三島由紀夫です。

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1以上、自作自演でした。
2以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 12:28:46
ウワーッと両手で顔をおほつて、その指のあひだから、こはごはながめて「イヤだア」とか
なんとか言つてゐる手合ひを野次馬といふ。
私に対する否定的意見は、すべてこの種の野次馬の意見で、私はともあれ、交通事故なのだ。

三島由紀夫「感想 広域重要人物きき込み捜査『エッ!三島由紀夫??』」より
3以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 12:31:50
伝播の速い世の中では、今日の独断も、明日の通念になる。あなたがロマンチストと
言つて下さつた以上、明日から私はロマンチストでとほりさうです。いづれにせよ、
人がかぶれといふ帽子を、私は喜んでかぶるつもりです。たとへそれが、あのルイ王が
かぶらされたといふ三角帽子であつても。
ただ私の何とも度しがたい欠陥は、自分に関する最高の通念も、最低の通念も、同じやうに
面白がることなのです。これはほとんど私の病気です。おしまひにはいつもかう言ひたくなる。
「何を言つてやがる。俺は実は俺ぢやないんだぞ」これが私の自負の根元であり、
創作活動の根源です。そしてこれが、あらゆる通念を喜んで受け入れる私の態度の
原因なのです。

三島由紀夫「オレは実はオレぢやない(村松剛氏の直言に答へる)」より
4以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 12:32:54
私は不断の遁走曲であり、しかも、いつも逃げ遅れてゐる者です。子供のころ、学校で
集団でイタヅラをすると、いつも逃げ遅れるのが、私ともう一人Kといふ生徒でした。
そこで私とKはつかまつて、先生から、鉢合せの罰をうけるのでした。こんな痛い刑罰はない。
しかしKのオデコにはコブができないのに、私のオデコにだけはコブができた。これが爾後、
私の宿命となつたやうに思はれます。

三島由紀夫「オレは実はオレぢやない(村松剛氏の直言に答へる)」より
5以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 12:37:25
聞くところによると、例の「風流夢譚」掲載のいきさつについて、中央公論の嶋中社長が
その掲載を反対したにもかかはらず、あたかもぼくが圧力かけて掲載させたやうに
伝はつてゐるらしいんです。
これはとんでもない誤解で、推薦した事実さへない。第一、新人の原稿ならいざ知らず、
深沢さんといへば一本立ちの作家ですからね、だれそれの推薦なんてあり得ないぢやないですか。
世間ではよく、ある出版社の背後にはこれこれといふ作家がゐて、その作家の言ふことならきく、
といふやうな考へを持つ人がゐるらしいが、それは“編集権”の存在を知らない者の言ふことで、
編集権を侵害しないといふモラルは、ぼく自身いつも守つてきたはずだ。ただ例外が
あるとすれば、“文学賞”の審査員になつたときくらゐのものだらう。そのときだつて、
技術顧問的な役割で、作品の芸術的な判断以外の社会的な影響にまでは、タッチしないものだ。

三島由紀夫「『風流夢譚』の推薦者ではない――三島由紀夫氏の声明」より
6以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 12:38:36
かういふ事情を知つてゐれば、ぼくが「風流夢譚」を掲載するやうに圧力をかけたなんて
いふことがナンセンスだといふことがよくわかるはず。しかし、それにもかかはらず
ぼくの名が使はれたとすれば、それは一部の者が苦しまぎれの逃げ口上に使つたのではないか。
さう思へば使つた者にも同情の余地があるのだが、迷惑うけるのはこちらだからね。
ともかくふりかかつた火の粉ははらひ落としたいといふのが本音だ。この際、次第に
大きくなる風説――新聞雑誌でもそんな書き方をされてゐるんで――の誤解をときたい……。
(談)

三島由紀夫「『風流夢譚』の推薦者ではない――三島由紀夫氏の声明」より
7以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 12:40:35
学習院高等科(旧制高校)は文科乙類(ドイツ語)で、卒業の時は文科の首席だつた。(中略)
首席の賞品として、精工舎製銀メッキ懐中時計を宮内省から頂いた。裏に「御賜」と彫つてある。
又来賓のドイツ大使から乙類の僕に原書の小説を三冊、ナチのハーケン・クロイツが
入つてるのをもらつた。この後で宮中に御礼言上に、当時の院長山梨勝之進海軍大将と共に
参内した。霞町の華族会館で謝恩会があり、これで学習院の卒業行事が終つた。

三島由紀夫「学習院の卒業式」より
8以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 12:46:35
…子供のころは、それでも銀座へ連れて行つてもらふことは、うれしいことであつた。(中略)
そのころマツダ・ビル楼上のニュー・グランドの部分が、赤、青、緑、黄に変幻して、
サーチライトの光芒をひろびろと投げかけてゐた。
私は父母につれられて、そのニュー・グランドや、ローマイヤ・レストランへ行くとき、
子供らしい虚栄心を満足させられた。そのころケストネルの少年小説「点子ちやんとアントン」に
夢中になつてゐて、その小説に出てくる「泡雪クリーム」といふものを、何とかして
喰べたいと憧れてゐた。しかし「泡雪クリーム」なるものは、どこにも売つてゐなかつた。
銀座へ行けは何でも売つてゐると思ふのはまちがひだ、といふことに気がついたのは
それがはじめである。今でも銀座で決して売つてゐないもので、私がもう一度喰べて
みたいと思ふものが一つある。それは戦争中、海軍の工場で、飯のおかずに喰はされて、
こんなに旨いものはないと思つたところの、ポテト・チョップのやうな形をした、
大豆粕をいためた奴である。

三島由紀夫「わが銀座」より
9以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 12:48:52
新聞の持つてゐる社会的正義感といふものには、ときどき反撥を感じることがある。
だれでもみづから美徳の代表者を買つて出れば、サンザンな目に会ふのが当節で、新聞だけが、
何の傷も負はずに社会的正義の代表者たりうるはずがないからである。また、いろいろと
虚偽の多い時代に、新聞が、子供も読むものだといふので、ともすると家庭ダンラン趣味、
事なかれの小市民趣味に美的倫理的基準を置くのも困る。みにくいものは、みにくいままに
報道してほしい。
戦争中の大本営発表以来、新聞は一たん信用をなくしたが、こんどあんなことがあるときは、
新聞はこんどこそ、最後までグヮンばつて抵抗するだらうといふことを我々は期待してゐる。
この期待を裏切らないでほしい。
某紙の新聞批判に「新聞を愛すればこそ批判するのだ」と言訳がついてゐたが、
いやしくも批評をするのに、こんな言訳を要するやうな空気がもしあるならば、それを
払拭されんことをのぞむ。

三島由紀夫「ありのままの報道を――私の新聞評」より
10以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 12:49:24
西郷さん。
明治の政治家で、今もなほ「さん」づけで呼ばれてゐる人は、貴方一人です。
その時代に時めいた権力主義者たちは、同時代人からは畏敬の目で見られたかもしれないが、
後代の人たちから何らなつかしく敬慕されることがありません。あなたは賊として死んだが、
すべての日本人は、あなたをもつとも代表的な日本人として見てゐます。(中略)
あなたの心の美しさが、夜明けの光りのやうに、私の中ではつきりしてくる時が来ました。
時代といふよりも、年齢のせゐかもしれません。とはいへそれは、日本人の中にひそむ
もつとも危険な要素と結びついた美しさです。この美しさをみとめるとき、われわれは
否応なしに、ヨーロッパ的知性を否定せざるをえないでせう。

三島由紀夫「銅像との対話――西郷隆盛」より
11以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 12:49:45
あなたは涙を知つてをり、力を知つてをり、力の空しさを知つてをり、理想の脆さを
知つてゐました。それから、責任とは何か、人の信にこたへるとは何か、といふことを
知つてゐました。知つてゐて、行ひました。
この銅像の持つてゐる或るユーモラスなものは、あなたの悲劇の巨大を逆に証明するやうな
気がします。
……………………。

三島君。
おいどんはそんな偉物ではごわせん。人並みの人間でごわす。敬天愛人は凡人の道でごわす。
あんたにもそれがわかりかけてきたのではごわせんか?

三島由紀夫「銅像との対話――西郷隆盛」より
12以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 12:52:10
創作発表板にいってやれ
キャラクターコテでなりきってないので完全な板違い
13以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 12:55:57
>>12
立て直しました、すみません
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/mitemite/1284004442/
14以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 13:08:51
>>13
自演ご苦労さま
スレ違いじゃありません
15以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 13:12:19
>>13
どうみてもそっちの板のが板違いになりますよ。>>12の自演ご苦労さまでした。
16以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 13:16:26
鶴田:ぼくはね、三島さん、民族祖国が基本であるという理(ことわり)ってものが
ちゃんとあると思うんです。人間、この理をきちんと守っていけばまちがいない。

三島:そうなんだよ。きちんと自分のコトワリを守っていくことなんだよ。

鶴田:昭和維新ですね、今は。

三島:うん、昭和維新。いざというときは、オレはやるよ。

鶴田:三島さん、そのときは電話一本かけてくださいよ。軍刀もって、ぼくもかけつけるから。

三島:ワッハッハッハッ、きみはやっぱり、オレの思ったとおりの男だったな。

三島由紀夫
鶴田浩二との対談「刺客と組長――男の盟約」より
17以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 13:51:35
ボデービルに一週間に二、三回通ひ出してから、一年間で胃ケイレンがなほつてしまつた。
…ボデービルは八十歳、九十歳になつてもやりたい。これだけは途中でやめるとからだに
よくないらしい。地獄におちたと思つて抜けられぬ。自転車操業のやうなものかな。
私などは執筆して頭を使ふ。神経がたとへば10疲れても、肉体は3しか疲れない。
格差の7を運動によつて疲れさす必要がある。肉体を10まで疲れさせ、頭脳とバランスが
とれたら休養する。疲労を0に戻してから改めて仕事にとりかかるといふ寸法である。
冬は日光浴をするが、夏はセーブしてあまりやらない。

三島由紀夫「私の健康法――まづボデービル」より
18以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 16:42:33
>>15
なりきりじゃないのでどうみてもこの板が板違いになりますよ。
板違いスレ乱立荒らし>>1の逆切れご苦労様でした。
19以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 16:48:12
>>14
池沼荒らし>>1の自演ご苦労様
板違いです
このどこがどこがなりきり(笑)
20以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 16:58:21
>創作物全般を作って発表し感想を貰う板です。オリジナル、二次創作、競作等幅広く受け入れています。
>>13の創作発表板の板定義

オリジナルだろうと二次だろうと妙な長文を創作してそれを投稿しているので板趣旨に合致
21以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 17:05:13
キャラネタの板定義

542 名前:三原 削之進 ★[sage] 投稿日:2005/10/08(土) 22:52:04 ID:???0
「キャラクターハンドルを名乗りそのハンドルでの投稿の内容が雑談ではなくネタになっていること」
つまりあるキャラクターの設定を作りそれを忠実に守り演じ続け、
いつも第三者が見て楽しめる投稿内容であることを意識したものであること、

これがなりきり専門板としての板趣旨に合った「なりきりとしての」スレであると考えております。
キャラではなく中の人の素を出した状態での(=コテハンと判断される状態)
第三者の存在を忘れた目の前の相手のみしか見てない投稿の交換(=雑談と判断される状態)
は板違いだと考えます。
ただのコテハンでの雑談をするのでしたらそういう場所は2chの他の板でやればいいわけで
キャラネタ板からの派生である板として「なりきり」を行う板であるという一線は外してはならないでしょう。

許す限り厳格に判断するキャラネタ板ってところでございましょうか。
22以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 17:06:49
さしも世界に名高い日本の柔道も紅毛碧眼に名を成さしめる仕儀に相成つたが、剣道はまだまだ勝味がござる。
小生、先ごろ桑港(サンフランシスコ)に赴き、書肆(しよし)の一画に「柔道」と名付くる棚があつて、
数十冊の柔道書を並べたる一驚を喫したが、生憎剣道のはうは一冊もござらなんだ。もつとも加州大学には、
剣道四段の碧眼の偉丈夫あり、勝負を挑まれたが、いささか日本国の名誉を思うて、風邪にことよせ、試合は
御辞退申した。かかる例外あれど、概して泰西諸国においては、剣道の普及未だしの観あり、剣道はもつぱら
「羅生門」の名優三船敏郎氏の風車剣法によつてのみ名あり。
剣をたしなむときけば、泰西人はいささか畏怖の情をあらはし、時代錯誤的恐怖にからるるやと思(おぼし)く、
ここがつけ目と愚考いたしてござる。武士道は、禅と等しく、ますます神秘化されてこそ世界に活路もあれ、
ゆめゆめスポーツ化させることなかれ、といふが、小生の切なる忠言でござる。

三島由紀夫「剣、春風を切る――ただいま修業中」より
23以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 17:11:13
>>22
どこがなりきりだよ板違い荒らし
24以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 17:12:24
これ板の趣旨に合わない長文連投埋め立て荒らしとして通報しちゃえば?
25以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 17:14:33
>>21
>「キャラクターハンドルを名乗りそのハンドルでの投稿の内容が雑談ではなくネタになっていること」

はい、前提のレベルで既に板の趣旨から外れてますね
このスレのどこがキャラコテを名乗ってなりきってるスレ?
26以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 17:15:31
板違いなのに延々寄生している馬鹿は巣に帰れよ
27以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 17:16:59
お帰りはこちらです
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/mitemite/1284004442/

板趣旨にあったスレ
28以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 17:19:21
>>24
規制板に?
その長文の中に何か共通しているキーワードはあるか?
その場合、少し泳がせて数を貯めさせた後にまとめてアク禁通報が出来るが
29以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 17:22:39
板違い
削除依頼出して余所の適当なところに移動しろタコ

charaneta:キャラネタ[スレッド削除]
http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/saku/1173602952/
30以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 17:26:45
>>28
なにをそんなに必死になって自演までして自治してるの?
この板のどのスレも、そんな厳密なルールでやってものなんかないじゃん。ほとんど雑談だよ。
全スレを全部通報してみな。
31以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 17:28:46
>>29
そんなに必死なら、あんたが削除依頼すれば?
32以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 17:29:53
>>30
日本語でおk
33以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 17:30:49
>>29
オメエが自治厨荒らしだタコ野郎
雑談カテゴリーでガタガタ抜かすな(笑)
34以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 17:30:55
>>29
オメエが自治厨荒らしだタコ野郎
雑談カテゴリーでガタガタ抜かすな(笑)
35以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 17:31:23
ぐぐったら

□□□評論家・三島由紀夫■■■
www.unkar.org/read/kamome.2ch.net/books/1268296560

というのがヒットしたよ
kamome鯖が飛んだから
この過疎板にスレを立ててログを移植させようという新たな試みなんじゃないかなw
イミフすぎるけど

http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/operate/1283944021/962
>>1 君の板は本日復旧したから【一般書籍板】にお帰りノシ
36以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 17:32:57
自治荒らしがうざい板のようですね…
37以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 17:34:26
>>30
>なにをそんなに必死になって
は?板住民として当たり前のことを言っているだけですが?

>自演までして
意味が分かりません

>自治してるの?
板違いなもんを板違いと言って何が疑問?

>この板のどのスレも、そんな厳密なルールでやってものなんかないじゃん。ほとんど雑談だよ。
数レス前のキャラネタの★の定義みなされ
許す限り厳格に判断するのがキャラネタですよ?
で、板違いであることは認めるんですね

>全スレを全部通報してみな。
開き直りですか?
38以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 17:36:31
>>31
荒らしじゃないならあなたが移動すれば?
板違いなもんを立てた張本人が責任取って削除依頼すればいい

そもそも適切な板に立て直されてるじゃないw移動すればいいだけのこと
39以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 17:38:15
>>37
なんでこのスレには注意しないの?
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/charaneta/1282727604/

別にキャラネタになってませんが。
ほかにも単なる雑談やネタになってないのが多々ありますが、何故それは放置なのか理由を聞かせてくださいよ。
40以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 17:39:32
>>33-34
2連投してまで必死ですね(笑)しかも言い訳になってないw
板ルールもわからない荒らしの居直りですか?
ガタガタ抜かすな(爆笑

荒らしだと公言してるようなものじゃないww
41以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 17:40:34
>>38
板違いと思うあなたが依頼すりゃあいいでしょ。
42以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 17:44:22
>>39
見たけど
キャラクターハンドルを名乗っているから
一応なりきり板としての最低限の条件はクリアしているけどそこは?

ただしそのスレは版権キャラのなりきりとして見るには崩れが酷いから同じなりきり板の管轄のなりきりネタ板向けかもね
43以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 17:45:33
>>41
板違いじゃないと思うならどこがなりきりか板定義に沿って説明してみ?
44以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 17:50:11
>>39
お前他板から流れてきたにわか丸出しだな
キャラコテつけてキャラになりきる板で何を言ってるんだ?


>キャラネタ板からの派生である板として「なりきり」を行う板であるという一線は外してはならないでしょう。

>許す限り厳格に判断するキャラネタ板ってところでございましょうか。
45以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 17:51:49
39がなりきり板の板活動全否定でワロタwwwww
余所から板違いひっさげて寄生しているおめえが異質だろどう見てもww
46以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 17:55:45
まったくうざい自治荒らしだよ。必死になってご苦労さまでした。
さやうなら。いつまでもどうでもいい厳格自治、頑張ってくださいな。
47以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 17:55:53
>>44-45
にわかを装ったただの荒らしですよw
荒らしになりきってるつもりじゃないの(笑)
48以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 17:59:35
>>46
それしか言えないの荒らしたんw
板違いのスレ乱立して居座り回るにしても最終的に逆切れ開き直りしていたらみっともないだけですよー
あ、それとレッテル貼りかw
49以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 18:00:51
厳格自治wwwwwwwwwこのレベルでww
ここじゃなりきり板としてごく当たり前なことしか指摘されてないだろwww
50以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 19:46:49
何この明らかに場違いな板違いスレ
>>1は削除依頼出しとけよ
51以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 20:41:22
と、スレ速0の過疎板でムキになってる酔狂な阿呆自治厨
52以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 20:49:15
と、他板から板違いひっさげて乗り込んだ分際で正当な指摘に対してレッテルはってばかりの池沼荒らし
53三島由紀夫:2010/09/09(木) 20:52:25
仕方ないね、じゃあここらで本人が登場といきましょう
君ら弱い者いじめをするより先にやることがあるんじゃないか?
そいつは日本の若人、サムライがすることじゃないぞ

頭でっかちの全共闘じゃあるまいしだな
54以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 20:52:31
>>51
開き直りと逆切れとかできませんか荒らしたん^^
55以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 20:54:16
>>50
わざとらしく白々しいレスしてまであほくさ
56以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 20:54:20
>>53
板違い全開で突撃かました阿呆のセリフかよそれがw
責任転嫁をするより先にやることがあるんじゃないか?
57以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 20:54:54
>>55
正当化できなくて悔しいねぇー荒らしたんwww
58以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 20:55:21
>>53
弱い者いじめ(笑)
59以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 20:55:44
まだキチガイ板違い荒らしが暴れてんのか
60以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 20:56:31
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/mitemite/1284004442/

荒らしは巣にお帰り
シッシッ
61以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 20:57:08
>>55
日本語でおk
62以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 20:57:25
>>55
・・・で?
63以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 20:58:24
でっかいwやら、ちっこいwやら、いちいち変えて自演する酔狂な自治荒らし、あほくさ
64以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 20:58:50
荒らしは自治厨自治厨とそれしかほざけずに暴れているばかりです
なりきりのなの字も知らない知的障害者が(笑)
65以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 21:00:09
>>63
自分の気に入らないレスは全部自演とな
さすがは荒らしの発想!
いやぁ、お見事

とでも言って欲しかったのww
66以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 21:01:07
>>63
出た、居直り荒らしが決まって使うワード

自治荒らし

自治厨って使うのはやめたんだw
67以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 21:01:32
>63
悔しいねぇーキチガイ荒らしたん

プッ
68以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 21:03:51
なりきり板の何たるかも分からずに乗り込んで大暴れしているアホはVIPPERになりきってるつもりですか?
VIPPERも今はこんな程度の低い開き直りはしないぞ
69以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 21:05:02
>>53とか、わざとらしい自演までしてるくせに、何を今更、自治自演阿呆が(笑)
70以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 21:06:41
>>68
自治自治連呼して逆切れしてんだから自治にコンプレックスでもあるただの頭の弱い困ったチャンだろw
71以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 21:07:02
以下、延々としつこい自演自治がくだらない連投開始↓
72三島由紀夫:2010/09/09(木) 21:07:47
諸君、私は今日からここでお世話になる三島だ。
なんだ、私が軌道修正をしてやろうと言っているんだよ。
ここはなりきり板だと、聞いている。なら、本人がいれば問題ないんだろ?
じゃあ、いつまでも脇道にそれてないで、そうしようじゃないか。

せっかく草葉の陰から出て来てやったというのに、普通に質問できないのか?
あんまり失望させないでくれよ。
川端さんや澁澤君がせっかく奥津城から送り出してくれたんだからね。

>56
おいおい、俺は喧嘩腰はよくないと思うんだがどうだい。
それより、質問はないのか。
小説についての感想でも、一読者としての所感や舞台の感想でも、何でもいいよ。
哲学的な議論だって構わない。
なんなら平岡公威個人についての質問だっていいが、どうだい。

>58
そりゃそうだろう。
本来あるべき場の趣旨を忘れて、双方が互いを罵り合っている。
それは武士道とも、憂国の精神とも相容れるものじゃないね。
僕らの楯の会だったら絶対にあるまじき非道の振舞いだよ。



何度も言うが、これまではともかく、今からは俺がここでやらせてもらうよ。
ちょうど新作を執筆している最中なんだが、暇つぶし程度にはなるだろう。
質問を待っている。
73以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 21:09:54
>>72
質問

板違いひっさげて大暴れ中の>>1とは別人ですかそれとも本人ですか
まずそれをはっきりさせろよw
74以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 21:11:36
>>73
この潜伏コテが同一人物なら散々逆切れしたあげくシレっと潜伏していることになるわな
75以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 21:13:13
>>74
板違いを指摘されて素直に詫びることすらできないなら頭イカれてんぜw
76三島由紀夫:2010/09/09(木) 21:27:59
ほう、静まったね。
君たちの中にも少しは聞く耳のある人間がいるようじゃないか。
嬉しいよ。冷静な話の通じない相手には何言ったってダメなんだから。

>73
神かけて言うが、別人だ。と言うよりもだね、
三島由紀夫の名を冠している以上、私は正真正銘の三島由紀夫または平岡公威として
板と場の趣旨に沿った質疑応答を諸君と是が非でもしたいと望んで
ここへ馳せ参じた訳だが、いけなかったかい?

文体や発話の内容を見れば、自ずと別人だとわかるはずだがね。
それを言っちゃあ何とやらってやつだが、君もこの表題を見てここまで来た人間なんだ。
その程度の眼力はあると期待させてもらってもいいんじゃないのか?

>74
ならば、君に問う。
君にとって、ミシマユキオとはその程度の卑怯陋劣な小細工を弄して
人の目を謀ろうとするような、愚劣極まりない卑劣漢に過ぎない男なのか?
私はそうじゃないと思うがね。これでも矜持を大切にして生きてきたつもりだからな。

>1はこれは、文句なしに愚かだね。初発の、単なる過失は罪にならないとしてもだよ。
その後も法(ルール)を枉げ、自分の過ちを認めずに居直るのは、人として最低だ。
だが、それに乗せられて、誰のためにも、何のためにもならない争いを続けている諸君も
同様に愚かだ。五十歩百歩、同じ穴の狢(ムジナ)だよ。
間違っちゃいないが、非力ながら引受人も現れたことだ。いい機会だ。
双方引き際は心得ておくべきだろうな。

これ以上言わせないでくれよ。俺はこんなことのためにここに来たんじゃないんだからね。
会えて火中の栗を拾うからには、俺にもそれなりの覚悟はあるってことだよ。
わかったら早く、紳士の語らいを俺として欲しいと心から望むね。
当節くらい文学の力、小説の力が必要とされてる時代がまたとあるかと思うよ。
俺は。
77三島由紀夫:2010/09/09(木) 21:42:57
それじゃ、改めて自己紹介させてもらうか。
三島由紀夫(ミシマ ユキオ)。本名、平岡公威(ヒラオカ キミタケ)。
東大法科卒、今はちょっとした文学をやっている。

俺の生涯、事績については、いい要約があるからそっちを見てくれ。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%A4%AB
まあ、とんだご厄介の種になった>1だったが、俺に言わせれば見どころはあるよ。
>1で出ていた2番目の写真、あれは悪くないね。
自画自賛するのも嫌味だが、あれは映りがいい、なかなか男前だ(笑)。

つまらなそうな顔しているなあ。
なんだい、ひと頃だったら谷崎、鴎外、川端、三島と並べられたこともあるってのに
当節の日本じゃ文学は廃れてしまったのかい?
78以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 21:49:18
>>76
寺山修司について一言
79以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 21:50:03
今、何歳?
80以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 21:51:55
美輪さんとアッー!だったんですか?
81三島由紀夫:2010/09/09(木) 22:08:38
おう、君らがここじゃ初めての質問になるな。
よく来てくれた、どうも。

>78
寺山君、寺山君ねえ。そう言や何度か対談もしたっけな。
ちょうど僕の一世代くらい下なんだが、上手だね。天性の、独特な才能がある。
しかしちょっと軟派かなあ。
ちょうど僕なんかとはテーゼも関心も対称的だと思うね。対極にいる。

あれだな、彼は本質的には文学の人間じゃないだろう。
ギリシャ・ローマ以来の文学の正統については、まあ一応頭には入っていただろうけれども、
実際にはあんまり意識してなかったんじゃないか。
もちろん、彼の文学はそれはそれでいいわけだけれども。

>79
ハハ……。いい質問だ。何歳に見える?
ボディビルやるようになってから若く見られるようになったがね。
小説と同じく神の視点から見て見るとね、歳なんて大した問題じゃないよ。

>80
三輪って、明宏くんのことかい?
そりゃ……。ハハハ。なんだい、なかなか答えにくいこと聞くじゃないか。
まあ確かにアレだね、彼の天上界もかくやの美には、人間嫌いの僕とても
かなりにこう、心を奪われるものがあったわけだけれども……。

まあ、そのくらいにしておいてやってくれよ。
愛には秘密と作法と、あと、これは谷崎さんじゃないけれども
陰翳ってやつが必要不可欠なんだから。
82以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 22:28:16
陰嚢ってやつが必要不可欠なんですね。わかります。
83以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 22:39:26
お腹切るなんて痛いお 三島さんにプレゼントだお
                       ''';;';'';';''';;'';;;,.
                        ;;''';;';'';';';;;'';;'';;;
                       ;;'';';';;'';;';'';';';;;'';;'';;;
                      vymyvwymyvymyvy、
                 mVvvMvyvmVvvmvyvmVvv、
       rっ    /⌒ヽ(^^)/⌒ヽ (^^)/⌒ヽ(^^) /^ヽ
      ||    (ω^  )/⌒ヽω^ ) ( ^ω^ )  ( ^ω)
       |/⌒ヽ | ___( ^ω^ )/⌒ヽ  __   /⌒ヽ
       (^ω^ )/ - -\  ( ^ω^/- -\ ( ^ω^ )
      ___/ (● ●)\___/(● ●) ____)
    /      \::: (_人_) :::/⌒  ⌒\ (_人_)/      \
   / ⌒   ⌒   \ ヽノ /( ⌒)  (⌒)\ヽ/    ⌒   ⌒\
 / ,(⌒) (⌒)、   \/::::::⌒(__人__)⌒::::: \   ,(⌒) (⌒)、\
 | /// (__人__)///   ||     |r┬-|     |  /// (__人__)/// |
 \   ` ヽ_ノ    /-\    `ー'´    /\   ` ヽ_ノ   /
   ヽ  , __ ,  イ    ヽ   , __ ,  イ   ヽ   , __ , イ
 ____|____      \/  ._________ \/      ____|_"__
l´ムトウハップ `l\  l  | l´ サンポール `l  | l..    /l´  練炭  `l
|_________|  \-  / |_____________|  | 丶-.,/  .|_________|
\       \ (__ノ\ \        /  /`ー、_ノ /      /
                、__ノ    (__ノ
84三島由紀夫:2010/09/09(木) 22:45:47
やっぱりあれだな、こんな夜には渋澤さんとグラスでも傾けながら
サドのいわば「嗜虐の形而上学」についてでも蘊奥を傾け合いたいところだね。
俺ももう駄目だな、最近は話が合う人もめっきり少なくなったよ。

>82
そりゃ、陰嚢だって必要だとは思うけれども(笑)。
どっちかというと、男の場合は竿と言うか、茎のほうが重要なんじゃないか。
ハハハ。

いい子の未成年諸君、くれぐれも男における竿或いは茎の問題なんてご両親には訊くなよ。
ああそれとも、小市民的な男女の閨房の秘密を解き明かす上では
あえて爆弾をぶっつけて見るのも一興かも知れんがね。

>83
薬物かい? 好意は有り難いが、そいつは受け取れないな。
自決の方法としては、そいつはまったく野暮だからな。無粋だよ。
精神性がない。怯懦な女の根っこと同じで、サムライの美学の欠片も無い。
そんなもの考慮に値しないよ。

悪いね、君の心遣いが嫌なわけじゃない。
が、三島由紀夫は残念ながら男だ。
逝く時は何にせよ、もうちょっと美事に散り果てたいものだね。
85以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 23:07:03
映画なんてどうです?
最近のでも
昔のものでも
86以上、自作自演でした。:2010/09/09(木) 23:43:37
幽霊なの?
87以上、自作自演でした。:2010/09/10(金) 04:09:23
SFは、まだ好きですか?
88三島由紀夫:2010/09/10(金) 19:35:05
よう、ご同輩諸君!
今夕も壮健相変わらずといった具合にて、まことにご同慶の至りってやつだよ。
秋の気配も日に日に強まり創作意欲もいや増すってものさ、なあ?

>85
ああ、映画かい? そうだなあ。
昔のものはともかく最近のものは、ありゃ十把一絡げで、てんで駄目だな。
なってないね、お話にならないよ。精神の悲喜劇がない。人間が描けていない。
僕らくらいの世代なら、黒澤、小津、溝口、成瀬、深作あたりならまあ
及第点と言えるんじゃないか。作によっちゃあ卑俗な出来のものも、もちろんあるがね。

なに、三島由紀夫監督・主演作品『憂国』は、だって?
野暮なこと言うもんじゃないよ、あれは……映画史に残る傑作に決まっているだろう(笑)。

>86
おいおい、勘弁してくれよ。
僕ぁこの通り人間だよ。この筋肉を見てくれ、これが非実在のものかい。
まあこの世相じゃ、真の義士ならばたとえ魂魄となるとも、世を憂うあまり
成仏なんぞとてもできやせんかもしれないがね。

>87
SFかい。これも映画と同じでね、昔のものならまだ救いがある。
外国物ならば、クラークの『2001年宇宙の旅』あたりは見られるものだ。
日本ならば、やはり(稲垣)足穂さんだろうね。
あれこそは昭和文学の最も微妙な花のひとつだよ。少年愛についての洞察もいい。
例の宮沢某も、まあちょっと感傷的だが、宇宙論的な哀しみは悪くない。

あれだよ、どこかで渋澤さんも言っていたが、
最近のSFにはどうにも「幾何学的精神」ってものが足りないね。
お約束のタームでちょこちょこっとSF風の味付けをすりゃいいってもんじゃない。
そんな安易なものは所詮「もどき」であって、SFの名に値しないよ。
89以上、自作自演でした。:2010/09/10(金) 23:51:55
ミステリーは、お嫌いだと
おっしゃってましたが
乱歩はおすきなんですよね。
三島さんは、明智小五郎は、駄目ではないんですか?
90ユキヲ:2010/09/11(土) 00:08:20
オレの、オレの、オレの話を聴け〜♪
91以上、自作自演でした。:2010/09/11(土) 00:51:36
こんばんは、三島さん。
雑誌「血と薔薇」にて水死体を演じられていましたね。
砂浜に打ち上げられた姿は奇妙にエロチックでした。

カメラマンの篠山紀信さんについてはどう思いましたか?
わりと話が合うような気がするのですが。
篠山紀信さんの作品で好きな作品があれば教えて下さい。
92以上、自作自演でした。:2010/09/11(土) 18:41:06
「青の時代」が好きだったのですが
堀江貴文をどう思いますか?

彼で小説は書けないでしょうか?
93ユキヲ:2010/09/12(日) 01:11:53
堀江はブタ体型であるから、小生の小説の主人公にはならん!
94三島由紀夫:2010/09/14(火) 19:22:13
よう、ご同輩諸君! 元気でやってるかね?
どこぞの金持ち坊っちゃん政治家と同じ名前のミシマだ。
今宵もささやかな文学談義と洒落込もうじゃないか。

>89
まあねえ。確かに僕は、通俗なミステリーは嫌いだがね。
だが、江戸川さんの場合は文章にも古風な味わいがあるし、評価してるよ。
対談もしたし、氏の『黒蜥蜴』を戯曲に仕立てたこともあった。
あの世代だとやっぱり、教養の基盤、背景が重なってるからやり易いんだな。

明智探偵は……ご都合主義的ではあるが、仕方ないんじゃないかね。
推理ものの宿命として、謎解き役がいないと筋が進まないんだろうから。
そうだな、僕が書いたらもう少し違う風になったかも知れないけれども……。

>90
おいおい、これは痛烈なカウンターパンチだね(苦笑)。
独演会風になってしまって申し訳ない。
だがまあ、言葉を駆使して考えを語りたがるのは、悲しいかな作家の、
そう、あえて言えば「知識人の宿命」ってやつだな。
ご勘弁願おう。
95三島由紀夫:2010/09/14(火) 19:35:19
>91
うん、こんばんは。『血と薔薇』かい、これは懐かしいね。
しかしよく見てるな。君はどうやら俺と共通の、美的な素養があるようだ。
俗見では「醜」とされているものの中にある「美」のありようを表現したくてね。
あれにエロスを感じられるとなると……どうだい、殉教者なんかは(笑)。

篠山君は、いいねえ。実にいい。
固有の原理、形而上学をもって被写体の撮影に当たっている。希有な芸術家だよ。
先入観なしに被写体をとらえるからだろうね、撮ったものが実物よりもいい時があるよ。
世紀末的(デカダンス)な気質もあるし……僕も一、二冊撮ってもらったっけな。
文筆とカメラと、表現のジャンルは違うが、同じ人種の匂いがするなあ。

>92
ほう、珍しい。『青の時代』かい。
あれは、僕の書いたのの中でもひときわ毀誉褒貶が激しいんだがね。
時事ものってこともあって特異な作品だ。君は面白いねえ。

堀江君はね、あれは……。
一般的な意味での小説の主人公にはなり得るかもしれないが、人物像がちょっと類型的だな。
宗教学と宗教史をやりながら一転、俗世界での栄達と富を追う側に転じたって閲歴は面白いが、
どうも俗物性と成金趣味が鼻につきすぎて、精神性の薫りってものがあまりしないんだ。
もっとも、それはそれで適当に模写しながら手を加えれば、それなりにやりようはあるだろうが。
「僕の」小説の主人公としては、正直なところ、どうかね……。

>93
うん、まあ、そういう言い方もできるな(笑)。
顔形が下卑て見えて、外見的には僕の趣味には全く合わんね。
内面が外側に出過ぎているのが、この場合、彼の不幸であるのかもしれないな。
当今の日本男児が皆が皆ああだとは、僕は信じたくないんだけれども……。
96以上、自作自演でした。:2010/09/14(火) 23:01:36
にっぽん男子と婦女子のありようについて
ご教授していただけませんこと?
97以上、自作自演でした。:2010/09/15(水) 00:23:17
キモ
98以上、自作自演でした。:2010/09/15(水) 00:25:18
>>97
お前いろんなスレに書き込みまくってるだろ
99以上、自作自演でした。:2010/09/15(水) 00:28:12
三島平八郎
鉄拳の創始者である
100ゴルゴ13:2010/09/15(水) 00:40:32
オレの原型が三島由紀夫先生だと知ってるか? おまえら
101以上、自作自演でした。:2010/09/15(水) 23:15:27
黒蜥蜴大好きです。
三輪さんが言ってた
「私、顔がきれいでも身体が汚いひとっていやなの。」
って台詞が心に残ってます。

三島さんのポリシーだったりするんでしょうか?
102以上、自作自演でした。:2010/09/17(金) 00:21:32
赤塚不二夫が好きだ、と伺いましたが、
漫画について、どう思われているのかお聞きしたいです。
103ユキヲ:2010/09/22(水) 00:02:02
>>102
俺様が書いた一節を紹介してやろうじゃないか。

劇画や漫画の作者がどんな思想を持たうと自由であるが、啓蒙家や教育者や図式的風刺家になつたら、その時点で
もうおしまひである。かつて颯爽たる「鉄腕アトム」を想像した手塚治虫も、「火の鳥」では日教組の御用漫画家に
なり果て、「宇宙虫」ですばらしいニヒリズムを見せた水木しげるも「ガロ」の「こどもの国」や「武蔵」連作では
見るもむざんな政治主義に堕してゐる。
一体、今の若者は、図式化されたかういふ浅墓な政治主義の劇画・漫画を喜ぶのであらうか。「もーれつア太郎」の
スラップスティックスを喜ぶ精神と、それは相反するではないか。ヤングベ平連の高校生と話したとき、
「もーれつア太郎」の話になつて、その少年が、
「あれは本当に心から笑へますね」
と大人びた口調で言つた言葉が、いつまでも耳を離れない。大人はたとへ「ア太郎」を愛読してゐてもかうまで
含羞のない素直な賛辞を呈することはできぬだらう。赤塚不二夫は世にも幸福な作者である。

三島由紀夫「劇画における若者論」より
104以上、自作自演でした。:2010/09/22(水) 00:02:37
(中略)世の中といふのは困つたもので、劇画に飽きた若者が、そろそろいはゆる「教養」がほしくなつてきたとき、
与へられる教養といふものが、又しても古ぼけた大正教養主義のヒューマニズムやコスモポリタニズムであつては
たまらないのに、さうなりがちなことである。それはすでに漫画の作家の一部の教養主義になつて現はれてをり、
折角「お化け漫画」にみごとな才能を揮(ふる)ふ水木しげるが、偶像破壊の「新講談 宮本武蔵」(一九六五年)を
描くときは、芥川龍之介と同時代に逆行してしまふからである。若者は、突拍子もない劇画や漫画に飽きたのちも、
これらの与へたものを忘れず、自ら突拍子もない教養を開拓してほしいものである。すなはち決して大衆社会へ
巻き込まれることのない、貸本屋的な少数疎外者の鋭い荒々しい教養を。

三島由紀夫「劇画における若者論」より
105以上、自作自演でした。:2010/09/23(木) 10:28:20
「BL作品の氾濫は少子化の原因。児童ポルノとは別枠で小説も含めた厳しい規制が必要」
「ゲーム脳」の提唱者・森昭雄日大教授の新著「ボーイズラブ亡国論」(産経新聞社刊)
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/news2/1221494175/
106ユキヲ:2010/10/01(金) 20:40:20
俺のガキのころ作った作文だ。
「長瀞遠足記」

朝起きて見ると東の空がほのかに紅くなつてゐる。
あゝ今日は遠足の日だ。
いつもなら、女中が、
「お坊ちやまお起き遊ばせ」
位云つてくれてもなかなか起きない僕が、今日は起してくれる前におきて了つた。
女中にきいたのだが、僕が十一、二時頃おきて、
「もう朝になつた?」
と、きいたさうだ。
      〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
それから僕はお母さまと書生とで池袋駅へ急いだ。
いよいよ汽車にのつてあこがれの長瀞へ行くのだ。
汽車の中では僕が色々なものをもつて来たので相当面白かつた。
「かァみながァとろォ
 かァみながァとろォ」
と叫ぶ駅夫の声に汽車が止つて、先づ宮様方がお下りになり、それから一年から順に汽車から下り、列を作つて、
神保博士の長瀞の石の『ちんれつくわん』へ行つた。
色々な見たこともない石があつた。
けれどもその内で一番僕の面白いとおもつたのは木の化石だつた。
太い木がそのまゝ石になつて居るのは、作つた物としか思へない。
(続く)

平岡公威(三島由紀夫)9〜10歳の作文
107以上、自作自演でした。:2010/10/01(金) 20:40:43
「長瀞遠足記」

たうとう河原についた。
こちらの河岸はまことに長瀞の名に応(ふさ)はしくトロトロと流れて居るが、向う岸は水が河底にある岩に
当つてドドドッとしぶきを上げて居る。
本当に『美しい天然』だ。
そこで少し休んで石畳でおべん当をたべた。ザアザアと流れる水の音をきゝながら御飯をたべるのは何とも云へない。
それから、遊園地を通つて、宝登山神社にお参りした。
そこで大へん面白い“獅子舞”を見せていただいた。
雄獅子が二匹と雌獅子が一匹とでピィヒャラピィヒャラとこつけいな踊りをした。
それがすんでから、神社に別れを告げ、この名ごり惜しい長瀞から東京へかへることになつた。
帰りに汽車の中で小松先生が俳句を一句作つて下さつた。その俳句はかうである。
 長とろや
   とろりとろりと
      流れけり
      〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
今日の美しい日は夢のやうにすぎて了つた。
長瀞遠足は大へん為になつた。
ほんとにいゝ遠足だつた。

平岡公威(三島由紀夫)9〜10歳の作文
108以上、自作自演でした。:2010/10/01(金) 20:40:56
「ある日」

ある日。
いつだつたかよく覚えてゐない。只その日にあつたことだけをおぼえてゐるのだ。なんでも春の夕方だつたとおもふ。
そしてまだ学校へはひらなかつた時らしい。
僕はお二階のヴェランダで女中にだつこをしてもらつてゐた。
女中に抱かれ乍ら僕は夕日の沈む空をみてゐたのだ。
すると遠くから一羽のとんびがまひおりてきた。空中で円い輪を描いて段々下へおりて大分下の方へきたら、
ものすごいスピードで溝をめがけて飛んだ。
そして空へ上つた時にはそのするどい爪で大きな溝(どぶ)ねずみをつかまへてゐた。
とんびはそのねずみをもつて松の木の上に止つた。
そこへ同じ大きさ位のとんびがやつてきた。前のとんびは後のとんびに頭をこすりつけ、一しよに仲よく
そのねずみの肉をたべた。
僕は二羽のとんびに友達は仲よくせよといふことを教はつた。

平岡公威(三島由紀夫)10歳の作文
109以上、自作自演でした。:2010/10/01(金) 20:41:08
「夜のプール」

三時頃、林さんが来た。
僕はその前の日林さんの家へでんわをかけたのだ。そして、その時僕は、久しぶりで七時頃から夜のプールを
見にいきませうといつた。
果して林さんは来た。
ごはんをすませて三十分位たつた時の僕は、涼風吹くさはやかな外苑の夜道を足どりも軽くあるいて居た。

夜のプール。
物すごく明るい電気が左右から緑色のプールをくわうくわうと照らしてゐる。
ザブーン。
気持のよい音。五、六人一しよに飛びこんだ。サッサッ、水をかく音。ふとみると、夜空に日章旗が高く
ひらめいてゐた。

平岡公威(三島由紀夫)年月不詳(推定9歳)の作文
110以上、自作自演でした。:2010/10/01(金) 20:41:20
「東京市」

昔は、秋風の吹くごとに、波の如くすゝきのざわめく武蔵野が、今や華やかな都東京市になつた。
それでも明治初期は、東京市と云つても所々に野原があり、本所、深川あたりでは狐狸(こり)が出て人を化かす
といふ噺もあつたが、大正、昭和となつては、さすがそんな噂はなくなつた。けれども、淋しいと云へば淋しい。
その頃は新宿も市外で、今のかつしか、えばら区などと言ふ所は勿論かやぶき屋根の立並んでゐる村であつた。
しかし、明治初期の頃の日本橋、銀座は、割合に発展してゐて、越後屋、高島屋、白木屋などの大商店が軒を
ならべて居たと云ふ。後に越後屋は三越と名を改め、外の大きな店々は三越と共に、豪壮なビルディングへ転居した。
昭和五、六年になると、東京市は実に偉大な発展を占め、旧市、新市合せて、何んと三十五区になつた。
おまけに、新宿が市内になり、銀座、日本橋、丸の内と合せて、東京市は東洋にほこる大都会となつた。
東京市は天をついて伸びてゆく、丁度若木のやうに。

平岡公威(三島由紀夫)10歳の作文
111以上、自作自演でした。:2010/10/06(水) 13:02:09
ゆとり世代にはもはや暗号だねー

携帯小説とかラノベってどう思う?
112ユキヲ:2010/10/06(水) 23:43:58
己れの惚れた腫れたの恋話を書き連ねることなんぞド素人でも誰でもできるのだ。
そんなもんは、小説、文学ぢゃあねえな。
小説も、他のスポーツや音楽、絵画と同じで、一に練習、二に練習。覚えとけ。
113以上、自作自演でした。:2010/10/09(土) 16:03:22
重い!重いぞー!!!!
114以上、自作自演でした。:2010/10/22(金) 11:50:11
「我が国旗」

徳川時代の末、波静かなる瀬戸内海、或は江戸の隅田川など、あらゆる船の帆には白地に朱の円がゑがかれて居た。
朝日を背にすれば、いよよ美しく、夕日に照りはえ尊く見えた。それは鹿児島の大大名、天下に聞えた
島津斉彬が外国の国旗と間違へぬ様にと案出したもので、是が我が国旗、日の丸の始まりである。
模様は至極簡単であるが、非常な威厳と尊さがひらめいて居る。之ぞ日出づる国の国旗にふさはしいではないか。
それから時代は変り、将軍は大政奉くわんして、明治の御代となつた。
明治三年、天皇は、この旗を国旗とお定めになつた。そして人々は、これを日の丸と呼んで居る。
からりと晴れた大空に、高くのぼつた太陽。それが日の丸である。

平岡公威(三島由紀夫)11歳の作文
115以上、自作自演でした。:2010/10/22(金) 11:50:23
「端午の節句」

四月の始から、もう端午の節句のセット等を、デパァトは店頭に飾り出す。四月の半ばになると、電車の窓から
見えるごみごみした町にも、幾つもの鯉のぼりが立てられる。腹をふくらまし尾を上げて、緋鯉ま鯉は
心ゆくまで呼吸する。彼等は町の芥を吸ひ取り、五月の蒼空を呼んで居るかの如くである。
かうして五月が来るのだ。
私の家も例年の様に五月人形を床の間に飾つた。いかめしい甲は最上段にふんぞり返つて、金色の鍬形を
電気に反射させてゐる。よろひも今日は嬉しさうだ。今にも、あの黒いお面の後から、白い顔がのぞき側にある
太刀を取つて……然し、よろひは矢張りよろひびつの上に腰掛けてゐる。松火台の火は桃太郎のお弁当箱を
のぞいて見たり、花咲爺さんのざるの中を眺めたり、体をくねらして、大変な騒ぎである。
(続く)

平岡公威(三島由紀夫)中等科一年、12歳の作文
116以上、自作自演でした。:2010/10/22(金) 11:50:36
「端午の節句」

神武天皇の御顔は、らふそくの光が深い陰影を作り非常に神々しく見える。
金太郎は去年と同じく、熊と角力を取り乍ら、函から出て来た。よく疲れないものだ。お前がこはれる迄
さうして居なければいけないのだ。
さうして、人形は飾られた。白馬は五月の雲。
そして紫の布、それは五月の微風だ。
白い素焼のへい子(し)。
その中には五月の酒が満たされてゐる。
五月が来た!
それは端午の節句が運んできたのである。

平岡公威(三島由紀夫)中等科一年、12歳の作文
117以上、自作自演でした。:2010/10/22(金) 11:50:48
「三笠・長門見学」

船は横須賀の波止場へ着いた。ポーッと汽笛が鳴る。私達は桟橋を渡つた。薄曇りで、また酷い暑さの今日は、海迄だるさうだ。
併し、僕達は元気よく船から飛び出す。三笠の門の前に集合し、そして芝生の間の路に歩を運ぶ。艦前に来て
再び集まり、三笠保存会の方から、艦の歴史やエピソォドを伺つた。
お話が終ると私は始めて三笠を全望した。
見よ! 此の勲高き旗艦を。そしてマストにはZ信号がかゝげられてゐる。
時に、雲間を割つて出でた素晴らしき陽は、この海の館を愈々荘厳ならしめた。艦頭の国旗は、うすらな風に
ひるがへり、今にも三笠は、大波をけつて走り出さうだ。一昔前はどんな設備で戦つてゐたのか、早く見たくなつた。
やがて案内の人にともなはれて急な階段を上り、艦上に入る。よく磨かれた大砲が海に向つて突き出てゐる。
こゝで日本の大きな威力が世界に見せられたわけだ。伏見宮様の御負傷の御事どもをお聴きして、えりを正した。
其処此処に戦士者の写真が飾られてあるのも哀れだ。
(続く)

平岡公威(三島由紀夫)中等科一年、12歳の作文
118以上、自作自演でした。:2010/10/22(金) 11:51:00
「三笠・長門見学」

私達は最上の甲板に登つて東郷大将の英姿を想像してみた。手に望遠鏡、頭上には高くZ信号。……皇国の興廃
此の一戦にあり、各員一層奮励努力せよ……。とは単なる名文ではなくて、心の底から叫んだ愛国の声ではないか。
士官の室が大変立派なのにも驚いた。又会議室へ行つて此処でどんな戦略が考へられたかと思つた。艦の全体に
ペンキで戦痕が記されてある。こんなに沢山弾を受けたのに一つも艦の心臓部に命中しなかったのは畏い極み乍ら、
天皇の御稜威のいたす所であらう。艦を出て、暫時休憩し、昼食を摂る。休憩が済むと、再び海に沿うた道を歩く。
そここゝにZ信号記念品販売所等と看板があるのも横須賀らしい。さうする中に海軍工廠の門内へ入つた。
クレーンや、色々の機械の動く音と、金槌の音が、あたりを震はせてゐる。「今造つて居る戦艦は、十一月に
進水式をするのです」と案内の人が言つた。あちらでは古い旗艦を保存してゐるのに、こちらでは新しい軍艦が
どんどん生れて来てゐる。一寸面白く思つた。
(続く)

平岡公威(三島由紀夫)中等科一年、12歳の作文
119以上、自作自演でした。:2010/10/22(金) 11:53:45
「分倍河原の話を聞いて」

私達は早や疲れた体を若い小笹や柔かい青艸の上にした。視野は広く分倍河原の緑の海の様な其の向うには、
うつさうとした森があつて、遥か彼方には山脈の様なものが長々と横たはつて居た。白く細く見えるのは
鎌倉街道である。遠く黄色い建物は明治天皇の御遺徳を偲ぶ為の記念館であると、小池中佐はお話下さつた。
腰を下して、分倍河原の合戦のお話をお聴きする。元弘三年、此処は血の海が、清き流れ多摩川に流れ込んだのだ。
今でこそ此の分倍河原は、虫の音や水の流れに包まれてゐるが、六百年前には静寂がなくて其の代りに陣太鼓の音や
骨肉相食む戦闘が繰り返へされたのだ。《勝つて兜の緒を締めよ》この戦ひは如実に之を教へてゐる。
見よ。六百年の歴史の流れは、遂に此の古戦場を和かな河原に変化せしめたのだ。其の時、足下の草の中から、
小さな飛蝗が飛び出し、虫の音は愈々盛になつて居たのである。益々空は青い。

平岡公威(三島由紀夫)中等科一年、12歳の作文
120以上、自作自演でした。:2010/10/22(金) 11:53:57
「支那に於ける我が軍隊」

七月八日――其の日、東京はざわめいて居た。人々は号外を手にし、そして河北盧溝橋事件を論じ合つてゐた。
昭和十二年七月七日夜、支那軍の不法射撃に端を発して、遂に、我軍は膺懲の火ぶたを切つたのである。
続いて南口鎮八達鎮の日本アルプスをしのぐ崚嶮を登つて、壮烈な山岳戦が展開せられた。懐来より大同へと
我軍はその神聖なる軍をつゞけ、遂に、懐仁迄攻め入つたのである。我国としても出来得る限りは、事件不拡大を
旨として居たのであるが、盧溝橋事件、大山事件に至るに及び、第二の日清戦争、否! 第二の世界大戦を
想像させるが如き戦ひに遭遇した。
        〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
(続く)

平岡公威(三島由紀夫)中等科一年、12歳の作文
121以上、自作自演でした。:2010/10/22(金) 11:54:10
「支那に於ける我が軍隊」

飲むは泥水、行くはことごとく山岳泥地、そして百二十度の炎熱酷暑、その中で我将兵は、苦戦に苦戦を重ねて
居るのである。その労苦を思ふべし、自ら我将士に脱帽したくなるではないか。たとへ東京に百二十度の炎暑が
襲はうとも、そこには清い水がある。平らかな道がある。それが並大抵のもので無いことは良く解るのである。
併し軍は、支那のみに止らぬ。オホーツク海の彼方に、赤い鷲の眼が光つてゐる。浦塩(ウラジホ)には、
東洋への銀の翼を持つ鵬が待機してゐる。我国は伊太利(イタリー)とも又防共協定を結んだ。
併しUNION JACK は、不可思議な態度をとつて陰険に笑つてゐる。
噫! 世界は既に動揺してゐるのだ!
        〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
支那在留の将士よ、私は郷らの健康と武運の長久を切に切に祈るものである。

平岡公威(三島由紀夫)中等科一年、12歳の作文
122以上、自作自演でした。:2010/10/22(金) 11:54:21
「菊花」

渋い緑色の葉と巧みな色の配合を持つた、あの隠逸花ともよばれるつつましやかな花は、自然と園芸家によつて
造られた。
園芸家達の菊は、床の間に飾られるのを、五色の屋根の下に其の艶やかな容姿を競ふのを誇りとし、自然の
造つた菊は、巨きな石塊がころがつて痩せ衰へた老人の皮膚の様な土地に、長い睫毛の下から無邪気な瞳を
覗かせてゐる幼児のやうに咲き出づるのを誇つてゐる。
前者は人の目を娯ます為に相違ないが、野菊の持つエスプリはそれ以上のものである。
荒んだ人の心の柔かな温床。
荒くれ男どもを自然の美しさに導く糧。
それが野菊である。
《鬚むじやらの人夫などが、白と緑の清楚な姿に誘はれて、次々と野菊を摘んで行き、山の端に日が燃え切る頃、
大きな花束を抱へて嬉しげに家路に着く》それは美しい風景ではあるまいか。
        〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
時は霜月。
木々が着物を剥がされかけて寒さに震へる月であるが、彼の豪華な花弁が野分風も恐れずに微笑む時である。

平岡公威(三島由紀夫)中等科一年、12歳の作文
123以上、自作自演でした。:2010/10/22(金) 11:57:02
「江の島ゑん足の時」

ぼくはゑん足をお休みしました。
二十日の朝はおきると、みんなは今新宿えきへついて、もう電車にのつただらうと思ひました。
すぐそんな様なことをかんがへ出します。ひまがあるとおばあ様やお母様の所へお話しにいきます。
もうみんな江の島へついたかと思ふといきたくつてたまりませんでした。
ぼくは江の島へいつたことがないのでなほいきたかつたのです。
ぼくは朝から夜まで其ことをかんがへて居ました。
ぼくは夜ねると、次の様な夢を見ました。
ぼくもみんな江の島のゑん足にいつて、そしてたのしくあそびましたが、いはがあつてあるけません。
そこでもう目がさめてしまひました。

平岡公威(三島由紀夫)7歳の作文
124以上、自作自演でした。:2010/10/22(金) 11:57:14
「私は学生帽です。」

私は平岡さんのお家の学生帽です。坊ちやんが一年生の時西郷洋服店から参りました。

私は喜ばしい事もあれば泣きたい事もあります。
いつも坊ちやんが学校へいらつしやる時に、おとなりのぐわいたうさんとが書生さんに昨日のごみを取つて
もらひます。私達はそれを毎日楽みにして居ります。
私はずい分古い帽子ですが、坊ちやんが大事にして下さるので、坊ちやんからはなれようとは思ひません。
私は何年と云ふ長い月日をかうやつて暮して来ました。
今迄の間にどんな事があつたでせう? 私はそれを物語りたいのです。
(つい此間の事でした。坊ちやんがこはれた帽子を学校から持つていらつしやいました。
それは云ふ迄も無く私です。
坊ちやんは御母様に「之をぬつてね」とおつしやいました。お母様は「ええ、え」とおつしやつて、ぬつて
下さいました)
私は何と云ふ幸福な身でせう?

平岡公威(三島由紀夫)7〜8歳の作文
125以上、自作自演でした。:2010/10/22(金) 11:57:27
「かみなり」

きのふのよる僕は雨戸をしめて寝床へ入つた。その時がらす戸から「ぴかりつ!」といなびかりが見えた。
五六べうたつて大きならいが鳴つた。たんすの上にある時計はゆれるしれうりだなの上においてあるせとものも
かちやりと音をたてた。
なんだか家中がゆれるやうなきがした。
おはなれにいらつしやつたおぢいさまが「ひどい雨だ」とおつしやつた。
ほんたうにひどい雨だ。
又こんなかみなりが今ごろなるときではない。又ことしはこんな大きなかみなりが一度もならないのに。

平岡公威(三島由紀夫)8歳の作文
126以上、自作自演でした。:2010/10/22(金) 11:57:39
「冬」

もうそろそろ冬になつてきた。
お庭のかきの木のはや、もみぢの葉がさらさらとおちてくる。
お家のうらの小路にほこりがさあつと立つ。
がらす戸に時々つよい風があたつていやにうるさい。
お池の水はじやぶじやぶとおとを立てる。
金魚が驚いて水の中へ沈む。
花園の花がぽきぽきと折れる。
お父さまがお役所からかへつていらつしやつて「今日は実にひどい風だつたよ」とおつしやつた。

平岡公威(三島由紀夫)8歳の作文
127以上、自作自演でした。:2010/10/22(金) 11:57:50
「冬の夜」

火鉢のそばで猫が眠つてゐる。
電灯が一室をすみからすみまでてらしてゐる。
けいおう病院から犬の吠えるのがよくきこえる。
おぢいさまが、
「けふはどうも寒くてならんわ」
とおつしやつた。
冬至の空はすみのやうにくろい。
今は七時だといふのにこんなにくらい。
弟が、
「こんなに暗らくつちやつまんないや」
といつた。

平岡公威(三島由紀夫)8歳の作文
128以上、自作自演でした。:2010/10/22(金) 12:00:38
「朝の通学」

四谷西信濃町十六番地。
朝、おきて見ると、空は晴れて居たが、大へんさむかつた。
お祖母様がからだをこゞめて、あんかにあたつていらつしやつた。
お家を出る時、うらの小路を、外たうを着て皮手袋をはめた大学生が寒さうにポケットへ手を入れてゐた。
あめ売のおぢいさんも、ふところへ手を入れて、あたゝかい方へあたゝかい方へと歩いて行つた。
自動車屋の車庫では、子供が二人、たき火をして、手をあたゝめてゐた。
又、でんしやの中ではしやつを沢山きて洋服がふくれてゐる人や、顔や手を年がら年中まさつして居る人が大分あつた。
四ツ谷駅に下りて見るとみなポケットに手を入れてゐた。
学校へきて見ると、運動場一ぱいに霜が下りてゐた。
いつもはあんなにあつたかい御教場の中も、今日は何だか、寒くかんじた。

平岡公威(三島由紀夫)8〜9歳の作文
129以上、自作自演でした。:2010/10/22(金) 12:00:57
「雨降り」

雨がふつてきた。
ポタンととひの中に入つてとひをつたつてザアッとおちる。
庭のすみに落ッこちてゐる小さなくびふり人形も雨水でビショビショになつてゐる。又木の葉の上にのつてゐる露が
まるで真珠のやうだ。
雨だれの音はどんなにでもきこえる。
タンタラタンともきこえるし又タカタカタンとも、自分の思ふとほりにきこえる。
まるで音楽をきいてゐるやうだ。
雨がふるとお百姓さんも亦(また)草も木もおほよろこびだ。

平岡公威(三島由紀夫)9歳の作文
130以上、自作自演でした。:2010/10/22(金) 12:01:28
「ばけつの話」

僕はばけつである。
僕は大ていの日は坊ちやんやお嬢さんがきて遊ばして呉れるが、雨の日などは大へん苦しい。
ほら、この通り、大部分ははげてゐる。
又雪の日なんかは、ずいぶん気もちがいい。あのはふはふしたのが僕のあたまへのつかると何ともいへない。
それから僕が植木鉢のそばへおかれた時、あの時位いやな事はなかつた。となりの植木鉢がやれお前はいやな形だの、
又水をくむ外には何ににも使へないだのと云つた。あそこをどかされた時は、ほんとにホッとした。
ではわたしの話はこれでをはりにする。

平岡公威(三島由紀夫)9歳の作文
131以上、自作自演でした。:2010/10/22(金) 12:01:40
「夕ぐれ」

鴉が向うの方へとんで行く。
まるで火のやうなお日様が西の方にある丸いお山の下に沈んで行く。
――夕やけ、小やけ、ああした天気になあれ――
と歌をうたひながら、子供たちがお手々をつないで家へかへる。
おとうふ屋のラッパが――ピーポー。ピーポー ――とお山中にひびきわたる。
町役場のとなりの製紙工場のえんとつからかすかに煙がでてゐる。
これからお家へかへつて皆で、たのしくゆめのお国へいつてこよう。

平岡公威(三島由紀夫)9歳の作文
132以上、自作自演でした。:2010/10/22(金) 12:02:07
「農園」

今週の月曜でした。
唱歌がをはつておべん当をいただかうと思つて、教室にはひつて来ました。
すると、おけうだんの上に大きなかごがあつて、その中にはたくさんそら豆がはひつてゐました。
僕はうれしくて、うれしくて、「早くくださればいいなあ」とまつてゐたら、おべんたうがすんだら、皆の
ハンカチーフにたくさん入れて下さいました。おうちへかへつて塩ゆでにしていただいたら、大変おいしう
ございました。
思へば、三年のニ学きでした。
おいしいみが、たくさんなるやうにとそらまめのたねを折つてまいたのでした。
果して、たねはめが出、はがでて、今ではおいしいみがたくさんなつて、僕たちがかうしていただくまでに
なつたのでした。
(中略)
又この間は五六年のうゑた、さつまいもの苗に水をかけました。秋になつたらこのおいもも僕達の口の中へ
はひる事でせう。

平岡公威(三島由紀夫)9歳の作文
133以上、自作自演でした。:2010/10/22(金) 12:05:13
「海」

先をと年、小田原の海へ行つたとき、大分沖の方まで泳いだら、お腹がいたくなつたので、およぎをやめて
かへりました。するとその翌日、にはかにきもちが悪くなり、病気になりました。それで泳ぐのに、僕は
こりごりして了ひました。(中略)
波打際であそんでゐると、ビーチパラソルの中から、をばさまが「こんどは少うし川の方であそんだらどうを?」
とおつしやつたので僕は「えゝさうしませう」といつて、弘道さんと、バケツやたもをもつて、川へいきました。
二人でふなの子をとつたり、水の中をあるいて向う岸へいきッこをしたりしてゐるとをばさまが大きなこゑで
「公ちやんとひろみちちやん! ごはんよ」とおつしやつたので僕とひろみちさんは一さんにかけて行つて
おいしいおべんたうをたべたり、おしよくごのキャラメルをたべたりして、又一しきりあそんでかへりました。
その翌日は朝はやくおきて畑へ行くと、お百しやうさんが「このいも、まだあたらしいでがすよ。あんちやんたちに
あげませう」とさつまいもをくれました。

平岡公威(三島由紀夫)9歳の作文
134以上、自作自演でした。:2010/10/22(金) 12:05:26
「大内先生を想ふ」

ヂリヂリとベルがなつた。今度は図画の時間だ。しかし今日の大内先生のお顔が元気がなくて青い。
どうなさッたのか? とみんなは心配してゐた。おこゑも低い。僕は、変だ変だと思つてゐた。その次の図画の
時間は大内先生はお休みになつた。御病気だといふことだ。ぼくは早くお治りになればいゝと思つた。
まつてゐた、たのしい夏休みがきた。けれどそれは之までの中で一番悲しい夏休みであつた。
七月二十六日お母さまは僕に黒わくのついたはがきを見せて下さつた。それには大内先生のお亡くなりに
なつた事が書いてあつた。むねをつかれる思ひで午後三時御焼香にいつた。さうごんな香りがする。
そして正面には大内先生のがくがあり、それに黒いリボンがかけてあつた。
あゝ大内先生はもう此の世に亡いのだ。僕のむねをそれはそれは大きな考へることのできない大きな悲しみが
ついてゐるやうに思はれた。

平岡公威(三島由紀夫)9歳の作文
135以上、自作自演でした。:2010/10/22(金) 12:05:38
「電信柱」

お家のお庭向きのへいの前に小さい道がある。
そしてそこに木でできた電信柱が立つてゐる。今日の噺はその電信柱の電線の噺である。
ある春の日、僕は縁側に座蒲団をしいて日向ぼつこをしてゐた。
その日は勉強もなかつたし、又遊ぶ事もなかつた。
それでなんの気もなくその電線をながめてゐた。するとそこへ、三羽の雀がさへづりながらとんできた。
三羽の雀はふとその電線の上へ停つた。そして鬼ごつこでもするやうに電線の上を飛び廻つたのだ。
その度に電線はゆらゆらとゆれた。そのとき電信柱は、
「雀さん、そんなに体の上を飛び廻つてはいたいですよ」
とでも云つたのだらう。三羽の雀は又話をしながらとんでいつた。
(続く)

平岡公威(三島由紀夫)9歳の作文
136以上、自作自演でした。:2010/10/22(金) 12:05:54
「電信柱」

それから月日はたつて八月になつた。
八月といへば暑いさかりである。
僕はハンカチーフで汗をふきふきシロップを飲んでゐた。
その時、僕の頭に浮かんだのは、あの春の日のことであつた。
今度は帽子をかぶり庭にでてその電線をみてゐた。
するとそこにはいつの間に来たのか沢山の小鳥が電線の上にとまつてゐて、大きな声をはりあげて歌をうたつてゐた。
あげは蝶や黄色虫が小鳥のまはりをとんでゐる。
樅(もみ)の木や杉の木や松などが歌に合はせて踊るやうに葉をうごかしてゐた。
お向ひの物干の青竹が笑ふやうにして云つた。
「電線さんおにぎやかですね」

平岡公威(三島由紀夫)9歳の作文
137以上、自作自演でした。:2010/10/22(金) 12:06:21
「松の芽生」

これはまだ僕が大森へ泊りに行かないまへの話です。
或る日お庭へ出て箱庭をなんの気なしに見たら、小さなざつ草を見つけたので、かはいい草だと思つて、掘つて
おばあさまにお見せしたら、「あゝこれは松の芽生ですよ」とおつしやつたので、僕は拾ひ物でもしたやうに
有頂天になつて、急いで、又元のところへ植ゑました。そしてもつと有りはしないかと方々をさがしますと、
その箱庭のすみの方にと、それから小さい箱庭とにありました。それから毎日たんねんに水をやつたのです。
そのうちに僕は大森へ行つて今朝かへつて来ました。

平岡公威(三島由紀夫)年月未詳(推定は9歳)の作文
138以上、自作自演でした。:2010/10/22(金) 12:08:23
「涼しい夕涼みの一時」

入日が西の空をまつかにそめてゐます。
縁先の夕顔がぽつかり白い花をひらいた。昼頃降つた雨がまだかわからないのか。庭下駄でふむ庭の土が
何となくじめじめしてゐます。
それでまた一段と庭の空気が涼しいやうな気がいたします。
えんの下で名も知れぬ虫がなきはじめると、椿の枝の虫籠から、琴をひくやうに美しい鈴虫の音(ね)が、
そよ風に送られて僕達の耳には入つてまゐります。
やがて、松の小枝をとほして、うすい月の光がさしてきました。
太陽はもうすつかり西山に姿をかくして、うす暗い夕空には、月とそれから五つ六つの小さい星がきらきらと
輝いてゐるだけです。

平岡公威(三島由紀夫)年月不詳(推定9歳)の作文
139以上、自作自演でした。:2010/10/22(金) 12:08:35
「学校の二階の窓から」

いつもならさうも想はないが、かうやつてしみじみと二階から見える景色をながめると本当にいゝけしきだと思ふ。
赤坂御所の方はあまり木ばかり立つてゐてさうでもないが、学校のうらの製紙工場の方は木々が緑を増してゐて
何となく秋をおもはせる。
ごんだはらの市電停留所の所へつづいてゐる自動車路は大へん静で良い道路だ。
今度は一寸ちがつて左手の方をながめると、小高い丘の上に家が七、八軒並んで居る。黒い細い煙突から
煙が細く登つてゐる。そのそばに銀色をしたアドバルーンがふんはり浮いてゐる。
丘の上はこの位にして、段々下へうつつて行く。
先づお堀のすぐそばに四ッ谷のプラットホームがあるのがよくわかる。
こゝからは見えないが、始終、電車が出入してゐる。
半身黄、半身緑の市内電車が橋下のトンネルの中へ消えて行く。

(学校の二階のまどべの机で記す)

平岡公威(三島由紀夫)9歳の作文
140以上、自作自演でした。:2010/11/05(金) 12:56:44
「木枯らし」

木が狂つてゐる。
ほら、あんなに体を
くねらして。
自分の大事な髪の毛を、
風に散らして。

まるで悪魔の手につかまれた、
娘のやうに。
木が。そしてどの木も
狂つてゐる。

平岡公威(三島由紀夫)11歳の詩
141以上、自作自演でした。:2010/11/05(金) 12:57:47
「父親」

母の連れ子が、
インク瓶を引つくり返した。
インク瓶はころがりころがり
机から落ちて、
硝子の片が四方に飛び散つた。
子供は驚いた。
ペルシャ製だといふじゆうたんは、
真ッ黒に汚れた。
そして、破れた硝子は、くつ附かなかつた。

母の連れ子の
脳裡に恐ろしい
父の顔が浮び出た。

書斎のむち、
今にも
つぎはぎだらけのシャツを
脱がされて、
むちが……
喰ひ附くやうに、

母の連れ子の、目の下に、
黒いじゆうたんが、
わづかな光りに、ぼやけてゐる

平岡公威(三島由紀夫)11歳の詩
142以上、自作自演でした。:2010/11/17(水) 19:37:26
「蛾」

窓のふちに、
蛾がとまつてゐて、
ぶるぶると体を震わせてゐた。
私は、可哀さうになつて、
蛾を捕へようとした。
窓は、堅く、閉ざされてゐたので、
私は、窓を開けて、
放してやらうと思つた。
私は蛾にさはつて見た。
蛾は勢ひよく飛び出した。
私は、気が抜けた。
さつきの蛾と、
そして、
今の蛾と……。

平岡公威(三島由紀夫)11歳の詩
143以上、自作自演でした。:2010/11/17(水) 19:38:29
「凩」

凩よ、
速く止まぬと、
可愛さうな木々が眠れない。
毎日々々お前に体をもまれて、
休む暇さへないのだ。
凩よ、
お前は冬の気違ひ、
私の家へばかり、は入つて来ないで、
いつその事、雪を呼んでおいで。

平岡公威(三島由紀夫)11歳の詩
144以上、自作自演でした。:2010/11/20(土) 12:21:03
「斜陽」

紅い円盆のやうな陽が、
緑の木と木の間に
落ちかけてゐる。

今にも隠れて了ひさうで、
まだ出てゐる。

然し、
私が一寸後ろを向いて居たら、
いつの間にか、
燃え切つてゐて、
煙草の吸殻のやうに、
ぽつんと、
赤い色が残ってゐるだけだつた。

平岡公威(三島由紀夫)12歳の詩
145以上、自作自演でした。:2010/11/20(土) 12:22:07
「独楽」(こま)
(音楽独楽なりき。白銀なせる金属にておほはれる)

それは悲しい音を立てゝ廻つた。
そして白銀のなめらかな体を
落着きもなく狂ひ廻つた。
よひどれの様に、右によろけ、
左にたふれ。

それは悲しい酔漢の心。
踊るを厭ふその身を、一筋の縄に托されて。
唄ふを否み乍らも、廻る歯車のために。

それは悲しい音を立てゝ廻つた。

「静寂の谷」から、
「狂躁の頂」に引き上げられ、
心のみ、尚も渓間にしづむ。

それは悲しい酔漢の心。
そして白銀のなめらかな体を、
落着きもなく狂ひ廻つた。

平岡公威(三島由紀夫)12歳の詩
146以上、自作自演でした。:2010/11/20(土) 12:23:27
「三十人の兵隊達」
三十人の兵隊達。
赤と黒の階調。

三十人の兵隊達。
銀流しの拍車があらはす。
銀と白の光の交叉。

三十人の兵隊達。
硝子の目玉。
極細の毛糸は、
漆黒の頭髪。

けれども、
八つを迎へた女の子は、
この兵隊を捨て去つた。

そして、女の子は、
赤ん坊の人形に、
頬すりする。

芽生えた、母性愛の
興奮。

三十人の兵隊達。
母性愛の為に捨て去られた、
兵隊達。

三十人の兵隊達。
赤と黒の階調。

平岡公威(三島由紀夫)12歳の詩
147以上、自作自演でした。:2010/11/20(土) 12:24:26
「絵」

孤児院の片隅で、
幼い子が、大きな絵を眺めてる。
そこには、飴ん棒のやうな木が、
列を作つて並んで居、
木には、パン、草には、ビスケットが、
今を盛りになつてゐる。
口を開けて、夢中になる孤子に、
あたゝかい日差しがあたつてゐる。
しかし、入つてきた院長は、さつさ
と子供を引張つて外に出て来た。
「あんな絵は、目に毒ぢやてな」

平岡公威(三島由紀夫)13歳の詩
148以上、自作自演でした。:2010/11/20(土) 12:35:41
「誕生日の朝」

青と、白との光線の交錯のうちに、
身をよこたへつゝ、
その日のわたしは、生れたばかりの
雛鳥のやうだつた。

さて、細い一輪差まで
絶えいるやうな花の香に埋もれ、
太陽をとり巻く雲は、一片の花弁に見えた。

誕生日の贈り物がとゞいた。
美しい贈物の数々は、
石竹色の卓子の上に置かれた。

平岡公威(三島由紀夫)14歳の詩
149マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/11/20(土) 14:00:17
おいチワワ、いい加減にしろ。ここはお前の引用投稿スレッドではないw
150以上、自作自演でした。:2010/11/21(日) 00:37:34
「見知らぬ部屋での自殺者」

骨董屋の太陽のせゐで
カーテンの花模様も枯れ
家具は色褪せ 空気は
黄色くただれてゐたので
その空気に濡れた古鏡に
わが顔は扁たく黄いろに揺れた
……やがて死は蠅のやうに飛び立つた
うるさくかそけく部屋のそこかしこから

平岡公威(三島由紀夫)14歳の詩
151以上、自作自演でした。:2010/11/21(日) 00:38:50
「夜猫」

壁づたひに猫が歩む
影の匂ひをかぎながら

猫の背はなめらかゆゑ
光る夜を、辷らせる

ああ、蝋燭の蝋のしたたる音がする。
真鍮の燭台は
なやめる貧人のごとき詫びしい反射であつたから、
ふと、傾いた甃(いしだたみ)の一隅に
わたしは猫の毛をわたる風をきいた
影のなかに融けてゆく一つの、寂寞の姿をみた

平岡公威(三島由紀夫)15歳の詩
152以上、自作自演でした。:2010/11/21(日) 00:40:03
「民謡」

夕ぐれの生垣から石蹴りの音がしてきた

微温湯をいれたコップの内側が、赤んぼの額のやうに汗ばんでゐた。
病気の子のオブラァトと粉薬が窗のあぢさゐの反射であをざめた
石竹色の植木鉢に、錆びた色ブリキの如露がよつかゝつてゐた

早い蚊帳がみえる離れで、小さな母は爪立つて電気を灯けた。
ねむつた子の横顔が 麻の海のなかに浮びあがつた

平岡公威(三島由紀夫)15歳の詩
153以上、自作自演でした。:2010/11/29(月) 13:15:12
「夏の窗辺にくちずさめる」

雲の山脈の杳か上に
花火の残煙のやうなはかない雲が見えてゐた
サイダァのコップをすかしてみたら
やがて泡になつて融けて了つた

平岡公威(三島由紀夫)15歳の詩
154以上、自作自演でした。:2010/11/29(月) 13:16:24
「幸福の胆汁」

きのふまで僕は幸福を追つてゐた
あやふくそれにとりすがり
僕は歓喜をにがしてゐた
今こそは幸福のうちにゐるのだと
心は僕にいひきかせる。
追はれないもの、追はないもの
幸福と僕とが停止する。
かなしい言葉をさゝやかうとし
しかも口はにぎやかな笑ひとなり
愁嘆も絵空事にすぎなくなり
疑ふことを知らなくなり
「他」をすべて贋と思ふやうに自分をする。
僕はあらゆる不幸を踏み
幸福さへのりこえる。
僕のうちに
幸福の胆汁が瀰漫して……

ああいつか心の突端に立つてゐることに涙する。

平岡公威(三島由紀夫)15歳の詩
155以上、自作自演でした。:2010/11/29(月) 13:17:49
「アメリカニズム」 万愚節戯作

たるんだクッションのやうなスヰートピィ
もう十年代、流行おくれの色ですね
玉蜀黍の粕がくつついてる
赤きにすぎる口紅の唇。
ショォト・スカァトは空の色がみえすぎます。
歓楽は窓毎に明るく灯り、
スカイ・スクレェパァはお高くとまり、
鼻眼鏡で下界をお見下しとやら、
だが、ニッケルの縁ではね。
野蛮の裏に文化はあれど……
白ん坊の裡にも黒ン坊がゐる。
欧州向の船が出て、
髯なし共が御渡来だ、
カジノで札の束切つて
縄の御用もありますまい
レディ・メェドの洋服が船にのつておしよせる
あくどい洒落がおしよせる
自由とスマァトネスがおしよせる
「世界第一」がおしよせる
星のついた子供の旗をおし立てゝ。

平岡公威(三島由紀夫)15歳の詩
156以上、自作自演でした。:2010/11/29(月) 13:18:46
「薔薇のなかに」

薔薇のなかにゐます。
わたしはばらのなかにゐます。
しつとりしたまくれ勝ちの花びらの
こまかい生毛のあひだに滲みてくる
ひかりの水をきいてゐます。
薔薇は光るでせう、
園の真央で。
あなたはエェテルのやうな
風の匂ひをかぐでせう。
大樫のぬれがての樹影に。
牧場の入口に。
大山木の花が匂ふ煉瓦色の戸口に。
わたしは薔薇のなかにゐます。
ばらのなかにゐます。
小指を高くあげると
虹の夕雲がそれを染め……
ばらはゆつくり、わたしのまはりで閉ざすのです。

平岡公威(三島由紀夫)15歳の詩
157以上、自作自演でした。:2010/12/02(木) 10:57:26
ペルシャ人の、酒と逸楽の享楽主義は、おなじ享楽主義でも「トリマルキオーの饗宴」にみるやうな羅馬の
それとはちがひ、後者が機智と皮肉と退廃とのあらはれでしかないのに、前者には東洋的な深い瞑想がみられます。
前者は月夜のおもむき、後者はまひるのコロッセウムを思ひ出させます。
体骼なぞもずいぶんこの二民族の間にはへだゝりがあつたことでせう。
それにしても西洋人の享楽主義のえげつなさは、支那人はともかく、とても日本人の肌にはあひませんね。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和16年7月10日、東文彦への書簡より
158以上、自作自演でした。:2010/12/02(木) 10:58:30
古代の悲劇のいみじさは、現代の神経では涙といふもので味はふことは出来なくても、それ以上の、おそらく
ギリシャ人たちが味はつた感動以上の、ほとんど神を見たやうな宗教的感動を以て味はふことができるやうに
思はれます。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和17年5月1日、東文彦への書簡より


音楽部で例の「オルフォイス」のレコオド・コンサアトをやりましたのできゝました。
あのギリシャ的な晴朗さは日本の古代の晴朗さとまことによく似てゐると存じました。
新関良三教授から芸能の講義を演習の時間にうかゞつてゐます。能楽とギリシャ劇の比較など大へん面白いものです。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和17年5月7日、東文彦への書簡より
159以上、自作自演でした。:2010/12/02(木) 10:59:32
ニイチェの「ツァラトゥストラ」の中には日本のことをかいてゐるやうな気のするところもありますね。
そして超人の思想の根本なぞどうも私にはインド、又ひろく東洋全体の思想への接近より、ニイチェが自ら
意識するせぬに不拘(かかはらず)、日本への大きな意味があるやうに思はれてなりません。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和18年2月15日、東文彦への書簡より


――「真昼」―― 「西洋」へ、気持の惹かされることは、決して無理に否定さるべきものではないと思ひます。
真の芸術は芸術家の「おのづからなる姿勢」のみから生まれるものでせう。近頃近代の超克といひ、東洋へかへれ、
日本へかへれといはれる。その主唱者は立派な方々ですが、なまじつかの便乗者や尻馬にのつた連中の、
そここゝにかもし出してゐる雰囲気の汚ならしさは、一寸想像のつかぬものがあると思ひます。
我々は日本人である。我々のなかに「日本」がすんでゐないはずがない。この信頼によつて「おのづから」なる
姿勢をお互いに大事にしてまゐらうではござひませんか。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和18年3月24日、東文彦への書簡より
160以上、自作自演でした。:2010/12/02(木) 11:00:18
いやなことゝ申せば今度も空襲がまゐりさうですね。かうして書いてをります夜も折からの警戒警報のメガホンの
声がかまびすしい。一体どうなりますことやら。しかしアメリカのやうな劣弱下等な文化の国、あんなものに
まけてたまるかと思ひます。
――ニイチェが反理想主義であること、流石に確かな御眼と感服いたします。
ニイチェの強さが私には永遠の憧れであつても遂に私には耐へ得ない重荷の気がします。おそらくけふは
一人一人の日本人が皆ニイチェにならねばならぬ時かもしれません。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和18年4月4日、東文彦への書簡より
161以上、自作自演でした。:2010/12/02(木) 11:02:27
――行詰り……実はこの文学上のデッド・エンドといふくせものに私は小説をかきはじめたときから始終頭を
ぶつけてゐたやうなわけで、その為に私の作品にはどこかに必らずデカダンスがひそむのですが、私は今度の
行詰りを自分では別に絶望的とも思つてをりません。いまの心境は、書けなくなつたらかけなくてもよい
(これはまあ一概にヤケッパチからでもないんですが)といふところ。しかし貴下のいはれる素朴さは実は
私のたつた一つの切ない宿願です。それを実現する手段として私は戦争や兵隊を考へてゐます。しかし果して
兵隊に行つて万葉的素朴さを得られるものか、この点は化学方程式のやうなわけにはいきますまいし、
今のところ永遠に疑問なのです。それにしても貴下の御忠告と御心やりは今の私には悲しいほど身にしみます。
妙なたとへですが、さんざん不埒なことをした不良少年が、物わかりのよい先輩にさとされるやうな気持とも
申せませう。文学といふ仕事、これは矢張、つらい死に身の仕事ですね。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和18年4月11日、東文彦への書簡より
162以上、自作自演でした。:2010/12/05(日) 11:22:57
ニイチェについて、お陰さまでいろいろ新しいことを知りました。実はツァラトゥストラの登張竹風の跋文の外、
私にはニイチェに関する智識がございませんでした。ツァラトゥストラのあの超人の寂寥あれを私は平安朝の
女流たちにも感ずるのです。「古今の季節」といふエッセイのなかでその荒涼を語つたことがありますが、
ニイチェがあれら女人の深い寂寥にふれてゐたらどう思つたことでせう。ニイチェの愛した東方ではなく、
むしろニイチェ自身の苦しい影をみはしなかつたかとさへ思ひます。
「世々に残さん」をかく用意に「平家物語」を何遍も繰つてゐますが、川路柳虹氏も名文だとほめてゐられる
あの文章、又あのむしろ宇宙的な末尾の哀切さ、あれを一篇の小説としてみてみると、大原の大団円は、私には
ラディゲのドルヂェル伯の大団円などよりこのごろではずつと身近に感じられます。無常といふ思想は印度から
来たものでもそれを文学の極致にまで詩の極致にまで高めたのは日本人の営為ですね。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和18年4月11日、東文彦への書簡より
163以上、自作自演でした。:2010/12/05(日) 11:24:59
文学の上では日本は今こそ世界唯一であり、また当然世界第一でありませう。
ムッソリーニにはヒットラアより百倍も好意をもつてゐますので、一しほの哀感をおぼえました。ムッソリーニも亦、
ニイチェのやうに、愚人の海に傷ついた人でありませう。英雄の悲劇の典型ともいふべきものがみられるやうに
おもひました。かつて世界の悲劇であつたのはフランスでしたが、今度はイタリーになりました。
スカラ座もこはれたやうですね。米と英のあの愚人ども、俗人ども、と我々は永遠に戦ふべきでありませう。
俗な精神が世界を蔽(おお)うた時、それは世界の滅亡です。
萩原氏が自ら日本人なるが故に日本人を、俗なる愚人どもを、体当りでにくみ、きらひ、さげすみ、蹴とばした
気持がわかります。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和18年8月20日、東文彦への書簡より
164以上、自作自演でした。:2010/12/05(日) 19:51:48
マンコの中に
165以上、自作自演でした。:2010/12/07(火) 20:27:04
「東健兄を哭す」

十月八日の宵、秋雨にまじる虫のねのあはれにきこえるのに耳をすましてゐると、階下で電話が鳴つてゐる。
家のものがあたふたと梯子段をあがつてくる気配、なにがしにこちらもせきこんで、どこから?と声をかけると
「東さんが……お亡くなりに」「えッ」私は浮かした腰を思はず前へのめらせて、後は夢中で階段を駆け下り
電話にしがみついた。その電話で何をうかがひ、何をお答へしたか、皆目おぼえてゐない。
よみ路の方となられては、急いても甲斐ないものを見境なく、仕度もそこそこに雨の戸外へ出た。
渋谷駅までの暗い夜道をあるいてゆく時、私の頭は痺れたやうに、また何ものかに憑かれたやうに、ひたすらに
足をはやめさせるばかりであつた。さて何処へ、何をしに――さうした問は、ただ一つのおそろしい塊のやうになつて、
有無をいはせず私の心をおさへつけた。あらゆる心のはたらきを痴呆のやうに失はせてゐた。
(続く)
平岡公威(三島由紀夫)18歳の弔辞
166以上、自作自演でした。:2010/12/07(火) 20:28:41
「東健兄を哭す」

(中略)
兄の御寿(みいのち)はみじかかつた。おのが与へられたる寿命を天職に対して、兄ほどに誠実であり潔癖であり
至純であつた人を寡聞にして私は知らない。私は兄から、文学といふもののもつ雄々しさを教へられたのである。
文学は兄にとつてあるひは最後のものではなかつたかもしれぬ。しかし文学をとほしてする生き方が、やがて
最高の生き方たり得るといふ信仰を、身を以て示された兄の如きに親炙することによつて、わがゆく道の
さきざきに常にかがやく導きの火をもちうる倖せが、こよなく切に思はれるこの大御代にあつて、唯一の
謝すべき人を失ふとは。……兄は病床にありながら、戦に処する心構においては、これまた五体の健全な人間の、
以て範とするに足るものであつた。幾度かわれわれの、あるときなお先走りな、あるときは遅きに失した足取りは、
却つて病床の兄の決してあやまたない足取りのまへに、恥かしい思ひをしたのである。
せめて勝利の日までの御寿をとまづ私はそれを惜しんだ。
(続く)

平岡公威(三島由紀夫)18歳の弔辞
167以上、自作自演でした。:2010/12/07(火) 20:30:22
「東健兄を哭す」

(中略)
文学は兄にとつて禊であり道場であつた。文学のなかでは一字一句の泣き言も愚痴も、いや病苦の片鱗だにも
示されなかつた。平生の御手紙には尚更のことであつた。
そこに私はニイチェ風な高い悲しみを思ひゑがいたのであつたが、兄、神となりましし日、私は、つねに完全なる
母君であられ、今世に二なき悲しみにつきおとされになつた御母堂から、けつして愚痴を言はれなかつた四年間の
まれまれに、余人にとつてもおそらく肺腑をゑぐるものがあつたであらうそこはかとない御呟きを伝へ伺つて、
ふともらされたその御呟き――かうして治るのもわからずに文学をやつてゐるのは辛いなあ(誤伝なれば謹んで
改めまゐらせん)――といふ一句を、なにかたとしへもない真実が岩間をもれる泉のやうにのぞいたすがたと覚え、
かつはかく守られねばならぬたをやかさが兄の奥処にあり、守られたればこそ久遠に至純であつたその真実を思つて、
文人の志の毅さとありがたさも今更に思ひ合はされ、御母堂の御心事に想到し奉つても、暗涙をのまずには
ゐられなかつたのである。
(続く)

平岡公威(三島由紀夫)18歳の弔辞
168以上、自作自演でした。:2010/12/07(火) 20:31:47
「東健兄を哭す」

(中略)
初の御通夜、み榊、燭の火、虫のね、雨のおと、……私は言葉もなかつた。平家物語のあれらのふしぎなほど
美しい文章がしづかに胸に漣を立ててきた。……かくも深い悲しみのなかになほ文学のおもはれるのを、心の
ゆとりとしもいはばいへ。兄だけはあの親しげななつかしい御目つきを、やさしく私に投げて肯いて下さるであらう。
御なきがらを安置まゐらせし御部屋は、ゆかり深くも、足掛け四年前、はじめて兄におめにかかつた御部屋であつた。
そして今か今かとその解かれるのをこひねがつた永い面会謝絶のあとで、まちこがれてゐた再度の対面は、
おなじお部屋の、だが決しておなじになりえぬ神のおもかげに向かつてなされた。
私はなにかひどく自分が老いづいた心地がしてならなかつた。
徳川義恭兄、ありしままなるおん顔ばせを写しまゐらせ給ふ。感にたへざるものあり。
みそなはせ義恭大人が露の筆
道芝の露のゆくへと知らざりし
つねならぬ秋灯とはなかなかに

――昭和十八年十月九日深更――
平岡公威(三島由紀夫)18歳の弔辞
169以上、自作自演でした。:2010/12/15(水) 17:22:42
   遺言       平岡公威(私の本名)

一、御父上様
  御母上様
  恩師清水先生ハジメ
  學習院並ニ東京帝國大學
  在學中薫陶ヲ受ケタル
  諸先生方ノ
  御鴻恩ヲ謝シ奉ル
一、學習院同級及諸先輩ノ
  友情マタ忘ジ難キモノ有リ
  諸子ノ光榮アル前途ヲ祈ル
一、妹美津子、弟千之ハ兄ニ代リ
  御父上、御母上ニ孝養ヲ尽シ
  殊ニ千之ハ兄ニ続キ一日モ早ク
  皇軍ノ貔貅(ヒキユウ)トナリ
  皇恩ノ万一ニ報ゼヨ
天皇陛下萬歳


三島由紀夫「私の遺書」より
170以上、自作自演でした。:2010/12/15(水) 17:24:39
たゞいま午後七時半、マダガスカルとシドニイへの特殊潜航艇の攻撃のニュースをきゝをはりこのお葉書を書いて
をります。なんだか胸になにか閊(つか)へたやうで迚(とて)も並大抵のことばでお話できさうにもございません。
御稜威(みいつ)のありがたさに涙があふれおちるばかりでございます。同時に晴朗な気分は抑へがたく、
南方のまつ青な穹(そら)いつぱいに八百万神の咲(わら)ひ声をきくおもひがいたします。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和17年6月5日、清水文雄への葉書より
171以上、自作自演でした。:2010/12/15(水) 17:25:54
この間の三里塚の行軍では「月かたぶきぬ」の情景を季節こそちがへ、目のあたりはじめて味はひました。
正しく土佐絵にゑがかれた大胆な霞のあちらに松林の、つらなる松かげはそのかなたから虹のやうな曙を、
靉靆(あいたい)とたなびかしてまゐる向ひの空には、月がしづかな煌めきをみせていまにもひらひらと
おちてきさうでございました。日本画はなにひとつ嘘はつかなかつたのでございます。そのゑがかれる絵具に
ひとつとして日本の土におひいでぬものがないやうに日本の風光を画絹にとゞめようといふ切ない意欲が
かうまでたしかさをもつてゐるとは、私はいままで心附きませんでした。写実を旨とする油絵も、いくら
写実の枠をつくしたところで掴めないこの風土の秘密に狐につままれたやうな思ひがいたすでせう。この三日の
式のあと、明治神宮に詣でてやはりそれを感じました。
畏(かしこ)くも御神殿のおんありさまは申すまでもなく、なんでもない風景、紅白の幕が万緑の松のあひだに
張りめぐらされた景色でさへ、そのあでやかさは桃山時代の屏風のやうでございましたが、そのなかゝら
歌謡曲がちらときこえてきたのにはおそれいりました。浪花ぶしではないからよいやうなものゝ。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和17年11月5日、清水文雄への書簡より
172以上、自作自演でした。:2010/12/15(水) 17:27:06
この間徳川さんと志賀直哉氏の御宅にうかゞひ、意外なサッパリしたよい方で、御作の印象と比べふしぎの
感さへいたしました。
志賀氏はなにしろ大物にて、我々としても摂るべきところも多くあり、決して摂つてはならぬ所も多々あり、
こちらの気持がしつかりしてゐれバ、決して単なるわがまゝな白樺式自由主義者ではいらつしやらぬことを思ひました。
今の世の隠者の一模範とさへ思はれますが、仰言ることは半ばは耳傾けてうかゞつて頗る有益なことであり、
半ばは、我らの学ぶべき考へ方ではないといふことでございました。

平岡公房(三島由紀夫)
昭和18年7月29日、清水文雄への書簡より
173以上、自作自演でした。:2010/12/21(火) 11:32:04
東京へ出ました序でに学習院へ立寄り、はじめて焼跡を見てたゞならぬ感慨がごさいました。萌え立つ緑のなかに
赤煉瓦の礎石のみ鮮やかに残つて、近眼の目には、遠くの緑の光にまばゆく立ち働らいてゐる人々が懐しい
後輩たちかと映り、近寄つてみると、それが見知らぬ兵隊たちであつた寂しさ。(中略)
中等科の校舎の中には、見知らぬ人々が往来し、事務室もザワザワして、昔のやうに温かく私を迎へては
くれぬやうに思はれました。「ふるさとは蠅まで人を刺しにけり」それほどでもありませんが、無暗に腹が立つて、
何ものへともしれず憤りを抱きながら門を出ました。
ふしぎな私の冷酷。昔、共に学んだ友人たちには、具体的に逢つてどうといふ感激もないのに、たゞ会はずにゐると
漠たる悲しみと孤独の感じに苛まれるのを如何ともなす術がございません。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年7月3日、清水文雄への書簡より
174以上、自作自演でした。:2010/12/21(火) 11:32:59
そしてそれは却つてなまじひに顔見知りでない後輩たちを、電車のなかに見出す場合、懐しさに胸がドキドキして、
用もないのに話しかけたくなり、しかも我ながら馬鹿らしい含羞で、話しかけることもできずにじつと見つめて
ゐるやうな時、私のなかに私の少年時代が俄かに蘇るやうな気がします。こんな初々しい清らかな興奮をどんなに
長い間忘れてゐたことでせう。新宿駅で私は汚ない作業服とキャハンを穿いた後輩を発見しました。彼は私が
彼の先輩であることもしらず、私を不思議さうに見てゐましたが、その目は学習院の学生によくある澄んだ、
のんびりした目付で、口は少しポカンと開いてゐました。私は所用で大塚まで行くので、車内で、目白駅に下りた
その小後輩を見送つたわけですが、彼は、そこで我勝ちに下りた乗客たちとは似てもつかない、実にオットリした、
少したよりない、少し眠さうな歩き方で、階段の方へゆつくり歩いて行きました。何故かそれを見ると、私は
ふと涙がこぼれさうになりました。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年7月3日、清水文雄への書簡より
175以上、自作自演でした。:2010/12/21(火) 11:34:03
ああした人種、ああした歩き方、あれがいつまでこの世に存続して行けるであらうか。私たちもその一員であつた、
閑雅なあまり頭のよくない、努力を知らない、明るい、呑気な、どこともしれず、生活からにじみ出た気品の
そなはつた学習院の学生たち、あの制服、あの挙止、そしてあの歩き方、そのすべてが象徴してゐたある美しいもの、
それ自身頽落を予感されてゐたもの(私の十数年の学習院生活はその予感のなかにのみ過ごされました。)が、
今や鶯色の汚れた作業服を刑罰のやうに着せられ、靴は埃にまみれ、トボトボと不安気に歩いてゆくのを見て、
私が目頭を熱くしたのも道理でございます。帰途学習院へ寄つてみて、あの焼跡を見、後輩たちをみて、
相似た感慨に搏たれました。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年7月3日、清水文雄への書簡より
176以上、自作自演でした。:2010/12/21(火) 11:34:59
(中略)かうした終末感を私は、徒らな感傷や、信念の不足からして感ずるのではございません。ある漠たる直感、
夢想そのもののなかに胚胎する覚醒の危険、凡て夢見るが故に覚めねばならない運命を感ずるのでございます。
現実に立脚した精神がわれわれの夢想の精神より更に弱体なものとみえる今日、われわれの夢想も亦凋落の決心を
必要とします。昼を咲きつづける昼顔の仄かな花弁は、昼の烈しい光のために日々に荒され傷つけられます。
何ものも神の夢想に耐へるほど強靭であることは出来ません。
しかし人の夢想の極限に耐へえた人は、その烈しさ極まる目覚めの失墜にも耐へうるであらうと思ひます。
ただ朝をのみ時めいた朝顔とはちがって、あの長い烈しい昼間をよく耐へた昼顔の夢想は、その後に来る長い
夜の烈しさにも耐へるでありませう。私共は今日ほど私共の生の強さと死の強さを感じることはございません。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年7月3日、清水文雄への書簡より
177以上、自作自演でした。:2010/12/21(火) 11:36:00
私共は遺書を書くといふやうな簡単な心境ではなく、私たちの文学の力が、現在の刻々に、(たとへそれが
喪失の意味にせよ)、ある強烈な意味を与へつづけることを信じて仕事をしてまゐりたいと思ひます。
その意味が刻みつけられた私共の時間は、永遠に去つてかへりませんが、地上に建てた摩天の記念碑よりも、
海底に深く沈めた一枚の碑の方が、何千万年後の人々の目には触れやすいものであることを信じます。
私共が一度持つた時間に与へた文学の意味が、それが過去に組入れられた瞬間から、絶対不可侵の不滅性を
もつものであると思はれます。
項日(けいじつ)、生じつかな名声は邪魔であるが、真の名声はますます必要であることを感じて来ました。
文学作品を本文とするなら、名声はその註釈、脚註に相当します。本文が死語に化した場合、この難解な
ロゼッタ・ストーンを解読しうるものは、たえず更新される註釈のみでございませう。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年7月3日、清水文雄への書簡より
178以上、自作自演でした。:2010/12/24(金) 12:42:20
あれより二週間病床に臥り、つい御返事がおくれしままにかくの如き事態となりました。
玉音の放送に感涙を催ほし、わが文学史の伝統護持の使命こそ我らに与へられたる使命なることを確信しました。
気高く、美しく、優美に生き且つ書くことこそ神意であります。ただ黙して行ずるのみ。
今後の重且つ大なる時代のため、御奮闘切に祈上げます。

たわやめぶりを みがきにみがかむ

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年8月16日、清水文雄への葉書より
179以上、自作自演でした。:2010/12/25(土) 20:30:29
大島正満博士の「修学院の秋」といふ文章を読んだことがありますか。塩原太助の馬を舞台に観てふきだした
アメリカ少年が、秋たけなはの修学院を周遊して、ふと拾つた一葉の紅葉に、日本の秋――日本の荘厳な美の
真髄を悟るといふ美しい記録文で、今に忘れられません。
アメリカ人が六代目の鏡獅子を本当に味解しようとする努力、――と云ふより大国民としての余裕を持つてゐたら
戦争は起らなかつた。文化への不遜な態度こそ、戦争の諸でありませう。日本の高邁な文化を冒涜する国民は
必ず神の怒りにふれるのです。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年1月6日、三谷信への葉書より
180以上、自作自演でした。:2010/12/25(土) 20:33:00
けふで丸五日間、丸つきり空襲がありません。不気味な不安。そのなかにも駘蕩たる春の日は窓辺まで
押しよせて来てゐます。(中略)
大学から、「肺浸潤でも何でもかまはんから出て来い」といつ呼出しがあるかわかりません。さうなつたら
さうなつた時のことです。
僕はこれから「悲劇に耐へる」というより、「悲劇を支へる」精神を錬磨してゆかなければ、と思ひます。
古代ギリシャ人にその範を仰がずとも、身近な巣林子の元禄時代は、我々に文芸復興が何であるかを、赤裸々に
教へてくれます。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年3月3日、三谷信への葉書より
181以上、自作自演でした。:2010/12/25(土) 20:34:23
佐藤春夫氏が近く疎開されるので、林さんと、大垣といふ陸軍曹長の詩人と、伊東静雄のお弟子の庄野といふ
海軍少尉と僕と四人でウィスキーを携へてお別れに行きました。
僕は短冊に佐藤氏の殉情詩集のなかにある詩「きぬぎぬ」の一節
「みかへりてつくしをみなのいひけるはあづまをとこのうすなさけかな」
といふのを書いていたゞき、嬉しうございました。僕は自分でその日の先生を、
「春衣やゝくつろげて師も酔ひませる」「澪ごとに載せゆく花のわかれ哉」
とうたひました。本当に美しい晩でした。佐藤春夫氏はたしかに第一流の文豪であると思ひます。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年4月7日、三谷信への葉書より
182以上、自作自演でした。:2010/12/25(土) 20:35:23
ルーズベルトが死にましたね、日本時間の十三日の金曜日に。新聞は良き敵将を失つて哀悼の意を表す、といふ
態度に出てゐて、結構だと思ひます。阿南大将が二年程前、アメリカの国旗をふみにじつて行進する日本軍を
写した劇映画をみて、「これでは国が危い。徳義の戦ひをやつてゐるのを忘れたのか」と嘆かれたさうですが、
この挿話をきいて、頗る阿南大将を尊敬しはじめました。軍人でかういふ立派な見識をもつてゐられることは
実にありがたいことです。今は亡き帝大国家主義憲法学の泰斗上杉慎吉博士が大正十三年に著はした「日米衝突の
必至と国民の覚悟」なる警世の大文章をよみ、その史眼の卓越、見識の高邁に深く搏たれました。(中略)
――今日偶然地下鉄新橋駅で稲田さん(今海軍中尉です)にあひました。沖縄で、特攻隊と共に敵艦へ
肉迫したのださうです。「くはしく話して下さい」と云つたら「いやだ、ネタにされるから」とにげられました。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年4月14日、三谷信への葉書より
183以上、自作自演でした。:2010/12/25(土) 20:36:53
君と共に将来は、日本の文化を背負つて立つ意気込みですが、君が御奉公をすましてかへつてこられるまでに、
僕が地固めをしておく心算です。僕は僕だけの解釈で、特攻隊を、古代の再生でなしに、近代の殲滅――
すなはち日本の文化層が、永く克服しようとしてなしえなかつた「近代」、あの尨大な、モニュメンタールな、
カントの、エヂソンの、アメリカの、あの端倪すべからざる「近代」の超克でなくてその殺傷(これは超克よりは
一段と高い烈しい美しい意味で)だと思つてゐます。
「近代人」は特攻隊によつてはじめて「現代」といふか、本当の「われわれの時代」の曙光をつかみえた、
今まで近代の私生児であつた知識層がはじめて歴史的な嫡子になつた。それは皆特攻隊のおかげであると思ひます。
日本の全文化層、世界の全文化人が特攻隊の前に拝跪し感謝の祈りをさゝげるべき理由はそこにあるので、今更、
神話の再現だなどと生ぬるいたゝへ様をしてゐる時ではない。全く身近の問題だと思ひます。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年4月21日、三谷信への葉書より
184以上、自作自演でした。:2010/12/26(日) 17:20:08
御葉書拝見。何はあれ、このやうな大変に際会して、しかも君とそれについて手紙のやりとりの出来るやうな
事態を、誰が予想し得たでせう。想像するだに、時代の異常さに想ひ到らずにはゐられません。かゝる事態は、
その型式や態様の如何はしばらく措き、夙に想像し得たところでした。今は何も語りたくありません。
これから勉強もし、文学もコツコツ落着いてやつて行きたいと思ひます。自分一個のうちにだけでも、最大の
美しい秩序を築き上げたいと思ひます。戦後の文学、芸術の復興と、その秩序づけに及ばず乍ら全力をつくして
貢献したいと思ひます。(中略)
すべては時代が、我々を我々の当面の責務に追ひやります。僕は少なくとも僕の廿代を、文化的再建の努力に
捧げたいと思つています。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年8月22日、三谷信への書簡より
185以上、自作自演でした。:2010/12/26(日) 17:21:04
君のゐる戦後の軽井沢が見せた変化よりも、ずつと激しい変化が東京の街にあります。
一寸用があつて尾張町へ出ましたら、その人通りの激しさは戦前と少しも変りません。と云つても日本人が
物を買へるやうな店はたゞ一軒もないのです。進駐軍人気といふか、たゞもう妙な人気で、カーキ色やモンペ姿の
貧弱な汚ない日本人が右往左往してゐるのです。(中略)
――東京が「世界の大東京」だとか、何とか云つて大見得を切つてゐた時はいつしか、それが汚いアバタの
地図になつて了つたのと同様、乙にすまして馴れない絹靴下にハイヒールを穿いたり、頭をテカテカ光らせて
レディ・メードの背広で夜毎に押し出した連中の化けの皮が見事にはげ、女は自堕落なうす汚いモンペ姿、
男は工員がへりらしいカーキ色の菜葉服姿で、彼等の痴鈍、醜悪、無智の本性を惜しげもなく、いやむしろ
快よげに、発揮してゐるのです。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年10月5日、三谷信への書簡より
186以上、自作自演でした。:2010/12/26(日) 17:22:33
進駐軍からの煙草漁りに眉をひそめて「日本人も堕落した」と慨嘆する人がありますが、これは些か見当外れな嘆息で、
現在の彼等の醜状は、彼等に何ものをもプラスせぬと共に、何ものをも彼等からマイナスしません。日本人は
何といふ下劣な卑賤な、しかし愛すべき国民でせうね!
僕は総じてこの妖精のやうな刻々変様する東京に甚だ愛着を感じてゐます。これは僕がたゞ東京で生れたから
といふだけではありますまい。祖母の先祖は旗本で江戸に永くをりましたから、亡くなつた祖母からきいた、
江戸―東京、明治―大正の東京の移りかはり、(おそらく祖母が生きてゐた頃は、東京はこれで一応完成して少くとも
二、三十年は目に立つ変化もないと思はれたのでしたが)それに加へて、僕がこの短い二十年に経験して来た
東京の変転、それが定めなく、うつろひやすいものであると思へば思ふほど、僕は東京を愛するやうになります。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年10月5日、三谷信への書簡より
187以上、自作自演でした。:2010/12/26(日) 17:23:31
東京を愛する人は、あるひは知つてか知らずか、その流転の美しさを愛するのではないでせうか。
歴史と時には不変と変様の二態があり、不変は変様によつてその刻々の意味を与へられ、変様は不変に
基礎づけられてはじめて変様たり得ます。日本で云へば、東京と田園、それが変様と不変でせう。
僕のやうな「せつかち」は、山野の不変を歌ふ余裕と胸懐に乏しく、ここにゐて終始変様に向ひ、それに耐へ、
この変様を、歌ひ疲れるほど歌つてゐる外はありません。我々の目は変様のかゞやきをとらへた。流れる目こそ
流されない目であり、変様に遊ぶ目こそ不変の目です。僕はこのやうに自負して自ら慰めてゐます。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年10月5日、三谷信への書簡より
188以上、自作自演でした。:2011/01/02(日) 15:13:36
大神々社への参籠は八月下旬と決め、その後、広島へ一寸伺ひ、そのあと、汽車で、(飛行機はイヤなので)、
熊本八代へゆき、神風連のことをしらべたい、などと、夏のをはりの旅をいろいろと計画してをります。いづれ、
間近になつて旅程がはつきりいたしましたら、御連絡申上げます。
「英霊の声」は文壇では冷たいあしらひで、かれらの右顧左眄(うこさべん)ぶりがよく見えます。
天皇の神聖は、伊藤博文の憲法にはじまるといふ亀井勝一郎説を、山本健吉氏まで信じてゐるのは情けないことです。
それで一そう神風連に興味を持ちました。神風連には、一番本質的な何かがある、と予感してゐます。

三島由紀夫
昭和41年6月10日、清水文雄への書簡より
189以上、自作自演でした。:2011/01/02(日) 15:15:03
「豊饒の海」は終りつつありますが、「これが終つたら……」といふ言葉を、家族にも出版社にも、禁句にさせてゐます。
小生にとつては、これが終ることが世界の終りに他ならないからです。カンボジアのバイヨン大寺院のことを、
かつて「癩王のテラス」といふ芝居に書きましたが、この小説こそ私にとつてのバイヨンでした。書いたあとで、
一知半解の連中から、とやかく批評されることに小生は耐へられません。又、他の連中の好加減な小説と、
一ト並べされることにも耐へられません。いはば増上慢の限りでありませうが……。
それはさうと、昨今の政治情勢は、小生がもし二十五歳であつて、政治的関心があつたら、気が狂ふだらう、
と思はれます。偽善、欺瞞の甚だしきもの。そしてこの見かけの平和の裡に、癌症状は着々進行し、失ったら
二度と取り返しのつかぬ「日本」は、無視され軽んぜられ、蹂躙され、一日一日影が薄くなつてゆきます。

三島由紀夫
昭和45年11月17日、清水文雄への書簡より
190以上、自作自演でした。:2011/01/02(日) 15:16:15
戦後の「日本」が、小生には、可哀想な若い未亡人のやうに思はれてゐました。良人といふ権威に去られ、よるべなく
身をひそめて生きてゐる未亡人のやうに。下品な比喩ですが、彼女はまだ若かつたから、日本の男が誰か一人立上れば、
彼女をもう一度女にしてやることができたのでした。しかし、口さきばかり巧い、彼女の財産を狙ふ男ばかり
周囲にあらはれ、つひに誰一人、彼女を再び女にしてやる男が現はれることなく、彼女は年を取つてゆきます。
彼女が老いてゆく、衰へてゆく、皺だらけになつてゆく、私にはとてもそれが見てゐられません。
このごろ外人に会ふたびに、すぐ「日本はどうなつて行くのだ?日本はなくなつてしまふではないか」と心配さうに
訊かれます。日本人から同じことを訊かれたことはたえてありません。「これでいいぢゃないか、結構ぢゃないか、
角を立てずに、まあまあ」さういふのが利口な大人のやることで、日本中が利口な大人になつてしまひました。

三島由紀夫
昭和45年11月17日、清水文雄への書簡より
191以上、自作自演でした。
スウェーデンはロシアに敗れて百五十年、つひに国民精神を回復することなく、いやらしい、富んだ、
文化的創造力の皆無な、偽善の国になりました。
この間もベトナム残虐行為査問会(ストックホルム)で、繃帯をした汚ないベトナム農民が証言台に立ち、
犬をつれた、いい洋服の中年のスウェーデン人たちがこれを傾聴してゐるのに、違和感を感じる、と書いてゐる人が
ゐましたが、日本が歩みつつある道は、正に、「犬を連れた、いい洋服の中年男で、外国の反戦運動に手を貸す
『良心的』な男」の道です。
どの社会分野にも、責任観念の旺盛な日本人はなくなり、デレッとし、ダラッとしてゐます。

三島由紀夫
昭和45年11月17日、清水文雄への書簡より