37 :
「南京虐殺の徹底検証」より:
『東京裁判却下未提出辯護側資料』第三巻に収録された外務省情報部長の公式声明(八月二日)と同部長談話(八
月四日)によれば、事件が起きたのは七月二十九日(昭和十二年)の午前四時であった。三千人ほどの通州保安隊
が百十名ほどの日本軍守備隊兵営を包囲し、日本人商店、旅館、民家を急襲した。通州の日本人三百八十名のうち、
約二百名が虐殺された。ようやく難を免れたのは、日本軍の兵営に逃げ込んだ百二十名だけであった。
外務省情報部長談話によれば、事件の全貌は次のようであった。
《支那人は婦女、子供をも共に、全日本人を虐殺せむと企てた。婦人の多くは掻きさらはれて、二十四時間虐
待酷使された後、東門の外で殺されたが、其処まで連れて行かれるには手足を縛られ、或は鼻や喉を針金で
突き通されて、曳きずられたのであった。死骸は近くの池にぶち込まれ、或る者は強力な毒物をぬりつけられ
て、顔がずたずたになつてゐた。》
38 :
「南京虐殺の徹底検証」より:03/10/30 03:09
これは、戦時国際法にたいする重大な違反であった。外務省情報部長は事件から四日を経て、公式に支那兵の日
本人虐殺・強姦・掠奪を批判したのである。東京裁判にも、弁護側からこの公式声明が提出された。しかし、理由
の提示なきままウェッブ裁判長は却下している。「通州虐殺」は連合国にとり、触れて欲しくない問題であったか
らである。
しかし、その却下にもかかわらず昭和二十二年(一九四七年)四月二十五日、レヴィン弁護人は引き続き萱嶋高
(元陸軍中将)を証人として喚問した。事件からすでに十年の歳月が流れていた。
『極東国際軍事裁判速記録』第五巻によれば、萱嶋は救援のため通州に急行した天津歩兵隊長及び支那駐屯歩兵
第二連隊長で、七月三十日(事件の翌日)午後四時、現地に到着した。次はその萱嶋連隊長の証言である。
39 :
「南京虐殺の徹底検証」より:03/10/30 03:10
《城内は実に凄惨なもので、到る処、無惨な日本人居留民の死体が横たはつて居りまして、殆ど全部の死体に
は首に縄がつけられてありました。頑是なき子供の死体や婦人の虐殺死体は殆ど見るに耐へませんでした。》
《その記録は今日ありません。従つて私は私の目撃したことを主として、記憶を辿り、左に陳述します。然し
それは余りにも残酷でありましたので、私は一生忘れることの出来ない印象となつて頭に残つて居ります。》
《旭軒とか云ふ飲食店を見ました。そこには四十から十七,八歳迄の女七,八名は皆強姦され、裸体で陰部を
露出した儘、射殺されて居りました。其の内四,五名は陰部を銃剣で突刺されてゐました。(略)家の内は家
具、布団、衣類等、何物もなく掠奪されてゐました。其の他の日本人の家屋は殆ど右同様の情態でありました。》
《錦水楼と云ふ旅館は凄惨でありました。同所は危険を感じた在通州日本人が集まつた所でありましたものの
如く、大量虐殺を受けてをります。(略)錦水楼の女主人や女中等は珠子繋ぎにされ、手足を縛された儘、強
姦され、遂に斬首されたと云ふことでした。》
40 :
「南京虐殺の徹底検証」より:03/10/30 03:10
萱嶋連隊長の証言が終わると桂鎮雄(元陸軍少佐)が証人台に登った。桂は事件に際し救援に通州に派遣された
第二連隊の歩兵砲中隊長代理で、七月三十一日午前二時半、現地に到着していた。
《錦水楼の門に至るや、変わり果てた家の姿を見て驚くと共に、死体より発する臭気に思はず嫌な気持になり
ました。(略)次に帳場配膳室に入りました。ここに男一人、女二人が横倒れとなり、或はうつぶし或は上向
いて死んでをり、ここの屍体は強姦せられたか否かは判りませんが、闘つた跡は明瞭で、男は目玉をくりぬか
れ、上半身は蜂の巣の様でありました。》
《私は一年前に行つたことのあるカフェーへ行きました。扉を開けて中へ入りましたが、部屋は散乱してをら
ず、これは何でもなかつたかと思ひつつ進んだ時、一つのボックスの中に、素つ裸の女の屍体がありました。
これは縄で絞殺されてをりました。カフェーの裏に日本人の家があり、そこに二人の親子が惨殺されて居りま
した。子供は手の指を揃へて切断されてをりました。》
41 :
「南京虐殺の徹底検証」より:03/10/30 03:11
《南城門の近くに一日本人の商店があり、そこの主人らしきものが引つぱり出されて、殺された屍体が路上に
放置されてありました。これは腹部の骨が露出し、内臓が散乱して居りました。》
凄惨な虐殺現場の目撃証言であった。最後の証人としてレヴィン弁護人が喚問したのは、桜井文雄(元陸軍少佐)
であった。桜井も七月三十日、連隊主力とともに入城し、虐殺の模様を詳しく垣間見た支那駐屯歩兵第二連隊小隊
長である。
《先ず守備隊の東門を出ますと、殆ど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横はつて居るのを目撃し、一同悲憤
の極に達しました。敵兵は見当りませんでしたので、夜半迄、専ら生存者の収容に擔りました。「日本人は居
ないか」と連呼し乍ら、各戸毎に調査して参りますと、鼻部に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られ
た老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等が、彼所此所の塵、埃箱の中や、壕の内、塀の蔭等から、続々這ひ出し
て来ました。》
42 :
「南京虐殺の徹底検証」より:03/10/30 03:12
《某飲食店内には一家悉く皆首と両手を切断されて居るのを目撃しました。婦人と云ふ婦人は十四五歳以上は
悉く強姦されて居りまして、見るに忍びませんでした。》
《旭軒と云ふ飲食店に入りますと、そこに居りました七八名の女は全部裸体にされ、強姦射(刺)殺されて居
りまして、陰部に箒を押込んである者、口中に土砂を?めてあるもの、腹部を縦に断ち割つてあるもの等、全
く見るに堪へませんでした。》
《東門の近くの鮮人商店の付近に池がありましたが、その池には首を縄で縛り両手を併せて、それに八番鉄線
を通し(貫通)一家六名数珠繋ぎにして引廻された形跡、歴然たる死体がありました。池の水は血で赤く染つ
て居たのを目撃しました。》
あまりにも残虐な虐殺法であった。しかし、これは古代支那から続く戦法であった。
43 :
「南京虐殺の徹底検証」より:03/10/30 03:19
42で?部分の漢字は、"土+眞"