【三国志大戦】武将の質疑応答【第四章】

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284淳于瓊 ◆AdovgbyWeU
>261
過度なる歌の紹介によって私に怪しまれるのを恐れ、咄嗟に歴史関係に切り替えてきたか。彼ならやりかねぬ事だな。
むっ!? これは何と読むのだ? 倭国の戦国大名で斯様な名前の者なぞいたのか?

(趙叡 「なら、どうします? この質問は破棄致しますか?」)

いや、ならん。来てくれたものは、如何なるものであっても答えるのが私の身上であるからな。
ええと……。ちょう、そかべ、もとちか……。

……四国を統一した長宗我部元親公の事か!!!!! 漸く分かったわ!!!!!

(趙叡 「流石ですな、淳于将軍。ですが、何故斯様にややこしい書き方にしたのでしょうな?」)

恐らく普通に書こうとしても文字として出て来なかったゆえ、やむなく「当て字」を用いらざるを得なかったので
あろうな。しかし、謎解きの様で少々混乱したわ、全く。今後、斯様な事が起こらぬ為にも、少し助言をせねばならぬな。

この名前を出すには「ちょうそ『が』べ」と記入するように。然すればちゃんと「長宗我部」と出るぞ。
覚えておくと良い。

(趙叡 「ところで長宗我部氏がどういう事をした人なのか、ご説明を御願い致しますぞ。」)

うむ。長宗我部元親公というのは、倭国は戦国時代、安土桃山時代にかけて活躍され、土佐を拠点として四国を統一した
将として知られている。

本姓は家系が秦の始皇帝を祖とする秦氏(特に大和王権で活躍し、平安京の造成や伊勢神宮の創建等に関わったといわれて
いる秦河勝の後裔であるという)といわれているが、実際は土佐の在地豪族であるという。

一時存亡の危機に立たされた長宗我部氏を圧迫していた本山氏や一条氏、香宗我部氏など周辺豪族に積極的に攻め込んだり、
また息子を養子縁組させる等をして勢力を再び拡げ、見事に復興させた長宗我部国親公の嫡男として天文8年4月19日に
岡豊城(現在の高知県南国市)で生まれたのだ。

(次に続く↓)
285淳于瓊 ◆AdovgbyWeU :2008/05/20(火) 22:38:36 0
此処からは功績や出来事等を年表式に沿って綴っていくので御了承願いたく思う。

1560(永禄3)年5月、土佐郡朝倉城主にいる本山茂辰を攻めた、長浜の戦いに於いて当時としては遅い、22歳の
初陣を果たす(因みに『呉下の阿蒙に非ず』の逸話で名高い呉の呂蒙殿は16歳で黄祖討伐を目的とした戦で初陣を
果たしている)。それまでは元親公は周りから「姫若子」と呼ばれてからかわれる程虚弱な人物であり、直前まで家臣で
ある秦泉寺豊後殿から槍の手解きを受けるほどのものであったが、いざ開戦するや否や、勇猛果敢に攻め立てて長宗我部軍の
勝利に貢献した。

それ以後、「姫若子」といわれていたのが「鬼若子」と周りから恐れられる様になったという。

だが戦後、かねがね病に罹っていた実父の長宗我部国親公がその息子の勇猛振りを見て安心したのか、その戦から一月後、
病没。元親公は第21代当主となった。

彼は当主になると、「一領具足」という、普段は農民だが、領主から動因がかかると一変して具足や槍、刀、鎧等武具一式を
身に纏う兵隊に変わるという軍団組織を編成し始めたのだ。

(趙叡 「何だか屯田兵に近いですな。」)

まあ、そういうところだろうな。この軍団は身体が頑健なる者が多く、集団行動の適正も高かった為、兵としては高い能力を
持っていたのだが、農繁期になると動因が儘ならず、また長期に亘る戦役には耐えられないという短所も持っていたそうだ。

話題休閑。元親公はその後、土佐の国司であり、幡田郡中村城を拠点とし、土佐に多大な影響力を持つ「中村御所」こと公家
大名の一条氏と共同して1562(永禄5)年に朝倉城攻めを行い、またその翌1563(永禄6)年には美濃の斎藤氏から
正室を迎え、また弟君の長宗我部親貞公に吉良氏(清和源氏の系統を受け継ぐ一族で、土佐七豪族の一つとして勢力を振るって
いた)を継がせている。

1568(永禄11)年、宿敵である本山氏を、翌1569(永禄12)年には八流(やる)の戦いで和睦を断った安芸国虎公を
別働隊を用いて背後を突く等をして散々に打ち負かせた末、自害に追い込んで安芸氏を滅ぼすなど、勢力を拡大させる。

1571(元亀2)年、安芸氏との長宗我部氏の仲介に入った事がある一条氏の家臣である津野氏を滅ぼし、三男の長宗我部
親忠公を養子として送り込んだ。

1574(天正2)年、一条氏の当主である一条兼定公を豊後臼杵に追放して土佐一国をほぼ制圧。翌1575(天正3)年に
豊後を拠点とした戦国大名である大友義鎮公(宗麟)の援助を元に再起を図り、土佐を取り戻さんとした一条兼定公に攻め
込まれ、元親公は一時、窮地に追い込まれるも、実弟の吉良親貞公の尽力があり、四万十川の戦い(元親公の家臣である福留
儀重《=福留隼人ともいう》の騎馬隊が一条軍の分散に成功させ、総崩れさせて長宗我部軍が勝利した戦い。)で一条氏を、
一条氏を擁護する土豪諸共大いに打ち破り、完全に土佐を手中に把握させた。

(次に続く↓)
286淳于瓊 ◆AdovgbyWeU :2008/05/20(火) 22:39:02 0
その後、中央で統一事業を進めていた織田信長公と同盟を結び、伊予、阿波、讃岐へと侵攻。阿波や讃岐では畿内に
勢力を誇っていた三好氏が織田信長公に敗れて衰退の一途を辿っていたものの、十河存保や三好康長等、三好氏の
生き残りによる反抗勢力や、1576(天正4)年に元親公の弟君である吉良親貞公の早世などがあって、当初は四国の
平定が思う様に進まなかった。だが、1577(天正5)に三好長治公がこれまで手を組んで阿波を治めていた細川真之公と
不仲になり、元親公と手を組んだ細川真之公に攻められ、阿波の荒田野での一戦で戦没すると、三好氏は更に衰退に
拍車が掛かり、元親公はこの機を逃さず改めて阿波、讃岐に侵攻、1578(天正7)年には次男の長宗我部親和公を
讃岐の有力豪族である香川氏の養子として送り込み、1580(天正8)年までにほぼ両国を制圧する様になった。
しかし一方の伊予方面への侵攻に於いては、長宗我部氏の伊予方面への侵攻の総指揮権を握っていた久武親信公が
伊予宇和郡の岡本城を攻略している最中、岡本城主の土居清良公(伊予を統治していた公家大名・西園寺氏に仕え、
特に有力なる将の集団である『西園寺十五将』の一人。小勢力ながら当時の四国勢としては珍しく、配下の兵全員に
鉄砲を所持させる等をして圧倒的な戦力を誇っていた。)の奇襲によって討ち死にする等、伊予の諸大名の頑強なる
抵抗に逢って攻略は思う様に進まなかった。

更に1580(天正8)年、これまで元親公と同盟を結んでいた織田信長公が元親公の四国統一を良しとせず、「土佐と阿波の
所領を安堵させてやるから臣従せよ」という便りを送って従わせようとしたものの、元親公はそれを拒否。それ以後、信長公とは
敵対関係となり、翌1581(天正9)年には信長公の助力を得た十河存保公等の侵攻を受け、また1582(天正10)年には
信長公の三男である神戸信孝公(本姓は織田だが、伊勢中部の有力豪族である神戸氏の養子となって受け継いだため、『神戸』と
名乗った。後本能寺の変によって信長公が亡くなると、跡目狙いで織田姓に戻している。)を総大将とした四国征伐軍が編成される
等の危機に陥ったが、元親公と親しい外交を取っていた明智光秀公がその信長公の政策転換に苦しんだのか、同年に起こった
本能寺の変によって信長公は討ち死にとなり四国征伐軍は解体、これによって元親公は危機を脱する事に成功した。

そしてその機に乗じて再び拡大勢力を図り、宿敵十河存保を中富川の戦い(別名・四国の川中島の戦いとも言われた合戦。
長宗我部軍が十河軍の4倍もの兵力《長宗我部軍:23000、十河軍:6000》を以て圧倒したり、また中富川の堰を
切って一気に十河軍の兵を多数流した事によって総崩れを生じさせ、十河軍を勝瑞城へと退却させた。)で撃退した事により、
阿波をも事実上支配下に治める事が出来た。

1583(天正11)年賤ヶ岳の戦いでは織田氏の家臣である柴田勝家公と手を組んで羽柴(のち豊臣)秀吉公と対抗。
翌1584(天正12)年の小牧・長久手の戦いでは、信長公の次男である織田信雄公と徳川家康公と手を組んで秀吉公に
対抗し、秀吉公が送り込んできた仙石秀久公の軍勢を撃破させている。1585(天正13)には伊予への侵攻を再び開始させ、
「西園寺十五将」の筆頭である西園寺公広(きんひろ)公や河野通直公を降して伊予を制圧、四国全土をほぼ統一する事に成功
した。(一説によると伊予の制圧が果たせぬまま羽柴秀吉公に屈したとあるが、近年の研究によると四国制圧が果たされた事実の
方が濃厚と判明している。)

しかし、この頃中央における羽柴秀吉公の派遣は確固たるものになっており、四国への征伐の準備も整い、統一から秀吉公との
戦いまでには僅か数週間しか残されていなかった。

(趙叡 「歴史というのは何とも皮肉なものですな。四国の統一を果たしたというのに、直ぐ強制的にその四国を手放される羽目に
なるなんて……。」)

そうだな。前述した吉良親貞公がもう少し長く生きていたらば、5年早く四国統一を果たし、幾分か抵抗する手筈が整えたものの、
これは遅かったのかも知れぬ。運命には逆らえまいよ。

(次に続く↓)
287淳于瓊 ◆AdovgbyWeU :2008/05/20(火) 22:39:25 0
そして運命とも言うべき1585(天正13)年、羽柴秀吉公の四国征伐が開始、秀吉公の弟君である羽柴秀長公を総大将とする
10万を越える軍が派遣されると、元親公は阿波の白地城を本拠にして阿波・讃岐・伊予の海岸線に予防線を張り、防衛を固める
一方で、「伊予を割譲するので和睦していただけぬか?」と求めたが、拒絶。そのまま抵抗する事に決意した。

秀吉公はまず、宇喜多秀家公率いる軍勢を讃岐へ、小早川隆景・吉川元長率いる毛利氏の軍勢を伊予へ、羽柴秀長・羽柴秀次
(秀吉公の姉である瑞竜院日秀の子で、秀吉公の養子となった。)率いる軍勢を阿波へと同時に派遣、伊予・金子城主である
金子正宅公を毛利軍が討ち取るなどして、土佐方の城を次々と落城させていく。そして阿波での戦線が崩壊して元親公の本拠で
ある白地城までの道が晒されると、元親公は反戦派の家臣・谷忠澄の進言を入れて降伏。これによって長宗我部氏が治めていた
四国の内、阿波・讃岐・伊予は没収され、土佐一国のみの領有を安堵され、また三男の津野親忠公は羽柴氏の人質として取ら
れた。

(因みに没収された領土のうち、阿波は蜂須賀氏、讃岐には仙石氏と十河氏、伊予には小早川氏が其々領有する事となった。
特に十河氏の場合は元々治めていた讃岐を再び与えられたため、領地を取り戻した感が強い。)

豊臣政権下に下った後は、1586(天正14)年、秀吉公の九州征伐に嫡男の長宗我部信親公と共に従軍し、島津氏の圧迫に苦しむ
豊後大友氏(=大友義統公)の救援に向かう。ところが、12月の戸次川の戦い(島津家久公率いる島津軍と仙石秀久公を総大将と
した、長宗我部元親・信親公父子、十河存保公率いる豊臣軍との戦い。)に於いて仙石秀久公が功に焦って無謀にも冬の渡河
作戦を決行、戦況こそ当初は島津勢左翼の伊集院久宣公と仙石秀久公率いる淡路勢が衝突し、島津家久公が狼狽するほど
押し寄せていたものの、淡路勢が深追いした所に主力の新納大膳と右翼の本庄主悦が雪崩れ込んだ。結果、逆に今度は
淡路勢が狼狽して潰滅し、人数に劣る仙石秀久勢はあっという間に浮き足出たせ遁走する事となった。その後勢いに乗った
島津勢は淡路勢に続いて第二陣の十河存保率いる讃岐勢、長宗我部信親軍を伏兵と共に包囲殲滅、元親公の息子・信親公は
戸次川にて十河存保公と共に討ち死にしたという。

さらには第3陣の元親公率いる軍勢は敵わじと見、合戦する事が無く敗走、更にこの敗戦の責任者となった仙石秀久公は諸将軍を
差し置いて小倉城に撤退、その後讃岐へ逃げ帰るという醜態を晒す事となった。(その後、この戦で大勝した島津軍は大友氏
の要衝である鶴賀城を陥落、次いで府内《現在の大分県大分市》に侵攻。大友義統公は万策尽きて豊前に逃走し、島津勢は
実質上、豊後を平定する事を果たした。)

ただ、元親公は此処では敗走したと記載したが、息子の信親公が戦死したと聞いた時は大いに悲しみ、自らも死のうと決意した
そうだ。この時は家臣から強く諫言して思い留まったが。更には秀吉公は元親公のその悲しみを察したのか、九州征伐の後、大隅
一国を元親公に与えようとしたが、それに対して元親公は固持したという。愛する息子を失った事により、領土を拡張する野望を
失った事が固辞した理由らしい。

息子である信親公を失った戸次川の戦い以降、人が変わった様に元親公の行動には精彩を欠いた所が見られ、将来に於ける
長宗我部氏滅亡の遠因を作ってしまう事になるのだ。

(次に続く↓)
288淳于瓊 ◆AdovgbyWeU :2008/05/20(火) 22:39:48 0
(趙叡 「余りこういう事を言いたくは無いのですが……。」)

ん? どうした、趙叡。

(趙叡 「それ以降の長宗我部殿というのは何だか官渡の一戦で敗れた殿《=袁紹》と似ている様な気が致します。」)

……確かに。殿も官渡の一戦以降、後継者等をキチンと決めなかったりと精彩を欠いていたからな。いや、それ以前かな?

ともあれ、元親公は1588(天正16)年に本拠を大高坂城へと移転。その後、家督継承を決める際、次男である香川親和公や
三男の津野親忠公を差し置いて、四男の盛親公に家督を譲る事を決めている。本来ならば、最も年長である香川親和公が家督を
継いでも可笑しくないのであるが、親和公や親忠公は他の家系を継いでいる事や溺愛していた信親公の娘を娶わせるには年齢の
差がありすぎた為であったのが原因らしい。反対派の家臣であり一門でもある比江山親興公、吉良親実公等に死を命じるなど
内部粛清を行い、盛親公への家督相続を強行している。

1590(天正18)年の小田原征伐では長宗我部水軍(長宗我部氏の家臣である池氏が率いた水軍であり、四国統一の際は
補給部隊として活躍、豊臣氏に臣従した後は先に述べた小田原征伐の他、朝鮮出兵にも活躍。その他にも水運力を生かして
堺との交易にも活発に尽力している。)を率いて参加。
翌1591(天正19)年には浦戸湾に迷い込んだ、体長9尋(約16.4m)もの鯨を数十隻の船団と百余人の人夫で以て
大坂城内へ丸ごと持ち込み、秀吉公や大坂の町人を大いに驚かせる。その年の末、本拠を浦戸城へ移転。

1592(天正20)年、朝鮮出兵(文禄の役)に五番隊として従軍。帰国後は1594(文禄3)年の春に伏見城の工事に
分担する。

1596(慶長元)年には「サン=フェリペ号事件」(豊臣秀吉公による基督《=キリスト》教禁教令の切っ掛けとなった事件。
西班牙の交易船であるサン=フェリペ号が暴風雨によって土佐に漂着し、船体修理として浦戸港に入港した際、秀吉公は
五奉行の一人である増田長盛公を派遣、結果、船の貨物と乗組員の所持金を全て没収し、財貨全てを秀吉公に献上した。その
行為に怒った水先案内人が『イスパニア(=西班牙の古名)が広大な領土を獲得したのは、基督教の布教と宣教師の手引きに
よるものだ!!』と発言、さらに『日本もまた将来イスパニアの植民地になるだろう』と挑発的に証言した。この発言を耳に
した秀吉公は基督教の禁止に踏み切ったと言われている。)に対処して、秀吉公による基督教の迫害の引き金を作る事になった。

(次に続く↓)
289淳于瓊 ◆AdovgbyWeU :2008/05/20(火) 22:40:09 0
1597年5月10日(慶長2年3月24日)、領内で検地を行い、分国法(戦国大名が領国内を統治する為に制定した
法律規範の事)である「長宗我部元親百箇条」を制定する。

因みにこれがその内容ゆえ、是非御覧になられたし。

1・喧嘩・口論は硬く停止する。この旨に背き、勝負に及べば理非によらず成敗する。
2・国家への反逆・国中への悪口・流言蜚語は重罰刑とする。また、賭博禁止・犯人隠匿には連座制をもって処罰する。
3・喧嘩・博奕・大酒・踊・相撲見物・遊山振舞などは禁止する。
4・隠田の禁止。難渋の場合、(百姓の)首をはねる事。
5・第一鉄砲、弓馬を専ら心がけること。

うち3つ目の禁酒令は家臣の福留儀重公に諌められ、撤回している。

(趙叡 「しかし……、禁酒は撤回されても、博打や踊り、相撲見物、遊山等を禁止すると言うのは厳しいですな。
庶民の楽しみを取り上げている様な感じですぞ、これは。」)

確かにな。だが此処までせねば国としての秩序が守れぬゆえ、敢えて厳しくしたとも言えよう。

またこの年は再び朝鮮出兵(慶長の役)に参加して各地を転戦、翌1598(慶長3)年、秀吉公が病没した事により、
3月に帰国。その際、政情が不安定になるという大事の中で、徳川家康公と誼を通じ、更には家臣の久武親直の讒言と
人質時代、藤堂高虎公と親しかったという事で3男の津野親忠公を幽閉する等をした。

(注:その後、この津野親忠公は弟君の盛親公が関ヶ原の戦いの際、西軍について敗北した後、井伊直政公を通じて
徳川家康公に謝罪し、土佐の領土を安堵する様に計らうも、家臣の久武親直がここでも「親忠様は藤堂高虎と図って
土佐の半分を支配しようとしておりますぞ」と讒言を盛親公に吹き込んだが為に盛親公に殺められたという。後に
盛親公は徳川家康公に「兄殺し」として咎められ、土佐の領土を没収された。)

1599(慶長4)年上洛して間も無く病に倒れ、伏見の屋敷にて療養をしていたが、5月19日に逝去。享年61。
家督は四男の盛親公が継いだ。

まあ、こんな所であろうかな? 些か回りくどい説明文の様であり申し訳無いが、これも貴殿が長宗我部公の事を
知りたいが為に記したゆえ、御了承願いたく思う。

あと、私としてはだが、元親公の興味ある逸話が一つあるので、それを出して此処までにさせていただく。

豊臣秀吉公が天下を統一した後、各地の大名を集めて舟遊びをした。その時秀吉から饅頭をもらった大名はその場で
食べたが、元親公は端をちぎって食べただけで紙に包んだ。それを見た秀吉は「長宗我部殿、その饅頭をどうなさる
つもりですかな?」と聞き、それに対し元親公は、「太閤殿下のお手ずから頂いたありがたい饅頭ですので、持って
帰り、家来にも分け与えます」と答えた。秀吉は大いに気に入り、用意した饅頭を全て与えたという。

この逸話から、これほど元親公の家臣を思う気持ちは強かった事が窺える。

他にも四国を統一する理由を家臣に問われた時、「家臣に十分な恩賞を与え、家族が安全に暮らしていくには土佐だけ
では不十分(土佐は豊かな土地ではない為と思われる)だからだ。」と答えたそうだ。また彼は領民思いでもあり、敵を
兵糧攻めにした時、城付近の麦を刈ったが、全部刈り取っては領民に気の毒だと思い、半分残すようにと家臣に命令
している。領民はそれに対して元親公に深く感謝したという。

私からは長宗我部元親公の説明は以上だ。また何か不足点があれば、何なりと申していただきたい。

これを贈ろう。
つ【肉まん、あんまん、宇治茶、『元祖山崎』のへんろ石まんじゅう】【司馬遼太郎『戦雲の夢』】