【ジョジョ】異能者達の奇妙な冒険【TRPG】7

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57民明書房
ナシャタイン
(1575〜1628)

札幌地区のアイヌ首長。温厚な性格で皆から慕われていた。
1610年先代の首長ヒルマンテから首長の座を受け継ぐ。江戸の伝説的な刀匠である数人が移住して
生涯最後の「鬼棲雷打」を作成しナシャタインに友好の証として献上した。
ナシャタインが名刀「鬼棲雷打」を持っていることを快く思わなかった松前藩の渡邉鍋常衛門恒雄は、
妬みの心を増幅させ手段を選ばずこれを手に入れようとした。
彼は主君松前慶広に「ナシャタインが蝦夷地のアイヌを糾合して反乱を起こそうとしている」 と讒言した。
これまでの和人とアイヌの戦いの歴史もあり、慶広は戦いの準備をする。
その一方で鍋恒衛門はナシャタインの所有する名刀「鬼棲雷打」を差し出せば松前慶広に戦いをしないようにとりなそう、
とナシャタインに使者を出す。
東北地方のアイヌ首長ノムシャンポヤキは知恵者として知られ、鍋恒衛門のナシャタインを排除し「鬼棲雷打」を我が物とする計略を見抜き、
注意するよう使者を送ったが鍋常衛門に露見。
ノムシャンポヤキは松前藩の小数の隠密部隊からなる奇襲を受け部落ともども全滅してしまう。ここに至り、ナシャタインは反乱を決意する。
周辺のアイヌと共闘しても和人との戦力差は著しく開いていたため、巻き込まないように自分の手勢だけを率いて出陣した。

松前藩は鍋常衛門が総大将となって出陣。
松前藩兵の損害を少なくするため、死に場所を探していた浪人衆を金の力で集めてアイヌの毒矢攻撃の前面に押し出した。
浪人集は文字通り全滅したが、ナシャタイン側も毒矢を使い果たしてしまった。
アイヌ側はヨシイウママシ、タタノチェプリらが奮戦し鍋常衛門の軍勢に一転攻勢するなど意外にも戦いは互角だった。
一計を案じた鍋常衛門は和睦と称してナシャタインを呼び出す。
タタノチェプリは心配したがナシャタインはヨシイウママシを伴って会見場へ出向いた。
会見場へ出向く途中、ナシャタインの馬に鍋常衛門の騎馬隊が後ろから襲い掛かりナシャタインとヨシイウママシは謀殺されてしまう。
鍋常衛門は余勢を駆って残るアイヌ人を撃破「鬼棲雷打」を強奪した。タタノチェプリは一人逃げ延び姿をくらました。
戦後、鍋常衛門一人の欲によって今回の戦いが起きたことが発覚。鍋常衛門は追放された。

「鬼棲雷打」を手土産にどこかへ仕官しようとした鍋常衛門だが、その命を狙って潜伏していたタタノチェプリに毒矢で殺された。
「鬼棲雷打」はタタノチェプリに取り戻されたが、争いの種になることを心配したタタノチェプリはナシャタインの墓に「鬼棲雷打」を入れ、
自身は樺太へ姿を消したといわれている。

現在その墓は札幌ドームが建設された場所とされているが、日本ハムファイターズに
キレのいいスライダーの使い手が多い事とは無関係ではない、という指摘もある。
                                                          
民明書房刊『アイヌと和人の歴史』より                                              


肉弾三勇士

上海事変において、上海郊外の難攻不落の要塞、下北沢(シャーペイツァオ)攻略のため、要塞に潜入して
司令官田仁丘(でんじんきゅう)を暗殺し自らも戦死した第16特務部隊の多田野上等兵、大坊一等兵、波多野一等兵の三人を指す。
美談として広く報道され反響を呼び、三人は無比の勇士としてその武功を讃えられた。
                                                          
しかし実際は、三人は中国軍の捕虜となっていたことが後の研究で判明した。しかも田仁丘は男色家であり、三人を散々に嬲って
いたという。しかし彼は不注意で拳銃を奪われてしまい、逆に強姦されて射殺された。あまりにも破廉恥だったため、隠蔽工作として
日本軍は美談をでっち上げ、中国軍も黙殺せざるを得なかったというのが真相である。
                                                          
近年、この真相を元にして作られたホモビデオが日本で出回っていたが中国側の圧力で全て回収されたという。だが動画サイトに
その一部始終が公開されたことで、肉弾三勇士の真相は広く日本にも知られることとなった。

民明書房刊『戦争の裏側』より                                                  
58民明書房:2010/09/18(土) 19:11:07 0
二十四回姦                                                         
                                                              
 古代から中国に伝わる男性同性愛者間の精力鍛錬法。
大抵の場合短髪で体格の優れた男達が砂雨納と呼ばれる蒸し風呂の中で性行為を行うと
いうものである。行為中は「阿」「威具」「尾負」「押忍」などの声を連呼するのが作法。
短髪で体格がよくないと性交渉の相手が見つかりにくい傾向があり、そのため体を
鍛えたり、鍛錬目的で軍に身を投じるものも少なくなかった。二十四回(二十四人と、
という説も有り)性行為をすると一人前と認められた。
 ここで認められたものは同性愛者間のネットワークでその名が中国全土に広がり、
誘いの手紙が多数寄せられたという。唐の時代、北海郡日葉牟町の汰打乃という人物が
特に有名である。彼は真夏の夜によく中国各地の砂雨納に現れて、性行為の相手と共に
淫らな夢のような時間を過ごしたという。彼は同性愛を嫌う時の皇帝から罪に問われ
そうになったが、「女ともしました」という大胆な言い訳によって罪を免れている。
 上にあるように同性愛を嫌う時の権力者からは幾度も迫害を受けたが、いつの世も
同性愛者が絶えることは無く、形を変え現在に至っている。
                                                              
 現在世界各地にサウナが多くあるが、同性愛者(もち男!)の社交場として存続
している店もある。このような店は二十四回姦から端を発していることは賢明な
読者諸兄にはお分かりであろう。
                                                              
民明書房刊『中国四千年の歴史 性の巻』より抜粋                                       
                                                              
                                                              
ネッ・トリダ・イボーフェ・ラ (1893〜1919 仏)                                         
                                                              
 フランスの軍人。士官として第一次世界大戦に参加するが、車を運転中に将軍の車へ
追突してしまい懲罰的に最前線に送られる。以後休暇を与えられることも無く西部戦線で
戦い続ける。激戦の中で昇進を重ねるが、その出世を妬んだ士官学校時代の同期生が
たった一度の過ちである士官学校時代の同性愛行為について針小棒大に触れ回った。
 この暴露スキャンダルはより一層彼の立場を悪くした。士官学校時代の先輩が「彼は私の
指図に従っただけで彼は同性愛者ではない。これだけははっきり言っておきたかった」と
声明を出したが騒ぎは収まらなかった。以後、彼はヴェルダン、ソンム、パッシェンデールと
激戦の渦中で常に先頭で戦い、ニベル攻勢では反乱を起こした兵士を宣撫して回った。
彼は功績からもっと昇進してもよかったがスキャンダルの影響は戦争が終結に近づいても
なくならなかった。彼は最終攻勢で重傷を負い、倒れた。パリの病院でヴェルサイユ条約の
締結とともに死去。                                                    
 スキャンダルを暴露した同級生はシャンパンで汚れた服をクリーニング屋へ持っていく途中
背後から肛門を拳銃で撃たれて死亡した。犯人は現在に至るまで不明。
                                                              
 現在ではこの若くして戦死した士官を再評価する動きがある。                                 
                                                              
民明書房刊『第一次世界大戦人名鑑』より                                           
59民明書房:2010/09/18(土) 19:17:45 0
莫臂笥団(ばくぴすとん)                                             
 戦国時代の城攻めにおいて名前を知られた集団の名称。
彼らは特に城門を破ることを得意としている。城門を破る際には「菊門破り」と言われる彼らが
独自に開発した城門破りの兵器を使用した。これは通常の破城槌よりも扱いが難しく、下半身、
特に臀部の力を必要とされた。使用方法は城門に突撃して破壊するのが主な方法だが、一度で
破壊できなかった場合は後ろに下がり再び突撃する。この前後運動を驚異的な速度で行うため
どのような城門も短時間で破られた。彼らの集団内部では城門を破ることを「菊門開通」という
言葉で表現した。また、度胸のあるところを見せ味方の士気を上げる目的も込めて大抵の場合
褌一丁で城攻めに臨んだ。
 越中谷岡家の多田野作十郎は、莫臂笥団を率いて毎年真夏の夜に城攻めを行い、十六年間に
八百九十三の門を打ち破り、合わせて三十四の城砦を攻め落としたと言われている。
その模様は『越中古戦録』に「真夏ノ夜皆淫夢ニ耽リタルヲ攻メ、十六年間八百九十三菊門開通
三十四城砦ヲ悉ク席巻シ、谷岡家天下ニ対シ大イニ面目ヲ施シタリ。莫臂笥団ハ広ク其ノ名ヲ
知ラシメタリ」と記されている
 現在使われているピストン運動という言葉も、莫臂笥団がその言葉の由来となっていることは
賢明な読者諸氏にはお分かりいただけると思う。
民明書房刊『異能集団 -歴史を影から支えた者達-』より抜粋


バトル・オブ・アンダーノースクリーク
(Battle of UnderNorthCreek 日本語訳:下北沢の戦い)
 インムランド王国の第893代国王タニオカ88世は、隣国のリッキョウ王国を我が物に
しようと企んでいた。その動きを察知したリッキョウ王国のタダノ将軍はカントク国王へ連絡。
カントク国王は直ちに出兵することを決意、ヤキュウ騎士団、ニッペ騎士団、SMBC騎士団が
出陣。これに対しインムランド王国は、ヤクザ騎士団、ゴクドウ騎士団、センチュリー騎士団を
タニオカ88世が自ら率いた。
 両軍はセタガヤ地方のアンダーノースクリークに布陣。ニッペ騎士団のダイボー将軍が
アズマズシに位置しているセンチュリー騎士団の背後を急襲して序盤はリッキョウ王国が
戦いを有利に進めていった。用兵ハッテン家としても知られるタニオカ88世は、クルルァの
陣を敷き反撃に転じた。これに対し、タダノ将軍がイーファスピッチ戦法で一転攻勢するなど
戦況は一進一退であった。
 この戦局を動かしたのは裏切りであった。ヤキュウ騎士団の一員であるカミシゲが、
タダノ将軍への妬みから、リッキョウ側のドラフト戦法の内容をタニオカ88世に
漏らしたのである。カミシゲは、大金を受け取りニッテレ公国へ姿をくらました。
このためリッキョウ側の攻撃は失敗、リッキョウ王国は敗北寸前であった。この危機に際し、
ロクダイガク同盟の一員であったメイジ王国からキヨノ将軍率いるラグビー騎士団が
リッキョウを助けるため参戦。リッキョウ側の三騎士団も最後の力を振り絞って反撃。
後に「タイイクブインの逆襲」と呼ばれるほどの激しい攻撃だった。
 この結果リッキョウ側が勝利し、ニッペ騎士団のダイボー将軍がタニオカ88世を
討ち取った。こうしてインムランド王国の野望をくじき、リッキョウ王国はその命脈を保った。
この戦いは後に「バトル・オブ・アンダーノースクリーク」日本語で「下北沢の戦い」と
呼ばれるようになった。
民明書房刊『中世ヨーロッパの興亡』より抜粋


【バビロン】
古バビロニア王国の遺跡で発見された歴史書。タイトルはないので発見場所のバビロンと
呼ばれるのが一般的である。
この歴史書の記述法は「史楼塗」と呼ばれ後の史書の記述法のスタンダードとなった。
文字は楔形文字で書かれているが、一部未解読の文字がある。
日本統治時代、韓国の京城大学教授ホ・モガチ教授が発見したことからホ文字と呼ばれる。
楔形文字の部分には鉄の車同士が衝突すること、宗教的な観念がないため性行為に男性女性の
区別がないことが記されている。
ホ文字の部分には、漢字の前身である甲骨文字に近い形の文字があり「多」「谷」
「羽」「大」といった漢字に似た書体が発見されている。
また近年、ドイツ・ハッテンベルク大学教授ヤラナ=イカー氏は
「ホ文字にはアルファベットに近いK Y Nなどの文字がある」と発表しバビロンの他民族との
関係や、バビロニア王国の発展の経緯などを指摘した。
民明書房刊『古代文字の解読史』より抜粋
60民明書房:2010/09/18(土) 19:19:36 0
馬美論                                                          
                                                          
中国は明〜清時代、古代中東の都市名を冠した芸人・文化人の集団。
構成員は男性だけであり、女性はいない。縁日の大道芸から出版・演劇、
貴人を相手にした詩歌、絵画や陶芸などの芸術にまで活動範囲は及んでいる。
社会的な混乱が広がっていた当時において、中国大陸の文化を支えていた。
活動している分野と地域の広さから、「古代バビロニアの都のようにこの集団が
                                                          
栄えてほしい」という願いから「馬美論」の名前でいつしか呼ばれるようになった。
                                                          
「馬美論」には一般民衆に知られていない一面があった。
それは宮中における男性皇族の男色の相手を務めることである。
男性皇族の中に男色をも嗜む者がいる場合、「馬美論」の中から美丈夫を選び出し、
男性皇族の中でも限られたものしか知らない隠し部屋にて密通を行っていた。
これは、同性愛のタブーというよりは、身分の違いが問題であったためと
考えられている。しかしながら時の権力者から様々な恩恵を受けることができた。
                                                          
中でも三十四番目に皇族の相手を務めた「太蛇野」という名前を持つ「馬美論」の若者は
真夏の夜に度々宮中の隠し部屋に招かれたという。
                                                          
明末清初の戦乱も、中国全土に散らばる「馬美論」の助け合いによって乗り切った。
清朝の元でも活動を続け、民衆、特に漢民族にとってはその文化活動が権力者に対する
不満を逸らす役目もあるからか、歴代皇帝たちも彼らの活動に口を出すことはなかった。
宮中の隠し部屋に「馬美論」の美丈夫を招いて情事を交わすことも続いていたと思われる。
                                                          
「馬美論」が歴史の表舞台から消えるのは清朝末期、辛亥革命が起きて数ヶ月してからである。
これ以後「馬美論」の名前が歴史の表舞台に出てくることはなかった。
しかしながらその知識や技術は国共内戦や文化大革命の荒波を受けながらも
現在に至るまで受け継がれていると思われる。
                                                          
民明書房刊『明末清初こぼれ話』より抜粋
61民明書房:2010/09/18(土) 19:20:53 0
発天【はってん】
発天(はってん)とは、人間が魚雷に乗って直接操舵し、敵艦に体当たりして敵艦を沈めるという兵器「回天」の改良型である
1944年に正式採用された特攻兵器回天は九三式三型魚雷に外装を取り付け人が乗る操縦スペースを確保した特攻用兵器であるが
元々の魚雷は敵艦特攻に必要とされた長時間水中航行には適しておらず、また魚雷である為に小回りのきく設計になっておらず
敵艦に当たり損ね、もう一度当たり直そうとして旋回すると、爆発しない側面から敵艦に衝突し不発に終わるといったトラブルが多く
十分な成果とは言いがたかった。

そこで軍令部の斉藤中将は回天を改良した優秀な特攻兵器の開発、運用を命じ下北兵器廠によって発天は開発された。
当初の予定より大型化したものの回天よりも小回りのきく機体となり敵艦を確実に撃沈するための改良が各所に施された
従来の回天では一人乗りで潜望鏡を見るのも操縦するのも同時に行っていたが操縦者の精神・肉体的負担を軽減する為
操縦スペースを拡大し、水圧に強い球体状の操縦席を魚雷の左右に取り付け男性器を模したような外観にし
最大四人乗りとなった。また回天でしばしば見られた敵艦の装甲の厚い部分に衝突しダメージが撃沈に至らない場合も有った為
削岩用大型ドリルを魚雷先端部に取り付け、突入時に船体に大穴を開けた後操縦者が搭載した八一零式爆薬を手動で起爆させるという方式をとり
これによって敵艦の装甲内部から爆発し撃沈させるという戦艦をも容易に大破させる程の攻撃力を持った。
訓練も戦況の悪化から燃料を大量に消費する練習用回天を用いての海中訓練を中止し、代わりに自動車を用いての訓練が行なわれた。
これは発天が回天とは違い自動車とほぼ同じ操縦法を採用していた為でもある。
発天の運用部隊「菊門隊」の司令官谷岡中佐は訓練でも決して手を抜かず部下達からは「鬼の谷岡」と恐れられていたが
徴兵間もない新兵に「お前ここ(軍隊)は初めてか、力抜けよ」などの優しい言葉をかけて気遣う一面もあった。

発天の搭乗員の一人多田野少尉は全国中等学校優勝野球大会(現在の甲子園)出場経験があり
その才能を買われて立教に進学し将来は職業野球で活躍するという夢を持っていた。
また彼は男色家でもあり、その事を生かして内緒で同じ趣味の後輩二人と全裸の写真集を作り
それを同好の陸軍高官などに売って学費を稼いでいた。
彼は同じ立教出身の斉藤中将に気に入られていた為に特攻命令が同期の兵たちよりも遅く
何より地元の人間が職業野球で活躍する多田野を観たいという思いが強かった事もあり
戦争もあと少しで終わるだろうという空気も後押しして多田野を事実上特攻任務から外していた。

これを快く思わなかったのは同じ立教から徴兵された上重少尉であった
彼は多田野より一足先に徴兵され、前線での負傷により職業野球への道を断たれた事を逆恨みし
多田野が仲間内にしか話していなかった男色趣味を新聞社やあらゆる報道機関に吹聴した。
その事が原因で陸軍将兵との痴態が写っている写真が新聞の一面を飾る事となった
この事を知った斉藤中将は「なぜ、男なんだ!!」と彼を厳しく叱責したという。その後責任を取り斉藤中将は要職を外された為
これにより軍内部での多田野の立場は一層悪化した。
今まで好意的に接してくれた街の人々も「大きなマラが好きなら早くアメさんの船に突っ込んで来い」、「国の恥は早く死んで来い!」といった
厳しい中傷を多田野に浴びせるようになった。
軍高官の後ろ盾が無くなった彼についに正式な特攻命令が下された。

月10日の真夏の暑い夜中に多田野は出撃する事となった
通常の特攻であれば同じ基地や隊の仲間が見送っての出撃が当たり前だが
多田野には民間人の母親と友人2人が見送りに来たのみで、谷岡中佐も兵舎から一言も声を掛けずに多田野を見つめていた
母親に最後の別れを告げ、遺書を託し発天に乗り込もうとすると
同じ立教の後輩で整備兵として配属されていた大坊・羽田野両軍曹が
「先輩一人を逝かせるのは忍びない」「この機に塗装したのは自分ですから最後まで面倒みます」と言って強引に発天に乗り込んだ

簡単な言葉のやり取りをしたのち、出撃した彼らは二度と還ってくる事は無かった

その翌日偵察機からの報告によってアメリカ軍USS-CENTURY DE-893駆逐艦「センチュリー」の艦尾に
発天が突き刺さったまま炎上しているとの報告を受けた後谷岡中佐は自らの臀部を拳銃で撃ち抜き
自らの責任を果たすかのごとく三日三晩苦しんだ末死亡した。

民明書房刊『散るぞ散るぞと悲しき菊の華』より抜粋
62民明書房:2010/09/18(土) 19:25:43 0
速櫛 露夜【はやくし・ろよ】
(文化13(1816)年〜明治26(1893)年)

幕末から明治中期にかけて活躍した政治家の一人。生家は「谷岡」を名乗っている。
速櫛が倒幕を志した理由は諸説あるが、一説には谷岡家の親族が揃って
脅しによる金品や貞操の剥奪を行っていたことに嫌気が差し、
跡を継ぐことをためらったためと言われている。
家を出た後、速櫛は各地の藩校に学び、吉田松陰に師事したが、その向学心の高さや
頭脳の明晰さから、倒幕の実現を恐れる浪士により何度も命を狙われたこともあった。
ある夜、速櫛は同志たちと酒を飲んで帰る途中、運悪く佐幕派の浪士に後ろからぶつかってしまう。
浪士は速櫛に対し金品と関所手形を要求したが、速櫛はその頭脳を駆使して逆に志士らをやりこめ、
一滴の血も流すことなく一転攻勢に出たという逸話も残っている。
やがて速櫛は、活動のかたわらで学んでいた外国語を活かし、
志士の中でも外国人との折衝を担当する役回りを引き受けるようになった。
維新実現の半年ほど前、ドイツ人兵器技師スカゥトナー・ホモビッシュツェンとの交渉を終えた速櫛は
「ところで、私の国には『日焼け』という文化がある。
 うちの船に広い甲板があるのだが、焼いていかないか」
と持ちかけられる。                                                     
ところが、これは外国と手を組んだ佐幕派の罠で、油断に乗じて速櫛を監禁・殺害しようという
浪士たちの仕組んだ謀略だった。                                               
速櫛はうかつにもこれに引っかかってしまい、甲板で眠っていたところを浪士に襲撃される。
だが速櫛はここでもその頭脳を活かして自論をとうとうと述べ、
浪士たちを感服のあまり四つん這いの姿勢にさせた、というエピソードもある。
その後、維新を果たした後の日本でも速櫛は大いに活躍し、
類まれなる頭脳と弁舌で諸外国との交渉に当たった。
その外交手腕は陸奥宗光と並んで一級品だと称された。
余談であるが、性格的には速櫛はかなりせっかちだったらしく、
人を急かしたり、早口のあまり何を言っているのか聞き取りづらいといったこともあったようだ。
特に「車海老」などはいつも「クルルァ海老」などと発音していたようである。
現在、乱暴な口調で急かす言葉として使われる「早くしろよ」は、
フルネームの「速櫛露夜」に由来するとの説を唱える言語学者もいる。
                                                              
民明書房刊『維新の志士達の群像』より抜粋                                          
                                                              
                                                              

刃役代止(はやくしろよ)                                                     
                                                              
戦で敗走した場合などに大将が自国まで帰る際に、大将が殿に対して、又は自ら殿を買って出た武将が使ったと
される言葉。
殿軍は非常に危険かつ大変な役目なので、功を上げる為に志願する者や大将に忠義を尽くす知勇に優れた武将が
つとめたとされる。
その際に「襲いかかる刃(刀)を止める役を代わりにやる」という意志表示として使われ始めた言葉が刃役代止と
言われている。
刃とはすなわち追い掛けて来る敵軍勢や伏兵などの後方の脅威を表す意味を持っており、
役代止は読んで字の如く、それを止める役を大将の代わりにやるという意味である。
刃役代止とは戦場から逃げる際に使われた言葉だけあり、焦っている様子や必死な様子が急かしている時に使う
「早くしろよ」に転じたとされている。
                                                              
民明書房刊『軍隊用語辞典 古代〜中世』より抜粋                                         
63民明書房:2010/09/18(土) 19:29:01 0
棒読(Bang Du)
(紀元前389年 - 紀元前316年)

中国戦国時代の遊説家。諸国を説いて合従を成立させたと言われる。

魏の下北の人で、遊説家を志し棒読は当時の大国である秦に行き、弁論術を学ぶ。
その後、諸国を放浪し、君主を説いて回ったが中々受け入れてもらえず、
困窮して郷里に帰った所を親族に嘲笑され、一念発起し東の大国、斉に向かう。
そこで斉の元高官であり当時、発展山に隠棲していた谷岡に教えを請う。
ただ谷岡は大変な男色家であり、容姿端麗であった棒読に対し 弁論術を教える変わりにその肉体を要求し、棒読はこの要求を呑む。
棒読の独特の弁論スタイルは、ここ発展山での修行で身についたものと 今では考えられている。

その後、棒読は秦に向かい、恵王に進言したが、受け入れられなかった。
これは当時秦で宰相に迎えられていた谷岡が恵王との情交関係のもつれから 死刑になった直後で、弁舌の士が好まれなかったためと言われる。
その後、燕の文公に仕え、趙との同盟を成立させ、更に韓・魏・斉・楚の王を説いて回り、 秦を除いた全ての国の間に同盟を成立させ、
その六国の宰相を兼ねたと言われる。

当時、諸国の王の下には仕官を求めて多数の遊説家が押し寄せていた。
そのため遊説家と王との面談は1度に限られており、1度の面談で、どこまで王に強い 印象を残せるかが重要であった。
棒読の弁論スタイルは他の遊説家と異なり平易で抑揚が無くまるで文章をその場で読み上げるが如き
独特のものでこのような弁論スタイルを見たことが無かった諸国の王たちに強烈な印象を与えたものと思われる。

この棒読の弁論スタイルは「棒読術」と呼ばれ、その後遊説家を志す若者たちが先を争って学んだと言われている。
なお現在、日本においても棒読に似た言い回しを 「棒読み」と表現するのは「棒読術」に由来すると主張する言語学者も多い。
                                                                
民明書房刊『中国戦国時代こぼれ話』より抜粋
                                                                
                                                                
福沢ヴォ吉「ホモのすゝめ」

「天はハッテン場の上に人を造り、その人の下にもう一人男を造ったと言えり。
されば天よりホモを生ずるには、万人はホモのみ皆同じ位にして、
ヤッてる最中は格差上下の差別無く、万物とも言えるマラたる身と頭の精神を統一して
天地の間にある王者のブツを咥え、もってセンズリし射精の用を足し、自由自在、互いに人のブツを握り
各々安楽にこの世の快感を知らしめ王者の座を奪うこと趣意なり。
されども今広くこのホモ世界を見渡すに、ハッスルしている人あり、スローなる人あり、糞親父もあり、
マッチョもあり、長髪もあり、学生もありて、その有様尿と糞との相違あるに似たるは何ぞや。
その次第甚だ明らかなり。大坊教に、人ハッテンせずばホモの資格なし、資格無き者は愚人なりとあり。
さればホモと愚人との別は、ヤるとヤらざるとに由って出来るものなり。
また世の中にむつかしきマラもあり、やすきマラもあり。
そのむつかしきマラを咥えるものをホモと名づけ、やすきマラを咥えるものを売春婦と言う。
全てアナルを用いイカせる仕事はむつかしくて、子宮に繋がる膣はやすし。
故に、男同士のセックス、男同士の69、男同士の咥えあいなどは、精神しっかりして貴き者というべし。
玉も重くして貴ければ自ずからその家はハッテン場と化し、咥えあいをしている部下から見ればそのサイズなど
無理と思わざるを得ないが、
その本を尋ねればただその人のハッテン回数が多きか少なきかとに由ってその相違も出来たるのみにて、
ハッテンの法則より定めたる約束にあらず。

福沢ヴォ吉(1810〜1893)ハッテン学問を切り開き、ホモに活路を見出した。
後に現在の「日本の大学のオフッ!」とも言われるゲイ応義塾を作る。
ゲイ応からのホモは年々ホモが減ってきているが、有名なホモビ男優が活躍している。
生徒曰く、福沢ヴォ吉様のホモ精神は私の人生に光を授けてくれた、という。

民明書房刊『ハッテン的教育者のイキ様』より抜粋
64民明書房:2010/09/18(土) 19:34:11 0
ブラックセンチュリー
【学名】Black Century
ユリ科[アッーガパンツ属](アフリカアヌス種)
【原産地】日本(東京都世田谷区)
【和名】おぎく(尾菊)
【特徴】                                                          
ネットリデス・シャブレリウス(Nettorideath Chablarious)の交配種。
下北沢の園芸愛好家が個人的に交配したものを
偶然通りかかった種苗研究者が発見し、
園芸種として研究・販売して全国に広まった。
この植物の名前は、交配した愛好家の愛車が
黒のセンチュリーであったことに由来するといわれている。
                                                                
真夏に菊の花に似た花を開花させるが、
一晩だけ、しかも真夜中にしか開花しないうえに
開花の周期が16年に一度と長いため、
愛好家の間では珍奇な花として人気が高い。
                                                                
【管理】
ダイヴォー(タンショウ目オマエナカタ科)と共生関係にあるので、
近隣でダイヴォーを飼育すると天敵から植物を守りやすい。
                                                                
民明書房刊「日陰で育つ植物893種」より抜粋
                                                                
                                                                
棒苦(ぼうく)
                                                                
 古代中国における罪名および刑罰の一つ。
当時は、貴族や官吏など位の高い者に対して決められた動作で礼をしなければならなかった。
しかしこの礼法を守らない者が多かったために、普及を進め、またそれにより権威付けを
図ろうとする目的もあって新たに棒苦という罪を設けた。
 これは、決められた動作をしなかった者に対してはこの罪を適用し、罰を与えて以って
礼法の遵守・普及の促進を目指した。罰の内容は、秦班(しん ぱん)と安杯矢(あん ぱいや)が
定め、施行された。棒苦の罪を犯したものは、罪名どおり棒を持って様々な苦痛を与えられた。
中でも苦痛と恥辱をもたらしたのは、棒を肛門に入れて何度も抜き差しすることであった。
この刑は公開で行われ、民衆に上下関係を植え付ける目的もあった。
 中にはこの刑罰に性的快感を見出す者がいたため、他に罰金を科すという二通りの刑罰を
用意し受刑者の性癖に合わせて適用していった。
                                                                
 ただ、棒を使った罰を与えるよりも罰金を科すほうが権力階級にとっても収入になるため、
時とともに罰金刑としての面が色濃くなっていった。また、地域によって礼法を微妙に
変化させ、他の地域からやってきた慣れない者から少しでも多く罰金を取ろうという
地方も出てきた。記録によると、田騨乃(た だの)という旅行者は一年間に七回も棒苦の
罰を受けることになった。本人は「悪法といえども法なので刑に服さなければならない」と
言い残している。その一方で何度も罰金を払ったため路銀が底を尽き、男娼まがいのことも
しながら旅費を稼いでいたという。これについては「当時は若くお金が必要だった。しかし、
私は同性愛者ではない。これだけははっきり言っておきたかった」と書き記している。
 別の記録には、田騨乃は棒責めの刑を受けるとむしろ性的興奮を催したとある。これが
中国全土に伝わり各地方で罰を受けるときは罰金の支払いを命ぜられたとも記されている。

 こうして民衆に対して猛威を振るった棒苦の罪刑であるが、これに不満を持った民衆は
真夏の夜に反乱が起き、三十四日間の反乱後、棒苦の罪刑は廃止されるに至った。

民明書房刊『中国刑罰の変遷』より抜粋
65民明書房:2010/09/18(土) 19:35:31 0
HMJ(ホモメタル・ジャケット)
                                                          
きさま身長は?
                                                          
(181センチです、サー!)
                                                          
まるでそびえ立つクソだ サバ読んでるのか?
                                                          
(Sir,No Sir!)
                                                          
ふざけるな!
パパの精液がシーツのシミになり、ママの割れ目に残ったカスがおまえだ!
どこの穴で育った?
                                                          
(東京です、サー!)
                                                          
Holly dog shit!
東京でとれるのは種牛とオカマ野郎だけだぞ、TDN二等兵
種牛には見えんからオカマ野郎か!
貴様もチンポ(dick)を吸うんだろ?
                                                          
(Sir,Yes Sir)
                                                          
おフェラ豚か?
                                                          
(Sir,Yes Sir)
                                                          
民明書房刊『あなたが選ぶ名台詞集 映画編』より抜粋
66民明書房:2010/09/18(土) 19:39:38 0
馬路基地訴訟(まじきちそしょう)

米軍基地に関連する訴訟の一つ。昭和42年8月1日、東京地裁第16法廷で判決が下された。
原告 東頭史(とうがしら ひろし)
被告 ダイヴォロス・ニッペリオ
概要:                                                   
昭和33年1月4日、東京都世田谷区下北沢の米軍基地・馬路基地周辺に飲食店(すし屋)を構える
原告らは、店のシャッターに描かれた落書きを目にする。
それは、男性の亀頭を模した奇妙なキャラクターを描いたもので、
デンデン太鼓を持っていたり、木登りをしていたりなど多彩な種類のものが描かれていた。
そのあまりのグロテスクさに原告の家族らは一時発狂し、入院を要する状態となった。
その後、原告らが周辺の住民とともに基地周辺の張り込みを開始したところ、
基地内に居住する米軍兵士が、酒に酔った上でシャッターや壁面、路上などに落書きをしているところを目撃。
原告らはこれを基地管理局に通告するとともに、本件落書きが不法行為を形成するとして訴訟を提起した。

判決:
被告は原告に金89万3000円を支払え。
理由:
一 本件落書きを目撃した原告の家族らは、通常の判断能力を喪失するほどに錯乱の様相を呈し、
入院後も「マジキチ、マジキチ」といううわ言を繰り返すなどその症状は重篤である。
よって、原告の家族らは本件落書きによって生活の平穏、および健康を害されたものと言わざるを得ない。
二 被告らは本件落書き行為を原告の所有する店のシャッター上に無断で行っており、
本件落書き行為は器物損壊罪を構成するから、その違法性は著しく高いと認められる。

評釈:
この判決ののち、アメリカ政府は日本全国の米軍基地に「米軍兵士の行動指針」の名で通達を発し、
この通達により、国内の米軍兵士による刑事事件の件数は減少の一途をたどった。
なお、インターネット上のスラングで「マジキチ」「>>*** 訴訟」などといったものがあるが、
これらはこの判決が元になったものであり、「マジでキチガイだからやめろ」の略などといったものではない。

民明書房『米軍基地問題判例集』


【魔槍ヨツンヴェイン】
                                                          
 ドイツに伝わる叙情詩、ニートベルンゲンの歌に登場する魔力を秘めた槍。
魔界ヨツンヘイムにある、ハッテンブルグ城の魔神ティニョーカを討つべく、 アナルヘイムの
戦士、ティディーヌらが立ち上がる。 ハッテンブルグ城に攻め込んだティディーヌは、
部下である祈祷師ディーヴォ、騎士ハティーノをティニョーカに討たれ、神剣メィンキョーショを
奪われてしまう。更に弱り果てたティディーヌに、ティニョーカが魔槍ヨツンヴェインを携え、
襲い掛かる。ヨツンヴェインの魔力に手も足も出ず、一時は平伏したティディーヌであったが、
ディーヴォ、ハティーノの亡霊が捨て身の攻撃を仕掛けたのを皮切りに一転攻勢に出る。
ついに戦士ティディーヌは、ティニョーカの魔槍を奪い取り、ティニョーカを平伏させた。
ヨツンヴェインの魔力に平伏したティニョーカの姿が「四つん這い」の語源だとも言われている。
                                                          
 また、この物語は後にシェークソピアにより「真夏の夜の淫夢」としてリメイクされる。この頃のドイツでは、
祈祷師ディーヴォが、ヨツンヴェインと融合し、ティディーヌの 勝利を祈る姿をモチーフにした、
「祈祷ディーヴォの護符」を家に飾り、国家の発展を祈願した。
しかし、違う意味で発展してしまった為、尻穴の貞操を危惧したユダヤ人により、 封印された。
ヒトラーがユダヤ人を嫌い、虐殺したのは、ユダヤ人が祈祷ディーヴォの護符を 封印したためだとする説もある。
また、祈祷ディーヴォの護符は、日本にも伝わるが、ヨツン
ヴェインと融合したディーヴォの頭部が亀頭に酷似していたためか、「亀頭ディーヴォの護符」
として流行してしまった。
                                                          
今では、ガチホモ達がハッテンを祈願する際に愛用されている。
                                                          
民明書房刊『ヨーロッパの伝承』より抜粋