はほぼ同じ位置づけだ。
自慢したい建物なのだが、ソウル市庁舎は日本人に造ってもらったものであり、紫禁城は女真に造ってもらったものだ。ともに異民族によって建てられた建造物だった。
今中国で、紫禁城(故宮)内で営業しているスターバックスが問題視されているらしい。理由は中国文化を台無しにしているからだという。
「中国文化を台無しにしている」といわれてもねえという感じだ。紫禁城をつくったのは、今の中国人のほとんどの祖先を奴隷扱いした(髪型を弁髪にしないと漢民族は死刑になった!)にっくき女真なんだ
58 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 16:36:39
「天のいつくしみをうける大蒙古国の皇帝が、書を日本国王に奉る。」
「昔から小国の君主で国境を接しているものは・・」
「我が祖宗は、天の明命を受けて天下を領有している。その威を恐れ、徳を慕ってくる遠い異国のものたちは数えられないほどである。」
返書案に見る日本人の気概
蒙古国使が次々と派遣されたために、何らかの返答をするべきとして、実際に草案が作成されたが、文永七年(1270)正月付けのこの文書案にも、
『欲用凶器。和風再報、疑冰猶厚、聖人之書釈氏之教、以済生為素懐、以奪命為黒業。何称帝徳仁義之境、還開民庶殺傷之源乎。』
「(貴国は)凶器を用いたいという。聖人や仏教の教えでは救済を常とし、殺生を悪業とする。(貴国は)どうして帝徳仁義の境地と称して、
かえって民衆を殺傷する源を開こうというのか。」
と記して、まさに武力を背にしての交渉であることを痛烈に指摘している。
「聖人・・・」のくだりは「聖人は四海をもって家となさん。」の文を受けての言葉である。 つづく結びの文章はすさまじい。
『凡そ天照皇太神天統を耀かしてより、日本今皇帝日嗣を受くるに至るまで、聖明のおよぶところ左廟右稷の霊得一無弐の盟に属せざるなし
、百王の鎮護はなはだあきらかに、四夷の脩靖みだるるなし、故に皇土を以て永く神国と号す、知を以て競うべきにあらず、力を以て争ふべきにあらず、
一二を以て乞い難きなり、思量せよ。』
「天照皇太神の天統にはじまり今日に至るまで、日本皇帝の聖明は国の果てまで及んで属さぬものなく、代々の王の徳の護りは行き渡ってどこも乱れるところがない。
ゆえに天皇の国土を昔から神国と言うのである。知をもって競えるものでなく、
力を持って争うことも出来ない、唯一のものであるから、よく考えよ。」
59 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 16:37:55
当時の日本人の思想・気概がよく分かる文章であろう。鎧袖一触の気魄と言うか、まことに勇ましいものがあるが
、古代から幾度も外敵をはねのけて来た日本として、
まして鎌倉武士政権ならではの気骨もあったろう。
返書は実際には送られるに至らなかった。そもその、このような無礼な書に返事などする必要はない、という声が多かったようである。
返書のことは、衆庶の知ることとなり、京都のある僧などは、返書が撤回されるように神仏に六十日間熱烈に祈願した、と記録されている。『正伝寺願文』
『元高麗紀事』至元六年(1269)十一月二日条、『元史』高麗伝至元六年十一月条』
(抄訳―
http://jpnkiryaku.hp.infoseek.co.jp/histo2-3.html「中世日本紀略」サイトより引用。残念ながらこのサイトは閉鎖となった。) 「枢密院は、高麗の征討について協議した。
馬亨と言う者が述べた。『高麗は蒙古に忠誠を誓ってはいるが、本心かどうか。隣国である日本の事情について、詳しくないはずがない。今、日本に遣使するというが、日本が(蒙古の)朝廷の命令を聞かなかったら、
面目を失ってしまう。かといって、日本は島国だから、派兵も難しい。そこで、高麗を併合すべきである。日本を攻めるために道を借りると称して軍勢を送り込み、そのまま併合してしまってはどうか。高麗を直接治め、軍備を調え、日本と南宋を分断するのだ。』
馬亨はまた述べた。『兵を動かして、日本を攻めるべきではない。彼らが地形をたのんで、兵糧を山積みにし、堅く守って動かなかったら、打つ手がない。その点、高麗は扱いやすい。高麗は、日本攻撃の巻き添えを食うことを恐れている。
また(蒙古)朝廷の命令に従わなかった罪もあるので、内心ビクビクしている。彼らが謝罪してきたら、寛大に接することである。為政者を数人呼びつけて、来朝したら、南宋の罪を数えて、その討伐に加担させるべきである。
日本に遣使して親仁善隣の道を説くのも、また同じ意味だ。
南宋を平定してから、彼らに他心が無いか明らかにし、兵を送って平定するというのも、決して遅くはない。むしろ一挙にして両得である。全勝の策である。今すぐに兵を発したりしたら、敵を作るだけのことだ
60 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 16:40:50
清朝の統治は大きく分けて直接統治と間接統治に分かれると言える。直接統治は万里の長城以内の「内地」、そして満洲である。間接統治は蒙古、チベット、ウィグル(新疆)である。
直接統治の中でも内地と満洲は異なり、間接統治地域はそれぞれ統治文化が異なる。多元的構造を国内に持っていたのである。
内地は州県制をしいた。内地人民は満洲族が直接統治する民であり、したがって辮髪が強要された。辮髪をしない者には科挙受験資格がなかった。
満洲は八旗による統治であった。八旗とは満洲族伝統の狩猟、戦時の軍編隊のことである。
モンゴルは遊牧社会に倣った部族ごとの統治が行われた。 チベットでは寺院と貴族による支配が行われた。
ウィグルではイスラム教を中心とした統治が行われている。
清朝の支那世界は内支那と外支那に分かれるということができる。内支那である満洲や内地は基本的には中華王朝社会であり、外支那であるチベットやウィグル、モンゴルは各自の伝統的統治形態にある程度のっとったものが認められたのである。
今、平成二十年の段階でチベットやウィグルには独立運動があるが満洲ではほとんど聞かないのは、満洲族が全支那に分散してしまったからだが、なぜ分散したかと言えば全支那地域の統率者として漢民族とともに内支那を担ったからである。
満洲は全支那を統治したがゆえに今後独立できないとしたらそれは歴史の皮肉としか言いようがない。
61 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 16:43:09
日清戦争に敗れた清朝はその前から行われていた制度改革をより一層進めようとする。日本を模範として、具体的には、近代産業の発達を促す、近代教育制度導入、官僚登用法の改革、警察の導入などである。
そして清朝下で欽定憲法の作成まで検討されていた。近代法体系を備え、選挙、議会、司法や地方自治さえも完備した国づくりを目指したのだ。これを主導したのは康有為らである。
しかし例えば選挙に関しては詳細な戸籍がない(つまり有権者が確定できない)など、体制の不備に苦しんだ。
さらに内地以外の地域にまでこの改革は影響を与えた。満洲では漢人が次々と入植し、内地との一体化が進められた。蒙古は(新議会の)勅選議員に王族が選ばれるなど国政への参与も求められ、
また教育や鉄道の建設なども行われた。
ここでも漢人が入植し、漢語使用が解禁された。チベットでも同様である。チベットは対英紛争も抱えていて、ダライラマ十三世が亡命するなど穏やかな状況ではなかったが、ここでも学校教育で漢語を普及させ、また一夫多妻制や鳥葬が禁止。
儒教が導入され辮髪が強制された。チベットの文化や風俗は「野蛮」で「未開」とされた。
62 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 16:43:32
中韓に共通して日本に無いものは「プライドの高さ」じゃないの?
逆に言えばネラーにもいえるけど「自信の無さの表れ?」
皆、あいて貶めることに躍起になってる・・。
そういいきってしまうと中国には当てはまりそうでしっくりこないけど・・・。
中国には日韓どれにも当てはまらない強烈な何かがありそう
なんだろね・・。
63 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 16:49:00
>>31 清朝はアジアの朝貢関係の継続のため、日本はそれを破壊するため戦争を経なければならなかった。
当時の日本の知識人が「文野の戦争」(文明と野蛮の戦争)と形容したのはそのためである。「文明」とは近代の対等な外交関係であり、
「野蛮」とは前近代の華夷秩序的外交関係のことである。
福沢諭吉は時事新報で「日清戦争は文野の戦争」として次のように言う。
扨日清間の戦争は世界の表面に開かれたり。文明世界の公衆は果して如何に見る可きや。戦争の事実は日清両国の間に起こりたりと雖も、
其根源を尋ぬれば文明開化の進歩を謀るものと其進歩を妨げんとするものとの戦いにして、決して両国の争いに非ず。
本来日本国人は支那人に対して私怨あるに非ず。之を世界の一国民として人間社会に普通の交際を欲するものなれども、
如何せん、彼等は頑迷不霊にして普通の道理を解せず。文明開化の進歩を見て之を悦ばざるのみか、
反対に其進歩を妨げんとして無法にも我に反抗の意を表したるが故に、止むを得ずして事の茲に及びたるのみ。
64 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 17:00:03
>>彼等は頑迷不霊にして普通の道理を解せず。文明開化の進歩を見て之を悦ばざるのみか、
>>反対に其進歩を妨げんとして無法にも我に反抗の意を表したる
これ今の状況そのままじゃないの?
むしろ今のほうが狡猾にすら感じる
65 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 17:07:10
中国ってさ、アメリカとも共通点があるように感じてたんだよね
韓国を「文化を持たない国」として仮に定義すれば彼らの自身のなさと
プライドに矛盾する細部にいたるまでの模倣は理解できるじゃない
アメリカと中国の共通点・・多民族国家? 欧州の相次ぐ戦争を生き抜いた
多様な価値観をもつ徹底した商業主義
中国との大きな違いは微妙な差異はあれど、そこまで大きなものがあるようには見えない
いや。。。モラルの低さか・・
さすがに米国も「人民より政治が優先」なわけがない・・。
国内の内乱、暴動を米国は絶対放置しない
それが問題として大きく帰ってくることを知ってるから。っていうと、、今の中国は
黒人奴隷が盛んな米国との共通点があるんじゃない?
66 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 17:21:02
すごいね、歴史おしえてくれた人たちありがとう
韓国と中国に対する理解が深まったよ
ただやっぱり中国にはまだ疑念が残るかも
あのモラルの低さとそれを多い尽くすような残忍さ狡猾さ・・
あれは平和な生活をしてきた日本人が知る何処の国民性にもあてはまらない。。
67 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 17:40:22
戦後60年 状況は違えど国民性は簡単には変化しない。 歴史が残した文献、書籍に
各国の国民性が伺え、その国の国民性がうかがい知れ、簡単に変化するものではない。
韓国・・・「文化を持たない国」であるが故に他者の文化を簒奪
プライドの高さは自信の無さの表れであり他国の番組 商品を細部に至るまで模倣
中国・・・かつて素晴しい文化・文明を誇り何度となく民族が入れ替わった国。
秋瑾が言い遺した「暗黒」とは中国共産党を示し人々から真実を見る目と耳を奪ったのではないか。
戦時中には既に「民より政治を優先」する気質は存在した。当初より残忍さと狡猾さが存在し
多くの中国の民が犠牲になる。
ロシア・・日米戦争の裏を仕切った国 実態は常に中国の後ろに隠れていて見えないのは
今も昔も変わらない
日本・・・反戦教育でしる日本は残虐性ばかりが目立つものであるが
その実、学校建設、寺院、ダム建設など統治国の産業発展に貢献している
また朝鮮半島の要望により日韓併合したとの言葉が数多くあるも
中韓の言葉の波に飲まれ明るみにならなかった。
国際的な評価は「真面目」「仕事熱心」「知性」「礼儀正しい」「お金持ち」
「世界でいい影響与える国」としてトップである 果たして戦後60年日本は
本当に当時とは違うのか? 中韓の主張が正しければ台湾が親日の理由は当てはまらない
政治的な意図を持って貶められたのではないか?
68 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 18:10:35
諸君 平成15年
天皇は北極星信仰に由来するもので、すでに中国でも1世紀前の6世紀中頃からあり、隋との交渉も推古天皇の時代にされたのであるから、その名が使われてもおかしくない。
「随書」倭國伝は興味深いことを述べている。開皇20年(推古8年、600年)の条で、倭国王が「姓は阿毎、字は多利思比孤、阿輩雉弥と号す」と書かれているのである。
この「阿毎多利思比孤」という意味は「天上世界で満ち足りたりっぱな男子」という意味であり、あめは大野晋氏の言うように天である。また”ひこ”としているので、これは男性である。
阿輩雉弥は天君と読めるから当然、天皇のことである。すると、隋は日本の国王を、天王すなわち天皇である、と理解していたことになる。すでに天皇号は知られていたのだ。
「随書」倭國伝では「日出る処の天子、日没する処の天子に書を致す、恙が無きや」と小野妹子の持参した手紙に書かれており、この「天子」という言葉は、中国「皇帝」と対等の言葉であり、
「天皇」の名が知られていたことがわかる。「日本書紀」に聖徳太子の書簡として「東天皇敬白西皇帝」と書かれており、この天皇が天子に対応することが明らかにされている。薬師如来の銘文にも、
「天皇」の名だけでは使われていないにしても、「天下天皇」とか「大王天皇」と書かれている。もしそれが後代の「天皇」号が使われていた時代のものだとすれば、逆に「天下」とか「大王」とかを入れる必要はないのである。
このことからも、通説では天皇号は天武天皇の頃からと言われるが、7世紀初頭の聖徳太子の時代から使われていたはずである。
北京の中国歴史博物館には、中国と日本の外交関係の立役者である聖徳太子のことが一切展示されていない。阿部仲麻呂や鑑真和上、そして空海の事績は示されているにもかかわらずである。
ある人が博物館関係者に何故なのか聞いたら「太子が皇室の出身であるからだ」という。「皇室は日中戦争で侵略者日本の象徴であるから」といったという。
69 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 18:16:31
中国革命の指導者、孫文の「歴史認識」
ベルサイユ講和会議で、日本は五大国の一員として席に着いた。日本はアジア問題
代弁者だった。他のアジア諸国は、日本をアジアの「先頭馬」として認め、その提案
に耳を傾けた。白人人種にできることは日本人にもできる。人間は肌の色で異なるが
知能に違いはない。アジアには強い日本があるから、白人人種はアジアのいかなる人種
も見下すことはできない。日本の台頭は大和民族に権威をもたらしただけではなく、
アジア全民族の地位を高めた。
孫文 「三民主義」
清国はアロー戦争でフランスに敗れ、ロシアは満州を征服して日一日と
南下政策を続けた。もし日本が北進に努力しなければ、ロシアは必ずや
朝鮮を侵略しただろう。腐敗せる朝鮮王室と両班がどうしてロシアを
一蹴できたであろうか。故に日本の北進は止むを得なかったのである。
日清・日露の両大戦は、日本にとって民族の興亡、国家の存亡を賭した
戦であった。中国とロシアは共に世界の大国である。小をもって大に
抗す、しかも、十倍の大に抗するのである。日本人が気狂いでない限り
、一歩退いて考えざるを得なかった処であろう。「前進は生路あり、後退
は絶路である」ということを彼らは極めてよく承知していたのである。
「止むを得ざる日本の北進」 中国の国士、戴天仇
名越ニ荒之助著「日韓2000年の真実」国際企画より
70 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 18:23:05
・日本が開国後、海外侵略を国是としていたとする歴史認識は正しくない。あくまでもアジア保全のための戦いを、ただ一国で戦っていたというのが正確なところだろう。
・中国も朝鮮も、日本に協力しないどころか、西洋化を進める日本を蔑み、ロシアと提携してでも日本の努力を妨害しょうとしたのである。その結果が『日露戦争』である。
この戦いも、それに先立つ日清戦争も、朝鮮が独立国となって近代化、富国強兵化を行い、ともにアジア防衛に乗り出そうと求める日本に、清国が妨害した結果、発生したものである。
アジアを守るため、まずアジア諸国と戦わなければならなかったのが、日本の悲劇だった。
・孤軍奮闘の日本は、台湾、朝鮮、そして満州を自ら経営しなければならなかった。これら要衝を獲得することは、日本が列強と対抗する上ではどうしても必要だった。
こうした地域が中国の支配下にある限り、やがては西洋列強に奪い取られ、アジアはもとより日本の存立すら危うくなる恐れが強かった。そこに搾取すべき地下資源や人口がどれほどあるかは問題ではなかったのである。
これが日本の「侵略戦争」「植民地支配」と呼ばれるものの動機であり、実相である。やがて中国自体が英米、あるいはソ連の『傀儡』となっていった。日本はそれまでに独自に築きあげてきた、
いわば「アジア防衛」の陣地である満州、あるいは中国における権益を守るため、支那事変を戦い、その延長として大東亜戦争へと突入していった。
71 :
名無的発言者:2009/09/06(日) 18:35:16
アーノルド・J・トインビー英国歴史学者
第二次大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大なる歴史を残したと言わねばならない。
その国々とは、日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。
日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去二百年の間に考えられていたような、不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。
(1965年十月二十八日、英紙「オブザーバー」)
英国最新最良の戦艦2隻が日本空軍によって撃沈されたことは、特別にセンセーションを巻き起こす出来事であった。それはまた永続的な重要性を持つ出来事でもあった。
なぜなら1840年のアヘン戦争以来、東アジアにおける英国の力は、この地域における西洋全体の支配を象徴していたからである。1941年、日本はすべての非西洋国民に対し
、西洋は無敵でないことを決定的に示した。この啓示がアジア人の志気に及ぼした恒久的な影響は、1967年のベトナムに明らかである。(昭和43年三月二十二日「毎日新聞」)
・マハティール
「東アジア諸国でも立派にやっていけることを証明したのは日本である。そして他の東アジア諸国は、あえて挑戦し、自分達も他の世界も驚くような成長を遂げた。
東アジア人は、もはや劣等感にさいなまれることはなくなった。いまや日本の、そして自分達の力を信じているし、実際にそれを証明して見せた。
もし日本なかりせば、世界はまったく違う様相を呈していただろう。富める北側はますます富、貧しい南側はますます貧しくなっていたと言っても過言ではない。
北側のヨーロッパは永遠に世界を支配したことだろう。マレーシアのような国は、ゴムを育て、錫を堀、それを富める工業国の顧客の言い値で売り続けていただろう」
72 :
名無的発言者:2009/09/07(月) 01:25:39
話として辻褄が合うよね・・。
当時の日本が立ち上がってなかったら、今頃日本も
貧しいロシアの政策で更に貧しい国に・・。
ロシアと中国に挑み勝ち続け
「官僚たちの夏」みたけぢ米国の内政干渉に産業が潰されるも
着実に発展して世界最大の地位を築く
思えば日本ってすごいんだなって・・。
アジアを守るための戦争が中韓から嫉妬を買い歪曲された歴史が世界認識になってしまう
中韓の主張が本当に正しいなら台湾側の主張が当てはまらなくなる
73 :
名無的発言者:2009/09/07(月) 11:42:00
74 :
名無的発言者:2009/09/07(月) 18:00:21
もちろん友好国台湾は、シナの侵略から守らないといけません
その為にも日本は集団的自衛権の憲法解釈を変えるべき
76 :
名無的発言者:2009/09/07(月) 21:42:27
77 :
名無的発言者:2009/09/08(火) 22:15:32
中国人を信用するな 彼らは日本に技術を盗み
隙を見せれば私物をも盗み出す
領土も資源も平気で盗む国だからな
79 :
名無的発言者:2009/09/09(水) 08:26:35
昔っからそういう盗賊でなりたってた国だからね
民族どころか家族といえども疑いあい、騙しあうような国
だから、台湾人本気で中国嫌ってるんだよ
80 :
名無的発言者:2009/09/09(水) 08:32:48
中国人が嫌われる7つの理由 在日台湾同郷会
■1:自己中心的
中国ほど人種差別の激しい国は無い。彼らは自分も民族以外に「虫」「獣」の名をつけ
特に日本人にたいする差別意識が強かった
彼らにとって世界は自分達優れた民族を中心に回っているのである
初代総税務司のN・レイに至って約束を何度も反故にし蔑称を与えてくる中国人を
「アジアの野蛮人」と呼んで軽蔑した
■2:ご都合主義
自己中心主義の国民が集まる国家は実にうまく本音と建前を使う
人治国家の中国では、法はあっても自分の都合で利用したり、
無視したりするのが通常である。したがって、朝令暮改、
契約反故などが頻繁に起こり、たいていの日本人は中国人の独断にふりまわされる
■3:独善
中国人には強烈な勧善懲悪の倫理意識があり、自分の敵は死後もその墓を暴き、
屍にむち打ち、魂まで食らおうとする。人は死しても安らかに眠ることができないのである。
しかも信仰の自由はなく、国内で邪教とされた宗教は徹底弾圧される
アメリカ、ドイツ、デンマークなどの中国に対する人権侵害決議に対しても強烈に批判する偏った勧善懲悪主義である
>>続く
81 :
名無的発言者:2009/09/09(水) 08:33:38
■4.責任転嫁
「悪いのは全部他人で、成果は全部自分のおかげ」という責任転嫁と
絶対無謬の独善意識が中華思想の真骨頂である。
急激な経済開放のために強盗殺人、賭博、麻薬密売、買売春、人身売買、
詐欺、迷信など、「六害」「七害」と呼ばれる凶悪犯罪が横行。
それすらも「資本主義の精神汚染」だと決めつけ、「社会主義新文明を創造せよ」
と呼びかけ、党大会のたびに決議などしている、
「自分の非は決して認めない」それは人のせいにする習性があり
自分に害がないようにするしか生き残れない競争社会だからだ
■5:人間不信
中国人は「詐の民」である。 親子兄弟関係ですら騙しあう人間不信国家であり
中国人の生活は上から下まで騙しあっているのである。
それ故、世界中で中国の詐の商品が出回り 中国人を良く知る台湾は彼らを軽蔑するのである
■6:土匪国家
戦後日本人が台湾から追い出され変わりに200万の中国人がやってきて鍵をかけずとも平和だった台湾で
犯罪が横行した。台湾では「中国人を見たら泥棒と思え」という教育を親がするようになった。
マカートニーは、『奉使記』の中で中国の沿道には乞食と盗賊ばかり目立つと記している。
中国は歴史の遥か昔から略奪強盗行為を繰り返していたのである
■7:危険な「友好」
「友好」の解釈権がもっぱら中国の側にあり、中国の規定する「友好」
におとなしくついていかなければならないからだ。
実は中国が「友好」を語るとき、ことに相思相愛を語るときが最も危険なのである。
中国との「友好」は、すなわち彼らの独善的な価値観を全面的に受け入れることでしかない。
日本人は中国がたたみかけてくる友好の嵐に翻弄され、
身も心も傷つき果て、やっと日中友好の愚かしさに気づくのである
汚職大国シナの実態
「大きくなったら汚職公務員になりたい」――。入学式でそんな夢を語った6歳の少女が中国メディアの
話題の的になっている。地方紙「南方都市報(Southern Metropolis Daily)」が4日伝えた。
テレビで放送された「将来何になりたいか」をたずねたインタビューの中で、
多くの子どもたちが「教師になりたい」「まだ分からない」などと
答えるなか、この少女は「大きくなったら公務員になりたい」と答えた。
「どんな公務員になりたいの?」と聞かれると「汚職する公務員よ。
だってものをいっぱい持ってるんだもん」と返した。
http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2637801/4535808
>>1 優秀な子孫はみんな日本列島に移住したから。差が出るのは当たり前。
84 :
名無的発言者:2009/09/11(金) 21:01:00
85 :
名無的発言者:2009/09/12(土) 13:10:52
これほど短期間で経済発展した国(中国の事)も珍しいね。というか凄いね。だってこの国って毛沢東時代は
金があっても券(引き換え券)がなければ物は買えなかったみたいだし、その後も
券がなくてもお金だけで物が買える時代が到来はしたけど、肝心の物がないから、
買いたくても、買えなかったみたいだし、今みたいに、金があれば、何でも買えるように
なったのは、まだ10年か15年ぐらい前からだっていうのに、今の上海の
あの町の風景を見ると、あまりの発展の仕方に驚くね。
写真で見たけど、東京も負けてるわ(外観だけなら)
ただ、中の建築方法は、結構手抜きが多いって話も聞いてるから、色々問題も
これから出てくるかもしれないけどね。
あとネットなんかでもハッキングしたりするのも中国人が多いって言うし、
日本のキャッシュカードの情報をパクッたりする機械を作ったのも中国人だって
聞いてるし、あいつら頭はいいよね。まあ中国人だから頭がいいというより、
人口が圧倒的に多いから、確率的にも優れた奴が出現しやすいのかもしれないけどね。
86 :
名無的発言者:
昔から個人では優秀なのがいても必ず頭のおかしい香具師もいて
国を混乱に導くのが中華クオリティ
入国の際にシロとかクロと判別できれば問題ないんだけどね
1人だと龍でも3人だと豚でしたっけ