【三国志大戦】呉王朝最後の丞相・張悌

このエントリーをはてなブックマークに追加
184張悌 ◆fm/e7yRRqo
>176、>178
む、それは一体何でしょうか? (と言い、記載されたサイトを覗いて見る)

……なるほど、ここにも斯様に長くお答え致す方が居られたのですか。

拝見いたしましたが、かの砦の主はまだ年端もいかぬ女性であり、一人でここまで繁栄させるとは見事なものです。

……かの武烈皇后陛下(=呉夫人)やその妹君である呉国太様、そして孫夫人様(=孫尚香)を代表する様に、孫呉の
女性はかなり気丈な性格であったと聞きますが、向こうの砦を見る限り、彼女もまたその孫呉の女性を思わせるかの
如き気丈さが御見受けいたしました。故に、もしも斯様な女性が我々の時代にいたならば、孫呉もまた引き締まって
いたでしょう、と思いましたね。

あと最後に、どうも向こうでは一言か二言、私の名が取り上げられておりますが、私は彼女ほど尊敬されるほどの者
ではありませんゆえ、誠恥じ入るばかりです。

>179
孫呉に足りなかったもの、ですか。そうですね……、やはり蜀と魏と比べ、積極的に天下をとり、国を一つに纏めようと
しなかったところ、または明確な後継者を確立しなかった等、何事にも明確にやるべき事を起こさなかった事でありま
しょうか?

赤壁の戦以降の孫呉は、魏からの侵攻を防ぎ、体勢を立て、張遼殿に大敗したものの、合肥の戦いでは大軍を擁して侵攻を
企てるなど、積極的に攻勢に出ておりました。

ですが次第に保守的かつ間接的な攻めになり、戦では蜀と共同して侵攻、外交策では遼東の公孫淵殿と手を結んで挟撃を
図ったりまた夷州・亶州(夷州は今の台湾、亶州は沖縄諸島または倭国の事とも言われています)と手を結んで兵の増強を
図ったのですが、何れも積極的に蜀に協力せず、また公孫淵殿の裏切りと亶州に辿り着けず、悉く失敗に終わっています。

また、皇太子である孫登様が亡くなられた辺りから、先に述べた「二宮の変」が起こり、これによって国内の豪族が
争う事になって国が混乱。自ら侵攻する力を削ぐ事になり、ついには守るべき力も失う事態に陥りました。

結論と致しましては、孫呉にその「明確に」事を起こし、実行に移す事が出来たならば、天下を統一する事が出来たの
ではないか、と私は思います。