毎日新聞 2002年8月19日日付朝刊
インタビュアー 毎日新聞 町田幸彦記者
(見出し)
人と世界2002
モンゴルのチベット仏教指導者
「活仏」ボグド・ゲゲン9世
「流転の半生 自覚忘れず」
(リード)
モンゴルで普及したチベット仏教の指導者の後継者が、同国やロシアのモンゴル系民族の地域で布教
活動を行っている。モンゴル名ボグド・ゲゲン(チベット名ジェプツンタンパ・ホトクト)9世
(70)。チベット仏教で仏、菩薩、聖者の「化身」とみなされる活仏の一人だ。モンゴルの宗教界に
君臨したボグド・ゲゲン8世は1924年、死亡し、この活仏の流れは途絶えたはずだった。9世に、数
奇な生涯を語ってもらった。
【モスクワ 町田幸彦】
──これまでの生涯をお話ください。
◆3〜4歳のとき、ホグド・ゲゲンの転生者であると(宗教指導者から)通知を受けた。しかし
1930年代のモンゴルでは宗教弾圧が始まり、政治的判断から私が第9代ボグド・ゲゲンだということ
は秘密にされた。この決定は、ダライ・ラマ13世と14世の間の空白時期の統治者リンポチェの指示だ
った。
7歳の時に僧院に入った。20歳までいたデプン寺では、仏教哲学、認識論、問答などを朝から夕方
まで勉強した。それから29歳まで別の寺院にいた。ラサから徒歩一日、車で4〜5時間のツァン・チ
ベットだ。25歳の時に妻をめとり、僧ではなくなった。しかし、ラマ教指導者の一人に「僧院にい
て、このまま勉強を続けるように」といわれ、そうした。
──チベットを出たのはそれからですか。
◆1960年の冬、ネパールまで一晩歩き、出国した。前年にダライ・ラマが亡命し、60年には中国当
局の圧迫が非常に強くなり、宗教的自由が一層、制限された。特に僧院への攻撃は激しくなり、亡命
を決心した。
インドではダージリンで14年間暮らし、それからインド南部を転々とした。生計は衣服の行商、農
作業の手伝いでまかなったが、私の人生でも最もつらい時期だった。そのころ妻と子供7人がいた
が、2人が亡くなった。80年になって生活にゆとりができ、仏教の勉強を再開した。
──既に48歳になっていたわけですね。
◆私は家族を養うために多くの年月を失ったが、学問の再開が遅すぎたとは思っていない。宗教・
精神的自覚はいつもあった。
──ホグド・ゲゲンとしての正式な認知はどういう形であったのですか。
◆90年、モンゴルのオチルバト大統領(当時)がチベット亡命政府に、私が本当のボグド・ゲゲン
なのかどうかを問い合わせてきた。インド在住のチベット人は、誰でも私が何者か知っている。そこ
でダライ・ラマが私を第9代ボグド・ゲゲンと正式に認定した。
(見出し)
亡命生活経て?T復権?U
99年 ウランバートル初訪問
──モンゴルとのかかわりは。モンゴル語はご存じですか。
◆モンゴルをいつか訪れるとは思えなかったので、モンゴル語を勉強することまでは考えなかっ
た。ただ、修業時代の2人の先生はモンゴル人だったし、モンゴル人、ブリャート人、カルムイク
人らと勉強し、モンゴルの状況を知っていた。
99年、初めてモンゴルを訪問した。オチルバト大統領は退き、モンゴル政府がボグド・ゲゲン9
世を認めないという方針に変わっていたので、私はモスクワでモンゴル行きの観光ビザを取って、
宗教関係者には知らせずに首都ウランバートルに入った。すぐに市内で私の来訪が知れ渡り、ガン
ダン寺で歓迎式典が催された。モンゴル訪問を決意したのは、信者が会いたがっている気持ちをか
なえ、自分が年をとってきたのでこの機会に果たそうと考えたからだ。
──モ実際の年より若く見えます。
◆常に心が健康であるように、仏陀の教えにより平穏で自制できるよう心がけている。心の規律
が生活に影響を与える。(インド亡命後の)つらい時期でも私は文句をいったことはない。
──自分の役割は何だと考えますか。
◆モンゴル民族の精神的指導者として仕えることだ。ロシアではブリャート、カルムイキア、ト
ゥワの3共和国でその役割を果たしたい。ロシア人の中で今、仏教哲学に興味を持つ人が増えてい
る。そうした人々のためにも教義を広めたい。
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ボグド・ゲゲン(ジェプツンタンパ・ホトクト)9世
本名ジャンパル・ナムドル・チョキ・ギャルツェン(Jampal-Namdol-Choki-Gyaltsen)。
1932年、チベットのラサ生まれのチベット人。本人は誕生日を知らない。旅券にも誕生年以外の月
日は空欄になっているという。父は中央チベット出身の農民、母はカム地方の出身で、中流家庭の
一人息子だった。現在、インド北部ダラムサラ在住。
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(見出し)
宗教活動
共産体制崩壊が転機
つきまとう中露の「政治」
(本文)
ボグド・ゲゲンは数多い活仏の中でもダライ・ラマの下でチベット仏教黄教派の指導者として高
い権威を持つ。政教一致のモンゴルの頂点に立った8世(1869〜1924)は、21年の革命後に元首
として残ったが、彼の死去によってモンゴルは社会主義国家建設の道を進めた。その後9世につい
て公式に語られることはなかった。
9世の出自を疑う見方もあったが、彼自身が言うように、モンゴルで宗教弾圧が吹き荒れた30年
代に「政治的理由」からその存在を公にすることはできなかったのだろう。
45年にチベットを訪れた西川一三氏の著書「秘境西域八年の潜行」(中央文庫)には、少年時代
の9世と会った記述がある。
最大の転機をもたらしたのは、90年以降のソ連、モンゴルの共産体制崩壊だった。チベット仏教
の伝統はモンゴルとロシアの一部にも信徒を残していた。宗教復興の声が上がる中で、9世の存在
が見直されるようになる。
だが、9世の活動は、チベット問題と内モンゴル自治区を抱える中国と、対中関係に神経質なな
ロシアの間でいつも揺れ動いている。そのはざまにあるモンゴル政府も「モンゴル民族の精神的指
導者を目指す」という9世に穏やかではない。
このインタビューは先月、モスクワ市内のアパートの一室で行われた。ボグド・ゲゲン9世の一
行は、チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世のロシア訪問についてロシア当局との交渉を重
ねている微妙な時期だった。ロシア側は「宗教活動に限定した訪露なら拒む理由はない」(ロシュ
コフ外務次官)と前向きで、10年ぶりのダライ・ラマ14世の訪露が実現するかに見えた。
しかし、露外務省は、今月16日、ダライ・ラマ14世の訪露団の中にチベット亡命政府代表らが含
まれる「政治性」を理由に、ビザ発給を拒否した。「中国政府の立場を考慮した」と説明してい
る。