【ジョジョ】異能者達の奇妙な冒険【TRPG】7

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20民明書房
隠された皇帝

隠された皇帝、「大坊帝」
中国の長い歴史において、皇帝の存在が隠される事自体は珍しくない。
諡号を送られなかった「廃帝」の記録などは、数多く残っている。
ただし、そのほとんどは王朝の移行期におけるものであり
新王朝視点で書かれた記録ゆえに、殊更に旧王朝に対して厳しく記述しているものである。
しかし、今回の発掘調査で、王朝存続中に記録から隠された皇帝の存在が発見された。
古都長安(現在の西安)から、小ぶりの陵墓と共に当時の記録と数十年後に書かれた
史書が発見されたのだ。記録によると、この墓の主は李大坊(リ・ダァボウ)といい、
唐の太祖李世民の曾孫にあたる。記録は至る所が墨で塗りつぶされており、
微かに「帝大坊」の字が読み取れるのみである。
しかし、一緒に発見された史書「羽備論記」には驚くほど細かい記載が残っていた。
これによると、「羽備論記」の著者「項登」は若い頃李大坊の側近であったという。
以下、訳文を載せる。

聡帝(当時の通称であろうか)李大坊、遊侠の徒と交わり、球を能くす。
帝、男娼に身を窶し市中に出るの癖有り。曰く「己を売る」と。
帝また、牛車を好み、車もて車に擲するを好む。
遊侠の徒、田仁王珂(タニオウカ)と申す者、帝と深く交わる。
田仁王珂、己の牛車を瑕せしめられ、帝と口論す。
帝、側近の巴侘埜(ハタノ)と謀り、田仁王珂の尻に弩を射ち込みて、これを討つ。
田仁王珂の家中、これを憾み、乱を起こし五年の間長安を荒らし、宸襟を安からざりしむ。
帝大坊、責を問われ、帝位を剥され高句麗へ逃れる。
高句麗の儒者、免渠将はこの唐の乱れを嘆き「我致さば、免渠将の一身をもって
帝帰るに如何」と叫んだという。

立教大学准教授 谷岡俊一「中世中国の秘密」民明書房 2007年


関東淫夢会 [)*(]

 関東淫夢会は1990年代末から2000年代前半にかけて主に東京において
勢力を誇った暴力団組織である。代紋は昇り菊。
この頃、東京では山○組や稲○会などの進出が激しく、
土着の組織は衰退の一途であった。そこで下北沢一帯を根城にしていた
谷岡組の谷岡俊一が音頭を取り、これらの組織に対抗するために
結成されたのが関東淫夢会である。
初代会長には谷岡が襲名した。

 谷岡の下、組長同士の結束が非常に強く(一説には組長同士が
同性愛関係であったと言われている)、度重なる山○組や稲○会の進出を
度々撃退した。しかし、2001年の真夏の夜、谷岡が事務所で
何者かに射殺される事件が起こる。発見された谷岡の遺体は全裸で肛門部を
銃で撃たれるという無残なものであった。発見直前、若い男3人が乗った
不審な車が事務所から走り去るのが目撃されており、上記組織の放った
ヒットマンに襲われたものと考えられる。ただ、犯行に使われた銃が谷岡が
普段所持していたものであること、なぜ谷岡を全裸にした上、わざわざ肛門部を
撃つ必要があったのか、ということなど未だ真相は謎のままである。
                                            
民明書房刊「関東任侠ファイル平成編」より抜粋                       
                               
                                                           
                                                       
21民明書房:2010/09/16(木) 16:44:29 0
カントの勅令

中世のスパンク王国では獣痔軍から帰国した騎士階級の間で男色が流行し、
少子化が進んでいた。
このままでは国力が低下しインムランド王国との競争に負けるとして
事態を重く見た国王クルルァ8世が同性愛を禁じ、これを嗜む者は死刑にする
という「同性愛禁止の勅令」を出した。
インムランド貴族は、スパンク人を女などにうつつを抜かす軟弱者と軽蔑し
この勅令に英語で女性器を意味するカントを付け「カントの勅令」と蔑称したが、
今ではこちらの呼び方の方が一般的になっている。

民明書房刊『世界各国史第16巻 スパンク史』より


我知無知(がちむち)

古代ギリシャの哲学者、ソクラテスは恐妻家として有名であった。事あるごとに暴力を振るわれ、 夜の営みなどもっての他だった。
そこでソクラテスは哲学の勉強会の時、容貌の美しい青年を品定めしては男色に耽り、欲望を解消していた。
「行為の中で行う議論は発展的である」と彼は弟子たちに語っていた。この頃から、アテネでは男色スポットの隠語として
「発展場」が使われ始めた。
また、ソクラテスはプラトンとの行為の最中に「無知の知」の境地に至ったと言われている。
「私が何者であるかは知らないが、無知であることは知っている」
この有名な言葉は、中国で「我知無知」と漢訳され、日本にも広まった。
最近日本で、ガチムチ兄貴を求める同性愛者が続出しているのは、
荒んだ社会を生きていくために哲学的な心を持った兄貴的存在を探しているからかもしれない。

民明書房刊『一緒に哲学極めようぜ!』より


祈祷寺(きとうじ)
    ___                                   .)*(
   ,;f     ヽ                                  ,..ヒニゝ、
  i:         i                           _,. -‐'"~  ,ォ、 ``''ー 、_
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  |         |                        `ー=ニ二!  |^'│ . |  |  |  l゙ニフ ̄
  |        |   _.,.,_                      ,.__|,∩_|ェェ|,∩ェ|∩!ェェ!∩_|、、,ォ
  |   _ー- --| ///;ト,    ;r、              {ニlニlヨ=!ー'''','二二ニ三王ー亠'=|;
  |  ` ゚` :.; "゚` | ////゙l゙l;:ゞ゙ヾ;,:ゞヾ`ゞ>     _,,..-‐‐"ー' ̄ ̄_,,..-‐个ー-二二.,`_''ー------‐ャ
  (.    ,_!.!、  ノ l   .i .! |ゞ《ゞ;':;ヾ:;ヾ-;ソ  ‐ニ;゙----──''''"""~ _,,,,,,.....--|─┬--;--、、 ̄,``````´
  ,,∧ヽ _---, / |   | .|ゞヾ;;/ヘFゞヾ;:'`     ̄ ̄|| ̄〒─i'"""| | | |  |  |  |  |. ̄|
/\..\\ ̄ /  {   .ノ.ノ`)'~ヾ;;ゞ';;゙ゞ;ヾ;'ゝ     iョェェ||ェョ;||ョェョ|ェョェ==|FEFEFE;|;王i;|;王;|王il|EF|EFヨ
/  \ \ ̄人  /   / .|iゞ<ノ;ゞヾ-'、、_      '==i‐_‐‐__‐_',,'ニニiニ二二二i!ニニ

上は室町時代に谷岡俊一が描いた祈祷寺と初代住職大坊の絵「祈祷大坊」

 室町時代中期の発典十六年に建立された寺。第四代将軍足利義持の従弟である足利数人が
幕府の安寧と発展を祈って建立させた。初代住職は満場一致の決(決満)で大坊国師が選ばれた。
大坊国師は京都で真夏の夜に淫夢を見せるという妖怪葉美炉雲をその祈祷によって退治した功が
決め手であったといわれている。

 祈祷寺で大坊が祈る姿を当時天下第一の画家と言われた谷岡俊一が絵に描いた。
この絵は「祈祷大坊」と言われ幾多の戦火を潜り抜けて現存している。
祈祷寺は応仁の乱が起きた時、山名宗全側の気東田 意棒(1420〜1506)によって一部を
焼失しているが、数年後に多田野と名乗る大工が修復して「祈祷大坊」の絵とともに
戦火を潜り抜け現在に至る。

民明書房刊『室町時代の寺社』より
22民明書房:2010/09/16(木) 16:46:08 0
奇塔「泥瞑(でいべい)」                                 
                                
16世紀まで現在のネパールに存在したといわれる塔。
当時、ネパールの奥地には「ジブ・ウォウール族」という少数民族が住んでいた。
ジブ族は、独自の宗教である「ディ・ルードゥ教」を古来から信仰しており、
"太くて長いもの"にこそ神が宿るのだという独特の教義を持っていた。
10世紀後半、土木・建築に関する技術がある程度醸成されたころ、ジブ族の中に
「信仰の対象である"太くて長いもの"を自分たちの力で最大限まで具現化しよう」という試みが生まれ、
部族の中でもガッチリした体型の男たちが集まり、一基の塔を建造し始めた。
そして1015年、40〜50年の年月を経てその塔は完成をみる。
全長は現在の単位で約89.3m、形はまるで巨大な男性器を思わせる奇妙なものであった、と伝えられている。
それからさらに2世紀の後、ジブ族の間にある伝承が生まれていた。
それは、「塔の最上階で、ただひたすら風雨に耐えて瞑想を行い、性欲をはじめあらゆる欲望を断ち切った者は、必ず極楽に行くことができる」
というものだった。                              
これは、自分たちの立てた塔に対する信仰の念から生まれた伝承だったが、
ディ・ルードゥ教を熱心に信じる者の中には、この伝承は現実のものだと確信し、
実際に塔に登って飲まず食わずの修練および瞑想に明け暮れる者が後を絶たなかった。
その後、ジブ族は滅び、16世紀にはこの塔も雨風により朽ち果ててしまうが、
たまたま同時期にネパールに赴いていた中国の修行僧によりジブ族の存在、奇塔、
およびそれにまつわる伝承はアジア各地に伝えられた。
後にこの奇塔は、「修行者が頂上で砂ぼこりの混じった風雨、すなわち泥まみれになりながら瞑想を行った塔」
であることから、中国で「泥瞑(でいめい)」と名づけられ、わが国にはそれがなまって「でいべい」と伝えられた。

なお、医学書の中には、男性器の一部である「亀頭」は、この奇塔「泥瞑」が
亀の頭の形をしていることに由来する、と説明するものもあるが、真偽は定かではない。

民明書房刊『世界奇想遺産』より


義持血衣威(ギモッヂイイ)

戦国時代、多田野菊門尉(きくもんのじょう)等が考案した奥州谷岡家の旗印に記された言葉。
当時の谷岡家ではこの戦国の世を生き抜くにはどうしたらいいか、と盛んに議論されていた。
家臣の多田野、大坊左御之助(さおのすけ)、羽田野真螺衛門(まらえもん)らが協議した結果、「義を持ち続け、衣を返り血で染め威を示す」という
主君谷岡八天之介の生き様を旗印に記し、家中を一つにまとめ、合戦でも士気向上を図ることにした。
実際に旗指物に記された言葉は「義持血衣威(ぎもちいい)」となった。方言の訛りが出たのか「ンギモッヂイイ」と発音するものがほとんどだったが、
特に発音を修正されることはなかった。
これにより奥州谷岡家は小規模ながらよく団結し、伊達氏、最上氏などの有力大名の侵攻をよく防いだ。
しかし、1587年奥州統一を狙う伊達政宗の猛攻の前についに力尽き居城の御狗道城は落城、当主谷岡八天之介は切腹、
介錯の代わりに背後から鉄砲で撃たせて果てた。
伊達政宗は、敵対しながらも奥州谷岡家の生き様に感銘を受け彼等の遺臣を礼を尽くして迎え入れたという。
                                                    
現在「ギモッヂイイ」という発音は「気持ちいい」が変化したものと考えるのが一般的であるが、
奥州谷岡家の生き残りの子孫達が発している可能性がある。
その場合は「義持血衣威」の意味で発音しているということは言うまでも無い。
                              
民明書房刊『軍旗の歴史』より                   
23民明書房:2010/09/16(木) 16:48:26 0
キヨノ酸
                                                            
うま味(あじ)成分の一つ。イカに似た風味があり、汁物料理に使われる。
                                                                
明治時代末期、日本ペリー食品(ニッペ)はうま味成分であるダイボー酸の工業的合成に成功し、我が国初である
化学調味料「うま味の素」を販売した。
しかしコスト面の課題が残されており、より安価なうま味を求めて更なる研究が進んだ。大正時代に入り、北沢大学の
谷岡俊一郎教授がハタノキノコに含まれるうま味成分「キヨノ酸」の抽出に成功した。キヨノ酸はダイボー酸と化学的構造が
似ているものの、より簡易な方法で合成が可能であった。うま味の素の主成分はすぐにダイボー酸からキヨノ酸に切り替えられ、
値段もこれまでの半額で売ることが可能になり、うま味の素は一斉に普及した。
その直後、全国で謎の動悸が流行した。前触れもなく「ハッー!ハッー!」と息苦しくなることから「ハツハツ病」と呼ばれたこの
奇病だが、立教大学の多田野数彦教授はラットの実験で「原因はうま味の素に含まれるキヨノ酸ではないか」と論文で報告した。
しかし多田野教授はニッペから「キヨノ酸は関係ないだろ」「これ以上キヨノ酸を侮辱するなら訴訟も辞さない」と脅迫を受け、さらに
谷岡教授の差し金により日本を追放されてしまう。失意のうちに渡米した多田野教授はインディアヌス大学で研究を続けた。その結果、
キヨノ酸の中に含まれる光学異性体が発病の原因であることを突き止めた。この光学異性体はPOPO触媒と強力な結合能を示し、
教授はその性質を利用して無害なうま味の素を作り出すことに成功した。多田野式うま味の素はアメリカじゅうに爆発的に広まり、
日本にも輸出されてオリジナルを凌駕し、ついにはニッペを市場から撤退させた。
                                                                
現在流通している化学調味料には必ずキヨノ酸が含まれるが、そこに至るまでの波乱を含んだ経緯を知る者は今となっては少ない。
                                                           
民明書房刊 『うま味紳士』(日本ハム研究開発部部長吉井理人理学博士著)より


空気大僧正

空  橙  存  機  二  台  於  演  存  野  視  唯  不  羽  競  着  皆  羽
気  黄  在  会  年  詞  極  技  在  空  聴  一  明  田  演  用  酷  田
的  色  希  皆  時  少  道        気  者  至  言  野  者  不  評  野
存  下  薄  無  秋  数  脅     ,,,  的  憤  言  動  前  失  気  羽  空
在  穿  化  卒  以  専  迫   ;'"__"';,    慨  宇  宇  立  笑  味  田  気
       進  業  降  念  動    ;Y'_、,_;     羽  井  井  腺  羽  橙  野  的
    公  行  後  公  脇  画 . _,...人 _3ノ     田  比  比  覚  田  黄  之  存
    開  加  沈  式  役  _/|, `゛ヽ 'ー,ヽ、,_.       未  醒  野  色  不  在
    自  速  黙  戦  rー'""l,  'l,     / .| ||/`>、、   来  悶  之  下  細  男
    慰      継  出  /    |   'l,    /  .|./》/ ∧   永  絶  公  穿  工  不
           続  場 /  , | ヽ   ヽ,、/.@ / 《l,l / ヽ  劫  発  開  股  顔  人
    宇      潜  之 /  、,ヽ|/ ヾ。ツ`' 「ゞ / /《ヾ  /゛ヽ    声  自  間  面  気
    井      伏   ./  ///l`゛'゛ー-'"  / // ノ// //`l、   宇  慰  部  不  理
    比      中  ,|.  /// |  |___,,,ノ≡≡ツノ//_,,-‐'"".l,   井  行  異  気  由
    宇      至  | /// /|    /二=‐'"´´/ /`゛゛'ー-、,_.l    比  為  様  味  多
    井      現  |/// / |   /|三="´  / //"´´゛'ー、|    意  発  隆  笑  数
    比      在  ///ノ   ノ ノ ノ‐-二‐'"´ ノ/r=、,_ー-、_|    味  言  起  顔

民明書房刊 『日本の宗教史』より
24民明書房:2010/09/16(木) 16:51:01 0
駆流流唖(くるるぁ)

戦国期における馬術。戦乱の続く戦国時代では馬は非常に役立ったが、それと同時に馬を乗りこなす技術もハッテンした。
「駆流流唖」は騎乗者が両手で手綱を握り、上半身をできるだけ低くすることで
馬上で四つんばいになっているかのような姿勢をとることが重要とされた。
これにより空気抵抗を減らし、また馬と密着するくらい姿勢を低くしているので
揺れにも強く馬も走りやすくなるという利点があった。
「穏やかな川の水が流れていくように馬が駆けていき、見ている人はその速さに唖然とする」ことから
この馬術は「駆流流唖」と名づけられた。
騎馬隊で大いに名を上げた武田家において、「駆流流唖」に長けた者が多かったといわれている。
接敵するまで上半身を低くしているため騎乗者は弓・鉄砲で狙われにくかったが、
かの長篠の戦において織田・徳川連合軍が三段構えの鉄砲隊を用いたため上半身を上げたところを撃たれてしまう者が多く出た。
この戦いを機に「駆流流唖」の使い手も減るかと思われていたが、武田家の滅亡後、遺臣が各地に散り「駆流流唖」を伝えたため
逆に使い手は増加したといわれている。本能寺の変後、中国大返しで畿内に戻ってきた羽柴秀吉の軍勢も騎馬隊は
「駆流流唖」を使ったといわれている。
江戸時代においても早馬を使うときにはこの「駆流流唖」が役立った。
現代において車のことを「クルルァ」と発音するものが稀にいるが、祖先の中に「駆流流唖」の使い手がいて、                  
その発音の影響を受けた者の可能性がある。                                        

民明書房刊『戦国期における馬術の発達』より抜粋


クルルァーニ・ツィッテコイ(Crulluani Zittecoy)                                      

イタリア人画家。主にルネサンス期に活躍した。代表作に『脅迫をする男』『窓際』などがある。
画家になる前は馬車の御者をしていたが、
ある日運悪く街のヤクザの一団に後ろから馬を当ててしまい、
さんざんに殴る蹴るの暴行を加えられた挙句に御者としての免状を奪われてしまった。
このためにクルルァーニは御者をやめたが、怪我が回復するのに伴って、
次第に画家の道を志すようになった。
これは、クルルァーニの知己である銀行員、ユスケール・ハッティーノが
同じ時期に画家への転身を図っており、クルルァーニにも
「一緒に画家目指そう。資金出すのは俺だから」
などと声をかけていたことがきっかけだった。                                    
その後、クルルァーニは絵画の才能を十二分に開花させ、画家を志してから10年後には
画壇にその名を知らない者がいないほどの高名な画家にまで登りつめた。
だが、その華々しい活躍の裏で、クルルァーニはある計画を着々と進めていった。
それはかつて、自分が御者の職を辞めるきっかけとなった事件を起こした、あのヤクザ達への復讐だった。
復讐の計画を練りはじめて3年後の夏、クルルァーニはとうとうあの事件のときの
ヤクザたちを見つけ出し、雇った手下を使って自分のアトリエへと連れ込んだ。                       
そのアトリエでクルルァーニは、自分がかつての事件の被害者であることを告げた上で、
ヤクザたち同士でホモセックスをすることを命じた。                           
クルルァーニは、屈辱にゆがんだヤクザたちの表情をあまさず絵の中に納め、                             
この絵に『真夏の夜の淫夢』の題をつけて一部の好事家に売りつけたという。                           
                                                     
ちなみに、現代の日本にも『真夏の夜の淫夢』というゲイビデオがあり、                           
ストーリー構成がクルルァーニの半生と似通っていたり、                     
劇中に「クルルァについてこい」というセリフがあったりするのだが、                        
これを偶然の一致と片付けていいものか疑問が残る。                          
                               
民明書房刊『ルネッサンス画家の語られざる歴史』より抜粋
25民明書房:2010/09/16(木) 16:55:40 0
穴掘り衆(けつほりしゅう/あなほりしゅう)                                    
                                                         
 戦国時代、籠城する相手を攻める際地中を掘り進む戦法がとられることがあった。                         
敵の水を断ったり城内への抜け道を作るなど目的は様々だった。鉱山採掘を生業とする金掘り衆と                       
呼ばれる者達がこの仕事に携わることが多かったが、中でも穴を掘ることに関して優れた技量を                       
持つ者達を「穴掘り衆」と呼んだ。東日本では「けつほりしゅう」、西日本では「あなほりしゅう」と                       
言われた。穴掘り衆の技術は二つの系統に分けることができる。                          
 一つは雁掘り(がんぼり)と呼ばれる掘り方で、これは雁の頭のような隊列を組んで掘り進める          
方法であり、土中が比較的柔らかい場合に使われる。彼らの隠語では土中が柔らかいことを          
土呂満(とろまん)と表現し、「土呂満を雁掘りする」というように使われた。           
 もう一つは座苦掘り(ざくぼり)と呼ばれる掘り方で、座り込んで腰をすえて時間をかけながら          
掘り進める方法である。土中にがちがちの硬い石などが混ざっている場合(牙地満(がちまん)と         
呼ばれた)に苦労をして掘らねばならないことから「牙地満を座苦掘りする」というような隠語で          
表現された。                                                  
 穴掘り衆と呼ばれる域にまで達した者は決して多くは無かったが、彼らがいれば城攻めの
損害を軽減することが可能であり、非常に重宝された。城攻めの名手であった豊臣秀吉も                    
専属の穴掘り衆を抱えていたと伝えられている。                             
                                                 
 彼らは穴掘り衆と認められた証として名前に「菊」の文字を冠した(菊蔵、菊之介など)。                       
屈強な体を持ち、大抵は褌一丁で穴掘りに赴いた(東日本では六尺褌、西日本では越中褌)。                   
後に、どの主君に仕えているかに関係なく武田信玄を崇拝するようになったといわれている。                       
 穴掘り衆の第一人者として上州谷岡家に仕えた菊人(旧名数人)が挙げられる。                        
彼は下北沢城攻めの際、一人だけで雁掘りを敢行し一夜で城内までの道を掘り抜いた。
(菊人の雁掘り貫通)。また、真夏の東北沢城攻めでは一人だけで座苦掘りを敢行、敵味方皆が              
寝ている間に城の真下まで掘り抜いた(真夏の夜の座苦掘り)。                            
                                                         
 現在は機械化が進み、人力で穴を掘り進めることは少ないため穴掘り衆と呼ばれる者は                           
姿を消した。しかし、どういうわけかゲイ用語で「ケツを掘る」「ガン掘り」「ザク掘り」などの                        
言葉が使用され、その名残を確認することができる。                             

                                                               
民明書房刊『異能集団 -歴史を影から支えた者達-』より抜粋