【毎日が】中国人女性との国際結婚12 【新鮮】

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838 8 3 8:04/08/25 20:29
>>818
もうじいちゃんは他界してて詳しい話を聞き出す事は出来ないんだけど、
じいちゃんの話によると、その隣町の米兵はみんな親切だったそうだ。
仕事が途中でも、時間がくれば「帰っていいよ〜」と言われたそうな。
あとちょっとだから片付ける、と言うと、
「日本人はなんて真面目なんだ!すごい!」と心の底から感心してたそうな。
あと、平気で銃を逆さにして顎のっけて居眠りしてる米兵を見て、
「これが日本軍だったら、陛下から頂いたものに何さらすかゴルァ!」って殴られるのに!と
それにもじいちゃんは驚いたそうだ。

言っとくがじいちゃんは童顔で小柄なだけで、ちっともいい男じゃない。
切れ長な目はカコイイかもしれないが、唇ぼってりだったし、およそ色男じゃない。
ただ、異様に若く幼く見えるので、例の米兵は
じいちゃんが4人の子持ちのおっさんだったとは思ってなかったのかもしれない。
例の米兵がどんな人だったか詳しく聞いてないんだけど、そう若くも無いと
じいちゃんは言ってた。
839じいちゃん:04/08/25 20:32
>>818
うちのじいちゃんは背も小さく、華奢だった。
いい年ぶっこいてもまるで少年のような童顔でもあった。
小さいあまりに徴兵検査ではねられ、戦争にはいかずじまいになってしまった。
終戦後、隣町に駐屯してた米軍の手伝いをしてたんだけど、
仕事が終って家に帰ろうとすると、いつも決まった米兵に呼び止められた。
仕事でもらうお給金とは別に、大量のお菓子や缶詰、色んな食料をくれたそうだ。
米兵が本土に上陸したら、女は皆犯されて男は皆去勢される、と信じていたじいちゃんは
米兵の親切さにとても驚いたそうだ。
で、ある日その米兵がいつものようにじいちゃんを呼び止めて、
車の運転はできるか?と聞いてきた。
できない、と答えると、「そうか、せっかく戦車あげようと思ったのに……。」と
ひどく落胆したそうだ。
戦車ってくれていいもんなのか?
じいちゃんは80歳になるまで懐かしく振り返って、あの米兵はとってもいい人だった、と
言っていた。
840名無的発言者:04/08/25 20:33

こないだ東北の海沿いの旅館に泊まったのね。本館からお風呂に続く
階段の脇に、古びた石の滑り台があったの。幅30センチくらい、長さは
7メートルくらい。改築したばっかりみたいな新しい建物なのに、滑る
ところはつるつるでした。
不思議に思って旅館の人に聞いてみたら「亡くなった先々代が、東京から
疎開に来ていた子供たちを慰めるために作ったんですよ」だって。
疎開してた人たちは、今も懐かしんで泊まりに来るんだそうです。
841名無的発言者:04/08/25 20:33
実験中、誘導弾のくせして何に反応したのか
女風呂に突っ込んだえろ爆弾はガイシュツ?
842818:04/08/25 20:34
>>841
なに言ってるかさっぱり分からん。
843名無的発言者:04/08/25 20:36
戦時中、帝国陸軍は飛行機から発射する無線誘導のミサイルを開発しようとした。

で、試作品ができたので何をトチ狂ったか真鶴岬の三ツ石を目標に試射してみた。
ところが、ミサイルは制御不能になり、大きく曲がって熱海の温泉旅館の
女風呂を直撃。ちょうど入浴中の女中さんたちが裸で逃げまどうという騒ぎになり、

「エロ爆弾」と呼ばれるようになった。

という話のことを言っているのだと思う>>818
844 日 本:04/08/25 20:37
爺ちゃんに聞いた話>>818

山の方に住んでいたじいちゃんのお父さん(俺の曾爺ちゃん)、ある日米軍の飛行機?が落ちたのを目撃。
山火事にでもなったら大変だ。ちょっと見てくる。そう言って、曾爺ちゃんは鉈を片手に出かけた。
落ちたあたりに行ってみると、米兵さんが大怪我をしてうめいていた。
爺ちゃんはその米兵さんを家に連れて帰って出来る限りの手当をしてみたが、薬も何も無い。
看病したものの何日か苦しんだあと、とうとう亡くなってしまった。
近所の人に「首に縄付けて死ぬまで引きずってやれ」みたいな事言われたりもしたし、
亡くなった後も犬に喰わせてやれとかそんな感じでかなり批判されたようだけど、
「死んじまったらみんな仏さんだ。」と火葬して、簡単にだけど葬った。

戦争が終わって、占領軍(と、爺ちゃんは言った)がやってくるようになると、
米軍の偉い人が来る、どうもあんたを捜していると言う話を聞かされた。
何があるかわからないと言うんで曾爺ちゃんは爺ちゃんや曾婆ちゃんを山に隠して自分だけで働いていた。
ほどなくして偉い人が曾爺ちゃんの家にやってきた。プロレスラーのようなでっかい体した人だったらしい。
彼は「戦闘機が落ちただろう。それは何処だ。」と聞いてきた。
曾爺ちゃんが飛行機の場所を地図で示して、「乗ってた人は亡くなった。墓が山にある。」と告げると、
そのでっかい怖い人はすぐ連れて行ってくれと言い、「弟だ」とお墓を前にしてボロボロ泣いていたと。
捕まってなぶり殺しにされて捨てられてるくらいに思ってたらしく、
手当を受けてお墓まで建てて貰っていたと言う事に凄く感謝され、
その後曾爺ちゃんの住んでいた一帯は物凄く優遇されてたらしい。
なんでも山ほどくれるので食べるものに全然困らず、当時本当に助かったそうだ。
「甘いのが欲しいつったら、チョコレートが木の箱にいっぱい来たよ。」と、爺ちゃんは言う。

んでその曾爺ちゃんだが、米兵さんが残した時計を大事に持っていた。
「つい、もらっちまってもいいかと思ってよぅ。…返しそびれてさぁ。悪いことしちまったなぁ…。」
そんな事を、亡くなるまで言ってたらしい。今もうちの仏壇の中にある。
845名無的発言者:04/08/25 20:39
ええ話や。。。
846名無的発言者:04/08/25 20:40
えらい話だなあ>>844
当時近所の人にさからってそんなことするって
大変だと思うけど、
のどかな山だから、お咎めなく済んだのかなあ。
847818:04/08/25 20:41
つД`)ええ話や...
848名無的発言者:04/08/25 20:43
戦時中の話じゃないけど
じいちゃんは薬剤軍曹だったんだが、特に笑えるエピソードは無いんで割愛

で、問題なのが戦時中中国戦線で従軍看護婦やってたばあちゃん
従軍看護婦ってのは、前線の殺伐とした雰囲気でスレる上
兵隊たちにちやほやされるもんで、大抵古兵や下士官、将校も恐れる鬼看護婦になる場合が多い(じいちゃん談)

親父が小学生の頃の話だが、ただでさえばあちゃんに頭が上がらないじいちゃんなのに
あろうことかコソーリやってた浮気がバレた

・・・ばあちゃんがブチ切れて、床の間に架けてあったじいちゃんの軍刀を抜き払い
「この前線も知らん軟弱軍曹風情がぁ!性根を叩き直してくれる!」とじいちゃんを追い掛け回した
じいちゃんは堪らず家を逃げ出し、親父がばあちゃんを必死でなだめた後探しに行った所
河原の橋の下でひざを抱え、子犬のように震えていたと

ばあちゃん怖い
849名無的発言者:04/08/25 20:43
ばあちゃん恐すぎだよ>>848
850名無的発言者:04/08/25 20:44
>>848のばあちゃん萌え(*´Д`)ハァハァ
851名無的発言者:04/08/25 20:44
ばあちゃんカッコいい!!
852818:04/08/25 20:44
ばあちゃん素敵!
853名無的発言者:04/08/25 20:45
>「この前線も知らん軟弱軍曹風情がぁ!性根を叩き直してくれる!」
古参の鬼下士官の発言としか思えないw
854名無的発言者:04/08/25 20:46
友達のじいちゃんから聞いた話。

戦時中、学生だったじいちゃんたちに、学徒動員の召集が来るのも
秒読み段階。学業どころじゃなく、いつばらばらになるか分からない。
夏休みに入ったその日、とにかく学生寮のみんなで集まって青春の夏
の一夜を楽しもう!となった。これが最後の宴かもしれないし。

当然、酒などはないが、誰かが田舎から大量の冷麦を調達してきたところ。
しかし、ゆであがった冷麦を入れるガラスの大きな器がない。すると、他の
誰かがアルマイトの洗面器を持ってきた。それは、風呂にも下着の洗濯など
にも使ってる万能洗面器。

「汚くないか?」と、当然の疑問も出たが、冷麦は今にも茹で上がらんと
してる。「こういうときは打撃消毒だ!叩け!」と、一番人望の厚かった
優等生が言ったので、みんなでその洗面器をガンガン叩いて水を張り、水で
冷やした冷麦を投入、わっと食べ始めた。

その後全員が食あたりになったとのこと。とんだ別れの宴になっちゃったね。
855名無的発言者:04/08/25 20:46
かーちゃんに聞いた話

かーちゃんのとーちゃん(私から見てじーちゃん)が新婚のころ、じーちゃんの親が
近所の海からドラム缶を拾ってきました。

で、家であけたところプシュ〜〜〜〜〜〜と毒ガスが出てきたらしい。
そばにいたじーちゃんとばーちゃん二人が毒ガスをすっちゃって、ばーちゃんは
鼻がおかしくなって以後ずっとにおいがわからなくなったって。

場所は広島なので、大久野島(通称毒ガス島)から流れてきたんだろうとの話でした。
ちなみに今の大久野島は、野うさぎだらけです。
856818:04/08/25 20:47
↑笑えないよママーン
857名無的発言者:04/08/25 20:48
うちのじいちゃんの兄は非軍人で、仕事だか事業だかで大陸に行ってたが
終戦後のドサクサで妻子は何とか引揚げたものの、じいちゃんの兄はそのまま行方不明になった

そこで住職だったじいちゃんはあらゆる人脈を使って裏工作を行い、書類をでっち上げ
(檀家に主計科高級軍人や役人、議員がいた)
そしてじいちゃんの兄はいつのまにか、陸軍上等兵として戦死したことになっており
そのおかげで妻子には遺族恩給が入り、安泰に暮らせたと
8588 5 8:04/08/25 20:48
そこに死んだはずの兄さんが…とまでは上手くいかないか>>867
859818:04/08/25 20:50
税金ドロボー>>857
860名無的発言者:04/08/25 20:51
1942年7月、上海に近い近い地域。 
ここにおいて日本陸軍第731部隊は中国軍に対し大規模な生物兵器攻撃を実施した。
コレラ、チフス、炭そ菌… これを飛行機からまくというものである。
99式双軽3機により実施された作戦は、10000人以上の被害者を出し1700人以上が死亡した。
本来ならば大成果である。
しかし、これによって殊勲を受けた者はいなかった。

……被害者の全てが日本兵だったからだ。
861名無的発言者:04/08/25 20:52
>>860
うちのじいさんの話

大陸で衛生兵をやってた。倉庫の医薬品を管理する仕事だったらしい。
大量の在庫を抱えたまま終戦。日本に持って帰ることはできないので、
薬を欲しがってた中国人に分け与えた。
おかげで町を歩けば「大人(たいれん)」と呼ばれちやほやされたらしい。

だが、日本に戻ると母親の手によって戦中に稼いだ給料は全て貯金されていた。
銀行は終戦後に潰れたため、一転して貧乏暮らしになったそうな。

他にも国民党からうちの衛生兵にならないかと誘われたという話を聞いたが、どこまで本当なのやら。

関係ないけど、親父の戸籍には「中華民国江蘇省生まれ」と記載されてて、なんだか歴史を感じたな。
862名無的発言者:04/08/25 20:52
うちのばあさんに聞いた話。

うちのばあさんは神戸の山側の田舎に住んでいるんだが、
神戸大空襲か何かの時にB29がやってきて、
乗員が落下傘降下したらしい。
近所の親父どもがそいつらを捕まえて鎌やら何やらで
何人かぶち殺して残りは憲兵に引き渡したらしい。
ばあちゃん・・・そんなの笑顔でいうなよ・・・

笑えない話スマソ
863名無的発言者:04/08/25 20:53
じいさんから聞いた話

じいさんは、満州の自動車部隊?に徴兵されたそうな。
そこで二等兵として勤務したしたらしいが、訛りの強い一等兵に
1「○○連隊の宿舎に行きたいのだが・・」
2「?????」じいさん、理解不能な顔をしたらしい
3「くそう、田舎者だと馬鹿にしやがって」って殴られたらしい。
一等兵は、東北出身でズーズ弁で喋られたものだから、じいさんは理解出来なかったらしい。

後日談でじいさんは名古屋に、技術者としてすぐに戻らされたそうな。
じいさんが言うには、上等兵たちには悪いことをしたそうな。

ばあさんも学徒動員で、名古屋の三菱兵器工廠で飛行機作ってたそうな。
空襲警報が出てみんな避難する中、用をもようしたばあさんはトイレに行ったそうな。
爆撃が始まって自分が死ぬかもしれんと覚悟決めてたら、爆撃がやんだそうな。
トイレから出てみると、トイレ以外は焼け野原だったそうな。
864名無的発言者:04/08/25 20:54
技術者だった俺の祖父ちゃん。ある日、海軍が拿捕した米軍の飛行機が工場に運ばれてきた。
同僚と解体して、中を調べると、楽しくって仕事が止まらなくなってしまった。
丸二日その米軍機に集中していると、気づいた時にはどうやら空襲に遭っていたらしく、
自分たちの工場の棟以外、殆ど更地になっていたらしい。

また、ある日、空襲警報が鳴り響き、防空壕へ入ると、やることもないので同僚が麻雀でもしようと祖父ちゃんを誘った。
ろうそく一本の明かりでゲームを開始する。しばらくすると上官が防空壕へ怒鳴り込んできて、祖父ちゃんはじめ、同僚はぼこぼこに殴られた。
どうやら警報解除に気づかず、徹マンしてしまったからだそうです。
865818:04/08/25 20:54
>>864
すげー集中力…てか豪気な祖父ちゃんやねw
徹マンに没頭するのは今も昔も同じなんだなー
866 8 6 6:04/08/25 20:56
戦争末期、近隣の軍需工場や繁華街を爆撃した米軍機が帰還するときに
水田に余った焼夷弾を捨てて行くので、家の近くの田んぼには焼夷弾が
いっぱい突き刺さってる状態だったそうです。

ある日、当時小学生だった父は近所の子供達と田んぼで不発の焼夷弾から
発火用の火薬を抜き出して、浅い缶(一斗缶を切った物?)に集めていた。
それまでも少量に火をつけては遊んでいたがその日は量がいつもより沢山集まった。
年上のガキ大将の子が「きっと花火みたいになるだろう」と言うので、
みんな「わーいわーい、花火だー」と大喜びで火薬持ってガキ大将の家の庭へ。
しかし焼夷弾から取った導火線はすごく短くて、缶の縁までしか届かない。
これでいきなり火をつけるとヤバそうだなと子供の頭でも思った。
父は家からマッチを持ち出してiiiiiiiiiiiiiiiiiこんな風にマッチの頭を上にして
地面に刺して並べ、導火線の延長にして着火。
火はマッチを次々と燃やして最後に短い導火線を伝って缶の火薬へ。
離れて見守ってたのに目の前が(閃光で)真っ白になり、物凄い煙に包まれた。
警戒の消防の櫓からも光と煙が見え、爆弾が落ちたのかと町内中騒然となり、
加わった子供は父含め全員こっぴどく叱られましたとさ。
867名無的発言者:04/08/25 20:57
楽しさに気を取られて工夫しなかったら
「あなたが聞いた戦時中の悲惨な話」に収録されてたな>>866
868名無的発言者:04/08/25 20:57
爺さんの友人?の話だが、
海軍=スマートと言うイメージがあったので
海軍に入れば殴られることは少ないだろう。
と思って海軍に入ったが、
朝から晩まで殴られっぱなしだったそうだ。

陸軍の方が殴る回数は少ない、と言うのを終戦後知ったそうだ。
869名無的発言者:04/08/25 20:58
海軍はエリート意識丸出しなので、下っ端の扱いは酷い>>868
戦後、ある旧海軍出身の空自パイロット(士官)が整備員(下士官)に
戦中と同じような酷い扱いをしたため、整備員からリンチされるという事件があった。

一方の陸軍では、殴る蹴るが日常茶飯事の部隊もあれば、体罰なんぞとんでもない、という部隊もあったそうだ。
870名無的発言者:04/08/25 21:00
うちのじぃちゃんから聞いた話>>868-869

戦後間もない頃街に食料を調達しに行くため駅で汽車を待ってると
向こうの方から凄い怒鳴り声みたいなのが聞こえてきて
行ってみると戦争から帰って来た兵隊達が一人の男を袋叩きに
してたらしい。
あとで近くに居た大人に話を聞いてみると
殴ってる方は一般兵で殴られてる方は身分の高い上官
だったそうで。
じぃちゃん曰く戦争中は上官から殴られ続けてた兵隊達が
上下関係の無くなった今仕返ししてただろうなぁ。
だそうです。
笑えないけど自分の中でインパクト強い話だったので
871名無的発言者:04/08/25 21:01
学校の先生が話してくれた。

先生の母上が女学生で、工場に勤労奉仕(でいいの?)していた時のこと。
空襲警報が鳴り響いてみんな防空壕に逃げ込んだけど、その母上とその仲間
10人ほどが逃げ遅れた。

「逃げ惑って死ぬのも嫌だし、屋上へ行って、戦闘を見よう」
「もしこっちに来たら、竹槍で応戦しよう」
ということになり、建物の屋上に登った。

屋上に登ると、日本軍の飛行機とアメリカ軍の飛行機が。
日本軍の飛行機はバタバタ撃墜されている。
『日本軍は連日快勝』のニュースしか聞かされていなかった母上達は呆気にとられて
戦闘を見ていた。
その日の報道ももちろん、『日本軍、今日も快勝!』
「日本は負けるんだなあ」とシミジミ思ったそうです。
笑える話でなくてゴメソ。
872818:04/08/25 21:01
そういう人達もいたのかもしれないけど、本土に足の短い敵戦闘機が来ている時点で、
すでに日本は制海権も制空権もなくなっていることに気付かないものか?>>871
873名無的発言者:04/08/25 21:02
情報操作されてんだから無理っしょ>>872
うちらだってネットが広まる前は新聞やテレビ
割と鵜のみだったこと考えれ
874名無的発言者:04/08/25 21:03
>>873
それに近い話で、当時祖父は東北の基地(どこかは忘れた)の近くに住んでいた。
ノモンハンで日本軍が大敗したのを国民が知るのは戦後だったが、
帰ってくる兵士たちの表情をみて基地の近くに住んでいるものは
うすうす負けたというのを感じ取っていた。
875名無的発言者:04/08/25 21:04
うちのじぃさんの話。

妻と息子を田舎に残し出征。
すぐに終戦を迎えたが、田舎は焼け野原と知る。

「妻と息子は死んじゃったんだろう」と
新たに妻を娶る。

3年程して新妻を連れて田舎に帰る。
「おっ!我が家が焼けずに残ってる。」

家に入ると旧妻とちょっと大きくなった息子、
ちっちゃい子供を抱いた知らない男が団欒中。

どうやら旧妻も「どうせ旦那は死んでるだろう」と
結婚したらしい。
とりあえずその場にいた皆で自己紹介し、
おのおの新家族で暮らしていくことに決定。

間もなく新妻に子供ができた。これがオレの父ちゃん。
旧妻側は付き合いないからわかんないや。
876818:04/08/25 21:05
上手くまとまって良かったな(w
片方だけ新しい相手見つけてたら面倒なことに。
実際そういうこと(片方だけ)も多かったんだろうけど>>875
877818:04/08/25 21:06
では、小学校の頃校長に聞いた話

昭和20年のある日、関東地方全域が艦載機の襲撃を受けた
日本の航空隊も全力で迎え撃ち、関東上空のあちこちで壮絶な大空中戦が行われた
が、うちの町は軍事施設が無かったため大規模な襲撃は受けず、遠くで響く爆発音や機銃音 
飛行機が急旋回する金切り音を聞いたり、上空を通過していく敵味方の編隊を眺めるだけだった

いい加減敵機が引揚げ始めたその日の夕方、当時生徒だった校長は、校庭全面を改造した芋畑で作業していた
すると紛れもない味方戦闘機の爆音が 見れば一機がよろめくようにこっちにやって来る
生徒も先生も大喜びで、全員芋畑の真ん中に集まって手を振りだし 飛行機も上空をぐるぐる旋回しだした

が、飛行機はふらふらと上空から離れていくと、いきなり超低空で学校の隣の農家の畑めがけて突っ込んできた
飛行機はそのままバリバリバリと轟音と共に不時着した
行ってみると操縦席で搭乗員が血まみれになって気絶している 機体全面には無数の弾痕が
先生たちが大慌てて搭乗員を校舎に運び、近隣住民と手厚く看護 そのおかげで搭乗員は息を吹き返した

その搭乗員曰く
「空中戦で被弾して、どうせなら畑や田んぼより広いところに不時着したいと思って、見えた国民学校に来た
 が、校庭でみんなが集まって手を振ってるもんだから危なくて不時着できない 上空で待っていてもどく気配が無い
 そうこうするうちに頭がフラフラしてきて、燃料ももう無い 仕方なく隣の畑に不時着した 
やっぱり畑は狭く、止まりきれず垣根に突っ込んで頭を打った」と

せっかくの好意が仇になった例
878 8 7 8:04/08/25 21:08
家の爺さんの話。

小学生の時、学校で「床屋貯金」なるものがあって、
先生達が髪の毛を切って、浮いた床屋代で
慰問袋を作ったり、現金を送金していたそうだ。

しかしバリカンの使い方が下手な先生が多く、
相当痛い思いをしたという。
「あれで俺は髪が薄くなって、ハゲになってしまった…」
と嘆いている爺さん(68歳)だが、うちは代々ハゲ家系なので
それは全然関係ないと思う。
879なんか、切ない:04/08/25 21:08
徳島県阿南市長生町 昭和20年の話

鎮守天満宮が高射砲部隊の分隊の駐屯地となった
たった一門の高射砲には木製の模擬砲弾しかなく、それをぴかぴかに磨いて
毎日何回も撃て撃て!と繰り返していた
その真剣さが、機敏でない老兵だけになんともユーモラスであった
はるか高い空には白銀のケシツブばかりの米軍機が、下界に見向きもせず大阪へ一直線に向かっていく
それを見つつ隊員は高射砲を懸命に磨き続けていた

「現代民話考」より
880名無的発言者:04/08/25 21:09
親に「戦時中の笑える話なんかしらんか」と聞いたら、

1.当時天草に住んでいた自分の親は、長崎のキノコ雲を目撃した。
2.気のふれたよそのばあさんが、アメリカの芋(じゃがいもかな?)を
  竹槍に突き刺して、「アメリカ兵を討ち取ったー!!」と騒いでいた。

以上の話をしてくれた。

笑えなかった。
881無賃乗車:04/08/25 21:11
神奈川県横須賀市 昭和15年ごろ

市内バスの停留所で5,6人後から一人の兵隊が、
天皇陛下万歳と叫びながら降りていった

無賃乗車


「現代民話考」より
882名無的発言者:04/08/25 21:13
熊本県鹿本郡田原坂近くの横平山
西南戦争が始まった明治10年3月

官軍は横平山に布陣したが、敵との距離は僅か20メートル たちまち鉄砲の撃ち合いやじっと耐える日々が続いた
すると味方の後方兵站部から大福餅が届けられた 味方の士気は大いに上がる
敵にも大福を見せびらかすと、向こうもヨダレを垂らさんばかり
少し分けてやろうと山田という兵隊が二、三十を抱えて敵陣へ行った
えらい歓待ぶりで、酒も出して飲ませてくれた
それから敵味方が妙に親しげな気分になってしまった

そのうち山麓の陣地では猛烈な斬り合いが始まった
ところがこちらは敵味方が仲良く見物しておったと

死に物狂いの殺し合いの間にも、いくさも何も忘れてしまう瞬間があった

出典「日本の民話」12巻
883クマたん(;_;):04/08/25 21:15
超ド級の田舎の農家だったじいちゃんは、そのころではめずらしい
シェパードを飼っていた(雑種かもしれないけど、じいちゃんは
シェパードだったと言ってた)

クマという名前だったのだけど、ものすごく賢くて、食事もじいちゃんが
よし!というまでは絶対に口を付けず、ある朝ばあちゃんがえさをやり、
じいちゃんも「よし!」と言うのを忘れて農作業に行ってしまい、日が
暮れて田んぼから帰ってくると、クマは一口も食べてないえさ箱の前で
じっと待ってたそうだ。

賢さは田舎でも評判で、じいちゃんちから10里くらい離れたところにあった
軍の施設から、軍用犬として徴集するといって持っていかれた。(30キロ
くらいかなぁ、10里って)

クマは、わりときちんと「軍人」っぽく扱われてたらしく、日曜日には
お休みをもらってたそうで、毎週日曜の午前中に歩いて家に戻り、夕方
になると、自分で軍の施設に歩いて帰ってたらしい。

ただ、終戦になっても戻ってこなかったのが残念だったとのこと。どこか
で作戦に参加して亡くなったんだろうね。
884名無的発言者:04/08/25 21:16

今のNHK鹿児島局がやらかしたホームラン級の大ポカですな。有名な話。

うちの爺様は性格は大人しかったが酒豪。
南方で付いた部隊長は酒好きだったが、あいにく直属の士官連に酒飲みがいなかった。
飲める上等兵の祖父に白羽が立ち、隊長の従兵に抜擢。
温情家の隊長の下で仕事は軽く、夜になると好きな酒のお相手。肴付きで飲み放題。
サンゴ礁の島には米軍も来なくて「楽しかったぞ」、ってそんなんでええんか。

島には大した食い物もなかったが、マンゴーは死ぬほど成っていた。
調子に乗ってマンゴーぱくぱく食っていたせいで下痢が止まらなくなり、野戦病院送り。
検査した軍医に「おまい肺やられとるぞ」と唐突に言われる。
「病院船の氷川丸がこっちの泊地に回ってくる。それに乗って内地へ帰れ。
病状はうんと悪いことにしておいてやる」と、話のわかる(?)軍医もいたもので。
祖父の帰国直後に米軍の攻撃が激しくなり、平和だった島でも多くの戦死者が出たそうな。

内地の陸軍病院で療養してから招集を解かれたのもつかの間、
昭和20年8月に再招集を受けた。
覚悟を決めて兵営の前へ行ったが、同時に招集を受けたはずの連中が一人も見えない。
日暮れまで突っ立っていたら「お昼で戦争が終わりましたよ」と通行人に教えられた。

すごすご帰宅して数日後、「用事があるから」と親戚に連れられて隣村の家に行ったら
行き遅れた三十女が白無垢着て待っていて、いつの間にか婿にやられていたという。
戦中といい戦後といい呑気もいいところだが、この祖父は未だに元気でいる。
885名無的発言者:04/08/25 21:18
このスレ初めて読んだけど面白いなあ…>>818

戦後食糧難の時代。
夕飯の時間になっても息子(私の父)の姿が見えない。
母(私の祖母)が大声で、ごはんよー!と呼んだらすっ飛んで戻ってきた。
ところが、夕飯の席で父大泣き。
ごはんよー!と呼ばれたのに食卓にあるのはいつもの蒸かし芋だったとさ…
婆ちゃんは大笑いで、父は鬱全開で別々にその話をしてくれた。


満州に遠征していた近所のじいちゃんは、
肝試しに、朝鮮人の墓を暴いていたそうだ。
「真っ暗闇で、早く目が慣れて行動が取れるように訓練しとったんじゃ!」とも言っていた。
886名無的発言者:04/08/25 21:23





    ∧_∧ 
   ( ・∀・)/ヽ
    ノ つつ ● ) あっぱれ!!
  ⊂、 ノ   \ノ
    し'







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887(^-^)

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