南京大虐殺は無かった!日本兵の証言が大嘘の理由5

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322名無的発言者
スレ立てられんかったので、勝手に貼らせてもらうぞ。


歴史研究家(女性)による記事ソース長文です。

『日本・世界の再生』・歴史に学ぶ WR2267日中戦争の問題点を検証する66号060324岡崎
http://world-reader.ne.jp/renasci/history/okazaki-060324.html

−1937年(昭和12)7月29日午前4時、冀東(きとう)保安隊による日本人虐殺事件が発生した。
昭和8年の熱河作戦で関東軍は長城を越え北京・天津にまで迫り、
支那と塘沽(タンクー)停戦協定を結んだ。これにより国民党および中央軍を華北から締め出し、
この非武装地域に冀東防共自治委員会(冀は河北省の意味)を擁立、支那駐屯軍の監督下とした。

尚、グロ文章があるので注意。これより続きを貼る。
323名無的発言者:2006/03/26(日) 15:50:05
>>322の続き

第66話 通州虐殺事件

1937年(昭和12)7月29日午前4時、冀東(きとう)保安隊による日本人虐殺事件が発生した。

昭和8年の熱河作戦で関東軍は長城を越え北京・天津にまで迫り、支那と塘沽(タンクー)停戦協定を結んだ。
これにより国民党および中央軍を華北から締め出し、この非武装地域に
冀東防共自治委員会(冀は河北省の意味)を擁立、支那駐屯軍の監督下とした。
委員長は日本に留学し、孫文らとともに中国革命同盟会のメンバーであった殷汝耕(いんじょこう)である。
早稲田大学を卒業し、親日派の巨頭として目されていた。1935年(昭和10)11月に
土肥原賢二に誘われる形で冀東防共自治政府の成立を宣言、政務長官に就任する。
通州事件のあと冀東政府は崩壊し、汪兆銘・南京国民政府に吸収併合される。

それに対し蒋介石は宋哲元を委員長とする冀察政務委員会を成立させた。
冀は河北省、察は河北省の西となりの察哈爾(チャハル)省をさす。宋哲元は蒋介石の直系ではなく、
反蒋戦争を起こし破れたこともある地方軍閥である。彼は日本軍側と南京政府の間で、
双方の顔色をうかがっていた。しかし、広安門事件で蒋介石側についたことが証明された。
冀察政権を支えていた軍事力は第29軍で、軍長は同じく宋哲元である。
第29軍は、4歩兵師・2独立旅・1騎兵師・1特務旅など兵力は10万。

冀東自治政府は付近から雑兵を掻き集めて、一応、9千人の「保安隊」を組織していた。
日本は自治政府が親日であることを信じて疑わず、保安隊の軍事訓練まで施していた。
通州ではたまたま事件前夜まで、南宛に向かう萱島連隊が通州を兵站基地として、
盧溝橋事件十日後から駐屯していた。だから居留日本人は二重に安心していたのだ。
しかし通州には張慶餘が率いる第一総隊と張硯田が率いる第二教導総隊、
合計で三千の軍が野砲で武装して駐屯していた。

ところが実際には張慶餘と張硯田はひそかに宋哲元に服従していた。
しかも保安隊のほとんどは血気にはやる18歳から20歳くらいの青年であり、
南苑戦闘にかんしては支那側が勝ったとのラジオ・新聞の逆宣伝を信じて興奮していた。
324名無的発言者:2006/03/26(日) 15:51:52
>>322 >>323の続き

非戦闘員の日本人男女を対象とした虐殺はすざまじいものなので、
私は真実を知らせるために書きますが、以下は心臓の悪い人は読まないで下さい。

三千人の通州保安隊が日本軍守備隊兵営を包囲し、日本人商店、旅館、民家を急襲した。
当時、第2連隊が出発したあとの通州の日本軍兵力は、藤尾心一中尉指揮の守備隊約40人、
兵站司令官・辻村憲吉中佐が指揮する自動車中隊(山田正大尉)約50人、
そのほか憲兵、兵器部員など約20人、計約110人にすぎなかった。

襲撃はまず特務機関、警察分署、旅館、出張所、食堂、民家、ついで守備隊など、
日本人の所在地にたいして、いっせいにおこなわれた。政府庁舎も襲撃を受けたが、
殺害されたのは日本人顧問3名と拓殖大学2年生の亀井実の日本人4人だけである。
政府主席・殷汝耕の部屋には一兵も入らなかった。特務機関ではガソリン罐が被弾して火災が発生した。
機関員たちは脱出した。巡査部長・日野誠直と石島戸三郎ら5人の巡査と
その家族が住む警察分署でもほぼ全員が殺されていた。
ただ一人、巡査・浜田末喜夫人・静江だけが生き残った。押入れに隠れて布団をかぶり幼い子供2人を抱きしめていたが、
長女洋子が泣いたので、気づいた保安隊員が手榴弾を押入れに投げ込んできた。
爆音とともに押入れの襖は吹き飛び、破片は、泣き声を止めるために左腕にかかえて
乳首をふくませていた長女洋子を切り裂き、血と肉片を夫人の顔に吹き付けた。
別の破片が長男満洲男の大腿部の肉もえぐりとっていた。
「痛いよう、痛いよう」保安隊員は泣く満洲男をひきはなし、静江の右脇下を銃剣で刺し、
部屋中を略奪したのち、夫人を追い立てて北門内の女子師範学堂に連行した。
静江は女子師範学堂からスキをみて脱出し、自宅に帰ったが長男は絶命していた。
325名無的発言者:2006/03/26(日) 15:53:09
>>322 >>323 >>324の続き

通州の日本人385名のうち、幼児12人を含む223人が殺され、
そのうち34人は性別不明なまでに惨殺されていた。ようやく難を免れたのは、
教会に逃げ込み、支那服で変装し、例外的な日本に好意的な支那人にかくまわれた、162名だけであった。
このなかには朝鮮人もいた。当時は朝鮮半島出身者も日本人としてカウントされていたので、
中国側も朝鮮半島出身者は日本人同様に見なしていた。そして、体力のある人たちは逃走した。

『東京裁判却下未提出辯護側資料』第三巻に収録された
外務省情報部長の公式声明(八月二日)と同部長談話(八月四日)。

『支那人は婦女、子供をも共に、全日本人を虐殺せんと企てた。婦人の多くは掻きさらわれて、
二十四時間虐待酷使された後、東門の外で殺されたが、其処まで連れて行かれるには手足を縛られ、
或は鼻や喉を針金で突き通されて、曳きずられたのであった。死骸は近くの池にぶち込まれ、
或る者は強力な毒物をぬりつけられて、顔がずたずたになっていた』

これは、戦時国際法にたいする重大な違反であった。外務省情報部長は事件から四日を経て、
公式に支那兵の日本人虐殺・強姦・掠奪を批判したのである。
東京裁判にも、弁護側からこの公式声明が提出された。しかし、理由の提示なきままウェッブ裁判長は却下している。
「通州虐殺」は連合国にとり、触れて欲しくない問題であったからである。
加害者としての日本を一方的に裁くのが目的であり、検事が同情を寄せる事例はすべて却下された。

2日後に駆けつけた日本軍守備隊に無事に保護されたのは日本人77人、朝鮮人58人だけであった。
殺害された日本人、朝鮮人はただ殺されたのではなくて凄惨な手口で殺害されていて、まさしく虐殺であった。
326名無的発言者:2006/03/26(日) 15:54:02
>>322 >>323 >>324 >>325の続き

命からがらこの通州から逃れた同盟通信記者はこう証言している。
宿舎のホテルに乱入して来た保安隊の中国人兵士によって日本人は縛り上げられ、
「決して危害は加えないから安心してついて来い」と引き立てられていった財政庁には
同様にして連れて来られた100人ほどの日本人、朝鮮人がいた。
すると突然、保安隊は100人の民間人へ無差別射撃を行い、次々に倒されていった。
記者は運よく弾が当たらなかったので、城壁をよじのぼってそこから川へ飛び込み、通州脱出に成功したのだった。


別の旅館「錦水楼」に宿泊していた『同盟通信』特派員・安藤利男の証言。
当時宿泊者は私を含めて男女19人いた。襲撃者は、はじめは黒服の学生らしい一団であった。
安藤ら11人の宿泊者が二階の天井裏に潜んでいると、学生団は玄関横の押入れに
隠れた女中4人を拳銃で射殺し、一、二階を略奪してひきあげた。
つづいて保安隊があらわれ、同じく略奪をしていたが、安藤らを発見し、
所持金を奪われ数珠つなぎにされて外に連れ出された。

時刻は正午ごろで、一行は、北門の女子師範学堂に近い城壁に連行された。
「槍斃場」すなわち銃殺場に連行され城壁の前に並ばされて処刑を受ける寸前、
後ろ手に縛られた縄を両手のツメでひきちぎり、崩れた城壁部分をかけのぼって壁外に転がり落ちた。
溝を泥水にまみれて渡り、高粱畑に逃げ込んだとき、
背後に残る十人を射殺する銃声が響いた。安藤はその後必死で逃げ回り、8月1日に北平にたどり着く。

『極東国際軍事裁判速記録』第五巻によれば、萱嶋は救援のため通州に急行した天津歩兵隊長及び
支那駐屯歩兵第二連隊長で、7月30日(事件の翌日)午後4時、現地に到着した。次はその萱嶋連隊長の証言である。
327名無的発言者:2006/03/26(日) 15:55:50
>>322 >>323 >>324 >>325 >>326の続き

『城内は実に凄惨なもので、到る処、無惨な日本人居留民の死体が横たわって居りまして、
殆ど全部の死体には首に縄がつけられてありました。

頑是なき子供の死体や婦人の虐殺死体は殆ど見るに耐えませんでした。
その記録は今日ありません。従って私は私の目撃したことを主として、記憶を辿り、左に陳述します。

然しそれは余りにも残酷でありましたので、私は一生忘れることの出来ない印象となって頭に残って居ります。
旭軒とか云う飲食店を見ました。そこには四十から十七、八歳迄の女、七、八名は皆強姦され、
裸体で陰部を露出した儘、射殺されて居りました。其の内四、五名は陰部を銃剣で突刺されていました。(略)

家の内は家具、布団、衣類等、何物もなく掠奪されていました。

男の子一人が足を掴まれてさかさまに壁にうちつけられ、頭骨を粉砕されて殺された。

其の他の日本人の家屋は殆ど右同様の情態でありました。錦水楼と云う旅館は凄惨でありました。
同所は危険を感じた在通州日本人が集まった所でありましたものの如く、大量虐殺を受けております。(略)

錦水楼の女主人や女中等は珠子繋ぎにされ、手足を縛られた儘、強姦され、遂に斬首されたと云うことでした』

桂鎮雄(元陸軍少佐)が証人台に登った。桂は事件に際し救援に通州に
派遣された第二連隊の歩兵砲中隊長代理で、7月31日午前2時半、現地に到着していた。

『錦水楼の門に至るや、変わり果てた家の姿を見て驚くと共に、死体より発する臭気に思わず嫌な気持になりました。(略)

次に帳場配膳室に入りました。ここに男一人、女二人が横倒れとなり、
或はうつぶし或は上向いて死んでおり、ここの屍体は強姦せられたか否かは判りませんが、
闘った跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ、上半身は蜂の巣の様でありました。
328名無的発言者:2006/03/26(日) 15:56:53
>>322 >>323 >>324 >>325 >>326 >>327の続き

私は一年前に行ったことのあるカフェーへ行きました。扉を開けて中へ入りましたが、
部屋は散乱しておらず、これは何でもなかったかと思いつつ進んだ時、
一つのボックスの中に、素っ裸の女の屍体がありました。これは縄で絞殺されておりました。
カフェーの裏に日本人の家があり、そこに二人の親子が惨殺されて居りました。
子供は手の指を揃へて切断されておりました。

南城門の近くに一日本人の商店があり、そこの主人らしきものが引っぱり出されて、
殺された屍体が路上に放置されてありました。これは腹部の骨が露出し、内臓が散乱して居りました。
凄惨な虐殺現場の目撃証言であった。

最後の証人としてレヴィン弁護人が喚問したのは、桜井文雄(元陸軍少佐)であった。
桜井も7月30日、連隊主力とともに入城し、虐殺の模様を詳しく垣間見た支那駐屯歩兵第二連隊小隊長である。

『先ず守備隊の東門を出ますと、殆ど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横はって居るのを目撃し、
一同悲憤の極に達しました。敵兵は見当りませんでしたので、夜半迄、専ら生存者の収容に擔りました。
「日本人は居ないか」と連呼し乍ら、各戸毎に調査して参りますと、鼻部に牛の如く針金を通された子供や、
片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等が、
彼所此所の塵、埃箱の中や、壕の内、塀の蔭等から、続々這い出して来ました。

某飲食店内には一家悉く皆首と両手を切断されて居るのを目撃しました。
婦人と云う婦人は十四、五歳以上は悉く強姦されて居りまして、見るに忍びませんでした。
旭軒と云う飲食店に入りますと、そこに居りました七、八名の女は全部裸体にされ、
強姦射(刺)殺されて居りまして、陰部に箒を押込んである者、口中に土砂を填めてあるもの、
腹部を縦に断ち割ってあるもの等、全く見るに堪えませんでした。

東門の近くの朝鮮人商店の付近に池がありましたが、その池には首を縄で縛り両手を併せて、
それに八番鉄線を通し(貫通)一家六名数珠繋ぎにして引廻された形跡、歴然たる死体がありました。
池の水は血で赤く染って居たのを目撃しました。 あまりにも残虐な虐殺法であった。しかし、これは古代支那から続く戦法であった。
329名無的発言者:2006/03/26(日) 15:58:03
>>322 >>323 >>324 >>325 >>326 >>327 >>328の続き

支那には残虐な刑罰が最近まで存在していた。切り刻んで殺害するのを『凌遅(りょうち)』といい、
できるだけゆっくりとした速度で人間を処刑するのである。最も残酷で非人道的な刑罰である。

3人の執行人が立会い、3人の執行人の役割は、1人が肉をつかむ役、もう1人がその肉を削ぎ取る役で、
残りの1人は判決文の「この者は何回切り刻め」と書いてある回数まで、罪人が死なないように止血をする。
一刀ごとに肉を切りそいでゆき、ほぼそぎ終わったところで腹を割き、
首を断ち、受刑者の命を奪う。5世紀の南北朝時代からあった刑罰である。

モンゴルが支配した元代では120刀の肉そぎであったが、漢民族の明代では3357刀に切り刻んだという記録がある。
異民族や国事犯や、なかには姦淫した女にも適用された。

通州事件でも「上半身が蜂の巣のようになっていた…」とあるのは、この凌遅である。
1905年(光緒31・明治38)にあまりにも残酷なので凌遅死刑が廃止され、
「これを永遠に削除して、すべて斬首に処す」とされた。

「眼球をくりぬかれた…」とあるのは、?眼(あつがん)とよばれる酷刑である。
のみでえぐりだしたり、肉を刺す竹串で突き刺し、小刀でえぐりだす。

手の切断は断手(だんしゅ)とよばれる。残虐な2人の女帝が行ったことが歴史上有名である。
漢の高祖劉邦の亡き後、呂后が戚夫人の両手両足を切り厠に放り込んで「人豚」となづけたことがある。
唐の則天武后が夫の高宗の寵愛する王皇后と蕭淑妃にムチ打ち100回ののち、
両手を切断して酒の甕に入れた。モンゴルのフビライは、断手はイスラム教の刑罰であるとして、行わなかった。

330名無的発言者:2006/03/26(日) 15:58:58
>>322 >>323 >>324 >>325 >>326 >>327 >>328 >>329の続き

腸の引きずり出しは「抽腸(ちゅうちょう)」とよばれる酷刑で、春秋時代からあった。
明の太祖朱元璋は死刑囚に自らこれをおこなった。
洪武帝(朱元璋)はもともと盗賊あがりの猜疑心の強い、残虐な性質であった。
彼の在位期間に一万人以上の処刑者を出した疑獄事件は、5回もある。
酷刑が明代に非常に多いのは創始者の影響かと思えるくらい知識階級を弾圧している。

女性器に杭を打ち込むのは、たくいんとよばれる。支那人や朝鮮人の暴行はよく女性に対してこれを行う。
罪を犯した女性の生殖器の「筋をてっきょ」する、
すなわち雌の馬や豚に施術して性欲をなくさせるという意味がある。明代に行われた。

これを書くのも私には不愉快であるが、日本は1873年(明治6)「改定律例」によって
これまで行われてきた笞・杖・流すべてを廃止して、懲役とした。
したがってこれまで書いた酷刑を日本人は行わない。

漢民族は中華思想による異民族蔑視の思想と、処刑を楽しむ残虐性を持ち合わせていると思えるのである。
それは処刑場が常に黒山の人だかりで、まるで娯楽でも見るかのように人々は見物することによる。
通州事件の保安隊は自分たちが知る限りの酷刑を試して楽しんだのではないか、という疑惑が私の脳裏から消えない。
331名無的発言者:2006/03/26(日) 16:02:50
>>322 >>323 >>324 >>325 >>326 >>327 >>328 >>329 >>330の続き

また現在の中国政府は酷刑をいまだにおこなっている。新疆ウイグル族には清朝時代から圧迫はあったし、
中国共産党時代になると、チベットでの死者総数は推定120万人にも及ぶ。
これらの地区では拷問は日常化している。漢民族に対しても
毛沢東時代の「大躍進」から「文化大革命」には6000万人が殺害された。

1999年より江沢民は中国国内において組織的に法輪功を弾圧して以来、数百ヵ所の労働矯正所には
十万人を越える法輪功学習者を監禁し、肉体に対し死に至らしめる酷刑を施している。

2001年6月に発覚した『万家惨事』は国際的にも問題になった。黒龍江省ハルピン万家労働矯正所は
長期に亘る残酷な迫害によって3名の法輪功学習者が死亡し、12名の法輪功学習者が危篤状態に陥った。
「法輪功迫害追跡国際組織」の発表によれば少なくとも10万人以上の法輪功学習者が労働矯正所に不法監禁されている。
そして、直接に労働矯正所の迫害によって死亡した法輪功学習者の数は
136名に達している。そしてそのほとんどが酷刑をうけている。

さて、残虐の限りをつくした保安隊は29日の正午ごろ、砲撃を再開。
すると弾薬を満載していたトラック17輌の一つを直撃し、爆発を起こし、午後4時には17輌全部が消失した。
爆発の黒煙を発見し、飛来してきたのは熱河省承徳の飛行基地からの日本機である。
逃げまどう保安隊を空襲した。そこで保安隊は通州を捨てて殷汝耕とともに北平に向かった。
30日に北平に着いた保安隊は宋哲元の軍が敗北して保定方面に向かっていることを初めて知った。
保安隊もあとを追ううちに、日本軍と遭遇した。
332名無的発言者:2006/03/26(日) 16:13:27
>>322 >>323 >>324 >>325 >>326 >>327 >>328 >>329 >>330 >>331の続き

北から南下してきた独立混成第11旅団第十二連隊(奈良晃大佐)である。たちまち戦闘になったが、
指揮官の2人の張は便衣に着替え部下を捨てて逃亡した。保安隊は北平に連れ帰られ、
殷汝耕と伝令一人だけを「六国飯店」に収容した。特務機関は「暴に報いるに暴を以ってすることは避けたい」と、
温情を示し、保安隊は放置した。せめての仕返しに残虐な彼らに食わせる飯はない、との理由である。

7月30日午前1時30分、それまで連絡がとれなかった守備隊の無線機に旅団長河辺正三少将の通電が入った。
救援のために第2連隊主力を通州に引き返させるという。そしてあの凄惨な現場を目撃することになるのである。

事件を伝える新聞の報道は、「恨みは深し!」「世紀の残虐、ああ、呪いの通州」など強烈な見出しが躍った。
こうして日本国民と参戦将兵の心の中に支那への恨みが根づいていった。


通州事件は支那側の謝罪と見舞金で一応の解決を見た。
以下はそれを知らせる『東京日日新聞』昭和12年12月25日付けの新聞記事である。

通州事件解決  冀東政府と公文交換【北京廿四日発同盟】

未曾有の惨事として世人の記憶新たなる通州事件の解決方に関しては冀東政府長官池宗墨氏と
日本大使館森島参事官との間に折衝が続けられていたが、今廿四日午後四時半、池長官は北京大使館を訪問し
公文を手交して正式陳謝と将来の保障をなし併せてこの事件による被害者に対する弔意賠償金を手交し、
森島参事官より右に対する回答文を手交、ここに同事件は全く解決を告げるに至った。交換公文の全文左の如し。
333名無的発言者:2006/03/26(日) 16:15:36
>>322-332の続き

[冀東政府より森島参事官宛て書簡]

 以書翰啓上致候 陳者 本年七月廿九日通州において冀東政府保安隊の叛乱勃発し、
多数貴国民を殺傷し且貴国人所有財産に尠からず損害を与えたる不幸なる事件発生致候処
 右に関し本官は責任の重大なることを痛感し、ここに冀東政府を代表し、貴国政府に対し深甚なる陳謝の意を表し候。

冀東政府は本事件責任者及び加害者を厳重処断する意向なるところ、右関係者はすでに辞任し、
または逃亡若くは貴国軍により討伐せられたるをもって最早処分の方法無之次第につき右事情御諒察相成度、
なお将来は再び斯くの如き不祥事件を発生せしめざるよう誓って万般の処置を構ずべく候。

冀東政府は死者及び負傷者に対し夫々弔慰金及び見舞金を贈呈し、或は物質的損害につき
相当の賠償を支払うべく右総額として金百廿万円を提供致度に付、貴官において然るべく
分配方御取計らい御煩らせ度く、右に御異存無きにおいては前記金額中、
金四十万円は直ちに御送付致すべく残額金八十万円も成るべく速かに調達の上御送付可申上候、
なお本事件による犠牲者の慰霊塔を建設敷地提供御要求の次第も諒承致候については、
早速当方代表者会同実地検分の上協議決定のことと致度候。

右に関し何分の御回答を致度候、右申し講じ旁々本官は重ねて閣下に向って敬意を表し候。

       敬具(つづく)(2006 原稿作成)