【ジョジョ】異能者達の奇妙な冒険【TRPG】7

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27民明書房
穴満大坊薩(けつまんだいぼうさつ)

短  大  大  情  日  大  自  夜  日  共  作  日  短  果  真  日  亀  大
小  坊  坊  活  本  坊  之  行  毎  毎  自  本  小  笑  夏  本  頭  坊
包  之  短  同  塗  罰  過  ,r'""´`゙゙''、,  演  塗  偽  浮  之  塗  大  包
茎  陰  小  写  潰  当  去  /       l,  仕  潰  巨  等  夜  潰  坊  茎
    茎  包  真  退  仏  偽 rヽ ` ゚` :.; "゚`|. 事  表  茎  最  之  之  之  粗
        茎  出  職  怒  捏 ヾ   ,_!.!、 |  終  題  露  悪  淫  情  文  末
    大  腰  演  之  仁  造 . _>  ---  /  了  於  茎  体  夢  賜  字  陰
    便  抜  想  後  触  _/|, `゙ヽー--ノヽ、,_.   自  風  現  於  大  絵  茎
    残      像  同  rー'""l,  'l,     / .| ||/`>、、  説  者  自  学  始  残
    留      大  性  /    |   'l,    /  .|./》/ ∧   流  受  之  四  様  留
           坊  愛 /  , | ヽ   ヽ,、/.@ / 《l,l / ヽ 布  罰  罪  年  々  谷
    汚      訴  欲 /  、,ヽ|/ ヾ。ツ`' 「ゞ / /《ヾ  /゙ヽ    相  先  冬  成  岡
    物      訟   ./  ///l`゙'゙ー-'"  / // ノ// //`l、   応  輩  就  絵   之
    体      不  ,|.  /// |  |___,,,ノ≡≡ツノ//_,,-‐'"".l,   大  担  職  創  大
    表      可  | /// /|    /二=‐'"´´/ /`゙゙'ー-、,_.l    坊  大  内  作   便
            何  |/// / |   /|三="´  / //"´´゙'ー、|    不  坊  定  賜
    者      故  ///ノ   ノ ノ ノ‐-二‐'"´ ノ/r=、,_ー-、_|    浄  惚  賜  者

※上図は『日本発展紀』に記された穴満大坊薩。背後は経文。

 
28民明書房:2010/09/16(木) 18:36:46 0
日本の男性にのみ信仰される神。男性の「性と精」を司る。
最初に穴満大坊薩の言葉が確認されたのは『日本発展紀』が著された810年である。
その第一章で極道(きわめみち)山の僧侶・谷岡僧正が893日間の荒行の末、背後からぶつかる
ような「声」を聞いたことがきっかけとなっている。谷岡僧正が振り返ったところ穴満大坊薩と
名乗る修行僧が顔色が少し悪くややこわばった表情で立っていた。その修行僧は「魔羅増大」
「精力絶倫」に尽くすよう谷岡僧正に告げて忽然と消えた。谷岡僧正は心中の霧がすっかり晴れ、
この教えを世に広めるため尽力する。時には脅迫的な態度で臨んだというが後世の創作である。

 その後は穴満大坊薩を信仰する者が増大した。教え自体が間接的にせよ社会に寄与するものと
考えられたためという。時の権力者達も危険視せず、その教えを信仰・実践する者が多かった。
こうして全ての社会階級の者が穴満大坊薩を信仰するようになった。
 ただ、その教えから信仰者は男性のみで修行も男性だけで行われた。とりわけ真夏の暑い夜に
修行者が極道山に集まって16日間に及ぶ修行に精を出した。基本的な肉体・精神の鍛錬は一人で
行えるものの、魔羅・精力の鍛錬は男性の菊門を使わなければならなかった。これは後の武家に
見られる衆道の一因となっていく。
 戦国時代でも子孫を残すということが大事なこととされたため、穴満大坊薩の信仰は大切に
された。比叡山焼き討ちで知られる織田信長も極道山の穴満大坊薩に対しては終生信仰心を持ち
手厚く保護している(若き日の信長も真夏の夜の修行に参加した経験があると言われている)。

 明治時代の廃仏毀釈も穴満大坊薩の信仰理由を知る者達が明治政府にもいたため、特に
不利益な扱いを受けるようなことはなかった。逆に今まで寺らしいものがなかった極道山に
「坊読寺(ぼうよみでら)」を建設した。信徒の間ではこれを『日本発展紀』とかけあわせ
「発展場」と呼んだ。大東亜戦争の間も国に寄与するものと判断され何の干渉も無かった。
勇敢に戦う将兵の中に穴満大坊薩を信仰するものが多数いたと言われている。
 戦後GHQにより穴満大坊薩信仰が禁止されるのでは、と危ぶまれたが極道山を訪れたGHQ
幹部達は真夏の夜の修行を目の当たりにして「オゥ!ホットフェスティバル!」と驚嘆した。
このことは駐留している連合軍兵士に広まり「将兵の間でも“極道山に行ったかい?”が挨拶に
なっているほどだよ」と言われるほどになり、GHQからもむしろ見習う者が出たため
穴満大坊薩信仰は現在まで存続している。

 現在でも真夏の夜の修行は続いているが、他地域で見られるような男性器をかたどった像を
出して触れたりねり歩く奇祭(俗に言う"ちんこ祭")のように女性も参加したり、物珍しさや
好奇心が先行するような要素は一切排除されている。「魔羅増大」「精力絶倫」の教えを守り
続け受け継いでいる模様は穴満大坊薩を信仰していない者でも心を打たれると言われている。
 なお、明治時代に作られた坊読寺=発展場は現在「ハッテン場」として男性の同性愛者の
サロンとして全国に広がっているが、特に寺院の形式をしているわけではない。

民明書房刊『日本宗教のハッテン史』より抜粋
29民明書房:2010/09/16(木) 18:38:12 0
世界の国歌
(改変元:フルルァンス共和国国歌 元の歌は8番までありますが2番までのみにしておきます)


一番

さあ、サッカー部員の子供たちよ、出演の日がやってきた
我らに向かって、893の黒塗られたセンチュリーが停まっている
血塗られた旗がはためいている。
ハッテン場で、ガチムチな兵士たちがうごめいている汚い音が聞こえるか?
息子や仲間たちの*を掘りに、ヤツらは我らの元へとやって来ている
肉棒を取れ、男たちよ、そして敵とハッテンせよ!
進め!進め!(Marchons! marchons!)あの汚れた精液を我らの*に飲み込ませてやるのだ

二番 

棒読みのスカウトマンが我らの窓際自慰の手を導き、支えてくれる
某社の営業マンが、巨根なのに空気のイケメンが君を掘る者たちとともに自分を売ってくれる
君を掘る者たちとともに戦ってくれる
我らが*のもと、絶頂が君のアッー!の雄叫びに答えて駆けつけますように!
息も絶え絶えになった君の敵のチンポどもが君の絶頂と我らが恍惚を目の当たりにしますように!
肉棒を取れ、男たちよ、そして敵とハッテンせよ!
進め!進め!(Marchons! marchons!)あの汚れた精液を我らの*に飲み込ませてやるのだ


(改変元:ソビエト連邦国歌 3番まであります)

1,
自由なる*の揺ぎ無い連結を
偉大なる兄貴は永久に結びつけた!
皆讃えよう 男たちの
力強き SVET連邦を!

(コーラス)
讃えられて在れ 自由なる我らが*よ
男たちのハッテンの堅き連結
同志LENN兄貴の党 - 男たちの精力は
私たちを 同性愛主義の勝利へと導く!

2,
自由なるホモの精液はノンケの血をかき消し我が*弄る
そして同志LENN兄貴は男たちの肉棒を奮い勃たせ
正義の偉業 大いなるハッテンに男たちを奮起させた

(コーラス)

3,
崇高なる同性愛主義の未来に
私たちは偉大なる祖国のハッテンを見る
翻る祖国の汚い旗に 永遠の四つん這いする事を誓う

(コーラス)

民明書房刊『世界の国家・近現代編』より抜粋
30民明書房:2010/09/16(木) 18:40:02 0
古都・コポレシオン
 現在のブリタニア(イギリス)に存在した都市国家。
元首センチュリー・タニオカの元、ピッチ・タダノ、リボルバー・ダイボ、エア・ハッータノの
3人の将軍が武勇に優れ、版図を広げんとするローマ帝国の侵攻に対し、一進一退の攻防を
繰り広げた。
 この都市国家には、男は女を愛すると同時に男同士でも愛し合うという風習があった。
このため、戦争の際は兵士達の間に強力な結束がありローマ帝国の力を持ってしても容易には
攻め落とすことができなかった。この風習を根絶やしにしたい、かつブリタニアを征服したい
ローマはなんとしてもこの都市国家を攻め落とさねばならなかった。
そこで、これまでの戦いを分析することにした。
 分析の結果、一つの傾向が判明した。ローマの軍を率いる将軍の名前についてである。
これまで優勢に戦いを進めた将軍の名前は、ハドリアヌス、ユスティニアヌス、ユリアヌス、
など名前の最後が「アヌス」になっていることが判明した。
そこでローマは上記の3人をはじめ、名前の最後が「アヌス」となっている将兵を集めて軍を
編成した。また、既に引退していた老将アナルアヌス将軍を召しだし、この遠征軍を
率いさせることにした。
 コポレシオンでは「アヌスの軍団がやってくる」「アナルが軍を率いている」などの情報が流れ、
将兵は少なからず動揺した。激しい戦いの末、ついにコポレシオンは陥落し元首タニオカや
3人の将軍も戦死した。この都市国家にかつてのカルタゴの姿を見たローマは、この地を
徹底的に破壊することにした。まず、この都市国家の男同士の愛という風習を嫌うローマは
生き残った男は老若問わず肛門へボウガンを打ち込み虐殺した。そして、土地に塩を撒いて
使えないようにし、建築物も全て破壊して焦土化を徹底した。
 女性は何故か丁重に扱われ、市民権を与えられた上に全員ヨーロッパへ移された後、
自由の身になった。
 こうして歴史の中に埋没していったコポレシオンだが、1893年ヤージュ・センパーという
考古学者がローマの文献からこの都市国家の位置を探し当て、発掘の結果破壊を免れた男同士が
絡み合う像が出土した。こうして古都・コポレシオンの存在が世界的に知られることになった。

民明書房刊『パックス・ロマーナへの道』より抜粋


航海王ナニィ・ハターニョ(1480-1543)

 ポルトガルの冒険家、航海家。発展家とも言われている。
ポルトガルにあるリッキョーニャ公国に生まれたハターニョは幼いころから山野を巡り歩いた。
当時はイスラム勢力との戦いが続いていたため、海に出る事はできなかった。その憂さを
晴らすため、湖に船で漕ぎ出したりしていた。その際、船の上で人目につくように自慰を
行っていたという噂もある。
 イスラム勢力との戦争に参加したハターニョは、捕虜から航海術を聞きだし海へ出たいという
欲をかき立てられた。噂によると、同僚との賭けに負けて捕虜達の前で自慰を行ったという。
 戦後、船乗りの道を進んだハターニョは公王アウトスターフ19世が組織した大船団の
一員として出発した。喜望峰発見は先を越されたがキトウダイ峰の第一発見者になった。
新大陸にも赴き、センチュリー島、ヤクザーニョ島の征服に活躍し、帰国後船長に昇進した。
この時、長い航海の退屈をしのぐため、船員達に自慰を見せたという噂が残っている。
 船長として東南アジアへ出航し、ケツーホリ島、東ホモール島の征服を行う。
船員の間ではハターニョが現地人に西洋風の自慰行為を見せ付けたという噂が立った。
 帰国後は船団を任され、日本に向け出発するが嵐に遭い船団はハターニョの船以外
全滅してしまう。何とか辿り着いた九州目前で倭寇の谷岡某の船にぶつかってしまいハターニョは
監禁されてしまう。船員の機転で谷岡の火縄銃を奪い一転攻勢に出、谷岡を射殺するが
ハターニョは倭寇の船にあった火薬樽を爆破し谷岡の船もろとも海に沈んだ。
残った船員と宣教師は種子島に漂着し、奪った火縄銃を日本人にもたらした。
生き残った倭寇の話によると谷岡に強制的に自慰をさせられていたという。
 ハターニョの事績は歴史に名を残してもよさそうだが、行く先々で自慰を見せているという
噂が絶えなかったため、ポルトガルでもあまり触れられず黒歴史となっている雰囲気がある。
ただ近年ではこの奇癖を持つ航海家を評価しようとする動きもある。

民明書房刊 『大航海時代 〜世界のケツ合〜』より抜粋
31民明書房:2010/09/16(木) 19:29:21 0
鎖苦羅免斗(さくらめんと)                                               
                                                      
 戦国時代、備前の刀匠菊ェ門(きくえもん)が鍛えた銘刀。                           
鞘・刀身・鍔・柄のどれをとっても魅入られない武士はおらず、各地から求めて来る者が                       
絶えなかった。菊ェ門は自分がこれだと思った人物に売ろうと思っていたので別の刀を                  
売り続けていた。また、この段階ではまだ「鎖苦羅免斗」の名前は付いていなかった。                        
                                                           
 そのころ、伊予谷岡家では多田野阿名留介(ただの あなるのすけ)が主君谷岡九流留亜斎                    
(たにおか くるるあさい)が寵愛していた小姓の上重地栗助(かみしげ ちくりのすけ)に手を出して                  
しまい、家中から追放されていた。多田野は流浪の末に備前へ渡り、菊ェ門の鍛冶場を訪ねた際                  
一本の刀が目に入った。これこそが菊ェ門が売らずにいた刀であった。                              
多田野は自身の境遇を語り、この名刀を買って手土産にして谷岡家への復帰をしたいと申し出た。                 
菊ェ門は多田野の境遇と忠誠に感じ入り刀を売ることにした。この時「鎖のように己を縛る                    
苦しい境遇から免れるため修羅のように戦う」の意味を込めて「鎖苦羅免斗」と名づけた。                    
                                                            
 この刀を手土産に土佐へ戻り、谷岡家への帰参を許された多田野は多くの合戦で手柄を挙げ               
後に谷岡から「鎖苦羅免斗」を与えられた。その後も河野家との戦いで豪傑、荒楠 路土利外州                
(あれくす ろどりげす)、長宗我部家との戦いで侍大将、間宛井 舞羅雲(まあてい ぶらうん)を               
討ち取るなど多田野と「鎖苦羅免斗」の名前は知れ渡っていった。このため東の「鬼棲雷打」を鍛えた         
刀匠数人(かずひと)に対して西の「鎖苦羅免斗」を鍛えた菊ェ門は並び称されることになった。               
                                                            
 こうして長きに渡り谷岡家を支えた多田野であったが、しかし1583年四国統一を目指す                     
長宗我部元親の侵攻を受けて居城である追戸津城が落城。谷岡は自害、多田野も討ち死にした。          
しかし、討ち死にした多田野の遺体はどこを探しても見つからず追戸津上の本丸に「鎖苦羅免斗」が         
残されているだけであった。「鎖苦羅免斗」は長宗我部家の手に渡り、後に豊臣家に献上された          
ものの、関が原、大阪の陣を経て徳川家のものとなった。その後幕末の動乱期に京都へ赴く          
会津藩に授与され、さらに新撰組に与えられた。この刀を新撰組の誰が所持していたかは記録に        
残っていないが、函館戦争まで新撰組とともにあった。降伏後は新政府軍の渡るのを          
よしとしなかった新撰組隊士の手によって五稜郭のいずこかに埋められたという。             
                                                             
 百数十年後、北海道の地にアメリカの野球チーム「サクラメント」・リバーキャッツから                  
一人の日本人選手が移籍してきた。その選手が多田野という名前だったのは歴史のいたずらと               
思うものも少なくない。

民明書房刊『日本刀の歴史と逸話』より                                           
32民明書房:2010/09/16(木) 19:36:43 0
サトゥーシェ・ディボウ(Satuche Debaut)
(1768年〜1832年)
ネトリエンヌ侯爵(Le marquis de Netorrienne)(1808年)
                                                                
フランスの軍人。ヤキュウール町(ville de Yaquioulle)出身。幼いころから走ることや馬の扱いに長けていた。フランス革命前の軍隊に入隊。
旧体制のため、下士官どまりであったが革命が起きるとこれを支持。
革命戦争に従軍、イタリア遠征軍に参加。1796年にボナパルト将軍が総司令官としてやってくると大隊長に任命される。
ボナパルト司令官の機動戦術に大きく貢献。敵陣の背後に回りこんで後ろから襲い掛かる戦法で力を発揮した。
このため彼は「追突ディボウ」と呼ばれた。さらに第88半旅団長に昇進。
その後スイス方面へ転戦、オーストリア軍タニオカベルガーの部隊を背後から急襲。
ディボウ自身が拳銃で退却するタニオカベルガー背後から討ち取る。さらにロシア軍のタダノヴィッチ将軍の部隊を撃破。
タダノヴィッチの侯爵位贈呈の話がしばらく延期になるほどの勝利であった。
マレンゴの会戦ではドゼー将軍の配下として参加。オーストリア軍のヤクザドルフ(タニオカベルガーの元部下)の部隊を撃破。
この時の功績で第88旅団の旅団長になる。帝政期は主にドイツ・オーストリア方面を転戦。
フリートラントの会戦ではタダノヴィッチ(この時は既に侯爵)の部隊と交戦しこれを撃破。
タダノヴィッチの某皇族との縁談がしばらく延期になるほどの勝利だった。
この時の功績で師団長の昇進と後にネトリエンヌ侯爵位を贈られる。
ディボウは普段は明るい性格だが、戦場で拳銃を手にすると凶暴な性格に豹変する特徴があった。
特に退却する敵指揮官を背後から射殺するのが得意だった。また、サーベルを抜いて刀身を「唾液が糸を引くほど」なめまわす奇癖があった。
「私は自分の身柄をフランスに売り払った」が口癖であり、事実危険や困難を厭わず戦い続けた。
皇帝も彼の性格の豹変や奇癖を承知の上で彼を昇進させた。                                   
味方に危害を加えるわけではないことが分かっているせいもあっただろう。
                                                                
その後は引き続きオーストリア戦線で活動。ヴァグラムの会戦ではオーストリア軍のヤクザドルフの部隊を破り、
退却中に拳銃で背中を撃ち戦死させるなどの活躍を見せた。1812年のロシア遠征ではネイ元帥の指揮下で参加。
ネイ元帥とともに退却時の後衛をつとめる。彼のねっとりとした防御にコサック騎兵も攻めあぐね損害を出した。
コサック騎兵を指揮するハタノスキーは、ディボウの部隊には攻撃を控えるように指示を出さねばらないほどだった。
1813年のドイツ戦役では軍団長に昇進。ドレスデンの会戦ではプロシア軍のゴクドシュタイン将軍の部隊を後ろから激突するように攻撃。
ゴクドシュタイン将軍を拳銃で脅迫して捕虜にするなどの活躍を見せた。続くフランス戦役ではロシア軍のタダノヴィッチ将軍の部隊を撃破。
タダノヴィッチの公爵位授与がしばらく延期になるほどの勝利を見せた。しかし全体的な劣勢を覆すには至らず、
皇帝は退位。ディボウはルイ18世に登用される。フランスに対する献身からルイ18世もディボウを信頼していたが、
ナポレオンがエルバ島から脱出すると彼の元へ奔った。                                       
100日戦役ではグルーシー元帥の配下だったためワーテルローの会戦には参加できなかった。
その後、ダヴー元帥の指揮でパリへ侵攻する連合軍を撃破しタダノヴィッチ将軍の部隊を敗走させる。
タダノヴィッチの対トルコ戦の総司令官就任の話が無くなるほどの勝利だった。
2回目の王政復古では侯爵位剥奪、公職追放を受けるが1818年にはともに回復する。
ルイ18世の崩御とともに引退。後に元帥号を追贈された。                                      
晩年は故郷のヤキュウール町で過ごした。回想録を残し、出版される予定だったが急遽取りやめになった。
まだ当時の機密事項に触れる可能性があったためと言われている。
                                                            
民明書房刊『ナポレオン・侯爵達の物語』より                                          
33民明書房:2010/09/16(木) 19:41:20 0
ジヴァン・ユヴィースカヤ(Gevan Juviskaya,Зиван Ювийскя)
ロシア人作曲家。歌劇『シェモキ・タザーワ』や幻想曲『イサキ漁』などで有名。
9歳にしてモスクワ音楽院に入学し、18歳で同院を首席にて卒業する。
卒業作品として作曲した組曲『3連結』がチャイコフスキーの目に留まり、皇帝の前で披露された。
これに自信を得たジヴァンは、1〜2年の間に次々と曲を発表する。
だが、それらの曲はあまりにも壮大なものであったため聴衆には受け入れられず、批評家からもさんざんに酷評された。
今までの自信を粉々に打ち砕かれたジヴァンは、その後5〜6年間自宅でふさぎこむ生活を送る。
ある日、市場へ出かけたジヴァンは、一人の少年がごろつきに絡まれているのを目撃する。
群集が誰も助けようとしない中、ジヴァンはごろつきから拳銃を取り上げ、もみ合いの末に射殺。
この事件でジヴァンは右中指を負傷し、しばらく演奏ができない状態になった。
後日、少年タディニャ・イファスビッチは自分を助けてくれた人物が作曲家であり、その生命線ともいえる指を犠牲にしてまで
守ってくれたことを知って深く感じ入り、お礼にとジヴァンの身の回りの世話をするようになる。
数年後、自信を取り戻したジヴァンは幻想曲『イサキ漁』を発表する。
この曲は、タディニャと旅行に出かけたとき、たまたま訪れた漁港で体格のいい優しそうな漁師たちが
「オッス、オッス」(ロシア方言で「大漁」の意)と連呼しながらイサキ漁を行っていたのを見て、その勇壮で男らしい様を
曲に残そうとして作られたものであった。 この曲は大変な人気を呼び、以後、ジヴァンへの作曲の依頼が殺到したという。
ジヴァンは晩年、これまでのタディニャの支えに感謝し、彼に収入の半分を与える旨の遺言を書き、62歳でこの世を去った。
後日談だが、彼の死を深く悲しんだタディニャは見よう見まねで作曲を行い、恩人の名を冠した『ジヴェン・ユヴィースカヤ』の題名で発表した。
この曲は、日本の一部の音楽家にも伝わり、「もし私が死んだら、自分の指をあなたに捧げます」という指を犠牲にして自分を守ってくれた
ジヴァンに対する感謝の念が込められていることから
『自分、指いいすか?』という音訳の日本語題が当てられた。

民明書房刊『ロシアの偉人たち』より


ジブン・ウォーウル
(Given Waruol 1928年1月6日 - 1988年9月3日)

アメリカの画家・版画家・芸術家でポップアートの旗手。
ねっとりシルクスクリーン技法でゲイカルチャーを象徴する多くの作品を生み出した。
自身の作品を世に広める為に男娼まがいの行為さえいとわず、痴情のもつれからマフィアを射殺してしまう事件を起こした
(後にこの事件をオマージュしたとした映画「真夏の夜の淫夢」が製作される)

彼の才能は絵画・版画にとどまらず、ロックバンド「ヴェルヴェット・アンダアッー!グラウンド」のプロデュースにも携わり
彼のデザインした「バナナ」のレコードジャケットにより、そっち方面の人々に電流が走ったといわれている。

彼の多岐にわたるねっとり貪欲なまでの姿勢は、芸術家にとどまらず、現在、日本の営業職サラリーマンの間でも高く評価され
金言「自分を売る」は彼のそのアティチュードに敬意を表したものであるという説もある。

民明書房刊『近代ポップアート史の裏側』より


時分瓜(じぶんうり)

江戸時代に蝦夷地方でのみ栽培された瓜。主に食用として用いられた。
味はオクラのようなねっとり感と栗の花のような強いにおいが特徴であったが、
その特色さゆえに主に男色者に好まれたと言う。ただ、味の方は格別によく、江戸一の美食家で知られる羽田野氏にも
『某は瓜にあらず、きのこなり』と賞賛された。真夏の夜に夏バテ対策として食べるのが主流であった。
それ以外にも蝦夷地方でしか取れないという貴重さゆえに、大切な商談などの場で自分の価値をアピールするために相手に進呈するという
使い方もされた。たまに江戸の市場に入荷された時には四つんばいになって購入を懇願する者で長蛇の列が出来たという。

また、その皮が非常に厚く、長さが非常に短い(6〜8cm)ことから男性器の包茎、短小を表す隠語としても用いられ、侮辱されたものが評定所に駆け込み、
訴訟に持ち込むというケースも多々あったという。

現代で『自分を売る』という言葉が営業マンの間で使われることがあるが、この言葉と時分瓜との関連性が強いことは上記に述べたことから推測しても
明らかであろう。

民明書房刊『真夏の夜においしい野菜』より
34民明書房:2010/09/16(木) 19:49:24 0
シュインティ・タニオカール
(1764年〜1815年)
クルールァ侯爵(1808年)

フランスの軍人。シモン・キティーサ出身。少年時代から気性が激しく、暴力的だった。
馬が好きでよく乗り回していたが、特に馬車つきの馬が大好きで、これに乗っているときは滅多に怒ることは無かった。
そんなに馬が好きなら、と騎兵隊に入隊させた。彼の乗馬技術とサーベルの腕前はすばらしく、たちまち頭角を現していった。
折りしも新大陸では独立戦争が起こっていたが、タニオカールは若い兵士の一人として参戦。
イギリス軍やイギリス王党派を相手に果敢に戦った。
新大陸での戦いでイギリス軍から一頭の馬を手に入れた。彼はこれを「センチュリー号」と名付けた。

フランスに帰還した後、一度除隊してセンチュリー号を連れて故郷に戻る。軍隊という枷がなくなった彼は再び乱暴者に戻り、
馬に乗っているとき後ろから馬車で追突して来た士官学校生徒を土下座させて謝罪させるなど周りから恐れられた。
また、彼はこの時期決闘で顔に切り傷を作り、背中に入墨を施した。
革命が勃発すると、軍に復帰し士官不足の中平民出の騎兵将校となる。革命戦争初期、敗北が続く中で奮戦するが上官との揉め事が絶えず
昇進は遅かった。
時には強大な権限を持つ派遣議員とも揉め事を起こしたため、ギロチンにかけられそうになるが処刑されるよりは最前線で死にたい、
と申し出たことにより再び前線へ戻った。主にフランドル・ライン戦線で活躍、彼の騎兵突撃は敵に恐れられた。
突撃するときに相手に向かってなにか怒鳴りつけながら突撃したが、相手には何を言っているかよく分からなかった。
しかし、自分が何か悪いことをしたかと勘違いしたその一瞬に突撃で一気に蹂躙されたのである。
オーストリアの名将カール大公も「あの勇敢な騎兵は誰だい?」 と副官に確認するほどだった。
ジュールダン将軍がライン河から退却する時も猛烈な防御で味方を助けた。
そのままライン方面で従軍し、1800年モロー将軍の指揮下でホーエンリンデンの会戦に参加。

オーストリア軍のバビロンシュタイン将軍の部隊を側面から急襲して突破口を開くなど活躍した。
この時一頭の名馬を手に入れ、ベンツ号と名付けた。

タニオカールは勇敢だが粗野で怒りっぽい一面があった。また、滑舌が悪く聞き取りにくいため彼の部下は命令を受けるとき苦労したという。
自分の乗馬に何かがぶつかると怒りを爆発させることが多かった。
しかし、彼は優れた騎兵指揮官であり皇帝が「優れた騎兵指揮官は?」と問われたところ
「余の見るところでは、ミュラ、ケレルマン、タニオカールあたりだろう」と言わしめるほどであった。
帝政期はアウステルリッツ、イエナと戦い、1807年のアイラウの会戦ではミュラの指揮する騎兵突撃に加わる。
この時も何かを叫びながら突撃していたが、例によって敵味方とも聞き取れたものはいなかった。
周囲の証言によると「オイ!」「ゴラァ!」「〜〜について来い」と言っていたらしい。
この時の功績で1808年クルールァ侯爵となる。

 その後はスペインで戦う。このとき一頭の名馬を手に入れ、ゴクドロス号と名付けた。
また、スペインの将軍インムツィオ・マナンツァ将軍を討ち取り、
スペインの地でも勇名を馳せ、後のウェリントン公爵も「オゥ!ホットガイ!」と賞賛するほどであった。

 1812年のロシア遠征にも参加。ボロディノの会戦で活躍。
クトゥーゾフ将軍は「あの騎兵指揮官が出てくるたびにロシア軍の眼は彼に釘付けさ」と賛辞を送った。
その後ネイ元帥と共に後衛を勤め、コサック騎兵相手に奮戦。コサックの馬を奪いアズマズシスキー号と名付けた。

 1813〜14年のドイツ・フランス戦役では騎兵を縦横に操り、時には単身一騎で斬り込むなど斜陽の帝国を支えた。
プロイセンのブリュッヒャー将軍は「"タニオカールを見たかい?"が挨拶になっているほどだよ」と勇敢さを褒め称えた。
皇帝退位後もルイ18世に忠誠を誓うことも無くすごした。

 100日戦役ではネイ元帥の指揮下でワーテルローの会戦に参加。騎兵突撃にも参加し、叫びを上げながら突撃した。
生還者の証言によると「〜〜持ってんのかコラ」と言っていたらしい。
皇帝がセント・ヘレナへ流された後「白色テロ」で逮捕され、銃殺刑になるが入墨に傷が付くことを嫌がり
四つんばいになって尻に銃で撃たれることを要求した。この前代未聞の要求は受け入れられた。

最後の言葉は「早くしろよ」と伝わっている。

民明書房刊『ナポレオン・侯爵達の物語』より
35民明書房:2010/09/16(木) 19:58:12 0
獣痔軍
                                                            
異教徒に征服された聖地シモキタザワ奪回のために編成された軍隊。
インムランド王カズフィト2世、ウマアジ王ウィヒッツ2世、神聖ホーケ帝国の
皇帝ディービー1世(短小王)が教皇アンタナシオ16世の呼びかけに応じて出発した。
三人は異教徒の王タニーオッカーを殺害することに成功するが、
ディービー1世は旅のあいだ鞍に座り続けたせいで痔となり命を落とす。
獣の様に勇敢な王者でも痔になってしまうほど辛い遠征だったので
後世の歴史家からは獣痔軍と称されている。
                                                            
民明書房刊『世界過酷な戦い十選』より
                                                            
                                                            
陣形、戦法
「啄木鳥戦法 」
                                                            
第四次川中島の合戦において、武田軍師・山本勘助が立案した戦法。
大規模な別働隊を編成し、敵を攻撃させ追いたてられた敵を本体が待ち伏せし
別働隊と挟撃して殲滅する作戦である。
これは啄木鳥(きつつき)が嘴(くちばし)で虫の潜む木を叩き、驚いて飛び出した虫を喰らうことに似ていることから、
「啄木鳥戦法」と名づけられた。
現在この戦法は主に衆道において応用されている。菊門を激しく突くことによって突かれた側が思わず口から呻き声を出すことを
「きつう突き」と言われている。
元は戦場の兵法から端を発しているためか、衆道を嗜む旧軍人が好んで「きつう突き」を 使ったと言われている。
中でも九州出身のK中尉が「きつう突き」の名手であったという。
                                                            
*車懸りの陣
車輪のスポークのように部隊を配置し、次々攻撃する陣形。
第四次川中島の戦いで武田軍師・山本勘助の啄木鳥戦法に対して上杉政虎(謙信)が敷いた陣である。
現在この陣は存在するものの大きく形を変えている。
自己の車両を持って相手の車両に対し後部から追突し、驚いた相手の乗員が中から出たところを 攻撃するというものである。
この攻撃は相手の不意を突き奇襲攻撃的な効果があるが、追突時の速度を誤るとその後の行動が取れなくなる危険がある。
また、乗員の戦力に差がある場合は追突に成功しても乗員同士の戦闘で反撃を受ける恐れもある。
この戦法に熟練した者は、疲労した状態で、かつ徒手空拳で相手の車に追突し不利な体勢に 身を置きながらも相手の銃を奪って
一転攻勢に出るという。
                                                            
※以下の説も有力
車掛(クルルァがかり)の陣
先に射精したホモが後退し、替わりに新手が射精するという、次々にホモが攻めては退く戦法ないし陣形。
越後でよく採用された陣形で、寒い冬季におけるハッテンの際、移動し続けることでホモの体を温める必要性から生まれたという。
大将を中心に、その周囲をホモが円陣を組み、まるで車輪が回転するかのように
入れ代わり立ち代わりホモが攻めては退く、というのが有力説。
                                                            
民明書房刊『軍師の粋と艶』より抜粋

  
射武霊王(しゃぶれいおう)

戦国時代・趙の武霊王は、匈奴をはじめとする北方遊牧民族による領土侵犯に悩まされていた。                 
ある時、武霊王は趙土の防衛線へ親征したが却って匈奴の大軍に包囲された。
その際、匈奴の騎馬部隊はこぞって「武霊王を射よ」、即ち「しゃぶれいおう」と大音声で連呼し続けた。
武霊王はこの時の屈辱を忘れず、当時は蛮風として賤しまれた「胡服騎射」を導入することにより 趙の軍事力を増強し、
北辺の安定を回復したのである。

民明書房刊『春秋戦国時代の戦術』より抜粋
36民明書房:2010/09/16(木) 20:07:31 0
3D濁音
ドルビー・デジタル・サラウンド時代に突入しつつあった2000年に、
まだ市中に多く取り残されていたモノラルテレビにおいても
立体的で臨場感のある音響を楽しめるように、
TDN(東京・デジタルナショナル研究所)が開発した新しい仮想サラウンド形式。
人体における声帯のみをもって、前後左右に広がる三次元音響を表現する。
発表当初、1950年代のドイツ・エレクトーラ社のブライトクランク・ステレオに
迫る技術的芸術として、大々的に報道されたが、出力形式が非常に特殊で、
北海道に本拠を置くある成人男性(29)以外には再現不可能であった為、
旧世代を救う次世代技術の期待をかけられながらも消えていった。
現在は、SMBCの出資の下で日本ペイント営業部が開発を引き継いでいる。
(民明書房刊 「Babylon Stage34」より)

                                                               
手淫船

戦国末期、朱印船が登場する一方で一部の権力者の間で極秘裏に運営された朱印船。
朱印船の中に密かに男性の性的奴隷の人身売買を専門に扱う朱印船があった。
当時は世界中で奴隷の人身売買が行われていたが、人身売買を禁じた豊臣秀吉の影響と性的玩具として人身売買を公にするのは
さすがに憚られたのか、記録に残っている例は少ないが、初代伊佐木藩の藩主谷岡俊一の命により、
密輸商人のDB(現在も子孫が健在のため名前の一部をイニシャル化)に行わせたというものが有名である。
この朱印船は目的地に着くまでに性的奴隷として躾けるために奴隷の部屋には絶えず催淫薬が焚かれた。
奴隷の男性は10代前半の美少年から20代の体格のよい美青年までが押し込められていたが、
自由に身動きが取れないうえ性的欲求を処理しなければならないという状況に陥った。
やむを得ず、かろうじて手を動かして手淫で性欲を処理した。
手が動かなかったものは、手伝ってもらったり輪になって手淫に及んでいた。
日本人調教師の羽田野某とスペイン人調教師カズィット・タディーニャも精液の臭いが充満する奴隷の部屋には閉口したが、
性奴隷を高値で売るため我慢したという。
このようなことから実際に密貿易を行うもの達の間ではこの極秘の朱印船を 「手淫船」と呼ぶようになった。  
江戸初期になってもこの手淫船交易は続いていたが、伊佐木藩に買われた黒人性奴隷オクジョッ・ヤィテカナが
藩主谷岡の隙を突いて城から鉄砲を奪い逃げ出した。
この事件が発端となって手淫船交易の実態が明るみに出た。この不祥事の責任を問われ、藩主の谷岡俊一は切腹、伊佐木藩は改易となった。
後の鎖国政策の影響もあり、外国との奴隷の売買は密貿易であっても姿を消していく。
DB、羽田野某、カズィット・タディーニャらは幕府の追及を逃れアメリカに渡りその後は過去を隠すため
厚めの手袋・球体や棒状の各種道具を製造販売したという。

民明書房刊『自分を売る!番外編』より


真蛙亭 撫羅雲(しんあてい・ぶらうん)
(「まあてい・ぶらうん」と読む解釈もある)
(?〜1598)
安土桃山期の兵法家。
隠岐に流れ着いた渡来人と言われる。
小早川家に仕えて兵の調練にあたり、数々の士気維持策を考案、積極的に実践した事で知られる。
有名なものとして塀子(べいす)投げというものがある。
塀子とは、扇子を分厚くしたようなものであり、中国の球戯「打毬」において判定に使われるものである。
中流〜上流階級の間では、これを粗末に扱う事は、対座している相手に対し極めて無礼とされた。
貴族間の風習の残る上方、西国では殊に浸透しており、撫羅雲は好んでこれを用いて敵将を挑発した。
「我投塀子」と大書された旗指物さえ発見され、昭和まで広島市に保管されていた。
また撫羅雲は、しばしば塀子投げを行った後にわざと敵の矢や鉄砲玉の射程まで単身赴いて死んだふりをして
兵に弔い合戦を挑ませるという策を行い、その全てに勝利している。
「人の心を弄ぶような事をするからには、自ら人に篤くなければならぬ」と言い人の過失をよくかばい、
兵にも平素はできる限り危険を避けさせた為兵達は撫羅雲に心服し、寡兵にてもよく大敵を破ったという。
信仰や、過去の罪科には拘らず、キリスト教が禁じられた後も「アンタナシオ」という洗礼名を名乗る武芸者を主家に推挙し
主君の不興を買った逸話が残る。

民明書房刊『兵法変人列伝』より
37民明書房:2010/09/16(木) 20:09:19 0
神獣KYN
                                                          
                      ‐=≡ / _⌒ヽ⌒ヽ
                     ‐=≡ /  ` ゚` :.; "゚`ヽ
                    ‐=≡  /     ,_!.!、   ヽ
                  ‐=≡   / .    --- ,,  ヽ
               ‐=≡ _,, -−─‐,r'     *1 )   \
            ‐=≡ ,r'"      ,_.__,__  .      ==ュヽ
         ‐=≡ /___  _,,,  ‐""~~"゙  ィ'≡;;;,  . 、_tッ、,゙ ' ,
          ‐=≡ , ィ  ーj 'ーー  ,.ィ'(ツヽ  / ___ .   `ー 'ノ  ヽ
      ‐=≡ ,r' /   ノL ヽ.   ` ´  ヽィ゙(ツヽ  . ,イ    \
      ‐=≡ ノ ,イ    ∀       ノ  ヽ` ´    ゚ ´...:^ー  \
    ‐=≡ // ,'   ..::'"⌒ヽ、    /ヽ━v・)ヽ    r ζ竺=\  \
  ‐=≡ / /  !:.         ゙、.     ,______、       `二.;  ヘ__, ノ
  ‐=≡ ( (   |:::..  -≧y ,_ i::   .`ヽ三三ヲ´  _、,_ `   '
  ‐=≡ ヽ、)  !::::...   y、ュヾ  !::::...    `"´ ゙、::..  3   ゙ 、
      ‐=≡ 人:::::::.. T三ゝ  .゙、::::::::.......___,,ゝ、:::..     ヽ
     ‐=≡ /::::...\::::::.... ̄     .ヾ ̄ ̄    /::::..ヽ、:::..    \
    ‐=≡ ,'::::::::::::....ヽ、:::::....       ゙、    ノ::::::::::::::...\::::...    ヽ
    ‐=≡ 〈:::::::::::::::::::::/`ヽ、:::::.....    〉   〈:::::::::::::::::::::...人:::::::::.....   〉
    ‐=≡ `ー─一'"    `ー─一'゙     `ー−一'"   `ー──
                                                          
 古代中国で崇められた男色を司る神獣。
現在の雲南省發天郡がその発祥といわれている。東南アジアが近いためか象の姿をしているが、
頭頂部にに亀の頭に似た突起を持っている。また、体の各所に男性の顔をした模様がある。
 この地域の男性は16歳で成人とみなされた。その成人の儀式として牙祝(がっしゅく)を行った。
これは暑い真夏にその年の成人を集め男同士で数日間過ごすというものである。昼間は肉体を
徹底的に鍛え夜は男同士で交わる、ということを繰り返し牙祝終了と同時に成人になったと
認められ、大人達に一人前として受け入れられた。その際、上図の神獣KYNが祀られている部屋に
集まり神獣KYNに対し感謝の意を捧げたという。
                                                          
 神獣KYNの崇拝は時の権力者に何度も弾圧の対象になったが、そのたびに復活し歴代王朝も
彼らの信仰に対しては干渉しなくなった。彼らの信仰が広く知られるようになったのは1893年
イギリス人探検家、ポール・センチュリーがその地を訪れてからである。彼の著作の一つ
『發天貫通記』で紹介された。
                                                          
 なお、神獣KYNの「KYN」はどのように発音するのかが今でも議論の対象になっている。何人もの
学者が現地で聞き取り調査をしたが、はっきりとした発音は未だ分かっていない。
                                                          
                                                          
民明書房刊『現代に語り継がれる神話の世界』より抜粋
38民明書房:2010/09/16(木) 20:12:15 0
秀 麻日(す まいる)                                                
(1556〜1616)                                                   
                                                              
 李氏朝鮮の将軍。平安道鎖宇奈郡出身。幼いころから体格がよく、また穏やかな性格であった。             
1576年武科を受けて合格。満州方面の女真族を相手にした小戦闘で頭角を現す。ただ、生来の人の
よさが災いしてか、功績を譲ることがしばしば見受けられる。そのため出世はあまり早くなかった。
 1592年日本が攻め込んで来た時、秀麻日は咸鏡道の守備に参加していた。日本の名将加藤清正が
攻め込んで序盤は敗戦が続いたが明の援軍が到着すると同時に一転攻勢を仕掛ける。咸鏡道で日本の
武将・多田野作十郎を破り勢いをつけると、平壌近郊で大坊根鳥之介の軍勢に奇襲をしかけ敗走に
追い込んだ。その後、黄海道の繁斗(べんつ)城の救援に向かい黒田長政が直卒する軍勢と交戦。
劣勢ではあったが敵の兵糧不足にも助けられ、明の救援が来るまで持ちこたえた。                    
 これらの功績により、臨時の官職である「部長」に任命された。これは遊撃戦を主とした独立した
軍で、秀麻日は「秀麻日部長(すまいるぶちょう)」と呼ばれることになった。休戦期間中は、各地の
義勇兵や流民、盗賊を吸収し駐屯地で屯田しながら軍の組織化と練兵、兵糧の確保に努めた。
寄せ集めの彼らは秀麻日の見事な体格と優しい人柄に惹かれ、短期間で統率が取れるようになった。
 慶長の役ではまず猛将福島正則の軍勢と忠清道で戦うが、味方が退却したため殿軍を務めた。
慶尚道の千州里(センチュリー)城で籠城戦を指揮し、味方の救援まで持ちこたえた。その後、
蔚山倭城の攻撃に参加するがその間に千州里城を日本軍の谷岡俊一の軍勢に攻め落とされてしまう。
                                                              
 蔚山倭城攻略も失敗し、秀麻日はここでも殿軍を務め味方の退却を助けた。この後も順天城の
戦いや泗川の戦いでは殿軍や敗残兵の収容に務め、日本側にも「秀麻日部長」と官職付きの名前で
知られるようになった。日本が撤退した後、釜山の宇浦に忘れて取り残された羽田野某と彼の軍勢も
丁重に対馬まで送り返し、その名声は朝鮮国内外に知れ渡り日本では「宇浦の好い男」と称された。
 戦後はさらに昇進するが、それを危険視した者達から讒言され官職を剥奪されてしまう。率いて
いた軍も取り上げられ身柄を拘束されてしまう。暗殺の危機が迫る中、彼を慕うものが助けに来た。
脱獄した後は朝鮮に居られず、1604年満州へ落ち延びた。かつての敵手であったヌルハチら女真族も
秀麻日の外見と人柄に感服していたため受け入れられ、ヌルハチの元で女真族の統一に尽力した。
1616年後金の成立とともに死去。1618年のサルフの戦いでかつて属した朝鮮軍が敗れるのを
見なかったことは彼にとって幸いだったかもしれない。                                     
 朝鮮国内での秀麻日の記録は政敵により長い間日の目を見なかった。彼の記録が表に出るように
なったのは朝鮮戦争後であった(彼の失脚の首謀者が王家の者であったため、とも言われている)。
現在、北朝鮮でも韓国でも秀麻日は「秀麻日部長」として尊敬を集めている。かの金正日も
部下に対し「秀麻日部長のようになれ」と訓示したこともあった。秀麻日を尊敬するものは多いが
そのほとんど全員が男性で、体格や優しい人柄で知られた者達が多いことは意外に気にされない。
                                                              
民明書房刊『朝鮮半島史 李氏朝鮮編』より抜粋                                        
39民明書房:2010/09/16(木) 20:19:17 0
順 馬生(すん ません)
(1893〜1945)
  ,.vvWv,,             ,,,,   ,,,
  ミ,シー-ミ           /""メ"''y'"__"';,
  6! ー 、-}           {   !  Y'_、,_;
   iヽ =ノ         ,. -{, ,-、 ,,..人 _3ノ
ー' ̄(` "! ̄`ヽ    / ̄| ({ ="i=リ ̄ヽ'ー、
  `ーY" ̄  |   /    ーヽ -リ'   ヽ }
ヽ      y  |   |   y    Y  、/  ヽ|
 !      |  |  |   |       ハ   }
_|      トーi"  ケ、_!       ト、_/
 |      |  |   〈  〈        リ .ハ
 ヽ_____| |   ヽ  !      // /!、;、
ヽ ヽ    | |     \ ヽ ̄ ̄ ̄ フ / !),)
 ヽ ヽ   ! ヽ     ヽ、`ー、  / 〈  ̄"

中央の人物が順馬生。左は同志の段伊豪(だん いほう)、右は義喜(うぃ ひ)

 現在の北朝鮮咸鏡道の場尾論村出身。幼いころに朝鮮半島が日本のものになっていく
過程を見てきたため朝鮮半島の独立に貢献しようと決意した。1910年代に独立闘争の組織に
身を投じる。1920年の青山里戦闘などにも参加。この時、日本軍の車を奪って憲兵少佐の
谷岡俊一の乗車に後ろから追突するなど(車の運転は段伊豪が担当していたらしい)撹乱戦法に
でるが、無事だった谷岡少佐に捕まってしまう。憲兵本部で谷岡少佐が直々に尋問するが、
何を聞いても「すん ません でした」と自分の名前を不完全な日本語で答えるのみだった。
(谷岡少佐の尋問もよく聞き取れなかったと言う部下の証言もある)
なお、上図の写真はこの時尋問を受けている順馬生達を撮影したものである。

 業を煮やした谷岡少佐は人払いをしてから三人を裸にして順番に菊門を犯し始める。
これで屈服しただろうと油断した谷岡少佐の拳銃を段伊豪が奪い一転攻勢に出て谷岡少佐の
菊門を責め始める。気が済んだ後、その拳銃で谷岡少佐を撃ち殺そうとした時に様子がおかしい
ことに気付いた谷岡少佐の部下が駆け込んで憲兵本部を脱出するにとどまった。谷岡少佐は
この失態を恥じ切腹しようとしたが、友人の牟田口廉也に諭され生きて雪辱を図ることにした。
 こうして順馬生達は日本官憲のお尋ね者となり朝鮮半島から満州へ移動。間島パルチザンに
身を投じる。段伊豪、義喜とともに度々朝鮮半島へ潜入し情報収集を行った。抗日パルチザンが
潜入したという情報を得た谷岡少佐は単身逮捕へ出向く。順馬生達はこの時既に日本語を習得
していたためか、ソウルで日本食を食べに行こうとした。折りしも谷岡少佐も食事をしようと
していたところだった。
 「あずま寿し」という寿司屋でイサキの握りを食べていた順馬生達は、隣の席で滑舌悪い発音で
「クルルァ海老をくれ」という声を聞いた。順馬生達はそれが谷岡少佐であることをすぐに見抜き
慌ててその場を脱しようとしたが谷岡少佐もすぐに追跡を開始。陸軍大臣直々の依頼を受けて
国境を越えてどこまでも追跡してきた。以後十数年にわたり谷岡少佐はパルチザンの根拠地を
壊滅させつつ順馬生を追っていくことになる。
 1937年7月7日深夜に北京の盧溝橋で順馬生達は谷岡少佐と銃撃戦を展開。これを中国側が発砲
してきたと判断した牟田口廉也大佐は日本軍の出動を決意、やがて全面衝突へと向かっていく。
順馬生達と谷岡少佐の銃撃戦は明け方まで続いたが遂に順馬生は逃げ切った。以後中国大陸を
終戦間際まで双方とも現地の軍を巻き込みつつ戦い続けた。
 1945年、朝鮮半島に戻ってきた順馬生は谷岡少将(本人は昇進したことを知らない)に東北沢で
発見され再び銃撃戦となる。この時、順馬生は致命傷を負うが、最後の力を振り絞って手榴弾を
谷岡少将に投げつけた。手榴弾はゆっくり大きな弧を描き、コントロールミスだと思い込んだ
谷岡少将が動き出したところに命中した。谷岡少将は致命傷を負い、最後に段伊豪が拳銃で
とどめを刺した。こうして順馬生は抗日運動に殉じた人物となり、後の北朝鮮で革命烈士の
称号を送られるはずだったが、北朝鮮内部での権力闘争の影響で実現しなかった。
 戦後、段伊豪と義喜は後の朝鮮半島の動乱を予測してか、混乱に乗じて日本へ密入国し
それぞれ大坊某、羽田野某と名乗り定住した。彼らの孫は野球の道を志したという。
                                                          
民明書房刊『抗日戦線異状なし』より抜粋
40民明書房:2010/09/16(木) 20:24:00 0
戦国三大宗派                                                  
                                                        
TDN宗                                                        
                                                        
山純教最大宗派。隣人愛を基本理念とした比較的自由な宗教で、
「アッー!アッー!」と祈りの言葉を唱えれば 誰でも救われるという。
他宗教に対しては原則的に寛容。ただし他国に侵略して住民に改宗を迫ったり、
植民地を増やしたりするという過激な一面も持ち合わせており、
彼らの存在を快く思っていない者も多い。 主神TNOK、副神DB、HTNを崇拝する。
毎年8月にはTNOKの復活祭『真夏の夜の淫夢』が盛大に執り行われ、
イサキの握り寿司を食べるのが信者たちの習わしである。
                                                        
ガチムチ宗
                                                        
TDN宗の馴れ合い体質に嫌気がさした僧侶カツジが独立し、作り上げた宗派。
苦行によって救いは得られるとの教えで、信者たちには押忍の連呼と
経典の改変写経の修行が課せられる。その原理主義的思想は凄まじく、
他宗派との関係は最悪といってよい。修行こそが救いなので、崇拝する神はない。
9月25日の記念祭には、六尺一丁の信者たちが河原に集まってオッス連呼の
荒行を行う。
                                                        
県北宗
                                                        
ガチムチ宗から分離独立した宗派。「押忍の連呼と経典改変写経はただの
自己満足で救いはない」とし、祈りの言葉を復活させた。
ただしTDN宗とは違い「あぁ^〜」と発声するのが特徴。
TDN宗とカラーは似ているものの、穏健な信者が多いので今のところ、
特に問題は起こしていない。糞便を神聖なものと見なしている。
なぜか武田信玄を崇拝している。
                                                        
民明書房刊 「戦乱と宗教」より抜粋
                                                        

仙波衣(せん・ぱい)
893年(寛平5年)?-990年(永祚2年)?

平安時代の歌人。
「仙波衣」は通称であり、本当は別の名があったのではという説もあるが、
真偽は定かではない。
                                                        
紫式部は貴族では珍しいイワシ好きであったという説話があるが、
彼は無類のイサキ好きとして有名であった。
また当時は、男女が明るい時刻に逢瀬するのが憚られる時代であったが、
彼はまだ幼い紫式部を日光浴に誘った。
このことが宮中に公になった際、島流しは避けられないとの噂が立ったが、
時の天皇である64代円融(えんゆう)天皇は破顔一笑し、
「大胆な彼らしくてよい」と不問にしたという。
                                                        
その後第66代一条(いちじょう)天皇の依頼により、
能因(のういん、永延2年(988年)- 康平元年(1058年)頃?)に充てて
和歌の教本を執筆したといわれている。
教本は応仁の乱(1467年-1477年)で焼失したが、
能因の名は、中古三十六歌仙の一人として、
やはり中古三十六歌仙に選ばれた紫式部と並び称され
後世に長く伝えられることとなった。
なお、能因の活躍は山川純一著『僧衣を脱ぐ日』に詳しい。
                                                        
民明書房刊「『源氏物語』千年紀〜やまとうたの謎」より抜粋
41民明書房:2010/09/16(木) 20:27:22 0
聡子(紀元前五世紀頃)                                                       
                                                                  
     _, -‐-、___
   /  `   ` _ )
 / ̄  _,,ニ=‐─'´ー''',、
 ゝ-┬l;;;        ヽ
  l// |;;         _l
  l ,./;;   (ニ=、  , ,=ニ
 /イr'ヽ;   ` ゚`   :.; "゚`|
 ノ/ l l、!l   `'  ヽ`´!
. レ  〉、`ヽ     ノー-‐' l
    lゝノ''l    ,イメ三ヾ、!
   /、 l ヽ   〃 ,,, リ,,/l!
 , -l:::ヽヽ、 ヽ、,l!___l;;;;;;;;;lヽ、
´   l::::::ヽ ヽ`ー─ヽ;;;;;;l::l `''ー、_
   ヽ::::::::ヽ ヽ_/ヽ;;l::lヽ
   ヽ:::::::::::ヽヽ__/'´;;;;l!:/ ヽ
                                                                  
   聡子(紀元前五世紀頃)                                                    
                                                                  
古代中国の思想家。「先輩を売り、自分を売らば百戦危うからず」で有名な兵法書「聡子」を著す。
はじめ「谷」王・夏に食客として遇される。谷王に寵愛された(谷王は男色家であり、彼と同衾していたとの学説もある)
聡子は居城の大広間を与えられたため、「大房」とも呼ばれる。
しかし、瑣末ないさかい(牛車が追突したという記録がある)から谷王の怒りを買ってしまい、兵法の免許を取り上げられる。
それに窮した聡子は自ら弓を持ち、谷王を射殺してしまう。
「谷」を追われた聡子は諸国遍歴の末、「日辺」という国に仕えたという記録が残っているが、それ以後の動向の詳細は現在を以って不明である。
                                                                  
                                                                  
民明書房刊 「知られざる古代中国思想史」 より抜粋                                         
8 名前:民明書房[sage] 投稿日:2010/09/15(水) 22:27:53 0
アナルドルフ・ウィヒトラー
(1889〜1945)                                                                   
          /_⌒ヽ⌒ヽ     
         〃\     ヽ    
    />   ;l!'  ヾ、 、   ゙:、   />              
  < </\  i|l!    ヾ、,,.l|l! < </\ 
 <\> <\> r ` ゚` :.; "゚`Y^!<\> <\>  
  \/> >  J   ,_!.!、  トリ \/> > 
    </    |  !!!!!!  |     </   
          ヽ、 --- ,/゙
           ヽ、____/
                                                                
ホモは一人残らずガス室送りだ!!
ホモを見つけ次第通報すること!!!!
                             
上は党大会演説時の写真

 ドイツの政治家。オーストリアのハッテンマルク出身。
学生時代は画家を目指していた。特に、男性同士が絡み合っている絵が得意だった。しかし、
風俗を乱すものとしてオーストリア官憲に捕まったこともあった。第一次世界大戦が起きると
ドイツの志願兵として参戦。西部戦線のサウナラントで負傷したが優秀な伝令兵として括約した。
化学兵器の影響で一時的に肛門に負傷をして入院していた。ドイツの敗戦を知って落胆したが
彼は政治の世界へ踏み入れることをケツ意。また、化学兵器の影響で増大した肉棒は元に
戻らなかった。                                     
                                    
 政治の世界へ踏み込んだウィヒトラーは得意の弁舌と魅力的な肉棒でアッーチス党の党首に
上り詰めた。ヨゼフ・イグッベルスを側近にして宣伝戦術を展開。1933年に政権を獲得すると
ヘルマン・ゲイリングなどを起用して軍事力を強化した。それと同時に同性愛者やユダヤ人を
迫害する政策を実行。同性愛者への迫害はユダヤ人へのそれよりも一層苛烈を極め、特に
ウィヒトラーの腹心ハインリヒ・インムラーの迫害振りは後世に伝えられるほどだった。
                                            
 「加熱した欲望はさらに危険な領域へと加速していく」という演説で有名な第二次世界大戦が
始まると、占領地で同性愛者の迫害、虐殺を行った。ソ連と開戦したときも「モスクワより
西からハッテン場を一掃せよ」と命令を下した。日本が参戦した際は「三千年間鍛え上げた
UTAMAROが我等の味方だ」と演説した。                             
                                             
 1943年ドイツ軍がスターリンクルルァドで敗北すると戦局は徐々に悪化し、1944年連合軍が
オフッマンディーに上陸すると敗勢は覆しがたいものになった。1945年連合軍が首都ケツリンに
突入すると最期の時が迫ってきていることを悟り、地下壕で愛人のウホッ・ブラウンと結婚式を
挙げ4月30日拳銃で肛門を撃ち自殺、ウホッ・ブラウンも服毒自殺した。
                                               
 遺体は直ちに火葬されたが、その際愛人のウホッ・ブラウンが男であったことに周囲は初めて
気が付いた。このことも含め、かつては同性愛の絵を多く描いたこともあるウィヒトラーが何故
同性愛者を迫害・虐殺するようになったかは未だ研究中である。
                                                    
 迫害・虐殺の反動からか、戦後はアッーチス狩りが同性愛者によって行われた。
現在ドイツの教科書にはウィヒトラーの嗜好ついて「なぜ男なんだ」と記載されている。
                                                
民明書房刊『ドイツ人物史 近現代編』より
43兄貴専用しおり:2010/09/16(木) 20:29:53 0
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓    /|_
┃兄貴専用しおり                               ┃  /  /
┃  ,}彡  ,.=≡≡、! : ≡≡=、 ミ}                    ┃ /ノ⌒~´
┃  /ニY} .:',ィt:テミ、〉 : ,f‐t:テミ、 《fヽ                C<ニン
┃  |l{ ,jリ   `""'´ : : `゙""´  }} l|               ┃
┃                       ここまで歪みなく読んだ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
44民明書房:2010/09/16(木) 22:12:21 0
大坊 亀十郎少佐(1915〜1944)                                       
http://www.null-box.com/cgi-bin/so/No_15113.jpg                               
                                                       
 海軍兵学校第65期卒業生                                            
 卒業後、軽巡「羽田野」の水雷長等を務める。1943年、潜水艦「伊第810号潜水艦」                  
艦長に就任。                                                   
1944年8月9日深夜3時、アメリカ軍のOS(アウトスタッフ)作戦により劣勢に立たされた                      
日本軍は南太平洋に位置する 重要拠点バビロン島からの撤退作戦を開始。                           
 軽巡「凡後」(艦長多田野毅少将)を旗艦とする7隻の隠密艦隊に先行してイ−810は哨戒を務める。               
同日深夜4時、バビロン島陸戦部隊5000人の収容に成功、後方拠点ニッペ島への撤退開始。                     
その際、緒戦の疲れからか不注意により凡後と輸送船が接触、小規模な火災が発生。                        
このことによりバビロン島南方で警戒中のアメリカ軍第893パトロール艦隊                             
(指揮官S・ティノック少将)に捕捉されてしまう。                                        
                                                              
 同日早朝5時、米パトロール艦隊旗艦「センチュリー」が砲撃開始。軽巡「凡後」被弾、小破。                   
軽巡「凡後」からの無電を受け周囲警戒中のイ−810は米艦隊への接近を開始。                          
アメリカ軍の記録によると、撤収部隊との接触はパトロール艦隊にも予期せぬ出来事であり                      
現場は混乱に陥っていたという。                                                 
その為水上艦隊への攻撃に専念するあまり、対潜警戒は手薄になっていた。                              
接近したイー810の雷撃により、米艦隊は回避行動を取る形になる。しかし前進を食い止める                         
ことが出来ないと判断した大坊少佐は潜水艦を浮上させ、敵艦隊の注意を引く捨て身の行動に出る。                     
この突飛な行動にティノック少将は後に「I was so astonished(たまげたなぁ)」と語っている。                     
直後、米艦隊の攻撃は潜水艦に集中。イ−810も艦載砲と雷撃で応戦するが1時間後に                           
撃沈が確認された。                                                         
イー810に活躍により撤収部隊は難を逃れ同日夕方6時、ニッペ島へ到着。ニッペ島守備隊から                        
イ−810が帰還していない事を聞かされ 撤収部隊は涙に包まれたという。                                
                                                       
参考出典:民明書房刊『太平洋戦争の真実、お前らもよ〜く見とけよ』より抜粋                               
45民明書房:2010/09/16(木) 22:19:05 0
大坊豆(だいぼうず) マメ科                                                        
                                                                     
         _                                                 
         \ヽ, ,、
           `''|/ノ
       _    |
       \`ヽ、|
         \, V
            `L,,_
            |ヽ、)
           ノ       ,、
          .|    ヽYノ
          .|   r''ヽ、.|
          |    `ー-ヽ|ヮ
           |        `|
          ヽ,       .|
          ,.ヽ' "  "ヽノ
         , '  ;  ;  ";
         ,' ; ,─--、___  ;
         '; r" ;    '! ;
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         { j ` ゚` :.; "゚` |
          |;   ,_!.!、 ;ノ  
         人 _---, /  
        /| ヽ  ̄ /、_
    ,- ' "(  ヽ ` ー "/ ヽ`-、_
 ,. -'    \_|   / _ ノ   \ 
/          \ ノ'"       ヽ 
                                                                     
 東アジア一帯に生息しているダイズの一種。日本では「だいぼうず」と呼ばれている。
日本へは中国大陸からの渡来人である何馬甫浬(か まほり)が伝えたとされている。
日本名の由来は豆の部分が坊主の頭のように丸いことから付いた説が有力。                                   
外見の特徴は、通常のダイズよりもより球形に近いことが挙げられる。また、成長するにつれて
根が人間の顔に見えてしまう人もいるため、それが通常のダイズほど人気が出ない理由であると
されている。                                                               
 茹でて食べるのが一般的であるが、通常のダイズと同じく各種の料理にも用いられる。
調理すると非常にねっとりとした感触を出す。現代に至るもその原因はまだ解明されていない。
その粒の大きさから納豆には不向きとされている。栄養価は非常に高く、ダイズの特徴である
豊富なたんぱく質を含んでおり肉食をしない人にとっては重宝されている。                                  
 近年は、健康食志向の人が増えたことと食料自給率を気にする人が増えたため、大坊豆に注目
する人が増加している。特徴的な外見(といっても食べる部分とは関係ない根の部分だけが少し
気になる人がいる程度)を気にしないようにするため、プロテインなどのサプリメントの分野で
応用されている。大坊豆から作ったサプリメントは非常に安価なため、お金が無い運動部の
学生でも無理にバイトをしなくても気軽に購入して利用できることから大学生の間で人気が
非常に高い。余談だが、立教大学野球部では監督の決断により大坊豆のプロテインを毎年まとめ
買いしているため、業者との関係も良好である。
                                                               
 オーストラリアのある農学博士は大坊豆の研究をしているが、彼の大坊豆に対する
評価は「オゥ!ホットフード!」と伝えられている。                                            
また、大坊豆の遺伝子組み換え食品は何度か試みられたことがあるが、何故か一度も                               
成功することがなく研究者も大坊豆に関しては遺伝子組み換えを断念した。                                  

民明書房刊『動植物大鑑』より抜粋                                                   
46民明書房:2010/09/16(木) 22:21:46 0
ダイボウラクダ

                / _⌒ヽ⌒ヽ    / _⌒ヽ⌒ヽ
               /  ` ゚` :.; "゚`ヽ  /  ` ゚` :.; "゚`ヽ
    | |           /     ,_!.!、   ヽ /     ,_!.!、   ヽ
   !| |V         / .    --- ,,  ヽ/ .    --- ,,  ヽ
  V | | i|      _/            `ー-、      ∧      _ノ彡彳
  ヾヽ Y´    /                          彡、  /,.;r=メ、`ー--、
   \`二二二_ イ       \                   V///爪ハぅソヾーイ_メ、
     ー⌒ー=テチ           Y                ヽY V///ホヽミミミY';,辷ア
         / /         |                 `゙ヾヽ/川 `ヾミ斗Y´
         |  |          !                        ト、ヾヾヾト、三ミ
        /  |           /                       } Y `斗三三ヾ
        |  |         /               /// 人_  j\\ンニ三三ト
        |   !        /              ////,个ミイ  \ヾ-ニ二;
        /   !      个 、_          ∠;,;,;,;爪ヾ、ト、ヽト、 \ヾ=ニ;
       |    ハ    _/´   ` ー-、__r―く  〉彡イ////ハヽ ヽj j j ソ
       /    //   /            〃シ    /彳{ { { { { !| |! h } 川イ
      /     〃    /             イ    /  _,ハヾ川ソ〃彳' '
     {     /    /              i    j    _j  ハ
     ヾ   ト、   ハ               V /    彡,斤7
      |  /  V  イ                } |     V r'
      Y  |   V |                /∧      V k、
       |  |   ! ∧               r'  ハ      V  }
                                                                     
                                                                     
中国の仁陛(にっぺい)地方に生息したラクダ。
背中のコブの中にねっとりとした液を持ち、この液は建築材の塗料として用いられた。
人間(特に男性)を恐れず、積極的に近寄って来るため簡単に捕らえることができコブの中の液を取る目的で飼育が行われていた。
特にコブの中から多く液の取れる個体は中多(ナカタ)とも呼ばれた。

ある時、このコブの液を売る大商人が新しい土地に売り込みに訪れたところ衆目の中で発情した雄に襲われ、倒れた拍子に己の剣で肛門を突き刺して
死んでしまいその惨劇を見た人々は、死んだ商人の霊によって毎夜苦しめられることとなった。
人々は商人の霊による苦しみから解放されるべく「苦霊無」という言葉を口にしながら死んだ商人の家を訪れ、
40日40夜の間「苦霊無」を唱え続けた。
結果霊を祓うことはできたが、商人の家族は商いを続けることができなくなり豪奢を誇った家は没落してしまった。
この件により商売の評判を落とす不吉な動物として時の皇帝は飼育を禁じた。
「大暴落」の語源はこの動物の名に由来する。
                                                                
なお、文献によると当時の学者が調査を行った際には雌の個体が1頭も確認できず、繁殖の場所・方法は現在まで謎に包まれている。
加えて発情した雄同士での行為は日常的に見られたため男性同士での性交をダイボウと呼ぶようになり、
そこから転じて男色家をダイボウと呼ぶ風習ができた。
                                                                     
民明書房刊「動植物大鑑」より
47民明書房:2010/09/16(木) 22:24:19 0
多田之 (duo tian zhi) 687〜754・中国
                                                         
中国唐の官僚・反乱軍司令官。科挙を突破し中央政府の官僚として名を轟かせていたが、
当時の新聞に男色を嗜んでいた所をすっぱ抜かれ、地方へ左遷の憂き目にあう。
この措置に怒った多田之は中央政府に対して反乱の狼煙を挙げる。当時河西節度使であった大房(da fang)、
河東節度使であった羽田之(yu tian zhi)と共に当時の皇帝、李谷岡(li gu gang)の居城へ攻め入った。当初は
反乱軍は苦戦したが大房が武器庫を襲撃し一転攻勢に転じた。しかし最終的には乱はあっけなく鎮圧された。
この乱は後の安史の乱にも大きな影響を及ぼすことになったといわれる。                           
                                                         
民明書房刊『唐代における反乱軍の歴史』の人物辞典より抜粋
                                                         
                                                         
【多田野(タダノ)】 (184〜215)                                           
                                                         
雷電「むぅ... まさか多田野を知っている者がいようとは...」                               
虎&富樫「し... 知っているのか雷電!?」                                       
                                                         
姓は多(タ)、名は田野(ダノ)、字は亜通(アツウ) 。                                 
孫権配下の武将(後門将軍)。 孟奉郡比頼県の人。                                  
                                                         
208年(赤壁の戦いの翌年)多田野はわずかな手勢と共に故郷を出て
江東に確固たる勢力を築いた孫権の配下となることを願い出る。
豪族の後ろ盾も無く、謹厳で知られる重臣張昭をして「汚い軍装だなぁ」と罵られるほど
みすぼらしい風体の彼を孫権は快く思わなかった。                                  
そこで孫権はわざと無理な命令をしてこの男を追い返してやろうと思い
群臣の居並ぶ中、この場で裸になり犬の如く四つん這いの姿勢をとる事を命じた。
多田野は「裸で四つん這いになれば配下にしていただけるんですね」と言うや否や
衆人環視の中たちまち衣服を脱ぎ捨て、四つん這いになり菊門まで開帳した。
演義では更に肛門に棒を差し込み三度回ってワンと言ったことになっている。
孫権はその堂々たる態度に恥じ入ると共に、豪胆さを気に入り配下に加えたという。
漢の名将韓信の「股くぐり」の故事を髣髴とさせるエピソードである。
その後敵に後ろを見せ退却すると見せかけ、一転して攻勢に転じるという戦法で
数々の戦や異民族討伐で功績を挙げ、209年には後門将軍にまで昇進した。
合肥の戦いでは魏将張遼率いる軍勢により窮地に陥った孫権を守って奮戦。
目覚しい働きをするも、退却中殿軍を務めた際李典に背後から突かれ壮絶な最後を遂げる。
彼の死の報せを聞いた孫権は「惜しいかな亜通!亜通ー!アツー、アッー!アッー!」
と号泣しながらその名を呼び続けたという。                                     
                                                         
ちなみに、TDNとの関係は現時点では解明されていない。                                 
                                                         
民明書房刊「一転攻勢 必勝の戦術」より                                     
48民明書房:2010/09/16(木) 22:30:54 0
多田野新聞                                                         

衆院893区・発展肛認 波多野氏に出演要請                      
大坊代表来県、野党共闘求める                         
衆院選尾府893区を巡り、発展党の大坊聡代表が20日、TDNテレビ放送アナウンサーで制作部長の波多野               
氏(52)(宇井日市在住)と尾府市内事務所で会談し、同肛公認出演候補としての出馬を求めた。           
波多野氏は約1週間後の回答を約束した。大坊代表は、波多野氏が出馬表明すれば、山純、糞親父の両刀に共闘          
を働きかける意向で、893区の肛認争いが続く痔民党は危険な領域への警戒を強めている。                 
大坊代表は会談後に記者会見し、波多野氏が「嫌だよ、ホモの政党なんて。1週間は考えさせてもらいたい」と           
答えたことを明らかにした。                                                    
一方、波多野氏は報道陣に、「大変まっすぐに話をちょうだいした。しょうがないな。本当に急な話で、しっか              
り深く考えたい」と話した。                                                    
大坊代表は今月中に再び来県し、波多野氏の意思を確認する意向で、「尾府は痔民の基盤が強い。このとおりだ          
尾府県から政権交代を一緒に成し遂げよう」と調教。                                   
「本人の決断を待ち、(山純、糞親父)両党と話をしていきたい」と述べ、ガチムチ共闘を模索したい意向を示
した。                                                              
893区の痔自民勢力では、肛認候補擁立を求める民主党県連と無所属統一候補を主張する社民党県連が対立し           
ている。                                                           
党県連の阿部高和幹事長は「発展党からどんな働きかけがあるのか、こいつを見てどう思う?」と話し、独痔候            
補ッの小便擁立作業を続ける考えを示した。                                          
山純、糞親父両党の仲介を務めた連合尾府の日高良司会長は「さあ遠慮はいらん野党が思うぞんぶん一本化で合            
意してぶち込んでみろ!!」 」と語った。                                         
一方、波多野氏擁立の動きは、痔民の現職K官擁立に影響を与える可能性がアッー!る。                    
893区の痔民では肛認争いが激化し、党県第893選挙区支部が小早川市長(47)に出馬要請する一方、       
現職の道下正樹 氏(19)も立候補ッ!いい男に性欲を見せる。高梨亮県議(48)は六尺所属での出馬を決       
めた。                                                         
同支部の谷岡俊一幹事長は「お前らもどんな流れになるか、様子をよく見ておけよ!対応を考えたい。おう、早             
くしろよ!」と話した。                                                   
市長は「自分は痔民党から要請を受けており、他党の動きに影響は受けない。尾府県民の心いきを見せてやろう           
ぜ」と語った。                                                       
(2009年1月21日 多田野新聞)                                                
                                                            
民明書房刊『ハッテングラフに見る平成史』より抜粋                                      
49民明書房:2010/09/16(木) 22:35:37 0
(1767年〜1828年)
イファスフィーチ侯爵(Le marquis de Iphasfiche)(1808年)
                                                                  
フランスの軍人。西インド諸島の仏領サン=リキョー(Sans Riquiour)出身。
爵位はないが貴族階級だった彼は、フランス本土の士官学校へ入学。卒業後は砲兵将校として任官。
革命が起きると貴族にもかかわらずこれを熱狂的に支持。
当時は士官=貴族だったため、士官不足に陥っていたフランスでは彼は優遇され、より出世をするかに思われた。
その矢先の1791年、士官学校時代の同級生が彼の同性愛者であることを暴露する怪文書をばら撒いた。
このスキャンダルにより、彼はフランス本土に居づらくなったため志願して植民地戦争に身を投じた。
最初は西インド諸島の植民地戦争、そしてインドのマイソール戦争に従軍する。
ここで若き日のウェリントン公爵の部隊と若干交戦している。
マイソール戦争の終結とともにフランスに帰還するが、第一執政ボナパルト将軍の命により、
すぐにルクレール将軍とともにサント・ドミンゴ(現在のハイチ)への出兵に参加する。
ルクレール将軍を黄熱病で失い、現地民の軍に敗北するなど苦境に立たされるが、何とか軍と現地の白人をまとめフランスへ退却した。
長い間海外で戦っていたせいもあり、10年以上前のスキャンダルもほとぼりが冷めたこともあって帝政期は砲兵の指揮官として欧州の戦場で戦う。
彼は各種大砲の特性を熟知し、標的に命中させる技術に長けていた。
バウンド弾、榴弾、散弾なども彼は容易に有効な砲撃をすることから「砲弾を自分で投げて相手にぶつけている」と冗談まで言われるようになった。
命中精度に関して言えば当時の砲兵司令官マルモン将軍も譲らざるを得ないほどであった。
彼独特の砲撃技術として、非常に滞空時間の長い砲撃が得意だった。これは、彼が直接大砲の位置、砲の角度、火薬の量など彼直々に細かく
指示を出さないとできないものだった(その時の天候や風の影響も考慮に入れなければならないからだろう)。
この砲撃は、狙いをはずしたと思った敵が出てきたところを直撃するもので、非常に恐れられた。

トゥーシェは、前述の通りスキャンダルで長い間海外での活動を余儀なくされたが、かえってどのような状況でも動じない心身ともに
非常にタフな人物であった。
また、先のスキャンダルを気にしてあまり人と接しないようにしていた。その人も同性愛者であるという誤解を受けることが
無いようにという彼の気配りでもあった。
彼自身はあまり目立たないようにしていたが、その能力や功績は隠しようも無いため、1808年にイファスフィーチ侯爵となる。
イベリア半島征服の野心に燃える皇帝はスペインに軍を進める。トゥーシェも砲兵を率いて半島へ赴いた。
スペイン・ポルトガルでは軍団長が反目しあい、
苦戦の連続だった。また、かつてインドで戦ったウェリントン公爵の部隊が立ちはだかった。大勢は覆すことはできなかったが、
1810年にスペインの将軍カルロス・タニョーカ、1811年にポルトガルの将軍ホセ・ゴクドイ、1813年にはイギリスの将軍ピーター・センチュリーを、
彼の率いる部隊で打ち破り半島でその名を輝かせた数少ないフランスの将軍となった。その後はフランスに退却してトゥールーズに籠城する。
皇帝がエルバ島に流された後は一度はブルボン王朝に忠誠を誓うが、皇帝が戻ると彼の元へ馳せ参じた。
ワーテルローでは戦闘前の雨でぬかるみもものともせず砲兵指揮官の一人として勇戦するが力及ばず敗北。
イギリス軍の指揮官の一人ジョージ・ベンツマンを自らの砲撃で討ち取り、最後は導火線の付いた爆薬を追撃する
プロイセン軍に投げつけ(時速150qと言われている)て退却した。
ルイ18世に一時は追放されるが後に許され、フランスの砲兵指揮官として仕える。1823年のスペイン出兵にも参加、往年の砲術で功績を挙げた。
シャルル10世の代で引退し元帥号を贈られた。 そのままパリに隠棲し1828年死去。
晩年にかつてスキャンダルの怪文書をばら撒いた人物が名乗り出てトゥーシェに謝罪したが、
これに対してどういう返事をしたかは伝わっていない。大勢の前で話をするのが苦手だったという弱点も伝わる。
                                                                  
民明書房刊『ナポレオン・侯爵達の物語』より