ニーハオトイレ

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48名無的発言者
西条正『中国人として育った私 解放後のハルビンで』中央公論社より

 人民公社化以前のわが家の便所は、裏庭にあり、ドアも、囲いもある専用の便所だった。町内
でこのような専用便所をもっていた家は、わが家のほかには数軒しかなかった。それ以外の家は、
庭の一角に設置された数軒共用の便所を使っていた。それらの共用の便所も、ドアが付いていて、
囲いも屋根もあった。
 ところが、人民公社化の時、町内会を通じて、公衆便所が出来るから各自の便所を全部取りこ
わせという上からの命令が伝達されてきたのである。みんなはそれに従って木造の便所を取りこ
わし、大便槽を埋めてしまった。
 個人の便所を取りこわし、公衆便所を作る背後には、人民公社化に伴う「共産風」(共産主義
風潮)があった。食事は公共食堂で、育児は保育所でと、なんでも共用の時代だった。だから、
便所も、町内に一つ共用のを作り、個人便所を廃止することになったのだろう。
(中略)
 その新しい公衆便所は、わが家から五十メートル離れた「三角地」と呼ばれる三叉路の真ん中
に建てられ、たんなる共用便所ではなく誰でも利用できた。当初は立派なもので、屋根はもちろ
んのこと、ドアも囲いもあった。(中略)しかし、この公衆便所がだんだん変容していった。ま
ずドアがはずされ、その後、六つに仕切られた囲いも取りこわされた。残されたのは外壁と男女
の仕切りだけである。変貌した公衆便所の中をのぞくと、右側半分に六つのアナがあいているだ
けで、そこで用をたす人がまるまる見える。(中略)
4948:2005/08/08(月) 13:50:29
 その公衆便所の場合、屋根は最後まで残されたが、普通に見かける便所は、ほとんど屋根なし、
ドアなし、囲いなしのものに変わった。ただし郊外に新しくつくられた団地は水洗トイレだった。
 このような便所はつくるのに費用があまりかからない。農村だと踏み場だけに板を使い、外壁
などはすべて土を使っていた。八億の人間の使う便所に、全部ドアを付け、囲いをつくったら相
当の金がかかるだろうと考えると、ドアなし、囲いなしの便所は、確かに合理的で経済的である。
 しかし、わが家の近くに出来た公衆便所の場合はすこし違う。最初からドアなし、囲いなしの
ものではなかったのに、なぜドアや囲いを取りこわしたのだろうか。これは、実は当局が「落書
文化」を絶滅しようとしたからである。
 公衆便所はみんなが利用するところだから、みんなの目に触れるよう、いたずらものや当局に
不満をもつものが仕切りの板やドアに落書をするのである。ドアがあって囲いで仕切られていた
時には、ドアを閉めれば、その中が密室となり、好きなことが書ける。書いたものを「落書文化」
というわけだが、中には反革命標語とされ、警察の検証を受けたものもある。
5048:2005/08/08(月) 13:58:31
 ここで代表的なものを二つ紹介しよう。

 2 3 4 5 6 7 8 9
 南 北

 1から10までの数字のうち、1と10が欠けている。東西南北のうち、東西が抜けている。さて、
いったいどういう意味だろうか。これが実は、当時の食べ物や着る物が不足し、品物も足りない
時代の社会情勢をよく表しているのである。その当時、食べ物がないとか、着る物がないとか言
ってはいけないことになっていた。公けには生活が貧しい、品物がないと言う人は一人もいなか
った。しかし、生活が貧しいのは事実である。その事実を、心で思っていることを、公共の場所
で訴えたのがこのことばである。中国語で「1」は「衣」と同音、「10」は「食」と同音、「東
西」は東西と品物の二つの意味をもっている。「1」「10」が欠け、「東西」がない。これを中
国語で言うと、「缺衣少食没有東西」(着る物と食べるものもなければ品物もない)となる。
5148:2005/08/08(月) 14:06:28
(中略)
 便所のドアや中の囲いが取りこわされると、「落書文化」は急速に衰えた。便所が密室でなく
なり、公けの場所になったからである。
 この「落書文化」が栄えた時にも、私たちは毎日のように思想政治教育を受けていた。先生は、
階級の敵がまだ存在していて、彼らは機会があれば反政府行為をし、人民を煽動する、だからわ
れわれは彼らに対する闘争を絶えず続けていかなければならない、と教えていた。
 しかし、革命の後継者として教育されていたはずの私たち生徒の中にも、当局にとって望まし
くない「落書文化」に感心し、それを学友におもしろげに教えたり、その意味をあてさせたりす
るものがいた。当局の教育からすれば、労農兵の子弟なら、それを見るとすぐに階級闘争だ、思
想問題だと意識しなければならず、ただ感心するようでは、たとえ出身階級に問題がなくても、
本人の思想、社会主義的自覚は、当局の要求からまだ開きがあると言わざるを得ないわけである。
だから当局は、その開きを埋めるために、一方では、便所のドアをこわし、他方では私たち生徒
に対して、絶えず思想教育を進めて行かなければならなかった。